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この本はタチヨミ版です。
得意ジャンルも作風も異なる五人の書き手が集まって一冊の本を織りなす短編集。
次のパートごとにテーマを設定し、作品を収録しています。
■パート1:テーマなし
■パート2:バレンタイン
■パート3:秋の味覚
■パート4:卒業
■パート5:タイトルに「5」が入った作品
参加者(五十音順):これこ、笹原祥太郎、楢野葉、晴海まどか、山田宗太朗
編集・校正:晴海まどか
表紙イラスト・デザイン:楢野葉
頭を殴られ続けているような、ものすごい頭痛で目が覚めた。
なんだこれ。
何か柔らかいものの上に横になっている、ということはすぐに理解できた。が、横になっているらしいのに、立ちくらみのように世界がぐるぐるぐらぐら揺れている。頭痛い。気持ち悪い。喉乾いた。僕はぼってりとして重たい目蓋をゆっくりと開けた。
視界に飛び込んでくる、クマさん。ウサギさん。ネコさん。
ぬいぐるみの森だ。
自分が横になっているのはどうやらソファのようで、そんな僕の目の前、壁際にはピンク地に黄色い花柄という頭痛がひどくなりそうな派手な掛け布団のベッドが置いてあり、ベッドの上にはずらりと大小のぬいぐるみが鎮座していた。それらは静かに、観察するように僕を見つめている。
「起きたぁ?」
思いもよらず近くからかけられた声にソファからずり落ちた。
すらりと白い足が伸びる濃紺のホットパンツにだぼっとした白いジャージという、なんともラフで無防備な格好の女が僕を見下ろしていた。肩につかないくらいのボブヘアの真っ黒な髪と一緒に、蛍光ピンクの細い毛束が右耳の後ろから顔の前に流れる。つけ毛? 幼さの残る丸い目と丸い輪郭、にかっと笑んだ大きな口。誰だこいつ、という自らの問いに自ら答えを見つける。
宇佐見弥生、だ。
その名を思い出した瞬間、走馬灯のように頭痛の向こうから記憶が押し寄せた。
大学に入学してから仲良くなった磯村くんに連れられて、僕は英会話サークルの新入生歓迎コンパに参加した。大学に行くのにもそろそろ慣れてきた四月の某日、金曜日だった。
新入生が百人近くいる、大規模なコンパだった。新宿にある飲み屋のワンフロアを貸し切っての大宴会。入り乱れる人と酒とコールの嵐の中で、ビールジョッキを仁王立ちで飲み干し、先輩たちから拍手喝采を浴びている女がいた。空のジョッキをテーブルに置いた彼女の横顔が見え、遠くからも目に飛び込んでくる蛍光ピンクの毛束を目にした瞬間。僕はその女を知っていることに気がついた。
宇佐見弥生。中学時代のクラスメイト。僕の十八年間の人生において一、二を争う変人。
こんなところで再会するなんて人生ってわからない、というのが第一感想だった。同じ大学に進学していた、という事実にも驚いたが、宇佐見弥生のような人間が英会話サークルだなんてしごく平凡なサークルのコンパにいることにも驚いた。三つ隣のテーブルで次のビールジョッキを手にした宇佐見弥生をぼうっと見ていたら、すげーなあの女、と磯村くんが嘆息した。あの女、新歓コンパ荒らしらしいよ。荒らしって? 色んなサークルの飲み会に出まくってるってこと。なるほど、それなら納得だ。
――君たち今日は来てくれてありがとう! 飲み放題だからガンガン飲んじゃって!
ぼそぼそ喋っていたら、目の前にビールのピッチャーがどんっと置かれた。僕たちは恐縮しつつも上級生にグラスを差し出し、注がれたビールを乾杯してからぐびぐびと空けた。遠くから、宇佐見弥生の奇声が聞こえていた。
……と、その辺りまで思い出して思考が停止した。靄がかかったように記憶が混沌としていて、断片的になっていく。先輩に勧められるまま飲んで、飲んで、飲んで……で、なんで僕はぬいぐるみの森にいるんだ?
というか、なぜ宇佐見弥生が僕を見下ろしている?
「ここ、どこ?」
我ながら間抜けな自らの質問に嫌な予感がし、あまつさえ予想どおりの答えだった。ここは、宇佐見弥生の部屋らしい。
「佐藤くんがゲロゲロになっちゃって、ベロベロになっちゃってしょうがないからここに収容したんだよ」
ゲロゲロで、ベロベロ。なるほど、頭痛で死にそうな僕にもわかる端的な説明だ。潰した後輩の介抱を、宇佐見弥生とはいえ新入生の女子に丸投げするようなサークルには入るもんかと固く誓った。
がんがんぐるぐるする頭を押さえ、もっそりと起き上がる。顔を上げると僕のジャケットはカーテンレールにハンガーで吊るされていて、僕の体にかけられていたらしい薄手のブランケットがソファの隅で丸まっていた。ブランケットの茶色いくまさん柄を見ていたら、急に今の事態が実感を伴って把握できた。冷や汗だかなんだかわからない汗が額に滲む。
ゆっくりと、明るい表情の宇佐見弥生に向き直る。がばっと土下座した。額を手の甲に擦りつけながらごめんなさい、と謝ったら喉が痛くて声が擦れた。で、思い当たった。
「もしかして……吐かせてもらった?」
宇佐見弥生はピースをしてから右手の人差指と中指を揃えると、僕の方に差し出した。
「こう、喉の奥にね、くいっとやると」
くいっ、のところで宇佐見弥生は指を曲げた。
「ゲロゲロっといくわけですよ」
再び土下座した。本当に申し訳ございませんでした!
僕はぬいぐるみの森に見守られながら、結局そのままそこで半日寝込むことになった。
一人暮らしをしている自宅マンションになんとか辿り着き、空腹で目が覚めるまで死んだように眠って土曜日を潰した。酒に呑まれたことはともかく、同い年の女子の部屋で介抱してもらうなんて。いたたまれなくてどこかの穴に引きこもるにはどうしたらいいかを真剣に考えてしまう。大きな失態も成功もなかった僕の人生で、こんな事態は一度もなかった。僕は良くも悪くも目立つようなことや常軌を逸脱するようなことは絶対にしなかったし、大きな粗相もしたことがなかった。それはある種の誇りでもあったのに。
日曜日中うじうじと悩み、だが時は流れて日はまた昇る。月曜日には大学に行かねばならない。うじうじしたところで、僕にできることは反省することと宇佐見弥生に謝ることくらいだと割り切り、大学へ向かった。
僕を見つけて、先週はいつ帰ったの? え、潰れた? 置いて帰ってごめんなぁ、なんて軽く謝ってくる磯村くんの相手をしつつ、宇佐見弥生を目で探した。見つからない。よくよく考えてみたら、僕は彼女の専攻もクラスも何も知らないのだった。そもそも、コンパで一緒になるまで彼女が同じ大学だということを知らなかったくらいなのだ。とはいえ、大学内をあてもなくうろうろと探す、のはなんとなく憚られるし。気持ち的には今すぐ謝って余計なわだかまりを無くしたいところだったが、仕方ない。そのうち遭遇することもあるだろう、と入れていた気合いを少し緩めた。
午後の講義を出て、僕は磯村くんと別れて大学をあとにした。電車に揺られて一駅で降りる。駅から徒歩五分、花屋と本屋に挟まれた小さなカフェ『Mad Hatter』の扉を押し開けた。テーブル席が五つにカウンター席六つの小ぢんまりしたカフェは、今日もお喋りに興じる女性客で賑わっている。
僕はここ、カフェ『Mad Hatter』で週に三日から四日ほどアルバイトをしている。大学入試が終わってすぐ、一人暮らしをするためのマンションの下見をしていたときにここを見つけた。マンションを決めた直後にこのカフェに赴いてアルバイトの申し込みをした。我ながら、自分からこんなに素早く動いたのは珍しいことだった。
大柄でクマみたいな見た目のくせにお菓子作りが趣味だというマスターに挨拶をして、控室に荷物を置いた。エプロンをかけてよし、と小さく気合いを入れて店に出た僕は目を丸くした。
カウンター席に、探していた宇佐見弥生がちょこんと座っていた。柔らかそうな生地のベージュ色のワンピースに黒いレギンスといった格好は今どきの女子大生風と言えなくもないが、耳の横に流れるひとつまみの蛍光ピンクの毛束がすべてを台無しにし、彼女をエキセントリックな雰囲気にしていた。やぁ佐藤くん、なんて気安く声をかけてくる。
いらっしゃいませ、とグラスの水を出し、それから深々と頭を下げて謝った。大袈裟だなぁ、と宇佐見弥生はからから笑う。あまりに宇佐見弥生がけろっとしているものだから、少し気が楽になった。そうだ、と思い立って、ケーキと紅茶のセットをごちそうすることを提案した。え、本当? と宇佐見弥生はしっぽを振る犬のように目を輝かせる。
「じゃあ、遠慮なくいただいちゃうよ?」
子供が絵本を開くように両手でメニューを見て、宇佐見弥生はアップルパイを選んだ。それから、セットの紅茶のページを見て動きを止めた。
「オススメの紅茶は?」
カフェ『Mad Hatter』は、紅茶専門のカフェである。宇佐見弥生が紅茶で迷うのも無理ないだろう。セットにつけられる紅茶だけでも二十種類以上あるのだ。
「濃厚な紅茶とさっぱりした紅茶、どっちがいい?」
そうだな。宇佐見弥生はピンクの毛束を右手の人差し指でくるくるやった。
「じゃあ、今日のところはさっぱりで手を打とう」
僕はセット紅茶の一覧から、『ニルギリ』という文字を指さした。
「ニルギリはインドの紅茶で……」
「ニルギリって、現地語で『青い山』って意味なんだよね」
宇佐見弥生は嬉々として僕の解説を遮った。
「うん、確かにさっぱり系だね。紅茶のブルーマウンテンって呼ばれてるんだっけ。ダージリン、アッサムと並ぶインドの三大紅茶」
ぺらぺらとニルギリのうんちくを並べたてる宇佐見弥生に、僕は焦っていた。紅茶については自分も勉強しているつもりだったのに。
「なんで、そんな詳しいの?」
「何年か前に、本で読んだんだ」
何年か前の知識がこんなにすらすら出てくるのか、こいつは。
「でも、飲むのは初めてだよ」
「まぁ……紅茶は飲まないとわからないしね」
なんだか負け惜しみみたいな言い方になってしまった。そして、思い出す。中学時代の宇佐見弥生のあだ名。
『三月ウサギ』。
弥生だから三月、だなんてかわいらしい理由は表向きだ。実際は、不思議の国のアリスに登場するいかれたウサギのキャラクターから取っている。いかれた三月ウサギ、宇佐見弥生。彼女は、興味を持ったものはなんでもかんでもとことん調べて研究した。物でも、動物でも、人でも。研究と称してクラスの特定の男子をつけ回し、失笑を買っていたこともある。そんな彼女の行動は、『ウサちゃんの一人遊び』だなんて揶揄されていた。
紅茶について詳しいのも、紅茶がこの一人遊びの対象になったことがあったからだろう。
中学時代に宇佐見弥生と話した記憶はあまりない。けど、いかれた三月ウサギ、と陰口を叩いていた連中の気持ちがほんの少しわかった。宇佐見弥生は、ただの変人とすませられないほどに博識でもあった。本当に面白くない、こいつは。
あの日を境に、宇佐見弥生は度々カフェに来るようになり、そして大学でも大学の外でも、僕を見かけるとなんとも無邪気に手を振った。弱みを握られているわけじゃないが、仮にも恩人だということもあり、そんな宇佐見弥生を邪険にはできなかった。なので、僕も渋々手を振り返す。
そんな宇佐見弥生と僕のやり取りは、最初は友人たちに多大なる誤解を与えた。が、そのキャラがわかってくると、友人たちの誤解はすぐに解けたようだった。僕の仲間内で、宇佐見弥生は何かとまとわりついてくる小学生的なポジションに落ち着いた。宇佐見弥生は時折僕と僕の友人たちと食堂でランチを食べるまでになった。
宇佐見弥生は、中学時代から何も変わっていない。人懐こくて人見知りしなくて、悪気なくその知識をひけらかし、周囲の人間をほんの少し劣等感に苛ませる。それは僕にとっても例外ではなかった。宇佐見弥生の存在は、今まで意識してこなかった自分の凡庸さを浮き彫りにする。ちょっと紅茶に詳しいだけの地味な大学生。良くも悪くもすべてにおいて平均点。わかっていたはずのその事実が、なんだか無性にいたたまれない。
僕は結局どこのサークルにも所属することなく、家と大学とカフェ『Mad Hatter』を往復する日々を送っていた。同じ専攻の友人たちは、サークルに入ったり入らなかったりで、サークル仲間とつるむようになり一緒に行動する時間が減った奴もいた。宇佐見弥生はあいかわらずだったけど。
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年8月15日 発行 初版
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