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黒の黄昏 3

那識あきら

あわい文庫



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 目 次


第十一話  それぞれの夜


第十二話  逆巻く神颪


第十三話  置き去られた想い


第十四話  滴り落ちる闇

第十一話  それぞれの夜

    一  奇襲
 
 すっかり日が暮れて、闇に閉ざされつつある荒野に、炎が小さく揺らめき点いた。
 一頭の馬、荷馬車、そして三つの人影の輪郭が、薄闇に浮かび上がる。
「次の町まではまだ数里あります。今夜はここで野宿いたしましょう」
 若い男の声を合図に、三人は焚き火を取り囲んで腰を下ろした。
「いやあ、座りっぱなしだと腰が痛くてたまらんな」
 そう言って、初老の男が大きく伸びをする。
「申し訳ありません」
「いやいや。別に君に文句を言っておるわけじゃなくて。これでも若い頃はあちこち旅もしたものだが、歳をとるというのはどうにも勝手の悪いものじゃ」
「へえー、司祭様にも若い頃があったんですねー」
「何を馬鹿なことを言っとる」
 年寄りの愚痴をまぜっかえしたのは、若い女。その声に、若い男がほっとしたような溜め息を漏らす。そうして、彼はゆっくりと腰を上げた。
「早めに食事にして、明日は日の出とともに出発しましょう」
「了解」と威勢の良い返事とともに、若い女も立ち上がった。
「あ、貴女は座っていてください。これは私の任務ですから」
 狼狽する男を気にするふうもなく、彼女はすたすたと荷馬車に向かって歩き出す。
「何言ってんの。皆で旅をしているんだから、自分でできる事は自分でしなくちゃ」
「いや、でも……」
「いいからいいから。騎士様と違って、私はただ馬車に座ってボーっとしているだけだから、せめてこんなことぐらい……わわっ」
 と、ズボンの裾を潅木の枝にひっかけて、彼女が地面に倒れ込んだ。騎士が慌てて駆け寄って、彼女の手を取って助けおこす。
「ほら、お疲れなんですよ」
「ひやひや」自由な左手で鼻を押さえながら、彼女はなんとか起き上がった。「どんくさひのは、生まれつきだから」
 そんなに卑下なさらないでください、と騎士がゆるりと首を横に振った。それから、さも大切そうに、女の手を両手でそっと包み込んだ。
「……貴女には、感謝しています」
「はひ?」
「たった一人だけの護衛とこんな荷馬車しか用意できなかったのに、文句も言わずにこうやってついて来てくださる」
 騎士の指に力が入った。
「それに、貴女のその明るさに、何度救われたことか。司祭殿も、……私も」
「あ、いや、おしゃべりなのも、生まれつきだから……」
 柄でもない、とばかりに左手を顔の前で振りながら、彼女は賛辞を打ち消した。しかし、騎士の眼差しはより一層熱を帯びるばかり。
「いえ、そう仰るのも貴女の優しさです」
 
 ――どうしよう。もしかして、もしかしたら、これは何だかとてもロマンチックな展開なんじゃないかい?
 動揺のあまり、思わず他人事のように彼女は思考をめぐらせた。
 三人で旅を始めて半月。二歳年上のこの騎士は、とても真面目で、純朴で、しかも結構イイ男だ。「騎士」というからには、どこかの良家のお坊ちゃんであるのだろう。そんな男が、田舎出身の十割方庶民で、しかも標準よりもかなりガサツな自分に惚れるなんてことが、あるわけない。物珍しさと旅の疲れとで、きっと我を失っているんだろう。そう結論づけながら彼女はそっと騎士の手を放した。
「食事の用意、しましょっか」
「……あ、はい…………」
 
 さっさと馬車に乗り込む彼女の後ろ姿に、騎士は少し残念そうな表情で、熱い視線を絡ませる。
 あけっぴろげで気取らない、豪快ともいえる彼女の言動に、彼も最初は少々度肝を抜かれていたものだった。
 だが、そんな彼女の裏表のない態度と大らかな性格は、一行の旅の気苦労を和らげることにとても役立っていた。おそらくこの騎士は、これまで同様な任務において、多大な苦労を強いられてきたのだろう。そんな彼の目に彼女が天使のように映り始めるのには、大して時間はかからなかった。
「えっと、袋、袋、干し肉の袋……、どこだっけ……、って、わわっ」
 幌の暗がりで、何かをひっくり返したような音が派手に響く。
「だ、大丈夫ですか!」
 そう、惚れてしまえば、多少のそそっかしさも可愛さのうち。あばたもえくぼとは良くいったものであった。
 
 
 ――眠れない。
 毛布にくるまって目を閉じても、色々なことが頭の中に渦巻いていて、一向に眠気はやって来ない。彼女は眠ることを諦めて、同行の騎士のことを考え始めた。
 
 私って、自意識過剰なのかな?
 いや、でも、先刻の状況は、やはりそうとしか考えられないような。
 いやいや、まさか、そんな物好きがアイツ以外に存在するなんて。やっぱり私の考え過ぎだってば。
 そう。アイツだって、なんだかんだ言ってたのに結局このとおり。今頃はきっと、無駄に終わったこの三年間を悔やんでいるに違いない。
 
 騎士のことを思っていたはずだったのに、彼女の脳裏には、かつて恋人だった男の顔が浮かび上がっていた。
 
 大体、アイツがなんで私に惚れたのか解らない。アイツの立場じゃ、お相手なんて選り取りみどりだったろうに、本当にわけが解らない。
 きっと単なるきまぐれ。そうじゃなければ、ちょっと新境地に挑戦、ってつもりだったのかも。そもそも、「私のどこが良いの」って問いに「良く解らないや、あはは」って、随分な答えじゃない?
 でも。
 遊ばれてる。そう思ったにしても、あんなこと要求した私も大概酷いヤツだったよなあ。
 
『ひと月ごとに最低一通、手紙を頂戴。んじゃ本気だって信用するから』
 仕事で故郷を離れる前に、どうしても伝えておきたかった。そう言って想いを告白してきた男に、彼女は自分でも嫌になるほど尊大な態度で要求を突きつけた。これぐらい面倒なことを押しつけておけば、彼の本音が分かるだろう、そう彼女は考えたのだ。
 うっかり彼の言葉を鵜呑みにして、あとで悲しい思いをするのは嫌だから。そんなふうに彼女が打算的な態度に出たのには、理由があった。なにしろ彼は、やや軽薄ではあるものの男前な、腕っ節も強い人気者で、対する彼女はといえば、十人並みな器量の平々凡々な田舎女にしか過ぎず、彼女自身、自分が彼に釣り合うような人間とは、とても思えなかったからだ。
 だが、彼女の提示した要求に、彼は静かに頷いた。そして、それを見事に実行したのだった。
 慣れない地での仕事に、ただ郷愁に駆られただけのことだったのかもしれない。それでも、彼女は最初の一通に驚き、二通目に慌て、三通を超えたところで密かに感激した。
 彼が故郷を離れて二ヶ月、二人の間で文通が始まった。書簡が往復するたびに彼らの絆は深まり、半年後の彼の里帰りの時に、遂に二人は愛を交わし合った。
 
 ――三年間……良く続いたよなあ。こんなにも続くとは思っていなかったから……期待しちゃったじゃないか。
 彼女は目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った。
 彼からの手紙が突然途絶えたのが半年前。事故か病気か、と心配した彼女は、何度も何度も手紙を送った。
 五通目を送ったところで彼女は気がついた。これは彼の意思表示なのだ、と。これ以上の手紙は、彼に迷惑だろう、と。
 ――それにしても、せめて一言欲しかったなあ……。
 溜め息をついて、彼女は胸元の首飾りを握り締めた。色とりどりの硝子玉で作られたそれは、昨年の誕生日に彼から貰った贈り物だ。彼女はその首飾りを、最小限に、と言われた旅の荷物の中に忍ばせたのだった。少しだけ逡巡してから。
 
 
「眠れませんか?」
 突然投げかけられた騎士の声に吃驚して、彼女は思わず身を起こした。
 騎士は、焚き火の傍に腰をかけて、静かな笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
「えっと。騎士様は眠らないの?」
「次の町に着いたら、休ませてもらいます」
「やっぱり、全員で寝ちゃったら、まずいのかな?」
 彼女は毛布にくるまったまま起き上がると、その裾を引きずりながら焚き火をはさんで騎士の向かい側に座り込んだ。
 騎士の右手には、時折いびきを掻く毛布の塊がある。
「そうですね。町と町の距離が長いこの辺りには、良く夜盗が出没するそうですから」
「こんな貧乏そうな旅人も襲うものかな……って、あ、ごめんなさい。騎士様が貧乏そうというわけじゃなくて」
 慌てて言葉を継ぐ彼女を見て、騎士はくすくすと笑った。
「甲冑を身に纏っているならともかく、この出で立ちでは、皆さんと何も変わりないでしょう?」
 ――いやいや、アナタのその服は充分過ぎるほど仕立てが良いですが。
 そう思いながらも流石に言葉にはできず、彼女は曖昧に微笑んだ。その表情を誤解したのか、騎士が軽く咳払いする。
「……こうやっていると、私達は……その……、家族、の、ように見えるのではないでしょうか」
 ――うわ、この人本当に年上? 可愛ーい。
 家族って、お兄さんと妹? って訊いたら、どんな反応が返ってくるんだろう? つい騎士をからかいたくなる誘惑に駆られながらも、彼女がそれをなんとか思いとどまっていると、頬を染めて俯いていた騎士が、突然鋭い瞳で顔を上げた。
「え、何?」
「……不覚。囲まれました」
 
 
 辺りに注意を払いながら、騎士は傍の司祭をそっと起こす。
「……んんん……、どうしたね……」
「申し訳ありません。賊に取り囲まれたようです」
「人数は判るかね?」
「五人か、六人か……相手にとって不足はありません。それよりも、お二方とも、私が火を消したら後ろの繁みに隠れてください」
 騎士の言葉に、残る二人はあからさまに不満そうな声を上げた。
「なんで? 私達も戦えるよ?」
「そうじゃ。『麻痺』に『昏睡』に、色々あるぞ。久しぶりじゃ、腕がなるのぉ」
 そう、剣はふるえなくとも、彼らには癒やしの術があるのだ。二人の術師はこれ見よがしに指をならし始めた。
 仕方がない、とばかりに騎士は司祭に苦笑を返した。だが、すぐに表情を険しくさせて、彼女のほうに向き直る。
「貴女は駄目です。隠れてください」
「自慢じゃないけど、って自慢なんだけど、私のほうが司祭様よりか腕前は上だよ」
「駄目です。彼らの獲物が何かご存知ですか?」
 騎士に静かに問われて、彼女は小首をかしげた。
「獲物? お金とか、貴金属でしょ?」
「それに、馬と……、女性。どういう意味かお解りですね? お願いです。貴女は隠れていてください」
 そう言うや否や、騎士は足で焚き火に砂をかけた。
 
 
 
 一瞬にして、辺りは暗黒の支配下に堕ちた。
 漆黒の闇の中、騎士と司祭はお互い充分な間合いをとって敵襲に備える。
 彼女は、言われたとおりに繁みに身を隠して、二人の頼もしい仲間の様子を窺った。実際のところ、こういった立ち回りでは、腕前よりも経験がものをいうのに違いない。実戦経験のない自分は、間違いなく足手まといだろう。それに、こうやって潜んでおれば、いざという時に伏兵として二人の手助けもできるはず。
 彼女の目が暗闇に慣れてきたその時、荒々しい足音が周りから湧き起こった。ほどなく、黒い塊が七つ、四方から姿を現す。
 雄叫びとともに剣を振りかざした男は、騎士の一閃であっさりと地に倒れ伏した。司祭が何か呪文を詠唱する声とともに、人影が二つ崩れ落ちる。
「何だぁ? こいつら、強ぇぞ」
 残った四人の暴漢は、警戒の色を強めながらも、じりじりと包囲網を狭めていく。
 騎士が再び剣を構え直す。
 司祭が呪文を唱え始める。
 その時、怒号が辺りに響き渡った。
「じじいを黙らせろ! 術を使わせるな!」
 騎士と切り結んだ一人を除いた全員が、司祭のほうへと殺到する。
「あぶない!」
 彼女は繁みから飛び出すと、「昏睡」を唱えながら司祭の背後に迫る夜盗の腕を掴んだ。
 癒やしの術は、そのほとんどが接触魔術だ。施術の際に、術を施す相手の身体に手を触れる必要がある。彼女に腕を掴まれた男は、即座に全身を弛緩させて地面に倒れ込んだ。
 それは一瞬の出来事。
 彼女は、倒れる男の腕を離すタイミングを逃した。
 
「わわっ!」
 男と一緒に転倒してしまった彼女の首に、背後から太い腕が巻きつく。
「やい! てめえら動くなよ! この娘っこの首をへし折られたくなければ、動くなよ!」
「卑怯者め!」
「……すまん……わしのために……」
 騎士と司祭の悔恨の声が聞こえる。だが、首を締め上げられ、身体を反らされた彼女に見えるのは、星達の煌めくかち色の空のみ。
 呪文を詠唱しようにも、喉に食い込む男の腕が発声を妨げる。
 ――何も、できない。
 彼女は、恐怖よりもおのれの不甲斐なさに泣きたくなった。
 
 彼女を掴まえたまま、男はじりじりと馬車に近づく。そのまま馬車に乗り込むと、男は自由な右手で大きく手綱を振り下ろした。
 馬がいななき、馬車が走り出す。
 騎士と司祭の声が、風のように後方に飛んでいく。
 男の腕に爪を立てながら、彼女は必死で暴れ続けた。慰みものにされるのか、売り飛ばされるのか。ああ、どうしよう。どうすれば良い?
 
 男の操る馬車は街道を横切って南へと向かった。真っ暗な草地の中を、荷台を何度も大きく跳ね上げながら、走る。
 しばらくして、男は急に速度を緩めた。草地を抜けたのか、蹄鉄の音が硬くなる。と、車輪が小石を踏み砕く音が彼女の耳に飛び込んできた。こんな荒れ野に石畳の道があるのだろうか。まさか、いよいよ野党の里に入ったとでもいうのだろうか。
 その時、彼女を捕まえている腕が、少しだけ、緩んだ。
 ――今だ。
 彼女は思いっきり男の腕に噛みついた。全身全霊の力を込めて。
「う、が、あああああああっ!」
 突然襲った激痛に、男は左腕を振りほどいた。そして防衛本能の赴くままに、力いっぱい彼女を御者台から蹴り出す。
 彼女の身体が宙に舞った。
 
 地面に叩きつけられることを覚悟して、彼女は身を固くした。
 だが、何故か彼女の身体は、地表面の高さを通り過ぎて更に下方へと落ち込んでいった。
 胸腔に流れ込む、水辺の匂い。星空を黒々と切り取るのは、橋の影か。
 
 
 そして、夜のしじまに、一際大きく水音があがった。
 
 
 

    二  慚愧
 
 あの襲撃のあと、レイ達は密かに再びルドスに戻っていた。
 根無し草でお尋ね者であるウルス達はともかく、襲撃に加担した者は皆、本来の自分の居場所であるルドスの街中に戻らねばならない。ザラシュとレイには、その手助けをするために魔術を駆使する必要があった。
 シキも、状況が良く解らないままにレイを手伝った。自分の立場が百八十度転換したことに対する罪悪感は、とりあえずはレイと再会することができたという幸福感が打ち消してくれている。繋いだレイの手の温もり……今のシキには、それが全てだった。
 
 
 流石に、こんな大事おおごとのあとでは、五人の逃亡者が一塊となっているわけにはいかない。ルドスの街に再び足を踏み入れるなり、ウルスが一同を二組に分けた。
「俺はザラシュ殿と。サンは残りの者を頼む。今この街に留まることは我々にとって非常に危険だからな。ほとぼりが冷めるまで、安全な場所で身を隠すにしても、五人で動くのは目立ち過ぎる」
 そう言ってから、ウルスは懐から一枚の地図を取り出した。
「お前達はお前達で上手くやれ。一週間後に、シンガツェの町で会おう」
 聞けば、シンガツェとは、ルドスの北、街道を逸れた山中にある町ということだった。地図の簡単な写しをウルスから渡されたサンは、組分けに対する不満を表明しかけたが、「頼りにしてるぞ」とウルスに肩を叩かれて、複雑な表情で溜め息をついた。
 それからウルスはシキの前に立つと、ほんの僅か目元を緩ませた。
「色々訊きたい事もあるだろうが、詳しい話はシンガツェについてからだ。」
 神妙な顔で頷くシキに、ウルスは口のを上げる。
「ふん、眼鏡先生の言うとおり、良い目をしているな。お前には勿体ないな」
「言ってろ!」
 噛みつくレイを軽くいなして、ウルスはザラシュとともに裏路地へと姿を消した。
 
 
 
「人目につくといけない。どこか宿を見つけようぜ」
 サンの提案で、この安宿に投宿したのが日暮れ前。階下の酒場で仕入れた食事を部屋に運んで、狭い部屋に膝を突き合わせ、ようやっと三人は人心地つくことができた。
「で」
 食事を終え、小さなテーブルにカップをダンッと置いて、シキがサンを睨みつけた。「どういうことなのか、説明してよ」
 目立つといけないから、と、大抵の客がそうするように飲み物に麦酒を選んだのは、もしかしたら間違いだったかもしれない。そう思いながらサンは「何を?」ととぼけることにした。当然のことだが、シキは更に畳みかけてくる。ほの赤い顔で。
「なんで、死んだはずのレイがサンと一緒にいるのよ」
「いや、だから、それは話せば長くなるんだけど」
「大体、レイもレイよ、なんで、『天隕』受けて生きてるのよ」
 鼻息も荒く噛みついてくるシキに「生きてちゃ悪いのかよ」とぼやいてから、レイがぐいとカップを傾けた。
「それより、お前は何て聞かされていたんだ? 俺のことを」
 レイに問われたシキは、途端にしおれた菜っ葉のように頭を垂れて、手元のカップに目を伏せた。
「……サンに唆されて、反乱団に入って……私も仲間にしようと……その……」
「はぁん」
 シキが言いよどんだ部分を察したのだろう、レイが眉を上げる。「あいつにしちゃ上出来な言い訳じゃね? 結果だけ見ればまさしくそのとおりなわけだしな」
 と、カップに残っていた麦酒を一息にあおって、レイは更に言葉を継いだ。
「で、お前はその話を信じてたわけだ。」
「だって……」
 だめだ、レイの奴も酒に呑まれてる。サンは冷や汗をだらだら流しながら、二人の間に割って入った。
「おい、レイ、台詞が違う。ここは再会を喜ぶところだろ。大体、あんな魔術喰らったら普通死んだって思うって。死人に口なしってヤツじゃん、無理もないさ」
 少しだけ冷静さを取り戻したのか、レイが大きく息を吐いた。
「……悪い。そんなことを言いたかったんじゃないんだ」
「ううん、私が、悪かったんだ」
 俯いたシキの声が震えている。ようやく彼女の様子に気がついたのだろう、レイが小さく息を呑んだ。そうして、縋るような視線をサンに投げかけてくる。
 ――おい、どうすればいい?
 ――知るか。自分でなんとかしろ。
 二人が目で会話していると、シキがすっくと立ち上がった。泣いている、とのサンの予想は外れ、彼女は妙に晴れ晴れとした瞳で二人を見下ろす。
「ごちそうさま。部屋に戻るね」
 そのまま振り返ることなくシキは彼らの部屋を出ていった。
 
「何言ってんだよ、レイ。ったく、つらかったのは彼女も同じだろ? て言うか、状況が分かっていなかった分、今日のことにしても彼女のほうが大変だったんじゃないのか? 本当に、お前、子供じゃあるまいし何駄々こねてんだ」
 心の底から呆れかえったと言わんばかりに、サンは大きな溜め息を身体全体でついた。それから、椅子代わりの寝台の上に仰向けに倒れ込む。
「てっきり泣かせてしまったかと思ったよ。ま、良かった良かった」
 そう言ったものの、レイの気配が妙なことに気がついて、サンはすぐに身を起こした。
「……どうした?」
「………………マズイ」
 すっかりアルコールの抜けた様子で、レイは固まっていた。心なしか顔が青い。
「何だよ」
「まずい」
「だから何が?」
「あいつがあの顔した時は、ろくなことがないんだ」
 何かを心に決めたような、清々しい表情。だが、いわれてみれば、確かにあの雰囲気には何か違和感があった。サンは、部屋の扉を見、それからレイのほうを向いた。
 依然としてレイは、腰を半ば浮かせながら、眉間に皺を寄せて中空を見つめている。
「まずいんだったら、さっさと行けよ馬鹿!」
 ――なんで俺がこんな苦労しなけりゃいけないんだよ!
 その怒りも込めて、サンはレイを思いっきり部屋から蹴り出した。
 
 
 
 ――何、言ったんだ、俺。
 自己嫌悪でぐらぐらする頭を押さえながら、レイはシキの部屋の前に立つ。
 シキだって、この半年つらい思いをしていたんだろう。そんなことは、サンの奴に言われるまでもなく、レイにだって解っていた、いや、解っているつもりだった。
 先刻、あの襲撃の場で自分が伸ばした手を、彼女は即座に握り締めてくれた。それはとりもなおさず、彼女が自分を求めていてくれていた、ということを表している。たとえ、ロイの奴が嘘で彼女をがんじがらめに縛りつけたのだとしても、彼女の心までは拘束することができなかったのだ。
 そうだ。半年という期間は、死者を想い続けるには永過ぎる。それでもシキはレイのことを忘れずにいてくれていた。
 ――本当に、何してんだ、俺……。
 レイは下唇を噛みながら、隣のシキの部屋をノックした。
 
 しばらく待っても返事はなかった。レイは冷たいものが背筋をつたうのを感じて、思わず大声で扉を叩く。
「おい! シキ! いないのか? おい、開けろよ!」
 廊下のあちこちから他の客が顔を覗かせるのも気にせずに、レイがもう一度扉を叩いた時、掛け金が外される音がした。シキの返答を待たずに彼は扉を押し開き、半ば無理矢理彼女の部屋の中へと飛び込んだ。
「……悪かったよ」
 大きく肩で息をしながら、レイは静かにシキに語りかける。
「どうしたのさ、レイ」
 シキが、何事も無かったかのような表情でレイを見上げた。その、変に醒めた瞳に、レイは自分の直感が間違いではなかったことを確信する。
「シキ……、俺を置いて行くな。俺の傍にいてくれ」
「……突然、何?」
「とぼけるなよ。一人でどこかへ行くつもりだったろ」
「……まさか」
 そう答えたシキの声が微かに震えていた。
「何年一緒にいるって思ってるんだ。お前がヤケになっているのぐらい、すぐに解る」
 シキが視線を伏せた。しばし何事か逡巡してから、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「やけなんて起こしていないよ」
 底知れぬ深淵を覗かせる常盤の瞳に、レイが一瞬息を呑む。
「私が悪かったって解っていたはずなのに、レイに会えたことで、勝手に赦されたような気持ちになってしまってた。調子に乗って、レイを問い詰めて、サンまで問い詰めて……、どれだけ身勝手なんだ、って気がついて、少しあたまを冷やしたかった」
 淡々とそう語るシキのおもてが、不意に歪んだ。
「ごめん。ごめんね、レイ。半年間も、レイが死んだって思い込んでた。私を置いて逝くなんて、って恨んだことだってあった。悲しいからって、忘れようとさえした……」
 絞り出すような声でそこまで吐き出してから、シキは顔を伏せた。
「本当に、ごめん、レイ。私が……私さえいなければ、レイが黒髪になることだってなかった。先生と争うことなんてなかったのに……!」
 身を切るような心痛が、ひしひしとシキから伝わってくる。レイは知らず息を詰めて、じっとシキを見つめ続けた。
 先刻のシキの奈落のような眼差しが、レイの脳裏に焼きついている。悲しみと、諦めと、それを上回る自らへの怒りが、そこには湛えられていた。例えば、捕り手に包囲され咆哮を上げたあの時のウルスのように。単に絶望の一言では表しきれない、無限の虚無がそこに在った……。
「くそっ」
 短く毒づいて、レイはシキに向かって大きく一歩を踏み出した。そして、彼女を抱きしめた。
「お前は何も悪くない。悪いのは……俺だ。あの時、その場しのぎで術なんかに頼らずに、お前を連れて家を出たら良かったんだ」
 この半年、シキはあの瞳で一体何を見てきたのだろう。そして、今何を見ているのだろう。レイの不用意な言葉のせいで、彼女は自分の分のみならずレイの分まで、この半年間の苦悩を一挙に背負わされてしまったのだ。
 可能ならば、先ほどの自分を思いっきり殴り倒してやりたい。そう歯軋りしながら、レイは彼女を抱く腕に力を入れた。
「お前がいなかったら……、俺は一体誰をこうやって抱きしめればいいんだ?」
 そうしてレイは強引にシキに唇を重ねた。
 深く、深く。半年間の空白を埋めようと言わんばかりに、レイは口接を貪り続けた。
 
 
 レイと唇を合わせながら、シキはうっとりと目を閉じた。胸の奥で自分の心臓が暴れまわっている。
 ――赦してもらえなかったら、もう一緒にはいられない。
 やけを起こしているつもりなど、シキにはなかった。当然の報いとして、そう覚悟したのだ。
 襲撃のどさくさに紛れて、レイに謝るという大切なことがおざなりになってしまったばかりか、その彼をなじってしまった自分を、シキはとても許すことができなかった。
 改めて、きちんと謝ろう。シキは自らに言い聞かせた。そして、レイが謝罪を受け入れるのを渋るのならば、その時は、独り警備隊に出頭して、おのれの行為のけじめをつけよう。そう彼女が決意した時、レイが部屋の扉を叩いたのだ。
 シキを引き止めるレイの腕はとても温かく、そして優しかった。
 このまま甘えてしまっても、良いのだろうか。このまま彼の傍にいても……。シキはおずおずと両手をレイの背中へとまわした。
 
 レイの熱い手のひらが、シキの後頭部を鷲掴みにする。
 より深く、レイがシキを絡め取る。
 やがて、そっと彼の唇が離れたかと思えば、レイが静かな声で囁きかけてきた。
「俺のほうこそ、ごめんな。自分のことばっかりで、シキのこと、全然考えてやれなくて」
「そんなことないよ」
 驚いて目を丸くするシキを、レイは再び、がば、と抱きしめ、その首筋に顔を埋めた。
「……ごめん」
 肌を震わす切なげな声に、シキのまなこが一気に潤み始める。
「レイが謝ることないよ。私はもう、大丈夫だよ」
「…………ごめん」
「もう……、良いってば」
 こぼれそうな涙と、困ったような笑みを浮かべ、シキはレイの背中を優しく撫でた。まるで小さな子をあやすように。
「もう解ったから、レイ、顔を上げ……」
「ごめん」
 レイの声音に何か違和感を覚え、シキの眉がひそめられる。と、同時に首筋に熱い息がすり込まれた。「悪ぃ、俺、もう、我慢できねえ」
 唐突過ぎるその言葉に、シキが目をしばたたかせる間もなく、レイの身体に力が入った。そして、気がついた時には、シキは背中から寝台の上に倒れ込んでいた。
 
 驚きの声を上げようとしたシキの唇が、再度塞がれる。
 レイは、顔の向きを変えながら、より深く、より激しく、シキを求めてきた。
「ちょっと、レイ……」
「……ずっと、探してたんだ。お前のことを」
 苦渋に滲んだ声が、シキの胸の奥へと染み透っていく。
「夢だとか言わねーよな?」
 そうして、また、口づけ。
「幻じゃ、ねーよな……」
 そのあまりにも切なげな口調に、今度こそシキは泣きそうになった。レイの身体を押し退けようとしていた手を、そっと彼の背中へと滑らせていく……。
「レイこそ、お化けや幽霊なんかじゃないよね?」
 返事の代わりに、レイは更に口づけを深める。
「シキ……」
「レイ……」
 熱っぽい瞳で、二人は見つめあった。そして二人は、同時に言葉を継いだ。
「好きだ」
「好き」
 それぞれお互いの存在を確かめるかのように、二人はしっかりと抱き合った。
 
 
 

    三  赦免
 
 あの時。ルドス郊外にて、兄帝陛下の馬車の列を反乱団が襲撃した時。馬車を降りたロイが、反撃の呪文を今まさに口にのぼさんとした時。
 あの未知の術が、ロイの声を、周囲の音という音を、かき消してしまったあの瞬間、ロイの胸に真っ先に湧きあがったのは「恐怖」だった。戦いに際して魔術師が声を奪われるということは、即ち、武器はおろか防具すら無い状態で戦場のど真ん中に放り出されたも同然だったからだ。
 そして次にロイを襲ったのは、「驚愕」だった。かつての師ザラシュ・ライアンが放った術は、ロイにとって完全に未知なるものであった。それも、単に「知らない」の一言で片づけられるようなものではなく、ロイがこれまで触れてきた全ての術とは、淵源から異なっている術であるように彼には感じられた。
 そう、あの時、確かにロイはあの未知なる術に対して恐れ、驚き、息を呑んだ。そして、同時に彼は歓喜した。ロイが未だ到達し得ぬ地平に、既に師は足を踏み入れているのだということを知って。
 師と決別した時、ロイは師の知る術を全て会得していたはずだった。だが、彼は十五年の歳月を経て、ロイの前に再び姿を現したのだ。新たなちからをその手中に修めて――。
 
 ロイは、今でも、師が研究室の合鍵を渡してくれた時のことを、昨日の出来事のように思い出すことができる。
 毎日、放課後になると、ロイは他のことには目もくれずに、ザラシュの研究室へと通っていた。宮廷魔術師長として宮城の一角に居室を持つザラシュではあったが、周囲の雑音を嫌った彼は、以前に使用していた家を研究室として残し、公務の合間をぬってはそこで研究に打ち込んでいた。ロイは、その研究室でザラシュの手伝いをしながら、学校では望むべくもない、より高度で実践的な指導を受けていたのだ。
 二十年前のその日、いつもどおりに研究室のあるザラシュの旧邸へ向かったロイは、固く閉ざされた門に出迎えられた。
 城の警護や、魔術を使った他都市への通信など、宮廷魔術師の仕事は多岐に亘る上に煩雑だ。その長ともなれば、予期せぬ仕事に時間を取られることも少なくない。ロイの弟子入り以来、ザラシュは極力夕方の決まった時間に研究室を開けるようにしてくれていたが、それでもやはり、ザラシュの到着が遅れることは、ままあった。そして、そんな時は必ず、留守を預かる使用人がロイを門番小屋で待たせてくれたものだった。
 しかし、その日はどうも勝手が違っていた。門の向こうに見える小屋にも、庭にも、人の気配は一切無く、ロイは途方に暮れながら門の脇に立ち尽くした。
 お屋敷の並ぶ閑静な街角に、木枯らしが吹きすさぶ。ロイが、かじかむ両手を互いに擦りあわせていると、向こうの角から姿を現した一台の二輪馬車が、急いた様子でこちらに向かってきて、急制動でロイの前に停車した。
「遅れてしまってすまない。寒かっただろう、すぐに中に入って火を起こそう」
 謝罪の言葉を口にするザラシュに対し、ロイは静かに首を振った。
「大丈夫です」
「大丈夫なわけがあるか。唇の色が紫色になっているぞ」
 いつもの使用人が身内の不幸とやらでいとまをとったため、今この家には誰もいないのだ、と、ザラシュは申し訳なさそうにロイに言った。
「確かに『規範』には、自分のために術を使うな、とあるが、身体を壊してしまっては、人助けのしようもないだろう?」
 暖炉の火に加えて、絶妙に出力を調整された魔術の炎が、冷え切ったロイの身体をゆっくりと温めてくれる。ロイがようやく人心地ついた頃、ザラシュが少しわざとらしい調子で咳払いを一つした。
「これを君に渡しておこうかな」
 そう言ってザラシュが差し出したのは、飾り気のない頑丈そうな鍵だった。
「これは……?」
「この家の合鍵だよ」
 驚きに目を丸くするロイの目の前、ザラシュが穏やかな笑みを浮かべる。
「君なら、いつでも自由に出入りしてくれて構わんよ。私が留守の時でも遠慮なく」
「いや、しかし、今日のことは、私がしっかりと防寒具を用意してさえいれば……」
 躊躇うロイに、ザラシュは悪戯っぽい表情を作ってみせた。
「なんにせよ、私を待つ時間が勿体ないだろう?」
 主人が不在の家で勝手にするのが気が引けるというのなら、書斎の本を読んで待っておればいいだろう。ザラシュにそう言われてしまえば、ロイに断わる理由は何も無かった。
「でも、宜しいのですか?」
「勿論だとも」
 ザラシュは破願すると、ロイの手に鍵を握らせた。
「これは、私と君との絆だよ。大切にしておくれ――」
 その刹那、小柄なザラシュの姿が、水滴のかかったインクの文字のごとく、滲んだ。
 突然の変容に驚く間もなく、ザラシュだったものは静かにその形を変え、背の高い男の影と化した。手の中の鍵が、いつのまにか眼鏡に変わってしまっていることにロイが気づくのと時を同じくして、逆光を背負った影が、幽かに口元をほころばせる。
「目が悪いのだな。丁度いい、これをやろう」
 ああ、これは、先ほどよりも更に時を遡った、ロイがまだ幼い子供の頃の記憶。
「これは、私と君とを結びつける、言わば絆だ。肌身離さず、大切にしてくれたまえ……」
 
 
「……様、宮廷魔術師長様」
 ノックの音で、ロイは我に返った。控え目な装飾の施された扉から、彼を呼ぶ声がする。
「そろそろ、お時間です」
「解りました。すぐに参ります、とお伝えを」
 思いもかけず、少しだけまどろんでいたようだ。肘掛け椅子から立ち上がると、ロイは大きく伸びをした。窓から見える家々の屋根が、沈みゆく太陽に照らされて真っ赤に染まっている。
 ルドスの南隣の町、サルカナ。反乱団の襲撃を受けたアスラ兄帝一行は、この小さな田舎町で予定外の一宿を余儀なくされることとなった。
 兄帝陛下とロイが案内された、町で一番大きな宿屋の一等客室とやらは、想像した以上に簡素で狭隘な部屋であった。町の規模を考えれば充分妥当なものではあるが、陛下はどうお考えだろうか、と、ロイは身繕いしながら兄帝の部屋のあるほうへ心配そうな眼差しを向けた。とは言え、態勢を立て直すために一度ルドスにお戻りになられたら、との意見をはねのけたのは、他ならぬアスラ兄帝だったのだから、諦めて受け入れていただくしかない。
『襲撃者は、北に、おそらくルドスに逃れていった。私にもう一度茶番を繰り返せと言うのか』
 増援の先頭に立って現れたルドス領主は、兄帝のこの言葉に平身低頭し、手ずから南へ、ここサルカナへと一行を案内してくれたのだった。
 ――どうして、あんな子供の頃のことを夢見たのだろうか。
 ふと、支度の手を止めて、ロイは独りごちた。まどろむ直前まで思いを巡らせていたのは、かつての師についてだったはずなのに、と。
 ――絆、か……。
 ザラシュに研究室の合鍵を渡された時の、あの言葉がきっかけだったのだろう。記憶の底にわだかまる古い根張りの奥から、不意に掘り出された幼い頃の情景は、あちこちが酷く曖昧で、どこか他人事のような気がした。
 ――あれからどれぐらい経つのだろうか。
 静かに息を吐き出すと、ロイは窓の外を見やった。
 ロイはもう随分と「あの人」に会っていない。十歳の時に魔術学校の寄宿舎に入って以来、ロイがあの恩人と相見あいまみえたことは一度としてなかった。実に二十七年もの間、自分が「親」と一度も会っていなかったという事実に思い当たり、ロイは愕然と息を呑んだ。
 
 あの人は、ある日突然、ロイの前に姿を現した。
 帝都の外れ、いちの立つ広場。親無し子達の「仕事場」にふらりとやってきたその人は、薄汚い少年達の中から迷いなくロイを見つけ出した。
「君がロイだね」
「おっさん、誰だよ」
 逆光を受けた背の高い人影が、淡々と言葉を吐き出してゆく。
「私の名はタヴァーネス。君がロイだね」
「そんなヤツ、知らねーな」
 人型に闇を貼りつけたようなその存在は、ロイを不安にさせた。殊更に強気で返答したのは、得体の知れない恐怖感のせいだった。
 だが、影は同じ言葉を繰り返す。
「君が、ロイだね。二年前、ヴァネーン郊外で山賊に襲われて母親を亡くした、ロイ・クラインだね」
 
 君を引き取りたい。そんな嘘みたいな申し出にロイがのこのことついていったのは、ただひたすら、生きていくのが苦しかったからだった。申し訳程度の仕事と、盗みと、暴力と。当然のことだが、糧にありつける日のほうが少なかった。「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ」と言う元締めの勧めに従って、身体を売ろうかとすら考えていたところだった。
「君には、大きな器の人間になってほしい」
 タヴァーネス子爵は、ロイの両肩を掴むと、静かにそう言った。
「この屋敷に教師を招いて君に教育を施せば、君は無用な苦労をすることもないだろう。だが、私はそれを望んでいない」
 陰に彩られた口元が、容赦のない言葉を紡ぎ出していく。
「学校に行けば、君がつらい思いをするのは解りきったことだ。しかし、私はあえてそれを望む。強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。それができないのなら……スラムへ帰りたまえ」
 どぶの底を這いずり回るような生活から逃れることができるのならば、どんな苦労だって我慢してみせる。ロイは胸いっぱいに息を吸い込むと、決意を強く噛み締めた。
「……できます。やってみせます」
 そう返答したロイの手を、子爵の冷たい手が包み込む。
「これは、私と君とを結びつける、言わば絆だ」
 握らされた銀縁眼鏡を、ロイはじっと見つめ続けた……。
 
 
 
 サルカナ警備隊本部の一室に、エセルの溜め息が静かに響き渡る。
 殺風景な室内には、彼の他に人の姿は無い。部屋の中央に置かれた簡素なテーブルの脇、固い木の椅子に腰をかけながら、エセルは目を閉じた。
 留置室でこそなかったが、自分の処遇がそれに準ずるものであるということを、彼は充分に承知していた。
 警備隊員三名と男爵の騎士一名、そして、セルヴァント男爵。合計五名がその命を散らした他、十二名が重傷を負った。助けに駆けつけた隊員のマリが四苦八苦しながら術をかけ、再び融解した泥の中からようやく救出されたエセルが耳にしたのは、その絶望的な報告であった。
 ――言い訳は通用しない。警備隊隊長として、責任をとらねばならぬ。
 普段足枷としか感じられない家名も、こういう時は少なからず役に立つ。最高爵位の家系に加えて、エセルの曾祖母は皇族出身だ。普通ならばエセルがお咎めを受けることはありえないはずだった。
 だが、今回は違う。襲撃されたのは、皇帝陛下だ。許されようはずがない。
 それに。
 襲われたのが皇帝陛下であるからこそ、他の誰でもない、エセルが厳しい処分を受けることになるだろう。
 そう、最高権力者の怒りを鎮めるためには、最上級の贖罪の山羊が必要なのだ。
 
 
 ノックの音がして、静かに部屋の扉が開いた。
 騎士団組の隊員二人と、ガーランが部屋に入ってきた。
「随分遅かったな。処刑方法は決まったのか?」
 口角を上げてうそぶくエセルから目を逸らしながら、ガーランは言葉を絞り出す。
「隊長。領主様が……皇帝陛下が、お呼びです」
 エセルは軽く目を閉じ、大きく息を吸った。それから、やにわに椅子から立ち上がる。
 すかさずその両脇に、二人の隊員がぴたりと寄り添った。
「もう少し離れてはくれないか。男の腰を抱く趣味は持ち合わせていないのでね」
 エセルのその声に、二人は返事に窮してお互いに顔を見合わせる。ガーランが大きく溜め息をつくと、腰に両手を当てて顔を上げた。
「解りましたよ。今度は綺麗どころを用意しておきましょう」
「それはありがたいな」
 不敵な表情を浮かべる上司と、挑戦的な口調の部下。そこにあるのは、いつもどおりの会話だった。これまで、何度も繰り返されてきたように。
 エセルは、満足そうにガーランから視線を外して、扉へと歩き出す。両側を固めようとしていた二人が、躊躇いながらもそのあとを追おうとした。
「私は逃げぬ。邪魔だ。退け」
 エセルの抜き身のような気迫に、二人の足が止まる。
「ガーラン、案内しろ」
「了解」
 それでこそ、俺が見込んだ隊長だ。暗い廊下を出口へと向かいながら、ガーランは、胸の奥が熱くなるのを禁じえなかった。
 
 
 
 サルカナの町の目抜き通り、警備隊本部の隣に、公会堂が建っている。
 小ぢんまりとした石造りの建物の中央を占めている大広間は、ルドス領主邸の謁見の間と同じぐらいの広さだった。夕闇の迫りつつあるその広間の一番奥には、急ごしらえの玉座がしつらえられていた。どこから調達してきたのか、入り口から一直線に赤い絨毯が玉座まで敷かれている。
 広間の中央部には、独り佇むルドス領主の姿があった。入り口近くには、ルドス警備隊を始めとする関係者が整然と列を成して立ち並んでいる。血のついた服や白い包帯が、今朝の凶事を雄弁に物語っていた。
 扉が開く。
 人々の視線の中、ガーランに先導されたエセルが姿を現した。
 エセルが何の拘束も受けていないのを見て、ルドス領主の眉がひそめられる。
 ガーランが同僚達の列へ合流し、エセルは、独り、前へと歩き続けた。
 胸を張って、前方を見据えて。
 やがて、領主の傍らで彼は立ち止まった。赤絨毯の脇へ寄り、こうべを垂れて跪く。
 一同がその様子を固唾を呑んで見守っていたその時、広間に朗々と先触れの声が響き渡った。
「アスラ皇帝陛下のお成りです!」

 
 
 麗しきその姿は、少しの乱れもない。ほんの数刻前に狼藉者に襲撃されたという事実を微塵も窺わせることなく、アスラは悠然と絨毯を踏みしめていく。
 その数歩後ろには、ロイがつき従っていた。二人は、跪く人々の間を抜け、遂に玉座に到達した。
 二階の回廊から差し込む残照が、アスラのマントを赤く照らす。その裾が大きくひるがえり、マグダレン帝国皇帝は静かに振り返った。鷹揚な様子で辺りを見まわし、そのままゆったりと椅子に身を沈ませる。
 玉座の傍らに控え最敬礼をしていたロイが、ゆっくりと身を起こし正面を向いた。手に握られた官杖は、宮廷魔術師長の証である。杖の先が軽く床に触れ、こつり、と石畳が音を立てた。
 十年前、朝議のたびに宮廷で見られた光景が、そこにあった。
 
「アスラ皇帝陛下に申し上げます」
 ルドス領主の声は震えていた。ただひたすら下を向いて発されたその言葉は、冷たい床に反響し、微かな余韻とともに広間全体に響き渡る。
「このたびの出来事、心からお悔やみ申し上げます。ルドスの警備隊がついていながら、このような悲劇が起こってしまったということ、真に遺憾の極地でございます」
 そこで言葉を切った領主は、ぬかずきながら、ちらり、とエセルのほうを一瞥した。
 どうやら、花を持たせてくれるらしい。エセルは密かに口角を上げた。
 願ってもない。無様に糾弾されるのは、真っ平御免だ。エセルは大きく深呼吸をすると、跪いた姿勢のまま顔を上げた。濃紺の瞳を、真っ直ぐアスラへと向ける。
「皆様をお守りできなかったのは、警備隊の、隊長であるわたくしの、責任です。いかような処分も受ける覚悟でおります。どうか、陛下のお心のままにお言いつけくださいますよう、お願い申し上げます」
 さきの東部平定の際、退却の合図に従わずに自らの騎士数十名を「神の雷」の巻き添えにさせた領主がいたと聞く。
 奇跡的に生き延びたその貴族に、アスラはただ一言を下賜したと謂われている。
 曰く、「死をもって、あがなえ」と。
 エセルは、その言葉が発せられるであろう瞬間を待ち続けた。無礼を承知で最後の意地を通し、彼はアスラを注視し続けた。
 
 永遠とも思える重苦しい時間が過ぎる。
 唐突に、ふ、とアスラの口元が緩んだ。
「どのような命にも従うと言うのか」
「はい。お心のままに」
「解った。ならば、言い渡そう」
 アスラは心持ち姿勢を正すと、高らかに言い放った。
「エセル・サベイジ、ルドス警備隊隊長、この者、部下をまとめて早急にルドスへ帰投し、職務に戻ること。一刻も早く、忌まわしき反逆者どもを成敗してくれたまえ」
 ざわめきが静かに湧き起こり、やがて広間は騒然となった。
「そ、それだけで宜しいのですか!?
 ルドス領主が驚愕の表情で叫び声を上げた。
 再び玉座に背もたれてから、アスラは眉を上げる。
「良い。……何か不満でも?」
「め、め、滅相もございません!」
 慌ててぬかずく領主の様子を冷ややかに眺めながら、アスラは静かに語り始めた。
「誰に責任があるのかと問うならば、まずこの私だろうな。少々見通しが甘かったようだ。この私と宮廷魔術師長とが揃っていながらの、この体たらく。どうだ、ロイ」
「……は。面目ありません」
「男爵の死は、自身の不用意な行動によってもたらされたものだ。騎士達は、おのれの職務を全うしたまで。私にはそれ以上、責任の所在を見つけることができないのだが……」
 そう言って、アスラは肘かけに右肘をつく。
「……そうだな。護衛の人選に問題はあったようだが……それは隊長の責任ではあるまい?」
 領主の顔色が、みるみる青くなった。アスラは軽く鼻で笑い、言葉を続ける。
「あの惨状でこれだけの犠牲者で済んだことに、正直驚いているのだ。ならば、最初から癒やし手を三人ほど隊列に含ませておれば、更に助かる命があったやもしれぬ」
「陛下」
 ロイが静かに訂正を入れる。「ルドス警備隊に癒やし手は一人しかおりません」
「何?」
 アスラが大きく身を乗り出した。
「すると、あれだけの怪我人を、たった一人が処置したと言うのか」
 それまで淡々と語り続けていたアスラの瞳に、一気に炎が入った。
 
 一瞬、ロイの表情に怪訝な色が浮かぶ。
 ――まただ。
 これまで何が起ころうとも取り乱すことのなかった兄帝が見せる、急くようなこの態度。先日の、十年ぶりの謁見の時も、彼は卒然玉座から身を乗り出して目を見開いていた。
 ――あれは、何を話題にしている時だったか……。
 そこまで思いを巡らせたものの、ロイはすぐに我に返り、エセルに目で合図を送る。その意図を読み取ったエセルは小さく頷き、跪いたまま軽く後ろを振り返ってその名を呼んだ。
「インシャ・アラハン」
「……はい」
 人々の最後列にいたインシャが立ち上がる。
「そなたか。近う寄れ」
 皇帝陛下自らにそう声をかけられて、インシャは小さく息を呑んだ。震える足で広間の中央まで進むと、エセルのすぐ後ろにかしこまって跪く。
「……あれらの怪我人を全て君が手当てしたのかね?」
「は、はい」
「ふむ……、君、位は幾らだ?」
「……第五位です」
「ふむ……そうか」
 眉間に皺を寄せて、アスラは再び玉座の背に身体をもたせかけた。思索に耽るかのように、その瞳はただ虚空を見つめている。
「……なるほど。高さばかりではなく、奥行きも考えるべきか……」
 ロイの耳だけが、皇帝陛下のその呟きを捉えていた。
 
 
 

    四  微酔
 
 サルカナでの謁見のあと、警備隊一同は三台の荷馬車に分乗して、ここルドスへと帰投した。
 例によって例のごとく「ご多忙な」騎士団組が本部に足を踏み入れることはなかったが、残る専任隊員達は何ら気にすることもなく、会議室に集まって今日の総括と明日からの予定の確認を行う。
 収穫祭以来の厳戒態勢は解け、普段どおりの輪番が組み直された。交代勤務表を再確認し、今夜の夜勤組の名前が読み上げられる。
 彼らのもとに、一週間前と同じ日常が戻ってきたのだ。シキの姿が欠けている以外は。
 
 
 一同解散、となった頃には夜はもうとっぷりと更けていた。皆一様に疲れきった足を引きずりながら、ばらばらと帰途につく。
 エセルはインシャを伴って執務室に戻り、残務処理にあたることにした。
 
「そうか。もう魔術顧問様はいらっしゃらないんだったな」
 二通目の報告書を作成しようとしたエセルは、ふとその事実に思い当たって、そう呟いた。そして手元の紙を脇に押しやりペンを置く。
 だが、脇机で紙にペンを滑らせているインシャが、容赦ない言葉を投げかけてきた。
「タヴァーネス様は、書類をお読みになられたあとに、本部の資料室に納めておられました。本部に控えるためにも、もう一通をお願いします」
「ならば、領主殿にも同様にしていただいたら良かろう」
「あの方はアテになりません」
 これ見よがしに大きな溜め息をつくエセルに、インシャが顔を上げずにとどめをさした。
「隊長が二通とも作成していただいても良いのですが」
「……解った」
 仕方なくエセルは再びペンを握る。インシャがしたためた一枚目をお手本に、彼は不承不承作業を開始した。
 
「シキは……」
 作業の手は休めずに、ポツリとインシャが呟いた。「大丈夫だったのでしょうか」
「怪我人については君が一番良く知っておろう?」
「それが……彼女の姿を見ていないので……」
 不審げに眉をひそめて、エセルは顔を上げた。
 確かに、彼女の性格からいって、無事ならばあの場に姿を現さないわけがない。何か、のっぴきならない事情があったのだろう。
 ――だが、そうだとしても……
「怪我をしていないということなら、心配することはあるまい」
 自身の疑念を振り払うかのように、エセルは殊更に抑揚を殺して言い放った。
 
 
 月が中天を越える頃、ようやく二人は仕事をなし終えた。椅子から立ち上がったエセルが、凝り固まった身体をほぐすように腕と首を動かす。
「ああ、これで明日の朝議には間に合うな。助かったよ」
「いえ、お役に立てて光栄です」
「どうせ、『運が良い』だの『流石公爵家は』だの揶揄されるのだろうから、できるだけ体裁を取り繕っておいたほうが良いからな」
 心底ほっとしたようなエセルの溜め息を聞き、インシャはそっと口元を緩めた。それから手に持った書類の束を脇に寄せた。
「こちらに置いておきますね」
 ペン先を丁寧に拭い、インク壷とともに机の抽斗に仕舞い込む。自分の一挙一動にエセルの視線が注がれているのを感じとり、インシャの口の中に唾が溢れてきた。それを密かに嚥下しつつ、平静を装って脇机の上を整頓する。
 片付け終えたインシャが席を立つのと同時に、エセルが静かに口を開いた。
「家まで送ろう」
 熱の籠もったその声に、インシャは目を伏せて返答した。小さな声で。
「……いえ、一人で帰れます」
「今何時だと思っているのだ。家まで送る」
「いえ、大丈夫です!」
 思わず手を振りほどいてから、インシャは、しまった、という表情を作った。エセルが、酷く傷ついた顔をしていることに気がついたのだ。
「…………その。今日は術を使い過ぎました。こんな疲れきった身体では、とても隊長の下心にお付き合いすることはできません……」
「なんだ、そういうことか」
 露骨に安堵した様子で、エセルがインシャの腰に手をまわす。
「ならば、君は動かなくとも良いさ」
「しかし…………部屋が片付いておりませんので……」
「気にしない」
「いえ、そういうわけには。私が気にするのです」
 静かにそう言って、インシャはエセルの腕をほどいた。そうして、そっと身体を離す。
 しかし次の瞬間、逞しい手が彼女の肩口を鷲掴みにし、あっという間に、インシャは無理矢理振り返らされてしまった。
「君の部屋を見る楽しみは、次の機会にとっておくことにしよう」
 抗議の声を上げようとしたインシャの唇が、塞がれる。
「今夜は、ここで……」
「な、何を……」
「解りきったことを訊く」
 ぐい、と腰を引き寄せられて、インシャは息を呑んだ。
「だ、ダメです、隊長。こんなところで」
「無理を言うな」
 再びインシャの唇が奪われる。貪欲に獲物を追い求める口づけは、躊躇いがちなインシャの体温をみるみるうちに上げていった。
「昨日の昼から、一日以上もずっと我慢してきたのだ。もう、待てない」
「……っ、だ、だめっ」
「暴れるな」
 身体全体を蝕む凄まじいまでの疲労感が、インシャの抵抗を鈍らせる。
 
 襲撃の現場は、凄惨さを極めていた。
 反乱団の攻撃は、実に効率的であった。魔術で泥の中に拘束された人間には見向きもせず、非戦闘員である使用人も捨て置き、彼らはただひたすら、戦闘可能な馬上の騎士達を集中的に攻めていた。
 素人が玄人に勝負を挑むというのだ。それも、命を賭けた戦いである。技能や経験の差を埋めるべく、多対一で各個を撃破していったのだろう。怪我人は、そのほとんどが瀕死の状態であった。
 インシャは必死で呪文を唱え続けた。
 一人でも多くの命が助かるように。エセルの双肩にのしかかる責任が、少しでも軽減されるように……。
 
 報いを期待しての仕事ではない。褒められようなどとも考えてもいない。だが、少しはねぎらってくれても良いのではないだろうか。
 インシャの瞳が険しくなる。所詮、私は、単なる欲望の捌け口でしか過ぎないのか、と……。
「……それは、命令ですか?」
 その言葉に、エセルが動きを止めた。
 二人はしばし無言で見つめあった。
 じわりと湧き上がってくる悲しみを、気取られまい、と目元に力を込めるインシャの眼前、エセルが大きく息を吸い込んだ。唇を引き結び、瞼を閉じ、それから彼は再び目をあけた。見たこともないほど真摯な眼差しを、まっすぐにインシャに向けて。
「いや、『お願い』だ」
 インシャの身体から急に力が抜けた。そのまま崩れ落ちそうになる彼女を、しっかり抱きかかえ、エセルが静かに言葉を継いだ。
「昨日のあのひとときが、幻などではなかったのならば……、その証に、私と一夜をともにしてほしい」
 彼女には、もう、彼を拒むことなどできはしなかった。
 
 
 
「お、めずらしい。先客か」
 樫の扉を軋ませながら開くと、薄暗い店内には人影が二つ。ガーランは少しだけ躊躇したものの、そのまま中へ歩みを進める。
「あら、いらっしゃい」
 カウンターの向こうで、黄金色の短髪の女性が微笑んだ。それから、前に座っている男に説明する。「彼ね、数少ないウチの常連さん」
「お邪魔?」
「こっちこそ、お邪魔してまーす」
 ガーランの台詞が終わりきらないうちに、その男は陽気に振り返った。やや逆光となって窺いしれない表情の中、人懐っこい目だけがキラキラとランプの光を映し込んでいる。
「ささ、座ってくださいよ、おにーさん」
 酔客に絡まれるために、わざわざこの小さな店に来たわけではない。ガーランは軽く苦笑しながら、それでも誘われるがままに椅子一つ空けて男の左側に腰をかけた。
「見かけない顔じゃん」
「旅の途中なんですって」
 グラスに琥珀色の液体を注ぎながら、女主人が代わりに返答する。
「へえ。随分打ち解けているみたいだから、新しい馴染みかと思ったよ」
「やンだー、妬かないでくださいよー」
 二人が声を揃えてそう言ったので、ガーランは脱力のあまりカウンターに突っ伏しそうになった。
「おねーさんが、人生相談にのってあげてたのよねー」
「おね……っ?」
 どうも、今日は落ち着いて酒を飲むわけにはいかないらしい。口に含んだ強い酒を思わずゴクンと飲み込んで、ガーランは慌てて隣を振り返った。
 なるほど、確かにその男は若そうだった。長身に誤魔化されてはいたが、少し長めの栗色の髪から覗くその瞳は、どこか幼く、まるで少年のような表情を見せている。
「…………おねえさん、ってガラかぁ?」
「あら、酷い。何よ、オバサンって言いたいの?」
 誰もそんなことは言ってないだろうが、と心の中で毒づきながら、ガーランはグラスを口に運んだ。喉の奥にひりひりとアルコールが絡みつく。ガーランはこの一瞬がとても好きだった。そう、まさしくこれぞ、心が解き放たれる合図……
「心配しなくっても、おねーさんはおねーさんだって」
「あンら、嬉し」
 ……いや、今日はここで気持ちを解放させることはできなさそうだ。調子の良い新顔と女主人の会話に頭痛を覚えて、ガーランは思わずちくりと言い放った。
「ガキは家に帰って、ママと乳繰り合ってろ」
「だから、旅の途中なんだってば」
 笑顔で返されて、ますますガーランの心に負荷がかかる。
「ガーラン、大人げないわよー」
「うるさい。大人じゃないのはそっちのほうだろ」
「あら、酷い。良いわよ、そんなに偉そうに言うのなら、彼に気のきいたアドバイスの一つぐらい言ってみなさいよ」
「おお、俺は『大人』だからな」
 疲れきった身体に、急激に酒が染み透っていく。
 ここしばらく、彼の心の奥底でずっと何かが蠢いている。噴き出さんばかりのその圧力を他所に逃がすべく、ガーランはこの場の勢いに身を委ねた。
「よし、ボウズ、悩みとやら言ってみやがれ。聞いてやろうじゃないか」
 
 
「だからさ、もうちょっと遠慮ってモノがあっても良いと思うわけ」
「まったくだ」
 赤い顔で口を尖らせる青年に、ガーランもまた赤い顔で力強く頷き返した。
「こっちだって、覚悟はしてるし、解ってたことなんだけどさぁ。それでも、やっぱ、目の前でって、キツイじゃん」
「ああ。そいつはやってられねーよな。……っと、リナ、もう一杯」
「あ、おねーさん、僕も」
 女主人は苦笑いを浮かべながら、すっかり出来上がった二人のグラスにお代わりをいだ。
「ガーランならハマるって思ってたけど、ここまでとはねぇ」
「ん? 何だ?」
「いいえ? 何でもないわよー」
 ひらひらと手を振りながら、女主人はにっこりと笑い返す。
「おねーさん、名前リナってんだ?」
「そうよぉ。ステキな名前でしょ」
「うん、可愛いなあ」
 少しばかり遠くを見る目つきで、青年がグラスを口に運んだ。
 彼は、ガーランが来店する前から既に結構な量を飲んでいた。カワイイ顔に似合わず、強いのね、とリナは密かに頬を緩ませる。
「しかし……大変だな、お前も」
「おにーさんもそう思うでしょ?」
 ガーランも、普段ならこれぐらいで乱れることはないはずだった。リナは扉を開けて入ってきた時の彼の疲弊しきった様子を思い出す。そういえば、今日は兄帝陛下がルドスを出立なさっていた。それに絡んだ仕事で、相当疲れていたのだろう。
「でもさ、正直なところ、俺は喜んでたんだ。自分だけじゃないって、親友の不幸を。全くひでぇ奴だよ」
「そう言うな」
「そりゃ、アイツが彼女と再会できた時は、本当に嬉しかったんだ。でもさ、こう、何と言うか……俺の心の奥がさ、収まんないんだよな」
「解るぞ……」
「彼女はさ、俺なんかよりもずっと有能でさ。『仕事の邪魔だ、置いてけ』なんて言えないわけよ。そんなこと、理屈では解る。解るんだけど……やっぱズルイと思わない? 俺が寂しく一人寝してる間、アイツは彼女とイイ思いしてんだぜ?」
 青年が、カウンターに突っ伏した。
「あーあ、俺、人生の選択間違えたかなあ」
 だんっ、と拳が天板に打ちつけられて、グラスの中の液体が揺れる。ガーランがカウンターを叩いたのだ。
「そんなことで後悔なんてすんなよ」
「だってさー、やってらんねーじゃん」
 顔だけを左に向けて、青年が唇を尖らせた。対するガーランは何かを決意した表情で、拳を強く握り締める。
「よし、俺の話も聞いてくれ。俺の立場もお前と似たようなモンだ」
「え? そうなの?」
 緩慢な動作で身体を起こして、青年が真面目に話を聞く態勢をとる。ガーランはぐい、とグラスをあおってから、訥々と言葉を吐き出し始めた。
「俺の場合はな、上司が俺の同僚にちょっかいかけてるんだぜ。昨日なんてな、仕事中にキスだぜ、キス!」
「あら、あの真面目そうなコが、珍しいわね」
 リナがグラスを拭きながら横槍を入れた途端、ガーランが、しまった、という表情になった。
「あー、…………そっか。上手くいったんだ、あの二人」
「ど、どうしたんですか?」
 言葉もなくカウンターに突っ伏すガーランに、慌てて青年が声をかけた。
「あー、気にしない、気にしない。その、ね、上司が粉かけてたってのが、このダンナの好……」
「わーーーーーーっ」
 カウンターに身を乗り出して、ガーランがリナの口を押さえる。
「…………聞いたか」
 青年は、黙って、こくりこくりと頷いた。
 ガーランは、頭を掻き毟ると大きな溜め息をつく。何事も無かったかのように平然を装って椅子に座り直し、すまし顔で青年のほうを見た。
「ま。そういうわけだ」
「……おにーさんも、苦労してんだね……」
 
 しばしの沈黙が、その場を支配した。重苦しさよりも、切なさに彩られた静寂が。
 
 リナは、磨き終わったグラスを棚に戻しながら、胸のうちで秒読みした。
 三、二、一、…………
「くっそお! 今日は飲むぞ! お前も付き合え!」
「了解、あにき!」
 ――今夜は遅くなりそうだなあ。
 小ぢんまりとした酒場の女主人は、騒ぐ二人を楽しそうに眺めながら、そう独りごちた。

第十二話  逆巻く神颪

    一  出立
 
「ところで、お前、毎晩どこ行ってんだ?」
 古着屋の扉から出たところで、突然、レイが事も無げにサンに問いかけてきた。
 シンガツェへ出立の前日、最後の買い出しに出かけたレイとサンの二人組は、大通りの雑踏の中にいた。偽装の指輪で髪の色を変えたレイと、農夫のいでたちに身を包んだサン。彼らは、シキの一張羅を一番高く買ってくれる店を探しているところだった。
 レイの口調は、さりげなさを装おうとはしていたが、残念ながらその眼はそう語ってはいなかった。サンは口のを上げると、殊更に軽く返答する。
「良い店見つけたんだ。今晩レイも一緒に行く?」
「いや、いい。遠慮しとく」
 その即答ぶりが、サンの神経を逆撫でる。更に追い討ちをかけるように、レイが一言をつけ加えた。「にしても、ほどほどにしとけよ」
 それは、俺の台詞だ。サンは苛立たしさを顔に出さないように、溜め息で誤魔化す。
「隣の誰かさんの部屋が五月蝿くて、寝られないんだよ」
 サンのその台詞に、さしものレイも「しまった」という表情を浮かべた。
「…………悪ぃ」
 そして沈黙。
 お、いつになく神妙じゃん、とサンは眉を上げた。
 ――でも、これからも控える気はないんだろうなあ、この助平野郎め。
 もっとも、立場が変われば自分だって同じことをするだろう。そう思い直して、サンは笑顔を作った。
「冗談だよ。何も聞こえてねぇって」
「……本当か?」
「あったり前だろ。そんな、他人の幸せを妬んで、憂さ晴らしに酒場通いするような、軟弱な男に俺が見えるか?」
「見える。……って、店って、酒場?」
 ここぞとばかりに、サンはレイの頭を小突いた。
「何、想像してたんだよ、この色ボケ野郎」
「るさい、放っとけ」
「良い店見つけたって言ったろ。そこの女主人がさ、結構気の効いた姉さんでね。それに常連の兄さんが面白い人なんだ。大胆且つ繊細って言うか、熱血且つ冷静って言うか、とにかく話してて飽きないし。……俺が女なら惚れるな、絶対」
「気色悪いことを言うな」
 レイがあからさまに嫌そうな表情になる。サンは密かにほくそ笑んだ。
 サン自身は、男色の性癖を持ち合わせてなどいない。むしろ、近衛兵時代に男が男に欲望を向けるさまを何度か目の当たりにして、激しい嫌悪感を抱いた口だ。
 だからこそ、このネタがレイに効果的に痛手を与えることを知っている。数日前、レイの寝台で彼に覆いかぶさった時の、滑稽なまでに動揺した彼の様子を思い出し、サンは口元を緩ませた。
 ――これぐらいは、苛めさせろよな。
 お前は毎晩良い思いをしてるんだから。サンはそう心の中で拗ねつつ、言葉を継いだ。
「俺は『女なら』って言ったろ。それでも気になるってことは、お前、もしかしてそういう趣味があるんじゃねーの?」
「ばっ、ばばばば馬鹿言うな! 俺はそんな趣味はない!」
「いやいや、レイ自身が気づいてないだけで、実は本心では……」
 半狂乱になって顔を横に振りたくるレイを見るうちに、流石にサンも彼のことが少しだけ可哀想に思えてきた。
「なーんてね。ま、とにかく、イイ男、ってのは、男から見てもイイ男ってもんだ。そうだろ?」
 レイが肩で息をしながら、まだ今一つ信用しきれない様子で、そっと目を細めた。
「まあ、それは、そうだろうけどさ。何かお前、油断ならねーんだよなあ……」
「そうか?」
「ああ。大体普段からお前、ウルスの言うこと、いつもハイハイって尻尾振って従ってるだろ?」
「尻尾なんて生えてねーよ。見せようか?」
「見せんでいい」
 冗談を本気で打ち落とすレイに、サンの機嫌はますます上向きになる。
「ともかく、あんなに横柄な奴の言うことを健気に聞いてるのを見ると、もしかしてその気があるんじゃないかって構えたくもなるだろーが」
「尊敬する人間の役に立ちたいと思うのは、当然だろ?」
 爽やかに台詞を決め、これでレイを煙にまけたな、とサンが満足そうに笑みを浮かべたその時、突然レイが晴れ晴れとした表情を作った。
「あ、そうか。お前、昔っから姉ちゃんに頭上がらなかったもんなあ。下僕体質というか、下っ端根性ってやつだな」
 サンが我に返った時には、既に遅かった。ムッとした顔を見られてしまったのだろう、レイが上機嫌でにやにや笑いを口元に浮かべている。
「さてと、さっさと用事を済ませようぜ。次、あそこの店に行ってみるか」
 すっかり元気を取り戻して先を急ぐ友人の背中を、サンは溜め息を道連れに追いかけた。
 
 
 
 無事買い出しを終えた二人は、疲れきった足を引きずり引きずり場末の安宿の二階へと戻ってきた。
 廊下の一番奥の一人部屋がシキの、その隣の二人部屋がレイとサンの部屋だ。部屋の扉を閉めるなり、二人は荷物を放り出して各々の寝台に倒れ込んだ。
「買い物って、疲れるよな」
「年寄り臭いぞ、レイ」
「その格好でそんなこと言っても、説得力ないぜ」
 ともに寝台に寝そべった姿をお互いに笑い合っていると、扉にノックの音が響いた。
「二人とも、帰ったの?」
「ああ。入って来いよ」
「ゴメンね、準備色々任せっきりで」
 扉の開く音とともに、軽い靴音が部屋に入ってくる。
「いいよ、いいよ。気にしない。俺らの中ではシキが一等、面が割れてるわけだから……」
 調子よく起き上がってからサンは、硬直したように動きを止めた。
「…………ぁあ?」
 そして、調子外れな声がサンの口から漏れる。何事かと身を起こしたレイが、シキの姿を見て素っ頓狂な声を上げた。
「シキ……。お前、その髪……」
「切った」
「切った。って、お前……」
 子供の頃からずっと、シキの髪が肩口よりも短くなることはなかった。なのに今、彼らの前にすまし顔で立つシキの髪は、サンのそれよりも短くなってしまっている。
「これなら、ちょっと見たぐらいじゃ、私だって判らないんじゃないかな?」
 確かに、そのとおりかもしれない。眉にかかる程度の前髪に、耳朶が少し覗く側頭部。後ろは完全に襟足が見えている。悪戯っぽく目を光らせるその表情も相まって、そこに立つのは幼さの抜けきれない、まるで少年の姿だった。
 これならば、かつてのシキの同僚である警備隊員も、ぱっと見ただけではシキだとは気がつかないだろう。
「………………うわー、思いきったね……」
 複雑な表情でサンは呟いた。
 彼は、長い髪が好きだった。髪をかき上げる何気ない仕草を見るのも、触れ合う際に手慰みに指に絡ませた時のあの感触も、大好きだった。自分なら、恋人が勝手に髪を短くしたらば、失望の色を隠せないだろう。ほんの刹那、サンは視線をどこか遠くへと彷徨わせ……ややあって、ふと我を取り戻し口を引き結ぶ。
 ――いや、俺のことなんかどうでもいいんだ。問題は……。
 おのれの身勝手な感想は棚に上げておいて、サンは少し心配そうに隣のレイを見やった。おそらくはまだ完全に修復しきっていない二人の関係に、奴は自分で水をさすようなことを言いはしないだろうか、と。
「似合うじゃん」
 寝台の縁に腰をかけたレイが、大真面目な顔でそう言った。
 サンの口から、つい安堵の溜め息が漏れる。
 シキが心なしか嬉しそうな表情で、それでも少し意外そうに眉を寄せた。
「……本当?」
「似合う、似合う。もう、どこから見ても、小猿」
 レイのこの台詞に、サンは呆れるあまり言葉を失ってしまった。あんぐりと口を開いて、ただ目をしばたたかせるのみ。
「小猿」の呼び名は、学校時代に散々レイの口から聞かされてはいたが、事ここに至って、しかもこの場でそれを口にした友の蛮勇に、サンはひたすら恐れ入った。
 もっとも、ある意味耳慣れた言葉だったせいだろうか、幸いにもシキは傷ついた表情を見せることなく、苦笑しながら腰に両手を当てて唇を尖らせている。
「ガキだのボウズだの言われるかな、とは思ったけど……そう来たか」
「予想通りはつまらないだろ?」
「そういう問題かなあ」
 ――なんだ、随分良い雰囲気じゃないか。
 心配をして損をした、と肩を落としたサンの目の前、レイが動いた。素早い動作で。
 彼は少し腰を上げてシキの手を掴むと、ぐい、と引っ張った。それからもう一度寝台に腰かけて、倒れ込んで来たシキを抱きとめる。
 あまりの手際の良さに、サンはただただ感嘆するばかりだ。
「でもさ、俺、小猿も好きだぜ?」
 レイがシキの耳元で囁くや否や、シキの頬が真っ赤に染まった。
 このまま放っておいたら、こいつらは俺の目の前で、どこまでいくんだろうか。そんなことをちらりと考えつつも、サンはわざとらしく、ごほんげふん、と咳払いをした。
「盛り上がるのは結構なんだけどさ、ちょっとは遠慮してもらえないかな、お二人さん」
「さ、サン、ごめん」
 シキが慌てて起き上がる。謝るべきなのはお前だろ、と言わんばかりの視線をレイに投げつけてから、サンは冷たく言い放った。
「明日は早いんだから、今日は余計なことは考えずに、皆早く寝る。オッケー?」
「了解」
「……解ったよ」
 不承不承了承するレイは無視して、サンはシキに向き直った。
「これ、シキの分。自分で荷造りしたほうがいいだろ? 部屋に運ぶよ」
「あ、俺が運ぶって」
 慌てて立ち上がろうとするレイに、サンは冷ややかな一瞥を投げた。
「お前が隣に行くと、そのまま帰ってこなくなるだろ」
 ぐ、と言葉に詰まるレイと、再び頬を紅く染めるシキ。
「さっさと下に夕飯食いに行って、荷作りして、寝る。予定通りお願いしますよ、レイ殿」
 
 ――ちょっと、露骨だったかな?
 シキを追い立てて部屋を出ながら、サンは独りごちた。とはいえ、親友をやっかむ権利が今の自分には充二分にある、そう確信している彼でもあった。
 
 
 
 見事な快晴の空の下、荷を積んだ二頭の馬を牽く三つの人影が、街道を逸れて山道へと分け入る。
「……暑いぞ」
 帽子の耳当てを下ろしているレイは、不機嫌そうに呟いた。
 朝晩の冷え込みはかなりのものだが、日が高くなるにつれ、太陽の光は刺すような熱を帯び始める。レイの額には玉のような汗が幾つも生まれてきていた。
「なあ、シキ、帽子と指輪、交換してくれよ」
「やだ」
「ただでさえ、髪が長くて暑いってのに……」
「小猿に帽子は必要ないもんね」
「指輪だって同じことだろうが」
 前を歩くサンは、苛々しながら二人の会話を聞いていた。
 ――何時の間に、俺はこんなに心が狭くなってしまったのだろう。
 自分が彼ら二人を羨むのは、まあ、無理もないことだ。そうサンは胸の中で頷いた。だが、一体この腹立たしさはどうしたことか。自分は一体、何に対して苛ついているんだろうか。
 ――答えは解りきっている。
 決断をくだしたのは、自分なのだ。決して悔やみはしない、と、そう心に決めて選んだ道だ。それなのに、自分は今、激しい後悔の念にかられている。その事実そのものが、おのれを苛立たせているに違いない……。
 そうやって思考を空回りさせていたせいだろうか、背後の二人が足を止めて初めて、サンは異変に気がついた。慌てて振り返り、レイとシキが無言で注視する方角へと視線を向ける。
「やあ、こんにちは」
 二丈ほど後方、ひとけの無い山道に人影がもう一つ佇んでいた。
 
「レイ……あいつはいつから……?」
「ああ。気配を感じなかった」
 小声で言葉を交わしながら、サンとレイは用心深い視線をその人物に絡ませる。
 サンは反射的に腰に手をやり、そして小さく舌打ちした。山間やまあいの村人を偽装するために、彼の剣は馬の背の荷物の中だ。
 こちらに向かって悠然と歩みを進めるのは、若い男だった。自分達と同年代か、少し上ぐらい。外套のフードの陰から覗く、線の細い上品そうな顔立ちに、優しい蒼い瞳。
「なんだよ、随分優男じゃねぇか」
「油断するな、レイ」
 彼はいかにも人の良さそうな雰囲気を纏っていた。だが、サンは気がついていた。彼の外套の下、腰に一振りの長剣が下げられていることに。
 護身用の短剣を携えることは、旅人にとって何も珍しいことではない。しかし、それが長剣ともなると話は別だ。
 そもそも、「使える」長剣は庶民が趣味で買い求めることができるほど安価な品物ではない。お飾り紛いの代物をわざわざ腰にぶら下げて旅をするような馬鹿はいないだろう。それに、それなりの剣ならばその重さも無視することはできない。つまり、懐に余裕があってなお、腕前に自信がない限り、旅路に長剣を携帯する利はないのだ。
 男はすぐ傍までやってくると、フードを下ろして三人に会釈した。金の髪がさらさらと風になびき、端正な顔に彩りを添えた。
「もしや、あなた方はシンガツェへ?」
「はい」
 男の雰囲気に呑まれたのか、シキが素直に返事をするのを聞いて、サンは密かに頭を抱えた。
 腰の剣。剣士か、騎士か、……どこかの町の警備隊員という可能性もある。もしも彼が官吏に繋がる人物ならば、自分達の人相書きを見ている可能性は高い。
 いや、そもそも彼の目的は自分達なのではないだろうか。シキはともかく、レイやこの自分がこれだけ接近されるまで気がつくことができなかったのだ。そう、狩猟者が気配を殺すのは、獲物に対峙する時、と限られている……。
 だが、サンがつらつらと思考をめぐらせている間に、事態は予想外の方向へと走り出してしまっていた。優男が人懐っこい笑顔を浮かべて、とんでもないことを言い出したのだ。
「丁度良かった。私もシンガツェに向かうところなんですよ。ご一緒しませんか」
「え? おい、サン」
 レイが慌ててサンを振り返る。
「いいですよ」
 我に返ったサンが声を上げるのよりも早く、シキはにっこりと笑うと、そう返答した。

 
 
 男は、自らをルーと名乗った。
「人を探しているんです」
 そう言ったっきり、彼は自らをそれ以上語らなかった。天候のことやら、道中のことやら、他愛もない世間話のみに花が咲く。
 人探しならば、どういった風体の、どういった人物を探しているのか、その人物をどこかで見かけたことはなかったか、自分達にもまず訊いてくるはずだ。それを一切することなく、人を探していると言われても、一体誰が信じるというのだろうか。
 ――いや、一人いた。
 先ほどからシキは、一頭の馬の手綱を牽きながら朗らかにルーと語らっている。その二人の少し後ろを、憮然とした表情でレイとサンは歩いていた。
「どういうつもりだろう」
「まったく、本当に一体どういうつもりなんだよ」
「いや、シキのことじゃなくて」
 サンは、ふう、と溜め息をついてから小声で話し続けた。
「人探しってのは、たぶん嘘っぱちだ。あいつは普通の旅人じゃない」
「いや、探してるのかもしれないぜ。『赤い風』の頭領を、さ」
 一番考えたくない可能性を指摘されて、サンはもう一度溜め息をついた。
「……だけど、それにしては、一人っきりってのが腑に落ちない。……何か感じるか? レイ」
「いいや。ま、さっきの例があるけどな、たぶん今度は間違いないと思うぜ。……この辺りには、誰も、いない」
「距離をおいて、何かの合図で……というのなら、ここらの地形は不向き過ぎる」
「本当に一人っきりなのか、馬鹿な作戦しか立てられない間抜け集団なのか、どちらにしても、もう少し様子を見ることはできるんじゃねえか?」
「……そうだな」
 眉間に深い皺を刻みながら、サンが軽く頷く。その横でレイが大きく息を吐き、勢い良く背筋を伸ばした。
「よし。それなら、少しでも何か奴から聞き出せないか、やってみるとするか」
 言うが早いがレイは駆け出した。そして、半ば強引にシキとルーの間に割り込んでいく。
「……お前の悩みは簡単で良いよな」
 がっくりと肩を落として、サンはとぼとぼと三人のあとを追った。
 まるで彼をねぎらうかのように、サンが牽く馬が「ぶひん」と鼻を鳴らした。
 
 
 
 その町は、小さな尾根伝いに点々と広がっていた。
 全体的に小ぶりな家々が肩を寄せ合うようにして軒を並べている、そういった幾つもの集落の合間に、階段状の耕地や牧草地が散らばっていた。
「あれが、シンガツェですか」
 ルーは息を呑んで、それから三人を振り返ってそう問うた。
「あ、ああ」
 シンガツェですかと訊かれても、三人とも初めて来る場所だから答えようがない。辛うじて曖昧に頷いてはみたが、彼らもルーと同様にその幻想的な風景に度肝を抜かれてしまっていた。
 大きく開けた視界、眼下には靄に沈む小さな谷。
 その谷を挟んで臨むシンガツェの町は、まるで浮島のようだった。靄は黄昏色に染まり、ところどころで夕日を反射して黄玉のように煌めいている。
「なんて、美しい……」
 感嘆したように呟く男の眉が次第にひそめられていくことに、誰も気がつかなかった。
 
 
 

    二  神柄
 
 冷気冴え渡る朝。
 シンガツェの町を見下ろす高台にある小さな祠、その前に横たわる巨石の上に胡坐をかいていた人物が、大きく伸びをした。身体の凝りをほぐすように二度三度と首をひねり、彼はもう一度背筋を伸ばして肩をまわして、背後に語りかけた。
「結局、そいつの目的は解らないままなのか」
「……はい。まさか見失うとは思ってもいませんでした……」
 サンは、滅多に見せない苦汁の表情で下唇を噛むと、申し訳なさそうにウルスの背中に向かって頭を垂れた。
 昨日、シキ達がシンガツェに着いた時には、既に町は宵闇に沈んでしまっていた。ルーは三人に丁寧に礼を言うと、目抜き通りである上り坂を静かに上がっていった。サンは残る二人にその場で待つように言って、何気ない様子を装いながら彼のあとをつけはじめた。
 だが、数十丈も進まないうちに、ルーの外套は往来の人波の中に溶け込むようにしてサンの視界から消え失せてしまったのだ。
「暗灰色の外套、金髪、藍の瞳。背丈はどのぐらいだ?」
「レイと同じぐらいでした」
「はん。剣以外に特徴と言えるほどのものはなし、か。一応アキには伝えておこう」
 アキとは、現在ウルス達が滞在している山小屋の所有者である。
「町長の息子さん、と聞きましたが」
「ああ」
 ウルスが、軽く頷いてからサンを振り返った。
「この町は古くから、彼らの言う『山神様』の信仰厚い町でな。そこの祠もその神を祀っているものらしい」
「……壊されて、いませんね」
「ああ。兄帝陛下の信仰改革も、山深い里には届かなかった……というよりも、ここの奴らがしたたかだったんだろうな。帝国の支配下になってすぐ、率先して改革に従うことを宣言し、帝国軍の邪教狩り部隊を退けることに成功したらしい。自分達で邪教をうち滅ぼす、と」
 そう言ってウルスは悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「知っているか? 帝都への報告書によると、この祠は『納屋』らしいぞ」
「納屋、ですか」
 ……それは、かなり無理があるのでは。サンも思わず苦笑した。
「この辺りは、昔から古い信仰が生き残っている地域だからな。皆どうしても信仰改革には及び腰になる。その結果シンガツェは、州都ルドスよりも優位に立つことができた。そして、元来の町の自警団を警備隊として認めさせた。
 まあ、皇帝陛下の任命といっても、あくまでも手続き上の問題だ。実質は領主に決定権があるわけだからな。それに、元々シンガツェはルドス領主の領地ではなかったしな」
「と、いうことは……」
「そうだ。この町は、我々の敵ではない」
 そこまで語ってから、ウルスはまた町を見下ろした。
「だが、味方と言いきることもできないがな。アキを中心とした青年団の連中は、かなりアテにできるようだが……」
「それなら、昨日のあの男は……」
「ああ。目的は俺達ではない可能性が高い。シンガツェの内情を探る密偵といったところか」
 背後の木々が、ごう、と音を立てた瞬間、冷たい風が勢い良く彼らの横をすり抜けて麓へと吹き下りていった。
 
 
「ところで……随分疲れているみたいだが……かなりあてられたようだな」
 振り返りもせずに、ウルスがサンに問いかけてきた。だが、楽しげな声の調子に、その表情は嫌というほど窺い知ることができる。
「……そんなことは最初から解ってたでしょうに」
 深い溜め息を吐き出して、サンは肩を落とした。「俺もウルスさん達と一緒が良かったですよ。ホントに人が悪いんだから」
「仕方がないだろう? お子様には引率者が必要だからな」
「お子様って……」
 もはや苦笑しか漏らせないサンである。
「イの町というのは本当に平和なところだったんだな。あのボウズも粋がっているわりに、半年経ってやっと『使える』かどうかといったところだ。彼女については推して知るべしだろう? 二人とも術の腕前は良いのだろうがな」
「あー、まあ、警備隊が空き時間に牛を飼ってましたからね……」
「牛飼いか。そいつはいい」
 少し大袈裟に笑ってから、ウルスは今度は身体ごと振り返った。巨石から降りて、サンと真っ向から向き合う。
「サン」
 三白眼の鋭い瞳が、鉄錆色の前髪の下からサンを射た。思わずどぎまぎしながら、サンは静かに返答する。
「……はい」
「後悔しているのか」
「していません」
 その一瞬、ウルスの目がもの言いたげに細められた。サンはごくりと唾を呑み込んでから、改めて強固な意志を視線に込める。
「…………ならいい」
 囁くようにそう言うと、ウルスはサンの横を通り過ぎていった。
 
 
 
「風、を起こすんですか?」
 つい先刻まで、山小屋の中でみっちりとウルス達からこれまでの経緯を聞かされていたシキは、すっかり頭の中が飽和状態となってしまっていた。これ以上は何も考えることができない、と言わんばかりに、彼女はオウム返しで聞き返す。
「俺達は精霊使いじゃないぜ?」
 訝しそうな二人の声に、ザラシュが静かに頷いた。
『真実を教えてくれるって言ってましたよね』
 シキへの話が終わるのを待ってレイが発したその問いかけに、老師は、ふ、と優しい目で笑い返し、彼らを外へ、祠の裏手の木々の拓けた広場へといざなったのだ。
「そうだ。風を起こして、あそこの彼の帽子を飛ばすことができるかね?」
 ザラシュが指し示した方向には、レイの帽子をかぶったサンが立たされている。
「古代ルドス魔術には、そのような呪文は伝えられていない。さあ、どうするね?」
 シキは、軽く目を閉じて意識を集中させた。
 ――風を使う魔術……それらに共通する要素……。
 術の分析、分解は、丁度半年前に取り組み始めたところだった。抽出した要素の再構築については未知の領域だが、ある程度の見当はついている。
 ――確か、先生はこんなふうに…………
 軌道に乗り始めたシキの思考が、唐突に途絶えた。
 先生――ロイ・タヴァーネス。そして、その師匠であるザラシュ・ライアン。十五年前にロイの裏切りによって、表舞台を追われた、と彼は言った。
 ロイが誰かを師と仰いでいたということが、シキにはピンと来なかった。
 誰もが最初は未熟者だ。だが、どうしてもシキには、教えを乞うロイの姿を思いえがくことができなかった。いや、魔術の腕前以前に、自分よりも若いロイなど想像することができない。先生は、あくまでも「先生」なのだ。何があろうと。
 今でも目を閉じれば、楽しかったイの町での共同生活が瞼の裏に浮かび上がってくる。どうすれば、自分達はあのままの生活を続けることができたのだろうか。シキは悲しそうに溜め息をついた。
 
 胸に迫り来る、懐かしい光景の数々。
 時に優しく、時に厳しい先生。
 魔術のこととなると寝食を忘れて没頭し、些細な発見でも目を輝かせて私達に語り聞かせてくれる先生。
 子供は苦手だ、と言いつつ、正面きって生徒と対峙する不器用な先生。
 そして、そして…………
 
「じゃ、俺からいくぜ」
 レイの声が、一気にシキを現実に引き戻した。
 傍らで、不敵な表情を浮かべて腕を組むウルスの視線を意識しているのだろう、レイはぶっきらぼうにそう挙手してから、両手を身体の前で複雑に動かし始めた。
 レイは、いつも囁くように呪文を詠唱する。擦過音の目立つその声は、静かに、虫の声のように、辺りにじんわりと響き渡った。
 ――ああ、なるほど、あの術を応用したのか。でも……これだと、このままだと、きっと……。
 大きな風切り音は、シキの危惧したとおりだった。レイからサンに向かって、一直線に何かが虚空を駆け抜けていく。
「危ない! サン!」
 シキが叫ぶのとほぼ同時に、サンが少しだけ腰を落とした。その次の瞬間、彼がかぶっていた帽子は、小気味良い破裂音とともに、大きく宙を舞う。
 
 野鳥達が一斉に飛び立った。
 木々がざわめく。
 そして、静寂……。
 
 
「………………て。て、て、てっ、てっ」
「あー、悪い悪い。怪我はねぇか?」
「てっ、てめえ! 俺を殺す気か!」
「おっかしいなー。『風刃』じゃ危ないから、あそこをこうして、それから……」
 シキは、真剣な顔で首をひねるレイの傍まで寄ると、溜め息をつきながら彼の肩をとんとんと叩いた。
「もっと、力を分散させて範囲を広げないと。それに、威力削るの忘れてたでしょ」
「…………そうしたつもりだったんだよ」
 憮然とした表情で、レイが口を尖らせる。
 辺りに響く唸り声のようなものが、ややあって押し殺した笑い声に変わった。そして、遂にウルスが大声で笑い出した。
「何がおかしいんだよ」
「はっ! 友人の首ごと帽子を飛ばそうというのか。ご大層なものだな!」
 レイは、ウルスのほうをキッと睨んでから、サンのもとへと慌てて駆け寄っていった。
「ウルスさーん、笑い事じゃないですよ……」
 半分ベソをかきながら、サンが帽子を拾って立ち上がる。耳当て帽の前面からいただき部分の表革が、何かに強く擦られたようにささくれ立ってしまっていた。
「大丈夫か、サン」
「大丈夫? どこが!? 俺が寸前でよけたから、だからこれだけで済んだんだぞ!」
「よけたって言っても、少し掠ったろ? どうだ? 帽子は無事だな?」
「無事!? レイ、お前、帽子ってのは頭にかぶるんだぜ?」
 まさしく怒髪天を衝く形相で、サンがレイに詰め寄る。
「ちょっとお前、頭貸せ。帽子かぶらせて棍棒でぶっ叩いてやる。それで、帽子は無事だ、良かった良かった、って言ってやろうか」
 大きく息を吐いたのち、レイは神妙な顔で両手を上げた。
「悪かった。こんなつもりじゃなかったんだ。よけてくれて助かった。……それに、」ちら、とウルスのほうを見やってから、「ちょっとムキになっていた、と思う。本当に悪かった」
「もう、良いかね」
 レイの謝罪の言葉に頷きながら、ようやくザラシュが口を開いた。一同の視線が自分に集まったところで、言葉を継ぐ。「さて、次はシキの番だな。サン、どうするかね?」
 びくっ、と一瞬身体を震わせて、サンがおずおずと問い返す。
「…………え……っと、また、ですか……?」
「今度は俺がまとになる」
 サンの手から奪い取った帽子を、レイは自分の頭にかぶせた。
 何か言いかけたものの、ほどなくサンは肩で息をつくと、そのままウルスの傍へと向かった。
「ご苦労だったな」
「ええ、もう、こんな苦労はご免です」
 疲れ果てた声に、ウルスが軽く鼻で笑う。それからシキのほうを向いて鷹揚に腕を組んだ。
「さて、腕前を拝見しようか」
 山颪が枯れ葉を吹きさらっていく。シキは、深呼吸をすると、静かにレイのほうに向き直った。
 
 大丈夫。
 さっきのレイの施術のお陰で、問題点ははっきりした。
 既存の術の応用などではなく、初めて試みる術の組み換え。
 たぶん、できる。
 何を試されているのかは解らないけれど、その期待には応えられるはず。
 シキは、身体の前に両手を差し出すと、慎重にその指を動かし始めた。一音一音、注意深く、言葉を紡ぎ出す。
 
 麓に向かって宙を舞う枯れ葉達が、不意にその動きを止めて、大きく逆巻いた。
 そのまま枯れ葉を巻き込んで、一陣の風がレイのほうに向かって真っ直ぐ吹きつける。
 
 レイの黒髪が大きくたなびいた。
 土埃に目をつむったレイの後方、大きく弧を描いて帽子が地面に落ちた。
 
「やった!」
 思った以上の結果に、シキは思わず拳を振り上げていた。
「ほぉ!」
 ザラシュが感嘆の声を上げる。「お見事。これはロイに教わったのかね?」
「いえ。術の分解は少し習っていましたが、そのあとはまだ……」
「そうか。……なるほど、あれが君に固執する理由が解ったよ」
 ザラシュにそう言われて、シキはつい息を呑んだ。目の端に捉えたレイの表情が、僅かに曇る。シキは極力動揺を表に出さないように、抑揚を殺した声で老師に問うた。
「……それで、これは一体どういう試験だったのですか?」
 だが、その問いには答えずに、ザラシュは黙って印を組み始めた。シキも、レイも、見たことのない形の印を。
 彼の紡ぎ出す言葉は、シキ達の知るどの呪文とも違っていた。朗々と響き渡る低い旋律は、唄のように、皆の耳を優しくくすぐって大気中に拡散していく。
 
 その兆候は、微かに訪れた。
 それまで間断なく山頂から吹き下りていた風が、ふと、止んだ。
 不気味なほどの静寂の中、やがて、ザラシュの足元の枯れ葉がゆっくりと浮かび上がる。赤や茶色の葉がザラシュの身体の周りを取り囲み、そのまま静かに動き出した。
 枯れ葉が、いや、風が、彼の周りを回り始める。
 
 ザラシュが、もう一度何かを呟いた。だが、その声は風の音にかき消されてしまって、シキ達の耳には届かない。
 勢い良く渦を巻いていた風は、ザラシュから一直線にレイへと枯れ葉を撒き散らしながら進んでいく。
「うわっ」
 咄嗟に両腕で顔を防護したレイの手から、帽子がもぎ取られた。
 木立を抜けるほどの高みへと帽子は運ばれ、それからゆっくりと落ちてくる……ザラシュの手元へと。

 
「…………すごい」
 シキは唾を飲み込んだ。まるで自分の手足かのように風を操った老師の術に、彼女はすっかり魅せられてしまっていた。
 レイもまた、度肝を抜かれた様子だった。二の句がつげず立ち尽くすシキの傍に来ると、頬を紅潮させたまま、語りかける。
「精霊使いの技……じゃ、ねーよな?」
「違うと思う。あの呪文は、古代ルドス語だった」
 精霊使いとは、精霊と契約を結び、それを使役する技の持ち主のことをいう。ただ、その時にヒトの言語が使われることはない。もっと観念的な、いわゆる「うた」と呼ばれるもので彼らは精霊と言葉を交わすのだ。
「そうだな、概念としては、精霊使いの術に近いかもしれん」
 ザラシュがそう言って、帽子をレイに手渡した。
「古代ルドス王国以前、魔術といえばそれは全ての神聖魔術のことを指し示した。アシアスだけではない、もっと沢山の神々に人々は祈りを捧げ、その祝福を受けて暮らしていたのだ。
 そもそも、精霊使いの技と神聖魔術は根が同じだ。現象を司る神に祈って加護を受けるか、物質に宿る精霊に頼んで効果を得るか、ただそれだけの違いなのだ。解るかね?」
 二人は躊躇いがちに頷いた。
「それって、例えば、風を起こすのに、風の神様が存在するとして……」
「風の神に祈るか、大気の精霊に頼むか、……って感じなのか?」
「そのとおり。流石飲み込みが早いな。ロイは良い教師だったようだな」
 破顔するザラシュをよそに、二人は複雑そうな表情で顔を見合わせた。
 再会して以来二人は、この半年間の空白について、特に自分達の師匠について、話題にすることを努めて避けていたのだ。
 だが、所詮、それは無理のあることだった。二人の人生の半分以上は、ロイとともにあった。学校に通い、家の仕事を為し、魔術を習得する、その全てはロイのもとで、彼の指導を受けてのことだった。そう、二人はロイによって育て上げられた。ロイに言及せずには、彼ら二人の生い立ちは語れないのだ。
 普段でも、夜の睦言でも、油断をするまでもなく二人の会話はたちまち禁忌に突き当たった。不自然に途切れた話題を誤魔化せば誤魔化すほど、その言葉の裏にあるものをお互いに読み取ろうとしている二人がいた。隠すほどに、意識される存在。それはまるで遅効性の毒のように、じわじわと二人の胸を痛ませつつあった。夜ごと二人は、夢中でお互いを貪りあったが、それは既に愛を交わすための行為ではなく、不安を紛らわせるための行為でしかなかった……。
 ――だからといって、全てを曝け出すなんてことは、絶対にできない。
 シキは強く唇を噛んだ。レイが死んだと思い込んでいたとはいえ、一度は師とともに生きることを誓ったことを、彼に知られるわけにはいかない。
 
 だから、埋めてしまうしかないのだ。師の存在とともに、自分の犯した過ちを全て。
 たとえどんなに齟齬が生じようとも。
 
 悲壮な面持ちのシキに気づくことなく、ザラシュの講義は続く。
「そういう意味では、古代ルドス魔術は実に特殊なのだ。さきの例で言えば、精霊や神の意向を無視して、直接的に空気を動かそうというのが、古代ルドス魔術に他ならない。
 古代ルドス王国最後の王が記したとされる魔術書は、そのような、神を介しない『裏』の技だった。それをどのようにして王が知ったのかは、大きな謎だ。なんにせよ、その結果神々への信仰は薄れ、必要不可欠であったアシアスの治癒魔術以外の神聖魔術は姿を消した」
「すると、この間、雪を降らせたのは……」
 レイが身を乗り出す。
「そうだ。私が東風こちを祈ったのだ。風を昇らせ、雲を寄せ、雪を降らせたのだ」
「どうやって?」
「レイ、君は、フォール神聖魔術の書物を読んだことがあったと言ったな? そして、シキ。君は癒やし手の技……アシアス神聖魔術も幾つか習得しているそうじゃないか。それらと、古代ルドス魔術の呪文との根本的な違いを見つけるのだ。ならば、答えは解らずとも、それへの道筋は見つけることができよう」
「……って、教えてくれないんですか?」
 露骨に残念そうな表情で、レイが肩を落とす。
「まずは、道を見つけることだ。全ては、それからだ」
 頭を抱える孫弟子二人を残して、ザラシュはきびすを返した。山小屋へと、ウルスの傍を通り過ぎる。
「楽しそうだな、ご老体」
「ああ。こればかりは、幾つになっても血が騒ぐな……」
「そういうものなのか」
 ウルスは不思議そうにシキ達を振り返った。
「剣を書物に、腕力を知能に置き換えての、打ち合いだ。楽しくないわけがなかろう」
「なるほど」
 不適な笑みを浮かべて、ウルスが腕組みをした。「ならば、あの大魔術師を育て上げた腕前、しかと見届けさせていただくとするか」
 挑戦的なウルスの声を聞き、ザラシュはどこか嬉しそうに小さく微笑んだ。
 
 
「根本的な違い……か……」
 これまで慣れ親しんだ魔術。初めて出会う、その新たな視点に、レイは激しく興奮していた。深く腕を組み、思考をめぐらせる。
 そんな彼の傍らで、シキは昏い瞳でじっと地面を見つめて佇んでいた。
 
 
 

    三  葛藤
 
 シンガツェの祠の森には、「主の大木」と呼ばれる大きな楢の切り株がある。
 シキとレイは、その切り株に並んで腰かけて、ザラシュに与えられた「宿題」の答えに頭をひねっていた。
「あーーーーーーーーっ! わっかんねぇ!」
 大きく仰け反って頭をがしがしと掻き毟り、レイは雄叫びを上げた。
「フォール神の呪文書ってったって、そんなのパラパラと流し読みしただけだぜ……。まともに読み込んだ術は一つだけだし……」
 その横でずっと黙りこくっていたシキが、レイのその呟きに初めて反応らしい反応を返してきた。
「その術って……もしかして……」
「んぁ? ……ぁあ。その……、東の森で、あのあとにお前にかけたヤツだ」
 あの時の自分の軽率な判断が恥ずかしくて、レイは少し言いよどんだ。そもそも、術そのもの是非を論ずる以前に、意識のない人間に対して当人に無断で術をかけたということが、何よりも問題なのだから。しかもあの時、レイは、術についての面倒な説明をせずに済むことを喜んですらいたのだ……。
 結局、自分もロイと同根なのだ。シキに拒絶されるのが怖くて、小手先の業を弄した挙げ句に、大切なものを見失ってしまった。今、こうやって彼女と再び巡り会うことができたのは、必然というよりも幸運の賜物だろう。
 それに、レイは気がついていた。ロイの名前を耳にするたびに、シキの瞳が微かに揺れることに。
 あの時、あんな術に頼らずにシキと二人で家を出ておれば。ならば、二人の間に禁忌など生じなかったであろうに。
「……レイは、どうやってその呪文書を手に入れたわけ?」
 前を向いたまま、シキが静かに問いかけてくる。話すべきか……話さないべきか。レイは逡巡した。
 ――シキをこれ以上苦しめたくない。
 再会して以来、彼女はロイの話題を頑なに避けている。何があったのかレイに知られたくない、ということなのだろう。思い出したくない、ということなのかもしれない。だから、レイも極力ロイのことを話題にしないようにしていた。
 それに、無意識のうちにレイは怖れていたのだ。
 ロイの名前を聞けば、シキの心に未練が生じるのではないか、と。ロイと袂を別ったことを、彼女が後悔しないだろうか、と。
 だが、黙することによって、その怖れは更に増幅する。胸の奥の重苦しい錘は、レイ自身も気がつかないまま、彼を更に深みへと引きずり込んでいく。
 それでも。
 水面から差し込んだ僅かな光の筋を頼りに、レイの心は浮上を試みた。
 根拠など何もない、それは、半ば直感だった。ぐるぐると思考が渦を巻く中、彼の唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「ロイが熱を出した日、あったろ」
 師匠の名前を久方ぶりに口にした瞬間、えも言われぬ感情のうねりがレイを揺さぶった。
「うん」
「あの時頼まれた使の中身が、その呪文書だったんだよ」
 シキがゆっくりと、右を、レイのほうを向いた。
 もう、後戻りはできない。一瞬だけ目を固くつむって、レイは覚悟を決めた。
「崖崩れに遭う前に、俺は寄り道して呪文書をあの洞窟に隠したんだ。ロイがお前にあの術を使わないように」
「やっぱり、そうだったんだ……」
 シキが目を伏せる。
 やっぱり、と言うからには、シキもうすうす想像していたのだろう。ルドスの安宿で「私がいなければ」と声を上げた彼女を思い出し、レイの胸はちくちくと痛んだ。
 もしかしたら、自分は今、彼女の傷に塩を塗り込んでいるのではないだろうか。レイは悔恨の念に苛まれて奥歯を噛み締めた。やはり、禁忌は禁忌としてそっとしておかなければならなかったのだろうか、と。
 一呼吸の間を置いて、シキが静かに口を開いた。
「どんな術?」
「え?」
「教えて、レイ。私にかけた術はどんなものだったの?」
 再び顔を上げたシキの、その瞳には、いつもの光が戻っていた。真っ直ぐにレイを見つめるその視線に込められているのは、ただひたすらに真実を求めようとする強い意志。
 レイは、シキのそんな眼差しが大好きだった。
 生き生きと、水を得た魚のようにシキは知識の海を泳ぐ。どうしても彼女と同じものを見ていたくて、レイは必死で魔術の勉強に取り組んだ。その視線の先に立つ稀代の大魔術師に、羨望と嫉妬の情を抱きながら……。
 
 ――ああ、そうか。そういうことだったんだ。
 何故、こんなにも今の自分達が不安定なのか、唐突にレイは理解した。
 そう、忌避すべきなのは、否定すべきなのは…………
 
「どんな術って……、そうだな、『お前は俺のもの、一応俺もお前のもの』って感じ?」
 レイは、殊更に軽い調子でそう答えた。
 ふざけているとしか思えないその口調に、シキの眉間に皺が寄る。
「…………は?」
 そんな彼女の様子をあえて無視して、レイは話し続けた。
「フォール神ってのが豊穣の神だってのは、知ってるんだよな?」
「あ、うん。……あの、お母さんにそっくりな」
「そ。で、フォール神の術は、両思いの男女一組で唱える必要があるんだ。
 豊穣の祈りなんて大事な仕事をするって時に、浮気したりとか浮気されたりとか、相手が略奪されたりなんてことになったら大変だろ。そんな面倒な事態を防ぐための術ということだ」
 大胆に総括するレイの言に、シキがより一層眉を寄せる。
「相手を服従させる術だって……その……、聞いたけど?」
「確かに『支配下に置く』みたいな記述はあったけどさ、『お互いに』なんて書いてあったし、服従と言うのとは少し違うのかもしれない、と思う。大体、俺、確かめてないし」
 そこまで言ってから、レイはわざとらしく眉をひそめた。
「そうか、しまったな……。どういうふうにシキを『支配』できるのか、試してみるんだった」
「なっ、何よ、それ」
「決まってるだろ? 普通に頼んでもシキがしてくれなさそうな、あーんなこととか、こーんなこととか頼むんじゃん」
「馬鹿っ!」
 顔を真っ赤にさせて、シキがそっぽを向いた。レイはにやにやと笑いながら、そんな彼女の顔を覗き込む。
「何、想像してんだよ? やらしい奴だな」
「何も! それより、術の説明!」
「はいはい。……えーっと、どこまで話したっけ? ……ああ、そうそう。とにかく、二人の間に邪魔が入らないように、被術者の『性』が他の人間に対して封印される。要するに、他人から色恋沙汰の対象として見られることがなくなるんだ。
 ただし、術をかけた奴にも当然代償はあって、その術をかけた相手以外と肉体関係が持てなくなる。なんでも、相当な苦痛が与えられるらしい。……そっちも、試したことはなかったけどさ」
 明後日の方向を向いて頬をふくらませていたシキが、ゆっくりと、吃驚した表情で振り返った。
 
 
 シキの口の中に、生唾が溢れてくる。からからに乾いた喉を必死で動かして、彼女は唾を呑み込んだ。
 ただ強権的に隷属させられる、服従させられる。……それでも、別に構わなかった。それだけレイが自分のことを求めてくれているのだと、そう考えるのは、決して不快なことではなかったからだ。
「どうした?」
 レイが不思議そうに問いかけてくる。
 シキの鼓動は、今や早鐘のようだった。言葉を発しようにも、まるで麻痺したかのように上手く舌が動かない。
 でも、これだけは、この気持ちだけは、今、彼に伝えておきたい。シキは喘ぐように息を継ぐと、下を向いて訥々と語りだした。
「……その……、もっと一方的な術だとばかり思っていたから……レイがそんな制約を受け入れてくれていたってことが、…………嬉しい」
 シキの台詞が終わるのを待たずに、レイの腕がシキの肩にまわされた。その腕に力が込められるのを感じて、シキはうっとりと目を閉じた。
 レイの抱擁に答えるべく、シキも腕を彼の背中へと伸ばす。逞しい身体をそっと抱きしめようとして……、シキは我に返った。
 ――なんて、浅ましい女……!
 レイが禁欲的な日々を送っていた間、一体自分は何をしていたのか。
 レイの術に守られているとも知らず、ただひたすら悲嘆にくれ、運命を、レイのことをすら呪っていた。そして、術が解け周囲の状況が動き始めれば、今度は流されるがままにロイの求愛に首を縦に振ったのだ。いくらレイが死んだと思い込んでいたにしても、それはあまりにも恥ずべき行為ではないだろうか。ロイはレイを殺した……殺そうとした相手なのに。
 なんという、浅ましい女だろうか。
 そればかりか、レイが生きていたと分かるや否や、それまで傍に寄り添っていたはずの師を、手のひらを返すように捨てたのだ。
 ――私は、レイの好意を受け取れるような人間ではない!
 その瞬間、シキの頭の中は真っ白になった。
 恐慌をきたした彼女を、内なる声が揺り動かす。逃げろ、逃げてしまえ、ここから逃げるんだ、と。
 シキは必死でレイの腕を引き剥がした。驚きの表情を浮かべるレイの手を振り払うようにして立ち上がり、枯れ葉を蹴散らしながら、木立の中へと駆け込んでいく。
「待てよ!」
 レイの上ずった叫び声が追い縋る。がさがさと枯れ葉を踏む音が一気にシキの背後へと迫って来た。
 左手首を掴まれ、力ずくで振り返らされたシキは、傍らの木の幹に背を向けた姿勢でレイに押さえ込まれる。
「…………待てって言ってるだろ」
 荒い息、呆れたような声。そしてシキはレイにしっかりと抱きしめられた。
 
「あのさ」
 シキの首筋に顔を埋めながら、レイが静かに囁いた。
「あんまり自分を責めんなよ」
 ――見透かされていた!
 絶望に似た衝撃がシキの全身を打つ。だが、強張るシキの身体を、レイはより強く抱きしめた。
「早とちりすんなよ、シキ。お前はいつも肝心なところで変に暴走するからな」
 そうしてそのまま、一音一音確かめるように言葉を紡ぎ出す。
「いいか。お前は何も悪くない」
「でも、レイが私のこと探して、待っててくれてたのに、私……、私は……」
「何も言うな」
「でも……!」
 悲鳴にも似た叫びを、レイは身体で受け止めてくれた。
「死んだフリしてた奴のことなんか気にすんじゃねえ」
 レイの落ち着いた声が、シキの耳元を震わせる。
 硬直していたシキの手足から、ほんの僅か力が抜けた。
「俺が生きていると知ってたら、話は全然変わってくるだろ?」
 そう問われて、シキは頷いた。最初はぎこちなく、だが、次に大きく力強く。
「じゃあ、それでいいんだよ。俺は生き返った。全てはそれで元通り、めでたしめでたし、ってことさ」
 シキの背中を優しくぽんぽんと叩いてから、レイがそっと身体を離した。
「分かったか? もう二度と自分を責めんな。今度似たようなことしてみやがれ、お仕置きしてやるからな」
 わざとらしくふざけてみせるレイに、シキは精一杯の笑顔を浮かべた……浮かべようとした。
「あー、まぁ、あの略奪劇は……、ちょっと先生には気の毒なことしたかな、って思うけど、でも、そもそも最初にあっちが他人の女をかっさらってったんだしな。一勝一敗で恨みっこなし、ってやつか」
「一勝一敗……」
「そ。痛み分け。てか、あの大魔術師と引き分けなんだから、俺ってちょっと凄くないか?」
 そう言ってレイは照れたような笑いを見せた。つられたようにシキも微笑んで、それからおずおずと口を開く。
「レイは先生のことを恨んでないの?」
「恨んでないわけでもないけれど、恨んでるわけでもないと言うか」
 レイはしばし考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと話し始めた。
「十年間、先生は俺達に勉強を、魔術を、その他沢山のことを教えてくれた。住む場所も、食事も、生活に必要な物も、全てを充分過ぎるほど与えてくれた。俺達の育ての親だ。そうだろ?」
 ふ、と、レイの眼差しが、遠くなる。
「そう見えなかったかもしれないけどさ、俺だって先生のことを尊敬してた。ガキっぽく反発したりしてたけどさ。良い先生だった。自慢の先生だった。それが、まさかこんなことになるなんて、な。お前と再会できるまで、どうやってあいつに仕返しするかってことばっかり考えてたんだぜ、俺」
 そこでレイは、シキの両手をしっかりと握った。それから真っ直ぐシキを見つめた。
「でもさ、それまでのロイとの時間を否定することはないんだ。……いや、否定しちゃいけないんだ」
「レイ…………」
「あいつと何があったかなんて、忘れちまえ。いや、忘れさせてやる。だから、無闇やたらに全てを否定するな。俺達の先生は、間違いなく、ロイ・タヴァーネスだったんだからな」
 力強いレイの声に誘発されるようにして、シキの胸に熱い塊が込み上げてきた。
 
 時に優しく、時に厳しかった先生。
 魔術のこととなると寝食を忘れて没頭し、些細な発見でも目を輝かせて私達に語り聞かせてくれた先生。
 子供は苦手だ、と言いつつ、正面きって生徒と対峙していた不器用な先生。
 孤児だった私達を引き取って、十年もの間、導き、育ててくれた先生。
 
 シキの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「レイ、私……先生のことが好きだった。先生の弟子にしてもらえて、とても嬉しかった。いつか先生のようになりたいと思っていた……!」
「……ああ。俺もだ」
「私……先生のこと、忘れない。でも……」
 そこまで言って、シキはレイの胸に飛び込んだ。
「……今は……今だけは…………忘れさせて……」
 返事の代わりに、レイは静かにシキに口づけた。
 
 自分と世界の境界が、曖昧になる。
 再会以来のどこか危機感に煽られるような刹那的な情動ではなく、もっと深いところで求めている、求められている、そんな気がした。
 レイの首にまわした腕に力を込めれば、シキの頭を掴む手にも力が入る。息を継ぐ間も惜しんで、だが荒い息で、二人は唇を重ね続けた。
 
 
 ごめんなさい、先生。
 逃げ出したこと、きっと怒っているでしょうね。
 でも、先生も私に嘘をついていたのだから、おあいこ、と言ってもいいですか?
 
 いつまでも一緒にいたかったのは、本当です。
 好きだったのも、本当です。
 でも……、さようなら。
 
 シキは陶然とした面持ちで、全てをレイに委ねた。

 
 
 
 眼下に広がるシンガツェの町が夕闇に沈んでいく。
 上気した顔で帰り着いた二人を迎えたのは、無人の山小屋だった。
「あれ? あいつらどこ行ったんだ?」
「夕ご飯食べに行ったんじゃない?」
 シキがそう言った途端に、レイのお腹が大きな音で空腹を主張した。その絶妙な符合に、シキは思いっきりふき出してしまった。
 むすっと唇を尖らせるレイの横、次いでシキの腹の虫も活動を開始する。一瞬の沈黙のあと、二人は顔を見合わせて笑い始めた。
「俺達も何か食べに行こうぜ」
「賛成」
 
 山小屋と祠のある高台から町に向かって、石造りの階段が設えられている。二人はその階段を辿って、町の中心を貫く坂道に降り立った。
「さーてと、確か広場の辺りに何か店屋が並んでいたよな……」
 辺りをきょろきょろと見まわしながら、レイが先導する形で歩き出す。
 丁度時間も夕げ時。さほど道幅のない往来は、買い物客や家路を急ぐ人々でごった返していた。お互いがはぐれないように、レイはシキの手をしっかりと握って人波をぬうように進んでいく。
 うっすらと頬を染めて、シキは彼の背中を追い続けた。
 兄帝の失政、邪教狩り、黒髪の巫子、反乱団……、全てを忘れて、こうやってレイと静かに暮らしたい。ほんの半年前には当たり前だったことの、なんと遠い記憶だろう……。
 
 突如、前方の広場で騒ぎが持ち上がった。
 喧嘩か何か、数人の怒号と剣を切り結ぶ音が、人の波を越えて響いてくる。
 と、やがて、大きな歓声が上がった。どうやら何かの決着がついたらしい。
 大勢が取り囲む人の輪の中心部、頭一つ飛び出したサンの姿を認めて、二人は必死で人垣をかき分けた。
「サン! 何があった!?
「見てのとおりさ」
 レイを振り返ることなく、サンが言う。彼の眼差しは、自らが構えた長剣の先に注がれていた。そこには、屈強な二人の男に取り押さえられた、暗灰色の外套の男。
「さて、貴様の目的を吐いてもらおうか」
 ウルスの横に立つ小柄な青年が、殺気を放ちながらそう言って一歩進み出た。眼下の男をねめつけて軽く顎を上げた拍子に、固く結い上げられた栗色の髪が揺れる。
 その視線の先、ルーと名乗っていた男が、唇の端に血を滲ませながら、きっ、と顔を上げた。
 
 
 

    四  逢着
 
 広場を埋め尽くす人々が、息を呑んで事態の成り行きを見守っている。
 町長の息子であり青年団長でもあるアキは、逞しい鷲鼻の根元に深い皺を刻みながら、招かれざる客に向かって再度繰り返した。
「何が目的だ? 何をこそこそと嗅ぎ回っている?」
 両手を背中にねじり上げられた体勢で、ルーはサンを見上げていた。アキの質問には答えずに、彼は苦渋の声を絞り出す。
「…………まさか、貴方も彼らの一味だったとは……」
 サンはその呟きに無言で応える。冷たい瞳でルーを見下ろしながら、微かに手首を返した。
 剣の切っ先が、ルーの目前で煌めく。
 それに怖じることなく、ルーは頬を紅潮させて、吼えた。
「貴方ほどの剣の腕前なら、仕官の道も拓けように、何故に山賊などにくみするのか!」
「山賊?」
 怪訝そうにサンの眉がひそめられる。しかし、その声はアキの怒声にすぐにかき消されてしまった。
「連れて行け! 誰の差し金か聞き出すのだ!」
 ルーを押さえつけていた若者二人が、問答無用に彼を立ち上がらせた。人垣が躊躇いがちに崩れて、ひらけた通りへと彼は引きずられていく。
「俺も手伝おうか?」
 三人のあとを追うアキに、ウルスが声を投げた。
「いや、良い。これは俺達の問題だ。それに……」冷ややかな目が鉄錆色の髪をねめつける。「俺は平和主義者なんだ。お前の趣味には付き合いきれないからな」
 
 アキが人垣の向こうに姿を消すのを待って、集まっていた人々は散り散りにその場から立ち去り始めた。立ち去るアキを目を細めて見送っていたウルスも、軽く鼻を鳴らしてきびすを返す。
「どんな趣味なんだ?」
 その背中に向かってレイが眉根を寄せた。わざわざそこを聞き咎めなくても、とシキが苦笑する。
「……山賊って、何だよ」
 剣を鞘に収めながら、サンは不愉快そうにそう呟いた。
 
 
 
「あの人、悪い人じゃないと思うんだけどな」
 暖炉の前の長椅子に座り、手持ち無沙汰に火かき棒で薪をつつきながら、シキがぼそりと呟いた。
 シキとレイも夕食を無事に済ませ、一行は宛がわれた山小屋に納まっていた。
 山颪が風切り音も高らかに小屋を揺らす。シキはなんとなく肌寒さを感じて、上着の襟をかきあわせた。その様子を見ていたレイが、思わず窓を振り返る。
「凄い風だな」
「神颪、と言うのだそうだ」
 火から離れた窓際の椅子に座っているウルスが言う。彼は右膝を立てた姿勢のまま、夜空を仰いだ。「夕刻から明け方にかけて、山の神とやらが明日を運んでくるらしい」
 シキは、昔、寝る前に母が良く言っていた言葉を思い出していた。素朴な旋律を口ずさみ、布団越しにシキの肩をぽんぽんと叩きながら……。
「山の神様、風の神様、明日も良い日でありますように……」
 耳元でレイが、その台詞を呟いた。シキは、吃驚して彼のほうを振り向いた。
「って、おばさんが良く言ってたんだぜ。憶えてるか?」
 レイの両親は仕事で家を空けがちだったため、彼が隣家であるシキの家で夜を過ごすことは珍しくなかった。ともに夕げを囲み、狭い寝台に一緒に潜り込み、時には夜更かししてシキの母親に怒られていた記憶……。
「うん、憶えてる。あの時のことを思い出した時に、昔のことも、全部」
「そっか。良かったな」
 ぱち、と暖炉の火が爆ぜた。
 
 
「シキ」
 穏やかな静寂を、サンの声が破る。暖炉の傍の壁にもたれて立つサンが、いつになく静かな瞳でシキのほうに向き直った。
「なんで、あいつが悪人じゃないって思うのさ?」
「え? ああ、ルーのこと?」
「そ」
 少しだけ躊躇いながら、シキは話し始めた。考え事をする時のように、軽く握った右手を顎の辺りに当てて。
「うーん、改めて訊かれると、困ってしまうんだけど……、あの時、ルーが木の陰に隠れていた時に、」
「え?」
 びっくりまなこでサンが身を乗り出してきた。「木の陰? 隠れて?」
「追剥ぎか何かが待ち伏せでもしているのか、って一瞬怖かったんだけど」
「隠れてた? あいつが?」
 驚愕の表情でサンが硬直する。シキはきょとんとした顔でサンを見返した。
「おい、レイ、お前気がついてたか?」
「いんや」
 レイがあっさりと首を振った。顔がにやにやと笑っているのは、サンの驚きの原因に思い当たったからだろう。
「サン、シキを侮んなよ。こいつ、腕力と体力ないから剣はふるえないけどさ、軽い棍を持たせたら俺よか強ぇぜ」
「ええええっ?」
「自慢じゃないが、まともに試合して勝ったことは一度もねえ」
「……って、おい、自分で言って自分で落ち込むなよな」
 大袈裟にがっくりと肩を落として溜め息をつくレイに、すかさず突っ込みを入れ、そうしてサンは仕切りなおしとばかりに軽く咳払いをした。
「……そうか。どこから現れたのかと不思議に思ってたんだ。道の脇に隠れてやがったのか」
「うん。その時に……なんて言ったらいいのかなあ、木が……嫌がってなかったんだ」
「………………は、あ?」
 サンが眉間に皺を寄せたまま、口をあんぐりと開けた。それ説明になってねえって、と、レイが苦笑する。
「なあ、シキ、お前肝心なことを忘れてるぞ。あのルーとかいう奴がもしも良い奴なら、そのほうが、俺達は困るんだぜ?」
「へ? レイ、それどういう意味……? って、っあっ!」
 やっと「肝心なこと」に気がついたシキが、素っ頓狂な声を上げた。
「そ。俺達はお尋ね者。それを狙ってくるのなら、そいつは『良い奴』ってことだろ?」
「悪人が悪人を狙う、ということも充分ありうるが、な」
 低い声とともに、急に風が吹き込んでくる。
 山小屋の扉が開いて、アキが入ってきた。
 
 
「どうだ、何か判ったか?」
「いいや。黙して語らず、だ」
 上背のあるウルスの横に立つと、アキは随分と小柄に見える。だが、がっちりと鍛え上げられたその体躯と、日に焼けた厳しい顔つきが、充分過ぎるほどの威厳を彼に与えていた。
「やり方が手ぬるいんじゃないのか?」
 揶揄するような口調のウルスには答えずに、アキはシキ達のほうに向き直った。
「あいつとどんな話をしたのか、もう一度教えてくれないか」
「そんなことを訊いてどうするんだ?」
 しつこく食い下がるウルスを一瞥して、不承不承アキが答えた。
「どうにも、違和感があるのだ。州都なり帝都からの密偵というには、やや雰囲気が違う」
「雰囲気?」
 あからさまに嘲るような調子で、ウルスが問い返す。アキは苛立たしげに鼻を鳴らしてから、もう一度シキのほうを振り返った。
「だから、あまり強引な手段は使いたくない。何か情報があれば良いのだが……」
 アキがそこまで語ったところで、表から誰かが枯れ葉を蹴散らしながら近づいてくる音が聞こえてきた。
 怪訝そうに背後を見やったアキの目の前で、ばたん、と勢い良く扉が開き、町の若者が一人、息せき切って駆け込んできた。
「どうした」
「ア、アキさん、お、奥様が、お帰りに……」
 その刹那、アキの背中が強張った。数音上ずった声が、躊躇いがちに一言を返答する。
「そうか」
「そ、それで、大層、ご立腹で……」
「な、何……」
 今度こそ、アキの全身が完全に固まった。彼がかすれた声を上げるのとほぼ同時に、再び小屋の外で枯れ葉を踏みしめる音が聞こえてきた。そして、「待ってください」「奥様」という複数の声。
「アキ、ここにいるの?」
 そして、扉が開いた。
 
 扉の枠で四角く切り取られた暗闇を背景に、すらりとした女が一人立っていた。ぴっちりと結い上げられた栗色の髪と、すっと切れ上がった目が、並々ならぬ威圧感を放っている。
「山小屋の鍵を二つとも持ち出してどういうつもり?」
「す、すみません。母上が出発してから、友人の滞在の予定が入ったものですから」
 広かったアキの背中が、一瞬にして縮込まってしまっている。先ほど先触れに走り込んできた若者も、この婦人を追いかけてきた者達も、全員が小さく萎縮して黙りこくっていた。この光景には、さしものウルスも度肝を抜かれたようで、無言でそっとシキ達のほうへとあとずさってくる。
 一瞬にして、その場の主導権はこのアキの御母堂に掌握されてしまっていた。
「お父様の許可は?」
「とってあります」
 婦人は、厳しい視線を部屋中に巡らせた。ザラシュ、ウルス、サン、レイ、シキ、と順に視線を合わせていき、最後に大きく嘆息する。
「…………友人、ね。まあいいわ。それよりも、どちらか一つ空けられないかしら。うちで、女の子を一人面倒をみることになったから」
 突然のこの知らせには、アキも即座に反応した。
「女の子? 面倒? どういうことですか!」
「放っておけなかったのよ。だって……」
 その時、漆黒の闇の向こうから数人の叫び声が微かに響いてきた。反射的に、アキとウルス、サンの三人が、外へと飛び出していく。少し遅れて、残る一同も押っ取り刀でそのあとに続いた。
 
 
 明るい室内に慣れていた目には、夜の森は虚無でしかなかった。背後の山小屋の明かりがなければ、ほんの僅かな視界すら確保できなかったであろう。そんな完全なる暗闇の奥から、数人の怒号が微かに漏れてくる。
 一呼吸のちに、人影が一つ、暗がりから彼らの前に飛び出して来た。
「アキさん! 奴が逃げた!」
「随分活発なお友達のようね」
 母の強烈な皮肉にアキは苦い一瞥で返し、知らせをもたらした仲間に駆け寄った。
「どちらへ逃げた? 山は?」
「フィンがいたから、山へは入れなかったと思います。俺が見た時は、町のほうへ……」
 そこまで聞いて、アキは静かに身を起こした。戸口から漏れる灯りに、微かに上がる口角が見てとれる。
「ウルス、手伝ってくれ」
「何をすればいい?」
「町へ、降りましょうか?」
 今にも駆け出さんばかりに、サンが問いかける。アキは軽く首を振った。
「その必要はない。あの崖を暗闇の中降りる馬鹿はいないだろう。そして、道にはカポが詰めているはずだ」
 アキの鋭い瞳が、闇に沈む木立に注がれる。
「ならば、道は一つ。山へ逃れるために、奴はここに現れる!」
 その刹那、魔術の灯りが辺りに閃いた。
 
 
 ――誰かが、そこに…………潜んでいる。
 何者かの気配を感じ取ったシキは、咄嗟に呪文を詠唱していた。
 普段よりも多くの魔力を継ぎ込んで紡ぎ出した「灯明」が、数丈先の木立の中に投げられる。急に溢れた眩い光に、その場にいた誰もが一瞬視界を奪われた。
 それは、逃亡者も同じだった。
 魔術の光のすぐ真下、右腕で目を覆って動きを止めた人影。
 満身創痍のルーがそこに立ち尽くしていた。
 
 
 皆が我に返るよりも早く、サンは走り出していた。倒木をひらりと飛び越え、大股で一気に距離を詰める。半拍遅れて態勢を立て直したルーの退路を断ち、剣を彼の喉元に突きつけた。
 絶望の色がルーの瞳に入る。
「見事だな」
「羨ましいか」
 ウルスが得意そうにアキに向かって口角を上げる。その場に居合わせた誰もが、サンの見事な身のこなしに感嘆の声を上げていた。
「さて、と……」
 アキが木立の中へ悠然と歩みを進める。「随分手間取らせて……」
「あのー」
 限りなく場にそぐわない声が夜の空気を震わせた。まるで、昼間の往来で誰かに道を尋ねるかのような、暢気な若い女の声だ。
 アキが後ろを振り返った。苛立たしさを露骨に声に滲ませて、大声で誰何すいかする。
「誰だ!」
「ああ、うっかりしてたわ。御免なさいね、放ったらかしにしてしまって」
 これまた血生臭さとはほど遠い涼しげな声で、アキの母が答えた。
 山小屋の裏から、小柄な人影がおずおずと進み出てきた。そして、「灯明」の灯りの中に足を踏み入れる。
「え?」
「おい?」
 シキが、レイが驚きの表情を作った。そのまま二人は絶句する。
「さっき言ったでしょう? この子がね、当分うちでお世話することになった……」
 
 サンの手から、剣が滑り落ちた。耳障りな金属音が、瞬く間に風の音にかき消される。
 一年ぶりに見る顔。
 もう会えないと、もう会わないと心に決めていた、今は遠い故郷に居るはずの……。
 ――何故。
 まさか。
 どうして……?
 サンが喘ぐように息を吸った。何度も夢にまで見た、その名を呼ぶために……。
 
「リーナさん! 無事だったんですね!」
 サンの声が音を成すよりも早く、暗灰色の外套がひるがえった。
 先刻までの打ちひしがれた姿は微塵もなく、ルーは感極まった様子で駆け寄ると、そのまま彼女を強く抱きしめる。
「良かった……本当に良かった…………」
 呆然と立ち尽くす一同を尻目に、彼女は二三度目をしばたたかせると、困ったように口を開いた。
「あのー、リーナって私のこと?」
 彼女の背後で、ふぅ、と婦人が溜め息をついた。
「彼女ね、記憶がないのよ」
 ルーが愕然としながら彼女の身体を離す。シキもレイも、そしてサンも、真っ青な顔で一様に息を呑んだ。
「ロキザンの川原でね、ずぶ濡れになって倒れていたのよ。だから、アキ、あっちの山小屋を明け渡して頂戴」

第十三話  置き去られた想い

    一  遭遇
 
「何するんですかっ!」
 大の男の怒号すら簡単にかき消されてしまうような喧騒の中、その女の声は広い店内隅々にまでしっかりと響き渡った。
 一瞬、その場は静まり返るが、再び騒音がどこからともなく押し寄せてくる。だが、そのざわめきはどこか不自然で、微かに気まずい気配がした。
「放してって言ってるでしょっ!」
 更に加熱した女の声。相手の男の声は聞こえないが、その下品な顔に貼りついた笑みから、言葉の内容は容易に想像できるというものだ。サンは、周りに聞こえないように密かに溜め息をついた。
 帝都の宮城から目抜き通りを二角くだった所にある大衆食堂。「龍の巣」というその食堂では、夕刻からは酒類も供される。そこそこ美味くて量の多い料理と、下品過ぎない調度と、そしてその地の利から、近衛兵達が好んで集う店だ。
 陶器のカップを口元に運んで、サンは麦酒を喉に流し込んだ。先刻まで充二分に舌を楽しませてくれていたその液体は、今は単なる苦さしか感じさせてくれない。新顔の給仕に絡んでいるのは、同僚のディイだ。一等いけ好かない、貴族の次男坊。
 宮城の警備を担う近衛兵は、その四分の三がいわゆる上流階級の子息で、残りがサンのような平民だ。各地の剣術試合の優勝者から選ばれて連れて来られた、何の後ろ盾もない者達。本来ならば自分達と普通に口をきくことも叶わないはずの者どもと、同等に扱われてしまうということに、「お坊ちゃま」方は酷くご不満のようだった。
 中でもディイはその筆頭で、事あるごとに彼はサン達に当たり散らしていた。もっとも、暴力に訴えても返り討ちに遭うだけだということは、その足りない頭でも理解できているらしく、彼の攻撃は専ら口のみであったが。
『お前達のような下賎な者と違って、俺達は何度も皇帝陛下に直接お言葉をいただいているんだぜ』
 常に奴は、こちらが先に手を上げるのを待っているのだ。いくら「同僚」だといっても、そんなことをしたら、間違いなく軍配はディイに上がるだろう。
 サンは、もう一度酒をあおった。
 ――そう、これは正当な自己防衛だ。たてついたら酷い目に合うのが解っていて、手を出すほど俺は愚かじゃない。ただでさえ半年前の御前試合以来、風あたりが強くなっているのだから。
「やめてって言ってるでしょ! その耳は飾りなわけ!?
 喧騒を突き抜けて、再び給仕の声が響いた。
 ――線が細い割に、随分威勢の良い娘だ。
 あの野郎のことだから、開口一番、肩書きや身分から自慢したはず。それでもこんな見事な啖呵を切ることができるのだから、相当に肝っ玉が据わっているのだろう。
 サンの脳裏で、茶色の三つ編みが揺れる。
 悪友の彼女――奴は「ただの幼馴染みだ」と言い張ってはいたが――の、親友。口うるさくて、お節介で、そして、いつも何にでも真っ直ぐなリーナ。豪快に笑い、強面の学友とも対等に渡り合っていた彼女が、本当はとても寂しがりやだということをサンは知っている。
 リーナがここにいたら、もっと大騒ぎになっているだろうな。サンは少し複雑な笑みを浮かべた。悩むよりもまず行動、とうそぶく彼女のことだ。真っ先に現場に駆け寄って、ディイに喝を入れているに違いない。
 半年前、ありったけの休暇を使って峰東州都のルドスで会った時も、彼女はいつものように大きな丸い目をキラキラと輝かせて、久しぶりの逢瀬を楽しんでくれていた。一年にたった一度の逢瀬だが、そのことで彼女がサンを責めることはない。「できないことを嘆くより、できることを喜ぼう」というのが、彼女の持論だったからだ。
 何年経っても、リーナは全然変わらない。強がることはあっても自らを偽ることはなく、だから、サンは彼女の笑顔を見ると本当に心から安心できるのだ。
 楽しかったルドスでの逢瀬を思い出し、サンの口から溜め息が漏れた。
 ほんの半年前。なのに、もう何年も経ってしまったような気がする。
 あれから増えてしまった、リーナに対しての秘密。
 仕事上の悩みは、心配させるのが嫌ではなっから彼女には言っていない。それよりも問題なのは、人間関係の重圧に耐えかねて、月に二度三度と花街に足を運ぶようになってしまったということだ。別段、性欲が抑えられないというわけではない。ただ、無性に人肌に縋りたくなるのだ。あまりにも脆弱な自分に、もう、反吐すら出ない。
 そして、今。力無い女性の受難を、保身のためにこうやって見て見ぬふりをしている自分。とても彼女には言えない、知られたくない。
「きゃあっ」
 ディイが女給仕を掴まえて、自分の膝に座らせようとしているのが見えた。
 同じテーブルについているのは彼の仲間達だ。当然全員がにやにや笑いながら、ディイの手助けをしている。
 店はほぼ満員で、十あるテーブルにもカウンターにもほとんど空きはない。なのに、その不幸な娘を助けられる人間は一人もいない……。
 サンは拳を握り締めた。
 ――あいつに先に手を出させるように、仕向けることはできるはずだ。そうすれば、最悪の事態は避けられる。
「やめとけよ」
 隣に座る同僚が、小さく囁いた。「お前は特に目の仇にされているだろ。今度こそ本当に潰されるぞ」
 静かに頷きあう仲間達に、サンは軽く笑みを返した。テーブルを囲む五人は、やれやれと溜め息をつくと一様に肩をすくめた。
「ヤバくなったら、加勢はしてやるよ」
「ありがたい」
 躊躇いを振りきるように、サンは椅子を蹴って立ち上がった。
 と、同時に、微かに木が折れる音がして、次いで何かが床に落ちる音が響いた。
「うわああぁぁっ」
 どすん、と店中を震わせた重低音に驚いて次々と客が立ち上がる。何が起こったのか分からないまま立ち尽くすサンの長身も、一瞬にして人ごみに埋没した。
 店主や、残りの給仕が問題のテーブルに駆け寄っていく。サンは少し背伸びをして、慌てて視界を確保した。
 足の折れた椅子と、その上で呻く狼藉貴族。その手を振りほどいて、くだんの女給仕が慌てて身を起こすところだった。彼女は、そのままあとを見ることもなく厨房へと駆け込んでいく。
 ディイは、アルコールで染まった顔を更に真っ赤にして、言葉にならない罵声を上げていた。噛みつかんばかりに店の親父に何事かをがなり立てていたが、やがて我に返ったのだろう、今度はその矛先を周囲の野次馬に向けた。
「何を見ているんだ! 無礼者どもが! 見るな! あっちへ行け!」
 静かに辺りに満ちる失笑と、安堵の嘆息。やがて人々は何事も無かったかのように、各々テーブルに戻っていった。
 
 それは気配だったのだろうか。
 何か違和感を覚えて振り返ったサンは、店の一番奥のテーブルに座る男と目が合った。
 頭巾をかぶったその男は、そ知らぬふうで視線をつい、と外す。その隣ではフードを目深にかぶった小柄な男が、静かに両手を懐に仕舞うところだった。
 
 
 ディイとその取り巻きが退出してからの「龍の巣」はとても快適だった。いつになく上機嫌で杯を重ねていたサンは、一人、二人、と仲間が営舎へと戻っていくのを見送っているうちに、結局閉店までその席を温めてしまっていた。
「ごちそうさまー」
 店を出て、夜空を振り仰ぐ。
 結果的には無駄に終わった勇気だったが、自分がそれを振り絞ることができたということに彼は至極満足していた。足取りも軽く、通い慣れた道を帰途につく。
 
 ふと、ただならぬ雰囲気を感じ取ってサンは振り返った。
 細い路地の陰に、三人。
 深夜の街路には他に動くものは無い。本能的に危険を感じて、彼は咄嗟に物陰に身を隠した。
 酔いが急速に醒めていく。
 彼らの狙いがサンではない、ということが判るまで、さほど時間はかからなかった。
 
 ぴっちりと鎧戸が閉められた建物は、先ほどまでサンが居座っていた食堂だ。
 その扉が静かに開いて、光の筋が生まれる。次第に太くなる光の中に小柄な影が浮かび上がった。
 次の刹那、三つの人影が路地から飛び出した。
 それは一瞬の出来事だった。ディイがご執心だった女給仕は、あ、と言う間もなく路地から現れた馬車へと押し込まれる。そして、静かに馬車は走り出した。
「お待ちどうさまー。あれ? スー? どこ?」
 再び店の扉が開き、彼女の同僚の暢気な声が辺りに響く。サンは小さく舌打ちすると、馬車を追って駆け出した。
 
 
 必要以上に音を立てないように走らせているからだろう、馬車の速度はサンの早足で充分尾行できる程度だ。時々小走りになりながら、サンは物陰を選んであとをつけていった。
 善人ぶるのはやめとけよ、と心の奥が囁いている。だが、先刻までの高揚感を手放したくない自分がいて、サンは半ば機械的に馬車の行き道を辿っていた。
 尾行を開始してしばらくして、ようやく馬車は停止した。一角ひとかど手前でサンは慌てて物陰に身を潜める。控え目な看板がかかる建物は、社交クラブのようだった。あの下衆野郎の根城なのだろう。
 人影が団子状になって、馬車からまろび出てくる。「やめ……」と女の声が上がったかと思うと、すぐにそれはくぐもった響きに変わる。
「うわ、いてててっ」
 ディイの声が聞こえて来て、サンはついにやりと笑ってしまった。派手に暴れだした女の様子に、このまま事が終わることを期待して、サンはそっと建物の陰に身を引く。
 だが、それは虚しい願望に過ぎなかった。ディイの次の一言が、彼女の運命を奈落へと突き落とす。
「くそっ、お前ら、中から何人か呼んで来い!」
 最後の最後で、サンはまだ躊躇っていた。
 知らない女のことなんか放っておけよ、との囁き声が大きくなる。
 
 その時、サンの背後を風が駆け抜けていった。
 
 それは、先刻「龍の巣」で見かけたあの頭巾の男だった。彼は、真っ直ぐに狼藉者どものところまで走っていくと、微塵の躊躇いも見せずに騒動の真っ只中に乱入した。
 何か低い声が微かにサンの耳に届いたが、その内容までは聞き取れない。
「何を偉そうに!」
「俺達を誰だと思ってるんだ!」
 気の早い一人が男に飛びかかった。危ない、とサンが思った次の瞬間、飛びかかった奴は男に足をかけられて派手に転倒した。
 
 もう、彼らが何を叫んでいるのか判別するのは不可能だった。プライドを傷つけられた男達の怒号は、恥も外聞もなく静かな街路にわんわんとこだまする。その隙を見て女が逃げ出したが、もはや頓着する者は一人もいない。
 そして店の扉が開いた。三人の人影が新たに参戦する。サンは意を決すると、傍らの建物の脇に積まれていた薪の束を手に取った。街路の真ん中に飛び出して、男達に向かって薪を片っ端から投げつける。
「こっちだ! 早く!」
 サンの言葉の意味を真っ先に理解して、再び風のように男が戦線を離脱してくる。
 やや遅れてディイ達が追跡を開始した。サンがその足元に薪を投げつければ、数人が石畳の上に転がる。這いつくばる人影の中にディイの姿を認めて、密かにサンは溜飲を下げた。つい緩んでしまう口元を無理矢理引き締めながら、サンは男を援護し続ける。
 連中が乱れた足並みを整えようとするその隙に、二人はともに細い路地へと姿を消した。
 
 
 曲がりくねった路地を二人は無言で辿っていた。
 何度か角を曲がっては表通りに出、そして再び別の路地に入る。ディイたちの罵声が、遠く、近く、執拗に夜の街に響き渡っていた。
「かなりシツコイな」
 初めて聞く男の声には、どこかの訛りが微かに窺えた。「いつも、ああなのか?」
「ま、そんな感じさ」
 なおざりに返事しながら、サンは前方の路地に注意を集中していた。ややあって弾かれたように後方を振り返り、また慌てて前方に目をやる。
「…………しまった……」
「挟み撃ちか」
 丁度サン達のいる辺りで路地が鉤の手状に曲がっているため、敵の姿はまだ視界には入って来ていない。だが、間違いなく奴らの気配が、あちらと、こちらから近づいてくる。
 サンは視線をぐるりと巡らせた。
 家々の窓や庇を足がかりに上に逃げるのは不可能ではないが、捕捉される可能性は非常に高い。そうなったら今度こそ間違いなく逃げ場が無くなってしまうだろう。
 ――上が駄目なら、下だ。
 丁度、傍らの家には地下があった。石造りの細い階段が、建物に沿って玄関の段の下に潜り込むようにして掘られている。
 二人はその階段を静かにくだった。
 
 階段の下から上を見上げると、細長い空間の真ん中に街路から玄関への通り道が橋のように渡されているのが見えた。最下段、地下の入り口の扉の前に、サンと男は身を潜める。
「報復が怖くて、手を出せなかった。ありがとう」
 小声とともにサンが差し出した右手を、男は力強く握り締めた。
 サンのほうが少しだけ背が高かったが、体躯の逞しさではその男のほうが勝っている。先刻のディイの及び腰を、サンは妙に納得した。
「同僚じゃないのか? 同じ近衛兵だと思っていたが」
「……俺には何の後ろ盾もないから」
 サンが肩をすくめてそう呟いたその時、頭の上で扉が開く音がした。二人はぎょっとして暗闇の中に立ち尽くす。
「ちょっと、何だい、さっきから騒がしいじゃないのさ」
 女の声は、街路に投げられたようだった。息を詰めて事態を見守る二人の耳に、粘りのある声が通りから降ってくる。
「いや何、ちょっと無礼者を探しているところなんだが……」
 ――ディイだ。
 ひょい、と頭と思しき丸い影が通りの縁から覗いた。路上から覗く限りは、地下は暗くてこちらの存在を気取られることはないだろう。だが……、
「ちょっとこの下を見せてもらうぜ」
 サンは、血の気が一気に引いたような気がした。
「よしてよ。紳士が淑女の家に押し入る時間じゃないだろ」
「淑女の家だぁ? 『ここ』がかぁ?」
 下卑た笑いが辺りに響く。
 ――どうしようか。ここは完全に袋小路だ。先手必勝でこちらから……。
「勝手に覗いてきたらいいさ。でも、中には入らないでよ!」
 次の瞬間、サンの背後の扉が音もなく開いた。室内から伸びてきた手が問答無用で二人の手首を掴んで、中に引っ張り込む。
 そして、扉は再び静かに閉ざされた。閂がかけられる音のすぐあとに、扉越しに荒っぽい足音が響いてきた。
「ふん、ここじゃなかったか」
 ディイの気配はすぐに階上へと消えていった。

 
 
 
 漆黒の闇の中、掴まれた手首は既に解放されている。サンは、まるで五感を失ったかのような感覚に襲われていた。とにかく自分が今置かれている状況を判断しようと、息を詰めて辺りの気配を探る。
 すぐ右手に、頭巾の男の息遣いを感じ取った。それから、やや前方に衣擦れの音。そして、白粉の微かな香り。
「やだー、そんなに警戒しないでよー」
「私達、貴方達を助けてあげたのよ?」
 鈴を転がしたような可憐な笑い声に、サンと男は驚きのあまり硬直した。それとほぼ同時に、柔らかい灯りが前方に灯る。
 若い女が二人、覆いを外したランプを手に、悪戯っ子のような表情を浮かべて彼らの目の前に立っていた。
 
 そこは、物置のようだった。樽や木箱が幾つも隅に積み上げられている。背後には、今しがた二人が引き込まれた扉。そして前方の壁には、上へ向かう階段。
「無事、遣り過ごせたみたいだねえ」
 その階段の終点、左側の壁の扉が開いて、中年の女が姿を現した。声から察するに、先ほど、玄関前でディイと話していたのはこの人物のようだった。段を一つ降りるごとに、頭の後ろにまとめられた赤みがかった金髪が優雅に揺れる。
「さっきから家の周りを、バタバタガヤガヤうるさいのなんのって。こちとら、貴重な休日の夜だってのに。これでちょっとは静かになるでしょ」
 そう言って、女は階下に降り立った。若い女二人が、その傍に駆け寄る。
「皆で何の騒ぎだろうって言ってたら、この子達が地下室の前に人が隠れているって言うじゃないか。隠れているのがあんたで、追いかけているのがあいつだって解りゃ、どちらの味方につくかなんて決まりきっているさね」
 サンは、目をしばたたかせながら、男のほうを振り返った。
「知り合い?」
「いいや」
 困惑の表情を浮かべる男二人を前に、女達は一斉にふき出すと、からからと笑い始めた。
「ほらー、やっぱり気がついてないー」
「えー、なんだー、私達を頼ってたんじゃないんだー」
「まぁ、私はあまり表に出ないし、お前達もまだ直接は会ってないのだから、仕方ないさ」
 中年の女が、笑いを押し殺しながら一歩前に進み出た。
「しかし……裏口とはいえ、あの坊ちゃん貴族は気がついていたみたいだけど。ねぇ、山毛欅ぶな通り五番地、って聞いても解らないかい?」
 ――山毛欅ぶな通り五番地。番地はともかく、山毛欅ぶな通りといえば……。
「あっ」
「何だ?」
 ようやく思い当たったサンが、一気にバツの悪そうな顔になる。
「どうした、お前の知り合いだったのか?」
 男に訊ねられ、サンは大きく溜め息をついた。
「…………まあ、その。何度か来たことがあるんだ。……店に」
 
 
 今日は休みなんだけどさ、と言いながら、女将は茶話室に二人を誘った。匿ってやっているんだから、詳しい事情を語れ、ということらしい。
「あのバカ貴族もウチの客だからね。弱みの一つでも掴んでおきたいじゃないか」
 抜け目なく微笑むさまは、妖艶ですらあった。サンはいつになくどぎまぎしながら、あの場所に隠れるに至った経緯いきさつを語った。
 サンの話が終わったのを見計らって、先ほどの若い娘の一人がお茶を運んできた。寡黙な頭巾の男の分も喋り通しだったサンは、熱いお茶を喉に流し込んで、やっと人心地つく。
「ふぅん、不良貴族から女の子を助けるなんて、まるで読本よみほんの主人公じゃないの。やるねぇ」
「いやその、助けたのは俺じゃなくて、この人なんだけど……」
 男に話題を振ろうとしたものの、彼は軽く肩をすくめて口のを上げるのみ。
 ふと、サンは自分がこの「英雄」の名前すら知らないことに気がついた。逞しい顔立ちに、通った鼻筋。えび茶色の頭巾の下から少し覗く髪は暗赤色か。彫りの深い眼窩に光るその瞳は、今でこそ穏やかに笑っているが、食堂で初めて見かけた時のあの眼光を思い出して、サンは思わず身震いした。
「この一件を知ったら、また店の子達が大騒ぎするよ、きっと」
「また?」
「あんた、結構人気なんだよ? ほら、秋の御前試合で優勝したろ? 平民が貴族様に勝ったってんで、ちょっとした話題だったのさ。それからしばらくして、あんたが初めて店に来た時なんて、噂の近衛兵が来た、しかも色男だ、って、更に大騒ぎさ。みんな裏でくじ引きなんてしてたんだからね」
 感心したような、からかうようなような表情で、頭巾の男が口笛を吹く。
 思いも寄らなかったことを告げられたサンは、まず目を丸くして……それから大いに照れた。
「知らなかった」
「そりゃ、お客さんにそんな格好悪いところ見せられないさね」
 事も無げに、だがどこか誇らしげにそう言った女将が、サンにはなぜか眩しく見えた。
 
 
「泊まっていけばいいのに」
 店の表玄関のホールで女将にそう言われて、サンは慌てて両手を振って遠慮の意思表示をした。それじゃ、あんたは? と水を向けられた頭巾の男も、流石に少し狼狽した様子で彼女の申し出を固辞している。
「貴重な休日なのだろう?」
「そ、そうそう。折角の休みなんだし?」
「良い男は特別だよ」
 そう言って女将は悪戯っぽくウインクした。
「色々つらいことも多いだろうけど、頑張っておくれよ。どうにもならなくなったら、みんなで慰めてあげるから」
 
 
 月明かりが石畳の上に二人分の影を落とす。
 なんとなく、無言で、サンと男は暗い街路を並んで歩いていた。
「御前試合で優勝、か。凄い奴だったんだな」
「そんなことないさ。保身のために狼藉を見逃すような、ただの弱虫だ」
 自嘲するでもなく淡々とそう語ったサンを、男は品定めするようにじっとねめつけてきた。
「そういや、名前を聞いていなかったな」
「サン、っていうんだ。あんたは?」
「俺か? そうだな、俺の今の名前は……」
 月の光を映した双眸が、静かにサンを見据える。その、あまりにも澄んだ涼しい瞳に、サンは思わずどきりとした。
 まるで、どこかに置き忘れてきた何かを思い起こさせるような……。
「あそこにいたぞ!」
 一角ひとかど前方で、聞き憶えのある怒鳴り声が響いた。仲間を呼びに行ったのか、その影は一旦角の死角へと姿を消す。
「まだ諦めてなかったのか」
 サンは大いに呆れて肩を落とした。と、次の瞬間、その背中が強い力で押される。
 不意を突かれて、サンはよろめき駆け込んだ。すぐ脇の路地の中へ。
「な、何を……」
「お前はそこに隠れていろ」
 サンを突き飛ばした男は、そう言って悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「そういうわけには」
「いいから、まあ、見てろ」
 あまりに自信に満ち溢れた男の様子に、サンは息を呑んでその場に立ち尽くす。
「あそこだ!」
 ディイの声とともに、沢山の足音が角を曲がって来たようだった。路地にいるサンには見ることができないが、足音の主は四、五人ではきかないだろう。
 やはり加勢をしなければ、と我に返ったサンの足を鋭い一瞥で止め、男は大きな声で啖呵を切った。
「女に逃げられた腹いせに、大人数で御礼参りか! 帝都の近衛兵も大したことないな!」
「なにおぅ!」
 凄まじい殺気が辺りに充満する。
 職を金で買った、と噂されていても、仮にも陛下のお傍を守るつわものだ。いくら日頃の訓練をサボりがちだといっても、最低限は鍛えられているのだ。
 しかも、多勢に無勢。相手は十人からいるというのに……。
 
 男は、威風堂々とした姿で、おのれの頭巾を毟り取った。
 頭巾の下に隠されていた髪が、ふわりとこぼれる。
 少し癖のある、闇色の長髪が……。
 
「我が名は、黒の導師! お前達ごとき、怖るるに足りず!」
 
 どよめく暴漢達。
 名乗りに度肝を抜かれたのはサンも同じだった。思わず一歩あとずさって、通りの真ん中に立つ、その禁忌の存在を見つめ続けた。
 
 黒の導師と名乗った男は、ゆっくりと右手を空へ掲げる。
 ふと、通りの向こう側に何か動くものをサンは見つけた。少し路地を入った物陰に隠れるようにして立つ小柄な人影が、右手を閃かせている。
 時を同じくして、黒の導師の周りに火焔が立ちのぼった。炎は導師の周りを取り囲むと、やがて生き物のようにその鎌首をもたげて前方へと狙いを定める。
 あまりの熱量に、サンは腕を翳しながら顔を背けた。
「う、う、うわあああああああっ」
 物凄い勢いでディイ達が逃げていく足音が、建物の壁にこだました。悲鳴まじりの声が、同じように街路に反響しながらどんどん小さくなっていく。
 気がついた時にはサンは独り、無人の街角にいつまでも立ち尽くしていた。
 
 
 

    二  霹靂
 
 昨夜の礼を言いたくて、というのは理由の半分だった。残る半分は、何かあの男の情報が手に入らないだろうかと思ってのことだ。昨日の今日の気まずさをなんとなく胸に抱きながら、サンは「小鳥と鈴」亭の扉の前に立った。
 山毛欅ぶな通りには、娼館が幾つも軒を並べている。普通の酒場や宿屋よりもやや派手な看板が並ぶ華やかな往来は、ひなびた故郷では想像もつかない世界だ。
 派手とはいえども、六つ角向こうの蹄鉄通りに比べて幾分大人しめで上品なのは、こちらがより高級な娼街であるからだろう。大抵の近衛兵が足しげく通うのは蹄鉄通りの店だったが、金回りの良い者は専らこの山毛欅ぶな通りを利用する。平民出のサンがこの街で遊ぶことができるのは、御前試合の賞金のお陰と、「遊び」に出る頻度が少ないためだった。
 ――大した金の遣い道だ。
 自嘲ですらない乾いた笑みを浮かべながら、サンは店の扉を押し開けた。
 
 カランコロン、と軽やかな鐘の音が響き、店の奥から女将が姿を現した。昨夜とは違って、その匂い立つような肉体を深紫のドレスで包んでいる。大きくあいた胸元から目を逸らすのに、サンは少しだけ苦労した。
「あら、いらっしゃい。さぁさ、茶話室へどうぞ?」
「いや、その、今日はそういうつもりじゃなくて。とりあえず……昨日はご迷惑をおかけしてすみませんでした」
 おや、と少しだけ眉を上げてから、女将はにんまりと相好を崩した。
「大丈夫だったのね?」
「貴女方のお陰で、あの野郎には俺のことは判らなかったみたいです」
「良かったじゃない」
「ええ、本当にありがとうございました」
「おやおや、我らが英雄は礼儀正しくもあるのね。ますます点数が上がるじゃない?」
 どきりとするほど色っぽい女将の流し目に、サンは慌てて両手を振った。
「いやっ、だからっ、助けたのは俺じゃなくて……って、その昨日の彼だけど、あのあとはここには来てませんか?」
 女将は右手の人差し指を顎に当てて、少し不思議そうな表情を作った。
「いいえ? 貴方のお知り合いだったのじゃなくて?」
「いや……」
 帝国一のお尋ね者が、こんなところでいつまでもうろうろしているわけがない、とは思っていた。しかし、昨夜のあの火柱と、それに照らされながら犬歯を剥き出して咆哮する、あの男の姿があまりにも印象的で、サンはそれを見失った場所に来ずにはいられなかったのだ。
 先刻、宵闇に浮かび上がる街路に立って、それは幻影でしかなかったと思い知らされたばかりだったのだが。
「用はそれだけ? なら、遊んで帰りなさいよ。今日は私の奢りでいいわ。みんなー、サンだよー」
「え? えっ? ちょ、ちょっと……!」
 屈託ない笑顔で女将がサンの背中をぐいぐいと押していく。奢り、と聞いて自分の抵抗が弱くなるのを自覚して、サンは心の中で密かに嘆息した。
 
 
「ねえ。相談があるんだけど」
 シャツに袖を通していたサンは、怪訝そうな顔で寝台を振り返った。
 先ほどまで彼を充分に愉しませてくれていた身体を掛布に包んで、女が身を起こすところだった。
「貴方は信用できるって聞いたから」
 さあ、ややこしいことになりそうだ。あのお尋ね者が施した善行で、どうして自分までもが信用されることになるのだろうか。サンは軽い眩暈を感じつつも、それでも笑顔で女に問いかけた。
「相談っていっても、できる事とできない事があるけど?」
「貴方、城の門のところにいるのでしょう?」
 サンの当惑に気がつかないのか、そのふりなのか、女は乱れた髪を手できながら、視線を彼から逸らして話し続ける。
「兄さんがね、帰ってこないのよ」
 思いもかけない単語が飛び出して、サンは目をしばたたかせた。
「兄さん?」
「そう。癒やし手の、ね。私なんかと違って真面目で、優秀で、良き旦那様で。ランデの町の教会で副助祭をしているの」
 ランデとは、帝都のすぐ南にある都市で、商都とも称される町だ。
 話の向かう先が読みきれずに、サンは黙って女の次の言葉を待つ。
「腕の立つ癒やし手が必要だから、って城に呼ばれたそうなの。それから三ヶ月、兄さんが帰ってこないって、義姉さんはそう言ってた。ねえ、貴方、知らない?」
 なんだ、そんなことか。サンは安堵の溜め息を漏らした。と、同時に、自分の非力さを表明せねばならないことに対して苛立ちに似た思いが胸に湧き起こる。
「……城には毎日沢山の人の出入りがあるから。それに、俺は四六時中門に立っているわけではないんだ。門は幾つもあるし。……君の兄さんの特徴を教えてくれる?」
「私と同じ髪の色なの。男の人にしては少し小柄で……兄妹良く似てるって言われるわ」
 門番の仕事は、不審者からの城の警護だ。逆さに言えば、正規の手続きを経て入城する者が記憶に残ることはない。よほど人目を引く人物でなければ。
「そうか。一応他の奴にも訊いてみるけれど……」
 シャツのボタンをとめ終わってから、サンは剣のベルトに手を伸ばした。重い長剣を易々と持ち上げると、腰にとめる。
「そうだわ、これ……」
 女が身体に掛布をまきつけて立ち上がった。寝台脇の小机の引き出しをあけ、小さな光る物を取り出す。
 それは、細い銀の腕輪だった。蔦が複雑に絡み合ったデザインの、上品な細工物だった。
「これ、親の形見なのよ。同じものを兄さんもつけていたわ。私のはここに赤い石が、兄さんのには青い石が嵌め込んであるの」
 ランプの光を映し込んで、その銀の輪は黄金色に輝いている。
 なるほど、近くで見れば確かに特徴的な代物だ。だが、首から下げて歩くでもしない限り、この腕輪の存在感は無きに等しいだろう。それがどれだけ尋ね人を特定する役に立つというのだろうか、甚だ疑問である。
「判った。調べてみる。だけど、あまり期待しないでほしい」
 サンは、やっとの思いで言葉を絞り出すと、振り返ることなく部屋をあとにした。
 
 
 
 サンが専ら警護を受け持っているのは、宮城の正面、外郭の堀にかかる大きな跳ね橋を備えつけた一番大きな門だ。城の玄関口であるそこは城内で一番人通りが多く、それ故常に五人以上の近衛兵が、この重要な任務についていた。
 すっかり春めいた陽光の下、同僚が門を通過しようとした四輪馬車をあらためているのを、サンはぼんやりと眺めていた。
 ――深茶色の髪に、濃紺の瞳の副助祭。背丈は自分の胸ぐらいか。そして、どちらかの腕に銀の腕輪。
 これだけの条件で尋ね人が見つかるわけがないだろう。そもそも城に来たのは三ヶ月も前だと言うのだから、たとえ目撃されていたとしても既に人々の記憶からはこぼれ落ちてしまっているはずである。
 歳若くして副助祭を務めている優秀な男……。サンは、姉の結婚相手であるイの町の副助祭を思い出していた。瞳の色こそ違えど、あの遊女が語る「兄さん」の肖像は、無性に義兄を思い起こさせる。もしも彼が消息を絶ったらば、姉は一体どうするだろうか……。
 つらつらと思考をめぐらせていたサンだったが、人影が一つ自分のほうに向かってくるのを目の端で捉えて、おのれの任務に頭を切り替えた。
 
 彼は聖職者の服装をしていた。良く陽に焼けた精悍な顔立ちの初老の男は、人の良さそうな表情で真っ直ぐサンに語りかける。
「皇帝陛下のお城へは、ここからでよろしいのですかな」
 その言葉には、少しだけ東部訛りが混ざっていた。近衛兵制式の兜の下で、サンの瞳が一瞬だけ揺れる。
「そうですが、許可なくしてここをお通しするわけには参りません」
「それがなあ、案内してくださった騎士様とはぐれてしまっての」
 心底困ったふうな様子で男は頭を掻いた。
 どうした? と同僚が一人、駆け寄ってくる。サンが状況を説明しようとしたその時、男が一人、息せき切ってこちらへと走って来た。
 二人の近衛兵が無言で見守るのとは対照的に、初老の男は途端に顔を綻ばせた。
「おお、騎士様」
「すみません! 司祭殿、こちらにおいででしたか」
 騎士は肩で息をしながら、懐から取り出した通行証をサン達に見せる。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。通りますよ」
 
 ――随分腰の低い騎士だな。
 門をくぐっていく二人を見送るサンに、同僚が語りかける。
「ああ、知らないか? 『カナン家のみそっかす』だぜ」
 胸の内での呟きに返事があったことと、その内容とに驚かされて、サンは勢い良く同僚を振り返った。
「って、あの公爵家の?」
「ああ。本草学の道を選んだ変わり者が、兄君が病死したってんで、急遽跡継ぎとして騎士の叙勲を受けたらしい」
「詳しいのな」
「この間、偶々ご本人と話す機会があってな。まさか公爵家のご子息が、公園の繁みに這いつくばって薬草採取しているとは思わないだろ? 話をしているうちに、こっちは真っ青になったぜ」
 サンは、第二城壁のアーチに吸い込まれていく二つの影をじっと見つめた。
「あの人当たりの良さからか、雑用ばかりが廻ってくるんだそうだ。気の毒に。器用な奴は上手く立ち回って楽をしているんだろうにな」
 
 
 
 それから二日は、何事も無く過ぎ去っていった。
 いつもどおりの、うんざりするほど変わりのない日々。平和なことは良いことだ、とは思うのに、妙に遣りきれなくなるのは何故なのだろう。サンは営舎の食堂で朝食の皿をつつきながら、頬杖をついた姿勢で溜め息を漏らした。
 近衛兵営舎での生活は三食つきだ。だが、その食事は質、量ともにあまり満足のいくものではなく、その日の勤務の終わりには、皆大抵町に繰り出すことになる。
 昨夜もサンはいつもの店のいつものテーブルに落ち着いていた。懲りない性格なのか、相当の馬鹿なのか、ディイはまた同じ女給仕に絡み始め、そして彼女は今度は早々に厨房に引っ込むと、二度と店内に姿を現さなかった。
 
 そういえば、とサンは辺りを見まわした。ディイの姿が食堂に無い。
 奴が朝の訓練をサボるのは決して珍しいことではなかったが、食事を抜くというのは考えられない。いや、それどころか、今朝の朝食は幾分席が寂しいではないか。普段は隙間なく埋まっているテーブルに、ちらほらと欠けが散見される。どういうことだ? とサンは首をひねった。
 
「サン、ダイル、ジェン、それから、テッセン、アディアマス、タンタ!」
 ささやかながらも食後のお茶を愉しんでいた一同に、警備部長の声がかかる。名を呼ばれた六名は、即座に椅子を蹴って立ち上がると、直立不動の体勢で指示を仰いだ。
「ディイ達の調子が悪くてな。本日はお前達に彼らの代わりを頼むぞ」
 食堂のそこかしこで怪訝そうに交わされる視線を意識して、警備部長は咳払いをする。
「酷い腹痛らしくてな。夜中に城内の治療院に搬送された。今日明日は使い物になりそうにない。サン達の穴埋めは、悪いが非番の者に頼む。そちらの人員の詳細は、会議室で発表しよう」
 そこまで言ってから、警備部長は口ひげを撫でつけながらサンの顔を覗き込んだ。
「どうやら食あたりか何からしいが、お前達も昨夜は『龍の巣』に行ったのだろう? どうだ、調子は?」
「は。特に問題ありません」
「だよな。俺も少しとはいえ、つまみに行ったしな。あいつら、一体どこで何を食べたんだ……」
 ふと、サンの脳裏に勝ち気そうなあの女給仕の顔が思い浮かんだ。
 これが彼女の意趣返しだとしても、何も不思議はない。むしろ、そう考えるほうが自然というものだろう。思わず苦笑を漏らしそうになったサンは、すぐ横に立つジェンが肩を震わせているのに気がついた。
「自業自得だろ」
 微かな呟きを聞くに、どうやら彼も同じ想像をしているようだ。サンはジェンの肩を軽く叩いてから、退出する警備部長のあとを追った。
 
 
 三重の城壁に囲まれた、難攻不落の城。堀から立ち上がった十二の塔を、巡回路を頂いた堅牢な石組みが繋いでいる。近衛兵の営舎は、この第一城壁のすぐ内側にあった。城の裏手に広がる、訓練に使われる緑地と農園を見ながら、サン達は警備部長に従って第二の城壁にある「鐘の塔」へと入っていった。
 塔をくぐり抜けた六人は、そこに立つ儀式部長へと引き渡された。
 近衛兵は大きく二つの部に分かれている。少数の儀式部と残り大多数の警備部。ディイ達が属しているのはその儀式部だ。式典などで皇帝陛下の至近をお守りする輝かしい仕事。それ故普段は三交代の輪番からは外れている、俗に言う閑職でもあった。彼らが「職を金で買った」と陰口を叩かれる所以である。
 堂々たる体躯の警備部長とは対照的に、儀式部長は今にも倒れそうな線の細い男だ。未だ壮年にもかかわらず、既に立ち枯れた冬の木のような気配を見せるその男は、神経質そうな眉間に皺を刻んでサンたちを出迎えた。
「こちらだ」
 いざなわれるがままに最後の城壁を通過した彼らは、遂に要塞の一番内側の領域に足を踏み入れた。足元で動いた影を追って背後を振り仰ぐと、城壁の上の巡回路を警備する同僚が怪訝そうな顔で自分達を見つめていた。

 
 
 名実ともに城の中核を担う「鷲の塔」の中、彼らが通されたのはなんと皇帝陛下の謁見の間だった。ただひたすら驚愕の表情を浮かべて、サン達は美しく磨かれた大理石の床の上に立ち尽くす。
 剣の競技場が優に三つは納まりそうな広い室内には、天窓からの明かりがきらきらと差し込んでいる。見上げるばかりに高い天井の全てには、美しい絵画がえがかれていた。
 部屋の中央にある、一際雄大な丸天井は、「鷲の塔」の中央にそびえる大塔の内側なのだろう。あの無骨な塔の内部にこんな見事な天井画がえがかれているとは、今の今まで彼らは知らなかった。
 命じられたとおりに直立不動の姿勢で横一列に整列したものの、視線が辺りを彷徨ってしまうのを彼らは止められなかった。その様子に気がついた儀式部長が、険しい顔で口を開く……いや、開こうとした。
 だが、次の瞬間、儀式部長の気配が急に変化した。
 彼の身に一体何が起こったのか、儀式部長のおもてからはいっさいの表情が消え、その眼窩はまるでうろのようだった。驚いた六人が思わず列を乱しかけたその時、最上座の扉が閉じる音がした。
 いつの間に入室していたのだろうか。その人物は今度は気配を殺すことなく、靴音を響かせながらサン達のほうへと歩み寄ってきた。
 
 緋色のマントがひるがえる。
 式典で目撃される時よりは随分と控え目な装飾の、それでも充分煌びやかな衣服に身を包んだその人は、誰あろう、アスラ兄帝その人に他ならない。
 サン達は一様に息を呑んで、それから慌てて最敬礼した。跪いたほうが良かったのだろうか、と胸の内で思案しながら。
「選り抜きの兵とはその者達か」
「はい」
 やはり、儀式部長の反応は虚ろだった。だが、アスラはそれに頓着する様子もない。
「顔を上げよ」
 自分達一兵卒が、立ったままでおもてを上げるなど許されないのではないだろうか。サン達は激しく動揺しながらも、おずおずと命に従う。
 間近で見る兄帝は、息を呑むほどに美しかった。美丈夫、という言葉がこれほど似合う人物は、帝国中を探しても彼ら双子以外に見つからないだろう……。
 自分に見惚れる六人の近衛兵を満足そうに見まわして、それからアスラは何事かを呟き始めた。
 
 その兆候は突然訪れた。
 頭に釘か何かを打ちつけられるかのような痛み。急に襲いかかってきた激痛をこらえようと、サンは御前にもかかわらず両手でこめかみに爪を立てた。
 自分の両側に並んだ同僚達が、一人、二人、と頭を抱えて床に膝をつき始める。あまりの苦痛に呻くことすらできずに、サンは強烈な疼痛と戦い続けた。
「なるほど。お前の見る目は確かなようだな。前の者どもよりも随分と骨がある」
「恐縮です」
「愚鈍な者どもを傀儡くぐつと成すのは簡単で良いのだが、こうも使い勝手が悪くてはかなわないからな。人員を入れ替える丁度良い機会だ」
 兄帝と儀式部長のやけに平静な声が耳に飛び込んでくるが、頭を苛む苛烈な痛みは言葉の意味を考えさせてくれない。
 隣のジェンが、どさりと床に倒れ伏した。ほぼ同時に、その向こうのダイルとタンタが崩れ落ちる。右手では、更に誰かが昏倒した気配。テッセンか? アディアマスは無事なのか?
 遂にサンの膝が折れた。頭痛は耐え難い吐き気に席を譲り、臓腑をねじられるような感覚に全身が支配される。四つん這いの姿勢で、嘔吐しようと喉の奥をせり出しても、そこから漏れるのは喘ぐような荒い呼吸だけだった。
 ――なんだ? 何が起こっているんだ?
 脂汗が頬をつたって床に落ちる。必死で喘ぐサンの前に、綺麗に磨かれた白い靴が立った。
「全てを我に委ねるのだ。…………楽になるぞ」
 それは、喩えようもなく甘美な囁き。
 アスラの声はこれ以上ないほどに優しく、サンの意識を包み込んでいった。
 
 
 
「何か」が、自分に指図している。
 
 ――地下に行け。
 ――礼拝堂の地下へ。
 
 六つの人影が、無言でその指図に従う。祭壇の裏の隠された扉を古めかしい鍵で開き、暗闇へと続く階段を降りていく。
 
 ――そこに、麻布をかぶせられた物体があるだろう。それを運び出せ。
 
 通る道も定められている。来た道とは別な螺旋階段。自分の手足すら定かではない闇の中、彼らは一度も躓くことなく階段をのぼり続けた。荷物を乗せた担架の四隅を握り締めて。
 一人が突き当たりの扉を開く。眩い外の光と冷たい風が、怒涛のごとく彼らに襲いかかる。だが、六人は身じろぎ一つしない。
「鷲の塔」の北の端の塔。この建物にそびえ立つ四つの尖塔すら見下ろす、一番高い櫓塔が目的地だった。
 この塔では、皇帝の紋章である鷲が餌づけされている。大きな翼が遠くへ羽ばたいては帰投する、その力強さはまるでこの国を象徴しているかのようで、この塔を見上げる誰もが敬意を表さずにはおられない。宮城の中心にあるこの棟が「鷲の塔」と名づけられた所以だ。
 その塔の天辺に荷物を置く。
 振り返らずにそこから出る。
 自分達に課せられた任務はそれだけだ。あとは、再び謁見の間まで戻るだけ。
 彼らは黙々と仕事をこなした。強い風にあおられながら、表情一つ変えずに荷を下ろす。空いた担架を再び四人で持ち、残る二人が前後を詰める。
 
 
 それは、ほんの微かな光だった。
 櫓の外壁の影の中、きらり、と何かが光ったのだ。
 しんがりを務めるサンの虚ろな瞳が、その光を捕らえた。そのまま「指図」に従って通路への扉に向かう彼の、脳裏に閃く女の声。
『これ、親の形見なのよ』
 
 反射的に、サンはその光へ振り向いた。
 外壁ぎわの暗がりに転がる、銀色の輪。蔦のモチーフの見憶えのある腕輪。小さな青い光が目を、眼底を、脳天を射る。
 心拍数が急激に跳ね上がった。心臓が喉元へとせり上がってくる。
 
『兄さんがね、帰ってこないのよ』
『腕の立つ癒やし手が必要だから、って城に呼ばれたそうなの』
 
 どういうことだ?
 
 ――余計なことを考えるな。
 
 これが、何故、ここにある?
 
 ――何も考えるな。
 
 俺は今、何をしているんだ?
 
 ――振り返るな。
 
 俺は今……
 
 ――見るな。
 
 …………俺は今、何を運んで来た?
 
 ――見ては、いけない!
 
 
 大きな羽ばたきの音が舞い降りる。
 幾つもの羽音と、唸るような鳴き声。
 せわしなく何かを啄ばむ音。
 風に舞う血の臭い。
 
 自分を縛る見えない枷を引きちぎるようにして、サンはゆっくりと振り返った。
 舞い散る茶色の羽々。
 群がる鷲達の隙間、麻布が風にめくれている。その下から覗くのは、白い……布?
 
 喘ぐように息を継ぐサンの視界の端、五人の同僚が虚ろな瞳で次々と剣を構え始める。
 だが、サンは何かに取り憑かれたかのように、あらわになっていくそれを見つめ続けた。
 一番大きな鷲が一瞬飛び上がり、再び降り立つ。その拍子に、ごろり、とサンのほうを向いたのは…………血の気のない、顔。
 白い僧衣の襟元、血を流す口元。
 ほんの三日前には、この唇は懐かしい東部訛りを紡ぎ出していた。良く陽に焼けた精悍な顔立ちの、人の良さそうな老司祭……。
 
 サンは、絶叫した。
 
 
 

    三  評定
 
「どうしてそんな大事なことを今まで黙っていた」
 風に揺れる山小屋の中は、恐ろしいまでの静寂に支配されていた。その静けさを真っ先に破ったのは、ウルスの低い囁き声。触れれば切れそうなまでに鋭い怒りを滲ませたその声は、語り手たるサンに真っ向から投げつけられた。
 暖炉の火が大きくはぜる。
 窓際の椅子に座るウルスのすぐ傍らには、アキが難しい顔で立っている。その横には、両腕を後ろで拘束されたルーが呆然とした表情で床に座り込んでいた。
 もう一つの山小屋をおのが母に引き渡したアキは、宿を失った囚われ人を伴ってウルス達の小屋に居座っていた。その二人を加えた六人の聴衆は、サンが今語り終えた話にすっかり引き込まれてしまい、身じろぎ一つすることができない有様だ。
「どうしてって……」
 暖炉脇の椅子に深く座り直して、サンは少し困った様子で、助けを求めるような視線をザラシュのほうへ向ける。暖炉の前の長椅子の端に浅く腰かけた老魔術師は、珍しくも感極まった表情で顎を撫でながら口を開いた。
「うむ、確かに俄かには信じられん話じゃな」
「そうなんです。正直自分でも、未だに…………夢だったんじゃないかと……いや、夢であったら、と……」
 サンは自分の右手に視線を落とすと、拳を静かに握り締めた。
「だが、夢ではなかった」ウルスが、容赦なく言葉でサンを打つ。「あの時のお前の様子を思い返す限り、法螺話とは思えんからな」
「あの時?」
 ザラシュの隣、長椅子の中央に座るレイが、ウルスのほうを振り返った。その動きに押し退けられて、シキが迷惑そうな、それでいて少し照れたような顔で、同様に背後を振り仰ぐ。
 一同の視線が集まるのを待って、今度はウルスが語り始めた。
「その日、俺は堀のすぐ傍にいた。突然城壁の内側が騒がしくなって、門番達までが浮き足立っていてな。城の裏――北側の門に至っては、跳ね橋もそのままに近衛兵が姿を消す有様だ。それで、俺はザラシュ殿に援護を頼んで、橋を渡ってみたのだ……」
 
 
 
 こんなところを堂々と歩くお尋ね者など、前代未聞だろうな。そう口のを引き上げながら、ウルスは堀にかかる跳ね橋を渡りきった。
 やましさのかけらも感じさせないその態度が功を奏した、と言うよりも、城内が何か恐ろしいまでに混乱していたからなのだろう。到達した第一城壁を見上げても、巡回路に動く者はいない。来た道を振り返れば、大邸宅の並ぶ閑静な通りは閑散としており、こちらもやはり人通りは見えなかった。
 ウルスは、独り頷くと、そっと門扉の陰に身を滑らせた。
 北門のある塔に入れば、正面のアーチとは別に、左右に黒々とした通路が口をあけていた。城壁内に回廊があるのだろう。堀から立ち上がった石積みの壁に等間隔に並んだ矢狭間を思い出し、ウルスはぞくりと身震いをした。暗い通路に人影が無いことを慎重に確認して、正面に見える外庭へと歩を進める。
 アーチの陰からそっと庭を覗くと、右手の奥のほうに近衛兵の営舎が見えた。ただ事ならぬ叫び声が飛び交い、営舎の扉から今もばらばらと兵達が飛び出してくる。こちらにやってくるか、と一瞬身構えたウルスだったが、彼らは城壁沿いに城の表側に向かって走っていった。更に新たに四人が、外庭を突っきって第二城壁へと走っていく。
 ――何者かが城内に乱入したらしいな。そして、そいつを皆で追い立てている、と。そういうわけか。
 さて、これからどうするかな。思案し始めたところで、ウルスは弾かれたように急に顔を上げた。
 風に乗って鼻腔をくすぐる……血の。近い。
 この状況を鑑みる限り、先ほどからの騒動の主である可能性は高い。ウルスは第二城壁の上と下で右往左往する兵達の視線を避けるべく、懐から取り出した手鏡で塔の外を窺った。
 城壁沿い、アーチから数丈先に手入れのなされた低木が並んでいるのが見えた。
 内庭でもない限り、普通ならば城郭にこんな死角は作らないところだが、ウルスのいる城の裏側は、第一と第二の城壁の間に広大な緑地が設けられていた。この開けた外庭がある限り、植え込みの存在など意に介するものではないということなのだろう。
 その庭木の陰、微かに何かが動いた。
 
 ウルスは塔内にとって返した。
 幸いにも、未だ城壁内に人の気配はない。ウルスは意を決すると、回廊へと足を踏み入れた。こちら側から潅木の裏側を目指そうというのだ。
 回廊の左側に、数丈おきに細長い明かり取りの窓が並んでいる。目指す場所に到達したウルスは、自分の肩の高さから立ち上がっている窓の底辺に手をかけると、図体に見合わぬ身軽さでその細い空間に身を潜り込ませた。木の葉の陰に守られて、静かに植え込みの中へと降り立つ。
「……誰か、いるのか?」
 あまりにも強烈な血の香に、さしものウルスも怖気を押さえられなかった。だが、それでも、僅かばかりの打算と、圧倒的な好奇心から、ウルスは繁みに向かって声をかける。
 目の前の枝葉が不意に揺れ、男が姿を現した。
 血まみれの近衛兵。先日ともに夜の町を徘徊した、確か、さきの御前試合で優勝したとかいう男。
 ――しまった。闖入者ではなく、追っ手だったのか。
 サンは焦点の定まらない瞳で、ゆらり、と倒れ込んでくる。反射的にその身体を受け止めたウルスは、その夥しい血が全て返り血であることに気がついた。
 ――追っ手ではない。こいつが、追われているのだ。
「おい、どうした!」
 むせかえるような血の臭いの中、サンは完全に意識を失う前に、ただ一言を呟いた。
「…………出ていけ……俺の中から…………」
 
 
 
「で、ザラシュ殿の助けもあって、無事こいつを助け出し、そのまま帝都を脱出したというわけだ。個人的ないざこざか何かのようなことを匂わせていたから、仔細を聞き出さずにいたがな、そんな大事おおごとを黙っていて良いと思っていたのか」
「……はぁ。…………すみません」
 口答えしても無駄だと悟っているのだろう。サンは素直に頭を垂れた。ウルスは未だ憤懣やるかたないといった風情ではあったが、鷹揚に頷いてみせる。
 その態度のあまりの横柄さに、レイがむっとした表情で噛みついた。
「偉そうにそう言うけどさ、そう簡単には他人に言えねぇぜ、普通。『傀儡』の術の影響でその時の意識だってはっきりしなかっただろうし、てめえの国のあるじがそんな気色悪い奴だなんて、簡単には信じられないだろうし」
 先刻からの話題の毒気に当てられたのだろうか、レイは夢中で言葉を吐き出し続ける。「思い出したくもないだろうし、よ。同僚を手にかけたなんて……」
「レイ!」
 鋭いシキの一喝でやっと我に返り、レイは大きく息を呑んだ。それから慌ててサンのほうへ顔を向ける。
「悪い、サン……」
「なに、情けない顔してんだよ? 別に気になんてしてねーから。事実は事実だしな」
 そして少し息を継ぎ、遠い目で続ける。「城の連中のほうが気にしてると思うぜ? 前代未聞の醜聞だからなあ。近衛兵が乱心して城内で人殺し、だ」
「違うよ」
 シキの声に、サンの片眉が上がる。
「警備隊の本部でサンのことを書いた通達書を見たんだ。確か……『無断で職務を離脱の上、制止に当たった同職の者に手傷を負わせた咎により、処罰すべし』だったかな」
 シキは自らの記憶を辿り終えると、正面からサンの目を見つめた。「だから、サンは誰も殺してなんかいない」
「…………はっ」
 一呼吸おいて、サンが息を漏らす。「そんな細かいこと、気にしてなんかいないって……。大体、人を斬ったのはあの時が初めてじゃないし、それに、あれから何人も……」
 サンの膝に雫が落ちた。
「あれ? なんだよ、俺、カッコ悪いな」
 ――あの、虚ろな眼窩。命を抜き取られた人形のような表情で、剣を振りかざして自分に突き進んできた仲間達の、あのぎこちない動き。
 そして、絶えず自分の頭の中に響く「何か」の声。その「何か」が、同様に彼らを動かしているのは、明らかで……。
「くそ、この俺と切り結んでおきながら……悪運の強い連中だな……」
 ぐしぐしと袖で目元を拭うサンの声には、少しばかりの喜色が滲んでいた。
 
 
「…………嘘だ!」
 凍てついた雰囲気がようやくほどけ始めたその時、鋭い叫びが部屋中にこだました。
「嘘だ、うそだ……、嘘っぱちだ! 私は、そんな馬鹿な話を信じない!」
 ルーが、何か追い詰められたような形相で立ち上がるところだった。それを制止しようとしたアキよりも早く、ウルスがルーの襟元を掴んで、自分の眼前まで引き上げる。
「静かにしろ。俺はアキと違って紳士ではないからな」
 まるで荷物か何かのように床に投げ捨てられたルーは、大きく息をつきながら強い光を目に宿してウルスを見上げる。
 これ見よがしな溜め息をつきながら、アキがその間に割り込んだ。
「ここの主人は俺だ、ウルス」
「解ってるさ」
「どうだか。……さて、お前。この町を探りにきた密偵、というわけではないのだろう? お前は何者で、一体ここに何をしに来たんだ?」
 金糸のように癖のない前髪の下で、少しだけ揺れた藍の瞳。やがて、そこに何か決意の色が浮かび上がった。
「枷を、外していただけますか」
 軽く頷いて、アキがルーの背後にまわる。
「甘いな、アキ」
「ふん、彼はもう逃げないさ。あのお嬢さんを置いてはな。違うか?」
 その言葉に、ルーは僅かに頬を赤く染める。ほどかれた両手首をほぐすようにひねり、摩りながら、彼は静かに立ち上がった。
「私の名前は、ルーファス・カナン。騎士です」
あるじは誰だ」
 容赦なく追求するウルスの声に、ルーファスは少し逡巡したのち、真摯な表情で答えた。
「……マクダレン皇家です」
「何っ!」
 一気に警戒の色濃く声を荒らげたアキに向かって、ルーファスは慌てて両手を振った。
「違います! この町を探れなど、そのような命は受けておりません」
 痛いほどの視線を一身に受けながら、ルーファスは語り始めた。
「私は、弟帝陛下の命を受けて、大切なお客様のご案内の役目を言いつかっておりました。この州の東端に近いイという町から、二人のお方を帝都にお連れする、これが今回の私の任務です」
 ぽん、と膝を打ってシキが得心したように頷く。
「あ、それでリーナのことを知っていたんだ」
「はい。他でもない、お招きされたのは、ナガダ司祭様とリーナ様なんです」
 ふと、ただならぬ気配を感じてレイが振り返ると、サンが見たこともない苦い表情でルーファスをねめつけているのが見えた。
 いぶかしげに口を開こうとしたレイだったが、再び話し始めたルーファスに、つい気を逸らされる。
「帝都から近い町でしたらば、こちらで馬車や護衛を用意することも簡単なのですが、いかんせん海路も経てとなると、どうしても非効率的です。そこで、現地調達、ということになったのですが……、生憎とまともな馬車も、腕の空いた剣士も探し出すことができず、とりあえずは州都で装備を整えよう、と不自由な旅をお二方に強いての道中でした」
 まあ、あの田舎町では無理もない。シキとレイはそっと顔を見合わせて嘆息した。街道を更に東へと行った隣町、国境の砂漠に面したサランまで足を伸ばせばなんとかなったかもしれないが、地の者でもない彼にそれを要求するのは酷というものだろう。
「ところが、州都までもう少しというところで凶事が起こったのです。カリナからロキザンに向かう途中でした。野宿をしようとしていたところを賊に襲われ、馬車と、リーナ様が奪われてしまいました」
 ルーファスは、そこで拳を強く握り締めた。
「とりあえず、ナガダ様には州都で代わりの護衛をつけて先に帝都を目指していただき、私は、付近の町を巡って彼女を探していたのです。そして、ロキザンの町で……」
 アキのほうをちらり、と窺いながら、彼は少し躊躇いがちに言葉を続ける。「その、ガーツェの麓、州都の北に、シンガツェという山賊の町がある……と」
 苦虫を噛み潰したような表情で、アキが頭を掻き毟った。
「ああ。あいつらならそう言うだろうさ。俺達が、こんな山間でそれなりな生活を送れるのは、他でもない、俺達自身の工夫と、努力と、交渉の賜物だ。何一つ苦労せずに、他人を羨むばかりな連中の言いそうなことだ」
 鼻息荒く腕を組んだアキの剣幕に、一同、言葉もなく目をしばたたかせた。次いで、ウルスの笑い声が小屋を震わせる。
「こいつはいい。山賊か。するとお前は定めし、山賊の若頭、と」
「ウルス!」
「冗談はともかく、帝都の騎士なら、俺が何者かは解っているんだろう? それで余計に、あの攫われた彼女とやらが現れるまで、山賊の町だと思い込んでいた、と」
 ルーファスは軽く頷いた。
「で、これからどうするんだ」
 ウルスの問いに、ルーファスは物怖じすることなく正面から彼の目を見つめ返した。
「彼女を連れて、帝都へ戻ります。貴方がたのことは、私の胸の内に伏せておきましょう。彼女を助けてくださったご恩返し、とは参りませんが」

「連れて? 記憶がないのに?」
 冷たい声は、サンのものだった。あまりに彼らしからぬ言いざまに、一同一様に息を呑む。
 いつの間にか、サンは立ち上がっていた。長身で威圧するかのように、胸を張ってルーファスを睨みつけている。
「ええ。連れて帰ります。こうなったのも全て私の責任。彼女の面倒は私が」
「何にも解っていないんだな……、『カナン家のみそっかす』様は」
 その呼び名に、明らかに不機嫌そうな眼差しで、ルーファスはサンを見返した。
「解っていないとは、どういうことですか」
「名前を聞いて思い出したよ。俺が鷲の塔まで運んだ司祭は、あんたが城に連れて来たんだ。忘れたとは言わせない。学者崩れの小間使い騎士殿、ランデの副助祭もあんたの仕事だったんじゃないのか?」
「……そのとおりです。でも、それは、北方の癒やし手のいない町や村に赴任していただくためです」
「嘘をつけ! じゃあ、あれはなんだったんだ! 塔の天辺に転がっていた腕輪は! 鷲の餌になっていたのは!」
「私はそんな話、信じない! それに、寒村を救済なさろうとしておられるのは、兄帝陛下ではない、セイジュ様だ!」
 双方ともに息を荒らげて、二人は真っ向から対峙した。間に挟まれる形になった長椅子に座る三人は、身を小さくして頭上を飛び交う刃のような視線から身を避けるのみ。
「それに、もう一つ。リーナは、俺の…………恋人だ」
 少しだけ躊躇して、だが、きっぱりとサンは断言した。
 
「えーーーーーーーっ!」
 合唱のごとく、シキとレイの声が響く。
「そんな、私、一っ言も聞いてないよ! 一体いつからそんなことになってるのさ!」
「おい! サン、お前、よりにもよって、なんであんなウルサイ奴と!」
「あーっ、うるさい! ぎゃあぎゃあ喚かずに一人ずつはっきりと喋れ!」
 ウルスの一喝に、二人はがなり立てるのをピタリと止めて顔を見合わせた。何度か視線で譲り合って、最後にシキがおずおずと口を開く。
「……サン、ゴメン。話、続けて?」
 大きな溜め息ののち、サンはわざとらしい咳払いとともに再びルーファスに向き直った。
「……とにかく、そういうことだ」
「それが、どうしたって言うんです?」
 挑戦的な色を目にたたえて、騎士は口のを微かに上げた。
「なるほど、彼女が私の傍らで、時々寂しそうな瞳をしていたのは、こういうことだったんですね。一方的に恋人に捨てられて半年では、すぐに気持ちも切り替わらないでしょうからね」
 サンの頬に朱が入る。
「捨ててなんて……いない」
「彼女が私にそう言ったのですよ。自分には決まった人はいない、と。それとも……謀反者の逃避行につき合わせるつもりだったんですか? 彼女を」
 サンの瞳に、微かに狼狽の色が浮かんだ。
「俺は……、このままだと、いつか『癒やし手狩り』の魔手が、イの町まで伸びるんじゃないかと……。だから……」
 両の拳を固く握り締めて、絞り出すような声で訥々と言葉を継ぐ。
「連絡を取れば、巻き込んでしまう。未練だって残りそうだったし……。事が終わるまでは会えない、会わないつもりだったさ。だけど、捨てたわけなんかじゃない」
「身勝手過ぎる!」
「なら、どうしたら良いってんだ!」
 凄まじいほどの気迫を込めて、二人は睨み合った。
 部屋の空気が限界まで張りつめる。全てが静止し凍りついた室内、暖炉の炎が作り出す影だけが時を刻んでいた。それらはやけに非現実的に、ゆらゆら、ゆらゆら、と部屋のそこかしこで揺らめいている。
「で、どうしたいんだよ? お前は」
 沈黙を最初に破ったのは、レイだった。言い争う二人の邪魔をしないようにと、長椅子の上で縮めていた身体をやにわに起こし、わざとつっけんどんな口調でサンに問う。
「こうなっちまった以上、腹くくれよ。躊躇ってると……取られちまうぜ」
 お前は気楽でいいよな! と言い返すサンの口元が笑っていることに気がついて、レイもにやり、と笑い返した。
「リーナは俺達と行く。ウルスさん、いいですよね」
「馬鹿な! 彼女を犯罪者にしようというのですか!」
 ルーファスが叫んだその瞬間、鋭く手を打ち鳴らす音が小屋の空気を震わせた。
 
「私に言わせてもらえば……、どちらも同じくらい馬鹿ね。大馬鹿だわ」
 いつの間にか、戸口にアキの母が立っていた。
「本人の意思をそっちのけにして、ああだこうだと言い立てたところで、何の意味もなさないというのに。ねえ……リーナ?」
 小気味の良いぐらいにぴんと伸ばされた夫人の背中から、所在なさげにリーナが顔を出す。
「母上、どうしてここに……」
「ね? どうせろくなことにならないからって、様子を窺いに来て正解だったでしょ?」
 アキの問いかけには答えずに、夫人はリーナに笑いかける。
「一体、いつから聞いていたんですか!?
「最初から。すっかり身体が冷えてしまったわ。ちょっと火に当たらせて頂戴」
「母上!」
 呆れたようなアキの声を無視して、躊躇いもなく暖炉の前に向かう夫人の姿を、一同は呆然と見守った。サンだけが、安堵の溜め息とともに、ずるずると椅子の上に崩れ落ちる。
 彼は昔語りの中で、例の「小鳥と鈴」亭のことを接客酒場だと偽って話していた。揶揄するようなウルスの視線が、この見栄っ張り、と笑っているようだったが……、真実を言わなくて良かった、そうサンは心から思った。娼館通いをしていたことをリーナに知られなくて、本当に良かった、と。
「で、あなたはどうしたいの? リーナ」
 暖炉の炎を背景に、夫人は静かに振り返った。
「選択肢は三つ。故郷に帰るか、彼らについていくか、ここに残るか。そうね、記憶が戻るまでの期間だけでも、ここに居ていいのよ。我が家は女っ気がなくてね。娘ができたみたいで私はとても喜んでいるのよ」
「三つ……って、母上、その……、四つ、なのでは?」
「馬鹿ね」
 ぴしゃり、と撥ねつけられて、アキが気色ばむ。
「どう考えても、陛下の召喚令はおかしいでしょう? 帝都が優秀な癒やし手を集めているという話は、耳にしたことがあります。でも、貧しい村々を救済するためなら、医者や薬師にも声がかかるはずなのに、そんな話はない。違うかしら?」
「………………あ」
 ルーファスが、愕然と声を漏らした。
「癒やし手にしても、何も上位の人間から引っこ抜かなくっても良いはずでしょう? 理由は別にあるはずだわ。あなた、そんな不可思議な命令に愛する人を従わせることができて?」
 愛する人、の単語に、サンが思いきり嫌そうな表情を作る。対してルーファスは頬を薔薇色に染めて、「そんなこと、できません!」と力強く頷いた。
 それを聞いた夫人は、今度はサンのほうに向き直り、軽くウインクする。
「あなたとの甘い記憶も、今の彼女は失っているわ。些細なことで仲間同士でいがみ合っている場合じゃないでしょう?」
 甘い記憶、という言葉に、二人の反応が入れ替わる。二人とも、見事なまでに御母堂に手玉に取られてしまっていた。
「何? 仲間?」
 一呼吸置いてから、ウルスがようやっとその単語を聞き咎める。夫人は、しれっとそれに答えた。
「あら、皇帝陛下の不正を暴くというのなら、双方目的は同じではなくて?」
 そうして、夫人はリーナを見て、優しく微笑みかける。
「彼らとともに行くか、ここに残るか。あなたの好きなようにすればいいのよ」
 全員から注目され、リーナは眉間に皺を寄せながら、数度その瞳をしばたたかせた。
 
 
 

    四  幻影
 
 ロイは、椅子に座っていた。
 暗い部屋。無音の部屋。
 一体、ここはどこなのだろうか。光も、音も、匂いも、何も感じられない空間。だが、彼は、ここが自分の良く知っている場所であるということを確信していた。
 知っているはずなのに……解らない。
 どこだ? ここは。誰もいないのか?
 手首を動かそうとして、枷が嵌められていることに気がついた。
 足も同様だ。
 遠くから、どこかで聞いたことのある低い声が響いてくる。
『君は、…………になるんだよ』
 
 ――ああ、そうだった。自分はそのために生かされていたのだ。
 得心がいった瞬間、ロイの身体がどんどん冷たくなっていく。
 まず、足の感覚が無くなった。足だけではない、ほら、手も。自分の指先が暗闇に溶けるようにして消えていくのを感じて、ロイは何故か穏やかな心地で瞼を閉じた。冷気はそのまま末端から身体の中心へと這い進み……、やがては心の臓に達するだろう。
 
 ふと、温かいものが首筋に触れた。
 
 ロイの心音が跳ね上がった。
 そんなはずはない、と、歯軋りしながらも、塞いだ瞼を静かに開いてしまう。
 細い、華奢な手が首筋から頬を撫でている。そして、目の前にある、深緑の大きな瞳。
 彼女は、にっこりと笑うとロイの頬から手を放した。今度は肩に手を置いて、そのままロイの腕をなぞっていく。
 彼女の指先が触れたところから、ロイは身体を取り戻し始めた。肩、腕、手首、指、……そして、腰、腿、膝……。
「何故だ。君はあいつの許へ行ったのではなかったのか?」
 つま先まで触れてから、彼女は軽やかにきびすを返した。闇の中に光の筋が生まれ、やがてそれは扉の形になると、彼女は眩い光の中へと消えていく。
 
 行かないでくれ。
 その台詞はまたもロイの喉に貼りついたまま、発せられることはなかった。
 
 
 着替え終わったロイは、朝の冷たい空気を大きく胸に吸い込んだ。
 帝都に戻ってから五日が経っている。暦は既に十一月を半ばまで過ぎ、吐く息もうっすらと白みを帯びるようになっていた。
 ルドスを発ってからというもの、どうにも毎晩夢見が悪い。寝不足の頭を振りながら、ロイは大きく嘆息した。連日の夢の内容は全然憶えていない。ただ、起床時に漠然とした不快感が身体全体に纏わりついているのみ。
 だが、今朝は違った。くっきりと記憶に残るのは、彼女の微笑。
 ――未練がましいこと、この上もない。
 ロイは忌々しそうに息を吐き出した。いつまでも他人のものに執着するなど、無駄の極地だ。馬鹿らしいにもほどがある、と。
 あれから半月。これまで一度として彼女を思い出すことなどなかったのに。ルドス郊外で袂を別ったあの時、ロイは彼女の存在をおのれの中から抹殺することを決意し、それはほとんど成功しているはずだった。
 ――いや、成功している「つもり」だった。
 ロイは観念したようにそっと目を閉じると、大きく溜め息をついた。
 そうだ。彼女の存在は依然として自分の記憶の中に在る。今朝ほどはっきりとした記憶はないものの、夢に見たことは……そう、一度ではない。
 それにしても、今朝はいつもの不快感が随分と軽減されていた。ということは、彼女が悪夢の正体というわけではないということか……。
 殊更に冷静な思考を努めながら、ロイは居室をあとにした。
 
 
 
「計算外だよ」
「え?」
 朝議が終わって、アスラの執務室にともに下がったロイは、あるじの呟きに思わず動きを止める。
 アスラは壁際の自分の椅子に深く腰を下ろして、深い灰色の瞳をロイに向けた。
「君の執着の心が並々ならぬということは知っているつもりだったが……これほどまでとはな」
 執着の心……とは。ロイは密かに息を呑んだ。
 ――このお方は、どこまで私のことを見透かしているのだろうか。「君のことならなんだって解るのだ」との囁きは、どこまで真実なのであろうか。
「何のことでしょうか」
 平静を装って、ロイは静かに問い返す。アスラは、その問いには直接答えずに、気だるそうな表情で机の抽斗に手をかけた。
「これを……君に確認してもらうとするか」
 彼が取り出したのは、一枚の紙だった。手渡されたロイは、視線を紙面に走らせるや否や、全身を硬直させた。
「どうだ? 良くけているだろう?」
 そこにえがかれていたのは、先ほどから自分を悩ませていた人物の肖像だった。今朝の夢とは違ってその表情は硬く、唇は静かな決意を秘めて結ばれている。
 暗い色の髪を緩やかに落とした襟元、そのままなだらかに伸びる肩口の曲線。筆がえがき出す単色の画像にもかかわらず、その優雅な筆致はロイの中に、彼女と過ごした時間をまざまざと思い起こさせた。
「名前は……シキ、だったか」
 そう言って、アスラは手元の小さな紙片にペンを走らせた。『尋ね人、シキ』
「歳は幾つなのだ? 背は五フィート三インチといったところか?」
「十九です。……陛下、これは一体?」
「見て解らぬか? これを各地の警備隊に配ろうかと思ってな」
 文字を入れるのは版元に任せるとしよう、と呟きながら、アスラは書き終わった覚え書きを淡々と読み上げる。
「尋ね人、峰東州都ルドス郊外にて、反乱団『赤い風』に攫われし娘。歳は十九、深茶の髪、緑眼、身長五フィート三インチ。……そうだな、謝礼あり、にしておくかな?」
「ですから、これは一体どういうことですか?」
 アスラが呆れ顔でロイを見上げた。
「君の妄執を払拭してやろうと思って、な。賊の中に君の愛弟子が捕らえられているということ、、賊にくみさせられているということ、そして、必ず無事に保護すべしということを、加えて徹底させておこう」
 ――シキをこの手に取り戻す。それは願ってもないことだ。
 さしもの頑固者とて、想い人が本当に死んでしまえば、この自分になびくことだってありうるかもしれない。いや、ありうるだろう。現に、一時いっときとはいえ彼女はこの自分についてくることを承諾していたのだから。それに、どうしても奴のことが忘れられないというのならば、いっそ魔術の力に頼ってしまえば良いのだ。一番最初はそのつもりだったのだから。
 だが、どうしてもロイはアスラに感謝の言葉を発することができなかった。
 矜持の問題なのだろうか。アスラの申し出を手放して喜べないのは、たかが小娘一人を、自分だけの力で手に入れることができない、と喧伝されるも同然だからなのだろうか。
 それとも、もっと直感的な、何か……
「彼女さえ手に入れば……、君も夜、ぐっすりと眠ることができるようになるだろう?」
 アスラの笑みに禍々しさを感じるのは、……きっと気のせいだ。ロイは無理矢理自分にそう言い聞かせた。
 
 
 
 十年間の空白を埋める作業は、簡単なものではない。
 ただ、幸いにもさきの戦争でのロイの華々しい手柄は、まだ充二分に人々の記憶に残っていた。無責任な道楽者、という烙印は密かに押されているかもしれなかったが、ロイの能力について疑いを差し挟む者は表立っては一人もおらず、むしろ誰もが、アスラ兄帝の右腕の復活に諸手を上げて賛成していた。
「いやあ、私などでは、到底力不足で」
 宮廷魔術師長補佐、という年配の男は、魔術師長の代役が重荷であったことを正直に告白し、書庫を始めとする諸々の部屋の鍵の束をロイに押しつけると、説明もそこそこに退出していった。以来五日間、彼は無位の宮廷魔術師達とともに、自ら言うところの「身の丈に合った」仕事に没頭して、アスラの執務室やその控えの間である魔術師長執務室へは一歩たりとも近寄ろうとしていない。
 自分の執務室で書類を整理していたロイは、溜め息をついて立ち上がった。引き継ぎに際して、彼が受けた説明は無きに等しい。そのため、どうしても作業効率が悪くなりがちだ。
 魔術師長補佐がロイの姿を見るたびに萎縮しているということを、ロイは充分に認識していたから、つい彼のもとを訪ねる回数を減らそうとしてしまう。自分も随分丸くなったものだな、と苦笑まじりに呟きながら、ロイは先任者を探して部屋を出た。
 
 
「休暇?」
「はい。元々カバナズ殿は身体が丈夫なほうではありませんでしたので……、おそらく、魔術師長様に職務を引き渡すことができて、ほっとなさったのでしょう。昨晩、急に体調を崩されて、ご実家のほうへ休養に帰っておられます」
 宮宰の言葉に、ロイは思わず中空を振り仰いだ。
 あの、莫大な書類の山を、独力で切り拓かねばならないというのか。一気に、勤労意欲が削がれてしまう。
「代わりに誰か手隙の者を寄越しましょうか」
「いや、それには及ばない。手間を取らせたね」
 
 第三城壁に連なる「緑の塔」を出たロイは、中庭を横切りながら、ふと目前の「鷲の塔」を見上げた。
 紺碧の空に、花崗岩で組まれた優美な四つの尖塔が伸びている。その向こうに一際高くそびえ立つ櫓塔の周りを、鷲が三羽、悠然と飛び交っていた。食事を終えた彼らはまた虚空高く羽ばたいて、おのが巣へと帰っていくのだろう。
 ――実家……か。
 ロイは思わず足元に視線を落とした。しばし何か思いつめた瞳で自分の影を見つめている。
 そうして、今度は早足で執務室を目指し始めた。
 
 
 
 ロイが魔術学校の門をくぐったのは十歳の時だった。子爵に拾われたのは九歳の時だったから、ロイはその家で一年を過ごした計算になる。
 紋章入りのシャツを簡素なものに着替え、外套を羽織ってロイは城下に出た。大通りで客待ちの二輪馬車を拾い、行く先を告げる。
 目指すは、馬車で一時いつときほど南に位置する、商都ランデ。その郊外にタヴァーネス子爵邸はあった。
 
 帝都の魔術学校の寄宿舎に入ってからは、忙しくて帰ることができなかった。
 生徒の大部分を占める貴族や郷士の子弟からは蔑みの目で見られ、残る平民出身の生徒からは妬まれ、ロイは自分の居場所を確保するためにも、血の滲むような努力で魔術の勉強に打ち込んだのだ。
 そうして、他人に誇れるほどの知識と技能を手に入れると、今度は研究が楽しくて仕方がなくなった。文字どおり寸暇を惜しんで、彼は学校の図書室に、師匠であるザラシュの研究室に入り浸っては魔術の世界に没頭した。
 それに、子爵は一度も「帰って来い」とは言わなかった。それを良いことに、ロイは週末も、学友達が帰省する長い休暇も、全ての時間を自分の知識欲を満足させるためだけに費やしたのだ。
 そういえば、三年生の時に一度「帰ったほうが良いですか?」との手紙を出した憶えがある。だが、それに対する返信は、「帰ってくるべき時にはこちらから連絡をするから、それまでは寄宿舎を家と思うように」という、ロイにとって非常に都合の良いものだった。授業料は毎月きちんと支払われていたし、必要な小遣いも欠かさず送金されてきた。
 そう、ロイは何を気にすることもなく、八年もの間、研究に没頭することができたのだ。
 
 宮廷魔術師に任命された時も、子爵からは手紙が届いただけであった。
 自分で稼ぎ、糧を得るようになり、日々の生活に忙殺され……、更に歳月を重ねるうちに、いつしかロイの心から子爵の存在はすっかり消えてしまっていた。
 自身の経歴を思い返したり口にのぼしたりする時に、子爵の名が浮上することはあったが、子爵自身について思い巡らせることは皆無だった。半月前のルドス郊外での襲撃のあとにあの夢を見るまで、人生における最大の恩人のことを、ロイは見事なまでに失念していたのだ。
 自分の薄情さに少し呆れながら、ロイは窓の外に流れる風景をぼんやりと眺めていた。
 
 ランデの街の中心から、東へ、山の方角へと馬車を走らせる。
 子爵のもとに居た一年間で、ロイは基礎となる知識や、礼儀作法などをみっちりと仕込まれた。そのため、彼は屋敷の外にほとんど出たことがなかった。自分がどの街のどの辺りに住んでいるかなど、その時の彼には知るよしもなかったのだ。
 だが、最初に連れてこられた時の記憶と、屋敷の窓から見えた景色、そして寄宿舎へ向かう馬車の窓越しの風景。そういった材料を基に、ロイは在学中に自分の「実家」の場所を特定していた。
 迎えの馬車を待たずに、一人で帰って子爵を驚かせよう、という目論みを抱いたこともあったのだ。結局一度も実行しないまま、学生生活は終わってしまったわけだが。

 
 
「ああ、ここで停めてくれ」
 微かに見憶えのある石垣を認めて、ロイは馬車の天井をノックした。御者に、しばらくここで待つように言い、ロイは雑草の生い茂った轍道を塀に沿ってゆっくり歩き始めた。
 生け垣はすっかり自然の姿を取り戻し、まるで森の入り口のようだった。道の反対側に並ぶ邸宅の、手入れの行き届いた前庭との落差があまりにも激しすぎて、ロイは何か不吉なものを感じずにはおられなかった。
 子爵の身に何かあったのなら、自分に一報が届くはず。いや、辺境に引き籠もっている間のことならば、そうとは限らないだろうか……。不安を何度も嚥下しつつ、ロイは歩みを進めた。小山のように盛り上がった木々の梢を横目で通り過ぎ、角を曲がる。塀を左手に見ながら歩みを進めたロイは、数丈進んだ所で愕然として立ち止まった。
 葉の陰に半ば埋もれた門。
 朽ち果てた門扉。
 背の高さほどまで生い茂った下草の向こう、廃屋としか形容できない荒れた建物。
 ――おかしい。変だ。
 僅か十年間で、こんなにも変わり果てるものだろうか。
 門も、屋敷も、ロイの記憶どおりの形状をしていた。場所も間違いない。そう、「これ」はタヴァーネス邸のはずなのだ。ロイは呆然としながらも、頭の奥底から記憶を必死で掘り出そうとした。
 
 初めてこの家に来た時の、子爵の上背のある影。両肩に置かれた、温かい手のひら。
 綺麗に刈り込まれた庭木と、古いながらも清潔感に溢れた建屋。
 目が覚めた時には常に部屋の暖炉には火が入れられていた。
 食堂に並べられた、簡素ながらも充分な食事。焼きたてのパン。
 勉強部屋での日課が終わって部屋に戻ると、整えられた寝台が待っていて……。
 
 信じられないぐらい快適な館での生活。当然ながら、使用人がいたはずだ。なのに、一年もの間、彼らの姿を一度も見ていないというのは、どういうことだ?
 いや、そもそも――
 
「どうかされたかね?」
 驚きのあまり跳ねるように振り返ったロイの視線の先、牛乳の缶を幾つも積んだ荷馬車が停まっていた。手綱を握る老人が怪訝そうな顔でロイを見つめている。
「……いや、あの、……貴方はこの辺りの方ですか」
「そうじゃよ。この先で牛飼いをしとるでな」
「この……、この屋敷は、一体どなたのお屋敷なのですか?」
「はて……」
 老人は目をすがめながら、門の奥を覗き込んだ。
「誰のお屋敷ってったってなあ。ここはもうずーっと誰も住んどらんからのう。そうじゃなあ、もう四十年以上は、このままじゃなかったかのう」
「四十……年…………」
「なんでも、跡目の絶えた貴族様のお屋敷だったそうじゃがの。幽霊屋敷と呼ばれて久しいわい」
 ロイは、唾を飲み込んだ。口の中が乾いてしまっているのをおして、必死で声を絞り出す。
「それは、もしかしてタヴァーネス家とはいいませんでしたか?」
「タ……、うーん、そういやそんな長ったらしい名前だったような気がするが……、なんじゃ、あんた、そのタ……なんちゃらというお屋敷をお訪ねだったのかい?」
 
 ――いや、そもそも、養父の顔をかけらも憶えていないというのは、どういうことだ?
 
「いえ……、なんでもないんです……」
 ロイは動揺を押し殺して辛うじてそう答えると、来た道を静かに戻り始めた。
 
 
 
 ああ、またあの夢だ。
 暗い部屋。無音の部屋。
 いつも自分が座っている辺りに、何か白いものが見える。
 
 ロイが近づくと、「それ」は軽く身じろぎをして、顔を上げた。
「せんせい……」
「シキ……どうして」
 熱の籠もった瞳で、シキがロイを見上げてくる。
 彼女は、頭の上で両手を拘束されていた。手首に食い込む荒縄の端は、遥か頭上の虚空へ、暗闇へと吸い込まれるように伸びている。
「先生……、縄を……解いてください……」
「これは、一体どうしたんだ」
 ロイは慌ててシキの手首をほどこうとするが、その結び目はあまりに固く、いくら爪を立てても一向に緩む気配がない。
「何か、切るものは……、くそっ、一体誰がこんなことを」
「……先生よ」
 ぞくりとするほど艶のある声。ロイは軽く息を呑むと、視線をシキの身体へと落とした。
 シキは、白い服を着ていた。いつもの、黒い服――かつてあの男が好んで着用していたような黒づくめの服装ではなく、目に眩しいほどの白装束を身に纏っていた。
「だって、私は、先生のもの、ですもの……」
 その瞬間、地面がかしぐ感覚がロイを襲った。
 
 センセイノ、モノ、デスモノ……
 
 まるで、頭の中が一瞬にして沸き立ったかのようだった。抑えきれない衝動に突き動かされ、ロイはシキを無我夢中で抱きしめる。
 ――そうだ、私のものだ。他の誰のものでもない、この、私の……!
 いつの間に拘束が解けたのだろう、彼女の華奢な腕がロイの背中にまわされる。
 感極まって、ロイはシキに口づけた。
 ――誰にも渡さない。私だけの……!
 またたく間に深くなる、接吻。激しく求めれば求めるほどに、シキの反応も高まっていく。情熱的に、貪欲に、今にもロイを喰らい尽くさんばかりに……。
 
 ――違う。
 
 ロイは、唐突にシキの唇を解放した。
「誰だ」
 切なそうな表情で、シキがロイを見上げる。
「せんせい、もっと……」
「お前は、誰だ」
 シキが妖艶な笑みを浮かべて、身をくねらせる。
「わたしといっしょに、『ここ』でくらしましょう……」
 
「違う。お前は……シキではない!」
 
 刹那、シキの姿は溶けるようにして消え、入れ替わりに立ちのぼった影が、ロイの両肩を掴んだ。
「強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。そして……我が…………となれ……」

第十四話  滴り落ちる闇

「こちらにおいでになるなら、せめて昨日のうちに連絡していただけたら……」
「あ、いや、どうか気にしないでください。何の用意も世話もしなくて良いので……」
「しかし……」
 かしこまる年配の使用人に優しく微笑んで、ルーファスは軽く咳払いをした。
「正直なところ、私が別荘を使ったことは、父には秘密にしておきたいのです。ですから、どうか何もお構いなく」
「しかし、お坊ちゃま」
「その……、実は、ルドスへは、騎士としての仕事のついでに植物採取に来たので……。父に知られると……」
「おお」
 使用人は、ぽん、と手を打つと、ルーファスの背後に並ぶ面々を得心がいったように見まわした。
「なるほど。では、皆さんは学校の時のお知り合いで……」
「あー、ああ。そうなんですよ。ですから、雨風さえ凌ぐことができれば、あとは自分達で外に食べにも行きますし……。それに、早ければ明日にでも出立の予定ですので……」
 心得たふうに大きく頷きながら、使用人が悪戯っぽい笑みをルーファスに投げかける。
「了解いたしました。では、他の者にも周知徹底させておきましょう」
「ありがとうございます、助かります」
「いえいえ。お坊ちゃまに夢を諦めさせたのが旦那様の我侭なれば、お坊ちゃまもたまには我侭をお通しになれば良いのです」
 お坊ちゃま、と連呼され、ルーファスは明らかに外野の視線を気にして顔を赤くした。
「とにかく、食事も何も用意しなくて構いません。部屋も二つだけ、ご婦人と残りの者とで使います。あとの掃除だけはお願いすることになると思いますが、他は何もしなくて良い……、いえ、何もしないでください。お願いします」
 
    一  道標
 
 シンガツェでのあの騒動から十日。シキ達は二週間ぶりにルドスの土を踏みしめた。
 この街を出立した時と違って、今度は総勢七名。その内四名は立派なお尋ね者だ。本来ならば、少人数に分かれて行動するのが良いのだろうが、今度ばかりは組分けが上手くいかなかったのだ。
 当初、ウルス達はルドスには立ち寄らない予定だった。一度あんな騒ぎを起こして、人々の――とりわけ警備隊の――耳目を集めてしまっている以上、不用意に街に姿を現すのは危険過ぎる、というのが彼らの考えだったのだ。
 だが、シキの一言が全てを覆してしまった。
「そうだ。サラナン先生だったら、リーナの記憶を取り戻すことができるかも」
 彼女が自身の体験を語り終わると、リーナはもとよりサンとルーファスも色めきたち、一も二もなくルドスのユールのもとを訪ねよう、と主張し始めた。睨み合う男二人の間に挟まれたリーナの、縋りつくような瞳に応えて、シキもルドス入りに挙手し、そうなれば当然レイも従うことになる。
 意外だったのは、老師ザラシュ。彼もまたユールの術にいたく興味を示し、やはり同行を申し出た。そうなれば、ウルス一人が突っ張ったところで事態はどうにもならない。
「どうなったって知らないからな」
 捨て台詞ともとれるウルスの虚しい一言とともに、結局一同はルドスの門をくぐることになったのだった。
 
 で。
 結局、同様な理由で三手はおろか二手に分かれることもできず、かといってこの目立つ集団のままで宿を探すことは不可能と思われ、いい加減手詰まりを迎えたところで、ルーファスが躊躇いがちに、カナン家の別荘がルドスにあることを告げたのだ。
 
 
「サンの奴や他の人間はともかく、悪いが俺は『恩義』という言葉には無縁でな。見返りも期待しないでもらおう」
 客間の肘掛け椅子に納まったウルスが、鷹揚に言葉を吐いた。言外に、ルドス入りは自分の意向ではないということを強調している。
「そんなもの、かけらも期待していませんから。私はリーナさんに不自由をかけさせたくないだけです」
 優しげな表情で辛辣に返し、ルーファスはにっこりとリーナを振り返る。
「あー、ははははは」
 とりあえず笑っとけ、と言わんばかりの笑みを顔に貼りつけて、リーナは救いを求めシキの姿を目で探した。
 
 シンガツェでの一週間、記憶を無くしたリーナの傍について彼女の世話を焼いてくれていたのは、シキだった。
 物言いたげに、だが何も言わずに、ただ自分の話し相手になってくれるシキ。リーナは彼女の言葉ならば信じることができる、と思った。
 勿論、自分を助けて拾ってくれたナオノのことは勿論、彼女の息子のアキも、その友人達だという男達も、信用できないというわけではない。だが、自分自身のことすら定かではないリーナにとって、全ては薄いベールを隔てた向こう側にあった。手を伸ばしても、伸ばしても、指に触れるものは掴みどころがなく、何もかもが握り締めた指の隙間から煙のように霧散していくのだ。
「ねえ、私って、どんな人間だった?」
「どんな、って……、今と同じ。全然変わってないと思うけど」
 シキは、少しだけ考え込む素振りを見せたが、すぐにリーナに笑いかけてきた。
「裏表がなくって、気取ってなくて、それって本っ当にリーナの『地』だったんだねー」
「あー、まあ、自分を『作る』ほど奥行きないってことかなあ」
「違う違う、そういう意味じゃなくて。これまでも、何も構えることなく付き合ってくれていたんだなあ、って嬉しくて」
「友達付き合いするのに、構えてたら疲れるだけじゃん」
 不思議そうに応えるリーナに、シキが曖昧な笑みを浮かべる。その笑顔があまりにも切なくて、リーナは何も言えなくなってしまった。
 ――彼女がこんな表情を見せる理由を、私は知っているんだろうか。知っているのなら、何と言って彼女を慰めたんだろうか。
「やっぱ、リーナは強いね」
「……その台詞、なんかすっごく耳になじむんだけど」
 シキが笑い出すのを見て、リーナは満足そうに鼻を鳴らした。それからちょっと大袈裟に落胆してみせる。
「だよねえ。色男二人を手玉にとる悪女、ってのは、やっぱり私の雰囲気に合ってないよねえ。二人の男が奪い合う、か弱き乙女、ってのも……って、ちょっと、シキ、笑い過ぎ!」
 
「はいはい、御託は分かったから、さっさと眼鏡先生を呼んで来て、記憶を取り戻してもらおう」
 至近距離のその声に、リーナは一気に現実に引き戻される。
 サンがこれ見よがしにルーファスとリーナの間に割り込んでいた。そして、そのままの位置でザラシュのほうを振り返る。
「ザラシュさんも立ち会うんですよね。でしたら、こちらにお呼びしたほうが良いですよね?」
「そうだな。大勢で移動するよりも人目を引かぬだろうから……、構わんな? 宜しく頼むよ」
 ザラシュが、ほとんど形式的にウルスに確認をとったのち、いつになく目を輝かせてそう答えた。一方ウルスは軽く肩をすくめると、また椅子の背に身を沈ませる。
 その時、部屋にノックの音が響き渡った。
 ルーファスが大きく溜め息をついてから、ぶつぶつとぼやきつつ扉に歩み寄る。
「どうしました? 本当に何も構わなくて良いと……」
「それが、あの、お坊ちゃま。お客様が……」
「客? 私に? 一体誰が?」
 部屋の空気が一瞬にして張りつめた。だが、既に何かに動揺している様子の使用人は、その雰囲気の変化に気づくこともなく、ルーファスの問いにおずおずと口を開く。
「はい。あの……、それが、サベイジ家のご三男が……」
 その刹那、場の緊張は最高潮に達した。二人の人間を除いて、全員が金縛りにあったかのように凍りつく。
 ただ事ならぬ雰囲気に、例外の一人たるリーナは、おろおろとあたりを見まわした。
「さべいじ? 誰だ、それ?」
 怪訝そうに首をひねるレイの隣で、シキがごくりと喉を鳴らした。「……エセル・サベイジ。ルドス警備隊隊長だよ」
 
 
「カナン家のご嫡男がルドスにお戻りになったと聞いたので、ご挨拶にお伺いいたした」
 外套を羽織ったままの姿で、エセルは広い玄関ホールの中ほどに佇んでいた。その傍で、若い使用人がすっかり取り乱した様子で右往左往している。
「これは、失礼いたしました。私のほうこそご挨拶に伺わねばならないところでしたのに。……こんなところで、失礼でしょう。お通しなさい」
「そ、それが……」
「良い。私が辞退したのだ。長居するつもりはないのでね」
 午前の柔らかな日差しが、吹き抜けのホールにさんさんと降り注いでいる。その眩い陽光の中に、エセルの外套と髪の色はあまりにも暗く、周りの景色から不気味なほどに浮き上がってしまっていた。
 ルドスの北門をくぐったのは今朝早く、市に向かう人々の列に混じってのことだ。それからこの屋敷に入って、まだ数刻しか経っていない。一体、どこからどういう情報が彼の耳に届いたのだろうか。彼はどこまでを知っているのだろうか。ルーファスは思わず唾を飲み込んで、それから意を決して静かに来客のほうへと歩みを進める。
「届けのあった、山賊に攫われた娘というのは、見つかったのだろうか」
 年上の貫禄なのか、それとも単に踏んだ場数の違いなのか、同じ爵位をいだくはずのこの男に比べて、自分がとても矮小な存在であるようにルーファスには感じられた。
 いや、違う。サベイジ家は同じ公爵家だが、彼は嫡男ではない。本来ならば、カナン家を継ぐ自分のほうが優位であるべきなのだ。ルーファスは知らず拳を握り締めて、エセルに向かい合った。
「はい。午後にでも、警備隊本部のほうへご報告にあがろうと思っていたところです。おかげさまで、無事発見することができました」
 ほう、と、感心したような声が、エセルの喉から漏れる。
「司祭は、既に帝都へと向かわれた。警備隊から護衛を二人つけておいた」
「ありがとうございます」
 エセルは「礼には及ばない」と軽く手を振り、それから一転してその抜き身のような気配を緩めてきた。
「で、彼女は?」
「は?」
「攫われたという癒やし手だよ。どんな美女かと思ってな」
 返事を忘れて、ぽかんと口を開いたルーファスに、エセルがにやりと笑いかけてくる。
「今を時めくカナン家の御曹司が、任務を打ち捨てて助けようとなさった女性だ。気にならぬほうがおかしいだろう?」
「そんな……。そもそも、彼女を帝都へご案内することが任務なのですから」
「そう。だからこそ、だ。司祭をお送りするのが貴公の仕事で、山賊退治は我々の仕事。違うか?」
「……そう、ですね……」
「で。彼女はどこに?」
 自分で家捜しをしかねないエセルの勢いに、ルーファスは慌てて使用人にリーナを呼ぶように指示を出した。
「どうぞ、応接間へ」
「良いと申しただろう。彼女を一目見たら仕事に戻ることにする」
 優秀な剣士であり、帝国最年少の警備隊隊長、そして……。
 ルーファスはもう一つのエセルに対する称号を思い出していた。
 ――稀代の女好きという噂は、本当だったのか……。
 思わず嘆息が漏れるのを、ルーファスは止められなかった。
 
 
 
「なんで、お前と組まなきゃなんねーんだ」
「それはこっちの台詞だ」
 午後の目抜き通り。ぼやくガーランにラルフが即座に毒づき返す。
 同じような体格に加えて、髪の色、瞳の色もほぼ同じ二人だったが、その印象にはあまりにも差異がある。見るからに不真面目そうなガーランに対して、ラルフの視線は神経質なほどに真っ直ぐで、今も、前屈みでかったるそうに歩く相棒に、非難の色を添えて注がれている。
「しゃきっと歩けないのか。見苦しい奴め」
「別に俺がどんな歩き方してようが、関係ないだろ」
「警備隊の沽券に関わる。傍にいる俺まで品性を疑われる」
「別に素っ裸で歩いているわけでもなし。何が品性だよ」
 と、そう言って煙草を咥え直したガーランの目が、悪戯っぽく輝いた。口のをぐいと吊り上げて、彼はえんじのジャケットを脱ぎ始める。それを見たラルフが、驚愕の表情を浮かべて硬直した。
「な……、ま、まて、……何を……」
 すました顔でガーランは、脱いだジャケットの袖を腰にまわして結わえつける。それから、酷く意地の悪い表情で、ラルフの顔を覗き込んだ。
「ちょっと暑いから、上着脱いだだけだぜ?」
「……お前のそういうところが、大っ嫌いなんだ!」
「そんなに感情的になったら、警備隊の沽券に関わるぜぃ」
 歯軋りの音が聞こえてきそうなほどラルフの顎に力が込められるのを見てとり、ガーランは心の中で舌を出してほくそ笑んだ。
 ラルフは自分のことを嫌っているようだが、ガーラン自身は、この融通の効かない同僚のことを結構気に入っていた。他人だけでなく自分にも厳しいその態度は、見ていて清清しいものであったし、それに何より……からかい甲斐がある。
 ――俺って、ホント、根性悪いよな。
 忌々しそうにガーランを睨みつけながらも、律儀に歩調を合わせてくるラルフを、ちらりと横目で窺いながら、ガーランはもう一度煙草を咥え直そうとした。
 その手が、動きを止める。
 ――あれ?
 ふと、前方に違和感を覚えて、ガーランは目をすがめた。何か、ぼんやりとした既視感を覚えたのだ。
 目の前にあるのは、往来を行きかう人々の群れだ。こちらからあちらへと流れゆく人の波と、あちらからこちらへとやってくる人の流れ。二つの人波はその境界で時折混じり合い、時に衝突して、ざわめきとともに彼此ひしへ去っていく。
 その三丈ほど先に見え隠れする横顔が、ガーランの心に引っかかったのだ。
 目深にかぶった帽子は、しっかりと耳あてが下ろされていた。そのせいで微妙に判別のつかない人相の中、ちらちらと窺える勝ち気な瞳だけが、ガーランの記憶をざわめかせる。
 いや、だが、ありえない。彼女ならば、今頃は自分の師匠とともに帝都のお屋敷に納まっているはずだ。ガーランは半信半疑の眼差しを何度も投げかけた。進行方向、深茶の長髪の男と腕を組んで歩いている若い女に。

 
 
 エセルがカナン家別荘を訪れたことによって、事態は著しく混乱した。
 この屋敷は、警備隊に監視されているかもしれない。ならば、ユールをここに連れてくるわけにはいかないだろう。ユールは反乱団にとって重要な情報源だ。不用意に危険に晒すわけにはいかない。
 では、こちらからユールの家に出向いてはどうか。最小限の人数で、目立たぬように。
 だが、それも叶わないことに思われた。何より、既にリーナの面が割れてしまっている。帝都に招へいされた癒やし手が、何の用があってルドスの歴史教師の家を訪ねるというのか。
 喧々轟々の話し合いの結果、色んな意味で一番身軽なレイと、そのお目付け役としてシキが、まずは先鋒隊としてユールの家を訪ねることとなった。そうして日時を指定して、どこか街中ですれ違いざまにでもリーナに施術してもらおう、と、そういう話に落ち着いたのだ。
 
「なあ」
 少しでも警備隊の視線をかわすことができるように、二人は腕を組んで歩いていた。まさか逃亡者が街中で堂々と逢引などとは、誰も考えないだろう、と。
「何?」
「偽装」の指輪で髪の色を変えたレイの姿が新鮮で、シキは少しドキドキしながら返事をした。そもそも、二人で腕を組んで往来を歩くというのも初めてのことで、ついつい顔が綻んでしまう。
「寄り道してる余裕って……」
「無いよ」
 しかし、いくら浮かれていても、目的と意義を忘れてはならない。シキはレイの目を覗き込みながら、きっぱりと言いきった。
「ちょっとぐらいは……」
「米粒ほども、無い」
 レイが唇を尖らせる。
「なんだよ、つれないなあ」
「状況を良く考えようよ」
「良く考えてるから、言ってるんだぜ」
 甘い気分が、レイが口を開くたびにどこかへ吹き飛ばされていく。シキは大きく溜め息をついた。
 だが、レイはというと、シキのそんな様子に気がつくふうでもなく、相変わらず拗ねているような口調で、しつこく食い下がってくる。
「もう一週間、キスも無しじゃん」
「レーイー」
 半ば呆れながら、シキは眉間に皺を寄せた。おかしい。お使いとはいえ、さっきまでは楽しい恋人同士の散歩のはずだったのに。
「奥様、とやらがシキとリーナを別部屋にしてから、ろくに一緒にいられなかったし」
「仕方ないじゃん」
「仕方ない? 何が?」
「必要以上にサンとルーを刺激することないでしょ」
 そして、もう一度溜め息。
 だがシキの胸中を察するどころか、レイは、ふん、と鼻を鳴らして彼女の耳元に口を寄せてきた。
「お前と違って、俺は心が広くないんでね。……どうしてもダメだってんなら、いっそ、無理矢理……」
 その瞬間、シキの身体が、びくん、と小さく跳ねた。
 レイの目つきが粘度を増し、両の眉がどこか得意そうに軽く上げられた。そうして、今度はシキの耳朶に唇を軽く触れさせてくる。
「随分、反応良いんじゃないか?」
「そうじゃない」
 絞り出すように、シキは呟いた。
 耳元で囁かれる甘い言葉よりも何よりも、シキの背筋を震わせる圧迫感。
「何が?」
「いる……、すぐ後ろに……」
「警備隊か」
 固い表情で微かに頷くシキの横で、レイがそっと口角を上げた。
 
 
 人通りの多い往来、定められた巡回経路を相棒と辿りつつ、ガーランは疑念に苛まれ続けていた。
 頭五つほど前方を歩く小柄な女。彼の位置から伺えるその女の体格や頬のラインは、非常に既視感を覚えさせるものだったが、その実、彼女だと断言できるほどではない。帽子や外套のせいで、どうしても容姿がはっきりしないのだ。それに……何より雰囲気が違う。全然違う。
 連れの男に腕を絡ませ、楽しそうにじゃれ合う様子は、とてもあの無愛想な鉄面皮と同一人物とは思えない。
「いいだろ」
「いやだってば」
 その二人の言い合いが、突然激しさを増した。彼らの傍を歩く人間が、驚いたふうで少し身を引いている。
「なんだよ、俺のことが嫌いになったのか?」
「ち、違うって……、でも……」
 声の質も似通っているが、やはり態度が違う。声の調子もあんなに甘くはない。
「でも、何だよ。俺がどんな気持ちでいるのか、教えてやるよ」
 突然、すぐ前を歩く人間が歩みを止めた。その背中にぶつかりそうになって、ガーランも慌てて立ち止まる。混乱はそのまま後方へと波及しているのだろう、彼の背後から驚きや非難の声が少なからず湧き起こった。
 ややあって、停滞した人の波は再び動き始めた。そして何かを避けるようにして、少し前方で左右二つに分かれて進んでいく。
 流れを別っているのは、往来ど真ん中で熱い口づけを交わす先ほどの二人の姿だった……。
 
 ガーランの隣でラルフが小さく毒づいた。人通りのそこかしこから、野次が熱烈な恋人達に投げられる。
 突然の出来事に歩みを止めることもできず、ガーランはただ目を丸くしながら、傍若無人な二人組の横を通り過ぎていった。
 ――やっぱり人違いだ。ありえねえ。彼女ならば、こんな往来であんなことをされたら、たとえ相手が恋人だとしても、張り手か回し蹴りが炸裂するに決まってる。……シキのはずがない。
「ったく、最近の若いモンは、とんでもねえな」
 知らず緊張させていた全身をがっくりと弛緩させて、ガーランは紫煙を吐き出した。その横でラルフが、顎をさすりながら、普段以上に難しい顔で小首をかしげている。
「……しかし、あの女、どこかで見たような……」
「隊長みたいなこと、言ってんじゃねーよ」
「あんな奴と一緒にするな」
 ラルフが憮然とした表情で即座に返してくる。
「よーし、仕事、仕事」
 ガーランは大きく伸びをして、それからラルフの背中を、ばんっ、と叩いた。
 
 
「もう! 何するのよ!」
 建物の陰で、壁にもたれながらシキは大きく息を吐いた。恥ずかしさと怒りを発散できなかったその手が、まだ固く握り締められて震えている。
「でも、気づかれずに済んだだろ? 我慢してくれて、ありがとな」
 いつになく神妙なレイの台詞に、シキの頭は一瞬にして冷えた。
 そうだ。大切なのは、何を優先するか、ということだった。警備隊に見つかることなく、密かにユールと連絡をとる。公衆の面前での口づけなど、些細なことだ。些細な…………
 公衆の面前。往来の真ん中。
 再びシキの顔が、耳のところまで赤くなる。
 レイの顔を見ていられなくなって、シキは思わず彼に背を向けた。
 間髪を入れず、レイの腕がシキの背後から伸びてくる。突然のことにシキは抵抗することもできず、彼にすっぽりと抱きすくめられてしまった。
 ひとけの無い路地裏、久方ぶりの抱擁。やっぱり少し恥ずかしいけれど、これぐらいならいいかな、と、シキが身体の力を抜いたところで、レイが、レイの手が、調子に乗った。
「ちょっと、レイ、何を……」
「さっきの続きに決まっ…………!?
 手首の関節をかえされて、レイが路面に転倒する。そのまま右腕をねじり上げられ、彼は必死の形相で白旗を揚げた。
「い、痛いイタイいたいって! 分かった、分かったから、手ぇ離してくれっ!」
「余計なことはなしで、さっさとお使い終わらせる! 続きはそのあと! 了解!?
「り、りょうかい」
 肩で息をしながら、シキは真っ赤な顔でそう一気にまくしたてた。
 
 
 
「留守だとさ」
 ぶっきらぼうに、レイは一言で報告を終えた。
 予定外の結果を伝えるべく、お使いを終えた二人は夕闇とともに真っ直ぐカナン家の別荘へと帰投した。レイが不機嫌な理由は、わざわざここに記すまでもないだろう。
 怪訝そうな表情のウルスに、シキがレイの言葉のあとを継ぐ。
「先生のお母さんが応対してくださったのですが、なんでも、先生は学校に一週間の休暇届けを出して、ご友人と実地研究に出たそうです」
「実地研究?」
「野外調査、ということらしいですけれど……ちょっと良く解らないって、サホリさん――先生のお母さんも仰ってました」
「つまりは、全てが無駄足だったというわけか」
 静まりかえった室内に、ウルスの声が低く響く。一気にその場は重苦しい雰囲気に包まれてしまった。
「あー、まあ、別にこれで一生記憶が戻らないってわけじゃないんだし」
 殊更に明るく、リーナが口を開いた。「それに、一週間経ったらその先生って帰ってくるんでしょ?」
「そいつは、無理だ」
 ウルスの声は、意外なほど穏やかだった。「我々はそんなにも長い期間、ここに留まることはできない」
 ウルスは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと傍らのテーブルの上に揺らめくランプに視線をやる。
「さて、どうするか。……サン」
 サンのみならず、皆が一様に息を呑んだ。
「勿論、決めるのは彼女自身だろうが、お前の意向を聞いておきたい」
 淡々と紡ぎ出される言葉は、静かに、だが容赦なくサンに放たれる。
「彼女か、俺か。どちらを選ぶ? サン」
 サンの拳に、微かに力が入る。
「俺は…………」
 その時、こつり、と窓の方向から硬質な音がした。
 驚いて振り返った一同の視線の先、カーテンの引かれた掃き出し窓の外は、中庭だ。そして、その音は確かに窓の外から聞こえてきたようだった。
 この屋敷の塀は、決して低くはなかったが、侵入が不可能なほどではない。あるじの滞在中ならば、家人が手分けして邸内を巡邏しているものだが、今は違う。
 いち早く身構えたサンを片手で制して、ルーファスが窓辺に歩み寄った。剣の柄に手をかけながら……一気に厚いカーテンを引き開ける!
「そいつは、味方だ」
 ウルスの声が、張りつめた空気を緩ませる。
 薄闇に沈む植栽を背後に、一人の男が両手を挙げ、攻撃の意思がないことを示して立っていた。
 
「ダラス。お前は確か警備隊に捕らえられていたのではなかったか」
「はい、ですが、アスラ帝がここルドスを去られてすぐ、なんとか無事、放免されました」
 ウルスの目が、つい、と細められた。
「妙だな。奴らにとって、お前は反乱団への貴重な手がかりだろう。どうして無事で済むのだ」
 その声に、ダラスは苦渋に満ちた表情で袖をまくった。
 リーナが、ひ、と短い悲鳴を漏らす。
 彼の手首には、縄の痕がどす黒く刻まれていた。そして、まだ痛々しい裂傷が、腕一面に散らばっている。
「同情してもらおうというわけではありませんが……腕だけではありません。つらかったですよ。それでも私は、何一つ喋らなかった」
 水を打ったように皆が静まり返る中、レイは、つい二週間前のことを思い返していた。
 ルドスの収穫祭襲撃のあと、ウルスによってレイが「赤い風」の面々に引き合わせられた時、大抵の者は、突然湧いて出た「黒の導師もどき」に怪訝そうな眼差しを向けたものだった。その中で、ダラスの朗らかな笑顔は、レイの心を随分と安らがせてくれた。彼は豪快な身振りでレイの援護の手際を褒め、「これからもよろしく頼む」と力強い握手でレイを受け入れてくれたのだ。
 それが、なんというやつれようだろうか。かつての陽気さを微かに瞳にだけ残し、ダラスはどこか疲れきった表情で口角を上げた。
「兄帝が去られて、警備隊の情熱も冷めてしまったようです。いつまでも口を割らない捕虜に、無駄飯を食わすつもりはない、そういうことなんでしょう」
「解った」
 大きな動作で足を組み直し、ウルスは左の肘掛に頬杖をついた。
「で、何用だ」
「サラナン先生をお訪ねだったと聞き及びまして、お役に立てたら、と」
「ふん、大した情報網だな」
 すこぶる満足そうに、ウルスは口のを吊り上げる。だが、次の瞬間、彼はやや眉をひそめて身を起こした。
「この家は警備隊に監視されているとばかり思っていたが」
「大丈夫です。我々を侮られませぬよう。連中はこちらを特に警戒している様子もありませぬし、一応念のために仲間が街の中心部で注意を逸らせております」
 シキとレイは思わず顔を見合わせた。
 お使いの道中は勿論、ユールの家でも、この屋敷に帰ってきた時も、自分達を尾行する者がいることに気づけなかった。雑踏に気配を誤魔化されたのだとしても、それはもはや、素人の仕事ではない。ダラスが胸を張るのも至極もっともだと思えた。
「サラナン先生に、どのようなご用が?」
「記憶を失ったこの娘を助けてやろうというわけだ」
 部屋の隅に立つリーナを、ウルスが顎で指し示す。
「お急ぎならば、ご案内いたしますが」
「行き先を知っているのか」
「はい。他でもない、私の兄が先生を連れ出したものですから」
 話題に新たな人物が登場したことによって、ウルスは勿論、その場にいた全員が少々面食らった様子を見せた。
「兄?」
「はい。街の南部で古物商を営んでおります、通り名を『月の剣』と申す、しがない探索者でございます」
「あーーーー!」
 その名を聞いた途端、レイは思わず叫んでしまっていた。もたれていた壁から身を乗り出し、礼を欠くことも気にせずにダラスを真っ直ぐ指差す。
「何だ?」
「古物商で『月の剣』って、その人、日に焼けた、こう、肩幅のいかつい、刈り上げの?」
 ダラスが訝しげにレイに向き直る。
「そうだけど?」
「半年前にサランで会ったんだ! そうだ! ダラスさんが誰かに似ているって、ずーっと気になってたんだ。そうか! なんだ、そうだったんだ!」
 その地名にシキが反応した。
「サランで……って、もしかして」
「そうさ、例の異教の呪文書をロイに売りつけやがった奴だ」
 ど、と大きな音を立てて、ウルスが椅子の背にもたれかかった。それから挑戦的な瞳で一同を見渡す。
「……ふん、面白そうだな。もう少し付き合ってやるとするか」
 
 
 

    二  廃墟
 
 豪華な屋敷の豪奢な部屋、その高価そうな絨毯の上に雑魚寝、という、優雅なのかそうでないのか良く解らない一夜が明けた。
 
 ダラスは早朝に再びカナン家の別荘にやってきた。
 彼の兄がユールを連れて行ったというのは、ナナラ山脈最高峰のガーツェの山中だという。正確には、ルドスのすぐ西、ガーツェに連なる側山を一つ越えた所にある谷間ということだった。
「人数分の簡単な食料を二日分用意いたしました。朝食は道すがらということにして早めに出れば、遅くとも今日の夕刻までには目的地に着くことができると思います」
「この時間に山に入れば、流石にあいつらの目を引くだろう」
 ウルスが口にのぼした当然の懸念に、ダラスは少し得意そうに胸を張った。
「まもなく、北門の外れで騒動が持ち上がる予定です。その隙に」
「手際の良いことだな」
 どこか嬉しそうにそう言って、ウルスが立ち上がる。「さて。お前はどうするんだ?」
 問われたルーファスは、心外だと言わんばかりの表情を作って、ウルスの前に立ち塞がった。
「勿論、同行しますよ。行かないわけがないでしょう」
「貴族様が山登りか」
「貴方だって、それを言うなら王族でしょう」
 ウルスが、ふ、と笑う――いや、嗤う。それから彼は一同を見渡した。
「準備ができ次第、出発しよう。異論はないな。ダラス、頼んだぞ」
 
 
 
 抜けるような青い空を背景に、冬の始まりを告げる身を切るように冷たい山颪が、潅木の隙間を吹き抜けていく。
 高度が増すにつれ、空気が透明感を増しているようだった。乾いた風に撫でられて、額に浮いた汗がすうっ、と引いていく。その爽快感とは裏腹に、岩だらけの斜面を進む一歩一歩が先刻から妙に重たく感じられて、シキは登る足を少しだけ止めた。
「大丈夫か?」
「ん、ちょっと息苦しくて」
 すぐ横を歩くレイが、シキに向かって手を差し伸べる。
「ん」
「え?」
「だから……、引っ張ってやるっての」
 少し照れくさそうに視線を外して、もう一度手を伸ばしてくるレイに、シキはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。それに、手を繋いじゃうと、一人がコケたら二人で転がり落ちなきゃいけなくなるし」
 そう言って、シキはいつの間にか前屈みになっていた背をゆっくりと伸ばした。
 まばらに生える低木の隙間から、自分達が登ってきた山道が見える。そして、遠く眼下に霞んで広がる、古都ルドスの街並み。
「もう少ししたら、休憩しましょうか」
 先頭を行くダラスの声に、七人の老若男女は大きく安堵の息を吐いた。
 
 
 側山をまわり込むようにして流れる沢に出た所で、一行は昼食をとることにした。
 岩が積み重なって露出している小さな谷を、清流が飛沫を上げながら流れ落ちていく。沢の周辺はまだ辛うじて木々が枝を重ねていたが、山腹からはそろそろ潅木も姿を消し、地を這う緑だけが白茶けた地面を斑に染め上げている。
 各人は思い思いに手ごろな岩に腰をかけ、ダラスから受け取った食料の包みを膝に広げた。
「兄とサラナン先生は同期なんだ。お互いとても気が合うみたいで、ルドスが帝国領になって大学堂ができる前から同じ歴史学の先生に師事して、何やら古めかしい本と格闘ばかりしていたよ」
 ダラスが干し肉を豪快に齧りながら、一行の中で唯一おのれの兄を見知るレイに語りかけた。
「……想像できねぇ」
 筋骨隆々とした色黒の男と、日陰の豆の芽のような眼鏡の男。あまりにも対照的過ぎる二人が、一緒に机を並べているところを思い描こうとして、レイは頭を抱えた。見た目もそうだが、ほんの少しとはいえ彼らそれぞれと交わした言葉を思い返す限り、とても同じ志を持つ者同士だとは思えない。
 更に言えば、くだんの古物商には年齢相応の風格が備わっていたが、ユールは見事なまでに年齢不詳で、もしかしたら彼は自分達と同年代なのではないか、とすらレイは思っていたのだ。あのマイペースさ、あの傍若無人ぶり。とてもじゃないが、自分よりも十二も年上の人間だとは、俄かには信じられない。
「お兄さんって、どんな方なんですか?」
 レイの苦悩っぷりに興味をかきたてられたのだろう、シキが目を輝かせながら口を開いた。返答しようとしたダラスより早く、レイがシキのほうを向く。
「古物商って言うからどんな爺さんかと思ったら、すんげえ肉体派でさ。戦士や剣士って名乗ったほうが絶対似合ってるって感じだった」
「はははは。言うねぇ、君も。でも、確かにそのとおりなんだよ。兄は先生みたいに書斎に籠もるよりも、外へ出て探索するほうが性に合っているらしい。一度出かけると、短くても一ヶ月は出ずっぱりで、一体どこで何をしているのか……」
 伝説で語られる古代ルドス王国は、魔術で栄えた地上の楽園だったという。
 そして、神に見捨てられ、一夜にして滅んでしまった、と。
 それから幾星霜。王国の記憶は御伽噺としてのみ形を残し、かつて大陸を席巻したその高い文明は散り散りに、その断片だけが、古代ルドス魔術として細々と受け継がれている。
 しかし、現代に残された古の遺物は、実はそれだけではない。
 人里離れた深い森などで、稀に発見される遺跡。そういった場所には、今はもう失われてしまった技で作られた品物が眠っていることがある。そんな「宝物」を求めて各地を彷徨う探索者の存在を、レイもシキも耳にしたことがあった。危険の伴う旅路は、生半可な覚悟では乗り越えられないだろう。逞しい身体と強靭な精神、その双方が揃ってこそのものなのだ。
 なるほど、あの「本の虫」ユールと並ぶと、非常に異色な二人組かもしれない。少しわくわくしながら、シキはパンのかけらを口に放り込んだ。
 
 
 登りの行程が終わりに近づく頃には、シキも息苦しさに幾分慣れ、ダラスのすぐ後ろで快調に歩みを進めるようになっていた。逆に行き足の鈍り始めたザラシュが、シキと入れ替わる形で最後尾についている。
「登りはもう少しですよ!」
 先頭のダラスが峠の直前で一同を振り返った。その声を受け、サンがすぐ後ろのザラシュに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「悪いね、気を遣わせてしまって」
 荒い息でねぎらいを返すザラシュに、サンは曖昧な笑みを返した。
「こんな老いぼれよりも、彼女のほうが気にかかるだろうに」
 ザラシュの視線の先には、足場を探すのに悪戦苦闘しながら登っているリーナの姿があった。その少し前には、心配そうにリーナを見守るルーファスがいる。
 悪路に難渋するリーナを見かねたのか、ルーファスがリーナに手を差し伸べた。
 大袈裟な身振りでその手を固辞するリーナを見て、サンはにやりと微笑んだ。そう、彼女なら、こんな状況で誰かの負担になるようなことは快く思わないはずだ、と。
「……気にならないわけじゃありませんけどね、俺はこの位置取りこそが重要だと思ってるんですよ」
 視線を二人から外さないまま、サンはザラシュに答えた。
 しっかり者のリーナ。小気味良いぐらいに、彼女は揺るぎない。いつだって真っ直ぐ、自分の足で、背筋を伸ばして立っている。リーナのことを口煩いと言う人間は多いが、それだって欠点というほどのものでもないだろう。強いて言うならば、短所は一つ。
「わ、わわわわわっっ!」
 どこをどうすれば、そんなに見事に体勢を崩すことができるのだろうか。リーナは右足を大きく前に蹴り出した状態で、両手を大きく無防備に広げたまま、背後に、下方に、ゆっくりと倒れ込んでいく。
 差し伸べられたルーファスの腕が、大きく空を切った。リーナの身体はルーファスの手をすり抜けるようにして、後頭部から斜面に倒れ込む。
 
「あり?」
 衝撃を覚悟していたのだろう、リーナが驚きの表情で振り向く。
 ルーファスが眉をひそめて、遣り場のない手を握り締める。
「珍しく順調に来てると思ったけど、……やっぱりね」
 抱きとめたリーナの身体をそっと起こしながら、サンは大きく息をついた。跳躍で乱れた呼吸を気取られないように、静かに深呼吸を繰り返す。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
「……ですから、あれほど、手をおとりくださいと申し上げているのに」
「いや、でも、そこまでしてもらわなくても大丈夫だから」
 満足げな笑みを浮かべながら、サンはそっとリーナの手を放した。
 即座にルーファスが、「参りましょうか」と背中を見せる。
 反射的にサンはリーナから視線を外した。そうして、まるで何事も無かったかのような様子で後方を振り返る。えっちらおっちらと坂道を登ってくるザラシュは、感心したような表情でサンに笑いかけてきた。
「なるほど」
「あれだけどんくさい奴、なかなかいないでしょ」
 サンはそう小声で囁いて、片目をつむって見せた。
「付き合いの長さ故の余裕、かね」
 その言葉に、サンは微かに口のを上げた。それから、ゆっくりと前を向く。ルーファスに急かされるようにして再び登り始めたリーナの背中を。
「そうだったら良いんですけどね」
 つい、と目が細められたのはほんの一瞬のこと。すぐにサンはいつもの調子を取り戻し、ザラシュに向かって陽気な声で発破をかけた。
「さ、もう一息、頑張りましょうか。なんなら背負いますよ?」
「そこまで耄碌しておらぬわ」
 眩い青空を、峠の稜線がくっきりと切り取っている。サンとザラシュは笑い合いながら、最後の上り坂を踏みしめた。
 
 
 
 峠を抜けた一行は、急に開けた視界に思わず息を呑んだ。
 なだらかな谷が、彼らの目の前に広がっていた。濃い赤銅色の地表を、ところどころ草木の緑が彩っている。
 谷の向こう、雄大に立ち上がるガーツェの山肌は明るい白茶色で、暗い大地とのコントラストは、まるで何者かの手による建造物のごとき趣であった。にもかかわらずそのスケールはあまりにも壮大過ぎて、あたかも神話の世界に迷い込んでしまったような錯覚を、見る者に与えてしまう。
「わぁ……!」
「すっごーい! 良い眺めー!」
 シキとリーナが上げた感嘆の声に、他の面子から笑いが漏れた。
「な、何か可笑しかった?」
 にやにやと笑うレイに、シキが困惑したように問いかける。
「べっつにぃ?」
 思わせぶりに返答したレイの頭にダラスの大きな手が置かれ、そのままぐしゃぐしゃと髪を乱した。
「可愛らしいなあ、ということだよ」
「ち、違ぇ……」
 照れ隠しも露骨に噛みつくレイを、軽くいなしてダラスが相好を崩す。
「いや、本当に、女の子が一緒だと、華やかでいいなあ」
「何、オッサンみたいなこと言ってんだよ。ってか、髪! むちゃくちゃするなよ!」
「オッサンなんだから仕方がないだろ」
 豪快に笑ってから、ダラスは少しだけ表情を引き締めた。ウルスのほうを見やって、軽く頷き、それからやにわに指笛を吹き鳴らす。
 
 鋭い音が谷間の静寂を切り裂く。
 長く、短く。高く、低く。
 何かの符丁を奏でた笛の音は、何度もこだましながら虚空へと吸い込まれていった。
 そして再び訪れる、完全なる森閑。
 
 
 返答は、大地を踏みしめる音だった。
 ざくざくと砂粒を軋ませながら、その人物はなだらかな谷の斜面をこちらに向かって登ってくる。
 こうやって見ると、この兄弟は良く似ていた。くすんだ赤毛も、彫りの深い目元も、背の高さも。だが、兄の、前評判通りの鍛え上げられた体躯と褐色の肌が、二人の印象を大きくたがえている。
「大層な団体様だな」
 低い声。息を切らすこともなく大股で坂を登りきった古物商は、あからさまな苦笑を口元に刻んだ。
「兄貴、ラグナ様の御前だぞ」
 弟のたしなめる声に、申し訳程度に頷いてみせて、それから彼は慇懃無礼に一行に頭を下げた。
「ラグナ殿下には愚弟がお世話になっております。ユエト・サガフィと申します」
 一本調子でそれだけを言ってのけると、再びユエトは口角を上げた。
 尊大な兄の態度に目を白黒させるダラスの隣で、レイがむっとした表情で鼻を鳴らす。その後ろから大きく身を乗り出して、シキが驚きの声を上げた。
「サガフィさん!?
 それは、かつてイの町の「札つきのワル」が宝飾品目当てに襲撃しようとした、あの商人だった。サラン警備隊の本部で対面した時と同じ、世の中の全てを見通しているかのごとき深い瞳が、静かにシキに向けられる。
「え? 何? シキも知ってたのか? てか、いつ? どこで?」
 素っ頓狂な声を上げるレイを、ちらりと一瞥してから、ユエトは微かな笑みを浮かべた。
「ユールに用があるのだろう? こっちだ」
 一言そう返して一同に背を向ける。ついて来い、ということなのだろう。
 おのれの来た道を無言で戻り始めたユエトの背中で、大剣が揺れていた。

 
 
 それは、斜面を少しくだったところ、潅木の陰にひっそりと口を開けていた。
「足元が脆くなっている。気をつけろ」
 それだけ忠告して、ユエトはその岩の裂け目に姿を消した。ほぼ鉛直に伸びる、暗くて細い竪穴に。
 ごつごつとした壁面のお蔭で、足場を見つけるのにさほど苦労は要らなかったが、先の見えない暗闇に降りていくというのは、あまり気持ちの良いものではない。一同は、三人の魔術師が唱えた三つの「灯明」の灯りにいざなわれるようにして、狭い岩石の隙間を下方へと進んでいった。
 
 しばらくくだったところで、いきなり視界が広がった。地中をくだってきた果てに、目前を満たす薄明かりに、皆は一様に驚いて立ち尽くした。
「なんだ……ここは……」
「地面の下……だよな?」
 彼らの目の前、大きな空間がぽっかりと口を開けていた。
 
 
 
 地下に広がる巨大な空洞。自分達が立っているのは、そのほとんど天井に近いところだった。地面は、そこから、更にすり鉢状にくだっている。薄暗い中にも、立ち枯れた潅木が斜面にまばらに立ち並んでいるのが見える。
 いや、すり鉢ではなかった。左右方向に伸びる谷底……V字谷だ。
 谷の両端は何かに堰き止められたかのように行き止まっていた。白っぽい谷の斜面とは対照的に、どす黒い岩の壁が不自然なまでに鉛直に立ち上がり、天井と継ぎ目なく繋がっている。
 そして、天井。
 彼らの頭のすぐ上に広がる大きな面のあちこちからは、ちらほらと木の根がはみ出していた。向こうのほうにはそこかしこに穴があいているようで、細い光の筋が何本も、地下のこの空洞に差し込んでいる。
 その、光の落ちる谷底。閉ざされた地下空間の中央に、石造りの建造物がそびえ立っていた。
 
 その建物は、ルドスの古い教会堂に似た形をしていた。谷の向きに長辺を沿わせた直方体と、その上に乗せられた緩やかな傾斜の屋根。彼らの立つ場所からは、その全体像を手に取るように見下ろすことができる。
 専門知識に乏しい彼らにも、この建物が相当な年代物であることは見て取れた。見た目の優雅さよりも造りの頑丈さを優先した、どこか余裕のない石組みは、ルドスの古い城壁と共通するものがある。おそらくは同じ頃に、もしくは同じ思想で造られた代物なのだろう。
 彼らが知る普通の教会とこの建物が同じ様式で建てられているのならば、鐘楼のあるほうがファザードに違いない。先端部分を岩天井の中にめり込ませた鐘楼は、この空間を支える柱のようにも見えた。
「十五年前のガーツェの噴火だ」
 言葉を失って、ただその風景を凝視するばかりの一行に、ユエトは訥々と言葉を吐き出した。
「この黒い壁は、ガーツェから溢れ出し、谷に押し寄せてきた溶けた岩が固まったものだ」
「え、でも、この空間は一体……」
「やっほーー」
 当然の疑問をシキが口にしかけた時、どこかで聞いたことのある間延びした声が、谷底から小さく響いてきた。
 建物のやや後方に位置する彼らには死角となっていた、その正面側から、ユール・サラナンが現れた。天井から差し込む細い光をまるでスポットライトのように一身に浴び、頭の上で大きく両手を振っている。
「皆、お揃いで。元気だった? ええと……名前何てったっけ?」
 およそ緊張感を微塵も感じさせない暢気な声に、脱力のあまり突っ伏しそうになる一同だった。
 
 
「ここはね、十五年前に溶岩に呑み込まれたはずのアシアス神の神殿だよ。まさか無事だったとは知らなかったなあ。ユエトには感謝しても感謝し足りないよー」
 カンテラを手に、ユールは建物の中へと一同を招き入れた。その間も、ひたすら陽気に、ユールは喋り続けている。
「神殿の奥に、古い人骨があってね。たぶん、噴火から神殿を守ってくれた術師なんじゃないかな。この神殿は随分昔に打ち捨てられたって聞いていたけど、もりがいたんだねー」
 ――盾か。
 ザラシュの低い呟きに、シキもレイも頷いた。災害の際に神殿の谷を覆ったであろう、巨大な魔術の「盾」。術自体は難しいものではないが、これだけの範囲に効果を及ぼさねばならぬとなれば、相当な労力を要するだろう。
 シキならできるかもしれない。でも、たぶん俺には無理だ。暗い廊下を魔術の灯火を従えて歩きながら、レイは白骨の主に思いをはせた。おそらくはありったけの力をふりしぼって、灼熱の濁流から谷を守ったのに違いない。そして、力尽きた……。
 
 ユールの先導で、一同は広い部屋に足を踏み入れた。側廊の柱、一本おきに吊るされたランプの光が、冷たい石造りの部屋を暖かく染め上げていた。
 火を消したカンテラを空いていた柱の鉤に引っかけてから、ユールは部屋の中央までゆっくりと歩み行く。
 全員が広間に入って来たのを見て、彼は再び語り始めた。それはもう、楽しそうに。
「有史以来、ガーツェが火を噴いたという記録はあの十五年前が最初で最後なんだ。ええと、君、北方の火山って、ドッカンと爆発するんだよね?」
 突然話題を振られて、ウルスは珍しくも狼狽の色を見せた。
「あ、ああ。そうだ」
「仮に、ガーツェが休止中の火山だったとして、山の形から考えても、ガーツェもドッカンいきそうなものなんだけどね。ところが、十五年前に山頂が吐き出したのは、天高く伸びた炎の柱のみだった。そうですよね?」
 今度はザラシュに向かって、ユールは語りかける。まるで講義のように。
「そうだ。……なるほど、私はあの噴火のきっかけを疑ってはおったが……、おぬしは噴火そのものを疑っておる、と」
 軽く頷いたユールの眼鏡が、ランプの光をきらりと反射した。
「山の反対側、帝都への被害は?」
「灰が降り積もった程度だ。ああ、そのあとの冷夏はそちらも同じだったろう?」
「そうですねぇ」
 ザラシュと言葉を交わしていたユールは、そこでふと、視線を彷徨わせた。「あの夏は野菜がほとんど食べられなかったなぁ……」
 部屋の隅から、ゴホン、とわざとらしい咳払いが響き、ユールを現実に引き戻した。
「じゃあ、炎の柱から溢れ出した溶岩は、こちら側にしか来なかったんだ……」
 そして、咳払いの主のほうに向き直る。「あの時はほんと大騒ぎでさ。ナム山のお陰で街へは流れ込んでは来なかったけど、それはそれは恐ろしい光景だったそうだよ。ところが、その炎の河が神殿の谷を埋め尽くしたところで、噴火はピタリと止んだ」
 ユールが思わせぶりに言葉を切ると、辺りは水を打ったように静寂に包まれた。
 揺らめくランプの光が、彼らの影を妖しげに揺らし続けた。
 
 沈黙の重さに誰もが耐えきれなくなってきた頃、ユールは講義を再開した。
「言っちゃなんだけど、神々への信仰は、現代既に形骸と化してしまっている。いわゆる異教は勿論、アシアス神も同様。この神殿だって、僕達地元民以外にはほとんど知られてなかったんじゃないかな」
「そうだな。教会以外にアシアスを祀ったこのような場所があろうとは、私は知らなかったよ。帝都の誰もが知らなかった……とは言わぬが、話を耳にしたことはないな。おぬしはどうだ」
 そうザラシュに問いかけられて、ルーファスは慌てて背筋を伸ばした。
「いえ……寡聞にして、知りませんでした。私の身のまわりでは、おそらくは、誰も」
「この無名の場所が、狙われた、と言うのか?」
 レイの言葉に、ユールは拍手を返す。
「よくできました。薄々想像していたんだけどね、ここに来てはっきりしたよ」
 ユールはぐるりと辺りを見まわした。それから、大仰にがっくりと肩を落とすと、ぼやき始める。
「けどねぇ。どうにも……やっぱり言葉が欲しいんだけどな……ユエトじゃが強過ぎて駄目だったし……」
 その言葉に、古物商が色めきたった。
「何? お前、また何か余計なこと……」
「できなかったんだよ。寝てる時なら大丈夫かと思ったんだけど。残念ながら」
「おいっ」
 相棒の抗議の声に、口を尖らせて明後日の方角を向くユールだったが、ふと、何かに気がついて、再び皆のほうを振り返った。
「そうだ、ところで、皆、何しに来たの?」
 
 
 自分のペースを乱されることに慣れていないのだろう、場の主導権をやっと手に入れたウルスが、どこか憔悴しきった溜め息をつく。
「この娘の記憶を取り戻してほしい」
「彼女の? 初めまして、だよね?」
 雰囲気に呑まれていたのか、珍しく黙りこくっていたリーナが、そこでやっと口を開いた。
「あ、初めまして! リーナといいます。イの町で癒やし手をしていた……らしいですけど、それが……」
「癒やし手! アシアス神聖魔術! なになに、記憶がないわけ?」」
 だが、折角の語りは、物凄い勢いで眼前に迫り来るユールによって、あっけなく妨げられてしまった。両手の指を突合せたり、揉み手をしたり、普段よりも更に落ち着きを失っているところを見ると、どうやら相当興奮しているようだ。
「うわお、天の配剤ってあるんだねえ!」
 それから、感極まったとばかりに、リーナの手を両手で掴み取った。
「いいよー、僕にできる事なら、何だってやったげる。怪我が原因の場合はお医者の範疇ってこともあるから、絶対に、なんて断言はできないけど。だからさ……」そこで、瓶底眼鏡が、ぎらりと光る。「……ちょっとだけ、余計なことして良い?」
「……何ぃ!?
 サンとルーファスが同時に叫んだ。しかし、外野の声に耳を貸すことなく、ユールはリーナの手を引いて、広間の奥へと引っ張っていく。
 再び、男二人が合唱。
「おいっ、ちょっと、待て!」
「ヘンなことじゃないからー。さあさ、こっちこっち」
 
 アーチをくぐった先、広間の奥には小部屋があった。中央に置かれた寝台大の平たい石の上で、ランプが一つ頼りなさげな炎を揺らめかせている。
「『あれ』が騒いでいるのは解るんだけど、僕だけじゃ情報の遣り取りに限界があってね。ユエトは役に立たないし」
「感謝し足りないにしては、随分な言いざまだな」
「それとこれとは別」
 あれよあれよという間に、リーナはその石の上に横たえられた。
「あ、あの、私、どうすれば? ってか、どうなるんで?」
「あー、気にしない、気にしない。寝てて。そこに」
 気にしない、って……、それは無理というものだろう。
 おそらく、その場に居合わせた全員がそう心中で呟いたに違いない。だが、ユールはそんな瑣末なことに頓着するふうもなく、何かを探しているような素振りで辺りを見まわし続けていた。
 やがて、ようやく何かに得心がいったようで、ユールは両腕の袖をまくり上げ、頭上大きく両手を掲げた。
 
 何をするつもりなのか。一同、固唾を呑んで彼らを見守る。
 張りつめる空気。
 
「あのー、皆、少しの間、僕の手を見ないでくれる?」
 動作はそのままに、あからさまに困った顔でユールが振り返った。「あ、勿論君も。目、閉じて、寝てて」
 一気に緊張の糸が切れ、大きな溜め息がそこかしこから漏れた。この風変わりな歴史教師と付き合う限りは、彼のペースに振りまわされるしかないのだろう。
 諦観の眼差しを全員から注がれていることに気がつくこともなく、ユールはおもむろに両手を打ち鳴らし始めた。何度も、何度も。
「……精霊使いか」
 ザラシュが呟いた。
 精神――とりわけ「情動」――が精霊によって司られているという話を、彼は耳にしたことがあった。ユールが使役するのは、その類なのだろうか。
 
 
 再び訪れた静けさは、音調を落としたユールの声で破られた。
「さあて。喋れるかな? 君は一体誰なんだい?」
 
 ゆるり、と、リーナが起き上がった。
 
 
 

    三  神話
 
 ランプの光を映し込んで、茶色の三つ編みが夕焼け色に染まる。
 無言で上体を起こしたリーナは、静かに顔を上げた。
「ヒトと言葉を交わすのは、何千年ぶりだろうか」
 その声は間違いなくリーナのものであったにもかかわらず、その言葉は彼女のものではなかった。いつもより幾分低めの、落ち着いた声。周りをゆっくりと見渡すその仕草。大きな碧の瞳が深みを増し、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「な、何千年……?」
「死霊か……?」
 喘ぐようにシキが発した言葉を受けて、レイがおずおずと問いかける。問われたユールは、まるで人ごとのように、軽く肩をすくめて首をかしげた。
 その、あまりに無責任な態度に、サンの怒りが爆発した。
「貴様、彼女に一体何を……!」
 ユールは、胸倉を掴まれても特に動じる様子を見せない。眼鏡の奥の瞳をギラギラと輝かせながら、ただひたすら黙ってリーナを凝視している。
「死霊などではあらぬ」
 威厳溢れる態度で、再びリーナが応えた。
「なるほど、我があるじが我との契約を解かなかった理由は、この逢着のためであろう。永い……永い漂泊であった……」
 室内が急に暗さを増したような気がした。
 
 沈黙を破ることができずに、その場にいた全員がただひたすら立ち尽くしている。リーナという器に入った「何か」は、九人に順に視線を巡らせ、それから微かに微笑んだ、……ように見えた。
「私は、アシアスの最後の巫子。巷間こうかんでは黒の導師と呼ばれていた者だ」
 黒の導師。
 アスラが糾弾した忌まわしき者の名前。今、彼らの目の前に口寄せられたのが、その者だというのだろうか。
「ちょっと待て、死霊じゃないって、死んでいないってことか? 巫子ってのは不死なのか?」
 レイの声に、リーナ、いや、黒の導師は、彼のほうに向き直った。
「そうではない。私の知り得る他の巫子達は皆、死んでいった。私だけが、身体が朽ち果てたあともこの地に留まらされ、永き年月に亘って、この神殿が忘れ去られ荒廃していくさまをただ見つめ続けてきたのだ」
 導師は、もう一度、ゆうるりと辺りを見まわした。
 何千年という気の遠くなるような永い間、彼――いや、彼女かもしれない――は、ただそこに在る、というだけの日々を重ねてきたのだという。
 それは、恐るべき苦行ではないだろうか。なにものかと言葉を交わすこともなく、たった独り、ひたすら無限と思われる時間を無為に送るというのは。
「最初は罰なのかと思っていた。我があるじの命とはいえ、定命の者が、大いなる存在を封じるなどという身のほど知らずな行為に及んだ、代償であると思っていた。だが、そうではなかったようだな」
 にっこり、と、今度は明瞭に導師が微笑んだ。
 それは、とても満足そうな笑みだった。
「他の神々だけではなく、我があるじアシアスですら、今や真の意味で人々から忘れ去られつつある。遥か昔にの者が蒔いた種は着実に根を張り、世界を蝕みつつある。私は、いつか誰かがその事実に気がつくであろうことを信じていた。罰を受け、この地に縛られているこの自分が、再び人の世に関与することなど許されぬとしても」
 まるで、何かに追い立てられているかのように、導師は饒舌だった。
 その言葉を紡ぎ出すのはリーナの唇のはずだが、誰もがそこに、見知らぬ存在を強く感じていた。
「だが、最近になって、その流れが加速していることに気がついた。何者かが、その種を性急に芽吹かせようとしている気配に」
「それが、十五年前のガーツェの噴火でしょうか」
 その落ち着いた声がユールのものだと解って、サンは驚いて彼を振り向いた。胸倉を掴んだままだった手を慌てて離す。
 ユールは、乱れた襟元を気にすることなく、導師をじっと見つめ続けている。
「十五年……もうそんなに経つのか。まるで昨日のことのように感じられるものだが」
 そこで、導師は少しだけ言葉を切った。
「あの時までは、ルドスの教会が、断続的に、だが連綿とこの神殿にもりを遣わせてくれていた。最後のもりは知に対して随分と貪欲な人間だった。彼はアシアスの術だけでなく、禁じ手の術も幾つか習得しているようだった」
「禁じ手の術とは……? 暗黒魔術のことかね?」
 そう言ってザラシュが身を乗り出した。導師は、少し怪訝そうな調子で、続ける。
「暗黒魔術? その定義は私の知るところではない。彼はその術のことを単に『魔術』と称していた。もっとも、そのお陰でこの神殿はあの灼熱の泥から守られたわけなのだが」
「もしかして……」
 そう言ってから、シキは両手を身体の前で複雑に動かした。歌うような呟きののちに、彼女の身体の前に青白い光の面が閃いた。
「この術のことですか?」
「そうだ」
 導師が頷くのを見て、シキは再び何かを唱えた。魔術の盾は一瞬にして消失する。
「彼は、文字どおり持てる力の全てを使い果たして、神殿を守ってくれた」
 一縷の無念さを込めた声で、導師は言葉を継ぐ。
「そうだ、あとで力を貸してはくれまいか。彼を……弔ってやりたい」
 
 ランプの芯が、低く震えるような音を微かに立てる。
 次に沈黙を破ったのは、ルーファスだった。少し逡巡する素振りで、おずおずと口を開く。
「一体、何が世界を蝕んでいるというのですか?」
 リーナの顔をしているが、リーナではない者――モノ、と呼ぶべきなのか――に語りかけながら、ルーファスは自分の声が震えていることに気がついた。「確かに、大きな戦争がありました。ですが、人々の生活は確実に豊かに、そして住み良くなっていると思います。誰がどのような悪意の種をこの世界に蒔いたというのですか?」
 導師は、その問いに目を伏せた。しばらく黙り込んだあと、そっとリーナの碧眼を開く。
「……先ほどの術、あれを君達は何と称しているのだろうか」
「『盾』だ。古代ルドス魔術『盾』の術」
 レイがそう言うと、導師は苦渋のおもてを作った。
「なるほど、古代ルドス魔術。我が故郷の名が、なんとも不名誉な使われ方をしているものだ」
 言葉の意味を図りかねて、皆は黙って続きを待つ。
「だが……それも仕方のないことやもしれぬ」
 
 
 
 突き詰めるならば、信仰とは感謝の気持ちである。
 祈りの言葉は神への願いの言葉であり、賛美の言葉でもある。だが、その単純なことを困難だと感じる人間は決して少なくはない。人々はともすれば妄信に囚われ、自らを失ってしまいがちだから。
 だからこそ、彼はアシアスの巫子に選ばれたことが嬉しかったし、誇らしかった。自惚れは禁物であったから、彼は常に自分を律して、驕れることなくただ素直な心で神に祈り続けていた。
 
「呪文書?」
 神への祝詞を書物に正しく表すことなど不可能だろう。
 何を馬鹿なこと、と彼は眉をひそめたが、それに気づいていない赤毛の修道士は得意げに胸を張ると、ぴん、と伸ばした右手の人差し指を顔の前で数度振った。
「国王様が、遂に下賜なさるそうだぜ。『禁じ手』の術の書を、さ」
「ばかな! あのような、神をないがしろにする術を、市井に広めようとでも仰られるのか」
 礼拝堂内に、驚愕した彼の声が反響する。色めきたって腰を浮かせた彼に、修道士が不思議そうに問いかけた。
「別にないがしろになんてしてないだろう?」
 彼は、信じられない、と大きく嘆息してから、修道士に向き直った。
「王の詠む呪文には、神の名が無い。神の真の名を読めぬ者が神の技を賜おうというのだ。これが冒涜以外のなにものだというのか」
 黒い僧衣の裾をひるがえしながら、彼は窓辺へと歩み寄った。
 遠く、家々の屋根の向こう、高台に王の城がそびえ立っている。紺碧の空と、白い山肌と、それに映える赤い尖塔。
 あそこにおわすたっとき方は、自分とは違う世界に立っている。
 そう、違う世界。それは身分や出自といったような単に社会的な意味での差異ではなく、もっとずっと根源的なものだ。二方を別っていただけのその暗くて深い溝が、今、自分の周りを取り囲もうとしているのだということに気がついて、彼は思わず両腕をかきいだいた。
「何故だ? 人々の役に立つ技が世に広まることに、どんな問題があるというのだ?」
 おそらく、この修道士は自分が朗報をもたらしたつもりだったのだろう。期待したものとは違う反応に苛ついたのか、少し刺々しく言葉を投げつけてくる。
 彼は大きく息を吐いて、静かに修道士を振り返った。
「そもそもこれは、ヒトの技ではない。ヒトが広めて良いものではない。あくまでも神の御心が全てだ」
「ふん、そりゃ、導師殿はアシアスに選ばれた、偉ーいお方だからな」
 修道士の口元が、歪む。
「あんたは、その能力を独占したいだけなんじゃないのか!?
 顔を背けてそう言い捨てて、修道士は靴音高く去っていった。
 黒の導師は、憂いをその瞳に湛えて、静かにおのあるじの名を呟いた……。
 
 
 
「神の真の名?」
 導師の語りが途切れたところで、シキとレイが同時に口を開いた。
「思わぬところから助けが入ったものだな」
 少しだけ苦笑しながら、ザラシュが孫弟子達を振り返った。「これが『宿題』の答え、だよ」
 そうして、再び導師のほうへ向き直る。
「術師の資質として最も必要なことは、真実を見極める力、だ。それは書物で伝えきることができるようなものではない」
 ザラシュのこの言葉に、導師が目を細めた。
「君は気がつくことができたのだね」
「四十年かかりましたが、な」
 ザラシュは少しだけ得意そうに微笑んで、言葉を重ねた。
「古代ルドス魔術は、神を迂回するものだ。この世の全てに宿る多くの神々一柱々々に語りかけねば成せなかった技を、言の葉と印の力で無理矢理に起動させる……、なるほど、だから『禁じ手』の術、と」
「そうだ。そして、ヒトが呪文書という概念を手に入れてしまったことで、我があるじへの祝詞も不完全なままに同様に記録され、形骸化してしまった。彼の罪は計り知れぬ」
 導師が、拳を握り締めた。
 あまりに痛々しいその気配に、一同はただ息を呑む。やがて、皆を代表するかのように、ユールが静かに問いを発した。
「彼、とは?」
「ルドス王国最後の王だ」
 
 ルドス王家の人間がその不思議な術を使うようになったのは、建国時まで遡る。いや、その技があったからこそ、ルドス王国は成立したのだろう。「禁じ手」の技を駆使した残酷な征服者として後世に知られる初代王は、黒髪を風になびかせながら、天府の統一を宣言した。
 そう、黒髪。
 王家の当主は、王であるとともに巫子でもあったのだ。彼らが仕えていたあるじの名は明かされなかったが、王位とともにその神との契約も次代へと受け継がれていったのだった。
 
 導師は、淡々と語り続ける。
「歴代の王達は、皆、野心的な人間だったと聞く。契約のあるじがそうであったからなのか、王達がそうであったからこそあるじに選ばれたのか、因果は解らぬ。神と巫子は少なからず同調するものだからな」
 いつの間にか、ランプが、少し光量を減じていた。
 だが、誰もが導師の言葉に夢中で聞き入り、そのことを気にする者はいない。薄暗さを増した室内に、ただリーナの声だけが響き渡っている。
「最後の王は、私が見聞きした限りでは、一番その傾向が強かったように思えた。ルドスという一国の支配者では飽き足らず、世界の支配者を望んでいたように思えた。他の神々さえも排除して、あるじとともにおのれの王国を打ち立てようとしているようだった」
 伝説として語り継がれてきた物語とは違う「真実」が、今、解きほぐされようとしている。
 契約の神を裏切ったのではなかったのか。
 そのために、ルドスは滅んだのではなかったのか。
「王は、遂に呪文書を下された。そして、『禁じ手』の術の隆盛により、他の神々への信仰は急速に薄れ始めていったのだ」
 
 
 
 ――このままでは、いけない。
 
 祭壇に祈りをささげる彼の頭に、囁きかける者がいた。
 
 ――の者が伝えし業は、この世界を歪ませる。
 
の者? 王のことですか?」
 
 ――我々は、ただ「そこ」に「在れ」ば良いのだ。何も望んではならないのだ。
 
「我々とは? 貴方は誰ですか?」
 
 ――我々は、ただ在るべき存在だ。それ以上でもそれ以下でもない。自らに仕えし者の言葉を聞き、ただその者を守るのみ……。
 我が巫子よ。の者を封じるのだ。このままでは、均衡が狂ってしまう。
 
「あ、貴方は、もしや……!」
 
 ――我は白にして、夜明けとともに東からやってくる。
 我の名はアシアス。昼を司り、命をもたらす者。
 の者は黒にして、夕暮れとともに西からやってくる。
 の者の名は……
 
 
 

    四  継承
 
 凍てつくような早朝の空気の中、土を掘り返す音が、岩に囲まれた薄暗い空間に鈍く響き渡る。
 真っ白な息を吐き出すと同時に、額に汗を浮かべて、レイとサンは鍬をふるっていた。神殿の物入れに長らく放置されていた二本の鍬は今にも柄が折れそうで、二人は必要以上に神経をすり減らしながら作業を続ける。
 その傍らに立つルーファスが、色白の頬を冷気で真っ赤にさせながら、神妙な顔で口を開いた。
「この人が、命がけでここを守ってくれなかったら……」
「我々が真実を知ることは叶わなかったであろうな」
 ザラシュが静かな声で、そのあとを継ぐ。
 彼らの足元には、丁寧に拾われ、布に包まれた遺骨が埋葬の時を待っていた。
「ルドス最後の王は憑依されていた、ということだったな。『奴』もまた、そういうことなのだろうか」
 ウルスが、視線を遠くに彷徨わせながら、事も無げに呟く。その、傍らに人なきがごとし、の態度が癇に障るのだろう、レイが荒い息とともに噛みついてきた。
「まてよ、まだそう決まったわけじゃないぜ? 本当に封印は解かれたのか?
 ……ってか、なんで俺が穴掘らなきゃいけないんだよ! お前のほうがガタイも良い癖に!」
「年長者はいたわるものだぞ」
 レイを鼻であしらってから、ウルスはザラシュを振り返った。
「封は解かれた、と考えるべきだと俺は思うが」
「確かに。絶対そうだとは言いきれぬが、共通点が多過ぎる。彼もまたの者に憑り込まれた存在なのやもしれん。いや、そう考えて行動したほうが良かろうな」
「だが、どうやって封印する? くそっ、肝心なことを言わないままに、まさかもう終わりだなんて言わないだろうな?」
 そう毒づいて、ウルスは神殿を振り仰ぐ。つられて、レイもその視線を追った。
 建物の前面にそびえる鐘楼が、まるで柱のように、地上十数丈のところで黒い天井にめり込んでしまっている。
 あの塔にも、かつては鐘が備えつけられていたのだろうか。
 朝に、夕に、祈りの時を告げ、この谷間にその澄んだ音色を響かせていたのだろうか。
「レイ! 手が止まってる!」
「! うわわわ悪ぃ」
 怒気をはらんだサンの声に、レイは再び作業に戻った。にやにやと笑っているであろうウルスの視線を背中に感じながら。
 
 昨夜のあの不可思議な逢着。既に肉体を失って久しい、と自らが言ったその「存在」は、の者の封印にまつわる叙事詩を朗々と語り終えたところで、その口をつぐんでしまった――「器」であるリーナがぱたりと倒れてしまったのだ。
 それから今朝まで、事態は何も進展を見せていない。
「封印、か。巫子ならば知り得ることだ、と、そう言っておったな」
 顎をさすりながら、思案するようにザラシュが言う。
「言っとくけどな、俺には何のことかさっぱり解んねえぞ」
「お前になど何も期待していない」
「なにおう?」
 再びウルスと言い合いを始めたレイに、サンが暗い瞳で文句を言おうとした、その時。
 神殿の入り口からダラスが顔を覗かせた。
「ラグナ様! リーナさんが目を覚まされました!」
「解った」
 ぐい、と口角を吊り上げて、ウルスはその場の全員を見渡す。
「レイ、サン、お前達はきっちり仕事を終えてから来い。それと、ルーファス。お前も二人についていてやれ」
「どうしてですか!」
「勝負事は公平でなくてはならんだろう。俺とザラシュ殿は先に行って、もう一度例の巫子に封印の方法を聞いてくる。彼女とご対面はそのあとだ」
 
 
 靴音高くウルスとザラシュが奥の小部屋に足を踏み入れる。
 巨石の上に、寝ぼけ眼で上半身を起こしたリーナの姿があった。その傍らには、シキが心配そうな表情で立っている。
 壁際でユエトと語らっているユールに向かって、ウルスはきびきびと声をかけた。
「先生、昨日のあの巫子は?」
「うーん、どこにもいないねえ」
 その場の空気をまったく読もうとしないユールは、相変わらずの間延びした声で返答する。
「いない?」
「そだね。語るだけ語ったから役目は終わった、ってことなんじゃないかな。どこかに消えちゃったよ」
「なんだと?」
 絶句するウルスとは対照的に、シキが顔を輝かせてユールのほうを向いた。
「じゃ……、これは、リーナ?」
「リーナだよー」
 大きく伸びをしながら、本人がそう答える。凝りをほぐすかのように首と肩を回してから、もう一度大きく両腕を頭上に伸ばして、たっぷりと深呼吸をした。
 シキがおずおずとリーナの顔を覗き込んだ。
「記憶は? 私のこと、解る?」
「解るわよ」
 にかっ、と歯を見せて笑ってから、リーナはわざとらしくそっぽを向いた。
「女のくせに大魔術師の一番弟子で、親友の私に一っ言もなく勝手に町を出てった、薄情者のシキでしょ」
「リーナっ! 良かった!」
 自分の首にしがみついてきたシキを、リーナは少し面食らった表情で受け止めた。それから、ふわり、と微笑んで、シキの身体を抱きしめる。
「ゴメンね、心配かけて。それに、会えて嬉しいよ」
「私も……」
 久しぶりの再会に、親友二人はしばし無言で抱き合った。
 
「大体、シキ達三人揃って黙って消えちゃうんだもん。一体何があったのっ? って悶々としちゃったよ」
「悶々?」
「レイの奴がとうとうシキに手ぇ出して、それで、魔術の修行の邪魔になるって先生がシキを隠して、レイもそれを追って……とか、読本よみほん一冊書けそうなぐらい妄想しちゃったよ」
 あながち間違いではないリーナの想像に、シキは心の中で舌を巻いた。詳しいことはまたのちほど、他の者がいない時にでも追々語ることにして、さりげなく話題を変える。
「……ね、記憶を失っていた間のことは、憶えてる?」
 水を向けられたリーナは、目を見開いて大きく頷いた。
「憶えてる、憶えてる! 凄いよね、私。なんかロマンス物の主人公? みたいな」
「笑ってる場合じゃないよ」
 あまりに能天気なリーナの笑顔に、シキのほうが思わず苦笑を漏らす。
「うーん、でも、いまいちピンと来ないのよねー。正直、『この』私が色男二人に迫られるなんて状況、絶対ありえないって」
 あっけらかんと言いきってから、リーナは右手の人差し指をぴん、と立てて、身を乗り出した。
「これはね、絶対、『一人の女をめぐって対立していた二人の男の間に、いつしか深い愛情が……』ってパターンだと思うのよ」
「え」
 向かい合って手を握り合うサンとルーファスの姿を想像しそうになって、シキが思わず硬直する。「い、いや、そっちのほうが、かなり、ありえないと言うか……」
「うるさいぞ!」
 遂に痺れを切らしたのだろう、ウルスが大声で一喝した。余韻が、ぐわんぐわんと部屋中に反響する。
「よくもそんなに舌がまわるものだな。いつもそうなのか」
「えー? 違いますよー」
 物怖じすることなく、リーナはしれっと即答した。シキが苦笑に言葉を添える。
「いつもはもっと……喋ってるよね」
「……なんだと?」
 それだけを吐き出して、ウルスは再び絶句した。それから、天を仰いで頭を掻き毟る。
 この尊大な王子様にも苦手なものがあるんだなあ、とシキは心の内で微笑んだ。ユールしかり、リーナしかり、ウルスの前で自分のペースを貫く人間が、今までほとんど存在しなかったんだろう。
 シキがそんなことをつらつらと考えていると、仕事を終えたレイ達が戸口に現れ、小部屋は一気に賑やかさを増した。
 
 
「くっそー。まったく人使いが荒いんだよなー」
「ご苦労だったな」
 即座に投げかけられたウルスのねぎらいの言葉に、レイが一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ照れたように顔を背けた。その様子を見たシキが、ふき出しそうになるのを必死で抑える。
 リーナは静かに目を細めた。
 平和な日々がこの先も変わらず、ずっと続くであろうと信じて疑わなかったあの頃。その時から何一つ変わらない友人達を見つめながら、リーナはそっと胸元に手をやった。
 春、故郷の東の森にあの雷が落ちて間もなく、大魔術師とその弟子二人は町から忽然と姿を消した。何も心配要らない、町長はそう語ってくれたが、あまりにも突然の彼らの出立は、リーナをはじめとする町の人間の目には「失踪」としか映らなかった。
 シキが自分に黙って町を出ていくなんてことが、リーナには信じられなかった。それも、行き先も告げずに。きっと、止むに止まれぬ事情があったのだろう。リーナはそう思い直して、別れの言葉を交わすことの叶わなかった親友の胸中を慮った。行き場のない自分の気持ちを、無理矢理押し殺して。
 
 だが、その傷も癒えぬうちに、リーナは再び別離を経験することとなる。
 不変だと思っていた日常の断片が、次々と両手の指の隙間をすり抜けていく……。
 
 そして、夏が過ぎ、秋が訪れた。
 収穫の季節とともに突然舞い込んだ、皇帝陛下からの召喚状に、リーナは躊躇うことなく頷いていた。
 そうだ。変わらないものなど、何も……無いのだ。そう囁く冷めた声に促されるように。
「リーナっ」
「リーナさんっ」
 レイ達をかき分けるようにして、二人の男が自分の目の前に揃って駆け寄ってくる。リーナは腹をくくると台から立ち上がった。
「ちょっと、待ったっ」
 待ったをかけられた二人が、律儀に足を止めた。
 諦めたはずの男と、身分も立場も違い過ぎる男。どちらにしてもありえない、リーナはそう胸の内で呟いていた。溢れそうになる涙をなんとか抑え込みながら。
「お二人の気持ちはとっても嬉しいんだけど、今はそんな些細なことにこだわっている場合じゃないと思うのよ」
「さ……!?
「些細な、こと!?
 サンとルーファスが揃って呆然と絶句した。
 
 
 ――一体、リーナは何を言うつもりなのだろう。
 そっと、壁際まで後退しながら、シキは親友から目を離すことができずにいた。
 いわゆる少女時代、お互いのことならば何だって知っているつもりだった。けれど、もう自分も彼女も一人前の大人で、別々に恋も経験して……。
 サンと付き合っていたなんて、全然気がつかなかった。教えてくれても良かったのに。そう思うと同時に、自分だってレイとのことをリーナに黙っていたという事実に思い当たる。
 シキは軽く嘆息すると、傍らに立つレイの顔をこっそりと盗み見て、それから再びリーナに視線を移した。
 
「そうでしょ? 言っときますけど、私、身のほど知らずじゃないから。自分がそんな大した女じゃないことぐらい、充分解ってるから」
 どうやら、リーナは徹底的にこの関係を仕切り直すつもりらしい。抗議の声を上げる男二人の顔を交互に見つめながら、彼女は勇ましくも腕組みをして、そう言いきった。
 しかし、彼らとてこれで引き下がるつもりはないようだ。少し声を上ずらせながら、口々にリーナに反論している。
 リーナは、やにわに大きく肩を落とした。深い溜め息ののちに、腰に両手を当てて、それから静かに口を開く。
「これ言うと、本っ当に自分がヤな女になってしまう気がするんだけどな。ま、いいや」
 顔を上げたリーナは、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。大きな碧い瞳をまずはルーファスに真っ直ぐ向ける。
「あのね、騎士様。私のことを心配して探してくれてありがとう。本当に嬉しいわ」
 その刹那、ぱあっ、と破顔するルーファスに、リーナは少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「でもね、それってたぶん、責任感とかそんなのだと思うの」
「そ、そんなことありません!」
「責任感と、連帯感と、あとは旅の疲れと物珍しさで勘違いしているだけなのだと……思うのよ。だって、自分のことは自分が一番良く知ってるから」
 右手の人差し指を軽く顎に当てながら、まるで他人事のようにリーナは語り続ける。
「私は騎士様が思いえがくような女じゃないもん。うるさくて、がさつで、粗忽で、気が強くて、大体、こんな思い上がったことを人にぺらぺら偉そうに喋っているってだけで、身のほどが知れるってものでしょ。……って、あぁああ、なんか自分で自分がすっごく情けなくなってきたわ……」
 自分の台詞に自分で頭を抱えて、それからリーナはくるりとサンのほうへ向き直った。
「で、サン。あんたの場合は、対抗意識よ」
「……!」
 見事なまでに断言されて、サンは言葉もなく立ち尽くす。
「理由がどうあれ、あんた、私を一旦は捨てたわけでしょ?」
「……捨てたわけじゃない」
 沈痛な面持ちで、サンは言葉を絞り出した。だが、リーナは躊躇わない。
「捨てた」
「そうじゃない、俺はお前を守るために……」
「捨てたんじゃなかったら、自分の恋人がどんな性格してるのか、全然解ってなかったってことでしょ」
 いつしか辺りは完全に静まりかえっていた。訥々と紡ぎ出されるリーナの言葉だけが、ランプの光とともに空気を揺らしている。
「私を守るためにって、私の前から黙って姿を消して、そんなことして私が喜ぶって本気で思ってたの?」
 リーナの声が微かに震えているのを聞き、サンが足元に視線を落とした。
「足手纏いだなんてこと、言われなくっても解る。だから一言、言ってくれたら良かったのよ。さよなら、でも、待っててくれ、でも。私がどんなに心配して悩んだか、そんなことも解らないくせに、何が好きよ、愛してるよ。大体、私のどこが好きかも一度だってちゃんと答えてくれなかったじゃない!」
 いつの間にか、大粒の雫がリーナの頬を伝い落ちていた。

「とにかく、ね」
 涙を服の袖で豪快に拭ってから、リーナは勢い良く顔を上げた。やたら明るい調子で、でも少しだけ鼻声で、場を仕切り直す。
「私も含めて、ちゃんと一回落ち着かなきゃ。ややこしい話はそれから。当面は、もっと大きな問題が迫ってるでしょ。の者をどうするか、ってことよ」
「そうだ、さっきのあの巫子の幽霊は?」
 湿っぽい雰囲気を苦手とするレイが、即座にその話題に飛びついた。そして、レイ同様に居心地の悪さを感じていたと思われるウルスもまた、どこかほっとした表情で即答する。
「言いたい事だけ言い捨てて、満足して常世なりと去ってしまったそうだ」
「えー! じゃあ、どうすんだよ、封印の方法は?」
「知ってるよ」
 さらり、と、そう返したリーナの顔に、全員の驚愕の視線が集中する。一拍遅れて、怒号にも似たどよめきが、神殿中に響き渡った。
「ええええっっ!?
「なんかね、色々頭ン中に残ってんのよ。『封神』の術ってのかな? あと、『滅神』てのも……ああ、これは違うわ。それに本物の巫子しか使えないみたいだし。なんにせよ、これでなんとかなるんじゃない?」
 あまりのことに、一同は言葉を失って、ただリーナを見つめ続ける。
 ようやっと我を取り戻したユールが、満面の笑みを浮かべて、リーナの手を両手で握った。すっかり興奮した様子で、キラキラと瞳を輝かせている。
「ね、他の記憶みたいなのも何か残ってる?」
「うーん、なんか断片的に、夢みたいな感じで、ちょこちょこって」
「うわあ、なんて素敵なんだろう!」
 言うや否や、ユールはリーナを強く抱きしめた。「ね、ルドスに帰ったら僕の家に来ない?」
「事態をこれ以上ややこしくさせるんじゃない」
 咄嗟のことで反応の遅れたサン達の代わりに、ユエトが強烈な一発をユールの頭に喰らわせる。その、あまりにも見事なタイミングに、皆は思わず声を出して笑っていた。
 
 
 
 簡単な昼食を神殿の中ですませてから、一同は荷物をまとめ直した。
 ユールとユエトの凸凹コンビも、皆と一緒に下山すると言う。総勢十名という大所帯で、どうやって人目を避けてルドスに戻るのか。最終的に落ち着いた結論は「状況に柔軟に対応する」――つまりは、行き当たりばったり――という無謀なものだったが、それに意義を差し挟む者は一人としていなかった。
 良い案が浮かばなかったというのも確かだが、それ以前に、事態を大きく進展させることができるかもしれない、という気持ちが、皆を浮かれさせていたのだろう。それに、こちらには優秀な魔術師が三人もいるのだ。一体、何の問題があるだろうか。
 
 
 全ての灯りを消して、一行は神殿を出た。
 天井のところどころから差し込む陽の光のお蔭で、この閉ざされた空間は、黄昏時に似た明るさで満たされている。
 白茶色の谷の斜面と、赤銅色の壁と天井と。そして振り返れば灰色の石作りの神殿。古い思い出の中の風景のように、全ての色彩が色褪せたその景色は、ある意味、絶景なのかもしれない。
 ユールやユエトはともかく、自分達はおそらくもう二度とこの地を踏むことはないだろう。そんな思いを胸に抱きながら、一同は来る時に通った抜け穴を目指して、斜面を登り始めた――いや、登り始めようとした。
「待ちくたびれたぞ」
 刃のような冷たい声が、空気を切り裂いて彼らの耳に突き刺さる。
 驚いて顔を上げた一同の視線の先、どこから現れたのか一人の男が斜面に佇んでいた。
 
 
 

    五  崩壊
 
 男は、黒い長外套の裾をひるがえしながら、ゆっくりと斜面をくだり始める。
 一分いちぶの隙もない気迫――いや、殺気、か――を身に纏いながら、彼は軽く右手を上げた。外套の前が大きく開き、その下に着込まれたえんじのジャケットが皆の目を射る。
 それを合図に、岩や潅木の陰という陰から幾つもの人影が一斉に立ち上がった。突然の出来事に、為すすべもなく立ちすくむシキ達の周りを、彼らはぐるりと取り囲む。
「マクダレン帝国に楯突く愚か者どもよ。だが、この状況が解らぬほどの馬鹿ではあるまい」
 ルドス警備隊隊長は、口元に凄惨な笑みを浮かべながら、そう言い放った。
 
 
「随分手際の良いことだな」
 動揺を微塵も感じさせないウルスの声に、一瞬だけエセルの目が細められる。三丈ほどの距離を空けて、彼らは対峙した。
「侮ってもらっては困るな。我々を誰だと思っている。素人が何人集まったところで、我が精鋭の裏をかくことなど不可能だ」
 その口調が穏やかであるが故に、それが与える恐怖感は否応にも大きくなる。自分のすぐ隣に立つリーナが、がくがくと身体を震わせ始めたのを見て、シキはそっと彼女の手を握った。大丈夫、と根拠のない励ましを込めて。
「陛下が帝都に帰ってしまったってのに、隊長が真面目に仕事をするわけがないだろう?」
 唐突に、彼らしからぬ口調でそう言ってから、エセルは暗い笑みを浮かべて再び一同を見下ろした。「不本意な噂だったが、効果があったのだから、良しとするか」
 それを聞いたダラスの顔が、一気に紅潮する。
「まさか、俺を釈放したのも……」
「当たり前だ。最上級の咎人を赦免する謂れがどこにある。どの道、あの様子を見る限り、お前は絶対に仲間について口を割らないだろうしな」
「貴様、嵌めやがったな!」
 瞬間的に逆上したダラスが、一団から飛び出した。拳を握り締め、エセルの立つ上方に向かって坂を駆けのぼる。
 一歩、二歩。だが、三歩目は無かった。大きく横に突き飛ばされたダラスは、おのれの身に何が起こったのか理解できないまま反射的に受け身をとると、慌てて体勢を整えて……絶句した。
 自分がいたはずの場所に、うずくまるウルスの姿。
「ラグナ様!」
「少し目測が甘かったか」
 ウルスは、脂汗を額に浮かべながら、自嘲する。彼の左大腿部側面には、深々と一本の矢が突き刺さっていた。
「まさか、私を庇って……! なんと馬鹿なことを!」
 ダラスの絶叫には答えずに、ウルスは突き立った矢を左手で握り締めた。大きく肩で息をしながら、一息に矢を引き抜く。
 悲鳴一つ上げず、ただ微かな唸り声のみを漏らした鉄錆色の髪の男を見て、エセルは小さく感嘆の声を上げた。
「伊達に、陛下に叛旗をひるがえしているわけではない、ということか」
「飼い犬の分際で、大きな口を叩くな。俺を誰だと思っている」
 挑発的なウルスの台詞を受けて、エセルの口角が、ぐい、と吊り上がった。
 
 
 荒野の狼を気取っているのかは知らんが、犬に劣っているようでは、自慢にもならない。傷の痛みに顔をしかめながらも一向に視線を外そうとしない反乱団の頭目を、エセルは冷ややかな目つきで睨み返した。
 あるじに庇われた男が、滑稽なほど狼狽してそのもとに駆け寄り、懐から取り出した手巾しゅきんを裂いて止血を施そうとしている。
『可能ならば、生きたまま捕らえよ。帝都にて私が直々に引導を引き渡したい』
 半月前のサルカナでの謁見のあと、一人御前に呼ばれたエセルは、アスラから直接その勅命を賜った。
 町一番の宿屋の一等客室。人払いがなされているのか、室内にはアスラ以外の人影は無い。かしこまって跪くエセルの至近に寄って、アスラは囁くように、そう命をくだしたのだ。
 奴らがこのままおとなしく処刑を受け入れるとは思えなかった。持ち帰るのは、その首級しるしだけでも充分なのではないだろうか。皇帝陛下もこう言っていたではないか、「可能ならば」と。その言葉は、陛下自身が命令遂行の困難さを充二分に認識しておられる、ということに他ならない。
 ――いや、だからこそ、だ。
 だからこそ奴らを、生かしたまま帝都まで牽きたてていかねばなるまい。あの、ロイ・タヴァーネスすら人払いしての、皇帝陛下との一対一の謁見。アスラ陛下は期待しているのだ。他でもない、このエセル・サベイジに。
 ――ならば、奴らには自分の足で下山してもらうのが一番効率が良い。応急手当ぐらいはさせてやろう。
 エセルは、弦を引き絞る部下達に合図を送った。ウルスに向けられていた弓が、一部を除いて一斉に反乱団の残りへとその向きを変える。
「さて。ライアン前宮廷魔術師長殿」
 ウルス達の少し後方、一塊に立ち尽くす者達の中から、名を呼ばれた初老の男が一歩を踏み出した。
「貴方ほどの腕前ならば、説明せずともお解りかと思うが……、これらの矢尻は、貴方の弟子、現魔術師長様の手によって魔力が付与されている。余計な真似をすれば、直ちに幾本もの矢がお前達の体に突き刺さることになるだろう」
 ザラシュ・ライアンは、軽く肩をすくめると、懐から両手を出して顔の横に掲げる。
「他の者どもも、武器を離して、両手を挙げてもらおうか」
 観念したのか、彼らは躊躇いながらもエセルの言葉に素直に従った。
 油断はできないが、これで仕事は粗方終わったと言えるだろう。エセルは、満足そうに鼻を鳴らしてから、確保した面々を一人ずつ確認していく。
「亡国の王子、脱走近衛兵、あと、もう一人のお尋ね者は……」
 自分のことを言われているのだと察したのか、長髪の男が一歩前へ出る。
「ふん、本当に一網打尽だな。残りは……」
 ルーファスが真っ青な顔で硬直していることに気がついて、エセルの瞳が微かに緩む。同じ爵位の家系という間柄、彼の忠臣ぶりと人の良さは、エセルも充分に聞き及んでいた。
 どう丸め込まれたのかは知らないが、できる限りの配慮はしてやろう。一昨日、カナン家の別荘で対峙した時の、邪心のないルーファスの瞳を思い出しながら、エセルは静かに言葉を継いだ。
「……ルーファス・カナン、ユール・サラナン、二人ともあとでゆっくり話を聞かせてもらうぞ。それから、例の攫われた癒やし手の女と……」
 そこで突然、エセルの動きが、声が、止まった。
 大きく一歩を踏み出して人垣の間から姿を現したその人物は、迷いのない瞳に強い意志を込めて、エセルを真っ直ぐ見返してくる。
 包囲網のそこかしこから、ざわめきと動揺が沸き起こった。
 エセルは、驚きのあまり失いかけたおのれを必死で手繰り寄せて、辛うじて一言を絞り出した。
「シキ……どうして君がここにいる」
 まるで少年のように彼女の髪は短くなっていたが、その凛とした眼差しは以前と何も変わらず、いや、以前よりも格段に力強く、エセルを射る。
「隊長、我々は、何も知らなさ過ぎたんです」
「何のことだ」
「鬼が……帝都の中心に巣食っています」
「鬼だと?」
「我々を見逃してくれ、とまでは言いません。ですが、話を聞いていただきたいのです」
 かつての同僚が紡ぎ出す言葉に、隊員達はすっかり浮き足立ってしまっていた。
 ――まずい。
 視線を巡らせば、あのガーランでさえ驚きの表情を隠せずに、あろうことか剣を構えることも忘れた様子で立ち尽くしている。
 ――非常に、まずい。
 シキの言葉の真偽よりも、シキが反乱団とともにいる、という事実そのものがまずいのだ。このままでは、奴らに反撃の機会を与えてしまう……。
 この予想外の事態をどう打開すべきか、必死で思案するエセルの目の端が、微かに動くものを捉えた。
 ザラシュが、掲げていたはずの両手をひらめかせて、何かの印を結ぼうとしていた。
 
 
 
「唯一の懸念は、あの男だ。さきの宮廷魔術師長、ザラシュ・ライアン」
 アスラのその言葉に、エセルは思わず顔を上げていた。慌てて再び床にぬかづき、非礼を詫びる。
「驚いたか。これは宮廷でもほんの一握りの者しか知らぬ秘密だからな。仮にも宮城の魔術師長まで勤め上げた男が、反乱団に組しているなどと、どうして公にできようか」
 不謹慎なことではあるが、その事実はエセルにある種の安堵感をもたらした。先刻味わわされたあの屈辱、相手がかつて宮廷魔術師長の地位に就いたほどの実力の持ち主というのならば、多少諦めもつくというものだろう。
「この十五年の放浪の間に、あ奴は忌まわしい術――黒の導師の術――を身につけてしまったようだ。反乱団を捕らえるにあたって、最大の障害となるだろう」
 そう言って、アスラはエセルの耳元に口を寄せた。「だが、私は、君達をむざむざと殺させはしない」
 アスラの細くてしなやかな指が、エセルの眼前に差し出される。その手には、赤い石が嵌め込まれた指輪が一つ、載せられていた。
「お守りだ。これであ奴の動きを封じることができよう」
 鮮血がそのまま結晶と化したようなその石を、エセルは魅入られたようにじっと見つめ続けた。
 
 
 
 その兆候は、非常に微かだった。
 どこか遠くで何かが軋んでいる。小さく空気を震わせている。
 
 折しも、シキが姿を現したことによって、その場の空気は乱れに乱れていた。動揺を隠せない警備隊と、打開策を求めることに腐心する反乱団と。だから、その異変に気がついたのは、ザラシュただ一人だけであった。彼は、立場も忘れて咄嗟に両手をひらめかせた。
「詠唱をやめろ!」
 突如沸き起こった昏い闇の気配に、ザラシュは一瞬だけその手を止めた。
 先刻までの威風堂々とした態度をかなぐり捨てて、警備隊隊長が叫んでいる。こちらに突き出されたその右の拳に、小さく光る赤い光。それがまるで紅蓮の炎のごとく自分の眼底に焼きつけられるのを感じて、ザラシュは口元を歪ませた。
 忌まわしき、死の気配。それを纏った術を、人々は「暗黒魔術」と呼んでいる。
 古代ルドス魔術は神を迂回する「禁じ手」の術だ。だが、それでも、の者の残滓は、隠しきれなかったというわけなのだろう。
 しかし、事態は一刻の猶予もない。ザラシュは詠唱を続けた。
「やめろと言っている!」
 おぞましい力の奔流が、エセルの手から解き放たれた。
 それは紅いあぎとを大きく開いて、ザラシュの喉元に喰らいついた。
 
 
 一体何が起こっているのか、誰にも解らなかった。エセルでさえ、自分が何をしたのか、正しく理解してはいなかった。
 ザラシュの身体が、ぐらり、とかしぎ、そのまま静かに地に倒れ伏す。
 巨大な魔術の盾が皆の頭上に薄っすらと現れ、……それは完全に具現化することなく、そのまま大気中に霧散する。
 ほぼ同時に、何か硬いものが砕ける嫌な音が、彼らの頭上で鳴り響いた。
 
 
 天井から剥がれ落ちた岩石が、轟音とともに谷の斜面に突き刺さる。
 舞い上がる土埃。一気に悪くなった視界のそこかしこに、上空から降り注ぐ礫や砂。
 そして、また巨石が墜落する。さっきよりも自分達に近い場所に。
 ひっきりなしに響き渡る、岩塊が軋む音。低い地鳴り。落下してくる土塊は、どんどんその量を増し続ける。
 十五年の間にすっかり風化し、木々の根に砕かれた天井が、今、まさに終焉の時を迎えているのだ。
「崩れるぞ!」
 誰かの叫び声を皮切りに、皆は必死で斜面を駆け上がった。警備隊もない、反乱団もない、全員が入り混じった状態で、ただ生き延びるためだけに、落石を避けながら、走る、走る。
 
「ラグナ様!」
 人波に呑まれ、主を見失ったダラスが、悲痛な声を上げる。
「返事をしてください! ラグナ様! どこですか!」
 降り注ぐ岩石と砂塵に視界を阻まれて、ウルスの姿はもはやどこにもない。
「ラグナ様!」
「行くぞ」
 ダラスは、自分の肩を掴んだ兄の手を振り払った。
「いやだ! 俺はラグナ様を!」
「お前は皆にこのことを伝えなければならない」
「そんなこと、兄貴がすれば良いだろう!」
 ユエトはその一瞬、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「俺も、ユールも、所詮は傍観者にしかなりえない。それに……お前では足手纏いだ」
 ふ、と逸らされた視線の先、ルーファスに羽交い締めにされて絶叫しているリーナを見て、ダラスの眉が曇る。
「『彼ら』に任せておけ。行くぞ」
 きつく、きつく唇を噛んで、ダラスは斜面を登り始めた。
 
 
「サンっ! サンっ! サーーンっ!」
 髪を振り乱し、半狂乱になって、リーナは叫び続けた。足掻く彼女を必死で押さえ込みながら、ルーファスが耳元で叫ぶ。
「駄目です! 逃げなければ!」
「だって! サンが! サンが……!」
 ついさっきまで、リーナの傍らには彼がいた。天井の崩壊を見て取るや否や、誰よりも早くリーナの手を握って坂の上へと先導してくれていたのだ。
 それが……、それが……。
 リーナの両目から、涙が溢れ出してきた。
『ラグナ様! どこですか!』
 背後で聞こえた、ダラスの絶叫を耳にして、サンは動きを止めた。リーナが何か言うよりも早く、サンは彼女の手をそっと離す。
 ――一体、何を。
 それは訊くまでもないことだろう。何より、胸に押し寄せる絶望がリーナから言葉を奪い取っていた。
 サンが、幽かに笑う。
 次の瞬間、土煙を抜けてきたルーファスの許へ、リーナは押し出された。
 
 慌てて振り返った時には、もうサンの姿は無く。
 ただ一言、耳に残る、轟音に半ばかき消された、か細い声。
 
 ――――さよなら。
 
「彼なら、きっと大丈夫です! ですから、早く!」
「でも、……でもっ!」
 なおも暴れ続けるリーナを、ルーファスは力ずくで振り向かせた。
「いいですか、リーナさん。彼は、彼の道を選んだのです」
 一瞬だけ固く瞼を閉じ、それから決意を込めた瞳でリーナを見つめる。「……そう、貴女は、選ばれなかった」
 リーナの碧い目が見開かれる。
 がくりと膝をつく彼女を、ルーファスはすかさず抱きかかえた。そのまま、引きずるようにして出口を目指す。悲愴な面持ちのままに。

 
 
 舞い立つ砂塵に、上空から差し込む陽の光がその太さを増していく。
 岩に閉じ込められ、人々から忘れ去られた神殿が、再び陽光の下にその姿を現し……そしてまた消えていく。瓦礫の中へと。
「君はこれも『必然』だと言うのかい?」
 外へ繋がる竪穴の登り口、庇のように迫り出した岩盤に守られた場所。普段とは打って変わった落ち着いた声で、ユールが傍らのユエトに問う。問われたユエトは表情一つ変えずに、静かな声で逆に問い返した。
「ならば、お前はこれでも『偶然』だと言うのか?」
 落下していく岩巌を呑み込み続ける砂煙の海。視線を転じれば、ひらけ始めた天井から、気が遠くなるほどに青い空が眼底を射る。
「そうだね」
 肯定とも否定ともつかないユールの呟きはあまりにも小さく、それを耳にした者は誰もいなかった。
 
 
 
 なだらかな谷の中央部が、大きく崩れて陥没してしまっている。
 かつて名も無い癒やし手が命を賭して造り出した秘密の空間は、跡形もなく消えてしまっていた。残っているものと言えば、谷の斜面に帯状に付着する天井の縁と、堆積する岩石にほとんど埋もれてしまった鉛直の壁。それらさえ、ここに何があったのかを知る人間でなければ、見過ごしてしまうに違いない、僅かな証だ。
 ある者は座り込み、ある者は立ち尽くし、憔悴しきった表情でまだ断続的に続く地響きを聞いていた。敵も味方もなく、ただ呆然と。
 
「魔力探知、反応ありません」
 警備隊のマリが、浅黒い顔を更に暗く沈ませて、報告する。もう一人の魔術師であるノーラもまた、足元から視線を上げないままに、静かに口を開く。
「……生命力探知も、反応ありませんでした」
「嘘……」
 リーナが口元を両手で覆って、そのまま絶句する。
「……術が充分に届いていないという可能性はないのですか?」
 怪我人に治療を施し終わったインシャが悲痛な声で問うも、二人の魔術師は黙って顔を見合わせるだけだった。
「でも、もしも生きているとしても、これじゃとても助け出せないよ?」
 冷静なユールの声に、数人が抗議の声を上げようとして……それから力無くうなだれた。
 そのとおりなのだ。
 白茶色の斜面に残る、赤銅色の帯。その厚さは、薄いところでも半丈はある。それら全ての質量が、谷底に均しく降り注いだのだ。たとえ岩々の下に生者が埋もれていようとも、これらを撤去して救出するのは不可能だろう。
 それに……、あの石造りの神殿すら、今や単なる瓦礫の山でしかない。当然、人間など、ひとたまりもないだろう。
「サラナン先生……」
 ガーランの問いかけの意図を察して、ユールは静かに指を折った。
「カラントの王子、前魔術師長、元近衛兵、そして黒髪の巫子二人」
 淡々と紡ぎ出されるその言葉に、場の空気はどんどん蒼ざめていく。
 仮に、被害に遭ったのがお尋ね者だけであったとしても、その凄惨な災禍は警備隊の面々の上に暗い影を落としたことだろう。ましてやその中に、かつての同僚、シキが含まれるとあっては……。
「……隊長、聞いたとおりだ。全員で怪我人五名。行方不明者、五名」
 どのような感情を押し殺しているのだろうか、ガーランは無表情のまま、傍らに座り込むエセルにそう報告する。
 だが、返答はなかった。いや、返答どころか、何の反応もエセルからは返ってこない。
「…………隊長?」
 訝しげに身を屈め、ガーランは上司の顔を覗き込んだ。
 彼は、真っ青な顔で、ただ虚空を見つめ続けていた。
 
 指輪をはめた指に、全ての力が吸い取られていく感触。
 それより何より、その指先から迸った、おぞましい気配。
 それは、敵の肉体に刃を突き立て、そして引き抜いた時に感じるのと同じ、忌まわしい「死」の気配だった。
 
「私は、一体、何を……」
「隊長…………」
 ガーランの再度の呼びかけも耳に入らない様子で、エセルは呆然と呟いた。
「陛下は、一体、何を…………」

黒の黄昏 3

2015年2月26日 発行 初版

著  者:那識あきら
発  行:あわい文庫

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那識あきら

創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
http://greenbeetle.xii.jp/




「黒の黄昏」第十一話~第十四話
サイト初出 2006/9/02~2007/3/12

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