この本はタチヨミ版です。
この『澪標(みおつくし)』に掲載されている作品は、全て学生が書いた(描いた)ものです。
私たちは、都内のとある大学で文芸創作や出版編集について、日々学んでいます。
私の周囲にいる友人や知人は、程度に差があるものの、大学で専門的に学んでいるだけあって、創造力のある人が多いように思います。
しかし、その力を発揮する場所が講義における課題や、サークルなどの部誌に限られていて、非常に「もったいない」とも感じていました。
そのため、彼らの作品を披露する新たな場所を作ろうと、この電子小説雑誌『澪標』の企画を立ち上げました。
この企画が本格的に動き出したのは昨年の十月、半年かかりましたが、ようやくここまで辿り着くことができたことを、大変嬉しく思います。
けれども、ここがゴールではありません。むしろ、ここがスタートラインとなります。
この『澪標』という誌名は、船の航路を示す同名の標識からとっています。
澪標が航行可能な道を示した標識であったように、『澪標』も、著者と読者の繋がりを示した雑誌となることを、心から願っています。
二〇一五年三月二五日
身を尽くす会 代表 小桜店子
僕は思う。――人間である前に作家であれ。
<新作読み切り・小説>
どこにもなかった。パソコンの画面に鼻がぶつかりそうになるくらい顔を接近させ、上から順番に文字を追っていった。慎重に、何度も何度も。しかし、何度確認しても、僕の作品名とペンネームは二次選考通過作品が掲載されているこのページには載っていなかった。
座っていたレザーチェアの背もたれに自分の背中を預け、中空に向かって大きく息を吐き出す。時計針の律動がにわかに聞こえ始める。
描写が足りないのでは、キャラクターが没個性的かもしれない、本当にこの物語は面白いのか、書いているときに懐疑的になってしまったことは数知れず、その度ごとに完成させないことにはなんにもならないと奮起し、目指すべきゴールは知っているのにそれに至る道を知らない旅人のような心境で一文字一文字、一文一文を紡いで、何度も読み直し、加筆し、消去し、修正を加え、出来上がった一作だった。だが結果は、一次選考を通過しただけというあまりにもぱっとしないものだった。
もしかしたらと思わなかったとはいわない。むしろ、もしかするかもしれないという気持ちの方が大きかった。商業作家としてのスタートラインに立てるかもしれないと思った。でも、僕は負けたのだ。何千という応募作の有象無象として処理された。選考委員の心を揺さぶることができず斬り捨てられた。評価に値しない作品として認定された。
それが残酷で冷酷な事実。
僕が新人賞に応募したのはこれで三度目だ。一度目は三次選考を突破し四次で落選、二度目は二次まで突破できたが三次で落選、三度目はごらんのありさまだ。徐々に結果が悪くなっている。理由がいったいどこにあるのか、僕には全くわからない。
僕は専門学校で小説の書き方を学んでいる。一つのテーマに沿った短編小説を書いたり、自分の好きな場所の情景描写を書いたり、ものすごく綿密なキャラクター設定を書いたり、ようするに小説を書くために必要なこと、あるいは小説自体を書くという課題が与えられ、それを提出し、添削してもらうといったことが主な授業内容だ。提出した作品は学校の共有フォルダに入れることが決まりとなっていて、学校のパソコンを利用する人なら誰でも他の人が書いた作品を閲覧できる。他にはプロットの作り方やキャラクターの作り方を理論的法則的に学んだり、授業で過去の小説家の『小説講座』なるものを読み、そこから書く知識や技術を盗み取ったりするというテキスト授業も存在する。こう話すと小説を書きたい、作家になりたいという人にとって最良の環境であると思うかもしれない。
でも、それだけなのだ。環境が整っているだけでデビューができるとは限らない。環境が整っているだけでやる気があるやつばかりとは限らない。環境が整っているだけで文句がないとは限らない。
新天地に大きな期待を膨らませて、一歩、足を踏みだす。そのときは輝かしい未来への一段目を登ったのだと錯覚してしまうものだ。僕はこの専門学校にある程度の、いや、相当の希望を持って入学した。不安がなかったとはいわない。不安とはもちろん将来に対する不安だ。こんな就職活動にはなんの役にも立たないであろう専門学校を選択して、もし夢を叶えることが、作家になることができなかったら、いったいどうすればいいんだろう? 夢追い人が必ず陥る葛藤が、当然僕の胸にも去来した。けれど、僕はこの専門学校に進学することを選択した。小説を書くことに特化した専門学校に進学することが、夢へ近づくと信じた上での選択だった。
実際は、これだ。賞一つ満足に取れず、アマチュアに甘んじているという圧倒的な現実が目の前に横たわっている。自分には何が足りないのか、その答えが見つけられず、四苦八苦している僕がいる。
小説家になりたいと強く思う。僕の物語を大勢の人に読んでもらいたいと思う。でも、デビューしなくてはその機会は永遠に訪れない。
敗北の余韻に侵略され、力が抜けている右手でマウスを動かす。USBメモリのフォルダを開く。自分が今まで書いてきた設定、キャラクター、プロット、物語――僕が綴ってきた文字が刻み込まれているファイルがずらりと並んでいる。
今はまだ、これらはゴミ同然だ。2チャンネルに書かれたSSや暴露話、細い路地裏にスプレーで描かれた毒々しい文字と大差ない。むしろ一瞬すら注目されていないという点において僕の方が劣っているともいえる。僕が綴った文字の集群に光を与えることができるのは僕しかいない。作家になる以外に方法はないのだ。
そのためには、書くしかない。新たな小説を完成させ、新人賞に応募しないといけない。マウスを握って右クリックをし、新たなワードファイルを作りだす。
僕は思う。――人間である前に作家であれ。
✝
どんな小説を書けばデビューできるのかを延々と考えながら学校に向かった。けれどその解答は当たり前だが出るはずなかった。解答を知っていたらとっくの昔に僕はデビューしているし、こんな風に悩んだりしていない。
教室に入ると何人かの人がノートパソコンを立ち上げてカタカタと打鍵音を響かせながら文章を書いていた。あれらはデビューに値する小説なのだろうか、とふと思う。あいつらが書いている小説は選考委員に認められるほどの強度を、深度を、明度を持っているのだろうか。
……やめよう。他者は他者、僕は僕だ。彼らに対して、僕はただ敵だと認識していればいい。物語を書く人間は全て敵だ。
自分の席に座り、スクールバッグからノートパソコンを取り出して机の上に置き、起動ボタンを押す。立ち上がるのを待っていると、
「おはようございます、かけや君」
男にしては妙に甲高い声が後方から聞こえた。振り返ると異様に目が細い長身で猫背の男が立っていた。高居空だ。課題を提出するときは高栖遥というペンネームを使っている。僕は体を反転させ、高居を視界に収めた後、
「何か用か?」
冷たい声で訊いた。僕はこいつが苦手なのだ。
「用がないと話しかけてはいけませんか」
柔和な笑みを浮かべて高居は優しく言う。
「まぁ用ならあるんですけどね」
そういって高居はスマートフォンを取り出し、画面を僕に見せた。そこには昨日何度も見返した、僕の負けの証明となるあのページが表示されていた。僕が応募した新人賞の二次選考通過作品が掲載されているあのページだ。
「残念でしたね。僕はあなたのことを応援していたのですが」
高居に悪気があるのかないのかはわからないが、笑顔のまま言われても煽られているようにしか聞こえない。僕には彼の表情が人の不幸は密の味という言葉を貼りつけているように見える。それがすごく腹立たしかったし、情けない結果しか出せない自分に対しても同時に腹立たしさを覚えた。
「なんだ、嫌みでもいいにきたのか?」
僕の言葉の端々に怒気が宿る。
「いえ。かけや君の書いた原稿を読ませてほしいとお願いをしにきたのです」
「……僕の原稿?」
言葉を噛み砕き、口にしてみて、ようやく理解が広がった。
「はい。ぜひとも」
高居はポケットからUSBを取り出し、僕に向かって差し出した。こいつが僕の原稿を読みたいと言ってきたのは初めてだった。高居はクラスで一番の成績である。小説を書くための知識や技術を学ぶ専門学校だからといって、優劣がつけられないというわけではない。教師陣はあくまでこれは形式的なものであって、低い評価の人がデビューできないというわけではない、教師ではなく選考委員に評価され、世間に評価されればいいと言う。なるほど、確かにその通りかもしれない。けれどもその言葉は詭弁ではないかと思う気持ちも存在する。教師陣の心すら摑めない作品が、文章が、プロたちに、一般の読者に届くのだろうか、そう思ってしまう。
「他人には読ませたくないのかい? それとも、自分の作品に自信がない?」
思わず高居を睥睨した。そして、今の言葉で確信した。やはりこいつは僕のことを笑いにきたのだ。悪意を持って僕に接してきたのだ。
僕は高居の手からUSBを引き抜いて自分のノートパソコンに挿した。マウスを操作し、高居のUSBに二次選考落ちした作品のほか、過去に投稿した二作品も一緒にぶち込んだ。これは怒りによって行った感情的な行動では決してない。一つの信念、僕の理念に則ったきわめて理性的な行動だ。アマチュア一人黙らすことができないのなら、最後まで通読させることができないのなら、やはりこの作品たちは選考落ちして当然だったという証左になる。
コピーが終わり、USBを高居に返す。
「ありがとうございます。感想は、そうですねぇ、一年以内に言うことを約束します」
一週間経った。高居は度々僕のことをからかうような発言を言いにきたり、昼食を一緒に食べようと誘ってきたりはしたが、僕の原稿を何ページくらい読んだとか、まだ読んでないとか、そういう言葉を一言も言わなかった。僕も読んだのかと質問したりせず、嫌々高居につきあった。専門学校に僕は友達がいないのだ。
そんな日常が一ヶ月ほど続いた。高居は相変わらず、僕の原稿について何も言わなかった。あるとき、好きな作家や影響を受けていると感じている作家はいるかという質問をされたことがあった。その質問に、僕は素直に答えた。
二ヶ月経ったがやはり高居は僕の原稿のことを話題に出すことはなかった。このくらいの時期になるともうこいつは僕の原稿の感想を言う気はないのだなと思うようになった。結局、あいつはどうして僕に原稿を読ませてくれなんていったのだろう。理由はさっぱりわからない。
三ヶ月経った。もうあきらめた。もし仮にあいつが僕の原稿を一作品でも読んでいたとしても、感想を述べていないということは僕の書いた作品には感想を言う価値などないとあいつに判断されたということだ。逆に、もしあいつが僕の作品を一作品も読んでいなかった場合、それは僕の作品に他人を引き込む吸引力がなかったということだ。結局、どっちにしても僕の小説が面白くなかった、という結論に辿り着く。
四ヶ月経ったある日、高居は唐突に、それは僕の原稿を読ませてくれと言った日と同じような感じで、あの下卑た笑みを浮かべながらこう言った。
「かけや君。今日君の家に遊びに行っていいかい?」
僕は渋々承諾した。
✝
別に部屋の中に見られて困るものなどないが、高居が僕の部屋にあがるということを考えるとどうしてか拒絶反応が起こった。どうしてこんな反応が起こるのか全く理解できなかった。自分の心の中の出来事なのに。でも、だからこそ、僕は高居の提案を飲んだ。ここでの拒絶は高居から逃げているような気がして嫌だったのだ。
僕の部屋は至って普通のものしか置いていない。小学校の頃から使っている机、布団が敷かれたベッド、溢れんばかりに本が収蔵されている本棚、黒いクローゼット、木製の箪笥、長方形のデジタル時計、他にも細々としたものはあるけれど、部屋に入ったとき、ざっと視界に入るのはこのくらいだ。平凡にして簡素。特異性がなく退屈。僕の部屋は僕から見てもそういう部屋だった。
「本棚を見ていいかな」
高居は部屋に入って開口一番そう呟いた。
「別にいいけど、なんで?」
「理由は三か月以内に教えてあげますよ」
そういって高居は鼻歌をしながら本棚に近づいて行った。どうして三か月という期間をあいつは挙げたのだろう。お茶を濁すための、特に意味がない言葉なのだろうか。僕の原稿の感想を一年以内に言うといったときと同じように。僕の家の本棚を見ることにいったいなんの意味があるのだろう。高居にとっては重大な理由があるのだろうか。作家志望の性のようなものが発動し、本があるところに吸い寄せられたとか? わからない。数か月、高居とは一緒に行動を共にしているが、高居の考えていることが全く理解できない。他人のことを完全に理解できるなんて僕は思っていないけれど、少しくらい理解できた気にはなれる。でも、僕はそれすらできていない。理解しようと歩み寄っていないからか? 僕は本当に訊きたいと思ったことは一度も高居に訊いたことがない。ただ言葉にすればいいだけなのに、僕の中には高居に対して、していい質問としたくない質問の二つが存在するようなのだ。この状態の根底にはどんな思想的バッグボーンがあるのか、どんな感情のうねりが存在するのか、自分のことなのにいまいち判然としない。
高居は本棚を一つ一つ丁寧に丹念に見ていった。時には本を手に取り、スマートフォンを取り出して双方を矯めつ眇めつしたりしていた。僕はレザーチェアに腰掛け、高居の様子を見ていたが、見ていることになんの意味もないことに三分くらい経ってようやく気づき、机の上にある読みかけの本を手に取り、読み始めた。
二十ページほど読み終えたところで高居が、
「ありがとうございます。かけや君」
礼の言葉を投げかけてきた。
僕は顔を上げ、高居を見た。そこには相変わらず薄気味悪い笑みが刻まれている。
「高居は学校の課題以外に何か小説を書いているのか?」
僕はふと思ったことを口にしていた。それは僕の中でしてもいい分類の質問だった。
「はい。長編小説を書いて新人賞に応募しましたよ。ぼくも、あなたを小馬鹿にするような発言ばかりをしているだけではないのですよ」
にんまりと、高居はさらに表情を綻ばせる。
「……自覚はあったんだな」
「ええ、当然です。こんな話し方をするのはかけや君に対してだけなのですよ」
「気持ち悪い」
僕は高居の言葉を一蹴した。
僕が二次選考落ちした新人賞のホームページを見ると、すでに最終結果が発表されていた。発表された五人の作品名とペンネームを見て、僕はページを閉じた。感想は特にない。あるとすれば、次は僕がお前たちと同じステージに上がってやると思う気持ちだけだった。
数ヶ月後、例の新人賞を取った作品が続々と書籍化された。装丁とあらすじを読むくらいのことはしようと思い、ホームページを開くと僕の体の芯は急激に冷えていき、認識が追いついた次の瞬間に、焦燥の濁流が僕の心を掻っ攫って胸が苦しくなるくらいの動揺を生んだ。
最初は目を疑った。数か月前はそんなペンネームではなかったはずだ。もしそのペンネームだったのならすぐに気付くはずだ。ほぼ毎日その名前を学校で見ているのだから。ホームページを開くと真相が書かれていた。
『空に向かう闇の彼方』 受賞時の藤堂学からペンネームを高栖遙に変更。
高栖遥――それは、高居空のペンネームだ。
✝
開店一番に本屋に入った。平台に展開された何十冊とある本の中の一冊に僕は手を伸ばし、摑み、自分の眼前に持ってくる。『空に向かう闇の彼方』だ。黒の背景に白い円球を散りばめ、その球の中にタイトルの文字が逆さまで入っているという表紙で、「新人賞受賞作 十八歳の若き天才が紡ぐ、ネット社会の暗部」という帯がついている。本の裏を見ると、黒の濃淡が所々異なっていた。左上に白い囲いがあり、その中にバーコードと品番と値段が書かれている。裏帯には本文抜粋と書かれ、文章が乗せられていた。
――誰もが抱えている闇を吐き出す場所としてSNSを利用するのです。闇を吐き出す対象に慈悲の気持ちなど微塵もございません。
普通の文章のはずだ。偶然目に入ったとしても何の感慨も起きない文章のはずだ。それなのに、僕の心はおそろしいほどかき乱されていた。嫉妬と焦燥が滞留し、絡まりあい、溶け合い、やり場のない感情が生成される。
本を持っている右手に力が集中する。そのまま本を破りたくなる。しかしそんなことに意味はない。一時的な爽快感が得られるだけで、すぐに暗い後悔の念と自身に対する憤りが胸中に溢れんばかりに広がるのは目に見えている。落ち着かないといけない。わかっているのに、僕の心は暴走していた。あらゆる感情と言葉が荒れ狂っていた。
たとえば憤怒。たとえば羨望。たとえば自嘲。
僕は立ち尽くしたまま動けない。そんな僕を、僕は自分で叱咤する。帰ってこの本を読まなくてはいけない。僕じゃなくて高栖遥が、高居空が賞をもらえた理由を考察しないといけない。
『空に向かう闇の彼方』を購入して帰宅し、すぐに僕は読書に入り、約三百五十ページの内容を五時間で読み終えた。内容は、SNSというメディアを通じて起こる様々な事件、いじめや炎上やなりすましなどに焦点を当て、見えない相手だからこそ容赦なく思う存分叩けるという狡猾な人間精神のありようと、人間関係の肥大化と希薄化を描いた群像劇だった。高栖遥のねちっこいまでの心情描写がキャラクターの行っていることに説得力を持たせていて、いい意味で気持ち悪い作品だった。裏帯の文章でいうところの闇が嫌というほど伝わってきた。つまるところ、面白かった。でも、僕の物語が賞を取れず、高栖遥の物語が賞を取れた理由は結局のところわからなかった。選考委員の好みと高栖遥の文体、物語が合致したのだろうという、安っぽい結論を僕は出してしまいそうになった。
安っぽい?
僕はその言葉に違和感を覚える。何千という物語の中から選び抜かれた高栖遥の物語。それを選んだ人たち。選んだということは、選ばれたということは、高栖遥の物語は人の心を動かしたということだ。強く、何千の物語よりも激しく。その事実を、安っぽいなどという一言で片づけることなどできないはずだ。もっと考えろ。高居空がデビューできた理由はいったいどこにある? 僕がデビューするための道はどこにある?
なぜ負けた? なぜ負けた? なぜ負けた?
一年に何十、何百という人たちがデビューし、作家になる。その一人一人に、僕は少なからず羨望と嫉妬を覚えざるをえなかった。でもそれだけだった。次は僕がそのステージに上り、多くの人たちを蹴落としてデビューしてやる番だと思うだけだった。
今はどうだ?
たった一人、知っているやつがデビューしたくらいで悩んでいる僕。負けた理由がわからず、疑問の海に溺れてどうしようもなくなっている僕。みじめでしかない。いつものように全感情を創作意欲に変化させてパソコンの前に座り、物語を紡げばいい。それ以外に作家になる方法はないのだから。でも僕はパソコンのあるところにまで行けなかった。
気持ちの整理をつけるため一度眠ろう。起きたら風呂に入って熱いシャワーを浴びて頭をすっきりさせよう。そう思い、電気を消してベッドに入った。だが眠ることはできなかった。いつもならベッドの中に潜り込めばすぐに眠りにつくことができるこの体に睡魔がやってこない。僕の頭の中で際限なく広がる思考が睡眠を妨害する。何も考えないようにと意識すると何も考えないようにと思った箇所に鋭い感情の刃が切れ込みを入れ、出来上がった亀裂から高居空のデビューに起因する情動が流れ込んできて、言葉が僕の頭を満たす。寝返りを打つ。体勢を変える。枕に顔をうずめる。深呼吸をする。無意味だった。何をしても僕の頭の中から高居空の存在が消えない。高居空という名前が浮かびあがるたび僕は激しい劣等感に苛まれる。劣等感。どうしてかその言葉が引っかかった。どうして? 僕は考える。無差別に僕の胸中を泳ぎ、漂っている感情の塊を解剖して、理由の探求を試みる。本能が凝集した本当の自分と向き合う。僕はいったい高居空をどういった目で見ていたのか。ドンドン。塊を拓く。最初に噴出してきたのは微弱な嫌悪だった。いついかなるときも笑顔を絶やさない不気味な高居空にからかわれると苛立ちを覚えた。人の神経を逆なでするような物言いが九割五分を占めるあいつの話し方が気に食わなかった。そういった小さな怒りが嫌悪を作り出していた。ドンドンドンドン。塊をさらに拓く。次に現れたのは小粒程度の感謝だった。僕は専門学校に友達がいない。友にならずとも互いを高めあうライバル的存在がいればいい、小説を書くものはみな等しく敵なのだから、表面的にはそう思っていた。だが心の奥底では淋しさに類する人恋しさのようなものはなかったか。僕は高校まで普通に友達とわいわいがやがやしてつまらないことで笑いあい、俗にいう友情というものに深く深く触れ続けてきた。当たり前にあり続けたものを喪失する。当たり前であったからこそ、それは大事なものだ。だから僕はごっこであろうとも、そこに嫌悪があろうとも、いつも隣にいてくれる高居空に感謝していた。僕に話しかけてくれてありがとう。そう思っていたのだ。あいつには絶対に知られたくない僕の秘密だ。次の塊はなかなか頑丈ですぐには拓くことができなかった。おそらくこの部分が僕の高居空に対して思う感情の中で最も繊細で最もいびつなものであると確信した。塊を拓く。表出してきたのはどす黒い嫉妬心だった。とても強くてぎらぎらしている僕の本音。そこには言葉が埋め込まれていた。「高居は僕の原稿を読んだのか?」何か月も訊けずにいた疑問。絶対に僕からはあいつに訊くものかと思っていた質問。どうしてこんなところに埋まっている? どうして嫉妬とともに存在している? 僕はさらに自分自身と深く向き合った。高居空と向き合った。劣等感。僕は高栖遥に対して、高居空に対して劣等感を覚えていたのだ。学校で一番評価されているあいつに、どうして僕が一番評価されないんだと憤りながら劣等感を覚えていた。そして、僕の劣等感は現実のものとなった。もはや高居空は別の次元の存在となっている。アマチュアとプロ。厳然たる壁で仕切られてしまった。何が足りない? 結局僕はその自問に戻ってきてしまった。
文章が悪いのか。
内容が薄いのか。
才能がないのか。
絶え間なく間断なく僕の頭を侵略する疑問と疑念、猜疑と懐疑が連結し、僕を深い闇に叩き落とす。僕は闇の中で苦しみ喘ぐことしかできない。そんなみじめな状態から脱却するためには――ああ、そうだ、デビューするしかない。
本格的に僕は最初に戻ってきてしまったみたいだ。眠気はやってこないし気持ちは落ち着く気配を一向に見せない。けれども僕はまた考えてしまう。無意味な思考にとらわれてしまう。それが現実逃避であると知りながら。同じ話題の連続、同じ感情の揺らぎ、同じ苛立ち。僕の思考は連環している。ふいに叫びたくなる。大声を張り上げてしまいたくなる。けどそれは負け犬の遠吠えに他ならない。僕はまた高栖遥について、高居空について考え始める。
……………………
いったい今は何時だ? どのくらい時間が経過した? そういえば夕食を食べていない。自分がひどく空腹であることをたった今自覚した。喉もからからに渇いている。布団から出よう。そう思った瞬間、僕の脳裏に『空に向かう闇の行方』の表紙がよぎった。唐突に何の脈絡もなく。僕は悔しさゆえに歯噛みする。溢れ出てくる劣等感に対して激怒する。現在の僕の心を凌辱している元凶。高居空の薄ら寒い笑みが立ち昇ってくる。高居の笑み。それは勝者の笑みだ。僕は頭をかきむしる。破壊しないと。僕と高居の間にある峻厳な壁を。商業作家とアマチュアを分断する壁を。こんな非生産的思考を繰り返している場合ではない。無意味の先にあるのは破滅だ。負け犬の人生だ。だから僕は――
扉がノックされた。
「かけやっ、おきなさい」
母さんが扉越しに大きな声で呼びかけてくる。僕は体を半回転させ、時計を見遣った。普段なら自分でかけた目覚ましで起き、布団から這い出て下に降り、朝食を食べている時間になっていた。……なんだって? これは現実か? もしかして夢か? いったい僕は何時間ベッドの上でいた? もしこれが現実だというのなら、なんてくだらない夜を過ごしてしまったんだ。なんの結論を出すことも出来ないまま、僕は一夜を悩んだだけで終えてしまったのか。そういえばどこかのタイミングでドンドンという音がしていた気がする。あれはもしかしたらノックだったのか?
「ちょっと、かけや。朝ごはん冷めちゃうんだけどぉ」
動揺しているだけでは埒が明かない。とりあえず、返事をしないと。「今起きる」と言おうとして、言葉が詰まった。言葉はそのまま喉を伝って引っ込んでしまう。代わりに頭の中に二つの漢字で形成される単語が浮かび上がってきた。
家族。
もし僕がこのまま新人賞を取れず、就職もできず、フリーターになってアルバイトをする二十代になってしまったら家族はどう思うだろう。優しくていつも僕の味方をしてくれた家族。僕が小説を書く専門学校に行きたいと言ったとき、少し苦い顔をしたくらいで、それが夢ならと言って背中を押してくれた僕の愛する家族。
理解。
つまり、母さんも父さんも僕のやりたいことを理解してくれたということだ。もし二人が僕の願いを受け入れてくれなかったら、僕は普通に受験勉強をして三流の大学に進学していただろう。だから僕は僕のためにも、僕の夢を応援してくれた家族のためにも、絶対に作家になりたいと思う。でもこのままではいけない。暗澹たる闇に支配されている将来しか思い描けない。厭世的な思考の持ち主となって、社会が悪いと愚痴を言って、自身の駄目さを視えない存在に、あるいは他人に仮託する腐った精神を保有する典型的な屑になってしまう。
再度、扉がノックされる。音がさっきよりも大きかった。いつまでも返事をしない僕に母さんが痺れを切らしているのだろう。
「早くおきなさい。でないと部屋に入るわよ?」
何か言わないと。このままでは宣言通り母さんが本当に僕の部屋に入ってきてしまう。そして布団を引っぺがされてしまう。十九歳にもなってそんな体たらく、昨日までの、いや、一昨日までの高居が受賞したという情報を知らなかった僕が知ったら絶望するだろう。指針を、僕が今日やるべき軸を定めないといけない。学校に行く。行って、高居と会う。何を話す? 何を訊く? 何を語り合う? 数か月、僕の心の中に存在し続け、熟成された質問。昨日の夜、気づいてしまった事実。あれだ。あれしかない。
――高居は僕の原稿を読んだのか?
この質問を皮切りに、あいつの言葉を引きずり出す。あいつの思想や理念や意見を傾聴する。現状を打破し、デビューに近づくためには藁にも縋り、地道な努力を積み重ねないといけない。今までやってきたように。高栖遥の、高居空の話を聴いて、それから物語を書こう。
ゆっくりと布団の中から脱出する。頭が重い。目がしばしばする。吐き気がする。体調は最悪のようだ。
✝
教室に入り、視線を自分の席の方にやると高居が僕の椅子に座って本を読んでいた。……なんだか出鼻を挫かれた気分だ。いったいどういう意図があってあいつは僕の席に座っているんだ? まぁいい。今はそんなことどうでもいい。僕は大きく靴音を鳴らしながら自分の席に向かう。高居が顔をあげ、こっちを見た。僕の存在に気づいたようだ。相変わらず薄気味悪い笑みを湛えた表情をしている。正面に立ち、肩にかけていたスクールバッグを机の上に置き、高居と視線を交錯させる。
「話がある」
僕はなんの前触れもなくそう切り出した。高居はその言葉を待っていたかのように頷き、無言で立ちあがった。いつもなら余計なことを話す高居が何も話さないのはどこか不気味だった。でも臆してはいけない。
「僕についてきてくれ」
僕たちは教室を出た。どこで話し合うのが適切だろうかと思案しながら廊下を歩き回っていると、空き教室を発見したのでその中に入った。綺麗に並べられた机と椅子、何も書かれていない濃緑色の黒板以外は特に何も置いていない退屈を絵に書いたような室内は、僕の部屋を連想させた。どういうわけか普段よりも強く早く心臓が鼓動していた。教室の中心地まできて僕は足を止めた。
「かけや君の方から話しかけてくるのは珍しいねぇ。嬉しくなっちゃうよ」
振り返ると高居がにやけた面で僕を見ていた。
「なんだい、話って」
僕が何を言うのか知っている上でそう訊いているように見えて、少し苛立つ。しかしこんなことで苛立っているようではこいつと一緒にいることなど不可能だ。僕はなんの装飾もない真っ直ぐな言葉を高居にぶつけた。
「デビュー、したんだな」
「はいっ。デビューしてしまいましたよ。僕は少しシャイなので適当に考えたペンネームで投稿してみたのですが、まさかデビューができるとは思ってもみませんでした」
僕は眼を鋭く細めて高居を見た。
「おっと、そんな怖い表情見せないでください。すいません。嘘です。本当はできるだろうと思っていましたとも」
自信たっぷりに高居は言う。そして、
「まぁ、これは無根拠な自信ではありますが、」
高居が眼を鋭く細め、僕を見据えた。
「かけや君、あなたもこれと同種の自信を持っていたのではないですか? 自分の作品が受賞するだろうというような自信ですよ」
思わず目を見開いてしまう。否定できなかった。肯定せざるをえなかった。
「その反応、図星のようですね」
「だからなんだっていうんだ?」
「いえ、別に。なんでもありませんよ」
どこか含みのある言い方だった。
「訊きたいことはそれだけですか?」
もしかしたらこいつは僕が訊きたいことを見透かしているのかもしれない。見透かしたうえでこのやり取りを行っているのかもしれない。もしそうなら、本当にこいつは性格が悪い。でも、厳然たる事実として、高栖遥は、高居空は僕の上位に位置する人間なのだ。世間に作家と認められた存在なのだから。
まぁいい。こいつが今何を考えているのか、そんなことはどうでもいい。僕は疑問をぶつけるだけだ。ずっと言わなかったことを問いかけるだけだ。
静かに、息を吸った。
「高居、お前、数か月前に僕に原稿を読ませてくれといってきたよな。僕はお前のUSBの中に三つの作品をコピーしたよな。あれから何か月も経った。僕は今日まで一度もこのことについて触れなかった。高居も触れなかった。でも、僕は今、お前に問う」
そして、例の言葉を吐き出した。
「――高居、お前は僕の原稿を読んだのか?」
ようやく、口にすることが出来た。僕が本能的に言葉にするのを拒絶していた言葉を、ようやく言うことが出来た。不思議な爽快感が体を這う。でも、そんな感覚は、高居の言葉によってはじけ飛んだ。
「三作品とも読みましたよ。原稿をもらって一週間の間にね」
その返答は、予想していなかった。三作品全てを通読しているという可能性はもちろん考慮していたけれど、全てを一週間で読み終えていたなんて考えもしなかった。しばしの動揺の後、湧き上がってきたのは一つの疑問だ。それは当然と言ってしまえば当然の疑問、
「どうして、感想を言わなかったんだ? 面白くなかったからか?」
僕は重々しい口調で問いかけていた。高居はすぐに答えた。
「理由は色々ありますけどねぇ、それらの理由の根源を辿って言語化すると――ああ、ひどいひどい小説だった。そう思ったんですよ。だから言わなかった」
それはあまりにもストレートな表現だった。
「ワードファイルの更新日時が一番古いのから先に読みました。それがかけや君の最初に書いた長編小説だろうと思ったからです。一作目はかけや君にしか出せない味が滲んだ文章だったと思いますよ。内容は自分だけではなく他人の存在も意識して書かれていました。一作目に関してだけは素直に面白いと思えました。それなのに、」
高居は大きくため息を吐いた。
「二つ目の作品からは何も感じませんでした。物語に心を動かされず、ただ苛立っただけでしたよ。三つ目の作品はもう話になりませんね。一次選考を通過できていたことが奇跡みたいなものだとぼくは感じましたよ」
近くにあった机に高居は腰を掛けた。
「ぼくは君にすごく期待していたんですよ。専門学校に入ってきて最初に出された課題を覚えていますか? 今年の新入生の共有フォルダの中に最初に作品を入れたのはあなたでしたよね。ぼくは君の原稿を読んだとき、ひどく魅せられたんです。上から目線だとは思いましたけど、行く末が楽しみだと思いました。でも、現実はこれです。今回読んだ作品群は一作目を除いて、あのとき、かけや君の文章から感じた魅力をぼくは全く感じることができなかった。くだらない、自慰行為をそのまま小説に書き起こしたかのような駄文の連続に欠伸が出てしまいそうになりましたよ。いったいどうしてこんなことになってしまったのか、ぼくはすごく気になりました。だからね、探ってみましたよ。君に好きな作家を訊ねたり、部屋に上がって本棚を確認したりしてね。君が影響を受けた作家の文章を読みました。二作目、三作目の君の文章とそっくりでしたね。なるほどとぼくは思いましたよ。君が影響を受けたという作家はものすごく魅力的な文体を使用し、魅力的な内容を書く作家ですね。勢いがあって気持ち悪さがあってこの作家にしか出せないだろうという味が出ていた。影響を受けるのも無理はないです。けれど、君は借りただけで終わってしまっている。吸収して自分の色を加えていかないといけないのにです。君はそれができていない。だからどんどんどんどん君の文章は、文体は借り物に成り下がっていく。そして評価されないと憤る君の物語の内容は内向的になっていく。おそろしいくらい悪い方向を目指してね。つまりですよ、君の物語は自分しか見ていないんです。もちろん、自分のことしか考えないで物語を書く作家だっていると思いますよ。星の数ほどね。でも、評価されるのは魅力がある作家だけです。内に秘めた闇が共感を、感動を読者に与えなければ、それはやはり、自慰行為と変わらない。そうだね、試しに僕とのこのやり取りを物語にしてみたらどうですか。借り物の文体で、『借り物と自慰のなれの果て』とでもタイトルをつけてね」
そこで一度、高居は言葉を切った。
「かけや君、君は、本屋に行ったとき、なにを感じます? なにを思います? ぼくはね、何千何万の本に囲まれたときに、いったいこの中で何冊の本が歴史の流れに踏みつぶされない耐久度を持っているだろうっていつも思うんですよ。作家が死んでしまった後でも読み継がれる物語はどれほど存在するのだろうかってね。過去に創造された数多の物語のほとんどはすでに死滅して誰にも読まれなくなりました。現在この瞬間にも創造されている幾多の物語のほとんどは近いうちに存在すら忘れ去られてしまうでしょう。未来に創造される無数の物語のほとんども、やはり時の重圧に負けて消え失せてしまうでしょう。その時代にどれほど持て囃されようとも、映画化やドラマ化やアニメ化や漫画化や舞台化が決まっても、ベストセラーになっても、芥川賞や直木賞を取っても、妄信的な読者を獲得していたとしても、ほとんどの物語は刹那の輝きを見せて、そのまま二度と戻ってくることができない深い海のような暗闇に埋没し、沈殿し、徐々に意味を失い、意義を失い、最後には読者を失う。かけや君、君はデビューができたらそれでいいと考えてはいないかい? 商業作家になれたらそれでゴールだとか、そんな風には考えていないかい? それは違うよ。スタートラインに立つ権利が与えられただけさ。スタートにすら立ってない。かけや君、ぼくの夢はね、歴史に名を刻み、未来永劫読み継がれる物語を作りだし、後世の小説好きに文豪と褒誉され、後世の小説嫌いに愚者と痛罵され、文学者に解釈され、本屋が残っているのなら書店員に推奨され、電子書籍のダウンロード数で頂点に立ち、世界中の誰もがぼくのことを記憶している、そんな作家になることなんだ」
僕はただ、高栖遥の、高居空の言葉を聴いていた。
「ねぇかけや君――君はどんな作家になりたいんだい?」
〈了〉
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年3月25日 発行 初版
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