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残業は丑の刻に 第一巻

北村恒太郎

北村恒太郎出版



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 この会社に35年勤務して、係長で終わりました。
思い返せばつくづく妙なことの多い会社でした。
ここは、とある地方都市のそれほど大きくないローカルテレビ局。
通り一遍の社屋のビルと違い、スタジオや調整室など現実離れした
空間があるのもテレビ局の特性で、これは地方も同じです。
つまり終日陽のあたらない闇の部分が多いです。
闇には何かが潜みがちなもの。
それに地域ならではの人間性、風土性など地方の特殊性が加わり、
あるとき思わぬ異変が実体となる…
あれは幻覚だったのか…
いや、確かに見た…
 私が直接見聞きした怪しい事実、人づてに伝わる会社伝説を
いくつかご紹介しましょう。

 目 次

第一章 深夜勤務

第二章 大道具倉庫

第三章 退社時刻

第四章 社員旅行で

第五章 スノー・エヴィル

第六章 秘書室の窓

第七章 戦友

第八章 やってきた若者

第九章 エレベーター

第十章 スポットライト

第一章 深夜勤務

太陽が植物を育むように
闇もまた何かを育む



 定年後の再雇用も半年が過ぎ、会社を離れる日が近づくにつれ、それなりに感慨がわくとともに、
心の隅に忘れ物のようなひっかかりを覚える。
 あれは何だったのかわからぬままに終わるのか。
確かに私はこの会社で体験した。夢や幻ではなかったのだ。
会社のビルは昼は城のように堂々としているが、人影が消えた夜になると、廃墟のようになり、
昼とは別の何者かがうごめきだすような気がする。
 かつてこの会社では亡くなる社員が多かった。
今ほど健康管理にうるさくなく、業績が上り坂で、無理をした人が多かったせいかもしれない。
仕事熱心だった彼らは、夜になると再び会社に帰ってくる。
このビルで働いていた人はたいてい、なおも仕事をしようと帰ってくる…
 あれは10月ごろだったろうか、やはり蒸し暑い夜だった。
ようやく残業を終え、気がつくと午前1時をだいぶ過ぎていて、記者たちもすでに帰ったこの日は、
一階の広い報道制作局のフロアは私一人きりになっていた。
この時刻だと社内には、調整室の技術係数人と、守衛さんぐらいしかいない。
 スタジオに続く長い廊下を歩き、この先の離れにある子会社のスタッフと、明日の取材の打ち合わせをしてから帰ろうと思った。もう誰も帰ってしまったかもしれないが、顔を出してみよう。
 と、行く手の廊下の彼方に灯りが見えた。白い光線が壁をなでる。
 ひもを肩に掛けた手持ちのライトの灯り。守衛さんの見回りだった。
 小柄で小太りな姿がどんどん近づいてくる。
 すれちがいざま、
 「ご苦労さま、お久しぶりです」
 と私はつい声をかけた。
 守衛さんも一礼して通り過ぎる。
ふいに自分の言ったことがヘンだと気づいた。
何かがおかしい。
なぜ『久しぶり』などという言葉が口をついて出たのだろう?
確かに久しぶりだったのだ。
この守衛さん・今西仁(いまにし にん)には半年以上会っていなかった。
このひとは半年前に倒れたんじゃなかったっけ?
お遍路旅行の後で、急性心不全で。
出張から帰った日、あの守衛さんの葬式も終わったと聞いて、驚いたものだ。
あの小柄で小太りな、気のいい名物守衛だった今西さん。
思わず振り返った。
歩み去る後ろ姿。
と、立ち止まって、ライトがこちらへ向けられた。
振り返った姿のおぼろなシルエットは、小柄で小太りなあの…
と、守衛は光を自分自身の顔へ向けた。
メガネが反射して光る。
見知った顔…間違いなく…
このとき遠くからでも、守衛が口をゆがめて笑うのがわかった。
私は悲鳴をあげ、反射的に走りだした。
階段を駆け上がりいっきに二階へ。
ここも暗い廊下。
しかし手前のドアに気づいた。
普段は使われていない倉庫部屋だ。
とっさにそこへ入り込み、ドアノブを押さえる。
鍵はない。
と、階段を上がる足音が聞こえ、続いてこのドアの前まできて止まった。
私は必死でドアを押さえる。
トントン、トントン!
外からドアをノックしてきた。
全力でドアノブを押さえる。
トントン、トントン!
無言のまま執ようなノックをやめない。
あけるものか!…

何時間かが過ぎ、ノックの音が聞こえなくなった。
あたりがうっすら明るい。
夜明けか。
外に気配はない。
思い切ってドアを開けた。
朝の光がさす廊下には誰もいなかった。
ほっと息をつき、全身から力がぬけて、その場にしゃがみこもうとしたとき、
トントン!と音がした。
ぎょっと見ると、
ドアの取っ手に肩ひもが掛かっており、その下に灯りがついたままのライトがあって、
トントンとドアにぶつかっていた。

第二章 大道具倉庫

誰もいないはずの場所に入ったとき、視線を感じることがある



 ひとつの仕事が終わると、
それなりの資料が残り、
次々積み重なってゆく。
 一部だけパソコンに取り込まれたこれらは、
大概は二度とかえりみられることはなく、
ころあいをみて廃棄されるものなのではないか。
会社の規模によっては、資料は膨大なものとなり、
専門の管理部署が必要になるだろう。
 テレビ局では、いわゆる資料のほかに、
資料とも言いがたい大道具・小道具類が残る。
その番組が終了し、廃材同様となった大道具は、
たまに使い回しでそのまま再利用される以外は、
ほとんどが一時的に倉庫にしまいこまれる。
 かつて脚光を浴びた、活気の名残りは
人気のない倉庫に折り重なって放置され、
すえたペンキのにおい、乾いた材木のにおい、
むき出しのコンクリートのにおいが
まじりあったかび臭さの中に、
見捨てられた墓場のムードが漂う。

 昼の陽の光がわずかに射しこみ、
埃っぽい沈んだ空気がたちこめる、
離れの局舎の二階へ、
私がひとりでやってきたのは、
制作費を安く抑えようと、
再利用できそうなセットを探そうとしてのことだ。
 しかし、折り重なり、入り組んで、
迷路のようになったセットの林立の中に立つと、
なにやら落ち着かなく、
どうにも目的のものなど探せそうにない。
早々とあきらめて、退きかえそうとしたとき、
うなり声が聞こえた。
うめき声のようでもあり、
もっと別の、息づかいのようでもある。
外からのようでもあり、
中の奥からのようでも、
すぐ近くのようでもある。
猫か?
かつてこのビルの周辺は野良猫が多く、
社内に入り込むものまでいたが、
そういえば、このところ、
めっきり見なくなったようだ。
 いよいよ落ち着かなくなり、
出口の階段の方へ急ごうとしたとき、
ガタン!
と音がした。
目の前の床にころがる大きな板が
動いたような気がした。
解体されたセットの板の切れ端が
フタのようにかぶさり、
床の盛り上がりを隠している。
この下に何かいる…
 またも息づかいとうめき声。
誰かいる…
この声は男のものか女のものか…
かつていた女たらし社員のことを思い出した。
よもや、この人気のない場所を
逢引の場所やらラブホテルがわりに…
よく見ると、
板の陰から赤い先端がのぞいている。
靴?
ハイヒールか?
寝そべっているというわけか…
これしきのことに不安な気分にさせられたことに
無性に腹が立ってきた。
 こうなれば現場を暴いて、あわてさせてやる。
いきなり板をつかむと、
力いっぱい持ち上げ、
いっきに跳ね除けた。

 何もいなかった。
すみに赤い切れ端だけがあった。
拾ってみると、
噛み切られた靴の先端のようでもある。
と、
何かが転がり落ちた。
発泡スチロールのような…
違う、
もっと固い…
骨のかけらみたいな…
ふいに、
ひとりきりでここにいるのが
恐ろしくなった。
出口の階段へ駆け寄ろうとして、
ハッと立ち止まった。

 階段の手すりの上に何かいた。
一瞬、太った猫だと思った。
それほど大きかったのだ。
しかし、のんきな猫なで声は聞こえない。
灰色の毛のかたまりの中に、
黒い、ビー球くらいの大きさの
目がきらめく。
毛のない、
ムチのような尾。
細長く黒い、
人間のような五本の指。
あたりに漂う
強い腐敗のにおい。
ネズミだった。
見たこともない巨大なネズミが
こっちを見ていた。
針のようなひげの下にある
口を開け、
黄色い歯を見せた。
 生暖かい、
生臭いにおいがたちこめる。
すぐ下に、
もう一匹がうずくまっているのに気づいた。
さらに
階段を囲むように
別の一匹がずるずると出てくる。
すみの奥の暗がりにも
黒く光る目が現れた。
いつの間に、
この倉庫のどこに
これほど多くの大ネズミが潜んでいたのだ!
増えていく目はすべて私を見ている。
囲まれた。

 このとき階下から
「原さん、そちらですか?
いいの見つかりました?
みんなで運ぶの手伝いにきましたよ!
しかし原さん、エコですねえ、
リサイクルは制作費も救うってか…」
と、AD桜 太助(おう たすけ)の能天気な声が聞こえてきた。
出ない声をふりしぼって
返事をしようとしたとき、
階段の前には何もいないことに気がついた。
何も見当たらない。
何事もなかったように、
どこにも何もいない。
下からは、
上がってくるADたちの足音が賑やかに響いてくる。

第三章 退社時刻

帰ろうとしたとき、
何かが気になって帰りそびれることがある。
もちろん帰ったほうがよかったのだ。



 マスコミ関係の会社は
特殊だと思っている人がいるが、
稼動ぶりは普通の会社と同じで、
限られた職種を除いては、
ほとんどの社員が朝出勤し、夕方退社する。
 私もこの日は比較的早く退社した。
といってもほとんどの社員が帰ったあとだったが、
消えかかる夕陽を浴びて
ひとり前庭をぶらぶら歩いていた。
 なんとはなしに見上げると、
社屋のビルが夕陽に輝いている。
はるか上の最上階の一室の、
前庭に面したひとつの窓から
誰かが見下ろしていた。
窓より一歩下がっているようなので
影にしか見えないが、
まさしく人影がこっちを見ている。
 あそこはちょうど人事課のはず、
人事課長か。
 私はつい頭を下げた。
 課長は何の反応を示さず、
そのまま傲然と見下ろしたままだ。
そのありさまは地上を見下ろす神のようでさえある。
人事課長ともなれば、
社員は意のままになるしもべなのかもしれない。
あんなところにいれば、その感が強くなり、
一般社員に対しては
あいさつを返す必要さえ感じないのだろう。
 にわかに不快になり、
さっさと門を出ようとして、
ハッと思い当たった。
 そうだ、いま人事課長がひとりでいるとすれば、
いい機会だ。
頼み込んでみよう。
転属願いにも書いておいたが、
ここでもう一押ししておきたい。
いまの仕事が終わるまでは
このままの部署でいい。
さきほどの、あいさつさえ返さないありさまでは、
軽くいなされるか、せせら笑われて
終わりかもしれないが、
やってみよう。
 社屋の上階へ急ぎ、
七階のフロアへ駆け入ったが、
総務課も人事課もガランとしてまるで人気がなかった。
もう帰ってしまったらしい。
どこを探しても人影が見えない。
 と、
かたわらから陽が差してきて、
小部屋があったことに気づいた。
ここに誰かが…
誰もいない。
物置だった。
社の備品庫でもある。
総務課の許可で、ここから備品を持ち出していくのだ。
 誰もいないここを見回して、
すみの人影にハッとなった。
写真だった。
色あせ、破れかけた、
額入りの、会社の創業者・湖都 肇(こと はじめ)の写真だった。
写真は上の真ん中から破れて、
頭の部分が二つに裂けそうになるほど傷んでいる。
 そういえば、前にここへ入ったとき、
総務課の若い社員に聞いたことがある。
こんなところにそまつにしておいていいのか、と。
同じ写真はたくさんあるらしいからいいんですよ、
破れても捨てるわけにもいかないので、
とりあえずここに置いてるんです。
若者はこともなげに言ったものだ。
 かつて社を興したほどの人物の御真影は、
関心を持たれることもなく、
物置にないがしろにされていた。
 非芸術家の弱いところはこれだ。
売れない画家はまがりなりにも作品を残すが、
ただの金持ちは名前しか残さない。
必死で残したはずのビルや札束からは、
意思や思いは伝わらないのだ。
 射し込む夕陽につられて
窓から外を見た。
真下に前庭が見える。
 やはりここだ。
人事課長に思えた人は
ここから見下ろしていたのだ。
ここから、ゆく社員を見ると、
神になったような気もするのだろう。
社の支配者。
社員のすべてが見える。
創業者・湖都 肇も、生前はここから
見下ろしていたのかもしれない。
故人となった今でも
見下ろしたいと思ったりするものなのかもしれない。
そして、ときどき写真を抜け出し…

 後ろから音がした。
紙の音。
乾いた紙をこする音。
古ぼけた紙をくぐり抜けてくる音。
気配を感じた。
後ろに誰かいる。
誰かが立って、近づいてくる。
目のすみにちらちら見えるのは、
壁に映ったその人の影だ。
あの写真は上から二つに裂けていた。
創業者の顔は真っ二つに裂けようとしていた。
壁の影がゆらゆらと海草のように揺れる。

第四章 社員旅行で

奴らはときどき帰ってくる。
思い出という奴ら。



 みちのく道路は山中を東西に横切る一本道だ。
時間短縮という利便性と風光明媚な景観を考えると、
高速道路でもないにかかわらず
料金をとるということを、容認する人もいる。
緑の季節はここを通るだけで、
気分がリフレッシュするという。
あふれる緑の谷底を走っていたかと思うと、
いつのまにか橋を渡っていて、
それを過ぎると、
目もくらむ崖の上を走っていたりする。
そこが一番の名所〝華萩谷〟だ。
 しかしこの、自然としっくりなじんでいるような道も、
冬になると様相が一変する。
前も後ろも右も左も厚い雪でおおわれ、
白い陶器のチューブの中を走るような、
異次元的なよそよそしさを味わわされる。
雪が降り、行きかう車もなければ、
違和感と孤独感はいや増すことになる。
 能勢 泰三(のせ たいぞう)がハンドルを握る車は
まさにそのとき、そこを走っていた。
晴れ渡った、くっきりと白と黒に色分けされた
夜だったのが、
みちのく道路に入ってしばらくすると
雪がちらつきはじめ、
進むごとに降り方が激しくなり、
ついには吹雪になって、
アクセルをゆるめざるをえなくなった。
 報道部の中堅記者の部類に入る能勢は、
社員旅行の一行を乗せて、
自分の、買ったばかりの自慢のワゴン車の
アクセルを踏んでいた。
会社全体の社員旅行があったころだ。
営業部主体の本隊はすでに
大型貸切バスで出発していて、
遅出で夕方勤務の一部を含む六人が
能勢の車に同乗し、
夜道を、四時間先の高原スキー場へと向かう。
到着したらホテルで大懇親会へ遅れて参加、
宿泊して翌日はスキー三昧となる。
気の合う仲間ばかりというわけではなかったが、
日常と違う旅行にはやはり心が躍る。
助手席が、うるさい後輩記者の奈尾 啓太(なび けいた)でなければ、
菅田さんだったらもっとよかったが。
 ルームミラーに目をやると、
管理部のマドンナ・菅田 揺乃(すがた ゆりの)さんは、
うかれる社内の最後部の席で、
管理部長の話にしきりにあいづちをうっている。
長い黒髪が白いスキーウエアにひときわ映える
菅田さんとあっては、
人と話をしているのを見せられるだけで
気がもめた。
 「なんだか、ひどくなってきたみたいだなあ…」
隣の奈尾の言葉どおり、
吹雪は密度を増し、
視界が10メートルくらいに落ちてきたかと思うと、
さらに5メートルくらいになり、
のろのろ運転でなければ
進むのもおぼつかなくなってきた。
慣れた道のはずが、
たちまち未知の難所になる。
そう遅い時間でもないのに
後続の車もなく、
前方は視界不良。
たった一台が深い山中を漂っているようでもある。
 
「何かいますよ!」
奈尾の突然の言葉に、
ブレーキを踏み、
さらに速度を落とす。
湧き上がる吹雪をすかして見ると、
前にぼんやり小山のような影が見える。
車だった。
ハザードランプを点滅させた車が、
道の片隅に止まっている。
吹雪の山中に心細く取り残されたのは
自分たちだけではないと知って、
いくらかホッとしたが、
動けない車とあっては、
救助しなければならず、
かえってやっかいかもしれない。
その車の後方に、
こちらもハザードランプをつけて停車し、
 「ちょっと見てくる」
と奈尾に言い残して、
ワゴンの外に出た。
体ごと飛ばされそうな吹雪。
雪の粒が顔に痛いほど当たって、
前が見にくい。
そろそろ近づくと、
それは普通の乗用車だということがわかった。
しかしどこか見覚えがある。
前にこれと似た車をどこかで見ていた。
どこにでもある車ではあるが…
 「大丈夫ですか?どうかしましたか?!」
能勢は呼びかけた。
人がひとり車の横に立っていた。
吹雪の中に身じろぎもせず、
こちらを向いて。
近づくにつれ、
その男の姿がはっきり見えてきた。
がっちりした大柄な男。
これも見覚えがある、酒やけした赤ら顔。
そんな…?
まさか…!
しかしやはりそうだった。
 「よう、タイゾー!待っていたぞ」
男は能勢に話しかけてきた。
吹雪を通しても、その声ははっきり聞こえる。
 「…なぜだ?なぜあんたがここに?!」
能勢は問いかけざるをえない。
 「おまえがここへ来るのがわかっていたから、
 迎えに来た」
男は当然のように答える。
 「もう僕にはかまわないでくれ!
 振り回されるのはもうごめんだ!」
 「そう言うな、おまえの親父じゃないか」
 「もう十分だろう、子供にたかる父親がどこにいる!」
 「大学まで出してやったのを忘れるな」
 「もうお返しはした。
 給料もボーナスもさんざん横取りしたじゃないか!
 あいかわらずバクチか!
 あんたのおかげで一家はめちゃめちゃだ、
 あんたのおかげで母さんは死んだ、
 このうえ何が欲しい!?」
 「今さらだが、一人でいるのは寂しくてな」
 「当然の結果だろう!
 家族を捨てて女と逃げたのはあんただぞ!」
 「そう言うなよ、タイゾー。
 なんといっても親子じゃないか。
 俺はおまえと一緒に暮らしたい。
 いままでのことはあやまる。
 機嫌を直して、年寄りの俺のめんどうをみて
 くれないものかな」
 「ごめんだね。
 さっさと帰ってくれ。
 僕は社員旅行の途中なんだ、
 みんなを送らなくちゃならない、
 じゃあね」
能勢がワゴン車に帰りかけたとき、
 「その連中も一緒に行くはずだ」
と、男が能勢の背中に言ってきた。
無視してドアを開ける…
つもりだったが、
ワゴン車が見当たらない。
吹雪をすかしても、
もとのところに車はいなかった。
 「連中だったら、あそこだ」
いつの間にか横に来ていた父親が、
道路のむこうの暗がりを見やって言った。
さらに
 「下を見ろ」
と言う。
白い大地にタイヤの跡があった。
ワゴン車のものだった。
タイヤの跡は、
止まっていた場所からいきなりカーブして続く。
能勢がたどると、
タイヤは道を直角に横切って、
道の外へ向かっている。
その先は、
フェンスのような雪の壁が崩れていて、
下に、ねじ曲がってつぶれたガードレールが見えた。
さらにその先は闇。
谷になっていた。
目もくらむ崖、
華萩谷だった。
吹雪の中に身を乗り出すと、
はるか下、
谷の途中の白い崖に、
逆さになってつぶれかかった車が見えた。
そのまわりに散らばる黒い影は、
倒れている人だ。
能勢のワゴン車は、
雪のフェンスを突き破り、
ガードレールを乗り越え、
崖下へ転落、
途中のでっぱりにひっかかっていたのだ。
これはなんだ?!
どうなってる??
なぜ!?
いつのまに、こんなことに!?
 「…お…お、おーい!だ、大丈夫か!?」
不可解なまま、ともかく震える声で呼びかける。
わずかに手足を動かしているらしい影も見える。
そんな…!!
あの、離れたところに倒れている、
髪が長く見える影は、
菅田さんではないか!?
 「た、大変だ!すぐに、すぐに助けないと…!」
 「あせるなよ、あいつらもじきに来る。
 おまえはもう来てるじゃないか」
能勢の父は薄ら笑いをうかべながら言った。
 「な、何を言ってるんだ!あんたは!」
言いながら、
下のワゴン車を見ずにはいられなかった。
崖の中腹にひっくり返ったワゴン車は、
運転席部分が完全につぶれているのが、
遠目にもはっきりわかった。
 「待っていたんだ、タイゾー。
 おまえとは腐れ縁なのさ」
父親は骨ばった手で正三の腕をつかみ、
引き寄せる。
見開かれた黄色い目、
黄色い顔。
吹雪が父の体を突き抜けていく。
 「よるな!
 あんたはここにいるはずがない、
 こんなことがあるわけがない、
 あんたはもう3年前に死んでるじゃないか!
 さっさと地獄へ帰れ!!」
能勢は叫んだが、
父はもはや完全に骨になった手で、
さらに引き寄せる。
目は暗い眼窩となり、
全身が骸骨になってしまった父が、
両手を大きく広げ、
能勢泰三に抱きついてこようとする。

 「能勢さん!ブレーキ!ブレーキ!!」
悲鳴とともに、
横に、
恐怖と驚愕に見開かれた奈尾の目があった。
能勢はとっさにブレーキを踏み、
この頃普及しはじめた新種のタイヤ=
スタッドレスタイヤの柔らかいゴムが、
必死で、凍った雪と格闘して、
車体は大きくつんのめると、
とめどなくスリップし、
車内の誰もが悲鳴をあげた。
車体は下手なスキーもどきに
ずるずる滑ったあげく、
どうにか止まった。
 「…と、と、止まった…
 よかった…
 しっかりしてください、能勢さん!
 なに居眠りしてるんですか!
 危ないところでしたよ…」
奈おがうわずった声で非難する。
車内がざわめく。
車はガードレールの何センチか前で止まっていた。
まだ事態がのみこめていない能勢は、
思わずフロントガラスに乗り出して、
雪のフェンスのむこうをのぞいた。
目の前には華萩谷の白い深淵があった。

第五章 スノー・エヴィル

北国の冬は寒く、暗く、長い。
恐ろしくさえある。
ひときわ邪悪な
白い悪霊が舞い降りてくるからだ。



 地方テレビ局のワイド番組の内容は、
ごたぶんにもれず、グルメ、温泉、お店紹介、
季節の話題など、取材に手間も費用もかからず、
毒にも薬にもならず、
電力の無駄としかいいようのないシロモノで、
たいていがパブリシティ(スポンサーPR)か、
新聞・雑誌などからの安全安心ネタだが、
たまに口コミで異色のものに出くわすことがある。
 このとき、ホテルの宿泊者からだという、
視聴者から提供されたのがそれだった。
 かのホテルでは、
前庭にかなりの数の雪像を作っているというのだ。
 雪が多くなるこれからの季節、
各地で雪祭りがおこなわれ、雪像なぞ珍しくもないが、
ここで作られているものは、
祭りにはふさわしくないようなものばかりだという。
 客寄せの話題づくりだろうとは思ったが、
ともかく下見に出かけた。
 ホテル「展望荘」は、
3メートルものぶ厚い雪でおおわれた
山中の山懐にあった。
日本百名山のひとつで、標高1500メートルの連山。
ひと冬に数回はスキーヤーやボーダーが
遭難騒ぎを起こすいわくつきの山だ。
山中に六軒あまりの冬季営業の
ホテルや旅館が点在し、
くだんのホテルの先はスキー場で、
その先の道は冬季閉鎖の行き止まりとなっている。

 ホテルの前庭に生垣動物
というのは聞いたことはあるが、
雪像というのは珍しいかもしれない。
雪像といえば、
アニメキャラや有名建築を模したものなど、
カーニバル的なものを思い浮かべるが、
この、そこそこ豪壮なホテルの前庭に並んでいたのは、
確かに異色だった。
従業員ばかりで作ったというにしては、
その十数体の像はリアルで大きく、
見事だった。
大理石像のように克明で、
ずらり並んださまは、
かなり不気味だった。
さながら冬の妖怪勢ぞろいの感がある。
 明治の昔、
訓練中にこの山で遭難死した軍人をモデルにしたらしいものもあった。

 なぜこんなものを…?
オーナーのイメージだと、
制作の仕上げをしていたホテル従業員は話してくれた。
 オーナーは先日行方知れずとなり、
地域のちょっとした話題になった人物だった。
 世間をお騒がせしたばかりなので、
再びマスコミに出るのはためらわれる、
などと言いながらも、
ごま塩頭に若々しく雪焼けした
初老のオーナー・幸代 巌(ゆきよ いわお)は、
こちらを見つけると、飛んで出てきて、
とうとうと語りだした。
 「これはすべて
私が現実に見たものを形にしたものです。
山を恐れよ、
山こそが主だとみなさんに教えたい、
雪に慄け、冬に震えよ、
そして山を畏怖せよと言いたいのです。
 悪鬼のかたちを現出させ、
山の驚異を知らせたい。
冬の雪山にこそ、
悪霊どもが集う、
吹雪の中に跳梁する。
 私は見たんです。
長いことこの山にいるが、
はっきり見たのははじめてだ。
信じられる話ではないので、
黙っていようと思ったが、
誰かに聞いてもらいたい。
あなたには話しておきましょう」
と、頼みもしないのに話はじめた。

 子供のころからスキーでならし、
スノーボードが出ると同時に手練のボーダーとなり、
親戚が経営するこのホテルに招かれてからも
続けていた。
気配りが行き届いたホテル経営は順調で、
 その日もスキー客のため、
雪質やコースを調査確認しておこうと、
山頂からひとりで滑った。
その直後予想外の荒天となり、
猛吹雪に巻き込まれ、
コースをはずれて迷子になってしまった。
携帯の電池も途中で切れ、
よもやの遭難状態になってしまったのだ。
なすすべもなく夜になり、
ともかく一夜を明かそうと、
雪洞を掘り、
目印に鮮やかな色のスノボ板を近くの雪に立てて、
もぐりこんだが、
寒さで眠るどころではないし、
眠ったらなお危ないとまんじりともしないでいたところ、
夜もふけたとおぼしきころ、
外から呼ぶ声がする。
雪穴を這い出してみると、
白い外套を着た、
長い白髪の老婦人らしい人が立っている。
 〝そこではたいへんでしょう。ついてきなさい〟
と言う。
声は若い女のようでもある。
ともかくも助かったと喜んで、
スノボをかかえてつき従った。
 よくみると彼女の外套はただの着物のようでもある。
寒くはないのか、
雪の中をずんずん歩いてゆく。
 たまらず、
「どこまで行くんですか?」
と聞くと、
 〝私の家へ行きます〟
と言う。
家だって?
こんな山小屋さえない山奥に?
気味悪くなった私がためらっていると、
〝早くおいでなさい〟
と、そばまでやってきて、
私の手をとった。
色白の美人だったが、
驚くほど手が冷たく、
吐く息もダイヤモンドダストになる。
逃げ出したつもりだったが、
たちまち捕まって、
両手で首を絞められた。
顔が凍えはじめたとき、
後方からけものの咆哮が聞こえ、
女の手が去った。
地鳴りのような重々しい足音とともに、
雪煙が舞い上がり、
天を突く雪の竜巻が迫ってきたかと思うと、
中から白い長い毛でおおわれた獣が現われた。
 雲を突くような、
白熊の十倍ほどの怪物が二本足で立ち、
空に向かって吠える。
女はこれに驚いて私を離したのだ。
けものの顔は毛でおおわれてわからないが、
真っ赤な口はわかる。
 立ち向かおうとする女を
けものは片手でつかむと、
宙に持ち上げ、
もう片方の手で、
真っ二つに引きちぎった。
血のような雪のしずくをまき散らして、
女はこなごなになった。
 女の次はやはりこちらだった。
獣はずしんずしんと、
雪原を揺らしてせまってくる。
スノボを楯に防ごうとするが、
けものの生臭い牙が目の前に迫った。
 と、
バーンと銃声のような音がして、
けものはその場にひるんだ。
バラバラと何人かの人影が
けものの前に立ちふさがると、
整列して、けものに銃のようなものを向ける。
長いコートを着た、
兵士のような一団だった。
『撃てー!』
と号令がして、
いっせいに銃が火を噴き、
けものは地響きをあげ、
雪煙を沸き起こしてその場に崩れ落ちた。
助かった!
感謝の気持ちをあらわそうとしたが、
兵士たちは意外に好意的ではなかった。
スノボを取り上げられ、
ひったてられるように、
リーダーらしい兵士の前に突き出された。
 『きさまは脱走しようとしたな、名乗れ!』
リーダーは決めつけた。
 「いや、私はあそこのホテルのオーナーの…」
 『嘘をつけ!脱走兵は銃殺だ、
  この場で銃殺刑に処す!』
 「待ってくれ!何を…?!」
 うむを言わされず、その場に立たされると、
全員の銃が向けられた。
 『待て、弾薬を無駄にしてはいかん。
  後藤、おまえがやれ!』
 命じられるままひとりの兵士が
私の胸に照準を合わせる。
 「やめろー!」
 と言う間もなく、
引き金が引かれ、
胸に強い衝撃があって、
私はその場にひっくり返った。
意識がどんどん遠のく。
しかし兵士の声は聞こえた。
 『こやつを埋葬しろ、雪の中でいい。
  この板を墓石がわりにしておけ』
 雪洞が掘られたらしく、
その中に入れられるのを感じた。
 かろうじて意識を保ったまま、
何時間かして、
雪が取り除かれ、引きずり出された。
捜索隊に発見されたのだ。
 雪洞の横に鮮やかな色のスノボが立っていて、
それが捜索隊の目にとまったという。
ジャケットに、木の枝にぶつかったような穴が開き、
胸にあった携帯には
これも穴が開いていて、壊れていた。
 
 「…話すのはあなたがはじめてだ」
 とオーナー・幸代 巌は額に汗を浮かべて言った。
 救助されたとき、
捜索隊の人たちに話そうと思ったが、
信じてはもらえないだろうと、黙っていた。
寝込んで見た夢かもしれないし、
自分でもほんとうかどうか確信がもてない。
 そこでそのイメージを形にして、
雪で表現してみようと思った。
さらに神主を呼んで、
神社のようにこれらの像を祀る。
 そして、当ホテルの雪像まつりとして公開して、
多くのお客さんに見てもらおうと思っている。
 「オープンは明日です。ぜひ取材に来て下さい」

 その夜
急激に発達した前線のおかげで、
嵐のような猛吹雪となり、
猛烈な風速で木々をなぎ倒すほどの
大風が山を襲った。
 ホテルに被害はなかったが、
せっかくの雪像が一つ残らず壊され、
飛ばされた。
 ホテルの雪像まつりは中止となった。
 その夜、
ホテルの宿泊客の何人かは、
荒れ狂う吹雪は
立ち上がる巨大なけもののように見えたと言い、
また、
白い着物を着た女が
泣きながら空を飛んでいったように見えたとも言い、
車で下山中のスキー客の何人かは、
軍人のような一行が吹雪の中、
整列して掛け声をあげながら
山を登っていくのを見たとも言った。

第六章 秘書室の窓

一般社員がめったに行かないのが秘書室。
そもそも秘書というのは
何者なのだろう。



 「ほんとに悪いんだけど、
七階の秘書室の窓を閉めてきて下さる?
閉め忘れちゃったのよ。
 守衛さんに頼めばいいんだけど、
私って閉め忘れ常習なの。
これで五回目くらいかしら。
さすがにちょっとね…
 報道部にまだ河合さんが残っているって
聞いたもんだから。
私が行けばいいんだけど、
気づいたときにはもうビールが入ってて。
マンションから会社までは遠いし…」
 秘書課でいつも一番遅くまで残るのは
室長の彼女だ。
酔っているらしく、どこか甘ったれたような声だが、
電話を通しても有無を言わさぬ響きがある。
 河合は、はい、わかりました、と言うしかなかった。
社長も一目も二目も置く彼女・鎌木 梨代(かまき りよ)の頼みは命令も同じだし、
たいした手間ではない。
 それに、かの鎌木女史に対しては負い目もあった。
前の移動のとき、
(女史の要望だという)
秘書課への配転の打診があったのだが、
しばらくは報道の現場にいたいからと、
入社二年目にしては大胆だった河合 壮太郎(かわい そうたろう)
固辞していたのだ。

 とっくに零時を過ぎた暗い階段を上り、
誰もいない総務課や人事課をやり過ごして、
秘書課へと向かい、
明かりをつけて
カギのかかっていない秘書室へ入った。
 秘書室と秘書室長室にはほとんど境がない。
社長室に一番近いデスクが女史のものだ。
一般社員とは別格のデスクとイス。
デスクの上のあるのはパソコンではなく、
タブレットだ。
秘書室全体が、女史の趣味か、
本棚もカーテンも、部屋全体が
微妙なアールデコ調で統一されている。
誰もいず、誰に見とがめられるわけでもなかったが、
妙に居心地が悪かった。
さっさと用事を済ませて出て行こう。

 なるほど駐車場に面した小窓が開いていて、
高所とわかる新鮮な空気が流れ入っている。
 窓を閉め、室長室を出ようとしたとき、
からみつくような視線を感じた。
背後から誰かが見ている。
振り返ったが、
誰もいない。
と、
続き部屋の社長室のドアが
かすかに動いた。
中から閉めたように見えた。
誰かいる!
まさか社長室に!?
 「社長ですか?」
呼びかけたが、
返事はない。
ノックしても
答えない。
確かめておく必要がある。
 「失礼します」
と、ドアに手をかける。
簡単に開いたが、
中は真っ暗だった。
念のため明かりをつけて見る。
玉座にしては簡素なデスクとイス。
デスクの上には古い型のパソコン。
しかし革張りのソファーやイスは豪華だし、
壁の絵は地元の画家の手になる大作だ。
 上質な雰囲気が漂う広々した室内には
誰もいなかった。
 気のせいか…
明かりを消して帰ろうとしたとき、
後ろから飛びかかられた。
賊がいた!
賊は背後から彼の胸に腕をまわし、
締め上げてくる。
河合は悲鳴をあげ、
振りほどこうと、
その場で体を回転させた。
しかし、
賊はいよいよきつく締め上げてくる。
柔軟な身のこなしの奴だ。
そいつの熱い息が耳にかかる。
えーい!
と思い切り回転し、
相手を壁に叩きつけた。
河合のいましめはとかれたが、
賊が応えたような気配はない。
暗がりの中でも、
そいつが全身黒ずくめの
忍者のようななりをしているのがわかった。
 「だっ、だっ、誰だ?!
 ここで何を…?!」
賊はまったく答えず、
秘書室長室へ逃げ込むと、
さきほど河合が閉めた窓を開け、
そこからするりと外へ飛び出した。
たいへんだ!
ここは七階、下は駐車場だ。
いくら賊でもコンクリートに叩きつけられては
ただではすむまい。
窓から首を出して駐車場を見ると、
はたして真下に、
賊らしいうずくまる影がある。
 河合はあわてて階段を駆け下り、
社員用玄関で居眠りしていた守衛にわけを話して、
二人で駐車場へと走った。
恐る恐るその賊らしい影に近づいてみると、
ただの影だとわかった。
駐車場の外灯の明かり照らされてできた、
進入禁止のポールの影だった。
 「あっちだ!あそこにいる!」
守衛の声に顔を上げ、
守衛が指さす方向を見やると、
くだんの秘書室の窓の横、
ビルの壁に、
賊らしい影がへばりついている。
今度は守衛を伴って秘書室へと駆け上がる。
二人で例の窓から首を出してのぞいてみると、
それもただの影だった。
外灯に照らされて壁に映った、別の外灯の影だった。
 結局、河合はまんじりともせず、
そのまま朝まで会社にいてしまった。

 いつもと変わらず颯爽と出社してきた
秘書室長女史・鎌木 梨代は、
報道局までやってきて、
まだぼんやりしている河合に、
 「昨夜はどうもありがとう、
お世話をかけちゃったみたいね」
と礼を言った。
口もとがどこか意味ありげに
笑っているように見える。
歳のわりに若々しいプリーツスカートをひるがえして
去ってゆく彼女の
すらりと長い脚に目がいったとき、
ハッとした。
足下の床の、
室内灯に照らされてできた、
ひときわ黒い彼女の影が、
一瞬手を振ったように見えたのだ。

第七章 戦友

とかく
期待できそうで期待できないのが、
友や親類の類だ。



 入社シーズンになると思い出すことがある。
いまでもそうだろうが、
あのころも、
それはそれはマスコミは大人気だった。
入社試験は大学の大講堂で行われ、
何千人もの受験者がおしかけた。
 そのひとりだった私は、
これでは宝くじのようだと思ったとおり、
くじ運のない私は、
放送・出版・新聞などほとんどの会社を
ことごとく落ちた。
それでもマスコミをあきらめきれなかった私は、
最後の手段として、
父の友人=戦友だった人
を頼ってみようと思い当たった。
 父はしがない役場職員だが、
戦友だった人物・鹿田 仲隆(しかた なかたか)
今や中央マスコミ界の大立者になっている。
テレビ局の社主であり、グループの総帥だ。
業界内では新興勢力だが、
営業成績も視聴率も日の出の勢いだった。
 「偉くなったもんだなあ、
あいつとはビルマで苦労した仲だったが」
 父は自分とはかけ離れた世界にいった
戦友のことを、
羨望と懐かしさをこめてしみじみと語ったものだ。
戦後十年くらいは、
子供が生まれたなどの
年賀状のやりとりはあったという。
 戦友の絆は強く、
コネはかなりのものなのではなかろうか。
タレントや議員の子息を

無条件で入社させていると噂の会社でもある。
父は快く紹介状を書いてくれた。
 「愚息をよろしく…」

 何日かして、
テレビ局から返事がきた。
戦友の社長名ではなく、
はるか下っ端の人事係長名になっていた。
 「社の規定により
ご希望に副うことはできません」
というただ一行の電文のような手紙だった。
 自分が受け取ったこの手紙を
無言で私に見せたときの、
見たこともなかった、
暗く、
悲しさと憤怒に満ちた
父の表情を今でもはっきりとおぼえている。
手紙には
戦友への思いとはまったく別の、
失敗者とは語るに及ばずという、
支配者そして征服者のごう慢さが漂っていた。
成功は人を変えたのだ。

 その後
どうにか地方のちいさなマスコミにもぐりこんだ
私の収入で細々と暮らす
私たち一家と対照的に、
戦友の企業はますます発展し、
さまざまな事業を展開する同族支配の
巨大グループとなり、
戦友・鹿田 仲隆は社長職を長男・仲郎(なかろう)に譲り、
自らは大御所然と、会長におさまるという
磐石の体制を整えた。

 意外なニュースが
マスコミ界をにぎわしたのは、
それから何年もしないうちだった。
 くだんの戦友の長男・鹿田 仲郎が
急性の肝臓病で急死したのだ。
マスコミ界の寵児になりかかっていた若社長だけに、
その不慮の死には誰もが衝撃を受けたが、
なかでも父親の会長のダメージは相当だったらしい。
なんと翌年に
その会長も
後を追うように病死したのだ。
 戦友の訃報を聞いても
私の父は表情を変えず、
弔電すら出さなかった。
私のほうが諸行無常の感慨を覚えたものだった。
それから二十年後に
孫に囲まれて大往生した父のほうが、
寿命では戦友をしのぐ成功者だったといえる。

 父の遺品を整理していて、
寺の印が押された多くの経典が見つかった。
家族誰もが知らなかったが、
父は熱心な信者であり、
たびたび祈り来ていたと、
経典を返しにいった寺で
住職が教えてくれた。
 一緒に出てきた
懐紙にくるまれた札を、
これも寺のものでしょうと返却しようとしたところ、
それを見た住職の顔色が変わった。
札には、
私には判読できない
梵字のような文と、
これも、どうにも判読不能な草書体の文字と、
それに続く数字の連なりが
二列にわたって書かれていた。
 これは
私の父が書いたものであり、
速やかに
塩をかけて燃やすようにと、
住職は声を張り上げた。
 
 草書文字は
わからないように書かれた人名であり、
数字は生年月日で、
二人分あり、
文は
今では使われない、
いや
使ってはいけない
呪詛(じゅそ)の文句
であると、
住職は声をひそめて教えてくれた。

第八章 やってきた若者

過去を捨て去ることは
できない。
過去は常に現在とともに
ある。



 彼がきたのは
ちょうど桜の花の咲く頃だった。
 やって来た若者・菅井桜河(スガイオウカ)は、
とても人なつっこく、
この小さな会社の誰からも親しまれ、
たちまち人気者となった。
まじめで一生懸命だったからなおさらだ。
 アルバイトとしてすぐに採用されたのは、
桜河が、この会社の社長夫妻である
大洲平太(ダイスヘイタ)・亜美(アミ)夫婦が
かつていた小さな村・団兎村(ダントムラ)
の出身だったからでもある。
この村には菅井の苗字が多く、
平太の姓も以前は菅井だった。
村を出たのを期に、
心機一転のつもりで改名したのだ。
大洲夫妻は故郷を懐かしんで、
その近況を聞きたがり、
同胞を意識させる桜河は
夫妻のお気に入りとなった。

 大洲夫妻の会社は
テレビ局の下請け会社だった。
二十年近く前、
団兎村を出て都市部に移り、
平太の趣味を活かして、
ゼロからオーディオ会社を興して、
現在の、
従業員三十人で、
数々のイベントの音響や、
テレビ局の発注をこなすことができるまでに
こぎつけたのだ。

 生活苦から故郷を捨てた
という負い目があるので、
平太たちの
故郷・団兎村に対する思い入れはひとしおで、
桜河との話は尽きなかった。

 桜河は平太の信頼に応えようとしてか、
以後いっそう熱心に仕事に打ち込むようになり、
夫妻はためらいもなく正社員に昇格させた。

 桜河の仕事ぶりは、
経営者の大洲夫妻が
すべての社員に期待する以上のものだった。
何日も会社に泊まりこんで
編集作業に没頭するほどだったのだ。
平太も差し入れ持参で応援にきては、
一緒に酒を飲み、
ともにメカ好きと趣味も合うことから
語り明かすこともしばしばだった。

 子どものいない大洲夫妻にとって、
こんな子がいたらいいと思う
理想の若者でもあるので、
ますます親身になって気づかうようになり、
養子にしたいとさえ思うようになったあげく、
ついに亜美夫人は
お嫁さんを世話したいと言い出した。
社内の、気の合う女子社員との
結婚というのはどうだろう。
 水を向けられた桜河は、
感謝し、喜んだようすながらも、
どこか複雑な表情を見せた。
ほかに好きな人でもいるの…
いや、そんなことは…
 ならばさっそく桜河の両親にも
了解を得ようとまで話を進めたとき、
思いがけないことが起こった。

 その翌朝
出勤した社員のひとりが、
編集機につっぷしたままの
桜河を見つけたのだ。
 心臓麻痺だった。
もはや救急車を呼んでみても
手の施しようがなかった。
 平太は、
あまりの突然の訃報に、
声を失うとともに、
仕事人間だった桜河の
健康を気遣わなかったことを悔い、
悲しみに打ちひしがれた。

 ところがそのうち、
小さな会社全体が悲しみに包まれている中で、
意外な事実が明らかになっていった。

 遺品を管理にいった社員が
桜河が住んでいたはずのアパートに
桜河の部屋がない
と報告してきたのだ。
そういえば、
桜河は仕事一筋で、
社員たちとはあまり個人的なつきあいがない。
これまで桜河の住居をたずねたことがあるものは
いなかった。
 それだけではない。
さらに、
桜河の遺体がなくなった!
院内も付近も、
どこを探しても
見つからない!
突然煙りのように消えてしまった!
との病院からの知らせには
誰もが驚いた。
 何がどうなっているのだ?
まさか、
じつは死んでいなかったとでも…!?

 平太は警察にも連絡し、
さらに社員総動員で、
病院とその付近をあらためなおしてみたが、
やはりなんの手がかりもなかった。

 キツネにつままれた思いのまま、
ともかく平太は、
自分の故郷でもある
桜河の故郷・団兎村へ向かい、
桜河の家族へ事実を知らせようとした。
 あの若者は
どこか他人とは思えないところがあった。
 あの若者が
意識的に自分に合わせてくれたような気もするが、
不思議と自分と気が合った。
どこか自分に似ていた。
まるで実の…

 もはや他人が住んでいる
かつての自分たちの家…
 この家には悲しい思い出があった。
若い頃、
生活苦から、
妻の亜美は、
はじめての子どもを
中絶しなければならなかったのだ。
以来、夫妻には子どもがなかった。
 …その自分たちの家はあったが、
その近くだと桜河が言っていた、
桜河の実家はそこにはなかった。

 どうにもわけのわからない平太は、
ふいに、
かつての自分たちの家の
現在の住人に呼び止められた。
 もしかして、
この封書はあなた宛のものではありませんか、
と言う。
 昨日、
この家の郵便受けに入っていたのだそうだ。
 妙な予感がして
封書を受け取った。
確かに自分・大洲平太宛ての手紙だった。
 封を開け、
読み始めた平太は
震えだした。
見覚えのある桜河の字だった。

 「長くいすぎたかもしれません。
でも、そこにぼくがいたらどんなだったか、
一度見てみたかったんです。
会えてとてもうれしかった。
とても楽しかったです」
 封書の裏に小さく控え目に
「お父さんへ」
と書かれた文字を見たとき、
平太の目に涙があふれてきた。

第九章 エレベーター

エレベーターは、
なにげない日常の中で
我々が唐突に出くわす
個室であり密室だ。
予期せぬ階でいきなり止まり
予想もできないものが
乗り込んでくることもある。



 会社が若いときは社員も若い。
経営が波に乗ると、
上り坂になり、景気がよくなり、
仕事の量が増えていく。
 今から二十年以上前、
富士 満好(ふじ みつよし)が入社して、
制作部員として十年目くらいのころが
そうだった。
国の景気もよかった。
どんどんくる仕事を次々こなし、
それがあたりまえのことになる。
仕事はさらに増え、
社員こぞってわき目もふらずに
金儲けにいそしむ。
会社は当然のことのように
社員に無理を強い、
社員も無理でそれに応えた。
 あの頃は組合もなかった。
若い私たちは
どこまでも無理はきくものと思っていた。
働くことは喜びだ、仕事はおもしろい、
この仕事につけるのは幸せだと思っていた。
しかしおおげさにいえば、
現場で働く私たちは
最前線にいる兵士と同じで、
命がけだったのだ。
 すでに何人かの部員が入院し、
復帰のめどがたっていなかった。
そして同期の同僚である唐牛 悟(かろうじ さとる)が倒れた。

 倒れても唐牛は
うわごとで仕事の心配をしていた。
 俺の番組はどうなった…
編集はもう終わっている…
あとはスーパーを入れるだけ…

 富士もまた
同じように忙しい仕事の合間をぬって
病院に見舞ったとき、
唐丑はもはや虫の息のようなありさまで、
しみじみとつぶやくように言ったものだ。
 「こんなことで休みがとれるなんて
皮肉だな。
思えば三ヶ月くらいまともな休みがなかった。
一日に十八時間くらい働いていたかもしれない。
ワイドの担当が終わると特番だ、
特集の打ち合わせと
シリーズの取材も同時にこなしたな、
夜は台本だ。
家にも帰らなかった」
 この疲れを紛らわすために、
大酒のみの唐牛は
仕事の合間に浴びるように飲み、
肝臓をやられた。
 「あれは俺だったんじゃないかと思うんだ」
うつろな顔で唐牛は語りだした。

 徹夜明けの日、
出張の書類のハンコが押されていないのがあると
経理課に呼ばれて、
ひとりでエレベーターに乗り込み、
6階へ向かったとき、
何階かで
急にエレベーターが止まって、
いきなり
白い布をかけられた
救急ストレッチャーが運び込まれた。
白衣を着た医者と看護婦らしいのが押していた。
白い布の下は
どう見ても
死体だった。
俺は、
会社のどなたかが亡くなったんですか、
と聞いたが、
二人とも答えなかった。
 すると、
エレベーターは一階まで降りて、
二人は
その遺体らしきものを載せた台を
廊下を抜けて
通用口から運び出し、
待っていた救急車に乗せて
行ってしまった。
 後で聞いても、
そのとき会社で倒れた人などいなかったし、
誰も、
通用口の守衛でさえも
このようすを
見ていないんだ…

 「俺は
布をめくって見たかったが、
怖くてできなかった。
でも
きっと俺だったんだ」

 この話をした二日後に
唐牛は死んだ。

 そのとき
富士もまた、
唐牛の死を悼むひまも、
葬儀に出席するひまもないほどの
過酷な忙しさの最中にあった。
 そして
富士もまた、
ハンコが足りない書類があると
経理課に呼び出され、
徹夜明けのふらつく足どりで
ひとりでエレベーターに乗ったとき、
何階かで
ふいに
エレベーターが止まり、
白い布がかけられた
救急ストレッチャーを押して
医者と看護婦が乗り込んできたのだ。
 人のかたちの上にかぶせられた
白い布の上には、
何本ものバラの花が置かれていた。
 「何があったんですか!
どなたか亡くなったんですか?!」
 と聞いても、
医者も看護婦も無言だった。
 ふと
エレベータが揺れたはずみで、
バラが転がり、
それが布をひっかけて
人型の顔の部分がめくれた。
 だいぶ違って見えたが、
見た顔があった。
 やせこけた頬、
落ち窪んだ目。
無精ひげだらけの
生命感のない顔。
さっきトイレの鏡で見た
自分の顔だった。
医者があわてて布を直している間に
エレベーターは一階へ着き、
二人は担架を押して
廊下から通用口を抜け、
待っていた救急車に運び込むと、
救急車は音もなく滑り出して
遠ざかった。
このときに限って
廊下には人影はなく、
通用口に守衛の姿もなかった。

 ことここに至って
富士のやることはひとつだった。
 そのまま
エレベーターで6階へ取って返して、
経理課の空いている机に座ると、
手近にあった紙切れに書きはじめた。
 「一身上の都合により…」

 過労は
身体を蝕み
精神をも蝕む。
 富士も
ぎりぎりのところにいた。
さっきのは
自分が自分に与えた警告だ。
世の中に
命を懸けるに値する仕事は
そんなに多くはない。
すくなくとも
今、自分がしている仕事は
命を懸けるほどではない。
 書いた紙を
手近にあった封筒に入れ、
その表に
〝辞表〟
と書いた。

第十章 スポットライト

人には自己顕示欲がある。
生涯に何度かは
スポットライトを浴びてみたいと願う。
しかし脚光を浴びるということは正体をさらしてしまうことでもある。



 秘書課の愛巣 星乃(あいす ほしの)
課の中で一番の若年ながら、
会社一の誉れ高い美女だった。
きわめて有能であり、
長身痩身で、
肌は雪のように白く、
目は氷のように澄んでいる。
 どの来客からも賞賛され、
そばにおく社長は鼻が高かったが、
同時に、
このままで秘書課に埋もれさせるには惜しいと
常々思っていた。
これほどの美貌と品格、
社の顔として売り出すのもいい。
この際思い切って
アナウンス部へ移動させてはどうか。
彼女のきまじめさ、有能さをもってすれば、
どの職種であれ、たやすくなじむはずだ。

 アナウンサーは新卒採用が原則だが、
社内の移動であれば、社の事情だ。
現在ワイドニュースの視聴率は低迷している。
テコ入れが必要だ。
新人アナたちはまだ幼なすぎる。
美人の彼女ならたちまち注目され、
異色の「秘書アナ」として話題になるだろう。
 
 しかし彼女は
蒼ざめて固辞した。
このままがいい、
ずっと秘書課でやっていくと思っていた
という。
 思えば
秘書は御殿女中と似たところがある。
トップのそばに仕えるため、
他の部署を見下しがちになるのだ。
移動を左遷ととってしまったらしい。

 しかし
社長の思いつきは断行され、
彼女は社命とあらばと
涙ながらに従った。

 同じく社長の横暴な鶴の一声に振り回された
ニューススタッフは、
美人ではあるが、
所詮はアナウンスの経験のない素人だから、
お天気お姉さんが適当だろうと
話し合った。
登場時間は短いし、
気象予報士である必要もない。

 こうして
新人お天気キャスターの訓練がはじまり、
彼女は不承不承に発音の訓練から
スタートすることになった。

 若く見え、
気品のある彼女は
新人アナといっても遜色なかったが、
意外にかつぜつが悪かった。
天気用語に出る
「暑い」
という言葉がうまく言えないのだ。
暑いのは苦手、
夏は嫌いだからなのだと説明した。
 そういえば彼女は
夏は
日焼けを嫌って
上から下まで
完全日光シャットアウトの服装でくるほどの
夏嫌いだった。

 なかなか
カメラにも放送卓にもなじめなかった彼女だが、
リハーサルを繰り返すうち、
慣れてきた
というより、
覚悟を決めたようすになって
上達していき、
発案者の社長を安堵させた。

 いよいよ
お天気キャスターデビューの当日、
愛巣 星乃は極度に緊張したようすだった。
 本番前から入念に打ち合わせをし、
男性メインキャスター・冴掏 亘(さえずり わたる)と女性サブキャスター・八窯 椎奈(やかま しいな)との
呼吸もぴったりと合わせ、
リハーサルを繰り返していた。

 彼女は
この日のために
照明担当スタッフに、
格別な配慮を要求していた。
自分をよりよく見せるために、
普通の出演者の倍以上の光量で
自身の顔を照らせと言っていたのだ。
 どの出演者もよく映えるように
いつも適正に照明をあてていますよ、
と、照明担当は、
この、さすが秘書あがりの、
新人らしからぬ尊大な要求に対して
プロ意識をかざしたが、
彼女は
ディレクターよりも決然と、
プロデューサーよりも責任感をみなぎらせ、
目をすえて
要求に従うようにと言い放ったのだ。

 ついに本番がはじまり、
キャスターたちによって
その日のニュースが
どんどん消化されていくあいだにも
彼女は寸暇を惜しんで、
自ら希望した
ぎらぎらするほどの強烈な
スポットライトの下で、
何度もその日の天気を小声で読み上げる
リハーサルを行っていた。
灼熱の太陽もかくやと思えるほどの
まばゆいスポットライトを
一身に浴びた彼女は、
いつにも増して
透きとおるほど色白で、
きわだつ美しさだったが、
それもつかのま、
額には緊張のためか
汗が浮き出て、
それはたちまち冷や汗となって
肌を滑り、
見る見る一筋二筋と流れ落ちはじめた。
気づいた彼女は
しきりにハンカチでぬぐうが、
それがなかなか追いつかない。
お天気コーナー直前には
調整室で見守るスタッフも
「彼女、ちょっとマズくないか?」
と不安を感じるほどの汗となっていた。
ハンカチは水浸しで
もはや用をなさない。
文字通り滝のような汗だった。
汗がドレスに染みて
濡れてくるのが見えるほどだ。
この日のためにオーダーしたという
鮮やかな水色のスーツは
たちまち濃い紺色へと変わってゆく。
「こりゃヤバいぞ…」
「彼女のデビューは次にしたほうがいい…」
スタッフの何人かが言い出した。
汗はさらにひどくなり、
化粧も流れはじめる。
睫毛もマスカラも流れ、
くまどりのような顔になる。
服からも水がしたたり、
全身水浸しで、
今しがた河から引き揚げられたような
ありさまとなった。
「彼女をスタジオから出せ!
控え室へ!
医者を呼ぶんだ!」
ディレクターが叫んだが
遅かった。
彼女は耐え切れず
アナウンス卓につっぷした。
このときスタッフのひとりは
彼女のスーツが解けるように
くずれていくのと同時に、
彼女の顔も解けて
片方の目玉が流れ出すのを
見たような気がした。
となりの女性キャスターが悲鳴をあげ、
メインキャスターも目をみはって
呆然と手をこまねく。
彼女は
アナウンス卓からさらに倒れるように
床に崩れ落ちた。
スタジオも調整室も騒然となったが、
調整室のスイッチャーが
素早く画面を切り替え、
画面には「しばらくお待ちください」
のテロップが現われ、のどかな音楽が流れた。
スタジオ内のフロアディレクター、
アシスタント、カメラマンたちが
かけよったとき、
お天気キャスター卓の下の床には
水溜りがあり、
それはスポットライトの熱のためか、
たちまち蒸発するように消えて
床のしみだけになった。
そして
お天気キャスター卓の上には
まだ濡れている辞表があった。

残業は丑の刻に 第一巻

2015年3月3日 発行 初版

著  者:北村恒太郎
発  行:北村恒太郎出版

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北村恒太郎

屋根裏文士です。青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。◇青火温泉第一巻~第四巻◇天誅団平成チャンバラアクション第一巻~第四巻◇姫様天下大変上巻・下巻◇無敵のダメダメオヤジ第一巻~第三巻
◇ブログ「残業は丑の刻に」

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