男は職も家族も失ったが代わりに自由を手に入れた。自由になれない心を引きずったまま逃げ出すように旅に出る。しかしそれは自分とただひたすら向き合う遥かな旅路だった。あ、ハローワークの点呼があるので最大でも二週間で帰ってくださいね。
※この物語は物理的に正しいこと以外はすべて登場人物の妄想あるいはフィクションであり、実在の人物・団体・企業・組織・国家とは一切関係ありません。

一六〇〇 安房峠付近
一七〇〇 高山市西部
一八〇〇 飛騨清見IC
一九〇〇 関SA
二〇〇〇 米原ジャンクション
二一〇〇 木之本IC
二二〇〇 車内
二三〇〇 舞鶴付近
〇〇〇〇 吉野家
〇一〇〇 日本海沿い
〇二〇〇 鳥取県東部
〇三〇〇 鳥取砂丘
〇四〇〇 鳥取砂丘
〇五〇〇 鳥取砂丘
〇六〇〇 鳥取砂丘
〇七〇〇 鳥取市街
〇八〇〇 国道9号
〇九〇〇 米子付近
一〇〇〇 島根
一一〇〇 出雲付近
一二〇〇 出雲
一三〇〇 江の川
一四〇〇 益田
一五〇〇 山口県
一六三〇 萩
一七〇〇 萩
一八〇〇 秋吉台
一八三〇 湯田温泉
一九三〇 湯田温泉
二一〇〇 若松
二二〇〇 若松
二二三〇 若松
二三〇〇 デニーズ
〇〇〇〇 若松付近
〇一〇〇 若松付近
〇二〇〇 丘の上で
〇三〇〇 丘の上から
〇四〇〇 北九州郊外
〇五〇〇 北九州郊外
〇六〇〇 北九州郊外
〇七〇〇 北九州郊外
〇八〇〇 北九州郊外
〇九〇〇 金立サービスエリア
一〇〇〇 長崎郊外
一一〇〇 島原半島
一二〇〇 多比良港
一三〇〇 長洲港
一四〇〇 草千里
一五〇〇 阿蘇山
一六〇〇 九州自動車道
一七〇〇 桜島
一八〇〇 鹿児島
一九〇〇 天文館
二〇〇〇 鹿児島
二一〇〇 鹿児島
二二〇〇 都城
二三〇〇 宮崎
県境の長いトンネルと抜けると、そこは雪国だった。もっとも、トンネルを抜ける前も雪国だったのだが。安房トンネルは出口側に料金所がある。無人なので、コイン投入口に小銭を投げ入れる。750円。出発からまだ1時間足らずだが、ここまで来るとようやく旅が始まったような気分になってきた。しかし、この平湯辺りはこれまでにも何度も来ているので、新鮮味はない。それに、つい気を許すと今は思い出したくない記憶がちょいちょいと思い出されて、なんだか落ち着かない。もう少し先までは休まず急ぐことにしよう。3月も後半なので、ずいぶんと日が長くなってきた。どうにか明るいうちに飛騨清見のインターチェンジまではたどり着きたいと思っていた。平湯から飛騨高山の市街地までは、ゆったりとしたカーブと、ゆったりとした下り坂が続く。昨夜遅くまで旅支度をしていたので、睡眠はあまり足りていないように思う。勝手気侭な一人旅であるし、眠くなったらどこでも寝ればいいのだが、まだそこまで達観できないし、なるべく早くコマを進めたくも思っていた。
見慣れた街並みの飛騨高山を東から西へ通り抜けたところで、いきなり巨大な建築物が眼前に現れた。公共施設のようなサイズ感だが、どうも雰囲気が怪しい。近くまで来て、なんとかという宗教団体の施設らしいことはわかった。この辺まで来ると、これまで来たことがないところになってくる。見慣れない風景に、謎の建築物との遭遇。のっけから少しわくわくした。俺は、これまであまり長旅をしたことがなかった。もちろん、人並みに旅への憧れはあった。小学四年生の頃には、県を縦断する一人旅を経験したことはあったが(家出などではない)、それ以降、中学時代にペンフレンドに会いに行こうとした伊豆への自転車旅行は予算が立たず計画倒れで終わっていたし、高校時代は進学校だったせいでなのかわからないが修学旅行すら存在しなかった。20歳の頃、浪人生活から逃げ出そうと迷走していた頃は、ワーキングホリデーでニュージーランドに逃亡しようかと計画したこともあったが、紹介されてはじめた出版社のバイトが面白くなってしまい、恋人もできたので、そんな冒険のことはすっかり忘れてしまった。その後は、すぐに編集の職に就き、結婚もして日々の生活に追い立てられるままに10年を過ごしたため、それっきり「旅」に出ることなどないまま、俺は30歳をとっくに過ぎてしまっていたのだった。コンビニに立ち寄り、おふくろに頼まれていたNTTの支払いを済ます。他にはキャメルとロードマップに旅の記録を書き込むための油性ペン、チキンラーメンなど、もろもろを2千円近く買い込んだ。チキンラーメンはお湯が沸かせないので、スナック代わりに食べるものだ。
午後6時。飛騨清見インターから、高速道路に乗った。日はそろそろ西の山に落ちるところだ。この時点では、目的地はまだ定まっていない。まずは西へ向かう、それだけしか決めていなかった。ここからしばらくは片側1車線の対面通行になっているらしい。昔、元妻と結婚する前に北陸道を高山から金沢へ走ったことがあったが、それを思い出していた。離婚してからの気分転換に旅に出たはずなのに、どうも調子が狂ってしまう。しばらく走るうちに完全に日は落ちて、いつの間にか暗闇の中をひたすら走っていた。俺の新たな自由の翼はホンダ・アコードワゴンだ。アメリカから逆輸入されたモデルで、2千2百CCのエンジンを搭載している。スポーツモデルではないが、4輪ダブルウィッシュボーンの乗り心地は最高で、シートもなかなかに上質だった。離婚が決まってすぐに、まだ新車同然だったシビックを手放して、中古で買ったものだ。下取りが良かったので差額でナビまでつけられた。離婚して家を出る時の引っ越し代もそこから捻出したのだった。
1時間ほど走ったところで、関サービスエリアに到着。少し休憩をすることにした。運転は得意で多少の距離はいくら走っても平気なのだが、高速道路の対面通行ではさすがに少し疲れたようだ。とはいえ、先を急ぎたくもあるのでトイレに寄っただけですぐに出発した。東海北陸自動車をさらに南下、岐阜各務原を目指す。そこから一宮ジャンクションを経て名神高速道路に入った。ここまで来ると、ずいぶんと都市っぽい夜景になってきた。だが、まったく土地勘はないので、ひたすら道なりに走り続けるだけだ。こうなってくると、どうしてもやはり脳裏をよぎるのは離婚のことだ。2月の下旬に家を出されて、まだひと月も経ってない。原因は元妻曰く「経済的な価値観の相違」ということになってはいるが、実際にどうだったのか追及することまではしていない。彼女に求められるがままに離婚に同意して、荷物をまとめ、そのまま家を出たのだ。年末に仕事を辞め、フリーの編集者になるかどうか迷っていたところで、さしあたって職もなかったし、とりあえず荷物をまとめて信州の実家に身を寄せることにしたのだった。
名神高速を西に進む。この時点ではどういうルートで旅をするのかはっきりとは決めていなかった。何ヶ所か行きたいと思っているところはあるが、本当に何も決まっていなかった。大まかには時計を逆回りにぐるっとできたらいいなぐらいにしか考えていなかったのだ。最初の目的地は、山陰か、大阪か迷っていた。大阪には親戚もいるので2、3日やっかいになることも可能だったが、大阪の伯母は元嫁と仲が良かったので、仮に泊めてもらったところで厳しく説教をされることは明白。針の筵もいいところだろう。大阪滞在には興味はあったが、後にしておこうと考えた。目的地をとりあえず鳥取砂丘に定め、米原ジャンクションから北陸自動車道は入り、今度は北上した。しばらく走り、木之本インターチェンジで、高速を降りた。ここまでの高速料金は4千4百円だった。
木之本インターの周りにはあまり店などもなく、暗かった。しばらく走ったところでガソリンスタンドを発見したので、給油した。33リットル。単価は99円だ。3千円ちょっとを支払う。スタンドの周辺は民家もまばらで、なんだか暗かった。ナビ上では琵琶湖が近いことがわかるが、こう暗くてはどっちがどっちやらわからない。クルマを降り、少し体を伸ばして、トイレに寄ってクルマに戻ると時間は午後9時になっていた。ナビの縮尺を変えると、実家からここまでのルートが表示された。このままぐるっと日本を一周するルートが描ければきっと面白いに違いない。これこそ冒険じゃないか。俺は急に楽しくなってきた。モヤモヤした気分は、今は棚に上げてしまおう。
知らない街をナビと街灯を頼りに走り抜けていく。見慣れない地名が続く。どこなんだろうここは。誰が住んでいるんだろう。どんな暮らしがあるのだろう。俺には関係のない人達がたくさん住んでいる。俺はただ通り過ぎるだけだ。クルマは止まらない。前のクルマのテールランプを眺めながら、ただひたすら走り続けるだけだ。単調な一般道を走っていると、つい余計なことを思い出してしまう。最初は、別居を求められた。今年に入ってからのことだ。年末に離職して、就職活動もあまり活発にはしてこなかった。退職に関しては、家族で話し合ったりもしなかった。もともと家にもあまりいなかったし、深夜に帰ってきて、10時頃まで寝て、起きて出て行くことの繰り返し。4歳の息子とのコミュニケーションは土日にあればいい方で、休日出勤も多かったから十分な時間を共有しているとは言えなかった。だから、元妻が家を出て行くと言い出したとき、引き止める言葉は俺の口から出なかったのだ。今さら、何かを言う資格があるのか、と。
しばらく海岸沿いを主に走ってきたが、この辺から見覚えのある地名を見かけるようになってきた。舞鶴だ。歴史物や軍記物を読んでいれば、幾度となく目にする地名だ。確かここは京都だったはず。関東人のイメージでは、京都は大阪の北側で、琵琶湖の南側で、なんとなく日本海には面していないように思うのだが、福井県と兵庫県の間でちゃんと日本海に接点があるのだ。それが舞鶴であり、天橋立もあるのだ。舞鶴市に入ると、天橋立の看板も目につくようになってきた。ならば少し立ち寄るとしようか。時間は午後11時を過ぎるところだった。名勝天橋立が見えるという駐車場にクルマを停めた。休憩がてら外に出て、体をぐっと伸ばす。正直、疲れは全然ない。俺もまだまだ捨てた物じゃないな。30歳を過ぎて少々腹も出てきたが、まだまだたいしたことはない。肌艶もまあまあ。新独身貴族としてもやっていけそうじゃないか。天橋立の説明の看板を見つけたので、そっちの方向を見てみるが、真っ暗で何も見えない。なるほど。ライトアップなどはしていないのだな。当たり前か。このままここで夜を明かすか少し迷ったが、ここは先を急ぐことにしよう。今日はやはり鳥取まではコマを進めておきたい。

クルマは更に西へ。山道を進む。あたりは何も見えない。深夜零時を回った頃にはもう、他のクルマは滅多に見えなくなっていた。ただ暗い中をひたすらナビの指示で走り続ける。景色など何も見えない。人々の暮らしも何も見えない。俺の人生もよく見えない。ヘッドライトが照らすアスファルトとセンターライン、ガードレール、メーターパネルだけが俺の視界にあった。小腹が減ったので何か食べられる店は無いかと探してみたが、この近辺に、この時間まで営業している店がまるで無かった。コンビニもない。夕方買った食い物はとっくに全部つまんでしまった。クルマを停めてナビで検索してもよかったが、なんとなく面倒でできなかった。と、カーブを抜けたところで見慣れた看板が見えた。吉野家だ。まったく知らない土地に旅してきて、結局チェーンの牛丼を食うのか、と一瞬躊躇したが俺の旅なんかそんなもんで十分だと思い直して、駐車場にクルマを入れた。吉野家のオレンジの看板が、暗い街中に映えてまぶしかった。全く知らない町で、知ってる看板というのは、なんだか安心感があった。旅としてどうなのか、と問われるとなんと答えたらいいのかわからないけれど。牛丼はみそ汁と漬け物をつけて420円だった。食べ終えてなんだかひと心地着いたが、まだ眠くはなかった。このまま駐車場で仮眠を取ることも考えたが、俺はそのまま旅を続けることにし、吉野家からクルマを出した。午前1時を回ったところだった。気がつけば、旅も2日目に突入していたのだ。
ここからの2時間はあまり代わり映えのしない暗い夜道を、ひたすら走っているだけだ。CDもすでに何周目かで飽きてきた。ラジオでもと思ったが、どうも電波がうまく掴めない。カラダは忙しく運転をしているが、こうのんびりした道路では脳みそが余ってしまう。余った脳みそで考えることは、ロクなことではない。結局やっぱり離婚のことを思い出してしまっていた。これではちっとも気晴らしの旅にならないではないか。別居の話を持ち出してきたとき、当初は元妻が子どもを連れて出て行くという話をしていたのだが、その別居先の入居費用と家賃負担を要求してきていた。彼女の実家はその当時のアパートから歩いて5分程度であったので、てっきりそこに行くのだと思っていたところが、そうではなく新たに部屋を借りるというのだ。退職金が割とあったので、入居費用はとりあえず大丈夫だが、その時点でまったくの無職の俺に自分の家も含めて毎月2軒分の家賃負担など無理に決まっている。実際無理だ。フリーの編集者として営業を始めたとしても、まともな収入を得られるようになるまでに運がよくても1年はかかる。それまでWebサイト制作のアルバイトなどで糊口を凌ごうと思っていたところに、降って湧いたのがこの別居話だった。どうしたものか。しばらく考えているうちに、別居ではなくもう離婚してしまおうと、元妻の要求が変わったのだった。
離婚することが決まった瞬間、俺が考えたのは後悔でも反省でもなく「あ、これで旅に出られる」だった。だから、引き止めもしなかったし、理由を問いつめることもしなかった。さっさと自分の荷物をまとめ、引っ越しの手続きをし、クルマを買い替え、バイクを手放し、本を売り払い、さっさと実家に戻ったわけだ。元妻と息子は、そのままその家に残った。離婚して、俺の生活だけが変わったのだ。それは俺にとってたぶん良かったのだと思う。旅に出てすら、なんだかんだと脳裏をよぎるのが男のサガだ。俺が元の家に残っていたら、悶々としてまともな生活もできなかったかもしれない。ただ、東京を離れることで、フリー編集者として生きる道は完全に断たれてしまった。信州でも不可能でないかもしれないが、まったく縁の無い商圏でやっていけるほど甘いものではないだろう。実際、地元にもフリーライターやデザイナーは数人いたが、信州でフリー編集者という職種の人間に出会うことはその後もなかった。元の家を出て3週間ほど経って、俺はようやく当初の計画通りにこの旅に出たのだ。親父たちは半ばあきれ顔ではあったが、好きにしろと送り出してくれた。資金は潤沢とは言えなかったが、ただ走るだけならどうにか足りるだろうというぐらいにはあったので心配はいらない。とにかく車中泊で凌いで、贅沢をしないことがこの旅のポイントだ。旅費の大半は交通費に消えることだろう。
午前3時。不意に「鳥取砂丘」の文字が視界に飛び込んできた。いよいよだ。ようやく最初の目的地に到着したのだ。ナビの薦めるままに、駐車場に入り、暗闇に向けてクルマを停めた。何時間ぶりかでエンジンを止める。キンキンキンと音がする。それが収まると何も音がしない。周辺を走るクルマも無い。駐車場の脇にトイレがあり、常備灯が点いているが、この闇を切り裂くほどの光量はなく、眼前にはまったくの暗闇が広がっていた。少し小雨が降っている。月明かりも星明かりも無く、ただ真っ暗だった。俺の人生も真っ暗ではあったが、今は自由がある。思えば23で結婚してから、あまり自由ではなかった。何かを強要されたことがあったわけではない。ただ、俺には選択肢がなかったのだ。仕事と家庭。そのどちらかが交互に時間を蝕んだ。ネットゲームにずいぶん時間を費やしたりはしたが、あまり本意でもなかった。スキマ時間ではそんなことぐらいしかできなかっただけだ。本当は世界中に出かけたかったのだが、自分ではその選択肢が見いだせなかったのだ。望んでも得られなかった自由。今は持て余している。暗闇を見ながらそんなことを考えたが、もういいだろう。とりあえず眠ろう。後部座席で毛布をかぶって、俺はすぐに眠りについた。
目覚めると、眼下には砂丘が広がっていた。その先には海が見える。間違いなく俺は鳥取砂丘に着いていたのだ。時間は午前6時。だいぶ深く眠ったようで、3時間程度ではあったが、それで眠り足りない感じはなかった。カラダも伸ばせないようなシートでよく眠れるなとは思うが、長年頻繁に会社に泊まり込んでいるうちに、どこでも眠れるカラダにでき上がってしまったらしい。まだ3月なので寒さは感じるが、眠れないほどではなかった。もちろん危ないのでエンジンはかけていない。クルマから出て、カラダを伸ばそうと思ったが、雨が降っている。思ったより雨足が強い。見える砂丘も、なんだが泥の丘のようになっていて、降りて行く気にはならなかった。しばらく眺めていたが、腹も減ったのでとりあえずコンビニを探すことにした。が、すぐには見つからなかった。しばらくぐるぐる走って、ようやくローソンを見つけることができた。砂丘からは結構離れてしまった。あんぱんとカレーパン、あと缶コーヒーを多めに買い込んだ。800円のお支払いだ。
コンビニの駐車場で少し考えた。今日の天候では鳥取砂丘の本来の姿は見られそうにない。数日過ごして砂が乾くのを待つほど、砂丘にこだわりがあるわけではない。何冊か用意してきたガイドブックをペラペラと眺めてみる。島根県はやはり出雲か。山口県は何があるだろう。萩か。萩といえば萩焼だ。以前、友人にもらった萩焼の茶碗を愛用していたのだが、元の家に置いてきてしまった。いまさらくれとは言えないな。そうだ。萩まで買いに行こう。これは名案だ。ナビでここからの所要時間を調べてみると、約8時間。山陰には高速道路が少ししかないので、ほとんど一般道を行くことになるため結構時間がかかるのだ。途中休憩をはさむとして、午後4時までに萩に着けるだろうか。観光地の土産屋の営業時間は、どこもだいたい午後5時頃までだ。観光地育ちの俺にはわかる。萩焼の店もそのぐらいの時間には閉めてしまうだろう。ましてやシーズンオフの平日だ。そもそも定休日の可能性もある。電話して確認してもいいが、それも10時過ぎてからだ。とにかく、出発することにした。西を目指すのだ。
鳥取から萩まで、まずは国道9号を行く。日本海沿いをひたすら西へ向かうルートだ。途中で松江や出雲を通過することになるが、今回は素通りさせてもらうことにした。ギリギリの時間になる可能性もあるので、寄り道すらできない。とにかく一気に萩まで走りぬけることだ。ミッションが決まって、俄然楽しくなってきた。いわばタイムトライアルである。俺はそういう遊びが大好きなのだ。出発したものの、9号に出るまでに少し手間取った。通勤時間帯に入ってしまったので、ところどころで渋滞が発生していたのだ。知らない土地では抜け道もわからない。下手に迷い込むとかえって時間をロスするものだ。ここは諦めてナビの通りに、前のクルマの後について進むことにした。郊外に出れば挽回もできるだろう。ナビの示す萩の到着時間は刻一刻と変化していくが、今のところ16時を過ぎてはいなかった。このまま進めば大丈夫ということだ。ただ、やはり寄り道や休憩はできない。一気にいくしかなかった。
米子から山陰道に乗った。短いが、少しでも時間稼ぎになればと思ったからだ。ところがこれが失敗で、意外にもこの道が渋滞してしまったのだ。天候は回復したのでいい感じにドライブ日和になってきた。のんびり気持ちよく走れるのだが、こう渋滞ばかりでは到着時間が読めない。山陰は細長く、幹線道路がほぼ一本しかないので混むのだろうか。俺はずっと時間のことばかり考えていたので、余計なことは頭から消えていた。
こうして道路の周辺を見ていると、普段よく見かけるチェーン店ばかりだった。ここまでくれば全く知らない店が立ち並んでもよさそうなものだが、家電店、ファミレス、ショッピングセンターなど、見知っているものがほとんどで、代わり映えがしない。スーパーマーケットは見かけない名前のもがあるが、店構えなんかはどこも同じようだ。国道沿いというものはきっとどこでも似たようなものなのだろう。その街の真の姿を見たければ、たぶんこういう走り方ではダメだ。脇道、寄り道、迷い道をしてはじめて、未知の生活に触れることができるのだろう。
出雲大社が近いあたりのコンビニで休憩をした。時間はもうすぐ正午になるというところだっだ。ローソンでおむすびを2個。鮭ハラミと生たらこを買って食べた。朝食もローソンだった。どこもかしこもローソンばかりだ。こっちの方はローソンが多いことは予備知識としては知っていたが、ここまでとは思わなかった。飲み物は朝買い込んだコーヒーがまだある。おにぎりと缶コーヒー。わざわざ出雲まで来て、おにぎりと缶コーヒーだ。そんな旅どうかと思うが、俺は楽しかった。簡単には来られない土地まで、もう来ている。周りの誰も俺のことなど知らない。気にもかけない。そこには自由があった。親父から電話がかかってきて、実家の電気代の立替を頼まれた。週末には返すと言う。商売をやっているので結構な金額だが、とりあえず払える範囲なので承諾した。今どこにいるかと聞くので、出雲だと答えたら意外に遠くまで来ていたようで、呆れて笑っていた。振り込みのできる銀行を探してしばしタイムロス。見知らぬ土地で、やたら現実じみたことをしている自分が滑稽だった。30分ほどうろついてようやく用事を済ませた。先を急ごう。萩は遠い。
米子から出雲までは国道が内陸部を通るので、海は見られなかったが、出雲を過ぎたあたりから頻繁に海岸通りを走るようになった。ほとんど海際というエリアも少なくないので、山育ちの俺には楽しい道路だ。横浜と鎌倉に十年ほど住んだが、意外に海は縁遠かった。R134は土日はいつも渋滞で出かける気にならなかったし、特に海に関わる趣味もなかったので、わざわざ出かけることがなかったからだ。家を離れる前日に、息子と2人だけで辻堂海岸へ行った。半日そこで遊んでいたが、俺は楽しかった。あいつは覚えてくれるだろうか。海を見ながらそんなことを思い出していた。日本海側の海面は、太平洋側に比べて盛り上がっているように見えるのは、気のせいだろうか。理屈ではもちろん気のせいなのだろうが、どうも海面がぐっと迫ってくるように見える。湘南の海はそういう圧迫感はなかった。道路が海側に傾斜しているからだろうか? 島根の海はぐっと迫ってくる感じがするのだった。午後になってすっかり晴天になったが、それは時間が経ったからなのか、ずいぶん移動してきたからなのかはわからない。
中学の頃、教科書で見かけた江の川を渡った。遠くへ来たのだと実感する。この辺りまでくると渋滞などは全くないので、気ままにドライブを続けて来られた。実に爽快な気分だった。海沿いのワインディングロードは俺専用だ。このままどこまでも走り続けてもいいかもしれない。と思ったが、そろそろ給油をしなければならない。昨夜木之本で給油してから、500キロほど走ってきたようだ。国道沿いのガソリンスタンドに入り、飛び出してきた店員にレギュラー満タンを指示した。俺はトイレの場所を聞き、用を済ませた。ここは映画にでも出てきそうな、いかにも昭和的なスタンドだった。少し古めかしい事務所だが、ポスターの類いだけは新しく、誰が買うのかわからない新品のタイヤが積まれていた。振り向けば眼前に日本海が広がっていた。なんとも絵になる。そういえば俺のアコードワゴンは、買ってすぐに、雪山にある実家に戻る前にスタッドレスタイヤに交換していた。元々中古屋にあった時点でこのクルマのタイヤは要交換だったから、ちょうどいいと思って買ってすぐにスタッドレスに交換しておいたのだった。ここ島根やこの先向かう九州で雪が降るとは思わなかったが、その後どこまでこの国を走るかは決めていなかったから、行こうと思えばどこまでも行けた方がいいのだ。たぶん。
鳥取からひたすら国道9号をひた走ってきたが、この道は益田から瀬戸内側へと内陸へ向かってしまう。ここから先、萩までは国道191号を行くことになる。時間は14時50分。あと1時間で萩までたどり着けるだろうか? ナビの予測した到着時間はちょうど16時だ。順調に行けばどうにか間に合う感じではあるが。道路は心なしか少し細くなったような気がする。一桁国道と三桁国道の違いなのか。その辺はよくわからない。そういえば、山陰地方の海岸沿いの民家は、なんとなく似た雰囲気がある。古い民家は板壁が多いようだ。茶色い瓦もよく目にする。旅に出るまで気づかなかったが、民家にも地域性ってものがあるみたいだ。様式などという大げさなものじゃなく、その地方の施工業者の傾向という感じだろうか。あるいは流行か。東京のように千差万別という感じではなく、なんとなく統一感のようなものがある。それが町並みを作り、地方色を構成しているのかもしれない。そうやって知らない街を観察しながら通過するのは、実に楽しいことだ。人が住むところには、生活があり、人生がある。少し人間というものが好きになってきたかもしれない。絶望するには少々気が早かったに違いない。そんな風に思いはじめていた。
行先案内板に萩の名前が目立ってきた。市街地まであと数キロ。時間はまだ16時に至っていない。どうやら間に合ったようだ。脇目も振らず走り続けた甲斐があったというものだ。とりあえず、観光者向けの萩焼センター的なものがあったのでクルマを停めた。ここで買い物が済めば楽だ。外にほとんどクルマがないので、なんとなく気づいていたが、店内にはほとんど客はいなかった。どうもここは団体客向けの土産店のようだ。たくさんの萩焼が並んでいるが、良さそうなものは非常に高価でちょっと手が出せなかった。実用性の高いものではなく、飾り物ばかりでどうも想像とは違っていた。どうしたものかと思って、観光パンフレットを手にしてみたら、ここは市のはずれのあたりであり、萩焼のお店が建ち並ぶエリアはもっと先の市街地にあるということがわかった。時間は16時10分を回っていた。急がねば。
萩市内にある中央公園あたりの駐車場にクルマを入れて、旧市街まで入ってみることにした。ここまでくるといかにも古都という風情の家が増え、吉田松陰の街という感じもしてくる。俺はどっちかというと高杉晋作の方に興味があるのだけど。観光ガイドを見ると、ここから歩いて十数分のあたりに、萩焼の店が点在しているようだ。すでに16時30分になっていた。最寄りの店頭を見てみると、営業時間が17時までになっている。思った通りそんな時間にみんな閉まってしまうのだ。急がねばなるまい。そう何件も選んで回っている余裕はなさそうだ。まずは店頭の雰囲気だけで店を選ばねば。いかにも城下町という風情の土塀が立ち並ぶエリアを早足で駆け抜ける。高杉晋作生誕地という家もあった。入ってみたいが、今は時間がない。更に先を目指した。とある萩焼店が気になって足を止めた。時間的にもこれ以上先には進めない。ひとまず肚を決めて店に入った。思ったよりも手頃な値段の品が多かった。息子用に1点どんぶりを買った。この度の途中で立ち寄ることになっているからだ。このサイズは子どもがうどんを食べるのにちょうどよさそうだ。そんなに重くもないので使いやすいだろう。自分用の物も買いたかったが、もう選んでいる暇は無さそうだ。ひとまず1点だけ買い求めて、店を後にした。帰りは少しだけ歩調を緩めて、のんびりと長州の空気を味わった。
さて、クルマに戻ったところで、このあとどうしたものか考えた。少し東に戻って広島に向かうか、このまま西進して九州を目指すか。地図帳を眺めていたら、秋吉台の名前が目についた。カルスト。小学生の頃、図鑑から科学の本やらでやたらと目にした名前だ。ふむ。距離もさほどではない。明るいうちに着けそうだ。まずはそこに向かおう。その先のことはそのあとで考えることにした。萩からは海を離れて、山道を走った。萩から秋吉台までは本当に近かった。何気なく走って、普通の山並みを越えたら、それは突然現れたのだ。山肌に突き出した石灰岩の塊。3月の山は新緑が芽吹く前だ。枯れ草の中から、骨のような白い岩塊がニョキニョキと突き出している。想像をはるかに上回る異様さだ。しかも、広大だ。どこまでも続くように見えるほど、カルスト台地は続いていた。秋芳洞にも寄ってみたかったが、残念ながらすでに営業時間は終わっていた。日のあるうちに秋吉台が見られただけでもよしとしようと、気を取り直して次の目的地をどこにするか考えはじめた。
どうやら秋吉台のあたりには温泉宿が多いようだ。そこかしこに看板が目立つようになってきた。しかし、旅館や民宿に泊まり続けられるほどの路銀はない。できるだけ節約しておかねば、早々に資金難に陥って、旅の中断を余儀なくされるだろう。かといって旅も2日目。そろそろ風呂に入りたいのも事実だ。クアハウスのようなものがあればいいのだがと思い、全国温泉施設ガイドを開いてみると山口市内に良さそうなのが1軒あることがわかった。湯田温泉「温泉の森」。これはよさそうだ。深夜零時まで営業しているので、少しゆっくりできそうだ。そのあとはどこかで車中泊と行こうじゃないか。俺は早速、湯田温泉へクルマを向けた。クルマを走らせながら、夕日を眺めつつ、温泉のそのあとはどうしようかなと考えはじめた。そういえばもう九州が近い。今夜どこに泊まるにしても、明日は九州だろう。九州といえば、真っ先思い出すヤツがいた。なるほど。あいつに連絡を取ってみるのも楽しいな。都合が合えば会えるかもしれない。秋吉台から湯田温泉は意外に近く、日が暮れた頃にはもう到着していた。温泉の森の駐車場にクルマを停め、まずは、九州の友人にケータイからメールを出した。すぐに返事は来ないだろうが、気づけば何かリアクションはあるだろう。のんびり風呂にでも浸かって、ゆっくり返事を待てばいいのだ。
湯田温泉の温泉の森は、よくあるタイプのクアハウスだ。施設はなかなか広かった。そして客はまばらだったので、俺はのんびりと巨大な浴槽を独り占めできたし、旅の疲れを完全に癒すことができたのだ。とはいえ、もとより烏の行水と呼ばれるほど入浴時間の短い俺である。三十分もしたらすっかりのぼせてしまって、早々に退散した。温泉は入浴そのものよりも、上がってからのクールダウンが重要であり、醍醐味なのだ。近所の観光ガイドなんかもあったので、拾って読んでみた。中原中也記念館なるものが近くにあるらしい。明日まだここにいたら寄ってみようか。一人旅の気楽さを最大限に満喫しつつ、コーヒー牛乳を買い、最新鋭のマッサージ機にコインを入れて、そこでようやくケータイを開いた。すると、北九州のあいつからメッセージが届いていた。「いつ来るの? 今夜? 今どこ?」
俺は、今山口にいる旨を返信した。すぐに返事が来たが、どうも山口から北九州までの位置関係がわかっていないようで、遠いのか近いのかピンと来てないようだった。行ったら会えるのかと聞いたところ、今夜はヒマだとの回答を得た。じゃあ行くと返したら、待ってると言って、待ち合わせ場所を指定してきた。俺は急いで荷物をまとめて、クルマに戻った。ナビに目的地をセットすると、指定地には午後9時頃に到着することがわかった。メールでその旨を伝えると、すぐにクルマを出した。そういえばクルマがだいぶ汚かった。客人を乗せるのにこの状態では無礼千万である。数分はロスはするが、洗車をしてから北九州に向かうことにした。ワックス洗車を済ませ、中国自動車道で一路北九州へ向かった。そういえば下関にも知り合いがいたんだった。来たらフグをおごってくれると言っていたが、思い出すのが遅すぎたな。午後8時に美東サービスエリアでトイレに寄り、30分後には関門海峡を渡って、九州に上陸した。北九州の夜景は、なんだか想像以上に派手で、その外側が真っ暗な分、ひと際輝いて見えた。どこまでメリハリなく続く首都圏の夜景とは違う、いかにもな夜景らしさを感じた。そして巨大な橋を渡ったところで、ようやく指定地の若松に到着した。21時ちょうどだった。
クルマを停めて、メールで到着した旨を伝えたが、なかなか返信がない。さすがに少し眠気が襲ってきたので、シートを倒して横になっていた。眠るまではいかないが、なんとなくまどろんでいた。ふと時計を見ると、すでに30分が経過していた。どうした? と再度メッセージを送ってみたところ、今度はすぐに返事がきた。どうやらまだ家にいるらしい。とりあえず待っているからと返事をして、ケータイを閉じた。別に人恋しいわけじゃないが、やはり地元のヤツには会っておいた方がいい。あわよくば泊めてもらえば、足を伸ばして眠ることもできるではないか。ちょっと図々しいけど。まあ、話の流れ次第ではあり得ない話でもないだろう。しかし、まだ連絡は来ない。ここは家から5分程度だと言っていたが、ずいぶんかかるものだ。見たところ駅前のロータリーのようだが、人影はまばらだ。近づいてくる人物を見る度に、そいつかなと思うのだがそのまま素通りしてしまう。実は俺はまだ相手の顔を知らないのだ。本名も知らない。というのも、そいつとはネットのとあるチャットのようなもので知り合って、話が面白いので意気投合しただけだからだ。だいたいは大勢の中の一人という感じで、個別の付き合いはなかったのだが、ある時東京でしか手に入らないレアグッズを頼まれて、立て替えて送ってやったことがあった。小額だったので、いつか会ったら返せよ、と冗談混じりに言ったことを思い出したのだ。もちろんそんな小銭を取り立てに来たわけじゃない。一度どんなヤツか会ってみたかったのだ。俺よりは10歳ほど年下だったと思う。最初に関わったのはまだ20歳より前だったはずだから、今は22ぐらいということか。ヤツの名前は、仮に「オグラ(仮名)」としておこう。それにしても遅い。22歳だからって22時まで待たせなくてもいいじゃないか。とりあえず電話するように、俺の電話番号をメールして、もう少し待つことにした。
しばらくして、電話が鳴った。見たことのない番号だ。これはヤツに違いない。ようやくやって来たかと通話ボタンを押した。「もしもし?」。返事がなかった。電話状態が悪いのかなともう一度「もしもし」と言った。「本当に会うの?」と声がした。少しハスキーだが、女のような声だった。「もしもし?」返事がない。「オグ?」「うん」「本人?」「うん」「マジか」「マジ」「んー」。ちょっと予想外の展開だった。女のような声なのではなく、女だったわけだ。黙っていると、オグが聞いた。「会うの?」そうだなあ。ここまで来て素通りはできないよなあ。ちょっとロマンスとか期待できる状況に超展開したわけだし、俺としてはまったくやぶさかではない。「もちろん。もう来てるの?」「まだ」。オイコラ。「でも5分で着くから」「ならとにかく来てくれ。詳しい話はあとで聞くよ」「……わかった」。やれやれ。本当に女だったのか。ちょっと驚いたけど、今にしてみればなんとなくそんな気がしたことはあったので、まったく意外だったわけでもない。ただ、ネットでは男のように振る舞っていたし、顔も出してなかったので、どっちだからわからなく、そしてどっちでもよくなっていたのだ。5分ほどしたら、また電話がかかってきた。「もしもし?」「本当に会うの?」 オグちゃん? えーと。それは俺を極度に警戒しているのかなぁ?
「今どこよ」「近く」「どこどこ?」「会うの?」「会いたくないなら俺は無理にとは言わないけど」「いや、会いたいけど」「じゃあなんで」「そっちは会いたくないでしょ?」「会いたくなかったらわざわざ来ねえし」「……そか」「とにかく、俺は腹が減った。早く何か食いたいから、すぐ来てくれ」「わかった」。俺はクルマの特徴を説明して、さらに待った。誰も来ない。オノレ、オグめ。クルマから出て周囲を見渡した。それらしい人物は見当たらない。うーむ。俺はとりあえずこちらから電話をかけた。遠くで着メロが聞こえた。音のする方を見ると、誰かがいた。そいつはケータイを取り出して、フタを開けた。「もしもし……」「オグだよな」「はい」「見つけた」「えー待って待って」「待たないぞ」「いやいやちょっと」俺は電話を切って、目的の人物に近づいて行った。郵便ポストの陰で、だいぶふくよかな女性が一人もじもじを身を隠していた。俺は人違いだったら恥ずかしいなと、ちょっと躊躇したが、思い切って声をかけた。「えーと、オグラさんだよね?」「はい。オグです」「まったく。どんだけ待たせんの」「ごめん」「とりあえずクルマへ。ね」。オグはあんだけごねていたのに、いざ会ってしまえば急に落ち着いた感じになり、大人しく後からついてきた。クルマに乗る頃にようやく打ち解けて、以前からのネットでのやり取りに似た会話ができるようになっていた。クルマに乗って初めて気づいた。彼女の吐息は有機溶剤の香りがした。
とりあえず俺たちは空腹を満たすために、デニーズに入った。それにしても昨夜から、吉野家、コンビニ、コンビニ、デニーズだ。なんという非グルメな旅だろう。おっと、デニーズは立派なグルメじゃないか。俺はハンバーグセットを頼んだが、オグはドリンクだけ注文した。夕食は済ませたらしい。俺が好きな物を食べていいよというと、拒食症なんであまり食べられないのだとぶっちゃけた。そして、今は一番太ってる状態だと言った。写メで痩せてる頃の写真を見せてくれた。ほとんど別人だった。半年単位ぐらいで、太ったり痩せたりしているのだそうだ。なるほど、今の状態を見せたくなくて、なかなか会おうとしなかったのだろう。だったらなぜ最初に会うとか言ってしまったのか聞いたら、オグは俺には会ってみたかったのだと言ってくれた。ただ、俺が太っているオグに会いたくないだろう、と。だから会えないと思ったのだそうだ。どうしていいかわからずに、ちょっとキメてたとも言った。そういう時に使うのかソレは。オグの言う通り、正直どう見ても太ってはいる。ただ、顔立ちは整っているし、肌もキレイだし、これはこれでいいのではないかと思った。俺、デブ専のケあるし。余裕だぜ、ていうかむしろ可愛い。柔らかそう。なんてことと冗談まじりに話していた。「超ウソつきだよね」と彼女は言った。さぁ、どうだろう。何時までいられるのか聞いたら、朝の3時からバイトがあるという。じゃあ寝なくちゃダメじゃないか。もうお別れかと思ったが、どうやらそれはアダルトなビデオルームのバイトで、別に寝ててもいいし、そもそも昼間寝てたので、もう眠くないので平気らしい。じゃあ少し遊べるな、と言ったら、ドライブしようよということになった。
午前2時45分。オグの家の近くまで来て、俺たちは丘の上から北九州の港を見下ろしていた。港の夜景は美しい。窓を少し開けたので、涼しい風が火照った身体を冷やしてくれた。短い時間だったけどオグとはたくさん話をした。というかオグの話をたくさん聞いた。いろんなものを抱えていて、弱くて、脆くて、力がない女の子だ。でも、ネットではひたすら明るいキャラを演じている。いや、あれは演技だろうか。むしろあの姿こそが、この女の本質なのではないか。現実のしがらみや、問題のせいでネジ曲がってしまったこの仮面の下に、本来の彼女の姿があるのではないか。バランスを崩し、なりたい自分になれないとき、彼女は現実から逃避する。今日も俺のせいで困らせてしまった。俺がメールしなかったら、オグは普段通りのオグでいられたのかもしれない。いつものように動画配信でちょっとエッチな会話をして、常連客と無駄話をするだけだったのだろう。ちなみにデブに見えないようにするテクニックがあるらしい。実際に写メに撮って見せてくれたが、究極グラマラスボディにしか見えなかった。動画でも有効だそうだ。顔はごまかしにくいが、元々顔出ししていないので問題はないのだという。俺はそんなことを、楽しそうに話すオグが好きだ。そう思った。これからどうするの? とオグが聞いてきた。決めてないけど、と前置きしながら、まずは鹿児島に行き、九州回ったら四国かな。そのあとは北海道まで回りたいよ。と。オグは、いいな。とうらやましそうに言った。そこで会話が途切れてしまった。
横目で時計を見ると、午前3時を回るところだった。名残惜しいとは思うが、これ以上はオグが困るだろう。顔を離して、耳元で「時間だろ」と教えた。オグは「あ」と小さく声を出すと、一瞬泣きそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻って「お仕事お仕事!」と切り替えた。「ウチは本当にすぐなのか?」「うん。その階段上がったところ」「そか」「じゃね」。オグは小さく俺に手を振ると、ドアノブに手をかけた。そこで目が合ったので、もう一度キスをした。少し長めのキスだった。デジタル時計が動いて午前3時5分を示した。さすがにもうまずいのだろう。オグは思い切ったように「また、いつか、会えるかな」と言った。「また来るよ」と答えると、嬉しそうに「次に会う時はスレンダーバージョンだから!」と言って、クルマを下りて行った。スレンダーじゃなくても全然構わんのだけどなあ、と思ったが、本人がなりたい自分があるのなら、それでいいのかなと思った。シートベルトを着け直し、ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを解放した。坂道なので、アコードワゴンはすぐに動き出した。そして俺は、オグと二人の残像をそこに残して、福岡に向かった。俺は港の夜景に別れを告げながらひとときの逢瀬を思い返していた。オグとのキスは有機溶剤の香りがした。
目が覚めると、もう明るくなっていた。時計を見たら朝の6時半だった。あのあと、北九州郊外のコンビニで仮眠をとったのだった。おにぎり2個と缶コーヒーを買う。少し寒かったので2時間半ほどで目が覚めてしまったのだろう。もう眠くはない。さて、次はどうしよう。ひとまず福岡に向かおうか。福岡市内を探検してもいいし、他に行ってもいい。福岡といえば中州だ。タモリの芸によく出てくる中州産業大学を見学に行くのもいいだろう。どうしたものかと地図を眺めていたら、長崎に行ってみたくなった。亀山社中の史跡があるではないか。あれは一度は見ておかねばなるまい。そのあとはどうする。阿蘇は行きたいな。あと、桜島見ておかねば。となると、有明フェリーを使うのがいいだろう。時間を見ると、正午の便がある。これに乗れればちょうどいいではないか。午前中に長崎を回って、午後に阿蘇。効率がいい。とりあえず今日の予定は定まったようだ。出発してクルマを走らせると、昨夜見えなかった九州の地名があちこちに見えて来た。どうも当て字っぽい地名が多いように見える。漢字が入ってくる前から人が住んでいるのだから、昔の言葉を万葉がなに当てたような地名が多いのかもしれない。そんなことを考えながら走っていたが、通勤時間帯が渋滞なのは、全国共通のようだ。トホホ。
長崎自動車道をひた走り、金立サービスエリアに9時半に入った。ここで給油も済ませる。朝の渋滞は予想外の事態だったが、このまま高速で一気に進み、長崎入りが出来れば、亀山社中を見学してからでも、正午の有明フェリーに乗ることがギリギリできそうだった。オグはそろそろ起きた頃かな。いや、むしろ寝る頃か。声が聞きたかったが、疲れているだろうから、また後にしよう。俺は再び、長崎自動車道に乗り出した。あと1時間ほどで長崎近郊に着くはずだ。俺はなんとなくだが、このまま九州に残ろうかと考えはじめていた。だったら今日無理して回る必要はない。北九州に戻ってから、オグを連れて一緒に回ってもいいんじゃないだろうか。彼女は来てくれるだろうか。来ないかも、しれないなあ。とは思った。彼女は彼女の世界に戻って行ってしまったんだ。俺は俺の世界を生きている。瞬間的に交わることがあったとしても、そこから先もあるかどうかはわからない。彼女がそれを望むのかどうか。望まない世界へ連れ出すことは、今の俺にはできそうになかった。旅を続けるしかないのかもしれないな。そんな風に考えた。いろいろ考えた。考えることが多いので、余計なことは思い出さなくなっていた。
長崎市郊外。俺は決断を迫られていた。亀山社中を捨てるかどうかだ。長崎近郊で高速道路を下りて一般道をここまで走って来たが、どうにも渋滞が惨くなっているようだ。先へ進むほど、クルマの動きが鈍くなっていた。亀山社中付近まで距離的には20分程度らしいが、いよいよどうにも動かなくなってしまった。有明までの時間も余裕がなくなってきた。そろそろそちらへ向かわなければ、正午のフェリーを逃す。次は2時の便だ。そうすると今日はもう阿蘇を見るところまでになってしまうだろう。もし、オグから連絡があるようなら、また福岡に戻ることになるだろう。であれば、無理に今行く必要はない。とも考えられる。俺はひとまず左の車線にクルマをズラした。決断の時間は迫る。高杉晋作の生誕地を見たのなら、亀山社中跡地も見ねばなるまい。だが、このあと高知に行くこともできる。俺は次の信号で、左にハンドルを切った。長崎は、またいつか来よう。アスタルエゴ!
有明フェリーの出港地は島原の北側にある。あの雲仙普賢岳も近い。長崎からは国道57号で1時間ほどの距離だ。のどかな田舎道を巡航速度でのんびり走る。混んではいないが、空いてもいない。少し霞んでいるが、天候は良好だ。街並みは半農半商といったところで、信州の郊外に少し似ている印象だ。フェリーの出港は12時25分。手続きを考えると正午までには港に着いている必要があった。また、ナビの示す到着時間は正午ちょうどだった。どうも長崎での決断はギリギリのタイミングだったらしい。昼飯を食っている暇はないようだ。このまま順調に行けばギリギリ間に合うが、少しでも渋滞したらまずい。道を間違えても致命的なロスになるだろう。俺は運転に集中していた。そのとき、他のことは何も考えていなかった。ただ、一心不乱に少しでも早く着けるように。走り続けていた。国見町から有明町に入った。国見と言えばサッカーの、あの国見だ。感慨深い。そしてついに多比良港に到着した。時間は正午ジャスト。ナビの計算通りだ。
港ではすでにフェリーに向けて車列ができていた。とりあえず最後尾につけてチケット売り場に走る。数人並んでいたが、すぐに手続きは済んだ。乗用車の運賃は2240円だ。乗員1名分が含まれる。クルマに戻ると、まもなく誘導が始まり、1台ずつフェリーに乗り込んだ。クルマを指示された通りに載せると、係員が車止めを持って来た。もう出港するというので、クルマを離れて船室に上がった。ちょうど後ろのゲートが上がるところだった。俺は最上階の展望フロアにあがって、有明海を眺めた。春らしい陽気に、潮風が気持ちよい。手すりには十数羽のカモメが横一列にとまっていた。あまりに面白い光景なのでデジカメに撮った。そういえば旅に出てから、まるで写真を撮っていなかったことに気づいた。オグの写真も撮っていない。あとで送ってもらおうか。嫌がるかもしれないが。あるいは福岡に戻ることがあれば、一緒に撮ろう。もう数枚港の写真を撮って、俺は船室に戻った。温かくはあるが、長居するにはまだ少し寒い。サンライズ号の船内には売店があった。パンと缶コーヒーを買って、腹ごしらえをした。しばしの休憩。船内は乗客も少なく、のんびり過ごせた。とはいえわずか40分で対岸の長洲に到着してしまう。昼寝を決め込むには短すぎる。陽当たりのいい席でまどろみながら、俺は昨夜のオグとの逢瀬を思い出していた。
船が陸地に近づいているのがわかった。キャビンには、長州港に到着する旨の放送が流れた。他の乗客がざわつき始める。俺もゴミを片付け、下船の準備をはじめた。午後1時。オグも目覚める頃だろうか。いや、バイトが終わる頃かもしれないな。そういえば、その辺りのことは聞かなかった。今日、どうしているか聞いておけばよかった。とりあえずメールしておこう。俺は「おはよう。これから阿蘇に向かうよ」とオグに送信した。電話はしなかった。長州港から阿蘇へは、東に真っすぐ80キロほどだ。ナビは2時間ほどの道筋を示している。港の周辺はあまり商業施設もなく、代わりに大きな工場が建ち並んでいた。ナビを見ると日立造船の工場があるようだ。初日の夜に通ってきた舞鶴にも日立造船があったな。なんだか縁があるなと思ったが、特に見学するわけでもない。今は阿蘇を目指しているのだ。
阿蘇が近づくにつれて、国道沿いといえども田舎度はどんどん増してくる。これまでどちらかというと海沿いを走ることが多く、山岳部を通り抜けるのは高山あたりを抜けてから以来になる。内陸を走ったとはいえ、秋吉台のあたりはそれほど山深くはなかったから、こんな山道を走るのは久しぶりの感覚だ。海沿いとは植生がまるで違うことがはっきりとわかった。道路は外輪山らしき地形をどんどん上がっていく。イメージでは上がりきったところで、パーっと視界が開けると思っていたのだが、そこまでの変化はなく、途中から下りが増えて、どうやら外輪山の内側に入ったらしいとわかる程度だった。まあ、現実なんてそんなもんだ。阿蘇山に登りはじめたようで、どんどん標高が高くなっていく。ひたすら上り坂を走っていく。カーブを登りきったところで、いきなり視界が開けた。一面に広がるなだらなか草原が眼下に広がっていたのだ。教科書で見た天然記念物「草千里」に違いない。案内板のある駐車場にクルマを寄せた。実際そこは草千里だった。もっともまだ芽吹きの季節ではなかったので「枯草千里」といったところではあるが、広大な草地が延々と広がる様はまさに雄大そのものだった。草千里をバックに写真を撮った。オグからの返信はまだなかった。
草千里からほどなくして、阿蘇山山頂付近の駐車場にたどり着いた。午後3時ジャスト。計画通りだ。駐車料金は410円だった。駐車場の脇には、毒ガス注意の看板が立てられていた。表札を見ると今日は登頂可能らしい。が、ここまで上がってくると、風はそこそこに強かった。天候も下り坂で、今から日没までに戻ってくるのも大変そうだ。山頂方面は霧が出ている。さらにだんだんこちらの方へ下りてくるようにも見える。しばらく外にいたが、やはり寒いのでクルマに戻った。阿蘇まで来た。その事実だけで十分にも思えた。さて、この後どうしよう。オグの返事があれば、北上して福岡県に戻るというルートもあるが、ひとまず旅程を進めることを考えよう。引き返すのはいつでもできる。出来ることならば、桜島は見てみたい。長州の萩に行ったのだから、薩摩の鹿児島も行っておくべきだろう。龍馬ゆかりの地はあまり回れていないけど、高知に行けばなにかあるだろうし、まずは桜島を見ておこう。日没時間を考えると、午後6時までには鹿児島周辺、しかも海近くまで行かねばならない。現時点ですでに3時半だ。熊本から九州自動車道に乗れば、18時に鹿児島市内に入れると、ナビは言っている。渋滞はあるだろうか。おそらくはない。福岡や長崎辺りあたりは土地が狭いせいか少し混んでいたが、熊本に渡ってからは渋滞などまったくなかった。とにかく、俺は桜島に向けてアクセルを開いた。
国道57号を戻り、九州自動車道に乗ると、本当に順調に走行距離を稼ぐことができた。しかし、休憩をしている暇はない。とにかく急ぐ。日没までに桜島が見えれば、あとはどうにでもできるのだ。熊本城や天草にも行ってみたかったが、まあ、また戻るようなら見に行けばいい。えびのジャンクションで鹿児島方面に入る。ここまで渋滞は全くない。他の走行車輛もめったに見ないぐらいである。このまま行けば間に合うだろう。ケータイの画面をチラ見したが、何も着信はなかった。電話もメールもなかった。まだ眠っているのだろうか。元気にしているだろうか。陽気な娘なのに、ときおり儚げな表情を見せることがあった。過食症か拒食症か俺にはよくわからないが、おそらくメンタルの問題を抱えているのだろう。俺は今になってあのまま北九州を離れてしまったことを後悔していた。しばらく、そばにいてやることだって出来ないわけじゃなかったはずだ。選択権は100%俺が持っているのだから、どうにだってできたはずだ。それで俺に何かできた、ということはないだろうけど。あと一歩を踏み出せなかった理由は、自分でもわかっている。彼女のことを知らないからだ。彼女には彼女なりの生活も人生もペースも人間関係も、こだわりもあって、そこに俺が割って入る図式が嫌だったんだ。土足で入るような真似をしたくなかった。そんな風に考えてしまったから、「しばらくこの街にいるよ」という言葉を発することが出来なかったのだ。北九州工業地帯の中心地である。一週間でも二週間でも滞在はできただろう。見所も少なくはないはずだ。スペースワールドもある。北九州を起点にあちこち巡るのでもいいはずだ。オグに案内してもらうのも楽しいだろう。そこまで考えて、それでも戻れなかったのは、彼女が今の自分を見られるのがもう嫌なのかもしれないということだった。会っている間に「痩せてからまた来てね」と少なくとも三度は言った。俺は気にしなくても、本人が気にしていたのだ。そういうことだったのだ。俺はもう彼女にメールを送るのをやめた。返事が来るのをただ待つことにしたんだ。
桜島サービスエリアの看板が見えた。日はまだ落ちていない。俺は勝利を確信した。駐車場に滑り込むと、遠目に桜島らしき稜線が見えた。いそいで展望スポットへ走った。少し霞んではいたが、まだ十分に明るく、島影がよく見えた。あれが、桜島ですか西郷さん。そうでごわす。聞こえた気がした。ウソだ。自撮りをして、証拠写真とした。この写真はあとでオグに送ってやろう。桜島には行ったことがないと言っていた。長崎も行ったことがないと行っていた。東京にも来たことはなかった。大阪にも行っていない。広島はあると行ってた気はする。福岡はたまにしか行かないらしい。地元だけで人生の大半を過ごしてきたのだ。とてつもなく可愛く思えたが、それは俺の傲慢でしかない。なんだか自分が嫌いになりそうで、考えるのをやめた。ひとまず鹿児島市内まで行こう。メールをチェックすると、仙台の友人から芋焼酎の情報が入ってきていた。「森以蔵があればいいが、どうせ無いので魔王がオススメ」とあった。よし。では次のミッションは、鹿児島での芋焼酎探しだ。これは楽しそうじゃないか。いや、楽しいに決まっている。俺は急いでクルマに戻り、鹿児島市内を目指した。
高速を下りてから、鹿児島市内へ向かう道路は、渋滞していた。それでも、まだ薄暮が進んだというぐらいの時間までにはもう市の中心部にたどり着いていた。脇道に入り込んでみたら、小さな酒屋があった。とにかく中を見てみようと思って路肩にクルマを停めて、店内に侵入した。店内の両側に酒瓶が並び、奥のレジの横にはガラス張りの陳列冷蔵庫が置かれていた。至る所に、ビールのポスターと手書きのPOPが貼られているが、どうも活気はない感じだった。森以蔵はないか聞いてみたら、半笑いで「それはないわねえ」と言われてしまった。どうやら無いのが常識らしい。そんなにレアなのか。予備知識がないと言うのは不利なことだ。魔王は無いのか聞いてみたら、それはあるという。しかも店を入ってすぐにあったらしい。え? っと思って入り口まで戻ったら、確かにあった。デカデカと魔王!とある酒瓶がドーンと鎮座していた。お値段は1万円である。予想外の価格設定に驚いた。よく見るとそれは単体の価格ではなかった。魔王は魔王でない別の2本の芋焼酎と縄でくくられて売られていたのだ。いわゆる抱き合わせというスタイルである。抱き合わせ販売なんて見るのは、ファミコンのカセット以来だ。うーむ悪質極まりないと思ったが、「もうそれで最後」「他に行ってもたぶん無いよ」というおばちゃんの言葉に負けて、サイフの紐を解いた。魔王。なんという罪深い名前だろう。
魔王の入手はできたが、自分用にも実家の土産にも他の酒を買いたかったので、もう少し市内へ進んでみた。アーケード商店街があったので、裏のコインパーキングにクルマを停めた。午後6時半だった。天文館と呼ばれる商店街は実ににぎやかで、大勢の鹿児島人が行き交っていた。俺は小走りで酒屋を捜した。7時に店じまいという店が多く、あまり時間的余裕はないと思えたからだ。キンコーという酒屋が目に入ったので飛び込むと、いかにもローカル量販店という感じの店だった。店内にはわりと多くの客がいた。さっきの酒屋とは大違いだ。しかし、森以蔵はもちろん魔王も置いていなかった。店員にお薦めはないか聞いてみたところ、「兼重」なる芋焼酎が人気だと教えてくれた。とりあえずそれを買っておこう。他にないか見回すと、おかしな瓶が目についた。「大魔王」と書いてある。魔王ではないのだな。勇気を出して店員に問うてみた。これは魔王ではないのか、と。店員は半笑いで、違いますと答えた。まあ違うだろうな。俺も笑った。「でも、美味しいですよ」。棚に瓶を戻しかけた俺に、店員が言った。面白い。俺は兼重と大魔王を買って、クルマに戻った。午後7時になるところだった。
クルマを出してしまってから気がついた。うっかり夕食をとり忘れてしまっていた。さっきまでは、酒をクルマにおいたら、天文館で食事をとろうと思っていたのだ。せっかく鹿児島まで来たのだから、名物でも食べて観光気分を満喫しようと思っていたのに、すっかり忘れて駐車料金を清算してクルマを発進させてしまった。その辺に停め直してもよかったのだが、なんだかおっくうだったので、先に進むことにしてしまった。郊外に行けば駐車場の大きな飲食店もあるだろう、と考えていた。すっかり日は暮れて、辺りは想像以上に暗かった。そのあとどうするかはともかく、ひとまず宮崎を目指すことにしたので、鹿児島湾沿いの道路を走った。クルマに積んであったスナック菓子を食べているうちになんか腹は膨れてしまった。そのうちファミレスでもあれば寄ればいいかと考えて先を急ぐことにした。右の鹿児島湾は暗く、左側もあまり灯りはなく、とても暗い道だった。ガソリンスタンドが見つかったので早速給油をした。鹿児島市街はにぎやかだったが、少し離れるとずいぶんと寂しいものだなと思った。もうすぐ午後8時になるところだった。誰からもメールの着信はなかった。
とりあえずどうするか考えた。このまま宮崎を抜けて大分まで行けば、とりあえず九州一周を果たしたことになる。地図を見ると大分から四国へ向けてフェリーが出ていた。問い合わせると、午後11時、午前3時、午前7時あたりの便が使えそうだ。ナビで調べると、午後11時はちょっと間に合いそうにない。午前3時は十分に間に合いそうだ。着地の宿毛からは、四万十川が近い。憧れの四万十川を河口から源流まで遡ってみても面白いかもしれない。ああ、それは面白いに決まっている。心は決まった。3時までに佐伯に行き、四国へ渡ろう。俺とオグの、平行だったはずの線と線が一瞬交わった。交わった後は離れて行くだけだ。また元の平行に戻ればいいじゃないか。人生とはそういうものだ。自分を納得させて、海を渡る決意をした。先へ、コマを進めよう。なんて思ってはみたものの、やはり本音はオグにまた会いたいということだった。返事を待つだけの自分のだらしなさに嫌気がさすが、そこで押せるほど、今の俺は強くはなかった。仕事を辞めたのは、半ばリストラにあっていたからであり、自分から望んでのことではない。温情で会社都合の退職にしてはもらっていたが、事実上の戦力外通告を受けての退職同意だ。泊まり込んでばかりでけじめのない勤務状況もあまり評判はよくなかったようだ。営業的に新しい仕事を生み出せないのも、評価されない理由のひとつだったと思う。入社時は自動車関係の出版グループにいたが、数年前に一般書のグループに異動した。企業内出版に興味を失ってしまったのを上司が嗅ぎ取ってくれての処置ではあったが、一般書は簡単に稼げる部署ではない。面白い仕事はできたが、給与面では下がることになった。それは仕方がないのはわかっている。元々そっちの部署の賞与が少ないのはわかっていたことだ。一般書の部署から少しシフトして、元の仕事と平行して社長付きで新企画を推進する担当になった。ひたすら企画書を書いた。書いたが、そうそう通る物ではない。企画書を出して、版元には検討すると言われ、他の仕事を貰ってくるのが仕事だ。他の仕事は一般書のグループが受け持つ。俺は企画書を書く。本屋に行く。企画書を書く。たまに書籍を担当する。企画書を書く。通らない企画書を書き続ける。営業は社長だけで行く。俺は企画書を書く。気がついたら、引き出しは空っぽになっていた。仕事を辞め、そして空っぽのまま、旅に出た。
都城からは宮崎県だ。宮崎辺りの道路はカーブも少なく、なだらかでゆるやかだ。じんわりと長く長く下っていく。少し視界がひらけると、遠くの方に街の灯りが散在している。周囲は暗闇だ。前のクルマのテールランプしか見えない。後続車はいない。背後には暗闇があるだけだ。もうどれほど走っただろうか。ここはどこなんだろう。宮崎県なんてあまり聞いたことがない、ジャイアンツのキャンプ地だということぐらいだ。シーガイアってのはこのあたりにあったのだっけか。よく覚えていないな。宮崎市に入ると、なだらかで広大な感じの土地になる。幹線道路沿いはにぎやかに見えるが、その背後には闇しかない。真っ暗闇に店の看板が浮かび上がっているように見える。今、見える光以外はこの世界は存在しないのかもしれない。だから、メールの返事は誰からも来ないのだ。俺はただ一人、クルマを走らせていた。眠気はなかった。そろそろ休もうとも思ったが、今寝ると朝になってしまいそうで、とにかく佐伯までは行こうと思った。コンビニでサンドウィッチを買った。出発してから名物なんてものは一つも食べてない。なんという貧相な旅行だろう。発想が貧困だからこういうことになる。受け止める体制ができていないから、土地にあるものを受け止められないのだ。そのままコマだけ先に進めている。急に自分のこの十年が空虚なものに思えてきた。23で仕事に就いて結婚した。27で子どもが生まれた。本を何冊か世に送り出した。雑誌の記事もやった。自動車の仕事はエキサイティングだった。今は、何もない。このクルマしかない。それが俺だった。宮崎を過ぎると、街の灯りはまばらになり、さらに闇が深まって行くようだった。
午後11時に、俺はまだ宮崎県だった、やはりこの時間までに佐伯まで行くのは無理だったのだ。だが次の便まで4時間はある。こちらは十分間に合うだろう。大分に入ったあたりから、険しい山道を縫うようになった。深夜なので何も見えないが、どうも道路の脇に線路があるようだ。たまに上を渡っていたりする。実際は、鉄道の方がまっすぐに近いだろうから、むしろ今走っている道路の方が線路の周りをまとわりついているのだろう。鉄道は日豊本線というらしい。聞いたことはある気がしたが、詳しくないのでよくわからない。もう日付が変わる頃なので、鉄道は見かけなかった。日本昔話にあるような山奥というのがこんな感じだろうか。観光としての開発もほとんどされてないように見える。何もない。林業はあるのだろうけど、卑弥呼の時代から、ずっとこんな感じなのではないかとすら思う。自分のクルマのヘッドライトの照らす部分以外には、何も見えない。先を走るクルマももない。後ろからくるクルマもない。本当に一人だ。仕事はない。妻ももういない。九州で一人、誰とも関わりを持っていない。1人だけ顔が浮かんだ。数週間前に別れた息子の、俺が家を出る時に、最後に見せた顔だった。早く寝ろというのに、寝なかった。最後まで見送るといって聞かなかった。最後の荷物をアコードワゴンに積み込んで、いよいよ家を出るというところで、息子が玄関に見送りにきた。元妻は、リビングで「じゃあ」と言ったきり、こちらには来なかった。4歳の息子は俺の腰ぐらいもないが、しがみつくようにして一生忘れられないような泣き顔で「いかないで」と言った。俺はしゃがんで抱きしめながら、「来月また来るから大丈夫。お母さんはお前が守れ」と言った。息子は涙を全力でこらえて、全身全霊を振り絞って「うん」とだけ言った。もう泣くな。俺とお前は離れて暮らすけど、親子でなくなるわけではないのだ。夫婦は離婚できるが、親子は親子のままなのだ。親権のあるなしなど父子の絆には何も関係ない。そういうことだ。何もない山の中を走りながら、俺は息子のことを思い出していた。あいつだけは、唯一最後まで縁が切れることはないのだ。何か少し救われた気がした。まだ、生きる意味があると思った。この旅は自分と向き合う旅だ。自分が何者なのか、確認する旅だ。ようやくそれに気づいた。先に進もう。どこまでも進もう。最後に何を見つけられるのかわからないけれど、薄っぺらい自分をどう折り畳めばいいのか、考えることはできるだろう。
山間部を抜けると佐伯の街だった。港に着いたのは午後1時半。オグからメールが来ていた。「おはよう。やっと起きたよ。今どこ?」俺は佐伯の港にいて、これから四国に渡るということを伝えた。ほどなくして、「もうそんなとこなんだ!びっくり!またくるときは教えてね!」と、顔文字やら絵文字混じりに送ってくれた。俺はもう福岡に引き返そうとは思っていなかった。オグも俺が戻るとは思っていないだろう。旅人を送り出して、もう日常に戻っているのだ。彼女の大切な日常に入り込むのは憚られた。ずるい言い方だけど、深入りするのは、お互いのためではないような気がした。俺も1日経って、頭が冷えたのかもしれない。実際、長居したところであと3日程度だ。ずっといられるわけではない。俺は次の土曜日に息子との再開の約束を果たすことを忘れてはいなかった。今度の週末であれから1ヶ月。絶対に会いに行かなければならないのだ。
今は水曜日の午前2時だ。俺はターミナルに行き、フェリーのチケットを買った。普通乗用車1台と乗員の二等船室がセットで1万円ちょっとの運賃だ。四国の宿毛まで3時間弱の航路になる。これで九州ステージはフィニッシュだ。今寝ると乗り遅れそうなので、船内に移ってから眠ることにした。旅の記録でも見ようと、ナビの履歴を確認してみて驚いた。軌跡が山口あたりからの分しか残っていなかったのだ。どうやら、最大記録可能容量的なものに限りがあるらしい。全国を回る軌跡を描くことはできなかったのだ。なんだか、がっかりしてしまった。旅の記録をこまめに付けてはきたが、そんなことにはあまり意味はなかったのかもしれない。少し寂しい気分になったが、仕方がない。軌跡は残っていなくても、俺は確実にそこにいたし、そこを通ってここまで来たのだから。それでいいじゃないか。
出港は3時ちょうどだ。係員がこちらにやってきて順番にクルマをのぞき込んでいる、運転者が起きているかを確認して回っているようだ。俺が窓をあけると、そろそろ乗船なので支度をするように指示をくれた。エンジンをかけて、前のクルマが動くのをまった。遠くの方でテールランプが動き出すのが見えた。ほどなく、俺の乗船の番が来た。有明でフェリーに乗ったので、もう要領は承知している。船内でクルマを止めると、エンジンを切り、サイフとケータイと地図だけもってキャビンに上がった。寒くて暗いので甲板に出る気にはならなかった。二等船室は雑魚寝形式の広間になっている。深夜の便だからか、他の客はまばらだったので大の字になってのびのび過ごせそうだった。3時間の航海では一杯ひっかけるわけにもいかず、とりあえず毛布を借りて、横になった。遠くで重厚なエンジン音が聞こえて、船が動き出すのがわかった。さよなら九州。さよならオグ。またいつか。俺は吸い込まれるように眠りについていた。
(中編に続く)
2015年5月12日 発行 初版
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1971年生まれ。東京都中野区生まれ、長野県山間部育ち。横浜市、鎌倉市、松本市、千葉県を転々とし、現在は東京都江戸川区在住。身長171cm。双子座。O型。好きなもの:横浜FC、Apple、ホンダ、ゼロ戦、橋梁。趣味:読書。好きな作家:椎名誠、筒井康隆、清水義範、隆慶一郎、田中芳樹、西原理恵子、押切蓮介、ジェフリー・アーチャー、アイザック・アシモフ、ジェイムス・ジョイス。職業:小説家(今日から)、日本独立作家同盟正会員、ワンマンパブリッシャー(前から)、SideBooksエヴァンジェリスト(いつでも)、ADR準備委員会発足検討会発起人(予定)、日本ロビン・スローンファン倶楽部(未公認)会員No.003(候補)、印刷営業士取得、編集者経験あり(実用書中心に約20年)、涙枯れるまで泣く方がいいかもXメイソ管理人(2000年〜2001年)、元『最凶の7500を作る会』主宰(秋津野博士名義)