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 画家になると宣言して10年。40代にさしかかった松田松雄がいわき民報に連載し、「私小説的美術論」として高い評価を得た、原稿用紙330枚分の随筆「四角との対話」。夕刊連載から36年後の2015年秋、ついに娘・文の手によって父親が中断した書籍化を実現。精神の求道者・松田松雄の創作の原点に触れる「独白」のかずかずが、清冽な地下水となって読む者の魂の奥底に届く――。

四角との対話

松田松雄

回無工房



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  この本はタチヨミ版です。

風景(川のほとり) 1976年

 目 次


    まえがき


一、  あぶくまの雪


二、  除夜の鐘をききながら


三、  白い時間 (一)


四、  白い時間 (二)


五、  白い時間 (三)


六、  白い時間 (四)


七、  白い地表 (一)


八、  白い地表 (二)


九、  白い地表 (三)


十、  白い地表 (四)


十一、 白い地表 (五)


十二、 白い地表 (六)


十三、 白への回帰 (一)


十四、 白への回帰 (二)


十五、 白への回帰 (三)


十六、 白への回帰 (四)


十七、 灰色の散策 (一)


十八、 灰色の散策 (二)


十九、 灰色の散策 (三)


二十、 灰色の散策 (四)


二十一、蒼の背景 (一)


二十二、蒼の背景 (二)


二十三、黒い巡礼 (一)


二十四、黒い巡礼 (二)


二十五、黒い巡礼 (三)


二十六、黒い巡礼 (四)


二十七、黒い巡礼 (五)


二十八、繁忙の中で


二十九、秋へ


三十、 黒い巡礼 (六)


三十一、群像雑感


三十二、黒い巡礼 (七)


三十三、黒い巡礼 (八)


三十四、人間・作品・空間 <上>


三十五、人間・作品・空間 <中>


三十六、人間・作品・空間 <下>


三十七、ロダンのバルザック


三十八、黒い巡礼 (九)


三十九、黒い巡礼 (十)


四十、 黒い巡礼 (十一)


四十一、余白 (一)


四十二、余白 (二)


四十三、余白 (三)


四十四、余白 (四)


四十五、白い彷徨の果てに


    三十六年後のあとがき

まえがき

 この本は、松田松雄が一九七九年(昭和五十四)一~十二月に「いわき民報」紙上に四十五回にわたり連載していた随筆「四角との対話」を書籍化したものです。
 今回の書籍化に伴い、原文に極力忠実に編集いたしましたが、内容に沿う程度に微修正をさせていただいたことをご了承ください。また、掲載した挿絵は新聞からの転載になります。従って、画質が粗く、新聞記事が裏写りしている挿絵もありますことをお許しください。
 この本の編纂にあたり、岩手県立美術館学芸員・根本亮子氏、元いわき民報社常務取締役編集製作局長・吉田隆治氏に多大なご協力をいただいたことを深く感謝いたします。

編者・松田文

「四角との対話」六、白い時間(四)
いわき民報 昭和五十四年(一九七九)二月十日付 掲載
「四角との対話」十七、灰色の散策(一)
いわき民報 昭和五十四年(一九七九)四月二十八日付 掲載

  一、あぶくまの雪

1 風景(ひと)


 それは、たまたま十二月の早朝、車で平から小川・川前を経て、鹿又渓谷沿いの林道のような道を通り、川内の天山文庫に至る途中のことである。私はかつて見たこともないような雪景を見た。山腹から山頂にかけ、次第次第に白さを増してゆくあの猫の腹のようにやわらかい雪は、私が見た雪国のものとはちがっていた。それはやさしくて、哀れなような雪で、朝の冷たい空気の中で一瞬見せる美しさであった。私はこの時初めて「におうような雪」を感じた。そして、なだらかにつづく山容の中に見え隠れに点在する家々を見た時、これがあぶくまなのだと思った。それは、風景がやせてはいないのだ。

 私をはぐくんだ、そのおおかたの北国の風景は、やせた馬の背のようにとげとげしかった。
 そこにまとわりつくすべてのものが、振り落とされまいとしてへばりつくようにして生きていた。それにくらべれば、そこで見られた風景はふところ深くいだかれているようにさえ思えた。その時、同時に、私の脳裏に浮かびあがってきたそれは、吉野せい氏や草野比佐男氏、それに最近の若松光一郎氏の仕事であった。そして、これらの人が己の中に重く、あぶくまの風土をかかえた作家であることを知らされた。またそのことは、すぐれた作家しか己のうちに風土をかかえることが出来ないという私の思いを、この時確認していた。

 天山文庫でどぶろくをごちそうになり、十一時ごろそこをたった。そして帰りもまた同じ道を通ったが、すでに大方の雪は、うたかたのように消えうせてしまい、目の前には再び日常的な風景があった。

 私は、いわきに住みついて十四、五年になる。その時まで、自分の記憶に鮮烈に焼きつくような雪に出合ったことがない。私がこれまで住んでいた所が、いわきの中でも雪の少ない小名浜や平であったゆえんであるかもしれぬが、降った雪のほとんどは、すぐに消えてしまい、ところどころに残った雪をかかえた風景は、何とも散漫なさまをつくりだしていた。北国の中で生きてきた私にとって、それは雪とは呼べない気がした。しかし私は、このあたたかくて住み良いこの地が好きである。

 ただ、あぶくまの気まぐれな雪のつくりだす冬の光景だけは、やりきれない思いがする。この季節に常磐線で下る時、富岡を経て原町、相馬とすぎて行くにしたがい、次第に雪は量を増してくるのに出合うことがある。私はそんな風景を見て、安堵する。半面、同じ所で、解けてしまった風景の中に、うずくまるようにして点々として白く残っている雪は、なんとも寒ざむとしてやりきれない。自分は、この虫くいのような風景の中にはとても住めそうもないと思うことがある。
 それは雪のもたらす風景の貧しさなのか。その地の中で堂々と息づいている人々がいることを思えば、それは私の勝手気ままな思いあがりであることはいうまでもないのだが。

 あぶくまの南端の、この気候的にも、また地理的にもひらけた土地は、やせこけた風土の中で育った私には、それだけで幸福が約束されているものとさえ思えるのに。ここの生活しやすさや豊かさとは裏腹に、なぜか貧しい印象を受けてしまう。それは私がこれまでこの地で風景の中にも、また人々や文化の中にも、風土を強く感じることがなかったからかも知れない……。

 北国の雪は、人に耐えることを教えたが、あぶくまの雪は人々に一体何を残しているのであろうか。
 私は、その時まであぶくまというこの地には、雪が似合わないと思ってきたのだが……。

  二、除夜の鐘をききながら

2 風景(母子)


 遠く響いてくる除夜の鐘を聞きながら、新しい年の始まりを感じる。
 その鐘の鳴りつづけている短い時間の中に、一年のうちで、最も平坦な時間を私はみる。そして、しらけたい自分の気持ちとは裏腹に、年々その鐘の音は、私の中で重くひびく。それは己の命に区切りをつける儀式のようにも思えてくる。
 どうしようもないような経済的な不安の中で仕事をし、命をつなぐだけの少しばかりの僥倖ぎょうこうを求め、祈るような気持ちで日々を過ごしてくると…………この鐘の音色に自分の生を確認したくなる。

 絵を描きだして十一年、その都度、年の瀬だけはせめて人並みに余裕をもって越したいと願いながら、一度も実現していない。今年こそは、今年こそはと思いながらも、その節になると作品を手離すのがやりきれず、出来るだけ別れを先にのばし……ずるずると正月を迎えてしまう。この暮れのおし迫った時間の中で、昼の弁当の焼きいもをかじりながら、終戦直後の生活もこうだったと、寂しく自分をなぐさめる。そして、ここが堪えどころだと自分にいいきかせつつ、あすの仕事を考える。十二月は、私にとって、さまざまな思いが最もドラマチックに交錯し、緊張した日々になる。
 出来ることなら一年間だけ、せめて半年でも安心して、仕事が出来るだけの余裕が欲しいと……例年、年頭に願うのだが。

 世の中に私ていどの才能の者は、掃いて捨てるほどいる。人並みに、芸術は才能であると思ったなら、私は最初から絵描きにはならなかった。少しくらい、小手先が利き、図画が上手などというのは、全く図画が下手というのとたいして変わりはない。その程度の不器用さは、勉強次第で超えることの出来る問題であるからだ。超えることの出来ないのは、「他人」が「私」にはなれないという事実である。
 それは、「私」が背負っているものは、「私」以外には表現出来ないということである。その思いが、私に絵を描かせてきた。

 絵画のおもしろさは、良くも悪くも、自分に自分をさらしつづけ、それを他人のような目で見つづけながら生きられるところにある。
 毎年毎年、年の瀬を気にしながらも、生活出来るのは、そのような生き方が非常に楽しく、また楽でもあるからだ。多くの他人の運命を左右しないところで、自分が生活出来るほど、幸運なことはない。自分のためにだけ生きることは、どんなことにせよ、私は苦労とはよびたくはない。それは、世間によくある出来事を超えるものではないからだ。

 また、世の中が不景気であろうとなかろうと、私にはこれから先もたいして関係ないだろう。私はいつも慢性的に不景気だった。しかしこういう私でも、経済的には、全く希望がもてないわけではない。今のように、偽物が本物のような顔をして、世の中に氾濫はんらんしているかぎり、また偽物も本物も見分けがつけられない日本の状況であれば、そのうち私も、この稼業で、ある程度のものを手に出来るのは、決して夢ではなくなっている。その程度に希望がもてる社会である。しかし、それは腹だたしくもあり、悲しいことでもある。
 とは言っても、今年も私の作品が飛躍的に良くなるという希望はきわめてうすい。私の今の力では、大きな飛躍を望んだところで無理である。所詮、自分の作品の中にこびを抱えているうちは、これが本物だと私がいってみても、偽物であることには変わりがないからだ。ただ自分が偽物であることを自覚出来るための戦いの場は、これからも努めて広く求めなければならないだろう。長い時間の流れで見ると、芸術は才能ではなく、結局、人間と人間との闘いであると思えてくる。

 今日のように時間の周期が短く、すべてのものが目まぐるしく変わり、また人間の価値観が多様化したことが、本物をつくりあげる時間的ゆとりを奪っている、それはまた、求める方にとっても、本物である必要がなくなっているからだろうか。そしてだれもが、それは偽物か本物かを、己に深く問うことすらしなくなった。芸術家もその例外ではない。政治家にとっての正義が、政治の求めている正義であると信じられているのに似ている。
 大いなる錯覚の時代としかいいようがない。

  三、白い時間 (一)

3 風景(樹)


 うだつのあがらない三十に近い男が、ある日突然に、それまでの勤め人の生活をやめ、画家になるにはどういう道筋をたどればいいのかわかりもせずに、今日から俺は画家であると世間に宣言し、この道に入ってしまった。常識的に考えれば、美術の大学を出るとか、偉い先生の弟子になるとかし、それなりの勉強や修業をつまなければ画家にはなれないことになっている。いくら絵が好きでも、私は全くの素人である。おのずとプロの道というのは違うものであるはずだ。

 満足にデッサンも出来ず、どこにも作品を発表したこともなく、制作するとはどんなことかも知らずに、ただ漠然と、自分が抱えたものを吐き出したいだけで、私はこの稼業を選んでしまった。
 デッサンの基本的な勉強であるという石膏を描いたこともなく、ましてや裸婦などにはお目にかかったこともない。それまでは、スケッチを一生懸命やっていれば、絵の基本的なデッサンの勉強をしていると思い込んでいた程度である。
 それも宮本三郎風にとか、鈴木信太郎のようにとか、生き生きした線、やわらかく、またかろやかな線や色とか、あるいは林武のように剛直な絵とかというように、常にうまそうなスケッチや絵を描くことであった。
 しかし、そのような勉強は自分から自分を遠のかせ、画家になるためのものではなく、それはいわゆる絵の「描き方」の勉強でしかなかったと知ったのは、それから後のことである。

 十数年に及ぶ勤め人の生活を捨て、この道に入ると、今日も、明日も、あさっても……すべて自分の自由になる時間である。そして、俺は“今日からはプロの絵描きだぞ”と自分にいいきかせてみても、さてそのためにはどんなことをすればいいのか、見当もつかなかった。
 ただ、おろおろと画家らしい雰囲気を身につけるため、絵具箱やらスケッチブックを取り出して、部屋いっぱいにひろげた。そして、何日かはその雰囲気にひたった。しかし、時間がどんどんたっていく中で、白いキャンバスを前にして、次第に不安がつのり、何を描いたらいいのか途方にくれた。結局、どうしようもなく、わけもわからず絵具を筆につけて、ぺたぺたとキャンバスに塗りつけて時間をかせぐ。そんな作業の中で、偶然あらわれてきた何かの形を見つけてほっとし、すがりつくようにそれを追いかけ、画面の中に定着させようとする。しかし、それは根がないから、どんどん変わっていくのである。
 しばらくは、そのような繰り返しで日を過ごした。その当時は、それは、いやにむなしいことをしているように思った。しかし今、私はその無駄だと思って費やした時間が、年ごとに非常に大きな意味をもっているのを感じている。

 絵描きでありながら、何にも描けないで「白い時間」を過ごすというのは、拷問に等しい苦痛である。そんな時、いつも部屋から逃げ出し、近くの店で、ひと(女)の顔でも見ながらコーヒーでも飲みたくなる。しかし、それでは一時的にそこからのがれるだけのことであり、問題の解決が遠のいていく。他人ひとが認めようと、認めまいと、自分は確実にプロであるという意識が、その度に苦痛からのがれようとする私自身を叱咤した。そして、安易に自分を救い、なぐさめることは、この道では最も危険なことであると感じ、避けなければならないという気持ちにさせられた。なぜなら、それまでの自分と決別できないばかりか、うまい絵を描くことにだけ終始し、自分を失ってしまうからだ。私はプロであることにより、自分から自分を譲るために必死になった。

 以前の生活の中に、絵画的な時間など、まったく持っていなかった人間が、突然、それを日常とする生活に入ってしまったため、頭上は真っ暗で、来る日も来る日も、胸中は暗澹あんたんたるものであった。狭い部屋の中で、自分の体液のこびりついたつたない絵をみつめ、さまざまな想いがいきかい、やたら頭の中だけが極端にふくらんでゆくのである。そして、世間がいうような芸術家らしい生活では、とてもろくな作品がつくれないことがわかってくる。気分がのるとかのらないとか、夜中に突然のように絵を描きだすとか、狂人に近い者でないといいものが描けないとか、ということは、ほとんど芸術家のうそのように思われた。私は、絵がうまくなることを急ぐよりも、下手でも地道な勉強と、しっかりした生活の習慣を身につけることの方が、作家生活には大切であることを知った。それはサラリーマンよりも、サラリーマンに近い誠実な生活がいいということである。

 そして、この世界で優れたプロになれる人と、なれないで終わる人との差は、その連続する苦痛の時間に耐えられるかどうか、常に安定した精神を保てるかどうか、で決まるように思えた。自分の作品と対決さえしていれば、いずれ作品の方が根負けして作者に語りかけてくれるようになる。それが自分自身を深化させていくことにつながるのに。
 私は今でも、画家になるための勉強とは、ただ日常的に自分自身と直面することに耐えられる、ごくあたりまえの精神をもつことだと思っている。
 才能のとぼしい私が、長い人生の中で才能ある者と闘うには、日常の中に平凡さを求める以外になかった。

  四、白い時間 (二)

4 風景(白い森) 1970年


 私が絵描きになろうと考えたとき、絶対に描きたくないと思ったものは、港や船や花、そして静物などのような日常的に自分をとりまいているものであった。
 それは、この、だれでもが手軽に描く港の風景や花や静物が勉強にならず、またつまらないためではなかった。それは、自分を中途半端に納得させてしまうことと、うまみを出すところで仕事が止まるおそれがあるためであった。そして結局のところ、それは、ものの説明以上の内容を感じさせない表現で終わってしまうためでもあった。
 しかし、もっと大きな理由は、少しくらい絵がまずくても、だれでもが簡単に受け入れてくれ、そして売れる要素を、それらの素材はかかえているからだ。
 私には、売れることによって自己の核心にまでふれることができずに、その世界に妥協してしまうことがこわかった。
 私は絵描きとして、安直に食えることだけはしたくないと思った。しかし、簡単に売れないような絵で、早く食えるようにはなりたい……とひたすら願った。
 さりとて、私には、自分の中に何かを描きたいという明確なものを持っていたわけではなかった。
 ただ、私がそれまで生きてきた知恵と、自分が三十になり、これから新しく生きようとする意味が、私に売れそうもない絵を描く生き方を選択させたにすぎなかった。

 私が絵描きになる前に、私が知った情報や知識は、泰西名画であり、印象派であり、またエコール・ド・パリの類であった。しかし、この世界に一歩足を踏み入れてみておどろいたのは、それまでの私の知識のわくをはるかに超えたところで、美術の世界がうごいていることだった。
 アメリカの世紀の終焉を予感するような、アメリカの社会に基盤をおいた、ポップ・アートをはじめとする現代美術の情報や知識が、大きな津波となって、この田舎の片すみで小さくなっている私を襲ってきた。新たな方向へ、新たな世界へ――私は、その押し寄せてきた波にほんろうされ、その中でもがき、焦燥の日々のもとで、自分を見失いそうになった。
 しかし、暗がりの中で目をひらき、じっと耐えていると、段々と、かすかに何かが見えてきた。それは、ものごとは装いをとりはらうと単純なもので成りたっているのではないか、という認識であった。
 ちょうど、そのような時期に、モンドリアンという現代美術の先駆者の作品に出会ったことが、私に勇気を与え、その後の私の仕事を決定的なものにした。
 ありふれた具象から出発し、次第に抽象表現に至った、この極北にたつ作家の明快な追求の過程を知ったとき、やみくもに絵らしいものを描いていた私は、はじめて「追求していく」とはどんなことか、を啓示された。

 以後、私がやったことは、まずそれまでの私自身が身につけてきたものを捨てさることであった。私の好きな色、かき方(筆触・マチエール)、そして私の絵の中にある――ある種の文学的な暗いにおい…。
 これらとむかいあっているうちは、顔の表情を描いても決して人間の内面の表情まで描くことにはならない。また、枝を描かなければ木にならないのか。山はどうして半円ではいけないのか。海はどうして青く描く必要があるのか。
 そして、暗い色を使って絵の内容としての暗さを表現するのは単なる説明にすぎず、明るさの中で人間の暗さがなければ本当のものではない、などとつぎつぎに疑問がわき出した。
 色感の良くなかった私は、そのころ、色も意識的に原色だけに限定し、混色をさけ、平面化し、次第に形も単純化していった。
 水平と垂直の中で空を求め、平面と立面とで量を求める――私はそう考えながら、キャンバスにむかっていた。いつの間にか、それは大地と樹と人と空だけの私の絵になっていた。
 そして、消しても消しても残るものだけが、その人間のもっている業であり、個性ではないかと、私は気付かされた。

 単純化を目ざしたのには、もう一つの理由があった。
 一般の人達だけではなく、芸術家からも、芸術は難しい(創ることで)ということをよくきいた。私はこの言葉に抵抗を覚えた。そして私は、芸術は才能であるという神話に挑戦したくなった。
 たしかに、真の芸術(神をかかえた)をつくり出した者は才能かも知れない。しかし、それは世界の中でも、また歴史の中でもほんの少数であり、私には、それ以外はごくあたりまえのものであって、才能が生みだした芸術とはとうてい思えなかった。私から見れば、現代になり、個性という美名のもとに、芸術家は芸術を難しそうに装うことによって生きているにすぎなかった。
 私は、だれでもが簡単に描けるような絵をつくりたかった。だれもがまね出来るようなもので、個性的でなく、ぬり絵のように、平面的に、そして簡単な構図を求めた。しかし、私は自分のために、人のまねだけはしたくなかった。

 日本の中でも、またいつの時代を見ても、芸術は常に素朴なものであるのに、芸術家は、芸術以前に芸術的なにおいをだすことに粉身している。それは、女の人の化粧の上手、下手の差ぐらいにしか、そのころの私の目にはうつらなかった。生活上の理由からも、私には、とてもそのように悠長に構えて、まじめに遊んでいる余裕はなかった。一日も早く、自分の核心――自我の存在――に触れるよう急ぐ必要があった。そのためには、すべての装いをとりさって進む以外に道はないと思った。早道だと思って、雰囲気だけの絵を描くような勉強をしていては、絶対に目標(自我の確認)に到達出来ないように思えたからだ。
 面白くない絵を目ざし、私は、はやる心をおさえ、「急ぐな、いそぐな」といいきかせながら、自分のすべての持てる力を出し切るような習慣を身につけるため、いつも自分の中に「絶対」を求めた。

  五、白い時間 (三)

5 風景(歩いても……歩いても……)


 こうした公のかたちで、自分の生まれ育った土地をいみきらいつづけたと話すことは、成人して突然、それまで罪を犯していない自分の両親に向かって、「子供のころからあなたが嫌いであった」というに等しいほど、私には胸がいたむ。しかし、この言葉をきかされる方は、さらに救いようがないほど……つらいにちがいない。

 絵をかくとき、いつも私が、自分の中からどうしても捨ててしまいたいと思っていたものは、その田舎の風景であった。
 私は、その風景に対してだけは、よりかかって仕事をしたくないと思った。目をとじれば、あざやかに、故郷の海や山々のひだ、沼、そこに棲んでいる魚など、川をさかのぼって小川の源にいたるまで、そのすみずみまでが浮かんでくる。しかし――、その風景の中には、自分の歩んだ屈辱的な人生の歴史がきざみこまれている。だれもが私に対し、つらくあたったわけでもなく、またとりたてて私は、周囲の人々から蔑視されて育ったわけでもない。
 ただ、その風景の中にも、また人間の中にも、他人の可能性を封じ込めるものだけにしか、私には見つけることが出来なかった。何代もつづいた人々の歴史が、運命が、ほぼ変わることのない形でそこにはある。私には、生まれた時から、人生の可能性だけではなく、その運命、人格までが決められてしまうということに、はらだちを覚えた。



  タチヨミ版はここまでとなります。


四角との対話

2015年9月1日 発行 初版

著  者:松田松雄
発  行:回無工房

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松田松雄 略歴

1937 岩手県陸前高田市に生まれる
1963 福島県いわき市に移る
1969 「芸術生活画廊
    第3回公募コンクール」入賞
1975 「第10回昭和会展」林武賞
1976 「第2回日仏現代美術展」
    アカデミー・デ・ボザール賞
1993 原因不明の病に倒れる。
    以後7年半、断筆
1994 「松田松雄の世界展」いわき市
1998 「黒の余韻 -松田松雄 齋藤隆-」
    いわき市立美術館
2001 死去

http://matsuda-matsuo.tumblr.com

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