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羽根/アダムとイヴの純愛

山本ハイジ

ikuraotome出版



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羽根

 この白い部屋の天井には、大きな真四角の窓がついている。見上げれば、いつでも空を観賞することが出来た。今は夜空。
 その真下にベビーベッドで、ブランケットに包まれて眠る彼女がいる。先程ミルクを飲ませて、何とか寝かしつけたところだった。安らかな寝顔を眺めながら、ため息を一つ吐く。私はこれから長い時を彼女と過ごす。
 彼女は死刑囚の女の腹から取り出されたらしい。女を母と認識していないうちに、彼女は研究所のこの部屋へ運ばれてきた。
 私は彼女をある実験に基づいて育てるという、重要な役割を任せられている。つまり彼女は実験台。
 あまり気乗りしない仕事だ。体が治ったばかりなのに。だが、仕方ない。眼鏡を外して白衣を脱ぐと、座っていたソファーベッドに寝転び、瞼を閉じた。

 翌日。研究員たちから渡されたミルクとオシメで、彼女の世話をする。赤子の世話というのは予想していたより大変なもので、彼女が泣き出すたび戸惑ってしまった。あと、私がしなければならないことはもう一つ。これはミルクやオシメに比べたら、楽に感じた。が、慎重さを要する。
 彼女を抱き上げるとテレビの前に座って、電源を点けた。映るのは木の枝に止まり、羽根を休めている鳥の映像。青い羽根が何とも美しい。彼女はじっと、画面の中の鳥を凝視している。一瞬後、鳥は羽ばたいて飛んでいった。画面はそれを追いかけるように、大空へ消えていく鳥を映す。私は彼女の耳元で囁いた。
「あれは、鳥」
「……」
「あんな風に、空を飛べるんだ」
「……」
「美しいだろう? 君もいつか、羽根がはえて鳥になるんだ」
「……」
「君は鳥だ」
 彼女に「自分は鳥である」と思い込ませること。それが、実験の内容だった。
 このテレビは鳥の映像しか映し出さない。テレビの他には、鳥の図鑑や鳥の写真集などを見せて教育した。
 彼女はキャッキャッと笑いながら、小さな手のひらで鳥の写真を叩いて遊んでいる。強い興味を持ったようだ。私はひたすら「君は鳥だ」と、彼女に教え続ける。
 鳥以外の余計な知識は、間違っても与えないように細心の注意を払った。彼女が自分は人間だと自覚してしまった瞬間、この実験は失敗に終わる。
 彼女が赤子のうちに刷り込んでいく。実験の結果は彼女が成長すれば、わかることだ。
 こんな風に私は彼女を育てていった。彼女が初めて発した言葉は「トリ」。喋れるようになっても、口数は少ない子だった。でも暗い訳ではない。よく笑い、よくはしゃぐ子だ。
 彼女の体がベビーベッドに合わなくなれば、ベビーベッドは片づけて、彼女は私と一緒にソファーベッドで眠るようになった。彼女は私に抱きついて、甘えてくる。
 トイレの仕方は人間的過ぎるから、教えなかった。彼女はこの先、オシメを外すことは出来ない。
 彼女の食事はミルクから、食用ミミズに変えていた。
 自分で動き回れるくらいになると、あの窓の下で彼女は昼の光を浴び、微笑みながらぴょんぴょん跳び回る。お気に入りの遊びらしい。

 彼女が赤子から子供くらいに成長して、わかったことがある。それは、彼女は美しい少女だということ。色素の薄い茶色い髪はやわらかく、彫りの深い顔立ちをしていた。
 彼女は今、窓の下に突っ立って空を見上げている。私はソファーベッドに座って、そんな彼女を眺めていた。そろそろ昼食にしようと、食用ミミズが一杯に詰め込まれたビニール袋を取る。
 鳥らしい食事だろう。研究員たちが飼育して、ちゃんと泥抜き処理もしたミミズ。ビニール袋の縛り口をほどいて、中に手を突っ込んだ。
 一掴み、ミミズを取り出すと彼女を呼ぶ。
「おいで」
 彼女は空から目を離し、私の方へ顔を向けると、表情をぱあっと輝かせて走り寄ってきた。
「……エサ!」
 彼女は私の膝へと乗りかかり、腕を私の首に回して顔を近づけてくる。私はミミズを一口、含んだ。
 ヌメヌメとした舌触り。味はほとんどしなかった。彼女の後頭部に片手を這わせて、エサをねだるその唇を塞いだ。
 唾液と一緒に、どろどろになったミミズを彼女の口内へ流し込む。彼女は喉をゴクンと鳴らして、飲み下す。私がもう一口、ミミズを含むと今度は彼女から口づけてきて、生温かい舌が口の中で動き回った。
 私の唇と彼女の唇の間で、唾液とミミズが糸を引いている。彼女はビニール袋のミミズを半分ほど減らして、私はその残りを食べた。
 そして、彼女とテレビを見る。画面は白鳥の姿を映し出していた。彼女はテレビに眺め入っている。少しして、悪臭がしたから彼女のオシメを替えた。
 日暮れには夕食を済ませて、洗面所へ入った。オレンジ色の石鹸が一つだけ置いてある洗面台と、簡素な脱衣所。それに隣接しているのはシャワー室。二人して裸になると、狭いシャワー室に彼女を先に入らせてから、私もやや無理をして入る。窮屈だ。シャワーのコックを捻ると頭上から降る、お湯の雫。
 私はぼうっと彼女の濡れていく、浮き出た肩甲骨を見ていた。
 シャワーを浴び終える。脱衣所で彼女の体と髪を丁寧にタオルで拭いて、オシメを穿かせた。前身頃から続く布を首の後ろで結ぶ、背中の出る型の白いワンピースを着せる。私も衣服を身に纏うと、彼女と一緒に洗面所から出た。
 テレビを点けて、彼女が夢中になって見ている間に、今日出た汚れものとゴミを分けて袋に入れた。それを持つとドアの鍵を開けて、廊下に出る。忘れずに鍵はかけ直した。このドアは内側と外側の両方に鍵穴があり、開けることが出来るのはいつも白衣のポケットに鍵を入れている私だけだ。
 廊下はしんとしている。並ぶ窓の向こうは薄暗く、もう日が落ちていた。遠くに見えるのは灯台の明かり。
 ある研究員の部屋を目指して歩き出す。途中で腰の辺りから、私を呼び止める声が聞こえた。子供のような、甲高い声。
「ゴミか? 洗濯か?」
「……両方です」
 立ち止まって振り返ると、視線を下へ向ける。禿げ上がった頭頂部が見えた。ゆっくりとその頭が後ろに傾き、顔が上がる。ぎょろぎょろとした落ち着きのない目。
 彼の顔立ちは、とうに成人を過ぎた中年のものだ。目元と口元に深い皺を刻んでいる。それでいて不均衡にも身長が百センチほどしかなく、自分の寸法に合わせた短い白衣を纏っていた。私は彼の部屋へ向かうところだった。手間が省けた。
 屈んで彼と視線を合わせると、袋を両手に手渡す。すると、彼はこんな質問をしてきた。
「娘、羽根はえたか?」
「いえ、まだ全然」
 彼女の肩甲骨を思い出しながら答える。彼は「そうか」と呟くと頷き、そのまま袋を二つ床に引きずってとことこ去っていった。一応、彼は研究員たちの一人ではある。だがその実、やっていることは研究員というより、単なる雑用係だった。だから彼が羽根のことを聞く必要性はそんなにない。大方、せめて研究員の気分だけでも味わいたいのだろう。
 トイレに寄って用を足してから、部屋へ帰ることにした。彼が廊下にいたのも、多分その為だろう。この研究所の研究員たちが住み込む部屋は、あの洗面台とシャワー室があるだけでトイレやキッチンは共同だった。
 部屋に帰ると、彼女は変わらずテレビを見ている。

 羽根。そう、実験の目的は彼女に羽根をはやさせること。人間は思い込みの力だけでその形を変えることが出来るのか、どうか? それを試しているのだった。
 人間には羽根がないだなんて、どこの誰が決めたことだろう? いつの間にか出来上がった先入観に過ぎない。
 その先入観さえ、最初からなければ。

 数日後、彼女の様子に異変が現れはじめた。いつものように窓の下で跳びはねていたのだが、表情がおかしかった。空一点のみを見つめたまま、口元はまったく笑っていない。
 苦しそうに喘ぎ、こめかみに汗を伝わせている。疲労は相当なはずだ。なのに彼女は両手を空に向けて伸ばし、跳び続けている。
 私は止めることもせず、ソファーベッドに腰かけて彼女を観察していた。彼女が特に高く跳んで、着地に失敗して転んだ時にようやく駆け寄る。彼女はうめき声を上げながら、泣いていた。
 足首を捻挫していたが、泣いているのは痛いだけが原因じゃないように思えた。研究員たちから救急箱をもらって、彼女の足首を手当てする。包帯を巻けばそれ以上、彼女は跳ぶのを諦めた。
 しかし、それでも彼女の奇行は止まらなかった。また少し日数が経って、ある日の昼間。今度は壁に頭を打ちつけたり、引っ掻いたりを繰り返すようになった。彼女の額は腫れて、小さな爪は剥がれて肉が露出する。真っ白な壁に描かれる赤い線。
 私は前と同じく様子を見てから、彼女がぐったりしてきたところで介抱した。額に湿布を貼って、指先に包帯を巻く。包帯はすぐに血で汚れてしまった。彼女はソファーベッドに仰向けになって、天井の窓越しの空をぼうっと見ている。
 痛々しい。彼女はきっとここを出て、空を飛びたいのだ。彼女の頭を撫でながら、優しく話しかける。
「空を飛べるのは羽根がはえて、君がもっと大きくなってからだ」
「……」
「多分、羽根ならあともう少しで、はえてくる」
 彼女は静かに頷いた。羽根はあともう少しで、はえてくる。私のこの言葉は気休めではない。彼女の精神は確実に鳥と同化している。それが肉体に作用する前は、情緒不安定になるものだ。
 ふと、彼女を撫でる手を止めて、上を向いた。差し込んでいた陽光が遮られたからだ。窓に映るのは見慣れた小人の、靴の裏。彼だ。脚立を抱えて、うろちょろしているようだった。屋上にいるということは、洗濯物でも干しているのだろう。
 彼が視界から消えると、見えた太陽の煌めき。
 ……空を飛びたい、か。この実験の、実現を目指す最高目標だった。
 実験は羽根をはやさせる以外にまだやることがある。彼女に羽根がはえて、またある程度成長させたら、彼女を空へ放つという最終実験。

 私の言葉に頷いたにもかかわらず、彼女の壁に対する攻撃は日に日に激しさを増していった。足首の捻挫が治ると、彼女は再び窓の下で病的なくらい跳びはねる。彼女の体はもう、ボロボロだった。私は彼女を止めることにした。
 暴れる彼女を無理やり正座させて、手首と足首を片方ずつ合わせると、まとめて包帯で縛り拘束する。長時間続けばかなり苦しい体勢だろう。
 彼女は反抗的にウーウー唸っている。その唸る気力がなくなれば、包帯をほどいてやるつもりだ。残酷な仕打ちかもしれない。だが彼女を落ち着かせる為には、仕方ないことだ。彼女の前に立ってもう一度、言い聞かせる。
「まだ、早い」
 彼女は唸りながら、私を睨んだ。
「……待つんだ」
 せめて、彼女が退屈しないようにテレビを点けた。水辺で戯れているフラミンゴ。
 しかし彼女は、画面から目をそらしてしまう。鳥を妬んでいるのだろうか。困った。
 諦めてソファーベッドに座り、深くため息を吐く。
 一時間、経った。彼女の唸り声は弱々しくなってきた。二時間、経った。彼女は沈黙した。念の為、あと一時間のばすことにした。そして三時間経った。彼女はうなだれて、太腿をもじらせている。包帯をほどいた。途端、彼女は横に倒れる。
 その足は相当、痺れているのだろう。彼女の足をさすりながら、ワンピースの中へ手を滑り込ませて、オシメに手をかけるとそっと下ろす。
 オシメの中には排泄物がたまっていた。ウエットティッシュで汚れた個所を拭い、新しいオシメを穿かせる。これで暫くは、大人しくなるだろう。ひどくこたえたはずだ。
 だが、さすがに胸が痛い。彼女の顔へ向かって、手を伸ばす。彼女は一瞬ビクッと震えた。
 その頬を優しく撫でてから、彼女を抱きしめる。彼女の後ろ髪を指でクシャクシャにしながら、互いの頬を擦り合わせた。
「ごめんよ。辛かっただろう? でもこれ以上、ケガをさせたくないんだ」
「……あ、あ」
「大丈夫、君は鳥だ。いつか飛べる」
 彼女は嗚咽を漏らしていた。
「さあ、もうエサの時間だ」
 そのあと、彼女は再び大人しくテレビを見たり、鳥の写真を眺めたりするようになった。これでいい。自傷ともいえる彼女の行為があのまま続いてエスカレートしていったら、取り返しのつかないことになったのかもしれないのだ。壁に思いっきり頭をぶつけて、もしもその打ち所が悪ければどうする? 大袈裟だろうが死ぬかもしれない。
 羽根がまだ、はえていないのに。

 私からミミズをもらって、鳥の姿をうっとり観賞して、天井の空を見上げて、そのまま楽しそうに軽やかに跳びはねて遊ぶ。そんな日々を繰り返し、彼女は十歳になった。身長がすらりと伸びている。ワンピースの裾から覗く、子供にしては長い脚。
 彼女の成長について、気づいたことはもう一つ。肩甲骨が不自然に出っ張ってきた。研究員たちに報告すると、研究員たちは私にポラロイドカメラを渡して「これで娘の背中の経過を、まめに記録してくるように」と言った。
 私はそれから毎日、彼女の背中を撮影した。増えていく写真は肩甲骨がどんどん目立っていく様子を、まるで連写したかのように写していた。今や肩甲骨は、皮膚を破って飛び出しそうな勢いだ。
 彼女は気が狂ったように、背中を掻きむしっている。痒いのだろう。掻き過ぎて、背中は真っ赤になっていた。肩甲骨に伸ばされて薄くなった皮膚は、所々傷つき出血している。盛り上がった肩甲骨の頂上付近のもっとも薄い皮膚が掻き破られると、黄色い骨がうっすら見えた。
 そして、その骨は徐々に突き出てきた。まるで爪が伸びるみたいに、肩甲骨は生長していく。私はひたすら写真を撮り続けた。
 痒みの方はおさまってきたようだ。しかし今度は、シャワーを嫌がるようになった。しみて激痛が走るのだろう。彼女の体は濡らしたタオルで拭いて、綺麗にする。
 だが、消毒は我慢してもらわなければならない。破られたばかりの皮膚は未完成で、ただの傷だ。放っておけば化膿して、黴菌が入るかもしれない。脱脂綿に消毒液を染み込ませて、骨の周りに押しつけると彼女は泣き叫んだ。が、暴れたりはしなかった。私が「あともう少し、もう少しで羽根は完成する」と、勇気づけていたからだろう。健気なものだ。
 羽根が欲しい。きっとその一心で、彼女は苦痛を堪えている。思わず情に動かされて、何度も彼女に「がんばれ」などと声をかけた。
 写真を撮って、消毒して、羽根のゆくすえを見守る。彼女を苦しませている骨は、少しずつ羽根の骨組みを形成していった。そして、芽吹きはじめる羽毛。

 数ヶ月、経った。彼女の様子を報告する為に、写真を何枚か持って部屋を出る。そのまま研究員たちが集まっている部屋へ向かった。ドアを開ければ、並ぶデスクとコンピューターに、煙草の煙で満ちた空間。
 ほとんどの研究員たちの仕事は、食用ミミズの育成と開発だ。羽根に直接関わっている者は僅かだった。そんな研究員たちのうち、ある一人に近寄る。
 その研究員は私に気がつかず、くわえ煙草でコンピューターをいじっていた。私がいるのは研究員の右側。この研究員には、右目がない。左目はコンピューターの画面を凝視しているのだろう。
「報告です」
「おっ? ああ、悪い」
 研究員は回転イスを腰で動かして、私の方を向いた。コンピューターのキーボードに置いていた右手で、煙草を口から離し、煙を吐きながら灰皿に灰を落とす。研究員は右目だけではなく、左手も存在していなかった。
 写真を差し出すと、研究員は再び煙草をくわえてから写真を受け取った。手の甲で灰皿をデスクの隅へどけると、カードを広げるみたいな器用さで写真を並べる。彼女の変化していく背中を見て、煙草をまた口から離し、煙を吐きつつ話しはじめた。
「大分、出来上がってきたね」
 持ってきた写真は、毎日撮っていたものの中から選んで、彼女の変化をわかりやすくしたものだ。写真の一枚目は背中から伸びた骨を写している。骨に貫かれた皮膚は、赤く腫れていた。つけてしまった無数の引っ掻き傷はかさぶたになっていた。写真の二枚目は僅かながら骨に羽毛らしきものがはえてきて、皮膚の腫れは引いてきた。かさぶたも薄くなっている。写真の三枚目では骨の羽毛が増えていた。骨を囲む皮膚と、背中は綺麗になっている。それから四、五枚と続く背中の進化の様子。
「ええ、まだ小さい羽根ですが」
「彼女は今、何歳だっけ?」
「十歳です。……もうじき、十一歳になりますが」
「そう。実はね、彼女が成人して最終実験を行う前に、君に一つやってもらいたいことがあるんだ」
 私に残された仕事はもう、彼女の羽根を育て上げることだけだと思っていた。
「やってもらいたいこと、とは?」
「ああ、今はいい。時期がくればいずれ話すよ」
 研究員は写真をまとめて、灰皿を元の位置に戻すと、短くなった煙草を揉み消す。
 報告は終わった。帰ろうと踵を返したが、あることを思い出してまた研究員に振り返る。
「ああ、そうだ……今日、彼女を庭に出してもいいですか?」
「うん? なんで?」
「たまには、外に出してやりたいんです。天気もいいことですし」
「まあ、別に構わないよ。皆に庭へいかないように言っておく」
「はい。ありがとうございます」
 窓の下で楽しそうに跳ねている彼女を見て、思いついていたことだった。部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、ノブが勝手に下りる。開いたドアから現れたのは、資料を片手にたくさん抱えた頭が二つある研究員。その研究員に道を譲ってから廊下へと出た。
 廊下の窓から見えるのは灯台と、太陽の光を反射して水面をキラキラさせている海。本当、天気がいい。
 部屋に帰れば光差すあの窓の下で、踊るように跳びはねている彼女。ワンピースの裾をひらめかせて、背中には小さな羽根。
「庭へいくよ」
 と、声をかけると彼女は跳ぶのをぴたりと止めて、表情を輝かせた。今まで彼女を庭へ連れ出したことは、ほんの数回しかない。たまには外の空気に触れて、直に空を眺めるのもいい学習になるだろう。ドアを開けて廊下に出れば、彼女はニコニコしながらついてくる。
 長い階段を下りて玄関につくと、彼女の足にサンダルを履かせて、私もスリッパから適当な靴に履き替える。そしてガラスドアを開けて、彼女と共にアスファルトを踏んだ。
 塗装された道を歩き、やがて見えるのは背の低い鉄製の柵。その向こう側では、ポプラの木が列をなしてはえている。柵の開き戸の上から身を乗り出して、内側に取りつけてあるカンヌキを外し、中へ入った。
 ここからアスファルトは存在しない。やわらかな土と草を靴の裏に感じながら、彼女と手をつないでポプラへと向かう。木と木の間を通れば、そこは緑と白と青の世界。
 地面一杯にはえている青い花をつけた露草と、小さな白い花をつけたアカネ。それを真っ白な花を咲かせる紫陽花、アナベルと鮮やかな青い大輪の花、西洋朝顔のヘブンリーブルーがさらに彩っている。そよ風に運ばれてくる甘い香りは、低木で下向きに咲いているラッパ状の大きな白い花、エンジェルス・トランペット。この美しい花畑を円形に囲んでいるポプラ。研究員たちの気分転換や、趣味での植物の研究に使われたりする場所だった。
 エンジェルス・トランペットの花には毒がある。間違っても口に入れたりしないように言い聞かせてから、彼女を遊ばせた。私はポプラの幹に背を預けて、駆け回っている彼女を見守る。途中で走るのを止めては、好奇心旺盛にアナベルの花弁をつつく彼女。青天の下、無邪気に笑いながら花と戯れているその姿は、美しい。
 ……どうやら私は、見守るつもりが見とれていたらしい。彼女がまた走り出して、つまずいて前のめりに転んでも、ワンテンポ反応が遅れた。はっとして、慌てて倒れた彼女に近寄り、傍に膝をつくと彼女の体を仰向けにして上体を助け起こす。幸いにも茂った草がクッションになったのか、擦り傷一つ負っていなかった。彼女はきょとんとしている。
 途端、空から聞こえてきた鳴き声。彼女は私の体をはねのけて、急に立ち上がった。私はその拍子に尻餅をついてしまった。
「トリ!」
 彼女は空を仰いでいる。座ったまま見上げてみれば視界に入った、白い羽根を広げて飛ぶ鳥。多分、白鷺だ。私に背中を向けているから、彼女の表情はわからない。でも、うっとりとした笑みをきっと浮かべていることだろう。
 白鷺が去っても、彼女はずっと空に眺め入っている。私は視線を空から彼女の羽根へ移した。まだ小さいながら、形のよい羽根。
 日没まで遊んだあと部屋に帰って、食事を済ませた。シャワーを浴びる前に、最近追加された世話をする。それは水を弾くように、羽根に薄く油を塗る作業だ。油をつけた指で彼女の白い羽根を一枚ずつ、丁寧に撫でていく。
 彼女の羽根は、あの白鷺のように立派に育つだろうか。

 天井の窓に雪が積もって、空が見えない。この季節、研究員たちからもらった電気ストーブを置いてはいるが、やはり肌寒い。
 彼女はこの日点けっぱなしのテレビを見ることもせず、ソファーベッドでブランケットをかぶり寝込んでいた。お腹が痛い、と、うめいて。
 寒いから差し込んでしまったのだろうか? かわいそうに。とりあえず彼女の排泄物を気にして、ブランケットを捲り、ワンピースも捲るとオシメに手をかけて下ろした。途端、鼻につく鉄臭さ。
 驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。オシメの中が赤黒く染まっていたからだ。何か、大変な病気にでもかかってしまったのだろうか? オシメを替えて、ブランケットをかけ直すと慌てて部屋から出た。
 研究員たちの部屋に飛び込んで、彼女の出血について話す。すると出血の説明と、前に言われた「やってもらいたい」ことについての話をされて、私は研究員たちの部屋をあとにした。
 私たちの部屋へ戻る。寝息を立てている彼女の安らかな顔。

 それから私はいつも通り、彼女の世話を繰り返す日々を送った。彼女は月一回の痛みさえ乗り越えてしまえば、また元通りにテレビや写真で鳥を観賞して、窓の下で空を見上げて楽しそうに笑う。
 しかし日数が経つにつれて彼女は時折、寂しそうな表情を浮かべるようになってしまった。それは一緒にテレビを見ている時。彼女はあの恍惚とした様子で画面の中の鳥に見とれていたのに、ふと私の方を振り向いた瞬間、熱に浮かされたような笑みは掻き消えて戸惑いの色を見せた。
 その時私はきっと、恐ろしく冷めた顔をしていたのだろうと思う。画面の中の白鳩も不思議そうに小首をかしげて、こちらを見ていた。そんな錯覚。
 彼女の世話はいつもと変わらずちゃんと行っている。ただ問題は、私の感情。それは無意識に態度へ現れて、彼女に伝わってしまったのだろう。以来、彼女がせっかく鳥たちを観賞していても、窓の下で遊んでいても、私の表情やふとした言葉の語調の冷たさで、彼女はうなだれて私の白衣の袖を引っぱるのだった。
 親失格だ。このままだと、彼女の成長に支障をきたす。けれども私はどうしても、投げやりになってしまう自分を止めることが出来なかった。
 研究員たちに言われた私にやってもらいたいことも、素直に従ってはいる。ビデオを渡されて、個室に通されても私の体はまったく反応しない。研究員たちはあの手この手で、私を反応させようと苦心している。……これは単に私が不能なだけなのか、それとも研究員たちに対する反発か。

 そのまま冬と春が過ぎて、彼女は十二歳になった。天井の窓から差す、夏の日光。
 私の不調のせいか、彼女は二度目の不安定期を迎えていた。彼女がいくら窓の下で転んでも壁に激突しても、ケガの手当てはするがもう止めることはしなかった。
 頭と膝、手に包帯を巻いた姿でテレビの前に体育座りして、ぼうっと画面を眺めている彼女。私はソファーベッドで仰向けになって怠惰に過ごしていたが、そろそろ研究員たちの部屋へいかなければと思い、身を起こした。
 彼女に何も言わないまま、部屋から出ると研究員たちの部屋へ向かう。そしていつも通りビデオと紙コップを渡されて、通される個室。二畳ほどしかない室内の半分を占めているソファーに座って、目の前のテレビに電源を入れるとデッキへビデオをセットした。
 途端、画面に現れたのは男女の交接の様子。それを暫く見ても、私の陰茎は勃起する気配がない。そのまま映像は終わって、退屈さにため息を吐きつつビデオを出す。
 研究員たちの部屋に戻りビデオを返して、カラの紙コップを差し出せば、右目と左手の欠けた研究員は肩を落とした。平謝りしてから研究員の「次はもっと、強力な精力剤を仕入れて……」云々という独り言を聞き流し、部屋を出ようとドアを開ける。
 ガツン、と、何か硬いものにドアをぶつけた手ごたえがあった。同時に甲高い悲鳴。何事かと廊下に踏み出してみると、そこにはひっくり返った小人の彼とプラスチックのカゴに、散乱している湿った衣類。
「びっくりした! びっくりした!」
「す、すみません」
 後ろ手にドアを閉めつつ、急いで彼の体を助け起こす。幸いにもドアは彼に直接ぶつかった訳ではなく、カゴにぶつかったようだった。散乱した衣類はほとんどが白衣。私はカゴを手に取ると、それらを掻き集めて入れた。
 彼は洗濯物を干しにいく途中だったのだろう。これはお詫びに、手伝ってあげるべきだ。洗濯物を入れたカゴを持ち上げると、彼は「一人で出来る! 一人で出来る!」と喚きはじめたので、こう宥めた。
「わかっています。貴方は小さいながら一人で何でも出来る。これはドアをぶつけて転ばせてしまったことに対する、お詫びです」
「う? なら、いいのか」
 彼は首をかしげつつ、納得したようだ。一緒に廊下を歩いて、階段を上り屋上を目指す。
 屋上のドアの鍵は彼が携帯している。ドアの前につくと、彼は白衣のポケットから鍵を取り出し、背伸びをして鍵を回すとドアを開けた。先に出ていく彼の後ろについていく。すると、頬を撫でる穏やかな風を感じた。
 コンクリートの床面には四枚、四角形の配置で窓ガラスがはめ込まれている。うち一枚は、私たちの部屋の天井。あとの三枚がある部屋は空き室だった。横一列に並んだ物干し台の傍にカゴを置いて、アルミ製の竿を挟んでいる洗濯バサミを外す。カゴから一着の白衣を取り出すと、竿にかけて留めた。
 彼は塔屋の壁に立てかけてあった脚立を持ってきて、身軽に上り下りしながら洗濯物を干していく。その身長をものともせず、かいがいしく仕事をこなしていた。改めて感心する。研究の仕事に憧れているようだが、彼には雑用の方が性に合っていると思う。
 二人がかりだから、あっという間に洗濯物は片づいた。日差しは眩しいくらいだ。きっと、すぐに乾くだろう。彼女のところへ帰ろうと彼に背中を向けたが、脇腹を突っつかれて振り返った。
「一服しよう、しよう」
 彼の手にはポケットから出したのであろう、煙草の箱が握られていた。
「……ええ、構いませんよ」
 そろそろ彼女と昼食の時間だったが、煙草を吸うくらいの間なら話し相手になってもいいかと思って、承諾した。彼は嬉しそうに箱を開けて、中から一本抜き取ると差し出す。しゃがんで受け取れば、彼は箱の中に煙草と一緒に入っているライターも出して「点ける! 点ける!」と、はしゃいだ。
 煙草をくわえる。ライターを持った彼の手が近づき、その指がフリントホイールを回転させた。パチッと火花が散り、小さな火柱に煙草の先端が燃やされる。めったに喫煙をしない私には久々過ぎて、吸い込むと胸の辺りが少し気持ち悪くなった。
 彼も煙草をくわえて火を点ける。そのまま二人してフェンスに寄りかかり、紫煙を燻らせた。この煙草やその他諸々の生活用品、食料などはここの島よりずっと遠くにあるらしい島国から仕入れている。私はその島国を情報でしか知らないので、実際はどんなところなのか想像さえつかない。
 彼が話しかけてきた。
「娘、飛べそうか?」
 私は躊躇うことなく答えた。
「いえ、無理だと思います」
 彼は煙草を指に挟んで、目を見開くとこちらを見た。元々異様に大きな目をしているから、それはこぼれ落ちそうなほどだった。私は構わずに続ける。
「彼女は所詮、人間の子です。その証拠に月経を迎えてしまった。鳥に月経はありません」
「……う、う?」
 月経、というものが理解出来ないようだ。首を捻っている。
「彼女はただの道具だった」
 気づいたら私の吸っている煙草は、フィルター近くまで短くなっていた。彼は煙を鼻から吹き出しつつ、ウーウー唸っている。
 煙草を落とし、足で踏みつけて消した。何となく空を見上げてから、彼に視線を戻す。
「ワケわからんこと、言うな! 言うな!」
 と、燃え尽きて灰の落ちた、フィルターしか残っていないものを指に挟んで振り回し、騒いでいる彼を尻目に屋上から離れた。
 部屋へ戻れば彼女は変わらずテレビを見ている。鳥たちが優雅に羽根を広げて、青い空を飛び回っていた。
 空に恋い焦がれている横顔が哀しそうに見えて、彼女の背後に膝をつくと羽根を胸で押さないようにその体を優しく抱く。しかし彼女は私を無視して、画面から目を離さない。
「ダメな親で、すまない」
「……」
「エサにしよう」
「トビタイ!」
 彼女は急にヒステリックな叫び声を上げると、私を突き飛ばして立ち上がり、壁に向かって突進した。派手な音を立てて衝突すると、よろめいて二、三歩下がった。そして今度は壁をガリガリと引っ掻きはじめる。
 私はそれを、ただ呆然と見ていた。

 強力な精力剤は確かに強力だった。見せられた映像は、彼女と同じくらいの年の少女。
 その帰りに小人の彼の部屋を訪ねて「用があるから、あとで私の部屋へ来てほしい」と、伝えた。
 何故、その用を今ここで言わないのか? 何か片づけて欲しいゴミか汚れものが溜まっているにしろ、それは私が持ってくればいい話。彼女が私以外の研究員と会ってもしもその研究員が、人間にまつわる余計な情報を彼女に与えてしまうようなミスを犯したら大変だから、他人を通すことはめったにない実験室なのに……と、いう疑問を彼は一切抱かなかったようで、素直にドアをノックしてきたのだった。
 ドアを開ければ廊下に彼がいて、上目遣いで私を見ている。
「なんの、用だ?」
 屈んで彼の両脇に手を差し込み、抱き上げてしまうと部屋の中に入った。ついでに、肘でドアを閉める。
「何するか!? 何するか!?
 両足をバタバタさせて抵抗する彼をソファーベッドへ投げ出す。むちゃくちゃに暴れる体を押さえつけて、彼の白衣のポケットを漁った。
 彼女はこの状況でも気にせず、窓の下で跳びはねることに集中している。屋上の鍵を見つけて抜き取ると、私は彼女に振り向いた。
「飛びにいくよ」
 聞こえていないのか彼女は跳ぶのを止めない。彼は喚きながら、私の背中を叩いてくる。彼を突き飛ばす。勢いあまって、彼はソファーベッドから転げ落ちた。
 彼女が床に着地する瞬間を見はからって近寄ると、その手を掴んだ。跳ぶのを中断させられた彼女は、嫌そうに眉を寄せて私の手を振りほどこうとした。構わずに手を引いて部屋を出る。
 立ち上がって追いかけてくる彼が迫っていたが、すぐにドアを閉めて遮った。戸惑っている彼女を連れて屋上へと向かい、階段を駆け上がる。
 ドアの鍵を開けて、一歩踏み出す。
 彼女は広がる空を目の当たりにするなり、暫しぽかんとしてから、急に私の手を振りほどいて走り出した。そしてフェンスに飛びつくと、よじ登って頂上に腰かける。私の方へ振り返り、満面に笑顔を浮かべた彼女。そっと笑い返す。
 彼女は両手を広げて、空へ飛び込んだ。カシャン、と、音を立てて揺れるフェンスとすぐに聞こえてきた衝突音。フェンスに近寄って、下を覗く。
 哀れにも、彼女は頭から落ちてしまったようだった。その美しかった顔はもう、原形を留めていないのだろう。遠目でもわかる赤く染まった羽根。
 ……やはり駄目だったか。私は今まで、いったい彼女に何を期待していたのだろう。飛べる羽根? そう、無理だと知りながら。
 私の背中には潰れた、不格好な羽根がある。私もあの時、頭から落ちていればよかったのだろうか。
 どこか遠くから、鳥たちの鳴き声が聞こえる。まるで私を嘲笑しているようだった。

アダムとイヴの純愛

 私がもしも男の子だったら迷わず去勢していたと、母はよく言っていました。
「いいかい? まゆみ。お前のお父さんはね、ペニスがあったからいけなかったんだ! ペニスは煩悩の元。お父さんはその汚れた器官のせいで姦淫を犯した。愚かしい!」
 母は熱心な去勢教信者です。当時、中学生だった私は成る程と思いました。どうりで思春期の男の子たちは、あんなに気持ち悪かった訳です。すべてはペニスが原因だった。

 通っていた中学校はたいへん校則が厳しく、制服に乱れがあれば校内へ入ることさえ許されませんでした。周りの子たちはそれに不平を並べていましたが、私は脚を隠してくれるロングスカートに安心感を覚えたものです。「女性はむやみに脚を晒すべきではない、野獣を誘ってしまうぞ!」と、母から教わっていたからです。そんな私は下品なことを平気で口にするクラスメートの男の子たちに嫌悪感、いえ吐き気すら感じていました。
 母にそれを相談すると、こんな答えが返ってきます。
「おお、ぞっとする。やはりペニスのついている男は悪以外の何ものでもない……まゆみ、間違ってもそんな下衆たちと付き合うんじゃないよ! 去勢教を信じ、貞操を守り抜くのだ。すればいずれ、悟りは開ける!」
「はい、お母さん」
 母はペニスの被害者です。故に、こんなに熱く教えを説いてくれるのでしょう。私が母と同じ目に遭わぬように。親の愛を感じて、私はうっすら涙を浮かべたものでした。
 ある日リビングで夕食を取っていると、テレビでは母親が赤ちゃんのペニスを切断したというニュース。動機は醜い男に成長させたくなかったから、とのことでした。母は食事中だというのに去勢の歴史について記した本を持ち出して、その母親に激しく賛同していました。私も一緒になりました。
 しかしペニスに嫌悪感を抱いているとはいえ、私は別に男の子自体が嫌いな訳ではなかったのです。それは、親友だった子からの影響でした。

 彼女はつやつやの黒髪を長いみつあみに結って、眼鏡をかけた清楚な子。私と同じく周囲に気の合う子がいなかったらしい彼女とは、自然に仲良くなりました。
 彼女は一昔前の少女漫画や純愛ものの映画、小説などを愛好していて、よくオススメしてくれたものです。
 私は彼女からプラトニックラブというものを教わりました。それは彼女の部屋で一緒に見たビデオ。画面越しの、彫りが深い顔立ちをした金髪の王子様はお姫様に愛の言葉を囁き、フレンチキスしかしません。あまりの美しさにうっとりします。
 そう、これが正しい男女交際の形です。互いの純潔さを尊重しあうこと。私は保健体育の授業中、教科書の生殖器が描かれた頁に向かって危うく嘔吐しそうになったことがありました。確かに性交は自然な行為なのでしょう。しかし、気持ち悪いものは気持ち悪いのです。
 彼女が貸してくれた漫画と小説も素晴らしいものでした。清い恋愛。私は虚構と知りつつも作品に出てくる線の細い、穏和そうな、童貞の匂いがする男の子たちに焦がれました。
 プラトニックラブについて語り合える彼女とは、大親友。残念ながら高校生まで、でしたけれど……。

 私と彼女は同じ高校に入学しました。クラスも一緒……とはいかず離れてしまいましたが、この友情はずっと続くと思っていました。二人してセーラー服のスカートの丈は膝下まで下ろして、脚は黒いタイツで覆っていました。お揃いのハンカチーフを持っていました。
 高校は中学校と比べれば校則が緩かったものですから、最初のうちは大人しかったクラスメートも段々と堕落していきます。スカートを短くして、平気で腿を晒す女の子。ズボンを腰で穿いて、下着が見えている男の子。私はそんな周囲に心の中で「この恥知らず共が」と、呟いていました。
 学費が安いから仕方なく選んだこの頭の悪い高校に、一緒に入ってくれた彼女には感謝の念が止みません。彼女と過ごせるお昼休みと、下校時が一番楽しかった。なのに最悪です。
 ある日のお昼休み、お弁当を手に屋上で彼女を待っていました。天気がよければいつもここで待ち合わせをしていたのです。やがて現れた彼女は、様子が違っていました。
 みつあみを解いて、眼鏡を外しています。驚いて、いったいどうしたのかと聞いてみました。
「ああ、これ? クラスの子たちにこうした方が可愛いよって言われたから……」
「そ、そう。でも眼鏡がないと見えづらくないかしら?」
「コンタクトレンズしているの」
 ……確かに、彼女は可愛いです。ええ、私と比べればよほど。
 コンタクトレンズをした彼女の目は前より大きく見えますし、長い髪はさらさらしていて触りたくなるほどでした。でもこの時はまだ、彼女は脚をスカートとタイツで隠していましたから何も不安はなかったのです。
 それから次の日の下校中、彼女から少女漫画を借りました。表紙の絵がいやに現代的で疑問を抱きましたが、彼女いわく「面白い」とのことです。家についてから、自分の部屋で読みました。三頁めくって、ゴミ箱へ投げ捨てました。
 だって……だって! 何なの、これは? いきなりヒロインがヒーローに押し倒されてそれで、レ、レイプされているじゃないの! この漫画の帯には「純愛」と書かれているのに! 愛に対する冒涜だ! 罰当たりめが!
 喚いていると、母が何事だと部屋に入ってきて、私は母の胸に泣きつきました。漫画を捨てたゴミ箱を指差しながら、事情を説明しました。
 母は険しい顔つきになって
「そんな友達とは縁を切りなさい!」
 と言いましたが、私は泣きながら彼女をフォローしました。
「違うの! 彼女は純潔な子よ! これはきっとクラスメートの毒気に当てられて、気に迷いが生じてしまったのよ……ああ、彼女の迷いを消し去ってあげなければ。お母さん、ゴミ箱の中の悪しき物を早くかたづけて!」
 母は即座にゴミ箱を持っていって、中身を処理してくれました。その夜、私は母の安定剤を分けてもらってから床につきました。彼女を説得して、清らかな道へ戻さなければと考えながら。

 そしてお昼休み。屋上に現れた彼女はタイツを脱いで、代わりに紺色のハイソックスを穿いています。スカートを折り、少し短くしていました。
 白い膝頭が目につきます。私はそれに悲しくなりつつ、切り出しました。
「貸してくれた漫画のことだけど……」
「ああ、あれどうだった?」
「捨てたわ」
 彼女の口があんぐり開きます。しきりに瞬きをしています。構わずに続けました。
「あんなものを面白いだなんて……ハレンチにもほどがあるわ! 神経、どうかしてるんじゃないの!?
「や、どうかしているのはあなたの方よ!? 人から借りたものを捨てるなんて、非常識だわ!」
「うるさい! ねえ、いったい何があったの? あんなに純潔だったあなたが……」
 彼女は深くため息を吐くと、急に口調を変えました。
「私……あたし、気づいたの」
「え?」
「このままじゃ、ダメだって」
 彼女は何を言っているのでしょう?
「クラスメートでね、一人話しかけてくれた子がいたの。あたしが寂しそうだったから、て。その子はとても明るくて、派手な子。あたし、目が覚めたわ。あんな時代遅れな映画や小説や漫画、もういらない」
「は? ……え?」
「あんたもいい加減、現実を知りな。もう中学生じゃないんだから」
 彼女はくるっと背中を向けて、去っていきました。私は手に持っていたお弁当箱を落とし、膝をつきました。
「この、売女!」
 と、消えた彼女の背中へ、叫んでいたような気がします。
 そのまま彼女とは敬遠しあうようになってしまいました。お昼休みは一人で過ごすようになって、家への帰り道も一人です。
 暫くの間、私の感情は憤怒に支配されていました。それが落ち着いてくると今度は、お弁当の卵焼きがしょっぱく感じるようになりました。
 それは私の涙が原因です。もう一度ちゃんと話せばわかってくれると思って、私は彼女のクラスへ赴き、そっと扉を開いて中を覗いてみました。うるさい教室。
 彼女を見つけるのは大変でした。だって、長い黒髪の子が見当たらなかったものですから。教室にはいないのかしら? ……と、首を傾げた途端、真ん中でかたまってお弁当を食べていたスカートの短い三人の女の子のうち一人が、ふいに私の方へ振り向きました。
 その女の子の顔は明らかに彼女のものでした。でもあれはいったい誰なんでしょう? 私はあんな子、知りません。
 髪を栗色に染めて化粧をして、スカートの丈を詰めて腿を恥ずかしげもなく晒し、おまけにセンスの悪いだぶだぶの靴下を穿いた子なんて!
 私たちは少しの間、見つめあっていました。しかし彼女の向かいの席に座っていた、同じく髪を染めた女の子が彼女を呼ぶと、彼女はもう興味をなくしたそぶりで私から視線を外します。私は黙って去りました。
 絶望です。もう、どうでもいい。彼女とは絶交です。彼女は精神的に薄弱だった。周囲の悪徳への誘惑にあっさり負けて、純潔を捨てた。売女に堕ちた。きっと、いつか天罰が下ります。

 俗世間はあまりにも汚れている。それが当たり前になっているから、純潔が逆に異端扱いされてしまう間違った世の中。その証拠に現代では「処女」と「童貞」は恥とされているとんでもない事実があります。昔なら処女も童貞も汚れのない証しとして、尊敬の眼差しで見られていたものだったのに。
 暗黒と化した高校生活中、コンピュータールームで去勢教について検索していたら「非性愛者」というものの存在を知りました。きっと、私はそれなのだ。
 高校を卒業すると母子家庭で家計が苦しかったこともあり、私は家を出て、通販会社のコールセンターに就職しました。そして、今に至る訳です……。

「はい、××コールセンターです。お電話ありがとうございます。はい、ご注文でしたらまず品番を」
 インカムから聞こえる甲高い、中年の女性のものだと思われる声が私の言葉を遮りました。
『知らないわよ! そんなモン!』
「カタログに記載されています。ご確認のほどっ……」
『んなモン、アンタの方で調べればわかるでしょ! ピンクのカットソーよ!』
 わかりません。ピンクのカットソーと言ったって、同系色のカットソーが商品には沢山あります。ちゃんと指定してもらわなければ。
「ですから、カタログの品番を」
『もういい!』
 ガチャン、と受話器を乱暴に叩きつける音が響きました。何よ、もしも適当なピンクのカットソーをこっちが選んで、それが希望していた商品と違えばクレームしてくるくせに。
 ムカムカします。でもすぐに話を止めてくれたので、この電話はまだマシな方です。こういう訳のわからない不愉快な電話は長引くと不都合です。間髪入れずに、次のお客様から電話がかかってきますから。
「はい、××コールセンターです。お電話ありがとうございます」
 このお仕事は出来るだけ多くの電話を取らなければなりません。品番を聞きながら、目の前のコンピューターにそれを入力していきます。最初の頃は難しく感じたこの作業も、四年勤めた今ではだいぶ手慣れました。
「林田さん、お疲れ様です」
 定時後の帰り際に、同僚の女子社員たちから社交辞令な挨拶。私は知っているんですよ? あなたたちが私のことを「暗い」だの「ブサイク」だの陰口叩いていたこと。前にトイレで偶然、耳にしました。おかげで私はあなたたちが去るまで、個室から出られませんでした。
「ええ、お疲れ様です」
 しかし、無視する訳にもいきません。挨拶を返します。女子社員たちはそれを聞かぬうちに私に背を向けて、きゃいきゃい騒ぎながらオフィスを出ていきます。騒ぐ声が聞こえなくなってきたところで私はデスクの上のバッグを掴み、オフィスをあとにしました。
 ビルから出ると、視界に広がるのは夕闇に染まった街中。駅まで歩き、そこから電車に乗って住んでいるアパートがある駅前まで一駅の距離です。乗り込んだ電車の中では下着が見えそうなほどスカートの短い、二人の女子高生がけたたましく喋っていました。私は「線路に落ちて、電車に轢かれればいいのに……」と、疲れた頭で思いました。
 電車が到着したのでホームに降り立ち、駅前へと出てもまっすぐ帰らず、レンタルDVD屋さんへ寄ります。疲労を癒す為に。
 探すのは年代の古い、ロマンチックな恋愛映画のDVD。棚に陳列されたDVDのうち「メリーゴーランドの恋」というタイトルのDVDに惹かれて、手に取ってみました。ジャケットにはタイトル通り、メリーゴーランドの睫毛の長いメルヘンチックな馬に腰かけて、微笑む少年と少女。
 今夜はこれを見てから寝ましょう。DVDをレジに持っていって、それからようやく家路につきました。

 アパート内の階段には、蛾の死骸が転がっていてとても不潔。一回、はらわたを露出したネズミさえ見かけたことがあります。引っ越したいのですが母に仕送りをしている為に、私のお給料は月の生活費でほとんど消えてしまいます。母は最近、ますます心の具合が悪くなってきたようで働くのも難しい状態でした。可哀相に。
 時折パチッと音を立てて明滅する蛍光灯に集まっている蛾へ、飛んでこないでよ……と念じながら階段を上り、部屋のドアの鍵を開けて中に入りました。
 パンプスを脱いで、きちんと揃えます。それから居間にバッグと、DVDが入った袋を置いて一息ついてからシャワーを浴びにいき、お気に入りのネグリジェを纏いました。
 居間に戻ると袋からDVDを出し、プレーヤーにセットします。テレビを点けて、リモコンを手に背の低いテーブルの前へ正座しました。
 美しい教会を囲んでいる森の中、かわいらしい子供が二人でピクニックしています。あのジャケットの少年と少女です。どうやら二人は幼なじみらしく、純潔な愛を育んでいるようでした。
 少年は生えていた草花で花輪を作って、少女の頭に被せてあげます。二人は無邪気に笑い合うと、その場でチェック柄のビニールシートを広げて座りました。二人はお弁当のサンドイッチを食べながら、愛の哲学を語り合うのです。
 少年が言いました。
『アダムとイヴは蛇に唆されたくらいで、禁忌である知恵の実を食べた。そんな誘惑に負けた男女の血を引く僕たち人類の恋愛は、そりゃあ堕落するさ』
 少女が顔を手で覆って嘆きます。
『おお、なんてこと! 堕落する前に、あなたを殺してあたしも死にます』
 少年が少女を宥めました。
『まあ待ちなよマリア。僕たちが決して知恵の実という名の、赤い姦淫の実を食べなければいいだけの話さ。僕たちは特別でいようよ。肉欲を貪る下賎の民を見下そう。汚いものの中で僕たちだけが光り輝いていれば、いつか神様がアダムとイヴの代わりに、僕たちを楽園へ連れていってくれるさ』
 少女が感激しています。
『まあ、ステキ……! 耽美な話ね』
 二人の話は一時間以上、続きました。
 話を終えてサンドイッチも平らげてしまうと、ビニールシートをかたづけて、それから二人は教会へと入りました。祭壇の十字架に祈りを捧げ、そこで映画は終わります。
 私は気づいたら泣いていました。感動。あの少年のような心を持った男性と恋愛がしたい……! と、夢心地なまま携帯電話を手に取って開き、ネットでメリーゴーランドの恋について検索します。
 しかしレビューを読むと、私の夢心地な気分はすっかり萎れてしまいました。『意味不明』『B級、いやC級映画』『タイトルのメリーゴーランドどこ?w』という言葉が羅列しています。携帯電話を閉じました。
 DVDをプレーヤーから出すとテレビを消します。夕食を食べて歯を磨き、ベッドに潜り込みました。もう、寝ましょう。
 ……やはり、夢は夢なんだわ。私のような思想はそんなに少数派なのでしょうか? 間違っているのは少数派の方だと断定されて、正しいのは大衆?
 私にはあまりにも、この世は生きづらい。

 違う。間違っているのは世の中の方よ。そんな弱気になってどうするの、私――と気を取り直したところで、眠気が訪れてきました。こうして、私の一日は終わるのです。
 そして、また一日はすぐにはじまりました。目覚まし時計の轟音に起こされて、長袖のブラウスとロングスカートに着替え、タイツも忘れずに穿くとアパートを出て駅に向かいました。いつもと変わらない朝です。
 改札を通ってホームの混雑に押されつつ、電車へと乗り込みました。車内のうるさい高校生たちに「死ねばいいのに……」と、心の中で悪態を吐いているうちに電車は到着します。駅を出て、行きかう人々の間を縫いながらオフィスがあるビルを目指しました。
 オフィスのドアを開けてタイムカードを押せば、注文の受け付けとクレーム処理をこなしていく、いつもと変わらない仕事がはじまりました。
 お昼になると女子社員たちの大体が飲食店のランチタイムを狙って出ていきます。私は閑散としたオフィスで一人、コンビニのお弁当を食べました。いつものことです。
 お昼が終われば再び電話地獄。運悪く、定時間際になると厄介な電話に引っかかってしまいました。
『サイズが合わなかったから、返品したいのよう』
「お客様、申し訳ありません。一度ご試着されたものは返品出来ません」
 お客様、しかもあなたがご注文なさった品物は下着でございます。そのお客様が長々とごねられたせいで、ようやく電話が切れた頃には窓から覗く空が真っ暗になっていました。同僚たちはほとんど残っていません。
 本当、死ねばいいです。

 アパートの部屋へ帰り、狭い浴槽にお湯を注ぎはじめてから、居間のベッドに寝転がりました。だらしないとは思いつつも、へとへとに疲れていたのです。ふと横を向けば、テーブルに置きっぱなしのDVDが視界に入りました。
 明日、返却しにいきましょう。ついでにまた何かDVDを借りてきましょう。幸いにも明日は仕事が休みですから、時間はたっぷりあるのです。映画を見たあとは、お気に入りの少女漫画か小説でも読んで過ごしましょう。美味しい紅茶も淹れて。
 ああ、やはり私は夢を見ていたい。今後理想通りの男性と出会える可能性なんて、この汚れた世の中では限りなく低いのでしょうけれど……。あと、出来たらお揃いのハンカチーフを持てるような女の子のお友達も欲しいのです。
 どれも叶わなければ、一人で貞淑に余生を過ごすしかありません。寂しいですがそれも禁欲的でいいでしょう……と、色々夢想していたら、疲れからか眠くなってきました。
 はっとして飛び起きると、耳に届いたのは水が流れる音。慌てて浴室へと向かいましたが、既に手遅れ……浴槽のお湯は溢れ出していました。ため息を吐きつつ、浸水したタイルを踏んで蛇口を閉めます。
 それからゆっくりお風呂に入ると、今夜は夕食も取らずに寝ました。

 目覚まし時計の轟音もなく自然に、気持ちよく目が覚めます。いつもより少し遅めに起きた朝。カーテンの隙間から差し込む光が心地いいです。一つ伸びをして、ベッドから下りると顔を洗いにいってから、クローゼットを開けました。
 タイツを穿いて、裾に生成りのレースがついたロングワンピースと、胸元がマーガレットのコサージュで飾られたカーディガンを着ます。それからDVDを袋に入れてポシェットに収めると、ウキウキしながら出かけました。
 昨日は気怠さから夕食を抜いてしまったので、お腹が空いています。駅の近くまで来ると、そのまま西口から東口へと回りました。横断歩道を渡り、飲み屋さんやらパチンコ屋さんやらが雑然と並んだ道を通り過ぎると、煉瓦風の外壁で作られたレトロなカフェーがあります。私のお気に入りのお店でした。ガラスドアを開ければ黒髪を後ろに束ねてエプロンをした、優しそうな雰囲気の中年の女給さんがにこやかに接待してくれます。
 案内されるがまま、観葉植物の飾られた窓際の席に座って、バタートーストのセットを頼みました。付け合わせにはスクランブルエッグと、コーンサラダ。狐色のトーストを一欠片ちぎって食べながら、今日の過ごし方についてあれこれ思い描きました。
 食後にセットのコーヒーもいただいて、すっかり満足すると支払いを済ませて外へ出ます。それから駅の西口に戻り、レンタルDVD屋さんへと軽い足取りで向かいました。
 非常に哲学的であるが故に低能には理解が得られなかった作品、メリーゴーランドの恋。自動ドアを抜けてレジで返却したあと、素敵な映画を探す為にいつも見ている棚を目指します。
 が、思わず歩みを止めてしまいました。棚の前には一人、DVDを取り出してはジャケットを見つめて、戻すとまた別のDVDを取り出してジャケットを見つめて……という動作を繰り返している男性がいたのです。
 この棚は純愛映画のコーナーです。こんな真剣そうに漁っている男性は見たことがありません。何となく近寄りがたくて、男性が離れるまで待っていようと様子を見ました。
 しかし、男性は一向に離れません。痺れを切らして棚へと寄りました。「純愛ロマネスク」「幼き日の恋歌」「愛の日照り」……様々なタイトルを眺めて、ピンとくるものを探します。
 しかし、まったく集中出来ません。隣の男性が気になるのです。いけないとは思いながらも、男性をついちらちら見てしまいました。男性は私の視線に気づくことなく、DVDを漁り続けています。
 男性の容姿は綺麗なものでした。すらっとした長身に、品のいいスーツを着ていて、さらさらの黒髪と優しそうな顔立ち。恥ずかしながら、私が男性のことを気にしてしまうのは趣味が合うのかも? という期待以外に、その理想的な容姿もありました。
 男性の白くて長い指が「メリーゴーランドの恋」を選んだ瞬間、いよいよ私の胸は高鳴ります。どうするの? それにするの? とてもいい映画だから、オススメですよ。
 男性は暫く悩むそぶりを見せてから、ついにメリーゴーランドの恋を持って棚から離れていきます。私は男性の背中が見えなくなるまで、目で追ってしまいました。
 それから私も、悩んだ末に「ばら色の日々」というタイトルの映画を借りました。ああ、今日はいい休日になりそうです。

 学生の頃のクラスメートといい、今帰り道すがら目に入った地べたに集団で座り込んでいる男の子たちといい、現実の男の子って何であんなに下品なのかしら? やはり皆悪しきペニスに支配されているせいだわ。
 でも、さっきメリーゴーランドの恋を借りていった人は素敵でした。まるで好きな映画に出てくる王子様のように、美しい男性。
 通りすがりの君に一目惚れ。ええ、我ながら愚かなことだとは思います。空想を遊ばせながらスキップでアパート内の階段を上り、部屋へ戻りました。だって、どうせ二度と会うこともない人ですもの。実際はどうかなんて知りません。知りたくありません。
 紅茶の準備をして、ティーポットとカップをテーブルに置きました。ポシェットの中からDVDが入った袋を取り出し、さっそくばら色の日々をプレーヤーにセットします。予告を眺めながら、カップに熱々の紅茶を注ぎました。湯気と一緒にダージリンが香ります。
 ぼろを着た貧しそうな少女が街頭で花を売っていました。しかし人々は『お花はいりませんか?』と聞いてくる、少女の弱々しい声を無視して通り過ぎていきます。少女に同情して、花を買ってあげようとする人は誰もいませんでした。そのうち日が暮れて、カゴの中にたくさん残っている花たちを見ると、少女は『どうしましょう。これではまた父に殴られてしまう……』と、肩を落としました。
 その時、たいへん身なりのいい男性が少女に近寄ってきて『お花、全部ください』と、金貨を一枚差し出したではありませんか。少女は感激して、花をカゴごと男性に渡しました。男性は笑顔で一言『ありがとう』と告げて、去っていきます。
 少女は『いいえ、お礼を言いたいのはあたしの方です……!』と、男性の背中に向かって深々とお辞儀してから帰路につきました。
 ここで、場面は変わって先程の男性が映されます。男性は馬車に乗り込み、どこかへ向かいました。やがてついたのは小さな家の前。馬車から降りて戸を叩けば、美人なのだけれど胸元を大きく開いたドレスが娼婦のような女性が現れて、男性を抱擁で迎えました。
 そのまま二人は家の中へ入ります。男性が花で一杯のカゴを女性に渡すと、女性は微笑みながら
『まあ、どうしたの? このお花』
 と、花弁を指で撫でて聞きました。真っ赤な薔薇の花。
『街でいかにも貧しそうな女の子が売っていたからさ、君への手土産にもいいし買ってきたんだ』
『あなたって、相変わらず優しいのね』
 女性がベッドサイドのテーブルにカゴを置きました。花たち、特に薔薇がズームアップされていきます。そして、フェードアウトしていきました。
 また場面が変わって、再びヒロインの貧しい少女が映されます。廃墟かと見紛うような家の窓辺で、頬杖をついて物思いに耽っているようでした。その途中で無精髭がぞっとするほど不潔な男がやってきて、少女の背後でお酒を飲みはじめました。
 どうやら、これが父親のようです。あの男性から貰った少女の金貨で、お酒を買ってきたようでした。少女はそんな父親に一目もくれず、ただただ窓から夜空にきらめく星を眺めています。きっと、男性へ思いを懸けているのでしょう。
 それから少女が街でお花を売っているところに、男性はたまに訪れてくるようになりました。以来、少女はよく笑うようになりました。たとえ酔った父親に殴られても、少女は幸せそうでした。
 しかし男性と少女が恋愛関係になることはなく、時が経つと男性はあの女性と結婚してしまいました。男性は徐々に少女のところへ来なくなり、そのまま少女の恋は終わる――。
 黒くなった画面にスタッフロールが流れて、エンディングテーマらしきピアノの音が暗く響きました。冷めた紅茶を啜ります。
 悪くはなかったけれど……正直、よくもなかったかな。これは不憫な少女に訪れた束の間のばら色の日々を描くことによって、恋の素晴らしさを表現しているのでしょうけれど何だかリアリズム過ぎる。ベッドサイドに花を置くシーンなんて、汚らわしいものを感じてしまいました。
 そう、この話には夢がないのです。結末なんて、まるで王子様などいないと言っているかのようです。ネガティブな物語。
 ふと、脳裏にレンタルDVD屋さんで見かけた、あの男性がよぎります。私はそれを追い出すように頭を左右に振りました。そしてティーポットの中で冷えて苦くなっている紅茶を捨てて、新しい紅茶を淹れてから気を取り直そうと、お気に入りの少女漫画を読みはじめました。温かい恋のお話です。
 しかし、紙面で幸せそうに恋愛を楽しんでいる睫毛の長い、巻き毛の少年少女を見守っていても、熱い紅茶を啜っても、どうしても気が逸れてしまいます。何度も頭に浮かぶ、ばら色の日々と「男性」。
 漫画を読むのを止めて、少女小説にしても同じでした。ああ、やめて私の頭。せめて空想の世界では陶酔していたいのに。
 ああだこうだと悩んでいるうちに夜になってしまいました。冷蔵庫の残り物を適当に調理して食べ、お風呂を沸かして入浴してから、さっさとベッドへと潜り込みました。
 明日から、また慌ただしい現実がはじまるのです。

 気づいたら、私はお花畑にいました。急なことに戸惑っていると、どこからともなくレンタルDVD屋さんのあの男性が色とりどりの花を掻き分けながらやってきて、私に微笑みかけてくれるではありませんか。
 その表情の美しさにうっとりしていると、いきなり男性の肌が赤黒く変色して、体は着ていたスーツを破りながらどんどんよくわからない肉塊へと変形していきました。呆気に取られていると先端が亀の頭のような形をした、長い肉塊が私に巻きついてこようとするのです。
 これは……何でしょう? 柔らかい皮の感触が気持ち悪いし、何だか変な臭いがします。……ああ、そうだわ思い出した。昔、保健の教科書に描かれていたアレ――。
 絶叫を上げて、私は飛び起きました。ネグリジェが寝汗で肌にべったり張りついて、非常に不快です。目覚まし時計を見てみれば、まだ午前五時半。最悪の目覚めです。あの轟音に起こされた方がずっとマシでした。あんなおぞましい夢を見てしまうなんて、きっと今日は嫌な一日になるのでしょう。
 それでも仕事へはいかなければなりません。目覚まし時計が鳴らないようにしてから、シャワーで汗を流しました。
 夢のことを思い出しては、込み上げる吐き気を堪えます。体は綺麗になっても、心はまったくスッキリしません。まだ時間は充分にありますから少し休もうと、居間に戻りベッドで横になりました。
 ……本当は具合が悪いことを連絡して休みたいくらいでしたが、それで迷惑になるのも嫌味を言われるのもごめんです。何回か寝返りを打って、ぼうっとして、気がつけば七時。
 のろのろとベッドから下りて着替えます。それからプレーヤーに放置していたDVDを通勤用のバッグに移し、アパートを出ました。
 そして特に変わったことも起こらず、時間は過ぎていきます。
 仕事帰り、レンタルDVD屋さんへいきました。ばら色の日々を返却してからあの棚を見てみましたが、めぼしい映画は見つかりませんでした。あの男性もいません。
 それから幸いにも、あのような悪夢を見ることはもうありませんでした。
 そのまま、日常を繰り返して一ヶ月が経ちました。

 今日は雨が降っています。カーテンレールにハンガーで引っかけた複数の洗濯物を触って、着られるかどうか確認してみました。
 天気予報を聞いて早いうちに室内で干していましたから、何とか大丈夫そうです。着替えてバッグを手に持ち、玄関のシューズボックスに立てかけていたコウモリ傘も持って、アパートを出ると出勤しました。
 ビルに到着すると傘立てに傘を置いて、オフィスに向かいます。タイムカードを押してデスクにつき、いつもと変わらない一日がはじまろうとしていました。
 よれよれのスーツを着て、お腹の出っ張った上司が入ってきます。私はこの上司、嫌いでした。だって雰囲気からしてだらしないし、下品な冗談をよく言います。それでからから笑う女子社員たちも信じられません。
 そんな上司の後ろに、見慣れない若い男性が一人続いています。張りのある、上品なスーツを着ていました。
 上司と男性が私たち社員の前へ横一列に並んで、上司が朝礼をはじめます。男性の顔をまともに見た瞬間、衝撃が走りました。
 ……まさか、こんなドラマチックな偶然がありうるのでしょうか? ああ、でも見覚えがあります。そのすらりとした長身、女性的に整った優しそうな顔立ち、さらさらの黒髪。線の細い、穏和そうな、童貞の匂いがする男の人。
 上司が男性を手で示します。
「今日から新しい人が入るから、みんなよろしくしてやってくれ」
 男性が透き通った声で言いました。
「伊藤夕司です。よろしくお願いします」
 伊藤夕司、くん。
 メリーゴーランドの恋を借りていった人とは人違いなのかしら? それともご本人? だとしたら、神様は意地悪です。
 どうせなら、よりドラマチックにしてほしかった。伊藤くんらしき人を見かけた、あの休日の翌日などに会いたかったものです。無駄に一ヶ月も待たされたおかげで、果たしてメリーゴーランドの恋のあの人は伊藤くん本人なのかどうかいまいち確信が持てません。……現実はたとえドラマチックな偶然が起ころうとも、実際のドラマのようにはいかないものです。
 上司が他の連絡事項をいくつか伝えると、朝礼は終わりました。コンピューターの電源を点けて、インカムをすれば仕事がはじまります。
 しかし、まったく身に入らず困りました。
 コールセンターで働いている社員はほとんどが女性であり、男性といえばあの上司くらいのものです。休憩時間になると、伊藤くんの周りには女子社員が集まりました。売女のように媚びる女たちと、それに曖昧に笑い返している伊藤くん。私はそんな様子を自分のデスクから、遠目に眺めていました。
 メリーゴーランドの恋の人を詳細に思い出そうと、頭を働かせます。何とか浮かんだ姿に伊藤くんを重ねると、やはりぴったり合いました。ついで、思い出したくなかったあの悪夢までありありと浮かんできます。
 伊藤くん。あなたは美しいから、さぞかし女の子にチヤホヤされるでしょう。ほら、女子社員が弾んだ調子で「前はどこで働いてたの?」と、次々に質問を浴びせては「まじイケメンー」と、安っぽい俗語で褒めてきます。
 伊藤くんは変わらず、言葉を濁しながらただ笑っているだけでした。……私も出来ることなら、メリーゴーランドの恋について質問がしたいです。お知り合いになりたいです。
 しかし、勇気がわきません。あの女子社員の集団にまじるのが嫌というのもありましたが、何より伊藤くんのことを知るのが怖いのです。
 だって裏切られるかもしれないから。ふと、仲良しだったあのみつあみの友人を連想しました。そう、伊藤くんも彼女と同じくかんたんに売女たちの誘惑に堕ちるのでは……いえ、純潔な王子様なのは外見だけで、実は悪しきペニスに支配された醜い男たちと変わらないのでは……伊藤くんがペニスの化け物になった夢は何かの悪いお告げではないかしら? と、不安が絶えないのです。
 故に私はこのドラマチックな偶然に、心の底から喜べないのでした。もしも裏切られたら、その時のショックは計りしれません。
 休憩時間が終わりました。女子社員たちはさっと伊藤くんから離れ、デスクに戻ります。仕事が再開されました。
 お昼休みになると伊藤くんはまっさきにどこかへいってしまって、様子を見ることが出来ませんでした。私はいつも通り、一人オフィスで昼食を済ませます。
 それから少しぼうっとしていれば、やがて社員たちが戻ってきてお昼休みは終わります。伊藤くんは仕事がはじまるぎりぎりに、謝りながら戻ってきました。
 午後の仕事中、私は珍しくインカムを使わずに、上司から頼まれた雑用をかたづけていました。渡された段ボール箱をカッターで開き、中から取扱商品の案内や広告の掲載された印刷物を取り出して、それらをホチキスでとめて小冊子を作っていきます。
 その作業中、ちらちら伊藤くんを盗み見しました。電話を取っている時は余裕がない為に、仕事をしている伊藤くんを見られなかったのです。
 伊藤くんは真面目に業務をこなして、わからないところは素直に聞いているようでした。ああ、やっぱり見ているだけでも素敵な人……この恋、壊さないように大切にしなければ。
 あなたは私の寂しい日常生活に、運ばれてきた小さな幸せ。
 定時後。帰っていく女子社員たちに適当な別れの挨拶をして、伊藤くんの背中も見送ったあと、デスクの上を整理してからタイムカードを押してオフィスから出ます。
 エレベーターに乗り、一階に降りて傘立てを見た瞬間、私は思わず嘆声を上げてしまいました。
「ええっ……」
 私のコウモリ傘が見当たらないのです。似たような形をしている傘が一本ありましたが、それは黒に近い深緑色の傘で、私の真っ黒な傘とは違うものでした。他はどこを探しても見つかりません。非常識な誰かが持っていってしまったのでしょうか? 外では雨が大降りになっています。
 ……今日はついているのか、ついていないのかわかりません。暫く待ってみましたが雨は止みそうになく、諦めてビルから出るとコンビニまで濡れながら走って、ビニール傘を買いました。

 翌朝は晴天でした。いつも通り出勤して、デスクにつきます。少しすれば社員たちが増えてきて、伊藤くんも出勤してきました。まだ時間に余裕があるのに、伊藤くんは何やら慌てている様子でした。
 そして、社員一人一人に何かを尋ね回っています。その尋ねている内容までは察せず、私は伊藤くんを目で追いかけながら首を傾げました。
 女子社員が伊藤くんに対して頭を左右に振っています。すると伊藤くんは段々、こちらへ近寄ってきて――あら、伊藤くんが目の前に。
「あの、いいですか?」
 え、私に話しかけているのですか?
「は、はいっ、何でしょう!?
 しまった! どもってしまいました。その上、妙に声が大きいです。変な子だと思われたらどうしましょう……。
「昨日、傘をなくしませんでしたか?」
 しかし伊藤くんは気にした風もなく、ほっとしました。
「はい、なくしました」
「真っ黒なコウモリ傘ですか?」
「はい、そうです」
「ああ! すみません!」
 突然、伊藤くんは声を張り上げて頭を下げました。私は何が何だかわからなくて、戸惑ってしまいました。
「あの……?」
「昨日、間違って僕が持ち帰ってしまいました。僕のと形が似てて、家に帰ってから色が違うことに気がついて、大変なご迷惑を……本当にすみませんでした」
「えっ」
 あれは、伊藤くんが犯人だったのですか?
「そんな……気にしないでください」
 わざとではなく過失ですし、ちゃんと名乗り出てくれたのです。責める気はありません。それも、相手は伊藤くん。
「傘は、傘立てに戻しておきました。えっと、お名前は?」
「は、林田まゆみです」
「林田さん。これ、お詫びに」
 伊藤くんは通勤鞄から若草色の包装紙に包まれた箱を取り出して、私に差し出しました。受け取ると、質のいい包装紙のさらさらとした手触り。
「これは?」
「クッキーです。それでは、あとで傘立て確認しておいてください」
「あっ……」
 伊藤くんはもう一度、頭を下げるとそのままデスクへとつきました。そして、仕事はすぐにはじまってしまいます。
 お昼休みに傘立てを見にいきました。まばらに傘が置いてある中、真っ黒なコウモリ傘が一本ありました。これは確かに私の傘です。昨日見かけた深緑色の傘もそこにありました。もしかして伊藤くんの傘でしょうか。
 急におかしくなって、私は一人で笑い出してしまいました。だって伊藤くんたら、このビルには私たちのオフィスだけではなく、色んなオフィスが入っているのですよ? 全部聞いて回るつもりだったのでしょうか。真っ黒なコウモリ傘、という曖昧な情報だけで。
 やはり私はついているようです。文句を言って、ごめんなさい神様。
 伊藤くんは私の理想にたがわない、ステキな男性なのかしら? 今まで孤独に頑張ってきた私へ神様がようやく与えてくれた王子様? 仕事を終えてアパートに帰ってくると、私はクッキーを永久保存でもしようかと思いましたが、腐らせてしまったらその方がショックだと思い直し、惜しみつつ食べました。
 何の変哲もなかったコウモリ傘が、宝物になりました。
 しかし伊藤くんとはそれから特に親しくなれる訳でもなく、私は変わらず伊藤くんを目で追いかけているだけの毎日を過ごしてしまいました。

 いただいたクッキーの味の感想でも伊藤くんに述べて、おしゃべりのきっかけを得ればよかったのでしょうけれど、臆病な私はそれさえ出来なかったのです。伊藤くんからもう一度、話しかけてきてくれれば楽なのに。
 ……日にちが経つにつれ、伊藤くんは私の視界にあまりいてくれなくなりました。休憩時間になると、伊藤くんはさっと消えてしまうからです。そして、休憩時間が終わるぎりぎりに戻ってくるのでした。残念です。
 仕事から帰ると、私はよくあのコウモリ傘に謝りました。せっかく伊藤くんと仲良くなれるかもしれない好機をこの子は運んできてくれたのに私ったら! 意気地なし!
 どうしても不安は拭えません。もしかしたら伊藤くんに会えるかしらと思って、レンタルDVD屋さんへ仕事帰りや、休日にいきました。でも純愛映画のコーナーで、伊藤くんらしき人を見かけることはもうありませんでした。するとまた、あの時に見かけたあの人は伊藤くんではないのかしら? と、疑念が蘇ります。その度、私はバカバカと自分に言います。
 確かに、あの人が伊藤くんだったらロマンチックで素敵です。でも、それを抜きにしても伊藤くんは充分素敵です。……容姿と、傘事件の時の不器用な優しさしか知りませんけれど。ああ、それを言ったらあの人なんて容姿しか知りません。
 店内の奥にある、娼婦が微笑みを浮かべている紙で出来たいかがわしいのれんから伊藤くん、またはあの人が出てきたらどうしましょう。頭が混乱してきました。
 映画を見る気にもなれず、何も借りないままお店から飛び出します。私はそんな愚かな行為を繰り返していました。
 知りませんでした。現実での恋は、こんなに苦しいものだったなんて。

 今日、伊藤くんはお休みです。恐ろしく退屈な日です。
 お客様の理不尽なクレームを受けていたら、お昼休みが少し遅れてしまいました。人の少なくなったオフィスで、コンビニのナポリタンをバッグから出そうとしましたが、ふいにお手洗いへいきたくなってしまいました。
 デスクを立って、廊下に出ます。お手洗いへ小走りに向かいました。個室に入り鍵を閉めて、用を足している間にクレームの内容を思い出しては苛々しました。
 梱包用の段ボールに小さな穴があいていたそうです。それは私たち電話受付には関係のない話であり、工場の作業員か配達員のミスです。なのに、ながながと責められました。
 ――頭ではわかっています。こんなことは社会の日常茶飯事で、文句を言ってはいけないのだと。
 ただ、感情は理屈についてきてくれません。困りました。トイレットペーパーを流すと立ち上がり、下着ごとタイツを戻します。スカートを直して、出ようと鍵に手をかけたところで数人の足音と甲高い笑い声が聞こえてきました。
「頭おかしいババアは、ほんっとウザい!」
 ……声でわかります。私の陰口を叩いていた女子社員たちです。今はお客様への悪口を言っているようなので、気にせずに個室から出ても大丈夫なはずです。それにしても汚い言葉遣い。
「ねー、ところでさぁ伊藤くんって付き合い悪くない?」
 しかしどのタイミングで私の悪口が出てくるのかわかったものではありません。と、一瞬迷った途端、伊藤くんの噂話がはじまって私ったら思わず聞き耳を立ててしまいました。
「ああ、わかるわかる! お昼誘っても断るし、てか休憩時間になると消えちゃうし」
「でしょー? 飲み会も来ないし、なんかあたしたちのこと避けてない?」
「せっかくイケメンなのにー」
「ワケわかんないよね」
 女子社員たちは身勝手な不満を口々に述べています。……伊藤くん、あなたはこの阿婆擦れたちを避ける為に消えていたのですか?
 ふと、自分の子供の頃を思い出しました。うるさいクラスメートと馴れ合うのが嫌で、休み時間はトイレや屋上の鍵がかかったドアの前の踊り場などによく逃げ込んでいたものです。
「なんかさぁ、伊藤くんって根暗なのかもね」
 今すぐここから飛び出して、女子社員たちを殴りたい気持ちと同時に、ほっとした安堵感。伊藤くんは売女たちの誘惑に堕ちることはなさそうです。
 そのうちに、女子社員たちの去っていく足音が聞こえてきました。やっと個室から出ると、手を洗ってオフィスに戻ります。
 ナポリタンを急いで食べながら考えました。もしかすると、伊藤くんは私と似ているのかもしれません。私と同じく、純潔だからこそ孤立しているのかも……明日、思い切って話しかけてみましょう。
 だけど、伊藤くんに近寄ろうとしただけで上がってしまう私は、そのまま煩悶としながら一週間を過ごしてしまいました。

 このままではいけません。私は恐怖なんかで、ようやく見つけた恋をやすやす捨てるつもりですか?
 ――明日こそ頑張りましょう。ベランダに出て、両手を組み合わせると星に願います。ああ神様、見守っていてください。
 十分間、祈りました。居間に戻ってベッドへ潜り込みます。しかし、今から緊張してしまってなかなか寝つけません。
 結局、私は何時に眠れたのでしょうか? 目覚まし時計に起こされても、ベッドから体を起こすことは出来ず、二度寝してしまいました。
 はっとした時には遅刻寸前の時刻。慌てふためきながら、身支度を整えてアパートを飛び出します。
 ……幸先がいきなり不安です。私はいったい何をしているのでしょう?
「もう、やだ……」
 はしたないとは思いつつ駅まで全力疾走している最中に、自然とそんな独り言が出てきました。
 オフィスに入ると、もうほとんどの社員が出勤していました。何人かが私に注目します。上司には「どうした? 君が時間ぎりぎりに来るなんて珍しい。……あの日で調子が悪いのか?」と、笑われてしまいました。殺意を抑えながら上司に謝ると、タイムカードを押してデスクへと向かいます。
 途中、伊藤くんと目が合ってしまいました。恥ずかしさのあまり、涙目になりそうです。
 デスクにつくと朝礼を聞き流しながら、バッグに手を入れてお守りに触れました。クッキーの箱を包んでいた、あの若草色の包装紙。当たり前ですが捨てるなんてこと出来なかったので折りたたみ、今日の為のお守りとして持ってきたのです。
 正方形の紙を手で包み込むと、羞恥に支配されていた心が段々と落ち着いてきました。伊藤くんを見やります。
 ――伊藤くん。
 恋人になって欲しいなんて、贅沢なことは言いません。ただ、お友達になっていただければそれで充分です。
 ……最初は見ているだけでも充分だなんて思っていたのに、私ったら貪欲ですね。でもこうしてあなたを見ているだけで、あまりの恋わずらいに胸が苦しくなるのです。その男性とは思えないほど綺麗な色白の肌。一度も染めたことがなさそうな艶やかな黒髪。涼しげな目元。上品な笑みを浮かべる唇。
 近づくのが怖い。裏切られるかもしれないから。ああ、でも期待してしまう。メリーゴーランドの恋を借りていったのはやはりあなたなのでしょう? だって、そっくりです。
 傘の出来事も運命を感じてしまいました。優しい人なんですね。あなたが休憩時間の度にオフィスから去るのは、売女どもを避ける為だったのですか。私と同じく、汚いものが嫌いなのね。ええ、私もあれは淘汰されればいいと思っています。
 伊藤くん、あなたがばら色の日々に出てきた、あのエセ王子様のはずがないですよね? ……ああ、もう私はこんな期待と不安に振り回されるのは嫌です。直接、確認させていただきます。おお! 神よこの欲深く愚かで、哀れな子羊をどうかお救いください……。
 午前の休憩時間、伊藤くんはさっとオフィスから出ていってしまいました。短い時間の休憩ですから、私はお昼休みまで機会を待つことにしました。
 そして、お昼休み。伊藤くんが出ていきます。私はお守りを握りしめ、意を決すると伊藤くんの後を追ってドアを開けました。社員たちがまばらに行きかっている中、遠くに伊藤くんの背中を見つけました。急ぎ足で近づきます。
 伊藤くんはエレベーターの前で歩みを止めました。エレベーターの前には他に待っている人が三人。私もそれにまじって、待つことにしました。
 やがてエレベーターの扉は開いて、中にいた数人と入れかわります。扉は静かに閉まり、誰かが一階のボタンを押しました。全員向かうところは同じようで、他にボタンを押す人はいませんでした。
 伊藤くんが私のすぐ横にいます。視線だけ動かして伊藤くんの横顔を眺めながら、手の中でくしゃくしゃになっているお守りをそっとポケットに移しました。……私の心音が周りに聞こえていないか、不安です。
 扉が開いて、皆一斉にエレベーターから出ます。伊藤くんの背中を追いかけながら、私はいまさらあることに気がついてしまいました。
 ――どんなタイミングで話しかけたらいいのかしら? いえ、それ以前になんて話しかけたらいいのでしょう?
 伊藤くんがガラスドアを開けて、外へ出ます。私はそれに続きながら、ひたすら話す内容を考えました。
 ビルから離れて、横断歩道を渡って、色々なお店と看板が並ぶ通りを歩いて……ああ、早くしなければ。でも、まったくいい言葉が思いつきません。
 今日はいい天気ですね? ご機嫌いかが? こんにちは……ダメです、どれも急すぎて違和感があります。
 もう、私のバカ! こんな大切なことは先に決めておきなさい! これでは、ただ伊藤くんの後をつけているだけじゃないですか。
 今日は諦めましょう。そんな弱虫な結論に達して、踵を返そうとした時です。ずっと凝視していた伊藤くんの背中が止まりました。そして、ゆっくりと私に振り返ります。
「……あの、何か?」
 ほとんど叫び声で答えていました。
「す、すみませんっ!」
 なんで、いきなり謝っているの私!?
「はい?」
 伊藤くんが不可解そうに首を傾げて、こちらを見ています。もうダメです。顔が熱くなってきました。視界がぐらつきます。頭の中で次に必要な言葉を必死に探します。けれども、頭の中は真っ白で何も浮かんできません。
「……大丈夫ですか?」
 そうこうしている間に、何故か安否を気遣われてしまいました。今、私はそんなに挙動不審に映っているのでしょうか。
 何か言わなければ。これ以上、伊藤くんを待たせてはいけません。喉から自動的に迫り上がってくる言葉に任せて、私は喋り出しました。もう、自分でも何を言っているのかわかりません。
「あの、あの、あの……クッキー美味しかったです!」
 いまさら、それがどうしたというのでしょう。終わりました。
 恥ずかしくて伊藤くんの顔を見られません。思わず、俯いてしまいました。惨めです。
「そうですか。よかったです」
 跳ねるように頭を上げました。伊藤くんが微笑んでいます。しかし伊藤くんは、すぐにその微笑を消しました。
「……あの時は、本当にすみませんでした」
「い、いえ! 気にしないでください!」
 安堵のあまり、涙腺がゆるみそうになるのを堪えます。そのまま私たちは黙りこくってしまいました。傍を幾人かの人が通り過ぎていきます。
 伏し目がちに、伊藤くんが言いました。
「……これから、昼食を取りにいくのですが」
「あ、はい! 邪魔してごめんなさい」
「いえ、よろしければご一緒しませんか?」
 一瞬、その言葉の意味がわかりませんでした。

「は、は、はい!」
 返事をした直後、オフィスにバッグを忘れてきたことを思い出しました。
「すみません。私、オフィスにバッグを置いてきてしまって……お金が」
「大丈夫です。僕が払いますよ」
「そんなっ、悪いです」
 これは予想もしていなかった、凄い展開です。ですが、伊藤くんに迷惑をかけてしまいます。
「気にしないでください。男の役目です」
「でも……」
「僕と一緒が嫌なら、仕方ないですけど」
 伊藤くんの声色がわずかに悲しそうでした。私はまたもや、反射的に叫んでいました。
「そんなわけないです!」
 あ。やだ、私ったら。伊藤くんはきょとんとしつつ、また微笑んでくれました。
「そうですか。よかったです」
 ――伊藤くんのお言葉に甘えることにしました。バッグの中には確かコンビニのオムライスを入れていましたが、夕食にします。
 これは夢ではないですよね? 私、伊藤くんの隣を歩いています。伊藤くんについていくと、寂しげな雰囲気の路地裏に入りました。小汚いお店が並んでいる中、手書きの看板を掲げて、入り口にはコスモスを飾ったお洒落なカフェーが一軒だけありました。
 伊藤くんは足を止めて「ここです」と告げると、カフェーの木製のドアを開けます。店内に入れば、たぶん店長だと思われる老紳士が物静かな接客をしてくれました。
 案内されたテーブル席につきます。辺りを見回すと、あたたかみのある木のインテリア。伊藤くんのセンスに感心しました。
「こんな素敵なお店が近くにあったなんて、知りませんでした」
「穴場なんですよ、ここ」
 メニューを開いている伊藤くんに、ずっと感じていた疑問を聞いてみます。
「……なんで、私なんか誘ってくれたのですか?」
 いつも一人で過ごしていたらしいあなたが、という言葉は飲み込みました。
「ああ、僕いつもお昼は一人で済ましていましたから……よかったら、相手になってもらえないかと思って」
 そっとポケットに手を忍ばせて、お守りに触れます。
「でも伊藤くんならお昼を一緒に過ごせる相手くらい、いくらでも見つけられそうですけど」
 この質問は少し、大胆だったかしら? ……ドキドキします。
 伊藤くんはメニューから視線を外すと、何だか苦い笑いを浮かべました。気に障ってしまったかしら? ああ、怖い。
「……僕、正直言うとあの人たち苦手なんです」
 どきっ。いけない、お守りに手汗が染み込んでしまいます。
「あの人たちって、うちの女子社員たちのことですか?」
「ええ、まあ……メニュー、見ないのですか?」
「あ、すみません」
 ポケットから手を出してスタンドからメニューを取り、開きました。色々なパスタの写真がテーブルに広がります。
「……なんで、苦手なんですか?」
 パスタを検討しつつ、話の先を促しました。私、普通に伊藤くんと喋れています!
「慎みの欠如ですかね。……女性らしさがないといいますか」
「え?」
「最近の女性って、そんな感じじゃないですか。大声で騒ぐ、異性に平気で性的ともとれる物言いをする、悪く言えば下品。……時代のせいなのでしょうか」
 それは、私も常に思っていることです。同性として恥ずかしく感じています。
「はい、わかりますっ」
「やっぱり林田さんは思っていた通りの、素敵な女性ですね」
「えっ……」
 伊藤くんが優しく目を細めて、私を見つめています。
「前から思っていました。今時珍しい、清楚な雰囲気の方だなと」
 ――天にも舞い上がりそうな気持ち、とはこういうことでしょうか?
「そ、そんな。照れてしまいます」
 伊藤くん、やはりあなたは私の理想。もはや不安なんて、どこかへ消し飛んでしまいました。
 呼び鈴を鳴らして、あの老紳士がやって来ると私は紅茶とカルボナーラを頼み、伊藤くんはコーヒーとバジルソースのパスタを注文しました。老紳士が下がるとパスタが来るまでの間に、私は一番気になっていたことを聞いてみることにしました。――伊藤くんがあの人だったらいいな、程度の軽い気持ちです。
「……メリーゴーランドの恋って、知っていますか?」
「え? 映画のことですか、それ」
 趣味も合えば、最高です。
「はい、そうです」
「わあ、よく知ってますね。相当マイナーな映画ですよ」
「映画、好きなんです。特に昔の純愛ものが」
「奇遇だなあ、僕もです。男がそういうの好きだなんて、笑われてしまいそうですけど」
 ああ、伊藤くん。
「いえ、素敵です。男性もロマンチックであるべきです」
「はは、ありがとう。メリーゴーランドの恋、最近借りてみたんですけれどあれは気に入ったなあ」
「私も、大好きです」
 あなたは本当に素晴らしい。
 銀色のお盆にパスタ二皿と、紅茶とコーヒーを載せて老紳士がやってきました。手際よく配膳してくれたあと、頭を下げて去っていきます。
 カルボナーラの上に載っている半熟卵をフォークで割って、パスタに絡めながら話の続きをしました。
「メリーゴーランドの恋、シンプルに会話だけの内容だけれど世の中へのメッセージ性に共感しちゃいますよね」
 バジルソースのパスタをフォークに巻きつけながら、伊藤くんはウンウンと頷いてくれました。
「わかります。僕は特に、アダムとイヴについて語り合っているシーンが好きです」
 カルボナーラを口に運んで、そのミルキーな風味と黒胡椒の刺激を楽しみ、飲み込んでから応答します。
「ええ、まさに今の堕落した男女を象徴しています」
「会話だけ、というシンプルさもいいですよね。わかりやすくて」
「はい。私、ラストにあの二人が教会で祈るシーンも好きです。じんとしてしまいました。……あの少年と少女、美しいですよね」
 伊藤くん、あなたは私の分身ですか? こんなに楽しいお昼休みは初めてです。
 パスタが残り少なくなってきた頃、紅茶を飲みながら最後の確認をしてみました。
「……伊藤くんて、もしかしてお住まいは××駅の方ではありませんか?」
 ××駅前には私の住んでいるアパートと、あのレンタルDVD屋さんがあります。
「えっ、なんで知っているのですか?」
 伊藤くんはコーヒーカップを口元に運ぶのを途中で止めて、目を見開きました。
「駅前にレンタルDVD屋さんがありますよね? そこで前に伊藤くんらしい人を見かけて、気になっていたんです。……メリーゴーランドの恋、借りていましたよね?」
 伊藤くんは何かを思い出したように、ああ! と小さく叫びました。
「そうだったんですか。て、いうことは林田さんも同じお住まいですか?」
「ええ」
「本当、奇遇ですねえ」
 ……胸のつかえが取れました。これでようやく、夜は気持ちよく眠れます。
 パスタを食べ終わり、カップの中身もからになりました。店内のアンティークな壁かけ時計を見てみれば、もうそろそろオフィスに戻らないといけない時間です。
「そろそろ、出ないとですね」
 伊藤くんも時間を察したようです。ああ、惜しい。
「そうですね……」
「林田さん」
 私の名字を呼んだ伊藤くんの声が、何故か緊張しています。いつもは優しそうな伊藤くんの表情が、今は真剣そうでした。
 ドキドキしすぎて、心臓が破裂しそうです。
「は、はい……?」
「僕と」
「はいっ」
「お友達になってください!」
 伊藤くん、声が大きいです。
「はい!」
 しかし私も盛大に頷きながら、大きな声で答えていました。このカフェーは相当見つかりづらい場所にあるのか、昼時だというのに私たち以外客がいないので恥ずかしくはありません。
 伊藤くん。私は今、ようやく報われました。感謝の気持ちを込めて、ポケットの上からお守りを撫でます。
 伊藤くんが伝票を持って、会計を済ませてくれました。私は後で払いますと言いましたが、伊藤くんは気にしないでくださいと繰り返すばかりだったので、私は本当に伊藤くんのお言葉に甘えることになってしまいました。
 カフェーを出てビルへと向かう途中、私たちは「これからは一緒に昼食を取って、仕事が終わった時は一緒に帰りましょう」と約束をしました。オフィスに入ると女子社員が何人か私たちを凝視します。
 午後の仕事は特に面倒臭いお客様に当たることもなく、時間は快適に過ぎていきました。定時になると帰り支度をして、伊藤くんの電話が終わるまで待ちます。
「すみません、お待たせして」
 ややあって、インカムを外して鞄を持った伊藤くんが謝りながら私に近寄ってきました。笑って、伊藤くんを迎えます。
 ――オフィスを出る直前、インカムのマイクに向かってひたすら「すみません」を連呼していた女子社員が、こちらを睨んだような気がしました。
 伊藤くんと一緒の帰路は、好きな映画や好きな小説の話をしました。伊藤くんは恥ずかしそうにしながら少女漫画が好きなことも告白してくれたので、その話も大いに盛り上がりました。電車内のうるさい高校生たちも今日は気になりません。
 ××駅に到着すると、伊藤くんは私をアパートまで送ってくれました。
「それでは、また明日」
「はい、明日!」
 微笑んで手を振ってくる伊藤くんに、惜しみつつ会釈してから小走りで階段を上り、部屋のドアを開けました。パンプスを脱ぎ捨てて、奇声を発しながら走ってベッドへ飛び込みます。
 枕を抱いてごろごろ転がりながら、笑いました。
「うふっ……うふふふふ」
 この喜びの発作は暫く止まりませんでした。

 その夜。私はまずお守りに、それからコウモリ傘と何よりも神様に、深く感謝しました。
 ただひたすらに純潔を信じ、守り、禁欲的に生きてきた私のたった一つの願い事を叶えてくださった神様。信じる者は救われる。もう、迷いません。
「伊藤くん……」
 あなたが私を楽園へ連れていってくれると信じています。メリーゴーランドの恋の、あの少年のように。
 夜空へ向かって充分に手を合わせてから、ベッドに横になりました。
 明日から仕事が楽しみです。何かを悩むこともなく、気持ちよく眠りへと落ちていけました。

 信じる者は救われる。その通り、ようやく救われた私の毎日は薔薇色でした。
 午前の休憩は伊藤くんと少し談話して、お昼休みにはカフェーで昼食を取りました。帰る時はレンタルDVD屋さんへ一緒に寄って、翌日には借りた映画の感想を言い合います。
 嫌なお客様に不愉快な思いをさせられても、伊藤くんに話せばだいぶ心は軽くなりました。支えてくれる人がいるだけで、こんなに違うものなんですね。
 毎日が楽しい。こんな感情は初めてです。ただ、暫く経つと一つだけ悲しい出来事が起こりました。
 あのカフェーが潰れたのです。
 私たちは仕方なく大衆の好みそうなお店で昼食を取ったりしましたが、周囲がうるさすぎてゆっくり話をすることも出来なかったので、諦めてお昼休みはオフィスで過ごすようになりました。
 デスクを挟んで一緒に買ったサンドイッチを食べながら、伊藤くんはふと、明るくない身の上を話してくれました。きっと、カフェーが潰れた悲しさがそうさせるのでしょう。
「……僕、職を転々としてしまう癖がありまして」
 缶コーヒーを啜りながら、伊藤くんが苦々しそうに言いました。それはコーヒーの味のせいではなさそうです。
「どうして、ですか?」
 サンドイッチのかけらを飲み込んでから、恐る恐る聞いてみました。
「どうしても孤立してしまうのです」
 カン、と、缶コーヒーをやや乱暴に置いて、伊藤くんはため息をつきました。――孤立。
「周りと話も合わなければ、感覚も、空気も合いません。学生の頃もそんな感じでした。そのうちつらくなってしまって……ダメですね、これでは」
 胸が痛くなりました。……伊藤くんは、私より繊細なのかも知れません。私はどうにか我慢して、映画や小説や少女漫画に逃避することで何とかやっていけましたから。
「伊藤くんは、悪くありません」
「え?」
「周りが汚いだけです。あなたは綺麗。それの何が悪いのでしょう?」
「……林田さん」
 伊藤くんが私の顔をじっと見つめています。目を逸らさないように、必死に堪えました。
「ありがとうございます」
「い、いえ」
 伊藤くんの王子様のような笑顔。顔が熱くなるのを感じました。ごまかすように、ペットボトルのカフェオレを飲みます。
「あの、林田さん」
「……はい?」
「よかったら、休日が被った時にでも一緒に出かけませんか?」
「えっ! 本当ですか? ……えほっ」
 いけない、カフェオレが気管に入りました。口に手を当てて咳が収まるまで待ってから、伊藤くんに向き直ります。
「大丈夫ですか?」
 下品な失敗です。伊藤くんは笑ったりせずに、真面目に心配してくれました。
「は、はい。ごめんなさい。それで、えと、お出かけ嬉しいです!」
 ポケットからハンカチーフを出して口元を拭いつつ、何度も頷きました。
 伊藤くんがフッと小さく笑います。ああ、いまさら笑われてしまいました。
「公園なんて、如何でしょう? いいところ知っているんですよ」
 公園! 少女漫画みたい!
「素敵です!」
「なら決まりですね」
 デートだなんて、初めてのことです。それも伊藤くんのような素敵な人と……何を着ていこうかしら?
 それから仕事中も、仕事が終わって伊藤くんと帰っている時も、私の頭は浮かれっぱなしでした。
 デートについて話し合っていると、気がつけば私のアパートの前。
「それでは、また明日」
「はい、明日!」
 別れの挨拶を交わして、階段を上がり、部屋に入ると私はまっさきにバッグから携帯電話を取り出しました。実家の電話番号を急いでプッシュします。
 耳に電話口を当てて、コール音が五回ほど鳴ったあと、懐かしい声が聞こえてきました。
『はい、林田ですが』
「もしもし、お母さん!」
『まゆみ、どうしたの?』
 ようやく手に入れた、この純潔な交際の喜びを伝えなければ。これまでの事情を興奮気味に、早口で話しました。
 ――やや間があいて、聞こえてきたのは母のため息。
『……まゆみ、あんた何か忘れていないかい?』
「え?」
『その男がどれほど信用出来るのかは知らないけどね、ペニスがあるんだよ、男にはペニスが!』
 ……私の浮かれていた心が、一気に冷めました。母がまくしたてます。
『男という生き物はペニスに脳をコントロールされているんだ! 悪しきペニスに! 去勢すると性格が大人しくなるのは、汚れた欲望が根本から取り除かれるからだよ! 男なんてのは全員そうした方がいい! ペニスは悪魔のモチーフにされるくらい、邪悪なものだよ! ……その伊藤っていう男だってペニスがあるんだ。今はよくてもいつ、どこで、ペニスの邪念に暴走するのかわからないんだよ!』
 私は何も言えず、黙っていました。母がぜいぜいと荒く息をついています。
『……まゆみ、お前がもしもペニスに汚されるようなことがあったら、私はその男を殺すよ。充分、気をつけるんだね』
 母の掠れた、疲れたような声色。私は反論することもなく「はい、わかりました。今度、有休が取れたら帰ります」……などと適当なことを言って、電話を切りました。
 暫く呆然としてから、脳裏に様々なことが駆け巡りました。
 顔も覚えていない父。学生の頃の下品なクラスメートの男の子たち。保健の教科書。街中に溢れている恥知らず。ばら色の日々のエセ王子。伊藤くん。伊藤くんが、ペニスの化け物になった悪夢。
 気がついたら、頭を抱えて悲鳴を上げていました。
 また私の心は迷いはじめました。そう、伊藤くんにも卑俗な男性たちと同じく、ペニスがあるのです。美しい伊藤くんにはまったくもって似合わない!
 ……もちろん、伊藤くんがペニスごときに惑わされる訳はないと信じています。ただ、ペニスがあるという事実が恐ろしいのです。
 映画や小説、少女漫画に出てくる王子様は虚構ですから気にしませんでした。しかし伊藤くんは現実なのです! ……ああ、伊藤くん。
 去勢してほしいです。あなたにペニスは、いりません。

 翌日、仕事中に取った電話。インカムから不愉快な荒い息遣いが聞こえてきて、私は訝しく思いながらも応対しました。
「はい、××コールセンターです。お電話、ありがとうございます」
『あの、カタログに載っていた生理用パンティーについて質問がしたいんですが』
 相手の声は明らかに男性のものです。私が何か言う前に、そのお客様は問いました。
『ボク、これを穿いてオナニーしようと思うのですがサイズありま』
 全部聞く前に通話を止めました。
 死ぬほど腹立たしい。ペニスという名の悪魔が!

 お昼休みになると伊藤くんに「顔色が悪いですよ」と、心配されてしまいました。
 変態電話のショックを引きずっていましたが、そんなこと恥ずかしくて伊藤くんに相談出来ません。それに私の顔色が悪いのは、もう一つ理由があります。
「ごめんなさい。私、お手洗いにいってきます」
 伊藤くんのデスクへ椅子を持ってきて、コンビニで買ったクリームパスタと紅茶が入った袋をデスクに置くと、私は一言断ってからオフィスを出ました。
 ポケットの中にはポーチが入っています。急ぎ足でお手洗いへと入ったら、あの女子社員たちが洗面台で化粧を直していて、目が合ってしまいました。
「……」
 ついていません。けれど、用を済まさない訳にもいきません。さっさと個室へと向かいます。女子社員たちも、すぐに私から視線を外してくれました。
 ドアを閉めて、鍵をかけるとロングスカートをたくし上げ、下着ごとタイツを下ろして便座に座ります。血の滲むナプキンを剥がしました。……生理なんて、なくなればいいのに。純潔を守ると決めた私には必要のないものです。
 隅に置いてある汚物入れに丸めて捨てると、ポーチから新しいナプキンを出して取り替えました。下着とタイツを戻して、さあ出ましょう……と、した時です。
 女子社員たちの、妙に大きな話し声が聞こえてきました。
「伊藤くん、林田さんなんかの何がいいんだろうねー?」
「マジで趣味悪い」
 ……え? この人たち、私がいるの知ってますよね?
「あんな陰気臭くて、カビ臭そうなの」
「そうそう」
 きゃははは、と、甲高い笑い声が響きます。怒りを通り越して、呆然としてしまいました。
「それにさぁ伊藤くん、あんなのに立つことが出来るのー?」
「やっだーケイコったら」
「伊藤くん、インポなのかもねー」
 全身が粟立ちます。下品。……私の容姿は好きに言ってくれても構わないけれど、伊藤くんのアレの話はお願いだからしないでほしいです。伊藤くんに、あんな悪魔がついている訳がないでしょう!?
 神様は私にまた試練を課すつもりなのでしょうか? やがて女子社員たちの足音がすると同時に、笑い声は遠くなっていきました。完全に静かになってから、ふらつきつつ個室から出ます。
 オフィスに戻って伊藤くんのもとへいくと、伊藤くんは私の顔を見て愁眉を寄せました。
「どうしました? よけいに顔色が悪くなっていますよ」
「いえ、別に……なんでもないです」

 それからある程度の時が経つと、私と伊藤くんはシフトを調整して、ついにデートの日がやってきました。
 目覚まし時計を止めて、ゆっくりと起き上がります。ベッドから下りて、カーテンを開ければ光が差し込んできました。いい天気です。
 まさにデート日和。洗面所へ向かうと顔を洗って、豚毛のブラシでいつもより入念に髪をとかしました。おしろいをはたき、色つきのリップを塗ります。めったにお化粧をしない私でも今日だけは特別です。……と、いっても売女のようにはなりたくないので、ごく薄化粧ですが。
 そのまま居間に戻りクローゼットを開けて、淡いピンク色の生地に白い小花が咲いているロングワンピースに着替えると、生成り色のタイツを穿きました。
 毛糸の花のコサージュで飾られて、ざっくりと編まれたフェミニンなニット帽を被ります。色はベージュ。コーディネートしたお洋服は安物だけれどすべてオニューです。……本当はピンクハウスとか好きなんですけれど。
 白いフェルトのポシェットを肩にかけて、玄関でパンプスを履きます。いつもの地味な黒いパンプスではなく、履き口の甲の部分にギャザーが寄って、爪先にはビーズの花がついたピンク色のパンプス。それに足を入れてドアを開けようとした直前で、パンプスを脱いで戻ることになりました。
 重要なものを忘れていたのです。台所にきてシンクの下の戸棚を開けると、キッチンバサミを手に取ってポシェットの中へ入れました。
 そして再びパンプスを履き、出かけます。
 ――大丈夫。また少し、勇気を出せばいいだけです。とりあえず今日はうんと楽しみましょう。駅まで向かういつもの道も、何だか映えて見えました。
 駅前につくと、構内へと上がる為の階段脇に立って伊藤くんを待ちます。携帯電話で時間を見てみれば、まだ待ち合わせまで十分もありました。少し、早くに来すぎてしまいました。だって落ち着かないのだもの。伊藤くんは私のアパートまで迎えにいきますよ、なんてことを言ってくれましたが断りました。
 だって、デートの醍醐味は待ち合わせでしょう? 映画でも小説でも少女漫画でも、ヒロインまたはヒーローが相手に思いを馳せながら待っているものです。……はぁ、伊藤くん。
 もしかしたら今日で最後かもしれません。怖いけれど仕方ありません。幸せになる為には、これしかないのです。
 ポシェットをそっと撫でました。あちこちにいる人々を何となく観察しました。ぐずっている子供の手を無理矢理引いている男女がいました。
 気がついたら待ち合わせの時刻、十時です。そのうち、携帯電話の着信音が鳴りました。伊藤くんからです。
 慌てて、通話ボタンを押しました。
『あ、林田さん! もう駅前にきていますか?』
「はい」
『僕も今つきました。どの辺にいます?』
「階段辺りです」
 視線を巡らすと携帯電話を耳に当てて、人を避けつつ歩いている伊藤くんを見つけました。
 手を振ってみせると、伊藤くんは気づいてくれたのかこちらを見て、微笑みました。お互い電話を切ると、伊藤くんが駆け寄ってきます。
「すみません、待たせてしまいましたか?」
「いえ、きたばっかりです」
 伊藤くんはシャツの上にミルクティー色のカーディガンを着て、細身の黒いパンツを穿いていました。靴はよく磨かれた革靴。
「私服、素敵ですね」
 伊藤くんが、私が伊藤くんに対して思っていたことを、私に言ってくれました。
「え! そ、そうですか?」
「はい、可愛いです」
「……ありがとうございます。伊藤くんも素敵です」
 精一杯、お洒落してきてよかった。「可愛い」だなんて、男性に言われたの初めてです。
「では、いきましょうか」
「はい」
 私を先に階段へ上らせて、伊藤くんは一歩後ろについてきます。切符を買って改札を通り、今度は伊藤くんが先頭に立ってホームへと下りると、丁度よく電車がきました。田舎の方へと向かう下りの電車です。
 車内に入ると、中はすいていました。こっくりと舟を漕いでいる人と、お年寄りの方が数人。私と伊藤くんは隅の席に腰かけました。
「平日のお休みはいいですね。混雑していなくて」
「ええ」
 伊藤くんに同意しつつ、視線を伊藤くんの膝から、その脚の間へと滑らせました。
 いつ、どこで、どうやって頼もうかしら? ――ペニスを去勢してほしい、と。
 私の手で強引にやってしまうことも一度は考えました。でも、好きな人にそんな酷いことは出来ません。なら、キッチンバサミを渡して合意を得るしかないのです。
 拒まれたら、伊藤くんのことは諦めましょう。……お友達になってゴールかと思えば、まだこんな最難関が残っていたなんて。
「どうしました?」
「あ、い、いえ!」
 私の視線に気づいたらしい伊藤くんが、小首を傾げました。慌てて、視線を伊藤くんの顔に移します。いけない、変に思われてしまいます。
「今日、晴れててよかったですね! 公園、楽しみです」
 ごまかすように話題を振りました。電車の心地よい揺れに身を任せながら、雑談を楽しみます。
 そのうち目的地を告げるアナウンスが聞こえてきて、私と伊藤くんは電車を降りました。閑散とした駅前へ出ると、ここからはバス移動になるらしく、そのままバス停で待ちました。三分ほど遅れて、バスはのろのろとやってきます。
 車内に他の乗客はいませんでした。さほど遠くはなく、すぐにバスは到着します。降りると、通路の左側には柵を隔てて池がありました。カモの親子が水面を緩く波立たせながら泳いでいます。
 柵沿いに進んでいくと、公園の入口であるツタの巻きついた鉄製のアーチが見えてきました。アーチをくぐり、受付でチケットを買って、また少し進めば土と草の匂いがします。
 生い茂っている木立を抜けると、柵に囲まれたポニーたちが草を食べていました。
「可愛い!」
 思わず、はしゃいでしまいます。柵に手をかけて、私たちはポニーを観察しました。栗色の毛を風に遊ばせながら、鼻をひくひくさせています。
 満足するまで眺めてから公園を巡りました。パンジー畑に来て、そろそろお腹も減ったので昼食に売店でカツサンドを買いました。ベンチに腰かけて、紫と黄色と薄紅色のカラフルなパンジーたちの前で食べます。
「……やっぱり、林田さんと一緒にいると落ち着きます」
 カツサンドからはみ出ているレタスをかじっていると、伊藤くんが出し抜けに言いました。
「あ、私も……です」
 私は伊藤くんの言葉にいちいちドキドキさせられてしまいます。伊藤くんはカツサンドを食べながら、俯いて話の続きをしました。もしかして伊藤くんは緊張すると、下を見る癖でもあるのかもしれません。
「あの、林田さん」
「は、はい」
「下の名前で呼んでもいいですか?」
「あ、えっ」
 どぎまぎしつつ、頷きました。
「まゆみさん」
 私の平凡な名前が伊藤くんによって、甘美に響きます。
「はいっ」
「あの、よければ僕のことも名前で……」
「……ゆ、夕司くん」
 ああ、顔が熱いです。二人して俯いてしまうと、黙ってカツサンドを減らしていきました。
 それからベンチを立って公園巡りを再開します。池で鯉に餌をあげている時に、周りが砂利だったものだから、私ったら躓いてしまいました。
「危ない!」
「あっ……」
 途端、伊藤くん……いえ、夕司くんのピアニストのような形のいい手が、私の手を掴みました。
 夕司くんは慌てて手を離して
「すみません」
 と、謝りながら赤面しています。
「いえ……こちらこそ」
 ――楽しい時間は過ぎていくのが早く、花を観賞したり、動物と戯れたりしていたらあっという間に空がオレンジ色になってしまいました。小動物触れ合いコーナーでモルモットを抱いている私を、夕司くんが持ってきていたインスタントカメラで撮ってくれました。
 遊んでいる最中、私は去勢のことを考えないようにしていました。不安を感じたくなかったのです。
 そして空が暗くなってきた頃、去勢の願望は薄くなってきました。
「そろそろ、出ましょうか」
 ベンチで休んでいると飲み物を買いにいってくれた夕司くんが、缶コーヒーを私に差し出しながら言いました。
「そうですね。カフェーに向かいましょう」
 公園で遊んだあとは××駅の東口を出たところにある、私がよく利用するあのカフェーで夕食を取ることにしていたのです。缶コーヒーを受け取ると、夕司くんが隣に腰を下ろしました。
 ちらりと横目で、夕司くんの顔を見ます。……夕司くんは本当に理想的な男性です。私とここまで気が合う人は初めてです。この先、夕司くんのような人と出会うことは二度とないでしょう。
 故に、去勢のことを切り出す気がしなくなってきたのです。夕司くんにもペニスがあるだなんて認めたくない事実ですが、去勢を迫ってこの関係がもしかしたら壊れてしまうことを考えると恐ろしくて仕方ないのです。
 だってあなたを慕う気持ちは、どんどん深まっていくのだもの。
「……どうしました?」
 無意識のうちに夕司くんを凝視していたようです。
「いえ」
 そっとポシェットを撫でます。ああ、葛藤しています。
 それから缶コーヒーをからにすると、私たちは公園を出ました。

 帰りのバスと電車の車内で私たちの口数は少なく、遊びのあとの疲労感がありました。××駅東口に出ると、カフェーへと足を運びます。見慣れた煉瓦風の外観は、今は入口のガラスドアに照明が灯って様変わりしていました。
 中に入ると、いつもの女給さんが接待してくれます。窓際の席につくと、会社員風の下衆たちが酔っ払ってよろけながら歩いているのが窓から見えて、不愉快だったのですぐに向かいの夕司くんに視線を合わせました。
「楽しかったですね、今日は」
 目を細めて微笑む、夕司くんのその優しい表情が大好きです。
「ええ、とても」
 お互いにメニューを手に取って開きながら、笑い合います。公園ではロマンチックな時間を過ごせました。……大丈夫、夕司くんはペニスに狂う訳がありません。もうペニスのことは目をつぶって考えないようにしましょう。
 私はデミグラスソースのかかったオムライスを頼んで、夕司くんは煮込みハンバーグにフランスパンのついたセットを頼みました。ややあって女給さんが料理を運んでくると、私たちは静かに食事をしました。何故か夕司くんが、あまり喋ってくれなかったからです。帰りのバスと電車はいいとして、カフェーなら話題になることは沢山ありそうなのに……少し、気になります。
 もしかしたら夕司くんは、気分でもすぐれないのかもしれません。それは私が原因ではないことを祈りつつ、オムライスを載せたスプーンを黙って口に運び続けました。
 食後に紅茶をいただきます。ああ、名残惜しいけれどそろそろ帰宅の時間かしらと思った時、夕司くんは視線を落としてテーブルを見つめていました。
「あの、まゆみさん」
「はい。……なんでしょう?」
「話があるんです。もしよければ……僕の家にきてくれませんか?」
 ――その言葉を聞いた瞬間、他のどんな感情よりもまず戸惑いを感じてしまいました。
「え? 話って……ここでは駄目なんですか?」
「はい」
 夕司くんの声色は真剣そうです。ただ、顔は下に向けたままでした。
 ……話って何なのでしょう? 気になりますし、まだ夕司くんと別れなくてもいいのは嬉しいです。夕司くんのお部屋も見てみたいです。でも、怖い。
 もちろん夕司くんのことは信じています。信じたい、けれど……ぎゅっとポシェットの肩紐を強く握りました。
 信じさせてください。
「はい。……わかりました」
 勇気を出して、確認してみることにします。
 夕司くんは顔を上げて、ほっと表情を緩めました。
「ありがとうございます」
 私が遠慮しても構わず、夕司くんは代金を支払ってくれました。カフェーから出ると、飲み屋さんの明かりに照らされた通りをとぼとぼ歩きます。駅前に戻って、西口にいきました。
 西口は東口と比べると、ひっそりしています。レンタルDVD屋さんと、ぽつぽつ立っている街灯のぼんやりとした明かり。夕司くんは私の斜め一歩前で黙って歩いています。
 そのうち、私のアパートを通り越しました。暫くすると夕司くんは歩みを止めます。
 傍にはブロックの塀に囲まれたアパートがありました。たいして大きくもない私のアパートより小さくて、壁にはツルが這っていました。
 アパート内の煤けた階段を上り、夕司くんが二〇一と示されたドアを開けます。
 案内されるがまま中に入ります。靴脱ぎにはきちんと革靴が揃えられていました。パンプスを脱いで揃えると、夕司くんもその隣に履いていた革靴を揃えます。
 夕司くんの部屋は狭いながらも、家具は必要最低限で雑然としておらず、隅々まで掃除も行き届いていて清潔でした。敷かれている黒いカーペットは柔らかい素材で、ふかふかしています。
「すみません。ソファーも何もなくて……カーペットの上に座ってください」
「あ、はい」
 夕司くんの言う通りに、その場で正座しました。夕司くんは肩にかけていた鞄をミニテーブルの上に置いて、私の向かいに座りました。
 つい、きょろきょろしてしまいます。
「綺麗な部屋ですね」
「そうですか? どうも……」
 夕司くんは俯いて、また黙ってしまいます。私は夕司くんの言っていた「話」が気になりつつも、急かしたりせずに待っていました。
 暫く、沈黙が続きました。
 夕司くんが意を決したように、口を開けます。
「あ、あの」
「はい?」
「率直に言います。僕はっ……まゆみさんのことが友達としてではなく、好きです」
「へっ!?
 思わず、奇声を発してしまいました。慌てて口を手で塞ぎます。今すぐ狂喜乱舞でもしそうな気持ちを、必死に抑えました。
 しかし、夕司くんは
「ただ、言わなくてはいけないことがあります」
 と、付け加えはじめました。
「今から僕はとても変なことを言います。大衆には理解が出来ないであろう、メチャクチャな話です」
 興奮しているのか、夕司くんは早口です。私はそれに押されて、黙って話を聞きました。
「まゆみさん。僕の母はとんでもない売女です。まだ僕が子供だった頃、母は平気で僕の目の前で男と性交していました。グロテスクな光景でした! 家にはほぼ毎晩、違う男を連れ込んでいました。ご近所でも噂になって、僕は学校ではイジメの対象です。母の、いえすべての女性のヴァギナが憎いです! ……母は今でも風俗勤めです」
 夕司くんは一旦話を止めて、大きく息を吸い込みました。それから、またすぐに話を再開します。
「そんな僕が逃避できるのは本の世界くらいです。純愛小説はただただ美しい。そこに出てくる清潔で、可憐な乙女たちに焦がれました。そう、別に女性自体が嫌いな訳ではないのです。ただ売女に、ヴァギナに殺意を抱くだけで。そのうち、去勢についても調べるようになりました」
 夕司くんはまた一呼吸、置きました。
「実際、理想の女性に出会えることはありませんでした。少しでも早く家を出たくて、働きはじめても周りは低俗な人間ばっかりです。……そんな中、僕はようやくあなたに出会えたのですよ、まゆみさん。あなたは素晴らしい乙女です。あなたと一緒にいるだけで、幸せな気持ちになれます。ただ、あなたにもあるのですよね? 堕落へと誘ってしまう悪しきヴァギナが。僕、女性はあれに脳をコントロールされているんじゃないのかと思うのです」
「……ゆ、夕司くん」
「まゆみさん、好きです。だから……去勢してくれませんか?」
 目から熱いものが溢れました。
 私は……なんて自分勝手だったのでしょうか。ペニスペニスって、ペニスのことばかり悪く言って、自分の性のことは棚に上げていたのです。
 みつあみだった親友も、あの女子社員たちも街中にいる売女たちも、ヴァギナのせいで堕落したのかもしれません。落ち着いて考えればすぐにわかることです。
 ヴァギナだって、ペニスと同等に汚れているはず。
「……まゆみさん」
「あ、あのっ、夕司くん」
 涙を拭いつつ、私は言いました。
「私も夕司くんのことが好きです。そして私も、夕司くんと同じような思想です。……ですから、私からもお願いしていいですか? 夕司くん、去勢してください」

 私と夕司くんは、まったく同じ苦悩を抱えていたのです。夕司くんも非性愛者だった。どうりで、惹かれ合う訳です。私と夕司くんは両思いだった。
 孤独に頑張ってきた私たちを、神様がようやく巡り合わせてくださったのです。あとは楽園へいく準備をするだけです。
 夕司くんが敷いてくれた布団にタイツと下着を脱いで、仰向けに寝ました。夕司くんが針と糸とハサミと消毒液を用意しています。
 羞恥と、激痛への恐怖はあります。でもこれで完璧に綺麗な存在になれるのなら、堪えてみせます。
「アフリカの一部では女性の性欲を抑える為に、女性器を切り取ることがあるのだそうですよ。……ああ、なんて醜いんだ。美しい君がもったいない」
 夕司くんがハサミを片手に、私の脚の間に座りました。最初、夕司くんは気遣ってくれて「僕が先にまゆみさんの手で去勢されます」と、提案してくれましたが断りました。
 だってヴァギナより、ペニスの方が負担は大きそうですから。終わったあと私を去勢する気力が残っているのかわかりません。――ああ、冷たい金属が肌に触れました。
 これなら、母も安心してくれるでしょう。私たちは永遠に処女と童貞です。

羽根/アダムとイヴの純愛

2015年8月7日 発行 初版

著  者:山本ハイジ
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山本ハイジ

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