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どことなく混沌とした世界。
魔法と呼ばれる文化が貴重であり、その存在が、世界に散らばる都市国家群の行く末を左右する時代。
特に魔導師と呼ばれる存在を召し抱えた国は、より強大な力を持ち、その存在一つで、他国を凌駕し、情勢を激変させ、時には富ませ、時には地に落としるほどだった
。
これは、そんな時代に存在した世界の北方に位置する、
クルセイド連合国という島国の物語りである。
クルセイド連合国は、セインドール島内に有り、島はグレートブリテン島ほどどあり、世界の北側に位置している。
連合国は、クルセイド王国を中心に、北にノーザンヒル公国、東にイーストバーム公国、西にウェストバーム公国、南にサウスヒル公国、更に其処から南にあるエピオニア王国の六国で成り立っている。
今でこそ、この連合国の情勢は平温を保っているが、長い歴史の中、絶えず争い事が生まれ、そこには常に魔導師の陰があり、国を纏める領主達には、絶えず強い危機感を覚えていた。
つい七年前の出来事だった。
エピオニアより北東に位置し、強大な魔導の力を持ったリヴィアという国が、連合国から独立を目指すが、最終的には、魔導師の暴走により、内部崩壊をしてしまうという事件があった。
連合国は、総力を上げこれの鎮圧に向かうが、強力な術者の暴走を防ぐことは、困難を極め、数多の死傷者を出し、各国の英雄達の活躍により、漸く鎮圧するこができる。
その時英雄達には、激戦を制した褒賞として多大な富と、それぞれ国の名を冠した称号を与えられたのだった。
時は過ぎ、その英雄達は、再びクルセイド王国に集められよとしていた。連合国内に不穏な情勢が見え隠れし始めているというのである。
まず最初に、クルセイド国王の前に姿を現したのは、ジーオン=アルヴァ=ロールダム=スタークルセイドだった。
彼はクルセイドの称号を持つ。
七年前の戦争で、その中心的役割を果たした賢者である。還暦も過ぎ、伸びきった白髪と白髭をを蓄えた老人ではあるが、背筋にも活力を感じ、歩く歩幅も年齢よりも遙かに若々しい人物である。
しかし悟った面持ちで、無謀な剛胆さは決して見せず、己の力量を知る、名実共に賢者と呼ぶに相応しい人物といえた。
そんな彼が、自分が国を有するには、器量不足であると悟ったのは、もう随分昔のことである。
次に姿を現したのは、ロカ=アリューウォン=シャイナ=サウスヒル。
サウスヒルの国名の称号を持つ。
グレーがかった頭髪を持ち、身長百七十センチ前後の過不足ない体格の若き賢者である。攻撃魔法を得意とし、ジーオンのように攻防一体と言うところまではいかないが、その力量は将来を有望視されている。
若干二十歳であり、称号は父から受け継いだ。そのことから周囲の期待が十分に伺えた。
そして三番目に姿を現したのが、ロン=スー=チー=イーストバームである。
イーストバームの国名を称号に持つ。黒髪を後頭部でテール状に一纏めにした、アジア情緒のある顔立ちをしいる男性で、眉毛がやや太く凛々しく流れている。
身の丈は、ロカと同じくらいだが筋力の分、少し大きく見える。彼は若い頃に戦争に遭う。その剣は、一騎当千といわれている。そろそろ三十路だが、今が技、体力ともに、最も充実しているのではないだろうかと、周囲の評価である。
クルセイド国王が、物怖じしない三人を前にし、ゆっくりと立ち上がる。
「ノーザンヒルと、ウェストバームが、未だ来ぬが、うぬら三人に、重大な任務を与える故、直ちにエピオニアに向かって欲しい。逐っての指示は、先遣隊に聞くが良い」
じっくりと落ち着いた国王の声だった。50代の国王だが、体格は細く、あごひげも生えていない。重厚なイメージははないが、利口さが伺える口元をしている。
彼の瞳の輝きは、あまりその考えを読ませない、思慮深さのためだろう。先見の明に長けた人物でもある。
「国王!」
その時、近衛兵が息を切らせながら、玉座の間に駆け込んでくる。
「アインリッヒ=ウィンスウェルヴェン=ウェストバームが!盗賊と遭遇し!その結果……、行方不明……」
絶望感の中、乱れきった呼吸の最後で漸く報告を終える。任務のために、相当距離を全力で掛けてきたのだろう。彼は、内容の絶望感と任務達成の安堵感からか、膝を崩したまま、立ち上がれずにいる。
この場合の報告は、ほぼ死んだといっても過言ではない。遺体が発見されていないというだけの問題である。
国王は、眉間に指を宛い、渋い顔をする。これで、揃う筈の人間が一人欠けたことになる。その時、全力で走り、動けなくなった近衛兵の後ろから、一人の男が、ゆっくりと玉座の間に足を踏み入れる。
「遅れて失敬。一寸野暮用があってね、間に合ったんだろ?」
少し横柄な態度で、含み笑いをしながら、ブラウンの色合いの髪をもつ青年が、ゆったりと彼らに歩み寄る。頭髪は、癖毛でぼさぼさとして、つんつんと髪の毛がたっている。
「汝の名は?」
あまりにも太々しい態度のその男に、王は一線を引き、表情に嫌悪感を表す。
「ザインバームだ。オヤジが死んだんで、俺が来た」
そう言ったザインバームが、ポケットから、無造作にエンブレム出し、それを国王の眼前につきだした。それは間違いなく、ノーザンヒルの証であった。
ザインバームの眼孔は荒々しく、勇ましさと、逞しさを感じ、鋭い煌めきを宿している。
ジーオンは、奇妙な彼を観察すると、気づかれないように、素早く視線を国王に戻す。
「五大雄の血を引く者が、一人欠けたが……とて、事を放置するわけにも行かぬ。直ちに発て!」
クルセイド国王の一声で、彼らはクルセイド王国より、南方に位置するサウスヒルの、更に向こう側にあるエピオニアに向かうことになる。慌ただしい旅立ちだ。ザインバームは、先ほど到着したばかりである。すこし、やれやれ……と言いたげに、ため息をついた。
クルセイド連合国の特徴は、各国が一城に対し一都市しか持たないと言うことである。つまり都市国家を成しているわけで、一国は差ほど大きくはない。それに国家間も、離れていて男の足で四日と言った程度の距離である。馬を使えば、通常二日もかからないだろう。
急げば急げる度ではあるが、使命を受けた一行は、実にゆったりと足を進めていた。
馬を使っているので、それでも人足より十分速いが、国王の言明とは裏腹に、あまり切迫感がない。
「ま、半月以内に熟せば良いなんて、暢気な話だし。およそ決まり切った交渉事か何かだろう……」
ロンが、面倒くさそうに溜息をつく。しかし直ちに発てという言葉とは、まるで真逆である。既に奇妙な話しだ。
ただ一つ言える事は、自分達がそろい踏みをして、歩調を合わせることが、エピオニアで起きている問題において、一つの圧力になるのだろう。つまり彼らが一つのタイムリミットなのだ。
五大勇というのは、それほどの存在なのである。
「国王の考えられることだ。儂等が深く考える事もあるまい」
ジーオンは、気休め程度にロンを慰めた。
「大凡、我々を使って、圧力でも掛けておくつもりなのでしょう。エピオニアには不穏な動きがあるという噂ですからね」
最後にロカが言う。
既に中央に集まり、暇を持て余していた三人は、気軽に会話を交わす。特に親しくなったわけではないが、旅の友という気持ちはあった。
ザインバームは特に話に加わらない。王城に現れたときとは違い、何だかぼうっとしている。
「所でザインバーム殿、何故遅れたのか、理由を聞かせてもらえぬか?」
ジーオンが、ザインバームと会話する切っ掛けを作る。礼儀として、聞かれれば答えなければならない問いだ。いや、それ以前に遅延したことに頭を下げ、謝らなければならない。
「ああ、途中で盗賊と出くわしてね。ほら、クルセイドの北西には、山があるだろう?」
そして、彼は別段渋る様子もなく、その問いにすんなり答える。だが、それだけを言うと、また口を閉じてしまう。
別に雰囲気を暗くするわけではないが、なんだか捕らえ所様子の彼だった。
「そう言えば、ウエストバームが行方不明だという事が、気になりますね……、クルセイド国王も、人力をさいて下されば、少なくとも……」
と、ロカがそこまで、何気なく晴れた空を眺めながら口を開くと……。
「縁起でもないことを言わないでくれ!仮にそうだとしても、五大雄の称号を持つ者だぞ、そうなれば、血は繋がっていなくとも、私たちは兄弟同然だ!彼が生きていることを信じよう」
暗いことを言い出したロカに対し、ロンは思わず拳を振り上げ、恐らくそうであろう事実を否定した。
「そうは言うが、俺達初顔合わせだぜ」
此処でザインバームが初めて自主的に口を開く。
「ホホ、確かにザインバーム殿の言うとおりだな、我々は戦った戦場も違うし、ただ顔を知っているだけの仲なら、イーストバーム殿と儂だけ、サウスヒル殿、ノーザンヒル殿、そして、ウェストバーム殿は、お父上から、称号を受け取ったのだから、五大雄の絆というのも、もはや皆無だな」
ジーオンは、穏和な雰囲気で、立派なあごひけを積みつつ撫でて、ロンの意気込みをそぐ。
「はん……、老体はイヤなことを言う」
ロンが戦場を駆けたのは、二十三の頃だ。若さが支配する年頃だ。時間よ止まれと言いたい心境になる。
「まあ、良いじゃないですか。それなら、街に着いた時に、友情のために一晩飲み明かしましょう」
大人しく、誠実そうな趣をしていたロカが、意外なことを言う。割と軽いノリだ。人は見かけによらないと言うところか。さほど堅苦しい連中でないことに、ザインバームは力が抜け、クスリと笑う。
彼らは街道を歩いている。一見安全な進路に思える街道だが、他にあまり多くの経路がないため、追い剥ぎがよく出る。もちろん街道警備隊なるものも組織されているが、それでも安全にはほど遠い。
ただ、街道を狙う追い剥ぎは、彼ら一行のような、国家間を行き交う強者を相手にしなくてはならないため、一概に有利であるとも言い難い。両者共々、リスクと利点があるのが街道だった。
「よし、このまま街道沿いを一気に行こうぜ!そうすりゃ、サウスヒルだ!エスメラルダ!久々に飛ばすぜ!!」
エスメラルダとは、ザインバームの愛馬で、名前から想像が着くとおり、牝馬である。そして、駿馬である。
ノーザンヒルの称号を持つ彼は、必要のない限り、街の外へは出ない。いい加減屋敷の庭園のも、街の風景も見飽きたところだった。
何よりエスメラルダが外に出るのは、今回が初めてだ。真っ直ぐ延びる街道を走らせてみたくなったのである。
果たしてこの道は、彼女にとって、初めての戦道となるのだろうか。
「ま、待つんだザインバーム!」
次に、威勢良く走り出したザインバームを追いかけたのは、ロンであった。ついつられて、馬を飛ばしてしまう。しかし、一日中馬を飛ばすわけには行かない。必ずどこかで追いつく事を、冷静に考えた残り二人は、マイペースに馬を走らせることにした。
日も大分暮れた頃だ。街道沿いに小さな集落があり。利益の条件上自然発生したものだ。此処には街道警備隊が常駐しているが、どの国家にも属していない。成長すれば、あたらな都市国家の誕生ともなろうが、今はまだ、戦争になれば消滅する希薄な存在である。
気持ち程度の外壁に囲まれており、その殆どが、安宿と酒場を経営している。
「バカが!もし、賊が出て来たときに、馬に逃げ切る体力が無くなっていたら、どうするつもりだ?」
宿に着いた彼ら。街のの入り口付近で皆を待っていたザインバームに対し、追いついたロンが即刻説教をかます。
「エスメラルダは、そんなヤワじゃねぇし、いざとなれば、倒せばいいだけだろ?」
ザインバームは、へらへらと笑いながら、頭の後ろで腕組みをし、興奮して眼前に迫ったロンから、一歩二歩退き、距離をあけ、彼の忠告を聞く様子が全くない。だが、鬱陶しがる様子もなく、彼の説教を正面から聞いている。
「あのなぁ、実戦経験のない者が、いきなりそんな状況に対処できると思うか?貴公とロカは、経験がないんだ。向こうに着くまでは、私か老体に従う!いいな!」
両手を腰におき、少々前屈みになり、追い込むようにもう一歩間を詰めてロンがいう。
半強制的な、いや、強制的なロンの押しつけに、ザインバームは渋々頷く。それに加え、これ以上ロンが五月蠅くなるのを嫌った感もある。ハハハと、笑って誤魔化すだけで、ロンの忠告を深く聞き入ろうとはしなかった。
「さて!宿でも探そうぜ!」
ザインは、先頭を切って、今夜泊まるべき宿の物色にあたるのだった。
彼らは、安宿を選ぶ。
その方が旅の雰囲気が出のだという。コミュニケーションも大いにとれることだろうと、ジーオンの考えだ。やすい宿で量が自慢のシンプルな食事、ひとつのテーブルを囲んで、それぞれのペースで、食事を済ませた後、ロンは全員を自分の部屋に集合をかけるのだった。
「よし。食事も済んだことだ。ゲームとしゃれ込もう」
そう言ったロンが、何処からともなく引きずり出したのは、麻雀のマットと牌のセットだ。
「ほう!麻雀か!」
ジーオンが懐かしそうに声をたてる。宮廷内に、このような庶民的な遊びをする者は、誰も居ない。
「なに?これ……」
サインバームとロカが声をそろえて、テーブルの上に敷かれたマットと、騒がしくぶちまけられた、色々な絵柄のかかれている直方体を、ひとつ摘み、詳しく観察する。
「いいか?麻雀てのはなだなぁ……(以下割愛)」
ロンが蘊蓄の混ざった話を延々とし出す。それから実際にゲームが始められ、南場第二局目を回ったところだ。
「ザイン君それロンじゃ」
ザインバームは長いので、いつの間にかそう略されていた。ザインの捨て牌に当たったのはジーオンだ。いや、この場合、ザインの捨て牌の流れを読んでいたと言うべきだろう。
「げ!」
この言葉には、色々な意味があった。点棒を投げ出したザインは、同時に、箱の中身を皆に見せる。
「ハコ……だな」
ザインは、皆に散々テンパイされ、ハコ点になってしまった。こんな状態に陥った人間を見たのは、久しぶりのロンだった。
「ダメですよザイン。貴方一つの種類しか集めないんですもの。僕のように堅実に行かないと……」
「それじゃ、次からクイタン禁止な」
偉そうに講釈をたれようとしていたロカに対して、ロンの手厳しい一言だった。ロカは、すぐに牌をそろえて、安い手で上がりを決め込んでしまうからだ。
「え?!そんな!ヒドイです!」
ザインは、チンイツ狙いで、ロカはひたすらないて、タンヤオばかりだ。性格が互いに良く出ている。
「っるせぇ!男はこれと決めたら、一本に絞って!……」
「そりゃ、臨機応変て言葉を知らないだけだ」
如何にも勇ましい発言だったが、すぐにロンにへこまされてしまうザインだった。そして再び牌はかき混ぜられて行くのだった。当然ザインがハコになったため、ハンチャンももたず終了である。
「んじゃ、本格的にテンゴで行くか」
と、ロンが、牌をかき混ぜながら、そんなことをぼそっと言う。
「テンゴって?」
ザインが再び不服そうに口を開く。
「つまり、一点につき、五十ジル払うという事じゃ(一ジルは一円くらい)」
この国では、基本的にギャンブルは御法度だ。もちろん賭け麻雀もその部類に入る。が、国外の集落は、治外法権であるため、お咎めはない。ただし、それが見つかると、国家中で罪人扱いだ。しかし、特権というものもある。此処では五大雄という立場を大いに利用することを言う。
「た、タケェなぁ……」
つまり、ハコになった時点で、ザインは三万点×五十ジルで、百五十万ジルを払わなければならない。
ザインは、彼等の金銭感覚のいい加減さに、少々引き気味になってしまうのであった。
「良いですね。僕は構いませんよ」
相変わらず大人しい顔をしていて、こんな事を言うロカだった。この四人は、どうやらどこか社会の型に入りきらないものを持っている。ザインは四人の共通点を見つけ、クスリと笑う。
「その笑いは、オーケーと言うことだな」
と、ロンが強引に賭け麻雀を開始する。
ジャラジャラと牌を掻き回し、東場も過ぎて、ザインは、どうにかハコを免れてはいるが、そろそろ点棒が、底を尽きかけている。
ルールは、二万五千点の三万返しだ。
〈ヤベェ。比奴等マジかよ!〉
もちろん負けた奴が言うべき台詞なので、カモを相手にしているロンとジーオンは、ホクホク顔だ。ロカの表情は変わらない。遊びと割り切っているのだろう。
「リーチじゃ」
ジーオンが、千点棒を投げ出し、横に寝かせた牌を、捨て牌の最後尾にカツンと当てる。その音で、手の内の良さが伺えそうなものだ。ザインが牌を引く。
「う!リャンピン……」
イヤな予感がし、自分の捨て牌を眺める。
「牌がダブってやがる!しかも、爺はピンズの気が……」
ザインが、目玉のようなリャンピンと睨めっこを始めたときだった。
宿の外が雑然と騒がしくなる。そして次に、耳を砕きそうなほど大きな警報の鐘が鳴る。宿のいくつかには、警鐘台が儲けられており、鳴らされているのは、ちょうどザイン達の部屋の真上の鐘だった。
「夜盗だ!夜盗が村に入ったぞ!!」
村に夜盗が入るということは、村に在中する街道警備隊を、十分に壊滅できる勢力を持っていると言うことであり、率直に言えば、村の壊滅を意味する。
盗賊達の仕事は実に荒々しく手早く、早いときには、一晩で全てが灰になる。
「何?!」
ザインはドサクサに紛れ、宿の外に飛び出す。その序でに、不利になったテーブルをひっくり返して行く。夜盗が村に進入しては、おちおち麻雀どころではない。他の者も仕方が無く宿の外に出る。
三人が宿の外に出ると、ザインが既に剣を振るっていた。だが何だか様子が変だ。
「おい、ザインの奴……」
「うむ。鞘ごと振り回しておるな」
ザインは不殺で、盗賊沈黙させる気だ。誰もが、そんなことをしても一時凌ぎにしかならない事を知っている。だが、ザインの立ち回りは見事なものだった。ザインの装備は、一撃を食らえば確実に死んでしまうほど軽量なものであるが、それを十分補う体裁きで、夜盗どもの攻撃をかわし、一人一人を一撃で気絶に追い込んでいる。
ロンは息を飲んだ。ザインの動きはまるで鬼神の如く凄まじく、まるで戦場でたった一人闘い抜いた戦士を彷彿させたからだ。
「此処じゃ魔法はでかすぎる!二人は、身を守っておいてくれ。私はザインを援護する」
ロンが抜いたのは青龍刀だった。それを軽く振り回し、盗賊共を退治しにかかる。
「ザイン!抜かぬとキリがないぞ!」
当然の忠告だ。だが、ザインは聞く耳を持たない。そして他人がどういう行動を起こそうが、全く気にする様子もなく、ロンが賊を切り倒していくのを、否定も肯定もしない。
「戦場じゃ何人斬った?!」
戦闘の最中、ザインがロンに対し、突然そんなことを聞く。
「さぁな。数えたくもないね。趣味じゃない!」
呼気を整えながら、敵を牽制しつつ、視線を周囲に配り、戦闘に意識が向いている中、ザインの言葉を捉えながら、ロンはいうのだった。少し間をおいて、ザインがいう。
「良かった」
ロンが斬った人間の数を覚えていないのは、それだけ戦場を駆け抜けたからである。それに対するザインの答えは、明瞭であるが意味不明である。だが、「趣味じゃない」の一言が、ロンの人間性を良く表していた。
その直後、夜盗が数人ずつ一撃で血しぶきを上げながら、左右に凪ぎ払われてゆく光景が、目に飛び込む。
そして、夜の中、更に全身を漆黒の鎧兜に身を包んだ人間が、ザインの目の前に勢いよく立ちはだかるのだった。
瞬間それは、二メートルを越える大男に感じるほどの威圧感を持っていた。しかし、実際は鎧を纏っていても、ザインより身長が低い。中の戦士は、小柄なようだ。
彼はザインを敵でないことを知ると、背を向け、怒濤のように夜盗共を斬り殺しにかかる。得物は、グレートソード(束を含め刀身は2メートル近くに上る)だ。身長を遥かに越えている。
「止めろー!!」
今まで剣に鞘をかぶせていたザインが、それを取り払い、盗賊を凪ぎ払いながら、彼の前に立ちはだかる。初めて見せるザインの戦闘態勢だった。
どうやら、盗賊に情けをかけつつ戦っている場合ではない、何かを感じたようだ。
「互いに、賊ではないのだろう?」
鎧の剣士の声は、変声期を未だ向かえていない少年のような声だ。フェイスガードを上げた隙間から、青く煌めく眼孔が、ザインを睨む。
「お前の剣は、憎悪に満ちている!大人しく、避難者でも誘導してろ!!」
荒ぶるザインの声、一見激情に身をゆだねていそうな彼の声だったが、その目の光には、なにか強い想いが宿っていることを、何気に論達は感じだ。
「戯れ言は後で聞こう!!」
ただ、鎧の剣士だけは別だった。ザインの声にまるで聞く耳を持たずに、再び夜盗の中に身を投じた。確かに今は言い争っている時ではない。それだけは確かな事実だ。
ザインも、やむを得ず剣を振るう。盗賊の命まで惜しんでいる暇はない。なるべく早く夜盗共が己の敗北を感じ、逃走するのを願うだけだ。
たった剣士が三人。しかし彼らは無尽蔵なスタミナをもって、小さな宿場町で、盗賊相手に延々と戦闘を繰り広げる。五大勇の称号を持つ彼らの腕は、伊達ではなく、ただ単に人間を殺し慣れている盗賊の剣とは、ひと味も二味も違う。
夜盗が漸く逃げ帰ったのは、その戦力の反芻を失った頃だった。戦闘後には、多数の死体と、瓦礫が後に残っただけであった。その中に、三人は佇む。
「終わったか……」
そう言ったザインが、がくりと膝を崩す。
「ザイン!!」
ロンが急いでザインの元へ駆けつけ、座り込んだザインを支える。ぐったりとし、完全に血の気が引いている。
「己の力を、過信しすぎるから、そう言う目を見る」
鎧の剣士が、ザインの真後ろに立つ。ロンの真後ろでもある。
「ならば、彼の背中を見るが良い」
ロンは、ザインを支えながら、彼の背中を鎧の剣士に見せる。そこには、鋭い金属片が、無数に突き刺さっている。
「それは……??」
剣で斬られた跡でないそれを、彼は奇妙な感覚で、しばし目をこらして見つめる。
「貴公が鎧で弾いた剣の破片だ!!」
鎧の剣士は、予想もしない事態に、重く長いグレートソードを地面に落としてしまう。
ザインがこの戦闘を早く終結させようとしたのは、ただ単に盗賊から、この街を守る為だけではなかったのだ。鎧の剣士の破壊的な剣は、盗賊だけでなく街に住む人々にさえ、危害を加えかねないと判断したからこそだ。
恐らく全てという訳ではないだろうが、彼のその傷は、弾かれた破片から、誰かを守ったときに負ったものなのだろうと、彼は気がつく。
彼はあの状況で他人を庇うことを優先したのだ。驚きに言葉も出ない。
事件が起こってから、翌日のことだ。ザインが寝ているその横の部屋で、ロン、ロカ、ジーオンが、テーブルを囲み、互いに睨み合っている。
「どう考えてもダメだな」
「ええ……」
ロン、ロカが、深い溜息をつく。三人は、愕然とした様子で俯き、ジーオンはしかめ面をし、額づくように組んだ両手の上に額を落とし、唇をかみしめていた。
「………………」
「…………」
「三人じゃつまらん」
ジーオンが最後に、しょんぼりと溜息をつく。麻雀のメンツが一人足りないので、がっくりとしている。ザインが目を覚まし、元気なら、ゲームを楽しむ所だ。もちろん先を急ぐことを考えれば、今頃はもうサウスヒルに向かっているのだろう。ザインが動けないので、つい、遊ぶことに走ってしまうのだった。そして、後一人居れば、と考えてしまうのだ。
その隣の部屋でザインが目を覚ます。ジーオンの回復魔法のおかげで、生命の危機はない。ジーオンが攻守において優秀な魔導師であるということの証明だ。
だが、傷が深く出血も多かったため、一度に全快することは出来なかった。加えてジーオンは極力自然治癒力に任せることにしたのだ。強制的な回復は、彼の本意でないのだ。
魔法が強力であればあるほど、生命力を酷使するし、人間の持つ治癒能力を疎外する可能性もある。効き過ぎる薬が、毒にしかならないのと同じなのである。
ザインがおぼろに意識を取り戻し、目の焦点が合うと、目の前に誰かが居るのが解る。だが、異常なまでに目が霞んで、誰なのかが解らない。混濁した意識のため、未だ現実と夢の境目がわからない。
「良かった。昨夜は大変だったのだぞ。出血が酷くて、生死の境を彷徨ったのだ。一時はどうなるかと……」
声の主は、夕べの鎧の剣士だ。だが、ザインには声すら濁って聞こえた。催眠状態にきくような、そんな感じの声だった。
ザインはその声を聞いた瞬間、突然狂ったような声を上げる。
「おぁぁぁ!」
瞬間、鎧の剣士と、彼の心の中にある「兄」の残像が重なった。その悲痛に張り裂けんばかりの声と同時に、伸ばせるだけ腕を伸ばし、何かを掴み取ろうとする。だが、空虚な幻に対し手が空を切るばかりである。そしてそれが現実でないことに、すぐに気がつく。
〈兄貴……、バカヤロウ……〉
ザインはぐっと歯を食いしばり、辛い記憶を心の中に押し込めた。右手の拳を強く握りしめたまま、その腕で、目を覆う。白濁した視界と苛立ちを押さえるためだった。
妙なタイミングの半狂乱の叫びに、剣士も戸惑う。妙なクスリをやっているのではないかと、勘ぐってしまうほどだった。隣の部屋にいた三人も、叫び声が聞こえたので、室内に駆けつける。
「ザイン……、アインリッヒ!貴様ザインに何をした!!!」
ロンはすっかり兄貴肌だ。彼は目の前にいるブロンドの女性の胸倉を掴み、きつめに釣り上げる。
「私は何もしていない!彼が急に、叫んだんだ!」
吊り上げられたアインリッヒは、無抵抗の状態で、強い視線だけをロンに返した。
「アイン……リッヒ?!」
もう既に正気に戻っているザインが、聞き覚えのある名前に、像のぼやけてハッキリしない目を、何度もこらして、その存在を確認しようとする。
「ええ、彼女がアインリッヒ=ウェンスウェルヴェンです」
盗賊との戦いで行方不明になっていたはずのアインリッヒが生きていたことに、自然とホッとするザインだった。一人の人間が無事生還したという事は、とても喜ばしい。
「まぁ、彼女のことについては、後で良い。それより、ザイン君、君に少し聞きたいことがある」
ジーオンが、少しだけ渋い顔をする。それに、何らかの形で、ザインに不信感を持っている。今更それはないことだと、ザインは思う。ノーザンヒルのエンブレムを見せているし、ウマもあっている。
渋めのジーオンに吊られるようにして、ロカもロンも、少し余所余所しくなる。
だが、ザインにはそんな彼らの表情も理解できない。少しイヤな感じの雰囲気と間に、彼の方から話を進めだした。彼らの表情を確かめるために、幾度となく目をしかめているザイン。
「なんだよ。何でも訊いてくれよ」
全く悪気もなく、後ろ暗いこともないようなザインだった。声だけが妙に明るい。
「うむ。では訊くが、おまえさんの体中にある刀傷だが……」
ザインは今、パジャマを着ていが、治療のため、一度肌を曝している。恐らくその時に、身体中の傷を見られたのだろう。
「あ、ああ。コレはその……、ほら、うちのオヤジは剣しか能が無くてさ、俺は剛直なオヤジのスパルタ教育で、死にものぐるいの特訓をさせられたんだ。真剣での実戦訓練なんて、日常茶飯事だった。俺は凡人で、才能無かったから、しくじっては、瀕死の重傷。コレは、その時のものさ……」
思い出したように、一気にまくし立てるように喋る。少しオーバーアクションで、落ち着きのない話し方だった。
出逢って二日と経たない。だから、互いの詳しい私生活など知るわけがないが、話し方が何だか慌ただしい。だが、ザインの若さで、夜盗とあれほど渡り合える強さは、そうでないと証明できない部分もないではない。
ロカも、五大雄と呼ばれた父の名を辱めぬよう、今日まで厳しい修行を積んできた。彼はザインの説明を十分に納得する。いや、彼の言葉に納得しようとしたといった方が確かなのかもしれない。ザインを疑いたくなかったからだ。
「そうですか。まるで戦場を駆け抜けたかのような、凄まじさですから、私も吃驚したんです。随分厳しい修行をなされたのですね」
ロカは、説明し自分を納得させるように、そう言った。
「貴公の父上は、鬼だな。七年前王から称号を受けたときに顔を合わせたが、そうは思えなかったんだが……」
ロンは、すんなり納得してくれない。だが、彼はザインが気に入っているので、疑い深く追求はしない。話したくないことは誰に出もある。ただ、一寸した水くささを感じた。
そうなると、ジーオンは、もう口を開かなかった。ザインの目に邪悪な気配がないことは、出逢った頃から、既に解っている。それにエンブレムを持っている彼は、間違いなくノーザンヒルを継いだ者の証明である。それは疑えない事実だ。
「俺の家は、平民出で、オヤジが戦場で一騎当千の活躍をして、貴族に成り上がった。七年前まで貧乏だった暮らしが、広大な敷地を持つ貴族になった。それでもオヤジは一剣士として、みんなが噂にしている立派男だった。俺とお袋の誇りさ……」
話に脈絡はないように思える。だが、父親が彼にとって最も誇らしく尊敬できる人物であるという事実、それが自然と彼らに、ザインの父に「威厳」とイメージを持たせた。
「うむ。話では、ロウウェル=ザインバーム殿は、武に長けていたが、それ以上に知将として名高い。兵を率いていたバスタランダ子爵が、兵の指揮を任せたほどの男。その男の読みと、感の良さが、お前の素質を見抜いていたのかもしれんの」
ジーオンは、この問題に一応の決着をつけた。ザインが厳しい訓練を受けたのは、彼の父親が期待したからこその証であり、その成果は夕べの戦闘でも十分に発揮されている。名声を保ち続ける事もまた、名家としての宿命であり、義務でもある。彼らは市民に応え続けなければならないのだ。
「それより、ザイン。先ほど叫んでいたが、どうかしたのか?」
ロンが、いかにもアインリッヒが、何かをしでかしたのではないかと言いたそうな目つきをし、ザインにそう訊いてみる。
「いや、昔見た悪い夢を見ただけだ。ほら、『子供』の頃に見たりとかしなかったか?意味もなく怖い夢……、体調が悪くなると、つい見ちまう」
ザインはそう言って誤魔化す。恥ずかしそうに後頭部を軽めに撫でながら、子供っぽい笑みを浮かべてみせる。だが、彼の見た夢は、子供の頃見た、意味不明に怖い夢などではなかった。それは、限りなく現実に近く、彼の過去の体験から成り立った悪夢であった。
「夢」などではないことは、側にいたアインリッヒが一番良く知っている。だが、取り繕うザインの言を否定することが出来なかった。
ザインが正気であることに安心したロン、ロカ、ジーオンは、それぞれに、どことなくしっくりこない溜息をつきながら、再びザインを残し隣の部屋に行く。部屋には、再度アインリッヒと、ザインだけになる。
「お前、女だったんだな」
再びベッドに横たわったザインが、彼女を女性と気づいたのは、ロカが「彼女」と言ったからである。自分自身の感覚だけでは、未だ女と知ることが出来ない。
「女……か、剣士に男も、女もないと思うが……」
ザインには、そんな気はなかったが、アインリッヒはかなり突っかかった答えを返す。
水が、さらさらと流れる音がする。暫くし、水が絞り出される音がした。そうかと思うと、ひんやりとした物が、ザインの額に乗せられる。どうやら濡れタオルらしい。
ザインはもう一度目を顰める。そしてアインリッヒを確認しようとする。
「見辛そうだな、だが、極度の貧血と疲労から来る物だろう。安心しろ、明日の朝にでもなれば、視力は回復するはずだ」
自分の性別を指摘されたときとは違い、非情に落ち着いたトーンで喋るアインリッヒだった。だが、その話し方は、やはりどことなく男喋りである。いや、それを意識して喋っているのだ。そのせいで、口調に鋭さが感じられる。
「んじゃ、のんびり寝る事もないな。準備してサウスヒルを通って、エピオニアに行く」
ザインはゆっくりと体を起こし、体に巻かれてある包帯が窮屈そうに、パジャマを脱ぐ。引き締まり、なおかつ隆々とした肉体が、さらけ出される。それは包帯の上からでも十分解るほどだ。
「まて!エピオニアには、あと六日もあれば十分に着く。それまでゆっくり休んでいるが良い」
無理をしかねないザインを、強引に寝かせつけ、シーツを肩口まで掛けてやる。その瞬間、アインリッヒから、鋼鉄と血のの匂いが漂う。とても女性らしい香りではない。気になるのは血の匂いだ。幸い浅い匂いだ。それほどの殺人経験を感じない。鎧の方は、だいぶ前からのものだと推測できる。
「ダイジョウブだよ。傷もそれほど痛くない。明日中に視力が回復するなら、今から動いても支障は出ねぇさ」
アインリッヒの言葉が、妙に大げさに聞こえるザインだった。彼女は、夕べのことで、可成りの責任を感じているらしい。彼女の心配する空気が自分に乗ってくるのがわかる。
ザインには、アインリッヒがどの様な顔をしているのかは解らない。自分の世話ををしている女性が、小柄で、黄金の髪を靡かせ、凛々しく美しく、輝く青い瞳をしている素晴らしい女性であるなどとは、全く予想していなかった。
ザインの頭髪は、茶と黒の入り混ざった毛で栗色よりも少し濃い感じがする髪色だ。非常に硬そうなその髪は、ボサボサっとなっていてる。辛うじて寝癖でないのが解る程度の雑なヘアスタイルだ。
「なぁ、一寸ロンを呼んでくれねぇか」
と、突然アインリッヒに用事を言いつけるザインだが、どことなく遠慮がちだ。それはただ用事を言いつけるのが、気が引けるというわけでは無さそうだ。一瞬気まずそうな空気が流れたため、ザインは思い出したようにこういうのだった。
「そうそう、それと、どこかでフライドチキン売ってないかな、骨抜きのやつ……」
「解った。一階のレストランで聞いてみる」
「頼られる」という思いが、アインリッヒに了解の返事を押し出させた。ベッドの横の席から、腰を上げ、ザインに背中を向けるのだった。
「ほかに食べたいものは?」と、アインリッヒは一度振り向き、少しうれしそうに声を弾ませた。
「何でもいいや。適当に摘めるものを……」
「解った」
アインリッヒは、ロンを呼びに行った後、レストランに向かう。暫くすると、ザインの部屋にロンがやってくる。
「どうした?何か問題か?!」
ロンは、ザイン自身に何か問題が起こったのではないかと、心配そうな顔をしている。ザインの耳に入った声も、いかにもそれといった感じの不安そうな声だった。自分を心配してくれる人間が、すぐに出来ようとは思ってもいなかった。嬉しい限りだ。だが、ロンを呼んだのは、その逆で、ロンのことが心配で呼んだのだ。
「まあ、その辺に椅子があったら掛けてくれよ」
「ああ、で?なんだ」
本当に兄貴分といった雰囲気で、ザインの悩み事なら何でも聞いてやると言いたげなほどに、大らか且つ剛胆な声である。
ロンが腰を掛けたのを、大体の雰囲気で掴み取ったザインは、再び口を開いた。
「ロン。俺は別に怒っちゃいないから。アインリッヒを許してやってくれ、あれは俺の判断でしたことなんだ」
静かで穏やかではあったが、息が詰まりそうなほどに、真剣に頼むザインがいた。
「大体は解っている。お前が躱せば、破片が野次馬に当たっていた……。だからこそ、状況を把握せず、躱せる攻撃も、鎧の防御力任せ、受けに走った彼奴が許せん」
「しかし、飛び散った破片を身体で受けたのは、俺の勝手で、彼奴に当たるのは筋違いだ。それに元はといえば、夜盗が来なければ、何もなかった。許せないのは、法と秩序を混沌に陥れてしまう者。それに、原因がある。違うか?」
ザインが、手探りでロンの手を掴み、力強く握りしめた。それは自分の様態を知らせると同時に、強く説得する意味も込められていた。
「……解った。水にながそう。私はもう戦いで、お前のような若者を死ぬのを見たくない。だから無理するな、いいな!」
もうこれ以上、何を言っても頑なになって引きそうにないザインに対して、そう言い放ち、人差し指を彼にむけ、立ち上がり、忠告を促しながら後ろ向きに部屋と立ち去ろうとする。その時、丁度、部屋に入りかけたアインリッヒと、ぶつかってしまう。だが、あいにく被害はなかった。
ロンは、そのままアインリッヒを避けるように、部屋を去ろうとする。
「済まない……」
そう言ったアインリッヒに、ロンの返答はない。
扉だけが冷たく閉ざされる。部屋には二人だけが残された。その瞬間、室内に香ばしい香りが充満する。
「どうやら私は、彼に嫌われてしまったらしい」
自業自得であるが、寂しそうに微笑むアインリッヒだった。そこには、あの時彼女が故意であるが、所構わず状況を無視したわけではない。と、そんな雰囲気が何となく漂う。それはザインの直感だった。それに、あの時は、異常なまでに殺気立っていた。
「ザインバーム。申し訳ないが、チキンは骨付きしかなかった。飲み物はオレンジジュースで良いな。それから、スープとパンだ。朝食の基本だからな」
と、テーブルをベッドの脇に寄せ、食べ物の乗ったトレーをその上に乗せる。より一層良い匂いが彼の鼻をくすぐるが、彼は、はいそうですかと、飛びつける状況ではない。目が霞んで物の正確な位置が把握できないのだ。それでも、腹のすき具合には勝てず、手探りでフォークと、ナイフを探し始めた。
「アチアチアチ!」
しかし、指をスープの中に入れてしまい、反射的に指を振り上げ、幾度も手をブンブンと振る。
「バカ!何をやっている……」
だが、ザインの目の具合がそれほど悪いと言うことに気がつく。アインリッヒはあまりにも酷すぎる症状に、ザインの着ているパジャマを破る。
「少しじっとしていろ!!」
「な!待てよ!やるんなら夜に……」
「く!くだらないことを言うな!私を女扱いすると許さんぞ!」
揉め合いながらも、アインリッヒはザインの包帯を外し、彼の傷の具合を調べる。確かに傷は完治しているのだが……。
「スタークルセイド殿!」
アインリッヒは突然ジーオンを呼ぶ。隣の部屋に筒抜けるほど大きな声だ。そうでなければ、彼には聞こえないのだから。当然だが、ザインの鼓膜が破れそうになる。
アインリッヒに呼ばれたジーオンが再度、ザインの傷を調べる。
「誤算だったな。どうやら視神経を麻痺させる毒が、矛先に仕込まれていたらしいな」
コレは盗賊が良くやる手段だった。傷つけた獲物が、遠くへ逃げ切れないようにし、アジトとを第三者にばれないようにするためだ。
「ってことは、ジーサンの治療で、十分直るんだろ?」
ザインは楽観的に質問する。毒を治療するためには、通常で行われる回復魔法以外の魔法が使われることもある。特に強烈な毒気は、回復魔法だけでは、除去しきれないものが多いのである。
「もちろんじゃ。直に麻雀牌も拝めるぞ」
自信たっぷりなジーオンが、親指を立てながら、完治の保証をしてくれるのだった。
と、言うことで。視力を取り戻したザインは……。
「ハハハ!要領さえわかりゃ、こっちのもんだって!」
その夜、麻雀は、ザインの一人勝ちだった。チンイツに拘らなかったのが、その勝因だ。
「もうハンチャンだ!」
そう言ってムキになっているのは、麻雀を持ち込んだロンだった。素人相手に威張られては、たまったものではないし、賭けている金額が金額だ。少しでも取り戻したい。
「いや、悪いが俺はもう寝るよ」
しかしザインは、きっぱりそう言って、席を立つ。そして点棒の入っている箱をテーブルの上に、置いた。
「オゴリだよ」
勝ち逃げは勝ち逃げだが、コレでチャラと、言うことになる。
娯楽を十分に楽しんだザインは、ある部屋の前で立ち止まり、遠慮がちにノックをしようとした。
「起きている。何か用か?」
部屋の中から聞こえてきたその声は、アインリッヒである。皆が騒いでいる間、彼女は一人きりだった。
「入るぜ」
「構わぬ」
淡泊なやりとりの後、ザインは扉を最小限に開け、その隙間から体を入れるようにして入る。何となく入りがたいのである。
「なぁ、飲みに行かないか?」
遠慮がちに部屋に入ったわりに、ザインの口から出たのは、そんな他愛もない言葉だった。
「結構……」
アインリッヒは、ザインに背中を向けたまま、テーブルの方を向いている。何かの書物を呼んでいるようだ。失礼ながら、ザインは横から覗き見る。
〈古典文学……。王城物だな〉
「成り上がり」のザインバーム家には、全く無縁の物だったが、学校は出ているので、それらしい物であることは、ザインでも解った。
「行かぬと言っているのだ。用がなければ、プライベートな時間は、一人にして欲しい」
かなり突っぱねる言い方をするアインリッヒだった。完全に孤高の鷹と言った感じだ。だが、ザインはそれが気にくわない。皆と騒げとは言わないが、あまりにゆとりがない。それと、もう一つ気になることがある。それは、自分を看病してくれたその内面と、盗賊に殺気を剥き出しにして、斬りかかったそのギャップだ。
ザインは、アインリッヒの正面に、断りもなく座る。
「木々は陰を作り、生けるもの達は木陰で休む。鳥達は囀り、木々を塒とする。大地は彼らを迎え入れ、そして、木々を育てる……」
ザインは突然こんな事を言い出す。
「良い詩だ。ネーデルワイス=ロイホッカー。魔導歴五八二年から、六七四年を生きた自然派の詩人。循環を基本理念とし、中でも『樹木の住人達』は、世界的に有名だ。私も大好きな詩人だ」
アインリッヒは、ザインが何を言いたいか良く解った。この詩は、食物連鎖を表しているとともに、誰もが助け合わねばならない。という、人間社会において、つい忘れがちな当たり前のことを、詩にした物だった。
「俺もこの詩だけは知っている。いい詩だ」
ザインがこう言うと、アインリッヒは本を閉じ、上着を取り、肩に羽織る。
「何をしている。飲みに行くのだろう?」
彼女もこの詩がよほど気に入っているらしい。かすかに目を細め、振り返り様にザインの顔を見る。
ザインはこの時、色々なことを考えた。そして、こういう。
「いや、やっぱり此処で一杯やろう。その方が落ち着く……だろ?まってろ、ワインでも持ってくるよ」
彼女がなるべく落ち着ける環境を考えたのだ。飲み物もそれに合わせた。深く落ち着きのある味わいが、たぶん好みだろうとも判断した。
彼が部屋を出て帰ってくるまで一〇分ほどのことだった。その間は妙に空気が凪いでいる。
色々な意味で、自分に障る煩わしい雑音を感じない時間でもあった。木製の簡素な丸テーブルに、腕組みをした状態で肘をつき、少しだけ背を丸め、俯き目を閉じて、ただその時間を過ごす。
それは何も考えることもない不思議な時間だった。
ザインが部屋に戻ってくると、凪いでいた室内の空気も流れはじめ、テーブルの上で組んでいた腕をほどき、何気に扉の方に視線を送る。彼は、薹で編まれた篭の中に、数本のワインと、当てらしきチーズ、生ハムなどを入れ、持ち帰ってきた。
その篭がテーブルの中央あたりにおかれると、ザインは互いの正面にグラスをおき、無造作にワインのコルク栓をぬきにかかる。無味簡素といった意味ではないが、さばさばと、無表情に準備を整えるザインだった。
アインリッヒには、手伝う間もなかった。いや声をかけるくらいのタイミングはあったが、喉まで出かかった言葉が上手く出てこない。
考えれば、こんな風に誰かと、お酒を飲むことなどなかったことだった。ワインを飲むのは食事の時に少量くらいだろうか?と、ふと自分の日常が脳裏によぎる。
ザインは、乾杯の後、美人を酒菜にしながら、軽く口を湿らせる。そして、思ったことを口にする。視線はない。なんとなく、目をつむったままだった。ワインの味だけを感じている。
「教えてくれないか?どうしてお前の剣は、あんなに殺気に満ちていたのか……」
だが、言い終わると同時に、非常に心配げなザインの瞳が、アインリッヒに向けられる。
アインリッヒは生涯の中で、彼ほど深い悲しみを持った目をした人間など、見たことが無かった。そして何より自分の力になりたいと切望しているのが解る真剣さだった。
アインリッヒとしても、会話をして自分の傷になる話ではなかったので、詳しく話すことにする。
「私が中央に向かっているときだ。途中の道のりで盗賊と出くわしたのだ。馬車が襲われていてな……、酷い有様だった。惨殺された男と、既に身を辱められた女……。その女の生も、もう僅かだった。盗賊を数人斬り殺したが、残念ながら数人に逃げられた。彼女は死の間際にこう言った。『娘を助けてくれ』と……。私は馬を馳せ、蹄の群のあとを追った。そして、屯をしている奴らを見つけ、それと同時に衣服を奪われた少女の遺体も見つけた。一四、五の娘だ」
アインリッヒは歯を食いしばり、再び殺気を身体中に纏う。その様子だけで不条理に対する怒りが伝わって来る。。
「わたしは、せめて彼らの弔いに、その盗賊団の壊滅を誓った。そのために、一人だけを生かし、団の在処を暴き、実行に移ったのだが……」
盗賊団は、そこには居らず、この集落を襲いにかかっていたのだ。
結果は彼らが集落から去ったことで、アインリッヒの目的は達成されなかった。そして、彼女の本来の目的である中央からの任務を果たすため、諦めざるを得なかった。
「生を受けた全ての生き物は、必ず塒に還る」
ザインが、またもやロイホッカーの詩を持ち出す。コレは安住の地を求める生物の帰巣本能を表現した詩である。賊も自分の塒に必ず帰るということも、この場合は含んでいる。
「しかし……」
「お前言ったじゃないか、エピオニアに行くには、六日もあれば、十分だって……」
ザインの表情は、楽観的だった。少しオーバー気味に作り笑いをしている。だが、目は細めずに、アインリッヒの表情を確かめるように、しかし穏やかに彼女を見つめている。
「まさかお前……!!」
「みんなには、先進んで貰ってさ、二人で弔ってやろうぜ」
殺戮は行けない。だが、全てを破壊してしまう悪は許せない。そして、夢を破壊し続ける行為は、死に値する。弱者を虐げた者には、それに相応しい最期が待っている。そして、そうでなければならないと、ザインは思っている。
「ザインバーム……」
アインリッヒは、非常に頼もしさを感じるザインの笑みの中に、暖かみを感じた。
「もし、上手くいったら、ほっぺたに、チューしてくれよ」
ザインは調子に乗り、頬をアインリッヒの前に出し、指で自分の頬をつついてみせる。もちろん彼は半分本気であり、半分期待もしていない。だが、しかしである。
「言ったはずだ!私を女扱いするなと!!」
非常にその部分に固執したアインリッヒが、興奮してテーブルを叩き、力が入りすぎて立ち上がるのだった。流石のザインも吃驚し、眉間に皺を寄せたまま、目をパチパチとする。先ほどまでの雰囲気の良さはない。どうやら、彼女の作っている壁は、未だ壊せていないようだ。
「す、済まない。俺は別に、取引とかそうつもりじゃなくて、悪かった」
あまりにも危機迫るアインリッヒの表情に、ザインはそう言わざるを得なかった。そして、彼女が女性であることで、過去に何らかの傷を負わされているのか、あるいは、男性不振であるとか、何か原因があるに違いないと考えた。しかし、それは今、聞くべきことでは無い。
ほんの数秒時間が滞る。
「兎に角、盗賊の方は、皆に話しておく。場所は解っているんだろう?」
ザインがそう言ったことで、アインリッヒは、すぐに冷静さを取り戻す。そして、彼が非常に協力的である事を知る。それが邪でもなく悪意でもない。基本的に彼の一言一句には、自己利益追求をしない純粋さを感じる。
「す……すまない……」
アインリッヒは、自分を悔いた。同時に言葉の中に嬉しさと己の心の醜さがにじみ出ていた。
ザインとアインリッヒは、話がまとまったので、他の者達を説得するために、ザインは部屋を出た。
そして、つまらなそうに、三人麻雀をしているロカ、ロン、ジーオンの居る部屋に戻ってくる。
「何だ?結局、寝るとか言って、掛け金が惜しくなって、戻ってきたか!」
端からそう決めつけたロンが、メンツが揃ったことに、歓喜の声を上げる。親しげにサインの肩に腕をかけ、ヘッドロック気味に、脇の下に抱え込む。
「タタタ!違うんだって!!実は……」
皆がテーブルに着き、ザインが先ほどアインリッヒと話していたことを、皆に伝える。ロンは、アインリッヒの名が出た瞬間、かなり渋い顔をしたが、話の内容から、ダメだとも言えない。弟分?であるザインが、行くのだから、当然自分たちも行きたいところだ。
「なら、皆で行った方が効率も良いし、安全では?」
と同行の意思表示をしてみせるロンだった。
「いや、あてが外れると拙い。もしもの時に先へ進んで、指令を遂行して欲しい」
あくまでも私用だということで、ザインはさっぱりした雰囲気で、ロンの申し出を断った。両手の平を仰向けにし、テーブルから浮かせ、自分の気持ちをみんなに届けるような仕草をした。
「ダイジョウブか?戦争経験のない者が無理をすると……」
ロンは、何かというとコレだ。戦場がどれだけ厳しいものか知っている彼だから、口を酸っぱくしたくなるのだろう。そして、ザインが心配なのは、言うまでもない。
「それなら大丈夫。腕には自信がある」
悪ガキのようなヘヘッとした笑いを振りまくザイン。何を言っても聞いてくれそうにないので、ロンは諄く言うのを止めた。
「解った。それじゃ先行ってるぞ!それから、一応サウスヒルで三日待ってみる」
強い溜息にの後、割り切るようにして、自分の両足を叩くようにして、両手を其処に置く。
「サンキュー」
ロンの理解を得たザインは、明日に備え眠ることにする。
就寝して、何時間かが経った頃だ。ザインは夢を見ていた。どうやら昔の夢のようで、場所は、中温多湿で、真昼でも薄暗さを感じるほど、高い木々が鬱蒼と覆い茂っている高い森だった。
「兄貴!すげぇなぁ、その鎧!」
それは十代の若さを持つザインだった。
「ああ!騎士の鎧だ。しかもバスタランダ様が前線で戦っているオヤジのために作ってくれたんだぜ!」
リオール、つまりザインの兄は、自慢げに兜のフェイスガードを上げ、ニカリと笑う。
「え?!ヤベエよ!それって勝手に持ってきたんだろ?」
「びびんなって!オヤジにもお前にも重すぎて、使いこなせないって。だが俺ならコレを着ても、ふんふん!!」
粋がって動き回るリオールだった。彼は体も大きく、その剛腕は、部隊でも右に出るどころか、左に並ぶことすら許さないほどのもので、仲間内ではオウガキラーと呼ばれるほどのものだった。
「兄貴……」
「ま、優秀な兵が居ても、知将が居なきゃ、馬のない馬車と同じだけどな」
そう言いながら、彼はザインの肩を叩く。その瞳は、まだ成人を向かえぬ弟を、頼りとし、相棒として見つめていた。信頼しきっている兄弟が、戦場の中で和んだ空気を分かち合っているそのときだった。
「リザードマンだ!魔導師がリザードマンを放ったぞ!!」
森の少し向こう側から、兵士の叫び声が聞こえる。奇襲である。
「弓撃隊前へ!奴らを牽制しろ!魔術隊!爆発系の魔法で応戦だ!!百人剣隊!無理はするな!可能なだけで良い、数を減らせ!伝令隊!各隊に伝えろ!歩兵団は待機!千里眼を持て!」
ザインは慌ただしく指示を出すと同時に、兄と共に前線に走る。十七の少年が疾風のように駆け、一匹のリザードマンを見つけると同時に、真上から飛びかかり縦一文字に斬り殺す。剣の切れ味の良さではない、彼の才能が可能にしたことであった。
着地と同時に、次の標的目を向ける。横では彼の兄が戦っていた。足場のせいか、彼は可成り戦い辛そうにしている。それが重厚な騎士の鎧がもたらした結果なのは、目に見えて明らかであった。
「兄貴!退け!」
足場の悪い戦場で慣れない鎧を着て、尚且つ速さと装甲を持つリザードマン相手には、分が悪すぎた。ザインにはそれがすぐ解る。すべての動作ポイントを、普段より早く、思考も俊敏に行わなくてはならないのだ。それには経験がいる。
「バカ言うな!この鎧さえあれば、どんな攻撃でさえも!!……」
次の瞬間、リザードマンが真横に振った腕に、兄の上半身が持って行かれる。鋭い爪が鎧をさいたのだ。
「兄貴ぃぃ!!」
ザインは無意識のうちに腕を伸ばし、目の前の幻影を掴もうとしていた。そしてそれが悪夢であることにも気がつく。ベッドから起きあがった上半身は、ビッショリと濡れていた。巻かれていた包帯が、汗を吸いきれないほどだった。
「チクショウ!!」
ザインは頭髪を毟ってしまう勢いで掴み、そのまま頭を抱え込み、奥歯が折れてしまいそうなほど歯を食いしばる。
「ザイン!?」
ロンの心配げな声と同時に、全員が部屋に飛び込んでくる。彼はそれに気がつき、すぐに頭から手を離し、苦々しく笑う。
「何があったのですか?」
ロカがザインに近づく。彼の尋常でない汗が気になる。
「は、はは、そのネズミが……、居たんだ。そこに……」
小心者の顔をし、頭を掻きながら取り繕うザイン。照れくさそうにしている彼は、普段の彼に見える。汗以外は、別に不信な様子はない。
「ね、ネズミ?!巫山戯るな!夜中の何時だと思っているんだ?全く……、大の男がなんだ!馬鹿馬鹿しい。私は寝るぞ!!」
ロンがカンカンになって、部屋を出て行く。眠いところを起こされ、不機嫌なのは皆当たり前だ。ロカも不信な点を感じたものの、今のザインが至って冷静なので、明日のことを考え眠ることにした。ジーオンは、話さないことは聞かない。それが互いに気まずいものでない限り、そっとしておく質なのだ。人の過去に拘らない、彼の性分上の故もである。
残ったのはアインリッヒだった。彼女は昼間のザインの異常を十分知っている。尋常でない汗のかき具合が、気になるところだ。
アインリッヒはランプを持ったまま部屋に入り、部屋の戸を閉め、彼に近づく。ランプの反射で、彼の汗のかき具合は解っていたが、側で見ると、予想を越えて酷い。それが恐怖であった以外、原因が考えられない。
アインリッヒは、水瓶の側に置いてある洗顔用のタオルを持ち、ザインの額を拭いてやる。
「いいよ。自分でやる」
彼は一度、アインリッヒの好意を嫌うようにして、そっと彼女の手を押しのけた。
「どうした。昼間といい、今といい……、お前どこか悪いんじゃないか、もし、具合が悪いのなら……」
「平気だ!ネズミなんだよ。今のは……、顔の前にいたもんで、びびっちまって……」
ザインは、アインリッヒからタオルを奪い、自分の顔を拭く。暫くタオルに顔を伏せたまま、呼吸を整える。自分の心に暖かく踏み込もうとしていた彼が一転して、心に壁を造り、一切踏み込むことを許さない。形は違うにしろ、その感情がアインリッヒにはよく解った。
一瞬息をのみ、彼から遠ざかることも脳裏に浮かんだが、それは違う行動だと、何となく彼女の勘が悟らせる。そして、今自分に出来ることをすぐに見つけるのだった。
「ザインバーム……、……、そうだ。包帯を代えてやろう」
慌て気味に、まるで隙を与えないようなアインリッヒの口調だった。
「ありがとう」
ザインは、アインリッヒの行為に対して、冷静な自分がそこにいて安心した。切迫感のあるアインリッヒの思いが、自然にそういう返事をさせたのかもしれない。今の一言で、二人の間にある空気の緊張が少し緩んだのが解る。
〈あの時、兄貴には待機命令を出せば良かったんだ!細かなところまで、気を利かせることが出来れば……、いや、騎士の鎧を脱いでから、応援させれば……、俺にはその権利と立場が与えれれていたんだ……〉
彼は懇々と考える。懸命に終わった過去を清算する手段を見つけようと、延々悩み続けているのだ。それがどれだけ無意味なことかを知っていながら……。
「ザインバーム……」
包帯を取り替えようとしていたアインリッヒは、ザインの背中に走る大傷を目に入れ、息を飲む。そして彼の身体中には、そんな傷が無数に走っていた。
「言っただろ。其奴はオヤジとの特訓で、ついたんだ」
あまり訊かれたく無さそうに、声に鬱陶しさが込められていた。ため息がちな彼の声が直そう感じさせるのだ。
アインリッヒとしても、他人のプライバシーに関わることを、そう諄く訊くつもりはなかったが、にしては、あまりに酷いものがある。簡単に言えば、息子の将来を期待した父親が、致命になりかねない傷を、これほど負わせるものだろうかと、そんな疑問に駆られずにはいられないのだ。
「そうだ、新しい包帯を……」
だがアインリッヒは、我に返り、立ち上がり包帯を探しに、部屋を歩き回る。
「もう良いよ。傷も大分治っているし、必要ない」
ザインは、その不必要生を訴える。
「しかし……」
必要以上に心配そうなアインリッヒだ。戦士として、怪我には敏感なのは当然であると、ザインも思う。
刀傷なら尚更で、後でどの様な後遺症になるか、解ったものではない。しかしすでにジーオンによって治療されている、心配は無用の長物だった。
怪我の経験と治癒の経験からも、それが良好に向かっていることは、ザイン自身が一番よく理解していた。
「それよか、一緒にシャワーでも浴びないか?」
ベッドから立ち上がり、そのまま真っ直ぐシャワールームに足を運ぶザイン。意図も簡単に口から出たその言葉に、アインリッヒは胸元に両手運ぶ。その動作は、殆ど反射的と言って良いモノだった。
返答がないのを知ったザインは、アインリッヒに背中を向けたまま、一言こう言った。
「冗談だよ」
声だけが種明かしをするように、笑ってそういっている。彼女の頑なさを逆手にとったような笑みを浮かべているが、アインリッヒからはその表情は伺えない。
アインリッヒは、カッと赤くなる。自分を女と知って、卑劣な冗談を言ったザイン。そして、自分を女視するなと言った自分自身。その両方に腹が立った。
ザインの言葉は、明らかに彼女が自分を女視するのを嫌っているのを知って放った暴言である。だが、彼女自身、それを嫌っているにも関わらず。男性の前で肌を曝すことも、女としての生活習慣を変えることもしなかった。アインリッヒは、長いブロンドの髪を指に絡め、強く握る。
〈口先だけだ、私は……。女でなければ、髪など伸ばす必要もない。肌を曝すことを、拒む必要もない〉
アインリッヒの足は、自然にザインの居るシャワールームに向かう。手は震えながら、パジャマのボタンを外し始めていた。
その時だった。
「なぁ」
だらけた呼びかけが、シャワーの音に紛れて、アインリッヒの耳に飛び込む。ボタンを外していた手が、驚いて止まる。
「鎧、使いこなしてるか?」
次にこんな事を言う。アインリッヒの気配は、すっかり彼に知られてしまっていた。もし、この呼びかけが無ければ、己に嫌気がさしたまま、衣服を脱ぎ捨てていただろう。
「あ、ああ」
話しの焦点が解らない。だが、それは重要なことだ。意表をつかれ息を詰まらせながらも、無難に答える。口が自然に開いたままの、意識のない返事だ。驚いた目は、シャワー室の扉に釘付けの状態にある。磨りガラスの向こう側には、背中を向けている彼が、頭を洗っているのが、何となくわかる。
「良かった。森なんかは、足場が悪いからなぁ、重みに負けて、どんな状況で足を取られるか解らない。ま、先日の動きを見る限り、大丈夫そうだな」
「ザインバーム……」
どう返事を返して良いか解らず。意味無く彼の名だけを口にしてしまう。
「バカなこと考えないで、とっとと寝ちまえ。朝には準備して、出て行く。道案内頼むぜ」
「ああ」
返事はそればかりだった。しかも喉の何処かが詰まったような、ハッキリしない返事だ。変な緊張もあり、喉の乾きも激しい。心臓だけが落ちつきなく不規則なリズムを刻んで、まったく自分のいうことをきいてくれそうにない。
「それから!ザインでいい」
少し壁を置くアインリッヒに対し、ザインは、明るい声で元気良く愛称で呼ぶことを促す。先ほどのトーンとは違って、急に大きくなったザインの声に、アインリッヒは、吃驚して少しだけ背筋が伸びてしまう。汗の滲んだ掌が、ボタンをはずしかけた胸元をじっと握っているのだ。
「んでもって、アインリッヒってなぁ舌噛みそうだ。アインでいいか?」
回りにいるのは、ロンに、ロカに、ジーオンに対しては「爺さん」である。非常に呼びやすい。それにかこつけて、馴れ馴れしいことを言うザインだった。
アインリッヒは、今まで愛称で呼ばれたことなど無かった。母は彼女が幼い頃に死んでいる。家は五大雄のエンブレムを持つ名家の一つだ。厳粛な呼び方こそするが、そこには親しげな暖かみはない。
アインリッヒは、ザインがつけてくれたこの愛称を、口元だけで呟く。ザインとの響きが似ているのが気にんなるが、もう一度口を動かしてみた。
「別にいやなら……」
返事の返らないアインリッヒに対して、軽い口調でそう促すザイン。
「そんなことはない!!そんなことは……」
それに対して、押し切るように承諾を下すアインリッヒだった。磨りガラスの向こうから、振り向いたザインの輪郭が、アインリッヒの方を向く。どことなく驚いているのが解る。声の大きさに吃驚したのは言うまでもない。
「そっか、んじゃ、おやすみ、アイン」
ザインは態と彼女につけた愛称を、強めにして言う。曇った彼の輪郭だ。だが、なぜか視線が自分の方を向いているのがわかる。なぜか本当の彼が見える気がしてならない。
互いの空気が交わったのを理解したためか、ザインは、静かに背中を向けて、再びシャワーを浴びる。
「おやすみ。……ザイン」
アインリッヒは、少し言い辛そうに、彼の愛称を言う。そして、脱衣室から姿を消した。
アインリッヒが自分の部屋から姿を消したのを感じると、ザインは、ギンギンになっている下半身を眺めて、一言呟く。
「やっぱ、一緒にシャワー浴びたかったな」
どうやら、今度は別の悪夢に苛まれそうである。
翌朝。
「ザイン待たせなた」
既に馬に跨り、意気揚々としているザインと、出発の準備を済ませていた彼らの後ろに、入道雲のような蔭を作ったアインリッヒの声が聞こえる。彼女にしては異常なほどの蔭だ。あまりに異様な影に、ザイン何気なく振り向く。
「うわぁぁぁ!」
驚きのあまり思わずザインはバランスを崩し、エスメラルダから落馬してしまう。腰を抜かしたまま、アインリッヒを指さし、振るえている。力の入らない足腰では、後ずさりしても、一ミリも逃げることが出来ない。
「なん?何?」
パニックに陥ったに等しいザインが、声を裏返しにして、彼女が跨っているものの説明を求める。
「我が愛馬の、ロードブリティッシュだ」
鋼鉄のフェイスガードを持ち上げ、凛々しく青い瞳を輝かせながら、誇らしげに愛馬を紹介するアインリッヒだった。融通の利かない彼女らしい、堅苦し挨拶だった。
ロードブリティッシュの馬体は通常の二倍くらいの大きさで、黒色の毛並みが美しく輝いている。足の太さも普通の馬では考えられないほど、太くしっかりとしている。一踏みで踏みつぶされてしまいそうだ。非常に利口そうな目をしているのが印象的で、絶えず落ち着いて周囲をみている感じが伺える。
「馬じゃねぇよ!絶対ゾウだろ!」
その巨馬に、目を疑うザインだった。だが、理屈は成り立っていた。鎧を身につけたアインリッヒの体重を支えるには、並の馬では不可能なのだ。駆けることなど尚更困難である。だが、ロードブリティッシュは、それに十分耐えうる。正に重戦車だ。
「そうですね。ザインは寝ていましたから。ロードブリティッシュを見るのは、今朝が初めてでしたっけ」
ロカが、今更の説明をする。
ロンは、相変わらずアインリッヒを避けるように、ツンとしている。
すかさずジーオンがロンをつつく。
五大雄の絆を持ち出したロンだけに、このままではいけないことを、十分に知っていたが、一度張ってしまった意地は、なかなか撤回できない。だが、ジーオンにつつかれて、漸く口を開いた。
「ああ、その、なんだ。ゴホン!ザインが許したのだから、私が怒る理由もない。それに元は夜盗が起こした騒動だ。アインリッヒには、責任のないことだ!」
そう言って、横を向きながら手だけを差し伸べるロンだった。
アインリッヒは、何故か一度ザインと目を合わせた。ザインはこくりと頷く。彼のその頷きで、迷いを払った。二人の手が硬く握られる。
その時、ロンが張りっぱなしの意地に照れくさそうにしているのがアインリッヒにも解った。甲冑の上からだったが、彼の手の握り返し方で、表情をつかみ取れる。
握手を終えた直後、ロンは、腕組みをして顔をそっぽ向けたままだった。
「んじゃ、みんな頼む。俺達が還らなかったときは、なんて、縁起でもないことは、考えんなよ!」
真っ先に心配しそうな、ロンに向かって、釘をさした。それから、ザインは照れくさそうに、横目で彼を見ているロンに向かって、口元をにやけさせながら、半笑いで、生意気でツンとした視線を向け、エスメラルダの上に跨る。
と、次の瞬間、ザインは空中に放り投げられた。一瞬何が起こったのかは、当の本人には解らないが、他の四人には、その光景がよく解った。
ロードブリティッシュである。ザインは、ロードブリティッシュに襟首をくわえられ、放り投げられたのだ。
ドスン……。
鈍い音と共に、ザインが頭から地面に突き刺さる。
「ロードブリティッシュ?」
ロードブリティッシュは、今まで一度も人間に危害を加えたことがない。それが突然ザインを放り投げたことに、アインリッヒ自身が、一番驚く。
「おい、今彼奴、モロ頭から落ちたぞ……」
ロンが、ザインの正面に向き直し、腕組みをほどき、少し前屈みになりながら、そろりとザインの様子をうかがうために彼に近づく。
「受け身、取れませんでしたね……」
ロカは、そのまま立ちすくんだ状態で、視線だけを無様なザインの方に向ける。
「大丈夫じゃろ。こう言うシーンは、怪我も大したことがないのが、相場じゃ」
ジーオンは、全くと言って良いほど心配していない。長年の経験からだろうか。そして、彼の予想通りザインはムクリと起きあがる。少し首を違えたのか、痛そうに数度左右に首を傾けながら、皆の居る名所まで戻ってくる。
「タタ……。一体何が起こったんだ?」
間抜けにもザインは、もう一度エスメラルダの上に跨ろうとした。すると、またもや襟首を噛まれ、放り投げられてしまうのだった。
「ウギャ!!」
今度は民家の塀に打ち当たる。
「こら!ロードブリティッシュ!止めないか!!どうしたというのだ?!普段のお前らしく無いぞ!」
アインリッヒが叱りつけてみるが、ロードブリティッシュは、ツンとしてキカンボウになってしまう。此処で、最年長者がピンと来る。
「こりゃ、ヤキモチじゃな」
そう言ったジーオンの方に、全員が振り向く。
「ヤキ……モチ?」
代表してロンがそう訊く。
「ほりゃ、エスメラルダは女馬、ロードブリティッシュは男馬、ザインも男馬じゃなくて、男じゃ」
納得できるが納得できないような理屈だ。それをそうと理解するために、全員の呼吸が自然に停止した状態で、互いの顔を何度もみて、打ち出した結論に間違いがないことを認識する。
「ハハ!じゃ何か?ザインがこの馬に跨ろうとすれば」
ロンはちょうど全員の中心に立ち、両腕を広げて、ぐるりと回りながら馬鹿馬鹿しさを声に出して、再度みんなに問う。
「何度でも投げられちゃいますね」
正直他人事だが、他人事のように、今にも吹き出しそうな顔をしている三人だった。アインリッヒには、何が可笑しいかは解らない。男共の下らない笑いにしか見えない。
「くそう。何でだよ」
ザインが瓦礫をかき分けながら、漸く出てくる。ザインは意地でも、エスメラルダに跨ろうとした瞬間。イヤな気配を感じる。
「アイン……」
「ああ、済まない」
アインリッヒは、一定距離外に愛馬を遠ざけようと、手綱を引いて誘導しようとするが、鬣を振り乱し、いやがって言うことを聞いてくれない。どうしてもダメだと、アインリッヒは首を横に振る。
困った。アインリッヒの装備では、他の馬がそれに耐えかねる。とんでもないところで、行き詰まってしまった。
「走るか?」
ロンがからかい半分に言う。
「バカ言うな!」
かといって、自分もエスメラルダを他人に貸す気はない。その辺がロードブリティッシュが、ザインにヤキモチを焼いている所なのだろう。「愛馬」と言うところで、アインリッヒもその感情は良く解る。
「ほら」
アインリッヒが、手を差し伸べる。
その手があった。
だが、ザインは酷く警戒する。だが、あまり警戒心を剥き出しにしていると、馬の方に疑念が生まれてくる。グチグチ考えるのはやめにする。身長の加減から、ザインが後ろに座ることになる。どうやらこちらの方は、問題ないようだ。其れは、アインリッヒにも言えることだった。
基。
「それじゃ、サウスヒルのロカの屋敷で落ち合おう」
ロンがそう言うと、彼は先頭を切って馬を走らせた。アインリッヒもザインを後ろに乗せ、ロードブリティッシュを走らせる。
走りは豪快で、切る風も重厚に感じる。ヒュッと風が流れるエスメラルダの背中とは違い、流れがたたき付けるような感じだ。そのエスメラルダも無事ついてきている。
ザイン達との時間合わせのため、途中馬の足を緩めたロン達。ロカがふと、共通の疑問を持ち出す。
「ザインは、ネズミを見たのではないですね。きっと」
「そんなことは解っている。だが、そんなことは問題じゃない。身体中の傷だって、訓練なんかの傷じゃない。あれはホンモノだ」
ロンは、ザインが真意を語ってくれないことに対して、少々不満気だった。
「じゃが、そんなことも問題ではない。なぜ戦場にいたことを隠す必要があるかじゃ。しかし、バスタランダ子爵殿も、少年兵とは惨い事をなさる」
ジーオンは感慨深く首を横に振りながら、顎髭を撫でて気分を落ち着かせる。
国を守るために、戦争に志願することはそう珍しくはない。だが、少年兵ともなれば、志願などという言葉では片付けられない。ノーザンヒルが其処まで兵力に困窮していたとは、ジーオンも聞いていない。
そんな状況で、少年であった彼が戦場に刈り出された理由が何かである。彼らには知る由もなかった。
「だが、ザインは良い奴だ」
ロンがそう言うと、二人はニコリと嬉しそうに微笑みコレに賛同する。
「ヒックシン!!」
噂の人物が嚔をする。
「……」
兜に、これでもかと言うほど唾がかかったのを、察知するアインリッヒ。ザインが懸命にそれを拭き取るので、「やはり」と思い、強い咳払いを一つする。
「っかしいなぁ、風邪でもひいたかな?ところで、今日中に着くのか?」
「昼までには着く。奴らは夜に動くから、討つには頃合いだ。幸い奴らの居る森は、そう険しくもない」
気楽と言うわけではないが、道のりはさほど険しいわけでは無さそうだ。
しばらく走ると、アインリッヒは、ウェストバームに向かう街道ではなく、そこから分岐している山道へと入った。安全且つ近道なのだろう。軽快に走らせていた馬の足をゆるめ、周囲を確認し始めた。
「来たときには夕刻だったからな、よく解らないが、恐らくこの辺りに……」
アインリッヒは、ロードブリティッシュから降りた。ザインも仕方が無く降りる。そして、彼女の足に任せて歩くことにした。ここは、森より少し林に近い。時間帯の関係で周囲が暗かったために、森に思えたのだろう。アジトともなれば、簡単な小屋ぐらいはありそうなものだが、それも無さそうだ。アインリッヒが怒りに猛っていたせいだろう。認識が甘かったようだ。残念ながらアジトはありそうもない。
アインリッヒは、焦げた地面を見つけ、近くで立ち止まり、しゃがみ込み、炭になった木片を拾い上げ、すくりと立ち上がる。
「ザイン。焚き火の後だ。それに血の跡。私は間違いなく此処を通っている」
「ふん。でも、アジトにしちゃお粗末だな。山道にも近い事から、此処にいた連中は、街道への繋ぎか、山道を通る人間を襲うために、配置された連中だろう」
「繋ぎ、というと?」
「ああ、目的はさして変わらないだろうが、街道を荷馬車が通ることを知らせに来た仲間と連絡を取って、アジトに知らせに行くとか……。戦闘って感じゃなくて、荷の撤収を迅速にするためのものとか、そんな感じかな……」
理屈をつけてみるが、今一ピンと来ない。だが、推測が当たると、アジトは間違いなくもう少し奥まったところにあるだろう。馬を一頭全力で走らせて、間に合う距離だ。本体と街道警備隊との接触を恐れてのものなら、迅速な連絡を保つため、それほど遠くはないはずだ。恐らく探せない範囲ではない。ザインは、周囲の足場を探る。
そして、踏み固められた一筋の道を発見する。
「アイン」
ザインはアインリッヒに、一声掛け、その道を歩いて行く。足下を警戒しながらゆっくりと進む。
〈なんか引っかかるんだよなぁ……、これだけの道が出来るほどいたって事は、結構良い場所だったはずだ〉
人の気配が全くないのが気になった。アインリッヒは、正確なアジトを見つけたわけではない。いくら頭の回らない連中でも、先日のアインリッヒの行動を考えると、アジトがバレたか、そうでないかくらいは、判断できる筈である。しかし完全に撤退した感じだ。引き際が鮮やかすぎる。誰かの入れ知恵か?
「ロイホッカーの詩通りには、行かなかったな」
アインリッヒが、無念そうに呟く。
「まぁまてよ。少なからずとも、何でも手がかりってものがある」
ザインは、未だ諦めていない様子で、獣道を歩く。夜では解らなかっただろうが、昼間のおかげで、薄暗いながらも、順調に進むことが出来る。
森が途切れる際に来る。道の向こうに崖がありそこに洞穴がある。ザインは、茂みに身を隠し、胸の中からオペラグラスを取り出す。
「へへ、比奴は小さくて軽い。こういう時って、便利なんだよな」
望遠鏡のように高い倍率はないが、一寸した観察ならば、十分に可能である。別に観劇用に持っているわけではない。
しかし、物持ちの良い男であると、アインリッヒが関心したその時だった。
彼の胸の中から、一つのパスケースが落ちる。本人は観察に集中して、その事に気がついていない。
アインリッヒはフェイスガードを上げ、それを拾い上げ、それが何なのかを確認する。どうやら、身分証明書らしい。
〈ユリカ=シュティン=ザインバーム……、女?〉
それから性別の欄を見る。
〈男。エイジ、魔導歴九百四十一年……。血液型O型〉
他人のものなので、声に出して言えないが、確かにそれは、身分証明書だ。そして、男のものだ。だとすると、当たり前だが、コレはザインのものだ。そう言えば、アインリッヒは、ザインを、ザインバームとしか知らない。名前も知らないのだ。自己紹介すら満足にしていない。
「ユリカ」
アインリッヒがそう言うと、ギョッとしたザインの顔が、彼女の方に向く。目を丸くして、冷や汗を掻いている。目は丸くなって、アインリッヒに着目している。
「なんで。オメェ、そんなこと……」
と、知ってはいけないことを知られてしまったような、驚きをしているザインの前に、アインリッヒは身分証明書をちらつかせる。アインリッヒは、特に表情を変えない。
「あ!」
ザインは、胸のポケットをパンパンと叩き、身分証明書がそこにないことを再確認する。それから、強引にアインリッヒからそれを奪い、胸の中にしまう。
「良いな!絶対その名は呼ぶな!」
彼はその名を大分気にしている。理由はアインリッヒが発想したとおり、女っぽい名前だからである。
「くだらん。名前くらいで……、子供ではあるまい。その様子じゃ、満足に自己紹介もできんのだろう?」
ムキになることが、本当に馬鹿馬鹿しいと言いたげに、はっと溜息をつくが、内心少し笑っていた。バカにした意味ではなく。照れているザインが妙に可愛く見えた。
「ブツブツ……」
聞こえないように文句を言いながら、再びオペラグラスを覗くザインだった。
「どうやら、あの穴は人工的に作ったものだな。一応探ってみよう」
どうにか気を取り直したザインは、積極的に洞穴を覗きに行く。正面に立った時に、何かを踏む。その硬さが気になり、しゃがみ込み、足の裏に当たったものを拾い上げ、眺める。
「ダイヤだな」
落ちていたものはそれだけではない。他にも色々な貴金属が落ちている。手際よく感じていたが、逃げ方が荒い。まるで何かにおびえて逃げたような感じだ。再び洞穴へと足を進めるザイン。どさくさに紛れ、ダイヤモンドをポケットに放り込む。アインリッヒはコレをしっかり見ていた。
〈少し、性格が砕けすぎだな……〉
呆れるのと同時に、何となくそう言うところが、彼らしく感じてしまうのだった。
ザインが洞穴に足を一歩踏み入れる。人工的に出来た塒というより、もともと、天然のもののようだ。入り口は、崩れないように形成しなおしたようだ。全体は頑丈な石質ではなく、粘土質が中心で、湿度が高く感じられる。
木組みで補強され、崩れないようにしていることから、彼らは本格的に、この場所を塒としていたようだ。
それに思ったより奥に深そうである。頭を掻きむしったザインが困った顔をしている。深部へ進むと、視界で得られる情報が、少なくなりそうな気配に、参ってしまったのだ。
「ライト!」
するとアインリッヒが、ザインの後方から、蛍程度の小さな光をザインの目の前に放つ。形は小さいが、随分と明るいものだ。
「へぇ、魔法使えんのか?」
「単純なもので、ファイアーボール程度なら、攻撃魔法も使える」
アインリッヒの手を借り、少し奥へと進む。すると、一つの木箱が横倒しになり、中身が飛び出している。やはり、貴金属類だ。
〈何だ?何に怯えていたんだ〉
どのみち、此処には猫の子一匹いそうに無い。完全にあてが外れた。
「ロイホッカーの詩も、宛にはならなかった……か」
ザインも諦めるしかないような口振りで、立ち上がる。
「済まない。私のために、お前に無駄足をさせてしまった」
アインリッヒは、ザインに対し、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ま、仕方がねぇさ。任務が終わってから、じっくり……な」
恐らくそのころでは遅すぎる探索になることは、アインリッヒにも解っていた。だが、そう言ってくれるザインが嬉しい。ウインクをして、励ます彼が、不思議に頼りに感じる。なぜか、全てが可能になるような気がした。
譬えウソでも、心が和らぐ。
盗賊退治を諦め、二人はロン達に追いつくために、そこを去ろうと、表に出ようとした。そんなザインの目に、戦場を思い出させる一つの光景が、飛び込んできたのだった。
瞬間、体内から、ドクン、と、血液が鈍く流れる音が聞こえる。
リザードマンの群。恐らく、亜人種で最も硬い表皮を持ち、俊敏で、人肉を好み、最も凶暴な種族での一つである。だが、この世界には、本来居る筈のない生物なのだ。居れば人類は遥か昔に絶滅している。
「アイン。逃げろ。足手まといだ」
冷淡で突き放すようなザイン。ある意味で非常に冷静であった。しかし同時に、禍々しい憎悪も感じる。
それにしても、剣士として逃げろと言われ、退くことは、己自信に敗北したことになる。其れだけは出来ぬ相談だ。
「断る」
「なら、鎧を脱げ、奴らの前では、ただの飾りだ」
「何故解る!」
アインリッヒは、これにも酷く抵抗した。それは、彼女自身の過去に問題があるからなのだが、全てに置いて命令口調であるザインが、気に入らなくなった。剣の腕では、誰にも負けないと自負しているからである。
「兄貴が、それで死んだからだ」
彼の脳裏に巡っている記憶は、誰にも理解できない。だが、簡潔にそれだけを言い、彼はリザードマンの群に立ち向かう。彼が逃げない理由は一つ。放置すれば間違いなく付近にある集落が彼らの餌食となるからである。
〈へへ……、何分持つかな……〉
ザインは空しく笑った。一七歳の時より、精神も肉体も充実している。戦争があった頃よりは、闘い抜く自信はあった。
「オォォォ!ソウルブレードォォ!!」
彼は鞘から剣を抜き、一振りする。それはただ空を切った。だが、一つだけ通常の条件と、異なる部分がある。それは、剣があらゆる光を反射したかのように、銀色に輝いていることである。
次の瞬間、彼の周囲を取り囲んでいる数匹のリザードマンが、剣の道筋に従い、真二つに裂け、地に伏した。
アインリッヒは、戦うことを忘れてしまう。それほど鮮やかな一瞬だったのだ。
「はっ!」
だが次に、己のなすべき事を思い出す。この場で、迫り来る亜人種を、ザインと共に打ち倒すことである。戦士として名高い男共ですら操りきれないグレートソードを抜き、一気に大地を蹴る。
アインリッヒの一撃は、切ると言うより、砕くと言う表現が相応しいだろう。二人に共通して言えることは、動きがリザードマンより、遥かに速いと言うことである。だが、リザードマンの最大の特徴は、その硬い皮膚である。一撃に要する労力は、生半可ではない。剣で直撃させれば、その反動は確実に己の腕へと跳ね返ってくる。
〈ダメだ多すぎる!連撃は、思ったより体力の消耗が速い……〉
ザインの心の声。戦場では仲間が居た。己が少し引いても、仲間がそれを補ってくれる。今はアインリッヒ一人である。残念ながら、互いに助け合うゆとりはない。だが、もう仲間が死んで行くのは、見たくない。ザインには、自然に焦りが生まれ始める。
「アイン!逃げろ!!」
「断る!!」
「死にたいのか!!」
「格好をつけるな!!英雄のつもりか?!」
「解ってねぇなぁ!レディファーストだよ!!」
「女扱いするなと言った!!」
「このままじゃ五分ともたねぇんだ!!」
この会話の時点で、既に何匹のリザードマンを倒しただろう。しかし、その数は尋常ではない。
〈俺は、何を焦っているんだ……〉
ザインは心の中で呟く。勝負を焦る理由は何かである。答えはもう出ている。アインリッヒを兄のような無惨な死に追い込みたくない。ただそれだけだ。そうなると限ったわけではない。現にアインリッヒは、鎧を使いこなしている。
ザインは、剣の輝きを消す。そして、一つ深い呼吸を入れる。その時、アインリッヒは、ザインに背中を寄せた。冷たい鎧の向こうから、彼女の温もりを感じる。
「その、なんだ。生き抜けたら、キスしてやる」
己の性別に酷くこだわりを見せるアインリッヒが、渋々言う。ザインが弱気になっているのがわかってったのだ。それは、彼の言葉より、波長でわかるのだった。その波長は動きにでている。単純な言葉では、励ましにはならないのだ。だとすれば、今はそれしか言葉が出なかった。
「え?マジ?」
心身が疲れ切っている事すら忘れさせる程、ザインの声は生き生きしていた。驚きのあまりに周囲への警戒すら、忘れてしまった。
「し、仕方がないだろう!私の頼みを聞いたばかりに、お前をこんな事に巻き込んでしまった。それに……」
照れながら小声で一気に喋るアインリッヒ。相当な照れと自分自身の行動に矛盾が感じられる。
「それに?」
「それでお前の励みになるなら……」
それは、ザインを励ますと同時に、決して真っ先に自分から逃げ出そうとしなかった、ザインへの礼の意味も含まれていた。
ザインはもう一度深呼吸をした。そして、クスリと笑う。不安が消えたわけではない。だが、やるだけの価値はあると思った。美女のキスは、百億の金塊にも値する。
「奴らは強力だが、頭も悪いし、激しい動作での長期戦は、カラッキシダメだ。だから数で来る。固まっていたら奴らの餌になる。左右に揺さぶって攪乱しながら、確実に一匹ずつやる。走れ!!」
ザインが指示を出すと、アインリッヒは素早く立ち上がり、走り出す。ザインから一定距離を置いて戦うことにした。
二人が分散したことで、リザードマン達は、一瞬の戸惑いを見せる。二人の素早い動きのため、どちらを獲物にして良いのか、解らなくなったようだ。
〈俺の剣は軽い。オヤジにもよく言われたな。だが、速さなら負けない!切れ味もな!〉
「一撃必殺」。
そう呼ぶに相応しい、華麗さとしなやかさを持ったザインの剣、そこには先日見せた豪快さはなかった。軽い足裁きで、相手を好きなように翻弄している。
だが、アインリッヒはそうは行かなかった。剣の重さで相手を斬るが故に、その疲労が徐々に腕を犯し始めていた。
「まさか、彼らの表皮がこれ程の硬さを持っているとは……」
剣を振るう度に、甲冑の隙間から血飛沫が飛ぶ。
〈もう腕力には限界がある。踏み込みを強くして、体重で斬るか!?〉
アインリッヒは、上方からの斬りではなく、横からの薙ぎ中心で敵を斬る戦法に変えた。そうすれば遠心力で斬ることが、可能である。だが、後の体勢が非常に不安定のなるのも確かである。足場の悪さが、更に彼女の下半身をぐらつかせた。
「もうチョイだ!!踏ん張りどころだぜ!!」
タイミング良く、ザインが声をかける。その彼自身が、非常に息を荒くしている。先ほどの技のせいで、スタミナが落ちているのは、目に見えて明らかである。その説得力のない状態で、アインリッヒを励ましている。思わず笑いたくなってしまうアインリッヒだった。
薄れかけた集中力を再び取り戻そうと、強く踏み込み、目の前の敵を斬ろうとしたアインリッヒは、剣を振り抜いた瞬間、その重みに耐えかね、バランスを崩し大地へ倒れ込んでしまう。
コレまでか?!目の前が真っ青になったアインリッヒ。その瞬間。
「エクストラ・ソウル・バーン!!」
ザインの叫ぶ声と共に、周囲が眩しく輝く。フェイスガードの隙間から入り込むその光でさえ、目を眩ませる。そして、その輝きが消えるまで、数秒ほど要する。
周囲が急激に静まったのを感じると、アインリッヒは再び目を開ける。
そこには、ザインの背中があった。それ以外何もない。残っていたリザードマンの姿もない。
「はぁはぁ……、ダイジョウブか?」
ザインが振り向く。酷く疲れ切った顔をしている。そこには疲労以上のものを感じる。恐らく技のせいだろう。だが、破壊力も相当なものだ。
周囲を取り囲んでいたリザードマンの姿はない。アインリッヒに襲いかかっていた一団が、最後だったのだ。
ザインに手を差し伸べて貰う事も無く、立ち上がろうとしたアインリッヒだったが―――。
「痛!どうやら、膝を捻ったらしい……」
倒れたときに、重みに負けたようだ。重装備の欠点が顕著に現れた結果である。
「そっか……、んじゃ、少し楽にした方が良い」
ザインは、最初に鎧を脱いでおけと、アインリッヒに念を押していた。だが、彼女はそれを聞かなかった。その結果なのだが、ザインは責めない。次から注意すればよいことだと、考えている。もし、止めないのなら、己に説得力がなかった責任であると、考えていたのだ。
敵の気配を感じなくなったアインリッヒが、兜を脱ぐ。
「脱ぐか?」
ザインが手首関節にある鎧のジョイントを外そうとする。彼女の身の負担を少しでも軽くするためだ。
「ああ、頼む」
疲れ切ったアインリッヒは、蟠り一つなく、自然にそう言えることが出来た。ザインはコクリと頷くと同時に、丁寧にアインリッヒの鎧を脱がせて行く。
ふとしたタイミングで、疚しいことをしているわけではないが、脱がせるという行為に、どことなく卑わいさを感じた。アインリッヒの手は、血に塗れていた。全て血豆がつぶれたためである。
腕のパーツを外し、上半身を脱がせ、下半身も脱がせ、暑苦しい鎧から、少しずつアインリッヒを解放して行く。
鎧を脱がされたアインリッヒは、殆ど下着同然である。鎧は彼女のオーダーメイドのようだ。すべて彼女の身体にあわせて作られている。鎧の内装に、着脱可能な裏地がついており、アンダーウェアを兼ねている。
汗のため、下着姿同然の彼女のボディーラインは丸見えだ。ただ、晒しを巻いているのが、どことなく残念である。
ゴクリと唾を飲むザインに、どことなく軽蔑の入ったアインリッヒの視線が突き刺さる。
「あはは、冷えちゃまずい」
ザインは上着を脱ぎ、それを。アインリッヒの肩に掛ける。そして、中着の袖を破り、適当な枝を拾い、彼女の膝を固定する。
「痛いか?」
「ああ、少し、だが我慢できぬものではない」
「そうか、んじゃ……、一休みして……、みんなの……所に……」
と、そのときザインがフラリと白目をむきながら、アインリッヒの方へとしかも、ちょうど胸元へと倒れ込んでくる。
「こら!ザイン!何を!!……、ザイン?」
焦り、それ以外の感情は彼女になかった。抵抗することもままならない。だが、実際には、ザインが彼女の貞操を奪おうとした訳ではなかったのだ。
「グガー……」
疲れ切ったザインは、アインリッヒの胸の内で、すっかり眠りに着いてしまう。本人には、全く悪気はない。彼女の「女扱いはよせ」と言う主張も、守りたいつもりだった。だが、緊張感のゆるみと極度の疲労が、ザインを眠りに誘ってしまったのだ。
「仕方がない奴だ。あれほど女扱いはするなと、言った筈なのに……」
今までとは違い、沸き上がる怒りは、何だか中途半端なものだった。悪ガキのような顔をして眠っているザインの頭を、軽く撫でる。
「そうだ!ザイン目を覚ませ!!」
アインリッヒが、何を思い出したのか、ザインの頭を両手で掴み、思い切り左右に揺する。
「ん?あ、ほぇ?」
自分が寝てしまった事にすら気がつかなかったザインは、重そうに瞼を開け、自然に声の方向に目を向ける。そこには忠告をしそうな、アインリッヒの顔がある。そして、自分が彼女の胸の中で寝ていたことに、不意に気がつくのだった。
「わ!悪い。そんなつもりじゃ……」
「解っている!そうじゃない。生き抜いたときの……、約束だ……」
そう言いながら、アインリッヒは、頬を赤らめながら、視線を背ける。その義理堅さに、ザインは目をパチパチッとさせる。
「何をしている!!はやくしないか……」
彼女のこの性格だ。自分を女視する男共を、幾度と無く殴り倒したことだろう。グレートソードを振り回す力であるから、そのまま泣き帰った男もさぞ多いだろう。ザインはそんなことを考えた。つまり純潔も良いところである。
「お、おう!」
何故かガチガチになるザイン。そして、再びゆっくり彼女の上に重なり、その頬に手を介添える。
「え?違う!!ザ……」
「え?」
二人の唇が強く重なった瞬間だった。アインリッヒは大きく目を見開いた。何がどう違うのか解らなかったザインも、目を開いている。その視線が、一センチの至近距離で交わる。
今更もう遅い。ザインは、暫く彼女の唇を愛し続けた。その眼は男が女を愛するときの独特の潤みを含んでいる。アインリッヒはその独特の潤みに負けてしまう。ゆっくり目を閉じ、重くのし掛かるザインの背を抱く。彼の暖かさが、不思議と心地よかった。
ザインの手は、彼女の頬から遥か下へ、つまり彼女の下着に掛かった。だが、すぐに手を離し、キスを止めてしまう。このキスは、あくまで彼女の報酬なのだ。それ以上を求めることは、あまりにも男性の本能に任せすぎた行為である。
だが、アインリッヒは、頬をバラ色に染めたまま、目を閉じ、柔らかく唇をザインに差し出したまま、ウットリとしている。そしてこう言った。
「もう……終わりなのか?」
次の瞬間の期待を込めてなのだろうか、それとももうしばらくの間と言う意味合いなのだろうか、どちらにしても憩いの場所にしてはあまりにも血なまぐさすぎる。
だが、何時までも目を閉じているアインリッヒに、ついつい手を出してしまう。
〈ま、いいか……〉
今度は、彼女の背を抱き寄せ気味に、雰囲気のみで彼女の唇を奪う。
アインリッヒは考えた。男女はこのようにして愛し合うのだろうかと。そして、父のように、幾人もの女性を抱くのだろうか。高まる興奮が、幼女時代に見た直接的な映像に切り替わり、彼女の脳裏にフラッシュバックする。
「止めろ!止めないか!!」
自分の上に体重を掛けているザインを押しのけ、その頬を張り手一発横殴りに張る。リラックスしているザインに、グレートソードを振り回す彼女の力だ。簡単に突き飛ばされるザインは、一番近くの木に、背をぶつけ、後頭部も強打する。
「テテテ!んだよいきなり!!」
二度目のキスを求めてきたのはアインリッヒなのに、この仕打ちはあまりにも酷すぎると言わんばかりに、情けない声を出し、頭を抱えて、しゃがみこんで苦しがっている。
アインリッヒは、すぐに自分のしたことに気がつく。拒絶するにも、もう少しやり方があった。
「済まない。痛!!」
ザインの様子を見るため、立ち上がろうとするが、すっかり膝を痛めてしまって、その場から動くことも出来そうにない。膝を押さえ、顎を引き唇を強くかみしめた。目を閉じた瞬間に眉間に寄せられたその皺が、痛みの度合いを良く表している。だが、すぐに顔を上げる。
「ザイン……」
「ああ、こっちはダイジョウブだよ。俺こそ済まなかったな、いい気になっちまった」
ザインは今一度、アインリッヒに近寄り、彼女をリラックスさせるために、その背中を支え、軽く膝に手を触れる。
「そんなことはない!凄く良かった。キス……、嬉しかった。ただ……」
アインリッヒは、ザインを肯定した。だが、その後酷く口ごもり、ザインから顔を背けてしまう。ザインは、自分にも話したくない過去があるように、彼女にも心の傷になるような過去があることを知る。
ザインは、彼女がそのために、女性である自分を否定しようとしているならば、まず己が、傷を見せ、互いに消せない過去があるのだということ、そして、彼女だけが辛い目にあっているわけではないと言うことを、伝える必要性を感じた。
「アイン。君の過去がどうだったかは、わからないけど……。ん…………っと。どういっていいか……」
何から語ろうか?アインリッヒの前にあぐらをかいたザインは、はじめの言葉を選びながら、彼女から視線をはずし、一度地面を眺めた後、もう一度彼女をみる。
「もう気がついていると思うが、俺の体の傷は、訓練なんかじゃなく、戦争でついたものだ。だが、戦場で死んだ人間の数は、俺の体に着いている傷の比じゃない。それでも、バスタランダ子爵の率いたノーザンヒル軍の戦死者は、各国で最も少なかったという。その右腕になり、知将と呼ばれたのは、俺のオヤジ。ロウウェル=ザインバーム。そして、本当に優しくて強い男だった。いつも自然に周囲に仲間が出来て、頼りになる人だった……。だが、ある日、そんなオヤジが、バスタランダ子爵から、一つの鎧を授かったんだ。日頃の活躍の、恩賞だった。銀色に輝くその鎧は、騎士を思わせる重厚さで誇り高さが滲み出たような、高価な鎧だった。その立派さは、戦士なら誰でも溜息が出るほどのものだった。だが、兄貴がその鎧をオヤジに無断で戦場に持ち出した。俺達親子の中でも、兄貴のガタイの良さは、桁違いだった。鎧に負けないほどに……。兄貴は言った。『この鎧さえあれば、怖いものなんて無い』って」
アインリッヒが鎧を纏っている意味とは異なるが、同じように重厚な鎧を纏っている事実は変わりない。少なからずとも、己に関わりのある話に、アインリッヒは、息を飲んだ。
「突然だった。魔導師の放ったリザードマンの群が、俺達の隊を襲撃してきた。作戦の一部が外部に漏れたらしいんだが。そこで一人の男が、指示を出した。『弓撃隊前へ!奴らを牽制しろ!魔術隊!……』と、焦っていたんだ。重厚すぎる鎧を纏った兄貴の事なんて、すっかり忘れていたんだ。そして兄貴は、着馴れない鎧を纏い、リザードマンに正面切って戦った。そしてその挙げ句、リザードマンの強烈な爪を食らって……即死さ。上半身を鎧ごともって行かれちまった……」
話をしているザインの表情は、悲しい過去にも関わらず何だか落ち着いていた。自分でも不思議なくらいだった。夢で見たときは、叫んで飛び起きてしまうほどのものだったのに、今は淡々と話せる。
アインリッヒは、未だザインが本当に言いたいことを解ってはいなかった。だが、鎧という共通点に置いて、自分が彼の兄のように死んでしまうのではないかと、心から心配していたことを知る。そして、目の前に現れたのが、リザードマンだ。命令口調だった彼は、そのためにいたのだ。
「兵達に指示を出していたのは、お前の父だろう?お前が気負うことは……」
ノーザンヒルの称号を持っていたこと、知将と呼ばれていたことを考え、ザインが濁した人名は、誰が推測しても、彼の父以外思い浮かぶはずがなかった。だが、ザインは首を横に振る。
「いや、指揮したのは俺だ」
彼の見た夢は、戦場で起こった現実意外なにものでもなかった。アインリッヒには、もうザインを労う手だてが、見つからなかった。あの時の激しい叫びは、己に対する罪悪感と、兄の死に対する恐怖が共鳴し、増幅し、発せられたものだと気がつく。
「ユリカ……」
この時、自然と彼のファーストネームを口にしてしまうアインリッヒだった。彼女は、もう一つの事実に気がつく。それは知将と呼ばれた彼の父が、知で活躍した人物ではないと言うことだ。少なくともその場では、ザインが指揮していた。指揮し馴れぬ人間が、こうも意図も簡単に、的確な指示を出せるわけがなく、アインリッヒには、五大雄ザインバームに、疑問を持つ。
「お前、いったい何歳なんだ?」
「見ての通りだよ。二十五だ」
ザインの言葉に嘘がないことは、声に躊躇いがないことで、すぐに解る。戦場で兵を動かしていたのは、若干十七の少年なのである。
「戦場では、確かに俺はヒヨッコだった。だから、俺はいつもこう言っていた。『全ての指示は、オヤジから仰いだ』。皆コレですぐに納得した。俺の指揮なら疑問があっても、いつもそれでカタが着いた。それも最初の頃だけで、俺が指示を出すと、もうオヤジの指示だと誰もが決めてかかる。楽だった。くだらない言い訳をする手間も省けたし……。それと同時に、作戦ミスがあったとき、俺はそれから逃げてるんじゃないかって、死者が出る度に、オヤジがその批難の的になるんじゃないかって……、そう思うようになった。だけど、みんな言うんだ!『作戦は上手く行った』!!何人も死人が出てるんだぜ!!」
次の瞬間、ザインは自己嫌悪に陥り、アインリッヒに心を開かせるきっかけになればと思い始めた話が、行き過ぎた感情になっていることに気がつく。呼吸が極端に荒くなっている。苦悩に頭を抱えて、自虐的に頭髪をつかみ、歯を食いしばって顔を伏せる。だがすぐに呼吸を整え直した。
「済まない。何言ってんだろ、俺。言いたいのはそんな事じゃないんだ。説得力がないかもしれないが、言っておきたい。お前は女だ」
ザインは、アインリッヒが最も認めたくない彼女の真実を、ハッキリ言い切る。
「止めろ!!」
アインリッヒは、耳を塞いだ。だが、ザインは彼女の両腕を掴み、次の言葉を聞かせる。
「何があったかは知らない。だが、お前は女だ。そして、一流の剣士だ。お前はまだ汚れちゃいない。俺のようには……」
女であり、剣士である。その二つが、初めて彼女の中で一つに繋がる。そして、自分にはまだまだ沢山の道があることを知らされる。だが、それはザインにも言えることであった。しかし、自分に厳しすぎる彼は、それに素直に向かい合えない。十七にして、あまりにも沢山の命を預かりすぎたのだ。そのために消えた命は、もう返らない。彼はそれを背負いながら生きているのだ。過去を変えることは出来ない。変えられない過去に対して、懸命に良策を練ろうとしているのだ。
次にアインリッヒが話し始める。
「私は、ウェンスウェルヴェンの正妻の子ではない。五大雄としての父は、立派だったかもしれない。だが、男としての父は最低だ。妻がいるにも関わらず。若い女を屋敷に入れては、数日もせぬ間に手込めにし、子を孕めば、堕ろさせた。母もそんな一人だったんだ。だが、母は私を身ごもったことを知ると、必死の思いで屋敷を抜け出したそうだ。望まれぬままに生まれた私だったが、母は優しかった。だが、その母も心労と酷い栄養失調で私が幼い頃に死んだ。タイミングが良いのか悪いのか、私は命を食いつなぐ手段を見つけた。いや、向こうから勝手にやってきたのだ。私と母のことを知った父が、使いを寄越してきたのだ。何も解らぬ私は、連れられるがままに屋敷に引き取られた。五大雄ほどの地位を持つものが変だと思わないか?私が居た事実をもみ消すことぐらい、可能なはずだ。しかし直ぐに理解した。母に似た私の容姿を彼は欲したのだ。だが何も知らぬままに、手込めにあった母とは違い、私はあの汚らわしい行為を幾度も目にした。父に組み敷かれ、泣き叫ぶ女、毎夜違う女だった。ショックだった。子を生む仕組みを知った時、己の性の誕生をどれだけ呪ったか……」
屋敷に引き取られたアインリッヒは、誰に教わる訳でもなく、周囲の空気の流れ、人の流れを見、男女の性を知った。そして、父を語らなかった母の、何故を知る。
「母は、私を生んでくれた。愛してくれた。だから、生きる道は閉ざさなかった。だが、男に虐げられるのが女なならば、辱めを受け続けなければならないのなら、女でありたくない!私は、女でいたくなかった!そして、男に負けぬため、剣の腕を磨いた。誰にも持てぬ剣を持ち、女ではなく、男に勝る存在になろうとした。学ぶことに不自由はしなかった。父は、母のように健康な女にしたかったからだ。この意味、解るか?」
「ああ」
「だが、剣の腕を磨いたところで、絶対的に変えられぬこの容姿。お前も私が鎧を脱ぐまで、女だとは思わなかっただろう?」
「ああ」
周囲に例外なく、鎧を着ているときの彼女と、脱いだときの彼女のギャップに、誰もがいった。「女なのか?」と。
「外見で誰もが、私を決めた。鎧は剣士である私そのものなのだ」
コレが彼女が、重厚な鎧を纏い、自分のを女視されるのを嫌う理由だった。
「何故、男を恨まなかった?」
ザインは、通常ありがちな異性への否定が、彼女にはなかったのかと、疑問に思った。
「恨んださ。だが、それでは何も変わらなかった。しかし、自分は自分でどうにかなる。心を殺せば、すぐに自分がいなくなる。強くなれば、私を甘く見るものはいなくなる」
彼女は異性を恨むことに、もはや疲れていた。そして己が強くなることで、周囲は、彼女に手を出せなくなったのだ。
「求婚を申し出にきた男性も多かった。そしてその度に、こう言ってやった。『私に剣で勝てれば』と……、そして何人も、愕然と膝を崩した。だが、いつも心は晴れなかった。そう、お前とキスするまでは……、お前は言ってくれた!私は一流の剣士だと、それと同時に女であると!」
アインリッヒの視線が求めるものに変わる。
「ああ、お前は最高だ。腕ももっと上がる。だから今度は女も磨け、そうすればもっと強くなれる。俺が保証してやる」
ザインは、もう一度彼女を押し倒し、頬をゆっくり撫でる。彼女は自ら晒しに手を掛け、胸元をゆるめる。
アインリッヒにとって、それは汚らわしい行為であるが、自分が女であると、正面から向き合えるうちに、向き合っておきたかった。
ザインは夢中になる前に、なぜ、彼女がウェストバームの称号を継げたのかと言う、疑問が浮かぶ。アインリッヒも、どの様にして、ザインの父がノーザンヒルの称号を得たのか、気になった。
「ユリカ」「アイン」
互いに即座に名を呼び合う。此処まで来たからには、聞かずにはいられない。あまりに同時だったので、ウットリしていた互いの目が、驚いて丸くなる。
ザインはそれがおかしくなる。
「どうする?このままやっちまうか?!それとも……、お話しするか?」
卑猥な発言である。ザインは、照れながらにやりとした笑いを浮かべる。
「今はこの感情の高ぶりに、全てを任せたい」
アインリッヒは、目を細め、オーケーの返事を返す。だが、周囲は男女が睦み合うには、あまりにも殺伐としすぎている。ザインは流石にこの状況に、苦笑する。しかし、アインリッヒはそんなザインの心境を無視して、積極的に彼を抱き寄せ、腰元を寄せてくる。
「お前を……感じる」
感情の赴くまま、アインリッヒはザインの背をより強く抱きしめた。
「膝、痛くないか?」
ザインは、恐らく彼女に無理な要求をするかもしれない。だが、心持ち訊いておきたかった。
「言っただろう。『痛み』には強い」
「流石剣士……」
完全に茶化した言い回しをするザインだった。どちらにしろ、衝動的に、もう止められそうもない。と、思ったその時だった。
「ザイン!おい!ザイン!!」
ロンの声がする。それだけではない、少しはずれた方角から、ロカやジーオンの声まで聞こえる。流石にこの時には、ザインはドギマギとした顔で、周囲を見渡す。既に、サウスヒルに向かった筈の彼らが、何故、此処にいるのかだ。
「ユリカ、どうした?抱かぬのか?」
「って!ロン達が来てるんだよ。なんか知らないけど」
と、左に振り向いた瞬間だった。握りしめていた剣を落としたロンが、彼の視界に入る。しっかりと二人の危ない状態が論の目にも入っている。そして、周囲の転がるリザードマンの死体も目にはいる。ロンとザインが、妙な間を一分二分と開ける。鳥の囀りが妙に美しい。
「ははは!いやぁ!ホンジツハヨイオヒガラデ」
ザインがこの状況を説明しがたく、乾いた笑いを浮かべながら、アインリッヒを組み敷いた状態で、意味不明なことを言ってこの場に平静さを取りも出そうとするが、彼の思い通りに行くほど、事態は甘くない。
「ザイン君?一寸……」
こめかみがブチ切れそうな程、顔をひきつらせたロンが、それでも必死に笑みを浮かべながら、ザインを手招きする。何を言っても聞いてくれ無さそうなロンに、仕方がなく従うザイン。彼の方はさほど衣服も乱れていないので、行動はすぐに起こせた。ロンに近づくと同時に、ザインはヘッドロックを掛けられ、アインリッヒの死角になる木の気下まで引きずられ行かれた。
「へぇ、激しいバトルした割には、余裕あるじゃないか、えぇ?!」
ひっそりとした声だったが、憎しみいっぱいと言った感じのロン。ザインの頭部を締め付けるロンの腕の強さが更に増す。可愛さ余って……と言うところだ。
「テテテ!コレには事情が!!アイン!ヘルプ!!」
「ロン!誤解だ!ザインと私は戯れではなく。本当に互いを分かちおうとしていたのだ!!」
アインリッヒが、崩れた晒しを押さえながら、自分たちの、状況の成り行きを説明するが。それはあくまで、感情面だ。キスの条件ではない。最も二人はそれ以上に進もうとしていたわけだが。
「お前なぁ!!」
興奮したロンが叫ぶ。
「ああ!ちゃうねんて!ほんま堪忍や!アイン!ほら、キスのこと、説明したって!」
何故か関西弁に陥るザインだった。
「キス?……、ああ、上手だったぞ」
その時の感触を反芻し、頬を赤らめてウットリとするアインリッヒ。他人の前で言わせることを罪だと言いたげに、斜め下に大地を見て、ふるえた己の体を両腕で抱く。
「ほう?だそうだ!」
ロンの腕が更にぎりぎりとザインの頭を締め付ける。
「……」
頭部を絞められていたザインは、そのまま落ちてしまう。
「あちゃぁ!やりすぎた……」
さすがのロンも、少し虐めすぎたことを反省する。
「ユリカ?!あう!!」
ロンの不安げな声に、アインリッヒは動かずにはいられなくなるが、左膝を動かす度に、激痛を感じる。背を丸め膝を押さえ込む。痛がるアインリッヒの声に、ロンはザインを落とし、彼女の方に駆けつける。
生々しく乱れたアインリッヒが、横たわる姿に、何故かロンは罪悪感を感じる。横には、ザインの上着が転がっている。それを拾い上げ、アインリッヒに胸を隠すよう、顔をそらしながら、それを渡す。耳たぶが真っ赤である。
「済まない」
アインリッヒは、ロンが顔を逸らしている間に、それを羽織り、ボタンを止める。女性としても当然であるが、それ以上に、女である自分を、ザイン以外に見られたくないと言う気持ちの方が強かった。つまり、ザインの前以外では、未だ女性でありたくない。顔を背けているロンに対しても、苦痛を感じた。そこに、女としての扱いを感じたからだ。
「怪我をしているのか?」
「ああ、体勢を崩したときにな」
「老体を呼んで、治療を頼もう」
「あぁ、頼む」
ロンは相変わらず赤面したまま、アインリッヒと視線を合わせることなく、淡々と彼女の状態だけを気遣う。
アインリッヒも、感情を抑えた平坦な声で、単純な状況の説明と、礼だけを入れた。
ザインが気絶している間に、アインリッヒはジーオンに膝の治療をして貰う。幸い、筋が伸びた程度のもので、治療に時間の掛かるというものではなかった。
「なんか、こう、ボウッとするなぁ」
ザインが漸く目を覚ます。集まっているロン達が視界に入り、立ち上がると同時に、木陰からアインリッヒの方へ向かうと、ジーオンがアインリッヒの治療に当たっており、それを見守っているロン。彼の気配に気がつき、振り向いたロカがいるといった構図だ。ロカと目が遭う。すると、彼は視線を逸らし、申し訳なさそうに、急にクスクスと笑い出す。ロカの笑いと同時に、ロンとジーオンも振り向き、ザインがそこにいることに気がつくと、口の中に笑いをため込み、懸命にそれを手で押さえ込んでいる。頬が今にも破裂しそうだ。
「ユリカ……」
その中でただアインリッヒだけが、真面目な顔をして、彼の目覚めを受け入れた。だが、アインリッヒのその一言で、三人が大爆笑になる。ロンが面白がり、汚れるのを構わず、腹を抱え込み、のたうち回って、笑い転げている。
「わ!笑うなぁ!!俺だって気にしてんだ!」
爪先立ちになり、怒鳴ってみるが、三人の笑いは止まらなかった。
「す、済みません!でも、変に隠すからですよ。考えれば、貴方だけフルネームが解らなかったのですから、その反動で……」
ロカが笑いながら、必死の弁明をする。背を丸めて、両腕で腹を抱えて、目尻に涙をためながら、笑いをこらえる。
「だぁ!オヤジが、俺が生まれたとき、女の子が生まれることしか考えて無かったんだよ!!そのまま俺に、名前付けやがったんだ!仕方がねぇだろ!!」
こうやって、ムキになって説明し出すことが、またおかしい。アインリッヒも、そんな彼がおかしく感じ、周囲にも吊られ、思わずクスリと笑った。
「あ!アイン、今笑ったろ!」
「そんなつもりじゃ、だが、そう子供のように向きになって怒ることもあるまい?」
と、言いつつ、微笑みに、口元がゆるんでいる。堪えてはいるが、笑いが口の隅から漏れて止まらない。
結局、アインリッヒが漏らした一言がきっかけとなり、ザインの呼び名について説明を求められたことから、彼女は「ユリカ」の所以を、話すところとなった。そして、結果がこれだ。
「ユリカ」発言については、ザインはひどく、気分を害したが、馬に跨ると、先ほどの状況の整理に入り始める。ただし、エスメラルダには跨れないままだ。ロードブリティッシュの手綱を取り、背にはアインリッヒが凭れている。ただし、鎧のままなので、ザインとしては嬉しくない。が、仕方のないことだ。アインリッヒが自分自身の全てを受け入れることに慣れるまでの間だ。彼女は未だ、剣士として使命を受け旅立った自分を意識している。そのために女として、扱われるのはいやなのだ。使命を果たす己だけを見て欲しいのだ。プライベートな時間でない限り、彼女は鎧を脱ぐことはない。
「ユリカ」
アインリッヒがザインを呼ぶ。周囲が僅かに小うるさく笑い出す。
「外野!五月蠅い!……。で、何だ?」
「ユリカと呼んでは、ダメか?」
話は複雑ではなかった。ただそれだけのことだが、切ない声だった。気を遣っているのがわかる。何よりザインがそう呼ばれることを嫌がっていることを、思ってのことだ。ならば、ザインと呼び直せばいいだけのことだ。しかし、それを確認すると言うことは、彼女なりにそれなりの思いがある。
ザインは小声で言う。
「と、特別だからな」
「ユリカ……」
愛おしさの隠るアインリッヒの一言。ザインは照れて顔が真っ赤になってしまうのだった。鎧の中から湯気が上がっている。今、アインリッヒにある、「男」の善の部分は、ザインという小さな世界にしか存在しない。
彼女にとって漸く少し開いた扉なのだ。
瞬間、ザインの思考が、アインリッヒのことだけに傾いたが、すぐにリザードマンが出没した事情を、思考し始める。そして、一つの推測が成り立つ。だが、此処では言わなかった。言えない理由もあったが、馬上では、意見しづらい。
遠回りをしたせいもあり、サウスヒルに着いたのは、翌日の夕方であった。此処では街の宿ではなく、ロカの屋敷に宿泊することになる。ロカは少しホッとした顔をしている。やはり自宅というのが一番落ち着く場所なのだろう。
「アインリッヒ。済みませんが、屋敷に入る前に、鎧だけ脱いでいただけますか。流石に、大理石の床にに傷が付いちゃいますから」
ロカは穏和に当たり障りのない言い回しで、そう言う。今のところ、ロカに険しさが見られない。旅に出てからずっとだ。心が穏やかなのか、絶えずニコニコとしている。
「承知」
アインリッヒがそう答えると、彼はにこやかな顔を、更ににこやかにする。
屋敷に入ると、屋敷中の人間が彼を迎えに来る。しかし、中にはどう見てもメイド等でない女性がいる。その女性達が、ロカの周囲を取り巻く。
「ロカ様。早いお帰りでしたね」
と、口々にその様なことを言い出す女性達。見方を変えればどことなくハーレムを作っているように見える。
「あれは、汚れだな。うん」
そう断定するロンだった。
体の汚れはあるが、とりあえず食事である。シャイナ家は、彼、そして彼の両親、多数の召使い、先ほどの意味ありげな女性達がいるが、この時は、両親と、五大雄のエンブレムを持つ彼らだけが食卓を囲む。
「どうです。当家の食事は」
珍しくロカが仕切っている。
「ああ、ウメェ!」
ザインがワイルドにがっついて食べる。食欲の鬼と化している。他の者は育ちがよいので、食器が小うるさくガチャついているのは、ザインの周囲だけだった。だが、不思議と浅ましさは感じない。本当に食を楽しんでいると言った感じがして、見ていても美味しそうだ。
〈ま、この話は明日の明日でも良いな。ロカも寛ぎたいだろうし、変にみんなを惑わす事もしたくない。それに、自然に話せる展開にもって行かないとな……〉
だが、頭の片隅で、皆に話す展開にどう持って行こうかと、考えた。その瞬間だけ、ザインの顔が真面目になる。口だけは間抜けにたくさんの食べ物で詰まっているが、思考が食べ物に集中していない。それに気がついたのは、真横で、ずっと彼を見続けているアインリッヒだけだった。
「うん美味い」
しかしすぐにそう言いながら、食に没頭し始めるザインだった。
そして風呂場だ。いかにも戦場を駆け抜けたと言わんばかりの体をしているのは、ロンとザインだ。とてつもなく広い風呂場で、いかにも雑談するために作ったと言わんばかに半円に凹んだ部分に、彼らは屯する。残念ながら、アインリッヒはいない。別湯に入っている。女湯では、彼女が怒るため、あえてそう呼ばざるを得なかった。
「なぁ、風呂上がりに、いっぱい引っかけながら、こうジャラジャラっと……」
ロンが湯面をテーブルに見立て、牌をかき混ぜる仕草をする。
「良いノォ。じゃが、儂等には……」
釘をさすジーオンだが、それを責める気配はない。すっかり乗り気である。
「解っています。重要な使命があるのでしょう?」
「ああっと俺は一寸……」
ザインは、仲間に引き込まれない内に、そうそうと風呂からも上がろうとする。だが、ロンが立ち上がろうとする彼の足を払い、再び湯船に沈めてしまう。
「つき合い悪いのは、嫌われるぞ!理由くらい言って行け」
「ねぇよべつに……」
行動とは裏腹に、さらっと言葉をながして言うロンに、顔の上半分だけ、湯船から頭を出し、反抗的な視線を送る。
「なら、ハンチャンだけつき合え」
ハンチャンと言っても、長ければなかなか終わらない。強引に誘うロンだった。迷惑と思わないザインだが、出来ればベッドの上で、考え事をしていたい。
だが、実際一局打ち始めると……。
「へんだ。誘ったこと後悔するなよな、今更!」
「くそう!なんで素人のお前が、こんなにに強いんだ!?」
カモだと思っていたザインは、堅実に上がり、時には大胆な捨て牌で、周囲を惑わせ、大きな手で上がって見せたり、小さな手で逃げてみたりと、多彩に動く。何より、当たられない。
「あ、もうそろそろ、終わりにしません?」
と、ロカが場の途中で、こんな事を言い出す。彼が時計を見ると、ロンもジーオンも時計を見る。
「そろそろ寝るかな……」
「儂も歳だし。この辺で……」
強引に誘った筈のロンやジーオンまで、席を外す。だが、時計は未だ十時を回った程度だ。
「おいって!」
まるで裏をあわせたように、皆がテーブルから離れ、ザインが、一人だけ席についている。
「あ、そうだ。皆さん、コレに部屋の指定がありますので、どうぞ」
ロカが思い出したように、メモを皆に配る。それから、彼は自分の寝室に戻る。ロンもジーオンも、ザインをひとりぼっちにしてしまう。大きな柱時計の振り子が時を刻むその音だけが、妙に耳に触る。テーブルの上には、麻雀牌たちが、乱雑に放り出されていた。
「ちぇ!誘っておいて、負けそうになったら逃げか?それに何で俺だけ、別館なんだよ!」
ザインはグチりながら、薄暗くなった長い廊下を、靴の音を響かせながら歩く。別館は廊下で繋がっているため、表に出なければならない面倒くささは無いが、広い屋敷なので、兎に角距離が長い。そして、漸く別館の指定の部屋の前に着く。廊下には扉が転々と並んでいるため、一部屋の広さは、何となく想像がつく。広いことは間違いない。
無造作に扉を開くと、きちんと明かりがともされている。手に持っている蝋燭で、明かりを灯す必要は、無さそうだ。
「気がきいてんな。に、しても、広すぎて落ち着けねぇな」
別室といえども、部屋の中にいくつか扉がある。間取りは、一寸した家くらいはありそうだ。ただキッチンがないため、部屋だと言い切れるだろう。
寝室を探し始めるザイン。まず覗いた部屋はトイレだった。
「誰かいるのか!」
その時に、緊迫感のあるアインリッヒの声が聞こえる。何故かおどおどとし始めるザインだった。後ろを向くが誰もいない。気のせいなのか?そう思った瞬間、身を整えたアインリッヒが、三つある扉の一つから姿を表す。
「なんで?!あれ?俺部屋を間違えたかなぁ、ゴメン」
ザインは、メモを見ながら、己の辿った経路を思い出すが、間違った気配はない。だが、アインリッヒがいるのだ。仕方が無く他の部屋を探しに行こうと、入り口に向かい始める。その仕草が、かなりぎこちない。
「ひょっとしたら、私が間違っているのかも……」
互いに示し合わせ、部屋を共にするならともかく、間違いで同じ部屋にいるのは、どうもばつが悪くなった。彼女も、テーブルの上に乗ってあるメモを取り、確認をするが、どうも間違っている気配はない。
「ユリカ……」
「ああ」
互いのメモを見せあう。そして、照らし合わせる。
「同じだ」と、ザイン。
「ああ、同じだな」アインリッヒが復唱する。
その時、ザインには、強引なやり口のロン、不自然に皆一斉に部屋を去った事実。遠回りなメモ。離れた寝室。何時裏をあわせたのかは、知らないが、手の込んだやり方だ。
「なら、無理に部屋を換える必要は、無いだろう?」
背を向けたアインリッヒだった。唐突なので、あの時のように感情に任せきれない。だが、その言い方は、遠回りで積極的だった。
実はザインも、可成り照れくさかった。遊びと割り切っている分には、乗りで女を抱くこともできる。だが、今回は勝手が違う。彼女を抱きたいが、それがただの衝動でないことは、今自分が躊躇っていることで、もう十分解っている。では、本気なのかと訊かれると、出逢って四日。あの時、よく無責任に彼女を抱こうとすることが出来たものだと、ゾッとする。
「なぁ、男ってなぁ、別に尊敬とか、信頼とか、愛とかが無くても、女を抱けるんだぜ」
振り返って、背を向け、間を繋ぐために出た言葉が、そんなとんでもない発言だった。もう一度振り向き、声を妙に浮つかせながら、あまたを掻きむしりながら、愛想笑いを浮かべている。腰はすっかり逃げていた。後退りしてドアに向かっているような錯覚を、自分で感じた。
しかし、背中を向けつつも、視界ぎりぎりにザインを捉えているアインリッヒは彼の行動と言動の矛盾にすぐに気がつく。気にしていなければ、力ずくにでも自分を奪っても、不思議はないと思った。現に父は、そうして女中を抱いている。
道徳観と己の気持ちの板挟みになり、困った笑いを浮かべているザインが可愛く見える。では、自分はどうなのだろうか、アインリッヒは心に問う。唯一自分を女として見る事を許した男性が、こうして目の前にいる。先日は、邪魔が入った。今はどうか。「抱かれたいのか?」。ただ抱かれたくはない。あの時は過去の傷という共感があった。普段平然と生きている彼も、その傷を未だ克服しきれていない。何かの罪悪感に苛まれているのは、自分だけではない。彼は己を憎みながらも、その事を自分に教えてくれた。あの時は、それを一つにして、互いの痛みを、分かち合おうとしただけにすぎなかったのではないか。それだけならば、同情であり、愛ではない。
「ユリカは、私を抱きたいのか?」
ストレートな問いかけだ。振り向き、一歩前に進み出したアインリッヒが、彼の嘘のない答えを求めている。
ザインの笑いが止まった。
自分自身を誤魔化し、良くも悪くも逃げることの出来る形を作ろうとしていた事に気がついたのだ。男性自身の性に責任を押しつけ、己を庇い、もし拒まれても、そのまま笑って去ることが出来るように。
「抱きたい」
ザインは、彼女を抱きしめると同時に、声を掠れさせ、彼女の耳元でそっとささやく。それが彼自信の本当の答えだった。
「なら、どうして奪わない?」
また問う。
「お前を、傷つけたくない」
それも真実だった。だが、「抱きたい」と、そのあまりに己に正直すぎる言葉が、彼の理性の箍をを外す。呼吸が荒くなり、彼女の頬にしきりにキスをするザイン。
ザインにとってそれが明確な愛でない事は、アインリッヒにも解る。言葉巧みな「愛」は、通用しない。だが、彼に求められていることが、苦痛であるかと、己に問いかけると、それは「NO」と、返ってくる。
「私もお前に抱かれたい」
そのころには、ザインは既に彼女の上半身を外界に曝し、背を強く抱きしめ、自分のほうへを引き寄せ、その唇から肩口を、幾度も唇で撫でていた。
「はぁ……」
ザインの唇が彼女の胸元に滑り込んだ瞬間だった。アインリッヒは、大きく背を逸らし彼の頭をそっと両手の中に包み込んだ。気が狂うほどの心地よさが、彼女を襲う。
「足に、力が……」
アインリッヒは、懸命に砕けそうな腰を立たせようとしている。
「大丈夫」
そう言ったザインが、アインリッヒの肌を唇で撫でながら、彼女の太股辺りを抱き、グイッと持ち上げる。アインリッヒは、無理なく胸元へ来たザインの頭を、両腕で包み込んみ、その奥から、破裂しそうな激しい動悸を彼に伝えた。
「ベッドへ……行こう」
「いいとも」
ザインは、このまま乱れあうことを考えた。だが、アインリッヒがベッドを望む。そこへ辿り着くには、三十秒も掛からないだろう。その時間が過ぎゆくのがザインには、遅くも早くも感じられたのだった。
翌朝。
先に目を覚ましたのは、アインリッヒだった。囀る鳥が、まるで二人を祝福しているかのように聞こえる。全てが初めてだった。過去に見たおぞましい行為を彼と成し遂げ、そして、何度も悦楽に没頭した。それを思い出すだけで、身体に心地よい電撃が走る。恐らく求められれば、今すぐにでも身体を熱くすることが出来るだろう。
「暖かい」
アインリッヒは、今ベッドの役割を果たしている彼の胸板に身を任せた。だが、次の瞬間衝動的に、あることをしたくなった。彼の首に腕を絡め、肩口をそっと噛む。それから、少しずつ力を加え、次に歯を、完全に彼の肩に食い込ませた。
「う……んん」
痛みと共に目を覚ますザイン。反射的に痛みのある肩に手をやる。そして掌が探り当てたのは、アインリッヒの後頭部だった。すると、痛みが急に愛おしくなる。放っておくと、肩の肉ごと、もって行かれるかもしれないが、それでも良いと思えるほどだった。
アインリッヒは、口の中に血の気を感じると、漸く、肩口から離れ、ザインの頬を両手で包み、彼の唇に深く自分の唇を押し当て、深く口づけをする。
「『お返し』だ」
アインリッヒは、彼の肩を噛んだ理由を言う。彼女は痛みに対する仕返しをした。そして同じ箇所にもう一度、歯を押し当てる。
「クス」
ザインは、昨夜のアインリッヒの初々しさを思い出し、少し悪びれた笑みを浮かべる。少々身体がムズムズしてきたザインは、胸の上で寝ている彼女を、昨夜のように組み敷き、許可無く彼女に押し入る。だが、ザインはすんなり受け入れられる。
「ザイン……、詩を……」
愛されていることが止めどなく不安なのだ。この先自分がどの様になるか、知り尽くしているだけに、自分たちがただ狂った獣でない証明が欲しかった。
「よし、とびっきりのやつ……。我は、良き風となり、良き雨となり、良き陽となろう。汝は良き大地となり、良き木々を育みたまえ……、こんな感じかな?」
ザインは一度クスリと笑い、アインリッヒを抱きしめた。
「嗚呼!」
アインリッヒは瞬時にして、彼の詩の意味を読みとった。それは、例のロイホッカーの詩の引用で。原型はこうだ。
「良き風と、良き雨と、良き陽は、良き大地を作り、良き木々を育む」。
内容を約すと、夫となる者が、力を尽くし、生活を豊かにすれる事が出来れば、女性は健康な子を生むことができ、家族は円満に暮らせるという意味だ。
これはある意味で、ロイホッカーらしくない詩と言える。何故なら、愛だけではどうにもならないことがあると、言っているに等しいからだ。自然派では、批判される部類に入る詩だ。しかし、悲しいかな、人間の生活を営むには、やむを得ないことなのである。
だが、ザインはこう言ったのだ。「私はお前ために、自分を惜しまず、注げる全てをお前に注ごう。だからお前は、立派な子を生み、私に答えて欲しい」と、つまり求婚である。
「木々は……、陽と風と雨の恵みを受け……、大地に支えられ……、やがて実をつけ……、鳥達を呼ぶ」
アインリッヒは、ザインに狂おしく悩まされながら、似たような詩を詠う。だが、意味は「良き母と父に育てられた子は、周囲にも必要とされ、愛される」子供の良き成長を願った詩なのだ。つまり、ザインの子なら生んでも良いということだ。これがアインリッヒの答えだった。
充実感に満ちた二人は、再び肩を寄せあい、ただ二人きりでいるとうだけの時を過ごしていた。
「この十七年間、安らいだ朝を向かえたことなど無かった。愛に恵まれた日々は、飢え怯え、生きることの許された日々は、愛に見放されていた……」
アインリッヒは、この安らいだ一時を口にせずにはいられなかった。口ではサラリと語っていたが、彼女の手は大胆に、自分を狂わせた彼自信を手で構い始める。
「うっと……、くすぐったいって」
嬉しいが、アインリッヒの手を、止めに掛かる。これ以上彼女にのめり込むと、あっと言う間に夜になってしまう。昨日から引っかかっている疑問の解決に努めなければならない。
「触れていたいのだ」
だが、アインリッヒは今までの偏っていた自分を修正するかのように、ザインを求める。
「たく……、しょうがねぇ奴。剣士級の体力も、問題だな」
尽きることのないアインリッヒの体力に、感服しながら、彼女の頬や胸元などに、幾度も唇を滑らせ始めるザイン。だが、誘惑に負けかけたその時だ。
「ん?って、お前いくつっていった?」
「十七だ。そんなことより……、早く……」
「アハハハハ!ま、いっか……」
ザインは妙な空笑いをした。もう済んでしまった事実を今更もとに戻すことは出来ない諦め、そして、ぼんやりと心の中にある、彼女への愛を確かめる。だが、その大人びた顔、肢体は、まだ成人を向かえぬ女性とは思えぬものがあった。彼女を抱けば抱くほど、そのギャップを感じずにはいられない。
と、アインリッヒの期待に答えたザインは、すっかり満足感に浸りベッドに身を沈めた彼女を残し、部屋を出る。そして、メイドにロカの居所を尋ねながら、漸く彼のいる部屋の前まで辿り着く。中からは、ケラケラとした、複数の女性の笑い声と、それに対し、何かを話しているロカの声が聞こえる。
ノックしかかったザインの手が止まるが、話すべき事がある。私用で随分時間もさいてしまったことだ。勝手だろうが、彼の都合にまで気を回している時間はない。正式にノックをする。
「はい、どうぞ入って」
相手を選ばない、簡単なロカの返事が返ってくる。そしてサインも、遠慮無く入ることにする。
「お、お前……」
部屋に入り掛かったザインが目にした光景は、広々としたソファーベッドに凭れているロカと、その両腕に抱きかかえられない女性達が、それぞれに美しいドレスを纏い、彼を囲んでいるというものだった。
「やぁ、ザイン。中央に行っている間、みんなが寂しがって、この有様なのですよ。そちらも随分ゆっくりでしたね」
両腕に抱いている女性を構いながら、ニコニコとした顔をして、ザインのご機嫌を伺うロカ。大人しい顔をしている彼は、とてつもないプレイボーイだ。
「ああ、おかげさまでな」
「そうそう、出発は明朝だそうです。御老体が、そう仰っていましたよ」
随分とゆっくりとした話だ。どうも二人に気を使った日程らしいが、到着するまでに、未だ随分と日にちが余っている。それはそれで良いことだ。
「そっか、それよりロカ。一寸面ぁ、貸してくんないか」
「顔……ですか?」
ザインの妙な言い方に、疑問を感じながら、彼はすんなり女性達から離れ、ザインと大きく広い庭先に出る。屋敷と門の間にある、中央にある女神像の瓶から、豪華に水の沸き上がる噴水までやってくる。
「ロンは、凄腕の剣士。ジーサンはあの通り、雰囲気で大魔導師ってわかる。アインも荒々しいが、剣は一流だ。ストレートに言うが、俺はお前に疑問がある」
随分な言い方だ。残念そうに、少し寂しそうな顔見せるロカだった。出逢って四日だが、互いにどことなく気のあう気配があっただけに、疑いを持たれたことはショックだ。ロカは、それなりにザインを気に入っていた。その証拠に、豪華な別館の一室を、二人のために提供したのだ。
「残念ですね。僕もサウスヒルのエンブレムを継いだ男です。それで十分に解っていただけると思っていたのですが……。年齢が実力に直結しないことは、貴方が一番よく知っているでしょう?」
「確かに……」
ザインは含み笑いをし、ポケットに手をつっこむ。
「安心して下さい。有事の場合、必ず戦力になります」
それでもロカは笑っていた。だが、ヘラヘラとした笑みではなく、確固たる自信に満ち溢れた勇ましい微笑みだ。
「いや、わからんね。一応、参考程度に、何か技を見せて貰いたいな」
ザインは、強く突っぱねる。まるで信用ならないと言った面もちで、とことんまで彼を見下したような言い方をする。
「良いでしょう。それで貴方が納得するのなら、それで、どんな魔法を見せれば納得していただけますか?」
だが、ロカの表情はあまり変わらない。怒りという面が、殆ど出てこないのだ。
「そうだなぁ……。っと、ところでさ、お前昨日のやつ、どうやってジーサン達と打ち合わせしたんだ?」
この時にザインの目が初めて正式にロカを捕らえる。ロカの目の中にザインの眼孔が飛び込んでくる。
「簡単です。それは……」
と、ザインの質問に答えようとしたロカは、彼の視線が自分を疑っている時の視線とは違い、何か別のメッセージを持って、自分に接していることに気がついた。そして、そのまま視線だけを数秒交える。
「それより、ご期待に答えて、とっておきの魔法を見せましょう」
ロカは、ザインの最後の質問には答えず、本筋の質問に答える。
「闇をみきわむ悪魔の目を阻め!ブラインドカーテン!!」
ロカが呪文を唱え、手印を切ると、屋敷の敷地上と思われる周囲から、赤く煌めく光の幕が立ち上る。しかし、それだけで、元素魔法における強烈な攻撃等は、全く感じられなかった。
「どうです?これで、水晶を使った遠視も、動植物を介しての遠視も、結界内では通用しません。無論、屋敷内に不審者が居れば意味はありませんがね」
ロカのその返事を聞くと、ザインはしきりに拍手をして、満足げな顔をする。ザインの真意を理解したロカも、自分が真に疑われていたわけではないことを知り、ホッとした様子を見せる。
「ああ、ま、俺達の中にそんな奴は居ないよ。……にしても、伝心とはな……」
そしてザインも先ほどとは打って変わって、このように言い出す。そしてロカの肩を軽く叩くことにより、彼を信用していることをさりげなく表現してみせるのだった。
それから、眠っているアインリッヒを含め、全員を一つの部屋に集める。
「何だって?!私たちが何者かにスパイされている?」
ロンがテーブルを叩き、ザインの一言に、不快感を感じる。
「ああ、具体的な誰かってのは、良くわかんねぇが、リザードマン出現から気になってな。その前からの出来事を考えると、そう言わざるを得ない」
「ザイン君。その、前からの出来事というのは?」
ザインがぼかした部分を、ジーオンは改めて聞く。ザインは頷いた。だが、全てが彼の推測の元で出来上がった話である。
「リザードマンに関しては、明らかに待ち伏せだ。しかも、前々からじゃなく、俺とアインが奴らのアジトを、攻める事を決めた直後の話。それが証拠に、奴らはその戦闘に巻き込まれないよう、お宝を持って一目散……」
ザインは、例の一つ大きめのダイヤを、皆の前にちらつかせる。
「だが、盗賊共は集落を襲ったのだろう?ターゲットは我々ではなかった」
ロンは、ザインの意見を否定する。
「街ごと俺達を潰せば、一石二鳥だ。それに失敗したときに、俺達に勘ぐられずに済む。それとも、誰かに依頼されて、ただ街を潰せばいいと、言われただけかもな。要は、悟られちゃまずかった訳だ。今後のために」
「しかし、良くそれだけで、確証が掴めますね」
ロカも、少し飛躍しすぎた推理に、疑問を持つ。
「だけじゃないぜ。俺もアインも、中央に来る前に、襲われてる。偶然にしちゃ、回数が多すぎる。街道って条件上、今まで気にも止めなかったけど」
「となると、盗賊やリザードマンを仕掛けた魔導師を絡めて、儂達を襲わせたのは、儂等の存在が邪魔な者だといえるな」
ジーオンが、一応当然といえる結論を出す。それは自分たちの向かっている国に、大きく関係することだと確信した彼らは、その答えに頷く。
「どうやら、私たちの使命は筒抜けらしい。だが、そうと解った以上、不意打ちを食らうこともあるまい」
話は終わったと、アインリッヒが腰を上げる。
「まだ、戦争するって訳じゃないのに、はやとちりな連中だ。どうだ、気晴らしに……」
ロンは、重い溜息をついた後、またもや麻雀の話を持ち出す。昨夜は尻切れトンボで終わったため、何となく物足りない。
「ロン。野暮はダメです。ね、ザイン」
「そ、いう、コト」
ザインはアインリッヒが去ったあとを追って、そこを後にする。
「おい!三人じゃ、つまらないんだよ!ザイン、ハンチャンつき合えって」
ロンがザインを制止するが、彼は肩越しに手を振り、全く聞き入れない。扉がそそくさと、閉まる。
「大丈夫ですよ。父をメンツに加えれば良いじゃないですか」
ロカの父つまり、五大雄の内の一人だ。当然ロンやジーオンとの面識はある。懐かしい顔と言えるだろう。そのころザインとアインリッヒは、有意義な時間を過ごしていた。アインリッヒの感情表現は、気持ち良いほどストレートだった。しかしそんな中、一人の男が、屋敷に足を踏み入れていた。
マルクス=ウェンスウェルヴェン。アインリッヒの義兄であり、ウェンスウェルヴェンの嫡男だ。彼は、外交特使の職に就いている
。
場面は再びザインとアインリッヒが寝ているベッドへと移る。
「ユリカ。お前が、ノーザンヒルの称号を父に譲った理由。良ければ聞かせて欲しい」
胸の上のアインリッヒが甘えながら、途切れてしまっていた話の続きを求める。責任というわけではないが、彼女には、話しておく義務があると感じるザインだった。
彼女の肩を抱きしめる。
「誉れ高い英雄の名と共に、多くの戦友が散って行った罪悪感から逃れるためだった。知将と呼ばれた一人の男の命の元で散っていった、人間の魂の声から耳を逸らしたかった。怖かったんだ……。だから俺は、名誉を楯にとって、オヤジに責任を擦り付けたんだ。だが、オヤジはそんな俺を責めなかった。あのオヤジが……、意味もなくモノを貰うことの嫌ったあのオヤジが、あの時、ノーザンヒルのエンブレムを、王から受け取った」
だが、そのエンブレムも、七年の時を経て、本来持つべき者への手に戻ったのだ。確かに十七歳の青年である彼にとっては、あまりの重責だった。
「はぁ、何だかスッキリした!」
弱音を語るザインは、次の瞬間妙にサッパリした声で、そう言った。
「きっと、お前はその事を、誰かに話したかったに違いない」
アインリッヒの言葉、その響きが、過去を思い出す度に痛む心を、柔らかく包み込む。
記憶の傷を持つ者の共感が、ザインにそれを素直に受け入れさせたのであった。ある意味での甘えなのかもしれない。
「ありがとう。愛してるよ」
ザインは、もう一度彼女の肩を強く抱く。肉体的な欲望は既に落ち着きを見せている。それでも尚、彼女を腕に抱くことを安らぎに感じる。
やがて夜が来る。ザインのリザードマンの話からこれからを想像すると、用意された夕食が、何となく最期の晩餐のように感じられる。義兄が来たことを知らないアインリッヒは、遅ればせながら、ザインと共に、これに参上した。
朝昼と、自分たちの都合の良いタイミングでしか、食事をしていないので、流石に夕食にまで顔を出さないとなると、ロカに申し訳がない。
食堂に、ノックをし、入ることにする。
すぐさま、アインリッヒとマルクスは、互いに気がつく。
「あ、義兄上……」
義兄が外交特使であることは、当然知っている。だが、今何故此処にいるかは、理解できない。そう言う話は、家では一つも出なかった。
マルクスも驚きを見せる。アインリッヒが其処にいるからではない、ザインとの距離感の無さだ。女視されることを嫌う筈の彼女が、友人以上の垣根を取り払っているのが、一目で解るほど、二人が自然に並んでいる。数日見ぬ間に、釣り上がっていたアインリッヒの目尻には、優しさが出ている。まるで別人である。
マルクスは、何らかの形でアインリッヒを罵りたかったが、他家の食堂、しかも五大雄が居るこの場で、それは出来ない。食を不味くすることほど、無礼なことはない。
「ふん、食事に遅参するな。『これ以上』ウェンスウェルヴェン家の名を汚すな」
ゆったりと冷静な言葉だった。沸き立つ憎しみに似た感情を抑えるためか、最初に視線を合わせてから、ほとんど彼女を見ずに、正面を向いたまま、壁に掛かっている絵画を視界に入れる。見つめたり、凝視はしていない。何となく……だ。
「まぁ、良いではないですか。若い二人が仲睦まじいことは、大いに結構!さぁ、彼らの任務の成功を祈って、今夜の食事は、より華やかに、より豪勢に行おう!」
そう言ったのは、ロカの父だ。ロカと同じで温厚そうな顔をしている。言い振りから、男女関係に関しては、かなりオープンなようだ。そして、ザインとアインリッヒの席は、隣り合って空いている。
華やかな食事の最中、アインリッヒだけは、俯き口を噤んだままだった。ロカの父とジーオンは、七年前の戦争での互いの自慢話をしている。もちろん戦争自体、明るい話の材料ではないが、激戦を切り抜けたときの安堵感は、今でも興奮のネタとなる。
「ザイン君。君も、あるだろう?隠さずともよい」
ジーオンが、唯一戦争のことを語りたがらないザインに、話を振る
「あ、いや、俺は、金魚のフンみたいにオヤジのケツにくっついてただけだから……」
笑いながら、これをかわすザイン。あまり触れられたくない話題だ。
「へぇ、その若さで……、私とほぼ同年代と見たが?」
マルクスがザインに興味を持つ。興味の意味は、色々だ。彼自信のこと、そして、アインリッヒとの関係。嫉妬ではないが、手の付けようの無いほど、周囲の人間に壁を作っていた彼女の変わりようが気になった。
「戦場じゃ、子供は、却って足手まといなだけでしたよ」
丁寧語になるザイン。その他人行儀さで、敬遠の度合いが理解出来る。興奮してつい話を振ってしまったが、ジーオンは済まないと申し訳ないと感じた。だが、先日のリザードマンとの戦いで、彼が勇猛な活躍を果たしたのは、目に見えて明らかである。その部分を聞いてみたかっただけなのだ。だが、そこに彼の心の傷があるのだ。
ザインが、その話題に触れたがらないにも関わらず、マルクスが聞きたそうな視線を、ザインに送る。何を訊いてやろうかと、探りを入れる感じだ。ザインがそれを完全に嫌い、フォークとナイフを置き、席から立つ。
「ユリカ?」
アインリッヒは、一人になることが不安だった。それを目で訴える。
「食が進まないんだ。悪いけど戻る」
周囲への謝りを見せたザインの言葉だが、特にアインリッヒへと向けられた。それでは、自分も、と、席を立ちかけるが、マルクスが、これを止める。
「お前も、どこか具合が悪いのか?」
まるで敵を見るかのような、冷たい視線を送られたアインリッヒは、身体を硬直させる。
「いや、特に……」
完全にザインのあとを追うきっかけを無くしてしまった。ザインに心を開いた反面、彼女の精神面は、非常に不安定だった。陰気な雰囲気を残したまま、後味の悪い食事が終わる。
ロカの部屋に、アインリッヒ、ロカ、ロン、ジーオンが集まる。
「こんな事を言っては済まないが、アインリッヒの兄上は、あまり好きにはなれないな」
ロンが口直しのコーヒーを飲みながら、率直に言う。
「済まない」
そう言ったアインリッヒが、申し訳なさそうに頭を下げた。誰もアインリッヒに謝れとは言っていない。二人の関係があまり良いものでないことは、皆、食事の時に把握している。
「儂はザイン君に、済まぬ事をした」
次に、ジーオンが年甲斐もなくはしゃぎすぎた自分に、強い反省を促す。続いてロカがいう。
「アインリッヒ、貴方は聞いているんでしょ。良ければ教えていただけませんか?彼が、何故戦場にいたことを隠したがるのか。彼ほどの剣の使い手ならば、戦場でも名が上がるはずです」
戦場での働きは、名誉である。誰もがそう信じている。
「ユリカには、それが重荷なのだ!」
そんなアインリッヒの叫びは、まるで彼の代弁をするかのようだった。彼から話すことを禁じられてはいないが、二人きりの語らいだ。周囲にベラベラと喋るべき事ではない。しかし、彼の心の内を考えると、そう叫ばずにはいられなかった。だが、これで話を知っている証明をすることになってしまう。
もう、隠すことは出来ない。そうすればかえってザインへの不信感が広がるばかりだ。ここへきて、それは拙いのだ。特に兄貴肌のロンには、それが強まるに違いない。一見してオープンな性格に見えるだけに、普段の彼そのものが、否定されることになる。アインリッヒは、彼が語ったそのままを、皆に話す。口の軽い女だと、彼に思われることは辛いが、それ以上にザインが、周囲から冷視されることの方が、辛いのである。
「そうか、ザインが、ホントのノーザンヒルだったのか……」
「よもや、一七の少年が、知将ザインバームだったとは……、酷な話じゃな」
「ザイン、水くさいですね。僕たちを信用してるって言ったのに」
誰もザインを想いを軽視しすることもなく、裏切り者呼ばわりする者はいなかった。語りたがらなかった彼を卑下する者もいなかった。皆の心配ぶりから、それ以上に彼のことが気になり始めるアインリッヒだった。
「ユリカの、側に居てやりたい」
女扱いするなと言ったアインリッヒの、周囲への遠慮のない、愛情溢れる一言。彼女らしからぬ一言、まして、周囲にそれを言うような人間でないと、皆決めつけていただけに、三人の目が、一瞬点になる。
「あ!」
自分で何を言っているのか、理解したアインリッヒの顔は、真っ赤に燃え上がる。皆知っているが、二人の関係を、告知しているようなものだ。
そのころ、ザインもアインリッヒには済まないと思いつつ、どうしても一人で心の整理をつけたくなり、ベッドに横たわり、蝋燭で漸く灯された薄暗い天井を眺めながら、一つのことを心の中で呟いていた。
〈何やってんだ。俺は……〉
完全に失敗したと思い、一度両手で顔を覆う。
〈アインに会うまでは、ケリの着いた話だと思ってたのに、オヤジが死んで、エンブレムが俺の手に来て……。卑怯だよな。黙ったままオヤジに責任擦り付けて、それで全てを済ませた気でいて、いや、そう思いたかっただけなんだ。オヤジは何にも言わずに、逝っちまった。兄貴が死んだときも、俺を責めなかった。『栄誉を受け取るのは、オヤジが相応しい』て言って、最後に全部押しつけたときも、オヤジは何にも言わなかった〉
ザインはイライラし始めた。
「だぁ!こう言うときは、剣振り回して、汗流して、ぐっすり寝ちまうのが、一番だ!」
自暴自棄に陥って行く自分がイヤになり、ベッドの上から飛び起き、剣を肩に担ぎ、部屋を出る。
それから、庭先へ出ようと、通路の曲がり角に差し掛かったときだ。
人の声がする。時間的に屋敷の人間がウロウロするのは、珍しい。ふと足を止め、そのまま棒立ちになる。
「良いかアインリッヒ。つけ上がるなよ」
それはマルクスの声だ。周囲に気を遣っているのか、マルクスの言葉は、それほど大きなものではなかったが、その分、冷淡さが感じられた。
「つけ上がる?どういう意味だ」
出逢ったときのような、非常に刺々しいアインリッヒの声も聞こえる。
「貴様が実力で、ウェストバームの称号を継いだのではないと言うことだ」
マルクスの言い回しは、まるで「汚れ物に触れなければならない」といった、嫌悪感に充ち満ちている。
「そうだろう。戦士として称号を継げば、有事には先陣を切り、兵士達の支柱とならねばならぬ。父上としては大事な義兄上に、大事があってはならないだろうからな。どうでも良い私なら、死んでも心は痛むまい?いや、人形にならなかった今の私は、目の上の瘤だろうな。だが言っておく、剣の腕では、義兄上は私に勝てぬ」
アインリッヒは、男口調で且つ、鼻であざ笑うように、冷淡に言い放つ。
「貴様ぁ!!」
高慢に思えるほどのアインリッヒの侮辱に耐えかね、彼女の頬を遠慮無く掌で殴りつける。拍子にアインリッヒは倒れ込む。
「殴るがいい!だが、事実は変わらない!どれだけ虐げても!どれだけ苦痛を与えても!事実は変わらない!」
アインリッヒは、強く義兄を睨んだ。以前の彼女は、床を睨み付け、この苦痛を己の意地に変え生きてきた。だが、今は跪いてはいても、視線を対等の位置においている。
そう、事実は変わらない。解っていたはずだ。事実は変わらない。戦場で兄が死んだ事実も、幾人もの戦友が死んだ事実も、後ろめたい感情で称号を父に譲った事実も、なにも変わらない。だが、その中で勝利をもたらした自分が居た事もまた事実なのである。唯一の過ちは、全ての権利と義務を放棄した事実だけである。
結果論であるが、称号は彼の手に戻ってきた。彼の父はそれを知っていたのだ。順当に行けば、称号は必ずザインの元へと戻ってくることを。父が健在であろうとも、何れは、彼の手にエンブレムは、戻ってくる。そして今、胸の内ポケットに、その証が眠っている。
「寝たのか。あの男と……」
マルクスが、興奮した己を押さえながら、卑劣なことを口走る。そして、身体の奥まで探るような、卑猥な視線を送る。アインリッヒは、瞬時にあの狂おしい一瞬を、身体に呼び戻し、その一言で辱められてしまう。彼との愛を汚された感覚を覚える。ザインの腕の中での、ありのままの自分を想像しようとしているマルクスの視線に、気が狂いそうになった。
「出逢って、何分で寝た?貞操の緩い部分は、母親譲りか……」
「黙れ!」
「お前は所詮、金を得るための道具だったんだよ。ま、その張本人も、今や墓の中……か」
「母は、そんな人ではない!!父のことを棚に上げ、良く言えたものだ!」
「バカを言え。庶民など、誇り高き貴族の戯れの道具にすぎん。それを色恋の数に、数える事の方が、笑止千万!」
マルクスが、尚アインリッヒを見下しにかかったそのときであった。
「思い上がるな!」
二人の対立に、ザインが割って入った。差別的な見下しに、堪忍袋の尾が切れた。
「それに、俺の大事なアインを殴ったのも許せねぇ」
「ユリカ……」
愛していると言ったザインの言葉より、遥かに明確な愛を感じる「大事」と言ったザインの言葉。アインリッヒを見つめたザインの目が、ニコリと微笑む。
「当家の問題だ。他言は無用」
「しらんね。なんなら直接身体に聞いてやってもいいぜ」
そう言い放ち、挑発的にマルクスを睨み付けるザインに、彼はビクリと身体を振るわせる。剣を極めている者ならば、その強い気に、押されずにはいられない。
たったひと睨みである。
それだけで、マルクスは腰を抜かしてしまったのだ。そんな彼の前から、座り込んでいるアインリッヒを抱き上げ、二人の愛の巣へ足を運ぶザインだった。
「今夜は、寝かせない」
ザインの首にしがみつくように、彼に抱きついたアインリッヒは、その耳元でささやく。
翌朝。彼らはサウスヒルを発つ。相変わらずエスメラルダの背に乗ることの出来ないザインは、ロードブリティッシュの手綱を握っているアインリッヒの腕の中で、だらしなく寝ている。硬い鎧の肩口で涎を垂らして寝ている彼を見る度に、アインリッヒはクスリと小さく微笑む。
「全く……、敵の目が絶えず我々を見ているというのに、暢気な奴だよ。ザインは。それからロカ!」
「は?」
何だか目の下に隈を作っているロカに対し、ロンがその不摂生ぶりを指摘する。
「ふぉっふぉっふぉ……。ええのぉ若い者は」
笑って、情熱のままに、昼夜を忘れて暴れ回っていた若き頃の自分を思い出し、笑い出すジーオンだった。
唯一仮面で表情の解らないアインリッヒだったが、彼女も欠伸を連発していた。そして、陽気の良さに次第にコクリコクリと、首を傾げ始めた。少し前屈みになり、丁度良くザインと支えあう形で、眠りに入る。
「器用な奴らだ……」
更に呆れるロンだった。
夕刻になる頃、彼らはサウスヒルと、エピオニアの中間距離にある集落に到着する。中央やその東西からの街道は、この一本のため、集落もある程度大きなものとなっている。もう、街として認められても、不自然ではない規模となっていた。
宿にある酒場で、一杯飲みながら、すぐ目の前にあるエピオニアについて、話すことになる。
「エピオニアに入るまでに、検問があるらしいぜ」
情報を収拾してきたザインが腰を掛け、ジョッキのビールをグイッと飲みながら、ぽつりとそんなことを言う。庶民言葉の彼だから、当たり障り無く周囲から情報を得ることが出来たと言っても、過言ではなかった。
「検問か、王はその様なことを言ってはいなかったな」
ロンは鯣を食べながら、日本酒をやっている。少し酔いが回っているので、頬が赤くなっている。
「考えれば、詳しい内容は先遣隊に聞けってのも、変な話だな」
一方アインリッヒは、その鯣が珍しいのか、食べようとせず、指先で摘んで観察している。
「内部情報は、なかなか持ち帰れませんよ。連合国と言っても、何処の国も、内政干渉はイヤですからね。それが知れたときは、互いへの不信感で一杯になりますよ」
ロカはカクテルを飲んでいる。感じからしてブルーハワイと言ったところだ。
「ロカの言う通りじゃな。下手にエピオニアを出入りするより、エピオニアで待機しておき、我々の到着を待つ方が得策かもしれん」
ジーオンも日本酒を飲んでいる。横からロンの頼んだ鯣を横取りしている。
「御老体。何で私の鯣を取る?ほら、アインリッヒも返せ」
見る見るうちに減って行く鯣が気になり、ケチ臭いことを言うロンだった。
「はは!アイン、くっちまえ!」
ザインも細く切られたロンの鯣を拳一杯に取り、一気に口に放り込み、それからグチャグチャと噛み始める。そして、ビールをもう一度グイッと飲み干した。それを見たアインリッヒが、手にしていた鯣を口に放り込み、奥歯で噛み始める。
「なかなかの珍味だが、硬いな」
口の中でクチャクチャいっているが気になるが、なかなか落ちない味わいに、それを止めることが出来ない。
「んでもって、比奴をグイッと飲む!」
ザインはジョッキに半分ほど残っているビールを、アインリッヒの前に尽きだし、ニッと笑う。そして、アインリッヒは勧められるがまま、それをゴクゴクと飲む。そして、空になるまで飲み干した。
「ふぅ……」
ビールを体験したことのないアインリッヒは、頬をすぐに赤くする。彼女は未成年だが、それを知っているのはザインだけだ。だが、ザインにとっては、どちらでも良い。ロンが知ったら、恐らくアインリッヒの飲酒は止められているに違いない。
「アイン。鯣は?」
飲みっぷりは良かったが、それ以外はどうなったのか、気になったザインだった。
「一緒に飲み込んだ」
一瞬、全員の目が点になる。それから、一気に吹き出すように笑う。
「何がおかしい?」
アインリッヒは、皆の笑い方に、ムキになって、そう言って意見を求める。
「バッカだなぁ!良いか、鯣ってのは、ほらレッスンワン!」
ザインは、適当にロンの鯣を摘む。
「あ、ああ」
アインリッヒはまねをする。
「レッスンツー」
ロンは、鯣を口の中に放り込む。アインはまたもや真似をする。
「レッスンスリーです」
ロカが口の中に鯣を放り込み、暫くクチャクチャと音を立てて、鯣の良さを引き出す。もちろんアインリッヒも真似をする。
「レッスンフォーじゃ。此処で乾き気味になった口と、鯣の味が十分に出たところで、鯣と含み気味にした酒を口の中で混ぜる」
澄ました顔をしながら、鯣を味わうジーオン。アインリッヒはその表情まで真似をする。ザインにはそれがおかしくて、クスクスと笑う。
「なるほど、益々珍味だ」
アインリッヒは至って真剣だ。それがおかしく、更に皆でカラカラと、笑う。
「ローダム様御一行でございますね」
柔らかくなりつつあった雰囲気を壊すかのように、生真面目で落ち着いた声が彼らの耳に入る。声の主はジーオンの正面に立つ。民間人の服装をしているが、男は、明らかにそうでない雰囲気を持っている。だが、殺気や神経の高ぶりは見られないことから、敵でないことは十分理解できる。
「何用かな?」
己の名を呼ばれたジーオンは、自分がそうであると名乗る。
「私は、こういう者ですが」
彼は胸元のポケットからパスを出す。それは、クルセイドのパスで、その記載内容から、彼が王城に勤める兵であると解る。偽物ではないようだ。恐らく王が言っていた先遣隊の一人だろう。話ではエピオニアでの待ち合わせだが……。
彼が、何かのセールスマンのような言い回しをしたのは、それが周囲にばれないためだ。服装といい、念の入った真似だが、スパイ同然の行為を行っているため、それもやむ無しである。
「解った」
ジーオンが立つ。それにあわせ、他の者も立つ。そして、酒場などで賑わう集落の中心から離れ、街道との際にまで来る。もしエピオニアの兵士がいて、話が漏れては、拙い。人の気配が十分に、無いことを確認する。
彼らは、自分たちしかいない事を確認した後、少しひんやりとし始める、闇夜の中で話し始める。
「予定では、エピオニアでの待ち合わせでしたが、入国の際の検閲が此処数日特に厳しくなり、恐らくこのままの入国は、望めないものと思われます」
と、兵士が言う。
「なるほど、では、詳しい指令を聞かせて貰おうか」
ジーオンが草場に腰をおろす。こういうところが、やはり年寄り臭い。
「ご承知であると思われますが、エピオニアは今、急速な軍備増大を図っております。今の状態では、国民生活に支障をきたすのも、時間の問題かと……」
「軍備増大ねぇ、なら、どうして、中央からのお偉い大臣が直接警告しない?」
と、この任務に今一、疑問を持つザインだった。
もちろん皆少し、譜に落ちない部分はあるが、口に出すほどのことはないと思っていたが、ザインは少し違うようだ。
「国王のお考え、我々が疑問に持つことではありませんので……」
国王の考えという弁解で、彼は、これに答えかねた。本当に疑問に思っている様子もみせない。
「ザイン君。それは、あとに置いて、詳しい内部事情を聞こう」
ジーオンはザインを否定はしなかった。まずは話を本筋に戻す。話の腰を折ってしまったザインも、申し訳なさそう思いを、はにかんだ笑みに変える。
「中央に対し、妙な緊張感があるようです。国民にはまだ、顕著に現れてはいませんが、王城周辺の貴族達には、小さいながら囁かれています。残念ながら城の警備は厳しく、確固たる証拠を掴むには至っていません」
エピオニアの国家思想の情報は今一曖昧だった。ただ、中央に対し緊張感がある、そして、軍備増大を図るていることから、侵略に対し、かなり意識過剰だ。
「国王はその様な話はされなんだが……」
エピオニア侵略に関し、ジーオンは首をひねる。それほどの話があるなら、自分の耳に届くはずである。侵攻侵略となれば、可成りの人間が動くので、耳を澄まさなくとも、情報は入る。
「どちらにしろ、我々はエピオニア王に接見する必要がある。それに、五大雄の称号を持つ我々が、検閲で足止めされるとは、思えないが?」
ロンは、慎重すぎることに疑問を持つ。
「逆だぜ、俺達は戦争で称号を得た人間だ。いわば戦闘のプロの家系。そんな奴が五人も、中央からエピオニアに入るとなれば、当然エピオニア王の心情は穏やかじゃなくなる。このまま入国ってのも、まずいな」
ザインは、ロンの前に立てた人差し指を数度横に振り、彼の考えを軽く否定する。
「ですから、私めが、お迎えに上がってのでございます。馬車を二台用意しています。片方には、あなた方が乗り込み。もう片方に、貴方方の装備品を隠し、私が入国します。さすれば、少なくとも見た目には、あなた方に戦意はないと……」
兵士は、淡々と説明する。
「待って下さい、私たちは元々、戦闘目的でエピオニアに……」
兵士のいかにもそうであるかのような発言に、ロカは少し腹立たしげに、眉間に皺を寄せ、これを否定した。怒る彼は本当に珍しい。
「もし、エピオニア王が、中央に従わない場合、強制排除……か?」
しかし、そんなロカの横から、ザインがズバリと切り込んだ。兵士は頷かない。だが、彼の発言内容から、それ以外取りようがない。それならば、先ほどザインが言ったように、高官がするべき仕事である。だが、未だ何かが引っかかっていた。わざわざ互いの疑念を強めるような遣り方に疑問が残る。
「兎に角、エピオニアに入国せねば、事は運ばない」
アインリッヒは、積極的に物事を前に進めようとする。特に結果を予測しての行動ではないが、此処で溜まっていても、埒が明かないことに皆頷く。それぞれの馬は、宿に預けておくことにし、兵士の用意した馬車で、早速エピオニアに発つことにした。今から行けば、明朝には着くはずだ。検閲のことを考えると、それがベストである。中央の兵を目の前にして、「明日にしよう」とも言い難かったのは、言うまでもない。
「アイン!早くしろ」
「やはりダメだ。このような格好、私には出来ない!」
部屋のドアを挟み、ザインとアインリッヒが、大声を出し合う。じれったくなったザインは、強制的にドアを開ける。
「あ……」
そこにはすっかり貴族の女性らしい服装をしたアインリッヒが立っていた。ほんのりと薄く施された化粧、上品に開いた胸元から、彼女の美しく白い胸の谷間が覗いている。そして、ヒラヒラと靡くスカートが、彼女の足の美しさを醸し出している。
「ホラ、もったいねぇぞ。こんないい女。いつまで埃の中に埋めておく気だ」
彼女が美形であることは承知していたが、益々彼好みに仕上がったアインリッヒに、もう頭をクラクラとして、理性が飛んでしまいそうになった。女性らしい格好に、躊躇いと恥じらいで、不安な顔をしている彼女がまたたまらない。腕の中に抱き、守ってやらずにはいられなくなる。そして実際に彼女を抱きしめていた。
ザインにこうされてしまうと、アインリッヒも満更でもなくなる。だが、一つだけ言っておきたいことがある。
「ユリカは、剣士としての私と、女である私の、どちらが好きだ?」
「陽は何人のために輝き、大地は何人のために存在し、海は何人のために水を蓄え、風は何人のために舞うのか……」
ザインは直接答えず、ロイホッカーの詩を持ち出し、逆にアインリッヒに、コレを問う。そしてこの詩には、未だ続きがある。
「何人もその問いに答えることかなわず。だが、その存在がなければ、我々はこの問いに悩むことすらかなわない」
アインリッヒは、詩の続きを言う。自分がザインにした質問が、愚問であることに気がつく。抱き合った二人が、軽く唇を重ね始めた時だった。
「おい!出発するぞ!」
ドアの外にいるロンの呼びかけが、せっかくの雰囲気を壊す。なかなか姿を現さない二人に、イライラしているのがわかる口調だ。短気だとは言わないが、彼は少々せっかちな部分が見受けられる。
アインリッヒに触れていたいザインが、残念そうに彼女の背から手を離す。アインリッヒは、背から離れたザインの腕に絡み、リードして歩く。
宿の外に出ると、ロンとロカが目をパチクリさせて、アインリッヒを見る。反応としては、ザインと同じだ。磨きの掛かった美しさに唾を飲んでしまう。
「馬子にも衣装ですか」
ロカがこう言うと。
「ああ、その通りだ」
ロンも呆然とした声で、そう言う。アインリッヒには、囁くような二人の会話が解らなかった。
今一度アインリッヒを見たロンは、その女ぶりに、ごくりと生唾を飲んでしまう。
「あまり、じろじろ見ないでくれないか……」
恥じらったアインリッヒが、頬を赤らめながら、ザインの腕に顔をつけ、横目で二人を見る。心境の変化である。女視されている事に腹が立たなくなっていた。そこにザインという存在があるせいでもある。
彼らが乗り込んだ馬車は非常に立派で、明らかに貴族階級であると、周囲に知らしめるような装飾の施されたものだった。利用されている木材の色艶も、庶民が目にかけることが滅多にないほどもので、高級家具のようなウッドブラウンが、上品さを醸しだし、木目の美しさを引き出している。
そんな馬車の運転は、兵士の仲間がしている。一級貴族一行という雰囲気だ。民間人に比べれば、入国は容易い。用意された馬車も広めで、五人くらいは悠々と座っていられる。ただ、眠そうな欠伸をしているザインの昼寝場所には、少々手狭である。
馬車の中でも、彼らの視線は、何かとアインリッヒだった。若く美しく、気高く凛々しいアインリッヒは、凜と咲く一輪の白バラで、非常に高貴なものを感じる。
そしてただ気高く触れがたいだけではなく、其処には愛を知った者が持つ、フンワリとしたオーラも少し垣間見ることが出来るのだった。
ロンとロカの注目を浴びているアインリッヒだが、彼女の席は、ザインの膝の上だ。視線を感じながら、ザインの胸にすっかり甘えている。
「そうしていると、お主等夫婦みたいじゃの」
と、ジーオンがあまりに中の良い二人を茶化す。ホッホッホッとした笑いが、馬車の中に、広がる。
「もう、契りはかわしている。当然だ」
非常に自信をもった言い回しをするアインリッヒに、馬車内はシーンとなってしまう。よく言ったものだと、妙な関心が、アインリッヒに集まる。言った本人も己の信じられないほどの大胆な一言に、より顔を赤くする。だが、気持ちはスッキリしていた。彼女は、相変わらずザインの胸に甘え、うっとりと目を細めている。
他人の体温が心地よいものだと言うことを、アインリッヒは思い出したのだ。生活は苦しくとも、母の手は温もりがあった。愛の形は違うが、ザインの腕の中は、それと同じくらいに心地よい居場所だった。
改めて、居場所とは物資に恵まれただけのモノではないと、知ることが出来た。ウェンスウェルヴェン家は、彼女にとって生きる糧ではあっても、居場所とはほど遠い場所なのだ。
一日経ち、朝を少し回ったところだ。エピオニア国内に繋がるゲート前で、馬車の行列が出来ている。ザイン達の馬車は、その最後尾に着く。そしてその後ろに、自分達の荷物が収められている馬車が着く。ロンは御者席にいる。
馬車の運転は引き続き、市民に扮装している兵士が行っているが、ロンがそこにいるのには、室内では、アインリッヒに膝枕をしてもらっているザインに、片側を占領され、もう片方は、ロカとジーオンが座っており、窮屈ではないにしろ、男三人が横に並ぶという構図に抵抗を感じたからだ。仲睦まじい二人にに当てつけられるのもイヤだった。
ロンは、胸元に手をつっこみ、一つのネックレスを取り出す。ゴールドチェーンに、小さめのダイヤの埋が込まれたシルバーの指輪が通されている。結婚指輪だが、過去に一度落として無くしそうになったことから、今では、首に下げている。
〈直に帰る。アルフローネ……〉
妻を娶ったのは、五年前だ。見合い結婚だった。最初は、貴族同士の政略の色が濃かったため、互いに敬遠をしていが、周囲に対するロンの暖かさに、彼女の方が次第に惹かれていったといった具合だ。気がつけばいつも彼女が、自分の後ろに着いていて、もう少し気がつくと、そんな彼女に愛着を感じ、今となる。
ネックレスを無くさないように、チェーンに通してくれたのもその妻だ。
「此処からが正念場だ」
ロンは、再び胸の中にレックレスをしまう。
一時間ほどしたときだ。彼らの馬車が検閲を受ける番となる。ザインは相変わらず寝たままだが、彼を起こすまでもなく、ジーオンがその場を仕切る。まず最初にするべき事は、スタークルセイドのエンブレムを、彼らに提示する事だ。コレで恐らく、何時間も経たない間に、エピオニア王に自分たちの存在が知られるだろう。だが、此処で最も重要な部分は、その服装である。貴族服に身と包み、一切の武器防具を所持していないことだ。自分たちに戦意がないことを示すのだ。
「ご無礼は承知ですが、特視するわけには行きませぬので。荷を改めさせていただきます」
エピオニアは、恐縮そうに申し出る。五大勇に非礼があれば、それこそ全面戦争となり兼ねないのだ。それでも彼らだけで、国一つを落とせるとは思ってはおらず、その先導役とならぬよう、十分に注意を払わなければならないと、彼らは考えている。
「良かろう」
此処でジーオンは少し演技臭く渋い顔をした。いかにも失敬だと言いたげなその表情に、エピオニアの兵はたじろいでしまう。だが彼らの役務のため、渋るジーオンに気を遣いつつ、此に取りかかる。兵士の顔が見えなくなると、ジーオンは急に顔を崩し、ボケッとした様子で、鼻を小指で穿りだす。
「老体……お下劣です」
「ホホ……」
彼らの存在が明確になった時点で、周囲は俄にざわめき立つ。
「これ、ザイン君。起きぬか」
ジーオンが鼻くそを穿った手で、ザインの肩を揺すって起こす。鼻を穿ったときのジーオンの顔より、更にぼけた顔をしたザインが、頭に凄まじい寝癖を着けて、ムクリと起き出す。
「ん?ついたのか」
「着いたも何も、この馬車が検閲を受けているのです。それに兵達が騒がしくなっています。にしても、自分だけ寝るなんて、ずるいですよ」
ロカが説明ついでに、文句を言うが、ザインはボケッと外を眺め、全く聞いている様子はない。
「寝とけ」
それから、ザインは、今までお尻を向けていた場所に座り、アインリッヒの頭を、強引に自分の膝上に寝かせる。アインリッヒは驚いたが、何も言わずザインに従い、そのまま彼の膝上で眠りにつく。ザインの太股に掛かったアインリッヒの手が、彼女の気持ちをよく表現していた。
「ロカもお爺ちゃんに甘えるかい?」
「要りませんよ!!」
下らないぼけと突っ込みをするジーオンとロカだった。荷物はさほど大したモノはない。もちろんそれらの荷物は、用意されたもので、もともとの彼らの持ち物ではない。不審に思われないよう、全て兵士達が段取りしてくれたものである。
荷物の量から考えても、検閲もそろそろ終わっても良いはずだと、誰もが感じていた。
だが、馬車は進まない。恐らく大臣クラスの人間が迎えに来るのを待っているのだろう。後方の馬車、つまり、彼らの武具を隠している馬車が、横を通り過ぎて行く。あちらの荷も無事なようだ。それにしても、沢山の干し草だ。良く集めたモノだが。兵士が検閲を嫌がる荷の一つだ。台車に一工夫すれば、上げ底も解らない。
五大勇一行様に手を取られているため、庶民のつまらない検問などに、時間を費やしている場合ではなかくなったのだ。
それに厳しい検閲で、基本的に物流にも支障がで始めているというのが、尤もな問題点でもあった。
可成り待たされる。御者席のロンが痺れを切らし、忙しなく爪先をトントンと、床に叩きつけて、苛立ち始める。その時、正面の方から、こちらへ向かってくる馬車の音が聞こえる。馬のひずめの音も聞こえる。なにやら音の重厚さが違う。音がいかにも立派なのだ。石畳に非常にマッチした音といえるだろう。
「やれやれ、儂の出番は未だ終わってはいなかったようだの」
急に老け込んだジーオンがゆっくりと腰を上げ、馬車の外へ出て行く。その頃には、こちらの馬車より、更に贅沢な馬車が、正面到着していた。そして服装と勲章をつけ、いかにも大臣と言わんばかりの、黒々とした口ひげを生やした一人の中年が、ジーオンの前に立つ。
「コレはコレは、スタークルセイド殿ともあろうお方が、突然訪問なさるとは……」
彼は、ジーオンにしか気がついていない様子だった。エンブレムを見せたのはジーオンのみであったため、彼だけがエピオニアに訪れたと勘違いをしたらしい。。
それにしても、かなりの気の使いようだ。額にうっすらと緊張の汗がみられ、愛想笑いの顔が引きつっている。ジーオンしか視界に入らないようで、御者席のロンすら無視されている。五大雄に政治等の絶対的権力は無いが、英雄であるため、その地位は、分別上、大臣より上である。国王との接見も容易であることから、政治的立場でしか国王と接することの出来ない大臣とは、レベルが異なる。無礼な態度は許されない。彼はその事で非常に緊張している。
「うむ。話は後にしよう」
ジーオンは、既に、正面にある馬車が自分たちの送迎であることを把握している。
「そこに居られるのが、ロン=スー=チー=イーストバーム、車内にアインリッヒ=ウェンスウェルヴェン=ウェストバーム、ユリカ=シュティン=ザインバーム=ノーザンヒル、ロカ=アリューウォン=シャイナ=サウスヒル殿が居られる」
「まさか!五大雄が揃って居られるとは……」
大臣は、彼らが全員揃っていることに、腰を抜かして驚く。エピオニアの感情としては、五大雄の来訪は、警戒すべきモノであるが、しかし同時に憧れでもある。感動の眼差しが、ジーオンに向けられるのだった。
興奮を隠せずにはいられない。彼の個人的な感情が、先走る。だが、自分が大臣であると言うことをすぐに思い出すと、さりげなく咳払いをし、冷静さを取り戻す。
「さぁ、皆様、こちらの馬車へ……」
彼らは、もめ事を極力減らすため、やむなく、その馬車への移動をする事になる。豪華な馬車だ。荷は、彼らの乗っている馬車に積まれたまま、後方から着いてくる。庶民が一生乗る事も出来ないような馬車が、荷馬車扱いである。
しかし、この送迎には、二つの意味があった。一つは彼らを迎え入れると言うこと。もう一つは、彼らをエピオニアの監視下に置くと言うこと。
恐らくこのまま何処へも立ち寄らずに、城内へ行くのだろう。それだけエピオニアは、中央を警戒しているという事である。だが、問題はその理由である。兵の話では、中央に対する危機感だという事だが、火のないところには煙は立たないはずである。
エピオニアの中心に近づいた頃、ザインの膝の上に、頭を寄せて眠っていたアインリッヒが、目を覚ます。眠りが浅くなったことと、自分の体勢が変化していたことに気がついたせいである。車内の雰囲気が変わっていることにも気がつく。
「ユリカ?」
「大丈夫。寝てろ」
不安げなアインリッヒの肩を抱き、頭を抱き寄せ、彼女の髪を何度も撫でる。一度は目を覚ましたアインリッヒだったが、ザインに触れられていることが心地よくなり、再び眠りにつく。
次に、アインリッヒが目を覚ますと、そこは部屋の中で、自分はベッドの上に寝ていることに気がつく。横にはザインは居ない。その事に気がつき、ベッドから飛び起きると、その横にあるソファーでは、大欠伸をしているロンが居た。ロカも居ない。
「ユリカは?」
「ふぁぁ、奴さんなら、御老体と一緒に、エピオニア王に接見してる。ロカはメイドを口説いてる……」
ザインが、自分を放ってどこかへ消えてしまったのではないことを知ると、アインリッヒはホッとした顔をする。その表情の変化は、ロンにも良く解る。安心した柔らかなその顔に、ロンが思わずこんな事を言ってしまう。
「彼奴の何処が良いんだ?」
ロンもザインが嫌いではない。同じ質問をされれば、愚問であると言いたいくらいだ。夜盗とやり合ったときに、交わしたあの一言が、ロンには忘れられない。それに何となく気があう。アインリッヒと部屋に隠りっきりになったときにも、どうしようもない奴だと思いながらも、憎めないと思った。どさくさに紛れて麻雀台を転かしていったことも、忘れてはいない。それも憎めない。
「ユリカは、こう言ってくれた。私は女でも良い、剣士でも良い。そして、こうも言った。陽は何人のために輝き、大地は何人のために存在し、海は何人のために水を蓄え、風は何人のために舞うのか……」
「へ、へぇ……」
しかし、ロンは濁した返事をする。ロイホッカーの名は知っているが、詳しい事は知らない。
「で?」
結局何が言いたいかは解って居らず、こう言ってしまう。その返事が、彼がその意味を理解していない事に気がついたアインリッヒが、仕方が無さそうに、だが、嬉しそうにこう言った。
「陽は何人のために輝き、大地は何人のために存在し、海は何人のために水を蓄え、風は何人のために舞うのか、何人もその問いに答えることかなわず。だが、その存在がなければ、我々はこの問いに悩むことすらかなわない。……つまり、私は私のために存在し、誰もそれを拒むことは出来ない。その理由付けは、他人が決めるものではない。私が女であるにしろ、剣士であるにしろ、最も大切なことは、私が存在していること。ザインは、私自身が必要であると言ってくれたのだ」
本来は、自然を蔑ろにしがちな人間達への問いかけてある。自然は誰のためであるのか、まずこの問い自体が、愚かなことである。自然は自分たちの所有物ではないと言うことだ。誰のための自然であるかという事を考えることは、無意味に等しい。自然が無ければ、自分たちの存在もあり得ない。そこに自然があるという事実が、まず大事なのである。人間はその恩恵を受け生きている。その事実を忘れてはいけないということなのである。
簡略すると、自然は人間達が生きるために、必要であると言うことである。
「……な、なるほど……ね」
アインリッヒにそう言わせたのが自分であることを、すっかり忘れ、詩の解釈に納得するロンだった。平民出という割に、詩人の詩を引用するなど、なかなか細かいところに気を回しているザインに、妙な憎々しさを感じるロンだった。アインリッヒに再び目をやると、彼女は詩の内容にウットリとし、恥じらいを持って、人差し指をベッドの上に、モジモジと擦り付けている。
〈上手くやりやがったなぁ……〉
すっかりザインに惚れ込んでいるアインリッヒに、心の中で一言呟くロンだった。
二人がそうしている間、ジーオンとザインは、国王、そして大臣達と顔を付き合わせ、エピオニアの軍備増強の原因について、話し合っていた。
エピオニア王がいう。
「そもそも。中央という表現が、納得行かぬのだ。元々我々は連合国家であり、国家間の立場は平等であらねばならぬ筈。この七年間、クルセイドの力は、確実に増している。中央と呼ぶようになったのもそのころからであるが、五大雄殿は、どの様にお考えか?」
「確かに、国王の応せらるると通り、中央という表現には多少の語弊があると存じ上げますが、それはあくまで、便宜上のものであり、しかし事実、各国を纏めているのは、クルセイドでございます。そして、エピオニアも我らが連合の一角、今まで蔑ろにされた事実は、ございますまい?」
と、ジーオンが素早く反撃に出る。互いの言い分は正しいが、ジーオンの方が、より明確な発言だった。
「むぅ……」
エピオニア王は少しやり込められた感じで、声を低くして、立派な顎髭を丹念にさわる。王は、後方に飾られている紅のカーテンの方に、屡々視線を送る。
大きな木造のテーブルを囲んだ大臣達は、その事に気がついていないようだが、正面に座っているザインとジーオンは、すぐに彼の妙な仕草に気がつく。
こう言うときは、大抵、国王の知恵袋になる魔導師が居る。兼ボディーガードでもある。国王の様子だと、可成りその人物を信頼しているようだが、それは逆に国家にとって非常に危険な要素であるといえる。
ジーオンもそうであるが、彼は国王に信頼されているが、個人の国家征服の野心がないため、クルセイドは現在非常に安定している。
国王が自らの判断を他人に委ねる事は、国にとって大事だ。如何なる理由があろうとも、言を発するのは国王なのである。誰に思考を委ねようとも、その最終決定権が己にあることを忘れてはならないのだ。
大臣達も小声で話し始める。あくまでも個人の見解のやりとりだ。直接国王に意見しているわけではない。
〈おかしいなぁ、俺達を監視していたとすれば、ある程度の段取りは、出来ていそうなもんだが……〉
もたついている彼らを見て、ザインは首を傾げた。それからジーオンの方にチラリと視線を送る。それを感じ取ったジーオンも視線を返し、そしてもう一度正面にいる国王を見る。
その時、エピオニア王が言う。
「しばしの休憩を挟もう。スタークルセイド殿も、ノーザンヒル殿も、お疲れのようだ」
国王の独断的な発言である。それ以上何も言わず、席を立ち、彼の右後方にある入り口へと、姿を消して行く。それを見た大臣達も、ゾロゾロと別口から出て行く。
「さぁ、お部屋に案内します」
女中が現れ、ザイン達は、ロン達の待っている部屋へと案内される。ザインの予想とは違った反応だった。少しイラっとした感情が、眉間の皺になる。此処では監視の目だらけだ。迂闊なことは言えないが、何も言わないわけにも行かない。部屋に戻るまでに考えを纏めておくことにしておく。人生経験の豊富なジーオンは、そんなザインを宥めるように、三度ほどに分けて、軽く肩を叩く。
「ユリカ!」
部屋に帰るなりいきなり、アインリッヒがザインに飛びついてくる。アインリッヒの体重が、完全に彼の膝に乗り、蹌踉けてしまうが、どうにか転ばないで済んだ。
「で、どうだったんです?」
部屋にはロカも来ていた。収穫の程をジーオンに尋ねるが、ジーオンは首を横に振り、あまり進展がなかったことを示す。ロカは小さく溜息をついた。
場所は国王の私室に移る。王は、直立したまま、同じように直立した魔導師と、少し距離をあけ、正面に向き合う。彼らの距離は、つかず離れずといいった雰囲気で、それは国王が冷静さを意識しようと、とった距離でもあった。
しかし本来王は座し、仕える者は額づくべきなのだ。既に両者の立ち位置は、狂い始めている。
「アーラッド。そちは、中央の政策は、この国を滅ぼすと言っておった。確かに他国は中央を支持し、その力は強大さを増しておる。戦後から比べその成長は著しい。しかし、五大雄殿の言われたとおり、それがこの国に災いをもたらすというのは、やはり如何なものか?」
王は真剣だ。彼もまた自ら良き王とあらん事を願い、日々心血を注ぎ、国政を担おうとしているのだ。
「国王、何処の国が、侵略の前にその事実を他国に仄めかすでしょうか?互いの国に、兵を潜り込ませ、互いの国を監視しあっているのが常識であるように、高官を使い自国の安全性を他国に示すのも、戦略の一つでございます。五大雄は、いわば中央の飼い犬!そして、一人が一万の兵に相当する実力者ばかり……、彼らの存在が既に、この国を滅ぼしかねない存在なのでございます!」
言葉に大げさな抑揚をつけ、自分を信用しきっている国王を、最もらしく説得するアーラッドだった。
黒いフードのため、少し表情は捉えづらいが、彼の年齢は、ロンより僅かに上であるようだ。だが、七年前の戦争では、さほどの活躍は見られない。二年前に、頭角を表し、見る見る国王側近の魔導師となった。
アーラッドは、椅子に座り、目を閉じ、テーブルに置かれている水晶に念を送るような仕草で手を翳し、一つ呼吸を置く。
「黒い陰が見えます。このままあの者達を、放置しておくのは得策ではございません」
「だが、このまま他国と対立するのは、得策ではあるまいて……」
国王は、眼前に戦争という二文字が突きつけられ、ひどく決断を渋っていた。アーラッドの過激な発想に、少し引き気味になってしまう。
一方、一つの部屋に集まったザイン達は……。
「変だぜ、こう食い違ってねぇか?中央の言い分と、エピオニア王の言い分……」
ザインがイライラを堪えきれず、ぶちまけるように全員に意見を求める。目の前の空気を立体パズルを組み立てるような仕草で、説明のつかない歯がゆさを表している。
「確かに二人に話を聞く限り、私も少し変だと思う。我々はエピオニアに対し不安を持つ中央に、この任務を与えられた。それがいざ着いてみると……」
ロンも顎に手をやり、頭を痛くする。
「クルセイド国王は、私たちに何を期待されたのでしょうか……」
ロカはウンザリした溜息をつく。
「エピオニアの危険思想のためではなかったのか?有事の際ならば、我々なら最小限の破壊で鎮圧できる」
筋としてはアインリッヒが最もらしいが、それではまるで最初から有事になることを、知っていたかのようだ。出発前には、国王は一言もその様なことは言っていなかった。「指示は先遣隊に……」と言っただけだ。
「もう一つ問題なのは、俺達を見張っていた輩は誰だって事だ。あの様子だと、エピオニア王じゃない」
「ザイン。まずいですよ!結界は張っていませんよ」
ロカが慌てふためく。
「良いんだよ。あの時点で、『其奴』が何か目論で居ることに感づいた俺達への、先手を取られないようにするため、事を起こすのを防ぐために結界を張ってもらったんだ。計画は順調に行っていると思わせたかった。いくつか手を討ってはいたんだろうが、その当てが外れただろうぜ。現に俺とアインは生きている。要は、何らかの形で、五人いちゃ拙かった……、て所かな」
ザインは、ベッド上に大の字になる。そしてベッドに腰を掛けていたアインリッヒを自分の方に引き寄せた。
「全く。何処の誰が狙っているのかも解らないのに、良くそこまで言えるな、お前は。大した奴だよ」
ロンが両手を上げ、完全に呆れ返る。確かに何の確証もない。その上に立った推論だ。説得力が無いのは、当たり前だ。
ジーオンは黙りである。だが、此処で口を開く。
「儂等が、此処まで来るまでに、数を減らしておきたかったのなら、『そやつ』は、間違いなくこの国にいる。しかも儂等は終着点にいる。つまり、少なくとも敵は、この城内におり、儂等を殺す期を伺っている人間になる」
ジーオンは、自分達が既に敵の懐の中にあり、警戒を怠れない緊張感を感じていた。
「だが、御老体。エピオニア王は、我々との対立を渋っているのだろう?しかも、軍備増強を図ったのは、中央からの自営手段だと……、まさか!」
ロンが一つの答えを見つけ、力一杯立ち上がる。
「国王の側にいて、その寝首を掻きたがっている人間。しかも我々が揃うのをおそれた人間……」
結論の続きを、同じようにベッドから起きあがったアインリッヒが、早口で述べる。芋蔓式に答えが出たため、全員が一瞬の興奮に身を振るわせる。
「だめだ、確証がねぇ。奴も俺達がこうやって首を揃えている間は、手を出してこねぇだろう。やれるんなら、とっくの昔に、五人纏めて殺されてるよ」
イヤに慎重なザインの意見だった。戦争になるのは誰でも嫌であるが、ザインにはその気持ちが人一倍強かった。しかも己が自ら進んで剣を振るうことが嫌なのである。兵達は、国の名の下で戦っているに過ぎないのだ。
「やれやれ、一国の王たるものが、己を滅ぼそうとしているものを側近におくとはのぉ」
すっかり状況が厄介になってしまったので、ジーオンは面倒そうに顎髭をさわる。しかしその反面、どことなく余裕がある。流石年長者と言うべき所であろうか。
エピオニア王は、休憩と言っていたが、それから、かれこれ一時間が経つ。そこに一人の使者が来る。風貌からして明らかに召使いだが……。
ノック音の後、ザインは扉を開け、彼女の持っている手紙を受け取る。役目を果たした女性は、すぐにその場を去る。
「夕食まで、ゆるりとされたし。エピオニア王」
手紙にはそう書かれてあった。つまり本日の話し合いは、少なくともそれまで行わないと言うことである。現在は昼を少し回った時間帯なので、そこまでに至るには、随分時間の余る話だ。だが、一睡もしていないジーオンとロンにとっては、丁度良い睡眠時間となりそうだ。
「んじゃ、みんなゆっくりしようぜ」
そう言って、部屋の中から皆を追い出したのは、ザインだった。もちろんそれぞれには、部屋が与えられている。だからそれぞれに散ることにした。
「はぁ。これからどうすっかなぁ」
ザインは、ベッドの上に大の字になる。
「皆で力をあわせれば、どうにかなる」
アインリッヒは、寝転がっているザインの靴を脱がし、靴下もはがし、進んで彼の胸の中に自分の身を預けた。しかし、それだけではなく、喉元にキッチリとしまっている上着のホックを外し、胸元のボタンは一つ一つ外して行く。それから、自分の衣服を脱ぎ捨て、下着一枚になり、ザインの胸元に顔を埋めた。
「アイン。お前さぁ……、やっぱ、帰った方が良い」
そう言った瞬間に、アインリッヒは身体を硬直させる。しかしすぐにザインは彼女の肩を抱きしめこういう。
「俺の個人的な感情さ……。怪我してほしくねぇ。でも、お前がいなくなると、勝てる戦いも、勝てなくなる気もする。戦闘になるって決まった訳じゃねぇが……」
ザインは目を閉じた。そして大きく深呼吸をする。馬車の中で睡眠を取ったが、所詮は仮眠だ。直に眠くなる。意識的にアインリッヒを抱いていたザインの手が解けるように緩み、ベッドの外へ投げ出されるように、ブラリと垂れ下がる。
アインリッヒは、足下に畳まれている毛布を引き寄せ、自分たちの肩に掛ける。そしてしばしの眠りに着くことにした。
「ふぁぁぁ……」
ザインは目を覚ます。必然的に柱時計に目が行く。もうすぐ夕方六時と言ったところだ。胸の上ではアインリッヒがぐっすりと眠っている。他の者はどうしているだろうか。恐らく自分流に時間を調整しているだろう。
〈今日中には、事はうごかねぇか……〉
事は動かないと言うのは、あくまでも戦闘になると言うことはないと言っただけの意味だ。
「アイン。そろそろ起きとかねぇと、飯が不味くなるぞ」
彼女を、その背から抱くようにして頭に触れ、くしゃくしゃと撫でる。頭を揺さぶられたアインリッヒは、目覚めが悪そうに瞼を重くゆっくりと開く。思考力が働くと、一瞬何事かが起こったのではないかと、目を大きく開き、上半身を持ち上げ、周囲を見渡すが、状況が、自分たちが寝た時のままである事に気がつくと、再びザインの胸の上に倒れ込む。
「なんだ。脅かすな。吃驚したぞ」
再び瞼を閉じ、眠りに着こうとするアインリッヒだった。彼女にとって彼の胸の中は、非常に心地よい寝床だった。眠ろうと思えば、すぐにでも眠ることの出来る自信があるほどだった。
「もうすぐ飯だ。起きておいた方がいいぜ」
ザインが念を押すと、何故かアインリッヒはもう一度上半身を起こし、ブラジャーを取り、ザインの胸元を乱暴にはだけさせ、胸を張りながら、ザインの胸に倒れ込み、両腕を彼の首に絡める。
「起きて、食事を待つのと、こうして触れあっているのと、お前はどっちが良い?」
彼女は態と自分の感触を彼に押しつけ、性的意識を高めさせた。アインリッヒの考えはシンプルだった。自分を感じてほしいのだ。
「こっち」
ザインの返事は単純だった。
「では、食事になったら教えてくれ」
もう一度目をつぶるアインリッヒ。と、その時、扉のノック音がする。
「ザインバーム様。食事のお招きに上がりました」
家臣らしい、男の声だ。
「解ったすぐ行く」
「残念だ」
ザインが返事をすると、アインリッヒはボソリとそんなことを言う。その気持ちはザインも同じだ。同意の意味でクスリと笑う。二人は服装を整え、扉の外で無表情で直立している正装の男の前に姿を表す。要するに執事なわけだが―――。
「こちらでございます」
表情がないままそう言われると、まるで操り人形のように思えてしまう。
ザインはこういった形式ばったのは苦手だ。ロン達との食事でも、マナーなど皆無だった。美味い食事は期待できそうだが、楽しい食事は期待できそうにない。
高給で弾力のある少し歩きづらい絨毯の上を、暫く歩いたころ、ザイン達の案内人は足を止め、一つの立派な重みのあるドアの前に立ち、ノックを三度ほどゆっくりとする。
「ザインバーム様、ウェンスウェルヴェン様をお連れいたしました」
「うむ」
落ち着いた国王の返事が返ってきた後、彼は扉を開き、二人を中に通す。
「うひゃぁ」
ザインは思わず、下品な驚きの声を上げる。
天井から釣り下げられた豪華なシャンデリアだけでも、いったいどれほどの物なのだろうかと、田舎物のように見上げてしまう。
テーブルの上にあるのも銀食器だ。もちろんテーブルの価値を考えるなど愚かなことである。壁に掛かっている肖像画も、風景画も、名のありそうな画家のものばかりだ。
部屋中が何かと煌びやかである。
食堂に入り、こんな反応をしたのはザインだけであった。遠くから、ロンが田舎者を見るような視線をザインに送る。
一見キョロキョロしているザインだったが、その実その場にいる人物全てに目を配っていた。
国王、王妃、姫君、大臣一人、魔導師、必要以上に多い召使い達、そして、ジーオンに、ロンにロカ、ザイン本人に、アインリッヒだ。大臣一人が加わっているのは、九と言う数字にどことなく縁起の悪さがあったためだろう。
長いテーブルの最も遠い両端に、国王とジーオンが向かい合うように、座っている。最も国王よりに座っているのは、ロカと王妃である。ジーオン寄りに座っているのは大臣とロンである。王妃の横には当然姫君であるが、その横が正装に身を包んだアーラッドである。あまり特徴の無いセンター分けのごく普通の黒髪の頭髪に、俄に頬が痩けた青白い顔をしているが、目を閉じていて、ザインには、彼の表情が解らない。ザインはアーラッドの前に座り、その横は必然的にアインリッヒとなった。
ザインがアーラッドの前に座った理由は、彼が国王と対話していたときに、陰に隠れていた男の気配と同じであることに気づいたからである。
〈ヤロォか、張本人は……〉
と、睨みをきかせたザインの鼻の下を、良い香りが撫でる。テーブルの上には次々と暖かい料理が並べ始められ、それらは上品に、皿の上へと小分けされている。
国王が両手を組む。恵みに対し、祈りを捧げるのだ。
「恵みの神よ。今日も暖かな食事をお与え下さることを、此処に感謝いたします」
この時にワンテンポ、リズムを遅らせていたのはやはりザインだ。祈りが終わると同時に、アインリッヒがクスリと笑う。何となく普段の彼に触れた事が出来たので、嬉しかった。
ザインは誰よりも早く食事に手をつける。一応、ナイフとフォークを使い分けているが、テンポが早い。大臣はムッとするが、姫君は、元気のある彼の食べ方に、クスクスと声をたてる。笑顔から推定すると、彼女は一六くらいだろう。
コレにギョッとしたのはロンとジーオンである。いわば敵の懐で用意された食事を、何の疑いもなくパクパクと食べているのである。
〈この馬鹿!もしもってのを考えろ!〉
ロンが心の中で怒鳴る。しかし、それが毒味になっていることから、彼も安心して口をつけ始める。
「このワインは、七〇〇年もの……、地方は、そうウェストバームだ。西海岸沿いの程良い風が、極上の葡萄を育てる……」
此処でまたザインが、こんな事を言う。
「くすくす。違いますわ。上質には変わりありませんが、そのワインは国産です」
と、大人しそうな姫君が、あまりにもデタラメなザインに、お節介を焼いてしまう。
「あ、あれぇ?そうなんだ!」
赤く色づいたグラスの中身を眺めながら、開いた方の手で、頭を掻いてみる。大恥を掻いているザインは、姫君以外のほぼ全員から無視される。この時、国王の顔が安堵感に満ちた顔に変わる。
恥を掻いたはずのザインは、ニコニコしている。
「ほら、ユリカ。仕方のない奴だ」
一寸した口の汚れだが、アインリッヒが、コレを気にする。
「よ、よせよ……ガキじゃねんだって」
「じっとしていないか……、みっともないぞ」
アインリッヒは、逃げるザインの頭を逃げないように押さえ、ナプキンで彼の口元とを整えようとする。とても、出会った頃のアインリッヒからは、想像もつかない行動だ。今まで塞き止められていた愛情が、たくさんに彼に注がれている。そんな、アインリッヒの視線がザインを捉えると、ザインは抵抗をやめる。元々あったのは照れくささだけだった。
そんな二人の送り合う視線が、姫君にはとても暖かくステキに映ったことだろう。王は、我が娘の楽しそうな顔を、己の判断材料に加えることにした。
ナプキンを押しつけられたザインの顔が、軽く左右に振れる。
口を拭いて貰ったザインは、照れながら、アインリッヒにニコリと無邪気な笑みを見せる。すると、アインリッヒもコクリと頷く。
「へぇへぇ、仲の良いこって……」
ぶすっとしたロンが、ボソリとこんな事を口走る。自分は妻と離ればなれなので、何だかお預けを食らっているようにしか思えてならない。が、ザインもアインリッヒも、彼に妻がいることなどはまるで知らない。お構いなしだ。
その夜。身体を使っていないせいか、あまり寝る気のしないロンの部屋の前に、エピオニアの兵士姿の数人の男が、周囲の気配を気にしながらやってくる。周囲の明かりは既に消されており、明かりを持ち歩かないと、壁に頭をぶつけてしまいそうな程暗い。その内の一人がノックをする。
「起きているぞ。入れ」
ロンは相手を確認せず、簡単に言う。
「ロン様」
一人の男が部屋に入ると、室内の明かりが、彼の顔を照らす。それは、自分たちの装備品をこの国に持ち込んだ、あの兵士だ。城内に侵入してきたのだ。兵士の服装を何処で手に入れたかなどどうでも良い、何故彼が此処にいるかが、問題である。
「どうやって?まあいい、用件は?」
「城内にあなた様方の装備品を持ち込むことに成功いたしました。王への貢ぎ物と言う形でしたので、可成りの苦労を強いられましたが……」
「ああ、ご苦労、しかし、手元にないことには……」
「心配は御無用」
残りの数人が、ロンの部屋に、布にくるまれた剣や、木箱に納められた鎧を持ち込む。鎧の方は殆どがアインリッヒの装備品だ。それに彼女のグレートソードもある。持ち込むのにさぞ苦労したことだろう。
「あまり城の内外を行き来しますと、素性がばれますので、私がお会いできるのは、コレが最後でございます。以後城内では、このものにご命令を」
紹介された男が頷くが、あまり代わり映えしない極平凡な顔立ちだ。印象も薄い。
「解った」
もちろん大っぴらに会うわけには行かないが、味方がいると言うことは、心強いことだ。
そのころ、となりの部屋では、ジーオンがロカの部屋に居座っていた。そして、壁に耳を宛い一言呟く。
「ええのぉ、若いもんは、儂だって若い頃はブイブイいわしとったもんじゃが……」
「盗み聞きは良くないですよ」
ロカの部屋のすぐ横は、ザインの部屋だった。
そして、その肝心な二人だが。
「やばいなぁ、こりゃ、……一月後には……、間違いなく出来ち……まってるな……」
アインリッヒに夢中になっているザインが、呼吸の合間に、ぼそっと一言漏らす。
「それは、まずい……。でも!止めないで……くれ……」
そんな会話を、ジーオンが聞き耳を立て聞き入っている。そして暫くすると、すたこらと部屋を出て行こうとする。
それは丁度、アインリッヒがザインの胸の中に身を沈めた瞬間だった。満足げなアインリッヒが、ザインの首に腕を絡め、彼の頬にキスをしたときだった。
「盗み聞きは良く無いな。入れよ」
ザインが、扉の外に誰かの気配を感じ、その人物に、命令口調で部屋に招き入れる。そして、部屋に入ってきたのは、エピオニア王だった。それにあわせて、ザインが宝物をしまうかのように、自分に抱きついているアインリッヒの肩口まで、シーツを掛ける。
「あんたか……。一寸意外な展開って感じ……だ」
巫山戯た言葉を使って、彼の登場を茶化す。エピオニア王は、二人の情景に戸惑ったが、彼の部屋から出て行くわけには行かなかった。
「良いかな?」
「ああ、良いぜ」
エピオニア王は、ザインの了承を得ると、椅子に腰を掛ける。
「儂はアーラッドを信頼しとる。だが、おまえさんに賭けてみようと思った。娘が食事中に、あれほどの笑みを見せたことなど、もう随分無かった」
「そんなんで簡単に、俺を信用していいのか?」
半疑問。エピオニア王の考えが理解できない。最も警戒しなければならない、五大勇に対し、護衛もつけず、一人で交渉に入ろうとしているのである。
「五大勇を敵に回し、何千という兵の命を無駄にすることなど出来ぬ……」
勝敗などという言葉はなかった。彼にはその結果以前の問題なのだ。もっとも、中央を敵に回せば、それだけで結果は見えている。
「で、俺に何をしろって?」
信用という感情ではなかったが、前向きなクルセイド王の話は、聞くに値すると感じたザインは、アインリッヒを抱いたまま、不真面目な視線で、エピオニア王の瞳の奥を見る。
「儂とクルセイド王の仲介役になって欲しい」
その会話は、再びロカの部屋に舞い戻ったジーオンと、ロカ自身が、聞き耳を立て聞いていた。この様子で、エピオニア王が黒幕でないことは、完全に解り得た。
「良いぜ〈やっぱり、あのアーラッドって魔導師が、クロだな〉」
全ての事態がほぼ把握できたと思ったその時だった。
「それは困りますね」
アーラッドが、断りもなく部屋に入ってくる。ザインとしては非常にまずい状況だ。丸腰である。今夜中には、何も起こらないと踏んでいただけに、武器の代わりとなるものも用意していない。
エピオニア王が、予想外の行動をしたのが、引き金になったのは、言うまでもない。
〈策におぼれちまったか〉
ザインはシーツをアインリッヒに預け、丸裸のまま立ち上がり、戦いに備える。
「待つのだアーラッド!そちの国を思う君の気持ちも解る!」
「黙れ!貴方は大人しく私の言うことを聞いていれば良かったのです。そうすれば何時までもこの国の王でいられたものを!」
アーラッドの両手に炎の球が灯る。単純なファイアボールの魔法だが、屋内では、それで十分だ。
「アーラッド!貴様!ぐああ!」
エピオニア王は、叫んだ瞬間アーラッドの投げつけたファイアボールにより、あっと言う間に丸焦げにされてしまう。外見以上の火力を持ち合わせている。彼がその当たりの魔導師とは、格が違うと、ザインに理解させるのに、十分な力量だった。
「てめぇ!」
ザインは、まるでそこに剣があるかのように、柄を掴み矛先をアーラッド向ける構えを取る。そして、じりじりとアーラッドに寄る。
「おやおや、剣の持たぬ貴方が、私に挑むんですか?」
「ソウルブレード!!」
ザインは彼の問いに答えず、大声を上げ、アーラッドに対し縦一文字に手を振り下ろす。一瞬の閃光が、アーラッドを真っ二つにする。だが、その場に倒れたのは、アーラッドではなく、真っ二つになった蛇だった。
「幻影!」
アインリッヒが、身を整えながら、ベッドから飛び起き、ザインの側による。魔法は、遠隔操作によるものだ。予め仕込んでおいたものだ。
「ち!」
ザインも服装を整え、二人で部屋を出る。すると、そこにはすっかり装備を固めているジーオン達がいた。ザインの剣もアインリッヒの鎧もそこにある。元々装備の軽いザインは、肩当てと、剣さえ装備すれば準備完了だ。アインリッヒだけが一時部屋に引きこもり、装備を整える。
「コレで、私たちを覗き見していた張本人も、解りましたね」
五人揃った時点で、ロカが引き締まった声で言う。
「気にくわねぇ!何でわざわざ遠隔操作なんだ!部屋の外からじゃ、イチコロだった!」
「そりゃ無理じゃ、儂ずっときいとったから」
意図も簡単に己の所業を口にするジーオンだった。アインリッヒが鎧の隙間から湯気を噴きながら、硬直してしまう。ロカは、それは知らないと言いたそうに外をむく。
「全く。この非常時に……」
ロン一人が冷静に呆れ返っている。しかし、もしあの時に巨大な魔法の気配を感じていれば、間違いなくジーオンの防御魔法により、ザイン達は守られていただろう。複雑な気分だが、感謝しなければならない。
「それより奴は、何処だ?」
ロンは、長い廊下を左右に見渡し、方向を見定めようとする。
「こう言うとき、敵さんのいる場所は、権力を象徴しているところさ」
彼の質問に簡単に答えるザインだった。表情も特に険しさを出していない。そして彼は皆を先導し、玉座の間に足を運ぶ。皆眠り入っていっているため、実に静かだ。王妃と姫君には可哀想だが、事が済んだ時点で、王が死んだ事実を告げなければならない。
ザインは玉座の間の扉を勢い良く押し開け、アインリッヒがライトの魔法で、室内に明かりを灯す。
そこには予想通り、アーラッドが玉座に腰を掛け待ちかまえていた。嫌に口元だけがハッキリと見える。それは自信に満ちあふれたものだった。
「貴方が、真のノーザンヒルであったことが、誤算でしたが、それももう、どうでも良いことです。全ての準備は整いましたから……」
不適に微笑むアーラッドだった。国王を殺したことの後悔など、みじんも感じられない。
ザインは異常なムカつきを覚え、柄を握っていた手が鋭く剣を引き抜く。それが合図かのように、ロンもアインリッヒも剣を抜く。
〈変だ。魔導師にしては、間合いが短すぎる。この距離なら、奴の詠唱より、俺達の方が速い……〉
ザインはそう思いながら、一気にアーラッドに飛びかかる。そして同時にこういう。
「防御しておけ!」
飛びかかったザインに向かい、アーラッドが掌を差し出す。すると、その直後、火炎弾がザインを襲う。しかし、何かが起こることを直感していたザインは、紙一重でそれをかわす。
しかしザインを襲う火炎弾は一発だけではない、次々に彼を狙ってくるのだった。アーラッドとの間合いを詰めるのを不可能に感じたザインは、無理なく火炎弾をかわすことの出来る位置にまで下がる。それは必然的に、元の位置になる。
ザインがもと居た位置に帰ると、アーラッドの方も攻撃を仕掛けるのを止める。無駄な魔力消費を押さえるつもりだろう。
「ち!詠唱無しか……」
ザインが舌打ちをしながら、忌々しそうに言う。
「詠唱なしのファイアボールですね。あれぐらいなら僕にも出来ますよ」
すぐにロカが、相手の分析をしてくれる。詠唱を抜いた魔法は、たとえ単純な魔法であろうとも、高等な技術である。言葉のプログラムである詠唱は、いわば魔法行使に対する通訳である。この場合コレを省くと言うことは、火の精霊に直接話しかけることに当たる。もしくは威圧による絶対服従を強いるかである。つまり、アーラッドの魔力のキャパシティーの大きさを示す事にもなる。
「奴さん余裕だな。座ったままだ」
ロンが一歩前に出る。だが、さらにアインリッヒが前に出る。
「見ていろ」
そして、ザインと同じように、一気にアーラッドまで詰め寄る。アーラッドは先ほどと同じように、ファイアーボールで応戦する。しかし、アインリッヒはそれをかわすこともせず、強引にアーラッドとの間合いを詰める。全ての攻撃を鎧ではじき返しているのである。そして、己の間合いまで来ると、床を破壊しながら踏ん張り、横凪にアーラッドに剣を振るう。
「なに?!」
しかし、彼に剣が当たったと思う直後、その姿は既に無い。
「上だ!」
すぐさまザインの指示が入る。アーラッドはまるでコウモリのように天井にぶら下がり、掌をアインリッヒに向けている。
「はぁ!!」
気合いの隠ったアーラッドの声と共に、雷撃系の呪文が、アインリッヒを襲う。彼女も重厚な鎧を身につけながらも、片手でバック転をしながら、元の位置にまで戻る。彼女が動く度に、床がひどく傷む。
それほどの装備で、良く動けたものだと、一同はアインリッヒの力というものに、改めて関心してしまう。
そして、一同が思うことは、浮気をすればザインは殺されるに違いないという、余計な心配だった。
アーラッドはまたもや攻撃を止める。まるでザイン達をからかっているようだ。
「流石に、雷は怖いか」
アーラッドは再び床に足をつける。いくら重厚な鎧を纏っていようとも、通電性の高い鋼鉄製への直撃は、威力の貫通力とは無関係にダメージを受けることになる。それを十分理解した上での攻撃だ。
「ユリカ!彼奴の動きは魔導師を越えている!!」
鎧を着ているが、リザードマンを向かい撃てるほどのアインリッヒが、その動きに驚嘆するほど、アーラッドの動きは人間離れしていたのだ。
「みりゃ解るさ。それより無茶すんな、ジーサン。ロカ、どっちでも良い、マジックシェルで、身を守りつつ、力を温存しておいてくれ、ロン、アインリッヒ。奴には未だ僅かな隙がある。俺が隙を誘う。二人は、奴を殺れ、なるべく早くな」
ザインは、指示を出すと一気に突っ込む。しかし、先ほどのように単調に突っ込むのではなく、途中で最小限に回り込む形を取る。
即座にアーラッドが応戦してくる。彼の視線が、ザインに向いたときだ。ロンとアインリッヒが、ザインの指示通り攻撃を仕掛ける。すると、アーラッドは大人しくしていた左手を上げ、両手で三人を牽制しに掛かるのだった。
そしてアーラッドの攻撃で、そこら中穴だらけになり始める。
「ソウルブレード!!」
アーラッドの真上に出たザインが、剣を一振りする。それは玉座ごと床を真っ二つに裂く程だった。しかし、アーラッドの姿はない。先ほどと同じだが、ザインが空中で身体をひねりながら、天井を見るが、そこにも居ない。
「ユリカ!後ろだ!!」
アインリッヒは叫ぶと同時に、ザインの後方で、宙に身を浮かべているアーラッドに向かい、剣を投げつける。グレートソードは強烈な重さで天井に突き刺さるが、またもやアーラッドの姿がない。
「陽光よ!全ての陰を消せ!シャイニングサン!!」
その時、ロカが何の断りもなく、両手を付きだし、いきなり眩しい光を放つ魔法を唱える。それと同時に、光に弾かれるように玉座の後方にある壁に、アーラッドが叩きつけられる。
「ぐあぁぁ!!」
身体中の骨が砕けそうな轟音だった。通常の人間ならこれで十分死に至るはずだが、誰も、それほど単純な結果に終わるなどと、期待すらしていない。そしてその予想通り、アーラッドはスクリと立ち上がる。
「闇との契約者にありがちですね。闇を媒体とし、暗がりを自由に移動する。光に曝されたこの部屋には、貴方の移動する異空間は無くなる」
前方に手を出していたロカが、腕を下げ、シールドを張り直す。
「まさか幻影抹殺の光魔法で、この技が破られるとは……」
ロカが意外にも切れ者であることに、アーラッドは歯ぎしりをする。だが、壁に叩きつけられたダメージは、それほど感じられない、しっかりとした足取りだ。彼の瞬間移動的な技は、封じることが出来たが、体力的にも可成りタフそうである。
「何事だ!王は居られるか!」
突然玉座の間の外から、そう言った類の兵士の越えた多数聞こえる。この騒ぎでは当然だ。
「玉座の間に誰か居るぞ!」
誰かがそう叫ぶ。すると、次から次に兵士達が部屋の中へと駆け込んでくる。
ザインが舌打ちをする。無駄な犠牲者が多数出そうな気配に、苛立ちを覚えた。アーラッドは攻撃を仕掛けてこない。まるで彼らが全員駆け込んでくるのを待っているようだ。
アインリッヒは、この間に天井に突き刺さった剣を抜き、ザインの横に並んだ。
可成りの兵士達が、室内に駆け込んだときだ。
「皆良く駆けつけてくれた!!五大雄は、中央の命により、我らが国王を暗殺し、この国を侵略しようとしていたのだ!国王は既に、彼らに屠られた!!私と力をあわせ!国王の無念を晴らそうでは無いか!」
タイミングを計ったように、アーラッドが声を高ぶらせ、大声で叫ぶ。最も恐れていた結果だ。この状況では、兵士達がどちらに着くかは、もう目に見えている。そして、兵達は次々と矛先をザイン達に向け始めた。
「お待ちなさい!!」
だがその時、一人の少女の声が聞こえる。そのカリスマ性は、兵士達がすぐさまザイン達に向けた矛先を引くほどだった。そして、兵達は次々に道を作り、そこを一人の少女がゆったりとした足取りで、通り抜けて行く。
「姫!」
「姫様!!」
兵士達の声が騒めくようにそう次々と言い放つ。半ば自然発生的に呟かれた感じも伺える。声の主が解ると、ザインは少し唾を飲む。父を失った彼女の反応が、少し怖かった。
通路を作った方角を向いたザインは、アーラッドに背中を向けている。ジーオンがそれをフォローするため、ザインの背後に回り、アンチマジックシェルを張る。
姫がザインの正面に立った。アインリッヒがこれを見守る。
姫はまず、短刀を取り出し、ザインの胸にその刃先を当てる。力を加えれば、彼の心臓は確実に貫かれるだろう。だがザインは、引こうとはしなかった。
「ユリカ!」
アインリッヒが短刀を叩き落とそうとする。
「騒ぐな!」
ザインはこれを制止する。アインリッヒを怒鳴ったのは、出逢って二度目くらいだろうか。熱いものに手を触れたように、アインリッヒは反射的に腕を引く。
「姫。刺すなら刺して良い。責任は俺にもある。だが、殺したのは俺じゃない。王が信じていたアーラッドだ。時間があれば説明をしたいが、今はダメだ。信じて欲しい」
身体を張ったザインだが、緊張に喉が乾いているのは、隠し切れてはいなかった。言葉尻が硬く、声が震えている。結論を一人の少女に委ねることに、不安があった。恐らく一七の少年の戦略に従えぬ兵士達と、その心境は、似ているものがあったに違いない。要は、彼女がどれほど、事態を把握しているかである。
暗がりの中、互いの瞳だけが、真実を探しあう。
ザインは明らかに殺されることに危機感を感じている。それは姫の目からみても明かで、それほどザインの表情は強ばっていたのだ。
自分が死んだ後の展開が予想出来ないのだ。アインリッヒを一人残してしまうことにも、不安を感じた。しかしそれ以上に、国が滅茶苦茶になり、偽りの正義と大儀の上で、何万人という死者が出ることを恐れた。
「皆、避難を」
突然姫が口を開く。
「姫!」
己の望まぬ展開になったアーラッドは、全てから見放されたかのように、落ち着きを無くす。
「早く!!母上を安全な場所へ!私もすぐに参ります!」
そこには、絶対的なものを感じざるを得ないザインだった。沢山の兵が、戸惑いながらも忠実にこの場を去り始めた。数人の兵は、姫君の護衛のため残っている。
「あんた。良い指導者になるよ」
ザインは、嬉しくなり、ナイフを下げた姫を抱きしめ、額にお礼のキスをする。
「あ!」
これは少し行き過ぎたようで、姫は顔を赤らめる。それと同時に、アインリッヒは少し胸を痛めた。
「皆さん、どうかご無事で!」
姫はすぐに戦いの邪魔にならぬよう、顔を赤くしたまま、そこを立ち去る。ザインの横には、硬直したままのアインリッヒが居る。ザインはすぐにそれに気がつく。
「やくなよ。まったく……」
にやけた顔をしてそう言い、手際良くアインリッヒの兜を脱がせ、彼女の頭部を引き寄せ、ディープキスをする。
〈ユリカ……〉
他の女性に触れたことは許せないが、その意味合い、その時の感情を考えず、嫉妬してしまった自分が、少し馬鹿げて思えた。
「おい!巫山戯んな!戦闘中だぞ!!」
非常識なザインに、ロンの一喝が飛ぶ。
「へーい」
更に巫山戯た返事を返すザインだった。この時、ザインの脳裏から一つの不安材料が消えた。それは、城にいるのが、もはや自分たちだだと言うことである。被害は最小限に押さえられる。
「みんな、足場だけ考えて戦ってくれ。それと無理はすんな」
先ほどとは違い、引き締まった顔になるザイン。軽い雰囲気はもう無い。
そしてザインは一歩前に踏み出した。その瞬間、誰もがこう叫んだ。
「速い!!」
アーラッドが、必死で魔法を仕掛けるが、ファイアーボールは、直線的であり、攻撃範囲も狭い魔法である。今のザインの動きでは、単純に直撃させるのは、難しい。
この隙を逃すまいと、ロンとアインリッヒは、ザインの左右から挟み込むように、攻撃を仕掛ける。
「なめるなぁ!!クリティカルウォール!!」
キレたアーラッドが、目の前で両腕をクロスさせ、空気を凪ぎ払うように腕を横に広げだ。直後凄まじい風の壁が、ザイン達の目の前に立ち上り、彼らを弾く。大きく弾かれたザイン達は、床に背をこすりつけながら、壁際まで追いやられる。
アーラッドの起こした風の壁は、ただ、彼らを弾いただけではなく、天井や壁を容赦なく破壊しながら、再びザイン達に迫ってくる。彼らは、すかさず元居た位置に下がりる。
「風よ猛威となり!全てを塵とかせ!クリティカルウォール!!」
皆より、一歩前に出たジーオンが、アーラッドの魔法を相殺すべく、同じ魔法を、詠唱付きで唱える。しかしその威力は、アーラッドの非ではない。十分な手順を踏んでいるためだ。同じように周囲を破壊しながら、アーラッドの魔法を突き破り、更にアーラッド本人に襲いかかる。
「ぐぁぁぁ!!」
バチバチと激しい音を立てながら、凄まじい風の壁は、アーラッドの後方へと抜けて行く。アーラッド自身は、とっさに張ったシールドで、それを凌ぐ。
「ソウルブレード!!」
しかしその隙を見逃すはずもなく、ザインがジーオンの右斜め後方から、剣を一振りする。銀色に輝く刃が、地を走り、一直線にアーラッドに向かい、一刀両断にし、彼の絶命を告げるかのように、肉の固まりが、床に落ちる音がする。
「魔力の割には、大したことはなかったようだな」
アインリッヒは、ホッと息を付き、防御の構えを解き安堵感に満ちた声でそう言う。
ロンは、衣服に着いた汚れをひどく気にした様子で、身体中を叩く。
〈単純すぎる。切り札も出さずに?〉
しかし、ザインは納得が行かなかった。一人目をこらし、引き裂かれたアーラッドを眺める。ザインは、アーラッドの切り札とは何であるかを、明確に知っているわけではなかったが、態々待ち伏せまでしていた男が、これほど簡単に倒れるのは奇妙だ。
なかなかアーラッドから目を話さないザインに、ジーオンが、そこに何かがあることに気がつく。戦闘体勢には入らないが、ザインの横に肩を並べる。
「知将の感か?」
「んなとこだ」
ザインがこう言うと、突然笑い声がした。
「ククク……アハハハ!!」
間違いなく無惨に切り裂かれたアーラッドが笑っている。全員がすぐさま戦闘体勢に入った。
身体中を触手のようなものでつなぎ止めたアーラッドが、ゆっくりと立ち上がる。そして、凄まじいスピードで、自己再生を始める。
「まさか、生命まで契約で保証されているとは!!」
非人道的な行為に、ロカが怒りを露にする。魔導師が魔導を追求しすぎるがための、ありがちな過ちである。ロカは、人間として生き抜き、その一生で己の道を、追求することが、正しいことだと信じている。アーラッドは彼の信念に反しているのだ。
「契約?まさか……、そんな低いレベルではありませんよ。私のは……、融合とでも、言っておきましょうか?ククク……」
契約の意味には二通りある。一つは魔法行使のための契約、もう一つは、己の力を強大にするための契約。両方とも、何かを媒体にすることには変わりないが、後者の場合、闇に見限られてしまった時点で、その者の生命は尽き果ててしまう多きなリスクがある。前者には、魔力、小動物等の媒体も考えられる。
立ち上がったアーラッドは、心なしか、ぶるぶると震えている。その震えは、己自身では制御しきれないもののようだ。
「道理で魔力のキャパシティが高いはずだ!だが、どうやって!!」
ザインは、底知れぬ恐怖を身体に感じ、額から自然と汗が流れ始めている。精神力で押さえているつもりだが、身体は言うことを聞いてくれない。
「それを語ったところで無意味でしょう?貴方方は此処で死ぬのですから!!」
ぐっと、ザインを睨み付けたアーラッドの目は、まるで猫の目のように細い瞳孔を持ち、瞳を金色に輝かせ、獣のように牙を剥き出しにしながら、ニヤリと笑う。
肉体が次第に膨らみ始める。その事が確実に解ったのは、肉体の大きさに耐えきれなくなった衣服が、ビリビリと音を立てながら破れて行き始めた頃だった。
「はぁぁ!!」
狂ったように叫ぶアーラッドが、大きく口を開き、首を一振りしたとき、その口から赤い光線を放ち、残された城の天井と壁を一撃で凪ぎ払った。限界まで姿勢を低くしたザイン達の上を、熱線が駆け抜けて行く。
光が放たれてから一秒ほど経過した後、剛雷のように空気を引き裂く爆音が周囲に響く。
「なんてこっ……た……」
ゆっくりと身体を起こしたザインは、口を半開きにしながら呆然とする。そして、言いようのない光景に言葉を失い、半放心状態になり、ふらりと一回りしながら、周囲を伺う。
「全部消しとんじまった……」
踏みしめているのは確かに王城の玉座の間の床だ。しかし、周囲を見渡すと、星空の煌めく夜空しかない。玉座の間の天井だけではない。その階層の全ての部屋が吹き飛んでしまったのだ。そして目の前には、完全に悪魔化したアーラッドが立っている。
「ザインバーム。貴方には本当に腹が立ちますよ。こんな騒ぎになるはずじゃなかった。あなた達はもっと静かに殺されるべきだったんだ。おかげでエピオニアを潰さなくてはならなくなってしまいました。何しろ、五大雄を死に追いやった、悪国なのですから」
余裕があるためだろうか、やけに余計なことをベラベラと喋るアーラッドであった。だが、話が見えてこない。
「ザイン!相手が魔族である以上、物理的な攻撃しか出来ない俺達には分が悪い!ロカと老体を主体とした戦闘に切り替えよう!!」
ロンは未だ戦意を失ってはいなかった!不意に振り向くと、全員同じらしく、ザインに向かい頷く。それならば、まだ勝機はあるはずだ。理屈ではない。不思議とそんな気がした。
「よし、一個だけ試したいことがあるんだ。ジーサンとロカは弾幕を張って俺を援護してくれ、アインとロンは、ちっとばかり、休憩な」
ザインの考えに、二人は頷く。疑問はあったが、彼の考えに賭けることにした。ザインが駆けると同時に、ロカとジーオンは、ファイアーボールの魔法を連射する。
ザインの動きはあいも変わらず速い。魔物化したアーラッドでも、簡単には躱すことが出来ないようだ。ロカとジーオンの魔法も気にさわる。
「ユリカ!速く技を繰り出せ!!」
じれったくなったアインリッヒが、横から叫ぶ。
「でやぁ!!」
アインリッヒの期待に答えるように、ザインは剣を繰り出す。しかし、技は伴っていない。ただ通常の剣術のみの一撃だ。アーラッドの左肩から、右の横腹へと剣が一気に走る。
「ぐあぁぁ!きさまぁ!」
アーラッドが酷く苦しみながら、ザインに拳を当てにかかる。彼には当たりはしなかったが、その拳圧のみで、彼を退かせる。ザインは踏ん張ってみるが、そのまま壁のない断崖になった部分まで、滑って行く。漸く止まった頃には、後一センチ向こうには、床のない状態である。
「ふぃぃ……」
危機一髪だ。
「させるか!」
アーラッドが、もう一撃拳を繰り出す。
「一寸まったぁ!」
さすがのザインも、これには顔が青ざめる。
「ふん!!」
しかし、次の瞬間、アインリッヒが拳圧の前に立ち、これを受ける。咄嗟に撃った一撃でないため、その威力は半端ではない。
アーラッドが三撃目を放つ前に、ロンがアーラッドの懐の飛び込み、その両腕を切り落とす。ザインの一撃で、通常攻撃も効くコトも証明されている。そのため思い切った攻撃を仕掛けるコトが可能だった。
「ぎゃぁぁぁ!」
痛みに発狂するほどの声を上げるアーラッド、その痛みは即死に等しいが、魔族の生命力のため、死ぬことはない。
アーラッドの一撃を受けたアインリッヒが漸く足を止める。ザインと同じく崖っぷちギリギリの位置だ。
踏みとどまれたのは、鎧の重みのためだろう。威力ほど後方に飛ばされずに済む。ザインなら確実に目下に広がる水壕に落ちていたに違いない。お互い無事で、ザインはホッと胸をなで下ろした。
だが、その時、アインリッヒの足場が崩れる。
「アイン!」
ザインが咄嗟に腕を伸ばし、彼女の腕を掴む。間一髪で助かったが、落下直後の総重量が、全てザインの右腕一本に掛かり、ブチリ!と鈍い音と同時に、ザインの右腕がガクリと下がる。
「ガァァァ!」
右腕の関節が抜け、筋肉が断裂する音が、アインリッヒの耳にもはっきりと聞こえた。
しかし、ザインは腕を離さず、すぐさま左手に持ち替え、アインリッヒを引き上げようとする。
井地でも放すまいとして、苦痛と力みで、ザインの奥歯が砕ける音がする。
「ユリカ!離せ!」
「バカ言うな!そんなんで落ちれば!しんじまう!!」
火事場の馬鹿力であった。アインリッヒの身体が、徐々に持ち上がり始める。物凄い力である。彼が本来秘めているポテンシャルに、アインリッヒは驚きを隠せない。
「ザイン!奴の自己再生が始まった!!早くしろ!!」
「このクソ忙しいときに!!」
「ユリカ!」
「やなこったぁ……、うわ!!」
二人の体重を支えきれなくなった床が、ついに崩れ、二人はそのまま水壕の中へ落ちて行く。
「ザイン!アインリッヒィィ!!」
どちらを優先すべきか、迷いに迷っているロンが、幾度も前後を交互に見渡す。しかし、アーラッドに止めを刺すには、今しかない。だが、果たして再生力の強い魔族の身体を持つ彼に、果たして必殺の一撃を加えることが出来るのだろうか。ロンは迷う。
「業火よ!全てを焼き払え!!ビリオンズセルシウス!!」
ロカが素早く手印を切り、呪文を唱える。だが、再生中のアーラッドはアンチマジックシェルに包まれ、魔法は全く効かない。ロンが決死の覚悟で、飛び込もうとしたその瞬間だった。
「待つのじゃ!!」
ジーオンガロンを止める。
「御老体!!」
チャンスを逸しかけ、ロンは焦るが、ジーオンは真っ直ぐにアーラッドを指さす。
「様子が、変です」
ロカもその事に気がつく。再生しかけていたアーラッドの様子がおかしい。変身するときと同じように震えているが、アーラッドは、全く変身しない。
「はっ!」
アーラッドがそれ以上再生しきらない自分の身体に戸惑う。
「うそだぁ!こんな筈は!こんな筈は無いぃぃ!」
彼が絶望した瞬間、身体中が異様に腫れ上がったり、凹んだり、奇妙に屈折したりし始める。
「イギャァァ!痛いぃぃ!グハァァ!!」
そして、どろどろと溶け始めた。
「肉体が暴走しておる……」
ジーオンはその異変に気がつく。どうやら、彼の言う融合は、完全なものではなかったらしい。不完全な融合を己に施し、心酔する馬鹿な魔導師はいない。
となると、恐らく彼に術を施した者が居るはずだ。釈然としない謎の一つが解ける。彼も唯の傀儡だったようだ。惨い有様だが、自業自得だと、ジーオンは思った。力のみを欲した哀れな男を、暫し見つめていることにした。ただ、黒幕が彼ではないと言うことが判明した時点で、話しとしては振り出しに戻ったに等しい。
「ザインとアインリッヒを助けないと!!」
呆気ない幕切れで、一瞬呆然とするロンだったが、すぐに次になすべき事を思い出す。崩れかかった城の階段を、ロカと共に懸命に駆け下りる。水壕と街を繋ぐブリッジを駆けながら、二人の姿を、ヤキモキしながら探す。
「ロン!あれを!」
「ザイン!」
水壕の外で倒れ込んでいる人影を見つけるロンとロカだった。あの状況でザインはここまでたどり着いたのであった。近づくと鎧を着ていないアインリッヒを庇うようにして、俯せているザインの背中が目に入った。
次の夜のことだ。アインリッヒは目を覚ました。そして自分が生きていることに気がつく。近づいた水面という部分からすっかり記憶がない。どうやら、水面に叩きつけられたショックで、気を失ってしまったようである。
どこかの宿屋であるには違いないが、明確な場所は解らない。一つだけ解るのは、安宿と言ったくらいのことだ。
「そうだ!ユリカ!」
アインリッヒは、ベッドから身体を起こす。身体中を打ち付けているようで、あまり上手に動けない。だが、彼の様子が気になる。身体をふらつかせながら、パジャマ姿のまま部屋を出て、壁伝いに歩き始める。一つの扉の前を通りがかった時だった。
「人間、あんな風になったら終わりだな」
ロンの声だった。
「ええ、哀れな末路でしたね……」
ロカの声だ。
「二人とも、割り切って考える事じゃ……」
こんな会話を聞くと、アインリッヒの脳裏には、一つの答えだけしか聞こえなくなる。力無く床に座り込み、寒気に身体を振るわせる。
気配に気づいたロンが、戸を引き開けると、アインリッヒが座り込んでいる。
「何してるんだ?まぁ、目が覚めたんだ。良かったよ」
ロンは何事もなかったように、扉を開けたまま、部屋の中に戻って行く。
「ユリカ!ユリカはどうした!!」
立ち上がり様に、ロンを振り向かせ、彼の胸倉を掴んだアインリッヒに、ロンは、少し答えにくそうに顔をそらせる。
「まさか!!」
「安心しろ!死んじゃいない!!しかし……」
「しかし、どうした?!」
アインリッヒはまるでロンを責め立てるかのようだった。声を荒立て、乱暴にロンを前後に揺さぶる。だが一番責任を痛感しているのはアインリッヒ自身だ。それはロンにも良く解っていた。胸倉を掴んでいるアインリッヒの手を引き離し、手首を強く握る。
「落ち着くんだ!命にも別状はない!だが……」
「ユリカは何処だ?!」
アインリッヒには、ザインの居場所以外を聞くゆとりなどなかった。催促とともに、捕まれた両腕を何度も揺さぶる。
「この部屋の……左隣だ」
渋るようなロンの声が、アインリッヒにザインの居場所を告げる。それと同時に、彼女の手首を強く握っていた両腕は、緩く解かれていた。アインリッヒは何の躊躇いもなくロンに背を向け、ザインの部屋へと駆ける。
「ユリカ!!」
勢い良くザインの部屋に駆け込んだアインリッヒだったが、そこにはザインは居なかった。
毛布が適当にベッドの上に置かれていることから、寝ていたのは事実のようだ。しかし、ベッドに振れてみると、冷たくなっている。もう、此処には居ないようだ。部屋中を見ると、彼の剣がある。どこかへ姿を眩ましてしまったというわけでも無さそうだ。
心配になったロンが、コッソリとアインリッヒの後ろから覗くが、彼もザインの姿がないことに気がつく。
「あ!ザインの奴が居ない!一時間前は確かに!!御老体!ロカ!……」
その後、アインリッヒは、再度部屋に隠り、俯せになり、枕に顔を伏せる。
「コレで、三度目だ」
しかしすぐに顔を上げ、己の荷物を纏めようとする。だが、そこにあるのは、彼女のグレートソードだけである。他の者に鎧の在処を聞く気にもなれず、まして、状況から考え、戦いは終わったのだ。剣を持つ必要もない。特注ではあるが、銘刀というわけでもない。屋敷に戻れば、爪弾き者とは言え、生活ぐらいどうにでもなる。
アインリッヒは、持ち合わせのシャツとズボンという、男性っぽいカジュアルな服装に着替え、何も持たず宿屋を後にする。街に出ると、それなりの賑わいがある。街行く男に、一言尋ねた。
「済まぬ。此処から北の集落に向かいたいのだが、駅馬車は何処だ?」
「ああ?ねぇちゃん。こんな時間に馬車なんか出てるわけねぇべ!」
男はへべれけに酔っている。だが、彼の言っていることは尤もだ。こんな夜間に着く馬車はあっても、出る馬車など無い。
当てもなく街を徘徊していると―――。
「王城が吹き飛んだときはどうなるかと思ったよ」
「だが、姫君も后様も無事らしい……」
等という会話もちらほらと聞こえてくる。唯一の救いである。半ば放心状態で、街に足を運んだが、後の決着の着き方が、気にならないでもない。何れそれも耳にはいるだろう。
時間の潰し方は色々ある。この時間帯で無意味に賑やかなのは、はやり酒場だろう。アインリッヒは愚世のこの空間には、一人で足を踏み入れたことはないが、何だか足を踏み入れる気になった。
「ユリカなら、こういう場所でも楽しく飲むのだろうな……」
ふと、口から漏れたのは、そんな言葉だった。店内に入ると、酒気帯びた空気と、無秩序になっている人格が、そこら中に転がっている。カウンターには、空席がある。テーブルよりは、こちらで飲みたい気分だ。すぐさま、適当に開いている席に腰を掛ける。
「何でも良い。酔えるものを……」
席に着くなり、アインリッヒは、さえないバーテンにこういう。そして出てきたのは、小さなグラスに、なみなみと注がれた、透明で甘い香りのない本物の酒だ。見た目はまるで水のようだ。
アインリッヒは、軽々とグラスを持ち上げ、一気に喉に流し込む。が?
「ゴホ!がっは!ゴホゴホ!!」
思いっきり噎せてしまう。グラスの置き場所を確認して、両手があくと、喉のあたりをしきりに撫でる。
「な、何だ?コレは!」
苦々しい顔をしながら、素っ頓狂な声を出す。
「ウォッカだよ。あんた言ったろ?酔えるものって……、比奴はトビキリさ」
やはり、しゃがれたさえない声がそういう。人生のしがらみから解放されないその声は、わずかな哀愁がある。
考えれば、ウォッカほどの強い酒を飲んだことはない。酒自体興味もなかったことだ。喉の奥が、まだひりひりと傷む。その時こう思った。ザインならば、きっと簡単に飲み干してしまうだろう、と。
〈ユリカ……〉
アインリッヒの胸が鈍い痛みに襲われる。怪我をしたわけでも何でもない。出てくる前に彼に会えなかった、そして、皆を避けるように宿屋を後にした事への後悔が、彼女の胸を襲ったのだ。以前の彼女には、このような感情は全くなかった。
見たこともない筈なのに、中央のテーブルを陣取り、仲間を巻き込み、豪快に笑い飛ばしながら、ボトルごと酒を飲んでいるザインの姿を想像する。そんな彼はさぞ楽しそうだろう。
此処にいると、余計に辛くなる。勘定を置いて、そこを後にする。
〈なに、今までの生活に戻るだけだ。そう、全てが元の戻るだけだ〉
アインリッヒは、今の己に都合の良い答えを出す。しかしそれが偽りの自分であることは、既にもう解っている。すぐに俯き、強がれない自分に愕然とする。その時、真正面に誰かとぶつかってしまう。
「済まない!その……」
「わりぃ、考え事……」
なんとぶつかったのはザインだった。彼も街に繰り出していたのだ。怪我をした右腕を三角巾で肩から吊っている。しかし、それ以上にアインリッヒを驚かせたのは、彼の頭髪の色だった。
「嗚呼……」
目に飛び込んだザインの髪色は、以前のように茶髪混じりの黒髪の頭髪ではない。全ての精力を使い切ってしまったように、真っ白に脱色されてしまっている。アインリッヒは、知らず知らずのうちに数歩退き、挙げ句の果てには、背を向け、逃げ出す体勢を取っている。しかしすぐにザインに掴まる。
「なんだよ!俺だよ!ザインバームだよ!!」
それはザインの大きな勘違いだったが、アインリッヒにとっては、自分を捕まえてくれた彼を、とても嬉しく思う。しかし、それだけであれば、逃げ出すことなどしない。捕まえた彼の手を振り払うため、幾度も大きく腕を振るが、ザインも簡単に腕を離さない。しかし、彼女が自分がザインバームであることを知りつつ、拒んでいることが解ると、手が緩みそうになる。
「俺のことが……嫌いになったなのか?」
アインリッヒは、ザインのこの反応を予想だにしていなかった。いや、彼女にはそんなゆとりはない。己のことを考えるだけで精一杯だった。
「違う!」
振り向いたアインリッヒが力一杯それを否定した。
「良かった」
ホッとしたザインの顔が伺える。捕まえた彼の手が自然に緩む。アインリッヒも逃げるのを止め、愛おしそうにザインの頬を柔らかく両手で挟む。
「いっそ、お前のことが嫌いになれればいいのに……」
どうしても離れられなかった。アインリッヒは自分をセーブすることが出来ず、ザインに強く抱きつき、彼の胸に顔を埋めた。
「テテ!っと……」
ザインは、痛みに眉間に皺を寄せながら、吊っていた腕をどうにか動かし、啜り泣いているアインリッヒの肩を両腕で抱いてみる。すると、アインリッヒの腕は、もう少し強くザインを抱いた。
「戻ろうか」
「うん……」
部屋に戻った二人。ベッドの上でアインリッヒを抱くザイン。この時の腕の痛みは定かではないが、アインリッヒの方は、漸く落ち着きを見せた。
「ユリカ……、その、髪の色……」
アインリッヒが、今現在、尤も気になっていたことをザインに問う
「ああ、これ?なに、ほら、お前鎧着てただろ。水の中じゃ思うように外してやれなかったから、チョイとばかし、『力』を使って……、あ!わりぃ、鎧、ぶっ壊しちまってよぉ。ま、俺も焦ってたんだな、コントロールし損なって……。そう言うことだ、心配すんなって……、髪の毛も伸びれば、元に戻るよ」
ザインは、剣術に使っているあの技を応用したのだが、髪が白髪になってしまったのは、尋常な力の消耗ではなかったということだ。ソウルブレード。魂の剣。つまり言い換えれば、彼の技は、彼の生命力が力の根元なのである。
極限状態に達した彼は、その寿命を二十年は縮めていた。脱力状態の先日の時のこと、戦時中のことも考えれば、自分に残されている寿命は、多くても十年程度であろうと、本人も自覚していた。だが、アインリッヒだけには、悟られたくない。それだけが切ない。
ザインの微笑みは、アインリッヒを納得させることは出来なかった。彼女はたまらなくなり、ザインから顔を背ける。
「ユリカ。私はお前の足を引っ張ってばかりだ。出逢ったとき、私の鎧が弾いた破片がお前を傷つけた。リザードマンの時は、足場の悪さに足を取られ、膝を痛めた私のために、お前は無理をし、そして、今度も!!」
アインリッヒは再び正面を向き、ザインの頭を胸の中に抱きしめる。彼女の柔らかみに包まれたザインは、目を閉じる。彼女の胸の内から聞こえる、葛藤に興奮する鼓動が、愛おしくてたまらない。全身全霊で、彼女を愛し、悦びに振るわせたくなる。
「馬鹿だなぁ。最初の時だって、俺がチンタラやってなきゃ、あんな事にはならなかったし、リザードマンの時だって、一人で混乱してたのも俺だし、お前があの時拳圧を受けてくれなきゃ、俺は水郷の外に落ちて即死だぜ。それに、俺がやりたくてやったんだ」
本当に馬鹿だと、どうしようもないと言いたげなザインだった。だが、責める気はなかった。心理的な頂点に立った瞬間、ザインは再びアインリッヒを抱いていた。
「どうやら、ザインは帰ってきたようですね」
と、安宿の薄壁の向こうから聞こえるアインリッヒの喘ぎ声で、そう判断するロカ。ジーオンは落ち着いた様子で、茶を一啜りする。
「で、国王への報告はどうする」
話を本題に戻したロンだった。
「まず、エピオニア自体にはもう不安材料がないこと、アーラッドのこと、彼の言っていた融合のこと、まだ黒幕らしき者がいると言うこと、こんな所ですかね」
「フム。そんなところかのぉ」
「しかし、ザインの奴、あの怪我で何処行ってたんだ?気になるなぁ」
ロンが後味の悪い疑問を最後に残した。
それから随分夜中のことだ。ザインは胸の中に眠るアインリッヒの肩を抱きながら、左手の指先で、一つの感触を確かめていた。
〈あれは、何だったんだ。あのドロドロってしたやつ……〉
実はザインは、自分が気を失った後の状況を確かめるため、城に戻っていたのだ。幸い状況はそのまま残っていた。后達はどこかへ避難したらしい。やはり、コレばかりは明日の朝と言うわけには行かない。まずアインリッヒの頬を数回撫でるように叩く。
「ん?どうした?」
「一寸ジーサンのトコ行って来る。良い子にしててくれよ」
「もう、子供ではない。早く帰ってきてくれ……」
大人びていると同時に、背伸びをしているアインリッヒのハスキーに掠れた眠たげな声。冗談と本気の両方が、重なった二つの感情をザインに返す。
ザインがアインリッヒの下から抜け出すと、アインリッヒはそのままベッドに伏せてしまう。まるで、ベッドに残るザインの体温に頼るように。
一方夜中に起こされたジーオンはたまったものではない。
「なぬ?玉座の間に残されたドロドロ?」
寝ぼけ眼で、目をこすりながら、鈍りきった頭をどうにか回転させる。
「なんてのかな、こう、スライムっぽく。実物は見たことねぇけど、ドロドログチャグチャッとして、気味悪いの……」
「あぁ、ありゃ変わり果てたアーラッドのなれの果てじゃ」
「アーラッドの?」
「ふむ。あ奴が変身したところまでは、お主も知っておるだろ?あの後に続きがあっての。別に儂等が奴を倒した訳じゃなくてのぉ、魔族と融合した奴は、何らかの変調をきたし、自滅。あふ……、続きは明日じゃ……」
倒れ込むように、ベッドに寝るジーオンだが、ザインが強引にそれを引き起こし、ジーオンの肩を前後に揺さぶる。
「待った待った!それじゃ、融合は未完成で……、て、魔導師って輩は馬鹿じゃねぇし、悪党の性格を考えると、未完成の技法を己に試すってコトもまずねぇ!!」
ザインは興奮し、ジーオンの肩をさらに激しく揺する。
「オヨオヨオヨ!!馬鹿もん!脳が味噌になるわい!!休息無くして明日の勝利無しじゃ!お主も、はよ寝い!」
ジーオンはすっかり不機嫌になり、サインを振り切って、毛布を殻にして眠りに着く。
翌朝、テーブルを囲む五人だった。しかし、ザインの目の下には、黒々とクマが出来ている。結局眠ることなど出来なかった。昨夜、問題の解決の糸口もあの様なので、浮腫んだ顔をよりいっそムッとさせてる。
「要は、黒幕は、アーラッドって奴の可能性は、低いって訳だ。結論としちゃ、俺達の出したものと、対してかわらん」
ロンは食欲旺盛だ。確かに問題の根本的解決には至っていないかも知れないが、とりあえずは家に帰ることもできる。アインリッヒとザインのいちゃつきが、彼の欲求不満を増大させている感もある。
「いや、そうなんだけど、俺達を此処まで警戒してるんなら、何でそんな中途半端な真似をするんだ。結局奴は俺達を倒せずじまいだ。問題は、そこ」
ザインのホークは、あまり食べ物には延びず、しきりに空を掻いてばかりいる。
「彼も言っていたでしょう。貴方が知将の息子ではなく、本人だったことが、計算ミスだった」
ロカが簡単に結論づける。しかし、食の手は休めない。
「しかしよぉ……」
ザインは何か肝心なことを忘れている気がしてならなかった。
「ユリカ。考えても始まらないこともある。ほら、冷たいものでも飲めば、頭がスッキリするかもしれないぞ」
心身共に充実したアインリッヒが、頬杖をついて、ザインの目の前に、メニューを出す。
「冷たいものねぇ……、アイスティー、アイスコーヒー、オレンジジュース、クリームソーダ……、へぇ、クリームソーダねぇ、ガキの頃は貧乏で、なかなか飲めなかっただよなぁ。こう、緑色のソーダを半分飲んで、アイスクリームを半分食って、後は混ぜて飲む……、ん?あ!ねぇちゃん!!クリームソーダ、二つくれ!!」
近くのウエートレスに、大声でそれを要求するザインだった。ロンは飲みかけた水を思い切り噴きこぼしてしまう。まさか、この歳でそれを頼むとは思いもよらなかったのと、注文の取り方ももう少しあっただろうと、両方の意味があった。思わず赤面をしてしまう。
「フフ……。ユリカ、可愛いな」
無邪気な彼だと、ザインの頬を両手で挟み、ゆっくりと撫でる。
「ゴホゴホ!!お前らなぁ……」
もう、これ以上呆れて何も言えないロンだった。
暫くすると、ザインの目の前に、クリームソーダがやってくる。ザインが美味しそうに舌をペロリとさせる。それから、テーブルの中央にあるサラダの乗った器を退け、その位置に、クリームソーダを持ってくる。
「じゃーん!皆さん。コレは何でしょうか!」
そして宝物を見せるかのように、両手を差しだし、それに注目させる。
「クリームソーダ!」
ウンザリと言った感じで、投げやりなロンが言う。
「ブブー!アーラッドだ」
「は?」
ザインの言うことは、ちんぷんかんぷんだ。この瞬間から、皆の視線が、目の前のクリームソーダに釘付けになる。そうなるとザインはしめたものだった。
「アイン。こっち側を、ライトの魔法で暖めてくれないか」
「ああ」
何をしでかすかは解らなかったが、ザインの言うことなので、アインリッヒはすぐにライトの魔法で、片方のクリームソーダを照らす。すると、見る見るうちに上のアイスクリームが溶け始める。
「はいストップ!」
ザインは、アインリッヒを止めると同時に、ストローで軽く一混ぜする。クリームソーダは濁る。当たり前のことだ。アイスクリームは半分ほど残っている。
「で、俺達が出くわした奴さんは、恐らくこんな状態だったのかな?もう一寸溶けてたかも知れないが……」
「意味がわからんな」
「まあ聞けよ。ロン、つまり、俺の予想では、奴は完全に融合していなかったって、ことさ、こうしてこうしてっと!」
ザインは、残りのアイスクリームを沈め、ついにはソーダの中に溶かし込んでしまう。コレが完全体と言うわけだ。全く手のつけられていないほうを見ると、まだ溶けていない。つまり、完全体になるには、それなりに時間が掛かると言うことだ。アーラッド本人には、その事を告げられていないことになる。
「まぁ、確かにこうなる前に、奴を倒せたことは、私達には幸いだが、黒幕という点においては、根本的解決に、至ってない」
黒幕が解ったと思ったロンにとっては、何とも見当違いのザインの閃きだった。
「解ってねぇなぁ!早く奴サンを探さなきゃ、完全体になるってコトだぜ!」
すっかり黄緑色に染まってしまったソーダを、一気にストローで啜ったザインは、グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、大きくふんぞり返る。
「なぜそうなる?!」
飛躍した話に、ロンは着いて行けない。
「自分が最強なら、部下に不安なんて持つ必要がねぇだろうが!!」
彼らはそれぞれ、一国を支配してもおかしくないほどの力の持ち主だ。その彼らが、何の野心も持たずに、こうしていることのほうが、よほど不思議である。
強大な力を持った人間は、それに酔いしれて、何をしでかすか解らない。ロンには、その部分の根本的な考えが抜けていた。術が成功したなら、最終的に自分への使用を考える。当然である。
「つまり、私達は、一刻も早く帰らねばならない、と言うことか!」
「そ・ゆ、コト!!」
一斉に全員が立ち上がる。
「しかし、ユリカ。その腕では……」
ジーオンが的確な魔法をかけてくれいるため、通常に動かす分には、それほど支障をきたさないが、激しい戦闘には、まだ耐えることは出来ないだろう。
「大丈夫。ぶっ通しで走っても四日はかかる道のりだ。馬のことを考えりゃ、そんな無茶も出来ねぇし、十分時間はある。てか、俺達にも余力がいる。ラスボス見つけて、電池切れなんてのも馬鹿な話しだ。可能な限り無理なく早くって所だ」
しかし、ザインはこう言い切った。それに、すぐに戦闘があるわけでもないと、考えていた。だとすれば、こんなに回りくどい方法をとる必要も無かっただろう。敵は何らかの形で、直接彼等との避けたい理由があるのだ。
そうであれば、養生にも十分時間を費やすこともできる。まずは中央に戻り、王にこの事を報告しなければならない。しかし、こういうときに限り、例の兵士が居ない。どこかでザインたちを見ているはずだが……。
宿の外へ出て、周囲を見渡してみるが、それらしき人影もない。
「そうじゃ、駅馬車の馬を借りればコトは足りるぞ!」
今まで黙っていたジーオンが、全員が焦っている中、閃きを見せる。
「そうですね!集落まで戻れば、私達の馬もあることですし」と、ロカ。
「決まりだ!」
ロンが真っ先に駆ける。その時、彼の真正面から、エピオニアの兵がやってくる。
「五大雄殿!探しました!まさかこのような所に!」
このような所とは、王城周辺の町並みに比べれば、華やかさに欠けると言うことだ。彼らは、ジーオン達を探すのに手間取っていたらしい。宿も三流宿である。五大勇ともあろう者が、まさかこのような安宿に、身を寄せているなどとは、思いも寄らなかったのだ。
姫君が何かの用なのだろう。急いではいるが、駅馬車より良い馬を借りられるかも知れないし、馬車であれば、片手しか使えないザインにとっては好都合だ。
彼らは、兵士達に姫君の場所を案内される。急ぎ気味の馬車は、あわただしく、エピオニアの市中を駆けるのだった。
姫君の居場所は、街でも一級のホテルだ。しかもロイヤルスイートである。当然だ。王城が崩壊したのである。一国を預かるものが、安い宿に身を置くはずがない。一室は、一般家庭より遙かに広く高級感にあふれ、一見した質感は、王城内の一室と見間違えるほどだ。そんな環境の中、気丈な姫君に比べ、王妃は少し不安げである。
「そうですか。アーラッドは何者かの差し金で……、王の居ないこの国に、あなた方が滞在して頂ければ、心強かったのですが……、そう言う事情であれば、仕方がありません。馬車は、この国の物をお使い下さい」
姫君の瞳は、一晩中悲しみに暮れていたのか、すっかり赤らんでいる。当たり前である。父親が無惨に殺されたのだ。だが、彼女は気丈に振る舞っている。とても十代の少女とは思えない。懸命に笑顔を作ってみせる。
だが、今は彼女と語らう時間も慰めてやる時間もない。互いのこれからを祈るように、ザインと姫君は握手を交わす。そこからは、互いの気力がよく伝わった。
この姫君であれば、この国は十分持ち直すことが出来るだろう。ザイン達は行為に甘え、馬車を借りる。四頭引きで、御者付きだ。
夕刻には、サウスヒルとの間にある集落に着く。だが、ゆったりとしている暇もない。
「さぁ!行くぞ!エスメラルダ!!」
ザインは勢い良くエスメラルダに跨る。しかし、である。ザインはロードブリティッシュにより、襟首を噛まれ、放り投げられてしまう。ザインの意気込みは、早速挫かれてしまうのであった。
「結構……焦ってますね」
冷静にザインを分析するロカだった。ザインは、後頭部を強打したらしく、干し草の上で、後頭部を抱え、もんどり打っている。
そして、漸く立ち上がるザインだった。
「だぁ!!うっせぇ!!行くぞ!!」
と、散々に心配する声に対して、今度は、ロードブリティッシュに跨るアインリッヒの後ろに乗り込み、ストレスをぶちまけるようにして、声を張り上げるのだった。
馬を程ほどに休憩をさせつつ、夜通し馳せること三日。心身共に疲れ切った頃、クルセイドに着く。
「さぁ、城が見えたぞ」
ザインがアインリッヒの背中から声をかける。二人はロードブリティッシュ背の上で、その手綱を握っているのはアインリッヒだ。ザインの手は、アインリッヒの括れた腰に、確りと回っている。
「あと一息だな。行きは盗賊に襲われたり、リザードマンと戦う羽目になったが、帰ってくるといえば、早いものだ」
一時的とはいえ、帰国できたことにホッと一言漏らすアインリッヒだった。
「それは、アーラッドも居なくなったことだし……、…………いや、違う!違うぞ!!」
急に危機迫った声を出すザインだった。その時、彼が完全に忘れていた事実を思い出した。彼とアインリッヒは、クルセイドに着く前に、盗賊の襲撃にあっている。彼らがクルセイドに集まることを何故知っていたかという疑問もあったが、その謎は、エピオニアに着けば、解決できるものと踏んでいた。
走らせていた馬を、それぞれ自然に止める。
だが、あの結果である。アーラッドは黒幕ではなかったし。疑問も核心を残したままの状態だ。
「ザイン。どうした?」
冷や汗をかき始めているザインに、ロンは馬を寄せ、その険しい表情から、彼の心理状態と、思考を読みとろうとする。
「そもそも、アーラッドは、どうやって俺達の来訪を知ったんだ?監視をしていたのは、間違い無く奴だ。他にそんな芸当の出来る奴は、ジーサンと、ロカ以外いるか!?」
ザインは、周囲にその確認を取るが、全員首を横に振り、該当する国には、そんな力をもった魔導師が居ない事を、再認識する。
「黒幕のことばかり考えて、肝心なことをお留守にしてた」
ザインが焦っていたのは、アーラッドの放った、あの破壊光線の凄まじい威力を想像したからだ。
「つまり、クルセイド城内に密通者がいた。と言うことになりますか」
恐らくこの時点で、誰もが考えていた結論が、ロカの口から飛び出る。皆頷くが、その中で、ザインだけは首を横に振る。そして、ジーオンを一睨みする。まさか、彼がジーオンを疑っているのではないか?まさか?逆の疑いがザインを襲う。
「ジーサン……」
「なんじゃ?」
ジーオンは、いつもの様子だった。落ち着いている彼らしさが感じられた。
「融合とか、契約ってのは、やっぱり魔力が優先するのか?!」
ザインが、ジーオンを疑い、睨み付けたのではないことを理解できると、三人はホッとする。アインリッヒは、特に安心した。何より仲間と戦うことで、彼の心が傷つくことを恐れたのである。
「意味が解らぬが……」
「ホラ!幻影では、アーラッドの奴は蛇を使っていた!呪いには、小動物を生け贄に使う!」
「ふむ。魔力はいるじゃろうな。じゃが、知識と魔力を増幅する手段、場合によっては、それ相応の贄を要する。しかし、時間をかければ、巨大な魔術を完成させることも不可能ではないはず。モノによっては……じゃが」
話は自然と、魔族との融合に関することになっていた。アーラッドがそのキーワードだ。
推測だが、ザインの中で一つの結論が出る。躊躇いはあったが、最悪の事態を招くよりましだと、結論に踏み込む。
苦い顔をしたザインはゆっくりと口を開いた。
「黒幕は……、クルセイド国王だ」
誰もが、返す言葉を失った。それぞれの動揺を示すように、馬達も落ち着きなく、足を浮かせている。
ザインの中だけで纏まった結論だ。そこへたどり着くまでの筋道が、全く理解できない。だが、冗談で彼がこのようなことを言わないのは、誰もが解ることだった。人民の頂点に立つ国王より、彼らにとってはザインのほうが、遥かに信用のおける人物だった。しかし、黒幕が国王と言われれば、流石に否定せざるを得ない。
「まさか!馬鹿な!!」
真っ先にこう言ったのはロンだった。そして続けてこういう。
「私達五大雄は、祖国はもちろん、中央においてもその信頼は衰えないはず!何よりも私達は忠義を尽くしている!!」
五大雄と言うものに、何より誇り持っているロンは、拳を握り声を荒げ、悲痛に訴える。それは同時に、ザインを疑えないことを意味していた。
「より頑強な国家体勢を作り上げるため、力を持ち、民からも慕われる我々は、王にとっては、邪魔な存在だった……」
悲しげに、ロカが呟く。静かに目を閉じ、現実を受け止めることにした。
「その演出として、エピオニアを危険とし、我々を潜入させ、最終的に、アーラッドと心中か……」
アインリッヒが、簡単な線を結んだ。それが大凡の目論見だ。
「いや、もっと都合がいいのは、俺とアインを抹殺しておくことだった。そうすれば、アーラッドは、深手を負わされ、十分に力を付けた国王が、ヤツを倒す。国を統率する王だ。計算高くなくては、やっていけない。それぐらいのことは、十分考えられるはずだ」
ザインが語り終えると、ジーオンは徐に、スタークルセイドのエンブレムを懐から取り出し、ぽとりと地面に落とす。すると、ロン、ロカ、アインリッヒもエンブレムを取り出す。しかしザインはエンブレムを取り出さない。そして緊迫感のない声でこう言った。
「もったいねぇよ。捨てることないって」
命がけ、と言った雰囲気に飲まれていた全員の顔が、ぽかんとなってしまう。そう言う雰囲気に持ち込んだのは紛れもなくザインの筈だ。しかし、今はヘラヘラと笑っている。
「そうだな。帰ってから考えても、良い話だ」
アインリッヒが、再びエンブレムを懐にしまい込む。それを見たロンとロカも、エンブレムを捨てるのを止めた。そそくさと懐にしまい込む。
「わ、儂の立場はどうなるんじゃ?!」
みっともなく、馬から降り、エンブレムを拾い直すジーオンの姿が、ションボリとして感じられる。にやにやしているザイン、クスクスとおかしげに笑う三人、年甲斐もなくむくれっ面をするジーオンがそこにいた。
「いざ、出陣!」
ザインが力強く右腕を振り上げると、アインリッヒが勢い良くロードブリティッシュを走らせる。ロン達もそれに続く。
城に着くと、厳めしい兵士達が城内へ続く通路の両脇をびっしりと固めている。これは英雄凱旋への敬意である。城内に入ると、ジーオンを筆頭に玉座の間まで向かう。
「よくぞ、エピオニアに埋もれていた危機を、攻略してくれた」
既に先遣隊の誰かが、王に報告したのだろう。だが、事件の詳細は知らないはずだ。一つだけ言えるのは、黒幕の思惑通りに事が運ばなかったのは確かであると言うことだけである。
しかし、王に飛びかかるわけには行かない。そうすればたちまち大勢の兵に囲まれ、彼らの行き場が無くなってしまう。何も知らない兵達を、傷つけるわけには行かないのだ。
ザイン達は、まだ国王への忠誠の姿勢を崩していないかのように跪いたままである。赤く敷き詰められた絨毯を眺めながら、真実を待つばかりだ。
だが、兵士達が突如ざわめき出す。静粛でなければならないこの場で、落ち着きのない空気が、部屋中に広がって行く。
「諸君。静粛に……」
国王が冷静に、この騒めきを沈めにかかる。しかし、ざわめきは次第に、叫び声に変わって行く。
「王!そのお姿は……」
一人の兵士がついに堪えきれず、恐怖に震えながら、このように申し出た。
「儂が?……!!」
王は自分の腕を見て、ギョッとする。それと同時に不信に思ったザイン達は、面を上げ国王の顔を拝む。そこには既に、自分たちの知っている国王の趣は無かった。アーラッドと同じように、醜い悪魔の顔になり果てている。
「馬鹿な!馬鹿な!」
人間の姿を保てなくなった国王は、とたんに慌てふためきだす。予想外だと言いたげだった。
立ち上がり、狂ったように部屋を破壊しだす。国王であるため、兵士達にはどうすることもできない。しかし、ザイン達は各々構えを取る。
理由は簡単だった。己の予想に反し無事生還した五大雄への怨念が彼の中の悪魔を増幅させたのである。そして、人間である彼を保てなくさせたのだ。
「魔法を統べる根元の力よ。かの者の力を封じたまえ!!ルートアウト!!」
ロカが素早く魔法を唱える。彼はアーラッドとの戦いで、尤も有効な手を学習していたのだ。しかし、瞬間にして、ロカに疲労の色が濃く出る。相当の魔力を消費したようだ。
それは国王が、魔法を使用できないようにするための魔法だ。
「大いなる神の後光よ!!悪しき者を焼け!!サンスピリッツ!!」
続けざまにジーオンが杖を振りかざし、攻撃呪文を唱える。対魔族用の神聖魔法のようだ。悪魔化した国王の黒い表皮を焼き、そこから腐敗に近い異臭が放たれる。
「ぐあぁぁ!何故だ!!」
自分の変化に動揺しながらも、絶対的な力を得ているはずの自分が意図も容易く、彼らの攻撃にダメージを受けている事に、混乱を隠せない。
「ソウルブレード!!」
国王が絶叫し、混乱している間にザインが十八番で斬りつけた。ロンもアインリッヒも、時間差で王に斬りつける。
「奥義!龍乱舞」
ロンの気合いの入った声が部屋中に響きわたる。しかし、誰が見ても我流なのは一目瞭然だった。しかしその連撃は、相手の反撃を許さないほど凄まじかった。
アインリッヒは持ち前の剛刀で国王を一刀両断にする。
国王はダメージを受けながらも、その凄まじい再生力で死ねずにいる。魔物である利点と欠点をも同時に持ち合わせたための、苦痛である。
「邪なる者に封印を施せ!シルドダーク!!」
すかさずジーオンが、魔法を唱え、国王の周辺に光の六芒星を描く。彼は最後の反撃に出るべく、アーラッドの放ったような、光線を口から放とうとするが、それは既にロカによって封じられている。
次の瞬間、王は二つの肉体、つまり人間である彼と、魔族であるで彼が完全に引き離される。そして、悪魔の身体は完全に消滅する。
以外と呆気ない幕切れに見える。だが、もし、アーラッドとの戦闘がなければ、こうはならなかっただろう。国王は五大勇の力というものを、十分に理解していた。
だからこそ、ザインとアインリッヒを道中で襲い、さらにはリザードマンを彼らにぶつけたのだろう。しかし、ザインの存在が、全ての計画を狂わせたのだ。国王にとって、ザインはただ、ノーザンヒルの称号を烏受け継いだだけの、若者に過ぎなかった筈だったのだ。
「何故だ……」
既にズタズタになっている国王は、そう呟き続ける。
「悪魔に魂を売った時点で、あんたの敗北は、決まってたんだよ。魔族との融合は、確かに強烈な力だったが、人間との欠点も併せ持つ。再生能力がある反面、神聖魔法にはめっぽう弱い。人間のように多彩な魔法を使える反面、実体化した肉体は物理攻撃に弱い。道理さ……」
ザインは、上から見下ろす。
「この国は、絶対的な力が必要……なんじゃ……」
その時点で国王は息絶える。彼が何を感じ、何故絶対的な力を求めていたのかは、不明のままだ。ただ、五大雄が生まれた七年前の戦争が、その引き金の一端だったことは、間違いのない事実なのだろう。
国を一つに纏めようとすればするほど、その不可能さを感じたのだろう。何れは崩れて無くなるものだ。
国をより、強い力で纏めようとすればするほど、王は苦しんだのだろう。
良君か暴君か……、その場にいた者は、これを考えずには、居られない。
王の死は急死とだけ、国民に告げられ、その死から数日後、王の葬儀が執り行われた。その後彼らは、一度それぞれの国に再び散ることになる。
次代の国王は、この国の第一子にゆだねられることになった。それにジーオンがいるのだから、おかしな方向には進まないだろう。当分は彼も忙しい身になりそうだ。
国王が死んだ直後、一つの鍵が落とされていた。その鍵は、どの部屋の鍵でもないらしい。
そして、国王がどのようにして、あの力を手にいたのか、疑問はいくつも残る。しかしその後、その謎を解けるものはいなかった。そのすべを知る者も、また見つけることは出来なかった。その謎が解き明かされるのは、まだまだこれから先の物語のことである。
ロンとロカは、それぞれ温かな家庭がある。家族と語ることは山ほどあり、当分戦話を語るのに退屈することはないだろう。勿論語ることの出来るのは、アーラッドとの戦いまでであるが―――。
アインリッヒは、ザインとの熱い数日を胸に押さえ、任務完了報告のため、ウェンスウェルベン家に戻ることになる。一人の剣士として、一人の女性として、父に向かい、示さなければならないこともあった。
もはや、家内で彼女を見下せる者はいない。彼女は、正真正銘のウェストヒルの照合を持つ英雄となったのだから。
屋敷の中には、鎧はつけていないが、今度はザインとよく似た軍服姿の凜々しいアインリッヒがいた。
彼女の美しさと気高さは、この戦いを得て、より磨きが掛かったと言える。以前は、家柄に対する卑屈さもあったが、今はそんな柵などどうでも良くなっていた。
どのみちある程度の目処が立てば、彼女はウェンスウェルヴェン家に離縁状を叩き着けるつもりだったし、その後の行く場所など、とうに決めている。
要するに、タイミングだけの問題だったのだ。
そしてザインは、アインリッヒが覚悟を決めた更に数日後、どうしようもなく、我慢出来なくなったザインは、突然にウェンスウェルヴェン家に訪れ、半ば誘拐気味にアインリッヒを連れ出してしまうのだった。
そして、屋敷に連れ帰るなり、ウェンスウェルベン家の断りもなく式を挙げてしまうという始末だ。両家の断りもなく式を挙げてしまった事に対して、どれほど騒ぎになったのかは、言うまでもない。
ただ、結論から言うと、厄介者でしかなかったアインリッヒを屋敷から追い出せたウェンスウェルベン家にとっては、同じ五大勇であるザインバーム家に迎え入れられるということは、絶好の機会でもあり、面子が立ったということになり、黙り込むしかなかった。
ただ、ひとつ気に入らないとすれば、若造であるザインに、一同が丸め込まれてしまったという事実だけだった。
ザインは、時折、往生で拾った鍵を眺めながら、それが何であるのかを気に掛けていた。
何故、ジーオンに託さなかったか?は、それがこの騒動に関係しているからだと思ったからだ。城内にあれば、恐らくまた何らかの火種になるに違いない。
譬え王すら知り得ない事実であったとしても、揃ってはいけないパズルのピースを一カ所に、集めておくよりも、遙かに安全だ。
恐らく、総ての解決には到っていないのだろうが、今はただ、まるで絨毯のように茂る芝の絨毯の上で、アインリッヒの肩を抱きながら、平和な時間を過ごす事にする。
【作品名】Glory(グローリー)
五大勇を継ぎし者
【著 者】城華兄 京矢
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2015年7月26日 発行 初版
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