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 芸術家志望の少女、テレーズは、アルバイト先で美貌の人妻キャロルにであい、その人生を大きく変えていきます。

 『キャロル』はサスペンスの女王、パトリシア・ハイスミスが、別名義で書いた初期のベストセラーです。ハイスミス名で再版された時も、好評をもって迎えられた、サスペンス風味のロマンスです。
 映画化されたにもかかわらず、日本で唯一翻訳の出ていないこの長編を、ハイスミスの私生活や時代背景をからめて、詳細に解説しています。
「キャロル? ああ、女同士の恋愛物だから興味がないよ」という方にも、ぜひ、目を通していただきたい一冊です。

東京創元社顧問:戸川安宣氏「精緻な考察に感服しました」
翻訳家:北原尚彦氏「ハイスミスへの理解が深まる一冊」

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キャロル 知られざるハイスミス

鳴原あきら

恋人と時限爆弾



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  この本はタチヨミ版です。

 前書き

 この稿は、心理サスペンスの女王、パトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith)の長編小説で、唯一未邦訳である、『キャロル(Carol)』を紹介するものです。

 この『キャロル』という本は、クレア・モーガン(Claire Morgan)という別名義のもと、一九五二年に『よろこびの代償(ザ・プライス・オブ・ソルト The Price of Salt)』という題名で出版された、サスペンス調のラブロマンスです。発表当時、「(ヒロインの)テレーズの性格づけは不明瞭、他の人物の造形もシルエットのようにうすっぺらい」など、批判的な書評が出たりもしましたが、この本は売れ、翌年にバンタム社からペーパーバック版がでると、百万部をこえる大ベストセラーとなりました。
 この本は、彼女の晩年に『キャロル』と改題され、本名のハイスミス名義で出しなおされています。この稿は、その改訂版に基づいて書きますので、『キャロル』を基本表記とし、初期タイトルの表記と両方を使用します。
 この長編は、女性同士のラブロマンスです。ポルノ的な興味で読んだ読者も多かったかもしれませんが、これが凡作でなかった証拠に、共感に満ちたファンレターが大量によせられ、発表から数十年たっても出版社に手紙が届き続けて、長い生命をもった作品であることを証明しました。改訂版は、ハイスミスの作品として発表され、各国でも翻訳・出版されて高い評価をえました。彼女の初期を代表する長編といっても過言でないと思います。実際の執筆は一九五〇年代初頭、発表時期は、ヒッチコックによって映画化された処女長編『見知らぬ乗客』の後、そして、ハイスミスの一番の代表作として知られ、何度も映画化された、『太陽がいっぱい』(改訳『リプリー(The Talented Mr. Ripley)』)より前にあたります。
 ハイスミスの著作の多くは、彼女の人生や思想を強く反映していますが、『キャロル』は特に、私的な色あいの濃い小説です。しかし単なる私小説ではなく、特に後半の盛り上がりや、ヒロインをつけ狙う探偵とのやりとり、奇妙な執着心や複雑な愛憎関係など、ハイスミスらしいサスペンスタッチを堪能できます。若い女性の成長物語としても興味深く、女二人のロードムービー的な面白さもあります。ジャック・ケルアック『路上』の先駆けといえるかもしれません。発表当時は、結末の斬新さが話題になったそうですが、出版から六十年が過ぎ、描かれた風俗が古めかしくなり、結末の意味合いが薄れた現代にあっても、なお、興味深く読める小説といえるでしょう。

 最初に書いたとおり、ハイスミスの長編小説は、何度かあったハイスミスブームにより、河出書房や扶桑社他で、ほぼ翻訳が出そろっています(エッセイ、共作などをのぞく)。しかし『キャロル』だけは、その存在を完全に無視されているかのように、邦訳が出版されていません。
 実際、無視されてきたのかもしれません。たとえば「ハイスミスがレズビアンだったのは有名」だと書く、ハイスミス・ファンを自認する小林信彦でさえ、

「別なペンネームでレズビアンの恋愛小説を書き、ペーパーバックで〈百万近く〉売れたという」(『読書中毒』文春文庫 一五二頁)

 と書きながら、一九九七年に書かれた「ハイスミス翻訳のラストスパート」という項目では、こう記しています。

 「ハイスミスの長篇で翻訳がないのは、あと三冊、このうち二冊は翻訳中との事だから、残るのは "A Game for the Living"一冊だ。(中略)やがて、ハイスミスの長篇すべてが本棚にならぶと思うと嬉しい」(同書 三〇七頁)

 その後『生者たちのゲーム』は、扶桑社から出版されましたが、『キャロル』はいまだ、並んでいないのですが……?

 このような状況ですので、この本では積極的に『キャロル』のネタバレを行います。内容がわからないのでは評価されようもないと思いますので、引用も多数いたします。そのため、もし原文で楽しもうと考えてらっしゃる方は、以下を読む前にお読みください。ハイスミスは、多少クセのある文体の持ち主ですが、『キャロル』は(若書きらしい荒削りなところがあるものの)、後期の作品より素直で読みやすいようです。
 今回、引用箇所などは、一九九二年に最終改訂された、ペンギンのペーパーバック版『キャロル』に基づいて表記します。また、作品背景にも触れます。ハイスミスの生い立ちなどについては、諸説あるかと思いますが、この稿では、ハイスミス公認の伝記である、アンドリュー・ウィルソン(Andrew Wilson)著『美しき影(Beautiful Shadow)』(ブルムズベリ社)を元に書いていきます(この本も未邦訳です)。
 ハイスミスの生涯については、ウィルソンの詳細な評伝以外にも、元恋人の一人によってゴシップ小説風に書かれた、メリジェイン・ミーカー(Marijane Meaker)著『ハイスミス、五〇年代のとあるロマンス(Highsmith : A Romance of the 1950s)』や、全体としては批判的なトーンですが、ハイスミスのさまざまな側面に光をあて、肉筆資料なども収録したジョウン・シェンカー(Joan Schenkar)著『才媛ミス・ハイスミス(The Talented Miss Highsmith)』などがありますので、こちらも未邦訳ですが、興味がおありの方は、あわせてお読みになると面白いかと思います。私はこの二冊については、「ハイスミスは他者との折り合いが苦手で、売れっ子作家にしては比較的地味に暮らしていたにもかかわらず、それなりに恋多き女性だったために、批判的に書かれてしまいがちなのだろうな」と思っています。私は研究家でもなんでもない、ただの書き手の端くれで、読者としてはむしろ不真面目な部類に入りますので、皆様は違う感想をもたれるかもしれませんが。

 文中の引用訳は、すべて、鳴原あきら個人によります。翻訳家の柿沼瑛子先生に師事しておりますが、翻訳のプロではありませんので、誤訳や不自然な日本語もあるかと思います。あきらかな誤訳などはご指摘いただければ幸いですが、あくまでザッとした紹介として、お読みいただければと思います。有名な本だけに、他にも多数、個人的に訳されている方がいらっしゃるでしょうし、出版社に持ち込まれた方もあるでしょう。どうもおかしいと思われた場合は、原書を参照なさっていただければと思います。どうしても長くなりますので、今回、英文は併記いたしません。また、引用文はすべて、強調で表します。

 作品意義

 この小説の意義は、作者自身が書いた後書き(一九八九年五月版)に、要領よくまとめられています。前書きと重複部分もありますが、そのままご紹介します。

 (ハイスミスの第一長編の『見知らぬ乗客』をサスペンスのレーベルで出版した)ハーパー&ブロス社から『よろこびの代償』をつっかえされたので、私は別の出版社を選ぶことを余儀なくされました――これは残念なことでした、私は出版社を変えるのが大嫌いなのです。『よろこびの代償』は、一九五二年にハードカバーで出て、文学作品としてとらえてくれた、真面目で読むにたる評がつきました。しかし本当の成功は翌年、ペーパーバック版が出た時にやってきて、それこそ百万部近く売れ、おそらくそれ以上の数の読者に読まれました。ペーパーバックの会社気付で、「クレア・モーガン」あてにファンレターがきました。一週間の間に二度、十から十五通ほどの手紙を受け取り、それが何ヶ月も続きました。かなり返事を書きましたが、定型文を使わないと書ききれず、そんな必要はその後、二度とありませんでした。
 若き主役テレーズは、この本では、はにかみ屋に見えるでしょう。しかしこの頃、ゲイバーというのは、マンハッタンのどこか暗いところに押し込められた場所で、通う人間は、ゲイであると疑われないよう、もよりの駅の一駅前で降りたり、乗り越したりしなければならなかったのです。『よろこびの代償』の魅力は、二人の主人公が、ハッピーエンドで終わること、少なくとも、二人は未来を共有しようとしていることです。これ以前に出版された本では、アメリカの小説に出てくるゲイやレズビアンは、その逸脱のために、犠牲者とならねばなりませんでした。手首を切らされたり、プールに飛び込んで溺死されられたり、異性愛に方向転換させられたり(と、いわれていたのです)、もしくはひとり惨めに遠ざけられて、地獄にも等しい人格崩壊状態へ追い込まれていきました。ですからファンレターの多くは、こんなメッセージに溢れていました。「こういう本でハッピーエンドなのは、あなたの作品が初めてです! わたしたちはみんな、自殺するわけじゃない、多くの人はうまく生きているんです」。他にも「こういう小説を書いてくれて、感謝しています。私の体験と、ちょっと似ています……」または「私は十八歳です、小さな街に住んでいます。誰にもレズビアンとはいえないので、寂しい思いをしています……」時に私は、出会いの可能性のある、大きな街に行ってごらんなさい、とアドバイスしたこともあります。覚えているのは、ファンレターは女性からだけでなく、男性からも同じように、たくさん来ていたことで、これはいい予兆だと思いました。それが本当であることは証明されました。手紙は何年もの間、ぽつりぽつりと届き、今でも読者から、年に一、二通は送られてきます。こんな本は、二度と書けませんでした。(『キャロル』二六一頁~二六二頁)

 ハイスミスの恋人の一人で、長年の友人でもあったアン・クラークの著書に、届いたファンレターについて、このようなコメントが書かれています。

「手紙はどれも心うたれるもので、アメリカの小さな街で、レズビアン女性が、キリスト教と原罪という考えにいかに抑圧されているか、よくわかったわ」「特に印象に残っている手紙があってね。やはり田舎町にすんでいる女性からで、《この本を読むまで、他の女性にこんなに強い感情を抱く人間は、この世に自分ひとりしかいないと思ってた》って」(『美しき影』一七二頁)


 ここにいったい何が書かれているのか、おわかりでしょうか?

 現在の日本において、同性愛者を描いてハッピーエンドという漫画や小説の数は、少なくないと思います。また、後味がよいというだけで、パトリシア・ネル・ウォーレンの『フロント・ランナー』よりも、三浦しをんの『風が強く吹いている』の方が面白い、などと思ってしまう人間も、ここにいます(男同士の走者の物語というだけで、その二つを比べるのはどうかということは、別にして)。
 しかし今日においても、悲劇や死で終わる作品は多く存在します。そして、悲劇で終わるからこそ面白い、と思って読む方もいらっしゃるでしょう。それはもちろん好みの話であり、読者の自由なわけですが、そういう方には、この後書きが何を書いているのか、よくわからないかもしれません。
 それを理解する助けとして、この長編の初版が出た一九五〇年代のアメリカという国が、どれだけ保守的で、めちゃくちゃな状況だったかを知る必要があります。
 アメリカは、戦争に勝っても、国内の状態がよくならず、混乱していました。なおかつ、共産主義撲滅運動、いわゆる《赤狩り》が行われていました。
 当時、共和党上院議員であったジョセフ・マカーシーは、裕福な知的階級の自由な思想を、政治的に望ましくないとし、それを《共産主義》とよんで弾圧しました。また、スパイでもなんでもない人を捕まえて、処刑したりしました。こんなことができたのは、アメリカという国が、国家として成立した当初から、貧困層を徹底的に搾取することで成長し、資本主義の名のもとに、甘い汁を吸い続けてきたため、それを否定する共産主義を、異様なまでに恐れたからです(「朝鮮戦争は正しかった、なぜなら共産主義から半島を救ったから」と信じているアメリカ人が、今でもいるのです。よその国で、代理戦争を行っただけのことなのに)。
 しかし「知的階級がすべて共産主義」であるとか、「自由な思想・イコール・共産主義」であるという概念は、現代日本の私にはピンときません。共産主義はまったく「自由」を意味しません。実際、搾取の一番の犠牲者である最底辺貧困層には、保守派が多いわけですが、富裕層への抗議行動もひんぱんに起こしています。
 というわけで、気にくわないものはすべて一律に、共産主義者とまとめてしまえる考え方が、私には理解できないのですが、その後のマカーシーは、さらにすさまじい飛躍をします。

 世間をたきつけて集団ヒステリーにし、赤狩りに成功したマカーシーは、新しい標的を求めて、ホモセクシュアルへの攻撃をはじめた。共和党党首である、ジョージ・ガブリエルソンが一九五〇年に発表した白書には、「近年、我が政府に食い込んでいる性的倒錯者らは、活動的共産主義者と同様、危険である」と記されている。
 マカーシーによれば、ホモセクシュアルは治安を脅かす危険人物であると主張し、上院はいつでも彼らを罷免することができるとした。これは単に、レズビアンやゲイへの悪意を利用して、より広範な疑惑の念をかりたてた。上院小委員会白書によると、ホモセクシュアリティというものは「そのような行為にふけり、世間的な標準に反している者であるため、一般的に考えて追放されるべきであろう」。一九五〇年の四月には、国務省だけで、九十一名のホモセクシュアルが罷免され、公的な機関につとめるゲイたちは、いやがおうでも危険にさらされていることを感じていた。マカーシーが社会的不適応と断じた者への悪意ある迫害は、上院に非難される一九五四年まで続いた。彼はその三年後に亡くなったが、その影響はひろく残った。(『美しき影』一六三頁~一六四頁)


 いきなり「共産主義・イコール・ホモは殺せ」です。その仕事を奪い、追放し、息の根をとめろ、といっています。そして、マカーシー一派は、狙った人物に対して、スパイや盗聴などの犯罪行為を執拗に行いました。
 保守層が同性愛を嫌うのは、理解できないことはありません。異質な者は社会秩序を乱す、と考えているためなのでしょう。しかし、実際には同性愛者ゆえに騒乱罪を起こすわけではありません。そして共産主義の国のほうが、なおいっそう同性愛者を嫌っており(実際に厳しい弾圧が行われています)、あまりにもかけ離れた主義と指向を、いっしょくたにして平気でいるあたりに、個人的な好悪をこえた異常さを感じます(ちなみに、このマカーシー一派の中にも同性愛者がいました。自分の不都合を隠すために、他人を攻撃し、犠牲にしたのです)。
 実は、数年前の戦争中、アメリカにおいては、女性が働き手であること、女性同士の愛ある関係は、むしろ奨励されていました。リリアン・フェダマン『レスビアンの歴史』(筑摩書房)によれば、女性兵士が「私はレズビアンですので辞めさせて下さい」と申し出ても、人手が欲しい上官たちに知らんぷりされ、除隊を認めてもらえなかったというのです。十九世紀から二十世紀にかけてのアメリカでは、ボストン・マリッジと呼ばれる、友愛をこえた女性同士の親密な関係は、良いものとして称賛されていたりもしました。しかし、第二次世界大戦後のアメリカでは、自由な空気はかき消えていました。大きな反動と、退化の時代に突入していたのです。



  タチヨミ版はここまでとなります。


キャロル~知られざるハイスミス~

2015年8月9日 発行 初版

著  者:鳴原あきら
発  行:恋人と時限爆弾

この本は2012年12月に文庫本で出たものの、改訂版です。

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鳴原あきら

鳴原あきら(Narihara Akira)と申します。サスペンス・推理物・百合・BLなど、ちょっぴりあやしげなものメインで、書いています。

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