spine
jacket

大学を舞台にした少しSF風物語。
都会の街中に建つ帝華大学理工科学部の建物には秘密があった。その秘密を識る者達の、物語。

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帝華大学物語

風城国子智

WindingWind



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 目 次

歪みを識る者達

眼鏡を作る

こころなきもの

隠れた感情

夏の青

彼の音に魅せられて

白き翼

静寂の場所

イブイブイブの一日

それでも、なお

取り替え子

新たな季節

ケータイラプソ

挑戦状

昔の事

幽霊、退治します

私が美味しいと思うものを

狂宴準備

春のお弁当

歪みを識った日

約束の、その先へ

意外なところに

小さな旋律

花を贈る者

そして……

歪みを識る者達

 移動、しなければ。そう思えば思うほど、足の震えが酷くなる。それでも何とか、講義室の机から顔を上げた怜子さとこの目に映るのは、醜く歪んだ黒板と、大講義室の入り口を塞ぐように立ち、何処か哀しげな瞳を怜子に向けている女性。
 怜子には見えているあの女性が、この世の人では無いことは、先程までこの大講義室で選択必修の授業である基礎生物を受けていた学生達がなんの屈託も無くこの大講義室から出て行くことから推測できる。霊感など、持ち合わせてはいないはずなのに、時折、誰も居ないはずの場所にあの女性が現れる。声を掛ける勇気も無いので、消えてくれることを念じることしか、怜子にはできない。その上。この帝華ていか大学理工科学部の建物に来る度に、この大講義室も、数学の授業がある中講義室も、時折予告なく歪んで見えてしまうことに、怜子は正直戸惑っていた。授業中に視界が歪んでしまい、黒板や資料の文字が判別できずに授業の内容が分からなくなってしまうことにも、歪んだ視界のままでは講義室から講義室へ移動することができないことにも、困っていた。今はまだ昼休みだから、持ってきたお弁当をここで食べてから、線形代数の授業がある上階の中講義室へ移動すれば良い。しかし次の授業が始まるまでに視界の歪みが解消しなかったら? 今見えている幽霊が消えてくれなかったら? 必修の講義に遅刻することになってしまう。遅刻でも、積み重なれば欠席扱いになってしまう。欠席が重なれば必修の単位が取れず、留年は必至。四年間しか学費は出さない。都会にある帝華大学へ行きたいと母と祖母に告げた時、二人ははっきりとそう言った。四年間で卒業し、数学の教員免許を取って教員にならなければ、あの場所に永遠に囚われてしまう。それはダメだと、叔母に言われた。父は優しいが、どんなに働いても「役立たず」だと母や祖母から冷たく言われ続けている未婚の叔母を見ていると、あの場所にずっとは居られないと、感じる。あの場所から永遠に逃れる為に、大学をきちんと卒業することが必要、なのに。入学早々から『歪み』や『幽霊』に囚われてしまうなんて。
 と。
 机に何かが当たった大音声で、思考が途切れる。もう一度顔を上げると、先程までは確かに見えていた泣きそうな顔をした幽霊は、怜子の視界から消えていた。歪み、切り裂かれたようになっていた黒板も、今は普通だ。そして。
「悪い」
 急いでたから。怜子の方に顔だけ向けて顎を引いた、爽やかな感じがする人影に、怜子も釣られて頭を下げる。青年、というにはまだ幼い感じがする男性の背で揺れるパーカーのフードと、大きく特徴的な形をしたケースが、怜子の視界に映った。
「……あの」
 ケースの中身が何かを察し、無意識に声を上げる。
「ギター、ぶつけてましたけど、大丈夫ですか?」
「え?」
 怜子の声に、再び、青年が怜子の方を向く。そして青年は焦った顔をして怜子の横の机の上に背負っていたギターケースを静かに置いた。
「……うん、多分、大丈夫」
 ケースの中に入っていた、派手な色に塗られたギターを隅から隅まで丁寧にチェックしてから、青年は怜子に向かって大きな笑みを向ける。その笑みが眩しすぎたのか、怜子は自分の心臓が勝手に飛び上がるのを感じていた。
「ありがとう」
 その怜子の戸惑いが治まる前に、青年は再びギターケースを担いで怜子の側を離れる。
「ユータ、早く!」
 おそらく青年を呼んでいる、怜子と同じ一年生とは見えない男性の集団を大講義室の入り口近くに認め、怜子はばつの悪い思いで下を向いた。基礎生物の授業は単位を取るのが難しいらしく、二年生以上の学生もかなりの人数が履修しているらしい。あの人は、おそらく上級生。年上の、知らない男の人に声を掛けるなんて、どうかしている。自分の行動が信じられない。怜子は思わず首を強く横に振った。
「なに一年生ナンパしてんだよ」
 その怜子の耳に、男性らしい遠慮の無い声が入ってくる。少しだけ顔を上げると、あのギターケースを背負った青年のパーカーのフードが、友人らしき面々に小突かれて揺れるのが、微かに見えた。
「早く下のカフェテリア行こうぜ」
「席が無くなっちまう」
 それらの声が消えてから、徐に席を立つ。
 何はともあれ、幽霊も、歪みも、消えた。それだけが、怜子をほっとさせていた。

 その日の放課後。
〈……広い〉
 帝華大学理工科学部の図書室に初めて足を踏み入れた怜子は、その思いがけない広さと天井の高さに戸惑っていた。
 都会のビルの間に建つ十四階建ての建物、それが、帝華大学理工科学部のキャンパス。外から眺めた感じではそんなにたくさんの部屋が有るとは思えないのに、中に入ると大小の講義室も実験室も教員の研究室もきちんと、授業や研究に必要なだけ揃っている。一階にはコンビニエンスストアが、二階にはカフェテリアと吹き抜けの飲食スペースも有るから、この理工科学部のキャンパスから電車で四駅の、丘の上にある帝華大学の本部キャンパスで行われる教養の授業を受け終えた上級生の学生生活はここでほぼ完結してしまう。他の学部では足りないと常に言われている学生用の控え室やロッカールームも、このコンパクトな空間にきちんと入っている。そして極めつけは、この七階に有る図書室だろう。司書の方にもらった案内用パンフレットを握りしめ、高い天井を見上げて怜子はもう一度、感嘆の息を吐いた。七階全部が図書室で、天井まで届く開架棚が並ぶ空間が半分、そしてもう半分は閲覧スペースになっている。教養の授業で行く、帝華大学の本部キャンパスにも大きな図書館が二つ有るが、この図書室にも有用な本が多そうだ。嬉しくなり、怜子はゆっくりと息を吐いた。
 徐に、開架棚を歩く。今日怜子がここに来た目的は、線形代数と解析の参考書を探す為。毎週の授業は勿論注意深く聴いてはいるが、それでも、『歪み』の件を除いても、大学の授業は高校の授業よりも難易度が高い上に進度が速く、よく分からないまま次々と新しい概念が出てくることには当惑を隠せない。勉強することで不安や戸惑いを少しでも減らすことができれば。そう考えた怜子は、参考になりそうな本を探す為に案内用パンフレットの地図を丹念に指でなぞりながら数学書が置かれている棚を探した。
 と。丁度数学の棚のところで、書架の上の方に手を伸ばしている女性らしい細い影が目に入る。あの哀しい顔をした幽霊? 怜子の背に戦慄が走った。だが、二度見してすぐに、件の幽霊とは異なることに気付く。あの幽霊は怜子よりも大柄だった。目の前の女性は小柄な怜子よりも更に頭半分ほど、背が低い。一つに括られた無造作に長い髪が、典型的な大学生の服装として雑誌に載っているような明るい色のジャケットの上で揺れている。どうやら書架の一番上にある本を取ろうとしているようだが、踏み台の上に乗っていても本に手が届いていない。
「あの、取りましょうか?」
 伸ばされた、折れそうなほどに細い腕の震えを見ていられなくなり、思わずそう、声を掛ける。
「え、あ」
 怜子の目の前に居た細い影の女性は、顔の小ささに不釣り合いな大きめの瞳を更に大きくして怜子を見ると、少しだけ頷いてから踏み台から降りた。
 その踏み台の上に上り、先程まで女性が腕を伸ばしていた場所に腕を伸ばす。
「もう少し左。そう、それ」
 女性の指示通りに書架から抜き出した本は、布表紙に英字が箔押しされていた。洋書だ。難しそう。手にした本の重さからそれだけを感じる。こんな難しい本を読むのか。踏み台から降り、手にした本を渡しながら、怜子は目の前の女性をまじまじと見つめた。自分と同じくらいの年齢に見えるのに。
「ありがとう」
 女性の声が耳に入り、慌てて不躾な視線を女性から外す。怜子の観察を全く気にしない感じでにこりと笑う女性に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。
 その女性が怜子から離れていく前に、書架の方へと目を向ける。書架には、似たようなタイトルの難しそうな本が並んでいる。どの本が良いのだろう? 判別がつかず、怜子は正直途方にくれた。
 と。
「線形代数なら、この本が一番理論がしっかりしてるわね」
 怜子から離れたと思っていた細い腕が、書架から取り出した本を怜子に示す。
「計算はこっちで勉強して」
 戸惑いながら、差し出された本を受け取ると、今度はもう少し薄い本が怜子の目の前に現れた。
雨宮あめみや先生の授業でしょ。大学の授業は高校みたいに手取り足取りってわけじゃないし、雨宮先生説明下手だから大変でしょ」
 その本も受け取った怜子に、女性はにこりと笑った。
「一年生だったら解析の本も要るわね」
 そして怜子の目的を知っているかのように、女性は書架を少し歩き、もう一冊本を取り出して怜子が抱えている二冊の本の上に置く。
「解析学の教科書はちゃんとしたやつだから、計算練習の本だけで良いでしょう」
 本当に、線形代数の教科書は誰が選んだのかしら。心底呆れていると怜子でも分かる声が、小さく響く。もう少しまともな本を選べなかったのかしら? そう言いながら、小柄な女性はくるりとその細い身体の向きを変え、今度は怜子の背後になっていた書架から細い人間が複数描かれた本を取り出し、怜子が抱える本の上に乗せた。
「解析と代数と幾何、この三つはしっかりやっておかないと、数学は理解できないわ」
 『平面人の物語』。本に書かれた題名を何とか読み取る。どうやら幾何の、初学者用の物語仕立ての学習書であるらしい。それだけは、怜子でも何とか理解できた。
「意外と理解するのが難しいのよね。二次元も三次元も」
 戸惑ったままの怜子の耳に、理解できない女性の言葉が響く。それでも、渡された本を読んでみようと思うのは、本を選んでくれた女性の知性と的確さを感じたから。四冊でこの重さなら、一度に持って帰ることも可能だ。司書の方に言って手続きをしてもらおう。怜子は女性に御礼を言おうと口を開いた。だが。
〈……あ〉
 真っ直ぐだったはずの書架が、直角に折れ曲がる。小柄な女性の後ろに見えた幽霊の青白い顔に、怜子は唇をわななかせた。
「どうしたの?」
 心配する響きが、耳に入る。とにかく、ここを立ち去りたい。ありったけの気力を集めるや否や、怜子は目の前の女性に頭を下げることなくくるりと踵を返した。

 その夜。
「……あ」
 下宿先である父方の叔母の家で夕食の下拵えをしている最中に、理工科学部にあるロッカーに解析学の教科書を忘れてきたことを思い出す。
「どう、しよう」
 明日は金曜日、帝華大学の本部キャンパスで語学と教養の授業がある日だ。金曜日だから、授業は午前中で終わる。怜子の下宿から理工科学部の建物までは歩いて二十分も掛からないのだから、明日の帰りに取ってくれば良い。だが、明日になったら、そのことを忘れてしまうかもしれない。その不安が、怜子の心をわななかせた。理工科学部の建物で見てしまう、怜子の他には誰にも見えない『歪み』と『幽霊』の存在も、怜子を動揺させるに十分だった。しかしながら。教科書を取りに行けないまま、土日に勉強ができなかったら。もう一つの不安が、脳裏を過ぎる。月曜日の午後にある解析学の講義と演習の授業についていくことができなくなるかもしれない。演習で当てられて、たくさんの学生の前で問題が解けなかったら、点数を引かれた上に恥ずかしい思いをするのは怜子自身。それは、嫌だ。だから。……『歪み』も『幽霊』も、我慢するしかない。あの家に囚われずに独り立ちするには、それしか。
 叔母に断りを言って、夜の道を走るように歩く。丘の中腹にある叔母の家から、本部キャンパスに行くときに使う路線の線路を越え、まだ賑わっているように見えるビル街を歩けば、理工科学部の建物はすぐに目の前に現れた。
 入学式後のガイダンスで説明された通りに、握りしめていた学生証を玄関横の機械に通し、玄関ドアを開ける。学生用ロッカーは、事務室と同じ三階にある。三階までを繋いでいる自動運転のエスカレーターが、不意の人間の訪れに静かに動く音にひやりとしながらも、怜子は何とか自分にあてがわれたロッカーから解析学の教科書を取り出した。
 と。
「……見つからないなぁ」
 誰も居ないと思っていた大学構内に響く、聞いたことのある声に、はっとしてロッカーの影に身を隠す。頭だけを動かして暗闇を見透かすと、見覚えのあるフードが揺れているのが、怜子の視界に入った。
「だから何故夕方大学に居なかったのよ、ユータ」
 ギターを抱えた青年の後ろに、見たことのある小柄で細身の影が見える。
「夕方なら、図書室で見つかってたかもしれないのに」
「ギターの練習してたんだよ」
 なじるような高い声に、青年が面倒そうに手を振っているのが見えた。
「まあまあ、二人とも」
 その二つの影の間に、かなりの大きさの影が割って入る。あの肩幅の広さは。怜子の脳裏はすぐに思い当たる人物を引き出した。確か解析学の演習の時に、演習問題の解き方について様々なアドバイスをしてくれる、平林ひらばやしという名前の大学院生。
「今ここで喧嘩をしても仕方無いだろう」
「そうね、時間の無駄だわ」
 辛辣な声に、背筋が震える。逃げようとした怜子は、しかし、その三人の側に現れた背の高い人物にはっと目を見張った。ブラインドの降りた窓から入る、微かな光に、金色の髪が光っている。あれは確か、線形代数を教えている雨宮准教授! 特徴的な髪と瞳の色をしているから、怜子ですら、入学してすぐに顔と名前を覚えた先生だ。
「結局見つからなかったか」
 微かに揺れる金色の髪に、目が離せない。
「昼は大講義室、夕方は図書室。しかし今はどちらにも居ない」
「ユータのギターの音だけじゃ、埒があかないわね」
「しかしそれだけしか、今の我々には手掛かりは無いのですよ」
 相変わらず辛辣な口調の小柄な影を、平林という名の大学院生が制している声が、暗闇に響いている。
「平林の手刀でこじ開けるわけにもいかないしなぁ」
「止めてください、雨宮先生。大学が歪みだらけになっても良いのですか?」
「どうせ誰にも見えてないだろう」
 平林という名の大学院生が雨宮先生の言葉を制する声も。
 彼らが言っていることの一欠片も、怜子には理解できない。ただ、恐ろしさだけは、確かに感じる。だから。怜子は気力を振り絞ると、音を立てないように彼らから離れた。

 その、次の、月曜日。
 恐る恐る大学に足を運んだ怜子の心に拘わらず、大学生活はいつも通り、滞りなく進んだ。二限目の基礎化学の授業も、三限目の解析学の授業も、先週と同じスピードで進む。ただ一つ、違ったのは、先週木曜日にあの長い髪の女性に選んでもらった解析学の演習本の問題を日曜日に解いてみたことが良かったのか、授業が少しだけ理解できるようになっていたこと。これなら、大丈夫だ。大学生活が始まって初めて、怜子はほっと胸を撫で下ろした。努力をすれば、怜子の力でも難解な授業についていくことができる。その認識が、怜子自身の力になっていた。
 講義に続いて始まった解析学の演習で、難しそうな証明問題を黒板で解くよう、演習担当の助教の先生から指名される。この問題は。渡されたプリントを見て、怜子はほっと息を吐いた。図書室であの繊細な腕の女性が選んでくれた本の中に似たような問題が有った。解ける。怜子は震える手でチョークを掴むと、書く文字がガタガタに見えることを気にしつつ解答を黒板に書ききった。
「ほう。合ってる」
 助教の先生が漏らした、驚愕の声に、もう一度ほっと息を吐く。恥をかかずに済んだ。自分の席に戻りながら、怜子は胸を撫で下ろした。
 歪みも、幽霊も、今日は視界に映らない。歪みも幽霊も幻だったんだ。心の中で、怜子はこくんと頷いた。
 だが。自分の席に座る直前、机の上に置いた怜子の手に、半透明の手が重なる。見上げなくとも、目の前に件の幽霊が居ることが、気配だけで怜子には分かった。
 叫べない。身体も、動かない。難しい問題を解いたときに感じていた高揚感は、怜子の身体からすっかり無くなっていた。

 はっと、目蓋を上げる。
「大丈夫か?」
 視界に入ってきたのは、白い天井と、ギターケースを左肩に担いだ青年の心配に曇った瞳。
「ここは、保健室」
 頭が未だぼうっとしている怜子の耳に、爽やかな声が響く。
「ここまで運んだのは俺じゃなくって平林さんだけど」
「気が付いたみたいですね」
 その青年の横から、大きな影が現れる。解析の演習を手伝う大学院生、平林さんだ。そこまで認識した怜子は、次の瞬間がばりと跳ね起きた。演習は? 途中退席はペナルティになるのではなかったか?
「え、ちょっと。……なんで泣くの?」
 青年の声で、頬に涙が流れているのに気付く。
「今日の演習は出席扱いになってますから、大丈夫ですよ」
 平林の、気遣いに満ちた声でやっと、怜子は息を吐くことができた。
「全く」
 その怜子の耳に、横柄な声が入ってくる。
「もう少し女の子の扱いに慣れろよ、ユータ」
 顔を上げると、金色の髪が目に入った。雨宮先生! 何故、ここに?
「兄貴には言われたくないね」
 ユータと呼ばれた青年の毒突きを総無視した風で、雨宮准教授は戸惑う怜子の横の椅子に腰を下ろす。
「やっと見つけた」
 そして雨宮先生は、怜子をその緑色の瞳でじっと見つめてにこりと笑った。
「大丈夫よ」
 その瞳の色よりも、雨宮先生の言葉に面食らったままの怜子の耳に、高く優しい声が響く。怜子の視界に次に入ってきたのは、図書室で本を選んでくれた細身の少女だった。
「私達が全部解決してあげる」
「君の協力が必要だがな」
 少女の言葉を継いだ雨宮准教授が、膝の上に置かれたままの怜子の手を掴む。何が何だか分からないまま、雰囲気に呑まれた怜子はこくりと頷くほか、無かった。

「この建物の特殊性に、君はもう気付いているね」
 保健室から、十四階にある雨宮准教授の研究室に誘われた怜子に、准教授の少し勿体を付けたような声が響く。
「早く説明してやれよ、兄貴」
 その雨宮先生に茶々を入れたユータという名の青年に、雨宮先生ははっきりと分かる渋面を作った。
「うるさい」
 そして少しだけ考える顔をしてから、雨宮先生はこの帝華大学理工科学部の建物の秘密を簡潔に話した。
 雨宮准教授の指導教官であった帝華大学教授、橘真たちばなまことは、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を応用して作られたのが、この、帝華大学理工科学部の十四階建ての建物。歪みを利用して建てられているから、講義室も実験室も研究室も、学生に必要な空間すらも、余裕を持って詰め込むことができた。だが。
「橘教授の理論は、完璧であったはずなんだ」
 誰も咳一つしない空間に、雨宮先生の声だけが響く。
「しかし、何故か時折空間が歪んでしまう」
「それが、この建物の唯一の弱点」
 普通の人には認知できない歪みのある空間は、ほんの時折、歪みの近くにたまたまいた人間を飲み込んで行方不明にしてしまう。雨宮先生の言葉を、怜子の横の椅子に座っていた少女が引き継いだ。
「その『歪み』を見つけて、その歪みを正すことが、私達の役割」
 ギターが奏でる音を用い、『歪み』と『歪み』に囚われた人々を音の違いで見つけ出すことが、怜子のもう一方の横に座っている、雨宮先生の弟でもある二年生、雨宮勇太ゆうたの役割。研究室のドアの横で腕組みをしている大柄な大学院生、平林勁次郎けいじろうの役割は、その太い腕が繰り出す手刀で人為的に歪みを生じさせ、歪みに囚われた人々を助け出すこと。そして歪みを解析し、歪みを計算によって元に戻すことが、この研究室の主である雨宮秀一しゅういちと、怜子の横に座っている三年生、三森みもり香花きょうかの役割。そして。
「我々は、探してたんだ。『歪み』を視ることができる人間を」
 そう言って、雨宮先生がその緑色の瞳で改めて怜子を見る。雨宮先生の遠慮の無い視線に、怜子は背中が小刻みに震えるのを感じた。この人達は、私を、取るに足らないと言われ続けてきた自分を必要としている。自分が、役に立つ。それが、……嬉しい。だから。
「あ、の」
 震える唇で、声を紡ぐ。
「私に、できることなら、手伝います」
 怜子の言葉に、部屋の四人が安堵の息を吐くのが、怜子には嬉しく感じられた。

 雨宮先生を先頭に、解析学の演習の授業で使った中講義室に行く。『歪み』に囚われた人間は、移動することもあれば移動しないこともある。たとえ移動していたとしても、まだ時間はそれほど経ってはいないから、怜子が最近目撃した場所の近くに居るはずだ。雨宮先生の言葉に、怜子は中講義室を隅から隅まで眺めた。しかし、演習の時に見えた歪みは、今は見えない。夕方の光で赤く染まった部屋が見えるだけだ。勿論、幽霊も。
「見えるか?」
 急いた雨宮先生の言葉に、力無く首を横に振る。やはり、私は役に立たない。怜子は肩を落とした。次の瞬間。
「え?」
 腕を後ろに引かれる感覚に、はっと振り向く。歪んだ視界に、青白い顔をした女性の姿がはっきりと映っていた。勇太さんも、香花さんも、勁次郎さんも、雨宮先生も、どこにも居ない。何処かぼんやりとした空間に、怜子は幽霊と二人っきりで、居た。
「助けて」
 消え入りそうに微かな声が、怜子の耳に響く。
「授業に出ないと、また単位を落として留年してしまう」
 目の前の女性の、真っ黒な瞳から零れ落ちた涙に、心を鷲掴みにされる。この人は。……私と同じだ。同情に似た気持ちで、怜子は左腕を掴んでいる女性の手を優しく振り解き、その冷たく細い手を右手で優しく握った。その時。
木根原きねはら!」
 怜子の名字を呼ぶ勇太の声と共に、空間が鋭く切り裂かれる。伸びてきた勇太の、温かい手を、怜子は空いている方の手でしっかりと握った。次の瞬間、景色が急にはっきりとする。
「大丈夫かっ!」
 いきなり目の前に再び現れた、青ざめた勇太の顔に、怜子はようやく頷いた。そして掴んだままの手の方を見る。
「危ない」
 怜子の方に倒れ込んだ女性を抱き起こす勁次郎の太い腕に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。歪みに囚われた女性も、無事だった。
「とりあえず、保健室ですね」
 気を失った女性を楽々と抱え上げた勁次郎が、怜子に小さく手を振ってから階段の方へと向かうのが見える。
 次に気が付いた時には、あの女性は『歪み』に囚われていたことをすっかり忘れているだろう。背後から聞こえてきた雨宮先生の言葉に、怜子は心配になって雨宮先生の方を振り向いた。
「あの人、単位のこと心配してた」
「ああ、それは何とかするさ」
 そう言ってにこりと笑った雨宮先生に安堵を感じ、怜子もにこりと笑う。
「それが雨宮先生の仕事だもんね」
 そして、あくまで辛辣な香花の台詞に、怜子は何とか爆笑を堪えた。そして。
「良かった」
 怜子が急に消えたから、吃驚した。そう言って、勇太が微笑むのが、見える。掴まれたままの勇太の手を振り解くことが、何故か勿体無く感じ、怜子はしばらく黙って俯いて、いた。

 そして、次の木曜日。
「あの、勇太さん!」
 基礎生物の授業が終わり、我先にと講義室を出て行く学生達に紛れそうなフードに、怜子は思いきって声を掛けた。
「何?」
 怜子の呼び止めに屈託なく笑い、怜子が座っている場所までやってきた勇太に、鞄から取り出したランチボックスを差し出す。
「これ。少しだけ。腹の足しにはなると思うから」
 ランチボックスの中身は、今朝自分のお弁当と一緒に作った、胡瓜と卵焼きとかにかまぼこを入れて巻いた巻き寿司。黄色と緑と赤が鮮やかな、怜子が得意とする料理の一つ。勿論、幽霊と歪みのことを最初に解決してくれた勇太への、御礼のつもり。
「美味そう」
 無造作にランチボックスを開けた勇太は、中身を見て感嘆の声を上げ、そして一つ食べてまた感嘆の声を上げた。
「美味い」
 勇太が拒否したら怜子が全部食べようと思っていた巻き寿司は、あっという間に勇太の口の中に全て消える。
「これ、兄貴の研究室に持ってったらあいつら絶対喜ぶぜ。あ、三森は肉とか魚とか食わないからあいつだけカッパ巻きな」
 口を動かしながら爽やかに笑う勇太を、怜子は自分の空腹も忘れ、嬉しく見守っていた。

眼鏡を作る

 車窓の景色が、灰色から緑色に変わる。ビルばかりの沙漠だと揶揄されることが多い都下にも、緑豊かな、静寂に満ちた田舎みたいな場所が有る。そのことに、怜子さとこは正直に驚いていた。
「どう見ても都下だとは思えないだろ、ここら辺」
 右耳に響く、一学年上の男性、雨宮あめみや勇太ゆうたのからっとした言葉に、無意識に頷く。その、怜子自身の行動に気付くや否や、身体が熱くなったように感じ、怜子は目を伏せた。
「もうそろそろ、だな」
 その怜子の耳に、大学院生である平林勁次郎ひらばやしけいじろうの落ち着いた声が入ってくる。
 大学の先輩である勇太と平林さんに連れられるまま、怜子は少し古ぼけた感のある電車に揺られていた。行き先は、聞かされていない。「保険証を持ってきて」。昨日そう、告げられただけ。それでも、この春に知り合ったばかりでも、勇太さんにも平林さんにも、怜子は信頼感を確かに持っていた。ここに居ない、『歪みを識る者達』である香花きょうかさんにも、そして勇太さんの兄である雨宮先生にも。だから。顔を上げることによって見えた、ロングシートの向こうに見える緑色多めの景色に、怜子はふっと息を吐いた。
「ここだ」
 見失いようがない平林さんの大きな背に続いて、電車を降りる。まだ慣れないICカードの改札に戸惑いつつも降り立った駅は、怜子が高校時代に通っていた田舎の中心として機能していた町よりもこぢんまりとしているように、見えた。バスロータリーの向こうに見えるのは、二,三の低層ビル。そしてその向こうには、どう見ても畑としか思えない赤茶色の土地が、ぽつんぽつんと建つ家々の間に広がっている。これが本当に、都下の町なのだろうか? 怜子は思わず目を瞬かせた。
「少し歩くけど、大丈夫か?」
 その怜子の耳に、勇太の声が響く。怜子がこくんと頷く前に、勇太が車一つないロータリーをまっすぐ進むのが見えた。勇太のその行動に、平林さんが息を吐く。それでも言葉無く、ロータリーをぐるりと回る歩道を歩き始めた平林さんに、怜子も無言のまま歩を進めた。
 しばらく無言のまま、三人で、駅から伸びる一本道を歩く。家々の間に広がる、整然とした畑では、春馬鈴薯や牛蒡を収穫する人々や、伸び始めている夏野菜の緑色が盛んに目に飛び込んでくる。都下でも、野菜は近郊で栽培した物が売られているという。中学や高校の社会で習ったことを、怜子は静かに思い出していた。
 と。
「やっと着いた」
 歩いて暑くなったのかフード付きパーカーの襟をばたつかせながらの勇太の言葉に、はっと顔を上げる。『医院』と書かれた看板が翻る日本家屋が、怜子の目の前に有った。ここが、目的地、なのだろう。無意識に、こくんと頷く。しかしこの日本家屋の中が医院? 設備などはどうしているのだろう? 思わず首を傾げてしまう。
「やっと来たね」
 不意に、白衣を着た大柄な影に目の前を塞がれる。
「雨宮君から電話もらって待ってたんだよ。この子が新しい子? 可愛いじゃない」
 肩幅の広い、怜子の母よりもかなり年上の女性。それだけは、何とか分かる。その女性に促されるままに、怜子は一人、日本家屋の横にある蔵のような建物の中へと入っていった。
「ここが私の医院。眼科が専門だけど大抵の病気だったら何でも診るよ。都下なのにここで医者になりたいって奴は居ないからね」
 どう見ても近代設備にしか見えない機械類の真ん中で、胸を張った女性が両手を広げて大きく笑う。
「雨宮君から聞いてるよ。あんた、あの建物の歪みが見えるんだって?」
 単刀直入な女性の言葉に、怜子はこくんと頷いた。
「日常用に、歪みが見えなくなる眼鏡を誂えて欲しいって雨宮君は言ってたけど、眼鏡を作るんだったら視力を測らないと」
 怜子に機械の前に座るよう促しながら、女性は次々と色々な話をする。その中で、怜子がかろうじて分かったことは、この家は、雨宮先生の恩師であり、帝華ていか大学理工科学部の建物の、空間を歪ませて容積を広くする理論を打ち立てたたちばな教授の実家であることと、女性が橘教授の実の娘であること。
「うん、近視が少しに、乱視もあるね」
 話が一段落する前に、検査が終わる。更に喋りながら書いたメモを、女性は怜子の手の上に乗せた。
「これを、向こうの家のじいさんに渡せば、ぴったりの眼鏡を作ってくれるよ」
 怜子を見つめ、にっこりと微笑む女性に、ぎこちなく頭を下げる。そしてそのまま、怜子は小走りで、日本家屋の方へと向かった。
「あ、終わったんだ」
 日本家屋の縁側で日向ぼっこをしている勇太が、怜子に向かって手を振るのが見える。勇太を見てやっと、怜子の緊張は解けた。
「入り口は向こう」
 その勇太の指示通り、横の入り口から日本家屋へ入る。暗い土間の向こうに見えた光景に、怜子はぎょっとして足を止めた。土間の壁一面に飾られていたのは、様々な色と形をした眼鏡。そして土間の奥の、眼鏡の入ったショーケースらしきものに囲まれた空間には、白髪の男性が一人、何処か虚空を見つめて座っていた。
「この人が眼鏡を作ってくれる人」
 驚きで動けない怜子の耳に、勇太の明るい声が入ってくる。土間の方に現れた勇太に促されるままおずおずと、女性に渡されたメモを、橘教授の弟であると女性が言っていた白髪の男性に渡すと、白髪の男性は近くの机に置かれていた電気スタンドのスイッチを入れ、近くの戸棚から工具やレンズを取り出し始めた。
「フレームは、どれが良い?」
 あくまで明るい勇太の声にほっと胸を撫で下ろしながら、目立たない黒の細縁のフレームを選ぶ。
「もう少し可愛い物の方が良いんじゃないかい?」
 太い声に振り向くと、先程の女性が、入り口近くで笑っていた。
木根原きねはらの眼鏡だから、木根原の好きなもので良いと思うけど」
 あくまで明るい勇太の声に、息を吐く。白髪の男性に選んだフレームを渡すと、怜子は勇太と一緒に座敷に上がった。
「すぐ出来るからね」
 その怜子の前に、女性がお茶と煎餅を出してくれる。
 そういえば、平林さんは何処だろう? くるりと辺りを見回した怜子は、仏壇の上にあった写真に目を留めた。怜子の眼鏡を作ってくれている男性と同じ顔をしている、上品そうな男性。おそらく、この写真の人物が橘教授なのだろう。
「薪割り終わりました」
 その怜子の背後で、平林さんの声が響く。
「助かったよ」
 好い加減、風呂も近代化したいんだけどねぇ。女性の言葉に、この場所が都下であることを、怜子は少しだけ忘れた。

 白髪の男性が作ってくれた眼鏡を掛けて、帰りの電車に乗り込む。怜子の顔にだけ合うように作られた眼鏡は、少し混雑した電車が多少揺れても、電車に立って乗ることにあまり慣れていない怜子が近くの人にぶつかっても、そう簡単には顔の定位置からずれない。そのことに、怜子は正直驚きを隠せなかった。
「良い眼鏡だろ?」
 その怜子に、横に立った勇太が囁く。
「御礼は巻き寿司で宜しく」
 続いて響いた勇太の言葉に、笑い声が出ると同時に、心がほっと息を吐くのが、分かった。
 この眼鏡があれば、大学に通い始めた頃のように『歪み』に戸惑うことは、おそらく無くなる。大学にきちんと通い、独り立ちする為の資格を期限までに得ることができる。怜子はもう一度大きく、安堵の息を、吐いた。

こころなきもの

 普段は学生達が使っている、研究室のテーブルの上に山積みになった紙束に、はっと息を吐いてから腕まくりをする。
 さすが、初年次生全員必修の授業、昨日文句を吐き散らしながら採点した試験答案の量も歯ごたえがあったが、レポートの量も半端無い。しかも、普段は手伝いに駆り出している、『歪みを識る者達』の一人である院生の平林ひらばやしは、家庭の都合で実家に戻っている。数理工学科の初年次を指導する役は学科内で順番に回ってくる逃れられない役割とはいえ、一人で、この線形代数のレポートを全て採点しなければならないとは。しかも、期限は明日の土曜。帝華ていか大学は四学期制を採用している。おおよそ四、五月が第一期で、本部キャンパスで学園祭が行われる六月初めの週末を挟んで六月第二週からはもう第二期が始まる。それまでに成績を入力しなければ事務方に怒られる。だから、秀一しゅういちはテーブルの上の赤ペンを一つ引っ掴むなり、椅子に腰を下ろし紙束を一つ手に取った。
 と。研究室に鳴り響いた電話音に、興を削がれて舌打ちする。せっかく集中したのに、何の用だ? しかし内線だから無視するわけにはいかない。
「もしもし」
 赤ペンを放り出し、受話器を握る。
「雨宮先生」
 秀一と同じく数理工学科の初年次の指導教官を任され、初年次の解析学の授業を行っている水沢みずさわ教授の声が歪んで聞こえ、秀一ははっと心を引き締めた。何か、有った。
木根原きねはらさんの指導教官は、雨宮先生の方でしたな」
 唇を噛んだ秀一の耳に、まだ若いはずの水沢教授の声がひび割れて響く。
「解析学のレポートが、見当たらないのだが」
 まさか。水沢教授の言葉に、耳を疑う。今は線形代数のレポートが山積みになっている、あのテーブルで、木根原が、二年生である弟の勇太ゆうたや三年生である三森みもりと共にレポート作成に勤しんでいたのは、今から丁度一週間前のこと。そして、三森と一緒に数理工学科の事務室に設置されているレポートボックスに作成したレポートを投入していた木根原をも、丁度事務室に手紙を取りに行っていた秀一は見ている。あの時確かに、木根原は解析学と線形代数のレポートをレポートボックスにきちんと投入していた。
「ちょっと待ってください」
 受話器を置いて、テーブルに戻る。レポートの山を何度ひっくり返しても、木根原が提出したはずのレポートは見つからなかった。これは。思考が、ある結論に達する。
「一日だけ猶予をください」
 再び受話器を握り、秀一は電話越しに頭を下げた。
「分かっている」
 聞こえてきた、水沢教授の声も、怒りに満ちている。
「今度の教授会で、取り上げよう」
 レポートは、提出しさえすれば正規の点数を付ける。水沢教授の言葉に、秀一はほっと胸を撫で下ろした。

「……良かったよ。バカ弟と一緒に居て」
 研究室に現れた学生三人――木根原、三森、勇太――を見て、余裕を滲ませた軽口を何とか叩く。
 木根原は、携帯電話を持っていない。水沢教授と折半して指導教官となっている一年生の中に木根原が入っていたので、木根原の下宿先の電話番号を調べることはできたのだが、タイミングが悪かったのか電話をしても誰も出なかった。だから、今日中に木根原を捕まえるのは時間が掛かると最初は秀一も諦めていたのだが、本部キャンパスの学園祭に行くと言っていた弟の勇太の携帯電話にダメ元で電話をすると、木根原や三森と一緒に学園祭を見学しているというではないか。自身の幸運さに、秀一は今度ははっきりと、口の端を上げた。それはともかく。
「レポート、出てないなんて」
 事情を聞いた木根原のすっかり落ち込んだ肩を、勇太が叩くのが見える。
「大丈夫さ、兄貴も水沢先生も待ってくれるって言ってるから」
「今からやり直せばすぐ終わるわ」
 その横で、秀一をきつい視線で睨んだ三森が冷静にレポート用紙と教科書を準備する。その様子に、秀一はほっと胸を撫で下ろした。成績優秀な三森も、自分のレポートを目の前で盗まれたことがあるらしい。学科事務室設置のレポートボックスには鍵が付いていない。提出されたレポートを誰かが勝手に持ち出しても誰にも分かりはしないのだ。しかし、おそらく写した後で自身のレポートと一緒に再提出しておくくらいの分別は皆持ち合わせているのであろう、三森のレポートが未提出だという報告は、幸いにして耳にしたことが無い。それが今回は、盗まれた木根原のレポートは戻されていない。おそらく、写した後で捨てたのだろう。その理由をも、秀一は推測できていた。
 第一期期末試験の第一日目、月曜日の解析学の試験中に、木根原の解答済みの答案が隣の学生に奪われそうになる事件が起こった。出来の良い人の答案を写すカンニングは、混雑した大人数での講義ならば必ずと言って良いほど発生する。そのことは、帝華大学で学んだ秀一も噂として知っていた。しかし大抵は、カンニングする者とさせる者との間で事前に了解を得ておくものだ。しかしあの試験では、その余裕が無かったのか、あるいは、大人しい木根原だったら抵抗無く答案を奪うことができると思っていたのだろうか。そこまで考えて、秀一は心の中で舌打ちをした。勉強する気が無い、頭を使って根回しすらやらない奴など、大学に居る資格は無い。それはともかく。突然のことに驚いた木根原が抵抗したので、カンニング行為はすぐさま監督員に見つかった。結果として、木根原の答案を奪おうとした学生は除籍処分、木根原自身は答案を半分に破られたので試験時間を延長して答案を書き直す羽目になったのだが、それだけでは、おそらく奪った答案を回してもらい、楽をして単位を取ろうとしていた学生達の気が収まらなかったらしい。秀一が担当するもう一つの初年次必修、線形代数の試験は用心に用心を重ね、本来の授業補助院生ではない勁次郎まで駆り出して不正防止に努めた、というのも、彼らにとっては不利益以外の何事でもなかっただろう。木根原のレポートが無くなってしまったのは、おそらく、その結果。
 肩を落としながら、それでも何とか筆記具を動かしている木根原の小さな背中を、もう一度、静かに見つめる。木根原は、この事件で、大学や世間にある理不尽さを学んだ。秀一が学んだことは、三森の時にレポートボックスに鍵を付けるよう強く要請しなかったことで生じた、面倒さと、済まなさ。では木根原にこのような仕打ちをした奴らが学ぶことは? テーブルから自分の机に移動させたレポートの束を、秀一は一つずつ丁寧にチェックした。公正さを期す為に、木根原や勇太が作成したレポートにツッコミは入れていない。だが、この部屋で作成されたレポートなのだから、二人がどのように解いたのかは知っている。木根原のレポートと同じ解き方をし、同じ間違いをしている丸写しのレポートを見つける度に、秀一はそのレポートを床に放り投げた。勉強する気が無い奴らに、単位を与えるつもりは無い。因果応報、それが、彼らが学ぶ内容だ。誰にも聞こえないように、秀一は静かに、笑った。

隠れた感情

 これが最後の一つだというのに、デスクトップ型パソコンの筐体の蓋が最後の最後で閉まらない。指に痛みを感じながら、それでも強引に金属板を叩くと、少し歪んだ蓋はそれでも何とか元の場所に収まった。
「これで、全部動くはずですよ」
 いたずらで筐体を開ける人間対策として螺子でしっかりと蓋を留める香花きょうかの耳に、落ち着いた声が響く。香花がお世話になっている小さな修理工房の社長、矢代やしろの声だ。蓋を閉める際に切ったのだろう、血の滲む指に溜息をつくと、香花は着ているつなぎの端で指を拭った。精密機械に水気は禁物。
「サーバの方は異常ありませんでしたから、おそらく端末の扱い方の問題でしょうね」
 扱いが雑なのだ。大学の事務方に説明する矢代の言葉に、誰にも聞こえないように小さく舌打ちする。帝華ていか大学理工科学部の四階にある情報端末室は、帝華大学に所属する者ならば誰でも出入りでき、そこにあるデスクトップ型パソコンを自由に使うことができる。それを知っているのか知らないのか、勝手に持ち込んだ大学のトイレットペーパーをマウスに巻いて使用する者も居れば、『飲食禁止』の掲示を無視して飲み食いしながらネットサーフィンで怪しい頁を閲覧する者も居る。ゴミの放置は日常茶飯事。こんな扱いでは、情報端末が故障しない方が奇跡だ。いっそのこと、学生に自前のパソコンの持ち込みを許して、情報端末室など無くしてしまえば講義スペースがもう一つ増え、学生の自習に役立つのに。教員側も、一部屋しかない『パソコンが使える部屋』を授業の為に争奪せずに済む。尊敬する人物の一人である雨宮あめみや准教授のぼやきが聞こえてきたような気がして、香花は少しだけ口の端を上げた。一斉授業をスムーズに行う為には、条件が全て同じ情報端末が揃っている場所が必要であるとも、雨宮先生はぼやいていたが。それはともかく。情報端末室が正常に戻ったと、知らせなければならない人が一人居る。香花は事務員の隣に居る矢代に会釈すると、情報端末室の扉に手を掛けた。
「雨宮先生のところに行くんなら、着替えた方が良いぞ」
 その香花の背中に、矢代の声が響く。
「そのつなぎじゃ、大学生だと分からない」
 別に何を着ていても良いじゃない。言いかけた言葉を飲み込む。矢代も、香花がこの街でお世話になっている舞子まいこさんもあきらさんも、香花が服装に頓着しないことをしばしば嘆く。それに香花が反論しないのは、三人とも、香花のことを心配して服装のことを言うのだということを、理解しているから。だが。少しぶかぶかの、紺色のつなぎを眺めて息を吐く。大学の裏手に停めてある修理工房のライトバンの中には一応、つなぎに着替える前に着ていた、舞子さんが見立ててくれた大学通学用のブラウスとスカートが置いてあるが、今着ているつなぎは特に汚れた風にはみえない。どうせ矢代の車に乗って帰るのだから着替える必要は無い。そう考えた香花はもう一度矢代に会釈すると、つなぎのまま、十四階、数理工学科のフロアにある雨宮准教授の研究室へと向かった。

 予想通り、放課後の雨宮准教授の研究室には、雨宮先生の他に三人の学生が、入り口近くのテーブルに陣取って待機していた。おそらく勉強していたのであろう、自習用のテーブルの上には本やノートが散乱している。だが、そのノートがほぼ真っ白なのも、予想通り。
「直ったわ」
 挨拶抜きに、真っ白なノートを見つめて俯いている短髪の少女、怜子さとこが掛けているすっきりとした眼鏡に声を掛ける。
「ほ、本当ですか?」
 香花の声に驚きの声を上げた怜子を、香花は好ましく感じていた。香花が飛び級で帝華大学に入学している為、二学年離れている怜子と香花だが、実際は二ヶ月しか年が離れていない。それでも、怜子を妹のように感じてしまうのは、やはり自分の学年の方が上だからだろう。香花はそう、理解していた。
「ほら、三森が居るから大丈夫だって言ったろ」
 その怜子の肩を、雨宮先生の弟であり、数理工学科所属ではないにも拘わらずこの研究室に入り浸っている勇太ゆうたが叩く。馴れ馴れしい。勇太を強く睨むと、勇太は香花にだけ分かるように肩を竦めた。
「しかしよく復旧しましたね」
 その勇太の声の後から、静かな声が耳に響く。
「ま、私に掛かれば」
 大学院生である勁次郎けいじろうの言葉に、香花はゆったりと笑った。
「だろうな」
 その後から響いてきたのは、自分のデスクトップパソコンで書類と格闘する後ろ姿しか見えない雨宮先生の声。
 情報端末室で行われている、初年次必須の情報の授業中に端末の殆どが動かなくなったと、大学のコンピュータ修理を請け負っている矢代経由で香花に連絡が有ったのが今日の昼頃。端末の問題だけだったとはいえ、半日情報端末室を閉鎖するだけで済んだのだから早い方だろう。香花はもう一度、にこりと笑った。
 そして。もう一度、怜子の方を見る。情報の授業の指導補助に入っている勁次郎の話によると、今日の端末の故障も、怜子が操作していたパソコンが最初に動かなくなったところから連鎖して起こった、らしい。先週も、先々週も、怜子は情報端末室のパソコンを一回以上ブルースクリーンにしている。壊れない方が奇跡の端末とはいえ、頻繁に壊しすぎる。それが、香花の正直な感想。しかし、香花が丁寧にメンテナンスを施し、かつ飲み食いしながら操作しないよう目を光らせている雨宮研究室のパソコン端末に関しては、怜子は壊したことはない。情報端末室のパソコンと、相性が悪い、ただそれだけなのだろう。怜子には見えないように、香花はふっと笑った。しかし情報端末室のパソコンが使えないのでは、怜子が困ることにならないだろうか。この研究室のノートパソコンは二台しかない。勇太と勁次郎が同時に使えば怜子は使えない。かといって、研究室設置の香花自身のデスクトップ端末は誰にも使わせたくはないし、准教授として機密書類も扱う可能性がある雨宮先生も自分のメイン筐体を他の人に使わせるわけにはいかないだろう。雨宮先生に、性能の良いノートパソコンを買う研究費の余分は、多分無い。と、すると。……この方法が良いだろう。
「よし」
 一人頷き、勇太を押しのけるように怜子の横の椅子に座る。
「怜子ちゃん用に、新しいノートパソコンを誂えてあげる。持ち歩けてさくさく動いて絶対壊れないやつ」
「え?」
 唐突だったのだろう、香花の言葉に、怜子の目は綺麗に丸くなった。
「で、でも、パソコンって、お金、が」
「あ、それは大丈夫」
 怜子と、香花が冗談を言ったと思っている瞳で見つめる男三人に、香花は今度は大きく、微笑んだ。

 次の土曜日。
 香花が棲んでいる電気街のど真ん中に有る駅まで、怜子を迎えに行く。駅前にぽつりと立ち止まったままの怜子は明らかに、電気街の賑やかすぎる雰囲気に戸惑っていた。
「あ、香花さん」
 香花を見て、明らかにほっとした声を上げた怜子に、口の端を上げる。目の前の怜子は大学に来るときと同じ服装で、駅から吐き出される人々とは明らかに異質にみえる。その異質さに、香花は好感を持っていた。それはともかく。
「こっち」
 手招きして、電気街の路地裏を進む。香花が居候をしている、矢代が経営する修理工房の拠点となる建物は、機械やら部品やら模型やらの店が並ぶ、ごみごみとした路地裏の一角に有る。その建物の二階に、香花は怜子を案内した。
「ここ」
 香花には慣れた、少し饐えた匂いが、鼻を突く。地下は工房、一階は受付と事務室、そして二階は休憩室になっているのだが、使い方が悪い所為か、はたまた香花を始めとする修理工房の面々が皆掃除嫌いだからか、ミニキッチンが付いている休憩室は常に雑然としていた。随所にゴミが散らばり、ミニキッチンの流しは何時食べたのか分からない食べ物のかすで埋まっている。
「ここの掃除と引き替え」
「は、はあ」
 香花の言葉に、怜子が戸惑いの声を上げる。やはり、当惑するよな。怜子の顔を横目で見て、香花は少しだけ諦めの笑みを浮かべた。ノートパソコンと引き替えに、汚い部屋の掃除なんて、香花だったら割に合わないと感じる。だが。
「や、やってみます」
 香花の方を見て、こくんと頷く怜子に、正直驚く。
「あ、ありがとう」
 月並みな言葉しか、出て来ない。それでも何とか、掃除道具が埋まっているであろう場所を、香花は怜子に教えた。と、その時。
「香花!」
 切羽詰まった矢代の声が、香花の耳を叩く。
「緊急で修理依頼だ。一緒に来てくれ!」
「分かったわ」
 とりあえず掃除宜しく。それだけ、怜子に声を掛けた次の瞬間、香花は階段を駆け下り、矢代のライトバンに乗り込んだ。

 午前中に生じた緊急の修理依頼が終わったのは、夏至近い陽がすっかり落ちてしまった頃。
〈疲れた〉
 修理道具満載のライトバンの後部座席に、作業着であるつなぎを着たままの小さな身体を押し込み、香花は何時に無い溜息をついた。
 流れる車窓の景色は、普段通り。暗闇に様々な色のネオンが昂然と光っている。いつ見ても、変わらない、都会の夜の景色。その、ある意味けばけばしい光景に、心が静まるのは、昔から見慣れている光景だからだろう。
 香花は、電気街で慎ましく暮らす両親の許に産まれ、七歳の時まで電気街で育った。両親が病気で相次いで亡くなった後、母方の親戚が暮らす田舎に連れて行かれたが、優しくしてくれた祖母以外に馴染むことができず、大所帯の家で常に扱き使われ、虐げられて大きくなった。義務教育であるはずの中学校も、寝たきりになった祖母の世話を押しつけられたが故に殆ど行くことができていない。それでも、親戚の目を盗んで独学し、大恩ある祖母が亡くなった後に僅かなお金を握りしめてこの電気街に舞い戻った理由は、どんな物でも直してしまう伝説の修理工として尊敬されていた父と同じことをしたかったから。幸い、父の友人であった矢代に拾ってもらい、仕事を手伝いながら矢代の知り合いの娘である舞子さんと、その友人であった亮さんと雨宮先生に勉強を見てもらうことができ、高校に行っていないにも拘わらず帝華大学に飛び級で入学することができた。人手が少ない矢代の修理工房を手伝うのも、雨宮先生が守ろうとしている帝華大学理工科学部の建物の『歪み』を直す仕事を手伝うのも、香花にとっては当たり前の行為。
 修理工房の看板が見えて、はっと夢想から覚める。そういえば、工房の受付に一人人員を置いているとはいえ、二階の休憩室に怜子を独りおいてきぼりにしていた。もう夜なのに、怜子が下宿先に帰っていなかったら、下宿先の人が心配する。矢代が運転する車が止まるや否や、香花はスライドドアを広く開け、工房の二階に向かって階段を駆け上がった。
 休憩室の扉を、大急ぎで大きく開く。何時に無い、暗いが涼しげな気配に、香花は落ち着かない気持ちになった。無意識に震える手で、扉横の電灯のスイッチを押す。明るくなった室内は、朝見たごちゃごちゃした光景とは打って変わっていた。床にも、部屋の何処にも、ゴミ一つ落ちていない。椅子もテーブルもミニキッチンも冷蔵庫も戸棚も、まるで光っているかのように見える。そして。テーブルの上に乗った小さな山に、香花は震えながら近付いた。山に被せてあった布巾を取ると、台所用透明ラップの下に、白いこんもりとした三角おにぎりの山が、見えた。
「炊飯器使いました。海苔は冷蔵庫の中にあります」
 怜子らしい、きちんとした文字のメモが、おにぎりの乗った皿の横にある。
 ラップを外し、一つだけ、おにぎりをかじってみる。何も具が入っていない塩味のおにぎりは、何故か、昔、父が適当に握ってくれたおにぎりと同じ味が、した。

夏の青

 ほんの僅かの間、目を閉じていただけなのに、もう辺りは暗くなっている。勇太ゆうたはふっと息を吐くと、寝転がっていた居間のソファから身を起こし、大きく伸びをした。節電を心掛けてタイマーをセットしていたクーラーが切れて部屋が暑くなってしまった所為か着ているくたくたのTシャツが汗でべとべとになっている。この暗さなら、もうそろそろ父も母も、天敵の兄も仕事から帰ってくる。今日は素麺にすると母は朝言っていたから、炊飯器をセットする必要は無い。しかしこの格好でソファに座っていると、おそらく兄が皮肉を言う。とりあえず着替えよう。そう思い、立ち上がった勇太の爪先に、先程まで読んでいた音波に関する本の、硬い表紙がこつんと当たった。
 勇太が通う大学が夏休みに入ってから、既に二週間が経過しようとしていた。勿論、勇太も勇太なりに夏休みを楽しんではいる。アルバイトに精を出したり、高校時代からの仲間と組んでいるバンドの練習をしたり、物理工学科の学生らしく必要な本を読んだり。共働きの両親を助けるために家事も少しやっている。それでも、何故か充実感を感じることができないのは、おそらく。
「暇そうだな」
 Tシャツを着替えて居間に戻った勇太の背中に、予想された声が響く。振り向くと、帰ってきたばかりの兄が勇太を見てにやりとした笑みを浮かべているのが、見えた。
「煩い」
 その兄のにやけた顔を、鋭く睨む。
「全く、学生は良いよなぁ」
 その勇太を総無視するように、兄、秀一しゅういちは先程まで勇太が昼寝をしていたソファにどっかと座ってテレビを点けた。
「俺も夏休み欲しい。涼しい部屋で本読んで計算したい」
 勇太にとっては天敵にも等しい、年が十六離れた兄は、勇太が通っている帝華ていか大学理工科学部の准教授をやっている。本もコンピュータも充実し、空調を全部自動管理している大学の研究室なら、兄の願いはすべて叶うはずでは? と、学生である勇太は思うのだが、兄の言によると、学生は夏休みでも教員は会議や一般の人相手の公開講座、研究などで忙しいらしい。だから兄は毎日のようにこの家から四駅離れた都会の中の大学へ通っている。しかしそれでも勇太に対する皮肉は余計だ。勇太は何か飲もうと、居間から続く台所の方へ足を向けた。と。
木根原きねはらに逢えなくて寂しいのか?」
 冷蔵庫を開けて麦茶を出す勇太の背を、兄の揶揄が叩く。「煩い!」と叫びそうになった口を何とか閉ざすと、勇太は兄を総無視し、麦茶を大ぶりのコップに入れて一気に飲み干した。確かに、兄の言う通り、なのだろう。もう一杯、コップに注いだ麦茶を飲み干しながら、心の奥底で首を横に振る。大学の、夏第二期の期末試験が終わり、夏休みに入る前の日までは、勇太も夏休みを心待ちにしていた。しかし、ある特殊な事情から兄の研究室に出入りするようになった一学年下の数理工学科所属の女友達、木根原怜子さとこが、勇太には何も告げずに実家に帰ったと兄から聞かされてからずっと、心の中が少しだけ空虚になっていることは、否めない。大学に入学するまで日本海側の田舎で暮らしていたという木根原に都会や太平洋側の海を見せたり、できれば勇太のバンドのライブも見せたり、したかったのに。それが、勇太の本音。いや、木根原はただの女友達。兄である雨宮准教授の研究室に出入りしているだけの仲に過ぎない。確かに、期末試験の勉強やレポート作成は一緒にやったが、それだけでは「親しくなった」とはいえないだろう。もう一度、心の中で、勇太は首を横に振った。勇太が勇太であるのと同じように、木根原も木根原という一人の人間である。独りよがりの過剰な感情は、抱いてはいけない。
「ただいまぁ」
 その勇太の耳に、明るい声が響く。母が帰ってきた。顔を上げると、母の横に、重そうな買い物袋を持った父もいる。母と父の職場は少し離れているが、それでも、時間が合えばしばしば一緒に買い物をして帰ってくる。それが、二人にとっての「デート」になるらしい。仕事で知り合い、馬が合った同い年の二人は、結婚して二十年経っても相変わらず仲が良いように見える。父と母の様子に、勇太はふっと微笑んだ。父と母のようなカップルが、勇太の理想。
「お腹空いたでしょ。素麺すぐ茹でるから」
 買い物袋の中身を冷蔵庫に入れる大柄な父の邪魔にならないように、麦茶を入れたコップを持って移動する勇太の耳に、母の明るい声が響く。遅くなってから勇太を産んだ母だが、それでも五十を過ぎているようには見えない。母と父の仲良さげな様子をもう一度じっと見て、勇太は小さく息を吐いた。と。
「これ!」
 不意に、母が大声を上げる。顔を上げると、母が茶封筒を手に目をきらきらと輝かせているのが見えた。あの封筒は、確か、昼間勇太が受け取って台所のテーブルの上に置いておいた、母宛の簡易書留。差出人は、確か。
「やったー! 当たったー!」
「な、何が? 悠子ゆうこさん?」
 封筒を掲げて踊る母に、父が目を丸くする。
「え、送ってた懸賞。閑静な宿場町の、料理が美味しい旅館の宿泊券! しかも家族四人分!」
「はいっ?」
 訳の分からぬまま、居間と台所に居た男三人は硬直する。
「と、いうことで、来週家族旅行ね。ひろしさんも秀一も休み取ってね。勇太も」
「は、はい……」
 勇太も、そして兄も父も、母の言葉に頷く他、無かった。

 曇った空の下にある、日本海側の海は、勇太の目には少し暗く感じられた。
 海を目の前にして溜息をついている自分が、未だに信じられない。しかしこれは現実。潮の香りも、潮騒の音も、ちゃんと、ある。勇太は首を強く横に振ると、もう一度、うねるように砂浜へと打ち寄せる波を見つめた。
 母が懸賞で当てたのは、日本海側にある閑静な宿場町の、少し外れに位置する温泉旅館の二泊三日の宿泊券四人分。歴史と建物が好きな両親には格好の旅行先だと、勇太は思った。しかし自分にとっては、残念ながらあまり魅力的には思えない。確かに、昨夜の晩御飯は、目の前で揚げられた精進揚げも、酒蒸しした魚も、大ぶりの鍋の中に入っていた魚も野菜も美味しかった。旅館自体も、小さいながらも清潔でこざっぱりしており、美人だという評判の、祖母、母、娘三世代の女将も、普通に美人だった。だが。両親と違って歴史にも建物にも興味が無い勇太は、今日一日何をすれば良いのだろうか? 兄は、希望通り、持ってきた多量の本や論文を読むと言っていたが。とにかく、海が近いから、泳ぎに行こう。現地で借りた車に乗った両親が楽しそうに宿場町の見学に行った後、勇太は泳げる場所を、丁度近くを通りかかった、昨日揚げ物を作っていた父と同じくらいの年齢の料理長に尋ね、その人が教えてくれた通りの道を辿ってここに来た。
 潮の流れと海水温の作用があるらしく、この時期になると途端に増えるクラゲは、海面に見えない。しかし用心した方が良いという、気の良さそうな料理長が貸してくれた旅館に有ったサーファー用のウェットスーツを身に着け、脱いだ服を、荷物を預かってくれるらしい海の家に預ける。サーフィンの波を待っている人を避け、人気の無い場所から、勇太は暗い海へと入っていった。
 海の水は、思っていたよりも滑らかだった。しかし少し濁っている。天気が悪い所為なのかもしれない。朝方降った、夏なのに暗く冷たい雨を思い出し、勇太はその身を温めるように大きく手を動かして水を掻いた。それでも、勇太の体を沈める方向へと、水がうねるのが分かる。泳ぎは、小さい頃に父から習い、水音が気に入って中学まで水泳教室に通っていたから自信はある。だが、このうねりを甘く見るのは、危険だ。勇太はうねりに逆らわないように、しかし砂浜からの距離には気をつけて、何度も水に潜った。波は、突き詰めれば音と同じ。それが、勇太の考え。だから海は好きだ。波に身を任せて泳ぎながら、勇太が感じていたのは、安堵感。
 しばらく泳いで、砂浜へと戻る。ようやく温まった砂浜に腰を下ろすと、空腹感が勇太の身を襲ってきた。そういえば、財布を持って来ていない。自分の迂闊さに苦笑する。周りを見渡すと、海の家で食べ物を買っている人の他に、暗い色の着物を着た人からお弁当らしきものを受け取っている人も居る。旅館まで戻るしかないか。勇太はふっと息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
 と。
「雨宮さん、ですか?」
 突然の声に、背中がびくっと震える。
「はい」
 そう言って声の方を見た勇太は、目の前にいた人にはっと目を見開いた。
「木根原」
 その言葉を、何とか飲み込む。よく見ると、目の前に立っていた女性は、木根原に似てはいるが彼女よりずっと年上に見えた。つばの広い麦わら帽子を被り、暗い色だが薄手の和服を着ている。
「あの、これ」
 勇太の驚きには気付かなかったのか、木根原に似た女性は勇太に何か四角いものが入ったビニール袋を静かに差し出した。そのビニール袋は、先程この女性がサーファー達に渡していたのと同じものだ。そのことにだけは、勇太は何とか気付いた。
「お兄様から、弟にもお弁当を持って行って欲しいと頼まれました」
「あ、ありがとうございます」
 それでも何とか、お礼を言って、袋を受け取る。和服の女性が去ってから、勇太は袋から小ぶりな箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。
「あ」
 箱の中に見えたものに、心を揺さぶられる。この、巻き寿司は。胡瓜と卵焼きとカニカマボコを使った巻き寿司は、時々木根原が作って兄の研究室まで持ってきてくれるものと同じ。いや。そっと、首を横に振る。どこにでもある材料で作ることができる巻き寿司だ。木根原のと、同じではない。そう思いながらかぶりついた巻き寿司の味は、木根原が作る巻き寿司と寸分、変わらなかった。

 昼食後、砂浜で少し昼寝をしてから、再び海を泳ぐ。飽きるまでさんざん泳ぎ、疲れを感じた時には、夏の日は既にだいぶん傾いていた。
 身体が冷たくなったな。泳ぎ疲れてぼうっとした頭でそんなことを考える。旅館に戻って温泉に入ろう。そう思いながら、勇太は帰り道を急いだ。だが、それでも、行きと同じ道を歩くのは、つまらない。目の端に入った脇道に、勇太は足を向けた。方向が同じなら、歩けば旅館に辿り着けるはずだ。
 勇太の予測通り、そんなに歩かないうちに旅館の屋根が見えてくる。だが、脇道が途切れたところにあったのは、野菜畑と鶏が歩く庭。それでも、庭の向こうに旅館の建物が見えているから、ここは旅館の裏手なのだろう。広々とし、手入れが行き届いているように見える野菜畑に、勇太はこくんと頷いた。おそらく、昨日食べた野菜は、ここで作られたものに違いない。魚も、料理長が海で取ってきたものを使っていると聞いている。地産地消という言葉を、勇太はまざまざと感じていた。と。
「サトコ、頼む」
 建物の方から聞こえる低い声に、はっとして物陰に身を隠す。隠れる必要は全く以て無いような気がするが、それでも、隠れないといけないと思ったのは、おそらく木根原の名前と同じ音を聞いたから。そして。
「はい」
 聞き知った声が、勇太の耳を震わせる。そっと、物陰から少しだけ顔を上げると、紺色の着物に似た作業衣に身を包んだ小柄な影が建物から出てきた。その、影は。
「木根原」
 出掛かった言葉を、何とか飲み込む。見慣れぬ服装をし、短い髪をスカーフでまとめているが、あれは確かに木根原。そして。鶏が遊ぶ庭に出てきた木根原が、その鶏の中の一羽を躊躇い無く捕まえ、唇を引き結んで建物の方へ戻る様を、勇太は呆然と見つめていた。

 その日の夕御飯には、鶏の水炊きが出た。
「ごめんなさいねぇ。今朝は天気が悪くて漁に出られなかったのですわ」
 部屋に食事を持ってきてくれた老齢の大女将の言葉を耳に、そっと、鍋の中の鶏肉を見る。この肉は、木根原が捕まえていた鶏、だろう。夕方まで、庭を歩いていた……。そこまで考えて、勇太は首を横に振った。母が買ってくる、綺麗にパッケージされた肉だって、大学の食堂や大学近くの店で勇太が食べている昼食に入っている肉だって、生きている牛や豚や鶏を誰かが肉にしてくれたものだ。それを食べるのは、無くなった命を大切にする行為。
「食べないのか?」
 聞くと少しいらいらする兄の声が、耳を揺らす。しかし今は何も言わず、勇太は鍋の中の鶏肉を箸で掴み取った。

 終わってみると、意外と楽しい家族旅行だったような気がする。物憂げな空気に満ちた帰りの新幹線で、背凭れに身を預けながら、勇太はふっと息を吐いた。と。
「木根原に、逢ったか?」
 隣で本を読んでいた、兄の言葉に、はっとして背凭れから身を離す。本から目を離し、勇太の方を見た兄は、いつもの皮肉に満ちた笑みを浮かべていた。
「知ってたのか」
「一応、俺は木根原の指導教官だからな」
 指導教官であれば、学生の単位取得状況のみならず、下宿先の住所も実家の住所もネット上のシステムから閲覧することができる。母に届いた旅館案内の住所と、頭の中にあった木根原の実家の住所を一瞬で照合することは、記憶力抜群の兄にとっては容易いこと。実際に木根原自身には会えなかったが、読書をしている最中に、部屋の整理に来た木根原に似た和服姿が似合う女性に会ったと、兄は半ば自慢げに勇太に話した。
 と、すると。兄の話から、即座に判断する。勇太が見た、鶏を捕まえた少女は、確かに木根原。では、木根原に似た、兄も会ったという、中年というには若く感じた女性は、木根原の母親なのだろうか? 母にしては年齢が若いような気がする。そして野菜を揚げてくれた料理長が、木根原の父親なのだろう。道理で、料理が上手なはずだ。巻き寿司の味を思い出し、勇太は少しだけ口の端を上げた。同時に思い出したのは、暗い青色の、うねりの多い海。その海の側で食べた、木根原に似た女性が持ってきた、木根原が作るものと同じ味の巻き寿司。そして。……夕食にする鶏を捕まえた木根原の、どこか泣きそうな顔。
 都下に近付いた新幹線の車窓から、見慣れた太平洋の、あくまで明るい青色の海が見える。その海の青と、木根原が居た場所の暗い青色を脳裏で重ね合わせ、勇太はそっと目を瞑った。

彼の音に魅せられて

 立て付けの余り良くない引き戸を、勢いをつけて開ける。半透明の硝子が嵌め込まれた扉が柱にぶつかる派手な音が辺りに響き渡ったが、それでも、家からは誰も出て来なかった。
 「今日の夕方に帰る」と昨夜の内に連絡したはずなのに、誰も居ないとは。溜め息以前に肩を竦める。祖父母も両親も、まだ家に残っている兄弟達も皆、何処かに行っているのだろうか? 誰も居ないのに玄関の鍵を閉めないなんて、不用心過ぎる。そう思いながら、勁次郎けいじろうは慣れた感じで家の中に入り、肩に掛けていた大きめのスポーツバッグを居間の隅に置いた。家族なのに何処か他人のような余所余所しさは、昔からのこと。だから今更、久しぶりに実家に顔を出した勁次郎を出迎えない家族のことをとやかく言うつもりは、無い。
 重いスポーツバッグを掛けていた所為で少し痛くなった左肩をぐるぐると回しながら、人気の無い居間と台所を抜ける。その向こうにあるのは、板敷きの広々とした部屋。勁次郎の家には空手と柔道と合気道を組み合わせたようなよく分からない我流の武術が伝わっており、父親はその武術を教える為の道場を副業として営んでいる。勁次郎自身も、この場所で、祖父から厳しく手ほどきを受けた。
 道場の正面に飾られた、簡素な神棚に手を合わせてから、その前の床にあぐらをかく。そして勁次郎は、ただ静かに目を閉じた。聞こえるのは、既に九月だというのにまだ諦めきれずに鳴いている蝉の声のみ。
 工学を学ぶ為に都会の大学へ進む前は、毎日毎晩、この道場で飽きもせず様々な武術訓練を行っていた。そのことが、大学で実学よりも理論を学ぶ方が面白くなり、誰にも相談せずに大学院に進んだ今となってはとても懐かしく、また奇妙にも思えた。武術が嫌いになったわけではない。帝華ていか大学という、この国でも有数の大学の大学院に進学し、普通とは少しずれた、強靭で傷付き易い心を持つ人々と行動を共にするようになってからは、尚更、この道場で育んだ感覚が役に立っているのを感じている。武術よりも大切に思う人や物事に出会ってしまったから、結果的に、武術自体からは距離を置くことになってしまったのだろう。瞑想の中で、勁次郎はそう、考えた。
 不意に、蝉の声にピアノの音が混ざる。この、音は。勁次郎はかっと目を見開くなり立ち上がった。この道場から、塀と小道と小川を挟んだ向こう側には、かつて勁次郎も通っていた高校がある。だからピアノの音が聞こえてきても、不思議ではない、のだが。……だが、この音、は。でも、まさか。
 道場から直接庭に出る。確かに、すぐ近くからピアノの音が聞こえて来る。勁次郎は庭用の古いサンダルを足に引っ掛けたまま、実家の外玄関を出た。
 昔と同じように、小道と小川の向こうに金網のフェンスとプレハブの平屋が見える。ピアノの音は、確かに、プレハブ平屋の、黒いカーテンが風に揺れている部屋から聞こえてきていた。あの部屋は、第二音楽室。高校の定員が多かった時代に作られたが、勁次郎が高校に通っていた時には殆ど使われていなかった部屋。勿論、少子化が進んでいる現在では言わずもがな。その音楽室から、勁次郎が昔聞き知った旋律が聞こえてきている。その曲を、弾いているのは、まさか。……いや、あり得ない。
 小川を超えてフェンスに飛びかかる為に、足に力を込める。だがすぐに、勁次郎はフェンスの上に鉄条網が設えられていることに気付いた。勁次郎が高校に通っていた頃には無かったものだ。サンダル履きは勁次郎の運動能力を損ねない。だが鉄条網は、服が破けてしまう恐れがある。仕方が無い、正門に回るか。逸る心を抑えつつ、勁次郎はサンダル履きのまま左を向いた。

 勁次郎が家の横にある高校に進学することを決めたのは、偏に武術修行の為だった。
 公立で、それなりの由緒がある高等学校。一応進学校だが校風は自由気侭、制服は有って無きが如し、勉学にも部活にもあまり力が入っていない学校だったから、武術に打ち込みたい勁次郎には丁度良い学校であった。
 朝、ギリギリまで道場で過ごしてから、始業のチャイムが鳴る頃に道場着のままフェンスをよじ上るのは日常茶飯事。昼食も、朝とは逆方向にフェンスを乗り越え、自宅に帰って食べていた。その後、午後の授業が始まる直前までまた道場で修行し、午後の授業が終われば即刻帰宅。そのような生活を飽きもせず、続けていた。高校の他の生徒や先生とは必要最低限の話をするのみ。それで良いと当時は思っていた。だが。
 道場での修行中に、ピアノの音を耳にするようになったのは、高校一年の秋頃。勁次郎が道場に居るのを見計らったかのように、耳障りな旋律が響き渡るようになったのだ。最初は、偶然だと思った。だが、その調子外れの演奏が二週間も続けば、家族の中では温厚で通っている勁次郎でもむっとする。実害も有った。ピアノの音の所為で武術修行に集中できないのだ。
「どんな状況でも集中できるようにならねば、真の武術者とはいえない」
 血の繋がった家族である以前に師匠である祖父からそう言われ、勁次郎はその音を気にしないよう努めた。勁次郎の努力が実ったのか、その内、修行中でもピアノの音は気にならなくなった。良かった。勁次郎はほっと胸を撫で下ろした。だが。勁次郎がその音に慣れた頃を見計らったかのように、旋律が変わる。途端に、勁次郎は修行に身が入らなくなった。何度も気にしないように努めても、気にならなくなった頃に旋律が変わる。そのパターンの繰り返しに、とうとう勁次郎の怒りは頂点に達した。誰が弾いているのか分からないが、一言言いたい。音楽を奏でるのも、武術に集中するのも、それぞれの勝手だと、分かってはいるが。
 だから勁次郎は、冬のある日、第二音楽室に乗り込んだ。

 プレハブの校舎だからか、第二音楽室に続く廊下も、プレハブ校舎自体も、普通の校舎以上に空気が凍り付いているように感じる。寒さにかじかんだ手を息で温めてから、勁次郎は、微かに音が漏れる第二音楽室の冷たい引き戸を引き開けた。途端に、いつもの旋律が大きく響いて耳に入る。勁次郎に背を向けているので、一心不乱にピアノを弾いている人の顔は見えない。だが、その真剣な背中に、何か自分と共通しているものを感じ、勁次郎は文句を言おうとした口を途中で止めた。
「あら」
 不意に、音が止む。振り向いて勁次郎に笑いかけたのは、生徒ではなかった。
「今日は道場に居なかったのね、平林ひらばやし君」
 長い髪を掻き揚げて、整った顔が笑う。勁次郎も一週間に二時間ほどお世話になっている生物のまだ若い女教師、坂口さかぐち先生だと、すぐに分かった。
「此処から見えるから、邪魔してやろうと思って」
 勁次郎の問いに、坂口先生はあっさりとした表情で答え、指を窓の方へ示した。その細い指の先に視線を移す。確かに、黒いカーテンの向こうに、見慣れた道場がある。こんなに近くから、見られていたのか。何故か、羞恥心で身体が熱くなる。だから、でもないのだが。
「別に、気にならない」
 口から出て来たのは、強がりの言葉。それだけ言うと、勁次郎は先生に背を向けた。

 それからもずっと、ピアノの音は勁次郎の武術修行を嘲笑うかのように毎日響いた。
「毎日弾いてて飽きないのか?」
 気になって、再び第二音楽室を訪れ、尋ねる。勁次郎の不躾な問いに、坂口先生は再び整った唇を綻ばせた。
「することが無いからね」
 この高校は、勉学も日々の生活も生徒の自主性に委ねられている。教員は生徒の言動に口を出さないし、生徒も先生の授業方針に口を出さない。勉強したい者は勝手に勉強し、遊びたい者は遊ぶ。他人のことには口出ししない。そういう高校だった。勿論、坂口先生も、生徒が生物という学問をきちんと理解することができるように授業方法を工夫している。だが、校風が自由過ぎるからだろうか、この学校の生徒は諦めが早く、張り合いが無いのが正直な所。そう、先生は勁次郎に話した。
「だからかな。道場で一生懸命な平林君を見ると、更に負荷を掛けたくなった」
 性格が、捻曲がっている。心の中で先生をそう評価する。それでも、一応褒められてはいるのだろう。先生の口調から、勁次郎はそう判断した。だから、先生がピアノを弾いて勁次郎を邪魔することを、勁次郎は咎めなかった。……その邪魔が、勁次郎が高校を卒業するまで続くとは、流石に思わなかったが。

 卒業式の、前日。もう一度、第二音楽室に足を運ぶ。勁次郎の予想通り、坂口先生は火の気も無い極寒の音楽室のピアノの前で勁次郎を待っていた。
「とうとう、最後ね」
 静かな声で、それだけ言い、笑う先生。三年間ずっと邪魔され続けた恨みと、良くも飽きずに続けていたなという半ば呆れたような感覚が、勁次郎の顔に微笑みを作った。
「道場、離れるのね」
 おそらく職員室で聞いたのだろう、勁次郎の進路を、口にする。
「止めるの?」
 先生の問いに、勁次郎は首を横に振った。
「止めない」
 幼い頃からずっと、武術修行は勁次郎と共にあった。遠くの大学へ行くとはいえ、身体と心に染み付いたその感覚から、離れられるわけが無いではないか。
「じゃ、私も、邪魔するのを止めない」
 不意に、先生の顔が勁次郎の1センチ前に現れる。いつの間に。戸惑う間もなく、後頭部が押され、一瞬だけ、先生の唇が勁次郎の唇に重なった。
「じゃ、また」
 呆然と立ち尽くす勁次郎に、にこりと微笑む先生。
 そしてそのまま、坂口先生は、勁次郎を音楽室に残して立ち去った。

 意外に広い高校の敷地に戸惑いながら、それでも淀みない足取りで第二音楽室へ辿り着く。残暑で熱くなった引き戸を引くと、懐かしい背中がピアノの前で揺れているのが、見えた。
「やっぱり」
 その背中に、声を掛ける。振り向いた先生の姿は、夕方であることを差し引いても、あの卒業式の前日と寸分違わなかった。
 坂口先生が転勤すると聞いたのは、卒業式のすぐ後。それからは、実家に帰省する度に道場で耳を澄ませても、変なピアノの旋律は聞こえて来なかった。そう、今日までは。
「戻ってきたのか?」
「邪魔する為にね」
 口調も、昔と寸分変わらない。化け物か。勁次郎はこっそりそう、思った。
 だが。
「でも、もう邪魔する必要は無いみたいね」
 ピアノから離れ、勁次郎の前に立った先生が、勁次郎を覗き込みながらそう、言う。何故? 思わず小首を傾げた勁次郎の肩をポンと叩いてから、先生は再び、勁次郎を音楽室に残して立ち去った。

白き翼

 ふわりと、目の端を白いものが掠める。
 あれは確か、デザイン工学科の公開講座で参加者が作っていた『良く飛ぶ紙飛行機』。怜子さとこがそう、認識するより早く、温かい塊が怜子の足にぶつかってきた。その、ぶつかってきた塊を、そっと見下ろす。怜子のズボンを掴んだ塊、まだ小さい男の子は、怜子を一瞬見上げ、そしてすぐに怜子のズボンから手を離し、紙飛行機が飛んでいった方を探すように怜子の向こうを見つめた。
「紙飛行機、どっか行っちゃった」
 しょんぼりとした男の声が、無音の空間に微かに割れて響く。眼鏡を掛けていない怜子の目にも、先程通り過ぎた紙飛行機は既に見えない。おそらく『歪み』を通り抜けてしまったのだろう。突然現れた紙飛行機に驚いている人が居ないと良いのだが。少しだけ唇を歪ませてから、怜子はもう一度、傍らの男の子を見下ろした。この子は、どうしよう?
 夏休みの最終日、街中に位置する帝華ていか大学理工科学部では、大学における研究活動や教育活動を地域の人々に公開するイベントが行われていた。各学科が趣向を凝らし、老若男女が楽しめる理系の講座が、理工科学部の建物内で開かれている。材料費も要らない講座ばかりなので、いつもは学生達しか居ない建物内にもたくさんの子供達や老人達が居て、わいわいがやがやという少し騒々しい雰囲気の中、様々な講座を楽しんでいる。しかし怜子の周りには、静寂しか無い。人影も、怜子と、先程紙飛行機を追って現れた男の子の分だけ。
 帝華大学理工科学部の建物は、普通の人には関知できない『歪み』を用いて内部空間を広げている。帝華大学で研究を行っていたたちばな教授が理論を作成し、注意深く作られた建物ではあるが、それでも時折、『歪み』に囚われてしまう人が現れる。その『歪み』を探し出し、『歪み』に囚われてしまった人や物を救出し、『歪み』を修正するのが、橘教授の教え子でもあった帝華大学理工科学部数理工学科の准教授、雨宮あめみや先生と、『歪み』に関わる力を持ち、彼に協力する学生達。怜子自身、『歪み』を視ることができるという力を持っており、今日も、「外部の人間が建物内で行方不明になったと騒がれたら大学の信用が落ちる」という雨宮先生の懸念を受ける形で、案内役の傍ら『歪み』に囚われた人が居ないかを探していた。実際、『歪み』に囚われかけた人々を幾人か、怜子はそれとなく助けている。しかしながら。『歪み』を視ることができても、『歪み』から脱出する術を、怜子は持っていない。今のように、怜子自身が『歪み』に囚われてしまっては、為す術無し、だ。
 とにかく、男の子をどうにかしよう。怜子以外に誰も居ない空間に不安を覚えたのか涙目になっている男の子の小さな手を、そっと握る。実家の旅館にも、お客様として子供が来ることがあるが、父が居る厨房を手伝うことが多い怜子は子供の扱いには自信が無いというのが本音。それでも、この子を保護者の許に無事に帰したいと思う、その気持ちだけで何とか、怜子は男の子の手を引き、無音の空間を歩き始めた。紙飛行機を追っていたのだから、男の子はおそらくデザイン工学科の講座が開催されている教室の近くに居たのだろう。そしてきっと、男の子を探している保護者もその教室近くに居る。『歪み』の中では、時間も空間も見当を失ってしまうが、それでも、自分が居る場所について大体の位置を感じることができるのは、まだ入学して半年の怜子も理工科学部の建物自体にようやく慣れたから、だろう。
 と。
「紙飛行機!」
 不意に、男の子が怜子の手を振り解いて走り出す。顔を上げた怜子の視界の向こうを、紙飛行機は何故か高度を下げることなく横切り、そして消えた。その翼を追いかけた、男の子も。
 疲れを感じる足を引きずって、飛行機が見えた方向へ歩く。ぼうっとした視界に、男の子らしい小さな影と、その影が纏わり付いている大人の影を認め、怜子はほっと息を吐いた。あの子は、無事に保護者の許へ戻ることができた。再び、無音の空間が怜子を包む。誰も、居ない。『歪み』に囚われている人が怜子以外には居ないことに、怜子は小さく息を吐いた。ほっとしている気持ちが半分、そして、……恐怖に震える心が、半分。もしもこのまま、誰からの助けも無く、ここに閉じ込められたままだったら。頬に流れる涙を感じ、怜子は慌ててブラウスの袖で頬を拭った。大丈夫。雨宮先生も、勇太ゆうたさんも、香花きょうかさんも、平林ひらばやしさんもいる。きっと助けてくれる。怜子と同じ『歪みを識る者達』の顔を、怜子は一人一人脳裏に浮かべた。それでも、不安は去らない。『歪みを識る者達』の中で、歪みを直接視ることができるのは怜子だけだ。一学年上の勇太は、音を用いて『歪み』を探索することができる。大学院生である平林は、手刀で歪みを切り裂くことができる。そして雨宮准教授と、怜子より二学年上の才女、香花の役割は、生じてしまった『歪み』を計算によって普通の状態の戻すこと。怜子を直接捜し当てることができる力を持っているのは、おそらく勇太のみ。もしも、勇太が怜子を捜し当てることができず、秋の第三期の授業が始まってしまったら。出席回数不足で単位が取れず、「四年間で数学の教員免許を取って卒業する」という怜子の目標が果たせない。母や祖母の反対を押し切って大学に進学したのに、これでは。双子のような母と祖母の冷笑が脳裏を過ぎり、怜子は思わず首を横に振った。大丈夫。きっと、……見つけてくれる。独りこくんと頷いた、正にその時。
「……あ」
 白い翼が、視界を横切る。その白さに誘われるように足を一歩横に踏み出すと、聞き慣れた、しかし普段よりも綺麗に響くギターの音が、怜子の耳に飛び込んできた。この音は。
木根原きねはら!」
 はっと顔を上げるより早く、怜子の名字を呼ぶ声と共に右腕が後ろに引っ張られる。唐突に暗くなった怜子の視界に映ったのは、いつも持ち歩いている派手な色のギターを左腕に抱えた明るい笑顔。
「良かった」
 皆で捜してたんだ。明らかにほっとした勇太の表情だけが、天井が斜めになった薄暗い空間に映る。こんな場所が、理工科学部の建物内にあったとは。『歪み』から解放され、ほっと胸を撫で下ろした怜子は、勇太と自分が居る空間に目を瞬かせた。
「ここは、地下二階。機械室前の階段下」
 その怜子に説明するように、勇太の明るい声が空間に響く。
「音の響きが気に入っているから、よくここでギターの練習をするんだ」
 普段は整備や修理の人しか入り込まない空間だから、誰にも気兼ねなく音が出せるし。『歪み』のことに一切触れない勇太の優しい言葉と、先程まで怜子を掴んでいた手が微かに奏でるギターの音を、怜子はただ、聞き続けていた。

静寂の場所

 ふと、見上げた視界に映ったのは、見知った顔、二つ。
雨宮あめみや君、また、国語の時間に居眠りして」
 その二つのうちの一人、上原うえはら舞子まいこの温かな笑顔が、秀一しゅういちの瞳に眩しく映った。
加藤かとう先生怒ってたわよ」
「うん……」
 目を擦ってから、大きく伸びをする。授業中に眠るのはいけないことだと分かってはいるのだが、国語や古典の授業はどうしても退屈に感じてしまう。数学なら、面白過ぎてあっという間に授業が終わってしまうのに。まだ笑っているらしい、舞子のふくよかな胸元で揺れるセーラー服付属のスカーフに、秀一はもう一度、大きく息を吐いた。
「ま、仕方無いよな」
 その秀一の耳に、二つのうちのもう一人、井沢亮いざわあきらの無遠慮な声が入ってくる。
「いくら秀一が天才でも、赤ん坊の夜泣きは止められない」
「かもね」
「赤ん坊の世話は大変だからな」
「ん」
 亮に同意する舞子に釣られるように、亮の言葉に頷く。しかしすぐに違和感を覚え、秀一はにやにや笑いをこらえきれない表情の亮を強く睨んだ。亮の言う通り、今、秀一の家には生まれたばかりの弟、勇太ゆうたが居る。しかし亮の言い方では、勇太の父親が秀一であるように聞こえるではないか。それに。確かに、勇太はまだ赤ん坊で、夜も昼もひっきりなしに泣いてばかりいる。手先の器用な父が、秀一の部屋に防音効果の高い壁紙を貼り、さらに秀一の勉強机の周りを防音用の板で囲ってくれたが、それでも泣き声はしばしば聞こえてくる。しかしそれは仕方が無いではないか。勇太はまだ、手のかかる赤ん坊なのだから。夜泣きは居眠りの理由にならない。
「ま、冗談はさておき」
 秀一の睨みが効いたのか、亮は詰め襟に太い指を入れて伸びない襟を何とか伸ばすと、持っていた教科書を秀一に指し示した。
「早く生物室行こうぜ」
「さっさと行かないと、また先生に怒られるわ」
 亮と舞子、二人の言葉にこくんと頷く。
 机横の鞄から生物の教科書とノートを引き出す間も無く、秀一は素早く立ち上がり、並んで歩く小柄と大柄、二つの背を追った。

 はっと、目を覚ます。
 斜めに差し込む窓からの茜色の光と、テーブルにこんもりと盛られた紙の束が、秀一を現実に引き戻した。……昔の、高校時代の夢を、見ていたのだ。
「懐かしいな」
 思わず、声が出る。どうやら、線形代数のレポートの採点が退屈過ぎて、右手を動かしているにもかかわらず途中でうとうとしてしまったようだ。まあ、採点者を全く無視した、字は読めないし論理は崩壊しまくっているし、というレポートばかりだから、途中で嫌になるのも当たり前かもしれない。春第一期に起きた木根原きねはらのレポート盗難事件を受け、事務室のレポートボックスには鍵を付けてもらっている。それ以来、レポートの質が悪くなっているのは、学生達が優秀なレポートを失敬して丸写しできなくなったからだろう。秀一がこの帝華ていか大学の学生だった頃と、やっていることはあまり変わらない。秀一自身、先生と敬称を付けて呼ばなければならない人には多大な迷惑をかけてきたから、そのしっぺ返しなのかもしれない。秀一はふっと息を吐いた。

 秀一が「母」と呼んでいる人が本当の母ではないと知ったのは、何時のことだろうか?
 秀一の遺伝子上の母は、子宮の疾患の為に子供をその身に宿すことができなかった。配偶者の方にも、生殖上の問題が有ったらしい。しかしそれでも自分の子供が欲しかった遺伝子上の母は、自身の妹に懇願し、第三者の精子で人工授精した卵子を妹の子宮で育ててもらうことによって子を得ようとした。しかし、その結果生まれた子供の、自分たちとは異なる容姿に恐れをなした母とその配偶者は、生まれた子供を自分たちの子として引き取らなかった。結局、まだ学生だった、姉に子宮を貸した妹が、生まれた赤ん坊を育てることになった。その子供が、秀一。
 退屈なレポートの採点をしながら、病院で、死期間近の祖母から聞いた話を、まざまざと思い出す。それでも、遺伝子上の母に恨みを覚えないのは、おそらく未知の父親譲りである黄金の髪と緑色の瞳を、秀一自身も厭わしく感じていた時期があったから。そして、周りの人間と異なる容姿を持ち、そして神童と呼ばれる気味悪がられるほどに頭が良かった秀一を慈しみ、育ててくれた「母」の存在が、あるからだろう。秀一はそう、思っている。その「母」、悠子ゆうこさんが職場で知り合い、秀一が中学を卒業すると同時に結婚したのが、現在「父」と呼んでいる人。その父と母の間に生まれたのが、生意気な弟である勇太。

 はっと、再び顔を上げる。すっかり暗くなってしまった空間に、白い紙束だけがぼうっと浮かんで見える。
 疲れている。右手のペンを強く握りしめて大きく背伸びをする。昨日は線形代数の試験を山のように採点したし、教授達が自分の意見を通そうと懸命になる、教員は全員出席する義務のある学部会議もあった。年齢も、四捨五入で四十になる。疲れを感じるのも、当たり前だ。どうせ成績入力は明日の夕方までで良い。今日はもう帰ろう。そう思い、秀一はレポートの山の上にペンを放り投げた。と、その時。
「あ、ここね」
 聞き知った高い声とともに、雨宮研究室のドアが開く。
「電気ぐらい点けなさいよ、雨宮君」
「いや多分昼寝してたんだろ」
 秀一の目の前に現れたのは、大柄な影と小柄な影。高校時代からの腐れ縁、亮と舞子。
「何しに来た」
 にやりと笑う亮を、鋭く睨む。大学に入るには大学生あるいは大学職員であることを証明する身分証が必要。しかも今週末は試験採点日になっているから、学生が入構するには事前の許可が要る。大学近くにあるこの二人の仕事場に出入りしている秀一の教え子、香花きょうかの学生証では大学の玄関は開かないはず。
「セキュリティの確認」
 当惑する秀一の目の前で、部屋の電気を点けた舞子が、手の中の何も書いていないカードを振る。そういえば、この二人は、帝華大学理工科学部が建つこの雑多な街を、安全で魅力溢れる街にするためのコンサルティング会社を経営していると、聞いた覚えがある。だから、大学のシステムの安全を確認するのも、二人の仕事のうちの一つ、なのだろう。秀一はようやく納得した。
「香花ちゃんにかかれば、どんなに厳重なセキュリティも形無しね」
 舞子の言葉に、ぷっと吹き出す。確かに、コンピュータに強く、「やろうと思えばクラッキングもできる」と自信満々で言うこともある才女、香花なら、多少のセキュリティシステムは難なく突破するだろう。目の前の舞子よりもさらに小柄で華奢な影を思い出し、秀一は思わず口の端をあげた。
 母が父と結婚して良かったことの一つは、結婚に伴う引っ越しによって環境が変わり、名の聞こえた総合大学である帝華大学の本部キャンパス近くにある、レベルの高い進学校へ徒歩通学できるようになったこと。そして、その高校で、秀一の髪と瞳に顔色一つ変えなかった、亮と舞子に出会ったこと。幼馴染みであるという、亮と舞子の親密さに疎外感を覚えることもあるが、それでも、秀一にとって、二人が大切な友人であるという事実は、変わらない。
「もう少し厳重なものに変えた方が良いだろう」
「でも、香花ちゃんの本分は学問よ。これ以上負担をかけちゃ駄目でしょ」
「まあ、そうだが」
 亮を窘める舞子と、頭を掻く亮。高校時代から変わらない二人に、秀一は静かに、微笑んだ。

イブイブイブの一日

 十二月二十四日がクリスマスイブで二十三日がイブイブなら、二十二日はイブイブイブだろう。そんなことを最初に言い出したのは一体誰なのだろうか?
〈……ま、それはそれとして〉
 大学最寄りの駅を出た勇太ゆうたは、容赦無く襲ってくる寒さに身を震わせ、そしてそっと溜息をついた。目の前に広がる駅前商店街は既にクリスマス一色に染め上げられてしまっている。まだ二十二日なのにもうクリスマスかと錯覚しそうだ。一方、十一月からこの光景なので見慣れてしまった感も、確かにある。
〈ま、別に、どうでも良いか〉
 クリスマスに、特別な感慨は無い。商業主義的な華やかさに踊らされることが生理的に嫌だったし、無宗教の者には関係無い、とも思っている。勇太の家族も、クリスマスはあまり派手に祝わない主義。幼い頃からの、少し豪華な食事と小さなプレゼントだけのクリスマスに慣れている勇太には、クリスマスの盛り上がりは理解できない。だが、それでも。知らず知らずのうちに溜息が出てしまうのはどうしてなのだろうか?

 開店直後の、それでも静かな賑わいのある駅前商店街を横切り、大小のビル群が真っ直ぐ続くオフィス街に入る。既に始業時間から一時間ほど過ぎている時間だからか、街角は静かな活気に満ちていた。時折、鞄や茶封筒を小脇に抱えたスーツ姿の男女が足早に勇太の横を擦り抜けていく。いつも思うのだが、ここを歩く度、自分の格好――カジュアルな上下にリュックとギターケースを肩に掛けている――が殊更奇異に思えてしまう。それは多分ここを通る学生の大部分が感じていることだろう。だが、勇太が通う帝華ていか大学理工科学部はこの街の中にあるのだから仕方が無い。綺麗に並べられた石畳の道を、勇太は意識してしっかりと踏み締めた。
 自分とあまり年が変わらないようなスーツ姿の人々の目線を気にしつつ、そっと腕時計を見る。まだ十時五分、二限目が始まるまでまだ二十五分ある。
〈これだったら、もう一本遅い電車でも良かったな〉
 そう思うと急に気が緩む。思わず、道の真ん中で大欠伸をしてしまった。
 近くでくすりと笑う声が聞こえて、慌てて口を押さえる。大欠伸を見られたことが恥ずかしかったし、大学生は暢気だなどと思われるのが何となく癪に障る。まあ、勇太のこの状態を見たら誰だって『大学生は忙しい』なんて思わないだろうが。勇太は再び溜息をつくと、なるべく気を張るようにして大学に向かって歩き出した。だが、歩いていても自然に欠伸が出てきてしまう。その理由は、分かっている。昨日、高校時代から友人達と組んでいるバンドの今年最後のライブと忘年会があり、勇太は仲間と共に夜遅くまで飲んでいたから。
「……何で冬休みにならないうちにやるんだ?」
 バンド仲間は皆大学に進学している。だからわざわざ学校がある日にやらなくても良いのではないか。このライブの日程が決まった時、バンドのまとめ役であるボーカルの男にそう文句を行った覚えがある。
「そりゃあ、冬休みに入ったらみんな色々と忙しいだろ」
 勇太のこの問いに、そいつはしれっとした顔で答えた。
「バイトとか、カノジョとデートしたりとかでさ」
 そうだった。勇太以外のバンドのメンバーには皆『カノジョ』がいるのだ。そのことに気付いた勇太は、心の奥底で知らず知らずのうちに溜息をついていた。更に。
「……勇太もカノジョつくればいいのにさ」
 忘年会と称して居酒屋で飲んでいる時にドラムの男がそう言ってきたときも、勇太は心の奥底で深い息を吐いた。何故、『カノジョ』という大切なものを、皆簡単につくることができるのだろうか? 脳裏に生じたのは、その疑問。だから。
「もてるんだろ?」
「うーん。……何か、面倒」
 勇太はいつも思っていることをはっきりと口に出した。
「面倒~!」
 勇太の言葉に、仲間全員が驚く。彼らの、驚いたような、信じられないといったような顔を思い出し、勇太は石畳の道を歩きながら一人くすっと笑った。本当は、『面倒』という言葉一つでは片付かない気持ちを、『カノジョ』という単語に持っているのだが、それを説明することは、勇太の語彙では難しい。通っている大学に女友達(と言って良いかどうかは正直微妙だが)が居るといえば居る。気になる少女も一人。だか、彼女に自分の気持ちを打ち明けることを、勇太は躊躇っていた。勇太自身の気持ちを押し付けて、あの優しげな顔が申し訳無さに歪むのは、見たくない。彼女を悲しませてしまうのならば、友達のままで良いではないか。それが、勇太の現在の結論。だが。
〈カノジョ、ねぇ……〉
 あいつらは多分、ドラマやコマーシャルの中の人々のように、クリスマスは自分のカノジョと一緒に過ごすのだろう。そう思うと何だか妙に落ち着かない気分になってくる。
〈悔しい、のか?〉
 いや、違う。勇太は思わず首を振った。自分の気持ちを上手く言葉にすることは、今はできない。いや、言葉にしたところで『カノジョが居ない奴の僻み』だと言われるのがオチだろう。だが、今勇太が持っている感情は、確かに、『悔しい』という言葉とはベクトルが違っていた。

 暢気で溌剌とした声に、はっとして目を上げる。昨日のことを思い出しながらぼうっと歩いていた所為か、目的の建物は勇太の背後になっていた。危ない危ない。危うく通り過ぎてしまうところだった。勇太は息を吐いて気持ちを切り替えると、見た目は周りにある他のビルとあまり変わらない十四階建てのビルの入り口まで足を戻した。
 勇太が通う帝華大学理工科学部の校舎は、都会の街中に静かに、しかし威厳を保って建っていた。地上十四階、地下二階建ての建物の中には、理工科学部の全ての学科で使われる全ての設備が入っている。講義室や実験室、教員や院生の研究室はもちろん、図書室や情報端末室、大学外の人も使うことができるカフェテリアやコンビニもある。直方体で何の変哲もない外観に比べ内部が広く見え、更にあまりにも設備が整い過ぎている為、「内と外で大きさが違うのではないか?」という噂が絶えないという、少しの曰くが付いた建築物。それが、帝華大学理工科学部の校舎。

 帝華大学理工科学部の建物は、普通の人には関知できない『歪み』を用いて内部空間を広げている。帝華大学で研究を行っていたたちばな教授が、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を建築に応用することで、建物の内部空間を広げ、講義室も実験室も研究室も、学生に必要な空間すらも、余裕を持って詰め込まれている。橘教授の理論は完璧だったと、勇太の兄であり、橘教授の教え子でもあった雨宮あめみや准教授はいつも言っている。だが、理論通りに、そして注意深く作られた建物ではあるが、それでも時折、『歪み』に囚われてしまう人が現れることは、事実。その『歪み』を探し出し、『歪み』に囚われてしまった人や物を救出し、『歪み』を修正するのが、雨宮准教授と、『歪み』に関わる力を持ち、彼に協力する、勇太を始めとする学生達、通称『歪みを識る者達』。

 一階のコンビニ横に設えられた自動ドアから構内に入り、細い昇りエスカレーターが横に設置されている階段を上って二階に行く。半分だけ吹き抜けになっている二階のカフェテリアと休憩スペースにたむろする学生達が普段より多いと感じる間も無く、勇太はカフェテリアの真ん中を貫く豪華な感じがするエスカレーターを上がって三階の、事務室前にある掲示板の前に立った。
「……マジかよ」
 休講や補講のお知らせが貼ってある掲示板の前で絶句する。勇太が取っている授業のうち、今日の二限目と四限目の授業が見事に休講になっていたのだ。他にも多くの授業が休講になっている。いくら明日から冬休みとはいえ、やる気のない教員があまりにも多過ぎる。勇太は肩を竦めると、掲示板の前で腕を組んで考え込んだ。
「さて、どうするか……?」
 考える傍から大欠伸が出る。一限から学校に行く兄貴に朝早く叩き起こされた為非常に眠い。が、三限目の授業は休講になっていないから家に帰るわけにもいかない。
〈とりあえず、寝とくか〉
 勇太はくるりと後ろを向くと、エレベーターホールに向かって歩き出した。
 この校舎の十四階に、兄である雨宮准教授の研究室がある。そこには、研究用の机とパソコンと本棚の他、勇太が寝転んでも特に問題が無いソファがある。兄は文句を言うだろうが、そこで一眠りすればいい。

 雨宮准教授の研究室は『歪みを識る者達』の溜まり場になっており、勇太以外はいつでも気軽に入ってきて良いと言われている。だから勇太もいきなりドアノブを回して部屋に入った。
「……あれ?」
 入ってから辺りを見回し、首を傾げる。勇太を叩き起こして大学に向かったはずの研究室の主が居ない。そしてその代わりとでもいうように、手刀で『歪み』を作り出すことができる数理工学科の院生、勁次郎けいじろうが、勇太達がいつもレポートを書いているテーブルに陣取っているのが見えた。
「兄貴は?」
 勁次郎が難しい顔で見ているパソコンのディスプレイを覗き込みながら尋ねる。
「ああ、先生なら事務室へ行ったよ」
 勁次郎の回答はいつも通り簡潔だった。大学に出す、今年一年の業績報告の提出締切日が今日だったのを忘れていたので、事務に締め切りを延ばしてくれるよう頼むついでに、自分でも忘れている自分が執筆した論文の題目についての資料を集めに行っているらしい。
「多分事務でも呆れられているだろうね」
 そう言って勁次郎は彼にしては珍しく、苦笑して肩を竦めた。一ヶ月も前からうるさく言われていた書類だという勁次郎の説明に、勇太は勁次郎に対し申し訳ない気持ちでいっぱいになった。雨宮准教授という人は、研究の方ではなかなか良い成果を出しているらしいが、事務的な、小難しそうな事になると途端に面倒くさがり、期限になるまで手を付けない人なのだ。この世界でたった一人の兄だから、勇太は雨宮准教授の性格を誰よりも熟知していた。この調子では、二週間ほど前に「見てやる」と言って勁次郎から半ば強引に取り上げた、勁次郎の清書前の修士論文もきっと読んではいないだろう。そのことも合わせて考えると、いい加減な兄貴に対して憤りが募る。テーブルの上に置かれていた、細かい字の書かれた紙を手に再びパソコン画面に向き合った勁次郎に小さく頭を下げた勇太はふと、ノートパソコンの横に置かれていたものに目を止めた。
「何、これ?」
 目についた物をそっと取り上げる。勇太の手の中のそれは、どこをどう見てもクリスマスカードだった。しかも手作りらしい。厚手の紙に丸顔のトナカイと天使が色鉛筆で描かれており、その下に少しインクの滲んだ、それでも活字のような英文字が綺麗に並んでいる。
「どうしたの?」
木根原きねはらにもらったんだ」
 カードについて勁次郎に尋ねた勇太の耳に、聞き覚えのある天敵の声が響く。勇太の兄、雨宮准教授だ。
「木根原に?」
 兄の言葉に、正直驚く。勇太より一学年年下の木根原怜子さとこは、『歪み』を見ることができ、そしてそれ故にこの研究室に出入りしている少女。料理が得意で、時々持って来てくれるシンプルな巻き寿司も、しっかりと味が染み込んだ煮物も、絶品レベル。その木根原が絵も描くとは、知らなかった。テーブルの隅に置かれている、おそらくカードと一緒に木根原が持って来たのであろうワックスペーパーに包まれたクッキーに手を伸ばしながら、勇太は無意識のうちに木根原の、優しく微笑む様を思い出していた。
 木根原を、異性として意識するようになったのは、何時からだろうか? 初めて逢ったときから、大学に入学したばかりの木根原がまだ『歪み』の正体を知らず、『歪み』に囚われていた人間を幽霊だと誤解し、悩んでいたときから、だと思う。しかし、木根原に対する感情を、勇太はこれまで必死になって抑えつけていた。だが、気にしている存在だからこそ、自分がもらっていない物を他人がもらっているのを見ると無意識に焦ってしまう。そんな勇太を尻目に、雨宮准教授は持っていた紙の束を勁次郎が操作するノートパソコンの横に放り投げ、自分が使っている大きめの机の横に置いてある座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろした。
「これで全部だ」
 そして自分の机の上にあるカードを取って勇太に見せびらかす。
「俺ももらった」
 勇太が持っている勁次郎宛のものと同じ、厚手の紙に、目を逸らす。一限目が始まる前に持ってきたんだ。兄の言葉に、勇太は顔色を変えないように自分を律するのが精一杯だった。
「おまえはもらってないのか?」
 その勇太の耳に、揶揄がしっかりと含まれた兄の言葉が響く。口の端を上げた兄を、勇太は屹然と睨んだ。
「……あ、そうだ」
 その勇太の視線を何とも思っていないように、不意に兄は立ち上がり、自分の机の上の紙の山の中から一束の紙を出して勁次郎の膝に放った。
「修論、直しといたぞ」
 兄の言葉に、はっとして兄を見る。口の端をにやっと歪めたまま、兄は勇太に言った。
「ま、全員分あるらしいし」

 その後、勇太は午前中一杯提出書類の作成を無理矢理手伝わされた。
「……はー、疲れる」
 地下二階の階段下、一番お気に入りの隠れ家で背伸びをする。地下にある為か冬でもかなり暖かく、そして少しだけ薄暗い空間は、ほっとできる場所の一つ。
 三限が有るからと言って何とか兄の研究室を抜け出してきたのは良いのだが、眠い上に書類作成で肩が凝ってしまっている。授業に出る気が全くしない。更に悪いことに時間が悪く、カフェテリアが混んでいて昼食にありつけなかった。後五分ほどで三限が始まるが、こうなったらサボるしかないだろう。
 床が冷たいので上着を敷いた上に座り、背負っていたギターを取り出す。この場所でギターを弾くと、音波が壁や空間で微妙に共鳴してなかなか味な音色になる。これがこの場所が好きな理由の一つだ。そしてもう一つの理由は。
「……あ、勇太さん」
 頭上からの声に、ギターに触れかけた手を止める。階段の隙間から上を覗く。地下一階の手摺から半ば身を乗り出すようにした丸顔の顔が、確かに見えた。木根原だ。この隠れ家の第二の利点は、ここに居れば他人からは容易に姿が見えないこと。だが今の木根原のように階段から身を乗り出されては折角の利点もパアだ。ていうか落下の危険を考慮しろ。勇太は思わず口を開いた。
「木根原!」
 だが、勇太が注意を促す前に木根原の姿は勇太の視界から消え、続いて階段をパタパタと下りる音が聞こえてきた。そしてすぐに、小柄な身体にシンプルな服を着た少女が現れる。
「ここにいると思った」
 多少照れたような明るい声が、勇太の耳にくすぐったく響く。そう言ってから、木根原は肩に掛けていた図書の本を入れる布鞄から黄みがかった封筒と小さなワックスペーパーの包みを取り出し、勇太の方に突きつけるように差し出した。
「あ、あの、……これ」
 これは。内心の喜びを押し隠し、差し出されたものを受け取る。中身が何かは、分かっている。クリスマスカードとクッキー。両方とも木根原お手製のもの。
「……どうも」
 気恥ずかしさで、お礼の言葉が出てこない。二つの包みを手にしたまま、頷くのがやっと。それでも、顔を上げると、耳まで真っ赤にした木根原の顔が、確かに見えた。
「……ありがとう」
 何とかお礼の言葉を口に出す。勇太の声に、木根原はこくんと一つ頷くと、くるりと身を翻し勇太に背を向けた。そして現れたときと同じように唐突に、木根原は勇太の視界から消え、代わりに階段を上がる木根原の足音が勇太の耳に響いた。
「また、来年」
 遠くに響く木根原の声に、頷いて手を振る。おそらく木根原は、明日には実家に、日本海側にあるあのこざっぱりとした旅館に帰るのだろう。足音の響きがすっかり消えてから、勇太は一つ息を吐き、ギターを取り上げて弦に指を沿わせた。
 俺はどうしてこんなに臆病なのだろう。同性とは一対一でも堂々と話せるし、異性と一緒でもグループで話しているときは軽口が勝手に口をついて出てきてくれるのに、異性と一対一では何を話していいのか分からなくなる。木根原に対して何も言えなかった自分のふがいなさに、今更ながら腹が立つ。ギターから出る音も短調ばかりだ。ギターを弾く手を止めると、勇太は今度は大きく、溜息をついた。
 と。
「……なんでそんな暗い曲ばかり弾いてるのよ」
 不意に頭上から女の鋭い声が降ってくる。この声も知っている。勇太は物憂げに顔を上げた。階段の隙間から、さっきより細面の顔が覗いている。勇太達と同じ『歪みを識る者達』、勇太より一学年年上の、数理工学科きっての才女、三森みもり香花きょうかだ。
 勇太が閉口している間に、三森は勇太が居る場所にまで降りて来る。勇太の目の前に立った三森は、木根原とは対照的な女性だった。無造作に束ねられた真っ直ぐな長い髪、細身の身体に似合った、流行に沿った服装。手にしている小さく頑丈な鞄には、小さいが高性能のノートパソコンが入っているのだろう。兄である雨宮准教授と同じく、計算によって『歪み』を修整することができる。それが、三森香花の力。
「三限は?」
 ぞんざいな口調で三森が訊く。飛び級で帝華大学に入った三森は、学年では勇太より上だがもともと勇太より一学年下という、ややこしい存在。しかも早生まれなので実際の年で言えばまだ十九、すなわち木根原と同い年である。そんな三森だが勇太に対してだけは知識と素養の面に関して『認めて』いないらしく、兄貴や勁次郎はともかく木根原に対してよりも冷たい口を利く。いつもならそんなことは簡単に聞き流せるのだが、心が鬱な今日は少しだけむっとする。
「サボり」
 それでもこいつと争う気は無い。清楚な見かけから隠れたファンが多いという噂の三森だが、勇太より語彙が多いこいつと争えば傷付くのはこちらだ。だから。勇太は内心の腹立ちを押さえた声で一言だけ、口にした。
「ふーん」
 その勇太に三森が発した言葉には、明らかに勇太を馬鹿にした雰囲気が含まれていた。だから、というわけでは無いが。
「あんたこそ三限は?」
 何とかそれだけ反撃する。
「休み。四限目もね」
 勇太に対する三森の声は明らかに勝ち誇っていた。
「だから雨宮先生のところへ言って手伝いをするつもり。……あら」
 不意に三森の口調が変わる。
「あなたももらったのね、クリスマスカード」
「返せよ!」
 膝の上に置きっ放しにしてあった木根原からのクリスマスカードを拾い上げた細い指に、素早く手を伸ばす。木根原からもらった大切なものを、取られるわけにはいかない。
「そんなにむきにならなくても」
 その勇太の行動に心底呆れたのか、三森はカードを投げるように返してよこした。
「私ももらってるし」
 小さな鞄から、勇太がもらったのと同じ黄みがかった封筒を出し、三森が兄と同じ表情を見せる。その表情に再びむっとした感情が起こり、勇太は三森をきつく睨んだ。三森の表情も行動も、天敵である兄に似ている。そのことが、勇太の苛立ちを倍増させていた。
「……そうだ。あなたに用があったの」
 だが、これも兄と同じように勇太の視線を総無視して、三森は取り出したばかりのカードをバッグにしまう。そして徐に、鞄から茶封筒を取り出し勇太の膝に落とした。
 ちゃりんという小銭の音が、小さな空間に響く。
「何、これ?」
 訝しそうに尋ねる勇太を尻目に、三森はさっと向きを変えると階段を上り始めた。
「やることはその中に書いてあるから」
「え?」
 当惑する勇太を置いて三森は階段を駆け上がっていく。
「ちょっと、三森!」
 勇太の叫びは階段の吹き抜けに空しく響いた。
「……何だよ」
 勇太はふっと溜息をつくと、床に座り直して茶封筒をひっくり返した。中から出てきたのはお金と、半分に折りたたまれた紙切れが一枚。
「……指令、書?」
 その紙を広げて読み出した勇太は中に書かれていた事に絶句した。
「何だ、これ……?」

 放課後。勇太はカフェテリアを貫くエスカレーター傍の椅子に陣取り、木根原が下りてくるのを待っていた。
 三森香花から渡された『指令書』の内容は、クリスマスカードとクッキーのお礼に今日の放課後木根原を『デート』に連れて行くこと。しかも兄貴と勁次郎、そして三森の三人の連署入りである。
〈何で、俺が……〉
 多分兄貴が画策したことに違いない。あの兄貴のにやっとした顔を思い出し、勇太は胸がむかむかするのを感じた。その上、更なる問題がある。……勇太がデートに連れ出して、果たして木根原は喜ぶのだろうか。
〈どう、しよう……〉
 じりじりとした想いに、勇太は無意識に唇を噛んだ。
 勇太のそんな焦燥感をあざ笑うかのように、木根原はなかなか姿を現さない。既に家に帰っているということはないだろう。木根原が四限目に取っている授業が休講になっていないことは確認済みである。真面目な木根原のことだから授業にきっちり出席した上に先生に何か質問でもしているのだろうか。そんなことを考えていた勇太の眼の端に見慣れた姿が映った。木根原だ。
 木根原の姿を認めるや否や、勇太は一気に椅子から立ち上がるなりエスカレーターの前に立つ。
「勇太さん」
 驚きに目を丸くした木根原の表情で、勇太の視界はいっぱいになった。
「どうしたんですか?」
「……一緒に、帰らないか?」
 木根原が来るまで散々言いたい台詞を考えていたにもかかわらず、口をついて出たのはたったこれだけ。女の子を誘った経験が無いからとはいえ、これではちょっと直接的過ぎる。勇太は自己嫌悪に陥った。
「良いですよ」
 が、木根原の方はそんな勇太の気持ちに全くといっていいほど気付いていないようだ。いつもの調子でそれだけ言うと、勇太の方を向いて少しだけ首を傾げ、そしてにこりと微笑んだ。たったそれだけのしぐさなのに、勇太の心はさっとほぐれる。二人はつかず離れずの距離で歩き出した。

 終業時間が過ぎて静かになったオフィス街を抜け、駅前商店街に入る。その間、勇太も木根原も押し黙ったままだった。何か、話さないといけない。焦りが、勇太の口を重くさせる。『指令書』に書かれていた、飲食もできる洋菓子店の看板のネオンがやっと目に入り、勇太はほっと息を吐いた。
「ここ」
 木根原の、本が入っている布鞄の持ち手を弱く引き、歩く木根原の足を止める。
「……あの?」
 洋菓子屋の前で急に立ち止まった勇太に木根原が首を傾げる様が、瞳に映る。その木根原の柔らかい腕を半ば強引に掴むと、勇太は無言のまま店の門を潜った。
「え、あの、ちょっと!」
 当惑する木根原の声を無視し、勇太は近くにいた店員に指令書に書かれていた通り「予約した雨宮ですけど」と言った。
「ああ、ハイハイ」
 既に兄が手を回していたらしい、店員は愛想良さそうに微笑むと、勇太と木根原を奥のテーブルへ案内した。席に木根原を座らせ、自分も座るとやっと心が落ち着いてくる。
「あの、勇太、さん?」
 木根原はまだ当惑していた。
「何で、急に?」
 もう一度首を傾げた木根原の疑問に答えるかのように、先程の店員がケーキの乗った皿を二枚持ってくる。大きな、色々なものが乗っている皿を木根原の方へ、小さいケーキだけが乗った皿を勇太の方に置き、木根原に紅茶を、勇太にコーヒーを出すと店員は「ごゆっくり」と一言だけ言って去って行った。
「……え」
 目の前に置かれた皿を見て、木根原が当惑と歓喜の入り混じった声をあげる。
「これって……」
 確かに、木根原が当惑するのも分かる。皿の上にあるのは、チョコレート色をした様々な形のケーキが四つと、上にチョコレートソースがかかった白いバニラアイスと茶色っぽい色をしたアイスクリーム、そしてチョコレートクッキー。和菓子も好きだがチョコレートも好きだと小さな声で言ったことがある木根原には嬉しい組み合わせだろう。一方、勇太の皿には抹茶ケーキの小さいのが申し訳程度に乗っていた。まあ、甘いものが苦手な勇太だからそれで良いと、思う。
「これ、全部食べて、良いの?」
 まだ信じられないと言った面持ちで木根原が勇太に尋ねる。
「良いんじゃない」
 何も入れないコーヒーを一口飲んでから、勇太はゆっくりと、答えた。
「嬉しい。……いただきます」
 皿に向かっていつもの通り手を合わせてから、木根原は喜びに満ちた笑みを浮かべ、手前のケーキにフォークを入れた。
「……これ、頼んだの、雨宮先生?」
 堅そうなケーキを一口頬張り、紅茶を飲んだ後で木根原が尋ねる。
「え?」
 何故分かったのだろう?
「この前、先生に『ケーキは何処のが美味しいんだ?』って訊かれたから、私、ここのザッハトルテを推薦したの」
 なるほど。それであの甘い物に全く興味を示さない三人組がここを指名したのか。勇太は妙に納得した。
「……ねえ、勇太さんはそれだけで良いの?」
 ケーキを大部分食べ終わり、少し溶けかけたアイスクリームに取り掛かった木根原が勇太に尋ねる。
「あ、うん」
 やはり甘いものには興味が無い勇太は簡単に返事をした。
「ふーん。……そうだ」
 不意に、木根原が自分の皿を勇太の前に押し出す。そしてカラメル入りだという茶色のアイスを勇太に示した。
「これだったらあまり甘くないし」
 言われるままに、抹茶ケーキを食べたフォークでそれを少しだけ掬って食べてみる。ほろ苦く、甘い味が口一杯に広がった。
「美味しい?」
「う、うん」
 確かに、美味しいと言えば美味しい。勇太は小さく頷いた。
「良かった」
 勇太の言葉に、木根原が微笑むのが見える。その笑顔に勇太の心も嬉しくなるのが、分かった。

 店の外に出ると、既に辺りはすっかり暗くなってしまっていた。クリスマスバージョンにライトアップされた駅前商店街が華やか過ぎるほど華やかに輝いている。
「……あ」
 腕の時計を見て、木根原が大声をあげる。
「帰らなきゃ」
「送っていくよ」
 お腹に食べ物を入れたからだろうか、今度は言葉がスムーズに出た。
「良いの?」
「良いよ」
 木根原の下宿先は駅裏にある。そのくらいの距離だったらそんなに手間でも無い。
 二人はまたつかず離れずの距離で駅に向かって歩いて行った。

 線路を跨いで繋がる、駅内の連絡通路にもいくつかの店が軒を並べている。そのうちの一つで、木根原は一歩だけ足を止めた。そこは生活雑貨やぬいぐるみを扱う店の前。ショーウインドウには可愛らしい縫いぐるみが山のように飾られている。その縫いぐるみに、『指令書』に書かれたもう一つの指令を思い出し、勇太は慌てて肩のリュックを下ろし、中に入っていたプレゼント包みを取り出した。先程の洋菓子店で渡しそびれてしまったので、これを渡すタイミングは多分ここだろう。
「……ほら」
 半ば押し付けるように、紙包みを木根原の腕に置く。
「……え?」
 木根原は今日二度目の当惑の表情を浮かべた。
「なに? これ? 開けて良い?」
「ああ」
 勇太の目の前で木根原がもどかしげに包装を解く。出て来た物に木根原は「わっ!」と声をあげた。木根原の手の中にあるのは、横のショーウインドウに飾られているものと同じ、柔らかい桃色をしたうさぎの縫いぐるみ。木根原を待ち伏せる前に、勇太がこの店で買ったもの。
「これ、本当にもらって良いの?」
 当惑する木根原に、静かに頷く。勇太の表情を確認する仕草を見せてから、木根原はその柔らかな毛にそっと頬擦りをした。渡された予算の関係で小さなものしか買えなかったが、それでも、木根原はこんなに喜んでくれた。そのことが、勇太の心を温かくしていた。
「ありがとう、勇太さん」
「……いや」
 頭を下げる木根原に、勇太は照れながらもはっきりと言った。
「兄貴と、勁次郎さんと、三森に頼まれたんだ」
 この計画の発案者はこの三人だ。勇太は全く関与していない。これだけははっきりしておかないと、三人にも、そして木根原にも悪い気がする。
「多分、クリスマスカードとクッキーのお礼だと思うぜ」
「そう? そう、なの?」
 勇太の言葉に、木根原は腕の中のピンクのうさぎをぎゅっと抱き締めた。
「何か、すっごく、嬉しいな」
 見ると、木根原の目がうっすらと涙で濡れている。
「大好きな、人たちに、大切にされているのが……」
 そんな木根原の様子が、勇太の何かを動かした。おそらくこれが、流行りの歌に歌われているような『クリスマス』、なのだろう。勇太は一人、こくんと頷いた。そして。衝動のままに、微笑む木根原の肩に手を置く。だが。次の瞬間。
「……あ」
 おそらく勇太の行為に困惑したのであろう、木根原の肩が、勇太の手を振り解く方向へと動く。自分の行動にも、その後の木根原の行動にも、勇太は正直驚いていた。しかしながら。顔を真っ赤にして下を向いた木根原に、当惑は全て吹き飛ぶ。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「謝らなくて良いよ」
 明らかに悄気返った木根原の声を、勇太は軽い声を出して制した。考えてみれば、『カノジョ』でもない木根原に馴れ馴れしい行為をした自分が悪いのだ。だが、一度生じた胸の当惑は中々消えてくれない。
「もう、帰ろうか」
 それだけ言うのがやっとだった。

 そのまま二人は押し黙ったまま、木根原の下宿先に向かった。勿論、手すら、繋いでいない。そのことが、勇太の心を最大限まで降下させていた。やはり、木根原は、勇太のことを好きではないのだろう。友達としてはみているが、『カレシ』としては、考えられないのだろう。諦念が、勇太の心を支配していた。だが。下宿先の玄関の前で、木根原は勇太の手を少しだけ握る。勇太が当惑するより前に、木根原は勇太から手を離した。
「ありがとう。また、来年!」
 その言葉だけが、耳に響く。勇太の目の前で、木根原はくるりと向きを変えて家の中へ走り去ってしまった。後に残ったのは、呆然とする勇太のみ。
「……また、来年、か」
 やっとそれだけ、呟く。
 勇太は駅まで、元来た道を歩き始めた。
 心は淋しかったが、それでも少しだけほんわかと温かい気持ちが心の隅に残っている。その温かさを、勇太は静かに感じていた。

それでも、なお

 午後の授業終了の合図と同時に、安堵の息があちこちから聞こえてくる。
 これで、冬期の授業は終わり。三年生はレポート提出を最終課題としている授業ばかりなので、来週行われる地獄の試験週間は、無いのと同じ。小さな教室いっぱいに広がった和らぎに、香花きょうかは流されまいと唇を横に広げた。大学の三年生だから、就職活動をする学生は気を休めてはいけない。……香花自身も。
 筆記具を手早く、布の筆箱に納める。授業のレポートは、既に全て提出済み。それでも、勉強は必要。何故なら。そこまで考えて、香花は少しだけ口の端を上げた。せっかくのチャンスなのだ。きちんと、結果を出さなくては。
 まだ三年生である香花に、飛び級での大学院入試受験許可が出たのは、一昨日のこと。
「情報工学科との共著論文もあるし、成績は九〇点以上しかついていない。基礎なら目を瞑っていても解けるだろうし、受験すれば合格は確実だな」
 香花が勉学等でお世話になっている、数理工学科所属の雨宮あめみや先生はそう言っていたが、油断大敵。一人こくんと頷いて、香花は筆箱とノートを鞄に納めた。
 次の瞬間。
「痛っ!」
 指を刺す痛みに、思わず声を上げる。反射的に鞄から引っこ抜いた右手は、人差し指が僅かな血に濡れていた。幸い、香花以外の学生は既に教室にはいない。そのことをもう一度確認すると、香花は人差し指を舐めて血を止め、机の上に置いた淡い色の肩掛け鞄から慎重にノートや本を取り出した。……やはり、あった。小さな、折って新しい刃を出すカッターナイフの折れた刃に、唇を歪める。大学で使っているロッカーの扉の隙間にも、今朝、これと同じ刃が刺さっていた。その刃はきちんとゴミ箱に捨てたはずなのに。何時、鞄の中に入ったのだろう? もやもやとした気持ちを追い出すように、香花は強く首を横に振った。嫌がらせの原因は、簡単に予想がつく。飛び級で大学院を受験する香花を煙たく思っている四年生がいるのだろう。大学院には定員があり、それを越えると上の方から色々言われるらしいことは、教授会後に吐き出される雨宮先生の文句から香花も推測で知っている。午前中の大教室でも、睨まれているような、冷たい視線と雰囲気を感じた。嫉妬したり、嫌がらせをしたりするくらいなら、その時間で本を読むなり計算するなりすれば良いのに。もう一度唇を噛んでから、香花はカッターの刃以外の取り出したもの全てを鞄に乱暴に突っ込み、席を立った。

 自分が選んだのではない、少し踵の高い靴で廊下を蹴りながら、七階にある図書室へと向かう。
 勉強するのであれば、雨宮先生の研究室にある大きなテーブルを使うという手もある。だが、おそらくそこでは、一年生である怜子さとこちゃんが、雨宮先生の弟である二年生の勇太ゆうたと一緒に来週の期末試験に向けて勉強をしているだろう。二人の邪魔をするのは気が引けるし、香花自身も静かな環境で勉強したい。だから。図書室の隅に席を確保し、香花は開架棚を歩いた。
 基礎を復習する為に、初学者用の線形代数と解析学の本を手に取る。両方とも、先の春、図書館の上の棚にある本を取るのに苦労していた香花を助けてくれた怜子ちゃんにお礼の代わりに選んであげた本。懐かしい。微笑んで、香花は幾何の棚の前に立った。確かあの時、怜子ちゃんにはもう一冊、幾何の本も渡したっけ。そのことを優しく思い出しながら、香花は初学者用の幾何の本に手を伸ばした。
「痛っ」
 そして再び、思わぬ声を上げてしまう。再び、痛みが走った右手を見ると、今度は中指が血に染まっていた。とにかく、図書の本を汚してはいけない。片腕だけで二冊の本を支えながら、右中指を口の中に入れる。幸い、傷は浅かったのだろう。中指の血もすぐに止まった。そして。幾何の本のページの間に見えた鋭い光に、身体全体が熱くなる。こんなところにも、嫌がらせとは。そこまでして、香花を大学院に合格させたくない人間がいるらしい。それならば、なおのこと。本来の負けず嫌いがむくむくと顔を出す。こうなったら、トップの成績で合格してみせる。取りだした本をぎゅっと握り締め、香花は独り、頷いた。

 大学院入試前、冬期期末試験が行われている一週間の間、香花は入試の勉強に邁進した。
「熱くなってないか、三森みもり?」
 一度だけ、図書室で一人勉強している時に、たまたま資料を借りに来たらしい雨宮先生からそう言われた。おそらく、香花が生活面でお世話になっている、雨宮先生とは高校時代からの腐れ縁だという舞子まいこさんとあきらさんから、ご飯も食べずに夜遅くまで机にかじりついていると報告を受けたのだろう。少ししかめ面に見えなくもない雨宮先生の緑色の瞳に、香花は普段通りに聞こえる声で答えた。
「問題無いわ」
 カッターの刃の件は、心配させるといけないから誰にも話していない。しかし別の件で、大切な人を心配させるところだった。だが、それでも。期末試験で大変なのかすぐに去って行った雨宮先生の背を追うことなく、香花は勉強に戻った。

 そして、試験当日。
 手抜かりなく準備を整え、香花はいつもより早い時間に大学構内へと入った。
 試験の会場は、いつも使っている大教室。緊張は、……多分、無い。踵の低い靴で廊下を蹴り、香花は大教室の扉を大きく開いた。次の瞬間。
〈……え?〉
 耳鳴りとともに、視界が暗転する。いつもの大教室のはずなのに、雰囲気が、全く違う。冬だという以上に、冷たく、そしてよそよそしい。これは、一体? しばらく戸惑ってから、香花は不意に答えを出した。……まさか、『歪み』に、囚われた?
 香花が所属する帝華大学理工科学部の建物には、内積が広くなるよう、とある幾何理論を用いて特殊な加工が施されている。雨宮先生の指導教官であったというたちばな教授が作り出したその理論は完璧であったと、雨宮先生は常に口にしている。そして実際に、殆どの場合において、この建物にいる人々は建物の、外観に対して中が広すぎるという懸念を全く持たずに生活している。しかしながら。時折、理論によって歪ませた時空に、囚われてしまう人がいる。そのことも、香花は経験として知っていた。だが、……こんな大事なときに。涙を覚え、香花は唇を噛んだ。このまま、歪みに囚われたままになってしまったら。近くにあるはずなのにずっと遠くにあるように見える大教室に集まる受験生達を睨み、息を吐く。いや、雨宮先生と、雨宮先生が見つけだした、『歪み』を識り、『歪み』に対処できる仲間達がいる。助けは、絶対に来る。優しい怜子ちゃんも、雨宮先生の弟である小生意気な勇太も、いつも気を回してくれる先輩の勁次郎けいじろうさんも、雨宮先生だっている。雨宮先生の研究室に集まる人々の顔を思い出し、香花は無理に口の端を上げた。大丈夫。受験できなかったら、舞子さんと亮さんに無理を言って留学させてもらおう。二人と、雨宮先生にも高校の勉強を教えてもらって、飛び級で入った大学は退学になってしまうかもしれないけど、雨宮先生に恩返しできなくなるけど、こんな陰湿な場所にいるより、ずっと良い。香花がそこまで思考した、まさにその時。
「香花さん!」
 聞き知った声が、暗い空間に響く。はっとして振り向くより早く、香花の横には、香花より少し背の高い、穏やかな人物が立っていた。
「怜子ちゃん!」
 何故? 疑問符を口にする前に、胸を撫で下ろした怜子の笑みが目に入る。
「良かったです」
 香花のことを気にして試験会場を見に行った雨宮先生が香花の不在に気付き、『歪みを識る者』全員で探していた。怜子の説明に一度だけ頷く。しかし今日は入試の日だから、受験者でない学生は入構禁止ではなかったか? 香花の疑問に、怜子は俯き、そして顔を上げて答えた。
「実は、……先々週くらいから、行方不明になっている四年生がいるんです」
 大学院入試の勉強に専念している香花には黙っておくよう、雨宮先生から言われていたので。済まなそうに口を開く怜子にこくんと頷く。試験勉強に気を取られ過ぎていた。熱くなり過ぎても、これだから。怜子に悟られぬよう、香花は心の隅で自嘲の笑みを浮かべた。
「勇太さんも平林さんも近くにいるはずですから、すぐに脱出できると思います」
 そう言って辺りを見回した怜子に、もう一度頷く。とにかく、早く此処から脱出して、試験を受けないと。いや、……焦りは禁物。心を静めるために、香花は小さく息を吸った。その時。
「香花さん!」
 全く不意に、怜子が香花を突き飛ばす。次に香花の目に映ったのは、香花を見下ろす、冷たい、赤に濡れた刃。
「怜子ちゃん!」
 動けない香花を庇うように、香花の前に怜子の腕が伸びる。その腕に滲む赤に、香花は目を見開き、怜子の向こうに光るカッターナイフを持つ影を睨んだ。おそらく、四年生。手の中にあるカッターナイフの刃は、短い。そこまで見て取り、香花は唇を噛み締めた。折った刃を香花周辺にばらまくことによって、この人はSOSを出していた。香花自身には見ることも感じることもできない『歪み』を解析し、直すことが、香花の『歪みを識る者』としての役割とはいえ、この数週間、『歪み』のことをすっかり忘れていた。迂闊だった。広がり続ける怜子の腕の赤に、香花は再び唇を噛んだ。しかしながら。……反省は、後だ。闇雲に伸びてきた遠くの太い腕を、細い腕を精一杯伸ばして掴む。もう一方の腕で怜子の服を掴んだ次の瞬間には、視界は元の明るさを取り戻していた。
木根原きねはら!」
 機械音が響く、地下二階の階段下に尻餅をついて腕を押さえる怜子の身体を、勇太が抱き上げる。
「すぐに保健室へ!」
 雨宮先生の声が香花の耳に響いたときには既に、勇太は怜子を抱きかかえたまま、小さな階段を登っていた。
「この人も、保健室ですか?」
 階段下の空間に倒れた大きな影から血に濡れたカッターナイフを冷静に取り上げた勁次郎が、雨宮先生に目配せする。頷いた雨宮先生を確かめてから、勁次郎はその太い腕で気絶している四年生を担ぎ、ゆっくりと階段を登って行った。
 そして。
「さて」
 顔をしかめ、四年生が持っていたカッターナイフの刃を納めてポケットに入れてから、雨宮先生が香花を見下ろす。その時になって初めて、香花は自分が冷たい床に尻餅をついたままであることに気付いた。
「どうする?」
 雨宮先生が問う前に、冷たい床から立ち上がる。
「受けに行くわ、試験」
 怜子ちゃんは、それを望んでいる。香花の言葉に、雨宮先生が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「まだ、試験が始まって五分しか経っていない」
 腕時計を確認して、雨宮先生が頷く。
「遅刻限度は二〇分。三森なら、基礎試験は30秒で解けるだろ」
「ええ」
 何処か皮肉にも聞こえる言葉で、普段の冷静さを取り戻す。地面に落ちていた鞄を肩に掛けると、香花は強い音を立てて階段を駆け上った。

取り替え子

 東向きの窓の向こうに見える降る雪を、ぼうっとした瞳で見つめる。
 この雪は、積もらない雪だな。母や祖母や父がいる、日本海側の旧宿場町に降っていた、氷のような雪が脳裏に降った気がして、怜子さとこはそっと首を横に振った。その動作で、忘れていた左二の腕の痛みが鈍く蘇る。大学で数学を教えてくれる三年生、怜子と同じ『歪みを識る者』の一人である香花きょうかを庇ったときに工作用のカッターナイフで深く切られた傷は、まだ熱を持っている。
「春休みだから、熱が下がるまで寝てなさい」
 腰を痛めるまでは看護師として働いていたという、怜子が都会にある帝華大学に通うためにお世話になっている父方の叔母の言葉に従い、自室にしてもらっている畳敷きの部屋の布団の上で、眠ったり、大学の指導教員であり『歪みを識る者』の一人である雨宮あめみや先生が持ってきてくれた数学の本を読んだりして過ごしてはいるが、まだ、身体の芯が気怠い。いや、気分が落ち込んでいる、本当の理由は、怪我の熱の所為ではない。
「怜子ちゃん」
 不意に、廊下から叔母の声が響く。
「雨宮先生がいらっしゃったんだけど、入ってもらって良い?」
「あ、はい」
 急いで、畳床に広がっていたカーディガンを痛みの無い右手で掴む。上半身を起こすよりも早く、襖が開き、黄金の髪が怜子の目の前で揺れた。
「本持ってきた」
 行事の度に大学で配っている大学名入りの薄い不織布の鞄から重そうな本を次々と取り出し、枕元に積み上げる雨宮先生の細い指を、ただただ見つめる。
「熱、まだあるんだってな。無理するなよ」
 勇太ゆうた達を見舞いに来させるのは、もう少し熱が下がってからだな。そう言って踵を返しかけた、雨宮先生のズボンの裾を、怜子は半ば無意識に掴んだ。
「どうした?」
「あ、その……」
 先生の声に、首を横に振る。何故雨宮先生を引き留めたのか、自分でも分からない。だが。……雨宮先生にも、他の誰にも、これ以上心配を掛けるわけにはいかない。それだけは、確か。だから。雨宮先生の緑の瞳を見上げ、怜子はもう一度首を横に振った。
 と。
「話せ、木根原きねはら
 いきなり、雨宮先生が木根原の横にどっかと腰を下ろす。
「秘密は守る」
 いつも以上に短い、しかし確実に温かい言葉に、怜子の瞳は一瞬で熱くなった。
「け、血液型、が」
 ぼろぼろとこぼれる涙の中から、何とか声を絞り出す。
 輸血が必要になるかもしれないからと、怪我の治療の際、血液型を調べてもらった。その時の結果が、怜子の懸念。父がO型、母がAB型なのに、自分の血液型はO型。自分は、父母と血が繋がっていないのだろうか。誰にも言えなかった言葉が怜子自身の口から漏れるのを、怜子はただ呆然と聞いていた。
「で」
 その怜子の耳に、雨宮先生の疑問符が降ってくる。
「何が心配なんだ、木根原は」
「父が、本当の父ではないかもしれないこと、です」
 ヒステリーを起こしては怜子を叩いていた、古い旅館の美人女将を表の顔としていた母と、ただ黙々と、美味しい料理を追求していた父の顔が、同時に脳裏に浮かぶ。母には、何の感傷も湧かない。しかし、父は。もしも父が本当の父でないとしたら、自分は。
「だったら」
 しかし怜子の懸念は、雨宮先生の言葉で消えた。
「心配することはない。木根原の父親は、父親で大丈夫だ」
 血液型がAB型の親からO型の子が産まれる可能性は、変異などを考慮してもかなり低い。一方、血液型O型の親からO型の子が産まれる可能性は、もう一方の片親のことを考慮する必要があるが、それなりに高い。だから、父ではなく、母が違う。雨宮先生の、数学の定理を証明するときと同じ、明快な口調に、怜子は心からの安堵の息を吐いた。

 雨宮先生が帰って行くのを窓から見送り、再び布団に潜り込む。
 左腕の痛みは、もう感じない。明日は、叔母と一緒にキッチンで少しだけ料理ができるかもしれない。そう思いながら、怜子は雨宮先生が置いていった重い本の下になった料理の本を手に取った。
 美味しそうに盛りつけられた調理例を眺めながら、あの、どことなく冷たかった空間に思いを馳せる。何事も自分の意のままにならなければ気が済まなかった母は、外面は良かったが、ヒステリーを起こすと確率1で怜子を叩いた。年の離れた姉ばかり可愛がる母に可愛がってもらったという記憶は、怜子には無い。母の代わりに怜子の衣食を揃えてくれ、生活に困らない知識を教えてくれたのは、母の妹であり、古い旅館でずっと下働きをしている母の妹、桃子ももこ叔母さんだった。母の言動に戸惑う怜子を、厨房の隅に設えた隠し部屋に匿って守ってくれた父と、母の暴力から怜子を庇い、怜子が勉強をして数学の先生になることを応援してくれた桃子叔母さんが居たからこそ、今の怜子がいる。血液型のことは、父にきちんと確かめよう。布団の中で頷き、怜子は料理の本を閉じた。その時。
「兄さん! 桃子さんも!」
 すっかり暗くなってしまった空間に、戸惑う声が響く。カーディガンを羽織って部屋を出ると、玄関に、うずくまったような二つの影があった。
「怜子」
 小さな影を支えた父が、怜子を見て小さく微笑む。
「とにかく、上がって、兄さん」
 叔母に支えられるように畳敷きの居間に腰を落とした桃子叔母さんの、ショールの影になった頬は、昔怜子が母に叩かれたときと同じように赤く腫れていた。
「桃子叔母さん」
 叔母が出した温かいお茶に手を伸ばす父の隣に座り、父の向こうの桃子叔母さんの微動だにしない小さな身体を見つめる。
「怜子、……済まない」
 その怜子の手を、父の、節くれ立った手が掴んだ。
「父さんは、……やってはいけないことをした」
「そんなことはありませんよ」
 父の横から、桃子叔母さんの静かな声が響く。
「あの時、私は幸せでした。……今も」
「元々、兄さんが結婚の約束をしたのは、桃子さんと、でしたからね」
 何か食べた方が良いでしょうと温かい澄まし汁を持ってきた叔母が、怜子が知らなかった事実を告げた。
「桜子さんが、我が儘過ぎたのよ、昔も、……今も」
 料理人として修行を積み、旧宿場町の小さな旅館に職を得た怜子の父は、そこで働く桃子という小柄で気立ての良い少女に好意を持った。だが、二人だけで結婚の約束をした直後、桃子の姉であり、何事も自分中心でないと気が済まない旅館の若女将、桜子さくらこが、自分の母親を言いくるめ、怜子の父を自分の夫にしてしまった。もちろん、夫婦仲は冷め切っている。料理を極めたいという目標と桃子への小さな思慕だけで、怜子の父は旅館の料理長を勤め続けていた。だが、肌に触れてさえいない桜子の妊娠に、堪忍袋の尾が切れてしまう。先に生まれた娘も、おそらく自分の子では無い。こんな茶番をいつまで続ける気か。料理包丁を手に厨房を出ようとした怜子の父を止めたのは、未だに旅館の下働きのままであった桃子だった。衝動のままに、怜子の父は桃子を抱き、その結果産まれた娘を、父は旅館の大女将、桃子と桜子の母と協力して、死産した桜子の赤子と入れ替えた。その結果が、……怜子。
「本当に、済まない、怜子」
 頭を下げる父に、首を横に振る。父が父であるなら、怜子は、……構わない。
 そして。
「桜子さん、だいぶん酷いヒステリーを起こしたみたいね」
 桃子叔母さん、いや怜子の本当の母である人のショールを外し、髪に滲む血を調べた叔母が大きく溜息をつく。
「逃げてきて正解ね、兄さん」
「ああ、……だが」
 妹の言葉に、父は桃子さんを見、そして首を横に振った。
「これから、どうすれば」
「ここで、店を開けばいいじゃないですか。……怜子ちゃんも、いますし」
「そう、だな」
 温かい提案に、父が首を縦に振る。
 父と、桃子さんが、幸せになれるのなら、私は何でも協力する。小さく芽生えた感情に、怜子は独り、頷いた。

新たな季節

 四月。
 久し振りに大学に登校した怜子さとこが目にしたのは、雨宮あめみや研究室の前で睨み合う二人の男性。一人は、背後の研究室の主、帝華ていか大学理工科学部准教授、雨宮先生。そしてもう一人は、雨宮先生と同い年くらいの、知らない人。
「……」
 二人の険悪な様子に呆然としてしまった怜子を先に認めた、見知らぬ方の男性が、暗い瞳で怜子を睨む。そのままの表情でもう一度雨宮先生を一瞥すると、見知らぬ男性は怜子の横をすり抜けて廊下の向こうへと消えた。
木根原きねはら。丁度良かった」
 呆然としてしまった怜子の耳に、先程までの雰囲気など微塵も無い雨宮先生の快活な声が響く。
「ちょっと見てほしいものがあるんだ」
 雨宮先生の手招くままに、怜子は廊下の別の端に立った。
「あ……」
 廊下の隅、消火器が置いてある付近に冷え冷えとした色を認め、思わず声を出す。まだ、小さいが、……『歪み』だ。
 帝華大学理工科学部は、外観に比べ内部の充実度が高いと評判の、街中にある十四階建ての建物をキャンパスとして用いている。その『内部の充実度』を支えているのが、雨宮先生の指導教官であった帝華大学教授橘真たちばなまことの理論。橘教授の理論は完璧だと、雨宮先生はいつも言っている。しかしその理論を応用して建てられたこの建物は時折、人を飲み込んで閉じこめる『歪み』を生み出してしまう。その『歪み』を見つけ、正すのが、雨宮先生と、先生が見つけた『歪み』に対処できる学生達『歪みを識る者』。
 怜子自身も、建物に生じる『歪み』を見ることができる。その、自分ではよく分からない『能力』が、掛け替えの無い友人を作ってくれた。そのことに、怜子はこっそり感謝していた。それはともかく。
「確かこの辺りは、『歪み』の頻発区域だったよな」
 あくまで快活な雨宮先生の言葉に、背中の震えを覚えながら頷く。今はまだ小さいが、この『歪み』が急に大きくなってしまったら、雨宮先生も自分も『歪み』に囚われ閉じ籠められてしまう。その前に、……逃げなければ。一歩下がった怜子の前で、雨宮先生は廊下突き当たりの壁を睨み、何かを呟いた。次の瞬間。見えていたはずの歪みが、蒸発したように消える。
「な、何?」
 目を瞬かせた怜子の視界に、雨宮先生の勝ち誇ったような顔が映った。
「うん、上手くいったみたいだな」
 橘教授の理論を応用したときに生じた問題点を、複雑な計算で解決する。雨宮先生が持っていた『計算で歪みを修正する』能力を応用することで、建物内の歪みを無くしてしまう。やってみれば簡単なことなのに、今までどうして気付かなかったのだろう。自虐的な笑顔を見せる雨宮先生に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。この方法が上手くいけば、『歪み』に囚われて行方不明になる人はいなくなる。良かった。安堵する怜子の記憶からは、雨宮先生に険悪な瞳を向けていた男性のことは綺麗さっぱり消えていた。

 雨宮先生と睨み合っていた男性のことは、新学期が始まってすぐに分かった。情報の授業を担当する助教の先生。涌井わくい正行まさゆきという名だと、授業の最初に自己紹介があった。雨宮先生と同じく、この帝華大学の卒業生らしい。これまで他大学いたが、この春無事に母校に戻ってくることができたという、何処か嬉しそうな自己紹介に、怜子は少しだけ混乱を覚えた。この大学に就職できたことが嬉しいのなら、何故、雨宮先生とあんな険悪な雰囲気を作り出していたのだろうか。
 と。
「プログラミング、進んでないね」
 当の涌井先生の声に、筆記具が止まる。
「難しい?」
「いえ……」
 優しげにしか聞こえない声に、怜子は慌てて首を横に振った。確かに、目の前のディスプレイは、真っ白。だが。プログラミングを行う際には、何のためにプログラムを組むのか、そして目的を果たすためには何が必要か、それをきちんと構築する設計図が必要。『歪みを識る者』の一人で、パソコンやプログラミングに関しては人一倍詳しい大学院生、香花きょうかさんはそう言っていた。プログラム言語に含まれている関数や命令文の把握、そしてどのような流れでどんなものを作るのか、プログラムを作る前に考えることが、重要。料理と、同じ。だから怜子は、作っている途中の設計書を見せようと、先程まで筆記具を走らせていた机の上の紙を涌井先生の方へ滑らせた。
 その時。
「君も、あの『歪み』というものに関わっているのか?」
 突然、侮蔑を含んだ調子に変わった、涌井先生の声に、心臓が飛び上がる。おそらくその時に何処か触ってはいけない場所に触れてしまったのだろう、次の瞬間、怜子の目の前のパソコンは嫌な音と共に真っ青になった。いや、目の前のパソコンだけではない、怜子が気を取り戻したときには、パソコンルーム内は青い画面と学生達の呻き声でいっぱいになっていた。

 その後の、解析学の授業と演習を、怜子は落ち着かない面持ちで受けた。
 パソコンルームの件は既に、電子機器類に詳しい香花が修繕し終わっている。問題は、……涌井先生が見せた、否定的な感情。あの感情は、何なのだろう? 解けない問題ばかりの演習がようやく終わり、怜子は沈んだ表情のまま教室を出た。
 と。
「やあ」
 廊下の向こうに涌井先生の涼やかな表情を認め、思わず立ち尽くす。
「少し、話、良いかな」
 そう言って、二階のカフェテリアの方へ誘う涌井先生に、怜子は逆らえず後に続いた。
「コーヒーで良い?」
 隅のテーブルに怜子を座らせた涌井先生が、怜子の前に紙コップを置く。コーヒーは、飲めないこともないが得意な方ではない。それでも、飲まなければ目の前の涌井先生に悪いと思い、怜子はそっと紙コップに口を付けた。
「なるほど」
 その怜子を見て、涌井先生は口の端を上げる。
「優しすぎて、断れない。だから、雨宮の道楽に付き合わされているわけか」
「ち、違いますっ!」
 思わず、叫ぶ。
 次の瞬間。一瞬で暗くなった視界に既視感を覚え、怜子は持っていた紙コップを取り落とした。
〈『歪み』……!〉
 おそらく涌井先生の方も、一瞬で景色が一変したことを認識しているのだろう、端正な顔を歪め、目を見開いた表情が怜子の視界に映る。しかしどうすれば良い? 『歪み』を見ることはできるが、『歪み』から脱出する術は怜子には無い。雨宮先生か、『歪みを識る者』の誰かが気付いてくれるのを待つしかない。幸い、授業期間中は毎日放課後、雨宮先生の部屋に行って授業で分からなかったところを質問している。今日、怜子が来なかったら、必ず誰かが気付いてくれるはず。それまで、待つしかない。テーブルも椅子も消えてしまった、何も無い空間に、怜子はそっと腰を下ろした。
「これが『歪み』なのか?」
 その怜子の横で、戸惑う声が響く。
「こんな寂しい場所だったとは」
「涌井先生は、『歪み』をご存じなのですか?」
 その声に違和感を覚え、怜子は思わずそう尋ねた。
「橘教授の理論は知っている。その応用も、不具合も」
 怜子の不躾な疑問に、はっきりとした声が返ってくる。
「こんな危険なもの、数学しか知らない雨宮が管理できるわけがないこともね」
「そんな、ことは」
 不意に変わった、怒りに満ちた涌井先生の声に、怜子は必死で反論した。雨宮先生は、恩師である橘教授の理論を応用し、数学計算で『歪み』という不具合を修正しようとしていること。怜子自身も、雨宮先生と『歪みを識る者』のおかげで、自分には敷居が高いと思っていた大学生活や高等数学に慣れ親しむことができるようになったことも。
「なるほど」
 怜子の言葉が効いたのか、涌井先生の声から少しだけ怒りが消える。
「でも、やっぱり心配だ。雨宮は数学しかできない……」
「数学だけの奴で悪かったな」
 不意に明るくなった視界に響いた、雨宮先生の声に、怜子は思わず目を瞬かせた。『歪み』の所為だろう、いつの間にか、怜子と涌井先生は二階のカフェテリアから十四階の雨宮研究室の前まで飛ばされている。そして尻餅をついたままの涌井先生の横では、腕組みをした雨宮先生が涌井先生を見下ろしていた。
「大学時代とは違う。今は学生指導もできるぞ」
「それはどうだか」
 にやりと笑った雨宮先生が、涌井先生の方へ手を差し出す。その手を拒み、涌井先生は一呼吸で何事もなかったかのように立ち上がった。
「ま、少しは信用してやる」
 そう言って、涌井先生は雨宮先生に背を向ける。そしてそのまま、涌井先生は廊下の向こうへと消えた。

ケータイラプソ

「私も、もうそろそろ携帯買わないと、と思ってるんです」
 怜子さとこの呟きに、雨宮あめみや研究室は一瞬で興奮と主張の坩堝になった。
「持つならやっぱりスマートフォンよ」
 いつもより強い口調で迫るのは、機械にかけては右に出るものがないという才女、三森みもり香花きょうか
「電話もメールも使えるし、良いアプリを選んでインストールすればどんな時にも使えるわ。就活にも便利よ」
 普段からはっきりとした物言いの三森だが、機械が絡んでいる所為か、口調は立て板に水。すっきりと整った目鼻立ちに迫られた怜子がたじたじとしてしまっているのが、少し離れてソファに座っている勇太ゆうたの位置からでもはっきりと、見えた。
 そして。
「いや、ガラケーだって負けちゃいない」
 三森よりも更に自信に満ちた口調でにやりと笑うのは、勇太の兄でこの研究室の主、雨宮秀一しゅういち
「確かに種類は減っているが、アプリなんて面倒なものを入れなくても十分機能する。不具合でいきなり再起動、っていうのも無いしな」
 この兄、最近携帯をスマートフォンに変えたばかりだが、いまいち使いこなせていないのは勇太だけが知る秘密である。……いや、おそらく三森は察しているらしい。兄の言葉に僅かに鼻を鳴らしたのが、その証拠だ。
「第一、電話とメールさえ出来れば良いんだろ、木根原きねはらの場合」
「そうですね。……それに」
 不意に、研究室にいた最後の一人、大学院生の平林勁次郎ひらばやしけいじろうが静かに話に割って入った。
「怜子さんには、スマートフォンは向いてないと思いますよ。ハード的に」
 勁次郎の言葉に、兄と三森が押し黙り、怜子が下を向く。何故か怜子は精密機械とは相性が悪く、この大学に入学してからこれまでの間、大学内据え付けのパソコンを何台も再起不能にしている。情報系の授業でアシスタントのアルバイトをしている勁次郎のみならず、この研究室にいる全ての人間がそのことを承知していた。と、すると。……怜子が携帯電話を持つのは、ほぼ不可能なのではないだろうか。勇太がそう、思った、正にその時。
「よし、勇太。お前に任せる」
 不意に兄が、勇太の方を向いてにやりと笑う。
「確かお前の携帯会社、木根原のおやっさんと同じだったな」
 怜子の両親は、大学のあるこの街で小さな料理屋を営んでいる。その店に昼夜問わず出前を頼んでいる兄だから、怜子の両親の携帯会社のことを知っているのは、ある意味当然といえるだろう。しかしながら。それと、俺と、どういう関係が? 勇太は思わず首を傾げた。
「やはり家族で同じ会社にした方が料金的に有利だからな」
 勇太のその疑問は、自身は全く気にせず機種だけで弟の勇太と違う携帯会社の携帯会社を使っている口が解決する。文句は言いたいが、しかし確かに、兄が言ったことには頷ける。
 だから。
「お前が選んでやれ」
「店は、私が紹介するわ」
 兄と三森の言葉に、仲の良い怜子の両親のことを脳裏に浮かべながら、勇太は思わず頷いた。

 と、いうことで。
 少し暗くなりかけた煉瓦敷きの道を、勇太は怜子と肩を並べて歩いていた。
「この、建物か?」
 三森がネットから素早くプリントアウトした地図から顔を上げて、怜子を見る。怜子の方が微かに震えているのは、初夏だというのに少し冷たい風の所為、だろうか?
「大丈夫か?」
 思わずそう、声を掛ける。勇太の言葉に、怜子は首をぶるぶると横に振った。
「あの、勇太、さん」
 消えそうなほどに小さな声が、耳を打つ。
「め、迷惑、じゃ、ない、ですか?」
「何が?」
 怜子の言いたいことは、分かっている。自分のことで、勇太を巻き込んだことを申し訳なく思っているのだろう。だから勇太は、殊更大きな声を出しながら、怜子の肩掛け鞄を――さすがに腕は掴めなかった――掴むと、煌煌とした店の中へ怜子を引っ張り込んだ。
「ほら、ここら辺が普通のガラケーだから、さっさと選べよ」
 華やかな色合いの機種が並ぶ棚の前に怜子を立たせて、ぶっきらぼうにそう、言う。
「それとも、オレと同じヤツにするか? かなり地味だけど」
「うん」
 照れ隠しに、実用的な機種の方へ目を走らせながらの言葉。そんな勇太の言葉に、怜子は本当に小さな声で、頷いた。
「……良いのか?」
 その、あまりにも思いがけない怜子の返事に、正直戸惑う。だが。……少し、嬉しい。
 だから。
「じゃ、じゃあ、これな。身分証は、持ってるな」
 自分と同じ機種の、しかし絶対に笑うであろう兄と三森のことが脳裏に浮かんだので色違いの携帯を、怜子に手渡す。後は、店の人が手続きしてくれるから。そう言おうとした勇太の耳に、優しい怜子の声が、響いた。
「ありがとう」
 怜子のこの言葉に、耳まで真っ赤になる自分を、勇太は止めることが出来なかった。

挑戦状

 既にくたびれている鞄から取り出した本の間から、折り畳まれた白い紙が零れ落ちる。
「何だ、これ?」
 床のラグの上に落ちたその紙を秀一しゅういちより先に拾い、本やノートが散乱するテーブルの上に置き広げた友人、あきらの怪訝な声に、秀一は思わず口の端を上げた。
「読めないぞ、これ」
 一応、日本語なのだが。拾った紙を秀一に差し出した亮の下がった口の端に頷き、受け取った四つ折りの紙のしわを伸ばす。少し斜め気味の手書き文字で書かれているのはいずれも、数学の問題、五題。全て証明を要求している問題だ。どこかで擦ってしまったのか滲みが見える数式に、秀一は目を細めた。この紙を受け取ったのは、今日の午後。線形代数の演習の時に後ろの奴から手渡された。差出人の名前は無い。
「『回してくれ』って、頼まれただけだから」
 この紙を秀一に突き出した、後ろの席の学生の言葉を、頭の中で反芻する。帝華大学理工学部に入学して二月、授業では黒板が見えやすい教室前方に陣取り、数学科特有の、授業の補完として様々な問題を解いていく演習の時間は、計算問題を無視して難しい証明問題ばかりを皆の前で解く。そんな秀一を煙たく思っている奴も、いるだろう。『挑戦状』にしか見えないこの紙が届けられた理由にだけは、秀一にも何となく察しがついていた。
「で、解けたのか?」
 秀一がテーブルの脇に置き直した紙をもう一度、口をへの字に曲げながら眺めた亮がようやく、数学の問題だと理解した問いを発する。
「真ん中だけ解けない」
 その亮の、掻き上げたまま戻っていない跳ねた髪に、秀一は悔しさを吐いた。
 始めの二つは、高校時代に図書館で何度も読んだ数学雑誌に類似の問題が載っていたのを覚えている。四番目と五番目は、亮と約束していた時間まで籠もっていた図書館で、解析学と代数学の分厚い本をひっくり返して見つけた定義と定理で何とか解けた。だが、三番目の、この問題は、どんなに頭を捻っても解けない。どうすれば、解けるのだろう? もう一度、紙の真ん中に並ぶ斜めの文字を睨み、秀一は唸り声を上げた。
「おい、雨宮あめみや
 思考に去来する数式の間に、情けないほど低い亮の声が割り込む。
「唸ってないで、俺のレポート、手伝ってくれよ」
 そうだった。亮の部屋に呼び出された理由を思い出し、数式を何とか脇に押しやる。
「経済、って、文系だろ? なのに何で数学必須なんだよ」
 ぼやきながらペンで髪を掻き上げた亮に、秀一は再び口の端を上げた。普段は目立たないが、数学は、意外な場面で意外に豊富に利用されている。認識が甘い。
「レポート書き終わらないと、今週末舞子まいこと一緒に映画観に行けないんだ、雨宮。だから、頼む」
 亮の幼馴染で秀一も知っている女性の名前が亮の口から零れ落ちる。邪魔してやろうか。意地悪な考えを心の奥に押し込め、秀一は開いた本の上の、亮のレポートを作成するために必要な数式を指差した。

 次の週。
 線形代数の演習が始まる前に、秀一は教室の一番後ろの席に陣取っていた男子学生の横に立った。
「これ」
 読んでいた数学雑誌から目を離した学生の机の上に、秀一自身の解答を付け加えた件の紙を叩きつけるように置く。
「どうしたら解けるんだ?」
 逃げたくなる感情を堪えながら、秀一は小さな声を出した。
 この紙を受け取ってから一週間、考えに考え抜いたが、それでも、真ん中の問題だけ解けない。悔しいが、答えを訊くしかない。斜め気味の文字から、解析学の演習で秀一が難しいと感じていた証明問題をいとも簡単に解いた涌井わくいという名の学生からの挑戦状だと気付いた秀一は、唇の震えを何とか止め、涌井の、自分を見上げている鋭い視線を睨んだ。
「俺も知らない」
 だが。次に響いた、あっけからんとした涌井の声に、机に置いた紙の真ん中を叩いていた指が止まる。
「解けたら、賞金がもらえるぜ」
 その止まった指から、紙がするりと抜け落ちた。
「他は、解けてるな」
 バカにするな。ある意味傲慢な涌井の言葉に、全身が熱くなる。だが。
「これ、貸してやる」
 伯父のだから、遠慮はいらない。その言葉と共に不意に突きつけられた、先程まで涌井自身が読んでいた数学雑誌に、秀一の心は一瞬、動きを止めた。
「あ、ああ、……ありがとう」
 高いから、秀一の小遣いでは、数学雑誌を定期的に購読することはできない。図書館では、雑誌は禁帯出だ。その雑誌が、自分の手の中にある。横の秀一を無視するように演習用の本を取り出した涌井の、にやりと笑った横顔に、秀一は無意識に頭を下げた。

昔の事

「ねえ、何で飲まないの?」
 いきなりの甲高い声と共に、柔らかい物体が涌井わくいと友人である雨宮あめみやとの間に割って入ってくる。女特有の脂粉の香りが鼻につき、涌井は思わず顔を顰めた。
 派手な女だ。ぱっと見でそう、感じる。こんな女がクラスに居たのか? 見たことは無いが、というのが二番目の感想。涌井や雨宮が所属する、帝華ていか大学の数学科には相応しくない、というのが感想の三番目。
 だから、というわけでもないのだが。
「飲んでるよ」
 殊更大げさに、持っていたビールジョッキを振る。大学三年になって初めての、学科の親睦会だ。授業は始まったばかりだし、レポートもテストもまだまだ先の話。飲まない方がどうかしている。……一人を除いて。
「涌井君のことを言ってるんじゃないの」
 涌井の、突然現れた女に対する嫌悪感が態度に出ていたのか、女は涌井を睨み、横でせっせと食べ物を口に運んでいた雨宮の方に持っていたビール瓶を向けた。
「いや、俺は……」
 その時になって初めて、雨宮は乱入してきた女に気付いたようだ。はっとして女を見、心底迷惑そうに首を振る。だが。女を見たときの雨宮の顔が少し赤らんだのを、涌井は見逃さなかった。
「ビールがダメならもっと軽い飲み物も有るよ」
 ビール瓶をテーブルに置いた女が、丁度店員が持って来た茶色の液体が入ったグラスを雨宮に勧める。多分ウーロンハイだ。そう、涌井が気付いたのは、勧められた液体を雨宮が飲み干した後だった。

 それで、結局。
「……ごめんなさい」
 大学近くの涌井の下宿。その畳敷きの床で丸くなって平和に眠っている雨宮の横で、女が涌井に謝る。
「良いからもう帰れ」
 しゅんと下を向く女に向かって、涌井は静かにそれだけ、言った。
 雨宮は酒に弱い。ウーロンハイ一杯で眠ってしまう。いつもつるんでいる涌井だけはそのことを知っていた。雨宮が意図的にあるいは間違えて酒を飲む度に、体格の違わない雨宮を背負って下宿へ帰り、一晩泊まらせているのだ。もう身に染みていると言って良い。……不可解なのは。
「もう帰れよ。遅くなるぞ」
 もう一度、突き放すように言う。だが女は、涌井の言葉が聞こえなかったかのように眠っている雨宮の傍に座っていた。彼女の意図が、分からない。思わず首を傾げる。だが、狭い下宿にこの女まで泊める余裕は無い。涌井は溜め息をついて立ち上がると、玄関へ行き、同じクラスの女友達に連絡を入れた。

 更に不可解なことに。次の日から、女は、何故か雨宮に付き纏った。
 授業のときも演習のときも、教卓の前に座る雨宮の横に陣取り、質問をしたり一緒に演習問題を解いたりしている。雨宮の方も、迷惑そうな顔をしているが内心満更でもないのだろう、邪見には扱っていないように、涌井には、見えた。
 危ないな、と思う。雨宮の知っている女は、自分の母親と高校時代の腐れ縁友人だけだと、聞いたことがある。女に免疫が無い雨宮だから、いきなりすり寄って来た美人に鼻の下を伸ばしてしまっているのだろう。訳の分からない女に引っかかるとは、我が友人ながら情けない。自分の横でいちゃつきながら演習問題を解いている二人を見ながら、涌井はそっと溜め息をついた。まあ、友人でもありライバルでもある雨宮の勉学に対する態度が低下しなければ、自分としては問題ない訳だが。
 ……これは、頭の良い雨宮に対する嫉妬ではない。沸き上がって来た自分自身への問いに、冷静に答えを返す。女性は好きだが、あの女のように図々しい女は嫌いだ。

 そんなある日。
「涌井君!」
 晴れた日の午後、不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。
 例の女が、中庭のベンチで雑誌を読んでいた涌井の方に近付いて来るのが見えた。その横に、最近いつも一緒にいる雨宮は居ない。どうしたのだろうか? そう、疑問に思う前に、女は涌井の前に立つと不意打ちで涌井の身体にその柔らかい腕を回した。柔らかい胸の感触が、涌井の男の感情を逆撫でる。だが、激高した感情は、すぐに、疑問によって冷静さを取り戻した。この女は何故、急にこのような態度を取ったのだろうか? それが分からない限り、女の手に乗るわけには、いかない。
 と。視線を感じ、顔を上げる。視界に入った人物の姿に、涌井は愕然とした。
〈雨宮!〉
 ついさっき講義棟から出て来たらしい、ほっそりとした影が、涌井達を見つめている。その、見たことも無いほど大きく見開かれた瞳に、涌井は思わず唇を噛んだ。
 勢い良く、女の身体を突き放す。仰け反るように涌井から離れた女の、それでも満足そうな笑みが、涌井をぞっとさせた。

 それから、しばらくして。
 雨宮が女を襲ったという噂が、涌井の耳に入って来た。なんでも、酒に酔った雨宮が女の下宿に泊まった時に、嫌がる女を無理矢理犯したらしい。
〈馬鹿だろ〉
 その噂を、一蹴する。一杯のウーロンハイで一晩眠ってしまう雨宮が、女に嫌がらせできる訳が無い。それよりも。涌井に抱きついた後も、噂が立った後も、何事も無かったかのように雨宮に付き纏う女の方に、正直呆れる。何を考えているのか、分からない。女が横に立つ度に困った顔で自分の方を見る雨宮に、涌井はふっと息を吐いた。……仕方無い。直接、話し合うしかない。
 しかしながら。……始終雨宮に付き纏っている女を、何とかする必要がある。
 言い争いをしているような雨宮と女を見ながら、こういうときだけ鋭く回る頭脳で、涌井は対策を練った。

 その日の夕方。涌井は先回りして雨宮の家に行った。
 雨宮は大学から四駅離れた実家から大学へ通っている。当然、涌井は雨宮の家族とも仲良くしている。だから違和感無く、涌井は雨宮の家のリビングで悠然とコーヒーを啜っていた。
「何故、此処に居る?」
 当然のことだが、帰って来た雨宮の驚愕が、涌井の耳に響く。雨宮とこんな風に話すのも久しぶりだ。涌井はにやりと笑いたくなるのを堪えることができなかった。
「まあ、座れよ」
「ここは俺の家だぞ」
悠子ゆうこさんに留守番を頼まれたんだ。茶菓子を買ってくるって」
 雨宮の家を突然訪ねた涌井が深刻そうな顔で俯いただけですぐに何かを察した雨宮の母が、雨宮の弟である勇太ゆうたを連れて買い物に行った。それが真相。だがそのことは雨宮には言わず、涌井はにやりと口の端を上げた。二人きりで話す時間は、たっぷりある。
「あの女に、何を言われているんだ?」
 単刀直入に、訊く。涌井の問いに、雨宮は肩を竦めた。
「中間試験をカンニングさせろ、ってさ」
 やはり、な。半ば予想していた答えに、ふっと笑う。顔も頭も良いが数学の事しか考えていない雨宮に付き纏う理由は、大体それくらいしか無い。
「させる気か?」
「まさか」
 危惧していた問いに、雨宮はあっさりと否定の答えを返した。
「これ以上付き纏われるのも迷惑だ」
 そう言った雨宮が、涌井の方を見る。それだけで、涌井は雨宮が何を考えているのか察しがついた。やはり、雨宮は雨宮だ。馬鹿な女と付き合うより、冷静に冷酷に策略を巡らせる方が、似合っている。
「手伝うぜ」
 にやりと、笑う。
「ありがとう」
 雨宮もにやりと笑い、そして涌井に向かってらしくなく、頭を下げた。

 そして、中間試験当日。
 女は当然のように、雨宮の横に座った。その女の横に、涌井が座る。
「ねえ、見せてよ」
 試験開始からしばらくして、女の小声が、涌井の耳にも入って来た。
 大丈夫か? 目だけを動かして、雨宮の方を見る。雨宮は女などそこに居ないかのように、一心不乱に問題を解いていた。女を無視する作戦だったが、雨宮の集中力は群を抜いている。『作戦』を立てる必要も無かったか。涌井は内心にやりと笑った。
 不意に、女の腕が大きく動く。実力行使か。そう、理解する前に、女の肘が涌井の鼻先をかすめた。
「うわっ!」
 思わず、叫ぶ。
「何をしているっ!」
 すぐに、試験監督の先生が三人の前に仁王立ちになった。

 結局、女はカンニングの現行犯で試験室から追い出され、これまでに大学で取得した単位を全て剥奪された。教授会でその決定が下されてすぐ、女は退学したという噂が、涌井達の耳にも入って来た。
「結局何もしなかった気がする」
 少し残念な調子で、雨宮が話す。
「叫んだのも俺だしな」
 懲りてないなと呆れながら、涌井は思わず、くすりと笑った。

 そして、月日は経ち。
「いい加減学習してくれ、雨宮」
 下宿の床に大柄な図体を丸めて眠っている雨宮を、爪先で小突く。しかし小突いたぐらいではこの悪友は目覚めさえしないことも、分かってはいる。涌井は舌打すると、幸せそうに眠っている雨宮の横に腰を下ろした。
 大学を卒業し、博士号を取り、母校の准教授になっても、雨宮は相変わらずだ。酒は弱いまま、数学の問題には我を忘れて熱中する。そして学生には冷静。酒好きで女好きな涌井の性格も全く変わっていないので、その点では雨宮を責められないのだが。
 まあ、『腐れ縁』とは、このようなもの、なのだろう。涌井はふわっと一つ欠伸をすると、雨宮の隣で横になった。

幽霊、退治します

 第二化学実験室に幽霊が出るという噂を勇太ゆうたが耳にしたのは、秋学期が始まってすぐのこと。
 夏休みが始まってすぐ行方不明になった、彼女に振られて自殺したという噂の学生。その学生の幽霊が、夏休み中、集中講義や自習などで実験室を使う学生多数に目撃されているという。そして、その幽霊は、実験室内でいちゃつくカップルが居れば必ず、そのカップルの女性の方を掠おうとするらしい。
 そんな噂、この大学には似合わないな。授業の前、講義室の定位置に陣取って辺りを見回した勇太は、思わず鼻を鳴らした。首都から程良い距離、様々なビルが立ち並ぶ大きくも小さくもない街のど真ん中に立っている十四階建ての建物が、帝華ていか大学理工科学部。質素な四角四面の建物だが、それでも中は現代風に明るく、空調も照明も学業に支障が無いように管理されている。それは講義室も実験室も、教授達が使っている研究室も同じ。そんな場所に、幽霊なんて。
「勇太も、気をつけろよ」
 その勇太の前に、同じ物理工学科の友人達が現れてそう言う。何を心配しているのだろう? きょとんとする勇太に、降って来た言葉は。
怜子さとこちゃん、掠われないようにしないと」
 関係無いだろ。言いかけた言葉が、喉の途中で消える。頬が熱くなるのを感じ、勇太は心の中で首を横に振った。一学年下で、数理学科の木根原きねはら怜子とは、ただの友達。教養の数学や理科の講義では一緒に授業を聴くこともあるし、とある理由で放課後も一緒に様々な作業をすることもあるが、それでも。……それだけ。学科も違うから、勇太と、化学実験室でいちゃつくことなど、おそらく無いだろう。第一、数理学科の、数学を主に勉強している怜子は、化学実験室で行われる実験や実習の授業を履修することは無い。掠われる心配なんて、全く無い。
「でもさぁ」
 何とか心を落ち着かせようとする勇太の前で、友人達が更に心配になる言葉を吐く。
「あの幽霊、いちゃついてるカップルじゃなくって彼氏がいる女の子を襲ってるって噂があるし」
「怜子ちゃん、勇太と違って勉強熱心だから、実験室の授業も取ってるんじゃないかな、って思うわけ」
 友人達がそこまで言ったところで、授業担当の教員が講義室に入ってくる。それぞれ好きな席に着いた友人達に取り残されて、授業が始まっても勇太は落ち着かなかった。メールを、してみようか? 扱い方が雑なのかあちこち傷だらけの携帯電話を取り出し、そして徐に机の上に置く。勇太が授業中ならば勿論、怜子も別の教室で授業を聴いているはずだ。邪魔は、いけない。強く首を横に振り、勇太は授業に集中しようとした。放課後になれば、怜子は勇太の兄である雨宮秀一あめみやしゅういち准教授の研究室に現れる。その時に、第二化学実験室には絶対に行かないように強く注意すれば良いだけの話だ。……勇太と怜子は「付き合って」いるわけではないが、友人の誤解もある。用心に越したことは無いだろう。
 と。机の上の携帯電話が、微かに振動する。誰からだろう? こんな時に。机の下で、勇太はこっそりと携帯を操作した。昼過ぎのこの時間だから、付き合いで登録だけして殆どやっていない携帯ゲームの宣伝か、それとも。メールを開いた勇太は、メールの送付者欄に見えたある意味予想された人物の名に思わず両肩を竦めた。メールの送り主は、兄である雨宮准教授。そして。「飲み物三人分」。内容はそれだけ。いつものことながら、弟を何だと思っているんだ。勇太の心に、怒りと少しの諦めが渦巻いた。

 授業が終わってから、建物内に入っているコンビニで適当に飲み物を買い、エレベーターで十三階に上がる。兄の研究室のドアを乱暴にノックすると、袖を肘まで捲った雨宮准教授の指導院生、平林勁次郎ひらばやしけいじろうがドアを開けてくれた。
「ああ、勇太君」
 わざわざありがとう。静かな声でそう言いながら、勁次郎は勇太の手からペットボトルが四本入ったビニール袋を受け取った。
「コーヒーポットを落として壊してしまって」
 少し湿っぽいながらそれでも綺麗な床は、勁次郎が片付けて掃除したのだろう。そして。掃除に使った箒とちりとりを片付ける勁次郎の横で、この研究室のもう一人の居候、数理工学研究科の大学院生である三森みもり香花きょうかが、華奢な足を椅子の上に乗せた格好で部屋のパソコンをつついていた。
「ああ」
 その香花が、勇太と勁次郎の方を向くなり、椅子に座ったまま研究室の応接セットのテーブルの上に置かれたビニール袋の中に手を突っ込む。よほど喉が渇いていたのだろう、香花は特売になっていたよく分からない花の絵が描かれたお茶を掴み取ると、無言のまま封を開けて半分ほど飲み干した。そして蓋を閉めてからそのペットボトルをテーブルの上に戻し、再びパソコンに向き合う。香花の無愛想はいつものことだが、今日は更に磨きがかかっているようだ。
「雨宮先生がポットを落として割ってしまった時に、パソコンに少しだけコーヒーが掛かってしまいましたから」
 勇太が香花の行動に首を傾げるより先に、勁次郎が小さい声で説明してくれる。その理由ならば、分かる。勇太は勁次郎に頷いて見せた。極論を言えば、香花は、人間よりも機械に愛情を注いでいる人間だった。
「解析自体は、もう少しで終わるようですね」
 その香花の後ろからパソコンの画面を少しだけじっと見つめてから、勁次郎が応接セットの椅子に腰を下ろす。香花は何をやっているのだろうか? 好奇心に駆られ、勇太は勁次郎と同じように応接セットの椅子に腰を下ろしながら僅かに揺れる香花の背中を見、そしてテーブルの上に置かれたビニール袋から烏龍茶のペットボトルを取り出した。家ではコーヒーを飲むが、どちらかといえば烏龍茶の苦みの方が好きだ。そう思いながら、ビニール袋に残った二本のペットボトルを見る。そのうちの一本、緑色をしたラベルが、勇太の目に好ましく映った。水の入ったシンプルなラベルのペットボトルは、先輩である勁次郎が飲むことを想定して購入したもの。そして、緑色のラベルが巻かれている、緑茶のペットボトルは。
 と。
「やっと来たか」
 聞き慣れた天敵の声に、少しだけ身構える。視線を、声がした入り口の方へ向けると、事務室に雑務の書類を取りに行っていたらしい、この研究室の主である雨宮准教授が紙束を手に立っていた。
「コーヒーは?」
 持っていた紙束を勁次郎の方に放り投げてから、兄は、雨宮准教授は勇太に向かって手を伸ばす。指導している院生とはいえ、部屋を片付けた勁次郎にお礼すら言わず、更に雑務を押しつけるとは。いつも通りの怒りに駆られ、勇太は兄に向かって右手を差し出した。
「その前にお金払って」
 勇太の言葉に、兄が唇を歪める。しかしすぐに、兄は応接セットのテーブルの上に置かれていたコンビニの淹れ立てのコーヒーに手を伸ばし、カップに口を付けながら自分のパソコンの方へと向かった。
「ところで、平林が撮った第二化学実験室の解析は?」
 勇太を総無視して、兄は香花の小さな背中に声を掛ける。飲み物のお金を払わないつもりか? 激高しかけた勇太は、しかし兄が発した言葉の中にあった単語にはっとして香花を、そして香花が見ているデスクトップパソコンのモニタを見た。勇太が座っている場所からは、白黒の画面しか見えない。しかし第二化学実験室を、幽霊が出るという噂の場所を勁次郎に撮影させて何を解析するつもりなのか? 考えられることは、一つ。
「雨宮先生の予想通りね」
 モニタから顔を上げた香花が、応接セットのテーブルに置かれたビニール袋の方へ細い腕を伸ばす。ビニール袋の中にあった水のペットボトルを開けていた勁次郎の太い腕が、先程香花が半分ほど飲んだ花のお茶のペットボトルを彼女に渡すのが見えた。
「歪みに囚われている人がいる」
 香花の言葉に、勇太の背に緊張が走る。
 勇太の兄、雨宮秀一の指導教官であった帝華大学教授、橘真が、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を応用して作られたのが、この、帝華大学理工科学部の十四階建ての建物。橘教授の理論は完璧であったはずだと、兄は常に言っている。だが、兄の言動とは異なり、この空間は時折歪んでしまい、ほんの時折、歪みの近くにたまたまいた人間を飲み込んで行方不明にしてしまう。帝華大学理工科学部の建物内の「歪み」を見つけ、その歪みを正すことが、雨宮准教授の研究室に集う勇太達の、本来の役割。
「詳しい場所は、怜子ちゃんに見てもらわないと分からないけど」
 木根原怜子が、勇太達と一緒にいる理由は、歪みの場所を正確に「見る」ことができる能力を持っているから。歪みの場所を解析し、歪まないように修正を行うのが雨宮准教授と香花の役割。勁次郎は歪みを生じさせる能力を持っている。そして、勇太の役割は。
「で」
 香花の声が、勇太の思考を破る。
「怜子ちゃんは? 四限の授業無いはずだから、来るはずよね」
「そういえば、来ませんね」
 よく分からないペットボトルの中身を飲み干す香花に答えた勁次郎の言葉に、勇太の背は別の意味で緊張した。まさか。いや、でも。
「木根原、今日はレポートの分からないところを教えて欲しいって言ってたぞ」
 勇太の懸念を、兄の言葉が裏打ちする。烏龍茶のペットボトルを握ったまま、勇太は研究室を飛び出した。
 向かうのは、勿論、第二化学実験室。

 幽霊の噂が学部中に広まっている所為か、放課後の第二化学実験室にもその周辺の廊下にも人影は全く見当たらなかった。勿論、幽霊も、怜子も、居ない。しかし勇太の耳には、歪みから発生する、普通の人には聞こえない微かな振動が聞こえてきていた。間違いない。怜子は、……ここに居る。おそらく幽霊の噂から歪みが生じていることを推測し、一人でこの場所を調べようとしたのだろう。そして、歪みに囚われた。
 握っていた烏龍茶のペットボトルを実験机の上に置き、背負いっぱなしだったギターケースからギターを取り出す。指で弦を弾くと、耳に響いていた胸が悪くなるような振動が更に酷くなった。そして。耳に響く振動が、二つの人影を形作る。頭を抱えて座り込んでいる大柄な影と、弱り切ったその影を励ましているように見える、丸くて小柄な影。小柄な方は、おそらく。
「木根原!」
 思わず、叫ぶ。勇太の声が届いたようだ。怜子は不意に顔を上げ、きょろきょろと周りを見回した。助けなければ。しかし、勇太の能力では、歪みを「聴く」ことはできてもその歪みをこじ開けたり修正したりすることはできない。それが、できるのは。
「ばかねぇ」
 心底呆れた、高めの声が、背後に響く。振り向かなくても、勇太の後ろに香花が居ることはすぐに分かった。勁次郎も、兄である雨宮准教授も。
「平林さんが居ないと、助けられないの分かってるでしょ」
 そう言いながら、香花が勇太の横に立つ。
「どこに居るんだ?」
 急いたような勁次郎の言葉に、勇太は、怜子の影が聞こえる方向を指差した。すぐに、勁次郎の手刀が、何もない空間を切り裂く。不意に現れた小さな手を勁次郎が強く引くと、怜子と、怜子がもう片方の腕でしっかり掴んでいた痩せ衰えた男性が現れた。
「ここは……?」
 虚ろな目の男子学生を、大柄な勁次郎が担ぎ上げる。そしてそのまま、勁次郎は男子学生を連れて実験室を早足で出て行った。おそらく下の階にある保健室に連れて行くのだろう。しばらくすれば、ここで起こったことを、あの学生は忘れてしまう。これまでの経験から、勇太はそこまですぐに予測できた。後は。
「さて、こちらも仕事をしますか」
 そう言いながら、兄が勇太の横に立つ。兄の頭の中の計算だけで歪みが修正できたのだろう、しばらくすると、勇太の耳に聞こえていた振動は綺麗さっぱり無くなった。これで、この事件は解決だな。勇太はほっと息を吐いた。そして。
「大丈夫か?」
 蒼い顔で実験室の床に座り込んだ怜子の方へ、少しだけ近付く。香花か勁次郎が持って来たのだろう、怜子の手の中には、勇太が買ってきた緑茶のペットボトルが、確かに見えた。
「全く」
 その勇太の前で、怜子の背を優しく擦っていた香花が勇太を少しだけ見て笑う。
「一人で行動しちゃダメでしょ。勇太が心配するから」
「なっ」
 その香花の言葉に、勇太は我知らず頬が熱くなるのを感じた。
「ベ、別に、心配なんて」
「そうかしら」
 香花の言葉の後から、怜子がおずおずと顔を上げて勇太を見る。
「あ、の、ごめんなさい」
 泣きそうな顔になった怜子に、心が焦る。怜子にそんな顔をさせる為に、勇太はここに来たわけではない。だから。
「良いって」
 再び俯いた怜子に、勇太はできるだけ頑張って笑いかけた。

私が美味しいと思うものを

 華やかな空間を、一瞥する。
 飾られた棚に置かれている、様々な形と色の包みは、だが香花きょうかの目には全く魅力的に映らなかった。
 チョコレートを美味しいと思ったことが、香花には無い。お菓子の本を見る怜子さとこちゃんや、付箋片手に通販カタログをめくる舞子まいこさんは楽しそうに見えたのに、いざ自分が、2月14日用のチョコを買う段になると、苛立たしさしか感じない。
 どうせ贈るのなら、香花自身が美味しいと思うものが、良い。ふと過ぎった思考に、思わず微笑む。『美味しい』ことを知っているチョコレートなら、一つある。香花は一人頷くと、お菓子売り場に足を運び、今は亡き父が仕事中に口にしていた徳用のアーモンドチョコレートを一袋、買った。

狂宴準備

 雨宮あめみや研究室の扉を開けた勇太ゆうたが見たのは、ある意味異様な光景だった。
「……あ、えーっと」
 絶句しつつ、応接セットのテーブルをぐるりと取り囲むように座っている三人――勇太の兄でこの研究室の主でもある雨宮秀一しゅういち帝華ていか大学大学院博士課程一年で雨宮研究室所属の気の良い兄貴分である平林勁次郎ひらばやしけいじろう、帝華大学理工科学部があるこの街全体のコンサルタントをしているという秀一の学友井沢亮いざわあきら――を見回す。大の男三人が互いに深刻そうな顔を近付け、小声で何事か話し合っている様子は、「異様」以外のどの言葉で表現すれば良いのだろうか。
 一体、何が? 思わず小首を傾げる。他の二人はともかく、兄の雨宮准教授は少々のことでは動じない太過ぎる神経の持ち主だ。その兄が、いつになく真剣な顔をしているのが、気になる。だが。状況を知るためには三人のうち誰に話しかけるのが一番得策かを考えている間に、勇太の一番の天敵が声を上げた。
「おう、勇太。遅かったな。就職活動はどうなってる?」
 兄の声に多少の揶揄が含まれているのは、多分気の所為だろうが、それでも、先ほどまで考えていたような最悪な物事を話し合っているわけではないようだ。勇太は内心ほっとしつつ普段通りの表情を作ると、空いていたソファに腰掛けた。
「うん、まあ、とりあえず結果待ち」
 三年の三月。既に就職活動は始まっている。「音」に関わる仕事がしたいと思っている勇太は、大小の企業説明会を色々と回っているところ。これまでの手応えは、不況だと云われている割にはまあまあ。兄貴以外に助言を受けたのが良かったのだろう。勇太はそう分析していた。就職活動をしたことがない人間の助言を受けないのは、当然の判断。
 それはともかく。
「何話し合ってたんですか?」
 この三人の中では一番的確に状況を説明してくれそうな井沢氏にそっと尋ねる。
「ん、ちょっとな」
 しかし勇太の問いに答えたのはまたもや兄だった。
「バレンタインデーのお返しをどうするか、考えてたんだ」
 あまりにも意外な答えと、内容の割に深刻だった先ほどの雰囲気を思い出し、思わず仰け反る。確かに、勇太達は先日、女友達――と一括りにして良いものかどうか分からないが――から(義理かどうかはよく分からなかった)チョコレートを受け取った。そのお返しをすべき日であるホワイトデーはすぐそこだ。だが、その「お返し」のことだけで何故、こんなに深刻な話し合いになるのか。勇太はもう一度首を捻った。
「まあ、木根原きねはらは簡単だな」
 勇太の当惑を推し量ったのか、兄がいつになく真面目に説明を始める。
「甘いものが好きだから、近くのケーキ屋の特別プレートで素敵に喜んでくれる」
 雨宮准教授の言葉に、勇太は素直に頷いた。
 木根原怜子さとこのことは、兄よりも良く知っている。この研究室に出入りしている数理工学科の二年生で、料理、特に和風料理が上手い。もらったチョコレートも手作りで、甘さを抑えたその小さな固まりは頬が溶けそうなほど美味しかった。
舞子まいこも、ワインが好きだから、今度開店するイタリアの田舎料理の店なんかに連れて行ったら喜びそうなのは分かっているんだが」
 兄の横で、井沢氏が呟く。
 上原うえはら舞子と井沢氏は、一緒にこの街のコンサルタントをしている。二人とも雨宮准教授の高校時代の学友(悪友?)で、勇太とも親しくしているし、実は就職活動に関する助言もこの二人から受けている。舞子からもらったチョコレートは、「酒豪」の二つ名に相応しくウイスキーボンボンだったので、酒に弱い勇太は一つしか食べていない(残りは「ザル」の異名を持つ勁次郎に食べてもらった)が、ともかくお世話にはなっている。
「問題は」
三森みもりか」
 勁次郎の溜め息を、雨宮准教授が継ぐ。
「あいつは好き嫌いが激し過ぎるからな」
 兄の言葉に、勇太は再び素直に頷いた。同時に、先月、ぶっきらぼうに差し出されたアーモンドチョコレートの、いかにもチープな包みを思い出す。多分あのチョコレートは、皆に配る為にまとめて買った「お徳用」に違いない。ケチというのか、倹約家というのか、とにかく香花きょうかは『無駄なこと』を嫌っていた。
 三森香花。飛び級で帝華大学に入学し、怜子と同い年(三月生まれなので学年は香花の方が一つ上)にも関わらず来年度には博士課程に進学するという曰く付きの才女。専攻である数学の他、パソコンの組み立てやプログラミングにも詳しいのだが、どんな人にも欠点はある。小柄で整った顔立ちから男子のファンは多いが、口を開けば辛辣な言葉しか出ない+頭の悪い人間を徹底的に見下すという酷な性格は雨宮研究室の限られた人間しか知らないことである。……食べ物の好き嫌いが激しいことも。
「ケーキとか、お菓子とか、甘いものがダメだろ。香花は」
 溜め息とともに、井沢氏が言葉を吐く。
「肉も魚も食べられない。酒もダメ」
 一体何を食べて生きているんだ? 勇太は別の意味で首を捻りたくなった。
 それはともかく。とにかく、三人が悩んでいたことは、これで分かった。しかし、この問題に答えなど、どう考えても無いだろう。
「食べ物以外という手は、どうでしょう」
 普段から口数の少ない勁次郎が、そっと声を出す。
 その言葉に、井沢氏と雨宮准教授はうーんと唸り、そして同時に首を横に振った。
「香花って、服にも雑貨にも興味ないから」
「パソコンはいつも最新型。CPUもメモリも最高級品を自分で揃えるやつだし」
 三森が喜ぶような物事って何だろう? 香花の冷たい横顔を脳裏に浮かべながら考えてみる。だが、どうしても思いつかない。朗らかに笑っている顔すら思い浮かばないのだ。喜ぶ顔なんて絶対に無理。
「あーあ」
 思わず、声が出る。
 次の瞬間。強いノックの音に、勇太はもう少しで椅子から転がり落ちそうになった。
「こんにちは」
 研究室のドアを開けたのは、小柄だががっしりした初老の男性。
「あ、木根原さん」
 勁次郎がさっと立ち上がると、男性の手から岡持を受け取った。
 怜子の両親は、この街で小さな和風料理屋を営んでいる。優しい味が街で働く人たちに受けて、今では出前が大変なほど繁盛しているという。
 勁次郎がお金を払っている間に、岡持から料理を出す。三人前――就職活動中の勇太が研究室に顔を出すとは限らないので頼むならその分量だろう――にしては多い皿数に、勇太はちょっとビックリした。これは、まさかとは思うが、俺の分が入っているのでは。
「そんなわけないだろう」
 勇太の甘い考えは、兄の言葉で霧散する。
「俺が二人前食べるんだ」
「ああ、そうですか」
 いつものことだ。勇太は兄に見えないところで肩を竦めた。
「まあ、それはともかく」
「香花に、ご馳走、か」
「難しいですね」
 箸を構えた三人が、それぞれに溜め息をつく。まあ、あの香花のことだから、何をもらっても文句を言うだけだろう。だったら考えるだけ無駄だ。勇太は考えを放棄し、足を組んだ。
 と。
「……郊外に最近、地場野菜料理専門の店ができたそうですよ」
 背後からの言葉に、再び椅子から滑り落ちそうになる。振り返ると、帰ったはずの木根原の父が、真顔で立っていた。
「え」
「木根原、さん?」
 井沢氏と勁次郎が、豆鉄砲を食らったような顔になる。その横で、雨宮准教授がポンと膝を打った。
「それだっ!」
 確かに、香花は、野菜なら食える。いつも野菜ばかりのお弁当を香花専門に作っている木根原とその父親だから、香花の食の好みは痛いほど分かっているのだろう。それにしても。何故、この人は、こんなにぴったりと、人の心に沿うことができるのだろうか。木根原の父親を、勇太は改めて尊敬した。
 だから。
「決まりましたね」
「良かったぁ」
 安堵の声を出す勁次郎と井沢氏の声に掻き消されるほどの小さな声で、勇太は「ありがとう」と木根原氏に、言った。

「……全く」
 聞こえてきた声に、思わず毒づく。
「どうしたんですか、香花さん?」
 だが、続いて近くから聞こえてきた怜子の声に気付き、香花はそっと感情を抑えた。
「何でも無い」
 香花が雨宮研究室の扉を叩こうとしたのは、勇太が研究室に入る少し前。扉に拳が触れる前に何かしらの異常を感じたので、扉に、香花が居候を決め込んでいる小さな修理店の主矢代やしろが趣味で作っているシール型の盗聴用機器をセットして図書室に向かったのだ。もちろん、四人の苦悩は筒抜け。なんて、バカらしい。もう一度、舌打ちしかける。だが、何だかんだ言いつつも、少し嬉しいのは、確かだ。
 頬が緩むのをこらえつつ、隣の怜子を見る。真面目な怜子は、一生懸命数学の問題を解いているところだった。
「あ、そこ違う」
「え、嘘」
 証明問題の矛盾点を指差しながら、先ほどの四人の会話を反芻する。
 自分らしくはないが、ホワイトデーに何をプレゼントされようとも、黙って受け取っておくか。心の中でそう呟くと、香花はそっと、耳のイヤホンを外した。

春のお弁当

 小鍋の中の煮物の冷め具合を確かめてから、炊きたての御飯に合わせ酢を振り入れて切るように混ぜる。作った寿司飯の半分には細かく刻んで甘辛く煮た根野菜を混ぜ込み、同じく甘辛く煮つけた油揚げの中に押し込んで稲荷寿司に、もう半分は、巻き簀に乗せた海苔の上に乗せ、卵焼きと干瓢、胡瓜と紅生姜を具材にした巻き寿司に。小ぶりの重箱に隙間無く詰め込めば、お花見弁当のできあがり。
「彩りが、少ないな」
 目を細める怜子さとこの脇をすり抜けた、料理人の父の声に、頷く。しかし、今回の弁当は見た目よりも内容。肉と魚を断固拒否する香花きょうかさんも食べることができるものでなければならない。だから。微笑む父を見上げ、怜子も少しだけ、微笑んだ。

歪みを識った日

 不意に暗い方へと変化した空気に、思わず、身体に染み着いた武道の構えを取る。その構えのまま、目の前の空間に手刀を振り下ろすと、周りの空気は何事も無く元へと戻った。
〈何だっ、た……?〉
 しばらく目を瞬かせ、静かに辺りを見回す。どこもかしこも新品の、まだ冬の名残があるのか少し薄ら寒い空間を確かめると、勁次郎けいじろうはほっと息を吐き、強ばったままの背中をほぐす為に肩を後ろへ反らした。
 帝華ていか大学が新しく作った、理工科学部の十四階建ての建物。利便性の高い場所に理系の新しい拠点を作るという大学の目標通り、この場所は、実験室も講義室も全てきちんと、最新で機能的なものとなっている。卒論の指導教員が理工科学部という名の新学部に移る為、現在学部三年生である勁次郎も四月から、ここから四駅離れた丘の上にある帝華大学の本部キャンパスではなくこの場所に通うことになっている。この場所なら、卒論の為の実験も捗りそうだ。少し変な音を立てる靴底に肩を竦めながら、勁次郎は気の向くままに、できたての建物を見て回った。
 と。歩いている途中で再び不意に、空気が暗い方へと変化する。これは、一体? 首を傾げる間も無く、勁次郎は再び、先程とは異なる寒さを持つ空間に手刀を振り下ろした。
「……驚いたな」
 空気が元に戻ると同時に、見知らぬ声が背後に響く。振り向くと、黄金の髪と緑色の目を持つ、どう見ても日本人にしか見えない顔が、勁次郎の肩辺りに見えた。
雨宮秀一あめみやしゅういちだ。この四月からこの大学で教鞭を執る」
 差し出された、細い指を持つ手を、戸惑いを込めて見つめる。
「驚いたよ。『歪み』を切り裂くことができる人がいるとはね」
 その勁次郎を見上げて、雨宮先生と名乗る人物は口の端を上げた。
「『歪み』とは何ですか?」
 その笑みに、疑問をぶつける。
「知りたいか?」
 跳ね返ってきた、深淵を覗き込むような緑色の瞳に震えを覚えつつ、それでも勁次郎は一度だけ、頷いた。
 その勁次郎の耳に、静かな声が響く。雨宮先生の指導教官であった帝華大学の教授、橘真たちばなまことが構築した『歪み』の理論。その理論を応用し、建物の内積を大きくした結果が、この新しくできた理工科学部の校舎。
「橘教授の理論は完璧だし、勿論、殆どの人には『歪み』なんて分からない」
 だが、それでも時折、原因不明で建物内の空間が歪んでしまう。不意に声を落とした目の前の人物に、危険を感じる。あの、薄ら寒い空間に、普通の人が閉じこめられてしまったら、パニックを起こすことは必至。そんな危ない建物に、学生を迎えるなど、言語道断。
「危険は、承知だ」
 だが、言い掛けた警告は、真剣な眼差しに遮られる。
「理論も、再構築するつもりでいる」
 自身の理論をぶつけたこの建物を見ることなく亡くなった恩師の代わりに。明快な口調に反論することができず、勁次郎は床に目を落とした。
 その勁次郎の視界に、再び細い指をした手が映る。
「だから、全てが終わる日まで、できれば、協力してほしい」
 先程までとは打って変わった、おずおずとした声に、無意識に目を瞬かせる。顔を上げて見えた、輝く金の髪に頷くと、差し出された手を、勁次郎は静かに握り返した。

約束の、その先へ

 手の下で、落ちた受話器がかちゃりと音を立てる。
 下宿で共用となっている黒電話の前で、勁次郎けいじろうは呆然と立ち尽くした。

 寝不足でぼうっとした頭のまま、大学構内へ入る。
 都会の真ん中に聳え立つ帝華ていか大学理工科学部の校舎内は、吹き抜けに設置された嵌め殺しの硝子窓から入ってくる五月の陽で眩しいほどに明るかった。
 この状態では、十四階にある雨宮あめみや准教授の部屋には行けない。働かない頭に危惧を覚え、エレベーターホールから踵を返す。普段は飲まないが、二階のカフェでコーヒーを買ってみよう。その思考で心を落ち着かせ、顔を上げた勁次郎は、目に入ってきた光景に目を瞬かせた。三階まで吹き抜けになった、清潔なテーブルと椅子が並ぶカフェスペース。その、光が入らない隅の方に陣取って、見知った三人が何やら作業をしている。
「あ、平林ひらばやしさん」
 近づいた勁次郎の気配を感じたのか、すっきりとした眼鏡を掛けたまだ幼く見える女性が、勁次郎に小さく手を振る。その女性、数理工学科三年の木根原きねはら怜子さとこに小さく手を振り返すと、勁次郎は一足で、木根原を含む三人が陣取っていた丸テーブルの横に立った。
「あ、おはようございます」
 木根原の次に顔を上げた、物理工学科の四年生で勁次郎がお世話になっている雨宮先生の弟でもある雨宮勇太ゆうたの会釈に、会釈を返す。勇太の横で小さなノートPCをつついていた三人のうちの最後の一人、飛び級を重ねて博士課程に在籍している木根原と同い年の三森みもり香花きょうかは普段通り、別のことを考えている虚ろな瞳で勁次郎を見やってから再びPC画面に目を向けた。その三森に釣られるように、勁次郎もPC画面を覗き込む。おそらく『音』の波形であろう、規則的だがギザギザした波の形に、勁次郎は少しだけ首を捻った。この三人は、何をしているのだろう?
「ほら」
 不意に三森が、勇太の肩をペンでつつく。
「ここの『歪み』を、フーリエ変換で無くせば」
「だから」
 PC画面を指で指し示した三森に、普段はケースに入れて背負っているギターを持ち直した勇太は鼻を鳴らすような声を上げた。
「それどうやって一瞬で計算しろと」
「やれるでしょ」
「三森じゃないんだから」
 確かに。唇を尖らせた勇太に心の中で同意し、勇太の隣に広がっているノートの上の、木根原らしい几帳面な積分記号を見つめる。帝華大学始まって以来の逸材だと噂される三森なら、この複雑な積分計算も一瞬で解いてしまうだろう。だが。ノート上で計算を続ける木根原の真面目さに、勁次郎はほうと息を吐いた。
 帝華大学理工科学部、今勁次郎達がいるこの建物には、ある特殊な仕掛けが存在している。建物を建てる際に空間を歪ませ、建物の外観よりも大きな内積が取れるようにしてしまったのだ。帝華大学の教授であったたちばな教授が編み出したその理論は完璧であったと、橘教授の教え子であった雨宮先生は常に口にしている。だが、その仕掛けが故か、建物には時折『歪み』が生じ、偶然、『歪み』の周辺にいる物や人を飲み込んでしまう。その『歪み』を見つけ、『歪み』のことを誰にも知られないように正す。それが、雨宮先生がこっそりと集めた勁次郎達「『歪み』を知る者達」の、裏の責務。
「とにかく」
 鼻白む勇太にまくし立てる三森の声で、我に返る。
「『音』で『歪み』を相殺するためには、どうしても『歪み』に合った『音』が必要なの」
「だからそれをどう見つけろと」
「そのためにフーリエ変換の計算が」
「だからこんな複雑な積分計算一瞬でできないって」
 おそらく、去年の春に雨宮先生が思いついた「『歪み』を修正する方法」をもっと簡単にできないかどうかを議論(ほぼ三森が一人でまくし立てているようにしか見えないが)しているのだろう、年下の三人に、胸が痛む。昨夜の電話は、手広く商売をやっている父から。内容は、祖父が倒れたので戻って家業を手伝えと言う、強制を持つ依頼。商売のことなど全く分からない自分に、見も知らぬ南方の工場に責任者として赴けと、言われても。戸惑いと怒りが、勁次郎の全身をいつになく熱くしていた。学業も、そして『歪み』についても、まだまだ途上。何よりも、雨宮先生との『約束』すら、まだ果たしてはいない。こんな状態で、ここを離れることが、……できるわけがない。無意識に強く、勁次郎は首を横に振った。
 そういえば。無理に気持ちを別の方向に持って行く。普段は、『歪み』のことを話し合うときだけでなくレポートや試験勉強をするときも、三人は雨宮先生の研究室の片隅に設えられたテーブルを利用している。それなのに、今日はなぜ、人が多くて騒がしい、こんなところで?
「雨宮先生、今朝からずっと数学の問題で唸ってる」
 僅かな笑みを浮かべた三森の回答に、微笑んで肩を竦める。『先生』である前に『数学者』である雨宮先生らしい。三人に向かって会釈すると、勁次郎は再びくるりと踵を返した。

 そのまま、コーヒーを買わずに雨宮准教授の研究室へと向かう。
 音もなくドアを開けると、三森の言葉通り、雨宮先生は部屋中にばらまかれたメモの前で黄金の髪を掻き上げて呻いていた。
「……平林」
 その雨宮先生が、勁次郎を見上げて唸り声を消す。
「どうした」
 乱雑な数式が書かれた多量の紙を脇に押しのけた後、雨宮先生は勁次郎を手近の椅子に座らせた。
「話せ」
 明快に勁次郎を見下ろした緑色の瞳に、心を決める。先生との『約束』を果たせなくなってしまったことは、申し訳なく思う。だが、あの三人がいれば、きっと何とかなる。だから。
「実は……」
 言葉を吟味するように下唇を噛み締めてから、勁次郎は殊更ゆっくりと、口を開いた。

意外なところに

 音の絶えた、薄暗く寒い空間を、意外なほどに落ち着いた意識で見回す。背中から下ろしたギターを爪弾くと、意外なほどにか細い音が辺りの空気を震わせた。
 これが、『歪み』の中。もう一度、今度はじっくりと観察するように、辺りを見回す。木根原きねはらも、そして『歪み』に閉じ籠められてしまった人々も、こんな寂しいところで、……闘ってたんだ。今更ながらの感情に、勇太ゆうたは小さく息を吐いた。
 とにかく、出口を見つけなければ。か細い音しか出ないギターを、大きく掻き鳴らす。この大学の教授であった者が理論を作り、この建物を作るときに埋め込んだ、空間を歪ませて建物内部を広くする仕掛け。その理論は完璧であったはずで、普段は誰も何事も察知することなく建物内で生活できるのだが、それでも時折、今の勇太の状況のように、空間の『歪み』が人や物を飲み込んでしまうという現象が起こってしまう。その『歪み』を見つけ、正すのが、たちばな教授の薫陶を受けた勇太の兄、この帝華ていか大学の准教授である雨宮秀一あめみやしゅういちと、彼が集めた仲間達。もちろん、勇太も、不本意ながら、その『仲間達』の中に入っている。『音』を使って『歪み』を見つけ、修正することが、勇太の役割。その勇太の『能力』を見つけた兄のスパルタのおかげで、一浪はしたが勇太の学力では高いハードルだったこの大学に入ることができ、そして得難い仲間を得た。もうすぐ卒業だが、その二つの事柄に関してだけは、勇太は兄に感謝していた。……口が裂けても、兄には言えないが。
 そんなことを考えながら、薄ら寒い空間を歩く。出口は、中々見つからない。三森みもりの理屈を信用して、『歪み』を相殺する『音』を探すための積分計算の練習をしておくんだった。いやあんな複雑な計算を暗算で行うことは、三森にしかできない。木根原よりも一回り小さい、それでも存在感のある三森のキツい視線が脳裏を過ぎり、勇太は再び肩を竦めた。
 その時。不意に、薄ら寒さの種類が変わる。
「あ……」
 薄暗さは変わらないが、『歪み』から抜け出したことは分かる。清潔な消毒液の匂いが、勇太が現在大学構内のどこにいるかを教えてくれた。
「あら」
 聞き知った低い声に、顔を上げる。机横の電灯が一つだけ光る空間にいたのは、帝華大学理工科学部構内付属の保健室の医師、林広美はやしひろみ先生。橘教授の姪で、『歪み』に囚われ我を忘れた人々をしばしばここに運び込んでいるため、勇太のことも、『歪み』のことも、よく知っている女性が、勇太の前で微笑んでいた。
「こんな遅くにどうしたの?」
「林先生こそ」
 窓の外の暗闇に驚きながら、それだけ返す。保健室は十七時には閉まるはずだ。なのになぜ、先生はまだここに? 首を傾げた勇太の耳に、あくまで優しげな声が降ってきた。
「ちょっと、会議で厭なことを聞いてね」
 お茶、飲む? あくまで軽い言葉に、微かな違和感を覚える。しかし深く考えることなく、勇太は、『歪み』で強ばった身体を溶かす温かいコップを受け取った。

小さな旋律

 薄ら寒い空間に向かって、精一杯の声を出す。
 だが、闇色の空間に響いたのは。殆ど聞き取れない自分の声。
〈ううっ……〉
 落ちそうになった涙を、瞼で止める。泣いていても、始まらない。ここから脱する術は、知っているのだから。冷たい空間に独り頷くと、怜子さとこは頭に叩き込んだ旋律の一つを口の端に乗せた。
 怜子が紡ぐ、歌とはお世辞にもいえない旋律が、周りの闇色を震わせる。だが、薄ら寒い空間は、元のまま。これでは、ない、のだろう。横に垂らしていた両手を身体の前でぎゅっと握り締めると、怜子の口は別の旋律を紡ぎ始めた。『歪み』と呼ばれているこの空間を解析する術も、『歪み』を消すための『波』を見つける術も、今の怜子には無い。できることは、『歪みを知る者』の先輩、雨宮あめみや勇太ゆうたから教えてもらった、『歪み』を消す『波』を持つ旋律を、紡ぐことだけ。
 と。旋律が『歪み』に合致したのか、怜子が紡ぐ声に合わせるかのように、冷たい空間が揺らぐ。次の瞬間には、怜子の身体は、夜闇に染まった帝華ていか大学理工科学部の見慣れた廊下の中に、あった。
〈良かった〉
 ほっと、息を吐く。『歪み』には、この大学に入学してから何度も、囚われている。だからこそ、あの薄ら寒い空間には、……怖さしか、感じない。
「怜子ちゃん?」
 聞き知った声に、固まっていた両手をほどいて顔を上げる。
「こんな時間に、どうしたの?」
 『歪みを知る者』の一人、怜子の先輩である三森みもり香花きょうかが、きょとんとした瞳を怜子に向けていた。
「まさか、『歪み』に……」
「大丈夫です、香花さん」
 一瞬で顔色を変えた香花に、先程までの恐怖に蓋をして微笑む。博士論文作成中の香花に、これ以上の心配をさせてはいけない。怜子が紡いだ旋律が良かったのか、『歪み』は、もう、どこにも見あたらない。大丈夫。光を無くした、それでも何処か暖かい廊下を慎重に見回してから、怜子はもう一度、今度はしっかりと微笑んだ。
「なら、良いけど」
 お腹空いた。急に小さくなった香花の言葉に、慌てて右手を差し出す。下宿先である父方の叔母の家には、父が作り置きしている野菜のおかずがあったはず。遅い時間だが、それと卵とで、何か作ろう。怜子の小さな手を掴む香花の冷たい手に、怜子はこくんと頷いた。

花を贈る者

 カラカラと鳴る、引き戸に付いたベルの音に、はっと顔を上げる。
「あ……」
 冬の日の、既に沈みかけている夕日を受けて光る薄色の髪に、捺美なつみは思わず目を瞬かせた。
「あの」
「あ、すみません、いらっしゃいませ」
 しかしすぐに、自分の仕事――地方から芸術系大学に入学し、そこでできた友人に紹介されてからずっと続けている花屋の店番――を思い出し、自分より頭二つ分は高い場所にある、店の硝子棚を見回す男に頭を下げる。その時に微かに見えた瞳も、緑。日本人ではないのだろうか? この花屋がある街には、幾つかの大学がある。その大学の留学生、あるいは先生なのだろうか? 様々な思考が、脳裏を過る。英語は、いや日本語も、……実は苦手。震える背を何とか宥め、捺美は、男が言葉を発するのを、花のラッピングを行うカウンター越しに待った。
「花、は、一輪で幾らする?」
 躊躇いがちに、男の唇が言葉を紡ぐ。
「贈りたいやつらがいるんだが、……ネットでは、値段が分からなかった」
「花の種類によります」
 良かった。ほっと胸を撫で下ろす。花のことなら、幾らでも話すことができる。
「例えば、ガーベラでしたら、今時分だと一輪で200円。バラでしたら普通のもので300円くらいに」
「ガ、ガーベラ?」
 不意に戸惑いを見せた男の声に、言葉が止まる。
「あ、済まない」
 捺美の俯きに、男は小さく頭を下げた。
「数学は分かるのだが、花には詳しくないので」
 項に右手を当てた男の仕草に、好感を覚える。
「こちらの花です」
 捺美は身軽にカウンターから身を離すと、冬の寒さから花を守るための硝子棚の一つの前に立った。
 捺美が毎日ピカピカに磨いている硝子戸だから、わざわざ開けなくとも、中にある花の様子は一目で分かる。ガーベラは、棚の奥、少し高くなっている場所で、濃い色の花弁を開いていた。
「派手な花だな」
 あいつらには似合わない。小さな呟きが、捺美の耳に響く。
「バラの方が良いか」
 ガーベラの横に置かれている、薄ピンク色のバラのつぼみを見やり、男はしかし首を横に振った。
「花なんか贈って、あいつら、喜ぶのか?」
 微かな声が、捺美の耳に届く。
 しかしその声を捺美が確認する前に、男は顔を上げ、その緑色の瞳を捺美に向けた。
「三月末の卒業式の時に贈りたいのだが、今から予約しておいた方が良い、のか?」
 どこか哀しげに見える瞳に怖じ気づきながらも、何とか、言葉を返す。
「三月なら、カーネーションやチューリップも入荷しますが」
 今は一月末。三月末に必要なら、もう一月後に来ても間に合う。しかしそのことを、捺美は巧く説明することができなかった。男が花を贈りたい相手のことは分からないが、気持ちの籠もった花を拒否する人は、おそらくいない。不意に湧き上がった、痛みにも似た感情を、説明することも。
 言葉は、苦手。心の中で、小さく首を横に振る。捺美が大学で勉強している絵や彫刻の方が、捺美の気持ちを代弁してくれる。そこまで考えた捺美の心に、別の考えが浮かぶ。……そう、花も、思いを代弁する、アイテムの一つ。
「いや、バラにする」
 考えを男に伝える言葉を探す捺美の耳に、揺るぎない声が響く。
木根原きねはらには薄い色の普通のやつにして、三森みもりには濃い色の、何か珍しい感じのバラがあると良いな」
「あ、はい」
 そこまで詳細を聞けば、あとはこの店のオーナーが適当になんとか見繕ってくれる。
〈良かったぁ〉
ほっと、安堵の息を吐く。
「ラッピングは、よく分からないので宜しく頼む」
 続く男の言葉に、捺美は今度は大きく頷いた。
 贈る花に合うように、花を飾る。それが、捺美の仕事の一つ。
「予約、しておきますので、名前と連絡先をお願いします」
 再びカウンターへと戻った捺美は、男に、注文を書き記す用紙とペンを渡した。

そして……

 今はがらんとしてしまった、かつての自分の『城』を、ただ静かに見つめる。
 雑多で無駄な書類とにらめっこをしたパソコンも、唸りながらアイデアを殴り書いた机も、『歪みを識る者』が集まってレポートや試験勉強にいそしんでいた大テーブルも、今は無い。全ては、夢。そうとしか言いようのない感情に、秀一しゅういちは舌打ちをこらえた。
「片付いてるじゃないか」
 意外を含んだ声が、耳に響く。振り向かずとも、この帝華ていか大学でかつて共に学んだ腐れ縁、この大学の助教であった涌井わくいが後ろに立っていることが、気配だけで分かった。
「今日になっても終わらないんじゃないかと思ってたけど」
 バカにするな。言い掛けた言葉を飲み込む。既に社会人として独り立ちしている弟の勇太ゆうたに昨日夜遅くまで片付けを手伝ってもらったことは、秘密だ。三日前、涌井と同じ心配を国際電話でしてきた平林勁次郎ひらばやしけいじろうの声を思い出し、秀一は涌井に聞こえない声でふふっと笑った。とにかく、後ろの涌井にだけは、昨日までの狂乱を知られるわけにはいかない。いや、大学時代からの腐れ縁だ。数学以外にはだらしない秀一のことなど、涌井には全てお見通し。おそらく勝ち誇った表情をしていると思われる涌井の顔を見る為に振り向こうとした、秀一の心を支配していたのは、底知れぬ寂しさ。
 昔のような賑やかさは、もう二度と、秀一の人生には訪れない。俯いて、落ちていた小さなクリップを蹴る。国の方針により、この帝華大学は廃校になった。募集停止は来年度からだが、大学院生や学生の殆どは既に、代替候補になった大学に移っている。卒業式も、……今日が最後だ。
 木根原きねはら三森みもりが大学院を修了するまで、この大学が残っていて良かった。黄砂に霞む窓の外を見上げて微笑む。准教授であった秀一も毎回参加しなければならない教授会に不穏な空気が漂い始めてからずっと蟠っていた小さな希望だけは、とりあえず叶った。それだけは、何者かに感謝すべきなのだろう。もう一度、落ちていたクリップを蹴り、秀一は今度は大きく微笑んだ。
 『歪み』を『見る』ことができた木根原は、この街の近くにある私立校の先生になる予定らしい。元々教員を希望していた木根原だから妥当な選択であろう。弟の勇太と付き合っているのかどうかは分からないが、修士課程の勉学の合間には、木根原の父母が作った総菜と共に秀一の家に現れ、秀一の母と楽しく料理をしている姿があった。一方、『歪み』を解析し、修正する手伝いをしてくれていた才女三森は、博士課程終了後も居候先の電気街で働くことにしているらしい。大学が無くなり続ける今の状況では博士号を生かした就職先は無い。電気街でも、三森は十分楽しそうだ。三森が幸せなら、口出しする権利は秀一には無い。
 そう言えば。腕時計に目を落とし、首を傾げる。ここから四駅先の大学本部で行われる卒業式の後でこっちにも来るというメールを三森から昨夜もらっているのだが、二人とも現れる気配が無い。卒業式が長引いているのだろうか、それとも、無くなってしまう大学に去りがたさを感じているのだろうか? いや木根原はともかく三森がそんな郷愁じみた想いを持つわけがない。もう少し待とう。所在無げに床を蹴り、秀一は再び窓の外を見上げた。
「そう言えば。……『歪み』は、どうなった?」
 まだ後ろにいたらしい、涌井の声が再び耳に響く。秀一は今度はきちんと涌井の方を向き、そしてにやりと笑った。
「心配するな。『修正』は終わっている」
 橘教授の理論を構築し直し、三森に手伝ってもらった結果、大学構内にある『歪み』は全て消えた。後は木根原にチェックしてもらうだけ。空間の広さは殆ど無くなったが、高校時代からの腐れ縁である上原うえはら井沢いざわが計画している生涯学習センターに転用するには丁度良いだろう。もう一度、涌井に向かって口の端を上げると、涌井が肩を竦めるのが見えた。
 その涌井の向こうに、華やかな色が見える。
雨宮あめみや先生! 涌井先生!」
 木根原と三森だ。卒業式らしく、二人とも振袖と袴を身に着けている。袖に白い蘭を配した黒色の振袖に古風な海老茶色の袴を履いた木根原と、裾へ行くほど濃い色になるワインレッドの袴と白地に臙脂色の紅葉を散らした振袖を揺らす三森。二人の姿は、しかし不意に、秀一自身の涙でぼやけた。

帝華大学物語

2015年4月19日 発行 初版

著  者:風城国子智
発  行:WindingWind

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風城国子智

へっぽこ物書き。只今整理中につき、少々ごちゃついております。

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