岩手県釜石市にある東海新聞社のコラム「五葉山」に平成六年、九回にわたって連載されたものをまとめたエッセイ集です。

はじめまして
私は一月末に、第十三回岩手女性の船に乗船し、洋上研修に参加して参りました。
乗船にあたり、市長への表敬訪問(出発、帰釜)、さくら会(女性の乗船船者の会)でのあいさつと、あいさつ漬けにあっていました。すべてが終わりホッとした翌日「五葉山」への原稿依頼を受け、何となく調子に乗った感じでお受けした次第です。
九回にわたる原稿なそうですが、よく考えてみると、ネタがありそで、なさそな・・・。あまり固苦しく考えるとペンが進まないような気がしますので出たとこ勝負、徒然草ではないが、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく・・・の調子で進めていこうと思います。どうぞよろしくお願いします。
今回は記憶も体験も一番新らしい「女性の船」から出発したいと思います。
乗船の動機は、友人からの誘いでした。当時常に「のんびり」「焦らない」「どうっつう事ない」というように、すべてに意欲が欠けている自分を感じていましたので、ちょっとしまりのない自分への自己啓発の気持ちで、即、参加したわけです。
前向きに生きている女性の会は、物すごい迫力のあるものでした。朝六時から夜十時ごろまで、いろんな集まりがあり、とてもハードなものでした。
中でも、食事時は圧巻でした。さすが中年女性のパワーと食欲。バイキング形式の時は、とうとう二日がかりでも口に入れることのできない料理もありました。中味を食べられなかった空っぽの貝だけが思い起こされます。
豪華客船での旅は初めて。岸壁を離れ、外洋に出るまでの三十分間、われも寒さも忘れ、ジーっと朝日に光る波を見つめていると、あそこに行ったら何かあるような、子供の時と同じような思いが湧いてきました。
なぜ海って、こんなに人間をロマンの世界に誘ってくれるのでしょう。広さ、深さ、畏(い)敬、優しさ、厳しさ・・・。もしかして、人間に求められているすべてを持っているのかもしれない。そのようないろんな思いで、海とお話してきたような気がします。
船長さんと老母
小柄で笑顔のかわいい船長さんでした。お話には気負いが全くなく、数々の体験談をしてくれました。
ハンブルグでは入港する船籍の国旗を掲げたり、国歌を流して迎えてくれたそうです。敗戦後、ニューオーリンズに行った時は、カフェに入りたくてもお金がなく、入れないでいるとタダで入れてくれたそうです。
日本がもし戦勝国だったら、こんなことしただろうかと話されました。国柄の違いなのでしょうか。何か日本の狭さを感じました。
共に船で生活するわれわれは運命共同体であり、同船共済であるということ、地球上の生物もまた同じではないだろうかというグローバルな視野でのお話に、人間の大きさを感じました。
研修ではたくさんの方々が各地域で、高齢化問題、環境問題、生涯学習などに前向きに取り組んでいました。
私は今まで「職業を持っているから」と「仕事」を隠れみのにしていた自分に気付かされ、もう少し広い視野で物事を見たり、考えられるようになろうと啓発されている自分を感じました。
大きな収穫となった体験を一つ。
私の母は八十歳。いつも食欲がなく、何も楽しくないという顔をしているので、どうしたら意欲を持たすことができるかという思いで、分科会では「高齢化社会」を選びました。結論としては、仲間が大切であるということでした。
出発の朝は雪。さすがに心配そうでした。何気なく、母におむすびを作ってもらって出発。バスの中でそれを口にした時のあのほろ甘さ(?)。大人になり、何十年ぶりに母に作っていただいたおむすびには、言葉には表現できない優しさと温もりがあり、熱いものがこみあげてしょうがありませんでした。
なんでこんな味が、と分析してみました。多分、初めて”大海原”に、それも雪の日に娘をたたせるために心配している様子が、私の頭にきちんとインプットされていたためかもしれません。置き忘れていた大切なものを見つけたような気持ちでした。




私の海外旅行 上
三年前、全国の保育園、幼稚園の方々と、ヨーロッパを十七日間旅行した。その時に、心に残ったいくつかを記します。
デンマークでは「ピーターラビット」の著者ポーターの家に行った。絵本の原版になった家、庭、家具調度品がそのまま保存されており、いまにも隅の方から、あの愛らしいラビットが出てきそうな雰囲気があった。
家は普通の家。特別なものは何もない。でもここから、世界中で愛されるピーターラビットが生まれたと思うと、著者の感性の素晴らしさを感ぜずにはいられなかった。
コペンハーゲンでは、日本と同じように住宅事情が悪いため、施策として老人たちに小さな土地を貸しているとのこと。老人たちは、そこに好きな家を建て、日中はそこで過ごし、夕方に家に帰るという話だった。
小さな家と小さな庭、いろいろな窓と屋根。どの家にも色とりどりの花が咲き、すべてがオリジナティーにあふれ、おとぎの国のようだった。遊び心いっぱいのこんな家を、ぜひ建てたいと思ったが、いまだに実現できずにいるのが残念。
ドイツの捕虜収容所は、山あいの広大な敷地の一角にあった。第二次世界大戦時には、日本人も六百人ほどいたとか。板の上にワラが敷かれ、女も子供も収容されていたという。小さな靴や帽子が並べられてあった。
死と体重の関係も実験されていたそうで、四基の釜のわきには、体重計が置いてあった。その構図がリアルであり、この釜の中で何万人がと思うと、人間の尊厳などみじんも感じられない非情にただただ絶句し、涙を止めることができなかった。
広大な敷地には、死者への手向けなのか、小さな小さな紫の花が、一面に咲いていた。
私の海外旅行 下
テレビCMにも出ていたバッハハウスに行った。愛用の楽器が並べられており、決まった時間に演奏があるというが、時間的に無理で聞かずに帰った。残念至極。
ゲーテがよく飲みに行ったという居酒屋にも案内された。屈託なく話したり飲んだりしているドイツ人を眺めながら、ゲーテはどの席で飲んでいたんだろうなどと思うと、妙に楽しい気分になった。
メルヘン街道では、人魚姫やブレーメンの音楽隊、ハメルンの笛吹きネズミが、笛にひかれて通った小路、親指姫の舞台になったと言われる緑の中の池などで、しばしメルヘンの世界に浸った。
統一されてまもなかったため、旧東独はほとんどがまだ国営で、すべてが管理下にあるようだった。自由と明るさが感じられず、早く西独に出たいと思った。
フランクフルトに入るとき、機内から家並みが見えてきたら、つい「ほら、日本もきれいよ」と喜びの声を上げてしまい「ここはフランクフルトよ」と大笑いされた。心が日本に飛んでいることを痛感した。
日本に帰ると、外国の街並みや雰囲気が懐かしくて仕方なかった。そんな母の心を知ってか末娘が「グアムでよかったら連れて行くよ」と言ってくれたので、十二月二十三日、娘の全面招待で成田を出発した。
機内で夏服に着替え、あっという間に到着。恋人岬を見ながら、美しい海で遊ぶ。夜はちょうどクリスマスイブ。どのホテルの屋根にも星形の明かりがつけられ、とても美しかった。
テラスで波に音に耳を傾けながら星の光を見ていたら、一階からホテルが揺れるような重音あふれる男声合唱が聞こえていた。大好きな「ホワイトクリスマス」だった。グアムで娘と迎えたイブのあの歌声は、決して忘れることはないと思う。
二十歳になったばかりの娘からのビッグプレゼントに、痛いほどの心くばりを感じ、素直な成長に至上の幸福を感じた旅だった。
旅には発見と感動があるからたまんない‼️
彼方の父
私の父は三十数年前に交通事故で他界した。尊敬し、大好きだった父だけに、歳月が流れた今もなお思慕の念でいっぱいである。
土が好きで動物が好きで、特にコマドリは命同様に大事にしていた。戦時中、母は三歳の妹を背負いお腹には赤ちゃんがいるというのに父は鳥カゴとラジオを背負って避難したという。父は製鉄所から帰ると夜九時ごろの列車で五葉山、早地峰山めざし一人で発つのである。二日ぐらいすると小鳥を捕って帰って来る。それからの神経の使い様は大変なものであった。野鳥を飼い鳥にする事は誰かにできるものでないと思う。この「凝り性」は男性特有のものではないだろうか。また、男の人の素晴らしさはこのへんにあるのかなと思ったものだった。
私の家には祖父が家畜商だったので牛馬がいた。父は山羊、羊、豚、犬猫、兎、鶏、家鴨、瑠璃、メジロ、山雀。雲雀等色々な野鳥も飼い小動物園だった。その中には感動を体験する場面が沢山あった。命を見つめる瞬間もあった。動物にかける愛情の大切さも知った。生き物を育てる喜び、悲しみ、苦しさを肌で実感した。すべて父がいたから得られた貴重な体験だったと思う。
パールバックの「大地」の主人公王龍(ワンルン)に父をオーバーラップして読んだものだった。細かい事は一切言わず、沿岸珠算大会で優勝した時は珠(たま)の上等なそろばんを買ってきてくれた。音楽が好きな子と思えば小さい私たちにオルガンを買ってくれた。不言実行というのか行動で親の喜びを示してくれた。各種大会では活躍を喜ぶ父の姿が私の活動の源だった。
交通事故のない日がない昨今である。突然の事故で大事な人を亡くされている方が沢山いる事と思う。諦めようとしても諦めきれないでいる人、人生を変えざるを得なかった人など波紋は広く大きい事と思う。
命の重さは地球より重いといわれるが本当にそれを実感する。自分の命も他人の命も大切にうけとめ、交通事故のない社会になってほしいと思う。大切な人を思い出彼方にやらないでほしいと切に思う。
青春の記
「我が青春に悔なし」という言葉があるが、私もしかり。運動に勉学に恋に全力投球した時だった。昭和三十年当時釜石高校の組分けは成績順。一番から五十番まではいわゆるトップクラス。私はその中で卓球選手をしながら過ごすのに肩身の狭い思いをすることがあった。何故なら「進学組で運動なんて!」という担任の姿勢。運動部は男女合わせて三人だけ。でも大好きな卓球をやめる気はなく、その分勉学にも頑張らねばならなかった。高体連、県民大会の時期はもうヘトヘト。目標に向かって邁進した。かいあって東北大会出場、卒業後は全国大会に岩手代表としても出場もできた。
また、彼とのデート。星を眺めながら人生や青春を語りあった。今では考えられない様な純な交際だった。すべてが明日の自分へのエネルギー源となった。
彼を含めたたくさんの男子生徒が家に出入りしてた訳だがいつも温かく迎えてくれた両親のおおらかさを今しみじみ思い感謝している。
あの時の彼は今バリバリの実業家に。一人の友は役所で重要なポストに、別の友は早大を出て、「悪徳不動産や」と豪語している。レターの運びやさんをしてくれたI君はずっと前に亡くなったときく。在京の不動産やは「俺は総理大臣になる」といってた。その彼から昨秋「とんねるずの天才小学生に息子が出る」と電話があった。二月には「息子が開成中学に合格した。官僚も夢ではない」と喜びの電話入る。若き日の夢を息子に託したらしい。
色々な事にもえたあの当時が無性に愛しい夢は大きくもえる時は精一杯もえたが良いと思う。そこで悩み、苦しみ、喜び、自分を鍛錬する事の大切さを思う。
青春の時を精一杯邁進して得た数々の感動、挫折、成就感等、すべてが自分の力の量となった昔にかえるよすがはないが老若問わず基本的に変わりなく自分らしく生きていきたいと思う。
「青春」という時を共有でき、心のアルバムにいつも輝いているあのころの友人達に感謝したい。
保育(子育て)雑感 上
「女性の船」から始まり、だいぶタイムスリップしたので、この辺で現実に向け、自分の身近な保育(子育て)について雑感を。
私は、昭和三十年から保母となり、現在に至る。その中で六年間は、我が子の子育てに専念した。「仕事はいつでもできる、子育てには時期がある、三歳までは自分の手で」という私なりのポリシーからである。親にも子にも長い人生の中の三年間は、微々たる月日であり、半面子供の成育には、大きな意味を持つ月日と思う。百パーセント親に依存しなければ生きていけない子に、百パーセントこたえてあげたかった。草花でも良い成育によい土壌が必要のように、人格形成の基礎時代が幼少時期ではないかと思う。
何のつまずきもなく、三人娘は成人した。私の子育て論を二人の娘は、ただ今実践し、立った、転んだと、一喜一憂しながら子育て真っ只中である。
さて、この三十数年、保育者の目から見て子供をとりまく環境の大きな変化を実感する。家族関係(核家族、少子化)、女の家庭外労働、母子、父子家庭の増加、住環境の悪さ、地域における子供へのかかわりの希薄さ等、子供たちは、たくさんの問題を背負わされている。
以前は、感性の育つ土壌、機会があった。今は、すべて見栄えよく、既製品化された社会である。私は子供達に原体験させたくいろいろな保育実践をした。毎朝薬師山へかけっこ。ある時「先生、山の空気おいしいね」と云う。また入学した子の母からマラソンで一位になった話、陸上大会で五位に入ったなどの話があり、長い月日で鍛えられた足と精神力を感じた。
また、荒れた土地の草取りから土起こし、苗植えと実のなる野菜作りもした。毎朝、畑を見に行く子、ナスがなったと歓喜する子、嫌いなナスもトマトも自分が育てたという喜びから食べる子ら。いろいろな感動を体験し、子供たちは充実し、自信に満ちてきた。
体験の場を設定するのは、大人の役目だと思う。その体験が感動であれば、子供はきっと意欲をもって次へとジャンプすることだろう。
保育(子育て)雑感 下
毎日の保育の中で、大人の配慮の大切さを感じる。無限の可能性を秘めている子供たちに良い刺激を与え、花を咲かすのは大人の役目である。
しかし、現代の親たちは大変忙しい。どれほどの方が余裕を持って子育てしているだろうか。ある調査によると、子育てを楽しんでやっている親は、欧米で七一パーセント、日本は二五パーセントという。いかにゆとりのない接し方をしているかがうかがわれる。この数字をみると、私たち保育者は、ますます子供たちに良い環境を確保してあげたい気持ちになる。
十年ぐらい前までは、子供の帰りを親たちが玄関で待っていたものだが、今は、子供たちが首を長くして親の迎えを待ってる。お迎えの遅い親に不満一つ言えない子供たちをみていると、忙しさだけはない。親のエゴさえ感じ、悲しくなることがある。「迎えられる」と「待たされる」の差。子供の心の中に、蓄積形成されていくものの違いをきっちり見極めねばならないと思う。表面に見えない心の動きに目を向けねば。
子育ての答えはすぐには出ない。たかが零歳で育てるか、されど零歳で育てるかで、数年後の答えに大きな差がつくと思う。目と心と手をいつも子供に注ぎ、育ててほしいと思う。
市内の保育園は、ほとんど民間経営である。職員たちは、決して恵まれた条件の中で働いている訳ではない。朝七時三十分から六時までをいろいろやりくりして保護者の需要にこたえている。職員には、休憩時間等ほとんどなしである。
年齢の低い子供たちの生活時間帯は個々別々で、ねむい時間、食べたい時間、眠る時間等求める時間は同じではない。それらを満たしてあげなければ、子供は充実しない。
零歳から六歳と年齢幅のある子供たちの長い生活時間は、全く気の抜く暇のない日々である。命を預かっている緊張感は神経がすり減る。
でも毎日、心から笑える場面があり、天使の様な笑顔に支えられ、今日まで保育が出来た。
子供たちは、次世代を担うのです。お父さんお母さん、子供に視点を置き、大切に育てて下さい。保育園で働く職員の方々、本当に御苦労様です。日の当たる時がきっときます。頑張って下さい。
ありがとう
とうとうというか、やっとというか、最終回を迎えるに至った。
今まで、保育の研究発表や保育関係紙で自分の思いを表現する機会は何度か経験していたが、今回の「五葉山」への掲載では、さすが報道機関という思いを抱いた。
たくさんの人々が読んでくれており、いろいろなコメントをいただいた。「心が洗われる思いです」といってくださった方や、楽しみに待ってくれた方もおり、うれしく思った。
その他にも思いがけない出合いもあった。原稿用紙を探していたら、娘の古い手紙が出てきた。大学在学中の二女が、中学生の妹にあてたものだった。そこには「母は見ている前で勉強すると安心するから、勉強するといって二階の部屋に行くのが無難。くれぐれも母が上がって来る足音を聞き逃して眠ってるところを見られぬように・・・」というものだった。
妹がどんな返事を書いたかは、到底見る事はできないが、十年前、子供たちに写っていた自分の姿に、苦笑するとともに、学生生活をおう歌してたころの娘たちに、しばし思いをはせた。
また、若き日の日記をひもとく機会も得た。やはり夢多き乙女時代。青春の喜びや葛藤(かっとう)、生きることへの疑問、社会の矛盾など、自問自答している自分の姿があった。その中には「愛とは巨大な矛盾である。それなくしては生きられず、しかもそれによって傷つく。愛とは巨大な虚偽だともいえる。・・・」と、ある作家の言葉が書かれていた。
過ぎ去った日々への郷愁の時が得られ、また今生きている自分を見詰める機会ともなり、そしてこれからの生き方を考えさせられた二カ月だった。このようなチャンスをいただいたことに感謝の気持ちである。
いつまでも「夢みる夢子さん」的な自分を感じるが、これが自分らしさかなとも思う。
限りある人生、自分に素直に生きていきたい。そろそろ海外へ出掛けようと思う。感動する心のあるうちに。最後に、温かく励まして下さったり、楽しみに読んでくださった方々に心より感謝致します。
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釜石高等学校校歌
作詞 手塚 義明
作曲 下総 皖一
一
岩手の山川太平洋の
霊気をあつむる矢の浦浜に
自由の教の炬ぞ燃えさかる
百錬鍛えし鋼鉄の意志
撓まず自然の扉を開き
心理の花咲く園培わん
文あり吾等の釜石高校
二
尊し吾が業うけこし力
真澄の空成すさやけき心
育み磨きて人とし伸びん
至誠はやむなし大天地の
奇しきむすびの勳をたすけ
諸人さかゆく世をうちたてん
文あり吾等の釜石高校
小笠原ヒナ子(おがさわら・ひなこ)
昭和十一年四月二十七日、釜石市生まれ。三十一年三月、釜石高(現釜石南高)卒。同年四月から釜石保育園に勤務。主任保母。趣味は旅行、卓球、音楽(ピアノ)。生け花池坊教授、社会福祉主事の資格も。釜石市新町七ノ一九。七十八歳。
2015年6月7日 発行 初版
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小笠原ヒナ子(おがさわら・ひなこ)
昭和十一年四月二十七日、釜石市生まれ。三十一年三月、釜石高(現釜石南高)卒。同年四月から釜石保育園に勤務。主任保母。趣味は旅行、卓球、音楽(ピアノ)。生け花池坊教授、社会福祉主事の資格も。釜石市新町七ノ一九。七十八歳。