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私が子供の頃、父の喘息がひどく妙高高原にある病院でしばらく療養していた時期があった。
夏休みには家族で見舞いに行ったのだが、それは遠い道のりだった。
当時、妙高高原まで行くには特急と列車を乗り継ぎ五時間はかかっていたのだ。
お盆休みで行きも帰りも列車は満員。通路に旅行鞄を置いて腰掛けるのだが、身動きもできない中を売り子さんが車内販売のワゴンを押してくる。
高原での夏休みの後にはそんなうんざりするような苦行が待ちうけていた。
けれども思い返してみれば、ペコペコしたポリ容器に入ったティーバッグのお茶や冷凍みかん、碓井峠の釜飯、帰りには緑の手かごに入った長野の青りんご、そういう楽しみもまた長距離列車での移動にはお決まりのもので、今はもう味わえない貴重な想い出だ。
父が元気になってからは車で高田と妙高高原へと毎年のように行き来していた。時には、父と祖母の故郷である能生まで足を延ばしたりもした。
お盆休みになると夕方には家を出発した。高崎、安中を通り過ぎ、碓氷峠を越えると真っ暗な森の中、霧が濃くたちこめていた軽井沢。
車の中でひとしきり眠った後立ち寄ったレストランで食事したことは、夢の中の出来事であったかのように記憶もおぼろげだった。
夜明け前に長野に着いて、「数珠を貰える」と聞きつけて列に並んだことがあった。他の人たちに倣って頭を垂れていると、立派な袈裟のお坊さんが前を通り、衣の袖で頭に触れて行った。それが数珠をいただくということだったのだ。
善光寺では餌売りのおじさんから買って茹でた青豆を鳩にあげたり、参道の宿坊や土産物屋の賑わいの中を歩くのが楽しかった。
長野を出て再び山地へ登ってゆく。戸隠では決まって神社の近くに車を止めて蕎麦を食べた。
買ってもらったバードコールをキュイキュイ鳴らしながら、父と一緒に道の両脇に並ぶ竹細工の店を見て歩いた。
黒姫へと山を下る途中には、高原野菜の出店に立ち寄って焼きトウモロコシを食べた。これもお決まりのことだった。
野尻湖まで来れば、妙高高原は目と鼻の先だ。
運転する父は大変だったろうけど、そんな風に途中観光しながら新潟までの長旅を何度もしたのだ。
大人になってからはひとり登山で何度か妙高を訪れてはいたのだけれど、長野道や新幹線あさまが通った後も、まだまだ上越地方は遠かった。
祖母の生まれ故郷は信越線直江津駅から更に日本海を富山方面へ向かう途中、糸魚川市の山奥の集落のひとつだった。
脳梗塞を起こして連れ帰って以来六年が経ち、田舎と行き来しなくなってから久しかった。
それが今年開通した北陸新幹線のおかげで格段に近くなり、元気なうちに遊びに来いと叔父から誘いがあったのだ。
高田を尋ねることになった。
せっかく出かけるのだから、もう一度故郷の山へ行きたいかと尋ねたのだけれど、苦労した想い出ばかりが残り、もう住む人もいない山には無理をしてまで行く気力はないようだった。
それでもこれが数年ぶりの旅行であったし、せめて好きな温泉に連れて行くことにした。
祖母にも馴染みのある妙高山の麓、赤倉温泉で一泊だけしようと計画を立てた。
折りたたみの車椅子に祖母を乗せての旅行、事前にいろいろ調べたり準備が必要だった。
けれども新幹線に乗ってしまえば後は快適だった。
停車駅の多いはくたかに乗ったのだが、大宮から一時間四十分、あっという間に上越妙高に着いてしまった。
旧JR在来線、今ではえちごトキめき鉄道「はねうまライン」の脇野田駅に隣接・統合して出来たのが上越妙高駅だ。
真新しい駅舎の東口に出ると木組みの吹き抜け空間にステンドグラスが綺麗だった。
ここからは予約していたレンタカーに乗り換える。
高田までは旧国道18号の一本道。
山から轟々と吹いてくる風に低く重たい雲がどんどん流されて、空は小雨まじりになってきた。
高田駅まで来ると、駅も本町のアーケード街も大分前に建て替えられ立派になっていた。
大手の商業施設も入れ替わってはいたが、昔から商いをしている地元商店は健在なようだった。
最後に訪れてから20年近くが経ち、さすがに昔の面影は無いのではないかと思っていたのだけれど、細い雁木通りは昔のまま、駅を背にして一本目の交差点を左手へ仲町、北本町とずっと続いていて、その先のホテルラングウッドの交差点を南北に走る通りにも古い街並みは残っていた。
市内全体に残る雁木通りを繋げると十六kmにもなるという。これだけの規模で残っている所もめずらしいのではないだろうか。
各家が軒やひさしを道路側へ延ばし、通りに沿ってつなげられた渡り廊下のようなものが雁木である。
雁木は家の延長なので、足下の石畳やコンクリートも各家の造り同様にまちまちで、少しずつ曲がっていたり高さが違っていたりする。
雁木通りに面している家々は間口が狭く、奥へと長い町家になっている。
昔程豪雪地帯でもなくなったと言うけれど、雪深い国の知恵はまだいきていた。
道の真ん中には融雪用の水管が通っていて、アスファルトには錆びのあとが残る。屋根には雪下ろし用のはしごも。
駅の東側は城下町、西側は寺町なのだが、残念ながら西側の寺町を歩いた事は一度もない。
高田城の桜さえ見た事がなく、一度だけ蓮の花が咲いていた頃に公園の近くを通っただけだった。
久しぶりでこうして訪ねてみると、幾度かの夏と冬、子供の頃に遊んだ北本町から駅前までのほんの小さな世界が私の記憶の中の高田だった。
改めて歩いてみたかったけれど、急ぎ足での街歩きとなった。
ひとまず祖母と父は親戚の家に落ち着き、早い夕飯をごちそうになった。
根曲がり竹のみそ汁に春菊の胡麻和え、皆は寿司を食べた。
私は駅前のホテルに泊まることにしていたため、チェックインすると再び外に出てみた。
日は長く六時になっても外はまだ明るかったが、すでに駅前アーケードの商店はほとんどがシャッターをおろしていた。
七夕が近いので大通りには飾り付けした大きな笹が飾ってあった。
ひどい風はやむ気配が無く、せっかくの七夕飾りも笹ごと飛ばされてしまいそうだった。
夜行の高速バスで祖母と二人で来た事があった。
直江津行きのバスなのに通り道だからと高田の近くで降ろしてもらったのだが、そこは街中からは少し離れた国道沿いだった。
夜明け前、あたりは真っ暗で祖母はここがどこなのかわからない様子だったが、なんとか一件だけガラス窓にあかりが灯っている家を見つけると道を尋ねた。
そんな風にしてこのまちに辿り着いたこともあった。
翌朝ホテルをチェックアウトする前に、近所をもうひとまわり散策した。
まずは高田駅へ。
土産の翁飴を売店で買った。
米と寒天と砂糖からできている昔ながらの硬いゼリーのようなお菓子で、祖母のお気に入りである。
一つ目の信号を左へ入ると雁木が続いている。
日曜の朝、まだ人通りも少ない通りを歩いてゆくことにした。
歩いていると、すぐに意識が遠い昔へと滑り込んでしまう。
今では切れ切れになった記憶も、いくつかの事はありありと思い出すことができた。
家の裏庭の畑に咲いていた黄色い花、それがきゅうりになるのだと教えてくれたのは叔母だった。
神社の石畳でみつけた蝉の抜け殻、「遊園地」と呼ばれていた公園でいとこの友達と遊んだ夏休み。
わざわざ好きなものをと作ってくれたチキンライスに卵が入っていて食べられず、急に家に帰りたくなったこと。
雁木に時々吊るされているてるてる坊主もそのひとつだった。
上越妙高の駅で手に入れた観光案内で知った日本最古と言われる映画館。
聞いた話では一時期はかなり廃れたらしいのだが、今も映画を上映し、週末には地元アイドルのライブをやったりしているそう。
事前に連絡すれば見学もできるらしい。
適当に歩いていたら裏の駐車場らしき所に出たので立ち寄ってみた。
残念ながら中に入ることはできなかったけれど、入口から中を覗いて見ると、壁にかかったフィルムのリールや柱時計も見える。
通りを挟んだ向かいには高田小町という町家交流館があった。吹き抜けに太い梁が組まれた大きな町家で古い石畳も残っている。
中に足を踏み入れると、叔父が今の家に引っ越す前に住んでいた古い家を思い出した。
もとは農家のような建物だったのだけれど、燻されたような木造の母屋の天井は高く、土間があって上がると畳の居間、その奥に階段があり、広いロフトのような中二階があった。
風呂とトイレは屋根続の離れにあって、裏手の畑との間にあったっけ。
この街で感じる静かな暮らしの匂いは、幼い頃の記憶と結ばれる。
毎日起きて食べて遊んで眠る。そうやって毎日が続いて行くことを信じて疑わなかった日々のこと。
そうして家族とともに暮らし、人と交わり、やがて命が尽きたなら土に還る。
そういう人のあるべき営みを全うすることが、東京を向いて暮らしていると二の次になってしまう。
だからだろうか、この街並がなくなる前に、朝ドラとか映画の舞台として作品の中にその姿を留めて欲しいと思ったりする。
主人公は男性、対象は世の圧倒的多数を誇るお婆さん。
東北で震災のあった年、テレビでよく流れた公共広告機構のコマーシャルがあった。
男子高校生が階段でお婆さんを気遣い荷物を持ってあげるというものだ。
このコマーシャルを見るたびに祖母は顔がほころび、テレビの中の男子学生を褒めていた。
その男子学生を自分の息子のように、そして老婆を自分に重ねてしまうのだろう。
かつてヨン様が中年女性の心をわしづかみしたように、きっと世の祖母あさんが笑顔になって益々若返るにちがいない。
冗談はさておき、今までも少しずつ街は姿を変えて来たはずだ。
けれども雁木通りはほぼ昔のまま残っていた。
それは、文字通り「有り難い」ことなのではないだろか。
新幹線の開通によって経済の発展を追い求めるスピードが加速すれば、箍が外れたように景観も変わってしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、その姿を留めておきたいと思ってしまうのは勝手なノスタルジーだとわかってはいるのだけれど。
そんなことを思いながら高田小町を後にした。
「おまえも元気でいらっしゃい」
涙を浮かべて叔父と別れると、私たちは高田を後にした。
来た道を戻り妙高高原へと向かう。
高速に乗れば早いのだろうけど、久しぶりの運転でのんびり行きたい。
ゆっくり走っても一時間なので下道を行くことにした。
途中道の駅あらいに立寄り、ちょうど昼だったので蕎麦を食べた。
妙高産の蕎麦と地元で養殖している妙高ゆきエビの天ぷら。
笹寿司や地元の野菜、もちろんお土産も購入できる。
色々買い物したかったが、帰りにしようと思い直した。
ここがちょうど中間地点、ゆっくり休憩をとってから出発した。
行く先の山には雲がかかっているものの心配していた天気はいくらか快方に向かっているようだ。
カーナビの案内どおり赤倉温泉へ直接通じる山道に入るとどんどん高度を稼いでゆく。
緑濃い山中では紫陽花がちょうど見頃だった。
すると祖母が怖がりだして、こんな山奥へ行くのは嫌だとしきりにごねた。
なだめながら会話をしている内にやがて視界が開け、見覚えのあるスキー場の麓に出た。
目指す宿はもう少し登った先、山の中腹に見える赤い屋根のホテルだ。
赤倉温泉に行くのなら昔泊まった宿にしようと思っていた。
料理が美味しいと評判の小さな旅館だった。
けれどもその宿にはエレベータが無かったので叶わず、そこから調べる事になった。
希望は和洋室、あるいは洋室があり、露天風呂付きの部屋か貸切のお風呂がある宿。
他にもアクセスを考えたりと、宿を決めるまでが大変だった。
予定していたチェックインの時間には早すぎたけれど、まずはホテルに向かってラウンジでお茶でもしようと考えていた。
到着して手続きを済ませると、用意ができているからとすぐに部屋に案内してくれた。
荷を解いて一休みした後、人の少ないうちにと温泉へ向かった。
貸切風呂は夕飯後に予約して大浴場へ。
温泉棟への渡り廊下からはまわりの景色が見渡せたけれど、空の上層には厚い雲が覆い被さっていた。
日が暮れる頃にはあたり一面がすっぽりと雲の中に閉じ込められてしまった。
静かな夜だった。
明日の朝雲は晴れるだろうか。
どこへ行く訳でもないのだし、せめて早起きくらいしてみるか。
運が良ければ雲海か朝焼けをみられるかもしれない。
調べると朝焼けを見るには日の出の三十分前が良いのだとわかった。
夏至の直後、明日の日の出は四時二十三分だった。
ちょっと早すぎるけれど、アラームを四時にセットすると期待を胸に眠りについた。
四時に起き支度すると早足でテラスへ向かった。
けれども渡り廊下に出た所で、雨がかなりの勢いで降っていることに気がついた。
部屋は静かで雨音に気づかず、視力の悪さ故窓の外は暗くしか見えていなかったのだ。
しばらく待ってみたが雨が止む気配はない。
仕方ないので部屋へ戻り再び横になった。
祖母が朝風呂にも一緒に行くといって起きだした。
来る前はかなり嫌がっていたので、一度温泉に入れればいいと思っていたのがとうとう三度とも一緒に温泉を楽しんだ。
付き添いはそれなりに大変だったけれど、体調も良く、元気なうちにもう一度連れて来ることができて良かったと安堵した。
朝食を食べ終える頃になるとしだいに雲が上がって来た。
そうして支度を終えてチェックアウトする頃には、とうとう晴れた。
いざ帰ろうという時になってこのお天気!
ホテルを後にして山を下り、スキー場の麓まで来ると山を振り返って小休止。
あと一時間待てばきっと雲が完全にあがって妙高山も顔を見せるはずだ。
再び一人で来ることを考えていたけれど、それでも後ろ髪をひかれ、最後にいもり池に立ち寄ることにした。
ここ妙高高原にも憶えていることがたくさんあった。
トウモロコシ畑の中のどこまでも続く一本道、真っ青な空の向こうに腰を据えた妙高山。
トンボが舞い、虫かごいっぱいに捕まえた池の平。
真夏の夜のお祭り。
井戸水で冷やしたスイカの味。
松が峰の遊園地、牧場で大きな馬の背に乗せて貰ったこと。
ビジターセンターの横に車を停めて、胸がはやるのを抑えながら池へ。
すると思いがけず、いちめんの白い睡蓮の花が迎えてくれた。
そしてその向こうに、妙高山が頭を雲に隠して座っていた。
ほんとうに、あと三十分待つ事ができたなら。笹ヶ峰まで足を延ばせたら。
そう思わずにはいられなかった。
でもこれ以上の欲はかくまい。
久しぶりの山との再会としては上出来だ。
妙高山に、また来なさいと言われたのだと思う。
2015年7月19日 発行 初版
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