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日曜の夕食は、外食が多かった。宴は祖父の主催である。
よく行ったのは西友四階の中華料理店だが、焼肉や寿司屋の場合もあった。これは、昼間の競艇が大当たりかどうかに左右される。
中華は今思えば、「チャイニーズ・レストラン・シンドローム」っぽいときもあり、いつしかみんなが敬遠し始めた。「今夜はどうも、寿司屋の情勢」という一報が日曜の夕方に入ると、喜んで近所の祖父宅に集合する。
寿司屋はカウンターだけの小さな店で、駅の裏手にあった。
ウチの家族五人と祖父母、叔母の一家四人が加われば、ほぼ満席になる。焼き物や踊り食いも記憶にあるので、祖父は豪快に、ボートの儲けを使い果たしていたと思う。
子どもながらにも、その店の味は上品で、まずいネタはひとつもなかった。小学校低学年の末弟まで「食べるなら、回らない寿司がいい」と言い出す始末であった。兄弟で競い合うように、ゲタを積み上げた。
それぞれたいした稼ぎはなく、私も弟たちの今の家族も、ほぼ回転寿司ばかりだと思うが、みんな心の底では「回らない寿司」を、祖父のように毎週大勢に振る舞ってみたい、と思っているはずである。
出来れば、あの店で、白身かなんかから握ってもらいたい。お父ちゃん、何頼んでもええ? おう、何でも頼みや、とかいいながら。
みんなが好きな店だったのに、板前さんが昼間怖い顔をして歩いているのを、ある日見かけたのが最後だった。ニコニコしているカウンターの姿とは、別人だった。
店のシャッターは、いつ行っても閉まったままになった。別の事業に失敗したという噂を、祖父はあとから聞いたという。
今でも思う、あそこの「回らない寿司」が一番うまい。
祖父の仕事は、パロマガス器具の訪問修理、アフターサービスであった。元々は、ガス器具を扱う大丸工業の社員だったが、意を決して独立した。水道管が凍結する真冬だと、毎日十軒以上回っていたので、商売は成功したといっていい。
唯一の自慢は、大丸の野球チームで監督をやっていた頃、あの江夏豊を何度も使ったことだった。江夏さんはその頃、中学の野球部を辞め、お兄さんの会社のチームの助っ人を買って出ていたと、どの評伝にも書かれてある。大人相手にバッサバッサと三振を取り、祖父はお礼に食事に連れて行ったらしい。
さて、アフターサービスの仕事は外回りなので、昼食は外食になる。いろんな店を、祖父は知っていた。一緒について行って、記憶に残っているのは、堺にあった「銀シャリ屋 ゲコ亭」。とにかく、白い飯がうまい。惣菜は、小皿で好きなものを選べる。たくさん頼むと、結構いってしまう。最近では中国人観光客にも人気のようだ。
出先の昼食屋は、頭の中にマッピングされているので、「あそこ行こか」とすぐに決定される。三時にはコーヒータイムがあり、たっぷり砂糖とミルクを入れた熱いのを、祖父は好んだ。
ファミリーレストラン的な店だと、大阪の給仕するお姉さんはいい加減で、たまに間違った皿を置いていこうとする。すると祖父は、必ず「それも置いといて姉さん」と皿を取り平らげる。
﹁それ頼んでないやん」
ツッこむと、「金払うたらええんじゃ」と祖父は意に介さない。言ってない皿で、テーブルがいっぱいになる。ちょっと痛快だった。デザートまで、人数分並ぶ。
店の方も、わざと間違えてんのとちゃうか。
父親に魅力があるとすれば、それは幾ばくかの小金を、多少は使えるということかもしれない。
ゲームセンターに入りびたる、ということはなかったが、親父とはスーパーの屋上で、よくメダルゲームを際限なくやった。こういう場合、オカンはブレーキがかかるが、オトンは機嫌さえ良ければ注ぎ込んでくれる。
他にもミニカーとかパズルとか、チマチマしたものを、気まぐれに、パッと買ってくれる。あとから聞いたが、母は父の収入が一体いくらか、ずっと知らなかったらしい。給与は現金でもらって、封筒からいくらか出して「これで、今月頼む」っていうやつだ。男性の働き手にとってはまったく都合のいい時代である。
ただ、外食となると何故か質素になる。日曜の昼は、いつも駅までの途中にある中華料理店だった。あの円卓がぐるぐる回るたぐいのものではなく、一品ずつ頼む方の中華だ。
チェーン店の王将が、駅前に出来るのはその後で、そこは個人経営の店だった。しかし、屋号などは全く覚えていない。座敷で、自転車屋の上にあったという記憶だけ、それと食べたのは天津飯しか覚えていない。今、倅はチャーハンが大好きだが、私は天津飯が好きだった。
中国の天津にその名のご飯ものはないらしいし、関東だとカニ玉と呼ぶ方が多いかもしれない。それに、あんかけが辛かったり、すっぱかったりする。
自転車屋の二階の天津飯は、そのどちらでもない、やさしい味であった。カニが入っていたかも覚えていない。グリーンピースが少し。
家族五人で、よく食べた。
甲子園に住む叔父のお父さんは、モダンでダンディーな、ちょっとカッコいいオジさまであった。折った爪楊枝が、ハンカチの中で再生するマジック、トランプの珍しいゲーム、ウィットに富んだ小話など、我ら三兄弟は一発で尊敬の念を抱いた。
ところが、その叔父の父上が後に、大学生になった末弟にだけ、尊崇の念を表した。「マサくん、握手してくれ」と。
その訳は、進学した大学にある。弟が入ったのは神戸にある商船大学で、身も蓋もないが、入るのはそう難しい大学ではない。ところが、戦中派の神戸っ子にとっては、実に憧れの学校で、特にスマートな白い制服は「カッコよかったのよー」と絶対化されている。
なんでやねんという、我々の視線を浴びながら、弟はやや照れながら、叔父の父と固い握手を交わした。
この制服をめぐっては、後日談がある。
その後すぐに、祖父が倒れた。近所の高石病院に最期まで入院した。心配なので、勝手に大学の秋休みを設定して、帰阪した。
病院に向かおうとする私に「ひとりでノブ(私)を病院に行かせるな」と珍しく親父が気を使うようなことを言った。すでに祖父は「恍惚の人」で、一人で見舞っては、混乱したかもしれない。変わりすぎた姿に、帰途、自転車で少し涙ぐんだ。
大学へは戻らず、しばらく大阪にいることにした。
久々に地元のだんじり祭りを観て、その日も病院に見舞いに行った。美しい夜だった。遠雷のごと太鼓の音が響いてくるので、祖父も車椅子でロビーに降りてきていた。
みんな街に出ている。喧騒の中で、初恋の女の子の過重気味の変わり果てた姿を認めるのも、そこはかとない趣がある。祭りだ。
祖父の車椅子を押しながら、病院の玄関で山車が通り過ぎるのを眺めていた。本場・岸和田のものを模した、大型の派手な彫り物のだんじりが、何台も通り過ぎる。楽日には、高石神社に集結するのだ。
すると、そこへ真っ白な制服を着て、弟が走ってくる。彼も神戸の大学から、祭りを見に帰ってきたのだ。
さながら、それは海軍の若き士官が駆け寄ってくるかのようだった。弟はおどけたように敬礼し、軍隊生活を経験した祖父は、自慢げに彼を車椅子から見上げた。
ところが、思い出は美化されるのか、ずっとあとになって母に聞くと、それは白い制服ではなかったらしい。真っ白な「第一種礼装」は、高価な割に使うことが少なかったため、弟は買っていなかったという。
祖父も、叔父の父上もいなくなった今では、制服だけではない。あの美しい夜自体、幻だったのか。
自慢じゃないが野球は下手だった。ライパチ(ライトで八番)まではいかなくとも、大方が下位打線、ショートが二塁のカバーに入るので、草野球ではさして重要でないセカンドが定位置だった。
だいたい、家の前の極狭三角ベースしかやっておらず、やらかいボールに「プラッチック」のバットを振り抜くと、場外ホームラン。隣家の塀によじ登って、怒られたり、うまくなるはずがない。
それが小学校に入り、河川敷で本格的なゲームに誘われると、急にレベルが高くなった。グローブを買ってもらい、あわてて親父がキャッチボールに付き合ってくれた。
河原の野球に誘い出してくれたのは、Kだった。
Kはよく言えばリーダーシップがあり、仕切り屋。悪く言えば、誰彼構わず、いばり散らしていた。私も新品の消しゴムをボロボロにされたり、ドッチボールを顔面にわざと当てられたりした。誰か一人をいじめるというわけではなく、全員に等しく、そんな感じだった。ジャイアン的人物の典型として、君臨していた。
そのKは河川敷の野球でも、四番でキャプテンを務める。相手チームは、ジャイアンツの帽子をかぶったリトルリーグ経験者の森田が率いる。
Kがみんなに私を紹介してくれたが、
﹁阪神の帽子かぶっとる奴は、大体野球下手やねん」
森田は一瞥をくれる。
三角ベース出身の私に、森田は硬球で、直球をビュンビュン投げ込んでくる。何球か投げた後、ボールを置いて、森田はマウンドから降りた。
﹁ベースから離れすぎやから、アウト」
バッターボックスが地面に書いていないと文句を言ったが、ダメだった。球が速くて、腰が引けていたのだ。その後も、チャンスで凡退した。
﹁はい、じゃあ、ケッパン」
尻をKに向けるように言われた。バットで思いっきり叩くのではなく、バント的に、軽く一〇回ほど尻をトントンと、やられる。はじめてのことで驚いたが、特に痛くはない。ミスによって、五進法的に回数が増える罰らしい。
これは、本人の名誉のためにいうと、ライパチ寸前の私以外も、全員が等しく、失策のあとに受けていた。Kさえもしくじって、森田から受けていたような気もする。多分、リトルリーグ的な文化なんだろう。
殴られるならともかく、逆にそのような「指導的体罰」の方が屈辱的で、ある日、何気なくオカンにそのことを話した。尻が赤くなった私にオカンは激怒し、学校に即通報、河川敷野球のケッパンはちょっとした問題になった。
すぐにケッパンはなくなった。
キタニがチクった、という感じに扱われなかったのは、多分みんなも嫌だったのに、言い出せなかったからだろう。河原の野球はその後、学年が上がるにつれて、校庭での「民主的な」ソフトボールに移行していった。私は、あいかわらず、ベースカバーに入らないセカンド。そうこうするうちにKは、引っ越して隣の学区に転校したはずである。
そのケッパンのKだが、塾講師をやっている頃、夜中のテレビを観ていると、突然映ったので驚いた。目が小さく、色黒で、口が突き出た特徴的な顔だったので、見間違うはずがない。
いくつかの事業に失敗した後、今はパチンコの指導をやっているとかで、ずいぶんと太っていた。人生の再起をかけるチャレンジャーたち、みたいな深夜番組の企画だった。
Kはそこで、自分が日本国籍でないことから、若い頃はツッパっていたというような自己のストーリーを、テレビで堂々と述べていた。よくよく名前に注意するとそうだが、子どもの頃は気づかなかった。そうだったのかと、河原の野球のことや、ケッパンのことが頭をよぎった。
パチンコで人生を取り戻すと息巻くのもどうかと思ったが、自信満々に語っているので、何となく応援したくなった。
ところが数年後、気になって彼の名前をググってみると、どうも、詐欺まがいのことをやっているような書き込みがある。盛大に、いろんな人から恨まれているようであった。ペテンといっても、だまし取ったのは、微々たる金額である。ずいぶん、セコイ稼業に身を落としているようだった。
おいKよ、再起したのではなかったのか?
夜中に、古い友だちの名前など、検索するものではない。すこし暗い気持ちになり、パソコンを閉じた。
これはケッパンだよ、K。
子どもが嫌いなものと言えば、トマトとピーマンが二大巨頭だろうか。
特にトマトは、全くの意味不明、もっさりした果肉に覆われ、異様に酸っぱいわ、種がドロドロで気持ち悪いわ、全体的に青臭いわ(したがって、プチトマトはもっと嫌い)、何故こんなものを我慢して食べないといけないのか、納得できなかった。
ところが、そんな私がトマトを丸ごと二つ食べたことがある。京都でのことだった。
確か「手の会」という団体であったかと思う。藍染や織物や焼き物など、季節ごとに企画があり、母に連れられ京都に通っていた。
そこで供されたのが、極上のトマトだった。
野菜ではなく昔は果物代わりに食べていた、というのも納得できる甘さで、二つも食べてしまった。その感激を会の方に伝えると、「朝採って、井戸水で冷やしたんですよ」と教えてくれる。
もっとも、最近のトマトは美味しいものも多い。高度経済成長期のドロドロのトマトは酷すぎたのかもしれない。それでも、この「手の会」謹製のものは過去最高で、以来これを超えるものを口にはしていない。
母は、なるべく化学的な薬品を使わない、添加物の入った食物を摂らないという方針の人だった。エコロジー運動のはしり、といえばそれまでだが、母の環境や食への考え方には、相当影響を受けている。スーパーで、産地や内容表示を反射的に見るのは、当たり前だ。
スナック菓子かインスタント焼きそばだったかを食べて、激しく嘔吐した私を心配して、母は生活協同組合に入った。調子が悪くなった私を見て、「こんなものを食べさせていたのか」と、暗澹たる気持ちになったという。この添加物だらけの食物というのも、経済成長期のツケだ。
今は、人の親になって、やはり私も子どもにおいしいもの、安全なものを食べて欲しいと思っている。
ハレの日は、難波の高島屋に出かける。
昼食は、四階の御子様ランチと決まっている。宇宙船の画がかかる若干スペーシーな食堂で、必ず兄弟そろって食す。ケチャップライスの旗は、日の丸だったが、サヨクの母はこの時ばかりは、持ち帰ることを許してくれた。ウチでも、数日茶碗に国旗がはためく。
唯一の難点は、雲海のごとく広がるグリーンピースの領域であった。皿の四分の一ほどを占めていた気がする。次弟が好きだったので、お願いして、全部食べてもらう。
屋上で遊ぶのも楽しかったと思うが、あまり記憶にない。古い記録映画で、タワー型の観覧車をみた気がしたが、あのようなものがあったのだろう。
さて、クリスマスシーズンで、高島屋難波本店も混んでいる。
幸い、私のウチには「サンタクロースがやってくる」制度があった(ない家もあるらしいが…)。アマゾンも楽天もない時代なので、親のリサーチは、現地での「おうかがい」となる。バレないように、うまいことやってくれてたなあと、感心する。
小学校の高学年になると、ちょっと洒落た万年筆などが欲しくなったが、これも気に入ったものを「サンタさん」にはもらっていた。
﹁これ、ええなあ」
高島屋でつぶやいた商品を、父か母がおそらく後から買っていたのだろう。私たち兄弟も疑わなかったので、双方にとって、幸せなシステムであった。
ウチに帰ると、紙袋につま先を加えて靴下を作り、サンタさん宛に手紙を書き、枕元に置いた。翌朝、この封書は消えている。
今は娘や倅に、同じ方法で願いを叶えさせてやっている。夢は続いた方がいい。
校庭での映画上映会は、内容が分からないのに、ワクワクするものがあった。
スクリーンではなく、校舎に直接映すものだから、窓枠や壁面の凸凹で何の場面かもわからない。観ている方も飽きるので、チャップリンか何かの短いフィルムだったかもしれない。
やがて、映画が終わり、グラウンドが真っ暗になった。
﹁今夜は、折角お集まりですから、星の見方をお教えしましょう」
保護者も含め、万雷の拍手。何しろ、登場したのは、みんなが大好きな間先生である。先生は、校庭の植物や飼っていた動物の世話、理科の実験の用意をされていた。
今考えると、授業を担当していなかったので、養護学級の先生か、あるいは用務員さんだったかもしれない。子どもはしばしば、学校にいる大人をすべて「先生」と呼ぶ。
しかし、そんなことはどうでもいい。草花や昆虫の知識に明るい先生を、みんな尊敬していた。親切に、なんでも丁寧に教えてくれた。例えるなら、現代版・宮沢賢治だろうか。
その間先生が、マイクを握る。
﹁校舎のてっぺんの、避雷針を見てください」
全員が屋上を見上げる。
﹁その避雷針から、親指と人差し指で尺を取って、五本分、上に行ってください」
なんやなんや、とみんな夜空に指をかざす。
﹁明るい星があるでしょ。それが北極星です」
はいはい、わかります。
﹁その星から左に、五本分行ってください。そうすると、七つ星があって、ちょうど、スプーンが縦になっているのが、わかりますか。これが、北斗七星です」
おお、教科書に載っとるとおりや。
﹁それから、北極星の逆にあるWの星座が、カシオペアですよ。今日はよく見えますね」
そのとき、スモッグに汚れた大阪の夜空が、美しい天体図に変わった。面白いように、星座の姿がとらえられた。
﹁自然には、見方があるんです。素敵でしょ」
やっぱり間先生はすごいなあと、僕らは感心しながら夜道を帰った。
スーパーで買ったカブトムシは弱い。クーラーにあたったヤワなやつらなので、一夏もたない場合もある。そこで、野生のものを捕まえて、是非飼いたいということになる。
図鑑の知識で、クヌギが好きだということは分かっているが、大阪の街中にそんな木は生えていない。親父に聞くと、田舎だとそんなものはいくらでもあって、カブトも取り放題だという。
ただ、親父の実家の北条町は、周りが田んぼの宿場町という感じなので、カブトムシが街灯の下に落ちているという場合もあるらしいが、それはどうも我々が求めているワイルドさではない。
そこで、岸呂のおっちゃんの名前が挙がる。
おっちゃんは、親父の叔父でブドウ畑を持っており、裏山がある。ゴツイのが捕れるぞぉと、電話の向こうでおっちゃんも乗り気だ。親父の実家の北条には泊まらず、おっちゃんのところに兄弟だけで、お世話になることになった。
ところが、その年は私のせいでカブトムシ取りは台無しになった。四年生だったと思う。カブトムシを捕る前に、ブドウ畑を開墾してできた盛り土に登り、その坂を転げるように走る遊びをしてしまった。
やわらかな土で、ちょうどクッションのようになり、ズブズブと下に降りるのが面白くなり、止まらなくなって、アゴから転倒した。
今考えれば、軽い怪我ですんで良かったと思う。四針縫った。
おっちゃんが、ヨードチンキを塗ってくれたので、かえって痛く、お医者には余計なことをするなと怒られた。心配かけたおっちゃんには、申し訳なかった。
もっと昔、親父が遺跡の発掘現場に行っていた頃、お土産だといって、汚れた靴下とか、軍手を渡してきて、何かと思えば、中からカブトムシがはい出てきた。ゴツイ、黒光りした、野生のやつだ。
親父の遊び方は乱暴で、小さい方のツノにタコ糸をつけて、部屋の中で飛ばすので、夜行性の彼らは蛍光灯の下でよく飛んだ。
次弟はその後、大人になってもカブトムシをかえすことに夢中になり、あの海苔のガラス瓶のような容器を何十個も用意して、生産体制を整えている。
子どもの頃は、サナギからでさえも成虫にすることは難しかったので、私の興味はそこで終わっていた。
自慢話は、これしかない。私は学校で一番足が速かった。村一番の韋駄天、浪速の赤い彗星、市内で最もカール・ルイスに近い男であった。
運動会以外、特に尊敬を勝ち得るわけではないが、それでも俊足が役に立ったのは、スーパーでのガンプラ争奪戦だった。
機動戦士ガンダムのブームは、ちょうど小学五年生くらいから始まった。最初に制作局として人気に火がついた名古屋に、親戚の兄ちゃんがいた。「新しいカッコええの教えたるで」と、近所の模型屋に連れられて、1/100のガンダムか何かを買ったような気がする。腹部にコアファイターが収納できるギミックが、斬新だった。
ところが、あっという間に、市場からガンプラは消えた。それほどひどい買い占めは聞かなかったから、おそらく生産が間に合わなかったのだろう。バンダイが出荷調整してるのではないかと噂が立つほど、我々は飢餓状態に陥った。
インターネットも何もなかったので、「シャア専用ズゴックが、量産型より先に売り出されるらしい」「ブラウ・ブロは発売中止」などと、嘘か本当か分からない予想やデマが飛び交う。入荷情報も同じくいい加減で、どこそこの店に何曜日に入るとか、不確かな情報で小さな街をフラフラと移動した。
近所のライフのおもちゃ売り場はほとんど入荷することがなく、踏切の向こうの西友の模型売り場には、定期的に一定量が入ってきていた。放課後に一応チェックを入れに行くが、日曜日に入っている場合が多かった。
店の方も、在庫を一番集客できる休日に放出するように考えていたのだろう。自然と、日曜の開店十時前には、男子小学生たちが西友の前の広場に現れ始める。
シャッターが上がると同時に、正面エスカレーターに児童が殺到する。リミッターを外したカスタム機(私)は、二段飛ばしで駆け上がり、もちろんブッチぎりで四階に到達する。
西友は大量入荷しているときは、白いワゴンを用意している。新作のGアーマーを何機も仕入れるとは、さすがに西武グループだけのことはある。弟の分も取ってやり、僕らは戦利品を片手に、意気揚々と凱旋を果たす。休みの朝も早よから何やってんのと、家族に呆れられながら。
これに対し、地元密着型スーパー・ライフストアも反攻作戦に打って出た。堂々と大量入荷日を予告し、屋上に特設売り場を設置するという。街中のガンプラ少年が、屈伸しながら店頭に集結した。
ライフには、エスカレーターがない。階段で、特設会場がある屋上にまで一気に駆け上がった。すると、この日はテレビの撮影班が入っていた。さすがはライフ、用意周到だ。あとから、NHKのニュースに出るかもしれんよ、と店員さんに言われた。そんなことには構わず、テント内のワゴンに殺到する。
まず、目ぼしいものを片っ端から、取り上げる。そして、吟味してから、いらないものをカートに戻すというのが、流儀である。両手に七、八個抱えたところで、テレビカメラにフォーカスされた。
見逃してしまったが、実際に夕方のニュースで、私の勇姿は何度も流されたという。
翌日の学校で、いろんな人にテレビに出てたな、と言われたが中でも、
﹁あんた、よくばりやなぁ」
クラスの遠藤さんに言われたことは、恥ずかしかった。
ほとんどワゴンに戻して、こづかいで二つくらいしか買えなかったと、慌てて言い訳したんだが…
町には、まだすき間があった。
例えば、ザリガニを釣ることができるドブ池や、怪しい沼地などは市内にいまだ点在していた。学校でも誰かが情報を持っていて、「放課後行ってみようか」という話になる。
ただし、それらは同時に、失われつつある秘境でもあった。気がつけば、次の日には予告もなく埋め立てられているのだ。
そうするとザリガニはおろか、そのドブ自体も限られた資源だという共通認識が生まれる。
三角地帯と呼ばれたある沼では「網で底からあさるような捕り方は、無粋」という不文律が生まれ、小学生が釣り糸を静かに垂らし、全員が考える人のポーズになるというシュールな光景が展開された。
ザリガニ釣りのエサは、駄菓子屋の「よっちゃんイカ」で、仕掛けは割り箸とタコ糸の簡単なものである。四角いソフトイカは、獲物に逆にかすめ取られることもあるので、半分に切っておく。そのことは佐野に教えてもらい、一度落とした時は、彼に予備を譲ってもらった。男気があって、先読みができる。それ以来、頭が上がらない。
さて、その佐野だったか「町の事情通」に連れられて、秘密基地や幽霊屋敷の探検にも出かけた。
基地の記憶はおぼろげだ。多分それは建築中か、その途中で打ち捨てられた家屋であったか。とにかく、棟上げしただけの木組みの建物に案内された。
秘密基地というのは、すでに「誰かのもの」である可能性が高い。一緒に行った奴が、他人の宝箱や、持ち物を暴いて、何かを床にぶちまけた。なんとなく居心地の悪い、他人の領域に侵入した後味の悪さだけが、感触として残っている。
これに比して、市内の海側のゾーンにあった、幽霊屋敷の記憶の方は強烈だ。通称は「団丁目(だんちょうめ)」。由来はわからないが、名前だけで威圧感があった。
そこは、比較的大きな邸宅が集まる住宅街である。遠浅の海水浴場だったこの高師浜は、臨海工業地帯ができて、埋め立てられた。百人一首にも詠まれた景観を、私たちの世代は見たことがない。オカン達は子どもの頃、水着で直接浜まで遊びに行っていたらしいが。
海辺の高級住宅地は、漁業権と引き換えに、人々が多額の補償金を受け取った結果、出現した。ほんの数百メートルしか離れていないが、私の町内は、いかにも下町然としてゴチャゴチャした地区であったが、このあたりは区画が整理された新興地であった。
そのコミュニティーに、鬱蒼とした庭と、漆黒の「団丁目」があった。
案内する奴が、邸宅を囲むブロック塀のわずかなすき間を指し示す。
﹁ここからしか、入れない」
十人ほどの物好きが、順番に身をかがめて「団丁目」内部に侵入する。敷地内は樹木が生い茂り、昼間なのに暗い。竹林が荒れ狂い、一部が建物の床をあちこち突き抜けている。すさんだ、古い、日本家屋だった。
やや抵抗があったが、靴のまま、ずかずかと上がりこむ。
﹁二階に行ってみよ」と早速先発隊がうながす。
階上には、骨組みだけのベッドが一つあった。誰が、いつまで寝ていたのか。想像していると、階下から、仲間の叫び声がする。
いそいで駆け下りた。暗い隅の部屋では、何人かが呆然と立っている。全員が、すすけた金色のそれを認めた。位牌なく、供花なく、それ自体が一個の虚無、墓場のようであった。
﹁ぶ、仏壇や!」
その声を合図に、僕らは悲鳴をあげながら、我先にと「団丁目」のブロック塀を登っていた。何となく、一番最後まで残っていると、呪われるような気がしたからだ。
あれ以来、「団丁目」は怖すぎて誰も行っていない。
夏の大きなイベントは、校庭でのキャンプファイヤーだった。
それに向けて、出し物を募集している。目立ちたがり屋としては、一枚かまねばならない。
マネしたのは、志村けんと加藤茶のヒゲダンスだった。当時人気絶頂であった二人が、隠し芸を披露する『8時だよ全員集合』の人気コーナーだ。例えば、フェンシングのネタで、投げたリンゴを次々と串刺しにして、最後は剣をくわえて、受け止めるとか。
芸が難しすぎると、ライブなのでリスクは高い。また簡単すぎても盛り上がらない。
特に親友というわけでもなかったが、中山と組んで出ることになった。二人で考えたのは、浮き輪投げだ。一方が投げ、受け手が両手、首、片足に入れて、最後はジャンプして、もう片方の足に入れて尻餅をつくという構成をひねり出した。跳躍には自信があり、私が受けになった。フィニッシュの見た目も、難易度は高そうに見える。垂直跳び六十センチの実力を発揮できれば、それなりに見せ場にもなるだろう。
ヒゲはマジックで黒く塗った紙を、セロテープでとめた。ドリフの二人が燕尾服であったので、それにならい、私は白いスーツで踊った。一張羅だったので、母がキャンプファイヤーの火の粉で穴が空かないか心配した。写真を見ると、中山はダークスーツに、スーパーマンのTシャツ。さすがは相棒、わかっている。シックだね。
キャンプファイヤーが佳境に入った頃、あのベースラインが効いたヒゲダンスのテーマに乗って、僕と中山はグラウンドに飛び出した。最後の大技も決めて、大受けだった。
一緒に踊った中山は、一昨年、サッカーの試合中に死んだ。共通の友人がメールで知らせてくれた。私は一人、東京で電車に揺られながら、大阪からの訃報を受け取った。
時々、中山のことを思い出す。
そとがカリカリ、中がトロトロのが美味しいねんと、偉そうにたこ焼きを語る大阪人、あるいは周辺の「自称」関西人は多い。しかし、子どもの頃は近所の店も「だいたい、全体がフワフワ」というもので、昔からそのようなスタンダードがあった訳ではない。
関東のたこ焼きがゴムボールみたいに硬いのは、要するに生地にまぜる粉が多いからで、真面目に作りすぎなのだ。家でやるときも、気持ち、水を足しましょう。
よく言われるように、大阪の家庭にはたこ焼き器が必ず一台ある。旧式はガスで、すきやきや、鍋と同じカチッと差す方式だ。ガスのホースがある場所は、ひっくり返しにくく、ポジション的には「ハズレ」ということになる。
大阪では、学園祭の模擬店でたこ焼きはやらないというのが、鉄則である。手間の割に生産性が低いからだ。今は道具が良くなって、事情は変わったかもしれないが、普通は素人だと店が回らない。模擬店はしたがって、お好み焼きをやるのが得策である。
中学の頃、学校の帰りにたこ焼きをたまに食べた。六個とか八個で五十円くらいだったから、今に比べると相当安かった。その代わり、自分で焼いたかもしれない。面白いのは、店の壁に小さな鏡がかけられており、「青のりチェック」が出来ることだった。大阪の女の子も、さすがに「お歯黒」は気にする。
ある時、赤尾がみんなを別の店に誘った。転校生のお母さんだけでやっている知らない店だった。
﹁○○のオカンが作るここのが、一番うまいんや」
ほおばりながら、赤尾は激賞していた。みんなの分も、赤尾のおごりだったかもしれない。
この店で食べたのが、そとがカリカリ、中がトロトロの初体験であった。専属サポーターのつもりか、転校生のために顧客を増やすとは、赤尾は優しいやつだと思った。
カウンターに一緒に座って食べていたあいつの、名前も顔も覚えていない。しかし、たこ焼きの味だけは、覚えている。私の中であれがスタンダードになった。丁寧な仕事だった。
あいつのお母さんは、まだあの場所で商売をしているのだろうか。
急行が止まる駅は、当然いろんな施設が建つ。
わが町、高石には普通列車しか止まらなかったが、となりの羽衣駅は急行が止まり、国鉄(JR)の駅に連絡していた。高石は、団地やマンションが出来たためか、西友とライフという二つのスーパーが進出していた。羽衣には不思議と大型スーパーがなく、代わりに、小さないわばヒップな店が多かった。
元々レコード屋が数店あったが、駅前に貸レコードが出店したことはインパクトがあった。全国的にも早かったと思う。中学の生徒証で会員証が発行され、借りるとピンクのビニールに入れてくれた。自転車のカゴには、斜めに入れないとアルバムは収まらない。高くてなかなか買えないLPを三枚も借りると幸せだった。
そのレンガっぽい外装の駅ビルには、用がなくとも立ち寄りたい魅力があり、英語の個人塾に通っていた時、佐野とよく今川焼きを食べた。中身はつぶ餡でなくクリームなので、それもヒップ。
子どもの頃から通った丸武模型店、ジーンズショップ、スパイクのピンを買いに行ったライオンスポーツ。ビリヤード場も、近所では一番早かったと思う。すこし離れると、新東洋という宴会場もあった。
三十を過ぎた頃、体調を崩して帰省した際、この界隈を歩いてみた。
すると、駅ビル自体が消滅して、立体駐輪場になっていた。慣れ親しんだ店は、ほとんどがなくなっている。それは経済による、地域の破壊だった。失われた十年などと、バブル崩壊後の世界はそう呼ばれたが、荒廃した故郷はそのことを如実に語っていた。
奈良からこの地に嫁いできた友人の細君が、「田舎よりもヒドい」というからには、相当なさびれ方なのだろう。ド田舎の奈良県人には失礼だが。
誰か故郷を思わざる。低成長、高齢化、縮小社会を生きるのは、なんとも辛いことだ。
小学校の頃は、伝記のたぐいが好きだった。「海底二万マイル」とか「巌窟王」「紅はこべ」も読んでいたが、虚構より事実にひかれた。事実というより、人の生き死にへの興味かもしれない。
初歩的な偉人伝は、例えば野口英世やシュバイツァー、キュリー夫人など、みなストーリーはきらびやかで劇的である。ところがいろんなものに手を出していくと、段々と華々しい人生が少なくなってくる。
人が生きて死ぬ運命について、小学生なりに一応は真面目に学ぼうとしているのに、マイナーな人たちの評伝は、それに答えてくれることはなかった。やがて「人生とは退屈だ」と悟り、伝記を読むことはやめてしまった。
再び身を入れて読書に向かうのは、高校に入ってからだった。
たまたま体育の授業で捻挫した。ハンドボールのシュート体勢から下手に着地し、右足首を痛めてしまった。ライブハウスのコンテストに出る予定だったが、ドラムのキックが踏めないので代わってもらい、病院通いになった。
接骨院というのは、電気治療でずっと座ったままなので、手持ち無沙汰になる。ちょっと本でも読もうかという気になった。入学してこのかた、ずっとバンドばかりだったからだ。
母が勧めてくれた遠藤周作の中間小説的なものは、読んでしまっていたので、おなじ講談社文庫の黄色いカバーを、書店でザーッとタイトルだけ追ってみる。
すると、村上春樹と村上龍という、二人の村上が気になった。双子なのか、親戚なのか。何やらタイトルは『風の歌を聴け』『海の向こうで戦争が始まる』『1973年のピンボール』『コインロッカー・ベイビーズ』などとポップで、親しみやすい。どうも、従来の日本の文学と毛色が違うようである。中学生の時は、武者小路実篤などを課題で読まされて、たいして面白くもないと思っていたので、期待が高まる。
捻挫が治る頃、W村上の文庫はほとんど読んでしまい、この二人の新刊は以後欠かさず追うことになる。
春樹はメディアに全く出なかったが、龍の露出は結構あった。日曜の夜は、ジェイズ・バーならぬ、「Ryu's Bar 気ままにいい夜」が楽しみだった。その後、青春のヒーローとなる島田雅彦を知ったのは、この番組で彼の弁髪を観てからだ。
島田さんはその後、たまたま同じ大学法人の「同僚」となり、校長の代わりに長い時間お話しさせてもらう機会があった。安部公房の話や、当時氏が取り組んでいた長編『無限カノン』について、はてはラシュディ事件の見解を聞くなど、高校生の私が将来、島田氏とサシで話をするなど想像もできなかっただろう。
春樹や龍さんについては、今も批評や研究論文を書いている。
青春期の読書が、今につながっている。
本なんかいらない、と子供の頃から思っていた。
狭い長屋に考古学関係の書籍が数万冊。本棚からあふれた資料が茶の間を占領している。スチール棚を何列にも置くものだから床まで抜けて、下をのぞくと煉瓦造りの防空壕。子供にとってはあまり嬉しくない家だった。
父親は毎日働きに出ているのに、何故ウチは貧乏で狭いんだろうかと幼い頃は不思議だったが、何のことはない。在野の物好きには研究費や研究室など無いのだ。
﹁トトロのお父さん(声・糸井重里)みたいな人って素敵!」などと、世の中の人は勘違いしているが、私はよく父に「本を踏むな、足が曲がる」「お前なんかより、本の方が大事だ」と真顔で言われていた。
ずっと後になって、『華氏451』という映画を見て、私は快哉を叫んだ。この映画の世界では文字が禁止され、「消防士」が他人のマンションにズカズカ入り込み、本を見つけ出しては焼いてゆくのだ。書籍を(個人が狭い居住空間で)保存するなんて全く馬鹿らしい。口承文芸こそ虐げられた民の美しきデータベースだと、私は焚書の恐怖を描いた作品のテーマをあえて「曲解」した。長屋の「偏奇館」が燃え上がれば、父も発狂したに違いない(中島敦『文字渦』も好きだ)。
ただ、そんな家庭環境で一つだけ良かったのは、駅前の書店で本をツケで買えたことだ。やたらと幕末の歴史小説を読んだ時期などは、このささやかな制度は重宝した。いつしか父の戦略にはまり、本代はタダ、あるいは別会計であるという変な意識を持つようになってしまった。
小学校の親友は偶然ブッキッシュな男だった。
入学式の後「鵯越の逆落としが」などと話してくるので「阿波の殿様泡吹いて死んだ」と吉本ギャグで応戦し、意気投合した。彼の母は三島由紀夫の信奉者で、彼女から譲り受けた『豊饒の海』全四巻はまだウチの書架にある。対して私の母はカソリックでもないのに、狐狸庵先生の著作を私に薦めていた。
母は今でも元気だが、その親友のお母さんは私が二十歳の時、急逝した。十年の歳月が経ち、親友は私もよく知る女性と離婚した。人づてに聞くと、私に会いたがっているらしい。当時は互いに読んだ本についてよく話したものだが、朋輩と呼べた彼の憂鬱な横顔に、回し蹴りを喰らわせるほど私も元気ではない。だから、帰阪時に連絡を取ったことはない。
高校時代は本を読むより、余程モリッシーの歌詞の方が文学的だと思っていた。当時元気だった村上龍や島田雅彦の新刊は買っていたが、小遣いはレコードのレンタルや、スティックやスタジオ代に消えていた。文章も書いていたが、それはいつしか「ロッキング・オン」に投稿するための習作だった。素人に原稿料を出す渋谷陽一が、屈折した少年の文体彫造に一役買っていた時代だった。
疲れた大人ならいざ知らず、野心を抱いた少年に無目的な読書というのはあり得ないと思う。
今の法政二高にはいないタイプだと思うが、以前赴任していた学校の生徒に大変な読書家がいた。携帯の会話とマンガと怒号とレーザーポインタが飛び交うクラスの最初の授業で、彼は吉本隆明『共同幻想論』を読んでいた。シュール一歩手前の、その孤高の姿に驚いた。
気になって次の時間に何を読んでいるかと尋ねると中上健次、その次は山田詠美、今度はガルシア・マルケス…、その後はいちいち書名は聞かなかったが、常に机の下では文庫本が握られていた。
こういうのはきっと戦略的な読書と言えるだろう。彼は明らかに作家志望であることが、評論と人気作家の作品を同時に読んでいることからうかがえた。要領を得ない国語教師の授業よりも、独学で理論と実践という訳か。
教員に限らず社会人になると、どうもアウトプットが多い。人前で話すたびに、自分の言葉がすっかり摩滅していることにしばし驚く。ツルツルのハードディスクに、呪詛の言葉を書き込めるのはまさしく十代だけだろう。
この読書家の少年は、キレるとからかった級友の背中に鉛筆を突き刺すような男だったらしいが(!)高校時代の孤独なインプットの果てに、今頃きっと膨大な悪意を、世界中に撒き散らしているのかもしれない。
読書の大切さをここで述べる気はない。
しかし、あなた(二高の諸君)はこれからどのように生きていくのだろうか。男前でちょっと優しくて力持ち、頭脳明晰財産ガッポリであるならば問題ないだろう。偉くなってくれ。
しかし、(多くの)不細工でガサツな諸君を見ていると、私は我が事のように心配になる。一体何を武器に、この不確かな世界を歩いてゆくのか。
未来を切り開くのは体力か?金の力か?限りある若さか?暴力か?
書物が明日を保証してくれる訳ではないが、驕りのない諸君から、私はまずは自分にあった書物を手にされることをお薦めしたい。
冒頭で云ったように、本に縛られるというのも馬鹿な話で、古本屋でたむろする人人を私は決して美しいとは思わない。歩きながら読むほど大切な本も、ない。
しかし、何かと対決する時(あるいはその準備のため)には、人は他者の言葉を自分の言葉として獲得するしかないのである。「檸檬」みたいな爆弾は、どこあろう丸善に隠されている。
そして書物は必要なくなれば、庭で焼いてしまえばいいのだ。制度の側の言葉や、くだらない御託を並べる本は捨ててしまえ。心配はいらない。やけっぱちな破壊で灰になった書物から、本当に強度のある言葉は、何度焼いても立ち現れてくるはずだから。
そして私は二高の諸君が、暴力によってでなく、書物の言葉で、世界を焼き尽くしてくれることを切に願う。
(法政二高「図書館だより」二〇〇三・二)
浪人時代には、絶対に戻りたくない。一億円出されても、嫌だ。五億キャッシュで用意するなら、一応交渉のテーブルにはついてもいい。そんな下らない相場をいうくらい、大学浪人は、暗黒である。
あまりに辛いので、髪も伸ばした。木村拓哉さんや、江口洋介さんが長髪を流行らせる前だから、若干早すぎ。周囲からは奇異な目で見られるだけであった。本人は、好きなバンドのドラマーの真似をしただけなのだが。
後ろでしばるチョンマゲに、黒いコート、背が低いので厚底のブーツを履いている。素浪人ならぬ、異形の世捨て人。
近所の小学生が、ホームに立つ俺をジロジロ見る。仕方なく、涼しい目をして前を見すえるが、全く勉強してないので、展望などない。ガキに見透かされるまでもなく、ノーフューチャー、出口なし。
母も浪人生に弁当を作るのは、嫌だったのだろう。小遣い以外に、毎日五百円換算で、月一万円ほどもらっていたと思う。しかし、その昼食代は、CDやレコードに消えていった。普段は予備校のまずいハンバーガーを、コーラで流し込んでごまかしていた。
それでも腹は減る。
梅田の大阪駅前第一ビルに、なかなかいい中古レコード屋があり、何も買わなかったときは、同じ地下街のカツ丼を食べた。目の前で卵を落とし、真面目に作ってくれる。
カレースタンドは、どうも今でも、大阪のは美味いらしい。当時は、南海電車から御堂筋線に乗り換える地下の「なんなんタウン」の狭いカレー屋や、南海線難波中央口にあった店のカウンターにはよく座った。連絡地下道には、タワーレコードの偽物(?)のスターレコードという店があり(袋が黄色だった)抜け道だった。この一帯はすでに再開発され、今はマルイの地下街になっている。
立ち食い蕎麦もよく食った。千日前のプランタン(現ビックカメラ)の前に天地書房という古書店があり、その横の店に入った。そば粉より、小麦粉の方が多いタイプだ。
隣には、七輪を囲む焼肉屋があったが、浪人時代は食べたくても一人では恥ずかしくて入れなかった。昼間から赤ら顔のオッサンを、うらやましくも眺めていた。中年になった今では、一人焼肉もまったく大丈夫だが。
腹は減るが、安いものばかり。浪人生は、レコードと古書を片手に、猫背で、いつも空腹を抱えている。
忘れもしない二〇〇三年、わが愛する阪神タイガースが、破竹の快進撃を重ねていた六月末のことだった。
私は生まれてはじめて、救急車で運ばれた。急に呼吸ができなくなるパニック障害だ。原因は、至極単純に、恋愛問題にあった。挫折というには、今から考えればバカらしいまでの話だが、そのときは人生最大の危機だった。
大事な人を失った。
途方に暮れた結果、毎晩、浴びるように酒を飲み歩き、その破局の事実から逃れようとした。絶対に、敗北を、認めたくなかった。一日たりとも、欠かさず、勤勉に、毎夜バーで馬鹿騒ぎをしていた。
一種の熱狂、長く躁の状態が続いた。美しい人への恋を、醜い感情を、安楽死させることができなかった。
その結果が、ドップラー効果つきでの、病院搬送であった。
翌日、仕事を全て投げ出し、しばらく大阪に逃げ込むことにした。病院に駆けつけてくれた友人に、新横浜まで車で送ってもらった。
偶然ホームには、ファンに囲まれた一団がいた。タイガースの面々である。昨夜の試合も、ベイスターズに快勝していた。今岡が、赤星が、金本が、そこにはいた(と思う)。
いつものエコノミーが取れず、グリーン席に座ると、車両はまるごと、私以外全員阪神のレギュラー陣であった。おお。
まだ、躁を引きずっているパニック障害の俺が、ここで有頂天になっては、単なる迷惑なファンである。なら一人だけ、握手をしてもらおうと思った。たった一人なら、許されるだろう。
ターゲットは、もちろん星野仙一である。どん底のダメ虎をわずか二年で引き上げた、我らの「神」だ。飲み歩いた朝、デイリースポーツをコンビニで買い、阪神の圧勝に「世界は、美しいな」とひとりごち、何度酒臭い涙を流したことか。
しかし、チームで唯一、仙ちゃんだけは飛行機での移動だった。健康上の理由で、そうなっていることを、私はデイリーのベタ記事から知っていた。
では、誰に握手してもらうか。
もちろん、それは田淵幸一である。大阪のガキどものパジャマにはその昔、彼の背番号の22番か、若虎・掛布の31が刻まれていた。よく言われるように田淵は、滞空時間の長い、美しいホームランを量産した甲子園のアーチストだった。そのヒーローが、目の前の通路を歩いてくる。
――田淵さん、握手してください
お願いすると、氏は全くの無表情。
何だ、ダメかと思うと、すれ違いざまに、グッと握ってくれた。あっという間、だった。
あのとき、もし握手をしてくれなかったら、パニックで恐ろしい一夜を過ごしたあとの私は、ひどく落胆したかもしれない。
月並みだが、田淵さんには、死ぬほど感謝した。
田淵幸一は、助っ人だったアリアスより、誰より大きい人だった。
あれから、ちょうど十年が経った。
長年勤めた高校から、中学に異動になった。
同じ大学付属校の中では当然のこと、しかし、これは私の人生設計には全くない、突然の事件だった。
異動を申し渡されたのは、部署では私が二人目だった。青天の霹靂という紋切り型の嘆きを、何度も繰り返した。
職務に忠実に、自分なりにはやってきたつもりである。文化祭や卒業式のイベントも盛り上げた。しかしそんなことは、この学校では、誰にも、何の評価もされないことだと、そのとき実感した。
組織の都合で、人間が入れ替わる。いわば、プロ野球のトレードと同じである。動く金額が桁違いだが、野球人もまた歯車の一つで、一人で試合はできない。
田淵さんをはじめ、タイガースから放出された、あるいはやってきた選手たちのことが、自然と思い出された。エースの江夏豊、文句なくカッコよかった江川事件の小林繁、実は生え抜きではなかった真弓明信、トレードではないが、突然辞めたエモヤンこと江本孟紀…。
私は、半沢直樹級の職場のエースでもなければ、田淵幸一のような大型スラッガーでもなかった。しかし、来年もいるつもりのチームから、一人だけ外された気持ちは、恐らく同じだ。
世間知らずの私は、四十を過ぎれば自分の意に反した人事異動が、大企業では当然のようにあるということを、このとき初めて知った。
田淵さんは、夜中に球団から呼びつけられ、トレードを告げられたという。
あのときの握手は、男がまさに勝負をかけていることが一刹那にわかる、ずしりと重いものだった。遺恨のある古巣に帰って、田淵は盟友・星野の片腕として、役目を果たしていた。
あのあと、阪神タイガースは真夏の「死のロード」で失速したが、見事にリーグ優勝を果たした。
九月の連休にも帰阪した私は、実家で田淵と星野が甲子園で抱き合うシーンをサンテレビで見届けた。
昔から応援している大阪人は、このタイガースの優勝に、はしゃがなかった。みんなジーンとして、ちょっと涙を浮かべながら、星野の胴上げをテレビでぼんやりと眺めていた。
﹁もう阪神タイガースのことは忘れて、勉強してくれ」
担任の先生が頭を下げた。
新ダイナマイト打線が、当時最強だった西武ライオンズを撃破し、日本一に輝いた翌朝のことである。中学三年生だったから、一九八五年のことだ。
物心ついた時から、阪神タイガースは「ダメ虎」だった。
子どもの頃の原風景は、サンテレビの実況中継でバッターは掛布雅之、甲子園球場九回ツーアウトランナーなし、点差は開いている。掛布はこういう場合、見送り三振で倒れる。ゲームセット。
﹁消せ!」
オトンの怒号とともに、家の中がシーンとする。
しかし、この年は違った。例のバース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発や、その強力打線が七点差をひっくり返した試合もあった。負ける気がしない。新聞は「げに怖ろしき六連勝」と書き立てる。地元のサンテレビも、デイリースポーツもノリノリだ。
エースはいなかったが、中西と山本和のダブルストッパーが、渋かった(「渋い」とは、大阪弁でかっこいいの意)。
鬼神か、野球の神様か、何かが全員に乗りうつっている。私は、リーグ優勝を決めた試合の、掛布の同点ホームランが忘れられない。それはポールに弾かれた渾身の一発だった。
秋の文化祭に向けて、僕らはバンドの練習と、並行してクラスの悪友たちと演劇の企画もやっていた。内容はボクシング部を擁する学園物であった。スタローンの『ロッキー』が流行っていたので、安易になぞらえて、タイトルは『ポッキー』だった。
誰かが持ち込んだラジオで、日本シリーズを聞きながら準備していた。背景画を描いていたか、衣装を縫っていたか、とにかく放課後にみんなで集まっているだけで楽しかった。しかも、生まれて初めての、日本シリーズだ。
あの憎たらしい、阪神タイガースをバカにしきっていたライオンズの広岡達朗監督が、次第に青ざめていく選手権が終わる頃、文化祭当日を迎えた。
TVの隠し芸大会で恒例だったハナ肇のブロンズ像を、赤尾がやりたがり、絵具で全身を青緑色に染めていた。ボクシング部全員で、頭をハリセンで張ってやった。
ハナ肇は、自分のバンドの準備ができず、悔しかったのか、ずっと緑色の姿のままで、僕らの昼休みの演奏は聴きに来なかった。
あれから思えば浪人時代を除き、三〇年近く毎年文化祭の準備をやっている気がする。
まるで、押井守『ビューティフル・ドリーマー』だ。
踏切の向こうに、マンションと泉州銀行のセットで、突如西友ストアが開業した。
世は西武文化隆盛の八〇年代初頭。エスカレーター付近に、例のウッディ・アレン「おいしい生活」のポスターが貼られていた。
書店が大きく、プラモデルのコーナーもあり、家電が充実し、無印良品の売り場があった。無印、まさに西武文化。早速、白い自転車を買ってもらった。
それまで、近所にはライフというスーパーしかなかった。食料品はこちらが安いのだが、やはり新し物好きの心情から、客は新興店に流れ始めた。あっちはレストラン街があるし、ゲーセンは綺麗だし、フードコートで今川焼きも売っている。
そこでライフは、いろいろ奇策を講じてきた。
先に書いたガンプラの特設会場もそうだが、その最たるものは、当時人気絶頂だったイモ欽トリオを、興行に呼んだことだった。スーパーの屋上アトラクションといえば、せいぜいゴレンジャーなど戦隊もののショーくらいだった。このライブ告知に(誇張なく)街中騒然となった。
学校でも話題になったが、先生からは「ものすごいパニックになるだろうから、小学生はなるべく行かないように」というお達しがあったかもしれない。
その日は、ライバル西友ストアの屋上から、なんとか人気グループ見ようとする猛者も現れた。立派な営業妨害である。兄弟でライフの通りまで行ったが、近づくこともできず、結局引き返した。実際、イモ欽トリオのご尊顔を拝した人は少なかったと思う。
しかも、レパートリーはシングルの二曲で、何度も演奏され、最後はゴミのコンテナに隠れて、スーパースターは会場を脱出したという。
この明らかな西友への「奇襲攻撃」は、大阪人が好むところの「いちびり(人と違う変わったことをする)」の精神の発現である。「ライフはなんか、おもろいことやってくれる」という奇妙な信頼関係が、地元民との間には生まれていた。単に野菜が安いだけやないぞ、と。東京発の西武文化に、ついぞ感じなかったのは、その心意気であった。
時は流れ、西友はその後、撤退してしまった。これはこれで悲しい。しかし、ライフはいまだ健在である。
今住んでいる川崎にも、たくさん出店している。
妻は最近、買い物はすべてライフにしている。他のスーパーに比べて、安くて、ものがいいと感心しきりだ。
いやいや、ライフは昔からすごいんだぜ。
二度しか会っていない。しかし、噂の絶えない人であった。
おじいちゃんが、何やかんやの肩代わりで山をひとつ処分したとか、喧嘩でヤクザを半殺しにした友人を国境まで逃したとか、フランスに潜伏しているとみせかけて、国内にいたとか、実は縁を切っているとか、ろくな話はない。
そんな人だから、誰の結婚式でも見かけていない。しっかりと話したのは、おじいちゃんの葬式だった。九十八歳の大往生であるからして、棺には紅白の布が巻かれ、近所には餅が配られた。これはめでたいというわけで、伯父さんも帰郷していた。
ルックスはいい具合に枯れて、堅気でない雰囲気が出ている。映画監督の深作欣二ほどヤクザではないが、詩人の田村隆一さんくらいのアウトロー感はある。もう七十は越しているから、葬儀でオレンジのマウンテンパーカーでも、誰も文句は言わない。別枠、である。
ポラロイドカメラで記念に撮った写真を見返すと、司馬遼太郎か天本英世の死神博士か、真っ白な長髪だ。
私は、子どもの頃から赤いシャツを着たり、バンドをやったり、適当に歌舞いていたが、そのたびに「お前は、俺の兄貴の血を引いとる」と親父に冗談っぽく言われたものだった。
しかし、一緒に撮った写真を見る限り、私など比べ物にならない。オジキの雰囲気は、やはり只者ではない。
さて、その伯父は絵描きだった。田舎の茶の間には、赤い絵が飾られていた。燃える太陽を分断する地平線だか水平線だかが引かれた、意味不明の構図だった。ウチの親父の書斎にも、裸婦のスケッチがあった。
オジキは関西を中心にした芸術集団、具体美術協会のメンバーだった。中心人物は、吉原治良。具体美術といいながら、作品は「具体」的でない。ざっくり言えば、岡本太郎に近いが、それよりも分かりづらい。
のちのパフォーマンスやインスタレーションにつらなる前衛芸術家が結集していた。作品は額縁だけを野外に配置したり、紙を破って画家自身が飛び出してくるものなど、型破りなものが多い。この集団の活動資金は、吉原製油社長の治良によって支えられていたという。
弟はその後、たまたま吉原製油(現J-オイルミルズ)に就職したが、会社の人からは「君は、あの喜谷の甥なのか」と驚かれたという。
葬式で会ったとき、話題になったのは、もう一人の伯父が彫った仏像のことだった。実家を継いで工務店をやっていた次男のおっちゃんは、伴侶を先に亡くしている。突然のくも膜下出血だった。イタコの口寄せに、おっちゃんは恐山まで行ったらしい。そして、おばちゃんの供養のために、日々仏さんをこしらえているという。
本業が大工だけに、結構うまいと思ったが、「こういうのは、まずデッサンしてから彫らんといかん」と画家の伯父の方は、にべもない。さすがは孤高のアーティスト、情け容赦ない。
芸術家は、こういう残酷さが必要なんだと、直感的に教えてくれた気もする。
結婚を機に、このヤクザなオジキとは、年賀状のやりとりだけはしていた。綺麗な版画が送られてきて、ちょっと楽しみだった。画業以外にも詩集も出しており、晩年にはまともな出版社から全詩集が編まれたりもした。
伯父が神戸で死んだとき、末弟が父母と葬儀に参列した。祭壇には、異様に若い頃の遺影が飾られ、まずそのことにギョッとする。棺には彼の最初の詩集に収められたエピグラフが刻まれていた。当時の恋人への献辞である。
――この嬉しさは限りがない
――たとえ私が死んでもこれは続くものであろう
弟曰く「さっぱり意味がわからんかった…」
皮肉なもので、伯父の死後、具体美術協会の再評価は世界的なものになった。海外でのキュレーションが、ツイッターでもバンバン流れてくる。時代がついにオジキに追いついたのか?
国内でも、二〇一二年に初めての大規模展が企画された。国立新美術館での、堂々たる回顧展である。作品は二つ出品されていた。衰亡か、幕引きか、オジキがこの芸術運動に参加した時期は、いずれにせよその終焉期にあたる。
作品はキャンパスがでこぼこに隆起するぶっ飛んだもので、原始的な女性礼賛を思わせる、要するに乳房と臀部が派手な布で貼り付けられたトルソーだった。
伯父のことなど、誰も知らないはずだ。しかし、作品はいろんな人に、熱心に見入られている。画の側には、ご大層に膝掛けを持った監視員までいる。
そのあやしいオブジェ、僕の好きな伯父さんが昔作ったんですよ、どうよどうよどうよ、と自慢したくなった。しかし、それは作品以上に怪しい行為だった。
かわりに、オジキよ、なかなかやるやないかと、心の中で叫んだ。
図録を大阪の実家に送ってやると、親父も相当喜んだらしい。
夏休みの宿題というのは、いつも、誰にとっても厄介なものだ。
特に、ネットがない時代の絵日記は、まず天気が思い出せず、苦しい。晴れだったか、雨だったかと、古新聞を探る。
何でちゃんと、やっとかへんの!と母の叱責。
ある年は、いつも夏の終わりに慌てるので、絵日記以外の宿題を三日間で全て終わらせると宣言した。あとは遊び放題だと自らに言い聞かせ、公約通り完遂した。もっとも、次の日から夏風邪で寝込んでしまったが。
自由研究というのがまた厄介だ。どちらかといえば、図画工作は得意分野だったが、いい加減にやると評価されない。
四年生ともなれば、ちょっと大作に挑戦したい。構想がまとまらず、考古学が専門の父に相談すると、
﹁市内の地図に等高線を引いて、高低を色分けして表現したらどうか」
用意されたかのように、アドヴァイスが即座に入る。
新しい地図だと等高線に「味」が無いので、昭和初期の地図を、開館したばかりの市立図書館で貸してもらった。ただ、地図のコピーにそのまま着色では面白くない。悩んでいたら、
﹁地図にトレシングペーパーを重ねて、等高線の色分けはそちらに描いて、めくれるようにしたらどうか」
親父から具体的な指示が入る。大型のトレシングペーパーは、小学校前の「門前」という文具屋で手に入った。なかなか高尚な感じまとまり、自分でも満足した。
五年生の夏、同じようにあれこれ思案していると、
﹁今年は、立体地図にしたらどうか」
というオトンのお達しがある。自然の山も面白いが、やはり前方後円墳が面白いのではないかという話になる。誰でも知っている世界最大の仁徳天皇陵というのも、芸がない。そこで、五色塚古墳が候補として浮かんでくる。
この陵墓は復元された珍しいもので、現場を指揮したのは反柳田民俗学の旗手・赤松啓介。神戸の教育委員会にいた父は、その作業に尽力した。完成式典には、家族で出席した記憶がある。復元された埴輪の後ろに落ちた紙飛行機を取ろうとして、弟が無茶苦茶怒られたことも鮮明に覚えている。
これも等高線に曖昧さがある方が味があるので、復元前の地図を使用した。高低差に合わせ、ポスターカラーで市街地はベージュ、堀は水色に、古墳は緑系の色を塗り分けた。学校での評価もまずまずだった。
﹁いよいよ、最高学年だな」
六年生になると、もはやオトンの方が乗り気だ。
﹁今年の夏は、集大成となるものを、作らねばならない」
親父は高らかに宣言する。
﹁竪穴式住居にしよう」
すでに腹案があるらしく、サイズや材質、大きさについて話し始めた。一応「ねずみ返しのある、高床式倉庫の方がいい」などと思いつきを上申すると、「小さな木を組むのは難しい」と即座に却下された。どっちの宿題か、もはやわからない。
材料は、勤務先の博物館の業者からか、小包で続々と送られてくる。準備は粛々と進められた。
台座は魚屋さんでもらった正方形の発泡スチロール。ちゃんと、側溝も削り、大地の色をポスカで着色する。
藁葺きは、実際の藁ではスケール感が合わない。そこで、萱の枝を親父は用意してくれた。取り付けの針金も、金属がむき出しでは見かけが悪い。そこで紙が巻かれた特殊なものを使用し、茶色に色づけする。柱も、模型用の細い木材を使った。
構造は単純だが、梁や立て付けなど、要所要所は親父がしめた。大作だった。
学校には一人では持っていけない。自転車の荷台にくくりつけて、始業式の放課後にオカンと運んだ。その足で、夏課題を展示する特別教室に搬入する。
展示室に並べてみると、まずサイズがケタ違いで、存在感だけで他を圧倒していた。担当の先生は呆れたように、親父の夏休み課題に「最優秀賞」と札をつけてくれた。
学校の連中は、みんな優しいので「お前のオトンが作ったんやろ」などと、無粋なことは言わない。
さすがは、学者の息子やのーと、温かく迎えてくれる。
﹁あんた、起きや! 大学から電話、大学!」
枕元まで来て、母が私を起こすことなどない。
暗黒の浪人期はすでに終わっていた。すべての大学に落ち、ある私立大学の夜間にしか引っかからなかった。入学金と半期の授業料はすでに払いに行っている。さびれた商店街と、その外れにある淋しい校舎だった。こういう場所の大学に、真面目に夜間で、しかも法学部に通えるのか、大いに不安があった。不安だったので、遅くまで寝ていた。
電話は、地方のある公立大学からだった。補欠合格だという。
一週間前、試験の結果が送られてきた。居間で、通知の開け方がわからず、モタモタしていると親父が横で、
﹁お前、落ちてるよ」
嫌なことを言いやがる。開けると、実際落ちていた。腹が立ったので、見る前からなんで決めつけんね、と親父を怒鳴ったが、書面と一体化している封筒の隙間から、「不合格」の文字がのぞいたらしい。バカらしくて、結果は投げ捨てた。
関東に行く気はなかったが、地方試験があったので、軽い気持ちで受験していた。その大学の名称に「都」という文字があったので、多分東京に近いのだろうと。
あの頃の気持ちを今自分に問うても、全くわからない。要するに、自分の将来について何も考えてなかったのだろう。受験勉強に精進する気も一切なかった。
地方試験の会場は、梅田の一駅むこう、中津の河合塾だった。いわゆるC日程の大学で、全ての大学受験の最終日だった。行く気がなかったので、答案用紙をすべて埋めなかったことはよく覚えている。
結果がどうであれ、夜間に金を払い込んでいるので、二浪は絶対にない。もう試験を受ける必要はないのだ。毎週毎週、模試を受けてきたが、もうあんなことはやらなくていい。
奇妙な解放感に包まれ、好きなだけ本を読もうと思い、梅田で降りて、新道沿いに当時あった旭屋書店で、分厚い夢野久作『ドグラマグラ』を買った。
補欠合格には、素敵な時限爆弾がもれなく付いてきた。
﹁今、九時ですから、正午までにお返事ください。ご返答がない場合、次の方に合格をお譲りすることになります」
大学は、山梨にあった。おそらく「都」ではないだろう。母と近所の祖母を交えて、家族会議となった。
母は、大阪市立大学の二部を出ていた。その経験から、「昼間の学校の方がエエで」という話になる。私立の夜間より、公立の方が格好がつく。渋っていると、祖母が「これ、持っていってもいいから」と、二百万ほど残高のある通帳を見せる。そうか、詰腹というのは、こう切らされるのかと思った。
どうにでもなれという気になれなかったのは、大学に受かれば、バンド活動を再開させるつもりだったからだ。大阪を離れれば、バンドは解散になるだろう。仲間に悪い、という思いがあった。
頼みの綱は、親父だった。
﹁お前みたいなアホは、どこにでも行け」といういつもの憎まれ口を叩いてくれたら、逆ギレして、「そんな田舎の大学になんか、誰が行くかボケ!」と、この話を反故にするつもりだった。
ところが職場に電話すると珍しく、
﹁悪い話ではないんやないか」
などと、いつもと違い、神妙な口調で暗に地方への進学を促された。やられた、と思った。
刻限が迫っていた。
見知らぬ市外局番のメモを、母から受け取り、自らを大阪から追放するため、受話器を上げた。
あまりに田舎の大学なので、途方にくれた。
受験勉強に背を向け、浪人したにもかかわらず精進せず、予備校に行ったふりをして、レコード屋に通い続けた結果といえばそれまでだが、にしても余りある流刑地だった。
大阪から東京まで、新幹線で三時間。新宿から甲府行きのバスに乗り込んだが、八王子を過ぎたあたりから、緑の割合が尋常でない。もう着くか、もうこの辺で降ろしてくれと願ったが、樹々の勢いは増すばかりである。カーテンを引き、都会を求めるのはあきらめた。
高速バスを降ろされると、砂塵が舞う以外、何もない。タクシーもつかまらず、駅らしき方向に、母と歩く。蕎麦屋が見つかり、落胆とない交ぜに、無言で食す。
町に着くと、「フィリピン・バー開店」の捨て看板が、十メートルおきに立てられている。嫌な土地だ、と思った。立て看が車窓を流れるさまを見て、これが勉強しなかった報いか、とはじめて後悔した。
大学の事務で学費を払い込んだものの、
﹁あの金、今から返してもらわれへんかな」
つい世迷言を母に言ってしまう。
そんないい加減な進路選択があるかと思われるかもしれないが、あの頃の気分を問われても、よく分からない。どう生きていくのか、本人にもよくわかっていなかったのだろう。
後から、友人になった周りの連中に聞いても、同じような感じだった。特に浪人してこの大学に流れ着いた仲間は、私のように勉強しなかったか、極端に運が悪かったか、杓子定規に「公立」というだけで来た者ばかりだった。
当時、東京都立大学の心理学科の人気が高く、同じ文学系ということで、滑り止めで漂着した文学少女も何人かいた。
﹁俺は、本当は東大だったのに」
などと、講義中にうめく元浪人生もいる。その声に、
﹁一緒一緒、おんなじ大学、おんなじ大学」
振り返り、これまた聞こえるように、引導を渡してやる私。
推薦で入った地元の真面目な女の子たちにとって、醜い言い争いを繰り広げる、我々ひねくれた受験敗北組の存在は、衝撃的だったようだ。
かつてスキーはレジャーの花形であった。まあ、一番ヒップなスポーツのひとつだったわけだ。「レジャー」も「花形」も、もう言わないが。
大学でも、夏はテニス、冬はスキーというのがナンパなサークルの典型である。その頃は『私をスキーに連れてって』というバブル全開の恋愛映画もヒットした。
私が通った小学校では、六年生の春にお伊勢参りの修学旅行があったが、冬にもスキー旅行があった。
小六を全員雪山に連れて行く。三〇年以上前のことであるから、これは画期的であったといっていい。
実地の前には、体育館で模擬演習が行われた。これを言うといつも冗談だと思われるが、キャスター付きの椅子をリフトにみなして、真剣に乗り降りの訓練を重ねたのだった。マットをゲレンデに見立て、もちろんスキーを履いてのフル装備で、シミュレーションをこなしていった。
ほとんど全員が初心者だったが、この特訓のおかげで、大きな事故もなく、みなスキーを楽しんだ。幼いながら当時の先生方のご苦労には、感謝した。
スキーに連れてくれるくらいだから、学年の人数は少なかった。そのせいか、修学旅行のお伊勢参りでは、なぜか学年の男子が全員大広間で寝かされた。
六十人ほどが、暗闇で天井を仰ぎ見る。お前の好きな子は誰なんやと、ずっと聞き続ける奴や、奇声を発する者、六年男子が全員集合で、寝るわけがない。「静かにせえや」と眠い奴が言うのが、立派な前フリになり、それを合図に誰かがプーっと放屁の口真似をする。一晩中、このボケ合いが続いた。
スキー旅行のときは、好きだった女の子の部屋に、川瀬と入って、担任の組橋先生にこっぴどく叱られた記憶がある。
女子の部屋では、僕らは好意的に迎えられたので、実は川瀬とのコンビは女子に好かれていたのではないかと、今でもうぬぼれている。
昔はおおらかだが、今そんなことをすると小学生でも大問題になるんだろうな…
小学校には、茶話会というものがあり、各学期の最後に出し物を競い合った。クイズに、歌、ハンカチ落としや、椅子取りゲーム。
しかし、一番熱中したのはお笑いだった。
大阪の場合、頭のいいやつ、スポーツが得意なやつ、ケンカの強いやつが尊敬を得るのはもちろんだが、やはり「おもろいやつ」が一目置かれる。
授業中のちょっとしたツッコミ、ボソッとつぶやく警句、テレビのマネでない一発ギャグなど、芸風は様々だが、クラスで一番おもろい奴になるのは難しい。
芸人たちは、常に自分の順位を気にしている。オレより面白いのは、誰なんやと。
そうすると、学校で一番おもろい奴というのは、どう考えてもスーパーエリートである。吉本興業に入り、人気者になるということは、灘高から東大に入るより、大阪では価値があるかもしれない。
こんな風土だから、関西ではしばし「沢田研二と志村けんと、どっちがかっこエエのか」という、東京ではあり得ないテーゼの立て方をして、激論が交わされる。
志村はまぎらわしいことに長髪で、またそれが確信犯的でもある。
さて、その茶話会だが、友人とトリオを組んで、当時売り出し中の「コント赤信号」のコピーで、笑いをかっさらった。ところが、何もやれない「おもんない」奴らからは、いらん嫉妬を買い、「あれは東京の笑い」「そもそもマネやないか」と批判を浴びた。
茶話会は学期末に行われるのが慣例である。そこで、リベンジの二回目は、すべてオリジナル、コントでなく漫談形式で臨んだ。ボケてボケて、ツッコミまくる我々に、誰もいちゃもんをつけなくなった。
関東に住んでいると、「大阪人のオレが、なんかオモロイこと言わんとイカン」という民族的な自覚に基づく強迫観念が働き、ついつい軽薄な発言を会議でもしてしまう。その度に、百の恥をかき、ここは大阪ではないので、全く尊敬を勝ち得ない。あいつはアホやと思われとる。
私は、どちらかというと、コントで嬉しそうにボケているジュリーが、誰よりも一番かっこよかったと思う。
関東のうどんやそばのつゆが、真っ黒だということは、関西人は誰もが皆知っている。関西のダシは透明で、醤油を煮たような色ではない。
もし向こうに行っても、それだけは食べんようにしよう、そんなもん食えるか。
そこで、山梨に引っ越した初日、大家が出前を取ってくれるというので、カツ丼を所望した。サイドメニューのそばは、真っ黒だろうからカット。同じ敷地内の店だったので、熱々がやってくる。
さあ、いただくと、これが猛烈に甘く、またしょうゆ味が濃い。ダシがしみたご飯は残し、衣を剥いだ豚肉だけをビールで流し込んだ。油断していた。関東第一夜の、挨拶代わりのキツイ一発であった。
見た目では分かりづらいが、山梨は丼ものが全てこの調子で、大阪人にとっては、うどんやそばよりも辛かった。その後も、大学周辺の定食屋の味の濃さには、閉口しつつ、しかし選択肢が他にないので、自分の舌を慣れさせるという苦行が続いた。
いわゆる江戸前の寿司飯が、「人肌」だというのも初めて知った。
ゼミの先生に一度ご馳走になり、職人さんからは「うまいだろ」と声をかけられたが、こちらとしては「飯が温かいということは、仕込みが甘いんだろ、このヘボが」くらいにしか思わず、先生には悪かったが、寿司は楽しめなかった。このシャリの温度問題は、その後慣れることになるが。
ところで、その日もからっ風が吹き下ろす、寒い夜であった。
夕方、同じ音楽サークルの女の子から「おでんをいっぱい炊いたから、食べにおいでよ」と誘いを受けた。腹を空かせた男子学生としては、ありがたい。同じ下宿で福岡出身のギタリストと、ご相伴にあずかりに行った。多分、二人で酒など買って持っていったと思う。
ところが、供されたのは、何と味噌田楽であった。わざわざ人を呼んでおいて、コンニャクを煮てミソつけただけかい…と大きな衝撃を受けた。女性は埼玉のある地方の出身だった。
おでん、などと言わず関西だと、それを関東炊きという。「かんとだき」だ。
一番好きなネタは、ふっくらした大きながんもと、よく煮た大根、卵も入れてもらい、ちくわにすじ肉、関東だと車麩やはんぺんが入っているが、そんなものは断じていらない。ジャガイモも必須で、厚揚げ、タコや、店ではさえずり、さつま揚げやごぼう巻きやなんやの練り物、昆布に巾着に入ったお餅に、まあ糸コンニャクも入れてもらいましょうか。
母が作ってくれた「かんとだき」が、寒い夜にいかに素晴らしかったかを熱弁すると、言われた方も怒っていたが、こればかりは譲れない。結局居座り、味噌をアテに、福岡の男と痛飲した。
関東は恐ろしい場所である。
この思い出話の数々を書く上で、「ケッパンのK」(15ページ)を母に先に読んでもらった。すると、
﹁このKは○○君やろ」
全く違う人物のことを、母は語り出した。
﹁ワルいKっていうたら、○○君やろ」
筆頭に上がるほどヒドイ人物であった。今、何をしているのだろう。
公園で仲間に入れてもらえないと、そいつの自転車のサドルに唾を吐くのが得意技だった。成績最悪、下ネタ全開。
その弟も悪ガキで、ウチの次弟はケンカで、頭にマヨネーズをかけられたりした。常に武器として携行していたのか?
一度、休みの日に家に行ったが、朝からベッドでマンガを読む兄貴がおり、タバコかあるいはもっと怪しいものか、とにかく煙だらけの退廃的なアパートだった。兄弟全員から、関わらない方がいいオーラが出まくりだった。
学校での悪行でインパクトがあったのは、チ○○○を教卓で出していたのよりも、給食のコッペパンでベッタン(東京弁で言うメンコです)をやっていたことか。
先生が教室からいなくなったら突然やりだす、絶対にやってはいけない遊戯、背徳の香りがするパフォーマンスであった。「いただきます」直後のマーガリンの丸呑みより、あのベッタンは強烈だった。
極めつけは、ロケット鉛筆事件である。
一時、削る必要がないペンシルが流行った。小さな芯のユニットが十個ほど軸に入っていて、先が丸くなったものを後ろに挿すと、新しいのが先から出てくる仕掛けだ。
この芯を、Kはふざけて吸い込んでしまったのだ。放課後だったので気がつかなかったが、即刻病院に連れて行かれたらしい。
翌日、教室でことの顛末を聞いた我々は、全員胸を押さえた。それは想像しただけでも、恐ろしいことだった。
Kは体格がいいわけではなく、肺に刺さったロケット鉛筆を開胸して摘出するのは、リスキーだった。
ある時、これまた流行っていたルアー(擬似餌)をわざわざ学校に持ってきて、セーターに引っ掛けられた私は、相変わらずKを敬遠していたが、この時ばかりはこの男の無事を祈ってやった。
結局、名医が吸引器でロケットの芯を取り出すことに成功し、Kの肺腑は切り裂かれずに済んだ。
身体は、そう丈夫ではなかったはずだ。中学の頃になると、ぐちゃぐちゃ言ってきたときには、逆に恫喝して黙らせたり、次第に私の中でも存在感が薄れていった。咳をしながらタバコを吸っていたのが、この男の最後の記憶だ。
Kの周辺の人々は、シンナー中毒で「歯がない」「まっすぐに歩けない」先輩とか、恐ろしい話ばかりなので、今も会いたくない。
そもそも何で俺、Kのこと書いてんのやろ。
作文をほめてくれる人が何人かいた。そのおかげで、文章を書くのが昔から好きだった。
中学校の時、国語の三宅先生が「キタニの文章の、書き出しがいい」とみんなの前で言ってくれた。今考えれば、陳腐な表現だったが、先生は「この書き出しがよかった」と授業の最後にも言ってくれた。
その前は、父の友人の春成秀爾さんが「ノブちゃん、この「涙の卒園式」っていうのがエエな」と、これまたつたないレトリックを絶賛してくれた。春成さんは当時、明石原人の発掘調査を行った「時の人」で、こちらは嬉しいというより照れ臭かった。
読んでもらったのは、六年生の時の夏休みの宿題で、原稿用紙五〇枚の「自分史」だった。長い文章を書くことを皆嫌うが、私(と同級生)の場合、小学校の時にこれだけの枚数を書き切ったのだから、以後の人生においても自信になっている。レポートが何枚だろうが、動じない。課題を設定したのは、組橋圭子先生だった。
その組橋先生の課題で、道徳か国語の教科書から一点作品を選んで、作文を書くというものがあった。五年生のときだった。
道徳だ、修身だというと、今なら逃げ出すところだが、その頃は、素直に、何か書いてやろうという気になっていた。多分先生の誘導が良かったのだろう。
選んだのは、韓国籍の女の子が、友達をはじめて家に呼ぶとき、民族的な匂いを感じさせるもの、例えばキムチやおばあさんの履物を隠して準備するという話だった。多分結末は、少女が自分の出自に目覚めていくというものではなかったか。他の細かい内容は、全く覚えていない。
ところが、先生の指導が入り、相当書き直したものだから、そこそこの出来になり、市内の人権作文コンクールで優勝してしまった。啓発的なパンフレットに、私の文章は長く載せられてしまうことになる。
文章は推敲するもの、しかも指導する人間が時には手を入れるというのは、自分が教師となった今では「常識」である。
しかし、その時はそんなことはわからない。人の手を借りて、実力以上のことをやったという思いが残り、なんとなく居心地が悪く、後ろめたい気がした。
それから、罪の意識とまではいかないが、キムチを食べたこともなければ、在日の友人もいない私が、何の実感や痛みもなく、教科書に登場する女の子の気持ちになってよかったのかと、こちらの方が気になった。
ずっとあとになって、在日文学の小説家や詩人の方と知り合いになったり、仕事では時にマイノリティーの子たちを教える立場となった。すると、このことが苦い記憶として蘇ってくる。俺は何も知らないのに、あなたたちのことを書いてしまった、と。
いつか、役所の資料室にでも行って、自分の書いた厚顔無恥な文章を読んでみたい気もする。
ところで、優勝した次の年は、誰の手も借りず、自ら賞を狙いに行った。やはり自分の文章をほめられたかったのだ。
題材は、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の読後感を中心に、土佐藩の支配階級の上士と、元々いた長宗我部の末裔の郷士の関係を論じた。郷士は、同じ武士でありながら、上級武士に激しい差別を受けていた。龍馬もその一人である。
土佐勤王党の武市半平太や龍馬らの悔しさと、人権の大切さを無理やり関係付けて、熱っぽく展開したが、全く評価されなかった。
それで終わり。思えば、下手に採用され続け、投稿マニアなどにならなくてよかったかもしれない。
保健室の前に「コーラで歯が溶ける!」と題されたポスターが、貼られていた。
ビーカーにコカコーラを満たし、そこに抜けた歯を入れると、一晩で歯が消えてしまうというのだ。今思えば、清涼飲料水の酸で歯が溶けるだけなのだが、まるで悪魔の飲み物のような言いがかりであった。
﹁絶対に飲んだらイカン」
母は我々兄弟に厳命していた。
コーラを飲むな、という割にファンタは許されていた。グレープかオレンジか、いつも迷って選んでいた。サイダーも飲んでいた。
コカ・コーラはアメリカそのものであり、オカンら反米左翼からすれば帝国資本主義の象徴であったのかもしれない。
柄谷行人が「あれは、単なる飲み物ではなかった」と言っているが、あながち大げさではない。コカインが入っているわけでもないのに、コーラは飲ませてもらえなかった。
駄菓子屋の前で、コーラを飲んでいるやつと、そうでない僕らがいた。
どっちかというと、やはり素行の悪いやつらが飲んでいた。飲み終えた瓶を換金しているさまが、またヒップであった。
ミネラルウォーターが一般的でない頃、冷えていないコーラが飲めれば、世界中どこだって旅することができると言われていた。生水を平気で飲んでいるのは、日本くらいである。
その話を聞いて、いつか世界の果てで、ぬるいコーラを片手に、見知らぬ景色を見てみたいと思った。
昔はグーグルマップがなくて、本当に良かった。
今日どこまで歩いていけるかとか、自転車で行けるところまで走ってみようかという、芥川龍之介『トロッコ』的なバカなトライが横行していた。文字通り、帰れなくなるというわけだ。
冒険者たちに、未踏の土地がまだあったように、僕ら少年にも、無謀な遠征が許されていた。
わが町、高石市は南北に南海本線や阪和線が走っているので、大阪市内に自転車で行くことも、和歌山方面に歩いて行くことも、さほど意味はなかった。したがって、迷走するなら、それは東西のラインになる。
臨海工業地帯の端っこに、大きな公園が出来たという噂を学校で聞いた。じゃあ、自転車でなく、歩いていこうという話になった。付き合ったのは、なぜか川合と三好だった。
今グーグルマップで測ってみると、実家から往復七キロほどだが、これは小学生の足には、相当遠かった。たどり着いた公園がまたしょぼい施設で、特に遊ぶこともなく、二度と行かなかった。しかし、無機的な工業地帯を延々と歩くあの殺伐とした爽快感は、記憶に残っている。
自転車での遠出も魅力的だった。
適当に走って、知らない模型屋を見つけた時などは、世界が一気に広がった気がした。
今は逆にスマートフォンがあるから、でたらめな街歩き、下調べなしの行き当たりばったりの観光が可能になったが、あの頃の未知への感覚はもう戻ってはこない。
世界にすき間がなくなった。
結婚するまで、十五年ほど一人暮らしだった。
最初の部屋は、山梨で借りた六畳一間、トイレ風呂が共同で、二万円。光熱費が五千円だった。
後で知って後悔したが、大家は極悪なことで有名で、入浴時間が過ぎれば、人が入っていても風呂のガスを切るようなジイさんだった。足が悪く、傷痍軍人だという噂もあった。
一人暮らしを始めて、自炊はともかく、二槽式の洗濯機の使い方など最初はわからなかった。男性は家庭を持つ前に、一度は一人で生活をするべきかもしれない。
やがて洗濯をこなし、屋上にTシャツを干したあと、読書会のテキストなどを読んでいると、自主独立の風に吹かれているような思いにかられ、心地良かった。
しかし、山梨はいかんせん冬が寒すぎた。コタツしかなかったので、光熱費が定額なのをいいことにコンロで暖をとったこともあった。
二年目に大家が「ワンルームが空いたから、移るか」と提案してきた。三万五千円でいいという。そのかわり、隣の学生には値段は黙っていろと妙な条件がつく。怪しいが格安なので、同じ敷地内だが引っ越すことにした。シャワーと固定電話が部屋についたので、初日はテンションが上がった。
階下に水を漏らして大騒動になったり、隣の奴と大げんかしたり、いろいろとトラブルもあったが、結局七年間その部屋にいた。家賃はその間、五千円くらいは上がったかもしれない。
共同の電話を取り次がない、夜訪ねてきた友人を勝手に追い返す、部屋の修理費を払わす、バイクで乗りつけると「暴走族」とののしるなど、大学街で悪名高い大家だったが、大学院の最後の年には病気で亡くなってしまった。
初めて部屋を借りた大家が死ぬなんて、あまりに長く大学に居過ぎた。
非常勤講師の口が決まり、山から下りてきて居を定めたのは、川崎の登戸だった。職場は成城にあったので、通勤は二十分ほどである。
多摩川を越えた狛江や喜多見といった街は、駅前の表情が乏しく、それより都心だと値段が高くなる。そこで、ゴチャゴチャした登戸に即決した。友人からは、「お前の住んでた泉州の下町そっくりだ」とからかわれた。ひまわりマンションという間抜けな名前も笑われた。
部屋は六畳四畳半の2K、風呂は追い炊きができる古いタイプだった。首都圏の敷金礼金の高さを、そのとき初めて知った。
専任の口にありつき、今度は武蔵中原の2DKに移った。家賃は九万円。偉くなったものだ。ダイニングにはイームズやフリッツ・ハンセンを並べ、いい気になっていた。
ただし、この部屋はあまりいい思い出はない。内装が綺麗なことにごまかされ、日当たりをまったくチェックしておらず、また周囲の環境も、そう面白いものでなかった。
生活は沈滞し、恋愛は破綻し、毎夜飲み歩き、健康を害した。最近になって、その辺りを歩くと、そこの大家さんの屋敷が取り壊されていた。
私のああでもないこうでもないの独居生活も、その部屋の四年間で終わりを告げた。
バブルの空気を吸わされたものとしては、一人でクリスマスや誕生日を過ごすというのは、どうもカッコ悪いと思ってしまう。ひどい洗脳を受けてしまった世代だが。
その日は、仕事で六大学野球を神宮で観戦した。都会の真ん中にある球場は、こじんまりとした、それでいて気持ちのいい風が吹く場所だ。
法政大学は早稲田に快勝し、生徒のボルテージも上がりっぱなしだった。得点が入るたびに、肩を組み校歌を熱唱した。
夜は新宿に移動して、あの人と副都心の高層ビルでタイ料理を食べた。私の三十歳の誕生日を、彼女は祝ってくれた。
自分の輝かしい三十代が、これから軽やかに開けていく気がした。帰り道も、涼しい春風が吹いていた。
しかし、それは地獄の季節の始まりだった。
恐ろしい三十代の前半戦が始まった。
﹁俺も昔はワルでね」
こんな自慢話がバーで始まると、見ず知らずの人でも、「バカな話はやめろ」とたしなめるくらい、その手の話が嫌いだ。
停学だ、親に迷惑かけただ何のと言ってるくせに、どうして今はそんなまともなスーツでカウンターに座って、甘いカクテル飲んでるの?
昔やった悪いことも善行も、思い出話はすべて自己確認である。だから、そんな話は仲間内だけでやればいい。
大阪の悪友が集まると、必ず出るのが「エロ本発掘事件」だ。まだバンドに夢中になる前、無邪気にモデルガンやエアーガンを持って、僕らは浜寺公園で遊んでいた。
すると、いつものフィールドに、洋物のポルノ雑誌がふた山、松林に隠れて積まれているのを、誰かが発見する。一同興奮、のち閲覧。
ところが、何を考えたか、あまりに大量にあったので、埋めることにしたのだ。拾ってきたビニールで丁寧に包み、見えないようにカモフラージュを施した。過激な内容だけに、持って帰る勇気がなかったというのが大きかった。
が、やはり一冊くすねた奴がいた。翌朝中学校に持って行き、アホクラスなので全員で拝読、嬌声、貸与、流出、そして最後は英語の時間に、又貸しの男が鑑賞中に見つかった。桜沢先生の授業だった。
真面目なおばさん先生に見つかるというのは、最悪の展開だ。しかも内容がまずかった。「金髪の小さな女の子が◯◯◯で写っている!」と、桜沢卒倒。大問題になった。
かわいそうなのは、共犯の一人だけが桜沢の担任だったことで、放課後シャベルを持たされ、学年主任の車で浜寺公園に連行されていった。まるで、死体遺棄事件の現場検証ではないか。
そして、雨の中、犬のように、大量に埋められたエロ本を一人掘らされたという。
僕ら主要メンバーは、たまたま担任が寛容な井上先生だったので、
﹁お前ら、聞いとるぞ」
という一言で、不問に付された。親にばれても恥ずかしい案件だったので、武士の情けというわけか。イノセンには感謝した。
この話を毎回やり、友人が一人掘らされるくだりで、決まったように爆笑する。寸分違わず同じ話なので、付き合わされるそれぞれの家族や妻は、気味が悪いらしい。
多分死ぬまで、この事件は仲間内で語り続けられるだろう。
俺らも昔はワルクテヨー。
いや、もっと悪いことをやったのだが、ここには書けない。その罰だけを書く。
地元民からの通報で、僕らは学校から電話で呼び出された。何をやっても、名前などバレないはずだ。しかし、友人の名札が黒い糸の刺繍でデカデカと縫いつけられていたので、知れてしまった。普通胸の名札などは、洗濯でマジックが落ちているのだが、間抜けな話だった。
警察に、即突き出されたわけではないので、まあその程度のいたずらだが、学校は問題視した。すぐに呼び出しがかかり、そろって「出頭」した。
普段は使っていない校舎の端の教室に通された。靴のまま正座するように、学年の先生方に促される。
体育教師の大塚が、部屋の後ろの方でシャドウボクシングを延々やっている。殴られる、と思った。
大塚は「連帯責任」と称し、自分のはいていた汚いバスケットシューズで、我々男子生徒の頭を二クラス分どついたことがあった。体育の授業中だ。
誰が、何をやったか覚えていないが、全員が運動場に正座させられ、遠くの方からパコーン、パコーン、と打撃音が聴こえてくる。やがて自分の頭上でバッコッーンと炸裂する。
叩かれるより、次第に近づいてくるバッシューの音の方が嫌だった。体罰というより、きっとそういう罰だったんだろう。
なぜ、その悪行に至ったのかと、順番に先生に聞かれた。私に番が回ってきたので、
﹁親父が、田舎でしょっちゅうやってたんで、俺がみんなに話したから、こうなったかもしれません」
事実だし、相手の気勢をそぐのを計算ずくで言うと、意外に効いて、
﹁そ、それでもアカンもんは、アカンな」
説教モードは一気にトーンダウンした。
大塚は、獲物を屠れないと分かったのか、いつの間にかいなくなっていた。殴られなかったが、二時間くらいは経っただろうか。
このとき、長時間靴のまま正座させられると、立てなくなるということを知った。捕まった火星人のように、先生方に両脇を抱えられ、僕らは教室をあとにした。
きっと、そういう罰だったんだろう。
カバちゃんちには、エレキギターが十本以上あって、お兄さんが大量のレコードコレクションを有していた。
床に置かれたパソコンの画面では、五線譜が走っている。何だと聞くと「これで、兄貴が作曲すんねん」と教えてくれる。まだ昭和。とんでもない金持ちの家だった。
﹁キタニは、意外に高い声が出るから、サイドギターとコーラスや」
黒白のストラトキャスターを貸してくれる。
早速幾つかコードを教えてもらったが、弦が指に食い込み、どうにも痛い。文句を言うと、
﹁じゃ、ドラムで」
用意していたように、スティックをくれた。思えば、最初からリズム隊にする作戦だったのかもしれない。初日から、ドラマーに決定した。
メンバーはカバとジミーちゃんがギターで、テツヤがベース、チヤとクリちゃんがキーボード、オレがドラムという編成になった。
何より楽しかったのは、スタジオ練習だった。なんばの楽器屋(新星堂ロックイン)に併設された練習場には、たいてい日曜日の十時、開店と同時に入った。カバが予約してくれた。
﹁あした、スタジオ練な」
という言葉の響きが、中学生にとっては、何ともかっこいい。
ドラムは、その頃家になかったので、スタジオでだけ本物が思いっきり叩けた。他のメンバーにとっても、大音量を出せる場所なのだが、ドラマーにとって、外での練習は特別なことだった。
中学生バンドは、当時は珍しかったのか、ロックインの店員さんたちは楽器をまけてくれたり、ずいぶん親切にしてくれた。
学校の廊下を歩いていると、ばっこーんという爆発音と共に、ストーブのふたが飛んできたことがあった。
昔は空調などない。冬は石油ストーブだった。小学校は、柵などあったかもしれないが、中学は割と放任だった。
燃料をケチっていたのか、よく消えた。
消えると、寒い。
そこで、隣のクラスでは、聖火ランナーたちが立ち上がった。プリントを丸めて棒状にし、うちのクラスにやってきて、ストーブから火を点け、持って帰るのだ。
ランナーは日替わりで、度胸試し的に、選手が交代した。炬火も、新聞紙からホウキへとエスカレートしていく。
男子も女子も、走る、走る。そうしてどんどん、燃えかすが底にたまっていった。
突然の爆発は、勇気ある火祭りの結果だった。
アホの一年三組から、ストーブは撤去された。
夕方のNHKニュースを見ていると、この首都近郊での伝統の祭りとやらが、紹介されている。はだかで走ったり、泥の中で取っ組み合いしたり、卑猥なオブジェを担いだり。
関西人の、思いっきり上から目線でいうと、全部フェイクか、畿内のコピーに見える。要するに、偽物である。ごめん、関東人。
そのへんで担がれている、神輿というのもサイズが気になる。私の基準からすると、とても小さい。
親父の田舎の播州地方の秋祭りは、ふとん太鼓とか、屋台と呼ばれる巨大な山車を担ぐ。東京の神輿の数倍の大きさはある。それをクライマックスでは、「差し上げ」といって、持ち手が全員万歳のかっこうで太鼓を持ち上げる。勇壮だ。神輿など問題ではない。
地元はあの岸和田に近く、子どもの頃からだんじりを練り回していた。「練り回す」とは、行列を整えて山車を動かすということだ
ただ、昔は本格的なものではなく、僕らの地区は、軽トラックを擬装して、花車みたいなものに綱をつけて、小学生が引っ張っていた。
ところが、岸和田の祭りが「自宅にだんじりがぶつかって、たとえ壊れても、町の人間は誰も怒らない」という都市伝説も相まって、全国的に注目されはじめた。そのブームに乗せられて、遅れてなるものかと、我が町のまつりも、急激に変化していった。
具体的には、岸和田の本場のだんじり(地車)を、中古で一千万円ほどで譲ってもらうか、五百万円程度で小さめのものを新造するかという選択肢になる。
前者は迫力に勝るが、大型のため扱いにくい。後者は若干ショボイが、何より新品で素人集団でも操作しやすい。うちの地区は、五百万円以上かけて、派手な彫り物の入った新品の地車を買った。
屋根の上に立って、岸和田だと派手に舞うが、あれは地車の方向をチェックする重要な役割で、ずれてる方向に向かって、団扇で合図する。中学生以上だと乗せてくれて、私も何度か屋根で先導役をおおせつかった。頭上には、信号機がかぶさってくる。
小学生は、太鼓か横笛の担当だ。高速化することによって、小太鼓はトントット、トントットというゆるいリズムより、トコトッ、トコトッ、トコトッ、と疾走するフレーズが多用された。出で立ちも、自然といかついかっこうになり、さらしを巻いて地下足袋となる。
不幸なことに、死者がではじめた。
だんじりはコントロールが難しい。軽トラを仕込んだ花車時代はハンドルもついていようが、本式の岸和田型にはそんなものは搭載されていない。地車の後部のテコで、舵をとるのだ。
各地区がだんじりをリニューアルした初年度は、ある働き盛りの男性が、線路のガードに地車が激突した際に、はさまれて圧死。
また、木の車輪を真円に保つため、どこも巨大な桶に水を張って漬けているのだが、隣の地区の老人は、そこに落ちて溺死したという。
僕らの地区のだんじりは、やはり新品を購入した年に、やり回しに失敗し、西友の前の道路で横転した。やり回しとは、曲がり角を全速力で走りながら方向転換することで、見せ場であるとともに、岸和田でも怪我人の出る危険性がある局面である。
運の悪いことに、次弟が横笛で地車に乗っていた。ひっくり返ってすぐに、路上にはどす黒い液体が大量に流れ出した。妙に冷静に、
﹁あかん、これは誰か死んだ」
引っ張っていた全員が思った。恐る恐る、地車を立て直す。
幸い、路上に流れた液体は、積まれていた祝酒だった。
身軽な弟は、だんじりの中で小さくなっていた。
バンド結成には、明確な目的があった。文化祭での演奏である。
中学一年の文化祭で、陸上部顧問の梅ちゃんと、数学の木勢先生が突如昼休みに中庭で、アリスのコピーを披露した。♪ユアローリングサンダー、アー(『冬の稲妻』)ってやつだ。この暴挙に学校中が熱狂した。
二年目はさらに過激に、一年上の先輩たちが、フルバンドで、PA(音響装置)をバシバシに入れて、ハードロックを挙行した。
三年目は、俺たちがキメるということで、アリスの先生方に相談しつつ、学校との間に入ってもらい、業者や各方面と連絡を取った。
対バンは幾つか候補があったが、最終的にはヤーちゃんが率いるチェッカーズのコピーバンドになった。
練習をコンスタントにこなし、レパートリーを増やし、人様が一応聴いてくれる水準に持っていくことは、中学生にとっては難しい。幾多のバンドが「一緒にやろう」と名乗りをあげたが、どこも舞台に立つことはできなかった。
ヤーちゃんのバンドはみんな上手だった。しかも、ヤーちゃんは藤井フミヤほどではないが、かわいいルックスで、女子から一定の支持もある。さらに、ヤンノの家を練習場にしていて、環境も完璧だった。当時人気絶頂だったチェッカーズのコピーも受けるだろう。
これに対抗するには、みんなが知っている曲をレパートリーに加えなければならない。おのずと、CCBという選択肢が浮かび上がった。このバンドも、当時アイドル的存在だったが、ベーシストがチョッパーをやったり、シモンズ(電子ドラム)を叩くドラマーがボーカルを取るなど、若干マニアックな編成だった。
﹁音楽性が、違うなあ」
などと、(中学生のくせに)ややもめたが、結局ラストの曲はCCB『ラッキーチャンスを、もう一度』を選んだ。
他の曲はオフコース『メインストリートを突っ走れ』と、杉山清貴とオメガトライブ『二人の夏物語』だった。
いや、本当に演りたかったのは、オフコースのメインボーカルの小田和正さんの曲だったが、誰もキーが高すぎて歌えなかった。ウチのバンドのメンバーは、チェッカーズより、CCBより、オフコースが好きだったのだ。
当日は渡り廊下がかかる中庭で、昼休みを使って演奏させてもらった。聴衆は全校生徒七百人くらいだっただろうか。これは、ちょっとした数字で、以後これ以上のオーディエンスの前で演奏したことはない。
いろんな人に世話になったこの文化祭のライブが、これからはじまる音楽活動の原点となった。
高校進学は、バンド活動以外に目的はなかった。
バンドを組む、それ以外に何も考えていなかった。そのため、学校に軽音楽部があることは必須だった。
カバちゃんの兄貴が通っていた高校は、バイクの免許取得もOKで、バンドができるクラブが複数あった。勉強のレベルもそこそこ。若干遠いが、進学先としては魅力的だった。
担任の体育教師には「絶対に受からない」と嫌味を言われたが、構わず受験した。母は、怪しげな受験コンサルタント(?)をウチに呼んで、私の合格率を探っていた。
思えばトップ校でもなかったので、難なく受験はクリアし、同じ中学からはテツヤとクリちゃんが一緒に入学した。彼らとは一緒にバンドを組むことを決めていたが、この三人の中でフロントマンはいなかった。
のちに、私はボーカルをとることもあったが、最初は歌う気が全くなかった。ただただ、ドラムが叩きたかった。
ある意味、運命的な出会いであったかもしれない。
同じ音楽系のクラブに入ってきたタカシが、僕ら三人と同じくオフコース好きで、多重録音マニア、ハイトーンが出てギターも鍵盤も弾ける「小田和正」だった。ハードロックが好きなフジノもリードギターで加入して、再結成前のオフコースの布陣と、同等のアンサンブルを組むことが出来た。
バンドはのちにフジノが脱退するという、まんまオフコースと同じ運命をたどり四人になったが、引退する頃には、写真をガシガシ撮られるような人気バンドになっていた。
ただし、タカシの音楽的な能力の高さに、他三人がついていく形だったので、個々の演奏能力はそう高いものではなかった。私もドラムという楽器を愛している割に、個人練習はあまりしなかった。
今の子は、音楽教室でレッスンを受けたりするみたいだが、そんなことは考えもしなかった。
自分はノンミュージシャン(楽器ができない音楽家)だと今は公言しているが、この時期は下手なドラムと、下手なボーカルで、勘違いも甚だしいが、偉そうな顔をして、ミュージシャンぶっていた。
高校のクラブに入っても、目新しい音は誰も出していなかった。バンドブーム前夜で、どこもありきたりな編成だった。
音作りされていないシンセは、教室に転がっているオルガンのように鈍重で、ひとつ上の学年の奴らは、想像以上にセンスが悪かった。スピーカーの上から、宙返りするとか、くだらないことに腐心していた。
対して、僕らの学年は、クリちゃんがシーケンサー(自動演奏装置)を買って、シンセの同期演奏を始めていた。
数年前までは、莫大な費用がかかっていた打ち込みによる自動演奏だが、八〇年代半ばまでには、高校生でも手がとどく廉価版が流通しだした。借りたものを含めて、ヤマハのDX7ⅡやDX21が複数台MIDIで接続された。キーボードのブースは、山となった。
﹁高校のとき、バンドで何をコピーしてたの?」
と聞かれる場合がある。
﹁まあ、YMOとか坂本龍一とか…」
などと、若い頃はウソを言っていたが、本当はTMネットワークだった。シンセを何台も並べるのも、テクノやプログレの影響というより、むしろ、小室哲哉のマネだった。
シーケンサーを走らせた最初の曲は、TMの『1974』。一応ピコピコ鳴ってるエレポップだ。私は、電子ドラムを友人から借りて、クリック音のガイドに合わせて、叩いた。
無機質なビートに合わせて演奏するのが快感になるには、その後時間がかかった。ヘッドフォンの片耳を外しながら、出音をモニターして演奏するのは、慣れないうちは苦痛なだけだった。
﹁音楽を始めたのは、ニューウェーブというよりも、ジャーマンテクノの影響を受けたからで…」
とか言ってみたいが、シンセドラムで好んで演奏したのは、女の子バンドの手伝いでの渡辺美里『My Revolution』だった。
したがって、このエッセイのタイトルも雰囲気先行の大嘘、クラフトワークを好きになったのは、ずっと後になってのことだ。
しかし、高校生が四人ステージに立って、『人間解体』をやってたら、今でもカッコイイなあ。
辺境の公立大学だったので、クラブハウスで夜中まで大音量でバンド練習をすることが出来た。
昼間は、事務や研究室が入る建物前の通称「赤の広場」で、よく演奏した。二限の講義をサボり、車で機材を運び込みセッティングする。昼休みになると食堂からあぶれた学生が、定食のお盆を膝に、観てくれた。特に事務に許可を取った記憶はない。今の学生たちは、広場で自由に演奏しているのだろうか。
大学生協でバンドのテープを売ったりもした。自宅録音のレーベルを立ち上げて、コンピレーションを毎回百本程度売り上げた。売れない同人誌の十倍は売れていると言われ、いい気になっていた。
学内では演劇の活動も盛んで、学生会館を借り切った劇団の連中をひやかしに行き、夜通し芸術論を交わしていた。ある意味大学は解放区で、ずっとそこで入り浸っているようなものだった。今はきっと、管理が厳しくなっていることだと思う。
学業に関係のあるところだと、小説を読む研究会に入ったり、文芸理論を学ぶ自主ゼミを立ち上げたりしていた。
したがって、卒論や修論のゼミも含めると、週三回は居酒屋で文学談義、残りの日はバンド練習ということになる。
音楽のサークルは三つあり、文化祭以外にも、合同で二日間ぶっ続けでライブを敢行したり、とにかく年中活動していた。
芸術に燃え、表現することに喜びを感じていたというよりも、他にやることがなかったというのが、正直なところだ。バンドや演劇以外に、田舎だから楽しみがない。
しかし、いかんせん閉鎖的な場所であったので、その後プロになったり、それなりの活動をしている連中は、自分も含めてほとんどいない。あんなに毎日練習していたのに、誰も芽が出なかった。
我が青春ながら、すべてが壮大な無駄、という気がする。
煙が出るので、自宅前で手持ちの花火をするのも、はばかられるような世の中である。とかく、クレーム社会化し、窮屈で他人の目ばかり気にしているこの川崎では、道端での子どもの花火も見かけない。
そのくせ、河川敷では盛大に乱痴気騒ぎをして、マナーも悪いのだが。
昭和の我が家は、おおらか、かつ大胆であった。家の前のわずかなスペースで、夜通しバーベキューをやる、飯盒炊爨をやる、あげく縄文式土器まで焼いた。
こねるのが不十分で粘土に空気が入っていると、土器は割れてしまう。ポンッ、ポンッ、と破裂音がするたびに、誰の器が割れたか、ドキドキする。
思えば、近所に公園や空き地がない。やたらと人口密度の高い町だったので、周りも大目に見ていたのか。打ち上げ花火が誤って、留守中の隣家の庭に落ちたときは、ホースで放水し「ま、火事にはならんやろ」と無かったことにする始末であった。まことに牧歌的である。
思春期を迎える頃、ウチの家の前でバーベキューは恥ずかしいと思い始めた。
それだけでなく、まるで農家のように、漬物用に大根を鉄柵に干す。沢庵は嫌いだったので、納得いかなかった。
今は、娘や倅が嫌がらないなら、前の駐車スペースで炭火焼くらいはやってみたい。近所からは、きっとクレームの嵐だろうが。
関東は、まことにつまらない。
親父と二人で出掛けた日のことだ。
その日は国鉄に乗って、奈良かどこかに行ったので、帰りは新今宮で南海電車に乗り換えた。下り線で、和歌山市行きの急行を待っていた。
すると、向こう側の線路の上を、小学生くらいの男子がウロウロしているではないか。慌てた様子がなかったので、西成の悪ガキがおちょけて降りたのかもしれない。
びっくりしたのは、こちら側のホームの乗客だった。向かい側の人間が早く少年に気づくように、
﹁そこや、その下に子どもがおる!」
大声を出し始めた。
親父は、うちでは怒鳴ってばかりだったが、外では静かな男だった。こういう人を典型的な内弁慶というのかもしれない。たまに職場に遊びに行った時など、えらいおとなしいな、と逆に驚いたものだった。
その親父も、「そこや、そこや」と指さし、一番大きな声でがなりたてる。新今宮は一時騒然となった。
やがて、騒動の主役は、ホームの一番端でおっさんの手に引っ張られ、事なきを得た。何もなかったように、新今宮の駅は「はいはい、終わり終わり」という雰囲気になる。
そうか、いざとなったら、みんなで助けるんか、と大阪のおっさん(やオバハン)たちを少し、頼もしく思った。
今の首都圏で、同じようなことがあったら、どうだろうか。
ホームに落ちた人を助けたことが、美談として、しばしば夕方のニュースで報じられる。時に命を落とす方までいる。悲痛なことだ。
さっと、手を差し伸べる。すっと、大声を出す。
そういうことが、当たり前にできないものか。
﹁明日は、仁徳天皇陵に行くぞ」
と親父は言う。
大学生の兄ちゃんたちはすでに何人かは泊まりに来ており、現地集合の学生らと、百舌鳥駅で合流する。弟とリュックを持ってついていく。
何のことはない、ただ陵墓を見て回るだけで、それが大学の単位認定の条件になった。親父の立命館大学の講座の、フィールドワークである。
父は普段は神戸市立博物館に勤めていたので、月曜だけ京都に行って、考古学概論や学芸員免許の授業などを担当していた。
学生さんたちが、感覚的に言うと月に二回くらいは大挙してやってきた。狭い長屋に十人以上、土曜の夕方から大学生の兄ちゃんたちが集まってくる。長机が二つ分、狭いふた部屋ぶち抜きで宴会が始まる。
酒が入る前に真面目な学生さんは、親父の書庫に入り、せっせと背表紙を追う。「ダブっている本はあげます」というルールがあるからだ。一方で、オセロ大会が始まる。近所の西友主催の大会で大人相手に三回戦まで進んだ私と、大学生との戦いは、熾烈を極めた。
小学六年生になる頃、何度やっても私に勝てない学生さんが現れはじめた。彼のバイト先の発掘現場では、休憩テントにボール紙で作られた「簡易型オセロゲーム」が登場し、夢中になりすぎて、卒論がおろそかになったとか。とにかく、学生さんたちはやさしくて、僕ら兄弟と本当によく遊んでくれた。
来客が多いので、歯ブラシが一本ずつプラスチックのケースに収められ、名入りで、引き出しいっぱいに五十本くらいあったろうか。今考えると、衛生的に若干問題はあるが、それくらい泊まり客が多かったのだ。
大学生というのは、よく酒を飲むものだと思った。また、いつも違う彼女を連れてくるプレイボーイもいて楽しそうだった。
大学って、自由なんだな、と。
中上健次の小説に、朝の情景として、熱い熱いお粥が炊かれている描写がある。紀州だから、白粥ではなしに茶粥だ。
私が生まれる少し前に亡くなった曽祖母が、和歌山の出だった。祖母は大阪生まれだが、常に「おかいさん」が用意されていた。朝はそれと、トーストとコーヒー。インスタントではなく、豆から挽いているので、香りがいい。
厚めの食パンは、焦げ目がつくほど、よく焼かれている。マーガリンではなく、バターを塗る。僕らが泊まった朝には、フレンチトーストになる場合もあった。
いちごには、練乳がついてくる。その甘いのを、祖父はコーヒーにたっぷりと入れる。
今でも、寝室から二階のリビングに降りて行くとき、妻が淹れたコーヒーとトーストが香ってくると、祖父母の家に泊まったのだと、毎回五感が錯覚する。
匂いの記憶は、永遠かもしれない。
三島由紀夫最後の小説『天人五衰』には、副主人公・本多繁邦が、母の焼いてくれたホットケーキを思い出す挿話がある。本多はこの終刊では老境の域に達し、蜜とバターの記憶は、六〇年前という設定である。
有名店に通い詰めたであろう文豪も、最後に語ったのはおふくろの味かと思うと、親近感も湧く。しかし人間、結局そこに帰っていくしかのかという思いを、抱かないわけでもない。
我が家は基本的に、煮魚が多かった。煮こごりがあるようなものは、今は食べたいが、子どもの頃はやや苦手だった。焼き魚は一時期、やたらに太刀魚が出たときがあった。
シメサバやカレイの唐揚げが定番だったのは、たぶん母が好きだったからだろう。大阪は物価が安かったのか、鯛が出る。お造りが出る。手巻き寿司はしょっちゅうやる。うなぎの蒲焼もよく出た。もっとも、子どもは、あの甘いタレだけでご飯を何杯もいけてしまうが。
揚げ物は、トンカツにコロッケが多かった。手間がかかっただろうが、クリームコロッケも好きだった。関西のソースはトンカツでなくウスターソースで、好みでマヨネーズを混ぜる。末弟は、今でも帰省するとエビフライをリクエストする。
餃子は、とにかく大量に作る。ウチのは、ニンニクが入らない。メインは白菜で、肉よりも野菜がずっと多いから美味しい。母だけでは間に合わないので、兄弟で包む。フライパンから皿へ熱々がやってくる。
クリスマスはモモの照り焼きが出る。ケーキは近所のエーデルワイスという店で注文する。アイスクリームのケーキが流行った時期もあった。
天ぷらの定番は、イワシとエビとちくわの中にチーズ。かき揚げは、結構バラバラになるが、作ってもらわねば困る。
変り種のヒット作は、ロシア風のパイ包み焼のスープ(壺焼き)で、家中のカップが動員されて、楽しかった。
サラダは、出入りしていた母の友人のおばさまのアイディアでキャベツとハムとコーンが定番、客人が来ると、ひき肉と揚げた春雨のレタス包みになる。
男兄弟なのに。パンやクッキーも作ってくれた。クッキーは、型を抜いて、残りを集めて、また抜く。素朴な味がした。イースト菌を入れ、コタツの中で膨らますので、パン作りの方が面白かった。
喉が渇いて、夜中に起きた時、たまに母がサイダーを飲ませてくれた。美味かったが、あれは一体何だったんだろうか。普段はそう、飲ましてくれんのに。
夜中といえば、夜鳴きそば(ラーメン)で起こされるのも嬉しかったが、あれも何だったのか。太麺で若干固め、眠かったが週末は来るのではと、みんなで楽しみにしていたふしもある。手鍋を持って、路地に人が集まる。
大阪は納豆が出ないので、いつも最初に豆腐がバっと出てくる。そいつをつまみながら、今日の献立は何かなと、兄弟三人で待つのである。
最後の晩餐が選べるのなら、関西風のダシをたっぷり取ってもらい、地獄の料理番と相談しながらコースを進めてもらうとするが、まず豆腐がすっと出されることが望ましい。
ネギや薬味はいらない。冷たい絹ごしを、ピラミッドのように盛ってくれ。
一番古いのは、叔母が段ボールで作ってくれた赤いポストで遊んだ記憶だ。
実物と同じ、帽子型のひさしと、円筒のフォルムが妙に嬉しくて、何でもかんでも投函した。近所の祖母の家でのことだった。
そこで、瓶に入ったヨーグルトを、よく食べさせてもらった。
厚口の瓶に、商品名が緑色の文字で記されている。さじは紙だったか。私は、歩行器か木馬にまたがっている。
ところは変わって、市場の光景が思い出の奥底にある。魚屋「加減」さんのトロ箱にあふれる蝦蛄のうじゃうじゃとした動きと、肉屋の鶏モツの、黄身が連なっているさまが綺麗だった。
もちろん、全てはあいまいなセピア色だ。
大量の白菜が新聞紙に包まれ、積み上げられている。働いているのは、すべて老婆たちである。匂いはない。
家の前の道路は、まだ舗装されておらず、私は座り込んで土を食べてしまった。番犬のゴンちゃんが、祖父のガス器具修理の仕事場で、寝そべっている。
立ち上がった私は、テーブルの角で頭をぶつける。ガーゼがおでこに当てられ、頭はテープでぐるぐる巻きにされた。
記憶というのは、嘘だ。過去は決して固定的でなく、作り変えられる。
過去もまた作られるもの、過去の制作だ。
三島由紀夫が死んだのが四十五歳だ。
今いくつだと聞かれると、三島さんが最後の大長編を構想した歳です、それを書き終わった頃です、完成した原稿を自決まで金庫に入れている時期です、などとこの数年はおどけていたが、ついに三島カレンダーは尽きてしまった。
もう市ヶ谷の森に、部下たちと向かわねばならない年齢だ。
大好きだったレスリー・チャンも、中上健次さんも、四十六歳であの世に行っている。彼らの絶望も、わかる気がする。
ここからの舵取りが、難しいのだろう。
天才と呼ばれる彼らでさえも、人生のコントロールは不可能だった。
批評や文学研究にいそしんでも、たいして評価されるわけでもないので、思い出話を書くことにした。
懐古趣味など、我ながらヤキが回った気もするが、幼年期の記憶は、いくら書いても尽きることはない。小説の習作のつもりでおもむいた過去への時間旅行は、意外に豊饒で、自ら掘り起こした幼年期の手触りは、悪くはなかった。
ただ、決して書けないエピソードや、語りえないものの領域を再確認させられたのも事実で、それら記憶の欠片は、小説にでも書くしか成仏しないことは、自覚している。
駄文を書き連ねることは、自己療養の足しにはなるが、それで全てが癒えるわけではない。
一部、勤務校で発表したものもあるが、基本的に今回は初めての「書き下ろし」作品になる。
次はBccks(bccks.jp)でなく、書籍コードのついたまともな本を、まともな出版社から誰か出してくれないだろうか。
二〇一五年十二月 川崎にて
喜谷 暢史
喜谷 暢史(きたに・のぶちか)
1970年大阪生まれ。法政大学第二中・高等学校教諭。
編著書
共著『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論へ〉評論編』(右文書院 2003.2)共編著『千年紀文学叢書6 体験なき『戦争文学』と戦争の記憶』(皓星社 2007.6)共著『〈教室〉の中の村上春樹』(ひつじ書房 2011.8)共編著『千年紀文学叢書7 グローバル化に抗する世界文学』(皓星社 2013.4)共著『「読むこと」の術語集―文学研究・文学教育―』(双文社出版 2014.8)共著『21世紀の三島由紀夫』(翰林書房 2015.11)
訳書
「國際村上春樹研究 輯二」(獨立作家 2015.12)孫立春譯「跨越無望之愛的生者與逝者──論《挪威的森林》」(「愛の不可能を超える生者/死者─『ノルウェイの森』論」 『〈教室〉の中の村上春樹』所収)
日本文学協会、千年紀文学の会、日本近代文学会所属。
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2013.04.22
【データ本】無料:文庫版 292㌻ 1.4MB
【EPUB】無料:1.8MB
【紙本】販売中 文庫版 288㌻ 1,286円
二〇〇七年から不定期に発行しつづけている「一週間パイロット」。この学級通信ならぬ個人通信を七二本一挙掲載。国語教育関係のエッセイ「箱庭とサンドバック」「フリートークの中に真実がある」も収録。
「一週間パイロット」全体のメッセージは一つである。「若人諸君、世界に目を向けよ」「世界を広げよ」ということだ。——池上貴章
http://bccks.jp/bcck/100716/info
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2014.04.22
【データ本】無料:新書版 196㌻ 1.8MB
【EPUB】無料:1.9MB
【紙本】販売中 新書版 196㌻ 1,070円
暴力表現の〈根拠〉へ――
二〇〇三年から一〇年間の文芸時評/映画評を集めた著者初の文芸論集。初期のエッセイも収録。
島田雅彦/ウォン・カーウァイ/樋口真嗣/藤田嗣治/黒木和雄
クリント・イーストウッド/GACKT/村上春樹/村上龍
池澤夏樹/黒澤明/忌野清志郎/庵野秀明/トラン・アン・ユン
会田誠/富野由悠季/イエス小池/加藤典洋/三島由紀夫
嘲笑されても、見えている人は歌い続ける。彼らには、既に事態は見え過ぎるほど、見えているからである。(本文より)
http://bccks.jp/bcck/115041/info
2015年12月24日 発行 初版
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