1998年 スコットランド、アイルランド、そしてイギリス。スタンディングストーンやストーンサークルなど石の遺跡を巡った二週間の旅。
写真と記憶で綴りました。
Monaster Boice/Mainister Buith
BRU na BOINNE / village of Boyne
1998年4月、それまで勤めていた仕事を辞めて家を引き払い、1年間旅する予定で日本を飛び出した。
スコットランド北部にある小さな村のコミュニティで最初の三ヶ月を過ごし、その後イギリス南部にあるカレッジで英語コースを受講しながら夏休みを過ごす予定をたてた。
コミュニティを出てから学校が始まるまでの2週間、ぽっかりと空いた時間。
25Lのバックパックにスーツケースをひきずって旅をしながら学校を目指すことにした。
出発地点はForresという町。
最終目的地はLondon。
はじめにそれだけが決まっていた。
私はその短い旅行の主な行き先をアイルランドにしようと思った。
手元には旅行代理店で見つけたブローシャーが捨てずにとってあり、そこには見たことのない風景が描かれていた。
人々がくだける波に洗われる無数の六角形の石柱の上に立っている、奇怪な海岸のイラストだった。
私もその風景の中に立ってみたい ーー ブローシャーはスコットランド西岸 Campbell Town と北アイルランドの Ballyacastle を結ぶ夏期のみ就航しているフェリーへの乗船へと誘うものだった。
午前11時、Forresからバスに乗りInvanessへ出た。
そこから更にObanを目指す。
少し眠ってしまったようだ。
海辺に近づくと海抜がぐっと低くなり、水際と緑の地面とが交互に曲線を描き色を折り重ねていた。
その切れ込みの深いところを縫うようにバスは走っていた。
雲の切れ間から午後の陽の光が放射状に降り注ぐ。
そんな車窓をずっと眺めていた。
午後8時頃、やっとのことでObanに着いた。
宿はユースホステルにとった。
一度荷物を置き、夕飯を食べに外へ出たけれど冷たい雨。
ぶらぶらとあてもなく散歩して、自炊の材料を買って宿に戻ることにした。
@ Invaness-Obanのバス所要時間は4時間15分(当時£9.8)。途中Fort Williamで乗り換えが必要。
@ Oban Youth Hostel (£11.1)他にB&B(£16くらいから)
@ Obanはスコットランド西岸の拠点となる観光地なので、パフィンなど野生動物の観察ツアーやMull島、Iona島(聖地として有名)などの島々への船も出ている。
比較的大きなTurist Infomationもあり、周辺の情報が幅広く手に入る。
@ 夏の間、スコットランド西岸は東岸に比べると暖かいためガーデンや林に入るとショウジョウバエみたいな細かな蚊が出ます。顔の前や頭のまわりに集まって知らぬ間に刺されるので要注意!後で痒くなります。
ここでは2泊した。
雨空にまだ先を急ぐこともないし、何も決めていなかったのでツーリストインフォメーションで資料を探した。
パフィンが見られる北の島へ向かう船旅も魅力的だったけれど、これから行く先は南。
そして見つけたのが "Kilmartin" という名の小さな村のブローシャーだった。
そこには古代のスタンディングストーンやストーンサークル、そしてカーヴィングストーンが多くあるという。
ちょうどアイルランド行きの船にのるCampbell Townへの途中にあるらしいこともわかった。
十分な理由をみつけたので、次はそこまで歩を進めることにした。
KilMartin とはマーティン(の)教会 という意味だそうだ。
i を出ると雨は止んでいた。
港を散歩していると高台に石造りの建物が見えた。
まずはそこを目指して歩く事にする。
オバーンからキルマーティンへバスでの移動。
村にさしかかる低い丘の上に、一対のスタンディングストーンが立っていた。
石の間には小さなパスのような踏み跡があり、まるで古代の村へのゲートのように見えた。
スタンディングストーンは気の遠くなるほど昔に人々がたてた。
その意図は失われても、意思は石に記憶され現代に形を残しているのだ。
村の中心には Kilmartin house という小さな博物館があり、スライドショーの上映や土産物、資料などを置いていて観光案内所のようになっている。
そこでcurving stoneやstanding stone、 stone circle の場所が記されているイラストマップをもらった。
さて、まずは今晩の宿を探さなくては。
ブッキングしてくれる窓口もないし、広告に載っているB&Bを直接訪ねてみることにした。
この時の英語の理解力ははまだまだで、7割を想像で埋めている状態だった。
面と向かえば身振り手振りで何とかなるけれど電話では無理というもの。
何軒目かに呼び鈴を鳴らしたCornaigbegという家に泊めてもらえることになった。
地図を見て、Loch Craignish という湖の近くにあるカーヴィングストーンを探しに行くことにした。
まずは途中にある Carnasserie Castleと
standing stoneを目指す。
城までは簡単に見つけることができたものの、イラストマップは思っていたよりもいい加減で(村の中心部にある史跡はこの程度で巡れるのだが)とても地図のかわりになるようなモノではなかった。
だいたいの方向をたよりに、波打つ緑の草原を歩いて行く。
やがて、木を伐採した跡の倒木と切り株だけが残る殺伐とした空間へ出た。
濃いピンクのフォックスグローブが切り株を埋めるように一面に咲いていて、それがせめてもの慰めのように思えた。
道を訊こうにも誰もいない。
イラストマップを睨みながらただひとり歩いた。

ずいぶん森の中を歩いて抜けると、道は続いていたがその先にあるのは一軒家だった。
肝心の岩への道がみつからない。
ちょうど草刈りをしていた主人に訪ねると、ほとんど調査でしか人が行かない所だからと薄暗い小山の斜面の入口まで案内してくれた。
そんなところ、観光イラストマップに載せないで欲しい、、
言われた通りに目印を曲がると林を抜け明るい草原に着いた。
やっと辿り着いた場所は湖が見渡せる小高い丘の上で、身の丈の草をかき分け進むと、その石はなんの保護もされず地面に横たわっていた。
何の目的で彫られたのかわからないが、一目見て岩盤に彫られているミロの抽象画のようなマークは何かの場所でそれらを示す地図のようなものなのではないかと思った。
残念ながら似たような写真がたくさんあり、どの写真がどこで撮ったものなのかが今では判別できなくなってしまいました。カーヴィングストーンの写真はいずれもKilmartinからKilmichaelに点在する石たちを撮ったものです。
cup &rings のマークを見て、私はMarko Pogatunikのenergy fieldsについて書かれている本のことを想い出した。
単なる直感だけれど、energy spotのような場所にこういった岩が在るのではないかと思ったのだ。
たいていの石は隠れたところにあるのではなく、白日のもとに晒されている。
それらの石、岩は5000年以上前の言葉を今も話している。
アイルランド、スコットランド、イギリスの各地にこのような石がのこされているらしい。
いったい何を言おうとしているのか、わかるはずもないけれど想像は尽きなかった。
帰り道、Lady's Seat と呼ばれる石を探したがどうしても見つからず、石の場所を教えてもらおうとキルマーティン・ハウスへ寄った。
案内の女性は「詳しい場所は私にもわからないわ、もし見つけたら場所を教えてね」と笑顔で言った。

私は暇にまかせて村のあちこちを歩いた。
時にはB&Bのおかみさん(と呼びたいような恰幅のよいおばあさん)カタリーナに用事のついでに送ってもらったりしたのだが、このあたりの石を訪ね歩くならやはり車があった方がいいだろう。
それに正確な地図とコンパスが必要だろう。
キル・マーティンのとなり村は Kilmichael キル・マイケルだった。
その日はまず牛とにらみ合いから始まった。
イラストマップの目指す石へはこのゲートを跨いでゆかねばならない。
しかし放牧されている牛がゲートの所に集まってしまっていっこうにどいてくれないので、柵沿いにあったぬかるんだ小道を頑張って進んでみたのだが、そこに石は無かった。
イギリスやスコットランドにはFootPathといって、牧草地や放牧場の中を突っ切ってゆく散歩道のようなものがあるので、
柵をまたいで行くことは日常茶飯事で慣れていたのだが、それが仇になった。
そういうフィールドのなかに簡易柵があって、カーヴィングストーンがそのままになっていたりするところもあったのだが、この時は違った。
来たぬかるみの道をやっとのことで引き返し、気を取り直して別の道を探す。
夕方宿に帰ると、カタリーナが Arthur's mount(キングアーサーの足跡が残るという伝説の山)には行ったのか?と私に聞いてきた。
特に関心も無かったので行っていなかったのだが、ここを発つ前に行くべきだと言う。
(イギリス、スコットランド西岸にはアーサー王の伝説の残る場所がいくつもある。)
時計を見ると既に午後8時をまわっていた。しかも風が吹いてきて雲行きがあやしい。
夏のスコットランド北部は夜10時頃まで明るいので、彼女は時間を気にする風でもない。
とにかく麓まで私を送り、自分はその先の町で用をすませて1時間後に迎えにくるからと言われ、私はしぶしぶ折りたたみ傘と水筒に茶を用意して車に乗り込んだ。
風はどんどん強くなり、いつのまにか空は真っ黒な雲で覆われていた。
伝説の山は、、、地図などいらない小山だった。
ぐるりとらせん状に人が歩けるだけの道がつけられている。
ふもとの民家の横を抜けて登ってゆくと、上の方には木も生えていない草の山である。
頂上に着くとそれ(足跡)らしい凹みのある石を見つけた。
そもそもキングアーサーが何なのか良くわかっていなかったので、それがどれほど重要なものなのかも想像し難かった。
しばしキル・マイケル、キル・マーティンと続くゆるやかな丘に挟まれた谷を見渡した。
その景色の中央を川が蛇のようにくねりながら流れていた。
傘もさせないような強風の中、小雨まじりの頂上ですることもないので持ってきた水筒のお茶を飲んだ。
すると突然真っ黒な雲が割れて太陽の光が谷間を照らしたのだ。
なんという光景。
私はその瞬間の目撃者だった。
@ 地方でB&Bに泊まろうとするときはTourist Informationで予約してもらうのが最善の方法。手数料は£1程度で、ディスカウントも交渉してもらえる。
(突然外人が家のベルを鳴らすと驚くというのもあるので)
部屋はダブルかツインが基本なので、ひとりでは部屋が無駄になるため断られやすい。
繁忙期やディスカウントをたのむにも少なくとも2泊、連泊で交渉すると部屋を確保しやすくなる。ちなみに一泊あたり(当時)£18だった。(一軒目では£22と言われた。)
@ 村に唯一のPubでlunchを食べた。マスターはいい感じの初老の男性でスローテンポのポップスがかかっていた。
酒がのめればPubめぐりはもっと楽しいだろう。
@ Kilmartin からLoch Gillphead まではおかみさんに送ってもらった。oban からのバスがLoch Gillphead までのびている。
Loch Gillphead のツーリストインフォメーションで Campbell Town のB&Bの資料をもらってバスに乗った。
ここから約1時間半の道のり。
到着したのは少し寂れた感じの港町だった。
夕方町をふらついていたら、船のチケット15%offとtourist agencyに張り紙がしてあった。
明日はここでチケットを買おう。
いよいよ北アイルランドへ。
これといって見るところも無さそうなので、洗濯したり、本を読んだり、いつもの高台への散歩、そして久しぶりにテレビでAlly Macbealを見た。
@ EAST BANK B&B £20->£18
ツーリストインフォメーションで予約・交渉してもらった。
屋根裏部屋にしてくれたので、窓からの眺めがとても良かった。
朝食にブラックプディングが出た。主人に勧められて初めて食べた。
それにしてもスコットランドのB&Bは朝食が豪華!
おかげで昼を食べ損ねても生き延びる事ができる。
北アイルランドの地を踏んだ。
地元の人の話す言葉に耳を澄ませるとThank youがサンキイーュとイ
の音が強く聞こえる。
独特のイントネーションだ。
この街に滞在中、初老の男性と3度はち合わせした。
最初に彼に会ったのは、Ballycastle の中心街をザックを背負ってキーキー音をたてるスーツケースを引きずって歩いていたときだった。I
バスを待つ間時間つぶしにぶらぶらしていたのだが、宿を探して困っているように見えたらしく自分の滞在しているhostelを紹介しようか?と声をかけてくれたのだ。
この日から二泊、私はバスでしばらく行ったところにあるWhite Park Bayのユースホステルに予約を入れてあったので、彼にお礼を言って別れた。
ホステルの周辺は美しい砂浜だった。
波に洗われるうち、無数の穴が自然にあいた石がそこここにあった。
ひとつだけ、記念に持ち帰ることにした。
いよいよ目指していたGiant's causewayに向かう。
バスを待っていると、地元の人が車で通りかかり声をかけてくれた。
お言葉に甘えて送ってもらった。
世界遺産に登録されているところなので、どのようにしてこの風景が出来上がったのかということを展示しているビジターセンターのようなものがあった。
溶岩が固まって出来たのだと聞いてもにわかには信じられなかった。
粘度の高い溶岩が長い年月をかけて固まることで結晶ができるように六角柱になるのだと言う。
波の打ちつける岩の端に腰掛けてこの景色を楽しんでいたら、何やら誰かにむかって手を振っている男性がいる。
自分のことだと思わずに知らん顔していたら、強風の中大きな声で何度も叫んでいるのでよくよく見ると昨日街で会ったおじさんだった。
少し言葉を交わし写真など撮ってもらった。
そして「ではまたね。」と別れた。
後になってふり返ってみると、ひとり座ってじっと海を眺めていたので傷心旅行と思われて心配されたのかもしれなかった。
ところが狭い観光地、帰りのバスでも再び彼と一緒になった。
隣の席に座ると私たちはようやくお互いのことについて話し始めた。
彼は仕事をリタイアして以来、もう6年もひとり旅を続けていると言った。
その旅ももうアイルランドをめぐって、最後にロンドンに向かって終わりなのだそうだ。
もっと旅の話の続きを聞いてみたかったので珈琲でも一緒にと誘おうかどうか心の中で迷ったのだけど、そう言い出すまえに私が降りる予定だったバス停に着いてしまった。
そのままさよならを言ってバスを降りたけれど、名前も聞いていなかったことに後で気づいた。
ダブリンまでの道すがら、次はどこまで歩を進めようか。
ノーアイデアだったので、とうとうペンデュラムに訊いてみた。
すると振り子は地図の上でSligoを示した。
それが訪れた理由。
Sligoのホステルを予約して予定を立て始めたものの、
翌日朝から移動してその日の内に到着するには3回の乗換が必要だった。
そして乗継ぎ時間が各5分しかなく、この綱渡りを成功させなければならなかった。
知らない土地でバス停の場所さえわからないのにあまりにも無謀だ。
考えあぐねているとレセプションの女性が助け舟を出してくれた。
途中電車を使えばSligoまで楽に行けるという。
White ParkBay から Portrush バス£2.30
Portrusu からLondonDerry 電車£3.00
LondonDerry から Sligo バス£10.00
朝から土砂降りの雨だった。
濡れ鼠になってLondonderryまで来たけれど、店も何もかも日曜は休みだった。
駅でたまたま会った日本人の女の子"ユウコさん"と開いているカフェをやっと見つけてバス待ちの間お茶をした。
彼女も旅行中だがこのままここに留まると言い、私は予定通り先を急いだ。
Sligoに到着。
バスステーションの隣にあった安ホステルへ直行する。
しかし何度ベルを鳴らしても誰も出てこない。
どうしようかと考えあぐね、少し待って再び挑戦した。
すると顔を出したのは若い青年。
中へ入ってみてちょっと不安になった。
Ivy Hostelはバスステーションの並びにある。£6也。
私は3泊したのだが、天井のとっても低い建物で部屋もシャワー室もほんとうに小さい。
大柄な人や閉所恐怖症の人にはオススメし難い宿だ。
共同キッチンに洗濯機とテレビが1台ずつある。
早速ツーリストインフォメーションで地図を手にいれると、ここにも石の遺跡があった。
Carrowmore Megalithic Cemeteryだ。
ここにはヘリテイジセンターもあり、展示やキュレーターによる解説ツアーもあった。
これらの巨石の遺跡はスコットランドやイングランドのものよりも古い。
ストーンサークルやケルンがたくさんある。
古代人がアイルランドから(あるいはもっと西から)グレートブリテン島へ移動していったと考えられる。
フィールドから遠くに見える山の頂上にcairnが見える。
女王の墓と言われているそうだ。
それから、ゲール語(アイルランド特有のケルト文化の言葉)や石に彫られたつり針のようなマークはサンスクリットの文字ととてもよく似ているという話も。
本屋さんで奇妙なイラストマップを買った。
Sheela-na-Gigs と呼ばれるシンボル像でイギリス、アイルランド各地に見られるという。
女性が陰部を見せるジェスチャーが石や木に彫られ、教会や城に設置されているらしい。
「Eary Christianity の時代のものと、中世に広まったものとがあり、中世のものはケルティック・リバイバリズムの拡がりと共に作られたのではないか」と書いてあった。
Reseach : Jack Roberts
Illustrations : Joanne McMahon
Bandia Publishing
Ireland 1997
設置場所の記述を読むとGreen Man のそれと良く似ている。
どちらも生命に関係がある。
Sheela-na-Gigs はイギリスにおけるGreen Manのようなものなのだろうか。
ホステルにはBristolに滞在中だという日本人の"まゆみさん"が先客だった。
キッチンで色々話た後、夜はPubへ一緒にでかけた。
9時を過ぎるとひとりの男性がギターを抱えて入ってきて、黙って中央の柱の側に腰掛けた。
そしておもむろに歌い始めた。
伝統的な音楽ではなくブルース。
それがまたいい雰囲気だった。
音を聞きつけた人が店内へ吸い込まれ、やがてあふれんばかりの人混みで注文にカウンターへ近づくのも難しくなった。
店中の人が彼の歌にじっと耳を傾けていた。
その後は歌の余韻も手伝って閉店時間になっても客はなかなか帰らず、ギネスと会話を楽しんでいた。
次の夜も音楽を求めて"traditional session"と張り紙している店に入ってみた。
けれども雰囲気は昨夜の店の方が良かった。
聞こえてくる音に誘われて見知らぬ店のドアを開ける。
あるいは店に入れず漏れてくる音を聞きながら街を歩く。
こういう楽しみは日本には無いものだった。
ある夜、夢を見た。
赤ちゃんが私のもとに運ばれて来た。
ウェットスーツを脱がせると肌にはケルトのシンボリック・パターンが青く脈打っていた。
そのケルトの赤ん坊は病んでいて深刻な状態だった。
私はその子を抱きかかえた。
しばらくそうしていると、赤ん坊は腕の中でさっきよりも具合が良くなったように見えた。
西岸を南下してGolwayまでやって来た。
いつものように i で情報を収集。
Aran Islandsへの船が出ていた。
アラン諸島には3つの島があり、曜日によって船の行く島が決まっている。
私が乗ろうとした日は一番小さな島 "Inis Oirr" への便が出ていた。
空は晴れていたが風が強く波も荒い。
船は揉まれて大きく上下し、観光客は一様に青ざめた。
私は自信がある方だけれど、皆がうっとなるのを見て思わずつられそうになった。
ハードな船旅の末、やっと島に上陸。
すると待ち構えていたように観光用馬車から声を掛けられた。
旅の途中知り合った者同士、二人の日本人の女の子と一緒にめぐることになった。
馬車に揺られながら灯台の見える海岸へ。
そこには石灰岩の岩礁に打ち捨てられた難破船があり、その先には灯台が見えた。
馬車を降りて次に目指したのは中世に建てられたという城。
緑に覆われた島の丘の上に見える崩れかけた城。
その姿は海岸から見るとまるでラピュタ。
坂道を登る途中、互いに追い越し追い越され同じ城に向かっていた二人の陽気なオジサンと仲良くなった。
彼らはスペインのバスクから学会でアイルランドに来ている大学教授なのだそうだ。
バスク語で Hello はKaisha、Bye は Aguluだと教えてくれた。
見渡せば石垣で囲まれた小さな畑や牧草地が島中をつなぎ、まるでパッチワークのようだった。
夕方の街は人であふれかえっていた。
Pubもドアまで人でいっぱいで入れやしない。
何処にいても歌やケルト音楽のセッションが聞こえてくる。
クラウンや大道芸人が通りに立ち、街角はバンドの演奏に足を止める人だかりでにぎわう。
まるでお祭りだった。
例によって食事に困った私はファストフードのチェーン店に入った。
"ABURA KEBABURA".というドネルケバブのピタサンドの店。
これが結構美味しかった。
この街に着いた日、ユースホステルは街の高台に建つ学校だと知ってため息が出た。
尋常ではない重さのスーツケースを引きずって、安ホステルをまわるのはどう考えても間違いだった。
もうやめようと思いつつ、先のことを考えるとあまり贅沢も出来なかった。
ホステルは夏休みの間だけ学生が運営しているらしく、古びた教室に2段ベッドを入れているごくシンプル!な施設だった。
私の入った部屋には先客がいてイタリア人の女の子。
ふたりともチャーミング。
毎日行き先を決めたり予定を考えたりするのも疲れてしまう。
一日バスツアーにお任せすることにした。
コースでは鍾乳洞を見学。
地下に潜るより高台に登ってみたくてひとり別行動。
石灰岩で出来た台地は階段状になっていて容易に登ることができた。
頂上に着くと、強風に抗う灌木と風雨に削られた岩。
ひび割れた岩盤の隙間には小さな草花が身を隠すようにして咲いていた。
絶えず西から吹き付ける強風と急変する天候に荒れ地。
この地の人々の我慢強い気質はこの三点セットにより育まれてきたのだろう。
こうして広い野を見渡して遠く眺めていると、この大地は古代の夢を見ながら眠り続けているように思えた。
再び目覚める時はくるのだろうか。
Limerickへ移動。
大きな街でイギリスの地方都市とそう変わらない雰囲気になってきた。
Adareという古いコテージの残る村や、TraleeからDingleという近場にある観光地へ足をのばした。
長らく田舎に滞在していたので、都会に来たら落ち着かず行く先に迷うようになってきた。
残りの日数も少ないので、そろそろダブリンへ向かうことにした。
着いてみるとやはりYHは既に満員だった。
例によって安ホステルに落ち着いた。
ここは枕なし、シーツもなし男女相部屋のドミトリー。
都会の真ん中で地図を拡げるのが恥ずかしく、道順を頭の中に入れた。
しかし、道しるべを頼りに進んでも、どうもそれらしい建物が見つからない。
風邪気味のところへ車の排気ガスと喧噪。イライラが募る。
地元の人に道を尋ねたのだが特有の発音がよく聞き取れず、言われたであろう方向に進むもわからず仕舞い。
結局ツーリストインフォメーションへ辿り着くまでに三度も道を尋ねなければならなかった。
なんとか気を取り直して明日移行の予定をたてることにした。
楽器屋さんが主催している tin whistle (よくお土産で売っている細い小さなたて笛)の半日講習を受けにゆく事にした。
その翌日はNewgrange行きのバスツアー、どちらも予約した。
さて、これからどうしよう。
ブローシャーの中で目に留まったTrinity College Libraryに展示されているという The Book of Kells 「ケルズの書」を見に行く事にした。
手写本によるラテン語で書かれた新約聖書の4つの福音書がまとめられたものである。
随所にCeltic knots(ケルト文様)による美しい装飾が施され、世界で最も美しい本と言われているそう。
最初に着手されたとされるスコットランドのアイオナ島にある修道院にもスコットランド滞在時に行ったことがあった。
St. Columba の偉業を讃え作成されたとある。
その聖人の名もその時耳にした覚えがあった。
LongRoomと呼ばれる長い部屋は中央が吹き抜けになっていて、アーチの天井、両脇に胸像が並び、壁一面の本棚にはびっしりと本が詰まっていた。
古本の匂い、最古のハープ、そして静かでほの暗い部屋。
そのすべてが気に入った。
予約してあったバスツアーで遠足。
最初にバスで訪れた場所は、St.Buithによって建てられた修道院。
9世紀から10世紀にかけて学びの中心になった所。
十字架には旧約聖書あるいは新約聖書の様々な場面が彫り込まれている。
石に刻むというその行為。
ハイクロスには十字のかなめに円環が重なっている。
円と十字の中心にフォーカスがある。
ここを旅した当時は、ただ「ケルト独自のもの」としか思わず関心もなかったのだが、
その後に学んだことと自分の中で結びつけると、
ケルトの装飾品や古代の遺跡、遺物は円=途切れる事の無いもの=環のデザインである。
もともとあったpaganismの聖地に後から流入してきたキリスト教の教会を建てたように、
キリスト教はもともとあった信仰を取り込むことで異教の地に受け入れられていったのだろう、と思えた。
次に訪れたのが "Mellifont Abbey".
(Latin: Melli-fons, Honey Fountain)
アイルランドで最初に建てられたシトー修道院。
長年のあいだに建て増しされたが、もともとの教会は1157年に建てられた。
この敷地内にかつてわき水の湧いていた泉があった。
そこでガイドの解説を聞いていると右手に持っていたカメラがスイングし始めた。
決して軽いカメラじゃなかったのだけど、カメラは南北をさして揺れていた。
そこから南にはちょうどthe River BoyneとNewgrangeがあった。
水脈だったかもしれないし、レイラインのようなものかもしれなかったけれど、ツアーは先を急いでいて確かめる暇は無かった。
"Si an Bhru" というのがアイルランド語 の(Newgrange) の名前だった。
冬至の太陽の光が中央へと差し込むようにその墓は作られていた。
ストーンヘンジもニューグレンジも古代の人々は太陽を観測していたし、そこに何か大事な意味があることは間違いなかった。
冬至--それは太陽の死と復活の時。
97枚の大きな石のパネルにその墓は囲まれていた。
それぞれに渦巻きや異なるシンボルパターンが彫刻されていた。
その文様はマヤのものにも似ているように見えた。
たくさんパネルの写真を撮ったのだが、論文の資料に使いたいという人の為に写真を焼き増しし、その写真だけ別に束ねてあったのを先日の引越の際に見かけたのだが、とうとう行方不明になってしまった。
いつかまたひょっこり出て来たら続きの話に書き足したいと思う。
ダブリンを19:30に出発し Stena Line(高速フェリー)と夜行バスを乗り継いでロンドンへ。
Victoria Coach st.に着いた。
rail stationにはシャワーがあると知っていたので直行する。
しかし7時からでないと使えないという。
シャワーはトイレの中にあり、身支度しながら待つ事にした。
この日なぜか7時になってもチケット売り場が開かず、どうしても諦められなかった私は洗面台で髪だけでも洗おうとしたその時、清掃員の女性に見つかってしまった。
言い訳すると見かねた彼女は男性トイレへの内部通路を通ってシャワー室へ入れてくれた。
(女性用のシャワーはどうしてかその日お湯が出なかったのだ)
トイレの受付のインド系のお兄さんは「自宅のシャワーを貸してあげたいけど、」と言ってくれたし、ロッカーでは大きいロッカーに荷物をいれようとしていたら係のオジサンが£4のに荷物を押し込むのを手伝ってくれた。
このヴィクトリア駅でのいくつかのことは今でも忘れられない。
そんな珍道中の末私が向かった先は、スコットランドにいた時に知り合った日本人の家族のお宅だった。
二晩お世話になり、その内1日はストーンヘンジとエイヴベリーを案内してくれた。
そしてロンドンから南へ約1時間、これから夏休みを過ごすカレッジまで車で送ってくださることになった。
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この二週間の石を巡る旅とは別の機会にもいくつかの石に出会いました。
それらの石も最後に写真で紹介したいと思います。
さて、夏休みの英語コースを終えた私はこのあとの旅行の続きを返上し、そのまま一年カレッジに留まって英語の勉強を続けることにしました。
そして、予期せず再び石というテーマに出会い、頭を悩ませることになりました。
日程を埋めるためだった二週間の旅行がこの後のことを予告していたのだと半年後に気づきました。
忙しく生きていると「なんとなく気になる」というその感覚を無視しがちです。
けれども、それこそが「サイン」なのだと旅行に出る前に滞在していたコミュニティで学びました。
何をするかでなく、どうするのかが大事であること。
そして何かをしようとするその前に、ひと呼吸して自分の内なる声と環境(自然あるいは一緒に行動しようとする人々)とに同調し、何が必要とされているのかに耳を澄ませること。
そうすれば必要なものごとが起き、自分はそのひとつのピースとして働くことになるのです。
私は正しい時にいるべき場所にいるという感覚に確信を持つようになりました。
ただ、その時、その場所でわたしがどんな心でその行為を捧げるのか、そこのところについては17年経った今もまだまだ修行が足りないようです。
脱線しましたが、石を巡る旅の続きについては、、、またあらためて。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
2015年5月17日 吉沢良子 拝
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2016年8月13日 発行 初版
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