spine
jacket

───────────────────────────────────



CANADA '97

Vancouver - Winnipeg - Churchill

Ryoko Yoshizawa

Journey on



───────────────────────────────────

The polar star

 私にとって星野道夫さんの本との出会いが極北の自然への入口だった。
写真集「MOOSE」を知人に見せてもらったことから彼の存在を知り、続いて高校生の時にイヌイットの村へ手紙を書きホームステイを叶えた「アラスカ 光と風」を本屋で見つけた。
それからは彼の本が出るたび買い求め、後を追いかけるように読んでいった。
彼は写真家としてアラスカに移住し、長い時間雪と氷に閉ざされる圧倒的な自然の中で育まれる生命や土地で暮らす人々の生き様を写真に撮り、そして言葉にして遺した。
ライフワークのひとつであったグリズリーを追いかけてロシアの大地を旅していて、その熊に襲われて人生の最期を迎えた。

 彼の短い一生は多くの人に影響を与えたが、私も心を掴まれたひとりだった。
本を読んでいた当時、コーリングとも呼べる使命に呼応するように未知の世界に飛び込んでいき、そして静かに世界を見つめる彼のような人にただ憧れた。
いつか私も子供の頃夢見たように、彼のように世界を歩くことができるだろうかと淡い期待を胸に置いていた。
これまで地方を一人で旅してきたことや、いくつかの登山、そしてオーストラリアへの旅行を経て「外国でもなんとかなるだろう」と思えるようになり、次こそは北を目指そうと思えるようになった。
オーロラ、夜の帳が降りると音も無く現れて空を覆う鮮やかな光。
自然の神秘と彼の写真や言葉を通して夢想した極北の世界にこの身を置いてみたい、そう思った。

 当時はインターネットは無かったので、観光局や大使館、旅行誌で情報を調べ、旅行会社に問い合せ電話するという方法だった。
ツアーのほとんどはアラスカのイエローストーンへ行くものだったが、観光客の多い所は避けたかった。
調べているうちにカナダのハドソン湾にあるチャーチルという小さな町にオーロラを観るオプションツアーがあることを知った。

23 JAN 1997 TOKYO - VANCOUVER

 チャーチル、そこは北極熊も闊歩するという町だった。
実は飛行機に乗るまでアラスカはカナダよりも遠いと思い込んでいたのだ。
機上でルートを見ていると、飛行機は日本からバンクーバーを直線で目指すのではなく、オホーツク海 − そしてベーリング海の上辺!を通り、アラスカをかすめて湾を南下するルートを飛んでいた。
 憧れと、勘違いと、あまのじゃくから私はオーロラを観にカナダを目指した。

チャーチルへ行くにはバンクーバーから国内線でウィニペグへ、そこから更に飛行機を乗り継がねばならない。
町の周囲はツンドラ地帯のため鉄道の他に陸路は無い。
限られた期間で往復するには飛行機しか選択肢がなかった。
その小さな町で三泊四日を過ごし、二夜をオーロラツアーに申し込んだ。

convention center の近く 向こう岸は north vancouver

バンクーバーには早朝に着いた。
チェックインまでの間、まずは市内を歩いて観光。
gastownにはイヌイットやハイダ族などのARTを扱うギャラリーがたくさんありハシゴした。
MARION SCOTT GALLERYにはイヌイットの人の作品と思われる石の彫刻が飾ってあった。
そこで気に入った数冊の作品集を買って外に出た。

シドニーやソウルで泊まったことのあるYWCAに宿をとった。
夕飯を外で食べようと夕方外に出てみたが、ホテルの周辺は繁華街から少し離れていて人通りもほとんどない。仕事を終えて家へ帰る人は足早に行ってしまう。
そして昼間は見かけなかったホームレスらしき男性があちこちで歩いているのを目にした。
着いてまだ1日目、地図を片手によそ見をしながら歩くのは危ないと感じ、戻ってホテルの向かいにある店で何か買い物して簡単に済ませることにした。

市内にはトロリーバスが走り信号機も通りの真ん中にぶら下がっている
降りる時は窓際に渡してあるコードを引く

翌朝、朝食を食べようとチャイナタウンへバスで出かけた。
着いてみるとレストラン以外に食料品店もあり、通りは買い物の人で賑わっていた。
早速飲茶ができる店へ。鶏としいたけの入った炊き込みご飯風のものと点心を数皿食べた。
あいにく小銭の持ち合わせがなく、カードでチップを上乗せする方法がわからずに払いそびれた。

そこからMountain Equipment Co-opという登山・アウトドア用品の店へ行き、買い物をした。
レジでバッグに入れる?と訊かれたが、その意図が咄嗟には理解できなかった。
つい頷いたら、バッグの中にバッグをいれるなんてとぼやきが聞こえた。
確かに使う為に買ったバッグをバッグに入れて持ち運ぶ必要は無いか。
日本では買い物すれば自動的に上等すぎる袋に入れて手渡されるのがあたりまえ。
エコはまだまだ浸透していなかった。

帰りはバスに乗らずに歩いてみることに。
cityの高層ビル群はガラスを全面に使用したデザインで、地震の多い日本では見られないものだ。
ちょっと近未来的な雰囲気だった。
しかし、街を歩く人々の着ている服のデザインや色彩は全体的に寒色やアースカラーばかり。
東京とは街の色彩がまるで違った。

cambie bridgeから見た city
UBC内にある人類学博物館で出会ったPhoebe Anthropologyという単語が覚えられず道を訊くのに苦労した 
展示方法がなかなかおもしろかった

25 JAN Vancouver - Winnipeg -26℃

空港から外にでてつい大きく息を吸ってしまったら、ヒュッと胸が苦しくなって驚いた。
あまりにも空気が冷たかったのだ。それからは用心深く鼻から息をすることにした。

地元の人が今年は雪が多い方だと言ったので、新潟は3~5mも積もるという話をしたら、-26 ℃なのと3mの雪、どちらがいいだろうかと言って笑いあった。
Winnipegは内陸にある都市、カナダの中でも特に寒い地方なのだそう。
時々Winter-Peg と言ったりする。

カナダは多民族国家。マニトバ州都のウィニペグはかつて交易で栄え様々な民族・国の人々が行き来する地域だった。
イタリア、ウクライナ、ポルトガル、フランス、ドイツ等それぞれのコミュニティがあるらしい。
そしてイヌイット、先住民族のいくつもの部族、本当に多様な人々がこの土地に生きているのだ。

Winnipeg Art Gallery
先住民族のアート収蔵数はカナダ一
自然の中で生きて来た人々のアートには強く心惹かれるものがある
ここには一泊したが、天気も悪かったのでMuseum of Man and Nature、Touch the Universをみてまわった。

この日も早朝の便。
再び飛行機に搭乗しハドソン湾に面した小さな町Churchillを目指す。
エンジンをかけたばかりの車のように冷えきった機内はとても寒かった。
ダウンジャケットを着込んだまま席に着くと、飛行機はすぐに夜明け前の空港から離陸した。
程なくして出された朝食はcontinental breakfast。
冷え冷えのフルーツにベーグル。

しばらくしても機内の温度は上がらなかった。
眼下には凍った川と大地が朝の日のひかりを反射していた。

TAXIはピックアップトラックだった。
助手席に乗り、行き先を何の疑問も持たずに「ツンドラ・インまで」と言ったら通じなかった。
しばらくやりとりした後にオジサンが「タンドラ・インか」と言った。
ああ、ツンドラという発音は和製英語だったんだ。

他にも滞在中に覚えた言葉がある。
by your self ? おひとり様ですか
オリオン座は「オライエン」
アイスホッケー「アイスホッキー」
電子レンジはmicroweb
そして宿のトレードマークだったptermigan雷鳥のことを何て発音すれば良いのかわからずに迷っていたら、pは発音しないのだと教えられた。「ターミガン」でいいのだそう。

ホテルにチェックインしひと休みすると、町の施設であるcomplex centerに行ってみることにした。
公園、図書館、役所、カフェ、交番、カーリング場などのスポーツ施設がすべてが屋内に揃っていた。先住民のデザインによるキルトのようなアートが高い天井には飾られている。
playgroundで遊んでいた子供達がめずらしそうに私を取り囲むと中を案内してくれた。
カメラにとても興味があるらしく、交代でシャッターを押し、たちまち大撮影会になった。
子供たちは年齢に関係なく仲が良い。

海面から立ち上る蒸気 海岸の雪は強風の圧力で硬くしまっていて歩いても崩れない
明日は半日のデイアウトツアーを予約した
ガイド氏はカメラ目線で手放し運転
Space Port の裏を散歩している途中ptermiganが遊んでいるのを見た
-39℃ wind chill 2800 この日、この気温のせいで学校は休みだった

寒さの違いがまるでわからない私は朝9時、わざわざ散歩に出ていた。
Cape Merryへ行こうとしたのだが、だれも歩いていないのでなんとなく気が引けてChurchill Riverで引き返したのは幸いだった。
海岸沿いをひとりで歩いてはいけないとも言われたが、それを知ったのも歩いた後でのことだった。
まれに北極熊が町を通るらしく、海辺は特に注意が必要だそう。
もともと北極熊が夏に住んでいる森から冬流氷の上で狩りをするために行く通り道に人がこの町を作ってしまったということらしい。

Winnipeg - Churchill Train 1,697kmを二泊三日36時間かけて走る

駅へ立ち寄るとVIAが着いていた。
今回は日程的に厳しく乗れなかったが、列車からオーロラが見えることもあるのだそうだ。
小麦がカナダ国内の各地からこの鉄道を使って運ばれ、夏の間だけこの港から輸出される。
ここでは様々な人が肩寄せ合うように暮らしている。けれども多民族が共に生きる事はやはり簡単なことではないらしく、どこでも民族間の隔たりがあり、こういう土地は少ないのだと聞いた。

海辺から見た街
雪原には海から吹き付ける強い風の跡が

オーロラの観測地は街の灯りが影響しない少し離れた所にある。
かつて大学の研究施設として使っていた観測用ドームを利用している。
小さな木造の小屋の二階から細い階段を上がると直径2m程のアクリル?製のドームの中。
大人五人がやっと入れる。暖房が効いていて待つ事も苦ではない。
それからオーロラ観察には新月の時が適している。
強い月明かりもまたオーロラを見えずらくしてしまうのだ。

トーテムポール 梟、クリー、雷鳥、イヌイット、北極熊だろうか?

ツアーへ連れて行ってくれるのはホテルの主人、RobとPat。
出かける前に防寒着を貸してくれる。
エスキモーのイメージそのままのファーが顔の周りをぐるりと囲んだコート。ファスナーはかなり上まで付いている。
そして中にウールのフェルトが敷き詰められた雪用のブーツ。分厚いミトン。
「すーっと白い雲のような筋が走ったらそこにオーロラが現れるよ」そうRobが教えてくれた。

一日目は一時間待ったけれど空は雲に覆われてオーロラが現れる気配がなかった。
街へ戻りcomplex centerへ行くと、埋め合わせに地元の人のカーリングの練習風景を見せてくれた。
警察官のおじさんが見回りにやってきて「ここにいたのか!」と話しかけてきた。

毎日子供達と遊んでいたのだけれど、昼間は図書館などで過ごした。
司書の女性がこの街で起きた北極熊のエピソードを描いた絵本を手渡してくれた。日本語で書かれたものだった。
彼女は何かにつけ私を気にしてくれていた。
アジア人の旅行者はめずらしいのか、おじいさんがやってきてデスクの向かいに座ると話かけてくれた。
「外に出るならこれを靴の中に入れるといいよ」と足用のホッカイロをくれた。

二日目、オーロラツアーには新客が二人加わって総勢五人になった。
観測ドームの中で賑やかにおしゃべりしながら雲が消えるのを待っていた。
月が沈む頃になると、飛行機雲のような白い線がうっすらと現れ、しばらくすると消えていった。
また別のを見つけると、それはだんだんはっきりとして、やがてゆらゆらと揺れる天幕になっていった。
まるで生きているようにそのひだが速く大きく蠢いた。


オーロラが現れると大急ぎでドームから降りてコートを着て小屋の外に飛び出した。三脚は無いので壁によりかかって腕を固定しようとしたけれど角度が悪かった。
最後は地面に寝転がってファインダーを覗き、シャッターを開放した。
しばらく戻らずにいたら、心配して出て来たRobが寝そべっている私を見ると大笑いした。

そうしてやっと収めたのがこの二枚の写真だった。
オーロラはピークを迎えた後、フェイドアウトして音も無く消えてしまう。まるで何事もなかったかのように。

31 JAN Churchill - Winnipeg

Patは空港へ行く時間まで部屋を使わせてくれた。私は出発まで子供と遊んだ。
最後までつき合ってくれたのはKaylaとWesleyだった。
Kaylaは私に絵をプレゼントしてくれた。
そこにはThank you Doroko と書いてあった。

空港に着いたのだが、何かの事情で飛行機が遅れていた。
それに待合室は軍の若い兵士でいっぱいだった。彼らもまた、招集がかかるのを待っているようだった。
空いていたベンチを見つけて腰掛け、文庫本をしばらく読んでいた。
一時間以上過ぎてもまだアナウンスが無かった。
その後、兵士たちが移動を始めた。
すると近くに座っていたひとりが去り際に「僕たちが行ってしまったら彼女がひとりぼっちになってしまうね」と微笑んだ。

空港で二時間過ごし、やっと飛行機は離陸した。
隣はチャーチルよりも北の北極圏の町から来たというイヌイットらしき男性、前には赤ちゃん連れの若い夫婦が座っていた。
飛行機は来た時とちがって普通の国内線くらいの機体でほぼ満席、多くの人を乗せていた。
途中赤ちゃんがぐずったけれど、持っていたおもちゃであやしてあげたら気が紛れたようだった。
ウィニペグに着くとお母さんに御礼を言われた。

予定よりかなり遅れてホテルに到着し、やっとチェックインして鍵を受取ると部屋へ。
ところが、差し込めるもののいくら回そうとしてもまわらない。
部屋番号は間違えていない。
最後やけになって力をいれたら鍵が折れてしまった。
この状況をどう説明すれば良いものかーーしばらく途方に暮れたあと、英作文しながら仕方なくフロントへ引き返した。

いよいよ、ウィニペグともお別れだ。バンクーバーへ向かう。
タクシーを呼んでもらって乗り込むと、行き先を告げた。
ぼうっと窓の外を眺めていたら、何かゼーゼー音がした。
運転士さんが私に何か問いかけていた。そして良く見ると、彼の喉にはパーツのような器具が付けられていた。
事情をのみ込みもう一度聞き耳をたてたら航空券を見せてということだった。
空港に着くと、彼はカナディアン航空のカウンターに近い入口の前に車を停めてくれた。

1 FEB Vancouver - Tokyo

帰りの飛行機では韓国・春川からカナダへ留学していた小中学生と乗り合わせた。
私が覚えている韓国語を試さずにいられる訳がなく、そんなこんなで帰路も楽しく、退屈しなかった。
あっという間に日本に戻ってしまったけれど、ツンドラ地帯のその向こう、ハドソン湾に面した小さな港町チャーチルは、私の想像が及ぶ最も遠い地の涯となったのだ。

CANADA 1997

2015年10月10日 発行 初版

著  者:吉沢良子
発  行:Journey on

bb_B_00137412
bcck: http://bccks.jp/bcck/00137412/info
user: http://bccks.jp/user/126923
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

more info about this travel

Ryoko Yoshizawa

jacket