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書く事は私に、生きることのその先を見せてくれる。
そこで繋がり出会えた物書き仲間は同じように手強くしぶとい。その分壊れやすい心も備えている。強烈な魂の同志だと思う。私も仲間達も、普段書いている事なんて日常生活では塵も見せず、普通に買い物用のエコバッグなぞ提げてその辺を歩いているかも知れない。外界は掘り出し物を発見できる魔法のスーパーストアー。私はそっとエコバッグに、夕飯のおかずや野菜と一緒に、見つけた宝物を詰め、よいしょと持ち直して帰宅し、ゆっくりと味付けをして、ことことと調理するのです。
わたしたちそれぞれの現在に、あなたはさよならを言おうとしているの。
タブッキ『イザベルに』
目次
章の解説
第一章 掌から
恋うる人
嘆きの唇
ある幸せな男の独白
礼拝
第二章 蕾
本屋さんでお会いしましょう
恥じらう鞄
たゆたう魚
夏の宵、或いは白い花
始めるために
第三章 食虫植物
夏の夜の御伽噺
揺れる
すべてを貴方に
あとがきとタイトルの解説
章の解説
第一章「掌から」は投稿型小説サイト「ゴザンス」(現在は閉鎖)にて出会い、同じライター仲間だった方が立ち上げたお題小説投稿ブログ「いっぺん」(現在は閉鎖)にて書かせていただいたものです。当初は八○○字小説として書きましたが本書に収録するに当たり、文字数はこだわらず推敲し、掲載致しました。また副題に「I can't stop reading you」と名付けられており管理人さんの読み物に対する情熱が伝わってくるようでした。書く事の楽しさと気軽に挑戦できる適度な短さで投稿できたので、拙ブログにも一つの記事内に載せることができてダイレクトな反応も来ました。とても良い経験と勉強をさせていただいたブログです。本書には全六作品中四作品を載せております。
第二章「蕾」は「ゴザンス」にて二○○四年より投稿。蕾という副題が表すように恋や人生に慣れていない初々しい(甘い?)登場人物達を中心とした物語を収めました。「ゴザンス」は憧れのライターさんが沢山いらっしゃって、私はその時コピー&ペーストと言う言葉すら知らないほどパソコン初心者であったにも関わらず、憧れが勝ってしまい、下書きなしで小説を投稿してしまうという今思うと恐ろしい事をしてしまったサイトでした。今読み返すと冷や汗が出ます。全四十七作品中、五作品を選んで載せております。
第三章「食虫植物」は、成人的な描写を含む内容となっております。『夏の夜の御伽噺』『揺れる』の二篇は「ゴザンス」(右記参照)にて書かせていただきました。『すべてを貴方に』は、実は未だ終了していない「微エロ?で三十二のお題」(現在は閉鎖)というお題そのものを提供して下さったサイト様からのお題十作目「弄る」から推敲し、転載いたしました。元の物語からかなり変更してしまいました事をご了承ください(成長だと思っていただければ……)
楽しんで読んでいただけると幸いです。
〈 恋うる人 〉
お題 「雨の休日に」「産婦人科で」「小説の主人公が」
せっかく仕事が休みだと言うのに、雅代は突然友人に呼び出された。
久しぶりに家でゆったり過ごそうと思っていたのにまさかこんな雨の休日に出かけることになるなんて。古くからの友人である加奈が未婚であるのに妊娠したというのだ。どうしたらいい? 話を聴いてくれる? そう言われてしまうと断れなくてわざわざ出向いた。思えば不思議だった。加奈は昔から潔癖症で男嫌いが激しかった。セックスなんて汚い。そう言っていたはずなのに。
呼び鈴を鳴らすと、加奈がドアを開けた。元気? ひさしぶりよね。そんな言葉はいらない。早く核心に触れたかった。
「ちゃんと調べたの?」
加奈は私のために紅茶を淹れようとしていた。呑気なものだ。
「市販の検査薬なんて嫌。あんな下品なもの」
下品……。誰だってトイレくらい行くだろう。
「完全じゃなくたってきちんと反応が出るみたいだから、嫌とか言ってないで調べなさい」
私は苛立ちも手伝い、少し威圧的な口ぶりで話した。
加奈がそれでも黙っているので、じゃあ産婦人科に行きましょう、と言った。
「嫌よ」
「どれもこれも嫌がってちゃ、何にもならないでしょう。自分のことじゃないの」
「だってあんな恰好するの……恥ずかしいわ」
何のための相談なのだ。そう言えばと思い、ごく当然のことを問いかけた。
「相手は誰なの?」
加奈は急にはにかんで、ちょっと待ってて、と自分の部屋に消えた。すぐに部屋から戻った加奈は雅代に一冊の文庫本を差し出した。
「このひと」
雅代は加奈の手から文庫本を受け取り、表紙を見た。相当読んだのだろう、ぼろぼろに擦り切れている。怪訝に思い、雅代が質問しようと口を開きかけた瞬間、加奈自らが説明を始めた。
「その小説の主人公よ。その人、毎晩毎晩私の上に乗るの。でも私には理想のひとだから抵抗しなかったわ。そしたらある日妊娠しちゃった。仕方ないわよね。ほら、もうおなかが膨らんでる」
うふふ、と加奈は笑い、艶かしい手つきで優しく自分の腹をさすった。
努めて明るい声で雅代は言った。
「病院に行くわよ、大丈夫。問診してもらうだけだから」
「それならいい。彼も連れて行くわ」
「もちろんよ」
私達は病院に向かった。
車を運転していると、加奈は隣でしきりに本の表紙を撫でている。あなたの子よ、勝手な人ね。産んでもいいの? 雅代は握るハンドルの手が震えた。病院に着き、加奈を待合室で待たせ、先に医師に話しておいた。しばらくして、医師が「どうぞ」と優しい声で呼んだ。加奈と二人で呼ばれた診察室に向かう間、雅代は半分夢を見ているようにその病院の薄いピンク色の壁を眺めた。ドアをノックして診察室に入った。医師は聴診器をつけていない。
壁には、
『アルコールをやめたい』
『一人で悩まずに』
と、書かれた案内が至る所に貼ってある。雨は静かに降り続けるばかり。
〈 嘆きの唇 〉
お題 「初めて会った日」「非常階段で」「手帳が」
地下鉄の中は暑くて気持ちが悪かった。
風を浴びたくて知らない駅で降りた悪夢のような日曜日。昼間っから飲み過ぎて千鳥足になっていた。誰もそばに寄って来ない。小気味がいい。みんなよけて行っちまえ。あいつのせいだ。何もかも。
オレは路地裏に入ってどこか休めそうな場所を探した。立ち塞がる物を蹴飛ばし、非常階段を見つけ、何段か這いつくばるように上り、座った。煙草を口に咥えライターで火をつけようとするが一度ではつかず、舌打ちをした。何度目かの火花を散らせたあと音を立ててライターの火は煙草の先を燃やした。空に目をやるとどこまでも突き抜けるような見事な青空。天まであいつを祝っているのか。
あいつの結婚式。少し背中に痛い階段に凭れながら、あいつと初めて会った日を思い浮かべた。
いつも行く本屋の片隅で偶然出会った。
あいつはひとり、涙を流していた。長い髪に顔が隠されていて誰も気づいていなかったけれど本を持つ細い指が震えていてオレは放っておけなくて話しかけたんだ。驚いたその目は丸くて宝石のように映った。あいつはあの時から婚約していたんだ……。ぽろりと灰が落ちる。あの涙は婚約者との諍いが原因だった。なのにオレはお節介にも相談に乗っちまったんだ。簡単に見ず知らずの男にくっついて来るなんて世間知らずにもほどがあると思った。けれど違った。あいつは気持ちがいいくらい婚約者を罵倒して、こんな結婚やめる、と唇をとがらせて言った。オレはしおらしい涙とやんちゃな素顔に呆れて笑い、あいつもオレのそんな態度に少し照れて笑った。それからオレ達は始まったんだ。毎日毎日愛し合った。婚約も解消したと思っていた。なのに。
結婚するわ さよなら
まだ半分以上残る煙草を乱暴に階段に捨てて足で踏みつけた。
憎い。なのに愛しい。もう一本煙草を出そうとして手が滑って箱を落とした。舌打ちしながら拾おうと屈むとジャケットの胸ポケットから小さな手帳が滑り落ちた。あいつが入れたのか? 真ん中のページには一行の走り書き。
『あたしを愛してるなら奪いに来て。愛してるって言って』
その文章を凝視する。愛してるって言って。あいつの口癖。オレは一度も言ったことがない。そう言えば、とこめかみを押さえ必死に思考してみる。あいつは別れを告げた日も訊いてこなかっただろうか。頭に血が上ったオレは確か「バカにするな」と言ってあいつの背中すら見送らなかった。あいつは心の中でいつもたったひとつのこの言葉を望んでいたのだろうか。オレはあいつにきちんと婚約を破棄したのかどうかも訊ねなかった。突然走り書きの文字にあいつの不安を垣間見る。神様でもなけりゃ言葉を交わすこともなく人の心の中まで知るなんてできない。ああ、オレはバカだった。すべてをあいつのせいにしてただ傍に居ることに甘えていただけだ。
時計を見るともうすぐ式が始まる時間。昼間の酔いなんてとっくに醒めていた。オレは手帳を大事にポケットにしまうと立ち上がった。いいんだ。あいつがオレを利用していたのだとしても。オレが離したくないんだ。あいつの手を掴んで逃げてやる、どこにでも。何百回でも愛してると言ってやる。オレは階段を駆け降りた。視線の先のドアには「非常口」と書かれてあった。
〈 ある幸せな男の独白 〉
お題 「一月の終わりに」「夢の中で」「きみと僕が」
僕は恋をした。
バレリーナのカミーユという若い女の子だった。冴えない顔で会社に行く途中、とあるビルに入ったバレエの稽古場からピアノの音が聴こえ、生徒に振り付けをつける熱のこもった教師の声に興味が湧き何気なく覗いたところそこで踊るカミーユを見たのだ。咲いたばかりの白い花のように瑞々しい風貌に僕は瞬く間に夢中になった。調べてみるとカミーユは十六歳。このクラスのプリマであり期待されていた。僕は仕事をサボって窓の外からカミーユを眺めるようになった。
ある日、稽古前に教師が生徒たちを集め新春公演の話をした。
演目は「ジゼル」カミーユがヒロインのジゼル。王子役は彼女より年上の十八歳の青年が選ばれた。カミーユの恋している相手だ。面白くない。しかしカミーユには内向的な部分がありメールアドレスすら青年に聞き出せないほどだ。彼女は緊張のせいかレッスンがうまくいかず王子と幸せそうに花占いをする場面が幸せに見えない、と何度も注意され、カミーユは落ち込んだ。僕は何とかしてあげなくちゃと思い、黙ってロッカーに侵入し、カミーユの携帯電話を操作して青年を装い、カミーユにメールを送信した。
『焦らないで、僕の踊り方が悪いんだ。稽古場では私語厳禁だからメールした事は内緒だよ』
カミーユからは『ありがとう!がんばるわ』とすぐに弾んだ返信メールが来た。当然僕宛ではないのだが小さな秘密が楽しかった。程なくしてカミーユは素晴らしい踊りになった。しかしカミーユと青年が親密な視線を交わしたのを見て、かっとした。きみを完璧なジゼルにしたのは僕なんだぞ。そう思い青年だけが帰ったのを見届けてカミーユにメールを打ち、送信した。カミーユは青年の名前が表示された携帯電話を見て顔がほころんだが、僕はおしおきで意地悪な内容を書いていた。
『きみなんか眼中にない』
メールを読んだカミーユはみるみる内に青ざめ、いつも反り返るほどに正しい姿勢がどんどん頼りなく前屈みになっていった。そのまま様子を見ているとカミーユの電話を持つ指が痙攣するように震え、糸が切れたように膝をつき、誰もいない稽古場の中、悲鳴のような声でカミーユは泣き崩れた。あまりにも痛々しい姿だった。自分でしたこととは言え、カミーユのあまりの嘆きように驚愕した僕はその場から目を逸らして走って帰った。
次の日、少し蒼白い顔をしていたが何事もなかったかのようにカミーユが現れた。今日の稽古は王子に婚約者がいたと知り、狂って死んでしまう場面。カミーユの手は空を舞う。王子との楽しかった花占いの手つきのように。そのまま魂が体から離れて行くように崩れ落ちる。拍手が沸き起こった。青年が笑顔でカミーユに手を差し延べた。カミーユは動かない。青年は訝しく思い、名前を呼んでその体を揺さぶった。異変に気づいた。
「救急車を!」
青年は叫ぶ。カミーユの心臓は動いていなかった。
発見が早かったため一命は取りとめたが、いつ目覚めるかは医師にも判断できないと言う。教師も生徒たちも、そして青年も悲しみに暮れた。しかし青年は毎日カミーユを見舞い言葉をかけた。
「何も心配することはないから安心して休んで。僕は心からきみを愛しているよ」
青年はカミーユの腕を取ると動かないその手の甲にそっとくちづけた。誰にも見つからない場所からそれを見ていた僕はまた腹が立った。僕の方がカミーユを愛しているんだ。彼女を「きみ」呼ばわりするなんて許せない。僕は人がいないのを確認してからカミーユの病室に入り、眠る彼女にそっと話しかけた。
「カミーユ聞いて。メールを送っていたのは僕だ。あいつじゃない。あいつはきみのメールアドレスなんて知らないよ。だけど僕はきみをずっと見つめていた。きみを応援していたからこそあいつに成りすましたんだ。それなのにきみがあいつと仲良くなんかするから少しおしおきをしただけなんだよ。悲しまないで。愛しているんだ。どうか目覚めて僕に気づいて」
そしてカミーユの腕を取り、青年がしたようにくちづけて病室を出た。
その夜、僕は夢を見た。カミーユが踊っていた。僕に優しく微笑みかけ、踊りましょう、と美しい涼やかな声で僕を誘った。きみと僕が手と手を繋いで一緒に踊れるなんて!僕は嬉しくて昂る気持ちで踊った。しかしもちろん日常的にダンスなんてしないので少し疲れた。僕はカミーユに少し休もうか、と言った。
だめよ
カミーユの冷たい声が冷たく変化して辺りに響いた。
休もうですって?
あなたのせいでわたしがどんなに絶望したのかわからないくせに
踊り続けなさい 腕が抜けても足が折れても
カミーユは優雅に踊る。そこで気づく。これはジゼルの一場面だ。ジゼルの死後、精霊になったジゼルは彼女に惚れていた森の男を死ぬまで踊り続けさせるのだ。頼む、やめて。僕が悪かったよ。僕はカミーユに乞う。しかしカミーユと精霊たちは容赦をしない。僕の体は勝手に動く。息が苦しい。このままでは死んでしまう!そう思った時、はっと身を起こした。そこはいつもの自分のベッドの上だった。心臓が波打っている。ああ、夢だったのか。良かった。僕は大量に汗をかいていたので着替えようとしてベッドから片足を下ろすと、ふと窓から冷気を感じたためそちらに視線をやった。カミーユがふわふわと浮いていた。夢の中で着ていたのと同じドレスを着て僕を凝視していた。夢の続きのように精霊たちを引き連れ、恐ろしく色のない瞳で。僕は恐ろしさに震えながらカミーユに詫びた。とにかく詫びるしかないと思った。
*
それから間もなくカミーユは目覚め、青年と婚約してしまった。僕は稽古場に無記名で批判の手紙を何通か投函したが、ある日その手紙は束になって僕の住むアパルトマンの前に送り返されていた。手紙を束ねていた紐はトウシューズにつけるサテンのリボンだった。愛らしいピンク色のリボンは僕の名前すら隠れるほど執拗に巻かれていた。恐怖のあの夜が蘇えり背中が冷たくなった。あれは夢だったはずなのに。僕はもう手紙も書けなくなった。
年を越え、一月の終わりにはすっかりカミーユの体調は回復し、遅れてしまった分の猛稽古をしてジゼルを全幕踊りきった。最初はぎこちなかった占いの場面も悲恋に心を震わせ落ち込んでいたカミーユも、もうそこにいなかった。そこには雪のように儚くしかしジゼルとして完璧に舞うカミーユの姿があった。観客の誰もが魅了され、公演は大成功だった。僕はカミーユをまだ愛していたがあの夜以来カミーユを手にする権利は失われた。けれど夢の中で僕に微笑んだカミーユの顔は一生忘れないだろう。
〈 礼拝 〉
お題 「十回目の日曜日に」「携帯電話で」「黒い影が」
冬子さんはとある小さな教会にて読書会を企画し、私はそこに参加していたひとりだった。凛と野に立つ樹のような細い体に黒い服を纏い、その姿は瑪瑙(めのう)のようだった。冬子さんは幻想的な小説を選ぶことが多く彼女が一行でも朗読するとその場のみんなが聞き入ってしまう。キリスト教徒ではないけれど教会は私にとって特別な場所になった。しかしある日唐突に読書会の解散という知らせが入った。既に彼女に魅惑されていた私は大きなショックを受けた。私はわがままを言い、もう一度冬子さんに会えないか直接交渉してみた。時間がなくて忙しそうだったので申し訳なかったけれど冬子さんは承諾してくれた。
最初にふたりきりで会ったときはぎこちなく会話にならないようなやりとりをしていたが段々と心がほぐれ、彼女のつけている香水の香りも手伝い、やはり私の心は冬子さんと会うと敬虔で穏やかな気持ちになった。しかし今日は冬子さんに会うのが楽しみなのに苦しい。携帯電話で会う時間を決め、切ろうとした時、とうとう二ヶ月目の日曜日ね、と彼女が付け加えたから。私たちは二ヶ月間毎週日曜日に会う約束をしていた。二ヶ月なんてあっという間だ。会いたい気持ちは溢れそうなのにどうしようもなく心が重かった。冬子さんと待ち合わせているいつもの個室のあるカフェに行くと既に冬子さんが来ていた。私はカウンターでコーヒーを注文して個室の扉を開けた。
「今日は嘘偽りなく私たちの話をしましょう」
そう言ってコーヒーを飲みながら冬子さんは微笑む。
「嘘なんてついていません。冬子さんには本音を話しています」
「仕事や人間関係はね、でも今日はあなた自身のことを知りたいの」
心の中を見透かされたようだった。窓からの風で揺らいだ陽射しに黒い髪が煌く。ああ、冬子さん。私の嘘偽りのない話なら、たったひとつ。
「私は、冬子さんを愛しています……」
言ってしまった。一瞬の沈黙と罪悪感。
「ありがとう」
ぽつりと冬子さんは呟いた。
「もう少し早ければ、何らかの答を返せたかもね」
「何らかの答?」
「そう、私は人を愛することに性別も年齢もすべて関係ないと思ってる。あなたの告白は心から嬉しいわ」
胸が詰まりそうだった。
「泣かないで」
冬子さんはひんやりとする指で私の頬の涙を拭い、そのまま私の手を握っていてくれた。そして冬子さんは席を立つ。
「時々会いに来てくれると嬉しいわ」
「行きます……毎日だって行きます……」
冬子さんは少しだけ困った顔をした。私は慌てて言い過ぎてしまったことを詫び、冬子さんのために扉を開けた。通り過ぎる一瞬、冬子さんは私の唇にくちづけた。繻子のような感触だった。驚いて顔を上げたのと同時に目の前で扉が閉まった。扉の音がこだまするように響き、唇に花のような香りが残された。個室を振り返ると冬子さんのコーヒーは冷めたまま一口も減っていなかった。私はとめどなく溢れる涙をそのままにしてしばらくそこに座っていた。
後日、冬子さんが好きだった白い花を持って彼女の住む場所である墓地に赴いた。冬子さんは二ヶ月前に亡くなっていた。読書会のため教会に向かっている最中のことだった。読書会は冬子さんがいなければ意味がなかった。亡くなったと知ったその日、私の夢枕に立った冬子さんはあまりの私の嘆きようを見て、本当はもう行かなければならないけれどこのままじゃあなたまで衰弱して死んでしまいそう、二ヶ月間なら会えるわ、と言ってくれた。カレンダーを見て九回という中途半端な日曜日の数に不満を抱き、十回目の日曜日まで、と懇願したが、二ヶ月だけなの、と言われていた。墓の前に跪き、そっと花を置く。墓石に私の黒い影が映っていたがその影はふたつ並んでいた。ひとつは紛れもなく冬子さんだった。来てくれたのだ。私の夢を叶えるように十回目の日曜日に。冬子さんの黒い影は私と抱き合うように重なり、花の香りと共に消えた。
〈 本屋さんでお会いしましょう 〉
ああ、肩が凝った。
里絵は仕事の手を休めて大きく伸びをした。いつも仕事に夢中になると忘れがちになってしまう昼食を取らなければと思い、億劫だったがサンダルをつっかけて外に出た。しかし食欲が湧かない。とりあえずいつも行く古びた本屋に入った。そこは静寂があり、里絵はほっと息をついて本棚を眺めた。読みたい本を見つけたが高い場所にあって手が届かない。店員に頼もうとした時、近くにいた背の高い男性が声をかけてくれた。
「これですか?」
「そうです。どうも……」
里絵は礼を言おうとして顔を上げた。
「あっ、武井部長じゃないですか」
「おや、里絵さんでしたか。こんにちは。私はもう部長じゃないですよ」
武井は里絵が就職した先の部長で里絵が辞める前に定年退職していた。会社にいた頃からいつも背筋がしゃきっと伸びていて今もそれは変わっていなかった。しかし会社にいた頃染めていたらしい髪はすっかり白くなり、眼鏡のレンズも心なしか分厚く感じた。
「お久し振りです」
「元気かい?」
「はい。部長は?」
「自由にやってますよ、仕事がんばってますか?」
「辞めたんです」
「おや、そうなの。今は何をしてるの?」
武井は問い詰めるような言い方ではなく極自然に里絵に問いかけた。
「絵描きです」
「絵ですか。それはいい」
武井は里絵に本を手渡そうとして眼鏡をかけた目を更に細め、本の表紙の文字を読もうとした。
「これは何の本ですか?」
「絵の技法とか、そんな感じです」
「面白そうですね」
武井はもう一冊あったその本を会計に持って行き、里絵の分まで払った。呆然と見ていた里絵は我に返り「払います!」と財布を出した。
「結構ですよ。お茶でもどうですか? そうだ、お茶代をお願いしますよ」
武井はそのまますたすたと前を歩き出したので仕方なく里絵もくっついて行った。傍から見たらきっと祖父と孫のように見えるだろう。
本屋の奥に小さな喫茶室があったのを里絵は知らなかった。天井が高く壁一面が白い。細長い窓から長い梯子のように陽射しが入るその場所は荘厳で教会を思わせた。制服である黒いふんわりしたワンピースに白いエプロンをしたウェイトレスがトレイを持って歩いている。ワンピースと言っても動きやすそうな機能性の高い労働向けの質の高いデザインだった。里絵はつい職業柄、じっと観察してしまう癖がある。そのウェイトレスが笑顔でメニューを置いて行った。
「あの……部長、何でも召し上がって下さい」
「じゃ、木苺のパルフェをいただきます」
「木苺」
「おいしいんですよ」
「……じゃ、私も同じものを」
武井が先程のウェイトレスに優しく声をかけて注文を告げた。里絵は武井の思考についていけず、落ち着かず天井を見渡した。
木苺のパルフェが来た。真っ白なソフトクリームに赤い木苺が背の高いグラスの中に所々ばら撒かれている。シンプルで可愛らしい。里絵は武井に聞きたいことが山ほどあるのに言葉が出ない。その気持ちを見透かして武井から話を始めた。
「この本屋さんね、閉めるんですよ」
「え」
「私はここが小さい頃から好きでね、今の騒々しい本屋をどうしても本屋とは呼べないんですよ。年のせいでしょうかねえ」
「……いつ閉まるんですか」
「明日です」
「明日?」
急過ぎる。どうして店長さんは張り紙一枚くらい貼って教えなかったのだろう。
「子どもの頃からずぅっとこの本屋に通っていたんですよ。今日でちょうど五十五年目になるんです。だから記念にね、何となく今日ご縁があった方に本を買って差し上げようと決めていたんですよ。店長はどうしても閉めたくなかったそうですが、それはもちろんですが……最近大型書店ができたことの影響なのかなと言っていましたよ。しばらくはこの店舗の状態のまま本の背表紙を眺めて静かに過ごしたいそうです」
武井は静かに語った。淋しそうな瞳をしていた。
「私も……私も同じ気持ちです。大量に本とは関連のない玩具を売っていて、大きな音で音楽を流すうるさい場所を本屋とは呼びたくなかった。ここだから本を買い続けてこられたのかもしれないです。知っていたらこんなにだらしない気持ちでなんか来なかったのに……」
そこまで言いかけて里絵は涙が溢れた。
「大丈夫ですか?」
武井は優しく微笑んで里絵にそっとハンカチを手渡した。里絵は「失礼します」と言ってハンカチに涙をそっと吸い込ませた。目の前では武井が愛おしむように木苺をよく噛んで食べていた。ふとハンカチを見るとこの書店の名前が刻まれていた。
「あ、このハンカチ……」
「ああ、開店した日に記念品としていただいたんですよ。物持ちが良いでしょう」
「そんな大事なものを……ごめんなさい。汚してしまいました」
「汚れなんかじゃありませんよ。涙は美しいのですから」
武井がどれだけこの本屋をを愛し、本を愛していたかなぞることができそうな言葉。武井の佇まいはそれだけで文学のようだと里絵は思う。
「それでもここの店長のことですからまた違う形で本屋を開くと思うんですよ。ここだけの話ね。頑固なんですよ、あの店長は」
ふたりは笑う。
「その時はまた、本屋さんでお会いしましょう」
「もちろんですよ」
外から入る風が淡く循環する店内。午後の陽射しがふたりのパルフェのグラスを照らしていた。十字型に配された窓枠が長い影を床に作り、十字架のように見えて儚くて里絵の瞳をまたしても潤ませる。
〈 恥じらう鞄 〉
武は面白くなかった。
武の向かいに住む同い年の少女清が中学校に上がってから急激に美しく成長を遂げたらしい。おまけにのびのびとしてきれいで優しいと評判だった。クラスの男子からも聞いたことがある。清ちゃん、いいよな。この間なんか鞄ごと家に忘れてきた俺にペンやら消しゴムやら教科書やら丁寧に貸してくれたんだぜ。可愛いしさあ、惚れたよ。しかし武だけは清の我儘さを知っていたので曖昧な返事しかできなかった。武は家来扱いでいつも清の帰りの鞄を持たされていたからだ。清は外面がいいだけだ。ちやほやされて嫌がるはずがない。
今日も放課後、午後四時半に学校の中庭で待ち合わせていた。
「遅いじゃない」
「先生と話してた」
「ふぅん。はい、持って」
武は早速鞄を持たされた。
「ちょっと散歩して行こうか。武」
「え」
「ほら、早く」
まったく鞄持ちの身になってみろ、と心の中で武は思った。けれど四時半という時間帯は風が気持ち良かった。堤防の上を歩く清はさらさらとした髪をなびかせ、気持ち良さそうだった。
「もう少しゆっくり歩こうよ、清の鞄重いよ。何が入ってるんだよ」
「何よ、だらしない。私は毎朝持っているわ」
「自分の物なんだから当然だろ」
「うるさいなあ、じゃあちょっと座ろう」
清は武を堤防の階段に促し、並んで座った。立ち止まると汗が噴き出してきたので武は手の甲で乱暴に額の汗を拭った。少しだけ息が上がっていた。
「だらしないわね。あんたって彼女いるの?」
「いないよ」
「そうなんだ」
そこから何か続きの言葉があるのかと待っていたが特に清から質問は出なかった。変なやつ、と武は思った。清はただその辺の草をぶちぶち抜いて対岸を見つめていた。
次の日、ふたりのその様子が同級生のお喋りな女子にばれて噂になった。武は慌てたが清は落ち着いたものだった。武は清を絶賛していた男子の方は極力見ないようにして噂が広がらないようにしなくてはと考えてその日は清を置いてひとりで帰った。腕が妙に軽かった。家に戻り武が風呂で汗を流したあと、父が武と並んだ。
「うわ、ついに武に背を越されたか」
「え、あ、本当だ!やった!」
「まったく背ばっかり伸びやがって」
父は負け惜しみのような言葉を言いつつも嬉しそうだった。もちろん武自身も感激していた。これでもう清にばかにさせないぞ、と思った。なぜなら武の鞄持ちが始まったのは清に偶然近所で見つけられ、平たい靴を履いた清よりも背が小さいのをからかわれたからだった。髪を拭きながら清とどのくらい背の差が縮まったか考えながら自分の部屋に行った。その時鞄の背のポケットに小さなメモを見つけた。
『噂なんて気にしないでよね 今日も中庭で午後四時半に待ってる 清』
武は驚いて時計を見た。六時だった。慌ててカーテンを開けて向かいの窓に目をやると清の部屋には灯りが点いていなかった。武は派手に玄関を開けて飛び出した。しかし雨が降っていたので慌ただしくもういちど玄関を開けて家に戻り傘を掴んでまたすぐに家から出た。武は一目散に校舎の中庭に急いだ。中庭の一番大きな樹の下に清はいた。葉でかなり雨はしのいでいたが、ずぶ濡れであることに変わりはなかった。清は鞄を愛するもののように両手で強く胸に抱えていた。その頼りなげな姿がその樹に住む天女のように見えて武は一瞬声をかけるのをためらった。しかし状況を思い出し、勇気を出した。
「清!」
武が叫ぶと清は驚いた顔で振り返った。武は急いで傘を開き、清に差しかけた。清は武の頬を、ぱちん、と叩いた。冷たい手だった。
「何で来なかったのよ。気にしないでって書いたのに」
「気づかなかったんだ。今読んだんだよ、だから来たんだ」
清の頬には雨なのか涙なのかわからないけれど澄んだ糸が伝っていた。武は清に傘を手渡し清の手から鞄を受け取ると空いた方の手で清の手を握った。その驚いた清の顔を見て、武は清をいとしく思った。クラスのあいつが言ってたことは嘘じゃなかった。清はやっぱりきれいだ。今なら心からそう思う。武はあまりにも物理的に清と距離が近かったから清の美しさがよく見えなかったのかも知れない。結局武は傘を持たされ二人は相合傘で帰った。やはり武が鞄も持ったので手は繋げなかったけれど。
「武」
「ん?」
清が何を言いたいのかわかった。清は武を見上げていたから。案の定、武は清の背を抜いていた。
〈 たゆたう魚 〉
十五歳の頃の私は、学校がつまらなかった。
教師が間違ったことを言うとすかさず手を挙げはっきり指摘し、間違いを正した。学級会でも『何故女子はグループを作るのか』なんて話題の時「くだらない。鬱陶しくなるまで一緒にいさせてやれば」と言っては教師から非難を浴び、女子からは陰口を叩かれた。それでも私は何にも気にしなかった。
ある日、私のことを好きだと言う同級生の男子と出逢った。クラス内ではあまり目立たなかったが静かな存在感を放つ不思議なひとだった。その男子が告白をして来たとき「物好きね」とからかったが、その後、男子は私の彼氏になった。別に好きだとか恋だとかそういう意識はなかった。ただ一緒にいて私が話をすれば大袈裟に頷く彼の瞳を見ているのが可笑しかった。一度だけ話に夢中になり、その続きの時間が欲しくてホテルに行った。予想に反して心臓が高鳴り、私たちは慣れないながらも一生懸命事を遂げた。
けれど、彼は私と別れたあと「また明日」と言って自転車で家に帰る途中、事故を起こし、あっけなくこの世を去った。通夜に出たが私は涙のひとつも出なかった。それどころか同級生の女子が声を上げてわんわん泣くのを見てばかみたいだと思った。普段、彼と話もしなかったくせに、と。私は冷たい子だと言われた。
それからすぐに夏休みに入った。表情を出さない私は確実に家の中でも浮いた存在になり、毎日家にいるのが窮屈で近くの川原に行った。ある曇った日、川べりから声が聞こえた。声、と言うより空気の音が声のように聞こえた、と言う感じだった。その声の主を探してうろうろと歩き回ると透明な石ころが目に入った。手に取ってみると確かに石ころなのだが半分中が透けて見えてその中には魚が泳いでいた。その魚が空気のような声を発していたのだ。
「なんでそんな中にいるの」
私は表情を変えずに魚に問いかけた。
シラナイヨ、キガツイタラ、ココニ、ハイッテイタンダ。
「ふぅん」
ネエ、ボクヲ、タスケテ。
石の魚は言った。
「どうやって? 割ればいいの?」
ウウン。ツキノアカリニ、テラシテ。
「面倒、割ってあげる」
ムリ。ボクハ、ワレナイヨ。
試しに堅そうな石に叩きつけてみたが、魚の言うとおり割れなかった。
「きれいだから持っててあげる」
私はそう言って石を家に持って帰った。
夜になり空を見上げるとうっすらとしか月は出ていなかった。私はパジャマを着てベランダに出た。
「この月で良いわけ?」
石の中にいる魚に話しかけた。
ウウン。マンゲツニシテ。
「ふん。拾ってやったのに生意気な奴だ」
私はベランダから部屋に戻った。石は机の引き出しにしまった。
ネエ、モット、ハナシヲ、シヨウヨ。
魚がこつこつと石の表面を鼻先で叩いた。
「うるさいな。眠いんだからあんたも寝れば?」
ネムレナインダヨ、ホトンド、ネタコトモ、ナインダ。
私はもう一度石を引き出しから出した。
「ほとんど寝たことないの?」
魚はこくりと頷いた。
「あんた、それで死なないの?」
私は興味を持った。寝ない人間は死んでしまうと聞いたことがあった。ああ、でもこいつは人間じゃないんだった。
「満月になってあんたを月に照らしたらどうなるの?」
ボクハボクノ、バショニ、カエレル。
「どこ?」
シラナイ。デモ、ジブンノ、バショナンダ。
「判りづらいな。腹が立つ。もう相手してやんない」
イヤダヨ、イレナイデ。
嫌がる魚を私は引き出しに追いやった。
次の日、親に促され、夏休みの計画表を作成しなければならなくなった。私は迷わず『石の中の魚の観察』と書いた。嘘をつかないで真面目に計画を立てなさい、と注意を受けたが構わなかった。夜空には細く消えそうな三日月が見えた。
「あんたのせいで嘘つき呼ばわりされた。傷ついたわ。どうしてくれるのよ」
本気ではなく私は魚を責めた。
ゴメンネ、マンゲツニナッタラ、カエルカラ。
「あんた、餌っていらないの?」
今更だが聞いた。いらないのは一目瞭然だった。
「聞いた私がばかだったよ。仮に餌が欲しいったってやれないもんね。そんな中じゃ」
私がけらけら笑うと、魚は淋しそうな顔をした。
夏休みに入ってから毎日、川に行って魚と話をした。ほとんど私が魚をからかうことに終始したが魚も段々私の言い方が分かって来たらしく気にしなくなった。
キミハ、ドウシテ、イツモ、ヒトリナノ?
「あたしと話すと喧嘩になるからだよ」
ドウシテ、ケンカニナルノ?
「物事をはっきり言うからでしょ」
デモ、カンジンナコトハ、イエナインダヨネ。
「何だよ、また生意気なこと言って。えい、こうしてやる」
ワア、ヤメテヨ、ヤメテヨ。
魚はそう言いながらも私が石を手に持って振ると、くるくる回って喜んだので何度も振ってやった。魚と私は気が合うのだろう。
「あんたを見てると、この世とあの世の境界線がどこにあるのか分からなくなる」
ぼんやりと遠くを見て私は言った。魚がじっと私を見つめているのがわかった。何となく彼が死んだ日から私は自分も魚のように、ふわふわと泳いでいるような感覚が続いていた。私と魚は物言わず、何時間も涼しい川の風に吹かれていた。
家に戻ると、魚は窓に映る空を見上げて言った。
アシタ、マンゲツ、ダヨ。
私は一瞬声が出なかった。
「……あ、そう。やっとあんたの世話から解放されるんだ。良かった」
魚はまた淋しそうな顔をしたが、いつもと違うのは魚の両目から泡がぶくぶくと出ていたことだった。魚は泣いていた。
「泣いてんの? 何で泣くの?」
キミハ、ツヨクナレルヨ。
「強くなれる? 私が? 強いわよ!魚なんかに同情されてんの? たまんないわ!」
私は吐き捨てるように叫んだが何故か涙が溢れてきたのでそれを隠すように慌てて布団にもぐりこみ、突っ伏した。魚のぶくぶくと言う泡の音だけが夜の静寂に響いた。
満月の夜になった。私は玄関から外に出て満月の場所を確認した。くっきりと満月は輝いていた。私はおずおずと石を月にかざした。満月に照らされた石はみるみるうちに透明度を増し、重さが微妙に変化した。魚の体がくっきりと見えた。目がまんまるだった。すると急にぐにゃり、と石が柔らかくなったので私は小さく叫んだ。
ハナサナイデ……。
魚が言った。しかしどんどん柔らかさが増してその手触りが恐ろしかった。この感触は……。触った事なんてないが、無意識に理解した。魂だ。私は大きく悲鳴を上げて石から手を放してしまった。石は土の上に落ちたようだったが割れるような音はしなかった。確認もせず急いで家の中に戻った。心臓がどきどき言っている。しかし段々落ち着いてくるとやはり魚のことが気にかかった。しばらくしてもう一度そっと外に出た。石が落ちたと思われる場所は湿っていた。ふと空を見上げると魚がいた。短い手足が生えていて半分透けて空に浮いていた。
アリガトウ。
魚が言った。
「どうして? 私途中であんたを放したんだよ? あんたを殺したんだよ?」
ウウン。ソンナコト、シテナイヨ、ボクハカエル。ジブンノバショニ。セワヲ、シテクレテ、アリガトウ。ボクハ、キミガ、スキダッタヨ。
そう言って、消えた。
私はもう会えない魚のことを思うと胸が潰れて死ぬかと思った。死んでしまえばいいと思った。私なんか。
ワタシ、ナンカ。
私の中で声が同調した。私のお腹には異変があった。妊娠していた。あの彼の子どもだった。そう言えば魚をからかっている時、魚の頷く仕草、すべてが彼を思わせた。楽しかった。とても楽しかった。愛なんて言葉、仰々しくて私みたいな子には似合わない。でも私は自分のお腹を包むようにして泣いた。私は色んな出来事に興味を持っているのかも知れない。それがたまたま同級生たちとは合わなかっただけで。彼のことも、生きている命というものに対しても。私は私のやりたいようにやれば良かったのだ。私は傷ついていた。それすら気づかずに毎日が退屈だと言い訳をし、死ぬ覚悟も生きる覚悟もできなかった自分。そんな私をこの場所に導いてくれた魚に聞こえないほどの小さな声で「アリガトウ」と言った。お腹の辺りが、ぴくん、と動いた。ゆらゆらと魚はその日から私のお腹の中で泳いでいる。
〈 夏の宵、或いは白い花 〉
一
突然、麟太郎(りんたろう)が糸子の家を訪ねて来たのは夏の暑い日だった。
麟太郎は近所に住んでいて時々こうして遊びに来るのだが午前中に来るなんて初めてで、まだ糸子は障子や壁を拭いている最中だったので慌てた。
「電話くらいくれたらいいのに」
糸子は少し不機嫌な顔を作って言った。麟太郎は少し年上だが昔から馴染みがあるせいか軽口が叩けた。
「ごめん、どうせいるだろうと思ったから」
麟太郎は爽やかに笑いながら、気も使わずに告げた。それは確かだ。糸子はほとんど外に出ない。体が弱くて外の仕事ができずリハビリのように家事をしている。外出は精々食事の買い物に出るくらいだが、それも夕方だった。お陰で肌が真っ白だった。祖父、祖母、父と母と糸子の五人で四十年前に建てたという家に仲良く住んでいる。
「どうせって何ですか」
糸子は見上げるほど背の高い麟太郎の足を軽く蹴る振りをした。
「いいじゃん、たまには。親父さんたちは?」
「旅行でいないのよ。一泊二日の温泉旅行がくじ引きで当たったんです」
「すげえ、糸ちゃんは行かなかったの?」
「誘われても行かないわよ。四人でゆっくりして来てって言いました」
「えらいなあ」
糸子は掃除を途中で切り上げ、麟太郎を居間に招いて冷たい緑茶を淹れて持って来た。
「それで何の用ですか?」
「糸ちゃんって本をいっぱい読むだろ?」
「読みたいんですか?」
「うん。勉強になるかと思ってさ」
麟太郎の父親は日本舞踊の師範で麟太郎自身も名取りだ。将来はそこの流派を襲名する身だった。それなのにいつも糸子に対して不良のような口の利き方をする。
「どんなのを読むんですか?」
「何でも読んでみたい。古ければ古いほどいい」
「いいですよ。でも皺はつけないでね」
「厳しいなあ」
「大事にしてるんです」
糸子は書物を置いてある部屋に案内した。ぎしぎしと音の鳴る階段を上がった先にその部屋はあった。窓がなく小さな裸電球があり、糸子はぱちっとそれをつけた。壁一面に本があった。
「すげえな」
独り言を言いながら麟太郎はじっくり背表紙を眺めて気に入った本を選んだ。選び終えると二人は居間に戻って来た。
「あっちぃ。あの部屋暑いよ」
「仕方ないでしょ、本は日に当てない方がいいんです。それにそれほどあの部屋は暑くならないように温度調節してますから。文句言わないの」
「すげえなあ。でも糸ちゃん家って居間は涼しいんだよな。おれの部屋、暑くていられないよ」
「あ、それで来たんですね」
「いや、だから本も読みたくてさ。ま、それも多少あるけど……」
糸子は吹き出した。しょうがないひと。
「ま、いいですよ。ゆっくりしてってください」
「サンキュ」
麟太郎は縁側で障子に軽く凭れて持ってきた本の一冊をめくった。作務衣姿で姿勢良くあぐらをかいていておまけに坊主頭なのでまるでどこかのお坊さんに見えた。その時、電話が鳴った。
「もしもし」
相手は糸子の学生時代からの友人だった。久し振りだったので次の日会う約束を入れた。電話を切ると麟太郎が糸子を見ていた。
「何ですか」
「彼氏?」
「違います、女友達。明日会うの」
「ふーん……なあ、おれ明日も来ていい?」
「ええ? 誰もいませんよ」
「番人しててやるよ」
「番人?」
「うん。留守番、留守番。糸ちゃんが帰って来たらお帰りって言ってやるよ」
「奥さんみたいですね」
ふたりは笑った。糸子の家は居心地がいいのかと思ったがふと稽古をしていない何もない時に自分の家にいるのは麟太郎にとって落ち着かないのかも知れないと思った。いつも誰かが注意するのではないだろうか。糸子は麟太郎が身を置いている世界の厳しさを思った。
次の日、糸子は待ち合わせた喫茶店に入った。木目の床が涼しい印象の静かな店で糸子のお気に入りの場所だった。糸子が花器に活けられた葉っぱに目をやっていると少し遅れて彼女がやって来た。
「元気だった? 糸子、久し振り」
「久し振りね。元気よ、相変わらず」
彼女はするりと敏捷な動きで椅子に座った。一瞬風圧を感じるほど彼女は華やかだった。
「糸子、相変わらず色白。あたしなんて日焼けしちゃって真っ黒よ」
彼女は腕を見せる。健康的な艶のある皮膚。
「立派にお仕事をしている証拠よ。すごいわ。私、さっきみたいに椅子にさっと座るなんて動作できないもの。とろくて」
彼女は笑う。
「そこが糸子のいいところよ。あたしはきびきびと言うかせかせか。糸子はゆったりゆるゆる。だからあたし達学生時代から友達なんじゃない?」
「そうかもね」
要するに糸子と彼女は性格が逆なのだ。彼女の言葉は優しかった。しかしそれがなぜか糸子の胸を苦しめた。どんなにお互いの環境が違っても彼女は構わないと考えてくれるひとだし考え方を押し付ける訳でもない。それなのに胸の奥には暗い穴がありこのままでいいのだろうか、と考える糸子は目の前の友達を眩しいと思ってしまう。そしてこの日暑さのためか調子を崩してしまったので時間は早かったが彼女に送ってもらい、糸子は家に戻った。友達は気にしないで、またね、と言ってくれた。糸子はたくさん謝った。
がらがらと音を立てて糸子は我が家に戻った。疲れた。靴も脱げずにぼんやりと靴脱ぎに腰掛けた。すると奥からどたばたと足音が近づいてきた。
「お帰り!」
糸子は顔だけひねって後ろを向いて麟太郎の存在を確かめた。
「……そうだ。麟太郎さん、いたんでしたっけ」
「そうだよ、忘れてたのかよ。腹減ってない?」
時計を見た。三時半を過ぎていた。あの喫茶店ではお茶だけを何杯か飲んでいた。
「少しすいたかな……」
「冷麦茹でたから食おう」
「もう、人の家の台所勝手に使って……」
「大丈夫だって。汚してないから」
麟太郎の無邪気な言い方に少し気持ちが楽になった糸子は途端に空腹を覚えた。
「よし、食べる」
「おう、その調子だ」
どの調子よ。糸子は思わず吹き出した。笑ったことで更に気持ちはほぐれ靴をやっと脱いだ。高い踵で疲れた足が不意に軽くなった。
「おいしい」
「だろ?」
氷をざくざくと入れた冷たい冷麦はつるつるとしていて、糸子の喉もお腹もすっきりと潤した。
「糸ちゃん、戻って来てから元気なかったろ? なんかあったのか?」
「暑さで具合が悪くなって途中で帰って来たの」
「え? 大丈夫?」
「はい、今は……ただアグレッシブな友達が眩しくて」
麟太郎はくくっと笑った。
「また、えらく抽象的だな」
その言葉に糸子は少し気分を害した。
「麟太郎さんはいいですよ。将来が決まっているし、前途有望なんですから」
麟太郎は、かたん、と箸を置いた。
「それとどうおれが関係あんの?」
糸子はびくっとして、言い過ぎたと思った。
「ごめんなさい。八つ当たりですね。ただ……毎日仕事に行って自立してる彼女を見てたら落ち込んじゃったんです」
その糸子を麟太郎はじっと見て、考え、優しい声で問いかけた。
「自立って何だと思う?」
「……やっぱり、仕事をして親元を離れて自分で生活できて……」
そこまで言うと糸子は消え入りそうな声で、私は周りに迷惑ばかりかけてる、と呟いた。明るい麟太郎を見ると、先ほどの友達に対するように時折安心と不安が交互にやって来て糸子の心を乱した。
「糸ちゃん」
下を向いた糸子の顔を麟太郎は覗き込むように話しかけた。そして卓袱台をがたがたとどけて正面に座った。
「確かにさ、自分で働いて生活してって立派だと思うよ。でも糸ちゃんはこの家で親御さんたちと仲良く暮らしてる。それは糸ちゃんがきちんと自立してるからだと思うよ。人それぞれだと思うぜ。他人の物差しで計れるものじゃない。おれは糸ちゃんがすごく大人に見える」
不意に糸子の伏せた瞳から涙がぽたん、ぽたんと落ちてゆくのに麟太郎が気づいた
「うわ!おれの言葉なんかで泣くなよ!ごめん!傷つけた? ごめん!」
麟太郎は必死に謝った。違います、と言いたかったが、唇が震えて声にならない。麟太郎は作務衣の袖で糸子の涙を拭った。
「ファンデーションがついちゃいます」
「そんな事したら余計、止まりません」
「麟太郎さんのせいじゃない」
色んな言葉が糸子の口から途切れ途切れに麟太郎に伝わる。
「ありがとう」
糸子の最後のこの言葉だけはっきり麟太郎の耳に届いた。麟太郎の腕が伸びて糸子の体を包んだ。優しく羽のような感触で、麟太郎の体は仄かに白檀の香りがした。風がさわさわと庭の木を鳴らす。終わりかけた石楠花がゆらゆらと揺れる。まだ四時だった。
二
午後の陽射しは昼間とは違うじんわりとした気だるい暑さを感じさせた。
「あっちい」
麟太郎は額に汗をかいていた。糸子は盥に水を汲み、庭に置いて麟太郎を呼んだ。
「ここに足を入れて。涼しいですよ」
「糸ちゃんの涼をとる方法?」
「んー、まあ、そうですね」
ふたりは犬走りに並んで座った。左手でうちわを仰いでいた糸子は左側に座って麟太郎にも風が行くようにした。麟太郎はそんな仕草をさりげなく見ていた。
「今日は何の本を読んでたんですか?」
「谷崎……一郎」
「谷崎潤一郎ね!すてきじゃない」
『潤』と言う字が読めなかったことには一言も触れず糸子は大好きだと言う彼の作品の世界を輝く目で語った。一時間近く本の話に没頭した。そして盥から足を出した麟太郎に手拭いを持ってきた。
「拭いて」
麟太郎は糸子に足を投げ出した。
「図々しいなあ、大きな赤ちゃんね」
そう言いながらも糸子は筋肉の張った沢山稽古を積んでいるであろう逞しい足を丁寧に拭った。ふと、麟太郎の足の指が目に入った。指の先まで男らしいのに爪が小さく可愛らしかった。
「爪、切りましょうか」
麟太郎は少し驚いて糸子の顔を見た。視線を感じていたが糸子は顔を上げずに話を続けた。
「ぎざぎざになってる。きれいに揃えます」
麟太郎の返事も聞かずに糸子は奥に引っ込み、爪切りを持ってきた。
「……やっぱいいよ」
糸子が麟太郎の足に触れた時、初めて麟太郎は拒んだ。しかしそれは恥ずかしさからだ。
「何言ってるんですか。このままで帰ったらお弟子さんに笑われますよ」
そんなにひどくぎざぎざな訳はない。糸子は自分でもなぜそこまでむきになっているのか判らなかった。しかしあそこまで啖呵を切ってしまったので後戻りできなくなってしまった。糸子は覚悟して麟太郎の指先に触れる。親指をつい、と少しだけ持ち上げる。冷たい爪切りが麟太郎の足に触れ、ぱちん、と音がした。その音はふたりの心臓にまで響くようだった。
ぱちん。
ぱちん。
糸子も麟太郎も無言になった。麟太郎は観念したように空を仰ぐ。そして目を戻すと下を向く糸子の頬がほんのり赤く上気していた。右足を終えて左足へ移った。また規則的な音が響く。音に合わせて糸子の髪が風に淡く揺れる。その髪の先が麟太郎の立てた膝にふわりと触れる。恐ろしく静かで息苦しい時間。鳥の羽ばたく音すらも喧騒のようだった。最後の小指の爪を切り終えた。糸子はゆっくりと麟太郎の足から手を離した。ふたりは浅い呼吸をごまかした。
「はい、おしまい」
糸子はぎこちなく微笑んだ。
「うん、サンキュ」
それ以上言葉が出なかった。こんな時どうしたらいいのか誰も教えてくれなかった。学校の授業はなんて役に立たないのだろう。糸子は初めてそう思った。いつも見ていた麟太郎が別人に思えるなんて。その想いは麟太郎も同じだった。膝に感じた糸子の髪の感触が心地良かった。糸子の温かい指が離れた時、寂しく思えた。もっと触れていて欲しかった。そして麟太郎自身も糸子に触れたかった。もっと強く。
「もう少しで、親父さん達戻るな」
「はい」
「おれもそろそろ行くかな」
「そうですよ。お稽古しなくちゃ」
ふたりとも心にもない言葉ばかりが口をついて出る。家を出る麟太郎を玄関まで送り、麟太郎が下駄を履いた時、そのまま引き戸を開けずに黙った。糸子も何も聞く気になれなかった。その麟太郎が振り返り糸子の前に立った。大きく段差のある靴脱ぎで裸足の糸子と下駄を履いた麟太郎の背が並んだ。ふたりは見詰め合ったまま動けないでいた。
「じゃ……」
「はい……」
麟太郎は軽く糸子の腕に触れて玄関を勢いよく開けて出て行った。がらがら、ぱしん。と音がして静けさが残った。その場に残された糸子は一気に全身の力が抜けた。足音が頼りなげだった。いつもの麟太郎なら威勢良く下駄を鳴らして帰るのに。糸子はいつもと違う熱を帯びた体を両手で抱きしめて持て余した。お風呂沸かさなくちゃ。そう思い、風呂場に駆け込んだ。麟太郎は玄関のすり硝子に映る糸子の姿を見ていたが遠くの部屋に戻ったのを確認してから帰途に着いた。
三
六時を回る頃、糸子の祖父母と両親が戻った。
「変わりなかったか?」
「うん。楽しんだ?」
「ああ、いい湯だったよ。糸子ありがとねえ」
祖父母が優しく糸子に礼を言い、お土産の菓子を渡してくれた。夕飯と風呂を終えて団欒していると電話が鳴った。もしもし、と母親が出た。
「ああ、はいはい。元気なの? ええ、いるわよ。ちょっと待ってね」
母は受話器を片手で押さえて糸子を呼んだ。
「糸子、麟太郎くんから」
「はい」
糸子は内心分かっていたように心臓が高鳴っていた。
「もしもし」
「糸ちゃん? 今から出てこれるか? 迎えに行くから」
「今? ええ? どこに?」
「とにかく行く。用意してて」
一方的に電話が切れた。糸子は両親に説明して麟太郎が来るのを待った。麟太郎とは祭りなどにも一緒に行くのでさほど気にはされなかった。ほどなくして麟太郎が、ごめんください、と通る声でやってきた。
「すいません。お嬢さん、お借りします」
「はいはい。気をつけてね」
「ねえ、どこに行くんですか?」
「まあまあ、来てのお楽しみ」
その場所はすぐに着いた。きれいに囲われた温室だった。
「じいちゃんの温室なんだ」
麟太郎は言いながら、きい、と扉を開けて中に入った。外は昼間の暑さとは打って変わって寒いくらいだったが温室は暖かくて居心地が良かった。時間は八時を回っていた。
「ほら、見ろよ。これ」
麟太郎が指を指す方に目をやると、純白の美しい大輪の花があった。
「きれい……何て言う花?」
「月下美人」
「月下美人? 初めて見るわ。こんなに素晴らしいお花なのね」
糸子がため息のような声で見入る。夜にだけ咲き、朝には萎れてしまう儚い命を持つ不思議な花。白過ぎて後ろが透けて見えそうな花びら。けれどもその存在を主張するかのように放つ強い芳香。
「触ってもいいですか?」
「うん」
糸子は月下美人の前にしゃがみ、そっと花びらに触れた。一枚一枚が柔らかくて繻子のような滑らかさだった。
「おれも触っていい?」
「え? もちろん」
糸子はおかしなことを言うと思い笑ったが麟太郎が触れて来たのは花ではなく糸子だった。麟太郎は後ろから糸子を抱きすくめた。糸子は咄嗟の出来事に身を硬くした。
「昼間、こうしたかったんだ。やっと判った」
糸子は何て言っていいのか判らなかったがあの息苦しさの原因が麟太郎と同じ気持ちだと感じた。糸子は麟太郎の方を向いた。麟太郎は糸子の顔を見つめた。
「爪、切ってもらってる時、すごくどきどきした」
「あたしも」
「糸ちゃんも?」
「うん」
麟太郎がそっと糸子の髪に触れた。糸子は躊躇わず髪に触れた麟太郎の手にくちびるを寄せた。
「糸ちゃん、痛かったらいつでも言って。我慢しないで」
「はい」
互いの体を撫で合う。体は既に熱かった。ふたりは温室の中にそっと倒れ込む。麟太郎が触れる糸子の肌は月下美人の花びらのようにしっとりとしていてどこまでも吸い付いて来た。糸子の頬がまたほんのりと赤く染まった。麟太郎は自分の手で糸子の肌を染めたいと心から想う。糸子の存在そのものに触れていたい。糸子もまた、麟太郎にこうして抱きしめられていたいと願う。ふたりのそばで花たちが揺れる。ため息が混じり合う。温室の中が幻想的な色に染まる。夜でも朝でもない異空間を漂った。月下美人が夜明けを告げるまで。
息を弾ませて糸子の上に倒れた麟太郎の視界に白い花びらが舞って来た。そろそろ明け方に近いのか。麟太郎は気だるそうに起き上がって糸子を見た。糸子は衣服を直し同じように起き上がった。
「直さなくてもいいのに」
「何言ってるんですか」
糸子は冗談で麟太郎の頬をぺちん、と叩いて笑った。
「すごくきれいでした。見せてくれてありがとう」
「糸ちゃんの方がきれいだよ」
糸子は思わず言葉を失くす。
「糸ちゃんはあの花に似てる。いつも思ってたんだ。白粉をまぶしたように色が白くてさ。壊れそうなくせに案外潔くて、影があるのにいつも光の薄い膜に包まれているようでさ。おれは糸ちゃんの方がすべてを持っているように感じてたぜ」
「麟太郎さんに言われると嬉しい」
「おれも糸ちゃんに嬉しいって言われると嬉しいな」
「変な日本語」
麟太郎も糸子も笑った。
ふたりは温室を出た。糸子と麟太郎は手を繋いだ。ふたりが互いに欲しいと思っていたものは既に手に入れていた。惑わされない心。それだけ。
それから。
麟太郎は大きな公演が決まり、忙しく稽古に励んだ。公演への重圧感を跳ね除けようとする麟太郎の姿を糸子はただ見守った。小さな言葉が気にかかったら麟太郎が見せてくれた月下美人の花を思い出すようにしていた。夜には新しく命が咲くように糸子も昨日よりも今を見る。
〈 始めるために 〉
お題 「祭りの翌日」「タクシーで」「浴衣の女性が」一
祭りはとっくに終わっていた。
時計を見ると十二時を過ぎ日付も変わってしまった。やはり恋人は来なかった。僕はため息をついて会場を離れた。もう先ほどの熱気も人気(ひとけ)もなかった。うろうろしていても怪しまれるだけだしとっとと帰ろう。僕は目の前を走っていたタクシーに手を上げた。タクシーが止まる。ドアが開き、乗り込もうとして一瞬、躊躇した。
運転手は女性で、浴衣を着ていたのだ。
「いらっしゃい」
「……珍しいですね。浴衣姿の運転手さんは」
「祭だったから特別。今日は気に入った客しか乗せないの」
「僕は気に入った訳ですか」
「そうね」
彼女は敬語も使わずさばさばしていて気楽だった。僕はもう少し彼女と話したくなった。彼女もそんな気分だったらしく振り返って言う。
「お客さん、良かったらちょっとドライブに付き合ってくれない? その分のお金は貰わないから」
僕は最初、訝しく思ったが理由を尋ねてみた。
「何となく夜の海が見たくなったのよ」
「夜の海ですか」
僕も『何となく』行きたくなった。きっと感情的に仕事を抜け出したくなるようなことがあったのだろう。
「行きましょうか」
「本当? ありがと。好きにしててね。煙草も吸ったっていいわよ」
「吸わないので平気ですよ」
「楽にしててね」
彼女は自動販売機の前で一端降り、飲み物をふたつ買って来てひとつを僕に渡してくれた。車を走らせた。窓から入る夜風は爽やかに車内を循環していた。しばらくすると海風の匂いが漂った。
僕達はタクシーから降りて暗い海を眺めた。
「ごめんね。あたしのサボりにお客さんまで連れ出しちゃって」
「いいえ。僕も今日は遠出でもしたかったんです」
「そうなの?」
「僕は賭けをしていたんですよ」
「賭け?」
「そう……恋人と祭の会場で待ち合わせをして十二時までに来てくれたらプロポーズしようとしていた。けれど彼女は来なかった。僕はもうすぐ外国へ発つんです。彼女が来てくれたら一緒に連れて行くつもりだった」
僕は何故か洗いざらい喋ってしまった。
「辛いね」
彼女は呟いた。
「あたしはね、今日が彼の命日なの」
僕は思わず彼女を見た。
「去年の今日、彼が事故で死んだ。祭に行こうねって言ったまんま。あたしも待ってた、会場で。携帯電話に彼の母親から連絡が入ってそれで彼が二度とこの場所に来ないことを知ったの」
謝るのも慰めるのも陳腐に思えて言葉が出なかった。
「ごめんね。こんな話をして。比べてる訳じゃないよ、愛する人を失うのはこの世にいてもあの世にいても同じように心が涙ぐむよ。お客さんが今そんな気持ちだから波長が合ったのかもね」
心が涙ぐむ、という彼女の言葉を僕は心の中で反芻した。彼女は僕の顔を覗き込み、唐突に僕の頬に触れた。驚いたがどうやら僕は泣いていたようだった。彼女と僕はしばらく静かに波の音を聞いていた。
帰り道、彼女は、お客さんはこれから外国に行くのかあ、と言ったので、君はこれからどうするの? と反射的に聞いた。家に帰ってシャワー浴びて寝る。生活は続いていくから、と言った。結局彼女は金額メーターを押していなくて本来の代金も受け取らなかった。『ずる』したのばれちゃうから、と笑って。明日からはひとりの生活が待っている。けれど夜明けのさっぱりとした風が先程の彼女を思わせ、人生を悔やまずに生きていけそうに思えた。
〈 夏の夜の御伽噺 〉
「祭りの翌日」「タクシーで」「浴衣の女性が」二
刑期を終えて私は刑務所を後にした。
親類縁者のいない私には刑期中に差し入れや着替えなどなく、刑務所に入った時そのままの格好で出所することになった。あの時の服装、浴衣で。私は八月の夏の日、あなたを殺した。あの日、片田舎の旅館に一部屋取り、女将も仲居も席を外したらもう私たちは互いに触れずにはいられないほど欲情が剥き出しになった。
私とあなたの出会いは場末の小さなダンスホール。私は踊り子。あなたはお客様。髭の剃り方も慣れていないようなとても若い男はこの店には珍しかった。それでも周りを反射するほど蒼白い顔と人を射抜くような眼差しは迫力があり、店主もこの素性のわからない男を軽々しく扱えなかった。結局の所、金さえ払えば良いお客様なのだ。あなたは色気を帯びた匂いにさほど興味がないようで高そうな洋酒を慣れた手つきでただ口に運んでは冷たい目で踊り子達を見ていた。舞台を降り、楽屋に戻った女の子は言う。あのお客さん、きれいなお顔をしているけれど何だか怖いわ、次から次へと戻った女の子も口を揃える。不気味だわ、なぜあんな目であたしたちを見るのかしら、軽蔑でもなくいやらしく見るでもなく、一体何なの。あまりにもあなたに関するひそひそ話は悪いものだった。私は自分の出番が不安になった。
しかし遂に私のための音楽が鳴った。少し下品な音楽だと思うが仕方がない。ここに品を求めること自体が間違っている。私は不安を断ち切り、顔を上げ、思い切って舞台へと軽やかに登場した。私は踊り子の中で笑顔があまりない女として皮肉な評判を持っていた。けれど踊りは素晴らしいと称えられた。内心、踊りなんて大して見ていない助平親父のくせにと私は特定のお客を秘かに見下していた。あなたは目立たない席にいた。それなのにスポットライトでも当たっているかのようにその場の空気を支配しているかのように見えた。ああ、これなら、と私は即座に思う。女の子たちが萎縮してしまうのは当然だわ。だってその辺の女の子なんかよりずっと綺麗で背筋もすらりとしている。ほんの少しばかり女の色気を見せたところでこの人には付け焼刃に見えてしまうだろう。多分欲望の基準が所謂普通とは違うのだと思った。私は決心していつもどおり笑顔も作らないまま踊りに集中した。踊り切った時、会場は拍手に包まれた。下品な指笛や脱がないのか、と囃し立てる声もあったが私は、つんと澄まして舞台袖に戻った。その途中あなたと目が合った。あなたは涼しく微笑んでいた。私は安堵のあまり汗が噴き出し、その場に倒れるかと思った。何て冷たくて美しい微笑み。硝子のよう。舞台袖では女の子たちが集まってきて私に聞く。
「ねえねえ!あの人どうだった? 拍手はもらえた? 」
我に返り、そこそこ満足はしてもらえたと思うわ、と一応答えた。本当はそんなことどうでも良かった。あなたが知りたくてその蒼白い肌に触れたくて堪らなかった。男の欲望を充たすこの場所で私は自分の欲望をあなたで充たしたくなったのだ。同時にあなたの内なる欲望も充たしたくなったのだ。
閉店の時間になるとボーイたちは容赦なく飲みつぶれたお客からお金を無理矢理いただいて、そのまま外に放り出す。これも彼らの仕事。時折高価な時計や眼鏡の鎖などを失敬しているボーイもいたようだが、なあにお駄賃だよ、と言い、店主も気にしない。あなたは他のお客がすべて店から出て入り口が静かになった所で席を立った。あなたが飲んだのは洋酒をグラスに数杯だけだったがそれ以上の金額を払った。店主は目を見張り、一応拒んでみたもののすぐに礼を言って受け取った。私はその時舞台袖のベルベットのカーテンからあなたを見ていた。あなたも私を見た。ぬめりとした蛇のような流し目だった。
「ねえ、きみ」
あなたは私に話しかけた。
「素敵なダンスだったね。思わず見惚れてしまいました。良かったらこのあと食事でもいかがですか」
本来なら店外で会う事は禁止だったが、何せ金払いが良いので店主は勧めた。けれどおかしな場所に連れ込まれそうになったら絶対に逃げろよ、と囁いた。思わず鼻で嗤う。この店も充分おかしな場所じゃないの。とにかく願ったり叶ったり。私はあなたに手を引かれ、店を後にした。
洋食屋に連れて行ってもらい、使い慣れないフォークとナイフの使い方を優しく教えてもらった。その教え方に人を見下す態度はまったくなかった。食後軽くお酒を飲んだ。小さなグラスに入った甘くておいしいお酒。私は思わず微笑んだ。
「ああ、ようやく笑ってくれたね。素敵な笑顔だ。きみのダンスに笑顔は必要なかったけれど激しく普段の笑った顔が見たくなったんだ」
「そんな……私は普通の女です。泣きもすれば笑いもします」
「不躾に失礼。けれどどこで笑うか、それは自分に掟があるでしょう」
あなたは言う。的確な指摘だと思った。
「そうね。そしてそれはあなたも……」
「どうやら僕ときみは気が合うようだね。それもとても深く……」
私達は見詰め合った。ああ、共犯者を見つけたわ、そう感じて幸せになった。あなたと私はテーブルの下でそっと指を重ねた。美しいものが好きだとあなたは言う。そしてそれは個人的な感覚で思う美であって一般的な物ではないということを強調した。私もどこかで知っていたような気がする。例えばあなたを初めて見た時、蛇のような目だと思ったけれど私にとって蛇の目は艶かしくてぞくりとするほど美しいと思う。何も映していないような、反対にすべてを見つめられ、絡め取られてしまうようなあの目が。驚いた、僕もそう思っていたよ。特に踊るきみの目。可愛らしい子供の蛇のようだった。すぐにおいしい餌をあげたくなった。おっと失礼な言い方だね。その、つまりきみを僕のものにしてしまいたくなったんだ。ああ、私も。何か言葉にできないような欲望が体を渦巻く。そう、巻かれたようだった。これはなに?
「違う場所に行こう。誰にも咎められない場所に。そして僕ときみの世界観で愛し合いませんか」
すごい台詞だ。けれど率直で好ましいとも同時に思う。
「……ひとつだけいいかしら」
「どうぞ」
「あなたの頬に触れてもいい?」
「ああ、そんなこと。どうぞ、いいよ」
そうしてあなたは少し私に顔を突き出した。私はそっと頬に触れた。ひんやりとした水分を充分に含んだ肌だった。頬から口角へと私の指は進み止まらない。あなたはその口角を少し上げて私の手を掴むと移動させて私の指をあなたの口の中へと導いた。温かい。私の体の中心が熱く濡れていくのがわかった。ああ、恥ずかしい。私の頬はあなたとは反対に火照ってくる。あなたにはもちろんばれていた。私の指はあなたの舌に舐め取られ、まるで溶けてなくなるように感じた。私たち、こんな所にいる場合じゃない。
そこは私の働く店のお客など絶対に来ないような田舎町の、だけれど鼻の利く人間でなければ見つけられないような旅館だった。お茶を淹れ、ほんの少し旅の疲れを癒しながら私とあなたはごく軽く自らの境遇を語った。私たちの行き着く先はもう決まっていた。私とあなたの美的感覚がどれほど溢れても受け入れてくれる場所に向かうこと。遠慮するものは何ひとつない。私とあなたは互いの着ているものを脱がし、どんなに愛しても足りないほどに深く、二匹の蛇のようにうねうねと絡まり合った。
「首を……首を絞めて。きみの手で僕の体を切り刻んで」
「ああ、あなたもよ。私を置き去りになんてしないでね」
「もちろんさ。さあ、緩やかでいいよ。その後に僕がきみの首を絞めるから」
私は微笑んであなたの首を絞めた。そして果物を切る小さなナイフを私に持たせた。私はあなたの胸元をさっと切りつけ、流れる血を舐めた。あなたは悦びに呻き、蛇のような目がせつなく潤んだ。さあ、次はきみの番だ。あなたは私の首に手を伸ばした。それなのに。傷は思ったよりも深く、私の浴衣も、畳の上も、あなたの血が広がっていき、あなたの手からは力が抜け目がガラスのように澄んだまま動かなくなってしまった。ああ、あなただけ逝かせるつもりじゃなかったのに旅館の人間が偶然入って来て警察に通報してしまったのだ。こうしてせっかく出会えた私とあなたはまた離ればなれになってしまった。
だから私は急いだ。街の中は祭りの翌日だったらしくあちこちに喧騒の後がゴミになって落ちていた。人のいない街並を私は下駄でからころと走った。暇そうなタクシーを見つけ、さっき道で拾った鋭利なゴミで運転手を脅して閉め出し、タクシーの運転席に乗り込み、海へ急いだ。
海には誰もいなかった。私は迷うことなく下駄を脱ぎ捨てて海の中に入っていった。頭まで水に浸かった時、懐かしいあなたが底の方で笑っているのを見つけた。私がナイフで切った跡があなたの胸元についていた。懐かしさに胸が一杯になる。なんて美しい傷なのかしら。あなたは私に手を伸ばして海の底へと導いた。その時、何かが私の浴衣を引っ張り、浴衣がするりと脱げてしまった。
「ねえ、私の足を色んな人が掴んでいるわ。失礼じゃない?」
あなたは、ああ、と納得して彼らに話しかけた。
「ごめん。彼女はぼくの大切なひとだから他をあたってくれ」
私の足を掴んでいた手は残念そうに消えて行った。お盆だから色んなヒトが集まる。私は新ためてあなたを抱いて懐かしいくちづけを交わした。
「会いたかったわ。早くあなたと一緒になりたい」
私は水の中で懇願する。
「そうだね。ゆっくり愛し合いたいよ、とても待ったから」
そう言ってあなたは微笑んだ。ああ、やっとふたりきりになれる。そして何年か前のように今度はあなたが私の首を絞める。間に合って良かった。明日には地獄の蓋が閉まってしまうもの。
〈 揺れる 〉
その女は四月の終わりから、小さな水族館に通っていた。
艶やかな長い髪が緩くうねり美しくて目を引いた。よく来るので館内の人間は女を憶えてしまった。きっと誰かに気があるんだ、と皆口々に噂をしては期待していた。その中でも特別に女に強く惹かれている従業員の男がいた。
女が閉館直前の鮫の水槽の前で涙を流していたのを見たのだ。そしてまた女がやって来た。従業員はまた女の涙を見てしまった。はっとして逃げようとする女の腕を思わず男は掴んだ。
「どうして君はいつも泣いてるの?」
「私の願いが叶えられないから……」
「ね、願いって?」
おずおずと従業員は聞く。
「叶えてくれる?」
「僕にできることなら……」
「ありがとう!じゃあ真夜中にここに来ていい?」
女の瞳は潤んでいて従業員はつい反射的に頷いてしまった。しかし女が頬を紅潮させて喜んだので絶対に叶えてあげたいと思った。約束は明日。五月九日。
当日、女は従業員を鮫のいる水槽に急かした。
女の着ている服は生地がとても薄く、体の線がはっきり見えて中に何も着ていないのが一目でわかり、従業員は落ち着かなかった。鮫の水槽の前に来た。女の目が妖しく輝いた。誘惑の目だった。女は服を肩から落として全裸になった。従業員は息を飲む。
「すぐ終わるわ。待っていて」
素早くそう言ったかと思うと女は鮫のいる水槽に素早く飛び込んだ。従業員は叫び声を上げ、水槽を叩いた。その拍子に懐中電灯を落として割ってしまった。
水槽には月の光が差し込み、仄明るく、すいすいと水槽の下部に潜ってゆく女の姿が見え隠れした。ゆらゆらと蠢き、この世のものではないような圧倒的な美しさをこちらに放っていた。気づくと女の姿は上半身が人間で下半身が魚の姿だった。鮫の姿も上半身が人間になっていた。ふたつの生き物は水の中で戯れ、交尾を始めた。女の長い髪が水に揺らぎ、鮫は美しい男になり、女を抱きしめていた。従業員は水槽から女を救うと思っていたことすら忘れ、魅入っていた。
事が終わると、女は男から体を離し浮上した。女は水槽から水を滴らせながら出てきた。従業員は呆然として言葉を発することもできずにいた。女は笑う。
「私達は満月の時だけ人魚に戻れるの。彼は恋人。淋しかったわ。あなたたちがこんな所に彼を閉じ込めてしまったから……」
従業員は今見た光景が信じられなかった。女は濡れた体のまま服を纏い、名残り惜しそうに水槽を撫でた。鮫は女の手の動きをなぞるように泳いだ。女と従業員は一緒に外に出た。
「ありがとう。一生忘れない。もう来ないわ」
女はそう言って立ち去った。従業員は棒立ちになって見送った。下心に浮かれていたことなど忘れてしまっていた。
次の満月である六月九日。従業員は水族館の側で女に似た妊婦を見かけた。臨月のように大きなお腹の女は従業員に気づいた。もうすぐ彼の子を産むのよ、と鮫のいる水槽に目で合図した。従業員は熱さと眩暈を感じ、その場に崩れた。
〈すべてを貴方に〉
僕の顔も、体も、もしかしたら貴方のために存在しているのかも知れない。
目覚めると同時に目覚まし時計が鳴った。
随分哲学的な夢を見たものだと僕は思いながら仕事に行くための朝の支度を始めた。三十六歳独身。一人暮らし。夢の言葉のようにそんな存在がいるとしたらなるべく早めに出会わせて欲しい、と洗面所で髭を剃りながら思う。結婚したい訳じゃない。けれど夢の言葉のように一生を捧げるような「貴方」のためだけに生きるのもまた人生だろうと思う。服を着替える。あれこれと頭の中で今日のスケジュールを考える。もう慣れっこになっていた。この現実の中にいる限り、夢は夢でしかない。今日は残業がない。人格のためではない事に頭を使う怠惰な生活だ。
早めに退社しようとしたのに上司に捕まってしまった。いつものように断ろうとしたがなぜかうまい言い訳が思いつかず、結局普段行きもしない騒々しいスナックなんぞに連れて行かれた。次から次へと演歌ばかり流れる。人の湿気が流れ出しそうな場所。上司と僕と同じように断りきれなかった同僚数人はうんざりしながら二軒目のはしごを付き合わされていた。やけになり演歌とは全く違う最近の曲をわざとカラオケで熱唱する同僚もいた。自分を無駄遣いしている、と気の毒に思う。
ふと、カウンターに目が行った。
そこにひとりで座る女性の後ろ姿を見つけた。店の人間ではないようだ。遠目から見ても可憐な佇まい。上司を中心に大きな声でバカ騒ぎをしている店の中で彼女の周りだけが静寂の膜に包まれているように映った。栗色のまっすぐな髪をひとつに束ね、白いシャツ、反るほどに伸びた背筋。彼女がなぜその場にいるのか判らなかった。僕はちらちらと彼女を見ていた。すると酔っ払った上司が僕の視線の先の彼女に気づき、どかどかと歩いて行って馴れ馴れしく彼女の肩に手をかけ、一緒に飲もうと誘った。ああ、何て事を。内心僕は上司を殴り飛ばしたくなった。ただ見ていたかったのに。彼女が店を出てしまう。しかし断ると思った彼女は人形のように首を傾げて、こくりと頷いた。
彼女はこちらに歩いてきて僕の隣に座った。驚いた僕は頭を掻いて素知らぬ振りをしつつ、内心舞い上がっていた。彼女は既にグラスを持っていた。何飲んでるの? と、何とか動揺を隠して出たのはそんなつまらない問いかけだった。カシスソーダよ、そう言って細い首を少しだけ上に向け、グラスを口に運んだ。彼女の赤い唇が飲み物の赤い色と同調し、見惚れるほどにきれいだった。更に赤い紐のネックレスが見えた。そういう物に詳しくない僕には釣り糸にしか見えない細い紐だったが。ただ、ぬるぬるした艶があり暗い場所で放つその色は白い首に絡まっているというだけで官能的に見えた。今朝の夢を思い出す。
僕の顔も、体も、もしかしたら貴方のために……。
軽く頭を振って思考をかき消した。
僕はどうか彼女が読心術なんて能力を持っていない人であるようにと必死に祈った。赤い紐の先を視線で辿ると小さなダイアモンドのようなものが輝いていた。飲み物が喉を落ちて行くたびにネックレスも動く。きれいだね、そのネックレス、ダイアモンド? とりあえず口にしてみる。ううん、水晶。会話はすぐに終わった。しかし僕が話しかけた瞬時にこちらを向いた時の前髪の繊細な揺れ。潤んだ赤い唇にどきどきした。話そうとした言葉も止まってしまうほど。こんなふうに所謂社会性なんてものは時折、圧倒的な美に対して何の役にも立たない。せっかく横に座ってくれた彼女に何でもいいから思いつく言葉を口にして会話を途切れさせないようにしたかった。退屈させたくなかった。仮に退屈しても彼女は気遣って楽しむ振りをしそうだと思ったのだ。何と言うのか、穢れた事を知らない女の子に見える。しかし矛盾しているが彼女が本当に穢れた事を知らないのか、内心確認したいような気持ちもあった。彼女は上手に酔い、上司がもっと酔ってうるさくなる前に席を外した。その場は何事もなかったかのようだった。あれほどきれいなのにするりと輪に入り、するりと出て行った。同僚は酔っ払って彼女に気づきもしなかった。誰も後を追わないなんて。僕は名残惜しくて連絡先も聞かなかったのを悔やんだ。彼女が店を出て窓に映る後ろ姿を見送った。見えなくなるまで。顔を正面に戻した時、首の後ろ側がちくちくした。手で確認するとちょうど襟首のタグがついた辺り、そこに小さな紙が挟まれていた。慌てて見ると彼女が入れたのであろう折り畳まれた紙がつけてあった。僕はすぐにトイレに立った振りをしてひとりきりになって紙を開いてみた。電話番号が書かれていた。気づかなかった。きっと彼女には僕がかなり隙のある人物に映った事だろう。けれど嬉しくて顔が綻んだ。
ほとんど朝になってからその店を出ると朝日が眩しく僕の顔を直撃し、徹夜で飲んでいた罰を浴びせられるように頭痛が起きた。ああ、もっと早く抜け出したかった。何とかこめかみを押さえてタクシーを拾い、部屋に戻った。時計を見ると十時半。僕は酔った勢いで電話をかけてしまおうと思った。正気に返るのが怖かった。丁寧に番号を確認しながら電話をかけると二回目のコールで「はい」と女の声がした。
「ええと、もしもし」
「あなたね」
「僕です」
「ありがと。随分早くかけてくれたのね」
思わず言葉に詰まる。まさかたった今まで飲んでいたとは言えなかった。
「あの、どうして僕に電話番号を教えたの?」
彼女は受話器を通して吐息のように口の先で笑ったようだった。
「もちろん、気に入ったからじゃない」
「僕を?」
「そうよ」
僕は腰掛けていたベッドから首を伸ばして近くの鏡に自分の顔を映した。顔は真っ赤で汗ばんでいる。髪も乱れ、ネクタイも緩めすぎてよれよれだった。シャツなどはだらしなくズボンからはみ出している。こんな普通以下みたいな男になぜ。
「とにかく、気に入ったのよ」
僕の長い沈黙を破って彼女が繰り返して言った。
「あなたは? わたしをどう思って見ていたの?」
「ええと……きれいな人だと思った。あの店にどうして君みたいな人がいるのか不思議だった」
「ああいう感じのお店、初めて入ったの」
「やっぱり」
「男と別れたから」
「え?」
「そのために演出したの。思い切り貧乏臭いわたしを見せて、幻滅させようとして」
あの大音量の演歌。途切れる事のない笑い声。喋る声も聞こえやしない場所で、もしもその彼女の恋人だった男とやらが彼女と同じ雰囲気を持つ人物ならばそれは嫌がるだろう。
「成功したの?」
「ええ」
「偶然、僕達の宴会に出くわした訳か、うるさかっただろう」
「結果が良かったからいいの。それにあなたがいたから……」
汗が噴き出した。まさかそんな言葉を言ってもらえるなんて。実は僕は夢の中にいるのではないだろうか。
「ところで」
「う、うん」
「もう一度会わない?」
とてつもなく嬉しい。しかしふと躊躇した。なぜなら僕にも一応、恋人らしき女がいるからだ。あくまでも、らしき女、で決まっている訳じゃない。けれどそんな中途半端な状態のまま彼女と会うのは人として何か礼儀に欠いているような気がしたのだ。そのくらい下心のある目で彼女を見ていたから。
「なぜ返事をしないの?嫌なの?」
「いや、あの」
「恋人がいるのね」
彼女は僕の考えなんか明らかにお見通しだった。
そこで彼女が持ち出した言葉は「契約」だった。あまりにも意外だったがそういうことか。失望しなかったと言えば嘘になる。
「お仕事だと思って会いましょう。一晩あなたをちょうだい。わたしも一晩あげるわ」
うまい言葉だ。慣れているのか知りたくなかった。だが皮肉な事に相手が手馴れていると判った事で気持ちが楽になった。その後、彼女は僕の都合を聞き、日にちと時間を決め、最後になってから名乗り合った。彼女は折本芹子と言う名前だった。
「おりもと、せりこさん」
僕は口に出して名前を呼んでみた。
「呼び捨てで構わないわよ。あなたの方が年上でしょう?」
「三十六歳です」
「わたしは先月三月に二十一歳になったばかり」
「若いね……でも何となく芹子さんという雰囲気だなあ」
「好きに呼んでいいのよ」
よく似合う、と口にした。彼女は、ありがとう、わたしも気に入ってるの。と言った。
当日、気温は低くなかったが、あいにくの雨だった。待ち合わせたカフェには既に折本芹子がいた。本を読んでいた。遠くからでも見つけられる独特の静寂の膜がやはり彼女を囲っていた。派手ではないのにどうしても僕にとって彼女は目が吸い寄せられる存在だった。芹子は生地のしっかりしたトレンチコートを着て、姿勢正しく艶やかな栗色の髪と対照的な赤い唇でその場に佇んでいてこの上なく雨の降る情景が似合った。芹子の顔が僕を捉えた。本を閉じ、軽く微笑んで僕に会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは。ええと、どうしようか」
「ホテルをとってあるの、雨だし、行きましょう」
出会っていきなりホテル?早すぎないか?僕は訝しく思った。まさかホテルに入った途端、強面の男がいて僕は身ぐるみを剥がされ暴力を受けるのでは、と思った。すると芹子は吹き出すように笑い、わたし以外誰もいないわ、と言った。どうやら僕は考えた事がすべて顔に出てしまうらしい。そんな彼女をちらりと見ると消えそうな細い線の横顔をしていて、つんとした鼻の先は気が強そうで、そんな素晴らしい顔を見ると、おかしな憶測は吹き飛ぶ。やはり穢れを知らない女の子に見えてしまう。
着いたホテルは立派な建物で、もちろんラブホテルではなかった。部屋は暖かい色調で広く優しい雰囲気だった。芹子は持っていたバッグをソファーに置き、トレンチコートを脱いだ。次いで照明をつけ、レースのカーテンを引いて外の景色を隠した。
「喉が渇いた……。何か飲みましょうか」
「そうだね、何を飲む?」
ミニバーを開けて彼女の希望を聞き、缶ビールを二つ取り出し、ひとつを彼女に渡した。僕達は一応乾杯をしてビールを口にした。強い炭酸が心地良く体内に広がり、雨で冷えた体はすぐに暖まった。この時ほどアルコールの魔力を感じずにはいられない。芹子に対する僅かな猜疑心や身構えた気持ちは瞬時に立ち消えた。そういえば芹子は今日も赤い紐のネックレスをしていた。
「そのネックレス、この間もつけてたよね」
「あら、よく憶えてるわね。安物なんだけど可愛くてお気に入りなの。実は水晶の方を適当につけたのよ」
「へえ、自作なんだ。すごいね」
「紐に通しただけよ」
アクセサリーの話を嬉しそうにする彼女を可愛いと思った。おまけにこちらまでつられてしまいそうな朗らかな笑顔も向けるのだから。しかしそんな他愛無い話もそこそこに、芹子はとても自然にシャツのボタンを外し始めたので慌てた。いくら契約と言ったからって。
「ちょっと待ってくれ」
「どうして? あなたもそのつもりで来たのでしょう」
言葉に詰まった。確かに遅かれ早かれ、僕は不埒な事を考えてはいた。
「時間はすぐに経ってしまうわ。だったら早い方がいい」
そう言いながら芹子は脱いだシャツをするりと肩から落とし、下着姿になった。ただ固まって目が離せなくなっている僕の手からそっとビールを取り上げるとサイドテーブルに置き、僕の首に細い腕を絡ませてきた。彼女のひんやりとした指に身震いした。好意を抱いている女にそんなふうに誘われて黙っていられる筈がない。僕は芹子の背中に手を這わせた。冷たかったのでさするように手を動かした。甘やかな吐息が頬にかかる。外はまだ明るいがカーテンに隠れて何も見えない。
繊細に事を始めたはずだった。けれど一度唇を触れ合わせると、まるで奪い合うかのような愛撫になっていった。先にキスを多くした方が勝ちだとでも言わんばかりに。それでもか細い声を耳元に感じ、芹子の中に溺れて行った。白い乳房に唇が届くと芹子は声を殺しながら僕の頭を抱き寄せた。わずかな照明で浮かび上がる芹子の乱れた表情が絵画のようでせつない。どうしてこんなにきれいな女が出会って間もない男と寝ているのだろう。そう思いながらもその相手が自分なのだという優越感もあり、どうしようもなく愛しくなる。数日前まで互いに知らなかった人間なのに懐かしい。淫らさと子供同士のような純真さが混じり合う不思議な感覚で僕達は揺れていたが、背中に回された小さな手で思わず恋人らしき女を思い出した。僕の心の温度が急変したのを敏感に察知した芹子は鋭い眼光を向けた。
「いい? 今日だけなのよ」
そう言って芹子は少し乱暴に僕を押さえつけ、上に乗った。さらりと芹子の髪が僕の顔にかかる。芹子はそのまま下に手をずらしていき、僕のペニスを撫で回した。恋人らしき女の顔が浮かんだとき僕は少しばかり萎えてしまったのだ。しかし芹子の愛撫のおかげですぐにふたりの世界へと戻った。芹子は僕のペニスをキャンディのように舐めた。赤い唇からちろちろと見え隠れする舌。可愛い。僕は我慢できずに射精した。そうして一度きりの逢瀬を思いながら僕達は繰り返し抱き合った。
何度目かのセックスのあと、ようやく僕達はベッドに体を沈めた。息が荒かったが微笑みあった。戦友のようだった。芹子の髪を手で梳いた。艶やかな栗色の髪。桃色に染まった頬。彼女はいにしえのような美しさを持っていた。
「ありがとう。あなたに抱かれたかったの。あの店で見た時から」
「どうしてこんな普通のやつに目がいったの?」
「あなたはあまり自覚がないようだけど素敵よ。大きな二重で優しい目をしてる。笑ったら顔もとても可愛らしくてハンサム」
さすがにそこまで言われると照れたが、芹子は俯いて少し言葉を考えてから続けた。
「……それから、父親に似ているの」
「え?」
「もちろんそれだけじゃないけれど。ただ私ね、父親をずっと女として見ていたの」
突然の告白に僕は戸惑った。けれど芹子は、ふふ、と微笑みながら話すので黙って話を促した。
「だけど無理でしょう、血の繋がった娘だもの。でも母親が死んだのよ、事故で。この機会を逃せなかった。だから四十九日を終えてから誘ったの。裸になってお酒で酔わせて。父は抱いてくれたわ。なのに次の日、自殺してしまったの……。想いを遂げたいだけのわたしがそこまで父を追い詰めてしまったことを悔やんだわ……」
痛ましい。残酷な話だと思った。彼女も父親も母親も。いつの間にか僕は聞き入っていた。そして創世記で語られたロトと二人の娘の話を思い出していた。神に焼き尽くされた町でロトという名の父親と娘二人だけが生き延び、山に逃げたという話を。町はなくなり、戻る場所もなく、そこにはもう男は来ない。考えた若い姉妹は父を酔わせて子種を貰う為に近親相姦を行なった。そんな古い話。ロトはその後、一体どんな想いに陥ったのだろう。娘と関係を持ってしまったことを。
芹子の形相が変わった。手が震えていた。
「お葬式では泣いたけど、憎かった……」
「……憎かった?」
「あれほど生前わたしを拒み続けて結局命を絶ったくせに死んだら急に態度が変わったの。わたしの上に夜な夜な乗るようになったのよ。嫌気がさしたわ、汚らわしくてもう愛せなかった。父は上質な物を好む人だった。いつもそのセンスと博学さに感心しながらほれぼれと話を聞いていたものよ。なのに酷い裏切りだわ。だからあの薄汚い下品な店に入ったの。父はずっとわたしの横にいて店の雰囲気を我慢していたけれど耐えられなかったみたいでわたしの側を離れた。その浮遊する父をずっと目で追っていたら、父にそっくりなあなたがいた。わたしはあなたの体の中に入って行く父をじっと見ていた……」
「もういい!やめろ!」
僕はサイドテーブルを拳で叩き、芹子の話を途中で遮った。とんでもない女と出会ってしまった。僕は急いで脱ぎ捨てた服を探した、が見当たらない。
「どこに隠した?」
「さあ」
「言えよ、じゃないと殴ってでも言わせる」
「できないわよ、父があなたを止めてる……」
「うるさい!もうその話はやめろ。服を出せ」
僕は芹子の顎を掴み、無理矢理こちらを向かせた。芹子はまた口先で笑って「契約終了」と言った。一瞬何のことか判らなかった。
「おバカさんね。嘘に決まってるでしょう。今日が何日か判ってる?」
感情的になっていたが、芹子に言われて気がついた。今日は四月一日だ。思わず膝から崩れそうになった。そして、ないと思っていたはずの服は普通にベッドの奥に丸まっていた。ただ焦って見つけられなかったのだ。すべてが気のせいだった。
「ごめんなさいね、騙して。わたしこれでも一応女優なのよ。今度演じる役がそんな女なの。あなたを選んだのは本当に気に入ったからよ、楽しかったわ」
僕は大きくため息をついた。
「お子様は観られない物語か」
「そう」
「素晴らしい演技だったよ。本当だ。僕は簡単に君の演技の虜になった」
「ありがとう」
昼前にホテルに入って、ずっとセックスに没頭して。終いにはこんな恐ろしい嘘までつかれて。僕は本気で自分を情けなく思った。女優ならきれいで当然だ。
気持ちが落ち着いた頃、僕は先ほど思い出した創世記の話をした。口にすると恥ずかしかったけれど芹子はじっと聞いてくれた。
「あなたはこの物語をどう考えてる?」
「うーん……難しいな。この物語は娘達がやたらと積極的だからなあ、時代背景もあるんだろうけどどこか信用し難いものがあるかな。でももしも……さっきの君の嘘の話じゃないけど娘を女ではなく自分の子供として考えていた場合ロトは自分の不甲斐なさに死にたくなるほど後悔すると思うな」
「やっぱりあなたは優しいわ……」
哀しみに純度という言葉を当て嵌められるのかは判らないけれど、もしもそんな表現があるのなら芹子は哀しみそのものだった。芹子は透けてしまうほど純粋な哀しい眼差しを僕に向けた。そんな表情を見てしまうとあんなに動揺したあとだが、やはりどうしても僕は芹子を愛しく思う。恋人のような存在がいるくせに抱いてしまった無責任な僕がどうにかできるなんて思わない。けれどもう自分を安売りするのはやめて欲しい。そう思った時、日が暮れていた事に気づき、芹子はホテルを出る支度をした。
「君の出演作はいつ見られるの?」
「教えない。告知するようになれば自然にわかるわ」
「きれいな女は意地が悪いな」
「そうよ、元々そう。わたしは意地悪よ。あなたが気づかなかっただけ」
「君から見たら僕なんか普通の人間に輪をかけたような鈍感野郎に映っているだろう」
僕は少し自虐的に笑った。芹子は何か言いたげな眼差しを僕に向けた。
「わたしは……」
僕は目で先を促した。
「わたしは……あなたがとても好き。年上の人に失礼な言い方だけどまっすぐで素直で。あなたに抱かれた時、最初はいつもの攻撃的な態度の癖が出てしまったけれどそのうちそんなに強がらなくてもいいんだって思えた。あなたは随分わたしを賞賛してくれたけれどそれはわたしも同じよ。あなたはきれいな人だわ。そんな目で見つめられたら、泣きそうになる」
芹子は僕の頬を撫でていた手をそっと離すと、そのまま顔を逸らし睫毛を伏せた。芹子、離したくない。何て言えばいい。どうすればいい。
帰りのエレベーターの中、僕はひとことも話せず焦れていた。本当にこれきりなのか。そう言いたかった。言いたい気持ちが強ければ強いほど喉が絞まるように言葉にできない。恋人らしき女はあくまでも、らしき女で、今ならどうとでも関係は変えられる。こんなふうに考えるほど僕だって冷酷な部分を持っているんだ。だから互いにどれほど残酷な性質を持っていても構わない。頼むからこれが最後だと言わないでくれないか。契約なんて馬鹿げた言葉に逃げないで。芹子は僕の顔を見つめた。僕も芹子を見つめた。決心して僕が想いを言葉にしようとして口を開きかけた時、エレベーターが希望の階に着いた。芹子は背伸びをして僕の唇に素早くキスをした。まるで塞ぐように。そのまま振り返らずエレベーターを飛び出して行った。胸元の水晶が輝き、星が流れるように尾を引いて見えた。僕はその後ろ姿を見送るだけで、どこまでも情けない自分に反吐が出そうだった。
それから僕は手許に残された芹子の電話番号に連絡をしたが既に通じなかった。何度もかけた。それでも同じだった。あのスナックにも出会った頃と同じ時間帯に行ってみたが当然いなかった。待ち合わせたカフェも、一緒に行ったホテルの部屋も。僕たちが一緒にいた場所は少ない。あまりにも接点がなさ過ぎる。結局世間話ばかりで大切な言葉に躊躇してしまった自分の臆病さが嫌になる。芹子の目。忘れられない。哀しい目。
芹子との連絡が途絶えてしまってからもそのまま時は過ぎ、何もない日常の日々に戻った。ひどく疲れてベッドに倒れるように横になり、服も着替えずそのまま眠る日が続いた。夢の中に芹子が現れた。裸のように見える白いワンピースを着てネックレスは着けていなかった。眩しいほどの笑顔で僕に手を振っていた。僕も笑顔を返したがやはり現実の僕のまま棒立ちだった。目を覚ますと涙がこめかみを伝っていた。ガキのようだ、と乱暴に手の甲で拭った。
何もする事のない休日。のろのろと起きると午後を回っていた。もちろん芹子とのことはすべて終わったとは思えなかったし更に芹子への想いは強くなっていた。何とかまた会いたい。何とか。その気持ちだけが僕を生かしていると思った。洗面所へ行こうとして立ち上がるとベッドの上にあった溜まった新聞がどっと床に落ちた。郵便受けから取り出して何日も読まないままそのままベッドの上に投げるように置いていた。舌打ちをして拾おうと手を伸ばした先の記事に目が釘付けになった。そこには自分そっくりの男が写っていた。驚いてその新聞を取り上げる。男の顔は自分に似ているとは言え、かなり年上だった。
記事によるとその男は同乗していた女性と一緒に海に車ごと転落。ふたりとも遺体で発見されたと書いてある。ふたりはずっと行方が判らなくなっていたらしい。男の写真の横には若い女の顔。それは忘れられない愛しい女の顔。ふたりは実の親子で母親は数年前に他界。娘は二十歳。演劇学校に通っていた。遺体は死後数ヶ月経っていた。娘の首には細い糸のようなもので絞められた跡があり、首筋に赤い線の傷痕が残っていた。父親による無理心中の可能性が高い。
僕は新聞から目を離し、何もない空を見つめた。夢の中でネックレスを着けていなかった芹子。もう縛られる必要がなくなったからだね。君が僕に話した忌まわしい出来事が事実だろうが嘘だろうがどちらでもいい。もういい。芹子、もう一度こっちにおいで。たくさん傷ついただろう。苦しくて痛い思いをしただろう。もう父親の存在に振り回される必要はないんだよ。君が僕を見つけた時から僕は既に君のものになっていた。僕の顔も、体も、君のために存在しているんだ。ふと冷気が体を覆い、首筋に柔らかく冷たいものが触れた。芹子、ここにいるの? 僕は空に向かって腕を伸ばした。
あとがきとタイトルの解説
二○○二年、パソコンを入手し、初めて自分の物語が活字になったのを見た時、とても興奮したのを憶えている。手書きの文字で書く物語は生々しくて何となく恥ずかしかったので、熱を逃がす無機質な、デザインされた文字に私はすっかり夢中になり、たくさんの物語を書き、ブログを作り、寝るのも惜しいほど楽しんだ。数年後、あまりにも増えたブログ記事を整理しようとして自分の物語を読み返してみると、物語がただのあらすじでしかなくて愕然とした。そのあらすじを少しでも小説にしたいと思った。そしてこれからのためにブログで何度も書き直すのではなく一度書き直したらもう後には引けないようにしようと思った。そういう線引きが必要だった。
そんな訳で本という形に遺してみようと思いました。あの頃の価値観を捨てるのではなく修正をし、育てて、今の自分がいるのだと思います。未練はないけれど過去の否定ではないので物語自体は存在しないけれどこの本全体を包む象徴となるように「花の名残り」とタイトルを付けました。あの頃の自分を花びらに喩え、散って、また咲く事を願いつつ。心の中心が揺らがなければ様々な変化も受け入れられるだろうと信じて。
そんなこんなであとがきに思い切り生意気な事を書きました。
物語を書く事は束の間、その世界を生きる事。だから現世は大変な騒動になる。正直辛い。けれど私には書く事がイコール人生そのもの(大きく出てみた)なので書き続けられるように、と切に願っております。閉鎖してしまったけれど書く事を見つめる機会をくれた沢山のウェブサイトや、現在もお世話になっているブログの皆様、そしていつもたくさんお喋りをしてくれる大切な人。
ここまで読んでいただき、洵に感謝致しております。
二○十五年七月 幸坂かゆり
※参考文献
『イザベルに』 アントニオ・タブッキ 著 和田忠彦 訳 河出書房新社
『エロスの美術と物語 魔性の女と宿命の女』 利倉隆 著 美術出版社
デザイン・本文レイアウト=幸坂かゆり
幸坂かゆりブログ「First Kiss」
http://remember-the-kiss.dreamlog.jp/
KAYURI YUKISAKA WEBSITE-幸坂かゆり総合案内所
http://kayuri39.strikingly.com/
2015年7月25日 発行 初版
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1969年北海道生まれ。2004年投稿型サイト「ゴザンス」にて作品発表。2006年ビジネス系サイトにて短編、2007年コラム投稿サイトにてエッセイ連載(いずれも閉鎖)、2005年より物書き支援サイト「Mistery Circle」にお題小説寄稿。既にレギュラーメンバー。現世(うつしよ)の矛盾は小説では甘い夢。なだらかな文章の美を追求している。