富岡泰士は生活に嫌気を覚えていた。中学校の担任は課題を多く出すのが好きだし、両親は仕事人間でほとんど家にいない。
好きでもない学校で先輩と話してる時が一番の楽しみなんて老後みたいだと思うのだが……。
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登場人物
富岡泰士
芦原中学二年生。クラスは五組。
あまり感情を表に出すことはない。不機嫌ということではない。
毎日のように図書室を利用するが読書や勉強が目的ではない。
杉屋涼子
芦原中学三年生。クラスは一組。
図書委員会で委員会活動をほぼ一人でこなしている。本人は苦と思っていないが、泰士は快く思っていない。
元不良で、犯罪行為に手を染め取り返しのつかない結果を招いた。
カラーコンタクトをつけるなどという行動に出たのは、過去の反動。
池石沙綾
二年五組の担任。担当教科は社会。
一日に三箱は開けるヘビースモーカー。
結婚に憧れはあるがしたいと思わない。
序章
富岡泰士は自室の机で五枚目の数学のプリントに取り掛かっていた。公式を解くだけの簡単な作業だが、苦手科目なのでパソコンで調べたりしてるうちにかなり時間を消費してしまった。鬼担任が明日まで提出と無茶なことをクラス全員に言ったのが悪いのだ。
シャープペンを置いて深く息を吐いて窓の外を見ると曇り空が広がっていた。
「降るな」
短く独り言を口にしてプリントを乱暴に鞄に仕舞って立ち上がると、中央の和室に向かった。
点けっ放しのテレビのチャンネルはワイドショーを映していて、最近の流行について面白おかしくナレーション解説していたが、興味はないし今は洗濯物を取り込まなければならない。
縁側から外に出て急いで洗濯物を次々と洗濯かごに放り込み、家の中に戻る。
待っていたかのように降り出した雨は勢いを増していき、雷雨となった。季節外れの天気に泰士は不気味さを感じていた。
「天変地異ってやつかな。まさかね」
独り言で誤魔化し、テレビの電源を切って自室に戻った。
季節外れの天気に泰士は不気味さを感じていた。
第一話
連休明けの登校は憂鬱で、ズル休みをする生徒も数名見受けられた。
休み明けテストは最悪。よほど学校という巨大な塾は、テストで人様の能力を知りたがるのが好きみたいだ。
給食の時間、教室はテスト内容について意見を交わす生徒は少なく、大半を連休中の話題で占めていた。
泰士は誰とも話さず自分で作ったおにぎりを口に運んでいた。全部で二個。具は鮭。おかずはない。これで腹が満たされるわけはないが、水分補給で誤魔化している。
最後の一個を食べ終え席を立ち、二年四組の教室を出て向かったのは、三階西端の図書室だ。
「いらっしゃい。待ってたよ、富岡君」
出入り口正面のカウンター内で頬杖をつきはにかみながら声をかけたのは、ショートカットの女子生徒。名札には高橋涼子と明記されており、学年は三年。会うのは初めてではない。
他にも図書委員はいるはずだが、顔を合わせたことは一度もない。
泰士は目礼して本を借りずに最後列の通路側のテーブルに座り突っ伏した。
「寝るための場所じゃないよ。ここは」
頭上から女子生徒の声が降ってきた。
「……いいじゃないですか。この図書室、あんまし人来ないし」
頭を上げずに事実を指摘すると、反論はなかった。
図書室はここ一箇所しかないのに、利用者がいないのは問題ではないのか?
いくら活字離れが深刻でも、これは学校を挙げて問題視するべきだ――
そう注意しようと顔を上げかけ、やめた。先輩に頼むより顧問に話したほうがいいかもしれない。だが、部外者が何故に知りたがるのか追及されたらどう言い逃れようか考えると億劫だ。
「富岡君。余計なこと訊くけど」
「余計だったら訊かなけりゃいいじゃないですか」
そんなことに力を使うなら、図書室の存亡を気に掛けたらどうなんだ、と思う。
「心配してるんだよ」
「何をですか」
「君の身体」
「……いやらしい」
「どこが? 君が一年からのつき合いだよ? 気にしない方が変でしょ」
その言い方も第三者が聞いたら誤解する、と泰士は小さく嘆息した。
「……訊きたいことってなんです?」
諦めて問いかける。涼子は待ってましたとばかりにカウンター内から出ると、前の列の椅子に逆向きに腰掛け、
「何ヶ月目だっけ」
そう問いかけた。
「俺は妊婦ですか」
泰士は反射的に顔を上げ突っ込んでしまった。
「芸人の素質あるね」
視線が合った涼子が認めるほどに素晴らしかったのだろうが、生憎と興味はない。
「杉屋先輩がいけないんじゃないですか」
「ごめん。富岡君にちょっと訊きたいことがあってね、重い話だろうから、リラックスしてもらおうと思って」
「リラックスするために、ここに来たんですけど。それを杉屋先輩が邪魔して……」
「図書室は本を読んだり、テスト勉強する生徒を一時的に受け入れる場所だよ。昼寝したいなら屋上へどうぞ」
鍵閉まってるって、と言いたかったが、不毛な会話を続けても仕方がない。
「訊きたいことってなんです?」
「喰いついたね」
「別に喰いつてません。ただ、何となく、杉屋先輩が言う「訊きたいこと」が想像できたので」
「じゃあ話は早いよね」
そんな取引成立後みたいな言い方されても困るのだが、涼子は素知らぬ顔をしながら泰士の右腕を指差し、
「その腕、ほとんど動かなくなってるんじゃないのかな?」
「…………」
「そんなおっかない顔しなくてもいいじゃない。君の動作を見てればわかるよ」
なるべく気づかれないように細心の注意を払っていたのに、自分以外の他人からは「変だ」と思われていたということなのか。
「半年ぐらい?」
「……一年じゃないですか」
「もう? 早いね」
他人事だな、と内心で毒吐いた。泰士と涼子が過ごした一年という時間の早さは異なるだろうから、事実だろう。
「普通だったらまだ病院だよね。快復早かったんだね」
「俺を超人みたいに言わないでください。それとなく失礼ですよ」
「感心してるんだよ。君は神様に命を救われたんだなって」
「命を救ったのは医者ですけどね」
面白くないなあ、と涼子は苦笑いした。
面白くないなあ、と涼子は苦笑いした。
「用事済みました? 寝たいんですけど」
「うーん、それは無理じゃないかな」
何で、と思って壁掛け時計に視線を遣ると昼休みの残り時間が、あと五分しかない。
「貴重な時間をごめんね」
「ほんとそうですね。昨日まで無関心だったくせに」
「意地悪キャラみたいな言い方だね。人なんてその時々でコロコロ機嫌が変わるものなんだよ。好きな人がずっと同じってことはないでしょ?」
「さあ。わかりませんね」
「惚けちゃって。富岡君のことは大参事の日から気にかけていたんだよ。小さな集落だもん。どこの病院に運ばれて、どんな状態なのかってことは、すぐ耳に入ってくるもん」
「迷惑な話ですね」
泰士は頬杖をつきながらつまらなさそうに言う。
地方独特というのだろうか。そういう環境だと噂は拡散し易い。
まだ文句を言いたかったが、昼休み終了を知らせる鐘が鳴ったため、口を閉じて席を立った。
涼子に頭を下げて図書室を出て教室に戻り急いで着替える。五時間目は体育。一分でも遅れたら校庭十週走らされる。
――貴重な昼休みが無駄になったな。
小さく欠伸をしながら内心で呟いた。
「いらっしゃい」
芦原中学校に入学して初めて図書室を訪れたのは、四月も終わりに差し掛かった頃。
今よりロングヘアで、何故か真っ蒼なカラーコンタクトをしていた。
これが俗に言う中二病っていう難病か、と頭痛がしたのをはっきりと憶えている。
「一年生?」
「はい。富岡泰士です」
「泰士。いい名前だね」
「ありがとうございます。えっと……」
「わたしは富岡君より一年先輩の杉屋涼子だよ」
「いい名前ですね」
「本当にそう思ってる?」
「思ってますよ。……そのカラーコンタクトが台無しにしてると思います」
「こ、これはもともと……」
「日本人ですよね」
「うんそうだね」
後で外すよ、と言ってカウンターに置いてある白色のマグカップを掴む。
「君も何か飲む?」
「居酒屋ですか。要らないです。寝るために来たので」
その理由に涼子は声を上げて笑った。
「君、わざわざ図書室を選んだの? 保健室とかあるのに」
「行きました。行ったら、その……」
「ははあ。お楽しみの最中だったのか」
その指摘に泰士は赤面しながら頷いた。
「そりゃ残念だったねえ。で、ここに来たってわけ?」
「はい。それにしても……人いないですね」
「それは見逃してほしいな」
「どういう意味ですか?」
「言葉のままだよ」
それ以上訊くなと雰囲気で伝わってきたので泰士はカウンターに近い席に腰を下ろそうとしたが、
「そろそろ帰らなきゃいけないんだよ。悪いけど、寝るのはまたの機会ってことで」
ごめんね、と拝む仕草が可愛いなと思って首を振る泰士を涼子は首を傾げながら見ていた。
二人は一緒に図書室を出て、成り行きで一緒に下校することになったのだが、泰士がカラーコンタクトを外すよう迫り、涼子は渋々外した。
「何でカラーコンタクトなんてしてるんですか?」
「興味があったから」
「ここら辺で杉屋先輩みたいな変人はいませんね」
「失礼だなあ」
「本当のことを言っただけです」
「じゃあ言わせてもらうけどね。君、中一にしてはオッサンくさい。話し方が堅っ苦しいよ。政治家目指してる人っぽい」
「……また失礼なことを。これ以上どうしろと」
「わたしに訊かれても困るよ。同級生の男子を参考にして、中学生らしくなればいいんじゃないかな」
そう言われてもぱっと思い浮かばないし杉屋先輩の中二病を治す方が先ではないのか、と思った。
「それじゃ、わたしはここで」
校門を出てすぐの平屋建ての家の前で涼子は足を止め、言った。
「驚きました。こんな近くなんですね。寝坊しても間に合うなんて羨ましいです」
「そう言われてもね……。君の家は?」
泰士は市道の方を指差し、
「向かい側です。駅に近い方」
そう説明した。
「そっか。じゃあ、賑やかだね」
涼子の言葉に泰士は無言で頷いた。
明日、また図書室で待ってると伝えると、
「杉屋先輩の彼氏みたいですね」
翌日、登校の準備をしていると、車の急ブレーキ音と悲鳴が家まで聞こえ、何事かと外に出てみると、市道のほうに野次馬ができており、見知った少年がうつ伏せで倒れているのが見えた。
血だらけの状態で、息をしていないのは明らかだった。
居住地の不便なところを挙げるなら、近所のコンビニまで自宅から一キロ離れた場所にあるということだろうか。有名パンメーカー系列のコンビニで、二キロ先には大手コンビニチェーン店が一件あるものの、自転車で行くのは無理がある。
「帰り、気をつけてね」
「ありがとうございます」
レジを担当した二十代後半ぐらいの女性店員の言葉に、泰士は頭をぺこりと下げながら言って店を出た。
「ゆっくりだったね」
開口一番、笑顔で不満を述べたのは私服姿の涼子だ。
「買い物ぐらいゆっくりさせてください」
「二十分待ったよ?」
「いいじゃないですか。女性の買い物だってそれぐらいかかるし」
「あ、偏見だ」
「違うんですか?」
「うーん……否定しないけど」
それ見たことかと思いながら泰士は自転車の荷台に座る。
「何買ったの」
涼子が訊いてくるので、袋の中を見せながら、
「明太子おにぎり一個です」
と一言。
「涼しい顔して言うけど、これだけのためにわたしを一緒に連れてきたわけ?」
「いえ。ほら、腕のことがありますし」
「卑怯ねえ……」
呆れ顔で言いながらコンビニの袋を前かごに入れ、
「絶対足りないよね?」
おにぎり一個で夕ご飯を済ませる気なのかと思わずにはいられなかったのだが、泰士には伝わっていないようで、「何が?」と真顔で逆に問われる始末。
「夕ご飯。他に何があるっていうの」
しっかり掴まっててよ、とサドルに跨りながら言ってペダルを漕ぎ出した。
女性が漕ぐ自転車に乗るのも、だいぶ慣れたと思う。
たまに冷やかされることがあるけど、それも気にはならない。
杉屋涼子に出会ったのは偶然なのだろうかと思うことがある。図書委員が一人って絶対にあり得ない。からくりがあるに違いないのだ。気づかないだけで、もの凄く単純なからくりが。
「杉屋先輩」
「もう少しだよ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何かな」
「図書委員じゃないですよね」
涼子は何も言わなかったが、どういう意味よ? という雰囲気は伝わってきた。
泰士は「想像ですけど」と前置きをして続けた。
「押し付けられてるんじゃないですか?」
言い終えたと同時に自転車が急停止し、泰士は涼子の背中に顔面を殴打。
「……痛いじゃないですか。それに危ない」
「変なこと言うからだよ。探偵ごっこ? 下手な推理してもご褒美は肉じゃがしかないからね」
「家に来る気ですか」
「おにぎり一個じゃお腹持たないでしょ」
余計なことだとはわかっている。だけど世話を焼きたい。それは純粋に心配だから。
その前に答えなくてはならないだろう。
余計なことだとはわかっている。だけど世話を焼きたい。純粋に心配だからなのだけど、泰士の質問に答えなくてはならないだろう。
「わたし以外は幽霊部員だよ。二年生の右京さんて知らない?」
「知りません。聞いたこともないです」
「左京さんは?」
「ふざけないでください」
「ごめんなさい。日向さんと古橋君だった」
「……あの問題児二人ですか。日向葉月と古橋裕紀」
問題児なんだ? と言って再びペダルを漕ぎ出す。
「ええ。滅多に学校に来ませんから」
「レアキャラだね。クラスは一緒なの?」
「日向さんは一組で古橋君は三組です」
「ふうん。そうなんだ。……富岡君さ」
「何ですか」
「冷たくない?」
「そうですか? 気のせいですよ。それより員会の作業を押し付けられて、何とも思わないんですか」
涼子は少し黙考し、
「平気。部員自体少ないし。先生にも言ってあるから。それに図書室は利用する生徒の数が少ないし、君を相手にしてる時が楽しいんだよ」
それはいろいろと問題なんじゃないかと思いながら、泰士は涼子の背中を見つめた。
「あの二人は俺が小四の時に引っ越してきたんです。新潟に近い町だったと思います」
「二人一緒に引っ越してきたって、犯罪のにおいがするね」
「有名ですからね」
「あれっ。否定しないの?」
「噂ですけど、相当荒れてたみたいです。古橋と日向の怒鳴り声を何度も聞いたこともありますから」
「あんなに可愛い日向さんと大人しい古橋君が家庭内暴力……」
信じられないわ、と首を振った。
日向葉月と古橋裕紀は泰士と小学校が同じで、家も近所同士。小学生の時は三人で何度か遊んだことはあるが、中学校に上がってからはぱったりとなくなった。
「君らは仲良かったの?」
「正直に答えると良くないです」
涼子は「あらら」と苦笑いしてカウンターに置いたマグカップを手に取る。中身はお茶だ。今は昼休み。
今日も図書室は開店休業状態で閑古鳥が鳴いている。
「そういう感じはしなかったんだけどなあ。人は見かけによらないのね」
「人は見かけによらないって諺があるじゃないですか。家で暴力的でも外ではお人よしを演じることなんて、二人にとっては簡単ですよ」
「猫被ってたって? れじゃあ、委員会の作業手伝ってくれてもいいのに」
納得いかないと涼子は唇を尖らせた。
可愛い、と思ったことは秘密だ。
「言えばいいじゃないですか」
「い、嫌よ。……怖いもん」
口実を作って家に押しかけて来るような先輩に言われても、と内心で思いつつ、
「じゃあ諦めるんですね」
一言、突き放すように言った。
「冷たいなあ」
「本当のことを言っただけです。それから、肉じゃがの味付け、もう少し薄くてもいいんじゃないかと」
「に、肉? あ、ああ、昨日の……って、濃くて悪かったわね。料理慣れてないんだから大目にみてくれたっていいじゃない!」
「知りませんよ。杉屋先輩が料理するとこ見たのって、昨日が初めてなんですから」
事故に遭ってからの、友人としてのつき合いで、家に来るのも料理をする姿を見るのも初めてだった。
肉じゃがを評価すると、具であるじゃがいも、肉、人参、玉ねぎ、糸コンニャク、サヤインゲンが大きく、長く、そして、味を決定する出汁がしょっぱかった。
「今度は味付け、ちゃんとしてください」
「……怒っていいよね?」
笑顔で拳を作る涼子を泰士は首を傾げ、
「美味しかったから言ってるんですよ。でなければ、ご飯四杯もおかわりしません」
けろっとそう言っていつもの指定席に座り涼子は突っ伏した。
そんな泰士を見ながら涼子は拳を解いて顔を赤面させながら、
「な、何言ってるの、このキザ馬鹿!!」
と言って、近くに置いてあった未使用のメモ帳を泰士に投げ、頭にクリーンヒット。
ふえっと初めて聞く変な悲鳴に涼子は腹を抱えて笑い、泰士は頭を押さえつつ涙目で先輩を睨んだ。
「どこがキザなんですか。正直に言ったのに暴力は酷いですよ」
「嬉しいけどムカつく! 勘で作って味付けしたんだから、大目に見てくれたっていいじゃないっ」
全て勘だったのか、と驚愕しつつ、
「努力してください。楽しようって下心が人間を堕落させていくんです」
そこまで言わなくていいんじゃない、と涼子はさらに文句を言おうとしたが昼休み終了のチャイムが鳴った。
二人は図書室を出てすぐの階段前で別れ、それぞれ教室に戻った。
「お見舞いに来たよ」
「……誰ですか?」
「また忘れた? 富岡君と同じ芦原中学校に通ってる、杉屋涼子。クラスは二年二組で部活は美術部に所属してるけど、一度も活動に参加したことはなくて、帰宅部。図書委員会の方が楽しいかな」
これで何回目だろう、と涼子は小さく溜息を吐いた。
泰士は事故の影響で一時的な記憶障害を起こしているのだと、医師が言っていた。
「杉屋……」
「うん。図書室に毎日いるよ。利用者がほとんどいなくて暇してるところに、富岡君が姿を見せたんだね」
「サボってたなんて最低ですね」
「何回聞いても胸に響く言葉だね……」
涼子は苦笑いして、
「君は図書室を昼寝するところと勘違いしてるんだから、困ったもんだよ」
反撃とばかりに泰士の行為を咎めるが、本人は何のことかと首を傾げていた。
これも何回と交わした会話。
「ねえ、初めて会った時、わたしカラーコンタクトしてたこと、憶えてる?」
「カラーコンタクト?」
「そう。青色の」
泰士は俯いて思い出そうとしたが、諦めたのか嘆息して首を振った。
「……そっか。ごめん。負担かけちゃって」
「別にいいです」
「怒ってる?」
「どうして怒らなくちゃならないんですか」
「それは……」
余計なことを言ったからなのだが、説明できなかった。
泰士はもう気にしていないのか、
「カラーコンタクトをしてたって。何でそんなことするんですか?」
疑問をぶつけた。
どう答えていいのか困ったが、
「イタイ子だったの」
苦笑いして正直に言ったものの、泰士にはどう痛かったのか伝わっていない様子だったが、これ以上は勘弁してほしいので、「年齢不問の病なの」と大嘘を吐いて、この話は終わりにさせた。
「それより、リハビリはちゃんとしなきゃ駄目よ」
「……はぐらかしましたね」
当然、泰士は納得していなかった。
「右手の機能が完治することはない……そう医者から聞かされて、リハビリする気になると思いますか?」
見舞いに来てこの質問は初めてで、泰士の告白も初耳。しかも一日経てばほとんどの記憶は失っているのに、その事柄については鮮明に憶えている。
もしかしたら相当ショックだったのかもしれない。
「担当の理学療法士がヘラヘラした男で、訊いてもないのに言われたんです」
「何それ。抗議してくる!」
頭にきたと涼子はパイプ椅子から立ち上がろうとしたが、「待ってください」と泰士に止められた。
「行ったところで無駄ですって」
「何で」
「可哀想な人って見られて、追い返されるだけです」
頭にきたと涼子はパイプ椅子から立ち上がろうとしたが、腕を掴まれてしまった。その力は中学一年生とは思えないほど強かった。
「と、富岡君……」
「お願いですから」
「でも」
「駄目です」
泰士の強い訴えに涼子はそれでも行こうとしたが、腕を掴む力には抗えず、
「わかった。手、放して。痛いよ」
「……すいません」
謝罪の言葉を口にしながら腕を放す泰士だったが、その目は猜疑心に満ちていた。
涼子は左腕を擦りながら、
「凄い力だね。びっくりしちゃった」
涼子は努めて平静を装いながら言ったが、内心は驚き怯えていた。
「……でもね、無責任な人には抗議してわからせるってことも必要なんだよ」
「理解してくれない人が多いと思いますけどね」
「そういう見方しかできないの? 中学生らしくないなあ」
涼子は呆れながらパイプ椅子に座った。
「中学生らしくと言われても、どうしたらいいのかわからないんですけど」
「ごめんね。正直な話、言ったわたしもよくわからない」
「無責任ですね」
「胸が痛い。容赦ないね」
「こうなって、人を見る目が変わったっていうか」
右手を胸の高さまで上げて泰士が言う。
「どういう意味?」
「モノが全部同じようにできていれば満足。でも、中にはそうではないモノもある」
「富岡くん……っ」
泰士のたとえの意味を理解してしまった涼子は、反射的に抱き締めていた。
「……苦しいです」
「そんなこと言わないで。富岡君を笑うような人は――」
「わたしが赦さない。そう言いたいんですよね。杉屋さん、昭和の人ですか」
「もうっ、本気で心配してんのに!」
ばっと身体を放して抗議するが、今度は優しく抱きしめ言葉を紡いだ。
「まったく動かなくなるってわけじゃないんでしょ?」
「わかりません。運次第じゃないですか」
「冷め過ぎだよ。希望持たなきゃ」
「希望なんて持つだけ無駄ですよ」
「またそんなこと言う」
仕方ないじゃないか、と泰士は内心で思いながら、「もうそろそろ放してください。いろんな意味で苦しいんですけど」と抑揚の乏しい声で再び抗議した。
涼子はしょうがないなあと離れると、
「さっき富岡君に言われちゃったセリフ、嘘じゃないよ。だから、心を閉ざさないで希望を持って」
泰士の回復の見込みが不明の右手を優しく包み込みながら言った。
それを泰士は呆然と見ていた。今はそれでいい。
後輩を笑う人はわたしが赦さない。
この時の涼子は自分なりの正義感から決意した。
「……ねえ、富岡君」
「何ですか」
「そろそろ帰ろうよ」
「寝させてください。午後の数学と英語の小テストで疲れてるんですから」
「家で寝なよ。ここは本を読むとこだよ」
「……俺が来るまで寝てたくせに」
「う……。で、でも、富岡君の方がわたしより五分長い!」
「大して変わらないじゃないですか」
けろっと反論する泰士に涼子は絶句。一分と五分。その四分の差は充分に大きい。だけど、こちらを見つめる後輩の少年は小さいことをいちいち気にするなという。
何の冗談? と固まっていると、
「嘘です。帰りましょう」
すっくと立ち上がり鞄を手に持った。
「……年上からかったわね?」
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃないですか。……憶えてますか? 初めて会った時、俺のことオッサンくさいって言ったこと」
「そ、そんなこと言ったかしら」
案外、言った本人は憶えていない。
泰士は溜息を吐きながら戸締りをして、図書室を出ると、鍵を返しに涼子と職員室に寄って下校した。
帰宅後、鞄を玄関に置き、干してあった洗濯物を取り込もうと庭に向かった。量としては多くない。衣類と下着(両親の含む)とタオル類だけ。
何も難しくはない。
選択竿から洗濯バサミハンガーを取って縁側に持っていき、洗濯竿の空いたスペースに風が吹いても吹き飛ばされないように洗濯バサミで固定されたタオル類を回収して家に入ろうと振り向いたら。
「器用だよね」
さっき校門前で別れたばかりの涼子の姿があった。
Tシャツにジーンズという服装で、男子の泰士から見てもオシャレを楽しむという概念が欠けてるんじゃないかと思うほど、今の時期の私服はこの恰好しか見たことがない。
「何してんですか。人の家の庭に勝手に立ち入るなんて、犯罪ですよ」
「大袈裟だね。わたしも手伝うよ」
「いいですよ。自分でできますから」
「つまんない。そういうときは、嫌でもお願いしますって頭下げるの」
それはどうなんだろ、と内心で首を傾げながら、渋々タオルを渡した。
「ありがとう。あ、ご飯何がいい?」
言い方がペットに対してのそれと似ているような感がして反応が遅れた。こういうやり取りは初めてではないが、傍から見ればカップルのそれである。
しかし黙っていては変に思われるので、
「また作るんですか?」
あのしょっぱい肉じゃが、と突っ込もうとした。だけど、さすがにそれは自重して違うことに突っ込んだ。
「ち、ちょっと待ってください。杉屋先輩、受験生じゃないですか」
「そうだよ? でもほら、勉強する時間なんてたくさんあるし」
「たくさんて……」
「しょっちゅう来てるわけじゃないし、いいじゃない」
「それはそうですけど」
中学三年生といえばフラフラ出歩いてばかりもいられない重大な時期。本当に勉強できる時間があるのか疑問だが、涼子の言葉を信じるしかないだろう。
「よろしくお願いします」
「今更畏まらなくてもいいのに。ご飯はね、独りで食べるより二人で食べる方が美味しいと思うの」
そう思わない? と涼子は言って微笑み、泰士は恥ずかしさから顔を逸らした。
中間テストが終わっても課題の量は変わらず二年五組の生徒たちは絶望というより諦め顔だった。その光景を思い出すだけで、担任で社会教師の池石沙綾は少し可哀想だったかなと自責の念に駆られた。
身長は百六十センチ、ロングヘアに整った顔立ちをしている。年齢は三十歳ちょうど。独身。結婚に憧れはあってもしたいとは思わない。友人からは変わり者と馬鹿にされるが構わない。
人生縛られるよりも自由気ままに生きていけたらそれでいい。
それはそうと、受け持ちの生徒に問題児が二人いる。
富岡泰士。集中力が散漫だが他教員からの評判はそれほど悪くない。テスト結果も良かった。こうやって見ると問題児ではないと思うのが一般的なのだが、教員の間ではそうはいかない。
原因はただ一つ。
「こんなところで一服ですか。教員特権で屋上利用なんてずるいです。生徒にも開放してください」
「ちょうどいいところに来たわね。あなたもどう? 杉屋さん」
その生徒――杉屋涼子の屋上開放の訴えは無視して、代わりにタバコの箱を傾ける。
「冗談きついなあ。未成年に喫煙勧めちゃ駄目じゃないですか」
涼子は至極まともなことを言いながら沙綾の隣に来て背中を柵にもたせた。
「皆があんたの話をしてる」
沙綾は一言短く言って、新しいタバコに火を点け、紫煙を吐いた。
「広いようで狭い町よ。若会に限ったことじゃないけどね。二年前のことを肴にできるぐらい、教員どもは退屈してるってことじゃないかな」
「池石先生は違うんですか」
「違う。私は他人の過去を穿り返してネタにするような悪趣味はないよ」
涼子がホッとする顔を見て、自分もホッとする。今言ったことは嘘ではない。
「それに、私は悩んでる」
「悩み?」
受け持ちの生徒一人のことを話そうとしたが、それでは愚痴だ。
追及する側でなければ。
「ところで」
「教えないんですか」
「些細なことだからね」
「ケチですね」
「いいよ。ケチでも。……うちの生徒に献身的なあなたが、どうしてあんなことに手を出したのか、私も理解できないんだ」
「中一で不良は変ですか?」
涼子の問いかけに短くなったタバコを携帯灰皿に仕舞ってから、沙綾は口を開いた。
「変ではないよ。でも、あなたの場合は誰とも組んでない一匹狼だった。テロって揶揄してた同僚もいたわね」
「テロ……酷いなあ」
地面を一蹴りして涼子は言った。だがその顔は少しも傷ついてはいなかった。沙綾には面白がっているように見えた。
「……ま、お金だけ取って相手と関係を持つ寸前に逃げてたんだから、テロなのかな」
「……」
「調子に乗って繰り返してたら、怖い人に監禁されて……気づいたときには取り返しのつかないことになってて、友達だった子からは敬遠されるし、二年になったら総スカンですよ」
援助交際という言葉が沙綾の脳裏を過り、その手口を悪びれた様子もなく話す涼子に寒気を覚え、『怖い人』というのが反社会勢力の人間だろうことは容易に想像がつく。その人間に自分の大切なものを奪われたことを可笑しく話す涼子に、怖気を感じた。
「……ま、図書委員ってことが幸いだったのかな。図書室使い放題だし」
その瞬間、肩を軽く小突かれた。
「漫画喫茶じゃないのよ。……もともと利用者は少なかったけど。当番はあなた一人?」
「はい。他にもいるんですけど、わたしと一緒じゃ嫌みたいで」
苦笑いする涼子が痛々しい。
「あ、古橋裕紀君と日向葉月さんも図書委員なんですよ」
「……あの二人がね」
「驚かないんですね」
「まあね。これぐらいのことで驚いていたらね、教師なんてやってられないもの」
裏を返せば「これぐらいのことで驚く奴は教師に向いてない」と言っているようなものなのだが。
涼子が疑問に感じていることなど知らず、沙綾は新しいタバコを取り出して火を点け、美味しそうに紫煙を吐き、
「図書室の私的利用はほどほどに。それと富岡の面倒見てくれてありがとう」
そう言ってタバコを咥えて屋上の出入り口に歩き出す。その姿が完全に見えなくなってから、
「どういたしまして」
涼子は返答を口にした。
そして自身も屋上を後にして昇降口に向かう。
――あの子を待たせては悪い。
自然と駆け足になり、途中、男性教員に注意されたけど無視。
こんなに学生生活が楽しいと思えたのは初めてではないだろうか。
中間テストの結果があまり芳しくなくてもどうでもいいとさえ思える。
「遅かったですね」
昇降口のドアの前に立ち、ぶっきらぼうな声音で言ったのは、
「ご、ごめんね、富岡君。担任の説教が長引いちゃったんだ。……帰ろ」
一学年下の富岡泰士だった。
嘘を吐いた後ろめたさを感じながら、涼子は泰士の後に続いて外に出た。
「君さ」
「はい」
「いっつもこれ買うよね」
そう言って女性店員が袋に入れたツナおにぎりを指差した。
「いけませんか」
「そんなことないよー。それと、いっつもあの子と一緒だね」
と言って店の外を見る女性店員につられて泰士も顔を向けると、自転車のハンドルに両腕を組み、その上に顔を載せ半目でこちらを見る杉屋涼子の姿。
「……心配性なだけです」
泰士の返答に女性店員は笑いながら「そっか」と返答し、
「あんまり待たせちゃ怒らせちゃうね」
手際よくレジを打つ。
――もう怒ってますけどね。
内心でそう言いながら提示金額をぴったり支払い出て行こうとすると、
「大事なお客さんの名前を訊いてもいいかしら?」
女性店員がそう言って呼び止めた。何故そんなことを聞くのか不思議に思っていると、
「ほら、この通りお客がいないでしょ? 君は大事なお客さんだからね」
苦笑交じりに答えた。
親近感があるなと思ったら、人がいないところは図書室と似ている。それで納得したわけではないが、家から比較的近いこのコンビニが潰れたら、その先の温泉地のコンビニまで行かなくてはならない。それは困るが名前を教えてどうにかなるものでもないが、
「富岡泰士です」
「……そっか。君がそうなのね」
何故か悲しそうな表情をする女性店員を不思議そうに見つめていると、
「あ……ううん。何でもない」
と言ってコンビニ袋を手渡す女性店員。
泰士は名札をちらりと見て、女性店員が及川という苗字だと今気づいた。
出入り口のドアを開けようとした時、
「彼女さんによろしくね」
ありがとうございましたー、と言って及川店員は手を振り、泰士は手を滑らせ、ガラスに両手をついてコケた。
「あら、違った?」
悪戯っぽい笑みを見せながら言う及川店員を睨み、「違いますよ」とぶっきらぼうに言って外に出た。
「遅い」
待っていたのは判目で睨む杉屋涼子。
こんなことが前にもあったなと思いつつ、
「すいません。……混んでたので」
「どこが!? レジの女と親しげに話してたじゃない!」
思い切り嘘を吐いた泰士に涼子は店内を指差しながら語尾を強めて言う。
ああ、これってもしかして嫉妬ってやつかと内心で呆れた。
「違います。そんなんじゃないです」
「じゃあどういうことなわけ」
「あんまし客が来ないんで、しょっちゅう利用する俺は大事な客なんだそうです」
事実を言ったのに涼子は信じてないのか、荷台に座った泰士をじろりと睨む。そんな涼子が珍しくて、いや、怖くて、
「こ、今度はすぐ出てきます」
顔を逸らしながらこれで勘弁してくれとばかりに言い、涼子がクスッと笑う。
泰士は何が可笑しいのか理解できないといった風に首を傾げ、涼子はそんな泰士に、
「ガッコの卒業生なんだよ」
「卒業生? 先輩じゃないですか」
「うん。そうだね。ナツミさんは池石先生と同級生なんだって」
どちらかっていうと、及川さんの方が若いなと失礼なことを内心で思いつつ、担任の池石沙綾教員と同級生であるというショッキングな情報を涼子の口から告げられるとは思ってもみなかった。
涼子は店内からこちらに手を振る及川夏海に手を振り返して、自転車を発進させた。
「きれいだよね、ナツミさん」
「正直に答えていいのか困るんですけど」
「いいんじゃない?」
どんな顔して言っているのかわからないので、反応できなかった。
「親しいんですか」
「誰と」
「及川さんと」
涼子の問いかけには答えられなかった泰士だが、常連のコンビニの店員を下の名前で呼ぶことに疑問を覚えた。
涼子は少し間を開けてから口を開いた。
「そうだね。親しい、かな」
そのぎこちなさが気になったけど、これ以上は触れるなという雰囲気が伝わってきたので家に着くまで黙っていた。
六月某日の休日。
梅雨に入った東北地方は連日のように雨が続き、駅からほど近いため傘を持参していない下車した人達が手や鞄などを頭に掲げながら走っていく姿は、憐れと表現するのが等しい。
泰士は台所の冷蔵庫を開け、続いて流し下の扉を開けすぐに閉めた。
「麦茶とミリンと醤油か。野菜はこの前母さんが買ってきたからいいけど……」
杉屋先輩、肉じゃが作り過ぎなんだよな、と独り言を呟きながら玄関に向かう。
大雨が降っているがミリンと醤油が無ければ肉じゃが作る時に不自由だ。
また肉じゃが……、と思ったことは数えきれないが、得意料理が一品しかないのだから目を瞑るしかない。
「こんな日に出かけるの?」
同じく傘を差し、今行こうとしたコンビニではないスーパーの袋を空いた方の手に下げた涼子の姿があった。
何故か制服姿。委員会活動でもしてきたのだろうか。
「……杉屋先輩に言われたくないなあ」
「失礼しちゃうな。富岡君には負担かけたくないから、持ってきたんだよ」
そう言って駆け寄ってきて袋の中身を見せようとするが、片手が塞がっていることに気づき、「家の中、入ろ」と(聞きようによっては親しく、または図々しい)泰士をまっすぐ見ながら言い、
「は、はい。……どうぞ」
泰士はあたふたしながら傘をたたみ、涼子から袋を受け取り玄関のドアを開けた。
「ありがとう」
笑みを見せながら言って中へ入る涼子に何も返答できなかったが、今までこういうことは何度もあったので、よしとする。
袋の中をちらっと確認して。
「マジ?」
思わず声が漏れた。
買いに行こうとしたミリンと醤油が三本ずつ入っていた。
そして、晩御飯はまさかの肉じゃが。
「どうかな」
「……糸コンニャク長過ぎません?」
「そ、そんなはずは……あ、長いかも」
箸でつまみながら言う涼子に「行儀悪いですよ」と泰士は注意するが、
「で、でも、美味しいでしょ? ううん、美味しいに決まってんじゃん!」
テーブルをどんっと叩き、不味いはずはないと圧力をかけてきた。少し味噌汁がこぼれたが見なかったことにして泰士は感想を口にして、
「……美味しいですけど」
「けど?」
「少し味が薄いです」
正直に感想を口にした。
「そんなはずない! 糸コンニャクが長くても、じゃがいもと人参が少し硬くても、練習してきたんだから濃さはあってるはずよ!」
箸で糸コンニャクやジャガイモ、人参を一通り突いたりつまいだりして、じゃがいもを口に運び、「……ほんとだ」と驚愕。
泰士は行儀悪いなと思いながら、
「だから言ったじゃないですか」
溜息交じりに言った。
「でも、これはこれで美味しいです」
「……その言い方、結構失礼じゃない?」
涼子の問いかけは無視してもくもくと肉じゃがと白米を交互に口に運ぶ。薄味なだけで食えないことはない。
涼子の問いかけは無視してもくもくと肉じゃがと白米を交互に口に運ぶ。薄味なだけで食えないことはない。
「食べないんですか?」
「失敗したのなんか食べれないもん」
ぶすっとした顔で麦茶を注ぎ足しながら涼子は言う。
失敗した料理を食べるのも進歩するのに必要だと思うけど、と思ったが黙っていた。
「上手くいかないもんだね」
「え?」
「これ。今日こそは美味しい肉じゃが食べてほしいなって思って、先生に無理言って家庭科室借りて練習したんだけど」
「学校で練習する意味がわからないんですけど……」
家で練習すればいいんじゃないか、と素直に思う。
「家より学校の方が集中できるの」
当の涼子は視線を逸らしながら理由を述べた。
そうなのか、と泰士は頷いたものの納得はしなかった。
「杉屋先輩って損してますよね」
「いったい何のこと?」
検討もつかない、という風に涼子は首を傾げる。
「だって、一日のほとんどを図書室で過ごしてるじゃないですか」
「うん。そうだね。……結構いいよ?」
後半部分を上目遣いで言う様は、富岡君もどう? と言ってるみたいだ。
「ただ居るってわけじゃないよ。勉強はちゃんとしてるし、中間テストも受けた」
「図書室で?」
「うん。図書室で」
「すっごい優遇されてるじゃないですか」
「そんなことないよー。配慮してくれたんだよ」
図書室の使用権限といい、一体、どんな力が目の前の先輩の背後で動いたんだ、と詮索したくなる。
「寂しくないんですか」
「失礼だよ?」
口が滑った。
「すみません。でも気になったので。図書室で一日過ごすより休んだ方がいいんじゃないかなって」
「そっちの方が寂しいよね? 冨岡君はどうなの?」
「え」
反撃されるとは思ってなかった。口に運ぼうとした一口サイズの芋が箸から台へと転げおち、それでも勢いは収まらず畳をコロコロ転がり、呆れた涼子が「もったいない」と独り言を呟きながらティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。
「気を取り直して訊くけど」
「もういいですよ。俺が悪かったです」
「駄目。わたしは答えたんだから、富岡君も答えて」
「……親しい友達とかいないですけど、別に寂しくないですよ」
「ふうん。そうなんだ」
肩肘をつきながら言う涼子はどこか大人っぽく、本心を見透かされているような気がして落ち着かない。
「……杉屋先輩に関係あるんですか」
「それを言われると困っちゃうけど、富岡君は弟みたいな存在だし」
「おと……な、何言ってるんですかっ」
「あ、照れてる」
「照れてません! 話逸らさないでくださいってば!」
「素直じゃないなあ」
普段あまり表情を変えない泰士が赤面し動揺している姿が珍しく、涼子はもっと構ってやりたい衝動に駆られたが、可哀想なのでやめた。
帰る頃になって雨は小降りになった。
「送りますよ」
「心配?」
「あ、当たり前じゃないですか。何時だと思ってるんですか」
「八時だね。見事に真っ暗。でも大丈夫。すぐ近くだもん」
その近くが心配なんです、と言おうとしたが、トラックのクラクションに驚いてタイミングを逸した。
「じゃあ、そこの横断歩道まで。それならいいよ?」
涼子の少し上から目線の言い方にカチンときたが、短い距離でも先輩を送れる嬉しさが勝り、泰士は急いで傘を用意し、「行きましょう、杉屋先輩」と先を行く。
そんな泰士を見て涼子は苦笑いした。
二人並んで歩いていると、
「暗いね」
涼子がぽつりと言った。
「そうですか? 他の家の明かりが街灯代わりになってるから、そうは思いませんけど」
「そっか。そうだよね」
それもそうだ。見慣れた光景なのに、何を当たり前のことを言っているのか、自分が恥ずかしい。
約束の横断歩道まで来ると、
「着いちゃった。もう少し話してたかったのになあ」
「嘘ですよね。笑ってますよ。顔」
「ばれたか」
性格悪いですよ、と内心で突っ込み、
「それじゃあ、これで」
「ちょっと、早いよ」
「戸締りしてこなかったんで心配なんです」
「大丈夫。ここら辺で空き巣被害に遭ったって家、今までゼロ軒だから」
それはちょっと過信し過ぎじゃないか、と泰士は首を傾げた。
いつも通りの何気ない会話をして涼子と別れ家に戻った泰士は、風呂を沸かして入り英語の復習を少しして寝た。
「珍しいね。図書室以外で君と会うなんて」
「俺を珍獣扱いしないでください。それに言っときますけど、杉屋先輩も同じです」
「誰も富岡君のことを珍獣なんて言ってないじゃない。たまには別の場所で息抜きしたいなあって保健室に来てたんだけど」
窓際のベッドの縁に腰掛け足をぷらぷらさせながら涼子は言った。
「授業中ですよ」
「そうだね。わたしのクラスは科学かな。富岡君は……体育か」
「水泳なんてやるくらいなら校庭走った方がマシかなって」
「甘く見過ぎだねー」
「……二週走ったところでぶっ倒れました」
「あはっ。富岡君らしいねえ」
「……」
どういう意味ですか、と抗議したかったが頭がくらくらするのでベッドに直行する。
「一人で来たの? 付き添いは?」
ぱたぱたと駆け寄り支えながら涼子が訊ねるので、
「断りました」
無感情な声音で正直に答えた。
「何で……っ」
「授業サボってていいんですか? 受験生なんですから真面目に受けてください」
「……はぶらかして説教するなんて、後輩のくせに生意気ね」
至極当然のことを指摘して、有名なアニメキャラクターのセリフを口にしつつ、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、わたしは図書室に戻るね」
「教室でしょ、普通」
「芸人ばりの反応の速さだね」
「からかわないでください。体調悪いんですから」
「そ、そうだよね。ごめんね」
じゃあねえ、と涼子は頭をぺこぺこしながら保健室を出ていった。
「……杉屋先輩いるでしょ」
「あれっ? どうしてわかったの?」
「ドア閉めてないし足音が急に小さくなるなんて不自然ですよ」
「そっかあ……」
「がっかりしないでください。杉屋先輩がサボり魔だってことの方が、俺はがっかりしてるんですから」
「別にサボってるわけじゃないよ。ちょっと事情があって馴染めてないだけ」
「言い訳に聞こえますけど」
「それでもいいよ。富岡君、知ってるんでしょ?」
「……新聞で読んだぐらいですけど」
当時中学一年の女子が『売り』目的で男性とホテルに行き、シャワーを浴びてる間に男性の財布から現金を抜き取り、『本番』は行わず去るという『事件』が十数件。
涼子は泰士の担任の池石沙綾に話した内容を簡潔に説明した。
「思いついたのがさっき話したことだったんだけど、あとになって昔からある手口だって刑事さんに聞かされてがっかりしちゃった」
「被害者の人達のことは考えなかったんですか」
「その時はね。でも、時間が経つにつれて大変なことをしたんだって……馬鹿なことしたって後悔してる」
嫌われちゃったね、と涼子は苦笑いした。
「何かね、どうでもいいって思っちゃったんだよ」
「中一にしては悲観的過ぎませんか」
「だってさ、そう思っちゃったんだもん。しょうがないじゃない?」
顔をぐいっと近づけられ、反射的に掛布団の中に頭を隠した。
涼子は「可愛いんだから」と笑い含みに言って、
「富岡君は友達って必要だと思う?」
涼子の問いかけに泰士は顔を出して、
「いなくてもいいと思います。面倒だしどう思われているのか怖い」
率直に自分の考えを述べたところで、しまったと涼子を見た。
「正直だねえ。わたしは富岡君の最後の部分だけ共感する。人間関係って複雑だもん。いくら親しくても、裏で陰口叩かれてたりするかもしれないもんね。でも、そんなことする人って、裏切られるのが怖くてビクビクしてるかもしれないよ。……わたしは自分の行動が原因でそっぽを向かれちゃったから、文句は言えないけどね」
たとえが生々しくて反応できない。それはきっと、進行形の事象だと簡単に想像することができるからだ。
集団で一人の人間の陰口を言って現実逃避をするのは悪質だ。だが、考えてみれば陰口を叩かれない人なんているのだろうか。
「何か考えてるね?」
「別に何も。ちょっと体調が悪いだけです」
「あっ、そうだったね。ごめんね、長話しちゃって」
「いいですよ。気にしなくても」
本当は頭痛がさっきより若干悪化しているような気がするので、少しでも寝て体調を回復させたい。
涼子が気を利かせて出て行こうとするその背中に向かって、
「嫌いじゃないです」
泰士は小声で呟いた。
「せっかくの夏休みを図書室で過ごすってどうなんですかね」
「いいじゃない。珍しいことに利用者が二人もいる!」
「……威張れない」
閑古鳥が鳴いている喫茶店のマスターみたいなことを言う涼子に泰士は呆れながら呟いた。
期末テストを乗り越え、待ちに待った夏休み……なんて思っているのは泰士以外生徒たちだがいつも通りに起きて一人で朝食を済ませ、洗濯をして課題に取り掛かろうとしたらタイミングよくインターホンが鳴り、学校に拉致された。半強制的に。
「富岡君の指定席は確保してあるから、そこで課題やってね」
そう言って涼子は通路側の最後列のテーブルを指差した。
「……ありがとうございます」
礼を言うのは当然なのだろうが、何かズレてないか、と内心で思いながら席に着き鞄から『夏休みの友』と筆記用具を取り出して取り掛かった。
五分、十分と時間は過ぎていき、一時間が過ぎたとこりで読書をしていた男子生徒と女子生徒が同時に席を立ち出て行った。
いつも通りの先輩と後輩二人きりという状況が出来上がった。
ラブコメならイチャイチャの展開になるのだろうが、そういうことに疎い泰士は課題と格闘中だ。一方、涼子はカウンターにいるが厭きたらしく、泰士の前の席に反対向きに腰掛け、「真面目だね」と声をかける。
「課題一つでもやり忘れたら一週間居残りだって脅されましたからね」
「あの先生らしいね。あ、でも、男子は悪い気しないんじゃない?」
「やめてください。俺、何回か居残り受けたことあるんですけど、間違うたびに出席簿で肩ぶっ叩くんですよ? 座禅してんじゃないっていうのに」
涼子は笑い、
「そんなことするんだね。でもそれって緊張を和らげるためかもよ?」
冗談を飛ばしながら泰士が取り込んでいる英語の課題の間違いをさり気なく指差して教えるという技を披露。
「……そうは見えなかったですけどね」
泰士は礼を言うのを忘れて返答しながら間違い箇所を書き直した。
耳が熱い。
一年の時に国語の担当教師だったこともあり、他の生徒より沙綾とつき合いは続いているのだが、泰士には教えていない。
「案外気づかないものだよ。あ、これも違うねえ」
ちゃんと勉強してるかい? と得意顔で蝶子は言い、泰士は顔を引き攣らせながら無口で間違いを直していく。そんなことが約二十分続き、校庭から運動部の掛け声も聞こえなくなった頃。
「帰りたくないな」
窓の外を見ながらぽつりと涼子が呟いた。
「どうしたんですか?」
後輩の泰士としては先輩が聞き捨てならないことを口にしたことに驚いたが、なるべく平静を装って訊いた。
「ギスギスしてんの」
「誰とですか?」
「クラスの皆とか親とか」
「浮いてるんですね」
「こら、ストレートに言わないでよ」
「すみません」
「でも、本当のことだしね……。富岡君はどうなの」
「俺ですか?」
そう言われて窓の外に視線を向けると、ちょうど女子ソフトボール部の専守が代わるところだった。どうやら、練習試合をしているようだ。
そう言われて窓の外に視線を向けると、ちょうど女子ソフトボール部の専守が代わるところだった。どうやら、練習試合をしているようだ。
「あやふや……あやふやじゃないかなと」
「自分でそれ言うかなあ」
「じゃあ、教えてください」
「君は君でいいじゃない。どうしてシンプルに考えないかな」
「杉屋先輩に言われたくない」
言い返せない、と涼子は笑った。校庭を見ればいつの間にか女子削ぐとボール部の試合は終わっていて、他の運動部だけが練習に励んでいた。
「杉屋先輩」
「うん?」
「その、よかったら、家に来ませんか」
「誘ってるの?」
「ち、違いますよ。さっき親とギスギスしてるって言ってたから、暇潰しにどうかなって思っただけで変な意味で言ったんじゃないです」
早口で言って夏休みの友と筆記用具を鞄に仕舞って立ち上がると出入り口に向かった。
「……素直じゃないんだから」
涼子は苦笑いして泰士の後を追った。
校門を出て十秒もしない場所に平屋建ての民家が数軒あり、見慣れた涼子の家は一番正門に近い右側で農家だ。
「行こっか」
「え、あの、寄らないんですか?」
「入ってもいいんだけど、面倒だもん」
「はあ」
何が面倒なのかよくわからないが、家庭の事情だろうから素直に頷いて足を進め、交通量が多い市道の横断歩道で車の流れが途切れたのを見計らって急いで渡る。そのまま駆け足で自宅へと向かう。悪いことをしているみたいだと思わなくもないが、年上の涼子を誘っているのだから誰の目にも触れられたくないと思う気持ちが湧くのは当然だ。
――ギスギスしてんの。
――クラスの皆とか親とか。
自分の行動が原因でクラスでは孤立している……。
傍から見れば可哀想なヒロインぶっているかもしれないが、泰士には他人事ではないのだ。
「富岡君成長したね」
「何がですか」
「さあ。何でしょう」
「自分で言っておきながら惚けないでください。卑怯です」
玄関のドアの鍵を外して涼子を先に家の中へと入れる。
「レディーファーストだね」
――だから、何でいちいち指摘する?
嬉しそうに言う涼子に少しムッとした。
気持ちが昂揚しているのだろうか。この場合は喜ぶのが普通か。泰士はわからないと首を振って後に続いた。
「わたしの家は農家だから、お父さんとお母さんが一日いるの」
「嫌なんですか」
自分で訊いておいて馬鹿な質問したなと頭を殴りたくなった。だから「羨ましい」と言っているんじゃないか、と。
「そうだね。気まずいもん」
涼子は苦笑いしながらそう答えた。
図書室で言ったことと意味はほぼ同じ。
「すみま――」
「富岡君と初対面のときにイタイ姿を見られちゃった時期は、気持ちが壊れかかってたと思う」
泰士の謝罪を遮り、涼子は自身の気持ちを正直に口にした。
「君に変人って言われて、羞恥心を自覚したんだから」
「……遅過ぎですよ」
「そうでもないでしょ」
「いえ、遅いですって」
自分の認識が間違っているのか、または涼子が鈍感過ぎるのか。一つ言えることは純粋な日本人が何の目的もなく日常的にカラーコンタクトをつけるのは奇異行為ということだ。
「可笑しいかな?」
身を乗り出しながら再度問う涼子に、
「それぞれじゃないですか」
泰士は顔を逸らしながらさっきと違う意見を口にした。
顔が近いし反則だ。
泰士は麦茶を一口飲んでから、
「俺の親は職場が同じで、帰りが遅いだけなんです。羨望の眼差しで見られても何も出ないですよ」
「知ってるよ。富岡君が事故に遭った時、息子より仕事が大事なのか、って池石先生が呆れてたもん」
「……」
家の事情を話して、まさか事故に遭った時の裏話をされるとは思わず、失敗したと嘆息した。
「富岡君もご両親と不仲なの?」
「そういうわけではないですけど……」
「けど?」
「事故に遭ったのを境に会話が減ったんじゃないですかね」
「どういうこと?」
そう訊かれても泰士にはわからない。だけど、両親が仕事人間で家にいる時間が少ない上、会話する時間がほとんどなかった以前と比べると確実にその差は開いている。
泰士は「あえて言うなら不思議なんじゃないですか」と答えて麦茶を一口飲み、涼子は首を傾げ、その表情はさっきと同じで、「どういうこと?」と問いかけていそうだが、泰士は気づかないふりをした。
薄々感づいていたことだが、帰りが遅いのは顔を合わせたくないからだ。短い会話を交わす時の余所余所しい態度を見れば一目瞭然と言える。
「ごめん。変なこと訊いちゃったね」
涼子が笑みながら謝り、泰士の頭を優しく撫でた。久しぶりにされたからか、それとも子ども扱いされたからか、もの凄く恥ずかしかった。
「君が弟ならよかったのにね」
「……」
「そしたらさ、わたしを止めることができたかもしれないね」
「……そんなの、わからないですよ」
突き放した言い方に自分でも驚いて、すぐ謝罪。
「冷たいね」
それに反論できなかった。約束できないことだから、尚更。
自分勝手なことを言っているという自覚はある。もちろん冗談半分本気半分という感じだろうか。涼子は泰士の右腕に触れ、
「具合はどう?」
小首を傾げながら訊ねた。泰士は顔を紅潮させ逸らし、
「自転車を一人で漕ぐのは無理かなと」
平坦な声で具体的な例を挙げながら答えてほうっと溜息を吐いた。
「えっ、そ、そんなに悪いの? さっき学校でシャープペン使ってたよ?」
「書けなくなるほど深刻じゃないです。でもいうこと利かなくなってきましたよ。ゆっくり脱輪するような感じ……俺はそうカウントダウンしてるんですけどね」
「そんな……」
それを聞いた涼子は驚いた様子で口を覆い隠した。
興味本位で訊くんじゃなかった、と。
だけど泰士は気にした様子はなく麦茶を飲んで、
「その時はその時です。怖くないって言ったら嘘ですけど、寿命だなって思えばいいだけだし」
「冷めてるなあ。富岡君、ほんと中学生?」
涼子の失礼な物言いに泰士は抗議しようとしたが言葉が出なかった。決してショックからではなく、自分の体調ぐらいわかるから。そうでなければ「寿命」なんて言えない。
右腕が完全に機能しなくなったらそれまでだ。それがいつのことになるのか泰士にも予測できない。
「雨、降ってきそうだね」
涼子の声につられて外に目を向ければ、さっきまで晴れていたのに青空は厚い雲に覆われ、いつでも雨が降っても不思議ではなさそうだ。泰士は「そうですね」と言って、残りの麦茶を飲み干した。
少し素っ気なかったかなと思ったが、親譲りの性格だから仕方がない。
「残念だね。富岡君とデートできると思ったのに」
気にした様子もなく、さらりとそんなことを口にするものだから、泰士は咽ってしまった。
それを笑う涼子を鬼と思いながら深呼吸して。
「へっ、変なこと言わないでください」
「変じゃないよー。わたしは真剣だよ」
「いえ、杉屋先輩は受験生なんで恋愛どころじゃないでしょう……」
「わかってないな。息抜きも必要なのよ」
デートを息抜き程度にしか思っていないことに落胆すると同時に、涼子の言動を頭の中で反芻してみると、自分のことを恋愛対象と見ているのではないか、と思える。
だけど今は大事な時期だし、三年生にうつつを抜かしている余裕はない。……はず。
その証拠に意地悪そうに笑みながら涼子は泰士を見ていたが、気づかないふりをして麦茶を注ぎ、再び涼子の顔を見つめ、何か言おうと口を開きかけたものの躊躇ってしまい、また俯くという不自然な行動をする後輩がさすがに気の毒に感じて、
「無理言っちゃったね」
と言って話題を変えた。泰士は答えられなかった自分が恥ずかしさを覚え、腹が立ち、そして寂しかった。
本当は先輩後輩の垣根を超えた、柔軟な受け答えができたらと思ったのに、その一歩を踏み出せない。自分の周りには上下関係の壁など取っ払ったクラスメイトが多いのに。
「池石先生ね、富岡君のこと心配してるよ」
「……は」
「ちょっと。本気で心配してるのに鼻で笑うって酷くない?」
「え、えっ。鼻でなんか笑ってませんよ」
「嘘。ものっ凄く冷めた感じだったけど」
えい、と額を突かれた。
あの池石沙綾教諭が自分のことを案じていたなんて信用できるわけがない。
「池石先生、ああ見えて君のこと結構気にかけてるんだよ」
「杉屋先輩、その言い方失礼です……」
泰士に指摘されたが涼子は気づかなかったみたいで、今日の夕飯は肉じゃがかな、と独り言を呟いている。またですか、と言いたいのをぐっと抑え、
「わざわざ街中に行かなくても、いいじゃないですか」
これをデートだと思えば、と涼子を真っ直ぐ見つめながら真面目に言うものだから、涼子は反応できなかった。
「杉屋先輩?」
「え? あ、う、うん。そういう捉え方もあるのね」
君がそんなこというなんて驚いたの、とは言えず、「学生デートっぽいことしよう」と話を変えた。
泰士は涼子の言葉を反芻しながら思案し、テレビゲームを提案。涼子は「いいよ」と笑顔で快諾してくれた。
十八時近くまでシューティングやRPGなどのゲームをしたところで、
「肉じゃが作るね」
そのあまりの自然さに反応できなかった泰士だが。
「顔引き攣ってるよ」
肉じゃがという単語に拒否反応が出てしまったようだ。
悪戯顔で言う涼子だが、それは傷ついているのを隠すために違いない。
「そ、そんなことないですよ。俺、杉屋先輩が作る肉じゃが大好きですから」
「無理しなくていいのに」
フォローしたのに努力が足りなかったのか無駄に終わった。
そして涼子は台所に立ち下準備を始めた。
新婚夫婦みたいだなと思いながら、テレビのリモコンに手を伸ばした。
八月初旬の夜六時過ぎ。
「いらっしゃいま――何だ沙綾じゃない」
「悪いか。夜食をどこで買おうが私の自由だよ」
閑古鳥が鳴いている店内の弁当売り場に向かうと、迷うことなく牛丼弁当とペットボトルのお茶を手にレジに向かう。
「……相変わらずね。沙綾、結婚前に病気になって死ぬよ?」
脅しとも取れる及川夏海の言葉に、沙綾は不吉に口許を歪めて笑い、
「好きなんだからしょうがいじゃない。私は結婚する予定は一切ないから、自由に生きていくわよ」
選挙演説みたいな口調で言いながら財布から千円札を取り出して青色の丸い形をした受け皿に置いた。
「自慢できないじゃない。あのね、その言葉は好きな人に言うのであって牛丼相手に使うのはどうかと思うよ」
「余計なお世話。そういう夏海はどうなの」
「沙綾が期待してるようなことは何もないわよ。ま、唯一の楽しみはあんたんとこの生徒が常連でからかってやることかしらね」
お釣りを渡しながら言う夏海に、年寄りくさい、と呆れ、「追加でマルボロ三箱ちょうだい」と言ってその分の代金を受け皿に置いた。
「あなたってマルボロ大好きね。ある意味尊敬しちゃう」
「嫌味に聞こえるんだけど」
「褒めてんの。タバコ買うぐらいなら野菜買えばいいのに」
私の勝手、と言って袋を手に持ち、お釣りを財布に仕舞い、
「世話掛けるわね」
「いいのよ。沙綾は恩人だからね」
「恩人だなんて大袈裟ね。あなたが変な宗教にはまってるから、強引に脱会させただけ。やり方としては最低でしょ。感謝なんてされる義理はないわ」
そんなことない、という風に夏海は首を振った。
「あの頃はまだ中学生で、世間のことなんてよくわからなかったから」
「世間知らずの女の子が宗教にはまるの?」
夏海は苦笑いを一つして、
「拠り所、っていうのかな。その宗教が私にとって支えであり、全てだった」
「……アイドルに夢中になるのと変わらないってわけ?」
「うん。友達がいなかった私は居心地が良過ぎて、学校なんてどうでもいいって思えたほどだもの」
「実際不登校だったけどね」
「まったくね。……中学三年生の時だったかしら? 沙綾が殴り込みに来たのって」
「ちょっと。その言い方はなでしょ」
心外だと沙綾は顔を顰めた。だが、あの時のことを思い出すと、あながち外れてはいないのではないかと思えてくるから不思議だった。
「ギャルばっかりだもの。見慣れてない叔父様方は泡食った感じだったわ」
おまけ、と言いながらマルボロを一箱袋に入れながら、ところでさ、と夏海は問う。
過去のことにこれ以上触れられたくないという雰囲気を涼子は感じた。
「仕事は順調なの?」
「それなりに。生意気なガキども相手にしてると気持ちも若返るわ」
「やだな。言ってることがおばさんくさい」
「二十九歳独身の女なんておばさんよ」
生徒にしてみれば、と付け加え、同じく独身の夏海は溜息を吐いた。
「うちの生徒が来てるでしょ。迷惑かけてないかしら」
「夏海ちゃんと泰士君? 全然。青春してますって感じが出てて羨ましい」
「感化された? そんなの、取り戻せばいいじゃない」
「簡単に言うね。何、紹介してくれんの?」
「男? お生憎様。うちの職場は同年代の男はいるけど既婚者ばかりだし、あとは中年の薄ら禿ばかりだよ」
沙綾の酷い言い様に、夏海は呆れるどころか「そっか。残念」と苦笑いして答えた。
「ま、迷惑かけてなくて安心したよ。……二人が来たら、見守ってやって。あの子たち、どっちも爆弾抱えてるから」
「爆弾?」
「いろいろあるってこと」
おまけありがとう、と言って沙綾は店を出た。
夏休みは気が緩みやすい。
暑いのがそうさせるのか、一ヶ月近い休暇がそうさせるのか。個人によって意見は異なるだろうけど、杉屋涼子は前者だと思っている。
気持ちが高揚してじっとしていられない。昔からそうだった。それが原因といえば否定できないが、中一の時に犯罪に手を染め、繰り返しているうちに『ババ』を引いて、自身が危険な目に遭うはめになった。
「また思い出しちゃった」
自室の机に向かって数学の課題に取り組み、あと少しで終わるというところで思い出してしまった。
椅子の背もたれに寄り掛かりながら独り言を呟くと、目を閉じた。聞こえてくるのは鈴虫の鳴き声と近くの市道を行き交う車の排気音だけだ。
涼子は目を閉じ、その鳴き声に聴き入っていたが、当時の記憶が映像となって甦ってきそうになり、両掌を瞼にギュッと押し付け、歯を食い縛り悲鳴が出るのを堪えた。
二年経つ。興味本位で仕出かしたことが命を危険に晒す結果に繋がり、両親との関係が悪化して友達も離れていき、学校の男性教員は非難するどころか好奇の眼で涼子を見つめていた。
それは今も変わらない。
精神的に不安定になり、自分ではない誰かになりきることでどうにか日々を過ごしていた。その日々に終止符を打ったのが、富岡泰士という下級生だった。
一人っ子の涼子からすれば弟みたいな存在だが、不愛想で少し口が悪いのが難点か。
でも、成績は良い方だとクラスメイトの男子の弟から聞いたことがある。
はみ出し者のわたしに教えてくれる人がいるんだ、と思わずにはいられなかったが、過去の事件について一年生、二年生にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
夏休みが終われば、また図書室登校が始まる。逃げた自分を殴りたいけど、過去に事件を起こしたのは自分で、自業自得なのだ。引きこもるよりは何倍もマシ。
池石沙綾の取り計らいで、ただでさえ利用者が少ない図書室を涼子が使用することができるのだ。
何か裏で巨大な力が動いているのではないかと勘繰ってしまうが、そこは訊かないほうが身のためだと、もう一人の自分が警鐘を鳴らしている。
――池石沙綾は両親を早くに亡くし、引き取られ元が裏社会で生きる叔父だった。
そう言っていたのは誰だっただろうか。
まだギクシャクする前の両親だったかもしれないし、学校の教員だったかもしれない。またはインターネットのローカル掲示板だったかもしれない。
「何で今なんだろ」
今度は頬杖をつきながら呟き、外に目を向けると、数軒の家の灯りが点いている。机に置かれたデジタル時計に目を向けると午前一時十分。皆、自分と同じらしい。
そして、彼のことが脳裏を過った。
交通事故により右手の機能に若干不自由が生じており、ごくたまに「お前誰?」みたいな表情を見せる二年生の少年。
いつか自分のことなど綺麗さっぱり忘れてしまう日がくるかもしれない。
「そんなの、嫌」
反射的に椅子から立ち上がり、数秒迷って玄関に向かった。シューズを履きスライド式のドアの鍵を外しそっと開けて外に出ると、昼間と違って若干涼しい気がする。お盆を過ぎると気候は秋に近づきつつある。毎回そう思う。
大通りに出ると普段より交通量が多い。車が途切れ横断歩道を渡ったところで、
「徘徊ですか」
突然投げかけられた声に、涼子は悲鳴を上げかけ、コケそうになった。これではお笑いだ。涼子は声がした方、後ろを振り返り、そこによく見知った少年の姿を確認し、
「違うわよ」
ぶっきらぼうに言って泰士の右足を軽く踏みつけたが「痛んですけど」とため息交じりに抗議しただけ。拍子抜けした気分の涼子は咳払いをして、
「コンビニ行ってたんだ?」
泰士の左手をちらっと見て言った。
「飲み物が切れちゃったんで」
歩きながら泰士は言う。親の目を盗んで来たのかと思ったが、「仕事です」と泰士は答え、それに疑問を抱く。
「富岡君のご両親は何の仕事してるの?」
「不動産業です」
不動産の仕事って深夜まであるのか、と不思議に思わなくもないが、眼前の後輩が完全に寝静まる時間まで、どこかで暇潰しをしてるのかもしれない。
「毎日なの?」
「どうなんでしょうね。ずっと顔見てないんでわからないですけど」
さらっと言う泰士に涼子は言葉が見つからない。
泰士は玄関の鍵を開け、二人は家の中に入り、居間に向かった。頻繁に来ているものだから自然に腰を下ろせてしまう。咎められなかったということは受け入れられている証拠だ。
コップを二個持ってきた泰士はレジ袋から五百ミリリットルのペットボトル(スポーツ飲料)を取り出してキャップを捻り、コップに注いで涼子の前に差し出した。
ありがと、と涼子が言ったところで泰士は口を開いた。
「告白されちゃいました」
その言葉に涼子はスポーツ飲料を吹き出してしまい、咽た。
大丈夫ですか、と心配気そうに訊ねながら泰士はタオルを差し出した。ちっとも大丈夫じゃないと言いたいのを我慢して、涼子は口許を拭い、「相手は誰なの」と犯人を追及する刑事みたいな口調で訊ね、泰士は気圧されてコップを引っくり返し、ほとんど口にしていないスポーツ飲料水をテーブルにぶち撒けた。
「い、言うんですか」
「君が自分から言い出したんだから、当然でしょ」
至極当然ではあるけど、他に話すことはなかったのか。あったはずだ。では、何故、それを口にしなかったのか。
後悔しても遅い。
杉屋涼子の表情は微笑んでるように見えなくもない。しかし、目は笑っていない。
「あ、あの、言う前に拭きたいんですけど」
飲料水がテーブルから畳へとぽたぽた落ちている。
こんな先輩は初めてだ、という風に。
拭けば、とぶっきら棒に涼子の許しが出たので、台拭きでテーブルを忙しなく拭き、畳も同じようにせかせか拭く。
本当、どうしてあんな余計なことを口走ったのだろう、と台拭きを置きながら思う。
どうしたものかとオロオロしていると、
「いいわ。訊かないでおく」
強硬姿勢から一変、態度を軟化させ、コップに口をつけ一息吐いた。
先輩としての対応なのか、それとも裏に何かあるのか。
「あの」
「言わなくていい、って言ったじゃない」
「そうですけど」
どうせ後になって根掘り葉掘り尋問するんでしょ、と聞こえないように呟きながら、わけわかんないし意地悪な先輩だと思いながらテーブルを拭いて、気まずさを和らげようとテレビを点けるが、好みの番組が見つからなくて結局電源を切った。
「……俺、断りましたから」
「言わなくていいって言ったのに。馬鹿正直な子」
後後が厄介になりそうだから先手を打ったんですよ、とは言わず、
「同じクラスの女子で、つき合ってよ、って言われて」
「パシリみたいな言い方ね」
それはあんまりだと思ったが、反論をしたところで敵う相手ではない。さらなる詳細を述べようとしたが、やめた。言えば言うほど逆効果だと思ったから。
この話を振ったのは失敗だったかなと思ったけど、涼子は嫌な顔一つしないで聴いてくれた。いや、確実に思い過ごしだ。
「でも、富岡君はお人良しだけど断った気がする」
ドキッとした。お人良しどうこうは横に置くとして、事実、告白は断った。
綺麗だし断るのがもったいないくらいだった。だけど、直感が告げたのだ。
この人じゃない、と。
クスッと涼子は笑みを漏らし、「わたしがいるのに酷いんだから」と泰士の頬にキスをした。一瞬のことで泰士は反応することができなかった。
夏休みの友を終わらせたのは、夏休み最終日。確実に間に合わないので全てではないけど回答を見ながら仕上げ、寝たのは日付が変わる頃だった。
涼子にキスをされた日を境に、彼女の姿を見かける機会は途絶えた。夏休みだし、まして受験生だ。勉強に時間を費やしているんだろうと思っていた。
だけど、夏休み明けに涼子は登校していないと、彼女のクラスの男性教諭が懇切丁寧に教えてくれた。有り難いけど、そのお蔭で二時間目前の貴重な十分間の休み時間の八分間を消化してしまった。
その後の休み時間も三年生のクラスを訪ねてみたものの、杉屋涼子の姿は見当たらなかった。昼休みは教室で摂り、午後の授業は頭に入らなかった。
泰士はカウンター内に入ってみたものの、それで何が変わるということもない。
杉屋涼子の存在が泰士の心の中で大きな支えになっていたのは確かだ。
だけど、こうも思う。
――誰か一人いなくなったところで、何も変わらない。
何もかもが機能不全に陥るわけでもない。起きたとしても最小限だ。
カウンターのテーブルを掌で擦りながら図書室を見渡し、前を向く。もう、ここに来る必要はなくなった。あとは問題児二人なり誰かに任せればいい。
冷めた気持ちで図書室を後にした泰士はもう一度、三年生のクラスに行こうとしたが、さすがにまずいかと自重し、昇降口に向かおうと階段に足を一歩踏み出した瞬間。
「あっ」
足を滑らせ踊り場まで転倒。受け身はどうにか取れたものの、右半身が生まれたての馬みたいにピクピクしていうことを利かない。ゆっくり上体を起こしてみると、右肘と膝、頬から出血していた。
最悪、と思いつつゆっくり立ち上がり、残りの階段を下りて保健室に向かった。
痛みのせいでほとんど眠れず朝を迎え、昨日の残り物(野菜春雨)を一個だけ食べて登校。学校手前にある杉屋涼子の家の前で足を止めたが、杉屋涼子が姿を見せることはなかった。
次の日も、その次の日も登校せず、思い切って家を訪ねてみたものの、誰も出てこなくて、下校中の同級生たちに冷やかされて無性に腹が立つだけだった。
日に日に図書室は訪れる生徒が増え、図書委員の生徒がカウンター内で携帯を弄りながら暇を持て余している。
どうやら本を借りていく生徒はそれほど多くはないらしい。
「毎日来たって、あんたの捜してる人はいないわよ」
だらしなく脚を組みながら、こちらに顔を向けずに少女――日向葉月は言う。
夏休みが明け一週間が経とうかとしてる。泰士の記憶では始業式初日には姿を見かけなかったはずで、それ以降も同様のはず。
「今日、来たんだね」
「担任が煩いからさ。仕方なく来た」
短く淡々と話すと、携帯をカウンターに置いて、セミロングヘアをひと搔きしてこちらに視線を向け、
「杉屋って上級生がそんなに好きなわけ?」
葉月は馬鹿にしたように問う。
何故名前を知っているのか驚いたが、家が近所だということを考えれば、涼子が家に来ていたのを目撃されていた可能性もあるわけ
で腑に落ちる。
「……古橋君は来てないの」
泰士は日向の質問をあからさまに避け、日向と特に親しい古橋裕記について質問してみた。すると日向は右手人差し指で頭を数回突いて、「わかるでしょ」と、さっきと同じく馬鹿にした口調で言った。
それでもまだわからないと見えたのか、
「イカれちゃったのよ」
投げやりだが子どもでもわかる表現で教えるとパイプ椅子の背もたれに深く背を預け携帯を弄り始めた。
それに泰士は言葉を返せない。かつて親しくしていた古橋裕記が、病院で生活をしている。何が彼をそうさせたのか。
「人ってどこでああなっちゃうか……わからないもんだね」
泰士の心を読んだかのように、日向は携帯を片手で弄りながら言う。
どういう意味なのかわからないので、どう反応していいのか困っていると、日向は再び携帯を制服の胸ポケットにしまって泰士の方を向いて、
「失恋しちゃったの」
「失恋?」
「そう。入学した年の夏頃だったかしらね。二個上の先輩に告ったの。同じ委員会で仲も良かったから、いけるって思ったんじゃないかしら?」
ああ、あんたは入院してたんだっけ、と小声で呟くのが聞こえた。ということは、八月
中のことで違いない。
結果については訊かなくても日向が「見事にフラれたわ」と答えてくれた。同情してるというか、蔑んでいるように見えた。
「受験もあるし塾にも通ってて、恋愛どころじゃなかったのよね」
ま、わたしらも学校にほとんど来なくなっちゃったし、と日向は自虐的に言って笑う。ちっとも笑えなくて、痛々しいと泰士は思った。
「あんたもさ、気をつけたらいいよ」
「何が」
葉月は嘆息して、
「わかんないかなあ。あんたのことだよ」
そう言うと目を細める。妙に大人びていてドキッとしてしまう。
「あの杉屋って先輩に夢中になってる今はいいけど、告白してふられたら」
一旦口を止め、小さく嘆息して言った。
「ショックは大きいよ」
何も言えない。
あいつみたいになったら嫌だわ、と続ける日向の声が遠く感じたが、「あいつ」とは古橋裕記のことだろうと察しがついた。
つき合ってたの、と訊こうとしたが言えなかった。図書室は泰士と葉月の二人のみという状況で、他に利用者はいない。
これが恋愛漫画なら「有事」が起きても不思議ではない。
「戻って来るわよ」
どれくらい経っただろうか。ぽつりと葉月が言った。何の根拠も無いのだろうけど、彼女なりに泰士を励まそうとしているのかもしれない。
「こういうの初めてじゃないから、わかるのよね」
それって日向さんの経験談? と言おうとしたが言えるはずはなかった。
「何か言いたそうね」
こっちは見抜いてんのよ、と言いたげな顔で言う。嘘に聞こえないから怖い。
「そうかな。気のせいだよ」
動揺していなかっただろうか。それはクスクス笑う葉月を見れば一目瞭然だった。
一人で下校する際、校門を出てすぐの杉屋涼子の自宅前で立ち止り、彼女の姿を確認したい衝動に駆られたが、学校前で誰が見ているかわからないので、一息吐いて足を動かし始めた。
同日午後二十一時。
「沙綾は結婚できないね」
「は? いきなり何?」
「だって、ね。一日にタバコを二箱開けるんだよ? 今日だって開口一番「タバコ!」だしねえ……」
「そんな言い方してないし。てか、タバコの他に買ったじゃない」
ほれ、と言わんばかりにコンビニの袋を台に置いた。
店員で友人の及川夏海は溜息を吐き、
「他の買ってほしかったわ」
野菜とか野菜とか、と二回繰り返しながら袋を横に払い退けようとして、すかさず沙綾が回収した。
「漫画なんてネットで読めるじゃない」
さらっと言う夏海に沙綾は顔を強張らせながら、
「違法行為を犯してまで読もうなんて思わないわよ。こうやって、紙媒体で読むのがいいんじゃない」
ぱしぱしと、空いた方の手で袋を叩く。その様子をぽかんとしながら見ていた夏海は、
「電子書籍を知らないの?」
珍獣を前にした時みたいな表情をしながら夏海は言う。
「最初からそう言いなさい」
知ってるわよ、それくらい、と頬を赤くしながら店内を後にした。愛車のSUVのシートに落ち着くと、買ったばかりのタバコの封を開け一本口に咥え火をつけた。息をゆっくり吐き出しながら思い浮かぶ事は、受け持ちの一人の男子生徒。上級生が不在で元気がない。
二本目のタバコに火をつけながら、彼女の――杉屋涼子の担任に訊いた話を思い出す。懇切丁寧に説明してくれたのは有難いのだけど、不必要な点が多かったため、一言でまとめると、大好きな祖父を亡くして不登校――だという。
――大切な時期に困ったものですねえ。
担任の斎藤五右衛門教諭(科学担当)はのんびり答えていたが、あんたの話し方に困ったよと、どれだけ突っ込みたかったことか。嘆息を一つ吐いて、沙綾は二本目のタバコに火をつけようとした、その時。
「先生じゃないですか」
聞き覚えのある声がしたので、外に視線を向けると、目許を腫らした少年の姿があり、沙綾は驚きというよりは、笑いが込み上げてきて「ふはっ」と吹き出した。しばらく笑った後、目許を拭って問いかけた。
「富岡じゃないの。え、オムツを買いに来たの?」
「……どこからそういう発想が出てくるんですか、池石先生」
「冗談だってば」
こっち来なさいよ、と咲綾は手招きした。泰士は無視してコンビニに入ろうとしたが、結局は担任のSUVまで引き返した。
後ろでは夏海が片手で口を隠しながら笑っていた。当然、泰士は気づかなかったが沙綾は無視した。
喫煙者をコケにする者は、たとえ友人と言えども許せないのだ。あくまで、沙綾個人だが。
「漫画のキャラ似のオジサンに呼ばれた?」
ちらっと温泉方面に視線をやる沙綾につられ、泰士も同じ方向に視線を向ける。一軒の家の壁に長年政権を握る保守自由党を支える革命党のポスターが目に入った。
確かに言われてみれば似てなくもないと思ったものの、またしてもからかわれてることに気づき、反撃に出た。
「池石先生は結婚相手を探しに?」
「そうなの! もう適齢期過ぎたじゃない? だからここならいい相手がいるんじゃない
かなあ、って」
「結婚相手が陳列棚に揃ってるんじゃないかって?」
「そう、陳列棚に――うん、馬鹿話はいいんだけどね」
受け持ちの生徒の意外なボケについついノッてしまいかけ、いや、ほぼノッていたのだが軌道修正。
「食い物なら惣菜が残ってるみたいだから、買うといいよ。夏海、血の涙長しながらお礼言うだろうね」
面白くないこと言うな、と秘かに内心で思いつつ、口には出さなかった。
「相方が居ないと寂しいもんな」
担任は遠慮なく本心を口にした。
ニヤッと笑みを見せるのはいいのだが、タバコの吸い過ぎで黄ばんでいるので、男性からも同性からも評価は低いのでは、と余計なことを考えてしまった。
「乗りなさいな」
「拉致する気ですか」
真顔でボケる泰士に沙綾は思わず吹き出してしまう。
「そんなんじゃないよ。いいから早く乗ってちょうだい」
夏海が追って来る前に、と付け足すのはやめた。しかし店内からこちらを見ていた夏海は驚愕の表情で口をあわあわ動かしているのが見えた。車をバックさせ方向を変え、車道に出る寸前に再度見た夏海は「シ」で始まって「ン」で終わる五文字か、あるいは「オ」で始まり「タ」で終わる五文字のどちらかを叫んでいるように思え、「喧しい」と無意識のうちに声に出していた。それを泰士は首を傾げながら見ていたが、気にしてはいられない。
「どこ行くんですか」
「行きつけのファミレス」
「居酒屋みたいな言い方ですね。ファミレスに失礼ですよ」
くすっと咲綾は笑い、
「今時の学生には珍しい堅物だね」
「そうですか」
語りかけてみるが、失敗してしまったそうだ。杉屋涼子が不在で不機嫌なのだろうか。それとも地なのだろうか。接する機会がほとんどなかったのでわからない。
そしてもう一つ不可解なのが。
――この子の両親を見たことない。
そう、教員の間でも有名な話で、一年のときに受け持った教員も同じことを口にしていた。仕事が多忙で家に居ないことが多いのだそうだが、あり得るのだろうか?
そのことを訊こうとしたが、目的のファミレスが見えてきたのでやめた。
隣に座る泰士に視線を向ければ、緊張してるように見えて笑いそうになった。
「行くよ」
ぽん、と軽く泰士の肩をタッチして、沙綾は降りた。
腹が減っては戦ができぬ、という有名な諺がある。意味は空腹状態を脱しなければ様々な活動をする前に支障をきたしてしまう、と簡単に説明すればそうだろう。
しかし今の状況は諺の範囲内を逸脱しているのではないだろうか、と呆れて見ていたのは泰士だ。
奥のボックス席に座り泰士はオムライス、沙綾はマルゲリータを注文して食べ始めたまではいい。しかし泰士が遅いのか沙綾が早いのかわからないが、オムライスをまだ半分食べきってない泰士に対して、沙綾はマルゲリータ七皿目。
呆れと一緒に胸焼けがしてきて水を一杯飲んだところで、店内を見回す。
仕事帰りだろうスーツ姿の女性、大学生らしき男性、主婦だろう女性たちと、結構賑わっているが、中学生は泰士だけのようだ。
「気になる?」
「そりゃあ……」
気になりますよ。どうしたら短時間で六皿おかわりできるのか、と言えるわけもなく、もう一杯水を飲んだ。
何となく不祥事を追及される偉いさんの気持ちが理解できた気がした。
「昨日の夜からバタバタしててね。飢えてるの」
その言い方はどうなんだろう、と思いながら耳を傾ける。
「久々にね、大学の同級生に逢ってたの」
「同級生ですか」
「うん。それほど親しいってわけじゃなかったんだけど、七年前の『事件』がきっかけで相談を受けることが多くなったの」
「事件……?」
その事件とは、当時、東中高校一年の女子生徒が自宅マンションで何者かに刃物で刺され、約五ヶ月もの間、犯人を確保できなかった警察はマスコミの猛批判に晒された。事件の顛末は入院中先の病院に犯人が現れ、立てこもり事件へと発展。警察の威信をかけて名誉挽回とばかりに犯人を確保してみれば、被害者の少女と同世代の少女で、中学時代の同級生だという。少女は黙秘を続け、勾留中に衣服で首を絞め自殺した、と言われている。
「……」
「大騒ぎでね。このお世辞にも都会と言えない若会が、マスコミで賑わったわ。ま、それはともかく。その被害者の元ツンデレ少女が――」
「死語ですよ」
「敏感なんだから」
「池石先生が敏感って言うと勘違いされそうですよね」
「富岡君って顔に似合わずスケベね」
「失礼ですよ」
とにかく自分がまだ小学生だった頃に大事件があったということはわかったので、話を元に戻すことにした。
「その友達と逢ってショックだったことでもあったんですか」
結婚してたとか、と付け足す。微妙に沙綾の表情筋が引き摺った気がするが見間違いだろう。
「……独身よ」
「そうなんですね」
つまんないな。
実際に言ったわけではないのに、沙綾がじっとこちらを睨んでいるのは何故なのか。不本意だと思いながらもドキッとした自分を責めたい衝動に駆られた。
目の前に居るのは三十路の女教師だぞ? 俺が好きなのは一つ年上の上級生だ、と。
「富岡、言いたいことはわかるよ。でも、ときには我慢という寛容さも必要だと思うの」
「…………」
反論できなかった。
「大学時代の同級生お姉さんが、その事件の被害者の授業を受け持っていたのよ」
「偶然ってあるんですね」
ほんとだね、と言うのを抑えて、
「結婚式に出席した帰りで、ついでだから泊めてって言うからね」
「結婚式?」
「元ツンデレ女子高生のね」
「先越されたじゃないですか」
「喧しい」
事情説明したら図星を衝かれる始末。
声が大きかったのか、周囲の客たちの視線が集まっているのに気づき、咳払いを一つ。
「……結婚は寸前までいったのよ」
「そうなんですか」
意外だと思いつつ、泰士はオムライスを食べた。
「同級生に紹介された年上の男でね。その人もツンデレと面識があったのかな」
「事件関係者ばかりじゃないですか」
「万里香は違うわよ」
誰? と首を傾げそうになったが、池石教諭の大学時代の同級生だと気づいた。
「万里香に紹介されたんだけどね、女誑しで有名だったのよ」
ご愁傷様です、と言いたいのを抑える。
「今もつき合いはあるんですか」
「ない」
即答されて言葉に詰まる。
「叔父にボッコボコにされたんだから、そりゃ近寄らなくなるでしょ」
叔父、という言葉に脳裏を過ったのは、生徒間で池石沙綾についての噂話。
曰く、池石沙綾は裏社会の人間だ、と。
「どうした? 目が死んでるよ」
「失礼ですね。思い出してたんです」
「富岡くらいの歳だと、悶々とすることがいっぱいあるよね」
何にですか? と沙綾のペースに引き込まれないように我慢をして、オムライスを口に運び咀嚼し終えて、
「池石先生の噂、聞きましたよ」
本題に入る。
「どんなさ」
「裏社会の人だって」
それを聞いた沙綾は瞬きを数回繰り返し、苦笑いをして否定した。
「誰がそんなこと言ったのか知らないけど、私は堅気だよ」
「違うんですか」
「違う違う。叔父がそっちの人によく間違われたってのは否定しないけどね」
両親が居ないというのは本当らしい。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
じゃあ、私からの質問、と言ってテーブルに交差させるように腕組みしながら、
「富岡は両親のことをどう思ってる?」
「何とも」
まるで先ほどの仕返しだと言わんばかりに泰士は即答した。
沙綾は苦笑して、
「滅多に顔を合わさないんだっけ?」
「……他人ですから」
「そんなこと言って。ほんとはもっと話してみたい、一緒に出かけたい、って思ってるんでしょう?」
沙綾の挑発に泰士の左の口角がピクッと動いたのを、隣の席で紅茶を飲んでいた二十代だろう女性は見逃さなかった。
「……池石先生に関係ないじゃないですか」
「担任だよ? 関係なくないよ。富岡が事故に遭った時に一番心配したのはね、杉屋じゃない。誰なのか考えれば、わかるよね」
脳裏を過ったのは事故に遭って以降、あからさまに避けている両親だった。
「ま、今の状態を見ると両親に同情はできないけどね」
「裏で説得したりしてないですよね?」
「ふふっ。ドラマの観過ぎだよ。これに関しては富岡に任せるよ」
含みがある笑いをしてコーヒーを飲む沙綾を、泰士は訝し気に見てオムライスを口に運んだ。すっかり冷めたオムライスは味がしなくて美味しくなかった。
その二
杉屋涼子は東中駅ビルの喫茶店で一人、アイスコーヒーを飲んでいた。今日で学校をズル休みしたのは四週間目。そろそろ一ヶ月経とうとしている。
早く学校に戻らなければと思う一方で、どうでもいいと自棄になっている自分がいる。だからといって「受験やめます」と両親に言えるわけがない。殺される。
そしてもう一つは、不愛想な下級生の男子生徒。一日も忘れたことはない。兄弟が居ない涼子にとっては弟的な存在だ。どうも放っておけない。
レジで会計を済ませ、店内を出たところで立ち止り、財布の中身を確認。若会までの電車賃はある。このまま若会に戻ることもできる。しかし、実行に移したとして、担任にどう顔向けしていいのか。富岡泰士に不在の理由をどう説明したらいいのか。
「どうしよう……」
ぽつりと独り言を呟いた、その時。
「邪魔なんだけど」
後ろでそう声がして、悲鳴を上げそうになった。後ろを振り向くと受験先の高校の制服姿の少女が一人。そこでようやく通行の妨げになっていることに気づき、「ご、ごめんなさいっ」と、か細い声で謝るのが精一杯。恥ずかしくて早くこの場から去りたいのに、身体が動いてくれない。
「ごめん。言い方キツかったね。とりあえず場所変えよう」
みんなの視線がイタイから、と言って少女は涼子の手を取って出入り口に誘導。外に出る。ペデストリアンデッキは平日と違って人は多い。
中心の花壇に向かうと備え付けの石造りのベンチに揃って座った。
「さっきはごめんね」
「い、いえ」
そんなこと、と消え入りそうな声で俯きながら涼子は言い、少女はくすっと笑い、
「訳ありって感じだね」
わかります? と顔に出ていたのかもしれない。
「彼氏と喧嘩してギクシャクしてるってとこかな?」
「そ、そんなんじゃ……」
「そっか。あ、自己紹介しなきゃね。上原朱里よ。東中高校一年」
「杉屋涼子です。芦原中学校三年生です」
「芦原! いつ宗教戦争が起きても不思議じゃないって、卒業した先輩に聞いたことあるよ。てか、受験生? 駄目じゃん! 大事なときにフラフラしてちゃ」
「は、はあ……」
芦原という地名に反応した少女――上原朱里が息継ぎ無しで言うのに圧倒される涼子だが、自分が住む土地がいつ海外系神道と革命教の宗教戦争に勃発するのかなどと噂されているとは初耳だった。
確かに二大宗教を信仰している家庭がちらほら見受けられるのは事実。数の多さでは革命教が若干上回っている。
確かに二大宗教を信仰している家庭がちらほら見受けられるのは事実。数の多さでは革命教が若干上回っている。
選挙の時期になると近所付き合いがまったくないご近所さんがやって来て、「革命党に投票よろしくお願いします!!」と嘆願するのだが、お願いしますも何も選挙権が付与されてないから知ったことではないし、たとえ付与されたとしても、昔の漫画を現代版にリメイクして大ブレイクした『おそ梅さん』似が代表の極左党と革命党には絶対に投票しないと決めている。
「芦原なんですか」
「うん。でも、一年の途中でこっちに引っ越したんだ」
親が離婚してさ。
まるで他人事のように朱里は言う。
「オヤジが沖縄で知り合った女に騙されたとか、母さん言ってたかな」
「沖縄?」
「営業でね。その女っていうのが米軍反対の人でさ」
それを耳にして、涼子は察しがついた。
教員の中にもそういう、米軍基地反対派が存在するからだ。生徒に如何に米軍という存在が悪なのか脚色して嘘を吹き込んでいる、と三年に上がって間もない頃に担任の斎藤五右衛門が愚痴っていたのを思い出した。
あののんびりした口調で愚痴られると疲れるし恐怖を感じる。
「何ていうか、難しくて重たい話ですね」
「まあね。政治なんてわたしは興味無いんだけど、大人が押し付けてくるでしょ」
戦争はいけませんとか、監視社会にしてはいけませんとかさ。
朱里は脚を組み替えて続ける。
「そういうのに興味ありません、って言ったら殴られた」
「えっ、酷い!」
「ま、暴力沙汰が絶えなかったからね。うちの馬鹿オヤジ」
ほらここ、と言って右頬を指差す。微かにではあるが、紫色になっているのが確認できる。
「これ……」
涼子が指でなぞりながら、信じられないといった様子で言うものの、朱里は苦笑いして,「勝利の証だと思えばいいんだよ」と言って、
「そんなことより、リョウちゃんの家出の理由を聞きたいな」
強い人と思う一方で無理をしているように見えた。
満面の笑みで話を逸らされ、涼子は俯く。
「わたし……」
「彼氏と喧嘩した?」
「か、かれっ」
朱里の言葉に呂律が回らなくなり、顔を紅潮させた。
「違うの?」
「と、友達です……」
俯きながら答える涼子を「可愛い」と笑いながら言う朱里を意地悪だと感じたものの、志望校の先輩だ、涼子は唇を食いしばって耐えた。
「なーんだ。そうなんだ? てっきりそうなのかと思っちゃった」
悪びる様子もなく言う朱里を見ながら涼子は溜息を吐きながら、「そんなんじゃないですよ」と改めて否定した。罪悪感が無いといったら嘘だが、何故か自身の中で拒絶してしまうのだ。
物事に冷めた感じの下級生、富岡泰士が嫌いということではないのだけど。
朱里は「ごめんね」と苦笑いして話を続ける。
「帰りたいけど帰りたくないんだね」
図星だったので無言で頷いた。
「わたしね、東中高校に通ってるんだ」
前を向いて訥々と話し出す朱里を涼子はぽかんと首を傾げながら見る。
何が言いたいんだろうという風に。
「進学できたのが軌跡なんだって。ま、実際そうなんだけどね」
オッサンたちと遊び呆けていたから。
それが何を指しているのか、中学生の涼子でも理解できた。何故なら自分にも似た経験があるからだ。二年前、援助交際目的と見せかけ、相手がシャワーを浴びてる間に現金のみを盗み逃げる。狭い若会だ、噂があっという間に広がり最終的に反社会勢力の人間に監禁、事件沙汰となり発覚、友達は離れ両親とは不仲。
自分を見失いかけていたところに現れたのが彼だった。
「わたし――」
「杉屋」
声がした方を振り向くと、少年が一人こちらに歩いてくる。涼子より身長が少し高くてスポーツをしてそうだ。
「杉屋、こんなとこに居たのか」
先生今にもぶっ倒れそうだぞ、と少年は困り顔をして言う。
怒ってんじゃないんだ、と朱里の呟きは聞かなかったことにして、「えっと……誰ですか?」と、涼子も少年と同様、困り顔で問いかけた。
その瞬間少年は盛大な溜息を吐いて天を仰ぎ、
「そうだよなあ……杉屋、お前クラスの誰とも交流なかったもんなあ……。一年ときの担任なんて他の学校に行っちまったけど」
まだわからないのか? と言いたげに首を左右に傾げる。涼子の隣で不審者を見る目で見ていた朱里は「この変人知り合い?」と小声で訊ね、涼子は困惑顔で「さ、さあ」とはぐらかすほかなかった。
一方の少年は溜息を吐いて「失礼だな」とぼそり。そして「峰山清春だよ。入学ん時からずっとクラス一緒なんだけど」と呆れながら自己紹介をした。
「峰山君……?」
そんな人居たかな? と首を傾げる。
峰山という少年は溜息を吐いて、
「何してんだよ。担任今にも死にそうだぞ」
「そ、そうなの?」
「職場で」
「あ、ああ……そういうこと」
「ただでさえ痩せてる斎藤が、萎びた長葱みたいになっちまってるよ」
「……萎びた長葱?」
涼子の隣でやり取りを聴いていた朱里が眉を顰めながら峰山を見た。
初めて朱里の存在に気づいた峰山は、誰だこいつといった感じの視線を送った。
それを察した涼子は朱里と出会った経緯を説明した簡単に説明した。
「とんでもないセンパイさんだな」
峰山の第一声はそれだった。
朱里は身を乗り出して反論を試みたがやめた。眼前の少年が口にした言葉がショックだったのだろうか。
「失礼ね。留年はしたけどあんたよりは頭いいわよ」
自分で言うか? と困惑してる峰山を横目に「ナスでしょ、ナス。萎びたナス」と、得意顔で朱里は言い、何故か隣に座る涼子は顔を赤くして俯いていた。
2017年10月26日 発行 初版
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ある出来事がきっかけで『大丈夫』という言葉が信用できないこの頃。