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『二十四孝』とは中国古代の二十四の親孝行の物語です。みな中国の子どもたちに聞かせるため古代から語りつがれてきた物語です。日本でも江戸時代には寺子屋で子どもたちに教えたそうです。

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親孝行の教科書 二十四孝

郭居敬(撰)  那連一郎(訳)

CAアーカイブ出版



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親孝行の教科書 二十四考 目 次

親孝行のテキスト『二十四孝』序
一、瞬(しゅん)が畑を耕していると象や鳥がやって来て仕事を手伝う
二、胸騒ぎのわけは?
三、母の煎じ薬をつくる
四、冬も夏の着物でがまんする
五、米を負うて親を養う
六、奴隷になって父を葬る
七、眼の悪い両親に鹿の乳をおくる
八、雇われに行き母に供える
九、みかんを懐(ふところ)にして親におくる
十、姑に乳を飲ませ世話をする
十一、蚊があきるほど血を吸わせる
十二、虎と闘って親を救う
十三、地を掘って金を出す
十四、氷の上に臥(ふ)して鯉を捕る
十五、官職を棄てて母を尋ねる
十六、雷を聞いて墓に泣く
十七、冬にタケノコを生(しょう)ず
十八、木像を刻んで親につかえる
十九、糞をなめて憂(うれ)える
二十、たわむれに綺麗な着物を着て親を喜ばす
二十一、親のために桑の実を摘む
二十二、泉湧き鯉泳ぐ
二十三、枕をあおぎ蒲団を温める
二十四、親のオマル(便器)を洗う
田真兄弟
張孝兄弟
訳者エッセイ

 *五、子路と八、江革の代わりに田真兄弟、張孝兄弟が入っている二十四考もある。

 親孝行のテキスト『二十四孝』  序

24+2  こんな親孝行もありました
 ここに紹介する話は中国古代の二十四の親孝行の物語です。親孝行とはちょっと離れた話もありますが、みな中国の子どもたちに聞かせるため古代から語りつがれてきた物語です。正式には『二十四孝』とよばれています。
 “孝”とはよく父母につかえること。よく祖先につかえること。父母や祖先を敬うことをいいます。“孝”の字は「おいかんむり」と「子」を合わせた形で、子が年老いた父を上に支えていることを表しているそうです。
 孝行は中国では儒家の考えの核心といえるもので、個人つまり家を基本にして社会の秩序を保っていくという道徳であり、中華民族の伝統的な美徳といえるものです。この“孝”は日本をはじめ周辺諸国にも大きな影響をあたえました。
 『二十四孝』は古くから伝えられていた話を中国・元の時代に郭居敬という人が、二十四人の孝行者の話としてまとめたもので、登場人物は皇帝から役人、文人、庶民各層にわたっています。現在いくつかの伝本を見ることができますが、話の内容は時代や版本によって少しずつ違いがあります。
 日本にはいつごろ伝来したかははっきりしていませんが、江戸時代には寺子屋で教材として使われていたそうです。
 近頃、なにかと親子の不幸な話が話題になります。そこには子を思う、親を思うというあたりまえのことが欠けているように感じられます。私たちは親孝行というものがどのように語られてきたか、この『二十四孝』から見てみたいと思います。そして自分なりの形で親孝行をしていきたいものです。
 ここにまとめた二十四プラス二つの話は、いくつかの『二十四孝』の原文と資料をもとに訳者が日本語に翻訳したものです。また後半には訳者のエッセーをのせました。主に子供のころの家族の思い出ですが、少し『二十四孝』に関連するものもあれば、まったく関連 しない話もあります。
 孝行とは家族のなにげない生活の中から自然とわきでてくるものではないか、と私は思っています。自然にできてこそ親孝行なのです。お金をかけて何かをしてやるのが親孝行ではないのです。親をあたたかい目で見ることが親孝行ではないかと思います。それをこのページから見つけていただきたいと思います。
 この本で紹介した絵は『二十四孝図』といい中国の著名な画家・陳少梅(1909-1954)の連作。陳少梅は名を雲彰、号は升湖。祖籍は湖南衡山。天津や北京に住し活躍した。絵は《新三才》NETのご理解とご協力によってご提供いただきました。

一、瞬(しゅん)が畑を耕していると象や鳥がやって来て仕事を手伝う
孝感動天

 中国のむかし、むかし、大昔「虞」(ぐ)の国に瞬(しゅん)という皇帝がいました。その瞬が子供のころの話です。瞬の家は農家で田畑を耕し、作物を育てていました。瞬の父は眼が不自由でした。母は瞬が小さなときに亡くなり、彼は母の顔をはっきり想い出すことができませんでした。さびしい毎日でしたが、眼の不自由な父を助けて田畑で働きました。
 やがて新しい母が父のところに嫁いできて、弟が生まれました。新しい母は瞬にやさしくしてくれず、瞬にばかり田畑の仕事をおしつけ、なにかと口やかましくののしり、ときには瞬を棒でたたきました。その弟も兄の瞬を敬うことなく、田畑の手伝いをしませんでした。それでも瞬は恨みがましいこともいわず、不自由な父のことを思い、父母によく尽くし、弟のめんどうもみました。
 村の人たちも、こんなに働き者で親によく尽くす瞬を励まし、声をかけてくれるのでした。瞬の家の田畑は丘の近くにありました。ある日、瞬はいつものように畑仕事に精をだしていました。すると森のほうから象や鳥などいろいろな動物がやってきて、瞬の仕事を手伝いました。
 きっと瞬の働き者でやさしく、父母や弟によくすることに天が感動し、動物たちを差し向けたのでしょう。瞬はとてもうれしくなり、動物たちと楽しく働きました。やがて瞬は田畑を広げるため村の人々や動物たちと開墾をおこない、広い広い田畑を造りました。
 瞬が大きくなるにつれて、このような親孝行の行いと開墾の成果は、国中に知れわたりました。人々はこのような人が自分たちの上にたって皆を導いてほしいと思いました。
 やがて時の皇帝・堯(ぎょう)は瞬の業績を認め、娘を嫁がせ瞬に皇帝の位をゆずりました。瞬皇帝はりっぱに国を治めたということです。人々はこの皇帝を大いなる人の意味をこめて大瞬(たいしゅん)と呼びたたえました。

 瞬が畑を耕していると象や鳥がやって来て仕事を手伝う

二、胸騒ぎのわけは?
噛指痛心

 曽参(そうさん、曽子)は紀元前5世紀の人です。『論語』で有名な孔子の弟子で、親孝行で名を知られ、後に『大学』『孝経』という本を編集しました。
 曽子は幼いときに父を亡くし、母と二人、寄り添うように暮らしていました。曽子は母を養うために、毎日山に入り、人々が薪にするための柴を刈って、それを売り歩き生計をたてていました。
 ある日、曽参が山に柴刈りにいって留守のとき、母が一人で家にいると曽子の知り合いが訪ねてきました。母親は大切なお客様をどうもてなしていいか分からず、ただおろおろするばかりでした。母は曽参が早く帰ってほしいと願って自分の指を噛みました。
 山で働いていた曽参は何か胸騒ぎをおぼえました。母のことが心配になり急いで家に帰りました。母は留守中のことを話して聞かせました。それによって曽参は山で胸騒ぎをおぼえた原因が分かったのでした。遠くに離れていても親子の深い情愛はすぐに伝わるものなのです。

胸騒ぎのわけは?

三、母の煎じ薬をつくる
親嘗湯薬

 中国・前漢時代の文帝(ぶんてい・在位紀元前180年~紀元前157年)は、名を劉恒といい、漢の第三代皇帝です。文帝は母君(薄太后)に対してひじょうに孝養を尽くしました。文帝は日夜、国事に奔走し、国造りに全霊をそそぎ漢の国は大いに栄えました。
 この間、文帝の母君は病気になり三年間も病床にあったそうです。文帝は皇帝であったが夜おそくなっても毎日のように母君を見舞い、その枕もとで看病し、衣服の帯を解くこともなく母君の病状を見つめたといいます。
 母君の薬を煎じるときには、部下にまかせず、自らその加減を見て口に含み、熱すぎないか苦くないかを確かめ、それから母君に飲んでもらうという具合でありました。孝行は誰もが知っていることだが、自然にそれを実行することはなかなか難しいものであります。
 このような文帝のおこないは、国中に知れわたり、その慈悲深さに人々は感心したのでした。文帝の政治の根底には仁や孝があったため、家臣にも優秀なものが輩出し、文帝は政治改革、減税などをおこない、世の中は豊かになり民心は安定したのでした。漢の時代は文帝と景帝の時代が経済も栄え発展し世の中が安定したので“文景の治”とたたえられました。

母の煎じ薬をつくる文帝

四、冬も夏の着物でがまんする
単衣順母

 孔子の門下生に閔捐(びんそん。また閔子騫・びんしけん)という人がいました。閔捐は幼くして生母を亡くしました。後に父は後妻を迎え、やがて後妻との間に二人の子供ができ、これをとても可愛がりました。
 ところで、この新しい母がまことに意地の悪い自分勝手なわがままな人で、閔捐につらくあたりました。冬の寒い日にも、閔捐には暖かい綿入れなど着せてくれず、少しも暖かくないアシの穂を入れたぼろぼろの着物を着せていました。
 ある日、閔捐は外出する父親を車に乗せて送って外へ出ましたが、着物が薄いので寒くてたまらず力が入りません。それを父が見つけて、後妻の閔捐に対する意地の悪い仕打ちが分かりました。そこで帰宅すると父は、後妻を離縁し追い出そうとしました。
 このとき、閔捐は「母上がいなくなれば、三人の子供は凍えてしまいます。私一人が凍えていれば、弟たち二人は暖かくしていられます。どうか離縁しないで下さい」こういって父に哀願したということです。これを聞いた後妻ははじめて自分の非をさとり、閔捐の孝心に感動し、それからは実の母のように閔捐を可愛がったということです。

冬も夏の着物でがまんする

五、米を負うて親を養う
爲親負米

 子路(しろ・字。紀元前542年~紀元前480年。姓は仲、名は由・ちゅうゆう)は、やはり孔子の門下で「孔門十哲」の一人といわれ、『論語』に出てくる回数が最も多い人であります。
 子路の家はとても貧乏でした。そのため子供のころから粗末な野菜やイモの弁当を持って遠くの町や村まで行って、どんな仕事でも引き受け働きました。そして、わずかなお金をもらい、お米などを買って背負って家に帰り、両親を養う日々を過ごしていました。
 やがて両親も相継いで亡くなりました。子路は孔子の門で学び成人すると、その学識と人格は人々に知られるところとなりました。楚の国へ遊説したとき、王は子路の資質を認め官吏に登用しました。今ではわずかなお米に苦心していた幼少のころとは違って馬車に山盛り米を積み込むほど、何一つ不自由ない生活を送れるようになったのでした。
 しかし子路は豊かな食事を前にすると、いつも心の中でこういって嘆くのでした。「ああ、粗末な野菜の弁当を持って親のために働き、夕暮れの遠い道をわずかな米を背負って帰ったあの日……、もう親孝行することはできなくなった……」と。

米を負うて親を養う

六、奴隷になって父を葬る
売身葬父

 後漢の時代に董永(とうえい)という人がいました。もともと千乘(今の山東省高青県北)の人でしたが、幼いときに母親が亡くなってしまい、戦乱をさけて安陸(今の湖北省)に移りました。家は貧しくいつも雇われ仕事で小銭を稼いでその日暮らしをしていました。父は足が悪かったので、田畑の耕作の手伝いをするときは小さな車に父を乗せて田んぼの畔まで連れて行き、農作業をしていました。
 その父もだんだんと身体が弱くなり亡くなってしまいました。董永はなんとか父のお葬式を出そうと思いましたが、葬儀代がありません。考えに考えた末に董永は自分の身を売って奴隷になることで、お葬式のお金を工面しました。
 この親孝行の評判が、天上界の神様を感動させました。そして仙女を地上に遣わしたのです。お葬式を終えて董永が身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の娘さんに会いました。その娘さんは董永の身の上話を聞くと「あなたのお役に立ちたいのです。私をあなたのお嫁さんにしてほしいと」いいました。これから先のことが心細かった董永は喜んで、二人で身請け主の所へ行きました。

 奴隷になって父を葬る

 董永とその妻が身代金(みのしろきん)を払い戻すために働きたいというと、身請け主は厳しい要求をだしました。一ヶ月の間に絹織物を三百匹(六百反)織り上げれば家へ帰っていいという条件でした。そこにはまともな機織り器もなく、古い粗末な織り器しかありませんでした。しかし董永の妻は器用に機織をはじめ、とうとう一ヶ月の間に絹織物を三百匹も織り上げてしまいました。
 董永は自由な身になり、二人は家へ向かって歩きました。途中、槐樹の所で休んでいたとき、妻がいいました。「私は天の織姫でしたが、天の神様があなたの孝行な心に感じて私を地上に遣わしたのです。私は天に帰らなければなりません」というと、天に帰って行きました。董永はただただ驚き、妻が去って行ったことをとても悲しみました。

売身葬父の図 大紀元集團公司NET

七、眼の悪い両親に鹿の乳をおくる
鹿乳奉親

 周の時代といいますから、紀元前ずっとずっと昔のこと郯子(たんし)というとても孝行な若者がいました。
 父も母も年老いて眼をわずらっていました。その眼をよくするには薬になる鹿の乳を飲むととても効きめがあるといわれ、両親はそれをほしいと思っていました。
 そこで郯子は、なんとか親の望みをかなえたいといろいろ考え、鹿の皮をかぶって鹿の群の中にまぎれ込み、鹿の乳をしぼってそれを両親にあげていました。
 ところがあるとき、険しい山の中に入って、鹿の群れをさがしていたところ、猟師が鹿の皮をかぶった郯子を誤って射ようとしました。郯子はあわてて事情を説明しました。
 それを聞いて、その猟師ははじめて郯子が非常に親孝行な若者であることを知り、深く感じ入ったのでした。

眼の悪い両親に鹿の乳をおくる

八、雇われに行き母に供える
行傭供母

 後漢のころ斉の臨淄(今の山東省)に、江革(こうかく)という若者がいました。幼いときに父を亡くし、母親と二人で互いに頼り合って暮していました。
 この時代、何度も戦争があり天下は麻のごとく乱れ、あちこちに盗賊が出没しました。江革はそんな世の中に恐れおののき、母親もまた驚き惑うばかりでした。そこで物騒なところから避難したほうがいいと考え、江革は母親を背負い、わが家を後にしました。
 ところが運悪く途中で盗賊に捕まってしまったのです。江革は、自分がいなければ母親を養う者がいませんので、「わたしには、このとおり母親がいます。あなた方に連れていかれては母親のめんどうを見る者がいなくなってしまいます。どうかお許しください」と切々と訴えました。これにはさすがの盗賊もその親孝行に感じ入り、二人を放してくれました。
 こうして江革母子はやっと安全な地方に行くことができたのでした。やがて世の中も落ち着いたので、二人は家にもどりました。江革は人に雇われて仕事をして、わずかなお金をもらい母親を養いました。

雇われに行き母に供える

 自分では粗末な衣服を着て、靴もまともに履くこともありませんでしたが、母親には不自由をさせないように何かと気をつかったということです。
 このように仕事熱心で親孝行な江革はやがて推薦されて役所で働くようになり、高官に出世したということです。

九、みかんを懐(ふところ)にして親におくる
懐桔遺親

 三国時代呉の国呉県華亭(今の上海市松江)に陸績(りくせき)という人がいました。科学者になった人です。別名を公紀(こうき)といいます。6歳のときに、九江地方(いまの江西省)の袁術(えんじゅつ)さんという人の所を訪ねたことがありました。
 袁術さんはたくさんのミカンを出してご馳走してくれました。この地方にしかとれない珍しいミカンでした。陸績はそのミカンを二個とって、そっと着物の袖の中にかくしました。
 そして袁術さんの家から帰るとき、挨拶をしていたら、折り悪しく、袖の中に入れたミカンが袖から落ちて床の上にころがりました。
 それを見とがめた袁術さんがいいました。「陸ちゃん、なぜこんなことをしたの?」陸績が答えました。「このおいしいミカンをお母さんにあげたら、どんなに喜ぶかと思ったのです。お母さんはミカンがとても好きだから……」

みかんを懐(ふところ)にして親におくる

 袁術さんはこれを聞いて「小さい子どもの、このような心づかいは、めったに聞いたことがない」と陸績をほめたという。そういうわけで、世間の人々も陸績の親孝行なことを知っのたでした。
 陸績は成人して天文、歴算の専門家となり《渾天図》を書き、《易経》の注釈、《太玄経注》の編纂などをしました。

十、姑に乳を飲ませ世話をする
乳姑不怠

 唐の時代の話です。博陵(今の河北省)に崔山南という節度使がおり、その妻は唐夫人というお方でした。彼女の姑(しゅうとめ)の長孫太夫人はもう年老いて食べ物を歯でかむことができませんでした。これを心配した唐夫人は毎朝早く起き出し、姑のところへ行って、顔や手を洗ってやり、それから自分の乳房をとり出して長孫太夫人に飲ませてあげるのでした。そして髪をとかしたりして、よく身のまわりの世話をしました。
 こうして姑によく仕えること数年。何とか元気を取り戻していた長孫太夫人でしたが、あるとき病気にかかり、今度はお迎えがくるだろうと覚悟し、一族の人々を呼んで話しました。
 「私が唐夫人からうけた長年の恩を返さないで、死んでしまうことはまことに心残りなことです。私の子孫が、唐夫人のように孝養を尽くし義理を守ることを見習ってくれるならば、かならずわが一族は行く末も富み栄えるにちがいありません」
 このように姑に孝行な人は昔から少ないというので、誰もが美談としてほめたたえたということです。後に夫の崔山南は出世して高官になり、長孫太夫人のいったことが実現したのでした。

姑(しゅうと)に乳を飲ませ孝行する

十一、蚊があきるほど血を吸わせる
恣蚊飽血

 四世紀ころ晋の時代の話です。濮陽(ぼくよう・今の河南省北部)というところに呉猛(ごもう)という、まだ年はわずか八歳の子供がいました。家がとても貧しかったので、寝るとき寝台にかける蚊帳(かや)もありません。
 夏になると呉猛は毎晩のように着物をぬいで裸で寝て、自分のところに蚊が寄って来て血を吸われても苦にもしませんでした。どうしてこんなことをしたのでしょうか?
 自分が蚊を追い払えば、蚊は血を吸うことができないので、かならず父母のところへ飛んでいって体を刺すだろうと思ったからなのです。
 自分が蚊に血を吸わせれば、蚊は父母のところへは飛んで行かないだろうと考えたのです。

蚊があきるほど血を吸わせる

十二、虎と闘って親を救う
扼虎救親

 晋の時代に楊香(ようこう)という少年がいました。歳は十四才でした。
 ある日、父親といっしょに田んぼを耕しに行きました。働いていると突然、山の中から一頭の大きな虎が出て来て父親に襲いかかりました。「危ない! 速くお父(トウ)を助けなくては! この人食い虎め!!」楊香はわが身の危険をもかえりみず、大声をあげて虎を追い払おうと父の前に跳びだし、両手で虎のくびに捕りつき絞めあげました。
 虎はくびを絞められたため、父親に喰いつこうとしていた口を放しました。虎は楊香のすさまじい決死の行動に恐れたのか山へ逃げて行きました。父親も楊香も虎に喰われることなく、助かったのでした。
 この話を聞いた村の人々は、楊香のような少年が虎を追い払うことができたのは、きっと普段からよく親のいうことを聞いて、働きものの楊香に天の神様が不思議な力をあたえてくださったのだろうと話しあたっということです。

虎と闘って親を救う

十三、地を掘って金を出す
爲母埋兒

 晋の時代に、隆慮(今の河南省林県)に郭巨(かくきょ)という人がいました。父が死んでから家の暮らし向きが傾き、二人の弟に家産を分けてやり、一家は老母と郭巨夫婦の三人で、仲よく暮らしていましたが、家は貧乏でした。後に一人の子供が生れました。
 そのため、生活はますます苦しくなりました。母親は以前から病気がちでしたが、ちょうどその頃に病状が悪化しました。お金がないので、なかなか医者に診てもらうこともできません。そこで生れた子供を他人に売って、それでお金を手に入れようとしました。
 そんな悲しいことを考えたのは、以前、夫婦で商(あきな)いをしてみたのですが大したこともなく、いくら考えてもわずかなお金を手に入れる方法さえも見つからなかったからです。
 二人はなんどもなんども考え、裏の原っぱに行って母親の病気に効く薬草でもないかと思い、草の葉を摘み、根を掘ってみました。なんと親孝行なことでしょう。郭巨が何か太い草の根を掘り起こそうとしたとき、鍬(くわ)が地中の硬いものに当たりました。

地を掘って金を出す

 それを掘り起こしてみるとなんと黄金のかたまりが出てきたではありませんか。二人は家に帰り母親を医者に診せ、今まで以上に親孝行したということです。きっと二人の親を思う気持ちに天が感動し、その孝行の心に応えたのでしょう。

十四、氷の上に臥(ふ)して鯉を捕る
臥冰求鯉

 晋の時代、瑯邪(ろうや、今の山東省)に王祥(おうしょう)という子供がいました。王祥の母は早く亡くなり、父親は再婚をしました。その後妻の人が王祥の新しい母親となった訳ですが、これが大変わがままな人でした。またよく父に王祥の悪口を言いました。しかし王祥は心のやさしい子供で新しい母にもよく尽くしました。
 ある冬の寒い日に父母が風邪をひき、その母が魚の鯉を食べたいと言い出しました。そこで王祥は何とかならないかと池のところにやってきました。池には氷がはって人がのっても割れないほどでした。この氷を溶かさなければ鯉を獲ることはできません。氷を解かすため、王祥はやむなく服を脱いで、裸になって氷の上に寝そべって氷を溶かそうと考え、何とかして鯉を獲らせて下さいと天に折りました。
 すると、突然目の前の氷が一ヶ所ぽっかりと割れて、その氷の穴から二匹の鯉が氷の上に跳び上りました。王祥は大喜びして天に感謝し、鯉を家に持ち帰り、母に煮て食べさせたということです。

氷の上に伏して鯉を捕る

 成人してから王祥は県令(県クラスの行政区画最高長官。県知事)、大司農(国の財政大臣)、司空(土地・人民を司る)、太尉(最高軍事長官。国防大臣)となって位人臣(くらいじんしん)を極めた(臣下として最高の官位につく)ということです。
 この王祥の親孝行のためでしょうか、王祥が寝そべった所には毎年人が伏せたような形の氷が張るということです。

十五、官職を棄てて母を尋ねる
棄官尋母

 宋代の頃、楊州(ようしゅう)に朱寿昌(しゅじゅしょう)という者がいました。七歳のときに生母と行き別れ、すでに五十年がたっていました。
 朱寿昌は努力して神宗皇帝の時代に、官吏となりました。しかし、仕事の合間にはいつも別れた母のことを想い、いつの日か母親に再会できる日が来ることを祈っていました。そのため、あるときには指先から自分の血を絞り、その血で『金剛経』の写経をしたこともありました。
 歳をとるにつれて母親への想いは日ごとに強まり、いま母に会わなければ一生会えなくなると考え、ついに官庁を退職し、母親を探すためわざわざ故郷の楊州にまで出かけて行きました。
 その旅路は長く、天候も不順で、風邪をひいたりして、大そう難儀なものでした。ある日、とうとう彼は小さな村の道ばたで倒れてしまいました。
 ある旅人がそれを見つけて介抱してくれ、病気になってまで旅をする訳を尋ねました。彼の周りには村人たちが集まってきました。問われるままに、朱寿昌は長旅の

官職を棄てて母を尋ねる

わけを語りました。
 すると突然、彼らを取り囲んでいた村人の中から一人の七十歳ばかりの白髪の老婆が走り出ました。その人こそ、朱寿昌が長い間探し求めていた母親でした。母と子はしっかりと抱き合って泣きました。そして二人の弟にも合うことができたのです。多くの村人たちもまた感動して泣いたということです。

十六、雷を聞いて墓に泣く
聞雷泣墓

 三国時代、魏の国に王裒(おうほう)という孝行な若者がいました。王裒(おうほう)の父・王義(おうぎ)は時の皇帝の怒りに触れて罪も無いのに牢獄で亡くなってしまいました。王裒はこれを恨み、けっして皇帝のいる宮殿の方角に向かないで座ったといいます。王裒は毎日のように父の墓へお参りに行き、父の無念を思い墓の側の柏の木にすがって泣き続けたために、柏の木の皮がはがれて枯れてしまったということです。
 王裒は母に仕えて、他人が話題にするほど孝行者でした。その母親は、とても臆病な人で、いちばん怖がったのは空に鳴りわたる雷の轟きでした。王裒が外出先でたまたま雷の音を聞いたときには、急いで家に帰り、母親のそばにいて安心させるのが常でありました。
 その母親が亡くなった後の、ある日、大風・大雨で雷がはげしく鳴ったとき、王裒はその風雨をものともせず、母親のお墓にかけつけ、生前と同様に「私はここにおります。安心してください」といって、亡母の恐怖を取り去ろうと祈ったということです。

雷を聞いて墓に泣く

 王裒は村の子供たちに学問を教えていましたが、『詩経』小雅・蓼莪篇を読むときにはいつも涙を流しました。この詩には「私を生んでくださった父母は、いろいろな苦労をされた……」自分は父母の期待に応えられるようなことはできなかったと自分を責める内容だったのです。
 王裒が亡くなった両親にたいする孝心がこれほど強かったのをみると、両親の生前には計り知れないほどの孝行をしていたことでしょう。

十七、冬にタケノコを生(しょう)ず
哭竹生筍

 三世紀、三国時代の呉国の江夏(今の湖北省)というところに孟宗(もうそう)という人がいました。小さなとき父に死に別れ、いまは年老いた、それも病気の母親と暮していました。母親の病気は、治る見込みのない、先が見えている悲しい思いの日々でした。
 ある日、母親はタケノコが食べたいといいだしました。お医者さんに聞くと、「たしかに新鮮なタケノコのスープが体にはいいのだが……」といいましたが、そのときは雪の降る寒い寒い真冬でした。タケノコは春にならないと生え出てきません。この雪の中ではタケノコを探すのは無理というものです。
 それでも親孝行の孟宗は雪の降る日にもかかわらず、一人で竹林へ行ってタケノコを探しました。降り積もっている雪を掘ってみましたがタケノコがあるはずもありません。しかし母親にタケノコを食べさせたいという思いはますます強まっていきました。
 孟宗はタケノコが見つからない竹林の竹に抱きついて、大声をあげて「タケノコはどこにある! タケノコよ芽を出してくれ!」と大声で泣き叫びました。
 するとどうでしょう孟宗の目の前の竹林の雪が溶け

て、地面からタケノコがいくつも生えて来たのです。これはどうしたことでしょう? 孟宗の母親を思う孝行の気持ちが天地を感動させたのでしょう。
 孟宗は天地に感謝してこのタケノコを採り、母親に温かいタケノコのスープをつくって食べさせました。母親の病気もやがて快方に向かい、長生きしたということです。孟宗はのちに役人となり司空(土地・人民を司る)になりました。
 大きなタケノコの取れる竹を孟宗竹というのは、この孟宗の名からとったのが語源です。

十八、木像を刻んで親につかえる
刻木事親

 後漢の時代に河内(今の河南省黄河の北)に丁蘭(ていらん)という人がいました。彼が少年のとき、父母ともに亡くなってしまいました。丁蘭は大きくなるにつれて、父母があまりにも早く死んでしまったため、子供として充分に親に孝養をつくすことができなかったことを悔やみ、悲しい思いをしました。
 そこで木の彫刻で父と母の像をつくり、お堂を建ててその像を安置し、三度の食事を供え、木像を拝んでから自分の食事をしていました。
 その後、結婚したのですが、丁蘭は妻にも木像を拝礼するように頼みました。しかし、この妻が心ない者で、あるとき夫婦喧嘩のあとに、夫が大切にしている父母の木像の指先を故意に針で刺すような、ひどいことをしてしまったのです。
 つぎの朝、いつもの通り丁蘭が父母の像を拝みに行ったところ、なんと木像の指先から血が流れているではありませんか。丁蘭はこれを見て嘆き悲しみ、大声をあげて泣きました。
 これはどうしたことかとその理由を妻に問いただしたところ、妻が木像の指先を針で刺したことが明らかにな

木像を刻んで親につかえる

りました。これにはさすがの丁蘭も、がまんができず妻を責めました。そしてついに離縁してしまったということです。

十九、糞をなめて憂(うれ)える
嘗糞憂心

 いまから約2500年前の南斉(中国南部の国家)の時代に、癒黔婁(ゆぎんろう)という役人がいました。彼は孱陵(せんりょう)の県知事となって赴任してきました。それから十日も経たないうちに、なにか胸騒ぎがして仕方ありません。これはふるさとに残してきた病気の父親に何かあったのではと強く感じ、県知事を辞めて家に帰ってしまいました。
 帰宅した彼は医師に父親の病気の状態はどうなのか、どうすれば治すことができるのかと尋ねました。
 医師が言うには、父親の病気はかなり悪くなっている。病状がよいか悪いかを知るには、病人の便をなめてみれば分かる。その味が甘く苦ければ治りかけているが、違う味ならば、思わしいことではない、と。
 黔婁(ぎんろう)はそれを聞くと、簡単なことだといって、それからは毎日、父親の便を検査するのでした。しかし、その味が甘く苦いことはほとんどなく、父親の死が近付いていることを知るのでした。

糞をなめて憂える

 黔婁は心を痛めました。そして毎晩、北極星に向かって「自分を父親の身代わりにしてください。父の病気を治してください」と祈りました。しかし、やがて父親は亡くなりました。黔婁は父の霊を慰めるため三年ものあいだ喪に服したということです。

二十、たわむれに綺麗な着物を着て親を喜ばす
戲彩娛親

 周の時代、老莱子(ろうらいし)という人がいました。小さいときから両親によくつかえ、親孝行者として近隣の人々にその名を知られていました。
 しかし老莱子自身、もう歳はすでに七十歳にもなっていました。幸い父母ともに元気でした。老莱子は両親の前では、子供である自分が老人になっているということをできるだけ両親に悟らせないようにしていました。
 ある日、綺麗な着物を着て幼い子供のようにはしゃぎ、手に持った太鼓を打ち鳴らし、老父母に甘えてたわむれるふりをしました。そしていつも使っている水桶につまづいて倒し、水をこぼしてしまいました。
 とたんに子供のなりをした老莱子が大声をあげて泣きまねをしたので、老父母はそれを見て思わず吹き出してしまい、笑いがとまらなかったということです。
 老莱子がこんなことをするのは、息子が歳をとったかと老父母が悲しまないように、そしてまた親自身が自分たちも歳をとったと悲しまないようにするためだったのです。

たわむれに綺麗な着物を着て親を喜ばす

二十一、親のために桑の実を摘む
拾椹供親

 漢の時代の末年、汝南(今の河南省)に蔡順(さいじゅん)という者がいました。父親は蔡順がまだ幼いうちに亡くなり、母親によく孝養を尽くしてきました。
 当時、元帝の皇后(孝元皇后)の甥である王莽(おうもう)が反乱を起こし王位を奪いました。そのため天下が大いに乱れ、農民反乱(赤眉の乱)などが続発し、あちこちに盗賊が出没するといった世相でした。
 ある日、蔡順は母のために森へ桑の実を採りに出かけました。そしてその桑の実を紅い実と黒い実とに分けて、それぞれを二つの篭に入れていました。そこへどこからともなく盗賊があらわれました。
 賊が蔡順に尋ねました。「どうして桑の実を二つの篭に分け入れているのか?」と。蔡順が答えました。「熟して黒い方の実は母親に差し上げる分です。紅くてまだよく熟していない実は私の食べる分です。そのために二つの篭に分け入れているのです」
 それを聞いた盗賊は感心して、物を取るどころか、かえって三斗の米と牛のもも肉まで蔡順親子のためにくれて立ち去ったということです。

親のために桑の実を摘む

二十二、泉湧き鯉泳ぐ
湧泉躍鯉

 後漢の時代、漢州(今の四川省広漢市)に姜詩(きょうし)という人がいました。家族円満で親子はとても仲がよく、姜詩はとても親孝行でした。
 姜詩の母親は、江水のきれいな清水を飲むのが好きで、またその川でとれた鯉でなますを作って食べるのがとても好きでした。
 姜詩とその妻は、母のためにいつも長い道を歩いて江水のほとりに行って水をくみ、新鮮な鯉を求めて母に食べてさせて喜ばれました。鯉が多く手に入ったときは隣りの家のおばあさんにもあげていました。
 ある日、姜詩の家のすぐそばに江水と同じきれいな泉が湧きだしたのです。そして毎朝その泉の中に鯉が泳いでいたのです。それからというもの、夫婦は家のすぐそばで清水を汲み、鯉をとって母親に食べさせ、今まで以上の孝養を尽くしたということです。これはきっと姜詩とその妻の孝行に感じ入った天が授けた事実でありましょう。

泉湧き鯉泳ぐ

二十三、枕をあおぎ蒲団を温める
扇枕溫衾

 後漢の時代、江夏、安陸(こうか、あんりく・今の湖北省雲夢県東南から武漢市))の人で黄香(おうこう)という少年がいました。わずかに九才で母をなくし、毎日、亡くなった母を慕っていました。近所の人たちは、みな黄香は何と親孝行な子だと感心しました。
 さて黄香は母を思うだけではなく父親にも大そう孝養をつくしました。いつも夏の暑い日には、父親が眠っているその枕元で、父の体を扇であおいで涼しくしてやり、寒い冬の日には、先ず父親の布団に自分が入って暖めておいたそうです。
 黄香は少年のときからよく本を読み、文章がうまくその才能は“天下無双、江夏黄童”と遠くにまで知れわたったそうです。やがて役人になり、安帝(107-125年)のとき、魏郡(今の河北省)の太守になりました。魏郡が水害になったとき黄香は被災者の救済に全力をあげたということです。著書に《九宮賦》《天子冠頌》等があるそうです。

枕をあおぎ蒲団を温める

二十四、親のオマル(便器)を洗う
滌親溺器

 宋の時代の有名な詩人にして書家である黄庭堅(こうていけん・1045-1105)は山谷道人とも号した、洪州分寧(今の江西省修水県)の人です。
 彼は官吏として宋の哲宗・元宗に仕え、太史(記録官)として国史『神宗実録』を完成しました。
 黄庭堅はまたとても親孝行の人でした。自分が高官に出世して、使用人がいるにもかかわらず、母親への孝養を尽くし、よくめんどうをみました。とくに、毎日、朝夕母親の用いるオマル(簡易便器)の後片付けと便器洗いを自分でやり、それを使用人にまかせることをしませんでした。
 このような人柄でしたから、やがて知事となり、また今に残る詩やみごとな書も多くあります。後々の時代にまで官吏として、また文人として、そして孝養の士としてその名を知られる人は決して多くはありません。

親のオマル(便器)を洗う

田真兄弟
田真哭荆

 田真(でんしん)、田廣(でんこう)、田慶(でんけい)は三人の兄弟です。両親が亡くなってしまい、三人で親の財産をみな平等に分けました。この家の庭にきれいな花を咲かせる大きな木がありました。兄弟はこれも三等分しようということになり徹夜で考えました。「伐り倒して三等分しようか? 材木屋に売ってしまおうか?……」と。
 朝になったので、木を伐ろうと庭に出てみると、昨日まで葉が繁っていた木の葉がどうしたことか急に枯れているではありませんか。田真はこれを見て想いました。「樹木にまで心があるのだろうか? 我々が木を伐ろうと話していたことが分かって枯れたのならば、まったく我らは人として、この木の気持ちを解ってやらねばならない。なんと至らないことであっただろうか」そしてその木を伐らずに根元に水をかけてやったりしました。そうするとどうでしょう、木はまたもとの様に見事に葉を繁らせたのでした。

二十四孝・田真哭荆磚。北宋時代、北京故宮博物院藏。

張孝兄弟
偶値緑林児

 張孝(ちょうこう)と張礼(ちょうれい)の兄弟は、八十歳を超えた母のめんどうをみて仲良く暮らしていました。ある歳、天候が不順で田畑に実りがほとんどなく飢饉になってしまいました。そこで森へ行って木の実を拾っていると、盗賊が現れて張礼を殺して食べようと襲い掛かってきました。
 張礼は「私には年老いた母親がいます。今日はまだ母は何も食べていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破るようなことがあったら、私の家に来て一家もろとも殺して下さい」といって家に帰り、母親の食事を済ませて盗賊の所に戻って行きました。
 兄の張孝はこのことを知ると走って盗賊の所に行って「私の方が弟より太っています。私を食べて、弟を助けて下さい」というのでした。張礼は「これは最初からの約束です。私が食べられます」と二人で死を争った。
 これを見た残虐非道な盗賊も兄弟の孝行心にうたれ、こんな兄弟は見たことが無いと二人の命を助け、さらにたくさんの米と塩を与えました。兄弟はそれらを持って家に帰り、母親にいままで以上の孝行をしたということです。

歌川国芳「唐土廿四孝張孝 張礼」東京都立図書館蔵

訳者エッセイ

お天道様が見ている
 「おてんとうさまが見ている」とむかしの人はよくいった。むかしの人とは私の父母や祖父母などである。そんなに古いむかしではない。「悪いことも善いことも、ちゃあんとおてんとうさまは見ていらっしゃる。悪いことをすれば悪いむくいが、善いことをすればそのうちきっと自分のところにも善いことがやってくる」
 おてんとうさまとは、善いことも悪いことも天上から見つめている天の神でもあり、太陽でもある。特別に宗教を信仰しない人でも、天の神がいるであろうことは心のどこかに留めておいたほうがいい。それは自分の良心にふれることにもなり、何かを考えるときの指針にもなるものでもある。
 人生の指針にもなる「おてんとうさまが見ている」のことばだが、そのおてんとうさまに申し訳ないような、近年、中高年者の自殺が増えている。ある先輩がいっていた。「虫けらだって生きているんじゃねえか、人間様が自ら死んでどうなる」おてんとうさまが見ているんだから、やはり私たちは生きていかなくてはならない。ゆっくりでいいからがんばらなければならない。


親子の間は通じている
 仕事の都合でふるさとを離れ、親と会うのは1年2、3回という人は多い。今の時代は電話もあるし、メールもある。親とコミニュケーションをとるのにはどんな方法でもある。親に会いたければ飛行機、新幹線、高速道路を自家用車で行くことも難しいことではない。
 手紙だけでやりとりしていた時代には「便りのないのは元気な証拠」といっていた。手紙や電話がこなくとも、毎日、親が子を想い、子が親を想うだけでその思いは電波のように伝わっていくものなのだ。


尊敬された武士階級
 どこの国にもどの時代にも指導者層はいる。日本では江戸時代には武士が社会の指導層であった。もちろん、農民や商工業者の中にもすぐれた人はいたが、武士階級が社会の指導者層的立場にいたことは間違いない。
 武士の子弟は幼少のころから厳しくしつけられた。それは社会の指導者階級になるための訓練でもあった。彼らは清廉な生き方をしたがゆえに一般庶民から慕われたのである。
 「ボーイズ ビー アンビシャス!」少年よ大志を抱け! といったのは明治の初め札幌農学校に赴任したクラーク博士である。博士は日本人学生の優秀な資質を賞賛している。それは博士が、若者が養うべき気質として常々力説していた「健康、節制、従順、勤勉、正直、剛毅、聡明、尊敬、知識、大志」を、武士道の精神で育てられた日本人学生が皆そなえていたからであった。
 後に名著『武士道』を書いた新渡戸稲造博士は札幌農学校の第2期生として、このクラーク博士の方針を受け継ぐアメリカ人教授たちから指導を受けるのである。10名の同期生には宗教家・評論家として活躍した内村鑑三などがいるが、同期生はいずれも士族(旧藩士)の子弟である。


父の服になるはずの布が……
 小学1年生のとき、学校行事で学芸会があった。各学年各クラスで合唱や、寸劇、器楽演奏、舞踊などいろいろ出しものを演じるのだ。昭和20年代だから娯楽の少ないときで、農閑期でもあり村の人たちが大勢見にきた。
 私は「カエルの相撲大会」というような題名の劇にでることになった。母にそのことを話すと「何を着ればいいのかね」とちょっと困った様子。その劇では特に衣装は必要なく、カエルの顔形をしたものを画用紙にクレヨンで描いて、それを切り取って別の紙で作った輪を付けて頭にかぶるだけの簡単な小道具でカエルができた。母は私の晴れ舞台? にいい服を着せたかったのか、いろいろ考えてくれていたようだった。
 学芸会の前の日に母は、仕立て屋に頼んでおいたカーキー色のラシャ地でできたズボンを私に見せた。その生地は父が戦地から帰るときに、兵舎の中から持ち出してきたものだった。 父はその生地でいずれは背広でも作ろうとしていたらしい。そのころはわずかな布地を買うことも儘ならない時代である。
 「カエルの相撲大会」で私は“痩せガエル”の役だった。私の出番は“太っちょガエル”と相撲 してすぐに負けてしまう役柄。せりふは「まいった!」のひとことだけ。もちろん母が準備してくれた新しいズボンをはいて“出演”したのであった。


親に見せたいものは
 私の父は60代で亡くなったので、私や弟の子供つまり父にとっては孫がまだ小さなときに亡くなった。その孫たちが希望の大学に合格したり、結婚したときは父に見てもらいたかった。母にそれをいうと「そうだねえ…」といった。母は孫たちの子供、つまり曾孫も見た。親にはやはり長生きしてほしいものだ。
 自分に孫ができてから、祖父母のことをよく思い出す。自分が孫のことをあれこれと思い、孫には自分が経験できなかったいろんなことをやってほしいと思ったりする。私の祖父母も私を 慈しみ、きっと私がいま孫に対して思っているようなことを考えていたことだろう。
 こうして親から子、子から孫、そうして続いていく人の営みを支えてきたものとは何だったのかを考えるこの頃である。

お墓参り
 ふるさとを離れて生活しているので、祖父母や父の入っている墓参りはお盆に帰京したときの、年1回くらいのものだ。テレビで、ある占い師のおばさんが「祖先のお墓参りをしないとバチがあたる! お墓参りすると運勢がよくなる!」というようなことをたびたび話していた。そのせいか私の子供たちが「今年の夏はお墓参りにつれてって」といってきた。
 中国人に人気のある政治家・周恩来はいまだ革命が成らない1941年のある集会で「ふるさと浙江省にある母親の墓へ参って草むしりができたらどれほど幸せなことか、生涯を革命と祖国に捧げてしまった蕩児が母にしてやれる最低限のことでしょうに……自分が家を離れてから、早や30年の歳月がながれています。母の墓前の楊柳はもう大きく伸びていると思います」と語っている。


母よ、もし私が医者であったなら
 81歳の母は若いときの働きすぎがたたったのか、腰が痛い、膝が痛いといい始め、最近はイスから起ち上がるのも大変なようだ。若いうちに早く手術をすればよかったのだろうが、何かと忙しかったりして機会を逃してしまった。今では心臓が弱って大きな手術はできなくなってしまった。帰省して母の不自由そうな動きと痛がる姿をみると、アーもっと早く母の身体を気遣ってやるべきだったと思う。もし、自分が医者だったら、何とかできたかもしれないなどと思ったりもする。これは親不孝息子の自己弁護にすぎないのだが……。


母の手伝い
 昭和30年代の初めのころ、我が家は新潟県の小さな村で、祖父母と母は農業をし、戦地から帰った父は町工場に務めていた。そのころの農村の畑の肥料はほとんど人糞尿か堆肥であった。農家の人は4~5km先の町の民家や工場の社宅を回って人糞尿を汲み取り集め、畑の肥料にしていた。我が家も3ヶ月に一回くらい父の勤める工場に行って汲み取りをした。
 母の引くリヤカーに桶を積んで父のところへ行くと、顔中真っ黒になった父が便所のところへ連れていって、母が作業をした。父の同僚たちが一服にでてきて、私の頭をなでたりした。
 桶がみな一杯になると母がリヤカーを引き、私が後ろからリヤカーを押して砂利道の国道を帰った。ありがたい仕事ではなかったが、農家にとっては必要なことであった。私が小学校6年か中1のころである。いま思えば、そのころ母はまだ30歳代である。しかし、母の弱音など聞いたことはなかった。誰もが貧乏な時代であり、家族が協力しなければ生活できなかった。
 それはいまも変わらないことであるが、農家や商家の子どもでさえ家の仕事を手伝わない子が増えたという。親もあえて子どもに手伝わせないというから困ったものである。


魚捕りを手伝う
 私の生家は日本海に近く、祖父が漁師さんの地引網漁の手伝いをしていたので、朝、祖父が浜辺にいるところへ朝ごはんを運ぶのが祖母の役目だった。ワッパという木の弁当箱にご飯を入れて、塩漬けイワシの焼き物に漬物がおかず、そして小さな鍋に味噌汁を入れたもの一式。私は松林を越えていく祖母にくっついて浜へいった。
 祖父は私の顔を見ると、いま上がったばかりの魚(春はいわし)の小さなものを1匹指で手際よく捌いて骨を取り、塩水で洗って私の口へ入れてくれた。即席のさしみである。あんなに美味いものはなかったといまでも思い出す。
 中学生になると9月の、ハマチのやや小さなもの(田舎のことばでヨウといった)が捕れる時期には、大人と舟に乗って沖へいき網入れをし、網の先の浮きとロープが結ばれた場所と網の袋部分など浮きのつけてある何ヵ所かに、私たち赤褌の中学生や高校生が海へ跳び込む。私たちは魚が網の中から逃げないように網の浮きにつかまってバタ足をして、「ホーホー」と大声をだすのである。海上から海岸を見ると人間は犬くらいの大きさにしか見えない。
 こうして浜では地引網漁のロープを大人たちが引いて私たちは網の浮きにつかまってバタ足を繰り返す。さすがに9月の海水は冷たく、網が浜辺に引き上げられるころには唇は紫色になっている。目的のヨウがたくさん捕れると私たち中学生も分け前の2、3匹をもらえた。家にヨウを持って帰ると祖母が大喜びして、さしみや煮魚にしてくれた。豊かな海の時代であった。


おっぱいをもらいに
 私を生んだ母はおっぱいの出が悪くてこまったという。終戦直前だったので、いまのように粉ミルクが手に入らない時代であった。そこで祖母はかわいい孫の私をおんぶして、カクマキという防寒着を被ってわらぐつをはいて雪道を近くの家のお嫁さんにおっぱいをもらいに行った。いわゆるもらい乳である。
 その家には私と同じころに生まれた男の子がいて、私はそのおばさんのお乳をもらって飲んだのだと祖母や母に聞いた。しかし、私はそのおばさんの息子、私と同年の男の子を知らない。母の話では小さなときに病気で亡くなったという。おばさんには5人の子供がいた。高校生になったころでもおばさんに会うと、「あんちゃ(お兄ちゃんの意味)おっぱいあげるかね!」と いって私をからかうのにはまいった。おばさんは私を見ると「うちんのも元気でいればあんちゃみたいに大きくなったろうにね」といった。
 私は、自分がおばさんのお乳をたくさん飲みすぎて、その子の分が足らなくなってしまったんだろうかと思ったりもした。


秘伝の蚊取り
 昭和20~30年代は私の生家の新潟県では、夏の夜寝るときはもっぱら蚊帳(かや)を吊っていた。暑い夜に雨戸も開け払って蚊帳の中で眠るのは、いま思い出すと風情があった。自然が手付かずだったし蚊は多く、網戸もなかったので家の中へどんどん入ってきた。蚊取り線香もあったが、たいして役にはたたなかった。夕食のときなど祖母はウチワで飯台の下をあおいで蚊がこないように気を遣っていた。
 お盆のころには祖父が、「蚊が多いな、蚊取り草でも燻(いぶ)すか」といって、浜辺にある蚊取り草(浜ゴウという植物)の葉っぱを取ってきて、囲炉裏の中にいれた。葉っぱは生(なま)なので燃えずに白い煙を吹きだした。家中その煙が漂って、これで蚊が逃げだすと思われた。この蚊取り草燻(いぶ)しはどうも祖父がどこかから聞いてきたものらしく、友達の家では知らなかった。祖父にとっては家族を蚊から守る大切な秘伝であったのだろう。


インディアンにさえ劣る日本
 『ダンス・ウイズ・ウルブス』というアメリカ映画がある。南北戦争の時代、インディアンと逃亡軍人のふれあいのドラマである。敵対する凶暴なインディアン部族が温厚なインディアンの村を襲い、財産の家畜や女子供を略奪しようとする。
 自分たちの村、部族、女子供を守るため温厚なインディアンの男たちは死闘をくりひろげる。それはもう凄まじい戦争である。自分たちの村、家族を守るということがどんなに大切なことなのか、またどんなに大変なことなのかが強烈に伝わってきた。我が日本国には北朝鮮に拉致された人が百人単位でいる。だが私には国は何もしていないように見える。戦争に値するできごとであるにもかかわらず。



身売りされた娘たち
 ふり返りふり返りいくつ峠を越えただろうか。三人の娘たちと男が一人歩いていた。もう二度と見ることがないかもしれない、ふるさとの山や川や田んぼ。目をこらして見つめていたが、すっかり山の影にかくれてしまった。息をきらしてたどり着いたのは越後(いまの新潟県)と上州(群馬県)を分ける三国峠である。男にうながされて一服したが話しだす者はいなかった。
 そこにいるのは、江戸時代の中後期に不作や飢饉で越後から江戸や上州に、前借の年季奉公にだされた十代の娘たちであった。年季奉公といえば聞こえはいいが多くの娘たちは売られたも同然であった。娘の身売りは越後だけでなく、当時の日本の農村では数年おきの不作のたびに繰り返された。娘たちはこれ以上できない親孝行をして旅立ってきた。親たちにとってはまさに身を切られる悲惨な別れであった。
 まだ十代の越後の娘たちが売られた先のひとつが上州木崎の宿場である。娘たちはここの旅籠で下女となった。いわゆる飯盛女である(食事の給仕をしたりするのが名目で旅人の相手もする女性。宿場女郎とも)。上州は街道が発達していた関係で、多くの飯盛女をかかえていた。木崎宿で旅籠の多かった時代は六十余軒。弘化二年(1845)木崎宿には女たちが二百六十人もいたという。
 越後から身売りされてきた娘たちの身の上はどんなものであったろうか。群馬県太田市新田地区、木崎に残る木崎節の古い歌詞に。
木崎街道の三方の辻に
お立ちなされし色地蔵さまは
男通ればにっこり笑う
女通れば石とって投げる
これがヤァエー木崎の色地蔵さまよ ヤァエー
越後蒲原どす蒲原で
雨が三年日照りが四年
都合七年ききんが続き
新発田様へは御上納が出来ぬ
田地売ろかや子供を売ろか
田地は小作で手がつけられぬ
姉はじゃんかで金にはならぬ
妹売ろうとて相談きまる
わたしゃ上州へ行って来るほどに
さらばさらばよお父つぁんさらば
さらばさらばよお母さんさらば
まだもさらばよ皆さんさらば
新潟女衒にお手々をひかれ
三国峠のあの山の中
雨はしょぼしょぼキジん鳥や啼くし
やっと着いたが木崎の宿よ(後半略)
 この木崎節はじつは越後の娘たちが伝えたふるさとの盆踊り唄「新保広大寺」のくずし(アレンジ)なのである。この民謡は今も新潟県十日町市に残っている。木崎節の内容は悲惨だが、自分たちの身の上を唄って人生の応援歌にしていたような越後女の心意気さえ感じられる。その歌を唄う心の奥には親への思いが詰まっていたのである。やがてこの歌が上州民謡「八木節」になったという。


親、親足らずとも……
 わが師につれられてよく行く居酒屋で、ときどき顔を合わす人がいる。わが師はその町内では先生と呼ばれる人である。先生がその顔見知りに聞く「Oくん、親父さんは元気か?」「はい先生、元気は元気なんですが、皆さんに迷惑かけてばかりで、恥ずかしいたらありません。もう仕事はやめろといってるんですが、いうことを聞いてくれません」
 このOさんの父親は豆腐屋さんで、この道60年もの人。長年近隣の町内を売り歩いてきた。子供たちは独立して、公務員の息子Oさんと同居しているから、もう悠々自適でいられる身分。しかし、やはり長年の豆腐売りはやめられないようだ。夕方ひと仕事終わると立ち飲み屋でイッパイやるのが何よりの楽しみのようだ。しかし、歳のせいか、このごろはよく酔いつぶれて知り合いから家へ連れ帰ってもらうそうである。
 先生がいう「まあ、ちょっとこまった親父さんではあるが“親、親たらずとも子は子たれ”ということばもある。君は親父さんの生きがいまで奪ってはいかんよ!」Oさんにはかなり胸にひびく言葉であった。



生みの親の最後を看取った同級生
 60歳のとき小・中学校の同級会があり、久しぶりで参加した。同級生たちは皆子供たちも独立し、孫のいる者も多く、ほとんどの男たちは定年後の人生をどう過ごそうかと語っていた。その席で私が淡い想いをよせ中学・高校の一時期に文通していた人に20数年ぶりに会った。お互い元気なことが何よりであった。
 彼女は赤ちゃんのときに養女としてもらわれてきた人で、育ての親である彼女の母親は私もよく知っている。30代のころの同級会で会ったときは、彼女はすでに結婚しており、生みの母に会いに行ったことを話してくれた。今回の同級会で彼女は生みの母を引き取り、最後の2年間を一緒に過ごしたことを話してくれた。
 彼女は「母の実家はG村なの」と教えてくれた。そこのお墓に母の骨を納めたといっていた。G村といえば、私が1970年代に民俗調査でたびたび通っていた新潟県西部のなつかしい村の名であった。忘れられない思い出深い村の名である。私が思春期のころ淡い想いをいだいた人の生みの母の生まれた土地。私にとってそれは白髪がふえたころに知った人生の奇しき話である。


冬の道つけ
 雪国の新潟でも近年はあまり大雪が降らなくなったという。私が子供のころはかなりの大雪が降った。2階から出入りした記憶は高校を卒業するまでに2回あった。
 朝、起きると祖父が家から国道まで三百メートルばかりの道の、夜中に新しく降り積もった雪を、ワラグツにカンジキをつけて踏み固めてゆく。これが雪国の道踏み――道つけだった。その祖父がつけてくれた道をつかって父は会社へ、私たち兄弟は学校へ向かった。
 午後、私たち兄弟が学校から帰るころは祖母か母が道つけして、私たちは無事に家へ帰れたのである。雪降りが続く夜、いつも残業で帰りの遅い父のために時間をみはからって祖父がまた道つけに行く。今のように電話で帰りを連絡するすべがなかったのである。あまりに父が遅いと祖父は寝るまで2回も外へでて道つけをした。
 東京で暮らすようになってこの冬の雪との格闘がなくなりホッとした思いをしたことがあった。12月末から2月半ばまで、山深いところでは3月半ばまで雪との闘いが続くのである。だれかが道をつけなければ生活は中断される。一家が協力して隣の家まで、あるいは国道までの道つけをしなければならなかった。


笹もちの香り
 私のいなか、新潟県頚城地方では7月1日の節句には笹餅をつくって食べ、田植えが終わり、田の草取りも始まって、1年の半分が過ぎたことをしのぶ。手のひらのような笹につきたての餅を適当にのせて上にもう1枚笹をのせる。これが笹餅である。
 前日の6月30日はこどもたちが近所の仲間をさそい中学生をリーダーにして、田んぼの近くの用水の土手にある笹原へ行って笹を採る。100枚とれば50個の笹餅ができる。どの家も100個あまりの笹餅をつくった。笹を家に持ち帰ると祖母や母がきれいに洗って同じ大きさの笹をそろえておく。
 7月1日の朝は、祖父と父が交代で杵をふり、祖母があいどりをして臼の中の餅を反した。母はもち米を蒸かすのに忙しかった。
 農家であっても餅をつくのは年末。これは正月のお飾りや、雑煮、汁粉などに使い、保存食である。2番もちといって旧正月ころにまた餅をついたこともある。あとは春祭りに少し餅をついたり赤飯を作る。なにしろ餅はめでたいときの食べ物という感じがあった。
 笹餅、ちまき、笹団子と地区によって節句の祝いの食べ物が違ったが、自分の家でとれた餅米で自分の家総出でつくる笹餅は、餅に笹の香りがうつっておいしさも格別である。この餅の笹をはいで黄粉や、砂糖をつけて食べた。
 知り合いに中国から日本へお嫁にきた娘さんがいる。その結婚式に招待されたとき、諸般の事情で日本での結婚式に出席できない中国にいる母親からのメッセージが読み上げられた。「私たちはこの良き日に中国でお餅をついてお祝いします。どうか幸せになってください」とあった。


一家八人家族
 父の生まれた土地は新潟県でも有名な地すべり地帯で、父の生家も地すべりで家を流された。私がいくつのころか父と流された家の跡を見に行ったことがあり、父が生家の前で立ち尽くしていたうっすらとした記憶がある。私が中学を終えるころまでは、お盆には必ず父の生家へ行くのが慣わしだった。母が準備した魚をみやげに、ほとんど父と私二人で国鉄で3駅先の駅まで行き、そこのバス停からバスで終点まで乗り、まず父の姉の嫁ぎ先へよって仏壇に手を合わせ、お墓参りもした。 冷たい水で冷やしたトコロテンが必ずでてきて、それが楽しみだった。
 そこから父の生家まで歩きで、父が通り道の池や川の話をしてくれた。父の生家は長兄、私にとっては叔父が継いでいた。叔父の家へは近道があり、本道から寺の下へ抜ける小道があるのだが、 ここの大きな杉の樹に日本リスが2匹いてミョウガの藪の中でドングリなどを探しているらしく、 人が通ると杉の樹に跳び移って樹から樹へ跳んで逃げた。大きなリスだった。
 父の生家に着くと叔父が炭焼きをしていたのを見に行ったり、近くの溜池に大きな鯉がいて父は釣竿をもって樹の影で糸をたらしたりした。今はキャンプ場になっている「大出口」という清水が湧き出ている場所へ連れて行ってもらったりした。鬱蒼としたブナの樹の下にコンコンと清水が湧いていた。
 父から遊んでもらったり一緒にどこかへ遊びに行くなどめったになかったが、小学校1年か2年のころ夏休みに、海水浴へつれていってもらったことがある。家から少し歩いて砂山を越えれば海があって、みなそこで泳いでいたのだが、父は岩場のあるところを私たちに見せたかったようだ。1歳上の隣の家の子と私と弟の4人で北陸線のSLに乗って筒石(いまの糸魚川市)で降りた。その頃は国道8号線も狭く砂利道、舟を引き上げておくワイヤーが舟屋から国道をまたいでいた。筒石には細い小さな川が海へ入るあたりに砂浜があってそこで泳いだ。父は天草やサザエをとった。まだ小さかった弟は川の水がたまって池になり太陽に温められた水の中で遊んでいた。
 我が家は最盛期には8人家族であった。丸い飯台(テーブル)の周りに座ってご飯を食べた。 祖父は囲炉裏で焼いたトウガラシに味噌をつけたものを肴に晩酌をし、祖母と母は忙しく台所を行ったり来たりした。畳が敷いてあったのは座敷と父母の部屋だけで、あとは祖父が織ったムシロが敷いてあった。夏は畳もムシロもみな上げて板の間になり、板の間の拭き掃除は夏休みの手伝いのひとつだった。父は工場勤めをしていて、いつも残業で帰宅は遅かった。あの小さな丸い飯台に8人が向かい合ってご飯を食べていたのが懐かしい。
 父の会社で家族慰安会というのがあって、町の映画館第一劇場で何か映画を見せてくれるという。私が中学か高校のころで授業が終わってから行った。途中入場で2本立て映画の1本目が終わって母を探し、母が手作りしてきた梅漬のシソの葉を刻んだ混ぜご飯のおにぎりを食べた。父は何か係員の役目でもあったのか劇場の中で会った記憶がない。当時の娯楽は映画だったが、映画館ではなく学校の講堂やお寺の本堂で青年会などが主催する映画を見に行くのが精一杯であった。家庭では夜ラジオを聴くことが多かった。
 私は社会人になって勤務先の工場で労組の役員を十五年ほどやった。そこには父の勤めていた工場から転職した人が何人もいて、父も労組の委員長などやっていたので、「お前もおやじさんの血を引いたな」と言われた。高校のとき父に頼んでそこの工場でアルバイトをしたことがある。旋盤の補助作業でステンレスの板が削られてバネのような切り屑がたくさん出てくるのを片付けたりした。終業後浴場へいくと、「おやじさんに似て大きいな」などと父の同僚の人に話しかけられた。
 私もすでに定年を迎えた。父の時代は五十五歳定年だったと思うが、そのころ父は何を考えていたのだろうか。父は少し早く亡くなったと思う。今も元気で生きていて孫や曾孫の今を見れたならどういって喜んでくれたろうか。それにしても歳月人を待たず、自分も孫の将来に幸あれと思う年齢になった。


孫の鼻汁を吸ってしまった祖母
 弟は小さなときはよく風邪をひいていた。子守役の祖母の背中におんぶされていたのをいまも思い出す。
 あるとき、例によって風邪ひきでぐずっていた弟だったが、いつまでも泣き止まず、口をあけてゼイゼイいいはじめた。これは鼻が詰まってしまったと祖母は思ったのだろう。弟を抱きかかえると、自分の口を弟の鼻にあてて詰まっている鼻汁を吸い取ろうとした。二、三回それを繰り返し、弟はいきなりの祖母の行動に驚いて一瞬泣き止んだが、祖母の“治療”が終わると大泣きした。しかし、祖母のおかげで鼻が通って呼吸が楽になったとみえて、やがてスースー鼻息を聞かせて眠ってしまった。祖母や母でなければできない行動であった。
 いまやオムツはすべて紙オムツで、出産前にオムツを縫い、出産後オムツを洗う人はいなくなった。しかし紙オムツを丸めてポイの現代とはちがって、布オムツでじっくり自分の子供のウンチを観察したことが役にたつことがある。健康なウンチはどれくらいの量がでるか、どんな色がいいか、硬さは? 便利になったことで失われてしまうことがここにもあった。


おまえはその器にあらず
 仕事上の知り合いであるA先生は教育者として働いてこられ90歳を超えた。いまも読書の量は若い人に負けない。2人の息子さんも一流会社の役員として活躍しておられる。そのA先生とかなり親しいEさんにお会いしたときこんな話を聞いた。
 あるときA先生の息子さんの一人がお父さんに相談した。「お父さん、こんど子会社の社長をやってみないかという話があるのですが」と。そのときA先生はこういった。「たとえ子会社でも社長となるにはそれなりの決意がいる。おまえはナンバー2としては有能かもしれないが、親の私から見て社長の器ではない。社長という響きのよさに大事なことを忘れてすぐに引き受けてしまう人がいるが、それはよくよく考えなさい」と。親だからこそ言えることばであった。


新聞配達をしていたころ
 中学生のときに二年以上新聞配達をした。知り合いの新聞店の人に頼まれて始めたことであった。毎朝5時ころに起きて自転車で2㎞余り先の新聞店まで行って新聞を受け取り、自分の受け持ち地域を配達する。春、夏はいいが、雪国の冬の新聞配達は大変だった。雪のため歩くこともあったし、冬だけでなく雨の日は新聞を濡らさないように気をつけた。今のように雨の日に新聞一部づつポリ袋に入れることなどない。
 新聞休刊日というのも1年に2回あったかどうか? とにかく毎朝雨が降ろうが雪が降ろうがやらなければならなかった。配達先の大きな犬にお尻を咬みつかれたこともあった。このときは祖母が怒り心頭して犬の飼い主の所へ怒鳴り込みに行ってくれた。1ヶ月毎朝やってアルバイト料は1000円に満たない額であった(50年以上も昔のこと)。
 この時代「13,800円」という流行歌が流行った。それは大学卒の初任給が13,800円で当時の月給と生活を歌ったもの。私が昭和38年(1963)新潟で社会人になったときの日給が416円。1ヶ月働いても残業がなければ手取り1万円超えなかった。
 新聞配達は特に小遣いがほしくてやっていた訳ではない。アルバイト料のほとんどは親に出していた。社会人になって、中学生だった妹の親子文集の中に母が子供たちのことを書いており、「長男は中学生のときに新聞配達をして家計を助けてくれた」と私のことを記していた。私には家計を助けたなどという気持ちはまったくなかった。あのころはどこの家もみな貧しかった。


春耕の楽しみ
 私の家は農家だったので、子供のころ――小学3、4年生のころからよく田畑にでて手伝いをした。春先にはまず田んぼを耕す。祖父や母について先が三叉になっている鍬(三本鍬)をふりあげて土を起こす。そのころは人力か牛が鋤を引く春耕が主流でハンドトラクターがでてきたのはずっと後である。
 私よりどんどん先に耕し進んでいる祖父が「おーいドジョウがいた」と私に声をかける。わたしは準備してきた魚篭(びく)をもって祖父のところへいく。祖父の鍬先にあたって腹のあたりが傷ついた大きなドジョウが祖父の手から魚篭に落ちた。
 田んぼを耕していると、私の掘り起こした土の中からもドジョウがでてくる。秋に水のなくなった田んぼでそのまま冬眠していたのだ。こうして夕方までには十数匹のドジョウがでてきた。けっこう大きいので祖父の晩酌の肴になる。祖父は大きなものを焼いて食べたり、残りを鶏に食わせたりした。鍬で傷つかなかったドジョウは私の観賞用にガラスビンに入れて泳がせた。雨の日になるとドジョウが活発に泳ぎ回ったことを覚えている。


孫を抱いて眠れば暖かい
 小学校へ行く前の小さなころは、夜寝るときは「むかし、むかし、して」(むかし話を聞かせて)といって、祖母か祖父の布団にもぐりこんだ。祖母はむかし話のレパートリーがかなり多く、とても楽しみだった。一つ話し終わると、「もっと!」というのが常であった。四つも、五つも話が続くとさすがの祖母も「もう寝ろて!」といって自分のほうが先に眠ってしまった。
 冬は、わら布団といって、秋の稲の脱穀のときにでる稲わらの穂くずを布団生地に詰め込んだ分厚いわら布団を作って寝た。祖母はわら布団で孫と寝れば、極楽極楽とかいって喜んでいた。
 私も孫をもつ年代になったが、まともに祖父母が聞かせてくれたような「むかし話」を語ることができない。祖父はほとんど文字を読めず、必要があれば孫の私に読ませていたし、祖母は私が借りてきた漫画を声をだしてたどたどしく読んでいた程度だった。孫であるわたしは祖父母の何十倍も勉強しているのに、記憶力では彼らのほうが私を勝っていたようだ。


蚕さんの糞
 我が家では私が中学生になるころまで蚕を飼っていた。養蚕である。1年4回、虫眼鏡で見ないと分からないような小さな小さな蚕がやがて5~6センチの白い色の虫になり、体が黄色くなってマユを作る。養蚕をはじめたとき祖父と祖母はまだ若く、長野県上田あたりへ行って養蚕農家に住み込んで蚕の飼い方を習ったものだという。
 蚕を祖父母も母も「カイコさん」とさん付けで呼んでいた。蚕さんは小さなときは家の中の部屋で育てられた。大きくなると人間様の暮らしている部屋の畳やムシロを上げて、板張りの床に桑をならべて蚕に食べさせた。夜寝る前にその日最後の餌である桑をやるのだが、布団のなかにいると、蚕さんが桑を食むサワサワという音が聞こえるのである。かすかな音なのだが今も耳に残っている。
 蚕さんがいてかなわないのは家のなかが黒緑色の小さなツブツブの蚕さんの糞が散らばることであった。その黒緑色の小さなツブツブのものは丸いため床をころがって、家の中の人間様のいるところへもやってきて、よく足裏にくっついた。いくら桑の消化物といっても気持ちのよいものではない。
 しかし、蚕さんは現金収入をもたらす大切な大切な生き物であるというのは、祖父母や母の接し方をみれば理解できることであった。学校から帰ると祖父が私をリヤカーにのせて桑畑に桑を切りにいった。祖父の切った自分の背丈ほどもある桑の枝を縄でゆわえてリヤカーいっぱいに積み、家に戻る。蚕がつくるマユはいい値段で売れたというのを知ったのは高校に行ってからである。


伐られた山桜
 我が家は団地のアパートの三階にあってベランダの下にはいろいろな樹木が葉を茂らせている。その中に1本の大きな山桜の樹があった。もともとこの団地ができる前の武蔵野の雑木林の中にあったものであろう。春には白い花を咲かせみごとな光景を見せてくれた。朝起きてこの山桜の花を見るとなぜか「しきしまの大和心を人問わば朝日ににおう山桜花」の一句が想いだされた。
 ある秋の朝、外でなにやらガーガーと大きな音がする。窓を開けてみるとあの山桜の樹がチエンソーによっていままさに伐り倒されようとしていた。どうしてこんなすばらしい樹を伐るのかと思った。それは一階の住人が陽当たりが悪いからと団地の管理事務所にかけあった結果の伐採であった。私にすればこの山桜でそれほど陽当たりが悪くなっているとも思えなかった。
 作業は瞬く間に終わり、いくつかに伐り分けられた桜の樹はトラックで運ばれていった。樹の立っていた場所には痛々しい姿の山桜の根元が残り、切り刻まれたおが屑が落ちていた。数日すると根の部分に茶色のヤニが吹き出てきた。それは山桜の血であり涙であったろう。次の年の春に根元から小さな芽がでてくることを願っていたが、二年もするとその根も朽ち果てて見えなくなってしまった。


生活に追われて
 私の子供のころは親から遊んでもらったことや一緒に遊びにつれて行かれたことは、とても少なかった。家は農家で祖父母がやり、父は工場務め、戦後の混乱期であったから、みな生活に追われていた。
 私の小学校は約三分の一の生徒が工場の社宅に住んでいた子供たちで、残りは半農半工で、祖父母は農業、父親は工場務めの家が多かった。授業参観は毎月あったが、母が授業参観に来たのは一年に一回くらいで、それも私たち兄弟三人の教室をかけもちしていた。一年に一回でも授業参観に来れればまだいいほうで、まったく来ない親もいた。
 なぜかといえば、農家は忙しい。天気のいい日なら農作業は朝から晩までいくらでもある。いくら母親が行きたいと思っても舅や姑の前でそれを言い出しにくかった。
 田んぼで学校から流れてくる朝の放送の音を聞いて、自分の子供のことを思っているのがせいぜいであった。父親にいたってはわざわざ会社を休んでまで授業参観に行くようなことはほとんどない。それよりも工場で1時間でも余計に働いて稼がなければならなかった。
 私はこれがあたりまえだと思っていたし、家の田畑の手伝いも当然と思っていた。それでも学校から帰ると祖父母や母に見つからないようにカバンを玄関にそっと置いて、同級生のところへ遊びに行った。4、5人がグループになって上級生と野原で遊んだ。桑イチゴやイタドリなどの野の草木や実が空腹のお腹を少し満たしてくれた。

親孝行の教科書 二十四孝

2015年3月7日 発行 初版

著  者:郭居敬(撰)  那連一郎(訳)
発  行:CAアーカイブ出版

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CAアーカイブ出版

訳者:
那連一郎(なづれ・いちろう)
一九四五年生れ。中国史地研究家、フリーの編集者、著述家。一九七〇年代から中国と関り、新疆、チベット、青海、雲南、甘粛などで調査旅行、登山、トレッキングを行う。編訳書に『万里の長城』『鑑真和上伝』『大唐大慈恩寺三藏法師傳写本帳』『孫思邈の千金食治』などがある。遺しておきたいコンテンツの電子出版に取り組む。

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