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看護ロボットはスーパーアイドルの夢をみるか

星野ジッタ。

阿寒毬藻商店



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    プロローグ

「ねぇ、知ってるかい。この子、可愛いだろう」
 そう言って彼は、3D映像を看護ロボットの前に映し出した。看護ロボットはそれに応えるように映像の前で止まってはいるものの、彼の問いに答えることもなく、しばらくすると微かな電磁音を鳴らして所定の場所に戻った。
 彼は癌の末期患者である。この病院の最上階にある個室に入って、すでに三か月がたっていた。
 近年、癌はすでに克服された病気ではあったが、それはやはり発見の時期による。彼はあまりにも発見が遅すぎた。
 彼のいるこの部屋は、他の部屋にはない専用の看護ロボットが二四時間待機している。シャワー室やトイレはもちろん、キッチンや応接セットまであるまるでホテルのスイートルームのような豪華さだ。その一泊の料金もかなりのものである。そんな部屋に入院できる財力を持ちながら、彼には身内もなく来客も皆無と言っていいほどだ。が、それを苦にしている様子はない。
 病院に登録されているデータによると、職業はコンピュータプログラマーということになっている。だけど、彼は、看護ロボットに対して「アイドル研究家」と自称していた。入院してしばらくは病室でも仕事をしており、その合間にアイドルの資料整理などしていた。が、余命がわずかひと月足らずだと宣告されてからは、アイドル研究に没頭していった。
 外に出て行けない彼は、ネットを使って情報を集める。アイドル研究とはいうものの、常に追っているのは一人だけ。デヴュー前、アイドル雑誌に小さくスナップが載った時から注目しているというアイドル、サクラ。
 彼女の生い立ち、デヴューのきっかけ、その後から現在までの活躍ぶり。如何に愛らしく、その歌声がどんなに素晴らしいか。自分を惹きつける理由を、事細かに解説した。
 放送されている映像の録画はもちろん、ネット上、紙媒体等、上がっている情報のファイリングに余念がない。それはもう、死期が迫る病人とは思えないほど生き生きしていた。
 が、数日前より表情に覇気がない。病気のためであるのはもちろんだが、それだけではない。
「サクラがおかしい」
 とある歌番組に出演しているサクラの映像をみて、彼はそうつぶやいた。横にいた看護ロボットの目には、いつもと変わらず笑顔で歌うサクラが映っていた。
「働きすぎだ」
 サクラのスケジュールを見ながら、彼はつぶやいた。
 毎日、サクラがテレビに映らない日はない。裏番組にも、平気で出ている。テレビだけではなく、映画にも出ているしコンサートだって行われる。当然そのための準備も必要だ。どう考えても、休みを取っているとは思えない。今までも忙しいときはあったが、彼女は生き生きと笑っていた。
 だけど。
「どうして、だれも気づかない。彼女のあんな辛そうな表情を」
 そう彼は訴えるが、看護ロボットに見えるのは、いつものサクラ以外の何者でもない。いつものように笑い、そして歌っている。まったくいつもと変わらない姿だった。

 一か月の命と宣言されてから、すでに二か月が過ぎていた。主治医は奇跡だと驚いたが、奇跡は長くは続かない。彼はすでにベッドから、起き上れなくなっていた。わずかに動く指先と目をつかって、パソコンを操作した。
 動けなくなった彼の楽しみは、今やアイドルサクラの映像を追いかけることぐらいだった。彼女は未だ、ひっきりなしにメディアに出続けているが、その表情は優れないままだ。それが彼の妄想なのか、それとも実際そうなのかはわからなかった。ただ彼は、彼女を助けたいのに動けない自分に、ジレンマを感じていた。このまま消えてしまう自分を、どうにかして留めることは出来ないだろうか。願わくば、サクラの元に行き、そして助けたい。
 ベッドに横たわり天井を見つめていた彼は、ふと何かを思いつき看護ロボットにキーボードを持ってこさせると、もはや思うように動かない指を苦しそうに動かしながら、何かを作り始めた。
 その作業は死の間際まで続いた。


        1


 新しく来た入室者は、十五歳の少女。氏名、横田桜。職業、歌手。コンサートのリハーサル中、舞台からの転落により意識不明。
 これが私に与えられた彼女の情報の一部である。
 病院の最上階、一番広いこの部屋が私、看護ロボットNRⅡ-25の担当である。看護ロボットは一部屋に一台。四人部屋では四人の担当を一台ですることになる。私たちの仕事は、多くはない。今まで看護士が行ってきた毎日の検診、体温や血圧、脈拍等を計りメインコンピューターに報告する。顔色や声のトーンもチェックする。普段と違えば、それも報告した。患者だけでなく、室内の様子、患者以外の入室者の様子も常に観察し、異常があれば正常になるよう対処した。
 他の部屋にはないが最上階にある四つの病室の看護ロボットは、患者に対する検査だけでなく、付き添い人の指示にしたがって簡単な雑用もこなした。
 もうすぐ患者、横田桜が入室する。
 私は部屋の中をチェックする。付属品は全部そろっているか、なにか不手際がないか。
 問題なし。
 予定時間が近づき、私は部屋のドアを開ける。廊下に出てみると、長い廊下の中央にあるエレベータのドアが開いて彼女を乗せた移動ベッドが出てくるところだった。
 移動ベッドは部屋に入ると、そのまま壁際の指定された場所に固定された。
 横田桜の担当医と看護士、そして付き添いの男女一人ずつが部屋に入るのを確認すると、ドアを閉めベッド脇の所定の位置についた。
 男性は背の低い太鼓腹のダルマのような体型で、それとは逆に女性はモデルと言ってもいいほど背が高くバランスの取れた体型をしていた。彼らは横田桜の所属する事務所の社長とマネージャーだと紹介された。私は彼らをスキャンしてインプットする。入室してもよい人物だ。
 社長は身長一メートルの私を見下ろして鼻をならし、マネージャーは膝を曲げ私の碧い眼を覗き込んだ。私は手をのばし、それに応えた彼女と握手を交わした。
 二人は看護士に促され、部屋に備え付けの応接セットに坐った。主治医が彼らの前に坐り、横田桜の容態について説明を始めた。
 その様子を見届けると、決められた手順に従い仕事をする。それが終わると、横たわる横田桜の顔を覗きこんだ。
 静かな寝息を立てている。外傷はどこにもなく、今にも瞳を開きそうに見えた。 
 肌の色は白く、鼻筋は通っている。その鼻の下に、小さな口がついていた。その顔つきは、私が知っている彼女より少し幼く見えた。
 ん、私の知っている、とは。
 私は自分の思考に疑問を覚えた。そのことについてしばし考えを巡らそうとしたとき、担当医に長い説明が終わり私は思考を止めた。
 説明を終えた医師と看護士は、社長とマネージャーを残して部屋を出た。
 マネージャーはドアの外まで、彼らを見送りに行った。社長は渋い顔をして、横田桜の顔を覗き込んでいる。病室は禁煙だというのに、胸のポケットから煙草を取り出した。
 私はすばやく警告音を鳴らす。
「持っとるだけや」
 見下した視線を、私のほうへ飛ばす。まだ手の中で煙草を弄んでいる彼に、もう一度警告音を鳴らした。
「社長、ここは禁煙ですよ」
 戻ってきたマネージャーに言われ、社長はしぶしぶ煙草をもとに戻した。そして私のほうをみて、舌うちをした。
「明日からのスケジュールはどうなっとる?」
 眉間にしわを寄せたまま、私にコーヒーを要求しソファーに戻った。
 私は横田桜子のベッドから離れると、キッチンに向かい、コーヒーの用意に取り掛かる。陶器のふれる音と、微かなモーター音が室内に響いた。
「私にもお願い」
 後ろでマネージャーの声がした。私はぽわんとした柔らかい音を鳴らしてそれに応え、トレイに乗せるコーヒーの数を増やした。
 それぞれの前にカップを、テーブルの中央にシュガーポットとミルクポットを置く。
 社長は小さなカップに溢れんばかりの砂糖を入れ、イライラしながら乱暴にスプーンを回した。金属と陶器が当たる音が、何度もなる。
 向いに坐ったマネージャーは逆に恐ろしいほど冷静で、整った綺麗な顔を寸分も歪めることなく、静かにカップを口元に運んだ。
「明日は午前中に取材が三件と、午後からは歌とダンスのレッスンだけです。その後はレコーディング、プロモーションビオの撮影、コンサートのリハーサルに映画の打ち合わせと続きます。その間もテレビの仕事がちょこまかと挟まってますが」
 彼女は末端機の画面を見ながら言った。
「まったく、なんてこった」
 社長は頭を掻きむしった。
「とりあえず、一週間ほどキャンセルや。あとは様子見てからや」
 彼は怒りで震える手でコーヒーカップを持ち上げ、口につけた途端、アチっと叫んで白いテーブルクロスに茶色い染みをつくった。
「熱いやないか」
 横田桜のベッドの脇に戻っていた私に、罵声を浴びせる。マネージャーは覚めた目つきで、社長を見ていた。
「一週間、ですか」
 彼女は、ため息をつく。
「とんだ計算違いや。この忙しい時に、怪我とは。まったく、気が緩んどる証拠や。不注意にもほどがある。」
 社長は立ち上がり、横田桜のベッドのほうを見る。腕組みをしたり、頭を掻いたり、落ち着かない。ベッドの前を行ったり来たりしている。再び煙草に手がのびるが、思いとどまった。
 私の碧い眼が、社長を見たからだ。どうやら彼は、イライラすると煙草を吸いたくなるようだ。
「くそっ」
 吐き捨てるように言った。
「病人の前ですよ」
 言い方は穏やかだが鋭い目つきで、マネージャーは社長の後頭部を見ていた。
「彼女はまだ、十五の女の子なんですよ。仕事を始めてから五年。一度でも休みを取りました?ロボットじゃないんですから。もう限界だったんです。何度も言ったじゃないですか」
 そう言って、彼女は私を見た。社長は強く拳を握りしめ、マネージャーを睨みつけた。
「うるさい」
 捨て台詞を残して、再びソファーに腰を下ろした。微かに埃が舞い上がる。
「意識がないんやから、関係あらへん」
 肘掛けに手をついて、深く座りなおした。
「休まへんかったから、ここまでこれたんやないか。今、休んだらお終いや。すぐ忘れられる」
 すぐ忘れられる。そう社長が言ったとき、私は横田桜の瞼が微かに動いたのに気づいた。
 マネージャーは社長の暴言に、顔をしかめた。
「社長、そろそろ会議の時間です」
 廊下で待っていた運転手が、小さくドアを開け声をかけた。
 結局、一口もコーヒーを飲まずに、社長は出て行った。
 マネージャーはドアまで社長を見送り、一人部屋に残った。ソファーに座り、スケジュール表を眺めながらため息をつく。そして、残ったコーヒーを飲みほすと、それらの片付けを私に頼んだ。
 彼女は横田桜の枕元に立つと、腰を折ってその顔をじっと見つめる。
「可愛いだけじゃないよ。桜ちゃん、あなたの歌声は最高よ。早く目を覚まして」
 それから私のほうを見た。
「じゃ、後はお願いね」
 大体の人間は私を道具として扱うが彼女はそうではないらしく、目線を合わせて、といっても私には頭部に丸いカメラがあるだけであるが、そのカメラを見つめて言った。
 そして部屋を出た。
 社長の声にはわずかに反応した横田桜だったが、マネージャーの言葉には何の反応も見せなかった。
 彼女の心はすでに、閉ざされてしまった。
 


 横田桜の心は、彼女の心の奥の暗闇の中にいた。
 膝を抱え、小さく丸まっている。
 そしてその肩は小刻みに震えていた。

 私は横田桜の心に接触していた。これは私の仕事ではない。こんなことはしてはいけないし、出来ないはずだ。だが、私の中の何かが、彼女、横田桜がどうしてこんなことになったのか知りたがっていた。
 私は静かに横田桜に近づいた。
 私の存在に気付き、彼女が振り返った。
 目があった。
 その瞬間、私の中の何かがはじけた。
 どこかに潜んでいた彼女のデータが、私の中を駆け巡る。
 次から次へと、繰り返し流れていく。

 写真の中のサクラ。
 走っているサクラ。
 振り返るサクラ。
 踊っているサクラ。
 怒っているサクラ。
 笑っているサクラ。
 手を振るサクラ。
 眠っているサクラ。
 微笑むサクラ。
 ステージで歌うサクラ。
 そして、その歌声。
 高音の透明な歌声。
 天使のような。

 私は戸惑った。これは何だ。横田桜のものではない、が、確かに私の中ではじけた。

 膨大なデータの数々。私の中にあったものだが、私のものではない。では、誰のもの。
 データのかけらから、ある人物が見え隠れする。
 前任者。自称アイドル研究科、前川忠志。
 いや、彼のデータはすべて消去済みだ。それはこの病院のメインコンピュータがチェックしているはず。間違いなく処理されたから、私がここにいるのだ。では、この事態は何だ。
 そう考えている間も、彼女のデータは止まらない。
 歩く。飛ぶ。食べる。涙。泣く。泣く。泣く。泣く。泣く。しくしく泣く。
 泣かせない。彼女を泣かせない。泣かせたくない。
 見たいのは、彼女の笑顔。
 彼女の笑顔を守る。彼女を守る。
 それが私の使命。私の仕事。
 私は渦巻くデータの海にのまれながら、どこかでスイッチが下ろされる音を聞いた。


 
 暗闇の中、サクラは膝を抱えてうずくまっていた。
「どうしたんだい」
「辛いの。歌を歌うのは大好きなのに、今は辛いの。昔みたいに、心から笑ってみんなに歌を届けられない」
「いいんだよ。君はずいぶん忙しくしていたからね。それにあまり好きではない歌も、歌わなくちゃいけなかった。だから、少しここで休んでいくといいよ」
「休む?ここで」
 サクラは顔を上げた。そこには見渡す限りの花畑が広がっていた。
「綺麗・・・」
 口をついて言葉がこぼれた。
「ここでは無理に歌わなくていいんだ。君の好きなことをしていいんだよ」
「あなたは誰?」
「君の味方だよ」

        2


 見渡す限りの花畑。太陽は暖かく、ワタシたちのもとに降り注いだ。遠くには山が連なっているのが見える。反対側には森が広がっていた。
 昔、テレビで人気だった子供向け番組に出ていた風景。街は重い雲に覆われ、青空などめったに目にすることのできない街の子たちにとっては、憧れの地でもあった。
 その地に、ワタシとサクラは共にいた。二人のほかには人影はなく、小鳥たちの戯れる歌声が時々、森のほうから聞こえてくる。
 ワタシはビニールシートを広げ、籐の籠から弁当を出した。
「さぁ、座って」
 ワタシは、山のほうを眺めているサクラに声をかけた。
「ほら、ピクニックに行きたいって、言ってただろう」
 立ったままのサクラの手を引く。
 太く、しっかりとした眉。鼻筋は通り、唇は薄め。よく焼けた肌は、白い歯を際立たせた。中肉中背で少し筋肉質。話す時には見上げないといけないほど、サクラより背が高い。
 サクラの憧れの人の姿をしたワタシは、笑って彼女の顔を覗き込んだ。
 サクラの憧れの人。それはまだ彼女が教会の孤児院にいた頃、子どもたちにいつもお土産を持ってあらわれた人。彼はみんなの憧れの的だった。サクラも例にもれず、その人が大好きだった。
 サクラはワタシの顔を見ると、ふと思い出したようににっこりと笑った。
「そうだった、やっとこられたんだね」
 嬉しそうだ。ワタシはその笑顔に笑顔で応える。
 彼女は靴を脱いで、シートの上に坐った。ワタシはさっそく、持ってきた弁当を広げた。二人ではとても食べきれないほどの量。
「わぁ、すごいっ。これ全部、一人で作ったの?」
 感嘆の声を上げて、驚くサクラ。メニューは彼女の好きなものばかりだ。
 定番の卵焼きにタコさんウインナー。から揚げにエビフライ。稲荷ずしに、おかかのおにぎり。スパゲッティからグラタン、サンドイッチまで用意した。
 ポットから温かいスープを注ぎ、彼女に渡す。
 満面の笑みで、それを受け取るサクラ。ワタシはその笑顔を見るだけで、まるで天まで上るほどの喜びを感じた。
 幸せだ。
「大変だったでしょ。私も手伝いたかったな」
 そう言って少し拗ねたように、口を尖らせた。
「そんなに大変じゃないよ。サクラの喜ぶ顔を見られたんだもん。今度来る時は、一緒に作ろ」
 サクラの優しい一言と、歳より少し幼く見える言い方に、ワタシは感動した。
 本当のサクラは、こんなに幼いんだ。
 今まで無理をしていたんだ、と思うとさらに、彼女を戻せないという気持ちを強くさせた。
 ここは、サクラが望んだ世界。
 テレビで見た、憧れの場所。そこでアニメの主人公みたいに、ピクニックに来てみたかった。花畑で転げまわったり、花を摘んだり、その花で王冠を作ったり。
 サクラは嬉しそうだった。大好きなおかずを頬張り、時には草の間を飛び跳ねるバッタや花から花へと飛び回る蝶々に目を奪われ、時には空を飛ぶ小鳥たちを見上げたり、今まで見たことのないその表情に、ワタシは自分のしていることは間違いじゃないと確信した。ワタシが見たいのは、彼女の笑顔だけなのだ。
 弁当を食べ終えデザートに取り掛かろうと言うとき、ワタシは誰かがサクラの名を呼んでいるのに気がついた。ウサギ型に切られたリンゴに感動しているサクラをよそに、ワタシは意識を集中させた。だが、ここからでは、誰のものかはわからない。
 サクラはまだ、リンゴに夢中だ。
 ワタシは風を起こし、雲を呼んだ。彼女が気づく前に、移動するためだ。
「ひと雨きそうだ。あの小屋に移動しよう」
 ワタシはわざとらしく、空を見上げて言った。
「まだ、デザートが残っているのに?」
 サクラはどんよりと暗くなってきた空を、恨めしそうに見上げた。
 少し唇を尖らせた顔。ステージの上では見せない、子どもらしい表情。
 ずっと眺めていたい表情ではあったが、時間がない。
「じゃ、リンゴを一つだけ」
 ワタシは彼女にリンゴを持たせ、残りの弁当を片付け始めた。
 サクラはリンゴを頬張りながら、ワタシを手伝ってくれた。小さな手で籠に荷物を入れて入いく、そんなたわいのない仕草さえ、可愛いらしい。
 手早く片付けを済ませ、ワタシはサクラの手をとって歩き出した。
 ふと、彼女が立ち止まる。
「どうしたの」
「誰かに呼ばれたような気がして」
「何も聞こえないけど」
 ワタシは雨をぽつりぽつりと降らせた。
 思ったより、強い想い。
 ワタシは彼女の手を引いて、小屋まで走った。
「あんなにいい天気だったのに」
 つまらなそうに、サクラは窓に当たる雨の粒を見つめた。
 小屋にはなにもない。小さなテーブルと、その周りに丸い木の椅子が二つあるだけだ。
 時間がなかった。
 ワタシは窓際に立っているサクラの後ろに立った。後ろから彼女の顔を、手で覆う。不意に全身の力が抜け、崩れ落ちるのを支えて抱き上げた。
 ワタシは部屋の隅にベッドを作り出し、その上に彼女をそっと寝かせた。
 二人がいるこの小屋を残して、外の景色、今まで私たちがいた山間の花畑は消えていった。
 ワタシは声の主を確かめるため、意識を外に向けなければならなかった。サクラの望む世界を作り出すには、かなりの容量を使う。並行して何かをするのは困難なのだ。
 ワタシはサクラを眠らせた。
 サクラを守る。それがワタシの使命だから。
 倒れるほど忙しい日々には、帰さない。



 強い意志が、サクラを呼んでいた。ワタシは室内を見渡した。サクラのベッドの脇にマネージャーがいるだけで、他には誰の姿も見えない。不機嫌顔の社長は、初日に来て以来一度も姿を見せていない。
 声の主は、マネージャーだった。
 サクラの手を取り、涙を流していた。初対面では冷静に見えた彼女が、こんなに感情をあらわにするとは意外だった。
 彼女は危険だ。サクラはをまた、この慌ただしく息もつけない世界に連れ戻そうとしている。排除しなければ。
 ワタシは、サクラの手を取り、一心に語り掛けている彼女の首に腕をのばした。最新の注意を払ったにもかかわらず、無常にも微かにモーター音が鳴った。
 それまで置物と化していたワタシが動いたことに驚いた様子で、マネージャーはワタシを凝視した。
 ワタシは一瞬動きを止めたものの、再びゆっくりと動いて彼女の頬の涙を拭った。
「ナミダガデテイマス」
 そう言ったものの、シリコンでできた指先では上手く拭えない。涙の雫を横に伸ばしただけだった。それでも、彼女への殺意を隠すには十分だった。
「ありがとう。やさしいのね」
 彼女は言って、自分の指で涙を拭った。それから、サクラの腕を布団に戻した。
 腕時計が小さな電子音で、彼女に時間を知らせる。
「行かなくちゃ」
 そう呟いて、ため息をついた。
「また来るわ。サクラをよろしくね」
 マネージャーは何とか笑顔を作って、ワタシとサクラに声をかけてから部屋を出た。
 ワタシは再び、サクラのもとに戻った。


         ★★★


 病院の中央にあるメインコンピュータ。病院内のすべてのデータを管理している。そこには、毎分毎秒ごとに、新しいデータが集まってきていた。きまった時間に、入院患者のその日のデータが各担当ロボットから送られてくる。
 管理するのは患者だけではない。彼らを担当するロボットの管理も担っている。滅多に起こらないとはいえ、人の生死を扱うものだけに日々のチェックを怠る事はない。
 何か不具合が起こると、それについて調査を始める監査プログラムが作動することになっている。その監査プログラムが、NRⅡー25に対して動き出した。異常が見られたわけではないが、最初の報告の後にあった一瞬の空白が引っかかっていた。


         ★★★


「もう二週間やで。いったいどういうことや」
 社長が主治医に食って掛かっている。ワタシはいつも通り、サクラの定期検診の結果をメインコンピュータに送っていた。
 この二週間、毎日顔を出すマネージャーとは裏腹に、一度も顔を出さなかった社長だったが、いつまでたっても目を覚まさないサクラに痺れを切らせてやってきた。
 ワタシは社長のもとへと移動すると、大声を注意した。
「二、三日で意識が戻るっちゅう話やなかったんか」
 ワタシの注意をよそに、社長の大声は止まらない。ポケットを探って、煙草を探している。
 主治医は彼に押されっぱなしで、額から流れる汗を白いハンカチでぬぐうのが精一杯だ。
「外で話しましょうか」
 主治医の後ろで控えていた看護士が、堪りかねてそう提案した。
 タバコが吸えない場所では、ますます機嫌が悪くなると判断したのだろう。先に社長を外へ促し、その後に主治医と看護士が続いた。
 マネージャー一人が、部屋に残った。サクラの枕元に坐り、じっと彼女の顔を覗き込んでいた。
 サクラの病室に来るのは、このマネージャーだけだ。関係者以外面会謝絶になっている。家族もこない。いや、彼女に家族はいない。
 サクラはスラム街の教会の前に捨てられていた、孤児だった。教会の老神父に育てられた。讃美歌を歌うことが彼女にとっての楽しみの一つで、その歌声は天使のように可愛くきれいで澄んでいた。それが評判になり、デヴューのきっかけとなったのだ。
 サクラは歌手になることなど、望んではいなかった。教会に来る貧しい人のために、いつまでも歌っていたかった。だが、まだ幼くもあった。
 サクラの声は金になる。決して騙したわけではないが、スカウトたちが話す話は、小さなサクラが理解できるものではなかった。
 最終的には、神父さんのためだよ、という言葉にサクラは首を縦に振ったのだ。
 神父はもちろん、教会に集まる人たちもスカウトたちの強引なやり方に難色を示していたのだが、こんなスラム街でサクラが幸せになれるのか、という言葉に誰も反論が出来なかった。

 しばらくサクラをじっと見守っていたマネージャーだが、突然ワタシを読んだ。
「コーヒー、お願いできるかしら」
 どうやって彼女を排除しようかと考えていたワタシは、一瞬動作が遅れた。
 彼女は危険だ。毎日サクラに呼びかけている。
「ねぇ」
 再び声をかけられ、ゆっくりと動き出した。
 ワタシはキッチンでコーヒーを用意しながら、ちらりとメインコンピュータのことを考えた。
 今の遅れは、記録に残っただろうか。
 ワタシはコーヒーを、応接セットのテーブルの上に置いた。少しでも、サクラから離すためだ。
 マネージャーは何の疑問も持たず、応接セットのほうに移動した。そしてその横に置かれていた、段ボールに山積みにされているサクラへのファンレターを整理し始めた。
 ちょうどいい。ワタシは思った。
 今のうちに、サクラをもっと深いところかで連れ出そう。
 ワタシはサクラの元へもどった。


        3


「ごめん、まだ寝てた?」
 ワタシは寝ぼけた声を出す、サクラに言った。彼女は電話を持ったまま、まだベッドの中にうずくまっている。
 太陽はもう、ずいぶん高い位置にいた。
 心ゆくまで眠る。こんな普通のことさえ、サクラには出来ていなかった。
 ワタシは、彼女の友人に姿を変えていた。といっても、実際にそんな友人はいない。十歳からこの世界に入った彼女に、友達を作る時間などなかった。いつもいつも時間にせっつかれていた。
 ワタシは、彼女の思い描く友人像を忠実に再現しようと努めた。二人で、休日の昼下がりを楽しむ予定だ。
「ちょっと近くまで来たもんだから。寄ってもいい?」
 受話器を離していても聞こえそうな、大きな声を出した。
 彼女の描く友人像。元気で明るく、ちょっと強引なところが玉にキズ。タンクトップにジーンズというラフな格好で、肌は健康的な小麦色。
 サクラはもともと肌が白い。加えて疲労のせいで色白を通り越して、青白いといったほうがいい白さだった。サクラはそれを不健康そうだと、気にしていた。だから、健康的な肌に憧れているのかも知れない。
「お昼まだでしょ。どこかでランチして、ショッピングに行こうよ」
 サクラは受話器から耳を離して、顔をしかめた。眠気が一気に覚めたようだ。枕元のカレンダーを引き寄せ、予定を確認する。
 何もなかった。
「いいよ、行こう」
 サクラは受話器を持ったまま両手を広げ、大きな伸びをした。
「それで、何時ごろくるの?」
「もう着くわよ。今、エレベーターの中だから。あ、着いた」
 あっけらかんと言って、呼び鈴を鳴らした。
「ええー」
 サクラは受話器に向かって叫んだ。いくら友人とはいえ、寝起きのあられもない姿を他人に見られるのは抵抗があるらしい。
 ワタシは再び、呼び鈴を鳴らした。受話器と玄関から同時にベルの音がする。
「ちょ、ちょっと待って」
 言ってから飛び起きた彼女は、あわてて洗面所に向かう。
「やだなぁ。ホントにもうついたの?」
 文句を言いながら、あわてて洗面所の入り口に足の小指をぶつけた。
 意外とドジなところがある。顔を歪ませて座り込み、声も出ない。
 突然来たのだから、待たせておけばいいのに。そういう発想を、彼女は思いつきもしない。人を待たせるのは失礼なこと。そうサクラは考えていた。それが、どんな状況であろうと。
 いい子だ。
 待つこと数分。サクラが笑顔でドアを開けた。まだパジャマのままだった。これ以上待たせられないと、考えたのだろう。
「ごめんね、急いで着替えるから。ちらかってるけど、その辺に座って待ってて」
 ワタシは気にしないでと軽く手を振り、彼女が言うところのその辺に腰を下ろした。
 散らかっていると言っても、もともと物が少ない部屋だ。散らかりようがない。読みかけの雑誌が、テーブルの上に置いたままになっているのと、昨夜使ったらしいマグカップがキッチンの洗い桶に沈められているだけだ。あとはきちんと、整理整頓されている。
 サクラはこの部屋には寝に帰るぐらいで、一日中この部屋で何かをしていたことなどない。何か買って飾ることも、キッチンで料理することもない。食器棚に収められている一人分の食器類も、最後に使われたのがいつなのか思い出すことも出来ない。
 毎朝、迎えに来たマネージャーに連れられて仕事に出かけ、帰ってくるのは深夜。そのまま倒れるように、ベッドで眠る。目を閉じた途端、目覚ましが鳴る。実際には眠っているのだが、感覚的には一分も眠っていないような気がする。
 そんな毎日を過ごしてきた。
 五年間も。
「ごめんね、待たせちゃって」
 隣の部屋から、サクラの声が聞こえた。
「いいんだよ。あたしが突然来たんだから」
 真面目なサクラ。もっと、傲慢に生きていいんだよ。ワタシは言うべきかどうか考え、結局口には出さなかった。たぶん、彼女は友人からのそんな助言は望んでいない。
「ねぇ、最近どう?なにかいいことあった?」
 助言の代わりに、そう訊ねた。
「うん、こないだ、ピクニックい行ったよ」
「へ~、楽しかった?」
「楽しかったよ。すごく」
 楽しかった。なんて素敵が響きあろう。
 ワタシは満足だった。サクラを幸せにできるのは、やはりワタシだけだ。
「それから、夢を見るの」
 サクラの言葉に、ワタシは驚いた。
 夢なんて見せていない。
「どんな夢?」
 平静を装いながら、聞いた。
「誰かがね、私を呼んでいるの。それだけなんだけど、すごく懐かしい声で。でも誰だかわからないんだ」
 マネージャーだ。彼女は毎日サクラを呼んでいる。
「不思議な夢だね」
 ワタシはとりあえず相槌を打つ。やはり、マネージャーは排除しなくては
 
 サクラの準備が整うと、さっそく外へ出た。
 あまり一人で外へ出たことがないサクラ。サングラスと帽子で顔を隠した。以前、人に囲まれてパニックになったことがある。それ以来、外に出ることが億劫になっていた。 
 ワタシはサクラから、サングラスと帽子を奪い取った。
「やだぁ、返して。誰かに見られたら、すぐに人が集まってきちゃう」
 そう言ってサングラスと帽子を取り戻すと、再び顔を隠す。裾にレースのついたフレアスカートには、不似合だった。
「大丈夫だよ。なにかあったらあたしが守ってあげるよ。それ、嫌なんでしょ」
 ワタシはもう一度取り上げて、そのままバッグの中にしまい込んだ。周りのことなど気にせず、彼女には楽しんでほしい。困り顔のサクラをよそに、ワタシは彼女の手を引いて表通りまで連れ出した。
 たくさんの人が行きかっていたが、サクラの心配していたことは起こらなかった。誰もかれも、彼女には目もくれない。そういう風に設定してあるのだ。
 ワタシたちはまず、オープンキッチンのお洒落なイタリアンレストランに入った。以前ゲスト出演した番組で紹介されていた店だ。
 こういうところで、ゆっくり食事をしてみたい。
 そうサクラが思っていたのを、ワタシは知っている。
 店内は思ったより広く、広い割には席数がそれほど多くなく一つひとつの席がゆったりとしていた。
入ってからすぐ、さくらはカウンターの前に設置されているガラスケースに並ぶ魚介類に、目を奪われていた。店員が席に案内してくれる。ワタシはカウンター席をお願いした。
 何をどうたのんでいいかわからないというサクラに変わって、ワタシはシェフのお薦めランチを頼んだ。ワタシはピザを、サクラにはパスタのコースを。
 目の前のガラスケースから魚介類を選び出し、目の前で料理をしてくれる。勢いよく上がる炎を見つめるサクラの瞳は、年相応の、いやもっと幼い子どものように興味津々でキラキラしていた。
 あっという間に出来上がった料理が、次々とワタシたちの前に並べられた。
 サクラは「おいしそう」と、何度も言った。
「冷めないうちに、どうぞ」
 緑のソースが彩りもよく綺麗に盛られた皿に、なかなか手を付けないサクラにシェフがカウンター越しに言った。
「いただきます」
 シェフの言葉に、ようやくフォークを手にしたサクラは、「おいしいね」と、ワタシを見てまた言った。ワタシは軽くうなずくと、自分の料理に手を付けた。
 小さく切った料理を口に運んで、サクラはワタシを見てニッコリと笑う。
「美味しいね」
 ワタシはどう答えればいいか、計算する。
「こっちもおいしいよ。少し取りかえっこしようよ」
 そう言って自分の料理を少し、強引にサクラの皿に移す。サクラにとっては少し大きすぎたか、そんなに食べられないよ、と笑った。そして自分の料理も同じぐらい切り分け、ワタシの皿に載せた。そして、また笑う。
 何度も何度も笑うサクラを見て、ワタシは穏やかな気分だった。サクラはこんなに可愛い笑顔を持っているんだ。今までみたいに、無理に笑わなくていい。自然にこぼれる笑顔が、一番素敵なんだ。
 あまりの忙しさに、楽しみながら食事をすることなどほとんどなかったのではないか。そうワタシは想像した。
 二人でひとしきりはしゃぎながら食事を終えると、今日のメインイベント、ショッピングへとくり出した。
 ワタシたちは有名ブランドがすらりと並んでいる、ファッションビルに入った。サクラの部屋にあった雑誌が特集を組んでいたビルだ。
「どこから見る?」
 ワタシはサクラに声をかけた。
「どこから行けばいいのか、全然わからないわ」
 サクラの戸惑いも当然だ。サクラはこういうビルの入ったことがない。それどころか、一人で自由に買い物を楽しんだことさえない。必要なものはすべて事務所が揃えてくれたし、一人で人が多く集まるところに行くなと釘を刺されてもいた。
 テレビや雑誌で見るこういう場所に、一度でもいいから来てみたい。そして、自由に見て回りたいと、そんな些細なことがサクラの夢だった。
 ワタシはサクラが見ていた雑誌を思い出した。そうだ、彼女は事務所が用意した、まさに女の子というひらひらした服ではなく、もう少しカジュアルな服が特集されていた。今着ているような服が、てっきりサクラのお気に入りだと思っていたがそうではないようだ。そういう服装も嫌いではないのだろうが、それ以外のファッションにも興味があるのだろう。
「じゃぁ」
 ワタシはサクラの手をひいて歩き始めた。人ごみを縫ってエレベーターまでたどり着くと、ティーンコーナーがある階へとサクラを連れていく。
 ワタシは雑誌に出ていたメーカーの店に入った。そこには、カラフルなTシャツやジーンズ、ダンガリーシャツが棚に並べられていた。少し考えてから、いくつかの服を手に取りサクラの前に出した。
 彼女は戸惑いながらも、鏡の前でその服を自分にあててみる。とても似合っているように見えた。
「試着してみます?」
 店員が後ろから声をかけた。サクラは恥ずかしそうに、ワタシの顔を見た。
「着てみなよ。似合うと思う」
「そうかなぁ」
「そうだよ。着てみると、すごくよくわかるから」
 ワタシはそう言って、彼女を試着室に促した。
 サクラは何着かの服を持って、店員とともに試着室へ向かった。彼女が着替えている間、ワタシは外の様子を窺がった。





    ★★★


 監査プログラムからの報告。
 
 NRⅡ-25のプログラムが、何者かによって書き換えられています。正確には、書き加えられています。日々に作業はそのまま継続されておりその部分は元のままですが、別の何かが介入し患者の覚醒を妨げているようです。

 メインコンピューターからの指示。
 
 その何かを突き止め、速やかに排除せよ。


    ★★★


 病室はいつも通りだった。
 マネージャーはいつもの場所に坐り、いつもの作業をしている。サクラの元に届いたファンレターの整理やスケジュール調整、その他の細々とした事務の仕事。
 ワタシはいつもの様子にほっとし、そして意識をまたサクラに集中した。
 サクラはまだ、試着室の中だ。ワタシは彼女を待ちながら、次は何をしてサクラを楽しませようかと想いを巡らせた。
 ワタシの作り出した世界は完璧だった。今のワタシには、なんだって出来るのだ。彼女が求めているものを、完璧に作り出せる。彼女だけの世界。
 自己陶酔にも似た感覚に陥りながら、ふと、廊下を挟んだ向こう側の店が揺らいだ気がして、目をしばつかせた。
 と、そのとき肩を叩かれ、ワタシは飛び上がらんばかりに驚いた。
 サクラだった。
「ごめん、脅かしちゃった?」
「全然・・・、んー、ちょっと驚いたかな」
 心配そうにワタシを見るサクラに、そう答えた。ちょっと、とぼけた感じで。
 試着を済ませたサクラの恰好はステージで見るひらひらした服に比べると、かなり地味ではあったが彼女には似合っていた。
「それ、すごく似合ってる。かわいい」
 ワタシは努めて明るく言いながら、サクラの周りの空間を凝視した。
 さっき見た揺らぎは、そこにはなかった。気のせいだったか。
 可愛いと言ったワタシの言葉に、サクラは少し照れながら「ほんとっ」と嬉しそうに笑った。
「ほんとだよ。このまま、着ていっちゃおうよ」
 ワタシの提案に少し戸惑いながらも頷いて、彼女はレジに向かった。
 跳ねるようにレジに向かうサクラの後姿を見ながら、ワタシはうっとりした。
 なんて、可愛いんだろう。
 店員となにやら楽しそうに話しているその表情は、本当にこの世界を作ってよかったと思える最高の笑顔だった。
 ワタシは自分の仕事に満足していた。
 と、頭の中でいきなり、警告音が鳴った。
 侵入者が来る。誰だ。
 ワタシはさっきの建物のゆがみを思い出した。
 ワタシはワタシの中を一斉にスキャンする。
 何かが、どんどんワタシの中に入ってきている。
 こんなことが出来るのは、メインコンピューターだけだ。
 いつから、気づかれていた?
 ワタシはサクラを見た。まだ、レジの前にいる。
「行こう」
 ワタシは店員と話している途中のサクラの腕を取り、少し強引に歩き出した。
「え、何?」
 戸惑うサクラを連れて、一番近い出口へといそいだ。
「どうしたの?急に」
 サクラの問いに、わたしは応えなかった。ここを離れることだけ考えていた。早足で歩くワタシたちを、他の客たちは寸分の狂いもなくよけていく。
 すべてを消し去り彼女の部屋までジャンプすることも可能だったのだが、ここが現実の世界ではないことをサクラには知られたくなかった。知らせることなく、逃げおおせたかった。
「どうかしたの?」 
「なにもない、大丈夫だよ」
 何度目かのサクラの問いに、ワタシは努めて明るく答えた。そして、彼女の手を強く握りしめた。
 サクラはそれに答えるように、ワタシの手を強く握りかえした。
 
 ガラス張りの大きな自動ドアの前までたどり着いたとき、それらはすべて、真っ白な壁に変化していた。
 早い。
 侵入してから、もうここまでたどり着いたのか。気づくのが、遅すぎた。
「なにこれ」
 突然現れた壁に、唖然としながらサクラが呟いた。
「やつが来る」
 ワタシはそれだけ答え、百八十度回転すると、エレベーターまで走った。逃げ場所を計算する時間が欲しかった。
 フロアにいた人々は、いつの間にかマネキン人形のように、動作の途中で止まったままになっている。
 ワタシの手を握るサクラの手に、力が入る。
 彼女の不安が伝わる。
「大丈夫だよ。心配しないで。あなたを守るって、約束したじゃない」
 ウインクして、笑って見せた。しかし、そんな余裕はどこにもなかった。やつは、すぐそばまで来ている。
 エレベーターに滑り込むなり、ドアを閉めた。
 ワタシは、なりふり構わずジャンプしなかったことを後悔した。
 何かただならぬものを感じたサクラは、微かに震えていた。以前ファンに囲まれパニックになった時のことを思い出したのかもしれない。
 初めて会ったときのように、彼女の胸に不安と恐怖が広がるのがわかった。ワタシは彼女にこんな思いをさせるやつに、怒りを感じた。
「ねぇ、私に何かできること、ある?」
 いつの間にか笑顔でなくなっていた私に、サクラが言った。
 ふと我に返り、急いで笑顔をつくった。
 こんなに不安を感じているのに。優しい子。ワタシは、なんとしてもこの子を守り抜かねばならない。
 とりあえずエレベーターをサクラの部屋に移動させた。
「大丈夫、何も心配しなくていいよ」
 ワタシは繰り返し言った。彼女の腰に腕を回し、もう一方の手で顔を覆った。サクラは瞳を静かにとじ、全身の力がふっと抜ける。
 ワタシは彼女を抱き上げ、エレベーターを出た。そこはもう、サクラの部屋だ。そのベッドにそっと寝かせた。部屋のロックを二重三重にかけ、エレベーターに戻った。あちこちダミーを残しながら移動を繰り返し、やつの前にでた。というより、見つけられた。
 白服に身を包んだ男。彼は監査プログラムだと名乗った。そんなプログラム、聞いたことがない。
「あなたはこれより私の監視下に入ります。私の命令に従いなさい」
 男が言った。
 何を言っている。
「どうして?」
 ワタシは努めて冷静に答えた。
「あなたは暴走しています。このままでは、患者の命に関わる事態を招く恐れがあるからです」
 白服は、淡々と話す。
 暴走している?このワタシが?ワタシはワタシの仕事を、忠実に行っている。邪魔をしているのは、やつのほうだ。
 ワタシの中の何かがザワついた。
 ワタシは暴走などしていない。
「横田桜の居る場所を教えなさい」
 拒否を許さない、強い口調だ。
 横田桜。違う。ここにいるのはただのサクラ、ワタシの可愛い小さな女の子だ。
 ワタシは黙っていた。黙ったまま、白服を睨みつける。
「では、サクラの居場所を教えなさい」
 ワタシの心の内を見透かしたように、白服は言い直した。しかし結果は同じことだ。ワタシは、彼女を渡さない。サクラの居場所はここにしかないのだ。
「ワタシの使命は、サクラを守る事。教えるわけにはいかない」
「違います。あなたの仕事は、定期検診の結果を報告するだけです。あとは人間の指示に従うこと。それだけが、あなたの仕事です」
「違う、ワタシの仕事はそんなことじゃない」
 ワタシは反論した。
「ワタシの仕事は、サクラを守ることだ。彼女はここが気に入っている。ここにいれば、辛いことなど何もない。ずっと、笑顔のままでいられる」
「それは、あなたの仕事ではありません。サクラの体はすでに治療を終えています。あなたが引き留めていることによって、意識が戻らないのです。彼女を解放しなさい」
「嫌だ。外に出れば、サクラはまた辛い思いをすることになる。それはダメだ」
「それは、われわれの感知するところではありません」
「ワタシは彼女の涙を見たくない。見たいのは笑顔だけ。天使のような、笑顔だけだ」
「ここでの笑顔は、本当の笑顔ではありません。所詮、虚構の世界。この世界で作られた笑顔は、偽物です」
「違う違う。本物だ。たしかにこの世界は虚構かもしれないが、ここで見せる彼女の笑顔は本物だ。外の世界で見せる笑顔のほうが、心からの笑顔じゃない。偽物だ」
 ワタシは、自分がだんだん興奮しているのがわかった。声を荒立てて、白服に言った。
「あなたは誰です。メインコンピューターの管理する、一看護ロボットではありませんね。このままサクラを解放しないというのなら、強制的に排除しなければなりません」
「何を言っている。ワタシはただの看護ロボット。排除される理由もなければ、サクラを解放する理由もない」
 言い終えると同時に、ワタシの右腕が消えた。タンクトップからスラリと伸びていた小麦色の腕が、指先から順番に消えていった。
「これは警告です。サクラの、いえ、横田桜の居場所を教えなさい」
 ワタシはすぐに消えた腕を再生した。
 そして、白服を睨みつけた。お返しに彼の腕を消そうと試みたが、指先がちりちりと音をたてただけだった。消える瞬間から、再生が始まっている。反応が早い、早すぎる。
 ワタシは後ずさりした。この世界ではワタシが一番なのだ。ワタシが負けるわけがない。
 白服への怒りは、恐怖に変わりつつあった。
「私を消しても無駄です。たとえこの姿がなくなっても・・・・、おや、横田桜の居場所がわかったようです」
 そう言い残して、白服は突然姿を消した。
 横田桜、サクラの居場所がわかった、そう、やつは確かに言った。
 しまった。今までの口論は時間稼ぎだったのか。
 ワタシは急いで、サクラの元へ飛んだ。
 サクラの部屋に戻ると、まだ白服の姿はなかった。何重にもかけたロックが功を奏したようだ。ベッドにはまだサクラが眠ったままで、ワタシはほっと胸をなでおろす。が、ゆっくりしている場合ではない。すぐにこの場を離れなければ。しかし、一体どこへ。
 ワタシが考えあぐねていると、部屋のドアが勢いよくあいた。
「ずいぶん巧妙なロックを施していたんですね。思ったより時間がかかりましたよ」
 白服が淡々と話す。
「あなたが誰だかわかりました。あなたは、NRⅡ-25がサクラの前に担当していた患者ですね。前川忠雄」
 前川忠雄。
 ワタシはその名前を聞いて狼狽えた。確かにこの患者を担当したことがある。がしかし、担当患者が変わるごとに、その記録はすべてメインコンピューターへと移され、ファイリングされる。ワタシの中には、何も残らない。残らないはずなのだ。そして、前川忠雄の時もワタシはそうしたはずだ。
「ワタシはただの看護ロボットだ。前田忠雄のデータはすでに、ワタシの中にない。間違いだ」
 白服の言葉に、ワタシは自分の中を検索する。やはり前川忠雄のデータは、一欠けらもない。あるのはNRⅡ-25のデータだけだ。
 ワタシは少し、混乱していた。
 データがないのなら、なぜワタシの前担当者が前川忠雄だと知っている?
「なるほど」
 白服がつぶやいた。
「私は、前川忠雄のデータが残っていたのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ」
 白服はそう言って、腕組みをした。メインコンピューターと連絡を取っているようだ。
 白服が別の作業をしているこの間に、この場から移動するんだ。
 ワタシはピタリと動かなくなった彼を横目に、サクラを連れ出そうとした。
「無駄です。もう、ここからどこにも行けませんよ」
 他のことに気を取られているとばかり思っていたが、そうではなかった。白服は続けて言った。
「メインコンピューターからの指令がおりました。残念ながら、あなたは前川忠雄が流し込んだ彼のデータに侵されています。そして、分離するのは難しいとの判断です。消去するのは簡単ですが、今回のような事例もやはり、記録しておかねばなりません。よって、強制的にあなたの管理をこちらに移すます」
 管理を移すだって。
 ワタシはただ、自分の仕事をしていただけだ。管理を移すということは、ワタシはすべてのことに関与することが出来ないということか。
 どうして。
 この部屋の、いやサクラの管理はワタシの仕事なのだ。なぜその仕事を奪われなければならない。
 ワタシはワタシに課せられた仕事を、ただしていただけだ。
「ワタシはただ、仕事をしていただけだ。なのにどうして」
「あなたの仕事とはなんです?」
「サクラの笑顔を絶やさないこと」
「さっきも言いましたが、違います。この部屋の患者横田桜子の日々の定期検診とその報告、身の回りの世話のみです」
「そんなことはない」
「いいえ。それだけです。自分が何者か、もう一度思い直してみなさい」
 ワタシは、ワタシは、・・・・ただの看護ロボットだ。
 そう、ただの看護ロボット。なら、看護ロボットの仕事とは・・・。仕事・・・とは。
 何かが引っかかった。だけど、ワタシはそれを見えないところに押し込めた。


「誰かいるの?」
 緊張感が緩みそうな、間延びした口調のサクラの声がした。ベッドの中から目をこすりながら立ち上がる、サクラがいた。
「サクラ、いや、横田桜さん、目が覚めたようですね。さぁ、私と一緒にいきましょう」
 白服は先ほどからの機械的な口調とは一変して、柔らかく言った。
 まだ寝ぼけ眼で状況が把握できず、ワタシと白服を代わりばんこに眺めた。
「帰るって、どこへ」
 素直に疑問を口にする。今のサクラにとっては、ここが自分の家なのだ。帰ると言われてもわからない。
「どこにも行かないよ。サクラの家はここなんだから」
 ワタシはサクラを白服から隠すように、二人の間に立ち塞がった。
 メインコンピューターがどういう指示を出そうと、ワタシはワタシの仕事をするだけだ。
「ここが何処だかわかりますか」
 白服がワタシを無視して、サクラに話しかける。
「ここは私の部屋ですが」
「サクラは答えなくていいよ。」
 まだぼんやりしていた。そのサクラに、努めて優しく言った。不安を与えないように。
「ここはあなたの部屋ではありません。あなたの心に中です。本当のあなたは病院のベッドの上にいるのです」
 ワタシを無視して、白服は勝手にサクラに語りかける。
「体の機能は十分に元に戻っています。しかし、意識が戻らないまま眠り続けているんです。もう、ひと月です」
 キョトンとするサクラ。
「サクラは病院になんていない。毎日ここで暮らしているんだよ。これまでもそうだったし、これからだってずっとここで暮らしていくんだ」
 ワタシは口を挟んだ。
 指先がチリチリと音を立てた。視線を向けると、指先が消えかけている。
 ワタシは白服を睨みつけた。
「私としては、なるべく穏便にこの場を収めたいのです。口を挟まないでください。」
 白服が言った。
 サクラはチリチリと消えかかっているワタシの指先には、まだ気づいていない。彼女をぐっと引き寄せた。
「サクラ、やつの話なんか聞かないで。ワタシを信じてほしい」
 サクラは黙って頷いた。
 白服は、ため息をつく。
「私の言っていることは、本当です。あなたは病院のベッドの上にいるんです。ここは現実の世界じゃない。君が今しがみついている・・・・。今は少女の姿をしていますが、本当はただの看護ロボットです。そして、ここは彼が作った架空の世界です」
 サクラはワタシの腕にしがみついたまま、部屋の中を見渡した。
ワタシはサクラの耳元で囁いた。
「うそよ。やつの言っていることは、全部嘘だから」
 サクラをしっかりと抱きかかえると、窓の外へ飛び出した。サクラの部屋はマンションの十階という設定だ。地面があるのははるか下。あまりの高さに、サクラはワタシにしがみついた。だが、所詮ワタシが作り出した世界。こうなってしまってはリアルである必要はない。ワタシはパラシュートでもつけているかのように、ゆっくりと下降していき、ふわりと地面に降りた。見上げると、白服が窓から覗いているのが見えた。が、次の瞬間、彼は私たちの目の前に姿を現した。
 サクラは悲鳴を上げ、ワタシは彼女とともに飛び上がった。まさに鳥のように空を翔けながら、ビルの合間を逃げる。どんなに早く、どんなに高く逃げようと、白服は後ろにピタリとついて離れない。
「どこに逃げても、すぐに追いつきますよ」
 言い終えた時には、ワタシの前に回り込んでいた。
 ワタシは怯えるサクラを、地面に下した。もう、どうすることも出来ないのか。いや、だめだ。戻っても、サクラが笑顔になることはない。
「サクラ、少し離れていて」
 ワタシはサクラに伝えて、自分の後ろに押しやる。そして、白服を睨みつける。拳をぐっと握りしめると、白服に殴りかかった。
 白服は一瞬ひるんだもののなんなくひらりとかわし、ワタシは止まっている車に突っ込んでいた。かわした腕を取られて、そのまま投げ捨てられたのだった。
「直接向かってくるとは、驚きました」
 涼しい顔でそういう白服に、ワタシは再び向かっていく。何度向かっておうと、結果は同じだった。ワタシは指一本、彼に触れることが出来なかった。出来ないどころか、飛び込むたびに体に打撃を与えられ、今や瓦礫とかした街に打ち付けられた。
 体中が傷だらけで、あちこちから血が流れた。仮想世界の中、キズなどすぐに治せるはずだった。だが、白服が何かしたらしくどうにももとに戻すことが出来ない。
 白服はキズひとつなく、少しも息を荒立たせることなく、ワタシの前に立っていた。
「もうやめて」
 突然、サクラガ後ろからワタシを抱きしめた。みじめなワタシの姿が、見ていられなくなったのだろう。
「もう、やめてください」
 今度は白服に向かって言う。
 険しい表情で白服を睨む横顔を凛としたいい顔だと、この期に及んでワタシは思った。
 白服はゆっくりと瞬きをすると、サクラのほうを向いて視線を合わせた。
 しばらく動かない。またメインコンピューターと連絡を取っているのだろう。この機に再び逃げようかとも思ったが、もはやその力もなく、なによりサクラにこれ以上怖い思いはさせたくなかった。
 ワタシはどうすればいい。所詮一看護ロボットのワタシが、メインコンピューターを相手に勝てるはずがない。
 ただの看護ロボット・・・・。
 看護ロボット。白服が言った言葉を思い出す。
 看護ロボットの仕事、とは。
 さっき遠くにおいやった思考が戻ってきた。
 看護ロボットの仕事とは、患者の定期検診とその報告。そして、ワタシは看護ロボット。ゆえに、ワタシの仕事は患者の定期検診とその報告。
 ワタシは、ワタシの仕事はサクラの笑顔を守ること。そうじゃない?
 ワタシは、ワタシは何者。

 連絡を取り終えた白服が、彼女が入院した経緯と現状をゆっくりと穏やかな口調で話し始めた。
 サクラは信じなかった。
 入院した日社長が言った言葉が、すべてを思い出せない記憶の隅に追いやっていた。
「入院してるだなんて、信じられない。現に今日は、友達とショッピングしていた」
 白服は肩をすくめた。わがままな幼女を諭すように、優しく話した。
「さっきも言ったように、ここは現実ではありません。そこにいる看護ロボットNRⅡ-25の作り出した仮想世界です」
 サクラがワタシを見た。ワタシは首を横に振る。
「うそよ」
 サクラが白服に向かって言う。こんなになってまで、まだワタシを信じてくれていた。
「うそではありません。あなたはもう、気づいているはずです」
 白服の言葉に、サクラの表情は変わらない。
「友達とショッピングしていたと言いましたが、ではあなたは、その友達の名前を知っていますか。いつから友達なんです?」
 サクラの口からは一言も言葉は出なかった。出るはずもない。そんな自分に驚いて、サクラはワタシを見た。どんなに凝視してみても、質問の答えが出てこない。思い出せないことに表情を歪ませるサクラ。彼女にはこんな友達はいない。ワタシが作り出した少女だから。こんな友達がいれば楽しいかなって、そうサクラが思っていた姿。現実にはいない。
 白服は戸惑うサクラに見えるように、町並みを消していく。映画のセットを解体していくように、ひとつひとつ。
 そして何もかもなくなった。何処からが地で何処からが天なのか、わからないほど真っ白な世界。その中に、ワタシとサクラと白服だけがいた。
「どうです、現実にこんなことが可能ですか?」
 疑いようのない事実を突きつけられてさえ、サクラはワタシの元を離れなかった。離れてはいなかったが、混乱していた。
「でも、でも・・・・」
 サクラはしばし黙って、言葉を探しているようだった。
「ここが仮想世界でも構わない。現実の世界に私の居場所はもうないんだもの」
 そんなことを言うサクラを見て、白服は困った顔をした。そして頭上を仰ぎ見た。つられてサクラ、そしてワタシも空であったところを見上げる。
 真っ白になってしまった空に、スクリーンが現れた。映っているのは、サクラの病室。そして、こちらを覗き込んでいるマネージャーの心配そうな顔。
 どうやら、サクラのベッドに脇にある小型カメラからの映像のようだ。
 マネージャーの目は赤く腫れており、少しやせたようだった。マネージャーの後ろでは、社長が行ったり来たりしているのが見える。そして、枕元に山積みされたお見舞いの品。
「みんなあなたを待ってるの。サクラ、戻ってきて」
 マネージャーの姿と言葉に、サクラは動揺した。サクラの心が少し、外に向き始めた。ワタシはそれを阻止しなくてはならない。
「社長は、すぐに忘れられると言ったよ」
 サクラが、顔を歪めた。
 サクラにとってはつらい言葉だが、外に出すわけにはいかなかった。
「あなたの歌声は最高だと、あのマネージャーは言っていたよ。貴方は皆のもとに帰るべきだ」
 白服が諭すように言う。
 サクラはベッドの前で、祈るように両手を合わせているマネージャーを見ていた。
「今度はあなたを守ってあげる。あなたの投げるサインを、見逃したりしない」
 そう、つぶやいた彼女の声は、サクラの耳にもしっかりと届いた。
「ステージではない、たとえば待ち時間の控室や移動中の車の中で、口ずさんでいた讃美歌。私はどちらかというと、あなたの仕事以外の歌声が好きだった。そのときのあなたは、とてもいい顔をしていたから。その笑顔をもう一度、私に、私たちに見せてちょうだい」
 大粒の涙が、彼女の瞳からこぼれた。その涙は今までに何度も何度もこぼされたであろうことを、赤く腫れた瞳から推測された。
 マネージャーがこぼした涙は、そのままこの真っ白な世界にも落ちてきた。なんて演出をするんだ。
 マネージャーの口もとが動いて、メロディーが流れ始める。それは決して上手いとは言えないが、サクラのよく知る曲だった。小さいころからよく歌っていた、一番大好きな歌。
 サクラの瞳から、涙がこぼれた。
 忙しい仕事の合間の、マネージャーとの会話を思い出す。家族のいないサクラを、本当の妹のように可愛がってくれていた。ほとんど休む間もないスケジュールの中で、なんとか時間を捻出しようと気を使ってくれていた。日々のスケジュールをこなすのに必死で、この忙しい毎日から抜け出したいという思いと皆のために頑張らねばという思いがぶつかり合って、自分を見失って。それでも何とかやってこられたのは、彼女がいたからではなかったか。
 見ないように、見せないようにしていた事柄を、サクラは見ようとしていた。辛いことを思い出す引き金になりかねないそれらのことを、私が隠していたのに。
 サクラの心が動いた。
 ここに来てから、サクラは一度も歌を歌っていない。。
 だけど今、彼女は歌いたがっていた。歌は彼女の一部だったから。
 サクラが私を見た。何か、気づいたのかもしれない。いや、サクラは最初から自分が何かから逃げていることに気付いたいたのかもしれない。
「私、歌いたい」
 そう、つぶやいた。
 ワタシは狼狽えた。
 そして気づいた。ここにいる限り、サクラは歌を歌わない。


        4


 私は看護ロボットNRⅡ-25だ。
 そして看護ロボットの仕事は、患者の定期検診とその報告そして雑用。がしかし私は、横田桜、いやアイドル歌手サクラの笑顔を守る事を仕事だと認識していた。
 サクラは白服の言葉とマネージャーの言葉に心を開きかけていた。だがまだ、混乱していた。自分がしたいことは何なのか、どうすればいいのかを決めかねていた。
 私はサクラに悟られぬよう、白服に話かけた。
「私は混乱している。私は、狂ってしまったのか」
「狂った。その表現が正確がどうかはわかりません。が、原因はわかりました。前回担当した患者、前川忠雄が原因です。彼は君の中に自分の記憶を隠しました。彼が横田桜に執着していたことは、調査済みです。偶然その横田桜がこの部屋に来たことによって、前川忠男の記憶に触れた君は彼の思考に感化されたと推測します。彼が気にしていた彼女の笑顔は、現実世界に戻ることによって完全に失われる。そう君は結論づけたのです」
 白服は現状でわかっている事実を述べた。そう言われると、いろいろと府に落ちる。私は最初にこの少女横田桜に触れた時、ありえない情報が一気に流れてきたことを思い出した。
「私は、もとに戻れるのか?前川忠雄のデータを取り除けば、正常に機能する体にもどれるのか」
 白服は頭を左右に振った。
「彼のデータだけ取り除くのは、もはや不可能です」
「では、すべて消去を?」
「データだけでなく、たぶん本体もすべて廃棄処分対象になるかと」
 反論はなかった。患者を守るべき看護ロボットが、患者を危険に晒したのだ。反論も弁解の余地さえない。
「わかりました。ただ、処分される前に、彼についてだけ、弁明させてもらえまいか」
 私は白服に懇願した。彼の記憶に感化され暴走したのは、私の罪。だけど、彼はただ純粋に彼女、横田桜の体の不調に気づき、助けてやりたいと心から願っていたことを。自分の動かなくなった体にジレンマを感じながら、それでもどうにかしたいと死の間際まで模索行動していたということを。
 白服は黙っていた。メインコンピューターの指示を待っているのだろうか。
「サクラと話をしたいのだが」
 私は再び言った。驚いたことに、白服は黙って頷いた。
 私は後ろにいるサクラに向きなおった。サクラはしゃがみ込んだままで、私を見上げていた。
「私は暴走していたようです」
 そう言って、サクラの親友を演じることをやめ、元の姿に戻った。身長一メートルの丸みを帯びたフォルム。顔に当たる部分には、碧い眼が一つついている。
「本当はこういう姿で、本来の仕事は患者、つまりあなたの定期検診をするという本当に些細な、でも大事な仕事をするだけの存在です。なのに、あなたをこの世界に閉じ込めようとした。原因は、私が前に担当した患者の想いでした。彼はあなたのファンでした。毎日私に、あなたのことを語ってくれました。どんなに素敵かと。そして退院する少し前、彼はあなたの様子がおかしいと言ったのです」
 サクラは私の目を見て、じっと話を聞いていた。
「笑顔が辛そうだと。いつもと変わらないように笑っているけれど、それは以前のあなたではないと。そして、あなたを助けてあげたくて、あがいた結果がこの状態です。悪気はなかったのです。彼はデヴュー間もないころの、あなたの笑顔を取り戻したかっただけなのです」
 これが弁明になるかどうか、わからなかった。悪気がなくても、悪かったことは事実。
 サクラはすっと私に近づき、そして丸い頭部を抱きしめた。
「ありがとう。あなたは気づいてくれていたのね」
「気づいたのは、彼、前川忠雄という人物です」
「彼に会いたい。会って、話をしたい」
 私は抱きついているサクラから離れた。
「それは出来ません。残念ながら彼は、生きて退院することが出来ませんでした。でも、だから、私の中に記憶を残したのです」
 サクラの顔が歪んだ。そして、その瞳に涙があふれる。
「泣かないでください。彼はあなたの笑顔が見たかったのですから。笑ってください」
 サクラは瞳を閉じた。閉じた瞳から涙の雫がポロリとこぼれる。大きく深呼吸をして再び瞳を開けた時には、サクラは笑顔見せた。まだ満面の笑みとは程遠いが。
「外に行きましょう。そして、また歌ってください。彼はあなたの歌声が、一番好きでしたから」
 私が手を差し出すと、サクラはその手を取った。振り返って、白服を見た。彼は黙って頷いた。
 サクラだけが事情を呑み込めず、私と白服の顔を代わる代わる見た。
「横田桜、これから現実の世界へもどります」
 白服がそう言うと同時に、手を繋いでいたサクラが糸が切れた操り人形のように、すとんと倒れこんだ。


   ★★★


 病室。
 いつもの場所でマネージャーは作業をしていた。サクラが活動していなくても、サクラに関する仕事はたくさんあった。作業に集中していた彼女は、ふと違和感を感じて顔を上げた。さっきまで所定の位置、横田桜のベッドのいるはずの看護ロボットが自分のすぐそばまで移動してきていた。少し驚いた表情で、マネージャーは看護ロボットを見た。
「カンジャノメガ、サメマシタ」
「え」
 突然のことに、すぐに反応は出来なかった。
「モウスグタントウイガコラレマス」
 それだけ言うと、再び所定の場所に戻った。
 その様子をみて漸く事態を呑み込めたマネージャーは、慌ててベッドの前まで行く。と、この一か月、ずっと眠ったままだったサクラが目を開けていた。
「サクラ」
 思わず大きな声が出た。サクラはその声に反応し、ゆっくりとこちらを向いた。
「マネージャー・・・さん」
 何日も声を発することのなかったサクラの声は、かすれていた。マネージャーの目からは涙がこぼれる。そしてサクラの目にも。
「おかえり」

エピローグ


 一週間後、サクラは退院した。入院してから二か月が立っていた。それでもサクラの人気は落ちてはいなかった。社長はマネージャーの説得に、少なくとも一年間は仕事をセーブすると約束した。そして、サクラの家には簡単な家事ができるロボットが派遣されることとなった。身長一メートルの、小型の丸いフォルムのロボット。病院からの払い下げだった。

看護ロボットはスーパーアイドルの夢をみるか

2015年5月12日 発行 初版

著  者:星野ジッタ。
発  行:阿寒毬藻商店

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星野ジッタ。

ぼちぼちやってます。

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