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この本は、電子書籍【『独り雛』二〇一四】のサンプル版です。
二〇一四年の『月刊群雛』で掲載された四つの短編集サンプルと一つの既刊長編のサンプルが掲載されております。
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2014年06月号(Vol.005)にて掲載
『時間はある』
【序】
質より量でできたOL狙いのパスタランチを食べ終え、三人はアフターのドリンクを飲んでいた。
窓からの風景を眺めながら、先輩格の田代怜奈が大きくため息をついた。
「あ~、もうすぐクリスマスかぁ。」
「先輩、何か予定あるんですか?」
二つ下の横地美香が何気なしに聞いた。
「あったら、こんなため息出ないわよ。あなたたちは?」
「実は私も……ありません。って言うか、今年は平日で、普通に出勤ですしね。」
「そうよね、なんか、いいのかしら、こんな人生……。」
「けど、どうしようもないじゃないですか……。絵里は?」
二人の会話を横で聞いていた秋田絵里がドリンクを置いて、苦笑いをする。
「私も何の予定もありません。」
「モテない女三人で飲み明かすかぁ。」
「私たちって、負け組かしら?」
「ちょっと美香、そんな凹むこと言わないでよ。」
「やっぱ玉の輿がいいわ。どっかの御曹司に声掛けられないかなぁ。ないわなぁ。」
美香の愚痴が続く。
「大学のときの友達が六月に、合コンで知り合った歯医者の人と結婚したんだけど……。」
絵里が話し出すと、二人が食いついた。
「大変らしいですよ。」
「何が?」
「開業医で、新しい医院建てたんだけど、ちっともお客っていうの、患者さんが来ないらしいの。歯科医なんかだと、子供のころからの決まったところに通うから、新規の患者なんて、そういないらしいの。結婚するときは、玉の輿だぁって、みんなに自慢してたのに……大変らしいって聞いたの。」
「そう言えば、歯医者って、コンビニより多いらしいじゃん。」
「あ、なんか聞いたことある。」
世の現実を突き付けられ、三人は揃って肩を落とした。
大きなウィンドウから見える都会の風景は、華やかで煌びやかだ。それが余計に自分たちとの温度差を大きく感じさせる。
「ねえ、会社戻る前に、宝くじ買っていかない?」
「宝くじ?」
「あの、あるじゃん。数字を選んで、塗りつぶすやつ。」
「よくテレビで宣伝してる? ロトなんとかってやつですか?」
「そうそう、それ。」
絵里が乗り気じゃなさそうに口に出した。
「あのぉ、私、そういうのって……。」
「大丈夫よ。数字だって、コンピュータが勝手に選んでくれるし、二百円か、三百円のことよ。安めのコーヒーを飲んだと思えば。」
「そんなに安いんですか。」
「知らなかったの?」
「はい。全然興味もないし、身近に買う人を見たことないので……。」
「なんでも初体験があるものよ。さあ、いこ!」
怜奈の号令で立ち上がった。
そして、三人は、店を出て、会社に戻る途中、宝くじ売り場に寄った。
いとも簡単に買うことができたことに、三人は、一億当たったら、何を買う? 何をする? と、妄想は止まらず、女子高生のようなノリで大はしゃぎで会社に戻った。
しかし、一番乗り気ではなかった絵里がハマってしまったのだ。その日から、毎日一枚『ロト』を買うようになった。もちろん、本気で当てるつもりではない。なんとなく今までの自分とは違う生活が嬉しかっただけだ。
【起】
えっ?
うそ? マジ? えっ??……???……ダメ、吐きそう……。
ちょっと? 反応しない。体も脳も反応しない……。
人間ってこうなるの? こういうとき……。
11、12、16、20、33、44……合ってる。日付……合ってる! 回数……合ってる! 数字……全部合ってる!えっ?
11、12、16、20、33、44……合ってる!
タブレットの画面に映る数字と、私の手の中にある小さな用紙に書かれた数字……一致して……い……る。
あた、あた、当たった! えっ? えっ? えっ?
あた、あた、当たってる!
な、な、七〇〇〇〇〇〇〇〇円! 七億円!
あ、ヤバい。過呼吸。っと、あ、うう……。
えっ? わ・た・し……勝ち組?
えっ? どうするの、これ? どうすればいいの? 気を失いそう。
まず、どうする?
戸締り! そう。戸締り!
玄関よし! ベランダよし! っていうか、外からの侵入口はこれしかないワ。
シッ! 誰か聞いている?
いや、私の脳内の声は外に出てない!
抑えて、抑えて……興奮しちゃダメ。
冷静に……、冷静に……。
次は?
そう、クジ券を保管!
って、その前に、どうやって換金するのかしら?
サイトは? サイトに書いてある?
ある! ある!
ええっと?
『高額賞金の場合は、最寄りのMほ銀行の窓口へ直接お越し下さい。』って……。
Mほ銀行? どこ? 私、郵便局と信金しか使ったことないから、分かんないよ。
マップに、ウチの住所を打ち込んで……。
えっと、ウチの近くのMほ銀行は……? あった! ここだ。
へえ、駅前にあるんだ。知らなかった。いつも通るところじゃん。
場所オッケー!
で、このクジ券を財布の中に入れて……。
ここ、保険証と免許証の間に挟んで!
財布をバッグに入れて、肩に掛けとこ。
そして……誰かに言う? ああ、ダメ、ダメ!
言いたい、言いたい! この喜びを誰かと共有したい! ううん。共有じゃダメ、自慢したい!
ああ、でもダメ! 絶対内緒! 言えない。
取りあえず、明日、Mほ銀行に行こ。
仕事? ああ、もう、どうでもイイわ。
急に責任感消えたワ。
休も、休も!
朝、電話入れればいいか?
うん? でも、取りあえず、同僚の美香には、メールして、それとなく調子悪いことを伝えとこ。
携帯、携帯……。あった、あった。さあてと、
『遅くにゴメンね。熱が上がってきて、もしかしたら、明日、会社行けないかも……。クラクラするの。』送信!
これでイイわ。ヘタに大げさに書くと余計に怪しまれるといけないし。
あ、早速返信きた。早いわね、あの子。相当暇なのね。
『大変ね。そっち行こうか?』
!? ダメ! ダメ、ダメ! 来ちゃマズイでしょ。
『ううん、大丈夫。もう寝るから。朝起きて、調子よかったら、行くから心配しないでね。』送信!
っていうか、絶対、行きませ~ん!
さ、もう会社のことはどうでもイイや。
明日の服装を用意しておこ。
ちょっとタイトな感じがいいわよね。あ、またメール。
『分かった。無理しないでね。おやすみ。』
はい、はい。おやすみね。もう、私のことはほっといて。
『ありがとう。おやすみ。』送信!
えっと、服出さなきゃ。
*
午前十一時。もうこの時間なら、知ってる人、会わないわよね。なにせ、通勤駅なんだから、おまけに仮病で休んでるんだから……っていうか、別に見つかってもいいか。七億あるんだから、セコセコと仕事のことなんて気にして生きていかなくても!
あ、違う! ダメよ。七億当たったことがバレたら、ハイエナどもが押し寄せて来るに違いない。
やっぱり、ここは見つからないように……。
なんか急に人間不信になってきたワ、私。
ここね。Mほ銀行。なんか緊張するな。町の信金とは、雰囲気が違うわ。
あれ、えっ? でも、店内は至って普通じゃない?
で、まず、どうすれば……。
あ、あの順番に呼ばれる番号札を取ればいいのね。
平静に……、平静に……。
こんなキョロキョロとしてたら、かえって挙動不審者と思われそう。
でも、ダメ。心臓が高鳴るわ。
『お待たせしました。番号札四十四番のお客様、四番の窓口へお越し下さい。』
あ、私……あ、ダメ。心臓が……。違うんです。強盗じゃありませんから。
「お待たせ致しました。ご要件は?」
「あの~。」
「はい?」
なんか、周りの視線が気になっちゃうワ。これじゃ、益々怪しいんじゃない?
この係の女、絶対私のこと不審がってるし。
「お客様、大丈夫ですか?」
「は、はい。実は……。」
やば、声のトーンが上がってる。
小声で話そう。
「ロトで高額当選……。」
「はい?」
聞こえてない。この女には聞こえてない。もう!
「ロトで高額当選……。」
「え? はい?」
ダメだ。聞こえてない。
「ロトで高額とうせ……。」
分かった? やっと無言で大きく頷いてくれた。
「おいくらですか?」
なんで、あんたも小声なの? これじゃ、余計怪しまれるじゃない。奥のメガネのおじさんがジッとこっち見てるわよ。
「な、な、七億……。」
うわ! 目が見開いた。でしょ。人間ね、突然、そんな額を提示されたら、言葉が出ないものよ。
「ちょっと、お待ちください。」
あの子、後ろのメガネ親父のところにすっ飛んでいった。支店長かな? ちょっと、何コソコソ話してんのよ。
もう、倒れそう。あ、来る。こっち来る。ヤバい、逃げちゃおうかな。えっ? なんで私が逃げなきゃいけないの?
あ、ダメ。気がおかしくなる。あ、来た。
「お客様、どうぞ。別室をご用意致しますので、こちらへ。」
「あ、はい。」
あ、ヤバい。監禁されるの? 換金じゃなくて、監禁? うまい!
違う、違う。何考えてるの、私。
*
へえ、銀行って、こんな個室があるんだ。めっちゃ、セレブ気分!
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
わ、フカフカ。
「お飲み物は、何がよろしいですか?」
「えっ?」
さっきはメガネ親父と思ったけど、カッコいいダンディな人じゃん。ていうか、銀行って飲み物出してくれるんだ。わぁ、セレブ~。
「じゃあ、紅茶を……。」
「かしこまりました。」
『お客様に、紅茶を。』
内線で指示って、カッコいい。
「私、Mほ銀行、▲△支店、支店長の鳥山と申します。」
「秋田、秋田絵里です。」
名刺? そんなの出されても、こういうときって、どうすれば? 何か、大学のとき、就活指導で教えてもらったけど…。
「すみません。私、名刺とかなくて……。」
「ハハ、お気になさらず。お客様のお顔が名刺ですよ。」
「はい……。」
ヤバ。惚れてまうがな。
「ところで、当選されたクジを拝見させていただけますか。」
「はい。」
えっと、バッグの中の財布。ヤベ、もっと高級そうな財布にすれば良かった。キティちゃんの中から七億って……。
で、保険証と免許証の間。あった、これ、これ。
「どうぞ。」
「お預かりします。」
『副支店長と次長を呼んでくれたまえ。』
えっ、なんかたくさん人が来るの?
ゾロゾロ来たぞ。みんな手に用紙を持ってるけど、例の番号が書かれているのかしら?
「支店長、これを……。」
「ありがとう。」
なんだか、みんなして用紙と私のクジを見比べてるけど……。これって、もし間違っていたら、どうしよう。ああ、ダメ。心臓がバクバクする。死にたくなってきた……。
なに、この間……スッゲー緊張するんですけど!
「おめでとうございます。お間違いありません。高額当選。七億円がご当選致しました。」
あ、なんか気持ち悪い……。
*
「大丈夫ですか?」
えっ? ここどこ? 私何やってんの?
「秋田様、秋田様……。」
あ、ダンディがいる。
あ! そうだ。銀行だ。
私、気を失ったんだ!
「え、私……?」
「大丈夫ですよ。ちょっと、気を失ったみたいですが、ほんの数秒しか、経っていませんよ。」
人間って、本当に気を失うんだ。え、マジ? 初体験だワ。
「さあ、お水を飲んで気を落ち着けましょう。紅茶もご用意致しましたから、まずは、息を大きく吸って、落ち着きましょう。」
ああ、ダメ。過呼吸になりそう。
「だ、大丈夫です。すみません。お騒がせしちゃって……。」
「いや誰でもびっくりしますよ。もし、これが私だったら、立っていることさえ、できませんよ。足がガクガクしちゃいそうで。秋田様はお若いのに落ち着いてらっしゃいますよ。」
なんか、私褒められてる。分かんないけど、褒められてる。
「あ、ありがとうございます。」
「さて、それで、ですが、勿論、この額は間違いなく秋田様のものですが、どのように致しましょう。」
「どのように?」
マジで意味が分かんない。どういうこと?
「どのようにっていうのは?」
「ええ。一般的には、当行でお通帳を作っていただき、入金させていただくか、お勧めさせていただくならば、定期に入れておいたほうが、安全かと……。」
あ、そういうことね。確かに、現金で七億持って帰るわけにはいかないし。
「言われた通りにしたいと思います。」
「かしこまりました。では、お手続きのご用意を致しますので、多少お時間をいただきますが、よろしいでしょうか。何せ、額が額ですので……。」
「はい。今日は休みですので、大丈夫です。」
「ありがとうございます。お昼も近いので、お昼食もご用意させていただきますが、お寿司でもよろしいですか。」
「は、はい。ありがとうございます。」
ヤッベ、私、セレブじゃん。勝ち組じゃん!
*
ああ、ダメ。自然と笑みがこぼれちゃう。タクシーの運転手さんに変な風に思われてるかも。
「お客さん、なんかイイことあったんですか?」
バレてるわ。
「えっ?」
「いや、さっきからニコニコにして。」
イイことどころじゃないわよ。
「えっ? そうですか。ちょっと……。」
「へえ、うらやましいですね。クリスマスでイイ予定でも入ったんですか? 彼氏にプロポーズされそうとか?」
クリスマス? そういえば、そんな行事あったわね。なんか思い出したくない日よね。彼氏? 私には、男なんて、もう必要ないのよ!
「いえ、もっと……。」
っと、これ以上は言えない。
「そうですか、うらやましいなぁ。宝くじでも当たったかな。なんてね。」
うっ! 心臓が……。
「いえ、いえ。」
「いや、私なんか、毎週のようにロト買ってるんですけど、当たったためしがない。今度の年末ジャンボも一万円分買ったんですけどね。庶民の夢ですよ。ハハッハ……。」
あ、もう倒れそう。おっさん、もう黙って!
「そ、そうですか。当たるといいですね。」
私なんか、遊びで買った二百円で、七億よ。ああ、言いたい! 言いたい! ストレスたまりそう!
「さあ、着きましたよ。この辺りでいいですか。」
「ありがとうございます。」
さあて、服をしこたま買うぞ!
*
「何! 二か月も休みたいだ?」
ああ、そうよ。それが何か? 別にクビにしくれてもイイんだけど。
「すみません。どうしても、やりたいことがあって。」
年末から二か月ほど、海外で過ごすことに決めた。そう、決めたの! だって、日本は寒いじゃん。で、このクソハゲ部長の矢上に話したら、大激怒。でも、関係ないし! 辞めてやるし! でも、決算の年度末の三月には私の力が必要かと思って、親切で言ってあげてんのに、何威張ってんのよ!
ここの給料なんて、今の私には必要ないのよ!
それとも、クビ? イイわよ。クビにしなさい。年度末、私がいなきゃ分かんないこと、いっぱいあるでしょ。別に私はどっちでもいいのよ。
本当は会社辞めてもよかったんだけど、このクソハゲ部長の困った顔を見たくて、わざと休職にしてやったんだから。
ああ、困っている。この顔、絶対困ってる。笑える。
「やりたいことって、なんだよ。」
「ええ、学生時代、海外で子供たちの世話をすることが夢だったんです。それを今のうちに、若いうちにしか経験できないと思って……。」
とか、言って、子供の世話なんかしませ~ん。
「海外? 子供の世話? 何、夢みたいなこと言ってんだよ?」
「申し訳ありません。一度きりの人生ですし、今しかなくて……。」
いやあ、これからは人生を謳歌するけどね。
「で、いつから行くんだ?」
「ええ、今月の二十七日から行く予定です。」
「お前、年末の最終日じゃないか。大掃除の日だぞ!」
「ええ、すみません。」
っていうか、なんで私が掃除しなきゃいけないのよ! 汚してるのは、あんたらオヤジたちじゃん! 自分で掃除しなさいよ。
眼の前でなんか大声で怒鳴ってるようだけど、もう私の耳には入ってませ~ん。じゃあねぇ~。
*
さあて、会社休む段取りもついたし、どこ行こうかしら?
近場のグアム辺りで二週間ぐらい過ごして、そのあとアメリカ本土にでも行こうかしら? ああ、素晴らしいワ。お金があるって!
よく、Time is Money.なんて言うけど、逆よね。Money is Time.よね。お金があれば、時間なんて、なんとでもなるのよ。そうだ! すぐに成田から発たなくても、関空や福岡辺りで数泊してからでもいいんじゃない?
そうね。福岡で二、三日泊まってから、便を探して行こう。
「なんてったって、時間はあるし!」
*
明日の今頃は、会社じゃ大掃除中か。アハ、ザマ……。
社内の人間がみんな愚かに見えるワ。
さあて、私は旅の準備があるから、今日は早めに休もう! もう帰ってもいいかな?
そういえば、旅行バッグ、どこだっけ? そっか、探さなくてもいいや。帰りに新しいバッグ買ってこ。
*
新品の旅行バッグ買っちゃった! 生まれて初めて、値札見ずに買い物しちゃった! う~ん、オシャレな柄。それにとっても丈夫そう。これに明日からの荷物を詰めて……。
服なんて、現地で揃えればいいか。
最低限の下着類だけ用意して……、あとは化粧品と……。荷物、少なっ! でも、いるものは全部現地で買うから。
よしっ! これでいいや!
この旅行バッグを、廊下に置いて。バッグだけは、枕元に置いてけばいいか。
あとはワインを嗜んでから、ぐっすり休んで、明日の朝ゆっくりと出掛けましょ!
ええと、ワイン冷えてるかな?
冷蔵庫、冷蔵庫……。
わあ、冷たい! おいしそう!
*
あぁ、飲みすぎたかな? トイレ行きたい。
でも、寒い……。
布団から出たくない……。
あぁ、もう!
うう、寒っ! 廊下、冷たっ!
イタッ!
そうか、旅行バッグ廊下に置いたままだ。暗くて分かんなかった。
トイレのライト……。
うう、寒い、寒い。
うわ、ドアノブ冷たっ!
あぁ、眩しっ! トイレの照明が眩しい。
ああ、もう! 便座冷たいし!
眠いし……。
ふ~。
さあ、早く布団戻ろ。
あれ? 開かない……。
ドアが開かない……。
…………?
なんで?
う~! なんかがドアを押してる? 外側から、ドアを押さえてる?
えっ? どういうこと?
*
サンプルはここまでとなります。
続きは、
『独り雛』二〇一四 または 『月刊群雛』二〇一四年六月号 をご購入下さい。
2014年07月号(Vol.006)にて掲載
『本日、作家稼業』
俺の名は大畑拓三。作家稼業だ。頭の中にはおかしな物語がたくさん詰まっている。それを文字で表すというおかしな仕事だ。考えてみればやはりおかしい。
小説や漫画などの類は、人の脳裏に浮かんだ妄想を文字や絵にして、人に売りつけるのだ。仕入れるものもない、悪戯な商売だと思う。ただ、何かを犠牲にしているような気がする。仕入れるものがない分、犠牲にしているもの……?
『ただ、何かを犠牲にしているような気がする。仕入れるものがない分、犠牲にしているもの……?』
*
午前八時半。山で囲まれた高台にある観光客用の駐車場に左ハンドルの4WDを入れ、お気に入りの駐車スペースに停める。平日の午前中、この寂びれた駐車場にはまず誰もいない。軽く三十台ほどの駐車スペースがあるのだが、毎朝一番乗りでここに来るのは俺くらいだ。その後も数台が、来ては帰ってを繰り返す。全く一台も見かけない日も幾度かある。ここが俺の日中のオフィス。
駐車場を覆うような太い楓の木々のおかげで、夏は直射日光を遮るため涼しく風通しがいい。逆に冬場は、ほどよい角度で南東からの太陽の陽が当たるので、外気温よりも車中はかなり暖かく感じる。
雨の日もいい。駐車場の周りに植えてある楓の枝葉が自然の雨よけの役割をしてくれるおかげで、ずぶ濡れになることも少ない。
視界に広がる壮大な景色が感動すら与えてくれる。特に雨上がりの湯気だった山々の風景は、身震いするほど美しい。
清少納言であれば、この駐車場からの眺めを素晴らしい表現力で著すはずだ。
寂びれた観光地といっても、人の姿がないわけではない。広がる田園風景の中にある数件の民家が日々変化のないままの生活ぶりを見せてくれる。都会では考えられない、ゆったりとした風景だ。
時には、空気の読めない馬鹿騒ぎする若者のグループが訪れることもあるが、それはご愛嬌。ボーっとしたときの目覚まし時計とでも思って見過ごす。むしろ静寂を破る刺激、ネタの一つとでも思っておこう。
この駐車場が日中の俺のオフィス代わりなのだが、業務を始める前の恒例がある。
シューズを履き替え、帽子を被り、首にタオルを巻いて、登山スティックを手にする。トレッキングだ。毎朝、およそ一時間から二時間。ここの山地帯を歩き回る。ほぼ毎日来ている場所だが、四方に広がる山の中は進む度に知らない道に出会い、俺を意外な場所へ連れていってくれる。よほどの大雨ではない限り、毎朝のトレッキングは欠かさない。冬場も歩き始めこそ寒いが、十五分も歩けば、体が温まりだす。
新作のネタを考えるには絶好の時間と場所だ。ただ、独り山中を、考えながら歩いていると、道に迷うこともある。木々で覆われたか細い道に不安にさせられるが、長年のカンであろうか、方角というものを体で感じることがきるようになってきた。おかげで遭難はもちろん、迷子で途方に暮れることさえない。
ただ、自然の山の中では、時には説明のつかない現象を目の当たりにすることもある。それは妖怪、化け物といった類との遭遇であったり、ワープやタイム・トラベルのような体験などである。しかし、そのような現象に恐怖を感じるのは、ほんの一瞬だ。それらをまた新作のネタにすることができるという喜びの方が大きい。
目安は四十分歩いたら、そこで引き返す。その先に魅力的な風景が予感できても、山の勾配は見た目以上にきついことがある。それに今日慌てて進む必要はないのだ。また翌日来て進めばいいのだ。山は逃げない。
都会の喧騒からは決して想像できない、ゆったりとした時間を、自然の中でたっぷりと堪能してから、駐車場に戻る。車に戻ったら、三十分ほどの仮眠をとって疲れを癒す。一時間半ほど山の中を歩くと、やはり疲労感はある。本当ならシャワーでも浴びたいところだが、簡易の公衆トイレしかない場所にそこまでの贅沢は望めない。時間に追われているビジネスマンにとっては羨ましがられる生活だろうが、それでも頭の中は新ネタのことでいっぱいなのだ。トレッキングの間も頭の中はグルグル回っている。
仮眠から覚めたら、パソコンを立ち上げ、本日の業務の流れを確認。ノート・パソコン、タブレット、電子書籍リーダー、デジカメ、DVDプレイヤー、携帯、スマホなど、車の中にはかなりの数のデジタル機器がある。ところが、この田園山地帯では、ネットも通じないので、業務の確認はアナログだ。システム手帳をめくって確認する。
ここではWi-Fiも携帯も『圏外』となる。このご時世で『圏外』という文字を見るのは、稀だ。しかし、そのおかげで電話攻勢に邪魔されることも、ネット依存に陥ることもなく、仕事に集中ができる。
仕事に行き詰ったら、車中で本を読んだり、DVDでドラマや映画を観たりする。まさに、この4WDは、俺にとっての完璧なオフィスだ。
さて、業務を開始するのだが、作家ではあるが、最初に行う業務は日々の経理処理だ。作家とはいえ、飯を食うために稼がなければならないし、必要なものを経費として落としたい。前夜、ネットで確認した売上を集計、管理。そして、業務で使用するべき経費の計算。これを週末に顧問税理士にファックスする。秘書がいるわけでもない。全てが自分一人の責任なのだ。
経理処理が終われば、進行中の抱えている業務をこなし始める。本業の作家稼業だ。
短編が四本、連載が一本、長編が一本。そして、外注で頼まれている学生用の問題集や参考書の校正作業がある。なかなか大変なのだ。フリーランスの仕事は、傍から見ると自由業というイメージだろうが、その分、意志が弱いとズルズルと怠惰な生活になってしまう。だから俺はそうならないように、自ら次々と新しい仕事依頼を受けるようにしている。自分の意思が弱いからこそ、依頼は断らないように心掛けている。おかげで収入は安定し、一般サラリーマンとは異なる生活スタイルを満喫できている。
午前中の業務をこなし、ある程度の時刻になったら、ランチ・タイム。これも自分の判断だ。チャイムが鳴るわけでも、秘書が教えてくれるわけでもない。自分の体が求める時刻がランチ・タイムだ。
しかし、寂びれた観光客用の無人の駐車場。当然、売店もなければ、自販機もない。そこで、手作り弁当。おかげで、料理という作業が、義務から趣味へ、そして趣味から日常へと域を超えるようになる。今では弁当を作ることは、朝の洗顔と同じくらい普通のことだ。
BOX買いしたお気に入りのDVDで海外ドラマを観ながら車中での弁当ランチ。春、夏は駐車場にディレクター・チェアを出して、鳥のさえずりを聞きながら食事することもある。終了時刻も自分次第だ。大抵はドラマ一本分で休憩時間は終了だが、時には我慢できずに、二本観てしまうこともある。大雨のときなどは、トレッキングできなかったことを言い訳に多めに観ることが多い。しかし、誰に叱られるわけでもなく、注意を受けることも、迷惑をかけることもない。フリーランスのいいところだ。
執筆業務は普段午前中に長編と連載を交互に、午後に短編を書くことが多い。深い意味はないが、こういう日常になってしまった。きっと午後は、帰途につくまでのタイム・リミットのこともあって、短編の方が途中で切り上げることが容易というところから、自然にこうなったような気がする。なにせ、山地帯は夜が早い。冬場だと、四時くらいから一日の終わりを告げるような空気が漂う。西日の傾きによる日の加減、山々を覆う色づいた紅葉、鳥の声、虫の声……そういった自然界のアイテム全てが寂しそうな空気を作り上げるのだ。そうなると気分が沈み始めるせいか、その駐車場に独りでいることがとても辛くなってくる。都会の灯を見たいという衝動に駆られるのだ。
しかし、俺が車で山を下りようと走り出すと、反対に上ってくる車と何台もすれ違う。当然だ。この辺りにも民家はある。人は帰ってくるのだ。四時の西日に寂しさを感じて街に戻りたいなんて、この辺りに住んでいる人々にとっては失礼なことなのかも知れない。彼らは今からこの街灯一つない山の中で生活するのだ。それが毎日続いているのだ。自分が生半可な山愛者だと痛感する。山が好き、海が好き、自然が好き……など、ネイチャーぶる人が多いが、俺は、実際にここでずっと生活しようとは思ったことはない。平日の日中だけのオフィス代わりで十分だ。
その駐車場から四十分も走れば、車は山並みを抜け、大河を渡る。急に空が広く見える瞬間だ。同じ空なのだが、空が広く見えるのだ。それがさらに進むと今度はビル群に囲まれ、また空が小さく感じる。
一時間少しで、自宅マンションに戻る。もう、すっかり日が落ちたころだ。多分、同じマンションの住民は、俺が毎朝独りで同じ時刻に出て、同じころに帰ってくるので、どこかの会社勤めか役所勤めだと思っているかも知れない。まあ、俺のことを気にする住民がいたならばだが、こちらも他の住民のことなど気に掛けたこともない。これが現代の都会の生活なのだ。
マンションの地下の駐車場に車を停め、ノート・パソコンを手にカツカツと音を立て、エレベーターに乗る。このシチュエーションが好きだ。無機質な、『生』を感じない一定リズムのアスファルトの音が響くのが……。同じ足音でも、半日前は、無秩序でリズム感のない山の中だったが、『生』が満ち溢れていた。正直言うと、俺は『生』を感じない人工の音の方が好きだ。つい先ほどまで、鳥のさえずり、風のなびく音、虫の声に囲まれていたのに、ものの一時間程で今度はアスファルトと車の騒音に囲まれる。大きなギャップが刺激となる。
エレベーターが九階に停まる。そして、自室に向かうため無機質な廊下を進む。ここでも人と出会うことはない。山地帯では、人そのものが少なくて、人に出会わないが、都会では皆が他人と出くわさないように生活している。自分が自室を出ようとしても、廊下を歩く誰かの足音がすれば、それが聞こえなくなるまでドアを開けずに待機する。
俺の普段の一日のワーク・スタイルはこんな感じだ。十分満喫しているつもりだ。
そして、抱えている長編を一作書き終えたら二日ほど休暇をとる。会員となっているマリーナに行き、小型ながらも自分のクルーザーで、年に数度のクルージングに出るのだ。休暇と言っても、誰かに許可をもらうわけでもない。二日が三日になったところで、文句を言う者もいない。
一般的にフリーランスは、好きなときに休みを取っていると思われがちだが、世の中が週末となれば、それに合わせることも必要だ。出版社や金融機関、公共機関が休みならば、それに合わせなければならないこともあるからだ。人が思っている以上に、意外と窮屈なのだ。
逆に長期の休みを自分で設定できるというご褒美もある。ワン・シーズン毎に、一週間程度の休暇を取り、日本を離れる。ただ、そのときも常に新作のネタ探しをしているので、ボイス・レコーダーとメモ帳、デジカメは必須アイテムだ。
要は、生きていること全てが、仕事(執筆)に関わるネタ探しということだ。
*
今日も山で自然を堪能しながらの業務を終え、部屋に戻る。
鍵を外し、冷たく重い金属のドアを開ける。その奥には暗い闇が広がるだけだ。迎えてくれる者は誰もいない。
小さな玄関口で、オレンジ色の照明を点ける。足元の視界を確保しリビングに入っても、点けるのは間接照明だけだ。妙に明るいのは好きではない。
そして、まずは、当然の如く電波の届く携帯、スマホの電源を入れる。そして、ローテーブルに鎮座しているデスクトップ・パソコンを立ち上げる。メールを受信しながら、留守番電話の確認。一気に忙しくなる。留守電の録音をひと通り聞き終わると、最低限必要な数件の電話を入れる。本日初めての他人との会話。おかげで、いつも電話口ではしわがれた声になる。あまりに人と喋らないので、喉が退化したような声になるのだ。
メールを確認したら、その返信。そして、本日仕上げた分の原稿を添付して、送信。校正の済んでいる問題集の訂正箇所をファックス。
自室に戻ると、あっという間に一時間ほどが過ぎる。山での一時間の感覚とは大違いだ。
別の言い方をすれば、一時間あれば一日の外的業務を終えることができるのだ。しかし、やはり誰かと対面することはない。結局、孤独は解消されない。
一旦落ち着き、冷蔵庫からビールを取り出し、喉に流し込こむ。冷蔵庫に背をもたれ、立ったまま部屋の中を眺める。
(あれ? ……何だろう?)
不意に虚しさが襲ってきた。
(これでいいのか?)
広々とした部屋には生気が感じられなかった。無駄に大きなソファとテーブル……誰が使うんだ? そして、電子機器ばかりが目に付く。テレビ、パソコン、電話、ファックス、ブルーレイ・デッキ、DVDデッキに、立派な音響機器。そして、今俺がもたれている大きすぎる冷蔵庫。
普段家にいないことが多いので、モノも決して多くはない。インテリアを飾りつけるような趣味もセンスもない。
そして、何よりも……家族が……いない。
いつの間にか手に持つビールは空になっていた。
「おーい、ビール!」などと、ドラマでよく観るシーンも決して叶わない。
仕方なく、改めてもう一本ビールを自分で取り出す。
冷蔵庫のドアを開けると、十数本の缶ビールが場所を占めている。多少の食材や調味料もあるが、全てが少量で、自分の好みのものばかり。子供の好きなおやつも、女性が好む健康食品もない。なぜか……?
当然、俺独りだからだ。
俺はビールを一本取り出した。
「もう、やめたら……。」と引き留めてくれる相手もいない。
話し相手になる友達や知人もいない。午前中から夕方にかけ、山の中の駐車場で独りで過ごし、自宅に帰ってきても独りでパソコンと向き合うだけの生活……。
酒が深いせいか、急に孤独感が襲ってきた。
一生独りのままか……。
孤独なんだ……。
何だか、辛くなってくる。頭の中には、無限の登場人物が蠢いている。ヒーローもいれば、恋愛を成就するヒロインもいる。俺は彼らを創造した神の立場だ。同い年のサラリーマンもいる。お喋りな女子高生やおばちゃんも大勢いる。それなのに、頭の中の彼女らは話しかけてはこない。彼らを創り上げている自分は、いつも孤独だ。
町工場で同僚と働いている人たちの方が幸せではないか?
コンビニで和気あいあいと仲間とバイトしている人たちの方が幸せではないか?
クレームで怒鳴られていても家に帰れば家族が待ってくれているビジネスマンの方が幸せなのではないか?
虚しい……。
『ただ、何かを犠牲にしているような気がする。仕入れるものがない分、犠牲にしているもの……?』
『……人との交流……交わりが…ない。』
足が自然とベランダに向かう。
高層九階のベランダから見える風景は、この世の神になった気分だ。小説の登場人物を創り上げた神もどきではない。この現実世界の神の気分だ。
*
サンプルはここまでとなります。
続きは、
『独り雛』二〇一四 または 『月刊群雛』二〇一四年七月号 をご購入下さい。
2014年09月号(Vol.008)にて掲載
『サイン』
「だるいなぁ。いま……、何時だ?」
窓の外から、眩しすぎる日が差し込んでいる。それが雅史を射る。
「俺の部屋……。俺、ここで何してるんだ? あれ、何でここにいるんだ?」
雅史はあまりの気だるさに考えることを止めた。おまけになぜか左手がキリキリと痛む。
「どうもあれから調子が悪い。これが憑かれたってやつかな? ヤバいなぁ。」
*
台風八号が未明に通過した。気象庁の発表では、数十年に一度の猛烈な台風と言われ、本州全土が覚悟をしてその瞬間を迎えたが、幸いにも肩透かしの様相だった。
それなりの雨量、暴雨風はあったものの、大きな被害報告もなく、未明に県内を通過し、昼前には温帯低気圧に変わっていた。
田所雅史は、そのことでホッとした者の一人だ。
フード・チェーンに勤める雅史は、金曜日が自分の休日だった。その金曜日が八号と重なるところだったのだ。当初の予定では、金曜日に本州を直撃するとの見方だったので、せっかくの休日を無駄にせずに済んだことに胸を撫で下ろした。
大学を出て、今の会社に勤めて四年。大した趣味を持たずに過ごしてきたのだが、最近、ようやく趣味と呼べるものに出会えたのだ。
トレッキングだ。過酷な状況下で高い頂上を目指すのではなく、山の中の散策といったものだ。二年ほど前に、雑誌で見た記事に影響を受け、近くの山を歩いたところ、雅史にとっては、なんとも言えない気持ちのいい体験だった。それからというもの、金曜日になると、どこかの山へ向かい、独り黙々と山道を歩くのだった。健康にも良く、平日なので人も少なく、そして何よりも自然と向き合えることが雅史にはピッタリだった。
そんな唯一の趣味が八号に阻止されそうだったのだ。
早朝、カーテンを開け、朝日を浴びると、思わずガッツ・ポーズをとった。
「よし! 行ける!」
雅史は、前の晩から用意しておいたリュックなどの一式を背負い、アパートを飛び出した。
オンボロの軽自動車に荷物を積み込む。車内にはテントやら、ランタンやらのキャンプ用品が無造作に積んである。年に二回の長期休暇のときに使用するためのものだ。
運転席に乗り込み、意気揚々と車を走らせた。今日の目的地は県境にある歴史由緒ある山だ。雅史のアパートからは、車で二時間ほど掛る。
途中、休憩を挟みながらも、午前九時には目的地に着いた。
村落全体が観光地になっているような場所なので、無料の駐車場も所々にある。
登るべきトレッキング・コースもいくつかあり、とても一日では、回り切れそうもない。
そこで、ネットで調べ、この辺り一帯を治めていたと云われる元城主が祀られている廟所を巡って、一番眺めがいいと言われる山頂を目指すことにした。
山頂までのコースが一・五キロメートルほど。往復で一時間半ほどであろう。
降りたら、移動がてら昼食をとって、別のコースを登る計画を立てた。登り始める前の、シミュレーションを立てることも雅史は好きだった。
そして、目標の山に到着し、砂利が敷詰められた質素な駐車場に車を停めた。
(なんにもないな……。)
雅史の第一印象だった。村落一帯が観光地をうたっているわりには、本当に何もない場所だった。近くにはコンビニもなければ、自動販売機さえもない。おまけに車の通行を防止する柵が、さらに人を寄せ付けないような雰囲気を作り上げている。
雅史は数枚の写真を撮り、登り支度を始めた。
山の途中途中にある景色、動物、珍しいものなど、デジカメに収めることもトレッキングの楽しみの一つだった。誰かと競争するわけではない。自分のペースでのんびり進めばいいのだ。
そして、撮った写真を自宅や会社の空き時間を利用して、パソコンで整理し、自分だけのデジタル記録本を作成する。誰に見せるでもなく、デジタル製の絵日記のようなものを作るのも楽しみだ。
さあ、登るぞ! と意気揚々となるはずなのだが、城址と城主の廟所があるという割には、質素な荒れ果てた山道の入口。質素という言葉よりも不気味という言葉の方が合うような景観だ。
おまけに入口付近には、こちらを監視しているかのように廃車が放置してあり、さらに不気味さを醸し出している。
想像していた景観とはあまりに違いがあったことに雅史のテンションは下がり気味だった。
階段状の登り道は、すこし広めで歩幅が合わない。
そして、台風一過で、すっかり晴れて過ごしやすい天候だと思っていたが、山に入るとすぐに、それが間違いだったことに雅史は気づき始めた。
山道は、かなりぬかるんでいるのだ。
木々が覆い茂って日が十分に届いていなかったのであろう。
雅史は数メートルしか進んでいないのに、もう少し底厚のスニーカーにすればよかったと少々後悔していた。入口からこの調子では、奥深く進めばさらに足場は悪くなるに違いない。
何かが違う。いつものようなワクワクするトレッキングではない。しかし、無機質に登り方向を示す案内板が、まるで自分を促すように目に付く。登るのを躊躇いたくなるような空気……。
しかし、せっかく台風も過ぎ去り、車で二時間も掛け訪れたのだ。このまま登らない手はない。雅史はリュックを背負い直し、次の一歩を踏み出した。
登り始めて二十分ほどで、城主のものと思われる廟所が見えてきた。石でできた垣が厳重に取り巻いている。
雅史はそのとき、ふと懐かしい匂いを感じた。かいだことのある匂いだが、思い出せない。匂いは最も記憶を呼び起こす手段と聞いたことがあるが、今この場では思い出せない。
雅史はリュックを降ろし、水分補給をした。休憩を兼ねて、デジカメを持ち、辺りを撮影しながら散策した。しかし、この廃れた様が、まるで、もう何ヶ月も人が来ていないような雰囲気を感じさせた。
そして、不思議なことに数枚撮った廟所の写真のピントが合っていないのだ。フレーム画面で見ているときには、問題なかったのだが、実際に撮った写真は若干もやっとしている。しかし、茂った森の中なので明暗の関係でそのようになってしまうのだろうと、雅史は深く考えずに、そのままにしおいた。とくにコンテストに応募するわけでも、人に見せびらかすわけでもない。今までも、ピンボケの写真など山のようにある。そのときの雅史にとっては、さほど気にするほどのことではなかった。
それよりもぬかるんだ足元のせいで、思った以上に体力を消耗してしまったことを案じた。
もうしばらく登れば頂上付近にさしかかるはずである。雅史はリュックを背負い直し、気を引き締めた。
改めて登り始める前に、この城主のことを説明している木製の看板を撮影しようとしたときだ。
テレビ番組で観たことあるようなヤラセのような現象が起きたのだ。
デジカメが……、シャッターを押しても、作動しないのだ。雅史はきょとんとデジカメを見つめた。冷静になり、電源を落とそうしたが、電源も落ちない……。どこを押しても全く作動しないのだ。完全なフリーズ状態である。
テレビの心霊番組なんかで、突然、カメラが作動しなくなった! 突然、電球が切れた! なんて場面を見て、苦笑したことがあるが、自分が経験するとは!
それも見知らぬ茂った森の中で、たった独りで!
雅史はいささかパニックのような状態になった。
(この場を離れなきゃ!)
咄嗟にそう思った、その時。デジカメのフレーム画面に見たことのないエラー・メッセージが出た。
『SDカードに異常があります。』
(? ? ?)
購入してまだ一年も経っていないデジカメとSDカードに? それも今の今まで普通に使用していたのに、なぜこのタイミングで?
雅史に悪寒が走った。急ぎ足で前へ進んだ。後ろを振り返る勇気がなかった。そして、内心、まだ午前中で良かった、と自分を慰めた。山は思っている以上に暗くなるのが早い。午後三時でも驚くほど暗くなる場所さえあるのだ。そして、さらに足を速めた。
五分ほど足早に進んだであろうか、自分のまぬけさに後悔した。なぜ、さっきあの時点で引き返さなかったのか! 経験上、山道は頂上までの道が何本もあるが、車を置いた場所に戻るには他に道があるのだろうか? もしなければ、またこの道であの廟所の前を通らなければならない。おまけに台風一過のあとだ。この山を登ろうとする登山客もまずいないだろう。「一緒に下りませんか?」と声を掛ける人などいないはずだ。
さきほどよりも若干日が差す山中で雅史は考えた。
(戻る? 登る?)
しかし、登ってきた方を見ると、とても戻る気にはなれない。それとも掟破りの側面踏破か……。雅史は周りを見渡した。
覆い茂った木々。ここは日本か? と疑問を抱きたくなるような巨大なシダ植物の絨毯を見ると、一気に萎えた。ただでさえ、道がぬかるんでいるのに、これは危険だ。とりあえず頂上を目指して、別のルートで下りることが真っ当であろう。
雅史は気を取り直して再度登り始めた。明るいうちに下山しなければ……。天候が崩れることはまずない。後で笑い話になってもいい。とにかく進んで、別の下山ルートをたどろう。そう思い直し、重い足を頂上に向けた。
「なんでだよ……。」
思わず声が出た。
越えられないほどではないが、折れ落ちた枝が道を塞いでいるのだ。恐る恐るデジカメを向けた。すると今度はなんの問題もなくシャッターが切れる。なぜさっきは……? 雅史にとっては、問題がないことが問題だったが、もう深く考えるのは止めた。
昨夜の台風の影響だろうが、しかし、なぜここに落ちるのだ? 何かの力が行き先を阻んでいるとしか思えない。しかし、引き返す勇気も気力もない。おまけに腹が痛くなってきた。頂上に上がれば、さすがにトイレぐらいあるだろう。一応観光地としてうたっているのだから……。
「チクショー!」
今度は意識して声を出して悪態をついた。自分を鼓舞するために……。
雅史はあちこちに引っかかりながら、枝を乗り越えた。もう頂上のはずだ。トイレに行けることを目標に自分を奮い立たせた。
それからどのくらい登ったか、息も荒くなってきたところに、開けた空が見えてきた! 頂上だ!
思った以上に見事な景観だった。先ほどまで心を占めていた恐怖心も打ち消してくれるような壮大な風景だ!
(そうだ!トイレ、トイレ……? ト・イ……?)
気が晴れたところで、気持ちを新たに辺りを見回したが、雅史は目を見張った。トイレらしき建物があるのだが、さすがにそこで用を足すのは無理そうだった。バラック小屋が高級に思えるような建具の代物がある。そこがトイレらしいのだが……。
目を疑った。
(あれが……? トイレ? この二十一世紀に現存するトイレなのか?)
特に食品を扱う雅史にとっては、耐え難かった。
*
サンプルはここまでとなります。
続きは、
『独り雛』二〇一四 または 『月刊群雛』二〇一四年九月号 をご購入下さい。
2014年10月号(Vol.009)にて掲載
本作は、長編の既刊サンプルとなります。
『波長』
目次(当稿では、【プロローグ】と【発端】の2章までを収録)
【プロローグ】
【発端】
【波長】
【察知】
【学校の怪談】
【録音されたもの】
【学校の階段】
【異変】
【学校のタブー】
【街のタブー】
【日記】
【死の真相】
【メッセージ】
【修羅場】
【成仏】
【たった一つの方法】
【ホーム】
【サイド・ストーリー】
【秋風】
【プロローグ】
彼女は学校から帰宅すると、すぐにパソコンの電源を入れた。
学生カバンを学習机の横に掛け、パソコンが完全に立ち上がるまでの少々の時間で制服から部屋着に着替えた。
イスに座ると早速ネットをつなぎ、お気に入りの掲示板を開き、書き込みを始める。手慣れた現代っ子の日常である。
【送信者〈ハートりん〉】
『質問です! わたし、中学生の女子ですが、今日、学校で〈自称・霊感持ち〉の友だちが教室で、先日亡くなった先生の霊が「見える!」って騒ぐんですが、霊感って本当にあると思いますか? もし、あるとしたら、その子とは今のまま普通に友達でいていいのですか? ちなみに、その先生って、電車に飛び……』
その日学校であった些細なことを打ち込み、彼女は〈送信ボタン〉をクリックした。返事が来るかどうかのアテもなく、今度はお気に入りのアイドルのブログを開く。
しばらく、好きな歌を口ずさみながらアイドルの新着情報を覗いていると、先ほどの質問に対する返答が届いた合図が画面上に現れた。この時点でかなりの時間が経っていたので、掲示板のことなどすでに忘れかけていた。彼女は改めて掲示板に戻った。長い返答だった。
【送信者〈秋風〉】
『書き込みを読ませて頂きました。霊感の存在があるかどうかというご質問ですが、私の経験上では基本的には〈ある〉とお答えしておきます。ただ、その霊感というものの強弱によって、〈ない〉と思われがちなのです。ほとんどの人は五感に比べ霊感が非常に微弱のために〈ない〉と思い込んで、それを信じようとしないのです。
霊感の感じ方は人によって様々ですが、大きく三種類に分けられます。
①先天的に生まれもって強い霊感を持っている方
②何かがきっかけで霊感が強くなってしまった方
そして、厄介なのが、③霊に憑かれてしまったことに気づかずに、自分には強い霊感があると勘違いされてしまう方
もし、貴女様のお友達が〈自称・霊感持ち〉と言われるのであれば、それは信じ難いことです。なぜなら、霊感が本当に強い方というのは、それをわざわざ他人に主張するようなことは致しません。
どうしてかと言いますと、霊感が強い、「見える」、「感じる」ということは、決して生者にとっては幸せなことではないからです。よって、お友達の〈自称・霊感持ち〉は愛嬌として、お付き合いなさってはどうでしょうか?』
「なんだぁ、やっぱ嘘だよなぁ……アイツ、アピ子なんだ……。みんなに注目されたいだけなんだ。」
彼女は画面に向かって、呟いた。学校で「霊が見える!」と叫んでいる友人のことを、狂言であると自己判断した。掲示板の文面はまだ続いていた。
『…そして、霊感の強い者と弱い者を見分ける判断は具体的にはありません。ただ、本当に霊感の強い方は、実は短命なのです。それだけは断言できます。』
彼女はしばらく画面に集中していたが、それ以上特に興味を示すものことがないと分かると、迷わず閉じた。彼女にとっては、すでに自分には関係のない領域……。
知りたかったのは、友人の言葉の真偽だけだから。それよりもお気に入りのアイドルの情報の方が重要だ。
【発端】
(もう最終下校の六時半過ぎてるじゃん。早く終わろうよ~。)
木村は、胸の内でそんなことを考えながら、先輩である和田の“アツい”言葉にうんざりしていた。
六月下旬。陽が長くなり、サッカー部の練習にも熱が入る。他の部活動はとっくに終了しており、グラウンドを我が物顔で使用しているのはサッカー部だけだった。毎日、毎日、顧問の和田が練習後に終礼と称して、根性論、技術論を熱く語る。木村はそんな昔ながらの青春ドラマのようなスタイルに対して、とても冷めていた。
(なんで、たかだか公立の中学生相手にあんなに熱くなってんだよ。これで、六時半の閉門を過ぎて、生活指導の担当に叱られるのは、こいつら部員となぜか、副顧問の俺なんだよなぁ。)
木村の脳裏に場面が浮かぶ。
生活指導の担当が嫌味っぽく言う。「なぜ生徒を六時半までに出さないんだね。」……「そ、それは、和田先生が……」とは、当然言えないので、「すみません。思うように指導できなくて……」と毎日同じ言動の繰り返し。
(これって、キレてもイイですか? あ~ぁ、アホくさ。なんで教師になんかになっちまったのかなぁ。去年の今頃は、もう海で遊びまくってたよなぁ。あ~ぁ、大学生に戻りたい……。)
木村亮太は、この中学校に四月に着任したばかりの数学の新任教師である。なぜか興味もないサッカー部の副顧問をやらされ、毎日、毎日、苦痛の日々を送っている。やっと、六月、着任して、やっと二ヶ月……、五月病はなんとか克服したが、いつ登校拒否になることやら。生徒よりも先に不登校になりそうだった。
その日も、サッカー部の部員同様に木村はうんざりしながら、和田の説教を聞いていた。元々集中して聞いていたわけではないので、視線は定まらず、胸の内では「早く帰りて~!」と繰り返し叫んでいた。
フラストレーションをためながら、ふと運動場の端に目がいったときだ。
思わず二度見してしまった。テニス・コートに一人の生徒が立っているのが見えたのだ。(なぜ?)部員たちは教師と向かい合っているため、テニス・コートを背にした状態でいる。よって当然、その生徒を見ることはできないが、和田は視界に入っていてもおかしくはない。生徒と言っても、どことなく幼い感じの子だ。
(和田先生は気付いていないのかな?)木村は疑問に思ったが、その場の雰囲気を壊すことは避けたいので、何も口には出さなかった。
距離があるので、はっきりと顔までは分からないが、木村の知っている生徒ではなさそうだったので、あまり気にも留めなかった。とは言っても、木村もまだ着任して二カ月、日々の業務の忙しさで学校中の生徒全員のことなんて覚えているわけはない。自分のクラスの生徒だって、ようやく顔と名前が一致するようになったところなのだ。まして、自分が担当していない生徒の情報など皆無に近い。
正確ではないが、少年の表情に喜怒哀楽は感じられない……気がする。そして、確かにこちらをジッと見つめている……気がする。服装は、野球のユニホーム? ウチの弱小野球部は、とっくに帰宅したはずだが……。なにせ距離もあり、薄暗くなってきたので雰囲気しかつかめない。ただ正確に分かるのは、ここにいるサッカー部の部員同様、直立不動の状態でいることだけだ。
(変な奴だなぁ。)
「木村先生、何かありますか?」
説教が終わったようだ。唐突に、和田から、話を振られた。和田の話など全く聞いていなかったので、説教の内容は微塵も頭に入っていない。毎日、説教の締めに、部員向けに木村に話を振ってくるのだが、正直何もないし、木村にとっては、どうでもよかった。「いや、今日は特にありません。」……若い新任教師のその言葉に、生徒たちも一瞬安堵の表情を浮かべたように見えた。その後、三年生のキャプテンの終礼とともに部員たちは一目散に解散、部室に急いだ。
そして、木村は改めてテニス・コートの方に目をやったが、すでにあの少年の姿は無かった。
生徒たちがいなくなると、木村と和田も校舎に戻り始めた。グラウンドを背に戻りつつ、「ご苦労さん。」と、木村は和田から、労いの言葉をもらった。
「ご苦労様でした。」と返し、気まずかったが、職員室に向かう足で、躊躇いながらも訊いてみた。
「……和田先生?」
「うん? 何?」
「さっき、終礼のとき、テニス・コートに野球部の生徒がいたんですけど、何かの居残りの子ですかね?」
「えっ? どこ?」和田は驚いた表情で、足を止めて後ろを振り向いた。当然、今はもう、その姿を見ることはできない。
木村は、「あの辺りですが……。」と、テニス・コートの方を指さした。
「いやあ、俺は全然気づかなかったなぁ。なんで野球部ってわかったの?」
「えぇ、野球のユニホームっぽいものを着ていましたから。」
「不審者かも知れんゾ。あすこは女子テニスの場所だしなぁ。木村君、今日は俺が校門で生徒たちを帰してくるから、あの辺り巡回してきてよ。」
校門で生活指導から文句を言われずに済むと思うとホッとした。
教諭は生徒の前では、お互いを○○先生と呼び合うが、生徒の目が無いと部下・後輩を○○君と呼ぶということを、木村は最近知った。
和田は、部活動以外のときは、とても温厚である。木村は、部活動以外での和田を好んでいた。むしろ、話しかけやすい良き先輩教師だった。ところが、部活が始まると、なぜあんなにも変貌するのであろうか? いつも木村は疑問に思っていた。自分が中学生のころにも、部活が始まると性格が変わる先生はいたが、この人は、まるっきり別人格になる……多重人格者ではないかとさえ思っている。
「わかりました。」
不審者という言葉に対しても全く動揺しなかった。どう見てもあの背格好は中学生以下であろうし、襲ってくるような気配も全く感じられなかった。
木村は、小走りでテニス・コートの方へ戻った。
この学校の敷地全体が、周辺道路よりも掘り下げられて造られている。小規模な盆地地帯のような感じの地形である。大雑把に表せば、北側に運動場、南側に校舎。運動場の中央がサッカー・コート、東側に野球場、西側にハンドボール・コート、そして問題のテニス・コート場となっている。
木村は、テニス・コート場辺りを見回したが、人がすぐに隠れるような場所はない。問題は、外部からの侵入者だが、土地を掘り下げてあるため、テニス・コート場は、土手に囲まれた状態である。おまけに防犯とボールの飛散防止のため、高さ三メートルほどのネットが張り巡らされている。もし、外部から侵入しようとするならば、一旦道路から土手を降り、とても強度の弱いこのナイロンのネットを、破らないようにユラユラ揺れながら三メートルの高さまで登り、最上部でそれをまたいでから、またユラユラ揺れながら下る。帰りはその逆の行動繰り返す。(あり得ないよなぁ……。)
木村は両手でネットを揺すりながら、上下左右に視線を回した。穴が開けられた形跡もない。
さきほど少年がいたと思われる場所に立ち、自分がいた方向を眺めた。間違いなくこの場所に少年はいた。そして、自分と目を合わせていた。
そろそろ夕闇が運動場を包み始めるころだ。納得できない状況だが、木村は探索を諦め、職員室に戻ることにした。
職員室に戻った木村は、和田をはじめ、まだ残っている数名の教諭に状況報告をした。野球部の担当は、三十分ほど前に帰宅してしまったので、生徒の特定はできなかったが、この時点で家庭から生徒の足取りを問う電話やメールは届いていないので、この場は、事故・事件性はないものと判断され、各々帰宅することになった。そもそもが木村の勘違いかもしれないのだ。
しかし、教頭は褒めてくれた。問題を見過ごして事後報告されるより、勘違いで後に笑い話になるくらいの方がましであるとのことだ。木村は久しぶりに人に褒めてもらった気がした。学生時代の教員研修では生徒を褒めて育てるようにと教えられたが、確かに褒められると嬉しいものだ。明日からはもう少し生徒を褒めてみよう……木村は教師として一歩進んだ気がした……しかし、それは決して望んでしている仕事ではないのだが……。
職員室も閑散としてきたが、教頭と生活指導担当は、念のために、まだしばらく残るとのことだった。木村は後ろ髪を引かれながらも職員室を後にした。
教員という仕事の大変さを身に染みて感じだ。果たして、自分も教頭のように、生徒のために遅くまで居残ることが平気になることがあるのだろうか? 不安でもあり、しかも決してそんなことを望んではいなかった。
木村は、通勤用の自転車にまたがり、最寄り駅に向かった。学校の近くにアパートを借りることも可能だったが、小さな町である。オフの時まで、生徒やその家族に会う機会が頻繁にありそうなので、あえて電車で四十分ほどのところに住処を借りた。
駅に着いても、知っている顔に会いたくないので、いつも下向き加減で行動する。人付き合いが悪いと思われているだろうが、職場の誘いも一切断り続けている。とにかくイヤなのだ……教師をやっていることが……。
木村はイヤホンを耳につけ電車に乗り込んだ。見た目は、普通の若者……今は、教師の皮を脱いでいる。進行方向を背に二人掛けの席の窓側に座った。さほど混んではいなかった。席もまばらに空いている。立ったまま音楽プレイヤーを聞いている者、お喋りに夢中になっている女性グループなど、普段と何も変わらぬ平日の早い夜の風景である。
木村は徹底していた。改札口も日々変え、ホームで電車を待つ位置も毎回変え、座る位置も毎回変える。ここまで徹底しているのは、常連の顔を覚えたくない、覚えられたくないからだ。いつもビジターでいたいのだ。ごく普通の若者と思われていたいのだ。
アパートに着いたら、大学時代の友だちとくだらない内容をチャットで会話して、ネット・ゲームをして、ごく普通の若者のままの姿でいたい。「先生」なんて肩書きはいらない。
木村は自然と視界に入る夜景を無関心に眺めていた。車窓のガラスに反射で映る車内の様子も気を引くことはない……はずだった。木村は、驚き過ぎて、思わず声を出しそうだった。目を丸くしてガラスに映る車内を見た。
あの少年だ! 窓ガラスにあの少年が映ったのだ。
野球のユニホームを身につけた小柄の少年。無表情でただ突っ立っているだけのあの少年だ。
木村は、体ごと車内の方へ向き直った。そして、少年が立っている辺りを凝視した。
いない……もう一度窓ガラスに映る車内を確認した。いない! 車内全体を見渡した。怪訝そうに木村を睨む乗客もいた。やはり、いない。錯覚だったのか? 夕方の潜在意識が錯覚を見させたのか? でも、今のは少年の顔まではっきり分かった。知らない顔だった。無表情のまま野球部の真っ白のユニホームを着て直立不動で立って、こちらを見つめていたのだ。視線は間違いなく木村に向けていた。しかし、車内のその位置には、女子高生三人がそれぞれ携帯を片手に大騒ぎしているだけだ。確かにこの三人もガラスに映っていた。少々うるさかったので、気になっていたのだ。もし、少年が本当にその位置にいたとすれば、あまりに似つかわしくない風景だ。
それもほんの一瞬、この車両から急に移動することは不可能だ。
その時、背筋に電気が走った。
(もしかしたら、俺は、見てはいけないものを見てしまったのか?)
*
サンプルはここまでとなります。
続きは、
『波長』 をご購入下さい。
2014年11月号(Vol.010)にて掲載
『我思う、故に我あり』
【手術七日前】
拝啓 ラン様
お久しぶりです。お元気ですか? 突然のお手紙、お許し下さい。
普通の生活なら携帯電話やスマホで簡単に連絡が取りあえる時代なのに、こんな施設の病室では、その程度の自由さえ与えられなく本当に不憫ですね。
特に私たちの場合は、それらを与えられたところで、連絡を取り合うことはないでしょうが……。
そうそう、実はお知らせしたいことがあって筆を執りました。
一週間後に、いよいよ手術が行われることが決まりましたのよ。そのことを報告したかったのです。もしかしたら、ご存じだったかしら?
敬具
**
あら、真弓さん。久しぶり! お手紙、ありがとう! 実は私も、手紙を出したいなぁって、思ってたのよ。
手術のこと? もちろん知ってるわ。だって、自分のことだもの。
これでようやく、どちらかが証明できるわね。
ちょっとドキドキするわ。
【六日前】
拝啓 ラン様
あら? 貴女、まだ、そのようなことをおっしゃっているの?
私がお手紙を出したのは、そのようなことじゃなくてよ。いよいよ手術が行われることになったので、その前にこうしてわだかまりを解消したくて筆を執ったのよ。
そして、手術後に、私が貴女に代わって、できることがあるかを聞いておきたかったからよ。だって心残りでしょ?
敬具
**
あぁ、もう! あなたって、相変わらず上から目線よね。
久しぶりの手紙だから、こちらも腰を低くして対応しようと思ったけど、やっぱり、そんな気にはなれないわ。
じゃあ、言わせてもらいますが、手術後、あなたの代わりに、私に何をして欲しいのかしら?
【五日前】
拝啓 ラン様
そういえば、あれ以来ですよね、文通が止まってしまったのは……。
だって貴女があまりに頑固なんですもの。でも、貴女のお気持ちは、よく分かるのよ。それは誰でも認めたくないことですものね。でも、こうして言い合いすることさえ、もうできないかも知れないでしょ。いえ、手術が成功すれば、できなくなるのよ。
私は、正直、貴女のことを嫌いじゃないのよ。でも、貴女があまりに自分のことを認めないものですから、いつの間にか筆を執るのが億劫になってしまったのよ。
できれば、もっと文通を続けていたかったわ。
だから、せめて、手術を迎えるまでは、昔みたいに仲良く文通を続けましょうよ。
敬具
**
あなた、相変わらず私のことを「頑固」、「頑固」って言うけど、私はあなたのことを心配しているからこそ言っているのよ。そこを勘違いしないでよ。
私は自分が絶対、と言っているわけではないの。だから、その覚悟もできているつもりよ。でも、あなたの場合、自分が絶対って思い込んでいるじゃない。まあ、その時はショックを受けることさえもないでしょうけどね。
【四日前】
拝啓 ラン様
なんか変な感じね。手術が成功すれば、貴女は消える。失敗すれば、貴女は私の中にまだ残る……って。
正直言うと、失敗して、今のまま貴女が残っていてくれた方が私は嬉しいわ。
だって、ここでは、あまり話し相手がいないんですもの。
でも、無事手術が成功して、残念ながら貴女がいなくなったら、私、貴女の分まで悔いなく生きていくわ。
いろいろあったけど、決して、貴女のことは忘れないわ。
敬具
**
あのさぁ、あなたって人の手紙を全く読んでいないわね。
もう、いいわ。もし、あなたが消えたところで、私はもうあなたのことなんて思い出さないから。だから、無理して手紙を出さなくてもいいから。
手術を迎えるまで、いっそ、お互い関わらない方がいいんじゃない?
【三日前】
拝啓 ラン様
ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりじゃなかったのよ。
でも、ご自分の立場をお分かりいただきたいの。
それにどちらにしても、わだかまりを解消してから、手術を迎えた方がいいと思うの。お互いに。
だから、前回の私の態度に対しては、心からお詫びいたします。お許し下さい。
敬具
**
あぁ、もう。何なのかしら、あなたのその態度。
ハッキリ言わせてもうらわ。もう早く消えて。わだかまりもストレスもない状態で手術を迎えたいのなら、手紙なんて出さなきゃいいじゃない。もう、今すぐにでも手術をして、白黒つけてして欲しいわ。
【二日前】
拝啓 ラン様
私はせっかくだから、貴女と仲良くしていきたかったのよ。
なのに、貴女は、やれ証明しろ、やれ証拠を出せ! とまくしたてるでしょ。だから嫌になっちゃうのよ。
敬具
**
あのさ、嫌で結構なんだけど、それよりも、この便箋、私のじゃない!
なんで勝手に使うのよ!
あんたのは、古臭い和紙みたいな紙でしょ!
【一日前】
拝啓 ラン様
ごめんなさい。勝手に使ったことは、心からお詫びいたします。でも、手術が終わったら、貴女が使うことはないでしょ。だから、今のうちに使っておいた方が貴女にとってもいいかな、と思ったの。本当にごめんなさい。善意のつもりだったのよ。
敬具
*
サンプルはここまでとなります。
続きは、
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キンドル・ホラー『厭モノ・怖モノ』
キンドル・ホラー『厭モノ・怖モノ』弐
キンドル・ホラー『厭モノ・怖モノ』惨
Amazing Short Stories vol.1
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奇談屋の本 其の壱
奇談屋の本 其の弐
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『波長』
ご購読、誠にありがとうございました。
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著 竹島八百富
出版 Smart JUKU
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2015年8月31日 発行 初版
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いい歳して、オカルト、超常現象などを日々探っております。好きが嵩じて小説などを書くようになりました。 私は一人ではありませんが、存在もしない覆面作家です。 ご興味頂けたら、私の作品にご参加下さい。