───────────────────────
───────────────────────
一 召喚
「まだ、何かこだわってらっしゃるのですか」
髪をいつもどおりに結い上げ、身支度を整えたインシャが、エセルのカップに珈琲を注いだ。香ばしい香りが、一気に部屋中に充満する。
「何のことだ」
怪訝そうな声を投げつつ、エセルはインシャがプレスしてくれた木綿のシャツに袖を通した。少々不器用ながらも、その仕上がりは回数を重ねるごとに確実に良くなってきている。その事実は、エセルの心を密かに舞い上がらせていた。
このひと月の間に、エセルは週の大半をインシャの部屋で過ごすようになっていた。
インシャは、激務で知られる警備隊の副隊長だ。そしてエセルは隊長である。
かつて、エセルが他の女達の相手をしていた時は、仕事を抜け出した彼の穴埋めを彼女が完璧にこなしてくれていたものだが、お相手がそのインシャ当人となれば話は断然違ってくる。かといって深夜の逢瀬は翌日に障るし、交代勤務の関係から、休日が重なることは殆どありえない。以前のような「つまみ食い」ならば、勤務中に無理矢理本部の三階ですませてしまうことも可能だったが、想いが通じたと解った今は、そんな勿体ないことなどできるはずがなかった。
となると、この溢れんばかりの情熱を吐き出すために彼が取れる手段は限られてくる。流石のエセルといえども、屋敷にインシャを連れ込むわけにはいかず、かといって彼の「部屋」は生活するにはあまりにも物が足りていない。
狭いから、汚いから、みすぼらしいから、と必死で固辞するインシャを強引にねじ伏せ、エセルが彼女の部屋で夜を明かしたのが、皇帝陛下がルドスを発った二日後だった。一度、二度、と彼がインシャの部屋から出勤するようになると、インシャももう半ば諦めたようで、遂にはエセルのために最低限の日用品を買い揃えるに至ったのだった。
勿論、そういった品物の代金は、あとからエセルが支払った。彼は、洗濯や炊事の手間賃をもインシャに渡そうとしたのだが、彼女は静かに首を横に振って、頑としてそれを受け取らなかった。
申し分のない毎日だった。
仕事も充実している。心地よい疲労感とともに彼女の待つ部屋に帰れば、温かい食事と甘い夜が約束されているのだ。インシャが夜勤や準夜勤の日ばかりは、以前どおり屋敷で味気のない夜を過ごさなければならねばならなかったが、それとて、また次にインシャと過ごす夜を更に引き立てるものでしかなかった。
最後に袖のカフスをとめ、エセルは食卓につく。珈琲の香りに包まれながらパンの籠に手を伸ばしたところで、インシャが溜め息とともに先刻の言葉を繰り返した。
「何をこだわってらっしゃるのですか」
「だから、何のことだ」
少し苛ついた声のエセルの問いに、インシャは真っ直ぐ視線を合わせてきた。
「このところ、ずっと隊長は苛々しておられるではありませんか。一体何を気にしてらっしゃるのですか」
胸の奥底までも鷲掴みにされたような不快感を覚えて、エセルは露骨に顔をしかめた。
「苛々などしていない」
「いいえ、しておられます」
「どうしてそんなことが解る」
「そ、それは……」
顔を真っ赤にさせて、インシャが一瞬だけ言いよどんだ。「と、とにかく、最近の隊長は様子が変です」
その言わんとするところを察したエセルは、好色そうな目つきで口角を上げた。
「君がどうしようもなく魅力的だからな。つい激しくもなる」
ねっとりとしたその台詞に、インシャが微かに身体を震わせた。だが、すぐに背筋をピンと伸ばし、眉間に皺を寄せてエセルに対抗してくる。
「ガーツェでの一件を、気にしてらっしゃるのですね」
カチャリ、と音を立ててエセルはフォークを皿の上に置いた。
「やはり、一度きっちり捜索すべきだと思います」
「何故、そんな無意味なことをする必要がある。反乱団はその中枢を失い、事実上壊滅した。それで充分ではないか。……それに、あれからもう十日も経っている」
「いいえ、まだ十日です。五人のうち三人が優秀な魔術師ということならば、まだ望みはあります」
「望み?」
うっかり口を滑らせたインシャの言葉尻を、エセルは逃さなかった。インシャは小さく息を呑んでから、観念したかのように視線を伏せた。
「私には、シキが死んでしまったとは思えません。いえ、思いたくありません。隊長、私に捜索隊を指揮させてください。こうしている間にも、現場は雪に閉ざされていくでしょう。どうか……」
「その必要はない!」
朝食に殆ど手をつけぬままに、エセルは床を蹴って立ち上がった。椅子の背からえんじのジャケットを掴み、大きな動作で羽織る。
「あの落石、そして現場は冬山だ。登山口に配置した見張りからも何も報告は無い。奴らは死んだ。間違いない」
――そうだ、いくらシキともう一人のお尋ね者が魔術師だといっても、彼らはまだ若い。カラントの王子は手負いだ。あの脱走近衛兵にしても、剣術では落盤に対抗のしようがないだろう。そして、前の宮廷魔術師長は……
エセルはぞくりと身体を震わせた。
彼が魔術道具を使用したのは、あれが初めてではない。強制的に「力」を道具に吸い取られる感覚にも、それなりに慣れていたはずだった。なのに……
おぞましい、と思った。
自分の中の「何か」が、ずるりと引き抜かれたような感触。「それ」は、あの指輪を通して忌まわしいモノに変換され……あの初老の魔術師の命を、文字どおり「喰らった」のだ。
――彼らにとっての唯一の頼みの綱は、あの時永遠に失われた。だから彼らが生きているはずがない。
「隊長、貴方は一体何を恐れてらっしゃるのですか?」
エセルは無言で玄関扉を押し開ける。彼はそのまま振り返ることなく、外套の裾をひるがえしてインシャの部屋をあとにした。
――言い過ぎたかもしれない。
何度目か知らぬ溜め息をつきながら、インシャは警備隊本部に登庁した。
隊の規律を乱すかもしれない、との懸念から、日頃インシャはエセルの少しあとから本部の門をくぐるようにしていた。ぶつぶつと文句を言うエセルをいつも無理矢理先に行かせているくせに、実際に彼に置いて行かれた今、酷く不安な心地になっている自分が途方もなく身勝手に思える。インシャは自嘲の笑みを浮かべながら玄関の扉に手をかけた。
「副隊長殿」
聞き慣れない声に振り返ると、五段下の路傍に一人の男が立っていた。高価そうな揃いの上下を着込み、金髪を綺麗に撫でつけた面長の男。紙のように白い頬と大きな鷲鼻が印象的だ。微かに記憶に残る顔と名前をなんとか掘り起こしながら、インシャは静かに返答する。
「ジャン・バンガ……様、なんでしょうか」
人材不足の警備隊を補うための、ルドス領主に仕える騎士団との兼任者達。彼はその中でも一番の発言力を持っていたはずだ。確か男爵の位を継いだ男だったと記憶している。
立場上、普段インシャが隊員を敬称づけで呼ぶことはあまりない。だが、身分の差を意識しているであろう相手の、感情をわざわざ逆撫ですることはないだろう。
多忙を理由に殆ど本部に顔を出さない騎士団組が、一体何の用事で自分を呼び止めたのか。疑問に思いながらも、インシャはゆっくりと身体ごと騎士に向き直る。
「領主様がお呼びです。一緒に来ていただけますか」
ジャンが指し示した先には、ルドス領主の紋章の入った二輪馬車が停められていた。
「どうやって彼を誘惑したのですか?」
石畳を踏む車輪の音を伴奏に、馬の蹄が軽快なリズムを刻む。インシャの左に座ったジャンは、極上に上品な口調で、下品な内容を口にした。
「……答えたくない、と。……こんな真面目そうな顔をしていて、裏で何をしているのやら、解らないものですね」
馬車は間違いなく領主の物だった。少なくとも、この騎士が領主の命を受けている事実は間違いないだろう。とにかく、インシャは表情を殺すことに腐心した。この手の手合いは、こちらが感情的になればなるほど調子に乗ってくるはずだ、と。
「領主様は、何と仰られているのですか?」
だが、ジャンはその問いを無視して、少し身体を寄せてきた。
「彼には、私の妹も何度か世話になっておりましてね。最近お呼びがかからない、と嘆いておりましたよ」
その言葉に、インシャは思わずジャンのほうを振り向いた。だが、口元をいやらしく歪めた彼の表情に不吉なものを感じて、即座に顔を背ける。
「彼は、相当な体力の持ち主だそうじゃないですか。毎晩一体どんなことをされているのです?」
慇懃無礼とはまさしくこのことだろう。丁寧が過ぎる喋り方のせいで、その内容の下劣さが必要以上に強調されてしまう。あまりのことに眩暈すら感じながら、インシャは軽く眉間に皺を寄せると静かに深呼吸をした。
「領主様は、何と仰られているのですか?」
繰り返された問いに、ようやくジャンが反応した。ゆっくりとインシャから身体を離し、神妙な顔でぼそりと呟く。
「なるほど。『鉄の女』ですか」
それから、座席に立てかけていたステッキを手にすると、天井を軽くノックした。
「少し寄り道を頼む。馬酔木通りへやってくれ」
仕事柄、インシャが荒くれ者に絡まれることは決して珍しくはなかった。中には、警備隊員に対しての恨みつらみだけではなく、女に対する劣情をインシャにぶつけてくる者もいた。
だが、彼女がそれに対して遅れをとったことは一度としてない。インシャ自身、体格や体力では男に敵わないことを充分に認識していたから、日頃の訓練を疎かにすることはなかったし、そして何より、彼女にはアシアス神聖魔術がある。
「……どういうおつもりですか」
だが、今、インシャの隣に座るこの男は、同僚であり、騎士であり、貴族である。無頼漢に絡まれるのとはわけが違う。警戒の色を濃くするインシャの視線に気がついたのだろう、彼はにやにやと笑いながら軽く肩をすくめた。
「これまで副隊長殿とはあまり話をする機会がありませんでしたからね。この機会に是非お互い親交を深めたく思っているのですよ」
「そういうことでしたらば、また次の機会にお願いします」
これは一刻の猶予もならない。そう直感したインシャは、躊躇うことなく馬車の扉に手をかけた。だが、彼女が扉を押し開けるよりも早く、ジャンの大きな手が細い手首を鷲掴みにした。
「お怪我なさいますよ」
「お構いなく」
ジャンの気配が凄みを増していく。振りほどこうにも彼の手は、まるで万力のようにインシャの手を掴んで放さない。内心激しく動揺しながらも、インシャは残った冷静な部分を総動員して、脱出の機会を伺うことにした。そう、一瞬の隙も見逃さないつもりで。
「私としては、副隊長殿の自由意志を尊重したく思っているのですよ」
「でしたら、この手を放してください」
「それはできませんね」
「ならば、大声を出します」
ジャンが、どこか愉快そうに眉を上げた。
「いいですよ。ですが、私も、彼――上にいる御者――も、貴女が私を誘惑したと証言いたします。男と見れば見境のない女……そんな噂が広まっては、とても隊には居られますまい?」
その言葉に、今度はインシャが不敵な笑みを漏らした。
「別に、私は現在の立場に何も未練はありません。ご自由に」
「……それに、彼の立場だって」
「淫乱な女隊員に手玉に取られた間抜けな上司……というのは多少不名誉な称号でしょうけど、それが何か?」
挑戦的なインシャの視線に射すくめられて、ジャンが一瞬怯む。その隙を見逃すことなく手首を反そうとしたインシャだったが、彼の口から出た次の言葉を聞いて動きを止めた。
「なるほど。逆のほうが良いかもしれませんね。権力をかさに、無理矢理部下を襲う上司……」
インシャの目が、見開かれる。
「どんなに貴女が合意の上だと主張なさったところで、上司命令ですからね。そう言わされていると思われても仕方がない」
インシャは、怒りもあらわにジャンを睨みつけた。だがジャンは怯むどころか、至極満足そうに微笑みを浮かべさえする。
「天下の公爵家のご子息が強姦魔ですか。これは素晴らしい。退屈な社交界が沸騰すること、間違いなしですね」
「…………私にどうしろと」
「なに、たったの半時だけです。我々と楽しい時間を過ごしましょう」
「我々……?」
険しい瞳でインシャがそう問い返した時、車体を大きく軋ませて馬車が停車した。
「白銀の頂」はその店構えから察するところ、上流階級の紳士が集う社交クラブのようだった。開店前の店の扉を押し開けたジャンが、インシャを振り返る。
「さあ」
インシャは下唇を噛んだ。
今なら逃げられる。この扉の先で自分を待っているであろう出来事が、不快極まりないことであろうなど、彼女にも簡単に想像がつく。
――私はどうすれば良いのだろうか。
私には、失うものなど何一つ無い。だが……、あの人は違う。一瞬だけ目を伏せ、インシャはジャンを真っ向から睨んだ。
彼女の瞳には、悲愴なほどに強い光が込められていた。
二階のサロンには五人の騎士が集っていた。
彼ら全員をインシャは見知っていた。日頃殆ど顔を合わさないとはいえ、彼らは警備隊に籍を置いている、いわゆる「騎士団組」だ。
「我らが副隊長殿が仲間に入れてほしいそうですよ」
「へえ……、それはそれは」
下卑た笑いを口元に浮かべて、彼らは椅子から立ち上がった。得意そうに部屋の中央に歩を進めるジャンと入れ替わるようにして、五人はゆっくりとインシャに近づいてくる。
「前から気になっていたんだよ」
「ああ、なのに、あいつが邪魔ばかりするから……」
あらん限りの気力をふりしぼって一同をねめつけつつも、インシャは密かに驚いていた。彼らが自分のことを気にしていたという事実もだが、隊長のそんな行動にもついぞ気がついていなかったからだ。
どんな顔をして、どんなふうに、あの人は「邪魔」をしていたのだろうか。インシャの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
しかし、粘度の高い男達の声が、否応なしに彼女を現実に引き戻す。
「ふん、流石『鉄の女』だぜ……」
背後にまわった一人が、耳元に口を寄せてくる。震えそうになる身体を必死で制御して、インシャは口を強く引き結んだ。
「中身も鉄か確かめてやろうぜ」
襟元に伸ばされた手をはたき返して、インシャは自分で上着を脱いだ。脱いだ上着を傍らの騎士に押しつけ、更にえんじのジャケットに手をかける。
「おいおい、自分で脱ぐか?」
「やめろよ。俺達が脱がせてやるから」
少し狼狽する一同に、ジャンが後方から声を投げた。
「あまり時間がありません。領主様が彼女をお呼びなのですよ。そうですね……まずは二人ぐらいでしょうか? 残りはお屋敷から帰ったあとということで。なあに、これから幾らでも楽しむ機会はあるでしょうしね」
その言葉に、インシャは一瞬息を呑んだ。
「どういうこと!?」
「他の男に抱かれた女を、果たして彼は許すでしょうかな?」
ジャンの口角が、ぐい、と吊り上がる。「我々の言うことをおとなしく聞いてくれれば、彼には内緒にしておいてあげましょう」
その声を受けて、右横に立つ騎士がインシャの胸元に手を伸ばす。
「そうそう。副隊長殿が俺達の奴隷だってことは、黙っておいてやるからさ」
「そのかわりに、たっぷり楽しませてもらうぜ」
「ああ。これから、ずーっと、な。よろしくお願いしますよ、副隊長」
「卑怯者! 約束が違う!」
インシャが男達の手を振り払う。だが、多勢に無勢、すぐに彼女は背後から羽交い締めにされ、動きを封じられてしまった。
「……口ごたえは、感心しませんね。貴女はおとなしく……」一歩前に進み出たジャンが、インシャの顎をすくい上げる。「我々の玩具になっておれば良いのです」
インシャの瞳に、初めて怯えの色が入った。
「い……い、嫌……っ」
六人の手が伸びてくる。押し寄せる、興奮した男達の息遣い。
「嫌ぁあーーー!」
インシャの絶叫に、硝子が割れる音がかぶる。
窓を突き破って床の上に転がった筒から、煙が湧き起こった。浮き足立つ男達も、インシャも、あっという間に煙幕に呑み込まれ埋没する。
激しく咳き込む男達の間をぬうように、一陣の風が走り抜けた。何かがぶつかる衝撃に、数名がバランスを崩して床に倒れ込む。
「何ですか! 一体何が起こっているのですか!」
狼狽したジャンの叫び声。だが、それに応える声は無い。皆、見えない襲撃者に怯えて、必死で手足を振りまわしてもがき続けているばかりだ。
やがて、煙は少しずつ薄れていった。割れた窓から吹き込む寒風が煙幕を散らし、部屋の扉から抜けていく。開け放された扉から。
煙の晴れた室内、六人の狼藉者が我に返った時には、インシャの姿はもうどこにも無かった。
件の店から通りを三つくだった細い路地裏、インシャの手を引いていた人影が、やっと足を止めた。なかなか治まりそうにない荒い息を持て余しながら、彼は傍らの塀に寄りかかる。
「…………何やってンだ、副隊長」
「ガーラン……どうしてここに」
全力疾走ですっかり熱を帯びた空気を逃がそうと、ガーランはシャツの喉許を緩めた。
「……巡回中に見かけたんだ。馬車を。あいつ、前から胡散臭い目つきで副隊長を見てたからな、もしやと思って……」
そこまで一気に語ってから、ガーランは大きく息をついた。
「あんな奴にのこのこついていくなんて、一体、どうしちまったんだ」
唇を噛み、視線を逸らせるインシャの姿に、ガーランは不吉なものを感じて眉をひそめた。
「…………何を言われたんだ?」
「貴方には関係ありません」
あまりにも冷たい拒絶の言葉に、ガーランは為すすべもなく立ち尽くす。傷ついたような彼の表情に、インシャは気がつかない。
「領主様に呼ばれているので。早く行かなければ」
言うや否や、インシャは踵を返す。咄嗟にガーランはその手を掴んだ。
少しだけ驚いた表情で、インシャがゆっくりと振り返った。
「……ガーラン、……痛い」
「あ、ああ、悪ぃ」
慌てて手を放して、それからガーランはいつになく狼狽した様子で頭を掻き毟った。
「……ま、その、なんだ。あの連中がまだ諦めてないかもしれないし……、送ってくよ」
領主の屋敷に通ずる門の脇、壁にもたれてガーランは独り佇んでいた。
あの、慎重なインシャが、一体どうしてあんな軽率な行動に出たのか。彼はインシャを待ちながら、そのことだけを考え続けていた。
馬車のあとをつけて上り坂を走るのは、決して楽な仕事ではなかった。目的地と思しき店の前に降り立った二人を遥か彼方に認めた時、ガーランは自分が飛び道具を持っていないことを心の底から呪っていた。
石でも投げるか、それとも叫ぶか。思案しながら駆け続けるガーランは、インシャが自分から店の扉を押し開けるのを見て、思わず一瞬だけその足を止めた。
――抵抗一つせずに。そんな馬鹿なことがあるか。
開店前の社交クラブは、外部の目の届かない密室だ。「お忙しい」騎士様の根城になっているに違いない。いくら鈍いインシャでも、そんなところに一人のこのこと飛び込んでいけば、どんな目にあうかぐらい解りそうなものだというのに。
――何故だ。どうしてあんな馬鹿なことを。
何度目かの自問ののち、ガーランはある答えを考えまいとしている自分に気がついた。
――そうだ。インシャが、我が身を犠牲にしてまで守りたいと思っているであろう人間が、一人いる…………。
「隊長ばかりか、貴公もあの女に腑抜けにされているのですか」
冷たい声と同時に、足元に影がさす。ガーランが顔を上げると、目の前には騎士団組の警備隊員が一人。インシャをあの店に連れ込んだ奴だ。
彼は尊大な態度でガーランをねめつけ、それから手に持った女物の上着を差し出した。
「忘れ物ですよ」
自分の寛容さに自己満足しているのだろう、ジャンはガーランにインシャの上着を押しつけると、ぐい、と口の端を上げた。
「こんなことをして、ただで済むと思わないことですね」
「あんたもな」
捨て台詞を吐いて立ち去ろうとしたジャンだったが、即座に投げられたガーランの言葉に訝しげに振り返った。
「あんたがどんな噂を広めようが、隊長は負けないさ。そんなことぐらい解んねえかな? ああ、馬鹿なら解らなくても無理ないか」
あからさまに自分を嘲り笑うガーランの態度に、ジャンの顔に朱が入った。
「それに、あの人を怒らせると怖ぇぜ? なにしろ、公爵様の三男坊だ。後ろ盾は充分なクセに、跡継ぎという枷はない。ぶち切れたら、なりふり構わねえぜ」
そこまで言って、ガーランは壁から身を起こした。ジャンを見下ろして、それからおもむろに凄んでみせる。普段、第一線でならず者を黙らせているその気迫に、ジャンの喉が大きく上下した。
「それとな、平民を舐めんなよ。俺達には、失うものは何もないからな。怒ると何するか本気で解んねえぞ。
あんたのお下劣な想像には付き合いきれないがな、インシャ・アラハンは俺達の大切な副隊長だ。今度また同じようなことがあれば……」
そして、たっぷり一呼吸の間を空けて、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「おまえを、殺す。どこに逃げようが、どこに隠れようが、必ず、な」
「ガーラン?」
領主との話が終わったのだろう、門から出てきたインシャが、怪訝そうにガーランに声をかけた。それからジャンの姿を見とめて、彼女は歩みを止める。険しい表情で。
一方、ジャンはすっかり青ざめた顔色のまま、精一杯の虚勢を張って、二人を交互に睨みつけた。
「ふん、お前達の無礼はなかったことにいたしましょう。だからさっきのことは誰にも言わないことですね。勿論隊長にも」
負け犬が遠吠えの果てに立ち去っていくのを見送って、インシャとガーランは同時に大きく息を吐いた。一気に気が抜けたのか、二人は揃って壁にもたれかかる。
「一発ぐらい殴っておくんだったわ」
「一発だけ、って、副隊長にしては、随分寛大じゃねぇの?」
微かに頬をふくらませるインシャを横目で見て、ガーランは満足そうに頬を緩ませた。
だが、それもほんのつかの間のこと。
「で、領主様、何だって?」
軽く口にした自分の問いに、インシャの表情が目に見えて曇ったのを見て、ガーランの顔から笑みが消えた。
「何の用事だったんだ?」
「…………」
インシャが僅かに顔を背ける。不吉な予感に苛まれながら、ガーランは彼女の次の言葉を待ち続けた。
二 対峙
「入りますよー」
ノックの返事を待つことなく、ガーランは扉を開けた。正面、東向きの大きな窓が切り取った街並みの燃えるような茜色が、彼を一瞬だけ圧倒する。
夕闇に沈み始めた室内。だが、まだ灯りは灯されていなかった。右手の壁で控えめに揺れている暖炉の炎だけが、この部屋の中で時を刻んでいる。
ガーランは溜め息をついてから、良く磨かれた組木の床をゆっくりと踏みしめた。窓際の机の向こうには、部屋の主たる警備隊隊長が、微動だにせず、椅子ごとこちらに背中を向けて座っている。
「なんだ」
エセルの声は、あからさまな怒りに彩られていた。
拗ねていやがる。ガーランは心の中で苦笑した。
警備隊隊長としてのエセルは、腕前も、男っぷりも、それはもう申し分ないものだった。そして、何より、彼は身分制を仕事に持ち込まない。ガーランはエセルと出会ったことによって、それまで「お貴族様」に抱いていた印象を、百八十度転換させなければならない羽目になったものだった。
とはいえ、所詮彼は温室育ちのお坊ちゃまだ。生活力という意味では甚だ頼りない上に、肝心なところで打たれ弱いこと限りなし。現にあの一報がもたらされて以来、彼は拗ねて執務室に閉じ籠もってしまっている。半日が経った今も、こうやって部屋を訪れたカワイイ部下を無視して、こちらを向こうともしない。
――これではガキと一緒だ。二十七にもなって、一体ナニをやってんだか。
そこまで考えてから、ガーランは自分の頭を掻いた。二十八でまだふらふらしている自分が、偉そうなことを言えた義理ではない、と。
「隊長……これ」
エセルの机の上に、ガーランは懐から出した紙切れを置いた。そして、上司の返事を待つべく、姿勢を少しだけ正した。
ガーランが、自分の付き合いの良さにほとほと感心したくなった頃、エセルがようやっとこちらを振り返った。椅子はそのままに、上体だけひねってガーランを見る。
彼は、形相が変わるほどに奥歯を噛み締めていた。
ちらり、と机の上の紙を一瞥してから、エセルはしぶしぶ椅子を正位置に戻した。机の引き出しから火口箱を取り出したものの、面倒になったのだろう、尊大な態度でランプを顎で指し示した。
「ガーラン、火」
――こういうガキっぽいところが、いわゆるオンナゴコロをくすぐる、ってヤツなんだろうか。
インシャに訊いてみたいところだが、口にすればたぶん、即座に正拳突きが飛んでくるだろう。ガーランは心の中で嘆息して、この考えを却下した。軽く肩をすくめてから机の上のランプを手に取り、暖炉で火種を取る。
薄暗さを増した部屋の中に、新たに柔らかい光源が加わった。
書類に目を通し始めたエセルは、すぐに、険しい表情を更に険しくして顔を上げた。
「なんだ? これは」
「何って……、そこに書いてあるでしょう?」
ひそめられていた褐色の眉が、その一瞬に吊り上がった。憤怒の形相で、エセルが机の天板に拳を振り下ろす。
部屋中に響き渡った重低音に、ガーランは思わず身をすくませた。
「だから、これはどういう意味なのか訊いているんだ。九日間の休暇願だと!?」
――怒るだろうとは思っていたが、何も机に当たり散らさなくとも良かろうに。
ほんっとにガキなんだから、と、ガーランが思わず漏らした溜め息に、エセルは更に激昂した。
「ふざけるな、ガーラン! 大体、こんな時に……」
「副隊長は?」
激しい剣幕で吠えるエセルを無視して、ガーランは事も無げに問いかける。
その台詞は、効果覿面だった。握り締めた拳を緩めると、エセルは、どかり、と椅子の背に身を沈めた。
「出立の準備をしに帰ったさ」
普段彼が見せることのない、傷ついた表情を目の当たりにして、ガーランは少しだけ胸が痛んだ。
――だが、自分は今から、その傷口に塩を塗ろうとしている……。
まだ少し心の奥底で躊躇いながら、ガーランは静かに問うた。
「何を怒っているんですか、隊長。皇帝陛下のお召しを断ることが不可能なのは、俺達なんかよりもアンタが一番知っているでしょうに」
その言葉に、エセルが両の拳を強く握り締めて、下唇を噛む。
「警備隊なぞ辞めろと言ったんだ。そんな一方的な命令に従うことなどない、と。辞めて……私の許に来い、と」
「しかし、彼女は承知しなかった」
ガーランは淡々と言葉を返した。
俯き、拳を震わせていたエセルだったが、ふと、何か違和感を覚えたのだろう。ゆっくりと顔を上げて、怪訝そうな視線をガーランに投げる。
「彼女ね、戦争で二親を亡くしてるんスよ」
静かに、まるで幼子を諭すかのように、ガーランは言葉を紡いだ。
「彼女の住んでいた村はとても小さくて、教会すら隣町まで通わなければならない有様だったらしいですよ。けれど、そんなド田舎にも戦禍は降りかかった。彼女の両親は、たった一人の癒やし手さえ村に居れば、助かる命だったそうです」
話の行く末が読めないのか、エセルはただ黙って耳を傾けている。ガーランは大きく息を継いで、それから一段と低い声で語り続けた。
「皇帝陛下は、有能な癒やし手を求めているんでしょう? 警備隊員かどうかなんて関係なく」
エセルが息を呑んだ。ここに及んでやっと、ガーランの言おうとしている事を理解したのだろう。
「そして彼女はそれを拒否できないはずだ。何故なら、彼女は癒やし手であることを辞めるつもりがないからだ。ましてや、術者の居ない地方に派遣されるのだとなれば……まァ彼女は断らないだろうなぁ。十年前の自分と同じ子供を少しでも作り出さないように」
窓の外遠く、時を告げる教会の鐘の音が鳴り響き、窓ガラスを微かに震わせた。
エセルが、ゆらりと背もたれから身を起こした。机の上に両肘をつき、頭を抱えた。
領主の屋敷からインシャが持ち帰った召喚状。マクダレン帝国セイジュ帝の印が押されたその書面は、インシャを帝都へと招へいするものだった。
癒やしの術の腕前を見込んで、我が力になってほしい、と。
困窮する村々のために、働いてほしい、と。
そのためにも、すぐに帝都に上がってもらいたい、と。
思いつめた表情で召喚状をエセルに示したインシャは、エセルの言葉に耳を傾けることなく、静かに執務室をあとにした。
エセルの胸の中で、怒りの炎がまた火勢を増した。
――この私よりも、魔術をとる、と言うのか。私のことなど、どうでも良いというのか……!
頭を掴む両手に力が入り、爪が頭皮に食い込む。
と、自らもたらした痛みが、少しだけエセルを正気づかせた。彼は微かな違和感を覚え、そっと顔を上げる。
机の前に黙って佇むガーランの、あまりにも穏やかな気配。そして、彼が語った言葉……。
「ガーラン……お前、何故、そんなに詳しいんだ? 何故そんなに……インシャのことを知っている?」
微かにガーランが笑ったように見えた。
「…………お前、まさか……」
息を詰めて腹心の部下を凝視するエセルの視線の先で、ガーランが、つい、と目線を伏せる。それから彼は殊更に軽い調子で口を開いた。
「俺は下品な人間ですからね。どうしても下世話な心配をしてしまうんスよ」
「下世話?」
「世の中には、公爵家の縁が欲しい人間が山ほどいるって話ですよ」
エセルが椅子を蹴って立ち上がるのを視界の端に捉えて、ガーランは一瞬だけ目を細めた。
今朝、あの下劣馬鹿がインシャに成そうとした狼藉について、彼らはエセルに報告していない。自分がルドスを離れてしまえば、何も問題はなくなるから。インシャはそう言ってガーランに口止めをしたのだ。
確かに、微妙に短絡思考で、血の気の多いエセルのことだ。インシャが襲われたなどと耳にすれば、本気で何をしでかすか分からない。それに、奴らが欲したのはインシャの身体だけではなかったはずだ。むしろ、真の目的は別にあったと考えるほうが自然だろう。おそらく彼らは目論んでいたに違いない、公爵家の子息の隣を空席とすることを。
未遂に終わったとはいえ、陵辱の原因が自分にあると知れば、エセルはおそらく深く傷つくだろう。それはガーランとて、望むところではない。だが、自分の行動が、周りにどんな影響を及ぼすのか、ということだけは、彼に知らしめておかなければならない。
「ルドスじゃ、俺達の目がありますからね。だが、帝都までは遠い。陸路も海路も危険だらけだ。女が一人消息を絶っても誰も不思議に思わないでしょう?」
「……それで、彼女の護衛をする気なんだな」
搾り出すようにそう言ったエセルの、苦渋の面から視線を外し、ガーランは頭を掻いた。
「あー、最初に断っときますが、彼女が頼んだわけじゃないですよ。それどころか、思いっきり断られました。あの剣幕だと、当分は半径一丈以内に近寄せてもらえなさそうだなあ」
「ちょっと待て。帝都まではどんなに早くとも一週間はかかるぞ。この季節は風向きが悪いから、倍かかるかもしれん。九日間の休暇では足りないだろう」
――やっぱり、気づいたか。
普段は副隊長にまかせっきりでろくに書類を読まない癖に、こういう時だけは鼻が利くんだよな。そう大きく息を吐いてから、ガーランはどこか晴れ晴れとした顔でエセルを見た。
「片道で良いんですよ。俺、帝都に脱隊届けを直接届けに行くんですから」
「何!?」
「領主様に辞めたいって言ったら、皇帝陛下の承認が必要だ、って抜かしやがったんでね。そんなの待ってられませんから」
「まて! 勝手に辞めることなど、私が許さんぞ!」
エセルの叫びは、殆ど悲鳴に近かった。悲壮な面持ちでガーランを見つめたのちに、がっくりとうなだれて机に手をつく。
「それに……お前までが私の前からいなくなるなど……」
「知ってますか、隊長? 先々月に都に召喚された司祭、北方の寒村に派遣されたということ以外、消息不明なんですよ。同じ時に召された助祭は、音信不通ということです」
自分自身を落ち着かせるために、ガーランはそこで一旦言葉を切った。
「世界は広い。どこへ行かされるのか、いつ帰ってくるのか、全く解らない旅路に副隊長は出ようとしているんですよ」
「…………だから、私の許に、と……」
「それで?」
自分の声の冷たさに驚いたのは、ガーランの中のほんの一部だけだった。
「それで、一体どうしようってんですか?
皇帝の使いから匿って、誰にも会わさず、大事に大事に箱の中に入れて可愛がろうってんですか?
彼女の志を潰して、無理矢理自分に依存させようってんですか!?
アンタが色んなものを手放せないのと同じで、彼女にも手放せないものがあるんですよ!」
そう声を荒らげて、ガーランは両手を机に叩きつけた。知らないうちに汗をかいていた手のひらが、マホガニーの天板の上で少しだけぶれる。
ガーランが睨みつける先、エセルが呆然と目を見開いている。二人は広い机のあちらとこちらに両手をついた同じ姿勢で、しばし対峙した。
最初に静寂を破ったのは、ガーランだった。大きな動作で体勢を立て直し、エセルに背を向ける。
「俺なら、彼女の手を放さない。俺は……副隊長を――好きな女を、守る」
「想いが通じなくとも、か?」
「それでも、いつかは叶うかもしれない。俺は気が長いんでね」
背中で返答して、ガーランは歩き始めた。扉を開け、振り返ることなく右手だけで挨拶を投げる。
「というわけで、隊長、長い間お世話になりました」
そして、扉が閉まる。
くたびれた革靴の立てる音が、廊下に反響しながら遠ざかっていった……。
ふらり、とエセルの身体が揺れた。彼は、崩れるようにして椅子の上に腰を落とした。
頭の中で、ガーランの言葉がわんわんとこだましている。
『アンタが色んなものを手放せないのと同じで――』
手放せない色んなもの。
エセルは自分の右手を黙って見つめた。
遠い昔の記憶が、唐突に彼の胸中に蘇った。
「お前の指図なんか受けない!」
「サベイジ家の一員という自覚はないのか」
「こんな家、出ていってやる!」
「やってみるがいい。できるものならな!」
あの時の父親の蔑んだような嘲笑。しかし、その嗤いは至極当然のものだった。生活力も経済力もない十代の若造が、そんな簡単に独立などできるわけがないのだから。
そこまで考えて、エセルは息を呑んだ。いや、違う、と。市井を見ろ、あの時の自分よりも若くとも、必死で独りで生きている者はいるではないか。まとまった金が手に入るまでは、と、おのれに言い訳して、ただ安穏と暮らし続けていただけではないか。
そして、あろうことか、警備隊に入って、自分自身の存在を認めてくれる人間を得て、それで満足してしまっていたのだ。
家を出るはずではなかったのか。家名の、父の、くびきから逃れるはずではなかったのか。
給金で部屋を借りたものの、結局屋敷を引き払えないでいる自分がいる。
身のまわりのものこそ自らの稼ぎで賄っているものの、その他のものはどうだ?
広い屋敷の暖かい部屋。上等な寝台。紋章入りの馬車。社交場でも、料理店でも、予約せずとも受けられる最上級のもてなし。
屋敷の部屋を掃除してくれているのは誰だ?
暖炉に火を入れてくれているのは誰だ?
この服を洗濯してくれているのは誰だ?
インシャの部屋に入り浸ることで、改めて気づかされた「独立」の意味。だが、その時浮かんだのは自嘲ではなかった。何も手放すことなく、一番欲しいものを手に入れることができたという満足の笑み…………。
「くそう!」
エセルは思いきり拳を机に打ちつけた。
肉の裂ける音と骨の軋む音が、薄闇を揺らす。
腕を伝わる激痛にエセルの表情が歪んだ。だがそれは、胸を苛む痛みには比べるべくもなかった。
一夜明けた、ルドスの南門。
十一月も明日で終わるという凍てついた空気の中、旅支度に身を包んだインシャとガーランを、十名近い同僚達が取り囲んでいる。彼らの吐く息が雲のように辺りを包み込み、まだ赤みを帯びている明けの陽光を断片的にキラキラと映し込んでいた。
馬の背に荷物をくくりつけるのを手伝いながら、ラルフがぼそりと口を開いた。
「帝都には、エンダとレンシが例の司祭を送りに行っている。もうあっちには着いているだろうが、運が良ければ途中で会えるかもしれないな」
「何か言伝でも?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ……、あいつらにも別れを言いたかろう?」
いつになくしんみりと吐き出された言葉に、ガーランは思わず目を細めた。
「お前、ほんっとに、イイ奴だな」
「……おだてても、何も出ないぞ」
「照れることないだろ。素直に喜べよ」
「お前相手に、素直になれるわけないだろ」
「またまたー、照れちゃってー」
ラルフの細い眉が、思いっきり吊り上がった。
「調子に乗るな! お前のそういうところが――」
「大っ嫌い、なんだろ?」
不敵な笑みを返すガーランを、ラルフは思いっきり睨みつけた。睨みつけてから……やにわに右手を前に突き出す。殆ど同じタイミングで、ガーランも右手を差し出していた。
交わし合う、固い握手。
「元気でな」
「おう。お前もな。隊長のお守を頼んだぜ」
めいめいと別れの挨拶をすませて、二人は馬にまたがった。少しずつ活気がみなぎってくる街をぐるりと見渡してから、手綱を握る。今日の門番にあたっている二人の警備隊員が、旅立つ仲間を先導するようにして持ち場についた。
インシャが無言で馬の腹を軽く蹴った。常歩よりもやや速度を上げ、街の門を出る。
ガーランはもう一度背後を振り返った。見送りを終えた同僚達が、各々の任務へと戻っていく。もうこちらを見ている者は誰もいない。
ルドスは、ガーランが生まれ育った街だ。自分の全てを、この街は知っている。自分の全てが、この街で創られた。未練に似たこの感情を、郷愁と呼ぶのだろうか。まさしく今、旅が始まったばかりだというのに……。
えもいわれぬ想いを断ち切ろうと、ガーランは大きくかぶりを振った。手綱を握り直して、速足でインシャを追いかける。
「隊長、来なかったっスね」
「来るわけ、ないわ」
インシャの声からは、なんの感情も読み取ることができなかった。
「あんだけ焚きつけたから、絶対取り返しに来ると思ったんだけどなあ」
「焚きつけた? 取り返しに?」
小さく溜め息をついてから、ガーランは下腹に力を込める。
大きく息を吸って、彼は覚悟を決めた。
「俺、昨日言っちまったんスよ、隊長に。好きな女を守るためについていくって」
インシャの馬の行き足が止まった。
硬直する後ろ姿から、これまでにない彼女の動揺が伝わってくる。ガーランは、努めて何気ないふうを装った。
「それで何とも思わなかったってことは……、戦線離脱ってことじゃ……」
「貴方が相当信用されているってことじゃない?」
容赦のない切り返し。しかし、彼女の声に怒りは感じられなかった。
――上出来だ。
インシャに見えないように、ガーランは密かに口角を上げた。今はこれで充分だ、と。これ以上を求めるのは、贅沢というものだろう。なにしろ、旅は始まったばかりなのだから。
「…………敵わねぇよなぁ」
落胆のポーズを作りながらも、ガーランは至極上機嫌だった。
三 階梯
ロイがランデのタヴァーネス邸から帰宅して二日が経った。
再任の宮廷魔術師長の前には文字どおりなすべき仕事が山積しており、ロイは取り憑かれたようにそれらに没頭し続けた。胸の内で渦巻く漠然とした不安から目を背けるがごとく。
タヴァーネス子爵のこと。
不愉快な夢のこと。
そして……シキのこと。
ロイはそれら全てを無理矢理に脳裏から追い出して、ただひたすら己が仕事にのめり込んでいた。
「全てが終わったようだよ」
御前に立ったロイに向かって、アスラがまるで春の陽炎のように暖かい笑みを見せた。
「は。何が、でしょうか」
執務室の机に両肘をついて上目遣いでロイを見上げるその瞳が、溢れんばかりの喜びを湛えているのを見て、ロイは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ、随分と景気の悪い顔をする」
「……いえ、陛下はいつもそんな表情で、私に無理難題を吹っかけなさるものですから」
「言ってくれるな」
柳眉を緩ませながら、アスラが口角を微かに上げた。「まあ、良い。今度ばかりは朗報だ」
「どうされましたか」
「ザラシュ・ライアンが死んだよ」
ロイの身体が一瞬にして硬直した。少し遅れて、言葉の意味がじわり、と胸の奥に浸透していく。
――前宮廷魔術師長が。この自分がかつて師と仰いだ彼が……死んだ?
次に浮かんだ言葉は、「何故」の一言だった。彼ほどの術師が、一体全体どうして、どのようにして。
半ば我が耳を疑いながらも、ロイはぐるぐると思考をめぐらせる。いつ、どこで、どうやって、ザラシュは命を失ったというのだ。齢六十という老境に身を置きながらも、十五年の過酷な放浪の果てに新たなる術を得て、我が前に立ち塞がった大いなる存在。その彼が、一体何によって地に伏したというのだ。
そこまで考えたロイの頭に、二番目に浮かび上がった言葉も「何故」だった。ただし、先ほどとは疑問の矛先が違う。
「……何故、陛下はそのようなことをご存知なのですか?」
今日は朝議以降、アスラは誰とも会っていないはずだった。ならば、彼は一体どこからこの報せを受け取ったのか。もしも昨日以前のことだというのならば、このような情報がロイの耳に入らないわけがない。
眉間に皺を刻むロイを見て、アスラが小さく笑った。悪戯が成功した子供のように。
「ルドスの警備隊隊長に、ある物を預けてきた。ザラシュ・ライアンに対抗するために」
「ある物、とは?」
その刹那、アスラの瞳が、ぎらりと光ったように見えた。
「『死』の指輪、だよ。使えば『しらせ』が飛ぶようにしておいた。それが、先ほど届いたのだ」
世に謂われる暗黒魔術、その筆頭ともいえる術が「死」であった。その術を受けた者は、一瞬にしてその生命の終焉を迎えることとなる。
術者よりも被術者の力量が上回っておれば、術を弾き飛ばすことも可能だろうが、そもそもが「死」は最高位の術である。それを習得し施術しようとする人間に対して、一体誰が対抗できるというのだろうか。
そして、この術はロイにとって唯一の未知の術であった。彼がこの術を会得する前に、ギルドが暗黒魔術を封印してしまったからだ。
「陛下、『死』の指輪など、一体、どうなさったのですか」
「数年前に、譲り受けた」
「どなたから」
「さあ、誰だったかな。憶えておらぬ」
「憶えてらっしゃらないと!? 『死』の指輪ですよ!」
思わず上げた自分の声が上ずっていることに気がついて、ロイは我を取り戻した。慌てて非礼を詫びて、一歩下がる。
アスラは、何事も無かったかのように、どこか遠い瞳でロイに微笑みかけてきた。
「指輪は発動した。彼があの指輪をザラシュ以外の者に使うようなことはあるまい。ならば、奴が命を落としたのはまず間違いないだろう」
その指輪に術を込めた術者の技量が、ザラシュを上回っているとしたならば。その仮定条件をロイは密かに呑み込んだ。アスラの表情を見る限り、それについて論じることが酷く無意味であるように思えたからだ。
帝国一の魔術の使い手、ロイ・タヴァーネス。自らもそう信じて疑わないロイの胸中に時折生じる微かな躊躇い。そんな時、ロイの心には常にアスラ兄帝の姿が浮かんでいた。
「信用しておらぬようだな。まあ、良い。そのうちに『風声』なり鳩なりが吉報を届けてくれるであろう」
そして二日が経ち、アスラのその言葉どおりとなった。
その日は朝から、まるで城を押しつぶさんばかりに、鉛色の雲が低空を覆い尽くしていた。どこか遠くで雷鳴が微かに轟いている。
まだ正午を少しまわったばかりだというのに、辺りは宵闇に閉ざされているかのようだった。ぽつりぽつりと降り始めた雨の中、魔術の風が宮城に届けたルドスからの報せは、瞬く間に宮廷中を揺るがした。
ルドス郊外の山中にて、警備隊が反乱団を追い詰めたこと。
そのさなかに、山の一部が崩れ落ちたこと。
反乱団の首領達が、その崩落に巻き込まれたこと。
魔術をも駆使しての捜索にもかかわらず、彼らの生存が確認できなかったこと。
二日が経過した現在も、状況に何も変化が見られないこと……。
ルドス郊外では昨日から降雪が見られ、崩落現場も雪に閉ざされつつあるとのことだった。たとえ、生存者が土砂の下に埋もれていたとしても、彼らの命運は尽きてしまったと言っても差し支えないだろう。
「風声」がロイのもとに届いた時、彼は自分の執務室の机についていた。
己が師の末期を改めて耳にしたロイは、作業の手を止めて軽く両目を閉じた。
思いもかけない、喪失感。それはやはり、あの未知なる術の存在に拠るところが大きいのだろうか。それはとりもなおさず、術の使い手であるザラシュ本人に対する畏怖でもあった。
惜しい人間を亡くした。ロイは心からそう思った。
そうこうしている間も、魔術が天険を超えて届けた声は、淡々と報告を続けている。耳を傾けながら、ロイは手元の書類に視線を落とした。仕事を続けるべく、インク壷にペン先をつける。
次の瞬間、ロイの右手からペンが転がり落ち、紙の上に墨色の軌跡を描いた。
落石の犠牲となった者は全部で五名。反乱の首謀者並びに謀反者の名前に続いて、最後に読み上げられたのは、誰あろうシキの名前だった。
疲れ果てた身体で城内の自室へと帰り着いたロイは、真っ直ぐに寝室へ向かうと、そのままばたりと寝台に倒れ伏した。
首を横に向ければ、真っ暗な窓を無数の水滴が叩いている。ロイは大きく溜め息をついて、寝返りをうった。
反乱団壊滅、の一報に、宮城は瞬く間に大騒ぎとなった。報告の裏を取るべく即座に査察団が組織され、早々にルドスへと出立していった。宮廷魔術師達は皆、各地のギルドと連絡を取るのに駆り出され、それに加えてロイは臨時閣議にも引っ張り出され、夕食を摂るのもままならない有様だった。
忙しいほうがいい。ロイは胸の内でそう呟いた。忙しければ、余計なことに悩む時間もなくなるだろう、と。
寝台に仰向けになったロイは、そっと右手を上に差し伸べた。
――この手をいくら伸ばそうと、もう彼女には届かないのか。
ロイには、シキが死んだということが信じられなかった。いや、信じたくなかった。
だが、各方面に確認を取れば取るほど、その情報は信頼性を増していった。現場の状況が詳しく判るにつれ、彼女の生存は絶望的なものとなった。
ロイの右手が、ぱたりと力無く身体の脇へ落ちた。
途方もない喪失感に、ロイの中の大勢は打ちひしがれていた。だが、胸の奥、ずっと深い部分でどこかしら安堵している自分に、彼は気がついていた。
これで、彼女はもう誰のものにもならない。彼女は、誰の手も届かないところへ行ってしまった。
自分と同じように、奴もまた無念のうちに彼女と引き裂かれてしまったのだ。
涙は、もう三十年も前に枯れ果ててしまっていた。その代わりに手に入れたのは、悲しみを遣り過ごす術。
大きく息を吸って、静かに自分に言い聞かせるのだ。おのれを見よ、と。我は依然として何も損なわれることなく、ここに自分の足で立っているではないか、と。
――そうだ、私には力がある。比類なき力が。何人たりとも、我を傷つけることはできない。……だから、悲しむことは何もない。
ロイは寝室の窓を打つ大粒の雨を黙って見つめ続けた。
朝が来ても、雨脚は一向に弱まる気配を見せなかった。
自分の代わりに天が泣いてくれているのだろう。いつになく感傷的なおのれに苦笑を禁じ得ずに、ロイは口の端を上げた。先ほど使用人がおこしてくれた暖炉の火が、室内の凍った空気を静かに溶かし始めている。
着替えを取ろうと衣装戸棚の扉を引き開けたロイは、ふと、戸棚の片隅に無造作に突っ込まれている一つの鞄に目をとめた。
シキの、鞄だった。
ルドス郊外で袂を別った時、シキは着の身着のまま、レイの手に縋るようにして去っていった。
ロイの手元に残されたのは、このくたびれた鞄が一つきりであった。
あの時、彼女の手を放さなければ。
ならば、今も彼女は、生きて、私の傍らに居るはずだった……。
ロイは頭を振った。夢想に囚われて無駄な時間を費やしている場合ではない。宮廷魔術師の長として、自分には為すべき事が山ほどあるのだ。
そう自分に言い聞かせながらも、つい、手がその鞄に伸びていた。
持ち上げようとして腕に感じるその重さに、小さくはにかむシキの姿が思い返された。自分で運びます、と慌てる彼女を制して無理矢理持ち手を握った時、シキは少しだけ困ったような表情で、ありがとうございます、と微笑んでいた。
「未練だな」
わざと声に出した呟きは、激しい雨音にかき消されてしまった。
ロイは大きく溜め息をついてから、鞄を持ったまま部屋の反対側へと向かう。寝台に腰をかけ、傍らに置いたシキの鞄を開けた。
寝台脇の小机に置かれたランプに照らされて、若草色がロイの目を射た。彼がシキに贈ったドレスだった。極上の手触りの布地を、ロイは腹立たしそうに鷲掴みにすると、そのまま脇に投げ捨てる。ただそれだけの動きにもかかわらず、ロイは大きく肩で息をついた。
空中にふわりと舞った鮮やかな色彩が、音もなく掛布の上に着地する。
もう一度覗き込んだ旅行鞄の中は、味気のないほど単色で占められていた。ルドスにおいて彼女が黒を好んで着用していたのは、奴を偲んでいたからだろう。その事実を至極冷静に認識できた自分に、ロイは少しだけ驚いた。
死者に囚われ続けていた女が、今度こそ死に囚われただけのことだ。何も悲しむべき事ではない。大きく頷いてから彼は顔を上げた。
――いつまでも済んだ過去を悔やんでいては、先へ進めない。この鞄は燃やしてしまおう。彼女の物は全て。思い出もともに。
ドレスを再び鞄に詰め込もうとしたロイは、鞄の底に見慣れない書物が埋もれていることに気がついた。
ぱらぱらとページを繰り終わって、ロイは『ルドスの歴史』という本を閉じた。
一体どういうつもりでシキはこの本を手に入れたのだろうか。魔術書ならともかく、彼女がこのような御伽噺に興味を示した理由がロイには思いつかなかった。小首をかしげてから、ロイはもう一冊に手を伸ばす。黒い装丁のその本には、表紙に古書体で『神々の黄昏』と記されていた。中表紙を開ければ、写本である旨の注記が添えられている。
それは、八百万の神々についての本であるようだった。いや、アシアス一神教のこのマクダレン帝国においては、邪神について、と言い換えるべきであろうか。何故、シキはこの本を大切に所持していたのか。ロイはまたも首をひねりながら、ページをめくっていった。
その手の動きが止まる。
多大な情熱を費やして原本から写しとったのであろう、繊細な筆致の挿絵の数々。その中でロイの目を引いた、優しくも儚げな微笑。
――シキ、だ。
ロイは驚きのあまり、思わず数度目をしばたたかせた。
良く見れば確かに別人だが、その女神の表情といい雰囲気といい、非常にシキと似通っていた。姉妹、と言っても充分通用する。
見れば、『豊穣の女神フォール』と添え書きがあった。
なんと数奇な縁であろうか。シキに施術し、失敗に終わったあの呪文は、この女神のものであったのだ。
――私の望みよりも、彼女の望みを優先するわけだ。
ふと胸の内で呟いてから、ロイは愕然と目を見開いた。
――彼女の望み。
そうだ。そこに彼女の想いは存在していなかった。在ったのは、ロイ自身の願望、欲望だけであった。
『愛し合う二人を、更に結びつけるもの』
それがあの呪文の本意だったのだ。
ならば……、
だから……。
ロイはほんの刹那奥歯を噛み締めると、それからゆっくりと大きく息を吐いた。
沢山の挿絵に興味を惹かれるがままに、ロイはページを繰り続ける。ふと、思い立ってアシアス神の記述を探してみれば、目指すページは簡単に見つかった。
我らが偉大なる神アシアスは、単なる光の玉として描かれていた。今でこそ、勇ましい男神として知られているが、信仰改革以前は偶像崇拝が禁じられていた。それ故の抽象的な肖像画なのだろう。
続けて次のページを開いたロイは、つい思わず眉をひそめた。更にページを一枚めくり、その裏を確認する。
見開きの右側、そしてその裏面。
他のどのページもびっしりと文字で埋め尽くされていたにもかかわらず、その二ページには、たった三行の記述しかなかった。挿絵もない。その密度の落差は、奇異を通り過ぎて不気味にすら感じられた。
ロイは、その文字列に目を走らせた。写手による注釈、という一文に続いて、几帳面な文字で、こう書かれていた。
『原本に破損あり。この箇所、一頁欠落。現存する全ての版から、同じ頁が失われている。何者かによる意図的な欠損である可能性を疑う次第である』
……故意に葬り去られた、神。
不意に、ロイの背筋を冷たいものが走り抜けた。
まさしく小春日和であった。
五日もの間降り続いた雨は昨夜遅くにようやく止み、第三城壁に囲まれた中庭は、芝生の上で煌く幾万の露に眩しいほどであった。その小さな宝石を蹴散らしながら、幼子が緑の上を歓声を上げて走り回っている。
「貴方が帰ってきてくれて、本当に良かったと思います」
奥方と戯れる愛息の姿に目を細めながら、弟帝が穏やかな声でロイにそう言った。会議に必要な書類を取りに、自室のある「風見鶏の塔」に戻ろうとしたロイは、一家で中庭を散歩中だったセイジュに呼び止められたのだ。
ロイが帝都を離れて間もなく、セイジュは西方の貴族の娘を妻に迎えていた。アスラが一向に身を固めようとしないこともあって、彼ら夫婦には、世継ぎを望む声が不躾なまでにかけられていたと聞く。
そんな多大な重圧の中で生まれた皇子も、来年の春には御歳五つ。人々の愛を一身に受け、天真爛漫に笑う小さなその姿に、ロイもぎこちないながらも優しい笑みを返してしまっていた。
「あんなに楽しそうな兄は、この数年見たことがありません」
息子に手を振り返してから、セイジュは傍らのロイのほうに向き直った。ロイは、何と返事をしたものか悩み、とりあえず曖昧に頷くことにした。
「兄には、対等に語り合うことのできる話し相手がいませんでした。ですが、貴方だけは別なのです。貴方ならば、兄の言葉を聞き、兄に言葉を届けることができる」
セイジュの視線が、植栽の向こうにそびえる「鷲の塔」に向けられた。
「私は、兄の力にはなれない。それどころか、兄がいなければ、おそらくは何もできない……」
言葉半ばで絶句して唇を噛むセイジュに、ロイは慌てて口を開いた。
「そんなことを仰らないでください。何もできないなどと、そんな馬鹿なことを」
光を集めて形作られたのに違いない。セイジュのことをロイはそう思っていた。
どこか陰を感じさせるアスラに対して、その傍らに立つ双子の弟は、常に明るく、常に力強く、そして常に朗らかな笑みを絶やさなかった。優しげな瞳は弱き者に注がれ、穏やかな言葉は目下の者を安らがせた。
彼は自分とは対極の位置に立っている。並々ならぬ敬意を、憧れと嫉妬の気持ちを、ロイは密かにセイジュに対して抱いていたのだ。その彼が、今、自分の目の前で、力無く打ちひしがれうなだれている。その事実は酷く納まりの悪い心地をロイにもたらしていた。
「……セイジュ様……」
知らず溢れ出す言葉を、ロイは素直に口にのぼした。
「……荒れ野を切り拓く行為は偉大です。ですが、拓かれた土地を均して維持し続けるということも、同等か、もしくはそれ以上に大切で、大変な仕事であると思います。アスラ様だけでなく、セイジュ様がいなければ、帝国は現在の繁栄を手に入れることはできなかったでしょう」
心のどこかが、柄にもない、と自らを斜に構えている。しかし、何故かロイには、セイジュをこのまま捨て置くことができなかったのだ。
「あまり卑下なされば、稀代の名君という二つ名が悲しまれます」
「名君、ね」
灰色の瞳が、自嘲の色を浮かべる。「兄の術とは違って、私の行使する力は解り易いからね。それ故の『名君』呼ばわりなのだろう」
「そのようなことは」
「いや、良い。私は自分のことぐらいは解っているつもりだ。
そう、私には、兄のような力は無い。先を見通す目も持っていない。だから、せめて、この手を、足を、身体を、人々のためになるように使うことができたら……」
セイジュの拳が固く握り締められた。
「少しでも、兄の双肩にかかる重圧を、肩代わりすることができたら、本当に良いのだけれど」
ロイは為すすべもなく、ただ無言で、自分の主君の半身を見つめ続けた。
忘れ物を無事に手にしたロイは、「鷲の塔」に向かおうとして躊躇した。最短距離の中庭を通れば、また弟帝達に見えることになってしまうからだ。
――正直なところ、本当に柄ではないのだ。他人を慰めるなどということは。むしろ、この私のほうが誰かに慰められたいぐらいだというのに。
胸の奥に潜むしこりの原因は、おそらくは先週の訃報だろう。自己統制は得意だったはずだが、無意識の領域まではさしもの自分も手を出すことは叶わない。鬱々とした寝覚めが晴れる日は、一体いつ訪れてくれるのだろうか。ロイは大きく嘆息した。
とにかく、これ以上他人の悩みに付き合う余裕など、今の自分にはかけらもないのだから。遠回りを決め込んで、ロイは第三城壁の中を走る回廊へと歩みを進めた。
南に向かって伸びている回廊は、最後に大きく東に進路を変え、「緑の塔」の西辺に繋がっている。
四方に櫓塔を備えた、東西に長い直方体の「緑の塔」は、城壁に連なる建物の中では一番大きい。城の中枢である「鷲の塔」の南南西に位置するこの建物には、城壁を通り抜けるための一際大きなアーチがしつらえられており、第一城壁の正門から、第二城壁、第三城壁、と大きく左右に折れ曲がりながら鉤の手状に伸びるアプローチの、最後の関門となっていた。
この通路を通れば、セイジュ達に見つかることなく「鷲の塔」へと入ることができるだろう。開口部を左に曲がろうとしたロイは、聞き憶えのある声に、ふと、足を止めた。
「魔術顧問様ー!」
純朴そうな大柄の男と、まだ少年の域を出ない小柄な若い男が声を揃えて呼んだのは、ロイのルドス時代の肩書きだった。微かに見憶えがあるにはあるが、警備隊の誰かだということしか解らない。
「タヴァーネス先生ー!」
もう一人は、白い僧衣を身に纏っていた。少々恰幅の良い、大仰な走り方。なんと、あれは……。
「わしじゃよ、ナガーダじゃ。久しぶりじゃのう」
息せき切って駆け寄ってきたイの町の司祭は、ロイの手を両手で握って破顔した。「急にいなくなるから、何か事故でもあったのかと、皆で心配しておったのだぞ」
「司祭様、どうしてここに」
「弟帝陛下にお呼ばれしての。はるばる帝都までやってきたのじゃ」
「セイジュ様に?」
「リーナも一緒だったんじゃが……ちと、面倒が起こっての。とにかくわしだけでも、陛下の命に従わねば、と、彼らに連れてきてもらったのじゃ」
司祭のその言葉に、巨漢の警備隊員が小さく頷いた。
「君は確か、ルドス警備隊の……」
「エンダと申しますです。こちらはレンシ。ええと、こちらでもお見せしたほうがいいんでしょうかね……サベイジ隊長からの紹介状と、ルーファス・カナン様から預かった通行証なんですが……」
突然の情報の洪水に、ロイは少しばかり面食らいながら一歩下がった。とにかく現状を把握しようと、右手の人差し指で額を押さえる。
「ちょっと待ってくれないか。最初の門で門番に書面を見せたのだね?」
「はぁ。それで、『緑の塔』ってところの控えの間で待てと言われたんですが」
――それならば、その言葉に従えば良いものを。
憮然とした表情を浮かべそうになったロイは、彼らがこの城を初めて訪れた客であるということを思い出し、すんでのところで態度を取り繕った。
「ならば、こちらだ。案内しよう」
「ありがとうございます! 助かりますです!」
「緑の塔」の中へと取って返したロイは、三人を従えて二階へと上がる。丁度アーチの上にあたる部分が、目指す控えの間だった。
部屋の扉を押し開けて一同を招き入れようとした室内、中央に立つ人影を認めて、ロイは思わず足を止めた。
「せ、セイジュ様」
「ロイ、君は会議中のはずでは」
――その会議に遅れてしまっているのは、他でもない貴方のせいですが。
そう言いたい気持ちを呑み込んで、ロイは殊更に静かな声を絞り出した。
「緑の門で彼らに出会ったものですから」
「そうか……、ルドスとイは、貴方の馴染みの土地でしたね」
つい先ほどとは打って変わって、セイジュはすっかり仕事の顔を見せていた。兄と同じ端正な面に少しばかりの憂いを込めて、しばし何かを思案している。
ロイの背後では、突然の最高権力者のお出ましに、三人がかちこちに凍って立ち尽くしていた。
「ナガダ殿」
名を呼ばれ、司祭は慌てて床にぬかづいた。一拍遅れて、エンダとレンシも平身低頭の姿勢をとる。
「遠路を、はるばるご苦労でした」
一旦言葉を切ったセイジュの視線が、その刹那、微かにぶれた。そうして、まるでロイを避けるかのように、ほんの少しだけ顔を背ける。
「急なことで申し訳ないが、ナガダ殿、貴方には、ここ帝都で我々のために力を貸してほしい」
司祭が一瞬だけ浮かべた不思議そうな表情を、ロイは見逃さなかった。
「司祭様、何か?」
「い、いえいえいえ! なんでもございませぬ!」
ロイは、ひれ伏したまま血相を変えてかぶりを振る司祭の傍に膝をついた。
不自然なセイジュの態度といい、どうにも何かが引っかかる。少しでもこのもやもやを晴らしたくて、ロイは司祭の耳元に口を寄せた。
「……教えてください、司祭様。何か問題でも?」
「滅相もありませぬ」
「司祭様」
有無を言わさぬ強い意志を込め、ロイは再度呼びかける。司祭は息も絶え絶えの様子で、辛うじて幽かな擦過音を漏らした。
「……書状には、地方の困窮する村々のために、と……、ですから、少し、驚いただけで……」
自身もそのまま消え入ってしまいそうなほどのかそけき声を吐き出してから、司祭は更に限界まで姿勢を低くした。
少し拍子抜けして、ロイは立ち上がった。無礼を詫びるつもりでセイジュのほうへ顔を向けると、弟帝はまたしてもロイから視線を外した。
――偶然か、それとも……?
ロイの胸の奥で、靄が渦巻く。
「当面の滞在先はお決まりですか?」
「は、はい」
「それでは、またのちほどそちらへ連絡しましょう。今日のところはこれで」
軽やかに、セイジュが踵を返す。そのまま振り返ることもなく、彼は奥の扉へと姿を消した。
言い知れぬ不安をロイの中に残したまま。
西日に染まる校舎内、硬い物が砕ける音が響いた。
嫌な予感がして慌てて教室を覗き込めば、教壇付近の床の上に色とりどりのガラス片がばらばらになって散らばっている。
一番前にある自分の机の上では、ガラス切りが衝撃の余波を受けてくるくると回っていた。落下を免れた赤色のガラスが、作業中だった型紙の上でまだカタカタと小刻みに震えている。
「…………ごめん……!」
ひとけの無い黄昏時の教室、眩いほどの黄金色の中、右手に教鞭を持った級友が真っ青な顔でうなだれていた。彼の足元には、黒板消しが転がっている。
何が起こったのか、彼女はすぐに理解した。理解して……湧き上がる怒りが口をついてほとばしった。
「どういうことよ!」
「本当に、ごめん。俺、その……、黒板消しを叩こうと……」
黒板消しを空中に放り投げて、落ちてきたところを教鞭で叩く。最近、掃除時間に男子が好んでしている遊びだ。
――こんなところで、こんなことをすれば、どうなるのか。普段からそう言っていたのに。
あまりの腹立たしさに二の句も告げず、彼女は拳を握り締めて立ち尽くしていた。
「悪かった……、本当に。俺、どうすればいい? ……そんな、許してもらえるなんて思っていないけど……」
そうだ。ここまで作り上げるのに、二週間もかかっていたのだ。息をするのも苦しいほどの憤怒に苛まれて、リーナは無言でサンを睨み続けた。
サンは、二、三度目を逸らし、それから意を決したかのように真っ向からリーナの目を見返してきた。思いつめたような表情で、リーナの口から断罪の言葉が放たれるのを待っている。
なんだ、こんな表情もできるんだ。唐突に、リーナはそんなことを考えた。
剣術が上手いとか、かっこいいとか、多くの女生徒が彼をちやほやしているが、単にへらへら軽薄そうに笑っているだけのお調子者だと思っていた。来るものは拒まず、去るものは追わず、などと女の子に囲まれながら分かったふうな口をきいていたのを耳にして以来、リーナの中でサンの評価は見事なまでに地に落ちてしまっていたのだ。
だが、今、目の前に立つ彼は、何かに酷く怯えているようにすら見えた。
ああ、そうか。怖いんだ。
嫌われるのが、怖いんだ。
私に、というよりも、とにかく「他人に」拒絶されるのが怖いんだろう。
軽く、調子よく、必要以上に深入りすることなく。そうやって他人と距離をとれば、自分の存在を拒否されることはない。ならば、自分が傷つくこともない。
――大きななりをしてるくせに、弱虫なんだ。
そう考えたら、リーナは思わずふき出しそうになった。不審に思われないように慌てて咳払いをして取り繕うと、とりあえず思いついた疑問を口にしてみる。
「……なんで、こんな時間まで残ってたの?」
大抵の生徒は、放課後真っ直ぐ家に帰る。よほど裕福な家庭でもない限りは、家の手伝いが待っているからだ。司祭様に頼まれた仕事が無ければ、もしくは家に自分の机があれば、リーナだってこんな時間に学舎には残ってはいなかったろう。
「え……、いや、その、ライン先生に稽古つけてもらってたから」
「稽古?」
「柄じゃないだろ? 恥ずかしいから内緒な。……それよりも、……その、それ……」
少しいつもの調子を取り戻しかけて、それからサンは再び悲愴な顔をした。
「……いいよ」
「え!?」
「壊れ物を出しっぱなしで席を外してた私も悪いと思うし」
腰に両手をあて、軽く溜め息をついてから、リーナは笑みを浮かべた。
サンは激しく反省しているようだし、何より壊れてしまったものは仕方がない。それに、ステンドグラスはまた作り直せば良いのだ。司祭様は期限を定めておられなかったから。
一旦割りきってしまえば、諦めの良さには定評のあるリーナだった。いざ、服の袖をまくり上げて、床に散らばるガラスの破片を拾い集め始める。
サンは、信じられないと言わんばかりに目を見開いて、そんなリーナを凝視していた。
「許して、くれるのか?」
「まあね。でも、このかけらはしっかり拾ってもらおうかなー。勿体ないもんね」
「それだけで、いいのか?」
リーナが頷くと、サンは泣きそうな表情になった。それから、眩しいぐらいの笑顔を見せた。
本物の笑顔だ、とリーナは思った。
「彼のことを思い出しているのですか?」
ルーファスの声に、リーナは我に返った。
「うーん、まあ、そんなところかなあ」
二人がいるのは、帝都へと向かう大型帆船の甲板だ。昨日にイシュトゥの港を出港して以来、穏やかな凪が船を包んでいた。行き足は遅いが、乗り心地は悪くない。
あの時、あの夕暮れの教室以来、リーナはずっとサンのことが気になっていたのだ。
翌日からの彼は、憎らしいほど普段どおりで、リーナとも挨拶以上の言葉を交わすことは殆どなかった。
だが、注意深く見ていると、今までとは違う彼に気がつくことができた。
彼は、決して他人の領域に深く立ち入らない。そして、他人を立ち入らせない。肩を叩きあったり、じゃれ合ったり、そんなふうに躊躇いなく他人の身体に触れ、あれだけ親しげに笑っているくせに。
――ヘンな奴。
その、ヘンな奴のヘンなところに気がつけたことが、リーナは少しだけ嬉しかったのだ。
「ここは寒いです。下に戻りませんか?」
「うん……もう少しだけ。騎士様、先に下りておいてください」
寂しそうな背中を見つめながら、ルーファスは両の手を固く握り締めた。
「リーナさん……、やめましょう」
苦渋に満ちたルーファスの声に、リーナが静かに振り返る。
「彼の遺志を継ごうとなさる、貴女の気持ちは良く解ります。ですが、同じように私も彼の遺志を想うのです。……彼が貴女を守ろうとなさったように、私もまた、貴女を守りたい」
「ありがとう。でも……」
言いよどむリーナに、ルーファスはつい声を荒らげた。
「危険過ぎます。やはり、貴女は故郷へ帰るべきだった。ガシガルに着いたら、すぐに帰りの船を用意させましょう」
「だめよ」
だが、リーナの声は、揺るがなかった。
「『彼の者』をこのままにしておいても、何も良いことないでしょ? いいや、それどころか、どんどん世界は歪んでいく。私、そんなの嫌だもん」
――それは、どこまでが貴女の考えなのですか。
ルーファスは密かに唇を噛んだ。
あの神殿でリーナに憑依した存在の記憶は、間違いなく彼女の中にある。「それ」がリーナに言わしめているのではないのだろうか。彼はそう思わずにはいられなかった。
「それにね、私、『遺志』なんて思ってないよ? サン達が死んだなんて、絶対に嘘」
「え?」
「皆知らないかもしれないけれど、シキって凄いんだから。前にイであった崖崩れの時もね、こう、崩れてきた土砂を、こんな感じで凍らせてね。タヴァーネス先生も、もうびっくり、みたいな。
それに、彼女ほどじゃないけどレイもあれで一応一人前以上の魔術師なのよ。……全然そう見えないけど。たとえ老師が……いなくっても、あの二人が揃っていれば、絶対大丈夫」
「ならば、尚更、貴女は故郷に……」
リーナが、ゆるりと首を振った。
「彼らは、彼らの道を選んだ。そう言ったのは騎士様でしょ?」
空を映した瞳が、真っ直ぐルーファスを射抜いた。
「だから、私は、私の道を選ぶ」
海鳥の鳴く声が、遠く、近く、風に乗っている。
しばしの沈黙のあと、リーナは決まり悪そうな表情で頭を掻いた。
「……って、騎士様に色々お世話になっている私が偉そうに言うことじゃないよね。こんなに立派な船まで用意してもらっちゃって」
「いいえ。元々帝都までの旅費は陛下から賜っておりますから」
「本当に、色々ありが……っくしょっっん」
リーナが放った豪快なくしゃみに、二人は顔を見合わせて笑った。
船室に戻るために船首から離れようとして、ルーファスは足をとめた。
「兄帝陛下の信仰改革が全くの嘘だったとすれば……」
舳先を見つめながら、彼は静かに言葉を継ぐ。
「あの像は……一体何なのでしょうか」
彼の視線の先には、舳先に据えつけられている胸像があった。陽光を受け、艶々と黒く光る、神の像が。
リーナは、弾かれたように像に向かって走り出した。ルーファスも慌ててそのあとを追う。
――像。突然この世に現れたアシアスの神像。違和感しか感じられなかったあの像。
言葉に言い表せない不安を持て余したあまり、リーナはまともに神像と対峙することを避けていた。毎日教会へ通っているにもかかわらず、一度として直視したことがなかったのだ。
今、まさに初めて対面するはずのその姿に、リーナは見憶えがあった。
否、自分の記憶ではない。
心の中に刻みつけられた、遥か太古の映像。かつて「黒の導師」と呼ばれた人間の記憶の中、目の前の神像が、ある肖像と重なった。
「……ルドス王国最後の王、だ」
リーナの呟きは、船体を揺るがし砕ける波の音に、あっという間に呑み込まれてしまった。
「何するんだ! やめろよ!」
足掻く少年の首を、毛むくじゃらの腕が締め上げる。
この腕を噛めばいい。そうやって私は難を逃れたのだ。
でも、そのせいで母さんが。
馬鹿を言うな。そうしなければお前も殺されてしまうぞ。
山賊の腕に、思いきり噛みつく。
口の中に、鉄錆の味が広がる。
僕はこんなところで死ぬわけにはいかない。生き延びるんだ。生き延びなければ……!
男の手が喉元へと伸びてくる。
そうだ、このあと、首を絞められ、例の杖を引き抜き、魔術でその場の全員を切り刻む。
何度繰り返せば良いのだろうか。
いつまで囚われ続けなければならないのだろうか。
男の手は、予想に反して少年の頭を撫で始めた。
やたらと思わせぶりに。ねっとりと。
「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ」
ふざけるな。それでお前が俺の最初の客になろうってか?
…………なぜ、こんな昔の夢を見る?
いつもの悪夢ではない。あれにはもっと明瞭な他意が感じられる。
これは……、もっと奥底から湧き上がってくる、何か。違うモノ。
警告?
啓示?
地面から黒い影が湧き起こった。聞き憶えのあるような、聞いたことのないような、ヒトのものかも定かではない「声」が響き渡る。
「……すごいじゃないか」
誰だ? タヴァーネス子爵?
立ち上がった影は、無限の闇を思わせるほどに虚ろだった。
ロイはおそるおそるその傍へと歩みを進めていく。
子爵ならば、顔を……顔を見せてください。
貴方が間違いなく存在したという証を……。
虚無と対峙したロイの指がひらめき、魔術の灯りを紡ぎ出した。
眩い光が、闇のベールを剥ぎ取る。
アシアスの神像が其処に立っていた。
四 帝都
大型の馬車が優に四台は並んで通れそうな大通りの両側に、見渡す限り、四階建ての建物が軒を並べている。見上げるばかりの高層建築は、まるで巨人の国にでも迷い込んでしまったかのようだった。
西の空に微かに残った残照も次第に夜の色に拡散していき、辺りは宵闇に沈みつつある。だが、窓という窓から漏れる灯りに照らされて、通りはまだまだ活気に溢れていた。家路を急ぐ人の波を器用によけながら、幾台もの二輪馬車がけたたましく行き交っている。
雑踏のざわめき。
物売りの声。
馬のいななき、御者の怒鳴る声。
人ごみと喧騒の向こう、緩やかな上り坂の遥か先、建ち並ぶ家々の屋根を更に凌駕した影が天を衝いていた。幾つもの尖塔と櫓塔の上で旗がはためいている。
幾重にも重なった城壁と堅牢そうな建造物が、街並みの隙間から垣間見えた。
あれが、宮城だ。マクダレン帝国の最高権力者のおわす場所。
そして、ここが帝都。一年中眠ることのない街。
街の門を無事通り抜けたインシャとガーランは、しばしの間、声も無く立ち尽くしていた。
インシャ達がルドスを発ったのは十一月の終わり。途中海が荒れたためにイシュトゥで足止めを食らってしまい、彼らが帝都の門をくぐったのは十二月も下旬、二十一日のことだった。
ルドスの南にあるイシュトゥ港から、北へと抉れる「刃境湾」を西へ横切り、「蹴爪岬」を回り込んだ先に、帝国中心部への玄関口となるガシガルの港があった。
険しいナナラ山脈は湾のすぐ傍まで迫り、場所によっては恐るべき断崖絶壁となって真っ逆さまに海に落ち込んでいる。それに、天険を避け湾に沿って大きく弧を描く陸路よりも、海路は遥かに最短距離で、必然的に山脈の西側と東側を結ぶ交易は海上に頼らざるを得ない有様だった。
天候さえ味方すれば、ルドスから帝都へは十日あれば事足りるはずだった。季節柄、風向きの関係から最短とはいかなくとも、それでも二週間で充分だと思っていた。こんなに日にちがかかると解っていたなら、無理矢理山越えを敢行したほうが良かったかもしれない。本日二本目の煙草を燻らせながら、ガーランは溜め息をついた。
帝都の中枢、皇帝の城の門前広場。ガーランの座ったベンチの周りでは、鳩の群れがせわしなく餌をつついている。
――今日も、無駄足になるんだろうか。
紫煙を大きく吐き出して、ガーランは広場の向こう側にそびえ立つ城の城壁を眺めた。
帝都にて宿を確保し、身支度を整えてインシャが城に上がったのが、二十三日。こんなことなら、従者としてでも無理に彼女についていくんだった、とガーランは幾度となく後悔していた。そうして、まるで帰らぬ主を待つ犬のように、彼はかれこれ三日もこの広場で無為な時間を過ごしている。
皇帝陛下の城にいる限りは、インシャの身が危険に晒されることはないだろう。ガーランの懸念は他のところにあった。こうやって無駄に日数を浪費していると余計に、その「懸念」がすぐ背後に迫ってきているような気がする。
――何やってんだ。早く帰って来い、インシャ。
ゆっくりとベンチの背にもたれて、ガーランは軽く両目を閉じた。
三重の城壁と堀で守られた皇帝陛下の居城は、ルドス領主の屋敷とは比べようもないほど大きく、壮麗だった。
異なっているのは、その器だけではない。門番、立ち番、警邏、そのどれもが見事なまでに訓練され、統制されていた。それに比べて、ルドス騎士団のなんと貧相なこと。
これが首都と州都の違いなのだろう。そして、征服者と被征服者との立場の違いでもある。インシャはそう結論づけながらも、少しだけ負け惜しみめいた考えを浮かべていた。ルドス騎士団ではなく我々ルドス警備隊ならば、近衛兵の足元ぐらいには手が届くかもしれない、と。
そこまで考えて、インシャはいつになく大きな溜め息をついた。
――ああ、そうだ、もう私は警備隊員ではなかったのだ。
この胸の痛みは、仕事半ばで隊を離れたおのれの無責任さに由来するものだろう、と、インシャは無理矢理に決めつけた。そう、決してあの人との別離のせいでは、ない。
第三城壁の北東の角、白い漆喰で飾られた塔の三階の部屋で、インシャはひたすら時間を持て余していた。
城に上がったインシャは、門番の指示どおり「緑の塔」という建物に向かった。その控えの間とやらで待つこと一時半、やがて現れた使いの者にこの部屋に案内されて、以来三日。
「生憎と、陛下はただ今ご多忙につきまして、もうしばらくお待ちください」
少し装飾の目立つ式服を着用した近衛兵は、丁寧な態度でインシャにそう言った。その瞳がどこか虚ろなのが気になったが、近衛兵は近衛兵でも、小間使い的な役割を担う立場なのだろう。華美な服装に中身が伴わないというのは、よくある話だ、とインシャは密かに納得した。
インシャにあてがわれた部屋は、二間続きの客間だった。見たこともない豪華な調度品に囲まれて、彼女は酷く落ち着かない心地だった。三食欠かさず運ばれる食事も、どのような食材をどのように調理したものか想像できないほど繊細且つ複雑な味で、最低限のテーブルマナーしか知らないインシャは、同席者がいないことに心の底から安堵したものだった。
ふと、おのれの手を見る。
ここは自分のような人間がいる場所ではない。
片田舎の、地図にさえ載っていないような寒村の貧しい家に生まれて、戦争で家族を亡くし、ルドスの親戚に引き取られた。初等学校こそ通わせてはもらえたものの、卒業と同時に援助は打ち切られ、それからは自らの手で人生を切り拓いてきた。
犯罪や売春に手を染めなかったのは、単に運が良かっただけのことだ。癒やしの術がなければ、自分のような身寄りの無い小娘は、おそらくは社会の底辺に沈んだきりだっただろう。そして、ルドス警備隊に入ることも叶わなかったはず……。
窓から差し込む陽光に、レースのカーテンが輝いている。このカーテンを作り上げるのに、一体何人の職人が何日を費やしたのだろうか。
――異世界、だ。
そう、まさしく世界が違うのだ。インシャは大きく溜め息をついた。警備隊という特殊な環境の中で、うっかり失念しかけてしまっていた。彼女と彼とでは、属している世界が異なっているということに。
彼の屋敷でも、きっとこんなカーテンが窓を飾っていることだろう。寝台も、長椅子も、雲のように柔らかで、家具の表は磨かれ、金具は黄金色に輝き……、そして、何人もの使用人が彼に傅き……。
インシャは一瞬だけ目を潤ませた。これで良かったのだ、と。自分には自分の道がある。決してあの人とは重ならない道が。
――そうだ、いつまでもガーランの好意に甘えているわけにもいかない。
苦笑を頬に刻んで、インシャは独りごちた。こんな馬鹿な女を守るだなんて、そう言って黙ってついてくるなんて、……本当に馬鹿なんだから。
「でも……、馬鹿には馬鹿がお似合いかもね」
声に出してみると、思いのほか気持ちがさっぱりとしたような気がした。
――皇帝陛下から新しい任地を承ったら、彼に訊いてみよう。本当に私でも良いのか、と。本当にこれからも一緒にいてくれるのか、と。
インシャが決意新たに窓の外を見やった、その時、部屋の扉をノックの音が静かに震わせた。
「ようこそ、我が城へ。インシャ・アラハン殿」
二ヶ月前に見えた貴き御方、その彼と瓜二つの人物がそこに立っていた。
だが、気配が違う。冴え渡る月の光のような双子の兄とは違って、目の前に立つ弟は、例えるならばうららかな春の光のような、そんな柔らかな雰囲気を身に纏っていた。
「いえ、インシャ、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
黄金もかくや、下ろされた前髪が煌びやかに彼の額を飾っている。桜色の唇がそっと綻んで、眩いばかりの笑顔を作り上げた。日の光を受けて彼の灰色の瞳が鏡のように輝いている。
――なんて……美しい。
インシャはひれ伏すことも忘れて、ただその場に立ち尽くしていた。
そんな無礼に頓着する様子もなく、セイジュはゆっくりと部屋の中へと入ってきた。そのまま真っ直ぐインシャの至近までやってくると、優雅な動きでインシャの右手をとり、その甲に口づけをした。
「お会いできて光栄です、インシャ」
とろけるように甘い笑みが、インシャに注がれる。それはまるで純度の高いアルコールのように、彼女の身体中にあっという間に染み渡っていった。
身体の奥底から熱気が溢れ出す。身動き一つできない。
セイジュの瞳が、インシャの脳裏で切れ長の濃紺の瞳と重なった。
褐色の前髪の下から覗く、妖しい光を湛えたあの瞳。
――いや、違う。あの人は、もっと直接的に私の心を煽り立てていた。
じわじわと心を侵食していくこの感覚に、インシャは憶えがあった。あれは一体いつのことだったか。インシャは必死でおのれの記憶を探る……。
大きく息を呑み、インシャは両手を思いっきり握り締めた。二年ほど前に、暴漢に魅了の魔術を施術されかけたことを思い出したのだ。だが、あの時彼女を助けてくれた仲間は、今ここにはいない。インシャは必死に手のひらに爪を立て、その痛みで意識を此岸へ引き戻そうとする。
セイジュの目が、つい、と細められた。先刻までとは幾分低い囁き声が、彼の口から漏れる。
「流石は百戦錬磨の警備隊員。安穏たる教会勤めとは違うというわけか」
セイジュが、長くしなやかな指をインシャの顎にかけた。
「我が『魅了』にここまで抗うことができようとは思っていなかった。技能の不足を凌ぐ充分な奥行きと、経験。素晴らしい」
セイジュの左手が、インシャの腰にまわされる。同時に、顎に添えられた右手に力が込められ、インシャはやや上方を向かせられた。
「……なるほど。君になら収まりそうだ」
――何故、セイジュ帝が私にこんな術を。いや、そもそも……
「諦めることだ。全てを我に委ねるが良い」
インシャの眼前に、美しい白磁の面がゆっくりと近づいてくる。
そして、驚くほどに冷たい感触が、そっと唇に触れた。
――そもそも、魔術を使えるのは、弟帝ではなく…………
「お前はもう、私のものだ」
インシャの意識は、昏い大きな波に飲み込まれてしまった。
「隣に座っても構いませんか?」
広場のベンチに座ったまま、ついうっかりうたた寝をしていたガーランは、寝ぼけ眼を擦りながら、慌てて「どうぞ」と身を起こした。
ぼやける視界の中、広場のあちこちにあるベンチは空席のままだ。
ガーランは一瞬首をひねった。
ややあって、思い当たる。丁寧で柔らかい口調に誤魔化されてしまっていたが、この声は……!
「た、たたた隊長!」
自分の横に座ったのが、他でもない、エセル・サベイジその人であることに気がついて、ガーランは思わずベンチから三歩ほど飛びずさった。
「随分な反応だな」
「ま、ままままさか」
「落ち着け。なんだ、その態度は。追いかけてほしくて、あんなに私を焚きつけたのだろう?」
エセルの浮かべた不敵な笑みに、ガーランはつい眉を寄せた。
帝都到着以来ずっとガーランを苛んでいた懸念が、まさしく今現実となってしまった。彼は、エセルがインシャを取り戻すべく自分達を追いかけてくるのではないかと、気が気ではなかったのだ。
――だから、こんなところでいつまでもぐずぐずしたくなかったんだ。
だが、湧き上がる悔しさとは別に、ガーランの胸には熱い塊が込み上げてきていた。誉あるルドス警備隊の隊長。彼はやはり、この俺が思ったとおりの男だった、と。
相克する二つの感情に翻弄され無言で立ち尽くすガーランを、満足そうな顔でたっぷりと見物したのち、エセルが懐から一通の封書を取り出した。
「除隊届けだ。もう、隊長などとは呼ぶな。エセル、で良い。ここから先は、私がインシャと行く」
ガーランは、その一瞬自分の顎が外れるんじゃないかと思った。
一呼吸のちに慌てて口を閉じ、それからエセルに掴みかからんばかりに問いかける。
「ま、待ってくれ、隊長。いや、確かに焚きつけたのは確かだけれど、それにしても、イキナリそれはないだろう? 仮にも隊長の役にある者が、そんな簡単に無責任に、辞める、なんて……」
「無責任の誹りは甘んじて受けるさ。だが、一応代わりの者の推薦状も同封してある」
「代わり?」
「と、いうわけで、あとは頼んだぞ、ガーラン・リント。無爵位の隊長は帝国初なのじゃないかな」
今度こそ、顎が外れたに違いない。ガーランは大きく口を開けたまま硬直してしまっていた。
「さて。書類を提出しに行ってくるかな。ところでガーラン、インシャはどこだ?」
「…………まてまてまて、隊長、」
「エセルだ。くれぐれも家名では呼ぶなよ。隊の序列から離れた以上は、我らは友人だろう?」
「……んじゃ、……エセル。なんか呼びづれぇな……。って、違ーう! そんなことが言いたいのじゃなくて、隊……エセル!」
「だから、何だ」
「インシャと行く、って、アンタ一応公爵家の一員だろ? その辺りの色々はどうすんだよ!」
自嘲に似た笑みを浮かべて、エセルがガーランを見上げた。
「二度と屋敷の敷居を跨ぐな、ということだそうだ。要するに勘当だな」
「はぁ?」
「これまでの蓄えもあるから、当分は問題ない。その先についても、贅沢さえしなければ、用心棒なり剣の指南なり、食い扶持はなんとでもなるだろう。なに、張り込みの時の不自由さが年中続くと思えば良いわけだ。どうしてこんなことにすぐに気がつかなかったんだろうな。さっさとこうしておけば、インシャにつらい思いをさせることもなかったのに」
――なんて、極端な人なんだ。ここまで開き直りの激しい性格だとは思っていなかった。
ガーランは呆れるのを通り越して、何も言えずにただ口をパクパクとさせるのみだ。
「帝都まで、サベイジの名を捨てての初めての一人旅、確かにこれまでに比べて随分と不自由ではあったが、苦痛というほどではなかったぞ。どうだ? これで及第点か?」
そう言って、エセルも立ち上がった。清清しさすら感じさせる瞳で、ガーランの目を真っ向から覗き込んだ。
「インシャを返してもらうぞ」
ごくり、と鳴ったのが自分の喉だと解ったのは、数秒のちだった。ガーランは必死で我を手繰り寄せ、息を呑んで姿勢を正す。
「待てよ、た……エセル」
「なんだ」
「……アンタは、俺の見込んだとおりの男だった。心底嬉しいと思うぜ。だがな、だからといって、はいそうですか、とインシャを渡す気にはなれねえな」
「何故だ」
ガーランは視線を足元に落とした。
「……俺だって、アンタに負けないぐらい、インシャのことを想っている。入隊試験の時、彼女を初めて見た時から……アンタが彼女に酷い仕打ちをし続けている間も……ずっと……ずっと、想ってたさ。本当に、好きだったんだ……。
俺とアンタと何が違ったのか、何度も考えた。出た結論は、こうだ。アンタが先に手を出したからに違いない、と。今でも俺はそう確信している。俺が先だったなら、彼女の心は俺に向いたはずだ、とな。
アンタは無理矢理に彼女をモノにした。俺にはそれができなかった。だがな、この一ヶ月、一緒に旅をしていて、彼女の目は俺のほうを向いてくれるようになった。まんざらでもない様子だって、見せてくれるようになったんだ」
エセルの眉が、微かにひそめられる。
「俺にだって、チャンスがまわってきたんだ。そうだろ?」
「だから、譲れ、とでも言うつもりなのか」
「そうじゃない。インシャのいないこんなところで、俺達二人で言い合っていても、何も意味がないって言いたいんだ」
そう言って、ガーランは真摯な碧い瞳を、真っ直ぐにエセルに向けた。
「彼女に選んでもらおう。俺か、アンタか。彼女の言葉に、俺は従う」
しばしの沈黙ののち、エセルが冷ややかな目で一言言い放った。
「馬鹿か」
「……ば……!?」
「今までも時々、馬鹿だな、と思う時があったが、これほどまでに馬鹿だとは思わなかった」
「な……っ!」
「考えてもみろ。あのインシャのことだ。私とお前とどちらを選ぶ、などと問われて、私を選ぶわけがなかろう。彼女を選ぶことで失うものの大きさの比は、私とお前とでは比べるべくもないからな。自己評価の厳しいインシャなら、『私はガーランと行きます。隊長は公爵家へお戻りください』とか何とか言うに決まっている。そんな選び方をされても、お前は平気なのか」
終わり良ければ、という言葉がガーランの喉元まで出かかった。
「肝心なのは、彼女が本当に欲しているのは誰か、ということだ。ガーラン、お前は一ヶ月一緒にいたのだろう? 今現在の彼女について私よりも熟知しているはずだ。違うか?」
そこで、エセルは一度大きく息を継いだ。
「だから、私はお前にこそ問いたい。インシャが私を望んでいるのなら、私に返してくれ。彼女がお前を望んでいるのならば……」懐から封筒を取り出すと、エセルは目の前にゆっくりと掲げた。「……これはここで破いてしまおう」
――なんて奴だ。
計算ずくなのか、それとも本心から真面目にそう思っているのか、エセルの表情はあくまでも硬く、ガーランには窺い知ることができない。
エセルの言葉はガーランにとって、あまりにも正論で、あまりにも残酷だった。
何よりもインシャの幸せを想っている、と。
そして、ガーランの判断を信用している、と。
その言葉は、ただこの二つのことだけを伝えていた。
――ずるいぞ、隊長。
こんなことを言われてしまったら……、逃げ場が無くなってしまうじゃないか。ガーランはきつく下唇を噛んで、目を閉じた。
――インシャを自分のものにしたい。
あの柔らかそうな肌に触れたい。抱きしめたい。甘い声でこの自分の名前を呼ばせたい。この旅の間に、ガーランは何度この蠱惑的な誘惑に屈しそうになったことか。
そもそも、エセルの影に隠されてはいたが、ガーランもそれなりの数の武勇伝を持っていた。それが、一ヶ月の完全なる禁欲生活だ。それも手の届くところに想い人が居りながら。
かつて隊長がそうしたように、自分も力ずくで彼女をものにすれば良い、と、そう囁く声に彼が従わなかったのは、一体何故だったのか。
彼女が自ずから求めてくるまでは。
それは、意地だったのか、矜持だったのか。
いや、それだけが理由じゃない。心がここにない女を無理矢理に抱いても、虚しいだけだからだ。
そして何より、……彼女を傷つけたくなかったからだ。
「……俺の負けだ」
ガーランは歯軋りののちに、そう吐き捨てた。
「今もインシャはアンタを想っている。言葉には出していないが、間違いないさ。ちくしょう、これで満足か!」
顔を背けるガーランの背後で、エセルが静かに呟いた。
「……ガーラン、すまなかった。そして……、感謝する。心から」
「だーーーっ、うるせえ! ごちゃごちゃ言うな、馬鹿野郎! 解ったならさっさと行きやがれ! インシャは三日前から宮城だ!」
「分かった」
足音が石畳の上を足早に遠ざかっていく。
ガーランはがっくりとうなだれて、それからゆっくりとベンチの上に崩れ落ちた。
五 誘惑
「いない?」
「はい。インシャ・アラハンと仰られる女性は、この城においでになっておられません」
皇帝の城の第三城壁、「緑の門」の詰所に通されたエセルは、困惑の表情で宮宰を見返した。
「そんなはずはない。確かに彼女はここに来て、ここに滞在しているはずだ。そう、三日前から」
「いえ、新年の式典にお出ましになられる方々もまだ到着されておらず、現在この城に滞在中のお客様は誰もおられません。入出者の名簿にも記載はございませんし、サベイジ様のお間違えではないかと……」
「間違えてなどおらぬ。彼女はセイジュ陛下に召されて、三日前にここに来たのだ。生憎と私はその場に居合わせなかったが、なんなら証言できる者を連れてこようか?」
「そうは仰られても……現に居られないのは居られないと申し上げることしか……」
慇懃な宮宰の態度は、苛立ちと不安をエセルの中にかき立てる。遂にエセルは椅子を蹴って立ち上がった。
「もう良い! 他に誰か話の通じる者はおらぬのか!」
「お待ちください! サベイジ様!」
自分の振る舞いが他人の目にどんなに不遜に映ろうが、嫌な予感を払拭するのが先だ。そうおのれに言い訳しながら、エセルは部屋を出た。
――それに、こうやって騒ぎにでもなれば、事の詳細を知る誰かに出くわすことができるかもしれない。
「お待ちください! 誰か、誰か、お客様をお止めして!」
背後で喚く宮宰の声を撒き餌に、ばらばらと人が集まってくる。
剣を構えた三人の近衛兵が前方に立ち塞がり、さしものエセルもそこで一旦歩みを止めた。
と、そこへ投げかけられる、涼やかな声。
「何事かね」
とんでもない大物を釣り上げてしまった。内心酷く慌てながらもゆうるりと振り返ったエセルの視線の先、回廊から姿を現したのは……、
「へ、陛下……!」
人々が一斉に最敬礼をする。エセルは頭の中で次の一手を模索し続けながら、一同に倣ってアスラに対して頭を垂れた。
「エセル・サベイジ、君には直接礼を言わねばと思っていたところなのだ。君の活躍のお陰で、国家転覆を図る賊の野望も潰えた。これで枕を高くして眠ることができるというものだ」
「鷲の塔」の一室に、兄帝手ずから案内されたエセルは、たった二人きりで兄帝と相見えるという栄誉に浴することとなった。
なんと畏れ多いことか。そう身体を震わせる一方で、エセルは心の中で小首をかしげていた。一体何故陛下は人払いをなさったのだろうか。何故、謁見の間でなく、控えの間をお使いになるのだろうか、と。
ほどなく、ここが兄帝の「家」とも言うべき城であることに思い至り、エセルは無理矢理納得することにした。天下の皇帝陛下といえども、己が庭では存外身軽にあらせられるのだろう、と。
「お褒めに預かり、ありがたき幸せ」
床に膝をつき、かしこまるエセルの面前、優雅な物腰でアスラが長椅子に座した。
「随分と賑やかしていたようだが……、彼女に、会いに来たのかね」
そう言って、アスラは両手を軽く打ち鳴らした。部屋の奥の扉が開き、小柄な影が静かに現れる。
無礼を忘れて、エセルは声を上げた。
「インシャ!」
「どうしても手が空かない弟の代わりに、客人の相手をしていたところだったのだよ。いや、彼女は実に魅力的な女性だね」
緊張しているのか、やや反応の鈍い瞳を伏せ、インシャは深々とお辞儀をした。
なんだ。やはり役人達の間違いだったのだ。インシャは城にいたではないか。安堵の溜め息を漏らしたところで、エセルはアスラの口元に苦笑いが浮かんでいることに気がついた。
もしや、先ほどの騒ぎが陛下の逆鱗に触れてしまったのでは。人払いは、自分を叱責せんがためのものであったのか、そう思い当たって、エセルの血の気が一気に引いていく。
だが、そんなエセルの心配をよそに、アスラは改めてにっこりと破顔すると、驚くべき台詞を吐き出した。
「それにしても、このタイミングで君が現れるとは、まさしく僥倖であった。エセル・サベイジ、五日後の新年の式典に是非出席してもらいたい。どうだね、それまで我が城に逗留してはもらえないだろうか」
思いも寄らない申し出に、エセルの思考は一瞬真っ白になった。見失いかけたおのれを慌ててかき集め、なんとか言葉を搾り出す。
「……身に余る光栄でございます。ですが、私は陛下のお招きに応じることのできるような立場ではございません」
アスラが怪訝そうに問いかけた。
「というと?」
「父が……、いえ、兄が黙ってはいないでしょう。私は嫡男ではございませぬ故に。それに、友人を外に待たせておりますので」
流石に「勘当された」と言うのは憚られて、エセルは伏せた面に密かに苦笑を刻んだ。
「そうかね。君が一緒なら、彼女も心強かろうと思ったのだが」
驚きの表情で顔を上げたエセルに、アスラが至極当然とばかりに言葉を投げた。
「まだ弟との謁見が叶っておらぬのだ。彼女が城にとどまるのは至当だろう?」
「え、いや、しかし」
自分が礼を忘れて身を起こしていることにも気づかずに、エセルはひたすらインシャを見つめ続けた。
「彼女が気になるかね?」
「あ、いえ、その……」
「だから、君も城に、と申しておるのだ」
「ですが……」
――何かがおかしい。
インシャの処遇、アスラの言動、そう、この人目を避けんばかりの謁見にしても、言葉に言い表すことができないが、何か、どこかに、齟齬がある。
彫像のように微動だにしないインシャの姿に、エセルの胸の奥がざわめき始める……。
「そんなに、父君の顔色を伺わなくともよかろうものを……。まあ、良い。頑固なところが君の長所たるのだろう。」
大きな溜め息とともに、アスラが長椅子に背もたれた。そうして鷹揚に背後のインシャを振り返る。
「たとえひと目だけでも、これで随分彼女も心安らいだようだからな。慣れない場所ゆえに無理もなかろうが……、こうも頑なに自身を鎧われてはな……。げに、ヒトというものは……」
最後のほうは、独白に近い呟きだった。意味を判じかねて、エセルは黙って次の言葉を待つ。
「さて、弟と行き違ってはいけない。そろそろ部屋に戻るとしようか」
再びアスラの手が優雅にひらめいた。インシャは、深く礼をして入ってきた時と同じ扉へ消えていく。無言のままに。
――やはり、変だ。いくら御前で萎縮しているのだとしても、彼女の様子はあまりにも虚ろ過ぎる。
エセルの心臓が、早鐘のように鳴り響き始めた。
――何かがおかしい。何がおかしいのか、考えろ。考えなければ。そして、一刻も早くこの手に彼女を……。
思索に割り込んできた突然の呼び鈴の音に、弾かれたようにエセルの背筋が伸びた。
一呼吸おいて、エセルの背後の扉が重々しく開かれ、先刻の宮宰が姿を現した。お呼びでしょうか、とかしこまった声で最敬礼をする。
手にしたハンドベルを脇机に置いて、アスラが立ち上がった。
「ソリス、サベイジ家のご三男を新年祝賀会の出席者に追加だ」
「分かりました」
呆然とするエセルに、アスラは悪戯っぽい笑みを投げかけた。
「我が城に滞在はできなくとも、それぐらいは構わないだろう?」
更に、有無を言わせぬ声で、言葉を継ぐ。「預かり物はその時にお返しするとしよう。それまでは、ゆっくりと羽を休めたまえ」
その言葉が真に意味するところを理解して、エセルの喉が大きく上下した。
アスラの瞳が、満足そうに細められる。
「それでは五日後にまた会おう。楽しみにしているぞ」
緋色のマントをひるがえして、アスラは奥の扉へと立ち去っていった。
「隊長!」
魂の抜けたような面持ちで城の門を抜けたエセルに、先刻の鞘当てなどなかったかのように、ガーランが真っ直ぐ駆け寄ってきた。そうして、肩で息をしながら、急いた様子で口を開く。
「インシャは!?」
「新年の式典に来い、だそうだ」
「だから、インシャは!?」
「まだ城に留まるそうだ」
「は? そりゃ一体、どういうことですか?」
「それは私が訊きたい」
「とにかく、インシャには会えたんですね? 無事だったんですね?」
心安い顔を目の当たりにしたせいか、ようやくエセルの思考が巡り始めた。頭の周りにかかっていた霞が、ゆっくりと晴れていく。
何故、入城者の記録に残っていないのか。
――それは、滞在客として公にされていないということだ。
何故、三日間も城にとどめられているのか。
――城の外で待機させられない理由があるということか。
エセルの前に単身で現れた、国の最高権力者。二人っきりの謁見。インシャの姿を他の誰にも見せることなく、エセルを黙らせる。あれは、そのための人払いだったのだ。
そして、あの最後の台詞は、間違いなく事実上の通告だった。新年の式典まではインシャは返さない、と。それまで余計な騒ぎを起こすな、と……。ともに取り込めないのならば、行動を封じるまで。そういうことだったのだろう。
――一体、陛下達は何を考えている? 何を隠している?
そこまで思量し始めたところで、ふと、エセルの脳裏に先ほどのガーランの言葉が浮かび上がってきた。
「まて、ガーラン。何だ、その『無事』とは?」
エセルの表情が、いつもの、屈強な兵隊を擁する指揮者のものに切り替わる。
それを受けて、ガーランが意味ありげな視線を傍らの路地の奥へと投げた。
インシャはぼんやりと大きな姿見の前に立っていた。
彼女の背丈よりも高い鏡には白いワンピースを着た女の姿が映っている。洗濯をいたします、と使用人が彼女の衣類を全て持って行ってしまったため、彼女は代わりに渡されたこの服に袖を通したところなのだ。
襟ぐりの大きくあいた胸元に、風の通る脚周り、薄衣がふんわりと優しく身体を包む感触が酷く頼りなく思え、インシャは落ち着くことができなかった。
――こんな格好をあの人が見たら、一体何て言うだろう。
エセルのことを考えた途端に、彼女の胸の奥が燃えるように熱くなった。
――あの人が、いた。
もしかして、追いかけてきてくれたんだろうか。いや、まさか。でも、ひょっとしたら。エセルとの面会を終えて以来、期待と恐れが交互にインシャを翻弄していた。尤も、湯浴みだの着替えだのと次から次へと降りかかる出来事に、つい先ほどまでインシャは落ち着いて思い悩むどころではなかったのだが。
――でも……。
本当に彼が自分のことを追いかけてきてくれたのだとしても、それで一体どうしようというのだろうか。インシャはそっと眉間に皺を寄せた。まさか、何らかの手段で勅命を取り消し、インシャをルドスへ連れ帰ろうというのだろうか。
――私の力を必要としている人がいる、というのに。
癒やし手の居ない村がどんなに不自由か、インシャは知っている。医者や薬師にも病や傷を癒すことができるとはいえ、より積極的に神の加護を必要とする場合、彼らだけではあまりにも心もとない。そもそも、癒やし手の居ないような小さな集落には、医者も薬師も存在しないだろう。
今でも、インシャは、十年前のあの時のことを手に取るように思い出すことができる。必死で神に祈り続ける彼女の目の前で、温かだった大きな手が、力を失って敷布の上にぱたりと落ちたあの瞬間のことを。癒やし手さえ村に居れば、ならば父も母も……。
インシャは大きく溜め息をついた。
自分は、ルドスには帰れない。まさか公爵家の人間が、しがない癒やし手とともに異郷の寒村へ赴くはずもないだろうから、たとえエセルが自分のことを追いかけてきたのだとしても、それは全く意味のない行為なのだ……。
ふと、もしかしたら夢だったんじゃないだろうか、とインシャは思った。あの人のことを想うあまり、自分は勝手に都合の良い幻を見ていたのではないだろうか、と。いや、もしかしたら今も夢を見ているのではないだろうか。ぼんやりと靄に包まれたような思考も、ふんわりと地に足のつかない感覚も、ならば全て説明がつく。
そっと軽く頭を振ってから、インシャは今日あった出来事について記憶を辿り始めた。
この城にとめ置かれて何事も無く三日が過ぎた今日の昼前、弟帝が部屋をノックされ……
――弟帝は来なかった。現れたのは兄帝だ。
そう、部屋に兄帝がやってこられた……
あれ? 兄帝が……? 一体何のためにやってこられたのだったろうか……?
――兄帝が現れ、エセル・サベイジが面会に来たことを告げた。
ああ、そうだった。兄帝陛下が、私を呼びに来てくださったんだ。
『エセル・サベイジが君に会いたいそうです』
そう陛下が仰った時、私は嬉しくて泣きそうになったんだ……。
……ということは、やはり夢ではなかったということなのだろうか。インシャはそっと眉をひそめた。ならば、あの人は、これからどうするつもりなのだろうか、と。私は一体どうしたらいいのだろうか、と。
インシャの思考が再び堂々巡りを始めたその時、鏡の中、彼女の背後で影が動いた。
振り返ろうにも、何故か身体が思うように反応しない。為すすべもなくインシャは目の前の姿見を凝視し続けた。
その影は、見たこともないような優しい光を目に浮かべて、そっとインシャの首筋に顔を寄せてきた。
「やっぱり、陛下にお世話になることにしたよ」
エセルはそう言って、彼女のうなじに口づけた。甘い痺れが一気にインシャの全身を駆け巡る。
「隊長……? でも……その、お立場が……」
「いいんだ」
「でも……、隊長……」
「会いたかった」
――私も、です。
その一言を、インシャは心の中で呟いた。
「陛下が、君のことを『魅力的な女性』と言った時、嫉妬で気が変になるかと思ったぞ」
耳たぶにかかる息の熱さに、インシャの体温がみるみる上がっていく。
「城に上がったのは、三日前だと聞いた。その間に何かあったのか、とな」
「そんなこと……」
インシャの身体を満たした熱は、やがて彼女の脳髄をも侵し始めた。視界が狭まり、どんどん頭に霞がかかってくる。少しでも気を抜けば、そのままその場に崩れ落ちてしまいそうで、インシャは膝に力を入れた。
「ああ、解ってるさ。あの麗しき弟帝陛下よりも、この私のほうが良いのだろう?」
くつくつと心底愉快そうに、エセルが笑う。「ヒトというものは、げに不思議なものだ」
「隊長……?」
曖昧さを増す思考の片隅に、針で刺したような小さな痛みが生じた。インシャは必死に気力を奮い立たせると、言葉の意味をエセルに問い質そうとした。
だが、インシャが口を開くよりも早く、頬にエセルの指が触れた。
優しく、だが有無を言わさず、インシャは後ろを向かされた。
そうして落とされる、甘い……甘い口づけ。
「インシャ、……結婚しよう」
その一瞬、インシャの脳裏を影がよぎった。
何か……
何か、違う。
頭のどこかに棘が刺さっているような不快感。
インシャはそっと眉をひそめた。
そんな彼女の様子に気づいたふうもなく、エセルは上機嫌で微笑みかけてくる。
「新年祝賀の宴で皆にお披露目といこう」
違う……。
でも、何が、違うの?
「君のこの髪に似合う、素敵なドレスを用意させよう」
「たい、ちょう……」
手足が自由にならないばかりか、もう、発声すらままならない。すがりつくようにエセルを見上げれば、彼の腕がインシャを優しく包み込んだ。
エセルの体温が、更にインシャの思考を侵食する。
棘が、溶かされていく。
いや……、麻痺させられていく。
そうだ、何も違わない。
この声、この瞳、この髪……。この身体も、全て、あの人の……。
インシャは、陶然と目を閉じた。
それを見つめるエセルの瞳が銀色に光る。
「インシャ、お前はもう、私のものだ…………」
そして、今度こそインシャの意識は、昏い海の底にゆっくりと沈んでいった。
深く……、深く。
「準備はよろしいですか?」
廊下の、天井近くまでを占める大きな窓から、さんさんと降り注ぐ陽光があまりにも耀かしくて、うっかりと季節を錯覚しそうになってしまう。
雲に閉ざされていることの多い帝都の冬。こんなにも見事に晴れ渡った空は、一体何日ぶりだろうか。ルーファスはノックの返事を待ちながら、昂る胸をなんとか落ち着かせようと、大きく深呼吸した。
これは吉兆なのか、凶兆なのか。
――いや、悩むまでもない。瑞兆に決まっている。そうでなければならないのだ。
「ルー、もう入ってもいいわよ」
扉の向こうから響いてきた鈴の音のような声に、ルーファスは改めて居住まいを正すと、扉を静かに押し開けた。
「どう? 上手く仕上がったのじゃなくて?」
年子の姉ユーティアが、ルーファスを振り返って得意そうに微笑んだ。散らかっている衣服や小物を片付けながら、ユーティアつきの使用人達が部屋の隅へと下がっていく。
部屋の中央、姿見の前で立ち尽くしている人物の、茫然自失な表情を見て、ルーファスは思わず盛大にふき出してしまった。
「悪い子じゃないようだし……、どうせ侍女を連れて行くつもりだったから、お父様達も適当に誤魔化せるでしょうけど……」
そこで言葉を切ったユーティアは、弟そっくりの美しい眉を微かに曇らせて、声を落とした。
「私、悪事に加担するのは嫌よ」
「大丈夫ですよ、姉さま。全てはマクダレン皇家のため、カナン家のためです」
「ウォラン家のため、でもあってほしいけど?」
嫁家の名前を口にしてから、ユーティアは片目を閉じた。
「約束どおり、あとでどういうわけなのか話してもらうわよ? じゃ、ええと……リーナさん、そろそろ参りましょうか」
「…………は、はいっ」
慌ててかぶりを振るリーナの、結い上げられた茶色の髪には、ところどころにガラス玉があしらわれている。決して派手過ぎない、だがすこぶる華やかな薄紅色のドレスは、襞の一つ一つが雲母の光を放っていた。衣装に合わせて用意された手袋も、靴も、おそらくは靴下や下着までもが、きっとリーナが一生かかっても手に入れることのできないような高価な代物であるはずだ。
まるで良家の子女のごとく大変身を遂げたリーナは、ともすれば中空に漂いだしそうになる意識を必死で掴み直して、再度大きく頷いた。
「急な我侭を聞き入れていただき、感謝しておりますとお伝えいただきたい」
あてがわれた客間に通されながら、エセルはにっこりと極上の笑みを浮かべた。あの時と同じ宮宰が、少しばつの悪そうな表情でエセルに向かって深く敬礼する。
「我が主から、サベイジ様には十分に便宜をお図りするように、言いつかっております。本日はご友人かたがた、ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「お心遣い、心から感謝する」
宮宰が退出すると、エセルの傍らから大きな溜め息が漏れた。着慣れない黒の礼服に身を包んだ溜め息の主は、緊張のあまり深茶色の髪をかきむしろうとした手を必死で止めて、もう一度大きく嘆息した。
その横では、落ち着いたデザインの萌黄色のドレスを身に纏った女が、覚悟を決めたように背筋を伸ばして立っている。真っ直ぐに下ろされた黄金色の長い髪が、エセルのほうを振り返った拍子に優雅に揺れた。
エセルはそんな二人を見つめながら、不敵な笑みを口元に浮かべた。
今日の新年の式典には、サベイジ家自体は招待されていない。政治向きのことに興味がないエセルにはその理由など想像もつかないが、戦後に一家がルドスに移動したことを考えても、サベイジ家と皇室の間には何か確執めいたものが存在するのかもしれなかった。
――自分が式典に出席するということを知ったら、父はどう思うだろうか。そして、その式典で何をしようとしているか、何に加担しようとしているかを知ったら。
無礼を承知で願い出た同伴者の追加はあっさりと許された。計画は順調に進んでいる。
金糸銀糸で刺繍が施された長椅子に身を沈ませて、エセルは鷹揚に、「ガーラン」「インシャ」と、未だ部屋の隅に立ち尽くしている二人の呼び名を芝居がかった口調で口にした。
「さて、宴の始まりまでもうしばらくだ。二人とも、用意は良いか?」
エセルの声に、二人は黙って頷いた。
「吉と出るか、凶と出るか。せいぜい楽しむこととしようか」
その一瞬、中庭に面した窓を木枯らしが震わせる。冷たく冴え渡った冬の青空を背景に、葉を落とした木々が一斉に梢を揺らし始めた。
一 謁見
楽隊の奏でる軽やかな音色が、辺りにゆったりと漂っている。
華やかな天井画を頂いた「鷲の塔」の謁見の間。煌びやかに着飾った沢山の人々が、笑いさざめきながら、穏やかに談笑を交わし合っている。
時候の挨拶に始まり、お互いの近況、縁談の話、出世の話。最新の話題を問う声に、噂話のひそひそ声。
時折会話を休止しては、楽の音に耳を傾け、ご婦人方のドレスを誉めそやす。
うららかな陽光は広間を春の陽気で満たしていた。
――外は、寒風が吹きすさんでいるというのに。
慣れないドレスに足元を取られながら、リーナはユーティアとルーファスの陰に隠れるようにして、読本や噂話の中でしか知らなかった宴の様子に、ただ目を丸くしていた。
ユーティアの予言通りに、カナン公爵とその夫人は、娘が連れて来た侍女にあまり注意を払わなかった。今現在の彼らの関心は、未だ決まったお相手が見つからぬ次女に集中しているからだ、と姉弟は苦笑していた。
「私みたいに、下級貴族に引っかかったら大変だ、なんですって」
ルーファスと同じように気さくな人柄のその姉は、リーナのことを本当の友人のように扱ってくれていた。流石に、今日初めて会った人間、しかもお貴族のお嬢様相手に砕けた物言いもできず、リーナは随分と無口であったが、場を持たせようとして自分に話しかけてくれるユーティアに対して、大きな瞳に精一杯の感情を込めてひたすら相槌を打ち続けていた。
「気分は大丈夫ですか?」
「あ、うん。いえ、はい。平気です」
明るく返答するリーナに、ルーファスが僅かに眉間に皺を寄せる。
「……その。本当に大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫です」
リーナは目元に力を込めると、きっぱりと頷いてみせた。
昨夜一晩かかって、彼女は可能な限りの下準備を成して来た。あと、リーナに必要なのは、ほんの瞬きほどの時間のみ。それだけあれば、件の呪文は詠唱できる。リーナが「彼の者」を封じさえすれば、憑依されていた人間は自我を取り戻すだろう。そうすれば、彼女達の行為も正しく評価されることとなるはずだ。たとえ一時は狼藉者として捕らえられようとも。
リーナは決意新たに、視線を二人の協力者に巡らせた。
――とにかく、呪文を成功させることだ。私はどうなろうとも、彼らの名誉を傷つけるわけにはいかない。
震える身体を必死で奮い立たせて、リーナはもう一度ルーファスに笑いかけた。
大いなる時がやって来た。
軽快に音を重ねていた楽の調べが静かに止むと、やがて管楽器の独奏が始まった。人々のざわめきが潮のように引いていき、一同が下手へと移動を始める。
玉座にやや近い扉が開き、近衛兵が十二名、整然と列を成して入室してきた。腰には剣を、その手には槍を、儀式部の装飾が施された式帽と式服を着用した彼らは、隊列を崩さぬまま二つの玉座の周りの壁際三辺に等間隔に展開する。
一つ、二つ、音色が重ねられていく。
かそけき音色が、荘厳なる合奏へと編み上げられていく。
誰もが背筋を震わせずにはおられない張りつめた空気の中、遂に扉は開かれた。
「アスラ様、セイジュ様のお成りにございます!」
先触れの声とともに、二人の美しき支配者が臣下の前にその姿を現した。
麗しき兄弟は、それぞれ彼らの補佐官である宮廷魔術師長と騎士団長を伴っていた。
アスラ帝の玉座の傍らに官杖を手にしたロイが立つのを見て、リーナは一瞬絶望的な気持ちになった。最大にして最強の障壁の存在を失念していた、と。果たして、この自分に、先生よりも早く術を起動することができるだろうか……。
「アスラ様、セイジュ様、謹んで新年のお喜びを申し上げます!」
水を打ったように静まりかえった大広間に、長々しい祝辞を読み上げる初老の貴族の声だけが響き渡った。
人々が無言で見守る中、祝いの言葉を受け取った二人の皇帝は互いに軽く頷き合い、アスラが二人を代表するかのように立ち上がった。
その言葉は、絶対なる神アシアスに奉げる祝詞に始まった。平穏に過ぎ去った旧年を感謝して、そして来るべき新年の更なる幸福を祈る。朗々と広間中を震わせる澄んだ声音はまるで歌のようで、その場に居合わせた全員が、ただうっとりとアスラの演説に聞き惚れていた。
「……そして、何よりもの我らが素晴らしき宝は、ここに集う有能にて忠実なる諸君である。新しい年の始まりを諸君らとともに祝うことができることを、我らは心より嬉しく思っている。今日という喜ばしい日を、ともに心から楽しもうではないか!」
そう高らかに吟じて、アスラが優雅に玉座に着く。それを受けて、先ほどとは違う老貴族が、声を震わせながら絶叫した。
「皇帝陛下、万歳! マクダレン帝国、万歳!」
割れんばかりの拍手と、飛び交う祝福の言葉が、高い天井に何度もこだました。
再び楽隊が軽妙に旋律を奏で始める。下座に固まっていた臣民達が、ゆっくりと元いた場所へと散っていく。
静まりかえっていた室内は、再びその陽気さを取り戻した。
玉座におわすお二方の前には、個別の挨拶を求める者達が列を成していた。とりわけ、年頃の娘を連れた貴族達が、必死で兄帝に己が娘を売り込もうとするそのさまは、見る者によっては道化としか言いようがない。
その滑稽な人々の列に、自分の父親の姿を見て、ルーファスは心の中で頭を抱えた。妹はまだ十三になったばかりだというのに、あんな子供を二十も歳の違う陛下に差し出そうと、父は本気で考えているのだろうか、と溜め息をつく。
家名のための結婚。
ルーファスには、身分違いを押しきって想い人と結ばれたユーティアのことが、心の底から羨ましく思えた。尤も、身分違いとは言っても、ウォラン家は末席ながらも貴族の一員である。さもなければ、姉が想いを遂げることなど絶対に不可能だっただろう。
兄が生きておれば。ならば、自分も自由な世界で生き続けられたはずだった。ルーファスは拳を握り締めた。
そうでなくとも、リーナの心は自分のほうを向いていない。彼女の視線は、いつだって、あの、長身の剣士に時空を超えて注がれているのだ。
恋人に捨てられた、と彼女がまだ誤解していた時ですら、彼女の瞳はルーファスをすり抜けてどこか遠いところを見つめていた。帝都へ上がることを快諾したのも、彼に会えることを期待してのことだったのかもしれない。
そして、彼は再び姿を消した。彼女の心を掴み取ったまま。死んでしまったのか、生きているのか、そんなことは既に問題ではなかった。彼女が「生きている」と信じている限り、彼は生き続けるのだ。彼女の心の中で……。
――責任感、連帯感、勘違い。
ルーファスの眼差しが切なそうに揺れる。発端は確かにそうかもしれないが、今なお胸のうちで燻り続けるこの想いを、一体どうすれば良いというのだろうか、と。
温かく、朗らかなリーナ。素直で真っ直ぐで、揺るぎないその姿は、傍らにいる者に安心を与えてくれる。そして彼女の豪快さは、そのまま彼女の寛容さでもあった。どこか懐かしさを感じさせるその印象が、かつての乳母に重なるということにルーファスが気がついたのは、帝都の我が家に帰ってきてからだった。その事実はあまりに気恥ずかしくて、流石の彼も誰にも言っていない。
気持ちを落ち着かせようと、ルーファスは静かに息を吐いた。
たとえ世のためとはいえ、陛下に得体の知れぬ術をかけたとなれば、リーナも自分もただではすまないだろう、そう彼は覚悟していた。咎人の烙印は、カナン公爵をしてルーファスを廃嫡するに充分な代物に違いない。
陛下が「彼の者」のくびきから解き放たれ、その結果罪を赦免されることになろうとしても、こんな破天荒な跡取りは公爵の望むところではないはずだ。今でさえ、ルーファスの本草学「趣味」に眉をひそめている彼ならば、きっと大喜びで三男を新たな嫡男に据えるだろう。
まだ十にも満たない弟のことを思えばルーファスの胸は少しばかり痛んだが、それを振りきるように彼はゆるりとかぶりを振った。「みそっかす」と呼ばれ続けた自分なんかよりも、きっと弟のほうがこの世界に向いている、と。そうして……今度こそ、もう一度彼女に……
は、とルーファスは我に返った。
傍らにいた姉達の姿が無い。
慌てて周りを見まわすと、数丈先で知人と談笑するユーティアの姿が確認できた。だが、その後ろにつき従っているはずのリーナはいない。
胃の辺りが、冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。
――どこだ。
――どこに。
焦るルーファスの視線が、ようやっと人垣の向こうに薄紅色を見つけた。
リーナは、真っ直ぐ玉座へと向かっていた。
早くこの重圧から解放されたい。役目を果たしたい。
ただそれだけの思いを胸に、リーナは前へと進み続ける。
リーナの脳裏に、彼女が知らないはずの太古の映像が結ばれる。
どこかの山道。黒い服の裾をひるがえしながら、足早に歩く「自分」。
木々の向こうに垣間見える、石造りの建物が目的地だ。
与えられた啓示に従い、王に憑りついた彼の者を封印するのだ。
時代も場所も、「自分」も異なれど、為すべき事は変わらない。
勝負は一瞬。
まだ誰もリーナに注意を払う者はいない。
覚悟を胸に刻んで、リーナは玉座に向かって歩み続けた。
と、その時。
「お嬢さん」
突然、若い貴族がリーナの目の前に立ち塞がった。
びっくりして足を止めたリーナに、男は褐色の髪を揺らしながら、爽やかな笑みを投げかけてくる。
「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
「あ、あなたは……確か……ルドスの……」
「エセル・サベイジです。エセルとお呼びください」
女たらしの本領発揮とばかりに、エセルはリーナの右手を取ると、優雅な物腰でその甲に口づけた。
「こんなにお美しい方が、連れも無しにこのような場所におられるのは、感心いたしませんね」
「あ、や、えと、いや……」
「隊長……」
突然、怒りを押し殺したような凄みのある声がして、萌黄色のドレスに身を包んだインシャがエセルの背後から姿を現した。見事なまでに強調された彼女の身体のラインに、リーナは思わず見惚れてしまったが、それも一瞬のこと。
「同伴者にご不満がおありでしたら、私は退出させていただきますが……」
「そ、そんな馬鹿なことがあるはずがなかろう」
一体、何事が起こっているのか、何事に巻き込まれてしまっているのか。リーナは、ただ唖然と口を開けて固まるしかなかった。
「リーナさん!」
そこへ、人ごみをかき分けながら、ルーファスが駆け寄ってきた。「ちょっと待ってください、リーナさん。もう少し機会を待ったほうが……」
そう一気にリーナに語ったところで、ルーファスもエセル達に気がついた。
「……! あ、え、エセル・サベイジ殿……!?」
「久しぶりだな」
アシアスの神殿崩壊事件に関して、彼らがルドスで簡単な取り調べを受けたのがひと月半前のこと。反乱団の首脳が全滅したということで、特にお咎めもなかったわけだが、それでもあまり良い思い出ではない。
そんなルーファスの胸中を知ってか知らずか、エセルが、ふ、と笑顔を見せた。
「この新年の宴に招かれたのは初めてでね。流石は皇帝陛下、素晴らしいおもてなしの数々に、驚くばかりだよ」
あんぐりと口を開けたまま彫像と化してしまっている二人に、エセルはとどめとばかりに更に微笑みかける。
「どうやら、このあとにも興味深い出し物が控えているようではないか。君達も謁見は後回しにして、演者を待ってみてはいかがかな」
その言葉に、ルーファスの眉がひそめられた。
「……どういう意味ですか」
「言葉どおりの意味だよ」
柔和な口元とは対照的に、エセルの瞳が鋭さを増した。そうしてそのまま、ルーファスの至近に顔を寄せてくる。
「悪いことは言わぬ。あのじゃじゃ馬の手綱をしっかりと握っておくことだ。今日の宴の主役はお前達ではない
エセルの言葉が終わりきらないうちに、広間の扉が大きな音を立てて開かれた。
突然の闖入者の登場に、人々は勿論、楽隊までもが一瞬にして黙り込んだ。
「何事ですか」
柳眉を曇らせて、セイジュが腰を浮かせる。息せき切って飛び込んできた宮宰は、ふかぶかと一礼すると、玉座の背後へと小走りで近寄った。再度一礼し、そっと二人の耳元に何事かを囁く。
我に返った楽隊の指揮者が、小さく指揮棒を振って場を仕切り直す。客達も、宮宰のらしからぬ不躾な振る舞いに眉をひそめつつ、再び歓談の渦に身を投じていく。
「門前に? どういうことだ」
アスラの声が、幽かにざわめきをぬった。
数人の客が怪訝そうに皇帝達を見やる中、宮宰はまたボソボソと主君の耳元に口を寄せた。
「何人いる」
「…………」
「警備隊はどうした」
「それが、…………」
何やら興奮した宮宰の様子に、玉座に近いほうの人々の輪からざわめきが消えていった。演奏を再開しようとしていた楽隊達ですら、何事かと固唾を呑んで自分達の主の様子を見守っている。
セイジュが困惑したような表情を浮かべ、何事か兄に語りかけた。アスラがそれを片手で制し……、それから高らかに笑い声を上げた。
「良かろう。丁度良い余興だ。亡国カラントの王を名乗る痴れ者をお通ししろ」
その言葉に、静まりかえった室内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
今は無きカラント国の王子が反乱団を組織していたという話は、公にはされていない。だが、十年前の戦争に先立って帝国によって北方の王国が解体されたという話は、まだ人々の記憶の中に残っていた。そればかりか、旧カラント領を統べていたセルヴァント男爵が、跡目のないままに昨年の秋に亡くなったことによって、彼ら上流階級に属する者にとっては、カラントとは今一番耳目を集めている地名であったのだ。
「しかし、兄さん……」
不安そうな表情で兄を見つめるセイジュに、アスラが凄みのある笑みを返す。それから鷹揚に、背後の宮宰に向かってもう一度繰り返した。
「構わぬ。早う通せ」
「しかし! 兄帝陛下!」
すかさず数人が抗議の声を上げた。だが、アスラは不敵に笑うと、異議を切り捨てる。
「心配は無用だ。通せ。それとも、この私が奴ごときに後れをとるとでも申すのか」
こう言われてしまうと、もはや反論できる者は誰一人として存在しなかった。ただひたすら沈黙する一同を見渡してから、アスラは再度繰り返す。
「捕らえる手間が省けようというものだ。通すが良い。この手で引導を引き渡してやろう。残る雑魚どもはランデからの増援を待って広場に封じ込めよ。
それで、全てが、終わる」
静寂の中、一番下手の扉が開く。
謁見の間の中央を貫く、玉座までの通路を避けるようにして、参列客全員が壁際に後退していた。そうやって開けた細長い空間の端、扉を抜けた人影が二つ。
堂々たる体躯を北方の正装に包んだ長髪の男が、まず一歩を踏み出した。長身の従者がそのあとを追う。
王者の風格を身に纏い、大股で御前へと進み行くのは、誰あろうウルスだった。その髪は黒の染料を落とし、元の燃えるような赤色を取り戻している。
その背後を、同じく北方の衣装に身を包んだサンが追従する。他の招待客同様門で預けさせられたのだろう、腰のベルトには剣は無く、だが、それを補って余りある気迫を瞳に込めて、周囲を警戒している。
針の落ちる音すら響き渡りそうな静けさを破るのは、ウルスの立てる高らかな靴音のみ。
だが、その場に居合わせた誰もが、その時、ファンファーレを聞いたような気がした。
五名の近衛兵が立ち塞がり、ウルス達は玉座から五丈ほどのところで立ち止まった。
「マグダレン帝国皇帝陛下には、ご機嫌麗しゅう。謹んで新年のお慶びを申し上げよう」
ウルスの声が、その見目に相応しい力強さで朗々と辺りに響き渡る。
アスラは気だるそうな瞳で、亡国の王をねめつけた。
「ラグナ・ウルス・カラント、と言ったか。……して、何の用だ。わざわざ挨拶をしに来ただけではあるまい」
「アスラ殿に、お尋ねしたいことがあって、参上いたした」
アスラ「殿」、と言い放ったウルスに、一同がどよめく。
おのれの言葉の効果を充分に確認して、ウルスは得意そうな笑みを浮かべた。それから、彼はやにわに懐から黒い物体を取り出して、前方の床に放り投げる。
何事か、と色めき立つ近衛兵達の足元には、黒曜石を刻んで作られたアシアスの神像が転がっていた。
「このような紛い物を偶像に仕立て上げて、贋の信仰を押しつけて、アスラ殿は一体何を企んでおられるのか、是非とも答えていただきたい」
その不遜な態度を目の当たりにした人々が恐れおののき、大広間中は瞬く間に騒然となった。
――なんと罰当たりな。
――おお、怖ろしい。
そんな声が周囲から口々に漏れる。ウルスは軽く鼻を鳴らした。
「上手く教育したものだが、ほんの十五年前にはこんなものはこの世界に無かったはずだ。だが、アシアスは我々に充分な恩恵をくださっていた。いいや、むしろ、今よりももっと庇護の力は大きかった。あの戦争が招いた混乱で誤魔化されてしまっているが、私は憶えている。今は無きカラントの癒やし手は、実に優秀だった。……彼らもまた、彷徨える果てに、今はその力を弱めてしまっているだろうが」
ウルスのよく通る低い声が、人々の胸中に染み渡っていく。広間のあちこちで息を呑む気配がして、ざわめきは急激に静まり始めた。
アスラが、大きく足を組み直した。至極不機嫌そうな声で、赤毛の王に問い返す。
「聖峰が放ったあの歓喜の炎を、幻だったと言うのか」
「ガーツェを噴火させるなぞ、真の魔術の使い手にとっては不可能な仕事ではないだろう?」
ウルスは尊大に胸を張ると、アスラを下目に見た。
「黒の導師などと出鱈目な啓示を振りかざして神々の巫子を排除し、優秀な術者を帝都へ招へいしては鷲の餌にし、それほどまでに、おのれ以外の力有る者が疎ましいか」
ウルスの背後、サンが唇を噛み、眼前に立ち塞がるかつての同僚達を睨みつけた。
目を覚ませ、と。
おのれを取り戻せ、と。
「兄さん! このような妄言をいつまで許しているのですか!」
「構わぬ。祝いの宴の前座ぐらいにはなるだろう」
激昂して立ち上がるセイジュを片手で制して、アスラは暗い瞳をウルスに向けた。
「続けてみよ」
冷静さをかけらも損なわない兄帝の様子に、ウルスの瞳に更なる炎が点った。
静まり返る一同を前に、ウルスは語り始めた。
「遥か古代に栄えたルドス王国は、黒髪の巫子の統べる国だった。その最後の王が世に広めた古代ルドス魔術は、神々を介さない、禁じ手と謂われる技だった。神々からその恩恵のみを切り離して人々の手に委ねることで、我々は神々から遠ざけられてしまった。そして、忘れ去られた神々は、その力を失った」
何の迷いもないその声は、まるで詩歌のように空気を震わせる。
人々は、事態を忘れて、奏でられる叙事詩に耳を傾けていた。
「何故ルドス最後の王はそのような愚行を行ったのか」
少し間を空け、皆の頭に言葉が染み渡るのを待ってから、ウルスは再び口を開く。
絶妙なる間合いは、支配者としての天賦の才なのだろうか。ここにいる誰もが、ウルスの言葉に引き込まれてしまっていた。
「神と巫子はお互いに影響しあうという。王がそうであったのか、それとも主の神がそうであったのか、彼、もしくは彼らは肥大する征服欲のままに、他者を退けようとした。そのための『禁じ手の術』だったのだ。彼らはそうやって神々への言葉をねじ曲げ、我々の目に他の神が映らないようにした」
密やかなざわめきが、あちらこちらから湧き上がってきた。
「古代ルドス王国が滅んだのは、契約の神を裏切ったからではない。契約の神とともに、世界の理を破壊しようとしたからだ。それをやめさせるために、アシアスが己が巫子に命じて、その元凶を封じ込めたからだ」
ウルスの口角が吊り上がり、犬歯が表情に凄みを添える。
「其の者は白にして、夜明けとともに東からやってくる。
其の者の名はアシアス。昼を司り、命をもたらす者。
彼の者は黒にして、日暮れとともに西からやってくる。
夜を司り、死をもたらす者。彼の者の名は……アスラ!」
高らかに放たれたその名前は、謁見の間の広大な空間に何度も反響した。
「ははははは! なるほど。その邪神が私に憑りついている、と。かつての古代ルドス王国最後の王のように。面白い話だ!」
座したままのアスラが、上体を仰け反らせてからからと笑う。
ひとしきり笑ってから、彼は肘掛に右ひじをつき、憂いを込めた瞳でウルスを見上げた。
「面白い話だが……少しひねりが足らぬ。名前が偶さか同じだからといって、それが一体どうしたというのだ。お主は創作家には向いておらぬようだな」
そう言って、アスラは、右隣に座るセイジュに軽く頷いてみせた。それを受けて、セイジュがそっと片手を挙げる。
二人の皇帝達の周りを固めていた近衛兵が、一斉にウルス達を取り囲んだ。
対してサンが、ウルスを守るようにして、徒手空拳のまま前面に出る。
緊張が高まる兵隊達をよそに、ウルスは事も無げに口を開いた。
「早とちりしていただいては困るな。私の話はまだ終わってはおらぬ」
整然とした包囲網が、僅かに乱れる。サンは油断なく視線を配りながらも、少しだけ身を引いた。
「ガーツェの東、もはや忘れ去られて久しいアシアスの神殿はご存知であろう。十五年前、他でもないアスラ殿が噴火を起こして、破壊しようとした神殿だからな」
その所在に憶えがあったのか、広間の隅のほうで数名の老貴族が息を呑んだ。
「その神殿に奉納されていた三十五年前の木簡には、こうあった。『一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って』と」
そこでウルスは言葉を切った。
そして、そのまましばし待つ。言葉の意味が確実に人々の心に届くまで。
ややあって、ざわめきが潮のように部屋に満ち始めた。
ウルスはここぞとばかりに、腹の底から声を張り上げる。
「はて、御歳二歳のアスラ皇子は一体どこにいらっしゃるのか、いつ、どこから現れたのか! さあ、お答えいただこう、アスラ殿!」
――地面が、揺れている。
ウルスの言葉を聞いた瞬間、激しい眩暈がロイを襲った。アスラの玉座の左後方に控えながら、彼は頭を押さえて不可思議な浮遊感と戦う。
何かが、彼の頭の中で、蠢いていた。
いや、ロイだけではなかった。
その場にいた誰もが、言葉にできない違和感を覚え始めていた。
「戯言も、荒唐無稽が度を過ぎれば……不快極まりないな」
遂にアスラが立ち上がった。眉間に深い皺を刻んで、ウルスを静かに見下ろす。
「セイジュ、兵達を少し下がらせたまえ。喧嘩を売られたのは、私だからな」
恐怖すら感じさせるほどの静寂が、広間を支配していた。
だが、明らかに先ほどまでとは雰囲気が違う。
何かが、…………綻び始めていた。
「ロイ」
名前を呼ばれたロイは、静かに前へと進み出た。そうして、近衛兵達と入れ替わるようにしてウルスと対峙する。
眩暈はまだおさまらない。今、自分の身体を動かしているのは、果たして本当に自分自身なのだろうか。鈍く麻痺したような心が、ロイの中で微かな疑問を抱いている。
赤毛の主を庇うように、サンが前へ出た。それを見つめるロイの眼差しが、ふと遠くなる。
――かつての教え子の一人。懐かしいイの町の。
「ロイ、君がやりたまえ。私の代わりに」
アスラの声に誘われるようにして、ロイは両手を前へと差し出した。
――そうだ、彼が自分の主を守るように、私もまた我が主を守らなければならない。恐るべき姦計で国家転覆を謀ろうとする彼らの魔の手から、陛下を、この国を守らなければならない。
ロイは両手をひらめかせた。紡ぎ出すのは、「雷撃」の呪文。
歯を食いしばるサンの表情が、その一瞬恐怖に歪んだ。
呪文が完成する直前、ロイの耳が聞き憶えのある旋律を微かに捉えた。
その調べの正体に思い当たった時には、ロイの声は失われてしまっていた。詠唱が強制的に中断させられ、間際で力場が霧散する。古代ルドス魔術「沈黙」の術が、大魔術師の声を奪ったのだ。
――不発だと?
瞬く間に、憤怒がロイの胸の内に湧き起こった。
この私が、他人に術をかけられてしまったというのか?
この私が、「沈黙」などという初歩的な術に後れをとったというのか!?
一騎当千の大魔術師と謳われた、帝国最高位の術者である、この私が!
ロイは怒りのままに印を結び、なんと、言の葉の力を使うことなく自分にかけられた術を破った。それから、術が投げかけられた方向を見定めると、すかさず「炎撃」を唱え始めた。
不穏な気配を察した人々が、我先にとその場から逃げ出し始める。崩れゆく人垣の向こう、萌黄色のドレスを身に纏った女が、長い金髪をたなびかせながら印を結んでいた。
次の瞬間、ロイが放った炎の矢が、大きな「盾」に阻まれる。
「お前は……、まさか……」
驚きのあまり茫然自失に陥るロイとは別に、ロイの中の何かが再び呪文を唱えようとする。目の前の敵を排除せよ。心の内に響く声に衝き動かされるようにして。
その刹那、ロイの背後の人垣から黒い影が一つ飛び出した。
黒の礼服に身を包んだ男が、深茶色の長髪をひるがえしながら、迷いなくロイの延髄を狙って蹴りを繰り出す。反射的に身をひねって攻撃を避けたロイの頬を、靴のつま先が掠めた。
弾き飛ばされたロイの眼鏡が、虚空に大きく銀色の弧を描いた。
二 黒髪
全てが、時間さえもが静止してしまったようだった。
チリン、と小さな音がして、銀色の輪が大理石の床の上に転がる。
「偽装」の指輪を捨て去ったレイが、漆黒の髪に戻って立っていた。先ほど放った蹴りのためか、少し息を荒くして、黒の礼服の喉元を緩める。
ロイをはさんだ反対側では、シキが黄金色の鬘を脱ぎ去るところだった。白い肌に漆黒の髪が鮮やかに映える。身体をゆったりと包み込む萌黄色のドレスが、短めの髪と相まって、どこか幼さを感じさせていた。
硬直する人々の陰で、エセルは満足そうに口角を上げた。
二人を随行させるに際して、ガーランはともかくインシャの名を使うことについては、思いきりが必要だった。だが、余計な工作に費やせる時間も、自由になる手駒も無い以上は仕方がない。そういうわけで、エセルは賭けに出ることにしたのだ。本物のインシャの存在が役人達に秘匿されていることを逆に利用して。
案の定、同伴者追加の手続きは滞りなく行われた。インシャが宿の荷物に通行手形を残しておいてくれていたのは、幸いだった。そうでなければ、さしものエセルも、もっと強引な手段を使わなければならなくなったに違いない。
宴の始まる直前に、エセルのもとへとインシャを連れてきた使用人も、彼女の名前を知らされていないようだった。尤も、その時既に偽者達は人波の中へと紛れてしまっていて、たとえ話がこじれたとしても、エセルは知らぬ存ぜぬで白を切るつもり満々だったのだが。
五日前の謁見のあと、エセルとガーランは、シキとレイの二人と安宿の一室で小さなテーブルを囲んでいた。
隊長が城へ向かったすぐあとに、シキが声をかけてきたんだ、とガーランは語った。死んだと思っていた人間が目の前に現れたことで、彼は心底驚いたらしい。
「……どうやってあの崩落から逃れたのだ?」
エセルもまた、幽霊でも見るかのような目つきで、シキに問うた。
「奥の神殿の中に逃げ込んだんです。造りがかなり頑丈そうだったし、あの巨大な空間を『盾』が作り出したのなら、術の発動の中心部分が一番天井が高い――つまりは天井が薄い――と思ったので」
神殿の特殊な石組みが、魔術による探知を妨げていたのだろう、シキはそう言って何か専門的な言葉を幾らか口にしたが、魔術に関心のないエセルはそれを軽く聞き流して、質問を続ける。
「カラントの王子と従者も、無事なんだな?」
「従者?」と、これ見よがしにふき出す連れを小声でたしなめ、シキが大きく頷いた。
「はい、無事です」
「……前の宮廷魔術師長は……?」
「老師は……」
シキが目を伏せた。その仕草の示す意味を読み取って、エセルは知らずテーブルの上に置いた両手を硬く握り締めた。
しばしののちに拳を開き、エセルは一番訊きたかった問いを口にした。
「それよりも、インシャのことだ。『無事』というのは、一体どういう意味だ」
エセルの視線を受けたガーランが、少し困ったような表情を作った。
「あ、いや、俺もまだ充分に理解したわけじゃ……。悪い、シキ、もう一度、今度は隊長に教えてやってくれないか」
その言葉を受けて、シキが淡々とこれまでの出来事を説明し始めた。
シキが、サンが宮城から逃亡するに至った原因について言及したところで、エセルは真っ青な顔で椅子を蹴って立ち上がった。そのまま血相を変えて部屋を飛び出そうとするのを、ガーランが羽交い締めにして引き止める。
「放せ、ガーラン! 早く行かねば、彼女が……インシャが……!」
「落ち着け、隊長! 早まるな!」
「これが落ち着いていられるか!」
「何か手立てがあるのか!?」
「そんなもの、あるわけなかろう!」
いい加減にしろ、とガーランが叫びかけたところで、凛とした声が背後から二人に投げかけられた。
「副隊長は、きっと大丈夫です」
その声に、エセルが辛うじて我を取り戻す。
「……何故だ。何故そう言いきれる」
「隊長が、城で副隊長と会ったから、です」
エセルが大人しくなったのを確認して、ガーランが腕をほどく。二人は神妙な面持ちで再びテーブルについた。
「どうやら、皇帝は、癒やし手狩りについてあまり公にしたくないと考えておられるようなのです。現に、先月に帝都に召喚されたイの町の司祭は、未だここ帝都で健在です。謁見の際にタヴァーネス先生に偶然出会ったことで命拾いしたのでしょう。
ですから、隊長が乗り込まれたことによって、副隊長の安全も当分は確保されたと思います」
大きな溜め息が、男二人の口から漏れた。
それに、現状では確かに手出しのしようがないのだ。先刻、自分の前に立ち塞がった近衛兵達の身のこなしを思い出し、エセルは奥歯を噛み締めた。とりあえずインシャの無事が確認できた以上は、様子を窺うしかないのだろう。
落ち着きを取り戻したかつての上司と同僚に向かって、シキは、アシアスの神殿で見聞きした事を全て、順を追って説明し始めた。
ガーツェの噴火が不自然なものであるということ、名も無い術者によって神殿が守られたということ、肉体が滅んでもなお存在しつづけていた黒の導師、その彼が語った古代ルドス王国最後の王の物語、古代ルドス魔術の真実。……そして、彼の者について。
「あの崩落のあとに、私達は神殿の奥の祭壇で沢山の木簡を見つけました」
シキは、語り続ける。
「それらの木簡は、どれも命を司るアシアスの加護を求めて、奉納されたものでした。家族の健康を祈念する札の中、自分が仕えている主について記されたものも幾つかあり、そのうちの一つにはこう書いてありました」
息を継ぐシキに代わって、レイがその続きを引き取った。
「マクダレン家の繁栄を祈って。一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って」
宙を舞った眼鏡が、少し離れた床に落ち、跳ねる。
砕け散ったレンズに、キラキラと無数の光が宿る。
突如、ロイの身体を雷にも似た衝撃が打った。
激しい痛みが、四肢を駆け巡る。
込み上げる吐き気。
脂汗を流しながら、ロイは床に膝をついた。激しい動悸に襲われて喘ぐような呼吸を繰り返していると、ふと、視界が暗くなった。
――なんだ?
突然辺りが翳ったことに驚いて、ロイは荒い息のまま顔を上げた。
室内には冬の陽光が眩いばかりにさんさんと差し込んでいる。それにもかかわらず、眼前が昏く霞んでいた。
霞んで……、いや、違う。
影が……揺れている。目の前で。
「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ。どうだ、客をとってみないか?」
遠い昔の記憶の中、下品そうな男の顔がロイの眼前に迫ってくる。彼はスラムの元締めで……。
「冗談! オレはそんなの真っ平ごめんだからな!」
「ま、そうだろうが……、しかしお前のその……は、ちょっとしたもんだぞ」
「勝手に言ってろ!」
違う、影ではない。視界の一番手前で揺れているのは…………
元締めが手を伸ばしてくる。ねっとりと自分の髪を撫でまわす指。湧き起こる嫌悪感を押し殺しながら、少年のロイは必死で平静を装う。
その手が、ふ、と消え失せる。
ロイが驚いて目を開ければ、母親と山賊たちの血を吸った石舞台から、黒い霧が染み出してくるところだった。それはゆっくりとひと所に集まって、アシアスの神像と瓜二つの人型をなした。
「すごいじゃないか、この歳でこんな術を起動させることができるとは」
それが誰であろうかなど、考える余裕は微塵もなかった。母の身体を抱き起こしながら、ロイは必死で救いを求める。
「お願いです……、かあさんを……、母さんを助けて!」
「ああ、そうか、気の毒に。でも、お陰で我は晴れて自由の身だ。感謝するよ」
あまりにも冷酷な笑みに、ロイは一瞬にして奈落に突き落とされた。
そうして、気がつく。その禍々しい気配に。
「……く、来るな!」
ロイの絶叫に、再び風切り音が湧き起こる。少年の手に握られた古めかしい杖から、見えない刃が、人型に向かって放たれた。
「風刃」によって切り刻まれたにもかかわらず、人型はそのままロイのほうへ近づいてくる。
「無駄だよ。それより……」
影に彩られた指が、ロイの眼前に伸びてくる。「二発も撃てる『力』があるのか。気に入ったぞ」
顎をすくい上げられて、ロイは上を向かされた。
「力が欲しい、と言っていたな。……お前、我がものになれ」
氷のように冷たい唇が、ロイの唇に重ねられる。
「さすれば、力を授けよう。その代わり――」
その声が養父の声と重なった。
「――その代わり、強くなれ。どんなに大きなものでも呑み込めるほどに。そして――」
その顔がアスラの顔を形作る。
「――そして、我が依り代となれ…………!」
「なるほど。『偽装』の指輪か。気がつかなかったな、お前が我と同じ方術を使っていたとは……」
沈黙を破るのは、アスラの澄んだ声。その視線はシキに注がれている。まったき黒髪に戻った、シキの姿に。
同じ方術。
床に転がる「偽装」の指輪。
顔を巡らせば、レンズが砕け智が外れた眼鏡がロイの視界に飛び込んでくる。養父が彼にくれた、二人の絆だという眼鏡は、レイの蹴りと落下の衝撃を受けて見るも無残に破壊されてしまっていた。
ロイの脳裏に再び浮かび上がる記憶。
元締めが手を伸ばしてくる。ねっとりと自分の髪を撫でまわす指。
そうしながら、彼は、うっとりとこう呟いたのだ。
『ああ。こんなに綺麗な黒髪、見たことない』と。
アスラは、悠然と一歩を踏み出した。
「私を裏切ってまで、彼女を守りたかったのか」
そして、また一歩。
その圧倒的な力の気配に、シキもレイも思わず数歩あとずさる。
更にもう一歩を進んで、アスラは歩みを止めた。
ウルスとサン、シキ、レイ、そしてアスラ。床にくずおれるロイを中心に、四つの頂点が菱形を成した。
「ロイ、君ほどの頭脳の持ち主が、このような判断をくだすとはな。ヒトというものは、げに面白い」
衝撃の波が去り、ようやく静まり始めた呼吸とともに、ロイが顔を上げる。緩やかに波打つ漆黒の髪を揺らして。
禍々しき存在は、息を呑むほどに美しい笑みを浮かべて、己が補佐官を見下ろしていた。
「元々才能が有ったんだろうがな、その強大な魔力は私が与えた。アスラの名の下に、大いなる祝福を。我が愛しい黒髪の巫子、ロイ・タヴァーネス!」
「よもや、このような事態になろうとはな。こういう結末は想定外であったが……悪くない」
凍てつくほどの静けさの中、時折風が揺らす窓ガラスの立てる音だけが、彼の言葉に微かに相槌を打つ。
「そうだな。一番の計算違いは……ザラシュ・ライアン、あ奴が十五年前に我から逃れ、生き延びたことにあるのかもしれぬ」
ふと、窓の外を見やってから、アスラは、どこか楽しそうに言葉を継いだ。「しかし、あ奴でなければ、ロイ、お前をこれほどまでの術者には育て上げられなかったであろう。諸刃の剣とはこのことか」
次にアスラは、ロイの向こう側に立つウルスに視線を投げた。
「亡国の王子よ。貴様の言葉には一つ誤りがある」
凄みを増したその声を聞いて、ウルスは思わず半足を引いた。
「神と巫子はお互いに影響しあう、と言ったな」
さしものウルスも、この凄まじいまでのアスラの気配には圧倒されるばかりなのだろう。言葉もなく、ただ顔を背けまいとするだけで精一杯の様子だ。
「愚かな。この私が、ヒトごときに何を及ぼされると言うのか。この私が、彼奴を動かしたのだ。間違うな」
「そうでしょうか」
凛とした声が、空を切る。シキは、精一杯胸を張って、朗々と言葉を紡ぎ出た。
「『我々は、ただ在るべき存在だ。それ以上でもそれ以下でもない。自らに仕えし者の言葉を聞き、ただその者を守るのみ』……貴方を封じた者が聞いたというアシアスの言葉です。
貴方が支配者であることを望んだ時点で、既に貴方は神ではなくなっているのではないですか。何故なら、それは……間違いなく、我々の側の発想だからです」
その一瞬、アスラの気配が緩んだ。
「……彼奴は貪欲な人間だった。この大陸のみならず、世界を手中に収めようと望んでいた。私はその願いに答えたに過ぎない」
「なら、別に呪文書なんて広める必要なかったんじゃねえか」
シキのあとを継ぎ、今度はレイが口を開く。大きく息を吸い、ゆっくりと、噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。
「いや、そもそも、ルドス王国はもう存在しないんだぜ?」
永遠とも思える刹那が過ぎる。
アスラが、ふ、と笑った。それから大仰な動作で振り上げた右手をおのれの胸に当てる。
「いいだろう。認めよう、これは私の意志だ。私自身が、世界の支配者を望んだのだ!」
「あの時、ヴァネーン郊外の我が神殿の跡地にて流された血と、ロイ、お前の力が、私を封印から解き放った」
悄然と床に座り込むロイを見下ろしながら、アスラは語り始めた。
「驚いたよ。年端も行かぬ子供が、道具を介してとはいえ高位の術を発動させ、そればかりか、この私を現世に引き戻したのだからな」
そこで言葉を切ると、アスラはゆっくりと右手を掲げた。天窓からさんさんと降り注ぐ日の光に手を翳す。
「尤も、まだ完全ではない……私の大部分はまだあの石の下だ……」
何かを懐かしむような眼差しで、アスラは視線をロイに戻した。
「私が封を完全に解くためには……私自身の力を自由に使うためには、器が必要だ。ヒトの姿を形作るのは楽な仕事ではない。私を容れる大きな器が必要なのだ……」
「だから、あなたは、私を……」
絶望の眼差しを上げるロイを、アスラの首肯が打ちのめす。
「器が出来上がるまで、私はこの国の最高権力者に身をやつすことにした。『異教』を排除し、『神像』を使って、私は祈りの力を全てこの身に集め、復活の時を待ち続けたのだ。微かにこの世に残るあ奴の気配を消すことは叶わなかったが、忌々しいあの神殿は岩の中へと封じることができたしな」
そこでアスラの口元が歪んだ。
「だが、どうやら私は、器を頑丈に作り過ぎたらしい。大きさも深さも申し分ないのだが、お前は私の手を振り払って去っていってしまった。やっと手元に戻ってきたかと思えば……余計なものに心を奪われている始末だ」
そう言って、アスラは忌々しそうな視線をシキに投げた。「もっと早くに彼女が巫子だと気づいておれば、賊の手になど渡さなかったものを」
「まさか、あなたが黒の導師の正体を明らかになさらなかったのは……」
「予備の器になり得るかもしれぬ者どもを、わざわざ殺させることはないだろう? 尤も、真の信仰を失いつつある現代において、どれだけの巫子がこの世に残っているのか知れたものではなかったがな。あ奴の気配が強くなることでもあれば話は別だが、幸いそのようなこともなかったしな」
二月前のルドスで聞いた、慈悲深い言葉が全てまやかしであったと知り、ロイは思わず膝に爪を立てた。あの時、アスラはロイにこう言ったのだ。無意味な「人狩り」を避けるため、無辜の民のいのちを守るため、黒の導師について具体的な言及を避けたのだ、と。
「お前が我が元を去った十年間、代わりは無いものかと色々試してみたのだが、ルドス王の末裔どもは話にならなかった。高位の術師ならば、とも思ったが、それも悉く無駄に終わった」
「やはり、俺が鷲の櫓塔で見た死体は、陛下――いや、貴様の仕業か!」
怒りに身を打ち震わせて、サンが咆哮する。その剣幕を歯牙にもかけずに、アスラは優雅に微笑みで返した。
「癒やし手どもを集めるのは、簡単に大義名分が見つかったものだが……、魔術師の場合はそうはいかぬのが残念だったよ」
眩い明かりに満たされる謁見の大広間。だが、そこには闇よりも昏い気色が広がっていた。己が存在すら不確かに思えるこの空間で、誰もが恐ろしい予感に打ち震えていた。
そうだ。……終末は、近い、と。
「さて、ザラシュ・ライアンはもうこの世にはおらぬ。そこな二人の未熟な巫子には、とうてい我を封じることなど叶わぬだろう? 諦めて…………もう一度皆で夢を見るが良い」
アスラの足元に、脱ぎ捨てられた手袋が落ちる。
細くしなやかな指が、楽器を奏でるかのごとく空中にひらめいた。
安宿の一室。テーブルに身を乗り出したエセルが、神妙な顔でシキ達に問いかける。
「勝算はあるのか?」
「憑依などではなく、神そのものがヒトとして具現化しているのならば、それ相応の武器ならば傷つけることが可能のはずです」
悠然と両目を閉じ、何事かを呟きかけたアスラの動きが止まる。
怪訝そうに瞼を開いた彼の者は、眼前を横切る黒い影を追って、視線だけを微かに走らせた。
レイが、シキの傍らに駆け寄っていく。
シキが、両手を自分の首の後ろにまわす。
萌黄色のドレスの足元。ゴトリ、と鈍い金属音が大理石の床を響かせた。
すかさず身を屈めたレイが、それを拾い上げる。
「相応の武器?」
エセルの問いに、シキは静かに頷いた。
「そう、例えば……、今は失われた先人の遺物、古の魔道の武器ならば」
レイが、拾い上げたユエトの大剣を握り、大きく振りかぶる。
サンが、地を蹴る。
「行けえ! サン!」
レイが放り投げた剣を、サンの左手がしっかりと掴み取った。
三 終焉
サンが、風のように走る。
鞘を投げ捨て、流れるような動作で刃をひらめかせ、駆けながら剣を構える。
それは僅かまばたきの間の出来事だった。
古の秘術で造り上げられた大剣は、煌く陽光をその刀身に鈍く映し込んで、真っ直ぐ虚空を突き進む。
アスラを――彼の者を目指して。
彫像がごとく立ちすくむ人々の後ろ、リーナは固く両目をつむった。左手首に人知れず絡ませた硝子の首飾りを、手袋の上から握り締めて、祈る。ただ、祈り続ける。
――ああ、どうか、どうか……彼にアシアスのご加護を……!
この日のために幾度となく繰り返された調練。アスラが防御するよりも早く、サンの身体がその懐へと飛び込んでいく。
ヒトの肉体に縛られた、ヒトならざる存在は、ただ為すすべもなく襲撃者をその身体で受け止めた。
両手を大きく広げ、まるで自らその刃を迎え入れるかのように。
渾身の力を込めた一撃が、真っ向からアスラの肉体を貫いた。
おのれの為した行為が生んだのは、喜悦よりも畏怖に近い感情だった。震える両手でしっかりと剣の柄を握り締めたサンは、アスラの胸元に自らの身体を押しつけたまま、しばらくの間顔を上げることができなかった。
確かな手応え。
鉄錆の臭いに少し遅れて、ぬるりとした感触が剣をつたってくる。
目線を床に落とせば、次第に大きくなる血だまりと、自分達の影が見えた。破魔の剣に串刺しとなったアスラの影が。
――これで、終わりだ。
人殺しだろうが、神殺しだろうが、その汚名は甘んじて受けよう。サンは意を決して、剣の柄を握り直す。血糊にぬめる両手に力を込めて……下方へ力をかけながら刃を引き抜いた。
アスラの身体が、ぐらりと傾いた。そしてそのまま静かに崩れ落ちる。
ゆうるりと、まるで天空から舞い落ちる一枚の羽のように、彼の者は前のめりに床にぬかづいた。
大理石の床面に緋色が広がっていく。
禍々しいほどの赤がサンの足元に押し寄せてくる、と思いきや、その鮮烈な色彩は見る見るうちに失われ始めた。黄昏時の空のように、朱が紺へ、紺が漆黒へと変色する。
人々の列から、大きなどよめきが湧き起こった。
言葉もなく立ち尽くすサンの目の前で、流れ出でた血潮ばかりかアスラの肉体にも、驚くべき変化が訪れていた。金糸をあしらわれた豪奢な頭髪も、白磁のような頬も、袖口から伸びる優雅な手も、全てが闇の色に置き換えられていく。
やがて、がさり、と微かな音とともに、アスラの身体はマントの下でその嵩を減じた。
静かに散り始める、黒い霧。
辺りに飛び散った血も、床に流された血も、さらさらとした漆黒の砂と化し、そしてそのまま空気中に溶けるようにして霧散していく。
かつて万人から敬意を以って兄帝と呼ばれた存在が、
絶大なる力と智慧と、そしてその美貌で人々を魅了した存在が――
――塵に還っていく……。
その様子を呆然と見つめていたサンの胸中に去来する、違和感。
血塗れていたはずの、今は微塵の汚れすら付着しておらぬおのれの手を見つめながら、サンは、自分を内部から侵食する不吉な思いに苛まれていた。
「やったな! サン!」
興奮から頬を紅潮させたレイが、サンの背中を叩いた。だが、サンは微動だにせず、じっと己が手のひらを見つめ続ける。
「……どうした? サン?」
思いつめた表情でサンは顔を上げた。視線の先ではレイが、これ以上はないというぐらいに上機嫌な笑みをこぼれさせている。
「……いや、なんでもない」
あの一瞬、アスラは刃に向かって、自ずから大きく胸を開いたように思えた。
そして……、微かに口角を上げたように見えた。
ようやく自らを取り戻し始めた群衆がざわめき出す。驚愕や、混乱、不安を誤魔化そうとすべく、皆口々に傍らと言葉を交わし合っている。無数の囁き声がうねるようにして広間中を席巻するさまは、まるで木枯らしに鳴く森の木々のようであった。
「良くやったな、サン」
背後からウルスの声が近づいてくる。
サンは、言い知れぬ不安を無理矢理胸に仕舞い込んで、静かに赤毛の主を振り返った。
「……どういうことだ?」
搾り出すようなセイジュ帝の声に、再び人々は口を噤み始めた。
「これは一体、どういうことなのだ? 今のは何だ?」
ふらり、とセイジュが玉座から立ち上がる。すかさず差し伸べられた騎士団長の手を振り払い、今や唯一無二の存在となったマクダレン帝国皇帝は、よろめきながらも歩みを進めた。人型をなしたまま床に重なる衣服――兄と呼んでいた者の残滓――に向かって。
「兄さんは……、兄さんではなかったのか? ならば、本物の兄さんは一体、どこへ……?」
人々が息を呑んで見守る中、セイジュはくずおれるようにして、緋色のマントの傍らに膝をついた。おそるおそる伸ばした手が、布地越しに冷たい床に触れ、その中が紛れもなく空虚であることを彼に思い知らせる。
「どこへ、消えたのだ? 兄さん……、兄さん…………!」
「セイジュ様!」
年老いた貴族が、人垣から一歩進み出た。声を上ずらせながら、酷く興奮した様子でセイジュに向かって言葉をかける。
「セイジュ陛下! わ、私は……憶えておりまする。いや、思い出しましたぞ……! 前の皇帝陛下は、たった一人の御子しかお授かりにならなかったのです…………」
その声に、セイジュはまるで雷にでも打たれたかのように、びくり、と身体を震わせた。憔悴しきった面を静かに上げ、老貴族のほうを見上げる。
「ですから、我々は、なんとしても殿下が、無事に、元気にお育ちあそばすように……、日々お祈りをお捧げいたしたのです……!」
『一粒種のセイジュ皇子の健やかな成長を願って』
三十五年前の当時、ナナラ山脈の向こうは他国の領土であった。「刃境湾」の航路も整備されていない中、細々と語り継がれてきたアシアスの神殿に木簡を奉納すべく、名も知らぬ「彼」は、天険を越えたのだろう。その祈りは、それほどまでに切実だったのだ。
「そうだ! 陛下の十年目の錫婚式には、殿下は一人でお二人の間にお座りになっておられた!」
別な貴族が感嘆の声を上げる。それを皮切りに、年配の貴族達の、封印されていた記憶が次々と解き放たれていった。
「いつから……、一体いつから……!?」
「セイジュ様が六つの時は、まだお一人であった!」
「そのあとです! そのあとに、突然アスラ様が……」
「そう、突然にあの方……あの者が現れた……」
「何故、誰も疑問に思わなかったのであろうか! そもそも、皇帝陛下が二人も即位なさるなど、ありえないものを!」
「一体、我々はどうして……、なぜ……」
「なぜ、我々はそんな重要なことが解らなかったのか……!」
口々に喚き立てては騒ぐ一同に、冷ややかな声が投げかけられた。
「地に堕ちたとはいえ、仮にも神だ。それぐらいの芸当などたやすかろう。貴様達は揃いも揃って、長い夢を見ていたのだ」
一同は、軽く息を呑んで、ウルスを振り返った。
三十年の長きに亘る茶番劇に幕を引いた立役者。
征服され、滅ぼされた国の忘れ形見にして反逆者、という汚名は、僅か一時の間に百八十度逆転してしまっていた。自称「黒の導師」は、今や、邪神の企みを白日の下に晒し、帝国を未曾有の危機から救った英雄である。
だが、ウルスの口調はあまりにも冷たかった。
握手を交わし、感謝の意を表明すべきなのかもしれない。諸手を挙げて、褒め称えるべきなのかもしれない。しかし、未だ抜き身のような闘志を収めることもなく、鋭い瞳で周りをねめつけるウルスの様子は、とても「味方」と呼べるようなものではなかった。彼の本心がどこにあるのか見出すことができずに、人々はただ無言でウルスを遠巻きに見守るばかりであった。
「夢……。本当に、夢だったのでしょうか」
彼の者と同じ顔で――いや、彼の者こそが、その姿を模倣したのだが――セイジュが身を起こす。
「そうだ。夢だ。だが、そのお蔭で、俺は国を失った。多くの家臣も、民も。家族も、家族となるはずだった人も」
ウルスの声を彩るのは、冷酷さよりも悲痛さであった。ほんの少しばかり、何かを懐かしむ色を瞳に浮かべ、それから彼はセイジュを正面から見下ろした。
「そして、貴様達もまた、多くの血を流した。繁栄と引き換えに神さえも失うところだった。……随分な悪夢ではないか」
「貴方は……、我々を救うために来られたわけではなかったのですか」
「そうだな。貴様達がどうなろうと俺の知ったことではないが、この国の此方彼方に散らばったカラントの民と、彼らと交わった無辜の民が、苦渋を強いられるのは、看過できなかったからな」
ウルスの言葉を聞き、ゆっくりとセイジュが立ち上がった。そうして、真っ向からウルスの視線を受け止める。
「…………ありがとうございます」
一呼吸のち、ぎこちないながらも頬を緩ませるセイジュに、ウルスは大きく両眉を跳ね上げた。
「どういうつもりだ」
「我が民を救おうということは、我が国を救おうということ。そして、それは、この私をも救おうとしてくださったということだからです」
露骨に鼻白んだ様子を見せてから、ウルスは口元を歪ませた。
「なるほど、流石に矢面に兄君を立たせていただけのことはある。稀代の名君は、随分と腰が低くていらっしゃるようだ」
「無礼者!」
騎士団長が、まさしく怒髪天を衝く形相で声を荒らげた。「セイジュ様がどのようなお気持ちで、どれだけ国のために尽くしてくださっているのか、貴様は……」
「兄と名乗る者の暴走を止めることもなく、な。自分の名を騙っての悪事に気がつくこともなく、な! 人当たりと愛想の良さは認めてやろうが、とんだ名君だ。違うか!」
顔を真っ赤にさせてなおも反駁しようとする騎士団長を、セイジュが遮った。それから再びウルスのほうに向き直り、訥々と言葉を返す。
「兄が切り拓き、私が地ならしをする。そうやって我々は各々の役目を果たしてきました。政の全てをあの者に委ね、深慮することもなくあの者の言葉に従っていました。自分には為し得ない、そう諦めてあの者を頼りきっていたのは間違いありません。そう、いつだって私はあの者の陰で、直接嵐に晒されることもなく、ぬくぬくと過ごしていました。貴方の仰る通りに」
その、強い眼差しに、ウルスは微かに目を細める。
「ですが、私にも矜持はあります。礼を言うべきを言わぬのは傲慢不遜、詫びるべきを詫びぬのは無礼尊大。ですから、何と言われようと、私は貴方に感謝の言葉を捧げるでしょう。それを素直に受け取れぬというのならば、貴方の器もたかが知れているというものです!」
珍しくも語気荒く言い放ったセイジュに対して、ウルスはほんの刹那目元を緩ませた。それから、わざとらしいほどに胸を反らせて大笑いする。
「こいつはいい! 一国の元首とあろう者が、なんとも軽々しいことを言う!
皇帝がそのような態度では、つけあがる者が出るぞ。感謝の意を形で示せ、と言われたらなんとする?」
「ならば、耳を傾けましょう。期待に沿えるとは限りませぬが」
「その決断が貴様にできるのか。守ってくれる者はもう居らぬのだぞ」
「だからこそ、です」
今度こそ、セイジュは大きく胸を張った。「私は、マクダレン帝国の皇帝です。弟帝ではありません」
セイジュの声が、張りつめた空気を切り裂いて、居並ぶ人々の胸を貫く。
やがて、割れんばかりの拍手とともに、セイジュを讃えるシュプレヒコールが広間のあちこちから、湧き起こった。
「それで、貴方の望みは何でしょうか」
周囲が興奮の坩堝と化していた間も、セイジュは片時もウルスから視線を外さずにいた。そうして、静かに問う。
それに応えて、ウルスは悪戯っぽい笑みを微かに口元に浮かべた。
「我が領土を、返してもらおうか」
今度は、セイジュが目を細める番だった。
「セルヴァント亡き今、新たな紛争の火種にしかなりえない土地だ。しかも、邪神の姦計で摂取した土地だろう? 我が手に返されてしかるべきだと思うがな」
「……貴方は、実に頭の良い方だ」
「それが解るのならば、貴公もなかなかのものだ」
二人の君主が、意味ありげな視線を交わし合う。ややあって、セイジュは大きく息を吸うと、高らかに宣言した。
「宜しい。貴方にセルヴァント領を移譲、いや、旧カラント領を返還しよう。そして、今度こそ、真に我が盟邦となってはもらえないだろうか」
ざわめきが一気に辺りに満ち溢れる。だが、声を上げて異議を差し挟む者は、一人としていなかった。
ウルスは、満足そうに鼻を鳴らし、それからセイジュに右手を差し出す。
十二年前、平和を願うセイジュの進言で、為されようとした和平。だがそれは、奸臣と邪神の手によって、あっけなく握りつぶされてしまった。
あれから幾星霜。二つの国は、ようやく固い握手を交わすことができたのだった。
ウルスとの会話を終えたセイジュは、次に優しい瞳をサンに向けた。
「貴方のことは、良く憶えています。確か、一昨年の秋の試合で優勝していましたね」
まさか自分にまで声がかかるとは思っていなかったため、サンは酷く狼狽して、それから慌てて最敬礼をした。
「あの者の秘密を知って……城から逃れたのですね。さぞかしつらい思いをしたことでしょう」
ねぎらいの言葉に、期せずしてサンの胸の奥が熱くなる。
「過去の遺恨を乗り越えるのは、お互いにつらいことかもしれませんが、私は貴方に城に戻ってきてほしいと思います。いかがでしょうか」
言葉もなく立ち尽くすサンの肩が、ぐい、と後方に引かれる。驚いて顔を上げた先では、ウルスが不敵に笑っていた。
「こいつは、俺のだ」
ほお、と感心するような、面白がるような表情を、セイジュが浮かべた。
「カラントに連れて帰る。だからこの城に戻ることはない」
「……そうなのですか」
「……あ、そ、そのよう……です……」
サンは諦めの溜め息を呑み込んだ。当人をよそに、二人の巨頭が勝手にその処遇を決定していくということに対してもだが、何より、こんな状況を悪しからず感じてしまう自分を自覚してしまったからだ。
――これが、あいつの言う「下っ端体質」というヤツなのか……。
深々と礼をしながら、ちら、と目線を巡らせば、にやにやと笑うレイと目が合い、サンはもう一度溜め息を押し殺した。
次にセイジュが向き直ったのは、シキとレイの二人だった。
「貴方がたは……」
「彼らは、私の弟子……でした」
そう答えたロイは、この僅かな刻の間に、すっかりその面をやつれさせてしまっていた。おそらくは気力と矜持だけで平静を保っているのだろう、彼の者が与えた衝撃は、彼を未だに内部から苛みつづけているようだった。
「そうだったのですか。タヴァーネス殿の。名前を教えていただけますか」
二人は同時に顔を見合わせ、それからかつての師匠を窺った。だが、ロイはそれ以上を語ろうともせずに、疲弊しきった表情で視線を床に落としている。
シキに軽く頷いてみせて、レイが一歩進み出た。
「俺はレイといいます。彼女が、シキ。イの町で、タヴァーネス先生のお世話になっていました」
「そうですか。タヴァーネス殿は良い先生だったようですね」
相好を崩すセイジュだったが、ややあって、少しだけ怪訝そうな眉をシキに向けた。
「それにしても、女性の魔術師とは。驚きました。才能か、努力か……、なんにせよ、大層な苦労があったのでしょうね」
「……いえ、そんなことはありません。単に運が良かっただけのことです」
その一瞬悲痛な表情を浮かべ、シキはそう小さく返答した。「努力というのならば、彼のほうがずっと……」
「なんだよ、拗ねるなよ」
御前であることを忘れて、レイが口を尖らせる。「血だとかそんなの関係ないだろ。いつもお前、すっごく頑張ってたじゃないか」
「レイ、それはどういう意味だ」
聞きなれぬ語句に、憔悴した表情のままにロイが問う。レイは条件反射のごとく素直に返答した。
「……ルドスで解ったことなんだけど、どうやらシキの奴、古代ルドス王家の末裔らしいんだ。それで、こいつ、自分が魔術を使えるのは単に血筋のせいだ、俺のほうが努力家で凄い、つって拗ねてるんだよ」
その時、大広間を覆いつくしたもの。それは、凄まじいまでの、力の気配だった。
爆発的に膨れ上がった禍々しい気は、刹那ののちに再び収束する。
だが、もはやその存在は隠しようがなかった。その場に居合わせた誰もが、おののき、目を見開いて、その痕跡を追う。
エセルもまた同様だった。膝を屈さんばかりの圧迫感は、時を置かずに恐怖と化した。それでも、潮のように引いていく力の軌跡を求めて、傍らを振り返る。
彼の視線の先には、真っ青な顔で身体を震わせるインシャの姿があった。
「…………インシャ?」
「あ……あ…………あ……」
「どうした!」
「……い……や…………」
手袋に包まれた細い指が、震えながらエセルに向かって差し伸べられる。だが、彼女の瞳は何も映していない。
「た……すけ…………えせ……る……」
「インシャ! 大丈夫か!」
何が起こっているのか解らないままに、エセルは咄嗟にインシャを正面から抱きしめる。ほぼ同時に、彼女の身体が雷撃を受けたかのように跳ね、大きく仰け反った。
「歓喜の余り爪が弛んだとはいえ、よもやここまで抵抗できようとは驚きだ。尤も、この器は少々窮屈ではあるがな」
エセルの腕の中で、伸びきったおとがいを震わせてインシャが男の声を発する。つい先刻まで、この広間に朗々と響き渡っていた美しい声を。
エセルは無我夢中で、インシャを抱く腕に力を込めた。そして、ただひたすら救いを祈る。
安息の時は、訪れた時と同様に突如として……崩壊した。
「おい、サン! お前、確かに……」
「くそっ、変だと思ったんだ。あいつ、最後の瞬間に笑っていやがった」
「だったら、早く言えよ!」
「まさか、って思うだろ、普通」
「我がお前達ごときに後れをとるはずがなかろう! 幻影相手にご苦労だったな!」
一気に凍りついた周囲の空気を、アスラの声が粉々に打ち砕いた。
そして高らかに笑う。インシャの顔で。エセルの抱擁を受けたまま、弓なりに身体を硬直させ、首を反らして。
「ロイ、君の妄執が消える時を、この女の中で待つつもりだったが……もう、その必要はないようだ。君には及ばないだろうが充二分に広く、そして君よりもずっと脆弱な器が現れたのだからな!」
軽い靴音が踵を返す。
視界の端に動くものを捕らえて、視線を巡らせたルーファスが見たのは、手袋を脱ぎ捨て駆け出すリーナの後ろ姿だった。
両手に巻いてあった包帯をほどきながら、リーナは人垣をぬって走る。血のついたガーゼを振り落とし、あらわになった手をひらめかせる。
背後に立ったリーナに向かって、インシャが、アスラが絶叫した。
「黒の導師! 貴様、何故此処に!」
手の甲に刻んだ古の文字から鮮血を滲ませ、リーナは「封神」を起動させた!
滅することすら許されずに、移ろいゆく現世を眺め続けていた。
神を封じるなどと、許されぬ所業を為した罰だと思っていた。
自分じゃない誰が、頭の中で囁いている。その、あまりに切ない様子に、リーナは思わず心で呟く。つらかったんだね、と。
そう、無為に時を重ねるのは、例えようもないほどの苦痛であった。
だから、この私の存在に意味があったと解って、本当に嬉しかったのだ。
幾星霜もの時を経て、再び大仕事を成し遂げることができて、私はとても満足しているのだよ。
こんな私でも役に立てたのなら嬉しいよ。リーナがそう応えると、声の主は酷く安心したようだった……。
だが。
耳障りな笑い声が、つかの間の安らぎをぶち破る。
我に返ったリーナの眼前、未だエセルに拘束された状態で、インシャが狂ったように笑い続けていた。
「はははははははは! そうか、そうだな! 大昔、貴様に封印された神格はまだあの石の下なのだよ! なんという皮肉か。これは良い。貴様の術は今の私には効かぬわ!」
あまりのことに、リーナが力無く膝をつく。
絶望に支配された謁見の間、アスラの声が一際高く響き渡った。
「その身体、貰いうけるぞ! 我に傅く一族の末裔よ!」
そして、インシャから飛び出した何かが、シキの中へと吸い込まれていった。
四 破戒
「……シキ、……シキってば!」
「え?」
眩いほどの夕日が差し込む部屋で、シキは目を覚ました。ぼやけて霞む視界の中央に、リーナの顔が大写しになる。
一瞬、シキは自分がどこにいるのか解らなかった。混乱する頭を振りながら、辺りをゆっくりと見まわしてみる。
「随分とお疲れみたいだけど……、今日はもう終わりにしとこっか」
夕焼けに染まりつつある、教会の治療院の奥まった一室、机の上に広げられた帳面にはリーナの講義が記録されていた。最後の三行ほどの字が大いに乱れているのを見て、リーナがにやりと笑う。
「『居眠りは、校庭三周!』……なーんてね」
「……ごめん、リーナ」
――ああ、そうだ。リーナに癒やしの術を習いに来ているんだったっけ。
まだ覚醒しきっていない頭で、シキはぼんやりと思考をめぐらせた。
「いいよ、いいよ。どうせ悪いのはアイツだから」
「あいつ?」
ぽかんとした表情で問い返すシキに向かって、リーナが大袈裟に天を仰いでみせた。
「しっかりしてよ、シキ! アイツってったら、レイのことに決まってるじゃん。
今度会ったら文句言ってやろうって思ってるのに、そういう時に限って、全っ然、出っくわさないのよねー」
「文句?」
「そーよぉ。毎晩毎晩、犬猫じゃあるまいし、ちょっとはシキをゆっくり寝かしてあげなさいよ、って、教育的指導をさー」
絶句したまま真っ赤に頬を染めるシキに向かって、冗談だってば、とリーナが豪快に笑った。
「あーあぁ。本当に、なんだか嘘のように平和よねえ」
治療院の門のところで、シキを見送りながらリーナが大きく伸びをした。その手の甲に薄っすらと残った古代ルドス文字を認め、シキの鼓動が跳ね上がる。
――そうか。夢じゃなかったんだ。
溜め息とともに口の中で呟けば、すかさずリーナの突っ込みが入った。
「何をいつまでも寝ぼけてるのよ、シキ。あんたが彼の者をやっつけたんじゃない」
仄かに霞む記憶を辿れば、断片的な映像が次々と現れてくる。
神像を投げ捨てるウルス、兵と対峙するサン、眼前で散ずる「炎撃」の呪文。そして、髪の色を漆黒に変じたロイの姿。
――先生が黒髪の巫子だったなんて、思いもしなかった。
そう、自らの依り代を造り上げるためだけに、彼の者はロイに祝福を授けたのだ。それは、ある意味、恐るべき「呪い」と言えるかもしれない。
――そうして、サンが彼の者を斬り、でもそれは幻で。副隊長に憑依していた「それ」が私に向かって飛びかかってきて……。
「そう。それで、シキが気合で彼の者を弾き飛ばして、勢い余って彼の者が消滅して、めでたしめでたし、万々歳。沢山報奨金を貰って、帰って来たんじゃない。ここ、イの町に」
「そ、そうだったね」
頭の奥底に何か違和感を覚えながらも、シキは慌てて頷いた。
「うーん、やっぱりシキってば、疲れ過ぎてるんじゃない? やっぱ、これは真剣にレイのヤツに説教する必要が……」
「ちょ、ちょっと、リーナ、やめてよー」
「何の騒ぎ?」
突然上空から降ってきた声に驚いて振り返ると、そこには、人の良い笑顔を浮かべてサンが立っていた。
「あ、今日は早いじゃん」
「ま、ね。あ、シキ帰るとこ? 送っていこうか?」
シキが辞退するよりも早く、リーナが満面の笑みを浮かべてサンの脇腹を肘で突っついた。
「邪魔しちゃ悪いよ。ほら」
「あ、そっか」
二人の視線を辿って振り返ると、川沿いの道をこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
「あれ? レイ? なんでこんなところに……」
「あんたを迎えに来たに決まってるじゃない! さ、早く行ってやりなよ」
リーナに勢いよく背中を押され、シキは二、三歩前へとよろめいた。
と、レイが向こうで手を振った。本当に迎えにきてくれたんだ、と、シキの胸の奥が熱くなる。「送るよ」なんて言葉がすっと出てくるサンのことを、ちょっぴり羨ましく思った直後だっただけに、むず痒いような嬉しさが彼女の中にこみ上げてきた。
「じゃ、リーナ、また来週頼むね」
「オッケー、お安いご用よ」
幸せそうに寄り添って立つ二人に大きく手を振って、シキは町外れの教会をあとにした。
「どういう風の吹き回し?」
夕焼けに染まる帰り道。照れくさいやら、嬉しいやら、恥ずかしいやらで、ついシキの口調がつっけんどんになる。
「んだよ、迎えに来ちゃ駄目だったのかよ」
「ううん。……ありがとう」
どうしようもなく頬が緩んでしまうのを自覚して、思わず俯いたシキの右手に、そっと温かいものが触れた。
レイの大きな手のひらが、シキの手をすっぽりと包み込む。その温もりに、シキの胸は幸福感で一杯になった。
何も思い悩むことなく、レイと手を繋いでともに歩く。長い間、夢にまでみた情景が、今ようやく現実となったのだ……。
「長かったな」
「うん、長かったね」
そう、もう思い悩む必要はない。全ては終わったのだ。
シキはレイと、リーナはサンと故郷に帰ってきた。
偉大なる大魔術師は、帝都に残ってセイジュ帝の手助けをするのだという。
ルドス警備隊の面々はルドスに戻り、ウルスはカラントの王となって北方へと旅立っていった。
申し分のない、平穏な日々が訪れたのだ。まさしく……夢のような、穏やかな毎日が。
夕暮れ時にもかかわらず、往来に人影は見当たらなかった。シキはほんの少しだけ勇気を出して、レイの腕にそっともたれかかった。
小さく息を呑む気配ののち、繋いでいた手がほどかれ、気がつけばシキはレイに肩を抱かれていた。
熱の籠もった瞳が、シキを射抜く。
ゆっくりと近づいてくるレイの顔を、唇を、シキはすんでのところで押しとどめた。
「ちょ、ちょっとレイ」
「んだよ、誰も見てねーだろ」
「そういう問題じゃないって!」
流されかけた自分が少し恥ずかしくて、シキは少し大げさに首を横に振った。
「……家までおあずけかよ」
レイが、すっかり気落ちした様子で肩を落とす。
「あたりまえでしょ? こんな往来で何考えてるのよ。それに、家に帰っても、先にご飯の準備しなきゃ。あと……」
「もう夕飯はできてるぜ」
「えっ」
驚きのあまり、シキの歩みが止まった。レイは、夕食の準備を終わらせてから、シキのことを迎えにきてくれたのだ。そんな負担をかけるつもりなんてなかったのに、と、申し訳なく思っていると、レイが思わせぶりな瞳で、シキの顔を覗き込んできた。
「だからさ、帰ったらすぐに……」
「レーイー」
「……わーったよ」
しばし真顔で睨み合って、それから二人は、同時に声を上げて笑い出した。
ようやく家に辿りついたところで、シキはふと耳をそばだてた。玄関の鍵をレイに任せて、小走りで厩へと向かう。
厩に近づくにつれ、馬の足音や鳴き声が、はっきりと聞こえてきた。シキは信じられない気持ちで、厩の戸を開け放つ。
馬房には、艶やかな二頭の若馬が繋がれていた。
呆然と立ち尽くすシキの背後、レイが呆れ返ったような声を出した。
「何驚いてんだよ。陛下がくださった『疾走』と『疾風』だろ」
そうだ、この二頭の馬に荷物を積んで、はるばる帝都から帰ってきたんだった。シキは大きく深呼吸をして、じゃれあう二頭の馬を改めて見やる。頭にかかる靄を振り払おうと勢いよく首を振れば、若干気持ちがすっきりしたような気がした。
その一方で、水底の泥が舞い上がるように、もやもやとしたものが新たにシキの胸の奥に湧き上がってきた。
シキにとって「疾風」とは、レイとともに他人の命を守り、崖崩れの犠牲になったあの馬のことだった。「疾走」とは、もう使うことはないからと、ルドスで後ろ髪を引かれる思いで手放したあの馬のことだった。
得体の知れぬ不安感をむりやり呑みくだして、シキは厩を見回した。
綺麗に掃除された床には、新しい寝藁が敷かれている。水桶の中には、充分な水。
「もしかして、飼いつけもやってくれたんだ」
「おうよ」
「大変だったでしょ? ごめんね」
レイ一人に家事を押しつけてしまったことを、シキは激しく後悔していた。せめて、もう少し早くリーナの講義を切り上げて帰っておれば。ならば、馬の世話ぐらいは手伝えただろうに、と。
「気にすんな。俺が好きでやってんだから」屈託のない調子で、レイが胸を張った。「今まで、散々シキに迷惑ばかりかけてたからな。これぐらい、どうってことないさ」
その翳りのない表情に、シキは救われる思いがした。でも、だからといって、レイの厚意に甘えるばかりではいけないだろう。
「迷惑だなんて、そんなことないよ。だから、明日は私が当番をするね」
本当は当番制ではなく、二人で役割分担したほうが効率がいいと思うんだけど。そう言いかけたシキを、レイが大きな動作で押しとどめた。
「いいって、いいって。俺は、シキに好きなことをしてもらいたいんだ。魔術の研究でも、癒やしの術の修行でも、なんでも好きなことを、な」
「え、でも、レイだってやりたいことがあるわけだし……」
シキは、シンガツェでの光景を思い出していた。老師と熱心に「真の魔術」について語らうレイの姿を。普段は「勉強なんてかったるい」などと文句を言っているくせに、なんだかんだ言って結局レイも筋金入りの研究者なのだ。
「だから、俺はやりたいことをやってる、って言ってるだろ」
「え?」
言葉の意味を問いただす間もなく、シキはレイに抱きすくめられた。
「俺は、お前が幸せだったら、それでいいんだ」
レイの腕に力が込められ、シキの顔が彼の喉元に押しつけられる。頬から伝わるレイの体温に、シキの心臓が跳ね上がった。
「まあ、どうしてもお礼がしたい、って言うんなら……さ……」
「ちょ、ちょっと待って……!」
シキは無我夢中でレイの手を振りほどいた。
――何だろう、この、違和感は。
高鳴る胸の鼓動とは別に、胸の奥底には依然として薄暗い靄が立ち込めている。いや、そればかりか、それはすっかり肥大し、今やシキの息を詰まらせんばかりだ。
眉根を寄せ、身を固くするシキの目の前、レイが大きな溜め息をついた。
「そこまで言うのなら、いっそ使用人を雇おうか」
「え?」
「報奨金もたっぷり貰ったことだしな。それだったら、問題ないだろ?」
――何かが違う。
シキの背筋を、冷たいものがつたっていった。
「どうした?」
怪訝そうな顔で、レイが一歩近づく。
――確かめなければ。
シキは唇を強く引き結ぶと、踵を返し、厩を飛び出した。
母屋に駆け込んだシキは、その勢いのまま真っ直ぐ図書室へ向かった。
扉をあけるのももどかしく、部屋の中へ飛び込む。
次の瞬間、シキは息を呑んだ。
見える範囲の本棚全てに、隙間なく書物が詰まっていた。
――やっぱり、違う。
口の中に溢れてきた唾を嚥下して、シキは部屋の奥へと歩みを進めた。何列も並ぶ本棚を、端から順に見てまわる。
蔵書の殆どは、ルドスへ、そして更に帝都へ、運び出されたはずだった。なのに、今、この図書室は、在りし日の姿のまま、一冊の欠けもなく、智慧の結晶を誇っている。馬と同じく、一度失われたのち、再びここに戻されたのだとしても、まさかこれだけの書物を、師が手放すはずがない。
ウルスとともに北方へ赴くはずだったサン。
老師の遺志を継ごう、と言っていたレイ。
新たに馬を手に入れたとしても、レイも、シキも、きっと前の馬と同じ名前をつけることはないだろう。
そして何より、夕刻にもかかわらずひとけのない町。
――違う、のだ。
一体何が起こっているのか。シキは唇を噛んだ。早鐘を打つ胸を手で押さえ、とにかく落ち着こうと深呼吸を繰り返す、その背後に何者かが立った。
気配を感じたシキが振り返るよりも早く、レイの手が彼女の肩を鷲掴みにした。そのまま、力任せにシキを本棚に押しつける。
「お前、本っ当に、素直じゃねーよな」
レイを押しのけようとするも、逆に両手首を掴まれて、シキは自由を奪われてしまった。
「雑事に煩わされずに、研究に打ち込みたいんだろ? なのに、なんで躊躇うかな」
信じられないほどの強い力で、レイはシキの両手首を一つに束ねる。そうして、そのまま、いともたやすく左手一つでシキの頭上に押さえ込む。
「帰り道でも、本当はキスしたかったくせに。誰も見てないってのに、何を気にしてるんだ?」
手が駄目なら、とシキが考えると同時に、腿の間にレイが割り込んできた。身体をぴったりと密着させられてしまっては、もはや足も使えない。
「素直になれよ」
熱く燃え盛る瞳が、シキの目を覗き込んできた。熱を持った眼差しは、シキの眼底を、更にその奥を、容赦なく焼き尽くす。そのまま身体の芯まで炙られて、シキの体温が一気に上昇した。
「……あなたは、だれ?」
あまりの熱気にのぼせそうになりながらも、シキは必死で言葉を絞り出す。
「俺? 俺は、レイさ」
「ちがう。レイじゃない」
喘ぐように息を継げば、レイが、ぞっとするほど優しい笑顔を作った。
「レイじゃない? じゃ、誰が良いんだ?」
レイの囁きが、ゆっくりとシキの首筋を下りていく。
「ロイが良いなら、代わってやるよ?」
熱い吐息が、胸元にかかる。
「一人じゃ物足りないのなら、サンでも呼んでこようか?」
シキは愕然と目を見開いた。
――そうだ、まだ、何も終わってなんかいなかったんだ。
あの時、自分に襲いかかってきた、あの忌まわしき力の気配。恐ろしいまでの圧迫感に押しつぶされ、目の前が一瞬にして真っ暗になった。きっと、そのまま意識を失ってしまったのだろう。
――すると、これは……、夢?
自分は、今、夢を見ているのだろうか?
いや、違う。夢を見させられている…………?
茫然自失となったシキに、レイの唇が重ねられた。
先刻とは段違いに莫大な熱量が、シキの身体に注ぎ込まれる。衝撃に打ちのめされ、混乱に陥っていた思考が、問答無用に鎮められていく。
口づけが深まるほどに、シキの意識は曖昧さを増した。鈍く痺れるような感覚が全身を侵食し、視界が狭まる。
「俺と一緒にここで暮らそう」
優しい声が、シキの輪郭を溶かしていく。シキを、生温い澱みの中へ引きずり込んでいく。
そう。
れいと、いっしょに。
「いつまでも、永遠に、二人っきりで……」
うん。いっしょに、いよう。
「シキ、好きだ……」
わたしも……、れいのことが……。
うっとりと目をつむったシキの瞼の裏に、一筋の閃光が走り抜けた。
シキはそっと目をあけた。
そうして、レイの瞳を真っ向から見つめ返した。
レイ、が、たじろぐ。
シキは大きく息を吸い込んだ。
「私は、レイのことが好き。……大好き!」
その刹那、眩い光が炸裂した。
シキが、レイが、光に呑み込まれていく。
床も、柱も、本棚も、全てが溶けるようにして消え失せた。驚きのあまりに声を出すこともできずに、シキはただ硬直する。上も下もない、輝くばかりの広大な空間に、小さくぽつん、と浮かんで。
「これはお前が望んだ夢だ。なのに、何故自らそれを拒む!」
どこかで聞いたことのある低い男の声が、わんわんと辺りに響き渡る。
驚くシキの目の前に、すうっと人型が現れた。
「先生も」
シキの姿を成した「それ」は、シキの声でそう言った。それから、崩れるようにして形を変える。
「インシャも」
今度はエセルの姿で、エセルの声で。そして再び、変貌を遂げる。
「お前も」
最後にレイを形作り、「それ」は苦渋の表情を見せた。
「どうして、抗う? どうして、抗うことができるのだ!」
シキは、大きく息を吸うと、迷いのない瞳を「レイ」に向けた。
「だって、あなたはレイじゃないもの」
両手を強く握り締め、シキは言葉を継いだ。
「私の望んだ夢、っていっても、それは結局、夢でしかない。夢に出てくるレイは、本物のレイじゃないもの。そんなレイと一緒にいても、楽かもしれないけれど、楽しくない!」
シキの叫びに、「レイ」の眉が大きく跳ね上がる。
「異なことを! 我を受け入れさえすれば、全てがお前の思うままだというのに……。何故だ! 何故、夢を見ない? 何故、おのれの思い通りにならぬ他人に執着するのだ!」
「他人なんだから、思い通りにならなくって当たり前じゃない!」
彼女の脳裏に、レイの顔が思い浮かんだ。怒った顔、不貞腐れた顔、でもそんな表情の下で、ずっとシキのことを心配して気にかけてくれていた、恋人の顔が。
それを皮切りに、次々と皆の顔がシキの頭をよぎっていった。想い人を、そして自らを傷つけ続けていたエセルの顔、諦めで身を縛りつけたインシャの顔、寂しそうに笑うロイ、涙を拭うリーナ、……走馬灯のように現れては消える映像の最後、どこか切なそうに吐き出されたガーランの台詞がシキの口をついて出る。
「人間っていうのは、そんなに強い生き物じゃない。つらいことだって一杯あるよ。逃げてしまいたくなることだって、……いや、逃げてたことだって沢山あった。でも、それじゃあ、いつまでたっても私は、『私』になれない」
凄惨な笑顔を浮かべて、「レイ」が吼える。
「おのれを偽って何が『私』か!」
「そうじゃない。人前で強がることも含めて、全部揃ってが『私』だということなんだよ。他の誰かがいてこそ、私は『私』になれるんだ。自分の中の、自分が作った、自分に都合の良い、そんな虚しい世界の支配者になんか、私はなりたくない!」
「何故、そこまでしておのれを鎧う必要がある? 取り繕うな! ありのままを曝け出せ! 溺れてしまえ!」
力を込めて、シキは「レイ」を見据えた。自分の全てを、全ての想いを言葉に乗せて、彼にぶつけるべく。
「嫌だ」
「何故!」
「それは、私達が――――」
インシャを解放した彼の者が、シキの中へと入り込んだ次の瞬間、レイは彼女の身体を力いっぱい背後から抱きすくめた。呪文の詠唱を警戒して、そのままシキの両手をも押さえ込む。詮ないことだろうと思いながらも。
「シキ! しっかりしろ! 大丈夫か!」
数度身体を震わしたあと、シキは彫像のように動かなくなった。
再び訪れる静寂の中、レイはひたすらシキを抱きしめ続ける。シキを乗っ取ろうとする邪なる存在を、自分の体温で溶かそうとでもいうかのごとく。
完全なる、手詰まりだった。
ユエトの大剣では、シキの身体は傷つけられても、憑依した彼の者には何の効果も及ぼせないだろう。
そして、前回の封印に使われた「封神」の術は用をなさない。
どうすれば良い?
何ができる?
答えを見出すことができずに、レイはひたすらシキを胸に抱く。
サンは、腰の剣の柄を固く握り締めて立ち尽くすのみ。
リーナは力無く床にくずおれ、ロイはその場に棒立ちになっている。
ウルスも、セイジュも、残る人々はただひたすら、祈りを込めてシキを、レイを見つめ続けた。
どれぐらいの時が経ったのだろうか。
ほんの瞬きの間の出来事だったかもしれない。はたまた、数刻が経過していたかもしれない。時間の感覚は勿論、身体の感覚すら定かではないこの凍りついた空間に、聞き憶えのある声が突如として響き渡った。
「何故だ! 何故、夢を見ない? 何故、おのれの思い通りにならぬ他人に執着するのだ!」
水を打ったように静まり返る謁見の間に、アスラの叫び声が何度も反響する。それと同時に、シキの身体が激しく暴れ始めた。
何が起こっているのか解らないままに、レイはシキをかき抱く腕に力を込める。その腕の中で、華奢な身体が何度も弾けた。およそ信じられないほどの凄まじい力で、レイの身体を大きく跳ね上げる。
もはや、レイには、両手をふりほどかれないようにするだけが精一杯だった。必死で歯を食いしばり、シキの身体にしがみつく。
再び、アスラの声がシキの喉から迸った。地の底から響くかのような、昏い声が。
「おのれを偽って何が『私』か!」
戦っているんだ。
レイは唐突に理解した。
「何故、そこまでしておのれを鎧う必要がある? 取り繕うな! ありのままを曝け出せ! 溺れてしまえ!」
シキが、戦っている。
たった独りで。この細い身体の中で。
「何故!」
シキが戦っているのなら、絶望してはいけない。
レイは大きく息を吸った。足掻くシキの身体をしっかりと抱きとめて、腹に力を込める。
「それは、俺達が――――『人間』だからだ」
その一瞬、シキの身体は硬直したように動きを止めた。小さく息をついてから、レイは言葉を継ぐ。
「解ったか? 解ったらさっさとシキを放しやがれ!」
雷にも似た閃光が、シキの身体を発端として周囲に走った。
沈黙を守っていた人々が、口々に悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
鼻の奥に突き刺さるような刺激臭と、肉の焦げる臭いが、一瞬にして辺りに充満した。
鈍い音が響いて、レイの身体が床に倒れ伏す。幽かな白煙を、身体中からのぼしながら。
ゆらり、とシキが一歩を進んだ。
その後ろ姿を霞む目で見送りながら、レイは遠ざかろうとする意識を必死で掴み直した。
もう、誰にも止められないのだろうか。
自分なら、と、思っていた。自分になら、もしかしたらシキは危害を加えることができないかもしれない、と。だが、レイの一瞬の隙をついて、彼女は「雷撃」を詠唱した。微塵も躊躇うことなく。
シキは、最後の最後で彼の者に呑み込まれてしまったのか。
身体のあちこちを蝕む痛みに顔をしかめながら、レイは歯軋りをした。どだい、空気のように掴みどころのない存在を、生身の人間が相手にしようというところに無理があるのだ、と。
『化け物には、化け物で対抗すればいい』
ウルスの声がレイの脳裏に響く。
――うるさい、俺は化け物なんかじゃねえ。人間様だ。勝てっこない。化け物って言うのなら、あの、黒の導師とかいう死霊だか何だかの首に縄でもかけて連れて来いってんだ。
さっさと一人で満足して、勝手に常世へ行ってしまいやがって! 心の中でそう毒づいたレイの瞼の裏、薄紅色のドレス姿が浮かんでくる。豪奢なスカートの裾をひるがえしながら、手の甲に刻んだ紅い文字を振りかざし、呪文を詠唱するリーナの姿が。
――いや、常世じゃなかった。黒の導師はあの口煩い奴の中に残っているんだったか。
今回の作戦において、彼女の存在は全くの想定外だった。サンの一撃が無効だったと解り、次いでリーナが姿を現したあの一瞬、レイは心の底から天啓を思ったものだった。
――ぬか喜びさせやがって。
思わず苦笑を浮かべたレイの頭に、あの神殿での風景が唐突に蘇る。
『なんかね、色々頭ン中に残ってんのよ。「封神」の術ってのかな? あと、――』
その刹那、レイは小さく息を呑んだ。心の奥深くに大切に仕舞い込まれていた、あの女神の囁き声を思い出して。
強い光が、再びその瞳に戻ってくる。残る力を振り絞って、レイは僅かに身を起こした。
「ロイ……!」
レイが投げつけたその声にロイが反応するよりも早く、シキが険しい表情でレイを振り返る。
――当たりだ。
レイは口角を吊り上げた。
『人の子よ。我が祝福を受け取るが良い。
我が巫子として、我に仕えよ。我のために祈りを捧げよ。しからば、我はそなたに加護を与えよう。
神と巫子は、彼にして此。魂にして魄。この瞬間より、そなたは我のものであり、我はそなたのものでもある。
そう、そなたの全ては我のものとなる。そのかわりに、そなたは――』
「ロイ! 俺達じゃ、駄目なんだ。あんたが……、あんたが奴を滅ぼしてくれ!」
シキの指がひらめき、再びレイを雷が襲う。
辛うじて直撃は免れたものの、今度こそレイは意識を失って崩れ落ちた。女神の言葉を胸に抱きながら。
『――そなたは、我を滅することができる』
目の前で展開する事態を、ロイは為すすべもなく、ただ立ち尽くして見つめていた。
何度も夢にみた、あの山道。母と山賊達の血を吸って蘇った黒い影。
奴は、おのれの身体を手に入れるためだけに、ロイを絡め取った。
孤児として泥水を啜りながら生き延びた日々も、級友達の蔑みと妬みの視線の中で過ごした日々も、血も涙も無い虐殺者として戦いに身を投じたあの日々も、全てが奴のために強いられたものだったのだ……!
ロイは、視界の端で揺れる黒い影に目をとめた。
この、黒髪。
黒髪の巫子などという言葉に翻弄されたおのれの、なんと滑稽だったことか。他でもない、この自分こそが、黒髪で、巫子であったのだから。あの、皇帝を模っていた、夢のように美しくも残酷な神の。
ならば、あの日の奴の嘲笑は、あの言葉は、全てこの自分に向けられたものだったのだ。何も知らずに同属を狩ろうとした挙げ句、見当違いの施策を報告した、己が巫子に向かって。無知蒙昧なる愚か者よ、と、まるで嘲り笑うがごとく……。
二度目の雷撃を放ったシキが、ゆっくりとロイのほうへ振り向いた。
そして、輝かんばかりに眩しい笑顔をこぼれさせる。
「先生、私と一緒に、暮らしましょう」
まだ幼い指が紡ぎ出す、魔術の光。
それは、彷徨える果てに見つけた光だった。
「先生のことが、好きなんです」
そうだ、最初は投影であり、再生だった。
彼らに、いや、レイに自分を重ね合わせて、自分をもう一度遣り直そうとしたのだ。
「ずっと、ずっと、先生だけを愛してます」
良き父親であり、良き教師であるように。
自分が望んで止まなかったものを彼らに与えられるように。
「だから……私を抱きしめて……」
それは、決して彼らのためを思ってのことではなかった。
レイを通しておのれを擬似的に構築し直そうという、それは間違いなく自分のための行為だった。
そして、ただ花を眺めているだけでは我慢ができなくなり……、
そして……。
結局、どこまでも似ているのだ。
ロイは拳を握り締め、シキの目を真っ向から見つめ返した。
そう、この、忌々しい我が主と自分は、どこまでも同根なのだ。他人を省みることもなく、おのれの欲に忠実に生きる。自分にその能力さえあれば、躊躇うこともなくレイを乗っ取って、全てをおのれのほしいままにしたはずだ。
自嘲の笑みを浮かべたロイに、シキが妖艶な微笑を返してきた。艶めかしく潤む彼女の瞳に、共犯者の顔が映る。
シキが、ロイの胸元にしなだれかかってきた。そして、上目遣いで囁く。
「私を、愛していただけますか?」
ロイの喉が、大きく上下した。シキをじっと見つめたまま、ゆっくりと彼女を抱きしめる。
シキの両手がロイの頬に伸ばされた。そのまま、細い指が首筋へと滑り、彼女はロイの首にその腕をゆっくりと絡ませた。
「先生、キスして……」
シキの腕が、ぐい、とロイを引き寄せる。爪先立つ彼女の震える唇が、ロイの唇に重なろうとした。
「断る」
愕然と目を見開くシキの身体を捕らえたまま、ロイは口元を歪ませた。
「ふざけるな。もう沢山だ」
「貴様、己が主を退けようと言うのか!」
「主だと? お前がいつ私の主となった!?」
「貴様に多大な加護を与える守護神を、必要ないと言うのか!」
「加護だと? 笑わせるな」
髪を振り乱して暴れ始めたシキを、ロイは今一度力強く抱え直す。
レイの最後の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
――そうだ。神を滅ぼせるのは、その巫子だけなのだ。
おのれを守るべき存在を、おのれ自身で否定する。そうすることのみが、「神」と呼ばれる存在を滅することができるのだ。
なるほど、最後の最後で矜持だけは守らせてくれるのか。
ロイは大きく息を吸うと、ただ一言を呟いた。
滅びよ、と。
五 出発
「おい、ちょっとは手伝ったらどうなんだ」
薄暗い倉庫のそこかしこに積み上げられている道具や箱の隙間で、むくつけき体躯の影が身を起こした。その拍子に、細かい埃が戸口から漏れる日の光にキラキラと舞う。
憮然とした声に応えて、倉庫の入り口近くに置かれた背の高い脚立の上で、人影が軽く身じろぎした。
「なんで僕が、新年早々から他人の家を掃除しなけりゃならないのさ?」
「探し物をしているのはお前だろう」
手に持った木製の器のようなものを乱暴に放り投げて、ユエトは踵を返そうとした。「解った。もういい。俺は知らん」
「いいのー? 僕が勝手に探し回っても?」
脚立の天辺で読書にいそしんでいたユールが、無邪気な声を上げる。その声に、ぐ、と言葉に詰まってユエトは動きを止めた。
「いやー、一度ココを隅々まで漁ってみたかったんだよねー」
観念したのか、再びユエトは物陰に身体を埋める。
「あ、探してくれるんだ。ありがとー」
「手伝え」
「これ読み終わってからね」
あまりにも勝手な言い草に、ユエトは歯軋りをしてから立ち上がった。つかつかと脚立の傍まで歩み寄り、梯子に手をかける。
「わ、わわわわっ、落ちるっ、落ちるって!」
「落ちろ」
「落ちたら、本が傷むじゃないか!」
必死で脚立にしがみつく男と、それを容赦なく揺さぶる男と。黴臭い倉庫の空気が一気にかきまわされる。
本気でユールを振り落とすつもりなのだろう、ひたすら脚立を揺らし続けるユエトだったが、唐突に、はっ、と顔を上げ、その手を止めた。
ユエトは神妙な顔で脚立から手を放し、静かに外へと向かう。眩い冬の日差しの中に立ち、遥か西の空を白く切り取る連峰を見上げた。
「……空気が……、変わったね……」
あとを追うようにして倉庫から出てきたユールが、そう言って空を見上げる。
「ああ」
「あの子達、上手くやったんだ」
「そうだな」
抜けるような碧い空。上空高く舞う鷹が、甲高い笛の音をかき鳴らしていた。
あの、混迷の宴から三日。
一時は大混乱に陥るかと危惧された国政は、思いの他すぐに平常へと戻った。
帝国の要職の大部分が新年の宴に出席していたということが、幸いしたのだろう。なにしろ彼らは、兄帝だった者の正体から企み、そしてその顛末をつぶさに見聞きしたばかりか、これまで兄の陰に控えていることの多かった弟帝が、威風堂々と自らを皇帝と名乗り上げるに至る一部始終を目撃していたのだから。
アスラの存在を無に帰し、セイジュを唯一の皇帝として組織を構築し直すことに対して、説明や説得を必要とする者は殆ど存在せず、その作業はつつがなく進められている。また、今回の大事変に関わった人間に対する処遇にしても、異論が差し挟まれることはなかった。
旧カラント領はかつての王家に返還され、各地に拘留されていた「赤い風」に加担した人間も全員が釈放される運びとなった。ほどなく彼らは、懐かしき故郷の地を目指して移動を始めることになるのだろう。
邪神を滅するに尽力したその他の者達にも、漏れなく褒賞が下されるとのことだった。宮城に部屋を用意され、国賓としてもてなされ、シキ達はこれ以上はないというぐらいに落ち着かない日々を過ごしていた。
「街は、一連の異聞奇譚で持ちきりですよ」
第三城壁の北東にある「白の塔」には、十二の客室が遠方からの滞在客のために用意されている。その「白の塔」の入り口ホールの脇にある、二間続きの広い茶話室の中央、豪華なソファの上に優雅に座しながらルーファスがにっこりと微笑んだ。
対するリーナは、向かって右辺の椅子にちょこんと座って、ガラスのテーブルに置かれた紅茶のカップに手をつけることもできずに硬直している。
「どうなされました?」
「……いえ、もう、なんと言うか、身の置き所がなくて……」
帝都に来て以来、屋敷に滞在するようルーファスに強く勧められていたにもかかわらず、リーナはそれを固辞して街の宿屋に投宿していた。それが一足飛びに皇帝陛下の居城である。上げ膳据え膳は勿論、こうやって面会人に会うために茶話室に降りれば、即座にお茶の用意までなされる有様に、リーナの、自称「繊細な神経」は擦り切れんばかりだった。
「仕方がありませんよ。リーナさん達は、今や陛下の大切なお客様ですからね」
「大切に思ってくださっているのは充分解ったから、もう放っておいてほしいんだけど」
ふう、と肩を落とすリーナに、ルーファスは少しだけ眉を曇らせて、声を落とした。
「事態が事態ですからね。情勢がもう少し落ち着くまでは、渦中の人物にはあまり出歩いてほしくない、ともお考えなのでしょう」
「あ、それ、シキも言ってた。じょーほーとーせー?」
「情報統制ということもあるかもしれませんが、やはり一番は、あなた方が余計な面倒に巻き込まれないように、というご配慮だと思いますよ」
ここは魑魅魍魎が跋扈する世界ですから、と、少し芝居がかった調子でルーファスは片目をつむった。
二人のカップが空になる頃には、随分とリーナもこの場に打ち解け始め、時折いつもの豪快な笑い声も会話に混ざるようになってきた。
「ところで、他の方々は……?」
「シキとレイは、ちょっと前にタヴァーネス先生に呼ばれたとかで、出ていっちゃって。ルドス警備隊の三人は、部屋に籠もっているんじゃないかな」
全員が一人ずつ部屋を与えられたものの、エセルが自分の部屋を使っている様子は全く見られなかった。三度の食事のたびに、エセルとインシャがいつも二人揃って遅れて食堂に現れるのを見せつけられ、リーナは隣の部屋との壁が分厚いことを何度も神に感謝した。
そして同時に、そんな二人を一瞥したのちに不貞腐れた表情で皿をつつくガーランに、酷く同情もしていた。インシャが、時折申し訳なさそうにガーランに視線を投げることに、リーナは気がついたのだ。
実際のところ、一体あの三人はどういう関係なのだろうか。今晩こそシキに問いたださねば、と、リーナは決意を新たに拳を握り締めた。
突然黙り込んで何か思索に耽り始めた様子のリーナに、ルーファスは躊躇いがちに問いかけた。
「……彼は、どうしておられるのですか?」
「は?」
リーナのあまりにも間の抜けた返答を聞き、ルーファスは思わず脱力した。てっきりサンのことを考えているのだろう、と思っていた彼は、気を取り直してもう一度リーナに問う。
「あの。サン殿は……」
「ああ! あいつ、ね。……知らないよ?」
事も無げにリーナはそう言いきった。「例の王子様……じゃなかった、もう王様だっけ、に引っ張りまわされてるみたいで、話をするどころか、全然顔も合わせてないし」
「全然……、ですか」
「そ。見事なまでに挨拶もナシよ」
「……それでも……」
私を選んではくださらないのですね。その言葉をルーファスは胸の奥に仕舞い込んだ。
「それでも、彼を待つのですか?」
その一瞬、リーナの視線が僅かにぶれた。
だが、すぐに彼女は大きな瞳をぐるりと回してから、きっぱりとルーファスに笑いかけてきた。
「待つも何も、あの時思いっきり『さよなら』って言われちゃったしなー。とりあえず家に帰って、仕切り直すわ」
「……そうですか」
「ユーティアさんにも、直接お礼を言いたかったんだけど……」
間接的ながらも邪神滅殺に貢献したとして、ユーティアに、ひいては彼女の嫁家であるウォラン家にも褒美が下されたため、彼女は帰省の予定を切り上げて夫のもとへと帰ってしまっていた。おそらくは今頃、ウォラン家も大騒ぎの真っ只中だろう。
「色々ありがとうございました、って伝えてもらえますか。ドレスを貸してくださってありがとうございます、とも。お伽噺に出てくるお姫様みたいな格好ができて、すっごく嬉しかった、って」
お伽噺。
亡国の王が剣士とともに邪神に戦いを挑み、二人の魔術師がそれを助ける。
邪なる企みが白日のもとに晒され、忌まわしき神は勇者達の手によって打ち滅ぼされる。
そして、世界には平和が訪れた……。
ルーファスはそっと溜め息をついた。
普遍的な昔語りにも似た、嵐のようなひと時だった。自分には、それを為すすべもなく見守ることしかできなかった。唯一の救いは、この物語にほんの少しだけでも力を添えられたかもしれない、というささやかな自己満足のみ。
そっと目を閉じれば、瞼の裏に未だ浮かび上がる克明な映像がある。古の宿命を背負わされた「お姫様」が、手に刻んだ血文字を振りかざし、ドレスの裾をひるがえして邪神に戦いを挑む、その姿……。
――ああ、夢を見ていたのかもしれない。
繰り返される日常の中に、突然飛び込んできた夢のかけら。
責任感、連帯感。そして、……憧憬。決して交わるはずのなかった二本の線が、ほんの僅か重なり、寄り添い、そして……再び離れていく……。
「色々お世話になりっぱなしで、本当に良くしてもらって、私……何もできなくて……何も応えられなくて……」
震えだす声音に、ルーファスは我に返った。
リーナがくしゃくしゃに歪ませた笑顔を伏せるところだった。ぽたぽたと雫が、彼女の膝に落ちる。
「ごめんなさい……ほんとに……ごめんなさい……」
ルーファスは、静かに深呼吸した。それから、しばし目をつむる。
春の海のように穏やかな瞳を開いて、彼はそっと微笑みを浮かべた。
「顔を上げてください」
泣き濡れた面をおずおずと上げたリーナに、ルーファスは優しく笑いかけた。
「私が好きになったリーナさんは、こういう時には、ちょっとびっくりするぐらいに豪快に照れ笑いをして、『ありがとう』って言うんですよ」
涙を拭うことすら忘れて、リーナは呆然とルーファスを見つめる。
「私のほうこそ、色々ありがとうございました。貴女の……貴方がたのことは、一生忘れません」
再び、彼女の大きな瞳から涙が溢れ出した。
「……騎士様…………」
「最後ぐらいはルーファス、と呼んでください。私達は、もう客人と案内人ではなく……友達なのですから」
感極まったリーナが、ルーファスの首に飛びついた。そして、鼻声で何度も繰り返す。ありがとう、ごめんなさい、ありがとう……、と。
ルーファスも少しだけ目を潤ませながら、黙って柔らかな茶色の髪を撫で続けた。
宮廷魔術師長の執務室の中で、シキとレイは所在なく時間を持て余していた。
タヴァーネス魔術師長様がお呼びです、と、ここまで案内されて来たわけだが、肝心の部屋の主の姿は室内に無く、二人はかれこれ半時近くもこうやって待ち続けている。
「おい、見てみろよ。これって、家にあったやつだよな」
痺れを切らして、先ほどから室内をうろうろし始めたレイが、本棚から一冊の本を取り出していた。シキもその傍に寄り、彼の手元を覗き込む。
それは使い古された古代ルドス語の辞書だった。レイの指がページを繰るたびに、古い書物独特の臭いが二人の鼻腔をくすぐる。
「確か、レイがうっかり書き込みをして、先生に物凄く怒られていたことがあったよね」
「ああ……、あれは確か……、あった、あった。だって、文字が細かすぎて、どこを読んでンのか解んなくなってくるんだぜ。目印の一つや二つ、つけたくなるじゃねーか」
「なりません」
すまし顔で答えるシキに苦笑で返して、レイはぱたり、と辞書を閉じた。元あった場所に戻しながら、ぐるりと部屋全体を見まわす。
「……すげーよな」
「…………うん」
「ホントに、凄い人だったんだよな」
「うん」
遥か昔のことのように思える、イの町での日々。
絶望と孤独の中に放り出され、どうすれば良いのかも解らなかった自分の前に現れたその人は、少しぎこちない笑顔で手を差し伸べてきた。
私のところに来ないか、と。
『私も、君達と同じぐらいの歳に孤児になったからね』
彼があの邪神に魅入られた詳しいいきさつを、二人は聞かされていない。ともかくも彼は孤児になり、巫子となり、篤志家に拾われ、教育を与えられた。そして、魔術師となった。
『同一視していたかもしれないな。かつての自分と、君達とを』
おのれの人生を巻き戻したかのように眼前で繰り返される情景を、彼はどのような気持ちで見守っていたのだろうか。同じような生い立ち、同じような立場の、二人の弟子を……。
いや、違う。
俺には、シキがいた。
私には、レイがいた。
そんな小さな、だがとても深い相違が、全ての始まりだったのかもしれない。
そして、それがなければ邪神の企みが潰えることはなかっただろう。ならば、これは必然だったのか、……それとも偶然だったのか。
「あのさ」
「何?」
ポツリ、とレイが呟いた。
「前に、ロイが言ったろ。俺がロイに似ているって」
「うん」
「頭の出来や、真面目さとか、そんなのは置いといて、……確かに、俺はロイに似ているよな、と思う」
シキは、黙ってレイの顔を見つめ続ける。
「なんつーか、な。結局俺達は臆病者なんだよ。お前に拒絶されるのが嫌で、わざわざ回り道を選んで、それで、余計にお前を傷つけてしまった」
いつになく神妙な表情で、レイは右手の拳を握り締めた。
「あの時に、変な術なんかかけずに、お前を連れて家を出たら良かった。ならば……」
まさしく今、レイは恐れていたのだ。来るべき時を。
いつか再び、正面きってロイと対峙する時が来るかもしれない。故郷の東の森で師と袂を別って以来、そういう予感は常にレイの中にあった。その時が来たらどうするか、何を言うか、それはこれまで散々考えてきたことだった。シキと無事再会を果たしたのちも、そのことがレイの頭から離れることはなかった。
だが、いざこうやってロイの領域に足を踏み入れ、その主を待つうちに、レイの頭の中は真っ白になってしまっていた。ポッカリと空いた思考に注ぎ込まれるのは、不吉な想像ばかり。
――もしも奴が、シキを諦めていなかったら……?
いいや、「もしも」ではない。レイがロイの立場だったら、そんな簡単には諦めやしないだろう。
そして、シキは……、本当にロイを吹っきれたのだろうか……?
「レイ」
優しい声で名を呼ばれ、自分がいつの間にか俯いていたことにレイは気がついた。
「レイは、いつから私のことを……その、……好き、だったの?」
「……憶えてねえよ」
ぶっきらぼうにそう言ってからレイが顔を上げると、不機嫌そうに口を尖らせるシキと目が合った。見事なまでのふくれっ面に、先刻までの不安感が一気に吹き飛んでしまう。
「……お前、なんつー顔をしてんだよ」
「真面目に訊いてるのに、はぐらかさないでよ」
底知れぬほどに深く真摯な瞳が、レイを真っ直ぐに射抜いている。レイは軽く息をついてから、やがて静かに語り始めた。
「……本当に、憶えてないぐらいに昔から、だよ。
気がついた時から、俺の隣にはいつもお前がいただろ。それが当たり前のことだとずっと思ってた。学校に行き始めて、そうじゃないことが解って……」
レイはそこでまた視線を逸らせる。「……どうやったら、お前が俺だけのものになるのか、ずっと考えてた。最初はたぶん、単なる子供の独占欲だったんだろうけど……」
そこまで語って、レイはやにわに勢い良くシキを振り返った。
「じゃ、お前はどうなんだよ。俺のことを、いつから、どう思ってたんだ?」
「私は……」
レイの勢いに少しだけたじろぎ、それからシキは静かに目を伏せた。「私も、同じ、だと思う。傍にいるのが当たり前だと思っていたレイが、だんだんと遠ざかっていくような気がして……。
だから、せめて、家族として一緒にいられたら、と思ってた。……ずっと」
「シキ……」
俯くシキの頭上、何か風が動いたと思いきや、その次の瞬間にはシキは肩を掴まれて本棚に押しつけられていた。間髪を入れず顎がすくい上げられ、レイの顔が近づいてくる。
咄嗟のことに為すすべもなく、シキは目を白黒させながらレイの口づけを受け入れてしまっていた。
「……っ、何、考えて……」
僅かな隙に抵抗を試みるも、再び柔らかい感触に言葉を奪われる。
「レ……イ……っ、やめ……!」
「いやだ」
再々度、レイがシキの唇を啄ばむ。
「先生が、来る……って!」
「知るか」
ぞくり、とシキの背筋を痺れが駆け抜けた。三日前の、邪神に見せられたあの悪夢がシキの脳裏に蘇る。あっという間に深まる口づけに、またもシキの身体を震えが走った。
――先生がいつやってくるか解らないこの部屋で、レイは一体……
「一体君達は、ここで何をしているのかね」
心底呆れかえった、と言わんばかりの声が二人を打つ。
眉間に深い皺を刻み、こめかみを指で押さえたロイが、戸口に立っていた。
何度目か知らぬ大きな溜め息とともに、ロイは執務机の椅子に身を沈めた。
あの時、「偽装」の眼鏡を壊され巫子の証である黒髪に戻ったロイだったが、主の神を失った今は、その髪は再び生来の銀色を取り戻していた。急ごしらえの新しい眼鏡は少し度が合っていないようで、ロイは数度目を眇めてから視線を辺りに巡らせる。
机の前には、頬を赤く染めて決まり悪そうに俯くシキと、照れを隠しているのか、白々しいまでに悪びれぬ様子のレイが並んで立っていた。
「……色々と言うべき事があったはずなんだが……、何かもうどうでも良くなってきたな」
ふう、ともう一度溜め息を漏らしてから、ロイは椅子の肘掛に頬杖をつく。そのまましばらくの間無言で目を閉じ、それから静かに机の上に身を乗り出した。
「レイ、奇策はどう足掻いても奇策でしかない。出鼻を挫こうというのなら、仕掛ける相手と仕掛け方を見極めることだ」
その言葉にレイは一瞬だけたじろいだものの、またすぐに不敵な笑みを浮かべる。
「でも、先生のやる気をそぐ効果はあったわけだろ?」
先刻のキス。レイは最初からそれを先生に見せつけるつもりだったのだ、と知って、シキの眉が跳ね上がった。ロイは、同情の眼差しともとれる瞳をシキに向け、そうして再びレイのほうへと向き直る。
「……それは否定しないが、逆効果、ということは考えなかったのか? 後先考えないところは、一向に直らないようだな」
ぐ、とレイが言葉に詰まるのを見届けて、ロイは少しだけ溜飲を下げたようだった。
「尤も、お前がそこまで身構えるのも解らないことはないが、な」
沈黙とともに、どのような感情が彼らの胸に去来したのか。二人の弟子も、師匠も、心持ち視線を落として、凍りついたかのように身動き一つしない。
やがて、ゆっくりとロイが顔を上げた。その気配を察知した二人も、同様に視線を戻す。あくまでも事務的な表情を崩さぬままに、ロイはシキとレイの顔を交互に見つめた。
「カラント王から、大体のあらましは聞いた。我らが古代ルドス魔術が『邪道』であったというのは……正直、厳しい話だな」
眉をひそめながら、ロイは大きく息を吐く。
「宮廷内ばかりか、ギルドのほうでも大騒ぎのようだ。戯言だ、と言う者も少なくない。私とて、ルドス郊外での出来事がなければ俄かには信じられなかっただろう。
ライアン先生が生きておられたなら、そして『真の魔術』をその者達に見せてくださったなら、話は簡単だったのだがな」
ロイが、ザラシュのことを『先生』と称したのを聞いて、二人の表情は目に見えて明るくなった。それに気がつかないふりをして、ロイは話を続ける。
「先生はどうやら書きつけの類は何も残しておられなかったようだ。お前達は何か聞いていないだろうか?」
「……いえ、何も……。老師は真の魔術、特に神の真名について、それは自分で見つけよ、と、そう仰られていました」
「相変わらず、厳しいお方だ」
その瞳がとても温かく見えて、シキは思わず口元を綻ばせた。その傍らで同様に目元を緩ませたレイが、ふと、怪訝そうに眉を上げる。
「ロ……、先生。先生は何故老師を裏切ったんだ?」
「……本当にお前は、遠慮というものを知らないな」
苦笑を浮かべてから、ロイはゆっくりと背を椅子に預けた。
「先生がどういう咎で拘留されたかは、知っているのだな?」
二人が神妙な顔で頷く。
「あの当時、アスラ帝の信仰改革に対する熱意は生半可なものではなかった。そして、先生はそれに水を差そうとしておられた。先生にそのつもりがなくとも、おそらく兄帝はその態度を反逆と捉えるであろう。私はそう考えた」
ロイの眼差しが昏さを帯び、声音が更に低くなった。
「先手を打たなければ、共倒れだと思った。私は……、あの暗い世界には戻りたくなかったのだよ。もう、二度と」
水を打ったような静けさに、暖炉の薪のはぜる音が響く。
シキもレイも、語るべき言葉を見つけられずに視線を足元に落とした。
同じ孤児という立場でありながら、それはなんという境遇の違いであろうか。時代が、場所が異なる、そう簡単に片付けてしまうにはロイの呟きはあまりにも痛々しく、二人は自分達に与えられた庇護の大きさを思わずにはいられなかった。
そう、教会の皆はとても親切だったし、最低限とはいえども、飢えだって凌ぐことができた。イの町は貧しくとも平和で、……何より、温かだった。
「姑息な手段で先手を打とうというあたり、実に誰かさんと良く似てやしないか? レイ」
自嘲にも似た笑みを口元に浮かべながら、ロイは椅子から立ち上がった。
「アシアス以外の神の復権については、またすぐに陛下からお触れが下されるだろう。真の魔術に関しては、追々研究が始まることになるはずだ。
お前達に、帝都に残って研究を手伝ってほしい、との声も、宮廷内で幾つか聞かれるのだが……」
「手伝いぐらい、幾らでもしてやるぜ」
レイの声に、ロイは心の底から驚いた表情を見せた。
「だが、それはここで、じゃない」
少しだけ照れくさそうに、レイはシキの立つ左を見やった。「二人で相談したんだけどさ、俺達、旅に出ようと思うんだ」
「……旅?」
「そう。老師は、旅の果てに真理を手に入れた。たぶん、この世界のあちこちの、なんでもないようなところに鍵は転がっているんだ。俺達はそれを集めようと思う。先生達が、それを論究できるように」
ロイの目が、つい、と細められた。
机の天板に置かれていた両手が、そっと離れる。上体をゆっくりと起こし、ロイは居住まいを正した。
急速に澄み渡る空気に、シキもレイも小さく息を呑んだ。それから慌てて背筋を伸ばし、正面に立つ己が師匠を見つめる。
樫の机をはさんで、師と弟子達は静かに対峙した。
「私は、お前達を……、誇りに思う」
「俺だって」
眼光鋭く、レイがロイを見返す。
「本当は、もう先生でも生徒でもない、次に会ったら思いっきり殴り倒してやろう、って決めてたんだけどさ」
その言葉を、シキが静かに継いだ。
「やっぱり、先生は私達の先生です」
しばしののちに、ロイは静かに目を伏せた。
ありがとう。唇が微かに刻んだその言葉は、形を成さぬままにそっと風と散じていった。
帝都と外とを別つ南門の傍らに、二台の幌馬車が停められている。簡素ながらもしっかりとした造りの馬車に、毛艶の良い立派な馬が繋がれていた。
あれから数日、シキ達が帝都を離れる日。
皇家の紋章入りの馬車で港までお送りしたい、というセイジュの申し出を丁重に辞退して、城下で御者ごと馬車を借りることにしたのだが、どうやら陛下は密かに手をまわしておられたようだった。契約金額に見合わぬ立派な馬車が待っているのを見て、一同はびっくり眼で足を止める。
「……やられた」
「ま、ありがたく使わせてもらおうよ」
シキがレイをなだめている間に、リーナがさっさと馬車の一つに駆け寄って、その中を覗き込んだ。
「うわー、すごーい! 水も食料も一杯積まれてるよー!」
「この分だと、ガシガルでは船までもが待っていそうだな」エセルが馬の背を撫でながら、にやり、と笑う。「礼を尽くしたい、とお考えなのだ。素直に受け取ることとしよう」
まずは一度故郷に帰る、ということでシキとレイは意見の一致をみた。レイは勿論のこと、シキもおのれの私物を殆ど手つかずのままに放り出して家を出ていたからだ。
海路と陸路を経て、おそらくはひと月以上かかるであろう長い旅。同行者は多いほうが道中の危険は少なくて済む。お願いだから見せつけないでよ、とぼやきながらも、リーナも一緒にイの町を目指すこととなった。
同様な理由で、エセル達も途中のルドスまでは行動をともにする。こちらはこちらで、やはりガーランが、頼むからいちゃつくのはほどほどにしてくれ、と、エセルを拝まんばかりの勢いだった。
「いっそ、男と女で馬車を分けねえか? 丁度三人ずつなわけだし」
「……そのつもりだけれど?」
悲愴な顔で訴えかけるガーランに、インシャが事も無げに答えた。頷く女性陣とは対照的に、レイとエセルが力いっぱい抗議の声を上げる。
「き、聞いてねえぜ、そんなの!」
「その組分けは不自然だろう!」
「言ってなかったっけ?」
「これ以外の組分けのほうが不自然です」
なんだかんだ言って仲良く言い合う二組を見ながら、リーナとガーランは同時に溜め息をついた。
「ま、独り者同士、道中よろしく頼むわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
握手を求めて右手を差し出しかけたガーランが、唐突に動きを止めた。そして、そのままその手を上に持っていくと、がしがしと頭をかきむしる。
「……いや、独り者は俺だけか」
ガーランの視線が自分の背後に向けられていることに気がついて、リーナは怪訝そうに後ろを振り返った。
そこに、サンが立っていた。
言葉もなく、サンを指差したままパクパクと口を動かすリーナの面前、サンは視線を逸らしたまま、ぼそり、と呟く。
「ユエトさんに、この剣を返さなければならなくて……、俺も一緒に行っても良いかな?」
「……い、良いけど、たぶん。その、えっと、……ルドスまで?」
激しく動揺しながら、身振りも大袈裟にリーナが返答する。
「いや……、カラントに行くことをお袋にも言っておかないといけないから」
「あ、まあ、そうだよね。うん。お母さん心配していると思うしっ」
微妙に焦点の定まっていないリーナと、視線を合わそうとしないサンとの間に、重苦しい沈黙が降りる。
「……じゃ、同行者一人追加、って、皆に言ってくる、ね……」
いたたまれなくなって、リーナが踵を返そうとする。ぎくしゃくと身体をひねったところで、サンが静かに彼女の名を呼んだ。
「リーナ」
「はいっ?」
過負荷状態な頭のままに条件反射で振り返ったリーナだったが、呼び止めた当のサンが未だ煮えきらない態度で視線を外しているのを見るうちに、だんだんと彼女の中に怒りが込み上げて来た。
「……あのさ。目ぇ見て話してくれない?」
サンがおずおずと正面を向く。リーナはそれを真っ向から睨みつけた。
ややあって、冷ややかな視線のまま、リーナはサンに向かって右手を突き出した。
「で。とりあえずさ、二択でいい?」
「……は?」
「一。『さよなら』って言ったんだから、何も期待するな。
二。『さよなら』ってのは、やっぱ、ナシ。前言撤回。
さあ、どっちよ」
二本指を突きつけられたサンの、栗色の瞳が緩む。
「……リーナは、優しいな」
「な! な、何を突然言い出すのよ!」
顔を真っ赤にさせて動揺するリーナをよそに、サンは再び視線を落とし、訥々と語り始める。
「俺さ、……失敗するのが、怖いんだよ」
それは、おそらくは初めて彼が吐露する、彼自身の物語だった。
「どんなことでも、失敗するぐらいなら、最初から望まない。そうやってこれまで生きてきた。だけど……」
気持ちを奮い立たせようとして、サンは固く目をつむった。「リーナなら、許してくれる、受け入れてくれる。俺はそう思ったんだ。俺が何か馬鹿なことをやっても、馬鹿なことを言っても。甘えているってことは充分解ってる。でも、俺は、リーナと一緒なら……安心できるんだ」
一気にそれだけを語り、サンは顔を上げた。今度こそ真っ直ぐにリーナと視線を合わせてくる。
「『さよなら』はナシだ。俺と一緒にいてほしい。これからも、ずっと」
その言葉が終わりきらないうちに、リーナがサンの胸に飛び込んでくる。彼はその身体をしっかりと抱きとめた。
もう放さない、そう言わんばかりに。
「見送らなくて、良かったのですか?」
己が執務室の窓辺で、セイジュがゆうるりと室内を振り返る。視線の先には、書類を届けにやってきたロイの姿があった。
「……笑顔で彼らを見送ることができるほど、私はまだ人間ができておりませぬゆえ」
少しだけ意外そうな表情を作ってから、セイジュは優しい瞳をロイに投げかけた。
「あなた方の間に、どのような確執があるのかは解りませんが、悔いが残らなければ良いのですが」
「悔い、ですか」
オウム返しに一言だけ呟いて、ロイは口をつぐんだ。しばし無言で、何か深く考え込む様子を見せていたが、やがてゆっくりと顔を上げると窓の外へと視線を投げる。
「悔い……、なるほど。悔いが残る……か」
手元の書類の束を脇机に置き、ロイは少し改まった口調でセイジュに語りかけた。
「陛下、少し失礼して、窓を開けてもよろしいでしょうか」
「構わないよ」
場所を譲るセイジュに一礼して、ロイは窓の傍に立った。観音開きのガラス窓を押し開き、遥か眼下に広がる帝都の街並みを静かに見下ろす。
南北に街を貫く大通り、その行き着く先にある南門。彼ら……いや、彼女は今、あそこにいる。
ロイは両手をゆっくりと掲げた。
真の魔術は、これからその謎を紐解かれていくことだろう。だが今は、この禁じ手の術で充分だ。ロイは複雑な印を空中に描き、慎重に呪文を詠唱する。それから、一言二言、小さな声で何かを呟いた。
一陣の風が、街路を走り抜ける。
手前の馬車に荷物を積んでいたレイが、弾かれたように顔を上げた。その剣幕に驚いたサンが、怪訝そうな表情を作る。
「どうした、レイ」
「……『風声』だ」
「ふうせい? なんだ、そりゃ」
「風に声を乗せて遠くまで飛ばす術だ」
険しい顔で、レイは辺りを見まわしている。
「声? 何も聞こえなかったけど?」
「この術は範囲を指定できるんだ。腕前が良い奴ほど、声を届ける場所を限定できる」
解説しながらもきょろきょろと視線を巡らせるうちに、レイは見つけてしまった。真っ赤な顔で立ち尽くしている、シキの姿を。
「くっそう、ロイの奴……。おい、シキ! お前、何を聞いた!?」
「な、何も聞いてないよ!」
「嘘つけ! 顔が真っ赤じゃねえか!」
「聞いてない! 聞いてないってばー!」
「いいや、絶対何か聞いただろ!」
「最後の、自己満足です。溜め込んでいるのは身体に悪いですからね」
不思議そうに自分を見つめるセイジュに、ロイはにっこりと笑いかけた。
おのれの腕の中、邪神に乗っ取られたシキが囁く甘い言葉。
性懲りもなく身体の内部に火が点るのを自覚した、あの時、ロイは気がついたのだ。自分と彼女との間に横たわる、途方もなく昏い深淵に。
そして、全てが終わってしまったということに。
いや、違う。終わったのではない。そもそも始まってすらいなかったのだ、……この恋は。
「陛下のお蔭で、すっきりしました。ありがとうございました」
上機嫌で退出していくロイを見送って、セイジュは再び窓辺へと寄る。
見上げた紺碧の空に、大きな翼が、一つ、二つ、円を描いていた。
「あの野郎、一体何を言いやがったんだ? おい、シキ、白状しろ!」
「もう、何だっていいじゃん、勘弁してよー!」
「良くない!」
「いいの!」
大騒ぎの二人を横目で見ながら、ガーランが最後の荷を馬車に乗せる。
「なあ、隊長」
「何だ? ガーラン」
「アスラ神が滅したことで、この世界は何か変わってしまったのか?」
いつになく真剣なガーランの眼差しに、エセルは右手を顎に当て、ふむ、としばし思案した。
「さて、どうなのだろう。インシャ、君はどう思う?」
「……『神』という存在そのものについて、何も解っていない現状では、その答えは見つからないと思います。
ですが、そもそもアスラは何千年もの間その神格を封じられていました。その間も、日々変わらずに『夜』は黄昏とともに訪れましたし、『死』も、容赦なく人々を連れ去っていきました。今更彼の者がいなくなったところで、何が変わるとも思えません」
「けどよ、神が存在しさえすれば、その声を聞くことも、我々の声を届けることだってできたんじゃないか?」
ガーランの言葉を聞いて、エセルが再び考え込む。
「なるほど。アスラ神がいなくなったことで、死も夜も制御不能なものになるかもしれない、と。我々は、真に暗黒の世界と、向き合わねばならなくなった、ということか」
本当の夜、がやってくる。
ガーランもインシャも、口火を切ったエセルすらも、その幽玄なる響きに、一瞬息を呑んだ。眩い陽光の下にもかかわらず、言い知れぬ畏怖がうねるように湧き上がってくる。
「だが、俺達はそれに抗う術を持っている」
三人が驚いて振り返ると、レイが不敵な笑みを浮かべて立っていた。「そうだろ? シキ?」
「うん」
強い光を瞳に込めて、シキが遠くを見つめる。
たとえ今が、暗黒に至る黄昏時なのだとしても。
黎明は再び訪れる。そのことさえ忘れなければ。
「そろそろ出発しないー?」
リーナの能天気な大声が大通りに響き渡る。それを合図に、皆は馬車に乗り込んだ。
馬に鞭が入れられ、車輪が大地を噛む。
さあ、帰ろう。
そして行こう。各々の道を。
天空高く舞う鷲が、名残を惜しむように一声を上げた。
2015年2月27日 発行 初版
bb_B_00132531
bcck: http://bccks.jp/bcck/00132531/info
user: http://bccks.jp/user/131950
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
http://greenbeetle.xii.jp/
「黒の黄昏」第十五話~第十六話
サイト初出 2007/3/22~6/15