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この本はタチヨミ版です。
エソラコーヘレト(データ配信版)
三糸ひかり
目次
はじめに
楽園のまなざし
エソラコーヘレト
大切なことは、そんなに多くない。
国家に好ましいと認識される市民が読むには相応しくない小冊子 ――または、小さないきものによる思索の集合
【全般】データ配信版についての方針
・確認作業中に発見できた、明らかな誤字・脱字、間違いなどは改めます。
・配信用データを作成する都合上、冊子での表現をそのまま再現することが難しいと考えられる場合、同等の意図と考えられる別の表現へ変更します。
・それ以外については、冊子を踏襲します。
・改めて読むと稚拙だと考えられる表現や、このような書き方を今はしないであろうと断言できるものにも手を加えません。例としては、読点の乱発、「ように」の多用、などです。それらをも含めて、執筆当時の作品であると考えます。
【『エソラコーヘレト(データ配信版)』について】
・『楽園のまなざし』(2011.11.3)、『エソラコーヘレト』(2012.11.18)、『大切なことは、そんなに多くない。』(2009.5.10/2009.12.6)、および、未発表の文章をまとめました。
・その他の点については、「はじめに」を参照。
考えるということが内容の主軸となっている冊子をまとめました。身近なところから、やたら小難しいところまでと、考えていることは幅広いですが、私がなにかがむしゃらに考えているという点についてはともかく共通しています。
物語ではないのでどれから読んでも問題はありません。さらに言えば、どのページから読んでも問題ないとは思います。ただ、書いた本人として、また、編纂した本人としては、順に読み進めていただくと、私の考えたことやその経過がよくわかるのではないかと申し添えておきます。
それぞれの元になった冊子について、また、配信データにおいて変更を加えた部分のいくつかについても説明します。
まず、元になった冊子すべてにおいて共通することとして、引用がやたらと多いことが挙げられます。紙においてはおおむね字下げ・インデントの処理を施しますが、配信データ作成において対応がきわめて煩雑になるため、
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引用
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という形式に多くの部分を変更しました。
『楽園のまなざし』はほどよい軽さで、この配信データの導入に適していると思い、最初に据えました。
『エソラコーヘレト』はシモーヌ・ヴェイユを起点にして、七面倒なことのあれこれについて思索を巡らせたものです。
冊子においては、ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』の装丁をまねて、真っ黒な表紙、本文用紙は黄色でした。
また、ページ番号の振り方が、いわゆる本文をl:n、註をg:m(n、mは自然数)としており、たとえば、g:8からl:22の註がはじまる――となっています。註は、ルビ機能を利用して単に†を付すのみで示し、通し番号などはつけていません。これを再現するのはなかなか困難なので、当データにおいて、註は【†H】のようにアルファベの連番で示すようにしました。
『大切なことは、そんなに多くない。』は、いわゆる名言(引いてくるのに適した形でない場合、ようするにこういうことだと三糸名義で掲げているという、妙なものもあります)を引いてきて、それにコメント付すというものです。あやふやですが、最初、何部かを無料配布として作成し、引いてくる名言の数を増やして改版として、また配布したように記憶しています。
紙の冊子は、これもまた黒一色の表紙です。二段組で、上段に引用、下段に私の書いた蛇の足という体裁でした。ただ、これもまたデータに再現が難しいため、「◇蛇の足」という記述を入れました。また、紙にはない蛇の足をいくつか追加しました。
『国家に好ましいと認識される市民が読むには相応しくない小冊子 ――または、小さないきものによる思索の集合』という、ずいぶんと長ったらしく、また、仰々しいのか控えめなのかよくわからない題を冠しているものは、そういう冊子を作ろうと思い立ったものの、機会を逸してしまったために宙に浮いてしまったいくつかの文章です。
二〇一一年一一月三日 発行
私は、悲観する懐疑的な現実主義の夢追い人。
控えめに言えば、考えると言うことは誰にでもできるのだが、深くだとか明確にだとか論理的にだとかいう条件が付いた途端に、難易度が跳ね上がる。放言すれば、正しく考えるということができるのは、極端に幸福なことだ。そもそも考えることは誰にでもできるが、正しく考えるとはどういうことなのか。論理的に正しければいいのかと言えば、おおむね正しく考えていると言えるだろうが、厄介なことに論理だけでは掬いとれないことが世界にはある。
他人の情報を鵜呑みにすることなく、自らが情報に当たる努力を怠らず、自分自身で考える必要がある。
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外交官時代、ロシア要人の50歳記念パーティに何回か招かれたことがある。誰からも異口同音に「サトウさん、50歳になると人生が違って見えるようになるよ」と言われた。筆者がその理由を尋ねると、「二つの点で違ってくる。まず、人生の残り時間があとどれくらいあるのか気になる。そこで、これからする仕事を絞り込むようになる。次に、自分の知識や経験をどう若い世代に伝えるかについて真剣に考えるようになる」という答えが返ってきた。
〔週刊東洋経済 佐藤優 知の技法 出世の作法 百七十二回〕
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これを読んで驚愕した。私は五十歳のロシア人だったらしい。
知識というものについて。
基本となる知識や最低限の知識がなければ、考えることはできない。コマの動かし方を知らないままで、チェスを楽しめるわけがない。であるからして様々な書物を繙くのだが、困ったことに最低限は限りなく広がり続けている――そんな気がする。
変な道徳やらおかしな常識やらを押しつけようとしないだけ、いわゆるライトノベルというものの方が優れているのではなかろうかと最近たまに思うようになった。文庫サイズのものだけでなく、新感覚とか新世代とかジュブナイルとかも含めて(ヤングアダルトと呼ばれていたようなものまでいくと、どこか教訓めいた胡散臭さが発生するように思える)。
ライトノベルにあるのは欲望だ。物語に根を張り、養分を吸収し、花を咲かせ実を付ける。よけいな道徳や常識がないので、純粋だ。純粋だからこそ、型が必要になる。パターンだとか定番だとか記号だとかお約束だとかマンネリだとかの無菌室が必要なのだ。温室栽培や養殖という人間の手を組み入れることで、「商品」として流通させることが可能になる「規格」を満たす。
人工でないもの、つまり天然ものだとか野生種だとかを求めるというのも、また一つの行動であり欲求である。極端に曲がったキュウリだとか、多少は甘いけれども塩を付けなかったら水を飲んでいるのと変わらないような西瓜を、私が懐かしく思うようなものだ。そういうのは、大量生産の既製品があふれかえる状況を嘆く、ジャンルの黎明期からの愛好者のようなもの。これもまた一つのカタチである。
大量生産には、よい面がある。と同時に、やはり悪い面もあろう。何事もバランスである。
形が悪い野菜は店頭に並ばない、なぜなら買われないから。そんな物言いが昔からあったように思うが、やはりこの物言いはあまり正確ではないように思う。包装が面倒になったり、流通時に嵩がはったりするから、排除しているという面もある。
作品にメッセージを込めるなと言いたいわけではなく、込めるならさりげなく込めておくというのがきっと望ましい。タチの悪いものになると、作品の終盤に導き役が総括をしたりする。そういう本は怒りにまかせてぶん投げられて、障子に穴を開ける。
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年3月2日 発行 初版
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