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jacket

Padova-Verona-Dolomiti-Venezia とイタリアを旅した10日間 - 短い旅の記憶です

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Italia '99

吉沢良子

journey on



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 目 次


1999年6月


Io sono viaggiatore


Dove la stazione?


Parli Englese?


Totti piati elano squisiti complimento!


ドゥベ ポッソ トゥロバーレ"カサ デ ラ ジョバンニ"?


カンターレ マンジャーレ アルデンテ ブォノ!


Fiume Adige


ヴォレイ ウンビリエット ディ セコンダ クラッセ ペル ボルツァーノ


Bolzano


Dobbiaco


Piace sola?


Anche oggi


Dolomiti


E poi ?


Venezia


Pausa


Caffè macchiato


Souvenir


Murano, Burano


Che bei...


Domani

1999年6月

一年半、英語を勉強するためにここイギリスで過ごしたものの、ハーフ・タームはロンドン止り、クリスマスもイースターもカレッジのキッチンで働いて過ごしてしまった。
一年オープンの帰国便の航空券の日付は9月12日。
いよいよここでの生活も終わりに近づいて来た。
最後の夏休みもkitchenで働くつもりだけれど、帰る前にどこかに行きたいと思っていた。
そんな矢先、新聞の読者向けスペシャル・オファーが始まった。
トークンを集めて予約すれば、£50でヨーロッパへ行けるという。
当時LCCが勢い良かった彼の地でも、更に安いオファーだった。
(イギリス人曰く、イギリスはどんなに近くても"ヨーロッパ"ではないのだそうだ。)
そんな訳でトークンを集めてVenezia行きのticketを手に入れ短い旅に出た。

Io sono viaggiatore

約束通り4時15分、next door but one -2軒どなりに住む Jose & Christina の家のベルを鳴らす。
しかし出て来た彼らはまだ寝間着姿だった。
6時半にはチェックインしなければならないというのに。
偶然にもこの日、彼らはドイツへ行くために同じスタンステッド空港に行くというので、その車に私も便乗させてもらうことにしたのだ。
ジョゼは私の元クラスメイトでブラジル人。
日本料理が大好きで、よく皆を呼んで日本食パーティーを開いてくれた。

予定より30分程遅れであわてて飛び出したのだが、曲がり角でエンスト。
朝の空気は冷たい。
高速に乗ってLondon中心部を迂回して行く。
空港の駐車場に着き、ちょうどバスも来て手を挙げるが、バスは停まる事無く無視して行ってしまった。
そもそも車を置く場所を間違えたらしい。
ジョゼとクリスティーナが言い争いをはじめた。
"行き当たりばったり"が彼らの行動パターンらしい。
残念ながら私が口を挟む隙など無かった。
カウンターにチェックインしてサンドウィッチを買って、ハグしてお別れしたのはドイツ行き飛行機が出る15分前だった。
彼等がくれたwinkとその笑顔の数々は忘れられない。ムイート オブリガーダ!
それから3時間半私は自分の搭乗時刻まで空港ロビーのソファでまず一眠りし、つめたく冷えたBLTをほおばりチェックインを待った。

Dove la stazione?

機上の人となり、イタリア語フレーズ集で付け焼き刃を試みる。
たった1時間半でVeneziaマルコポーロ空港に到着。
今回は9日間の日程、荷物は小さめのbackpackひとつ。

暗くなる前に今日の目的地、宿に着きたい。
Padova行きのバスを見つけ飛び乗る。
バスの券売場で見かけ、同じバスの近くの席になり話しかけてきたその人はやはり知り合いだった。
一年ほど前に滞在していたスコットランドのコミュニティで会っていたのだ。
少し考えて名前は思い出せたものの、特に親しくはなかったので私のことを覚えている筈もなく、私からは声を掛けるのをためらっていたのだった。
彼はpipingの名手で、ケリー(スコットランドで夏にするダンスパーティーのようなもの)
の時などバグパイプも演奏していた。
しばらくはコミュニティで何をしていたかなど共通項を探し、そして近況を話した。

パドヴァへ向けてバスは走る。
ぼんやり窓の外を眺めていたが、これといって変わった物もなく、時々さびれたホテルやレストランが通りにそって建っている。
国道122号線の岩槻辺りを走っているのとそう変わらない、"ここは日本だ"と言われてしまえば、そんな気になってしまいそうだった。
西陽がさす葡萄畑と乾いた風にゆれる雑草が窓の外を流れてゆく。

パドヴァに着いた。
バスを降りると運転手さんに "Dove la stazione?" (駅はどこですか)と聞いてみる。
なんとか通じたのはいいが、おじさんの答えが聞き取れない。
それでもわたしが理解したところによると、"その道を右に曲がって、あのビルの向こう側だよ" ということだった。
するとRollyもまた駅を尋ねていたのだがやはり確信が持てなかったようで、二人の話を統合して、とりあえずあっちの方へいってみよう、と一緒に歩きだした。
だいぶ西日も傾いてきて、あのビルの向こうに本当に駅があるのだろうかと実は少々不安になっていたのだ。
ビルの反対側に出たけれど、まだ駅らしい建物は見えない。
インフォルメツィオンの看板の矢印が指す方にあった(どうみてもインフォメーションには見えなかったのだが)プレハブの女性に再び "ドヴェラスタツィオーネ?" と聞くと、すぐそこだと指さした。
その先に駅があるようには見えないのだが、とにかく行ってみよう。
もしわからなくなったら-また誰かに聞けばいいのだ。
駅の周りはこんな風にちがいない、とかそういう先入観と、はじめての土地での不安が"カンと判断"をにぶらせる。
ようやくたどり着いた駅は平屋?というかとても低い建物だった。
どおりでわからなかったわけだ。

彼は迎えにきているはずの友達をさがし、わたしは "インフォルメツィオン" を探すため、握手して別れた。
言葉が不自由なのは彼も同じだったが、バスステーションに降りたときのわたしは不安そうに見えたのだろう。
別れるとき、"だいじょうぶかい?"と彼の目は言っていた。
いつもの調子を取り戻したわたしは、ぎゅっと手を握り返した。

Parli Englese?

インフォルメツィオンは閉まっていた。
あと20分早ければ...仕方がないのでまわりを見回すと、私の他にもあぶれてしまった人がいて、となりの列車案内所にバックパッカーの列が出来ていた。
どうやらそちらで地図をもらえるらしいので後ろに並んだ。
"ブォンジョルノ、ヴォレイ カルタ ジオグラフィカ" 市内地図をもらった。

今夜はYHに予約をいれてあったので、場所を地図で確かめる。
見たところ歩いてゆくには遠そうなので、近くまで行くバスをさがすことにした。
券売場のおじさんに地図を見せると"tre!"と言ったので、3番のバスを待ち
運転手サンに聞くと、ちがうという。
こんな事を3回位繰り返し、やっと正解のバスに乗り込んだ。

運転士さんに地図を見せて目的地についたら教えてくれとたのんで、自分でも走っている所を確認していた。
それらしい場所にさしかかったのだが、夕方のバスは混んでいて確かめる事ができなかった。
とうとう降りそびれたことが確定し、バスが大きな橋を渡ろうとしたところで運転手さんの脇に立つと、"忘れてた!"という顔をして、バスが停まる旅に戻る為のバスの時刻を調べはじめたのだが、ちょうど最終のバスとすれちがったと言う。
"あと15分で終点に着くしこのバスは折り返して街へ向かうからこのまま乗っていてくれ”とすまなそうに片言の英語で訴えた。

終点でみんな降りると、文字通り貸し切りになった。
道の両脇は背の高い植物の畑のようだが、あたりは真っ暗で何なのかはわからない。
折り返し地点の教会に着いたけれどもすぐに出発するふうでもない。
9時までに着くようにとYHに言われていたのだが、間に合いそうになかった。
慌てたところでどうしようもない。まあいいか。
運転手の彼は(おじさんと呼ぶのは忍びない)ひとなつこく、チャンポンでいろいろ話し始めた。
しきりに言葉を教えてくれようとするのだが、フレーズが長すぎて一度に覚えきれない。
"イタリア語はむつかしいからね" とちょっと誇らしげに言った。
彼の友達が車で通りかかり楽しそうに話している。
なぜかわたしも彼の友達と握手をして別れると、やっとバスはもと来た道を走りはじめた。

今度こそ目的の広場で降ろしてもらい、足早に歩きながらーー今日一日のわたしはまるで早朝のJose+Christinaのようだったと思い苦笑した。
何も食べずにベッドに横になると、ふとRollyに再会したことの意味を考えていた。
私は何かサインを見逃したのかもしれなかった。
けれどもしばらく後でこう思い直した。
一人旅の始まりに心細くならないように、Padova駅へ着くまでの間、それだけのために用意された小さな偶然だったのだ、と。

Totti piati elano squisiti complimento!

Padova へは the Cappella Scrovegni にあるGiottoのフレスコ画を見るために来た。
ピアッツア(広場)の前のたばこ屋でビリエット(切符)を買い、新聞スタンドのおじさんに
"ドヴェ フェルマータ ペル スタツィオーネ?"とたずねた。
何しろその広場は一周300mくらいの楕円形をしていて、"巨大な信号付きroundabout" になっていたので、どこに停留所があるのかよくわからない。
駅に到着すると荷物を預け、通勤の人にまじって街を歩く。

古い木のドアを開けると中は薄暗かった。
所々東側の窓から光が差しこんで、ちょうどドアの上の壁全体に描かれた壮大な"神の国"を照らしていた。
建物にこった装飾はなく、両側の壁を福音に書かれているキリストの生涯を描いた場面の数々が埋めている。
石段に腰掛けてしばし眺める。

外に出るといつもの明るさがそこにあった。
隣接の博物館もそこそこに、old town のほうへ歩く。
細い石畳の曲がり角を抜けるとそこは広場で、白い帆布の四角いパラソルがずらりと並ぶ市場だった。
色とりどりの花、野菜に果物、スパイスや日用雑貨に洋服。
広場を取り囲む建物の1階には肉屋、魚屋、チーズの店にパン屋に酒屋にバール!
住んでいたイギリスの小さな村では買い物に行ってもがっくりすることのほうが多かった私は、この光景に一瞬で心を奪われてしまった。
イタリア語でも習いながらここに住んで、毎日おいしいものをたらふく食べてみたい。
半ば本気でそう思った。
おやつがわりにリンゴを4つだけ買った。750リラ也。
パン屋があまりに混んでいたので、小さなバールでペンネを指さし"ノンフォルマッジョ?ノンブーロ?"(チーズなし?バター無し?)と聞くと、"オリーブオイル、トマトとツナとルッコラしか入ってないよ"とお兄さんが答えひと安心。

公園で食べようとテイクアウェイしたのだが、フォークは駅に預けた荷物の中だった。
フォークを探しにスーパーに入る。
くまなく棚を見てまわったけれどちょうどいいのが見つからなかった。
仕方ないのでジェラートを買って木の下に座って食べ、その小さなプラスチックのスプーンで
ペンネを口へ運んで食べた。

日本でNHKイタリア語会話を見ていた頃に覚えた唯一のフレーズ。
"トゥッティ ピアッティ エラノ スクイズィーティ コンプリメント!"
おおげさな節回しが結構気に入ってたのだけれど、残念ながら3つ星レストランなんて行かない私はついぞ使うことが無かったのである。

ドゥベ ポッソ トゥロバーレ"カサ デ ラ ジョバンニ"?

昼も1時半を過ぎると店は一斉にシャッターを降ろしてしまう。
カンカン照りで日陰を探す。
駅前にVirgin Mega Storeがあったのを思いだしあそこなら開いているかも?と避難した。
視聴コーナーで片っ端から聞いてみる。
イタリア旅行の記念に1枚と思ったのだが、結局買ったのはスペイン語で歌の入った"教授"のTangoだった。
シーンとした通りをガラス越しに眺めながら聞く "気だるい昼下がりのTango" がやけに良かったのだ。
そろそろ列車に乗って、Veronaへ向かう。

クーラーのついていない列車の窓は開け放たれていて、なまぬるい風が肌を拭ってゆく。
眠気にまかせてうとうとしてしまう。
1時間程で付くはずなのだが、車内アナウンスも無ければプラットホームにも駅名の表示が無い。
列車が減速すると不慣れな旅行者は窓から身を乗り出して、ホームに入って来る列車に向かって建ててある唯一の駅名を確かめなければならない。
駅に着くとインフォルメツィオンへ直行。
女性専用の宿泊施設(カソリック教会が運営している)を教えてもらいバスに乗った。
ヴェロナはパドヴァよりも大きな観光都市といった感じである。
バスは大きな通りから old town の石畳の裏道へと入って行く。
ただでさえ狭い道を買物がえりの人が横切って行くのをまるで縫うようにして走るので結構スリリング。
降りて地図を片手に宿をさしたけれど、"ある筈の所"に目当ての看板がない。
うろうろしたあげく、近くの建築現場のおじさんに "ドゥベ ポッソ トゥロバーレ カサ デラ ジョバンニ?" と尋ねたら、案内してくれた。

そこはやはり最初に着いた"宿がある筈の場所"だった。
固く閉ざされたドアの横に呼び鈴と小さく名前が書いてあった。
女性専用宿舎ということもあってサインは出していなかったのだ。
そしてどのアパートも必ずドアの鍵はかかっていて、呼び鈴で応答を待たなければならない。
だから昼下がりの通りはひとっこひとり居なくて、なんとなく締め出された気分になる。
人は建物の中にいるはずなのだが、その気配が無い。
真っ暗な階段を昇り2階にある受け付けにたどり着いた。

受付のRosellaは笑顔がチャーミング。
いろんな人が入れ替わり立ち変わりやって来て忙しい様子だけれど、それを苦にせず楽しんでいる風だった。
彼女はひとなつこく私に日本語の自己紹介のフレーズを聞いて来た。
"ハジメマシテ ロセッラとモウシマス" 嬉しそうに何度も繰り返した。
シングルは空いていなくて、二人部屋を借りることにした。
部屋は清潔でこじんまりとしていてほっとした。
2泊することにしたので荷をといて、りんごを剥いて食べた。
靴も靴下も脱ぎ捨てて、ベッドに足を投げ出した。

カンターレ マンジャーレ アルデンテ ブォノ!

さあおいしいものでも食べよう、という時一人は不便だと思う。
リストランテのようなところでは手持ち無沙汰だし、一品だけというわけにもいかない。
パブやバールでもよいのだけどビール3センチ飲んだだけで赤くなり、、子供が一人でなにしてるんだと注目の的になってしまう。
そんな訳でいつもうろうろしたあげくテイクアウェイして部屋で食べたりしてしまう。
でもここは England ではなく Italia ! である。
私にも食べられるおいしいものがあるはず!と期待してきたのだ。
とは言え長期滞在でもないので人に聞いた方が早いと思いRosellaに訊いてみた。
彼女に食事の出来るカフェを2軒程教えてもらって街に出て探してみる。

カフェ・フィリピーニは観光土産物の店が立ち並ぶマーケットの前にあった。
どこのカフェも通りにテーブルを並べ軒を連ねている。
"フィリピーニ" は中でも歴史あるcafeらしかった。
インサラタとアマトリチャーナ、カフェルンゴ を注文する。
食事にはまだ早い時間らしく人はあまりいなかったのだけれど、夕暮れに空がほんのりあかく、そして暗くなっていくのを眺めながらぼーっとするのも悪くはない。
皿に盛られたパスタはたっぷり大盛りだった。
一口食べて、アルデンテとはこういうのを言うのか!と初めてアルデンテの意味をcomplehendした。
とにかくおいしいものにありつく事ができて幸せだった。

ヴェロナは "ロミオとジュリエット" の舞台である。
ジュリエットのバルコニーを見に行った。
入れ替わり立ち替わり各国の自称ジュリエットがバルコニーに立っては記念撮影をしていた。
なんとなく興ざめして街をぶらぶら歩いていたら、美容室があった。
中を覗くと"先生"らしき人(50代くらい?であった)が真っ白い木綿のパフスリーブに流行りのフレアーパンツ。
大胆なその姿に惹かれて切ってもらうことにした。
見ていると期待を裏切ること無く、彼女はためらいもなくバッサバッサと髪を切り落としてゆく。
雑誌をみて、こんな感じでとオーダーしたが、英語はまったく通じなかった。
"フランス語はわかるの?"と聞かれたけれどお手上げだった。(先生はフランスで修行したらしい)
途中で"ピエディ!"といわれびっくりした。"立って!"ということらしい。
言葉が通じないので急に顎を上げたり、首を傾けたりされるがままである。
先生は慣れない黒髪に苦戦している様子だったがカットは15分位で終った。

それから"アリーナ"と呼ばれる巨大な石造りの円形劇場を見学。
客席の一番上まで大きな石段を昇るには息が切れた。
眺めはいいけど、ころげ落ちたらまちがいなく死んでしまうだろう。
そんなスリルも感じながらここで真夏の夜にオペラなど見たら最高だろうとおもう。
めったに迷ったりはしないので、歩いてどこまでも行ってしまう。
oldtownをほぼ踏破したので宿に帰ってひと休み。

日が落ちて、昼に入ったトラットリアはいまいちだったのでまたPhilipiniへ。
中の席に座ってみたくて店の中に足を踏み入れてみたけれど、"旅行者は外!"という感じで通りの席へ素気なく追い出された。
(茹でると透明感があってシコッとしたパスタ。乾麺に違いない。
帰国後もいろいろ買って試してみたけど見つけられなかった。)

Fiume Adige

旅をしているとよほどの時差ボケで無い限りは妙に早起きなのが私のパターン。
5時ごろには目が覚め、6時には宿をでて散歩にでる。
日差しはすでに強いけれど空気はまだひんやりしていた。
駅へ向かう通勤の自転車とは反対に橋を渡り岸辺を歩く。
川の水は勢いよく流れ、陽の光を反射させながら白い泡をたてる。
丘の上に登ったら良い眺めにちがいない。
住宅の間の細い階段を踏んで行く。
登り詰めるとそこには1軒のレストランと大きな建物があり、回り込むとその先は展望台になっていた。

ヴェローナの街が一望に見渡せる。
川は街の中心部をぐるりと囲むようにカーブして流れていた。
この川はまだ生きいきとしている。
それが観光ズレした街に潤いを与えているような気がする。
川の外側は住宅地になっていて、ここには生活の匂いがある。
茶色いモザイクの瓦屋根が高く低くヒシめきあっている。
迷路のようにつけられた石畳の道。
電線に群がる小さな鳥たち。
来た道とは違う坂道を降りて行くことにした。

ヴォレイ ウンビリエット ディ セコンダ クラッセ ペル ボルツァーノ

散歩帰りに教会の広場の前にあるバールで紅茶を飲んだ。
地元のオジサンが出かける前に立ち寄って新聞をぺらぺらめくりながらコーヒーを飲んでいる。
時々知った顔が通ると声をかける。
原付バイク、車、自転車が先を争いながらガタガタ音をたてて曲り角に消えて行く。
宿に戻って荷物をまとめると駅へ向かった。

日曜はどこのインフォメーションも休みなので、土曜の今日中にドロミテに行く事にした。
時刻表を確認しながら切符売場の前に立っていると、売場の女の子が嫌そうな顔をした。
それなら、と、となりのオジサンの窓口で、"ヴォレイ ウン ビリエット ディ セコンダ クラッセ ペル ボルザノ"と言って切符を買うと、あとで女の子は"災難だったわね"と耳打ちしたのだが、
オジサンは"彼女イタリア語話したよ"と言っている様子だった。
聞こえなかったけどそういう事はすぐに伝わるし、多分間違っていない。

国境を跨ぐ特急列車は"ユーロスター"なのだった。
てっきりパリとロンドンを結ぶ列車の固有名詞だと思っていた。
入ったコンパートメントの席の向かいにはスペイン人の中年カップルが座っていた。
30分も走ると線路の両脇には山がせまり、谷に流れる川を遡るように葡萄畑の中を行く。
山の中腹にはもやがかかって、やがて雨が降り出した。
しばらくすると車掌が改札にやって来た。
私は問題なかったのだが、向かいのカップルの持っていた切符では
"サプリメント"という料金を払わなければいけないらしく、車掌が一生懸命説明を始めた。
イタリア語とスペイン語で何度か会話が交わされたけれども、通じていないようだった。
それでも車掌はあきらめずイタリア語でまくしたてると最後にはカップルはお金を払ったのだった。

ユーロスターは山脈を越え、1時間も走ればスイスに着くだろう。
その手前、ボルツァーノ(トレンティノ州)で私は降りた。
ホームには大きなザックをしょって、山行き支度の人が目につく。なんだかそわそわする。ついに来てしまったのである。
そこはもうドイツの雰囲気漂う文化圏なのだった。
出発前、行き先をヴェニスに決めてからも何だかピンとこなかったのだが、
ある日本屋でイタリアの山歩きのガイドブック見つけて、Dolomiti が Venezia から近いことを発見したのだった。
邪道ではあるけれどロープウェイの整備された山もあるようだし、その程度のトレッキングなら靴さえどこかで手に入れれば良いし。
私も山を目指すことにしたのだ。

Bolzano

ボルツァーノはドロミテの玄関口であり、街は予想していたより賑やかであった。
当てにしていた山岳国立公園の案内所は閉まっていた。
仕方がないので、普通のツーリストインフォメーションに資料がないか覗いてみる。
ここにも山の情報は無かったので登山用品店に行ったのだが、靴も本格的なものしかなく、地図や資料はやはり無かった。
そのまま人でごった返している通りを、店のディスプレイを見ながら歩く。
並んでいる店も目新しく、チロル風の衣装を着ている人もちらほら。
店の看板や地名もドイツ語表記が多く、むしろドイツ語優勢のようである。
メインの通りをしばらく行くと市場が立っていた。
チーズなしのお惣菜があるかと思ってデリカテッセンに入って見たけど、見る限りそういうものは無さそうだった。
食文化もドイツ圏なのだとわかった。
乳製品嫌いでこの先の食事が少々心配になった。

Dobbiaco

情報も得られずこのまま街に留まる理由もなかった。
今日の内にもう少し奥まで行って見ようと思い直し、Toblach(ドイツ語の地名)/Dobbiaco(イタリア語の地名)行きのバスに乗った。
路線バスは大きくて新しく、乗っている人数に不釣合だった。
雲行きがあやしくどんどん暗くなって、やがて雨が降り出した。
半分くらい来た所でバスを乗り換える。
運転手が仲間と喋り出すと、若い男の子がびっくりした様子。
きき耳をたてていると、彼らの話している言葉はイタリア語でもドイツ語でもない響きに聞こえた。
会話の内容にびっくりしたのかもしれないのだが、ひょっとすると彼らが話していたのは"ラディン"と呼ばれる言葉なのではないだろうかと想像した。

スキー場のある小さな町ごとにバスは停車してゆく。ロッジの窓辺は競うように花で飾られ、小さな教会が必ずある。
ドッビアーコは少し開けた感じのする高原の町で、週末ということもあり観光客が結構来ていた。
夕方になって雨も上がり、明日はなんとか歩けそうである。
軽登山靴を買って地図を手に入れ、バスの時間を調べた。
そして宿で朝食を早く準備しておいてもらうよう頼んだ。

Piace sola?

夕飯を食べにヒュッテ風のレストランに入ってみた。あいにく席は塞がっていた。
どうしようかと店の人が考えて、"ピア ソラ?"と私に聞いた。
"ピアソラ"ってタンゴのピアソラのこと?ちがうよな...と思いながら口真似してみた。
意味がわからないのでとりあえす声に出してみただけなのだが、言った途端その場にいたカップルと店員の顔が曇った。
どういうこと?と思った次の瞬間 "独りがいい?"と聞かれていたのだとわかった。
言い訳する語学力も無く、そうこうするうちにテーブルが空いてそのまま4人がけの席にひとり座り、メニューを睨んだ。
メニューはドイツ語とイタリア語で書かれていた。
何にしようか決め兼ねていると店のおばさんが、メニューが読めないのだと心配して店中の客に"誰か英語を話せる人はいない?"と尋ねはじめた。
結局だれも話せないことがわかると、先程のカップルの男性の方が"ワインを試すといいよ、ここは産地だからね。ツーリストメニューより好きなモノを頼む方がいい" というようなことを言ってくれた。
インサラタとスパゲッティボロネーゼを注文した。
料理が運ばれてくると、おなじみのミートソース上にひとすくいのバターがのせてあった。
慌てて融けないうちにスプーンですくってナプキンによけた。ごめんなさい。
パスタにも絡んでいそうなので、ソースをまぜてなるべく味がわからないようにして食べた。
こんなことならバーの方でビールにソーセージですませれば良かった。
お酒が飲めない事もあるが、偏食のわりに食い意地がはっているのが仇になった。
バターが怖くてデザートもたのめず撤退。
店を出る時に"グラーツェミーレ"と言うとおばさんはにっこり笑てくれた。

Anche oggi

早朝、バス停にはあちこちから山支度の人々が集まっていた。
最初に来たバスはちがい、次に来たバスには誰ひとり乗る気配が無い。
運転手に話しかける間もなくバスは行ってしまったのだが、そのバスが私の乗るべきものだった。
わたしが逃したのと同じ行き先のバスは午後まで来ないことがわかった。

さてどうしようか。
どうやら次のバスに乗り、途中で降りれば1時間余計に歩くだけで予定通りのコースを行けそうだった。
気をとり直してそのバスに乗り、降りる場所を間違えないよう地図を見ていた。
すると次のバス停で、日本人の御夫婦が乗って来た。
聞けば "Tre Cime di Lavaredo" へ行くのだという。
このバスに乗っている人のほとんどがそこを目指しているらしい。
どこかで聞いたことのある名前だと思いガイドを開くと、一番最初に行ってみたいと思っていた山だったのだ。
なぜか私の持っていたガイドブックにはその山をめぐるコースは案内されていなかったのであきらめていたのだ。

山本ご夫妻は毎年1ヵ月は海外の山を歩いていて、ここへは去年も来たのだそう。
10月の紅葉の時期にはバスは一本も無くなってしまうので、タクシーでやって来たと言う。
やはり現地に来てはじめてわかることの方が多いのだそうだ。
そんな話を聞いているうち少々不安も手伝って、バスを降りずに同じコースを行ってみることにした。
今日も行き当たりばったりの予感。

Dolomiti

バスは頂上近くまでまで通っていて、たくさんの観光客が来るため山道はよく整備されていた。
かつてこんな楽な山歩きはしたことがない。
尾瀬に行くより楽に3000メートル級の神の箱庭を歩けるのだ。
30分も歩くと名前の通り3つのピークを見ることが出来た。
あいにく雲がかかっていててっぺんは見えなかったが、その姿はアイスバーを3本砂山の上に立てた様。
なんとも奇妙な風景である。
この辺りはオーストリアとの国境近く。
鋸状の尾根のあたりは第一次世界大戦当時戦場になった所でそのためにこのような形になったのだと聞いた。

山小屋で昼食をとった。ビールにスパゲティ。
せっかくなので来た道を戻るよりは、と下の湖まで歩いて降ることになった。
白く崩れやすい石灰質のガレ場をゆっくりとくだる。
この辺にわずかながら自生しているというエーデルワイスを探しながら。
石灰岩と黒い土の斑にあいまって、よく気をつけていなければ見逃してしまうだろう。
とうとう奥さんが見つけて、わたしもその恩恵にあずかることができた。
その後、思いがけず昨夜レストランで会ったカップルと再会した。
彼らは湖から登って来たところだった。
少し言葉を交わし握手して別れた。
湖まではだらだらと長い下りが続き、赤岳から美濃戸口へのコースを思いだした。

バスが来るまで一時間あまり、停近くのレストランでお茶を。
ドッビアーコの駅の近くでご夫妻はバスを降り、お別れした。
これから加速度をあげて秋は深まってゆき、スキーシーズンまでのひと時、あたりは静寂に包まれてゆくのだろう。

E poi ?

今日はずいぶんと良い天気になった。
これkらバスに乗って Veneziaへ向かう。
Chimabanch から Cortina への道は素晴らしかった。
そそり立つ白い岩肌の山の間をバスは下ってゆく。
コルティナはまわりをぐるりと山に囲まれたスキーリゾートだった。
デパートのような店の手芸品売り場でチロル風でエーデルワイスのボタンをいくつか買った。
ここで重くなった荷物を日本へ送ってしまおうとしたのだが、やれ段ボールむき出しでは駄目だの、箱は売っていないだのいろいろ言われてあきらめた。

少し街をぶらぶらして Venezia 行きのバスに乗ろうとインフォメーションに行くと、"今シーズンのバスは昨日で終わりました"と言う。
仕方無いので Calarzo まで更にバスで1時間行き、そこから電車に乗換ねばならない。
案内では乗換駅を一つしか書いてくれなかったけど、実際は2つあって手前の駅では50分の待ち時間があった。
そして彼女が乗り換えろと言った駅で電車を降りてみたけれど、Padova行きだったのであわててまた乗った。
パドヴァならベネツィアに近いし、わざわざベネツィア行きを待たなくても良いだろうと思った。
もしのりかえてVenezia行きに乗るのなら、さらに1時間さびれた駅でまたねばならなかった。

Venezia


ベネツィアにつくと駅は予想外の人でごったがえしていた。
しまった!かのVenezia国際映画祭の真最中だったのだ。
安ホテルのリストを案内でもらって片っ端から電話をかけてみたけれど、どこも満室だった。
おまけにハイシーズン料金なのだった。
あとは3つ星以上のホテルをあたってみるしかない。
途方にくれていた所に、客引きのおじさんに声をかけられた。
おじさんの胸のバッジには3つ星がついていた。
ホテルは1泊7000円ほどだった。
"今晩とまって、明日安い所をさがせばいいよ"と言われ、ごもっともだと思った。
渡された名刺をたよりに来たけれど、細い路地の入り口まで来て大丈夫だろうかと心配になった。

入ってみると実際は2つ星で部屋もツインだけどシャワー別だった。
約束したのはシャワー付きの部屋だとちょっと強気で言ったら"シャワー付きはシングルだぞ、そのほうが良いなら明日部屋を替えてやる"とおじさんが言った。
向かいと奥の方は地元の人のすむアパートで、そんなに物騒な雰囲気では無かったし、部屋はまあ清潔だったので良とした。
とにかくこの人出では仕方がない。
どこで何をしようか、なにも考えてなかった。
ちょうど今夜、教会であるというクラシックのコンサートに行く事にした。
狭い石畳をくねくねと歩く。
その教会はリアルト橋のそばにあった。


                                                                                                                   .

Pausa

朝7時、まだ人もまばらな街を散歩した。
ドゥカーレ宮殿の広場の前、ゴンドラが揃って波に揺れている。

そのまま水上バスでリド島へ渡った。
退屈で内容はほとんど覚えていないのだが、映画"ヴェニスに死す"で見た浜辺。
静かな波が砂浜によせる。
なんとなくかすんでいる水平線。
コロニアルの名残り。

一日街を気の向くままに歩いた。
その間"Japonese"とつぶやく声をやけに耳にして嫌気がさした。
歩きすぎて腰も痛くなった。
この人混みの中で明日も過ごすのかと思ったらため息が。
明日は息抜きするべく Treviso に行く事にした。

Caffè macchiato

9月とは言え、朝から日差しは強い。
サンタルチア駅まで水上バスに乗って列車に乗り換える。
トレヴィーゾにはちょっと早く着きすぎてしまった。
街の中心に向かって歩いたがこの時間では案内所もまだ開いていない。
少し歩くとこの街は水の都といった感じであちこちを小さな水路が走り、池や橋があり、柳の木も見掛けた。
やはり街の中心部を取り囲むように川が流れ、その外側に城壁の名残なのか土手のように高く作られた細長い道があり公園のようになっている。
その外側は住宅街のようだった。
そのまま歩いて見る。
トレヴィーゾは全体的に裕福な人が多い街らしく、大きな家が多い。
お腹がすいてきたので引き返すことにした。
来る途中に見掛けたパン屋でベジタリアン用のpizzaを買う。
白い厚めの生地の上にトマトソース、トマトのスライス、タマネギ、じゃがいも、赤と黄色のペペロニ、がのっていた。
噴水脇のベンチで食べる事にする。
のら猫が寄ってきてもの欲しげにニャーと鳴くので、ちょっとだけあげて見たけれど食べなかった。
生地はクランペットのようにモチモチして、塩が効いていてとってもおいしかった。
粉の味がちゃんとする。

この街には古い家が残っていて、壁にはフレスコ画を見ることが出来るとガイドブックに書いてあった。
やみくもに歩くうちに、消えかかったそれらの絵を見ることがが出来た。
あるさびれた教会の前で写真を撮っていたら、自転車に乗った中年のおばさんに話し掛けられた。
息子さんが仕事で日本に行ったことがあるので日本人に興味を持ったようだ。
たった数分の短い会話でも、絶えず視線を感じはするけどめったに人と関わることのない旅行者にとってはほっとするものである。

午前中はどこもマーケットの時間。店をのぞきながら中央の広場まで戻って来た。
すぐ向かいにあったバールに入って見る。見ているとほとんどの人が立ってカウンターでコーヒーを飲んでいる。
みな"カフェマッキアート"と注文し、クロワッサンを半分に切って紙ナプキンでくるっとまいたものをつまんでいた。
私もまねして同じようにしてみた。クロワッサンは甘くて、苦いカフェルンゴにちょうどよかった。
帰りの列車でpizzaの残りを食べる。
昼下がりには vecezia に戻っていた。

Souvenir

宿に戻ってひと休み。
昨日頼んでおいた名刺を取りに印刷やさんに行かねば。
細い路地に面した小さなガラス窓、そこにはきれいな名刺と雑誌"太陽"が飾ってあった。
昔ながらの活字を使った印刷屋さん。
インクの匂いに足を踏み入れると"アントニオ カルロス ジョビン"がかかっていた。
私が選んだ図柄はピノキオの原画で、グレーの紙にグレーのインクで。
この組合せには店主も賛成だった。
出来上がった名刺を見せ"Elegant!"と言った。

Murano, Burano

すぐ先の水上バス乗り場からはムラーノ・ブラーノ島行きの船が出ていた。
日は少し西に傾いていたけれどまだ高い。
島をはしごすることにした。
ムラーノは Venezian glass で有名な所。
ガラス細工を売る店の店先を眺めて歩く。
そしてブラーノはレース編みの島。
みやげもの店を外れて路地を歩いた。
家はそれぞれに違う色のペンキを塗っていてひときわユニークだった。
傾いたまま建っている教会の塔にロープにはためく洗濯物とシーツ。
背骨のまがったおばあさんが外に椅子をだしてレースを編んでいた。
断って一枚写真を撮らせてもらった。
一周30分も歩けばまわれるような小さな島だった。

Che bei...

再び夕日を見ながら船に揺られた。
その景色を見ているとターナーの絵を思い出す。
ある時期ターナーは光にあふれるヴェニスの風景を何枚も描いていた。
日が落ちるほんの直前に、夕日がいっそう輝きを増す一瞬がある。
その瞬間を見逃さないように、目を離すことができずにずっと窓の外を眺めていた。

Domani

午前7時前、活気が戻る前の通りを駅へ向かう。
イタリアでの短い旅を終え、カレッジのある Forest Row に戻るのだ。

スタンステッド空港のイミグレーションで "Are you sure, you definitly leave England in few days?" と訊かれ、 "Yes" そう答えた。
一年半のイギリス暮らし、もうひとつの旅も数日で終ろうとしていた。

Italia '99

2015年4月29日 発行 初版

著  者:吉沢良子
発  行:Journey on

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吉沢良子

1970年4月21日生
http://www.journey-on.jp

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