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この本はタチヨミ版です。
飛行機はいつまでもやって来ない。友人が夜行バスでの別れ際に『人生最後の日本の煙草』とくれた黄色いピースも残り五本。地方都市から一晩バスに揺られ東京に、、そこからまた成田までのバスに揺られ。空港には随分と早い時間に着いてしまった。先に空港に送っておいた自転車を受け取り、チェックインを済ませる。自転車には百五十米ドルのチャージが掛かった。それとは別に自転車に積むサイドバッグが四つと、ハンドルバッグで膨らんだ袋を預ける。日本を走るのとは違う。携帯電話ひとつあれば、警察も救急車も来てくれる道じゃない。ポケットに入ってしまう携帯電話の代わりに、寒さをしのげる寝袋、服、バーナー、コッヘルと荷物は膨大に増えた。これほどの荷物を積んで、自転車を走らせることができるんだろうか。予行練習として、数百キロほど走ってはいる。確かに重いが、自転車に付けてしまえば、最初の加速こそしんどいが、速度に乗ればあとは慣性で動いていけることを知っている。しかし、荷物を渡してしまい、わずかな手荷物だけで空港の中を歩いていると、荷物たちはさっきまで持っていた以上に重いような気がする。むしろ、現在進行形で重くなっていってるんじゃないかなどと考える。
アメリカで乗り換え、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスへのフライトは、乗り換えの時間を含めると二十四時間を優に越える。乗換えで荷物が間違えられたらどうしようか。日本の外に一歩も出たことのない僕には、自分自身の体ひとつさえ、異国の地まで無事に届けられるか心配になる。巨大な鉄の塊が空を飛ぶ原理はいまだ解明されていない。
「ベルヌーイの定理は非圧縮性の流体で成立するが、飛行機は圧縮性の流体である空気の中を飛ぶ。まあ、僕も専門は数学だから本当のところよく分かりはしないけれど。まあ、理屈じゃないよ。落ちやしないさ。今だって、何百本もの飛行機が空を飛んでいて、そのうち今現在墜落している飛行機はおそらくゼロだろう。理屈じゃないよ、上手くいくよ」
僕が大学を去るときには、彼は修士論文に取り掛かっていた。国立大学理系修士。彼の肩書きは、どん詰まりの僕の人生とは真逆のようだが、彼の大学時代に最も親しくしていた人間はかわいいガールフレンドで、その次に僕だった。彼はガールフレンドをとても大事にしていた。僕と彼はほとんどまったく講義にも出なかった。そして、僕と彼は一度もカンニングをしなかった。僕と彼が違ったのは、彼はいつもルービックキューブか電卓をいじって遊んでいて、数学を愛していた。カンニングをしないのが普通の世の中だったら、きっと彼は数学科の中でもっと多くの友人を持っていただろう。僕の方は分からない。
世界の一番南の町まで走って、僕は何か見付けるだろうか。分からない。これまで、何度も遠くまで走って、その中で僕は何かを見付けたのか。それすら分からない。ただ、間違いないのは、誰も僕に優勝の賞状もくれないだろうし、ドーピングの疑いも掛けない。それと同時に、もう一つ間違いないと感じるのは、僕が今からしようとしていることは、僕がこれから生きていくのに必要なことだということ。何も手に入らないかもしれない、手に入ったとして、多分、僕はこれまでと同じように、それに気付くことは無いし、きっとそれが僕の人生を実際的な意味で助けてくれることはなかろう。
時々、思うことがある。フランスの大地に生まれて、自転車にまたがって、遥か高い山も、でこぼこの石畳の上も、見渡す限りの牧草地も、全てを風のように通り過ぎて。誰よりも速い選手として生きる。そんな風に生まれたら。
それでも、イタリアの英雄マルコ・パンターニはホテルの一室で孤独にコカインの毒に死んだ。彼は、ヒゲにスキンヘッドで、オフシーズンには全く自転車に乗らないが、その超人的な走りで人々を熱狂させた。しかし、世界で最も栄誉ある自転車レース、ツール・ド・フランス優勝以来、彼には、ドーピング疑惑がついてまわった。確かに、その頃の自転車レース界はドーピングと勝利の時代だった。スポーツと言うにはあまりに過酷な競技、時には二百キロ以上の距離を山を越えて、平均時速四十キロ以上で走り続ける。かつては、麻薬がドーピングの主役だった。正常な精神では、人間が自転車一台でそんな距離を猛スピードで走り続けること自体不可能に近い中、勝利はたった一人にしか与えられない。それでも、時代は過ぎて麻薬は影をひそめ、新しい薬の時代になった。血液中の酸素を運ぶ赤血球を人為的に増やす薬たちの登場。これは、証拠を突き止めるのが難しかったし、当時の規則では禁止薬物に指定されていなかった。だからこそ、劇的にタイムが素晴らし過ぎた選手はみんなこの疑いを受けることになった。実際にやっているかどうか突き止められないということは、誰にでも疑いを掛けることも可能だということだ。彼は再びツールで勝つことなく、疑惑の中で精神を崩し、コカインのオーバードースに死んだ。彼の死の七年後、彼の優勝したツールで、彼と二位の選手、ポイント賞の選手の薬物の使用が特定された。
僕には勝つべきレースもなかったし、一緒に走る仲間さえいなかった。
異国の地に降り立った後のため、人生最後の日本煙草を一本だけ残して、僕は出発ゲートに向かう。
進退窮まる度に阿呆自転車。
西へ東へ阿呆自転車。北と南はすぐに海だけれど。お金はないけれど。寝袋、テント背負って、せっせと阿呆自転車。気付くと、ずいぶん遠いところまで、自転車一台、走り回った。
ウマシカじゃない。阿呆。ウマもシカも僕と一緒には走ってくれない、一人きりで走る。
右も左も前も後ろも壁ばかり。するすると周りの連中は壁を素通りしていくけれど、どうにも僕にはできない。至極普通に真っ当に生きるということが、どうしてなかなか僕には悲しいまでにできない。じゃあ、普通じゃないなら非凡かと言うと、そこは悲しいまでに平凡で。それもそのはず、僕が至極普通に真っ当にできないことと言えば、単に大学の講義に出席するということができないというだけのことだから。
右も左も前も後ろも行けないからって、若い人間があぐらをかいて石の上に三年いたって仕方が無い。上か下に行けないものか。ロウで固めた鳥の羽根も、金のもぐらの地面を掘る強靭な前足もない。生えているのは二本の脚。その脚を動かしてみても、前に進んでるんだか、後ろに戻ってるんだか分かりゃしない。上も下も前も後ろも分からくたって、何かしてみるしかないでしょう。そのための乗り物が、いつの頃からだか僕には自転車だった。
友人たちは、どこにでも自転車一台に体ひとつで行ってしまう僕を大器晩成だ、と言ってくれるが、どうにも僕にはそう思えない。自分のことを一番よく知っているのは誰だという話になれば、案外、自分じゃなくて周りの人間のような気もする。けれど、やっぱりそこは自分のようにも思う。仮に大きな器だとして、それも良いけれど、どちらかというと日々ちびちびと晩酌できるお猪口のようなものを欲しいと思うのが僕の所存で。
そんな具合で日々、進退窮まって。いよいよ僕は大学を去ることになりまして。
海の向こうへ阿呆自転車。
アルゼンチンで、アルゼンチンを感じるのに半日と時間は必要なかった。
荷物を受け取り、僕はすぐに空港で自転車をダンボールから出して組んだ。一日半のフライトの後、間違いなく疲れているはずなのに、僕の体は的確に動いた。入国のゲートでは、生まれて初めて聞くスペイン語に何も答えられず、英語で言われても聞き取れず。ようやく泊まる宿の住所を聞かれているのだと分かっても、地図と住所をプリントアウトした紙は預けた荷物の中。それを伝えることもできない。一体どうやってゲートを越えたのか、自転車を入れていた空のダンボールはどこにやってしまったのか。分からないままにも僕の体は的確に動いてくれ、気付いたら自転車の上に乗っていた。
十メートル程走って空気が入っていない事に気付いた。飛行機に自転車を乗せる場合、上空と地上の空気圧差の関係で必ず空気を抜くことになっている。空気をゆっくり入れられる場所を探して歩くと、僕の生まれ育った国でも見慣れているコーラのロゴが書かれている、しかし見たこともない形の自販機を見付けて、両替したばかりの汚いアルゼンチンペソ紙幣を財布から一枚取り出し、お金を入れるらしい部分に差し込む。コーラは無事に出てきたが、お釣りは出てこなかった。何ペソの紙幣を入れたかも分からなかったけれど、間違いなくお釣りの出てくる紙幣だったはずだ。しかし、自販機には、お釣りが出てくるらしい部分さえ見当たらない。コーラのフタを開けて飲むと、きちんとコーラの味がした。最後の日本煙草に火を付けてから、コーラのペットボトルは五百ミリリットルより少し大きいことに気付いた。的確に体は生きることを求めて動いている。頭が落ち着く必要がある。心拍がものすごい数を打っていることに気付く。最後の日本煙草と、日本と同じ味のする飲み物を、これまでの人生で最も集中して味わおうとした。僕の体は的確にタイヤへと空気をポンピングしてくれた。
そして、やっと僕は気付いた。空港から出るための道は、どうも高速道路らしい。歩道など付いていない。市街地から離れた国際空港まで歩いてやってくる人間も、自転車で走ってくる人間もいるわけがないのだから当然だった。地図の書かれた紙とコンパスを出す。しかし、どうにも分からない。エセイサ国際空港にいるだろうことは分かる。コンパスの針と照らし合わせると、目の前の高速道路がブエノス・アイレスにつながっているらしいことは分かる。しかし、あまりに何かが不明確な気がする。地図は確かに信頼できるものだったし、コンパスも壊れてはいないだろう。走るべき道も分かる。理論上、何も分からないことはない。しかし、何かが明らかに不明確な気がする。今立っている場所から見れば、ついさっきまで自分はちょうど逆立ちしている具合で立っていたからだろうか。ここは地球の真裏なのだ。
バスに自転車は乗せられるか身振りで聞いた。言葉が理解できなくても、簡単に分かるほどはっきり拒否された。タクシーも同じだった。もう日本煙草はない。アルゼンチン煙草を買うにも、煙草の身振りも、煙草が何ペソするかも分からない。それでも、走るのは日本と同じに違いない。日本から見れば逆立ちしていても、地球にはちゃんと引力がある。アルゼンチンの大地で僕はきちんと地面に脚を付いて立っている。ペダルを踏めば自転車は前に進んでくれるに違いない。
僕は高速道路に向けて走り始めた。
空港ゲートのところで、工事人夫らしい男たちがいた。
「オラ」
覚えたてのスペイン語で、こんにちは、と僕は話し掛けた。そして、地図を出して、
「キエロ、イール、ア、ブエノスアイレス」
と片言で言った。男たちは集まってきてゲートの向こうを指差して懸命に何か言ってくれるのだが、僕にはさっぱり分からない。「ビシクレータ」自転車。「ビアーヘ」旅。「ハポネス」日本人。「ブエノスアイレス」僕は片言で言った。彼らは一生懸命に何かを伝えてくれた。しかし、どうしても何も分からない。僕と人夫たちは、同じやりとりを何度も繰り返した。彼らは、伝わらないと分かっても、懸命に何かを伝えようとしてくれた。
そこへ、絵に描いたように都合良くロードバイクに乗った白人が現れた。彼は黒人の工事人夫たちと話して、僕にスペイン語で「ついて来い」みたいなことを言った。何者かさっぱり分からないまま、僕は彼の後ろをついて走り始めた。人夫たちは、僕の出発を自分たちのことのように喜んで手を振ってくれた。旅の神様というのがいるのだと心から感謝した。
彼は、平然と高速道路を自転車で走った。恐らく、空港で働いているのだろう。何にせよ走り始めてしまえば大丈夫だ。言葉が違って、肌の色も違っても、自転車は日本と同じように進んでくれる。そして、僕は急に眠気を感じた。自分は果てしなく疲れているということに気付いた。それでも、どんなに疲れていても自転車はこげると確信できた。もう、大丈夫だ。途中、警察に止められた。白人の彼の方がヘルメットをかぶっていないせいらしかった。しかし、警官はしばらく彼と話すと、「ハポネ!」と言って僕に熱く握手してくれ、先に通してくれた。
僕はペンキまみれの実に汚いズボンにTシャツというみすぼらしい格好をしていた。途上国に行く場合はラフな格好をして行かないと強盗に遭うという情報を聞いて、旅の資金集めのために働いていたペンキ屋ではいていたズボンで飛行機に乗り込んでいた。そんな僕を、あたかも昔からの友人のように迎えてくれる人々のいるアルゼンチンという国に心から好意を抱いた。
しかし、彼は急に止まって、高速道路の先を指差して、何か言った。よく分からないままに、僕はなぜか親指を立てて、
「オッケー、グラシアス!」
と言ってしまった。もちろん、何もオッケーではない。むしろ、覚えたての、スペイン語、グラシアスを勢いで言ってしまっただけみたいなものだった。彼は、がっちりと握手して自分の名前を言ったらしかった。よく聞き取れなかったけれど、ヨーロッパ人みたいなかっこいい名前だなって思った。僕も、名前を言ったけれど、彼もやはり上手く聞き取れなかったらしい。日本語の抑揚の無い発音というのは、外人には聞き取れないらしい。それから、彼はもう一度強く握手してくれて、僕のことをアミーゴと呼んでくれ、バイバイと手を振って高速道路から外れて行ってしまった。
ぽつねんと異国の高速道路に取り残された僕にできることは、彼が指差した方向に、自転車をこぐしかなかった。話に聞く、賑やかな街ブエノス・アイレスの気配は一向に無い。一日中走っても着かなかったらどうしようか。出発前に地図で距離は読んでいるから、そんなはずはないと思うが、そもそもに僕は本当にブエノス・アイレスの方向に進んでいるんだろうか。確かに、ここまでに何度か目に入った看板にはブエノス・アイレスらしい文字もあったが、何の確証もない。ブエノス・アイレスは広い街だ。ブエノスの中でも目指しているのと、全く反対の方に付いてしまう可能性だってある。出発前に調べた地図と道を正しく走れていれば問題ないが、何の確証もない。多分、あっているだろうとは思うが、誰に聞くにしても、言葉も話せないし、そもそも高速道路の上には歩いている人などいない。だから、僕はできるだけ何も考えず、道をにらんでペダルを踏むだけにした。
ペダルを踏んでいる足のペンキに汚れたズボンは、僕の頭に塗装屋の人たちの顔を思い浮かばせてくれた。友人の親戚である九州出身の彼らは、実に人相の悪い人々だった。人相に負けず劣らず言葉も荒い。親方とその息子と、もう一人の職人の三人だけでやるペンキ屋。作業効率のため、マスクも付けずに吹き付けで溶剤系の塗料を壁に塗っていく。もちろん、全てが壁につくわけじゃなく、跳ね返って彼らの口から肺に入っていく。彼らの寿命は長くない。彼らは安全帯も付けずに足場の上を歩いて、細かいところまで丁寧に塗る。僕は塗料の入った重い一斗缶を持って後ろをついて行く。吹き付けのガンの中の塗料が空になったら補充する。壁を石のような風合いにするため塗料には小石が混ぜられていて、壁に吹き付けたいくつかの石は跳ね返ってきて僕らの目に入った。
大学を中退して、旅の資金のために山小屋に出稼ぎに行って、航空券を取って、出発までの間の一ヶ月弱ほどの期間を働きに来ている僕は、実に役に立たなかったろう。それでも、親方はきちんと僕に給料をくれたし、職長である息子さんは休憩時間に「お疲れ」と言って、缶コーヒーをくれた。もう一人の四十過ぎの職人さんは、僕に大学のことを聞いて、
「オレも一度で良いからスーツにネクタイの仕事っていうのをしてみたいなぁ」
と話し掛けてくれた。
「おい、自転車ホームレス、生きて帰って来たら短くても良いからまた働きに来いよ。まあ、生きて帰って来たらの話だけどな」
親方は、何度もそう言ってくれた。
その日々の中で、僕は何度も、空港まで行って飛行機に乗らずに故郷に戻って、塗装屋として生きていく日々について考えた。大学中退のモヤシの僕に肉体労働の仕事はきつかった。それでも、彼らは温かかった。アルゼンチンに行けば、僕は生きて帰って来れるかも分からない。僕はただ怖かった。できるなら誰か止めて欲しいと何度も思った。
街が見えてきて、高速道路に改めてゲート、料金所らしきものが現れて、僕は高速道路から下りざるを得なくなった。
それでも、地図とロードバイクの白人の身振りを照らし合わせれば、高速道路沿いにずっと行けば、海にぶつかって、そこに僕の泊まるつもりの日本人宿があるはずだ。
高速道路を下りると、改めてそこはアルゼンチンだった。道の舗装はいたるところひび割れ、端にはゴミがいくつも転がっていて、レンガ塀はいたるところ崩れていた。高速道路を見失わないよう見上げ、ゴミを踏んでタイヤがパンクしないよう地面を全力でにらんで走る。
どこをどう走ったかは分からない。初めての海外に向けて僕の集めた知識の中で、最も恐怖したのは犬だった。狂犬病の犬に噛まれて、発症してしまえば間違いなく死ぬ。治療法はない。生き残ったら歴史に名前が残る。対処法は、それらしき犬に噛まれた場合は、すぐに病院に駆け込んで発症する前にワクチンを打つということだったが、この言語力では病院にたどり着くことさえ難しいだろう。つながれてない犬たちはそこらにいくらでも歩いていた。貨物列車がゆっくりと走っていた。野良犬が歩いていた。彼は列車にぶつかって転んだ。それから、次々に来る後ろの車両に何度も轢かれては車輪の間を転がった。彼が死んだのか、どうなったのか最後まで見届ける余裕もなく、僕はペダルを踏み続けた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年6月26日 発行 初版
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