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竜ならざるこの身にも、どうやら逆鱗というものは備わっているらしい。ラグナはソファの肘掛けに爪を立てながら、さりげなく顔を窓へ向けた。頬にかかる赤毛の陰で奥歯を強く噛み締めたのち、細く息を吐き出して、泰然たる態度で再び視線を戻す。
目の前では、装いとは相反して下卑た面構えの男が、赤褐色の髪を揺らしながら、わざとらしいほどに目を剥いて両手を振っていた。
「ああ、例えばの話でございます、例えば、の。勿論、わたくしめは、国王陛下にはいつまでもご健勝で末永くカラントを治めていただきたいと願っておりますとも。ですが、あんなにお小さかったラグナ様も、間もなく十七。まさに時の流れは光のごとし。そして、悲しいかな、我々人間は常命を持つ身でございます。ですから、例えばの話でございます。例えばの」
「わかっている」
ラグナが社交の場に出座するようになって一年。まだ両親に随伴するばかりの身ではあったが、今が胸の内を表すべき時か否かの判断はつく。ラグナは感情を抑えた面で鷹揚に頷いてみせた。
男は、眼の奥に寸刻浮かばせた不安を、ひと刷毛で喜色に塗り替えるなり、たるんだ顎の肉を震わせた。
「そうでしょうとも。ラグナ様は実に聡明でいらっしゃる。さぞや、ご立派な王にお成りあそばせることでしょう。だからこそ、親交を結ぶのは、それにふさわしい者でなければならないと……」
「ブローム公」抑揚のない低い声が、ラグナの後ろから発せられた。「ラグナ様は、こちらへ遊びに来られたのではありません。夏の休暇の間、雑事に惑わされることなく勉学に勤しむために……」
「しかし、ヴァスティの町の者が、このお屋敷を足繁く訪れていると聞いていますぞ」
無爵位の文官ごときに話の腰を折られたのが、憤懣やるかたないのに違いない。ブローム公と呼ばれた男は、ラグナの後方に控えている自分よりも年嵩の男を、険相な眼差しでねめつけた。
ラグナの家庭教師にしてカラント王の腹心、儀仗魔術師ライネ・ヘリストは、自身に浴びせかけられる視線をものともせずに、淡々と答えを返す。
「これからの時代は、たとえ町人や農夫であろうと、読み書きを始めとする教育が大切になってくるでしょう。南の帝国が初等教育を民に義務づけるようになって十四年、その間に彼の国がどれほど発展したか、賢明なるブローム公はご存じかと思います。それゆえ、ラグナ様がここルウケの館に逗留なさる機会に、近隣に住む者にも講義を行っている、というだけのことでございます」
はん、と、ブローム公が鼻を鳴らした。
なるほど、他人に自らを粗野と印象づけるには、このような仕草が有効なのか。ラグナは皮肉を舌の上で転がしながら、ついと目を細める。
「しかし、いくら王妃様の縁の町だからとしても、少々特別扱いが過ぎるのではありませんかな」
「ここに通えるのであれば、別にヴァスティの者に限るつもりはありません」
「ならば。私の娘も殿下と机を並べることができる、ということですな」
この屋敷をおとなって以来、鸚鵡のように「我が城にもおいでください」と繰り返し続けていたブローム公が、目を輝かせてへリストのほうへ身を乗り出した。
へリストは、ほんの僅か眉根を寄せると、言い難そうに口を開く。
「試験を受けていただかなくてはなりませんが」
「し、試験?」
「何しろ我々がこちらに滞在している間だけの特別講義ですから、基本的な単元に割く時間はあまりありません。そういったものは、学校や教会で賄っていただくとして、私は、私にしかできない講義を行うことにしております。そのためには、一定以上の知識を有する者でなければならず……」
「我が娘には無理だと申すのか」
ブローム公の顔が恥辱に歪むのを見ても、へリストの態度は変わらなかった。
「ブローム公のお嬢様のご学力は存じ上げておりませんゆえ、現時点では何もお答えできません。ただ、試験を受けなければならないのは、ラグナ様も例外ではない、とだけ、申し上げておきましょう」
へリストの言葉が終わりきらないうちに、ブローム公が、なんですと、と声を荒らげた。
「我が娘どころか、殿下を篩にかけるなど、貴様は一体どれほど思い上がっているのだ!」
大声でへリストを糾弾しながら、ブローム公がちらりとラグナを見やった。その目に浮かぶ得意げな色は、ラグナの代弁者を気取っているがゆえのものだろう。
ラグナは、冷ややかな眼差しを、目の前の愚か者に思うさま突き刺した。
「つまり貴公は、私のことを、篩にかける価値も無いぼんくらだと言いたいのだな」
途端に、ブローム公の喉から瀕死の蛙のような声が漏れた。
「え、いや、まさか、そんな、滅相もないッ」
「篩にかけるや地に落ちてしまうに違いない、だから試験などもってのほか。そう思っているのだろう?」
先刻からの鬱憤をここで晴らさんとばかりに畳みかけるラグナを、へリストが小さな声でたしなめる。
干からびかけていた蛙は、すんでのところで小さな水場に飛び込んだ。
「そ、それは、その、ラグナ様は優秀であらせられますから、試験など受けるまでもないのでは、と、そう申し上げたかったのでございます……」
血の気の引いた顔で、ブローム公が身を竦ませる。だが、彼はすぐに目を大きく見開いて、へリストに食ってかかった。
「すると、あの託児院の娘も、その試験とやらに合格したと言うのか」
脈絡も何も無い突然の話題転換に、へリストは勿論、ラグナも一瞬言葉を失った。
「『あの』とは、一体『どの』お話でしょうか」
へリストが問えば、ブローム公は、しまった、とばかりに息を呑んだ。
「あ、ああ、その、なんだ、若い女がこちらのお屋敷に押しかけておる、との噂を聞いてな……」
「流石はブローム公、領内のことを良くご存じであられますな」
へリストのあからさまな皮肉にも気づかず、ブローム公は、「領主として当然のことでございます」とラグナに向かって胸を張った。そうして再度へリストに険のある視線を投げつける。
「へリスト殿の講義とやらを、町の女にまで受けさせる必要はあるのですかな?」
露骨な侮蔑をその声音に聞き分け、またもラグナは、おのれには無いはずの逆鱗がわななくのを感じた。
「報告を受け、まさかと思っておったのですが、よもや本当であったとは。未婚の娘を不用意に屋敷に入れるなど、あらぬ誤解の元ですぞ! 軽率が過ぎる! ラグナ様にご迷惑であろう!」
客間の椅子を占拠して実のない会話を長々と引き伸ばしていたブローム公の、一番の関心事が何なのか。今、ラグナははっきりと理解した。先ほどは抑えきれた不快感が、ついに口をついて溢れ出す。
「ならば、私も貴公の城には伺えそうにないな」
素っ頓狂な声とともに、ブローム公が背筋を伸ばした。何を言われたのか理解できていない様子で、ラグナの顔を注視する。
「貴公には未婚の娘がいるのだろう? 未婚の男としては、不用意に訪れるわけにはいかないな」
ブローム公が目を白黒させるのを下目に見ながら、ラグナはようやっと溜飲を下げた。
「ラグナ様も、随分こらえ強くなられたものだ、と、感心していたのですがね」
招かれざる客を見送って、再び客間へと戻ってきたところで、へリストが溜め息をついた。
ラグナは、抗議の意味を込めて、派手に鼻を鳴らす。
「これでも相当我慢していたんだからな。途中、何度あいつに茶をぶっかけようと思ったことか」
ラグナ様、と、やんわりと言葉づかいをたしなめてから、へリストは大きく肩を落とした。
「まあ、『町の女』などと、ああも悪しざまに言われては、穏やかではおられないのは解りますが」
「べ、別にフェリアの悪口を言われたから怒ったわけでは!」
慌てて反駁するラグナを、へリストの涼しい眼差しが押しとどめる。
「……王妃様を悪く言われたのも同然ですからな」
へリストの言葉に、ラグナはまず目を丸くし、それから口惜しさに顔をしかめた。
「先生……」
「何でしょうか?」
へリストの表情からは、一切の意図が読み取れない。
カラント王の右手と謂われながらも、その地位に見合った爵位や領地を固辞し続け、学究と後進の教育とにひたすら打ち込む男、ライネ・ヘリスト。その実直さと王への忠誠は万人の認めるところであり、先刻のブローム公の傲岸な態度も、へリストの人柄の上に胡坐をかいたものと言えるだろう。
だが、物心ついた頃から彼の教鞭を受けてきたラグナには、師がそのように一筋縄でゆくような人間には思えなかった。勿論、彼の、父王への忠義に疑いを差し挟む気は、砂粒ほども抱いてはいなかったが。
しばしの逡巡ののち、ラグナは観念した。眉間から力を抜き、訥々と言葉を吐き出していく。
「……やはり、私は、フェリアとは距離を置いておいたほうが良いのだろうか」
あのクソ野郎の言うとおりに、と言い捨てれば、今度こそへリストの眉が大きく跳ね上がった。
「お言葉が過ぎますぞ。場所と立場をお考えください」
「場所も相手も選んでいるつもりだ」
ラグナは目元に力を込めてへリストを見た。
へリストは、刹那目を細めると、ゆっくりと口を開いた。
「王妃様の前例がありますからな。ブローム公でなくとも、気にする者は気にしてしまうでしょう」
ラグナの母は、ヴァスティの町出身の平民だった。
「どうせ、ラグナ様がどなたかと婚約なさるまでは、どんなにお気を遣ったところで、口さがなく言う者は出てくるのです。フェリア殿との友情が大切だとお考えでしたら、無理に距離を置かれる必要はないでしょう」
友情、という単語に、それとなく力が込められているのを感じ取り、ラグナは知らず眉を曇らせた。
「己が為すべきこと、為さざるべきことが何か、理解できないラグナ様ではないでしょうから」
師の眼差しに真っ直ぐ胸の奥を貫かれ、ラグナの喉がごくりと鳴った。
むかしむかし、あるところに、一人の若者がいました。
若者は、森で狩りをして、えものを売って日々を暮していました。
若者は弓が大層上手でしたので、毎日となく、立派なえものをとらえることができました。若者が町へえものを売りに行けば、いつも大勢のお客さんが、競うようにしてえものを買ってくれました。
ある時、若者が森で狩りをしていると、となり町から来たという狩人が若者に話しかけてきました。
「お前さんは弓の名手と聞いたが、本当かね。」
若者は、そうだ、と答えました。
「牛よりも大きなイノシシを狩ったというのは、本当かね。」
若者は、そうだ、と大きくうなずきました。
「どんなえものでも狩れるというのは、本当かね。」
若者は、そうだ、と胸をはりました。
「しかし、あそこにいる大山鳥は狩れまいよ。」
狩人が笑ったので、若者はそくざに弓に矢をつがえました。遠くの木の枝で羽根を休めている大山鳥目がけて、矢を射かけました。
矢が放たれたまさにその時、若者は、自分がねらったえものが山鳥ではないことに気がつきました。
それは、神の使いといわれている大フクロウでした。若者のうで前をねたんだ狩人が、若者をわなにかけたのです。
若者の射た矢は、まっすぐに大フクロウにつきささりました。
若者がぼう然と見守る中、大フクロウは木の葉を散らしながら、地面へと落ちていきます。
みるみるうちに、空を黒い雲がおおいつくし、辺りに神鳴りがとどろきました。いなずまがすぐ目の前で光り、若者は気を失ってしまいました。
次に若者が目を覚ましたのは、見たこともない森の中でした。
いえ、これは森と呼ぶことができるのでしょうか、動物の鳴き声はおろか、虫の羽音すら聞こえない、かれた木がえんえんと立ち並ぶだけの〈死の森〉でした。
うす暗い空からは、ちらちらと雪がまいおりてきます。ですが、火を起こそうにも、若者は全ての持ち物を失ってしまっていました。
助けを求めて〈死の森〉をさまよいながら、若者は思いました。きっと、今、自分は、神の使いを殺した報いを受けているのだろう、と。
自分のことをだました狩人のことが、若者は腹立たしくてなりませんでした。でも、それ以上に、簡単にだまされた自分に腹が立ちました。あの時、もっと落ち着いてきちんとえものを見ておれば、あれが山鳥などではないことにすぐに気がついたはずだったからです。
そして、そんなおろかな二人の人間のせいで殺されてしまった大フクロウのことが、気の毒でなりませんでした。
許しておくれ、と、若者がつぶやいたとたん、目の前が急に開けました。
そこには、鏡のような面をした、湖が広がっていました。
〈死の森〉を歩きまわり、すっかりつかれきっていた若者は、夢中になって水を飲みました。こおるように冷たい水でしたが、若者は生き返ったような気がしました。
その時、若者の耳に、小さな声が聞こえてきました。
助けを求める、女の声でした。
若者は、おどろいて辺りを見まわしました。しかし、女の姿はどこにも見えません。
じっと耳をすませば、どうやら声は、湖の中から聞こえてくるようでした。
どうしたことだ、と、若者は湖を見つめて立ちつくしました。
そうしている間も、女の声は、助けを求め続けています。
「たすけてください。ここは、とても、さむい。」
若者は、心を決めると、湖に飛びこみました。
水はとても冷たく、若者はすぐにでも息が止まりそうでした。それでも、若者はもぐるのをやめませんでした。神の使いを殺してしまった自分に、今できる、たった一つのつぐないだと思ったのです。
やがて、水をかく手足が石のように重くなり、頭が割れるように痛くなってきました。目をあけているはずなのに、目の前がゆっくりと暗くなっていきます。
若者が死をかくごした時、急に辺りが明るくなりました。
湖の底に、赤く光る小さな像がありました。美しい娘の、像でした。助けを求めていたのは、その像だったのです。
若者は、娘の像に必死に手をのばそうとしました。ですが、こごえた身体は、まったくいうことをきいてくれません。
そうして、若者は、また、気を失ってしまいました。
どれぐらいの時間がたったのでしょう、若者は、湖のほとりで再び目を覚ましました。
水に入ったはずの服はすっかりかわき、身体も温かさを取りもどしています。
夢を見ていたのだろうか、と、あわてる若者の手には、しかし、紅玉で作られた娘の像がありました。
「それは、わが兄弟の血で作ったものだ。」
若者が声のしたほうをふりかえると、そこには、真っ黒な毛並の大猫がいました。
この大猫もまた神の使いでした。大猫の言う兄弟とは、若者が殺した大フクロウのことにちがいありません。
「お前のつぐないは、確かに受け取った。」
大猫は、静かに若者に語りかけてきました。
「だが、人間達は、わが兄弟を殺したお前を許さないだろう。」
若者は、何を言えばよいのか分からなくなって、じっとうつむいていました。いつの間にか、あの狩人に対するうらみも、自分に対するいかりも、もう若者の中からは消えてしまっていました。ただ、目の前の湖のように深い悲しみだけが、若者の胸にありました。
悲しみは、やがてなみだとなって、若者のまぶたからこぼれ落ちました。
そのなみだが手の中の像にかかったとたん、像がふるえだしました。
若者がおどろいて取り落とした像は、みるみるうちに人間の娘に姿を変えました。
それは、とても美しい娘でした。紅玉のような赤い髪をした娘でした。
若者は、ひとめで恋に落ちました。そして、それは、娘も同じだったのです。
「お前達が、ここ、〈冷たい夜の森〉に住むことを許してやろう。」
手を取り合う二人に、大猫が優しい声でそう語りかけました。
「――そうして二人は、冷たい夜の森で暮らし始めました。枯れ木ばかりだった森を、力を合わせて少しずつ畑に変えていきました。
若者が老人となる頃には、カラントはもう、死の森などではありませんでした。沢山の作物が実る、豊かな土地がそこにありました。
長い歳月がたち、若者は、沢山の子供や孫、曾孫や玄孫に見守られて、常世へと渡ってゆきました。残された紅玉の娘は、若者の墓を見下ろす山に入り、そこで元の小さな像に戻って、いつまでも彼のことを見守り続けました。めでたし、めでたし」
建国の神話を語り終えた短髪の少女は、ぱたりと帳面と閉じると、観客の反応を確かめるように、辺りを見まわした。
一呼吸おいて託児院の小さな部屋を、子供達の拍手が震わせる。その様子を、ラグナは扉のすぐ脇で目を細めて眺めていた。
子供には子供の世界が必要です、とのラグナの母――テア王妃の意向を受けて、ラグナの従兄弟ウルスとともにルウケの館にやってきたフェリアに、テアが初めて読み聞かせてやった物語が、この「紅玉の娘」だった。「私にも読み書きを教えてください」とヘリストを口説き落としたフェリアが、粗末な紙を自分で綴じ合わせた帳面に初めて写しとったのも、この物語だった。
それ以来、フェリアは機会を得るたびに、新しい物語をお手製の帳面に写し続けた。そうやって蒐められた写本は、今やこのように彼女の仕事になくてはならないものとなっている。
ここ、ヴァスティは鉱山の町だ。ぐるりにそびえる山々からは、銅や銀といった金属のほか、紅玉などの輝石が採れる。町の南にある湖や湿地には鈴鉄も見られ、まだ高炉が使われていなかった時代から、人々が冶金に親しんでいたほどだ。
鉱山の仕事は常に危険に晒されている。落盤や出水に巻き込まれ命を落とす者は決して少なくない。そして、鉱石を掘る者、坑道を築く者、石を運ぶ者、水を汲み出す者、と、常に多くの働き手が必要とされていた。フェリアの勤める託児院は、そういった人手をひねり出すための一助を担っているのだった。
「フェリアー、ラグナ様が来てるー」
「王子様来てるー」
ラグナに気づいた子供が数人、ばらばらとフェリアのもとへ駆けてゆく。フェリアは、もう一人の職員に次の物語りを託して、ラグナのほうへとやってきた。
「ラグナ殿下には、ご機嫌麗しゅう」
良家の息女と見まごうばかりの優雅な仕草で、フェリアがこうべを垂れる。
「取ってつけたような『殿下』はやめろ」
眉間に皺を刻んで、ラグナは息を吐いた。
フェリアは、琥珀の瞳を刹那悪戯っぽく輝かせて、それからすまし顔で背後を振り返った。次なる説話に聞き入る子供達の小さな後姿をゆっくりと見渡してから、その眼差しのままラグナを見やる。
「子供達の前で、王子様をぞんざいに扱うわけにはいかないでしょ」
「しがらみに絡めとられたうるさい大人ではあるまいし、何を気にすることがある」
「馬鹿ね」
いつもの調子でぴしゃりと言い放ったのち、フェリアは慌てて周囲を窺った。
幸いにも語り手も聞き手もすっかり物語の世界に入り込んでおり、フェリアの失言に気を留めた者はいない。フェリアはそっと胸を撫で下ろすと、苦笑とともにラグナを見つめた。
「相手が大人なら、無礼者だの身の程知らずだの、私が悪く言われるだけだからいいのよ。でも、子供達は駄目。彼らは私の言動から、色んなことを学びとっていくわ。それこそ、自国の王太子にどのように接すべきか、ってこともね。まだ価値観の定まっていない彼らを、無用に混乱させるわけにはいかないでしょう」
淡々と諭すその口調にヘリストの影を見て、ラグナは思わず天を仰ぎそうになった。一呼吸おいて気を取り直し、挑戦的な視線をフェリアに投げる。
「そうだな。王太子に体当たりを喰らわすような子供に育てるわけにはいかないからな」
「あ、あれは、ラ……あなたがウルスに意地悪したからでしょ」
今は昔、ラグナが初等学校に入学してすぐの秋の休暇。普段は大人しい従兄弟のウルスが、珍しくも、ラグナに対抗するようなことを言ったのだ。「君はこんな言葉も知らないんだね」と。
今ではラグナ自身も、ウルスのあの反応はむべなるかなと思っている。初等学校がいかに素晴らしいところか、そこに通うことで自分がいかに賢くなったか、散々自慢を聞かされたあとの、本当にささやかな反抗。「じゃあ、この言葉知ってる?」と気弱な従兄弟をして問わせしめたのは、間違いなくラグナだったのだから。だが、その時のラグナはあまりにも子供だった。彼は、ウルスの軽侮に激昂すると、ヘリストの授業に備えてウルスが携えていた国語の教本を取りあげた。「お前が勉強できるのは、僕のおかげなんだぞ」と。
「……あの時ね、あれでも一応悩んだのよ。相手は王子様なんだから、蹴っちゃまずいよね、って。叩くのも、やっぱり駄目なような気がしたし、でも、何を言っても本を返してくれないし、ウルスは泣き出すし、仕方がないから、えーい! って」
「『意地悪するな!』に『すぐに泣くな!』だろ。母上といい、女というものはなんと怖い生き物なんだろう、と思ったさ」
くつくつと笑ってみせれば、フェリアの頬が薔薇の花びらのように赤くなった。
「そ、それよりも、どうしたの、わざわざこんなところに」
「ヘリスト先生が、昨日の埋め合わせの講義を明日行うそうだ」
ラグナの言葉を聞くなり、フェリアの目が輝きを増した。
「ありがとう! それじゃあ、キュッタさん達にも教えてこなくちゃ」
フェリアが早速とばかりに扉へ向かう。その行く手を、ラグナは身体で塞いだ。いつぞやの体当たりのごとく、フェリアの身体がラグナの胸に突き当たる。
「そちらへはサヴィネが行っている。詰所への掲示も手配済みだ」
だが、あの時とは違ってラグナの背丈は、今やフェリアよりも優に頭一つ分は高い。ラグナの代わりに吹っ飛びかけたフェリアを、彼は左手の一本でしっかりと支えた。
フェリアが、慌てた様子で、だが抜かりなく声は抑えて、ごめんなさい、と身を起こす。
「サヴィネさんも一緒だったんだね」
いつもラグナの伴を務めている騎士の名を口にしたのち、フェリアは「てっきりお屋敷を脱走してきたのだとばかり思ってた」と笑った。笑いながら、彼女はラグナから一歩の距離をとった。
ラグナの口から、知らず溜め息が漏れる。
「講義は明日の何時から?」
「午後六時だ」
ラグナの答えを聞き、フェリアが考え込む素振りをみせた。それを見て、ラグナは慌てて言葉を継ぐ。
「都合が合わないならば、先生にかけあってみるが」
「ううん、たぶん大丈夫だから」
「そうか?」
遠慮をしているのか、本当に問題が無いのか。彼女の言葉からこういった機微を読み取れないでいるおのれを自覚するたびに、ラグナは、来し方との距離を思い知らされるのだ。
「最近、ヘリスト先生の講義を受ける人が増えたでしょ。皆とても先生に感謝しててね、おかげで結構融通が効くのよ。それに、ほら、私はウルスと並んで変人扱いされているから、男の人達に一人混じってても、『はしたない』とか『女が学問なんて』なんて、今更誰も言わないし」
昔から変わらない短い髪を揺らしながら、フェリアが微笑む。カラントの成人は、男女問わず頭髪を背中まで伸ばしているのが普通だ。子供の頃こそ短髪で過ごす者も多いが、十五を過ぎたあたりから、人は髪を伸ばし始める。そういうところ一つとってみても、フェリアは確かに「ちょっと変わったお嬢さん」ではあった。
だが、ラグナは、フェリア以外にもかつてそう呼ばれていた人物を一人知っている。
「それにね、私がここで子供達に文字や数学を教えていることを、評価してくれる人が多くなってきてね。だから、ヘリスト先生のところへ行く、って言えば、快く送り出してくれると思うわ」
「そうなのか」
「そうよ。学問で腹が膨れるか、なんて言う人もいるけど、直接腹は膨れなくても、確実に『できること』は増えるもんね。仕事の効率が全然違う、って、親方も言ってたわ。やっぱり学はあるほうがいいな、って。だいたい、王妃様もそれで国王陛下に見初められたようなものだもんね」
もう一人の「ちょっと変わったお嬢さん」の話題をフェリアが口にのぼしたところで、小さな頭が幾つも彼女にぶつかってきた。
語りが一段落ついたのだろう、先ほどまで一心不乱に物語に聞き入っていた子供達が、今度はその情熱をラグナ達に傾けてくる。
「おうじたまだー」
「ラグナ様こんにちはー」
「ねえ、フェリアは王子様と結婚するの?」
五つぐらいの女の子が、瞳を輝かせながらラグナとフェリアを交互に見上げてきた。
ラグナが何か言うよりも早く、フェリアが「違うわよ」と女の子の額を突っつく。
「私とラグナ様は、同じ先生に勉強を教わっているだけよ」
「いいなー、あたしも王子様と一緒に勉強するー」
「じゃあ、しっかり文字を書けるようにならないとね。お茶を飲んだら、書き取りの時間だよ」
「はーい!」
元気の良い返事ののち、子供達は、お茶、お茶、と歌いながら、二人から離れていった。
「もう少し夢を見せてやったらどうだ」
何の夢を、誰に。肝心な事柄を喉の奥に貼りつけたまま、ラグナは口元を歪ませる。
フェリアは、ラグナの言葉に直には応えず、子供達を見つめたまま静かに口を開いた。
「あの子達がああいう質問をするってことは、周囲の大人がそれを口にしているってことよ」
それから、一転して明るい声で、フェリアはラグナを振り返った。
「そうだ、講義のお知らせ、ウルスにも伝えに行くんでしょ? 彼なら今、工房にいるんじゃないかな。早く教えてあげて」
ああ、と一言を返すだけが、ラグナにはやっとだった。
託児院を出たところで、ラグナは伴の騎士サヴィネの不機嫌そうな顔に出迎えられた。
「教会でお待ちください、と申し上げたはずですが」
ラグナよりも七歳年上のサヴィネは、いつも朗らかでめったなことでは笑顔を絶やさぬ好漢だ。それだけに、彼の眉間に刻まれた皺の存在感は非常に大きい。ラグナは、胸の深くまで息を吸い込むと、それと分からぬように腹の底に力を込めた。
「時間を有効に使おうとしたまでだ」
ラグナがそう嘯くなり、サヴィネの眉間の皺はますます深みを増した。
「子供じゃあないんですから、思いつきを実行に移す前に、あらかじめきちんと仰ってくださらないと」
「言えば、一人で行かせてくれたのか?」
万に一つの希望を抱いてラグナがサヴィネを見やれば、頑迷な眉宇がそれを粉みじんに破砕する。
「あー、まあ、申し訳ありませんが、承服しかねますね……」
深く息を吐き出してから、サヴィネは真摯な瞳を真っ向からラグナにぶつけてきた。
「そもそも、何のための伴とお考えですか。私は、ラグナ様のことを、この命に代えても守りきる覚悟でおりますが、騎士でもない他の者にも、それを強要なさるおつもりですか? それに、もしもラグナ様の身に何かあった場合、彼らにその責を負わせることにもなるのですよ。大切なご友人だと仰るのならば、そのような苦難を……」
「解っている」
正論という名の刃を、徒手ではらうことなど不可能だ。だがそれでも、ラグナはそれを試みずにはいられなかった。足掻けば足掻くほど、ただ徒に、おのれの未熟さをさらけ出すことになるばかりだと知っていても。
「解っておられるようには思えません」
案の定、サヴィネはあきれたような表情で、即座に切っ先を返してきた。
痛みに耐えかねたラグナの口から、更なる憫然がほとばしる。
「解っていると言っている!」
その瞬間、ラグナは大きく息を呑んだ。おのれの、まるできかん気な子供のごとき言いざまを自覚して。羞恥のあまりサヴィネの顔を見ていられなくなり、思わず足元に視線を落とす。
「解っておられるのなら、それでいいです」
ラグナが吐き捨てた言葉を、サヴィネはひょいと拾い上げた。
「どうやら私は気が利かない人間らしいんでね。ラグナ様には、そんな私にも分かるような行動をとってくださると助かるんですよ」
サヴィネは軽く肩をすくめると、いつもの笑顔を浮かべた。ぐるりと周囲を見回したのち、南の方角、町の中心にそびえる時計塔のところで目をとめる。つられてラグナも視線を向ければ、刃を象った鋼鉄製の針が、午後三時半を示していた。
ウクシ山への登山道の入り口近くにある託児院からは、ヴァスティの町が一望できた。町の北側に連なるウクシ、カクシ、コルメの三山から、眼下の湖へなだれ込むようにして立ち並ぶ家々の屋根が、夏の日差しを受けてオレンジ色に輝いている。この地方の屋根瓦が王都に比べて赤みがかっているのは、焼成に使われる薪を節約するせいだと、ラグナの母、テア王妃が言っていた。低い温度で瓦を焼くことになるため、土の中の鉄分が錆色を保ち続けるのだという。
鉱山の町は、鉱石を中心にまわっている。燃料も、水も、まず冶金業が優先され、それから他の用途に割り振られるのが常だ。王都周辺の穀倉地帯と比べるとどうしても不自由さは否めないが、その代わり、効率の良い水車や軌道式手漕ぎ車といった技術の進歩は、他の地方よりぐんと抜きん出ていた。カクシ山の中腹にある工房では、そういった鉱山で使われる機械の開発や改良が、日々行われている。ラグナの母方の従兄弟であるウルスは、技師としてそこで働いているのだった。
「さて、もうアン様のところへ、向かわれますか?」
「いや、叔母様の前にウルスに会いに行く。明日の講義のことを早く教えてやったほうが、奴も予定を立て易かろう」
「それは、良いお考えですね」
サヴィネが露骨にホッとした顔を作るのを見て、ラグナは密かに溜め息をついた。大方、ヘリストに言い含められでもしていたのだろう、竹馬の友二人の扱いについて、あくまでも公平であらねばならぬ、とでも。
「頸木なぞ、一つあれば充分だろうに」
「何か仰いましたか?」
「なんでもない。独り言だ」
サヴィネをお目付け役に据えずとも、ヘリストが一言フェリアに釘を刺せば、それで充分なのだから。恩師の、しかも国王の腹心として国を思っての言葉に、よく躾けられた生徒が従わぬわけがない。
ラグナは再度静かに息を吐き出すと、「行くぞ」と踵を返した。
教会に預けていた馬を引き取り、ラグナ達は山をくだった。まばらだった家屋がやがて互いに身を寄せ合いだしたところで、四つ辻を東へ針路を変える。眼前に広がるなだらかな谷の向こうに、目的地のカクシ山が見えた。
谷の斜面を覆う杏子の木々は丁度収穫が終わったばかりのようで、痛むなどして食用に適さない実が、そこかしこに打ち捨てられていた。馬の足音に驚いた野鳥が、慌てふためいた様子で一斉に空へ飛び立っていく。一拍遅れて、甘酸っぱい杏子の実の香りがラグナの鼻腔をくすぐった。
果樹の谷を抜けた二人は、鉱山と繁華街とを繋ぐ石畳の道に足を進めた。
先刻までののどかな風景から一転して、賑やかな往来が二人を迎える。ラグナを見とめた通行人が頭を下げて道を譲ろうとするのを、身振りで押しとどめ、ラグナは人の流れに馬の歩調を合わせた。薪を積んだ荷馬車のあとから鉱山の門をくぐり、詰所前の広場へ入る。奥の厩に馬を繋いだラグナを見て「坊ちゃん」と声をかけてきた年配の馬丁が、サヴィネに気づいてあわてて「殿下」と言葉を改めた。
「ウルスの坊に用なら、もう少し後にしなさったほうが良いんじゃないかねえ」
「何故だ」
馬丁は、髭面を苦笑に歪めて、後方に建つ倉庫のような建物を指さした。『ハルス機械工房』と書かれた看板が、ここからでもよく見える。
「エリックの奴が少し前に坊に会いに来て、まだ出てきてないんだよ。今行ったら鉢合わせするんじゃないかな」
馬丁の言葉を聞くなり、サヴィネが面倒臭そうな表情で溜め息をついた。ラグナはそれを横目で見ながら、悪戯っぽく口角を上げる。
「そういや、奴とはしばらく会っていなかったな」
「やれやれ、きかん気なところもテア様譲りかい」
あきれたとばかりに肩をすくめる馬丁だったが、その瞳にはどことなく嬉しそうな気色が浮かび上がっていた。
「あんなのでも、親方の大事な跡取り息子だ。取っ組み合いの喧嘩だけは止しておいてくだせえな」
「せいぜい努力しよう」
サヴィネが肩をすくませるのを見なかったことにして、ラグナは意気揚々と工房へと歩いていった。
「だから、大丈夫なのか大丈夫じゃないのか、はっきりしろってんだ!」
四頭立ての馬車も悠々通れそうな大きな戸口に近づくにつれ、聞き覚えのある怒鳴り声がラグナの耳に飛び込んできた。
普段は各種機械の駆動する音で騒がしい工房だが、どうやら今は水車の歯車を外しているようだ。いつになく静かな建物から、不規則な槌の音だけが響いてくる。ラグナは、微塵の躊躇いも見せずに、開け放たれた扉をくぐった。
二階建ての家屋がすっぽりと収まってしまいそうな広大な空間に、所狭しと機械や資材が置かれている。屋根裏に渡された梁のあちこちには、鉤や滑車がぶら下がっていた。右手奥の、木箱などが比較的整然と置かれているその向こうは、水車に連なる工房の心臓部だ。
せわしなく働く工員達が、ラグナの姿を見とめてお辞儀をする。工房長が挨拶に飛び出してこないところを見ると、おそらく彼は席を外しているのだろう。なるほど、エリックが心置きなく大声を張り上げられるわけだ、と、ラグナは独り合点した。
「ぼそぼそ喋んな、聞こえねえ!」
怒声を辿って視線を左に向ければ、向こうの壁際に置かれた机の前で、がっしりした体躯の若い男が、くすんだ赤毛を振り乱しながら、大きな動作で両手を天板に打ちつけるところだった。一際派手な打撃音が、工房の壁に反響する。彼こそがエリック・ランゲ。ヴァスティ鉱山を経営する「親方」の一人息子だ。
咄嗟に前に出ようとするサヴィネを、ラグナは静かに制止した。
「しかし、ラグナ様」
「『子供の喧嘩に大人が出張るな』だ」
それは、子供の頃にエリックがサヴィネに言い放った言葉だった。尤も、そのすぐあとにフェリアに完膚なきまでに言い負かされたエリックの、「父ちゃんに言いつけてやる」との伝家の宝刀を、真っ向から叩き折ったラグナの言葉でもあったのだが。
「ウルスも、もういい大人なんだから、自分の身ぐらいは自分で守らんとな」
意地の悪い笑みを浮かべるラグナの視線の先には、今まさにエリックに詰め寄られている従兄弟の姿があった。
母親譲りの細い顎に、あまり日に焼けていない肌。額にかかる鮮やかな赤の髪は、緩やかな曲線を描いている。筆で引いたような眉の下には、強い意志を感じさせる灰色の瞳。作業の邪魔になるからだろう、髪を緩く首の後ろでくくっている以外は、すうっと通った鼻筋も、薄い唇も、ウルスはラグナととても良く似ていた。
「今までの昇降機と同等の安全性はある」
粗暴な示威行為に怯んだ様子もなく、ウルスは淡々と答えを返す。それを聞いてエリックが盛大に舌打ちをした。
「大丈夫なんだったらさっさとそう言え」
「僕は最初からそう言っていた。ただ、君が言うような『絶対的な保証』はできない、というだけで……」
「てめえ、ふざけてんのか!」
またもエリックの手のひらが、派手な音を立てて机に叩きつけられた。
「俺達を実験台に使おうってのか! 何が新型だ。何が効率が良い、だ、ふざけんな!」
「別に、何か問題があるわけじゃない」
「保証できない、って、今、お前が言ったんだぞ!」
「ああ。保証はできない。何事も『絶対』なんて言えるものは……」
「御託はどうでもいいんだ。大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか、俺が聞きたいのはそれだけだ!」
ウルスの正論は、筋肉の詰まった頭では理解できなかったようだった。激昂したエリックは、ウルスの胸倉を鷲掴むと、そのまま力任せに彼を目の高さまで引っ張り上げる。
流石にこのまま捨て置くわけにはいかないな、と、ラグナは二人のところへ足を向けた。
「いつまでもグダグダグダグダ、いいかげんはっきりしやがれ! お前がそんなザマだから、フェリアがあの王……」
「フェリアがどうした」
ラグナが背後から問いかけた途端、エリックが雷に打たれたかのように全身をわななかせて小さく跳ねた。滑稽なほど狼狽した様子でラグナを振り返り、ウルスの胸元から慌てて手を放す。
「な、なんだ、お前か。何の用だ」
「別にお前には何も用は無いんだがな」
これ見よがしなラグナの溜め息を聞き、エリックの口元に力が入った。派手に鼻を鳴らしてから、吐き捨てるようにして言葉を投げつけてくる。
「また、皆に構ってもらいに来たのか」
「『構って』? 何故俺がわざわざ他人に構ってもらわなければならないのだ」
怪訝に思って尋ねかけたところで、ラグナの脳裏をかつての情景がよぎった。
「そういえば、お前、前は『ちやほや』と言っていなかったか?」
ラグナがサヴィネに連れられてヴァスティの町へ顔を出すようになった頃から、エリックとその取り巻き達は、ラグナを見るなり(そして周囲に大人がいないと見るや)「ちやほやされに来たんだろ」「そんなにちやほやされたいのか」と囃したててきた。そしてそのたびに、ウルスとフェリアが、「ちやほやしてほしいの?」「ちやほやしてあげようか?」なんて余計なことを訊いてきたものだった。
「……しかし、結局、お前もフェリアも、俺をちやほやしてくれたためしがなかったが、な」
「本当にちやほやしてほしかったんだ……」
「あー、うるさい! 二人して勝手に話を進めてんじゃねーよ!」
話の端緒を開いたのが自分だということを忘れているのか、エリックが地団駄を踏んで文句を言う。
「とにかく、だ! 身分関係なく一人の男としてだったらな、俺はお前なんかには、絶っ対っに! 負けないんだからな!」
おぼえてろよ! と、ありきたりな捨て台詞を残して、エリックはそそくさと立ち去っていった。
「見事に話が通じていなかったな」
ラグナが同情を込めた眼差しを投げかければ、ウルスが諦めの表情で肩を落とす。
「今に始まったことじゃない」
「お前の手に余るようなら、工房長に任せてしまえばいいんじゃないか?」
「もとよりそのつもりだよ。そもそも僕は、部品の改良を行っただけで、全体の設計に携わったわけじゃないからね」
そう言ってウルスは、机の上に置かれたこぶし大の金属の塊を手に取った。
「それが?」
ラグナの問いに、ウルスは小さく首肯した。
「これは、自分で作ってみた試作品」
鈍く光るくろがね色の部品は、歯車と輪を組み合わせたような形をしていた。
「どうやって作るんだ、こんなもの」
「地金を打ってもらって、それを削り出した」
「彫った、ってことか、これを。器用なものだな」
感嘆の声を漏らしたラグナから、ウルスはそっと視線を外した。
「僕は、技師としてはまだ一番下っ端だから。自分でなんでもやらなきゃならない」
そう言うウルスの目に、強い光が灯っているのを見て、ラグナは知らず目を細めた。彼ならばそう遠くない未来に、この工房を代表するような立派な技師になれるに違いない、と。
「……ってことは、あいつは、その『一番の下っ端』にあんなにしつこく絡んでいたのか」
情けない奴め、と、ラグナは先刻エリックが逃げていった出入口を振り返る。それから再びウルスのほうへ向き直ったラグナは、何か物言いたげに自分を見つめるウルスに気がついた。
「何だ」
しばし躊躇いを見せたウルスは、やがて訥々と話し始めた。
「去年あたりから、君に突っかかってくる奴が減ってるだろ」
ラグナは少し考えてから、素直に頷いた。
ウルスは、穏やかな口調で言葉を重ねていく。
「皆、世の中のことが見えてきたんだよ。それで、王子様にちょっかいをかけるのは拙い、って、気がついたんだろう」
もやもやとしたものが腹の底でゆらりと揺らぐのを、ラグナは感じた。澱のような何かを全て吐き出してしまいたくなる衝動を抑えて、胸いっぱいに息を吸い込む。そうして、殊更に軽い調子で肩をすくめた。
「つまり、あいつはまだお子様ってことか」
「違うよ。彼もまた知ったのさ。皆が、何を考えて王子様を『ちやほや』しているのか、ってことをね」
その瞬間、ラグナは思わずウルスを睨みつけていた。いつの間に噛み締めていたのか、奥歯が微かにきしりと音を立てる。
対するウルスの表情は、あくまでも冷静で、ラグナは両のこぶしに力を逃がすと、周囲には分からないよう嘆息した。
「俺は、奴に、同情されているのか」
「彼の頭の中は、そこまで整理されていないみたいだけど。八つ当たり、ていうのが一番近いかも」
普段どおりのウルスの声が、ラグナを平静に引き戻す。
ラグナはあらためて、己が従兄弟の観察眼に舌を巻いた。
「よく見ているものだな」
「そんなことないよ」
「いや、大したものだ」
真剣なラグナの声音に、ウルスは刹那面食らったような表情を浮かべ、そうして小さくはにかんだ。
「褒めても何も出ないよ」
「じゃあ、叔母さんの前で褒めなおすとするか。なら、美味しい夕食をたらふく食べさせてくださるだろうからな」
「家の食料庫をカラにさせる気かい」
よく似ていながら全く似ていない二人の従兄弟は、互いに顔を見合わせて、一方はにやりと、もう一方はくすりと、笑った。
まだまだ仕事が残っているウルスと別れ、ラグナはサヴィネとともに工房をあとにした。所持品検査を待つ人や馬車の列を尻目に、来た時と同じように悠々と鉱山の門を通り抜ける。
繁華街へとくだる石畳の道に出たところで、ラグナはふと手綱を控えた。
眼下には、色とりどりの旗や看板を掲げた店屋が軒を並べている。民家の多いウクシ山麓に比べて、その東側に位置するこのカクシ山の裾野には、より雑然と混み合った景色が展開していた。物売りの声や笛の音が、ラグナ達のいる高台にまで、風に乗って聞こえてくる。
活気溢れる町並みの向こうには、目の覚めるような青色をした湖が、ただ静かに横たわっていた。時折湖面に立つさざ波が、陽光を映して宝石のように輝いている。遥か対岸にルウケの館を探して、ラグナはそっと目を細めた。眩い水面に比して針葉樹の林は驚くほどに暗く、館の白い壁だけが黒色の中に小さくほんのりと浮かび上がって見える。
ここと、あそこは、近いようでいて、とても遠い。
ラグナは、ふくらはぎに軽く力を込めた。手綱の動きに応えて、忠実なる愛馬がすうっと歩幅を伸ばす。目指すは、町の西南部にあるウルスの家だ。
今日は、ラグナは彼の家で夕食をご馳走になる予定だった。ラグナよりもひと月早く十七を迎えるウルスと、二人まとめて誕生日のお祝いをしよう、とのアン叔母の有難い申し出があったのだ。
大通りから二筋だけ道を山側へ戻った、大きな楠のすぐ隣。ヘリストから渡された葡萄酒の瓶と、王都のテア王妃から届けられた花とをそれぞれ携えて、ラグナと伴のサヴィネは小ぢんまりとした民家の前に立った。
ラグナが呼び鈴の紐に手を伸ばすよりも早く、中から扉が開かれ、満面の笑みとともにアンが二人の前に飛び出してきた。
「よく来てくれたね! 何か月も経っていないのに、また背が伸びたんじゃないかい? こっちに来てる、って聞いてたのに、いつまでたっても顔を出さないんだから、待ちかねたよ!」
再会を喜ぶアンの抱擁は、ラグナが小さな頃からの儀式みたいなものだ。お前も家族の一員なのだと、全身でラグナに語りかけてくれる。お日さまと草の香りに包まれながら、ラグナは、すっかり自分よりも小さくなってしまった叔母に、「ただいま」と挨拶をした。これも、従兄弟宅を訪れた時に交わされる儀式の一つだった。
居間に招き入れられたラグナ達は、肉の焼ける香ばしい匂いに出迎えられた。途端に湧き起こる腹の虫の大合唱を聞き、アンが嬉しそうに破顔する。
「もう少し待っておくれね。鶏が焼ける頃には、皆も帰ってくるだろうしね」
食卓のいつもの席に落ち着いたラグナは、杏子のジュースで空腹を紛らわせながら、アンと近況を報告し合った。ラグナが先刻の工房での出来事を語ったところで、アンがからからと豪快に笑った。
「そうかい、そうかい。またあのドラ息子が絡んできてたかい」
「自分よりも立場の弱い者を恫喝するなど、将来人の上に立とうという人間のすることではないな」
ここぞとばかりに、ラグナは語気を荒くさせる。その胸の内を読み取ったか、アンがいつになく静かな笑みを浮かべた。
「ラグナは優しいねえ。でも、これはあたし達の問題だから、余計な気を遣わなくていいんだよ」
姉ちゃんにも言わなくていいからね、と、釘を刺され、知らずラグナは唇を引き結んだ。
「心配しなくったって大丈夫さ。ほら、町の皆がエリックのことをなんて呼んでいるか思い出してごらんよ」
わざわざ記憶を掘り返すまでもなく、ラグナは即座に幾つもの単語を思い浮かべることができた。今日耳にしただけでも、「エリックの奴」に「あんなの」、そして今しがたの「ドラ息子」と、枚挙にはいとまがない。
「酷いのだと『バカ息子』なんて称号まであるけど、皆、それを本人がいる前でも堂々と言っちゃうからねえ。『バカ呼ばわりされたくなかったら、バカなことするな』とかね。おかげで最近は随分『バカ』も減ったもんだ」
「ランゲさんは、ご子息を特別扱いなさりませんからね」
窓際の長椅子から、サヴィネが苦笑とともに会話に参加してきた。長剣を佩く選り抜きの騎士も、アンにかかっては単なるラグナの兄貴分扱いで、おかげでサヴィネもここではすっかり寛いでみえる。少なくとも、ヘリストとともにいる時よりは。
サヴィネの言葉に、アンは、そうそう、と大きく頷いた。「『父ちゃんに言いつけてやる』って、それで怒られるのは大抵エリックのほうだからねえ」
それでよく猿山の長が務まるものだな、と、眉を寄せかけたラグナだったが、エリックの取り巻き達の顔を思い返して、なんとなく合点がいった。思慮の足りない行動といい、自らの品性を下げる物言いといい、全員がエリックに輪をかけて頭の悪そうな者ばかりだということに思い当たったのだ。きっと彼らは、装飾過多な儀式用の剣を、実戦用の剣と見間違えて、もてはやしているのだろう。
とはいえ、儀式用の剣でも他人を傷つけることは可能なのだ。ラグナはまだ納得しきれずに、サヴィネとアンを交互に見た。
「だが、現に、先刻ウルスはもう少しで殴られるところだった。いくら奴の父親が厳しい人間なのだとしても、事が起こるのを止められないようでは、意味が無い」
ラグナはこれまでも、ウルスがエリック達に言いがかりをつけられる場面に何度も出くわしたことがある。顔見知りばかりの古い町ゆえに、監視の目が行き届いているおかげだろう、大事に至ったことこそないが、これが仮に王都での出来事なれば、彼らの暴挙はもっと激しいものとなったはずだ。時や場所を違えたところで、人間の本質が大きく変わることはない。それは、六年間の中等学校生活の折り返しを過ぎて、ラグナが日々強く感じていることだった。
「まあ、そのうち落ち着くでしょ」
対するアンは、大した問題ではないとばかりに、話を切り上げようとする。いつも威勢の良いアンにしては、妙に歯切れの悪い口ぶりを聞き、ラグナの脳裏に閃くものがあった。
「奴がウルスに突っかかってくるのは、俺のせいか」
その瞬間、部屋の空気が僅かにこわばったのが、ラグナには分かった。
しばしの間をおいて、アンが深い溜め息をついた。
「ほら、エリックって、あんた達と同い歳でしょ。お母さんのご実家がこの近くなこともあって、昔っからウルスとエリックって何かと比べられたり一緒に扱われたりすることが多くてね。エリックがウルスのことを気にかけてくれてるのに対して、ウルスといったら、万事あの調子でしょ。子供の頃とか、エリックが『遊ぼ』って誘いに来ても、あの子ったら『遊びたくない』なんて一言で返しちゃってばかりでね」
「王子様とはいつも一緒に遊ぶくせに、……ってことか」
初等学校入学の年まで、ラグナは一年の殆どをルウケの館で過ごしていた。豊かな自然と静かな環境の中で伸び伸びと健やかにお育ちあそばせるよう、とヘリストは言っていたが、実際のところは、平民出身の妃とその子に対する風当たりを避けての策だったのではないかとラグナは疑っている。
ラグナが離乳した頃から、テアは王の補佐を務めるために王都とヴァスティとを行き来するようになったが、ラグナは引き続きルウケの館を住み処としていた。そしてウルスは、従兄弟である王太子の孤独を紛らわせるためだけに、毎日のように湖の反対側から館に呼びつけられていたのだ。
黙り込むラグナの背中を、アンが勢いよく叩いた。
「あんたが気にすることは何もないのよ! ウルスの人見知りは、本当に筋金入りでねえ。お向かいのフェリアちゃんが構ってくれなかったら、あの子、家族以外の人間と会話することが無いまま大人になっちゃったんじゃないかしら。ルウケの館に行くのだって、最初は泣いて嫌がってたんだから。お迎えの馬車に、何度、問答無用で放り込んだか」
子供には子供の世界が必要です。そう言いつつも、テアもヘリストも内気なウルスをどう扱えばいいのか、とても苦慮していたようだった。ウルスの道連れにされたフェリアが「読み書きを教えて」と言い出した時の、ヘリストの助かったと言わんばかりの顔を、ラグナは今でもよく覚えている。
「確かに、初めてウルスと引き合わされた時、もしかしたらこいつは口がきけないんじゃないか、と思ったものだ」
ラグナがにやりと笑ってみせれば、アンもまた、にいっと口角を引き上げた。
「それね、ウルスは、『知らない子に質問攻めにされた』って言って、家でべそかいてたわよ」
あはは、と声に出して笑ってから、アンは今度は優しくラグナの背中を叩いた。
「本当にあんた達は、見た目は、兄弟かってほどよく似てるのに、中身は正反対だよねえ!」
あたしと姉ちゃんも同じようなこと言われたものだけど。そう続けるアンに、サヴィネが興味深そうに「そうなんですか」と問いかけた。
「そうなんだよ。あたしと違って、姉ちゃんは子供の頃からとっても頭が良かったからねえ。じいちゃん――あたし達の父ちゃんね――は、読み書き以上のことは教えてくれなかったけど、姉ちゃんは勝手にじいちゃんの本を読み漁って、ついにはハルスさんとこの、馬鹿みたいに難しい本まで借りに行くようになってねえ」
テアとアンの父であるラグナの祖父は、ウルスの勤め先であるハルス機械工房の、水車を扱う技師だった。五年前に病で亡くなるまで、水力機関の第一人者として、鉱山や町の発展に大いに寄与していたのだ。
「聡明な方だ、と常々尊敬しておりましたが、なんと、独学であらせられたとは!」
感嘆の声を漏らすサヴィネに、アンはどこか寂しげな笑顔を向けた。
「この辺りには、子供に勉強を教える大人がいないからね。金持ち用の学校は、とてもあたしらには通えないし、勉強を教えられそうな人間は、人数が少ない上に引く手あまたで、他人の面倒をみている余裕なんてないから。じいちゃんも、独りで本を読む姉ちゃんを見ては、喜ぶと同時に悔しそうな顔してたわ。時間さえあれば、もっと色々教えてやれるのに、って」
「でも、確かお父上と同じ工房で働かれるようになったんですよね」
「そうなのよ。初の女技師、って、皆は騒ぐし、じいちゃんは大喜びするし」
凄いでしょう、と、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張ったかと思えば、ほどなくアンは、大きく肩を落とした。
「でもねえ、姉ちゃんが工房で働き始めてしばらくしたら、じいちゃんってば、今度は何とも言えない情けない顔をするようになってね。『テアの奴は技師としては申し分ないが、あれでは嫁の貰い手がつかない』ってね」
「まさか!」
サヴィネが、心底驚いたとばかりに、声を荒らげる。
「それがね」と、アンが口元に苦笑をのぼした。「姉ちゃんってば、先輩技師が相手でも、間違ってることは『間違ってる』って躊躇いなく言っちゃう人だからね、女のくせに生意気だ、なんて言われちゃうわけよ」
理不尽だ、と憤るサヴィネをなだめてから、アンは今度はラグナを振り返った。
「姉ちゃんに浮いた話が一つも出てこない間に、妹のあたしが先に嫁にいっちゃって、もう皆が、姉ちゃんの結婚を諦め始めてたところに、国王陛下が鉱山に視察に来られてね。姉ちゃんが案内役を務めたんだけど、あの日は家に帰ってきてからも、えらく上機嫌でねえ。陛下はとても理知的な方だった、陛下がおられる限りこの国は安泰だ、って、それはもうベタ褒めで。珍しいこともあるもんだ、って、びっくりしてたら、今度は陛下から姉ちゃんに、まさかの交際の申し込みよ。驚きの展開に、山が崩れるんじゃないかって思ったわ」
身分の違いを理由に、テアは王の申し出を断り続けた。しかし、再三に亘る熱烈な王の働きかけに、頑なだった彼女の態度も次第にほぐされていったという。
「建国の神話にちなんで、紅玉で姉ちゃんの像を作って贈るとか、もう本当にお伽噺みたいよね。それって、あれでしょ、『あなたは私の女神です』ってことでしょ? そりゃあ、姉ちゃんだって参っちゃうわよ」
王の求婚に纏わる一連の話は、ラグナも各方面から散々聞かされてはいた。そしてそのたびに、あの堅物で生真面目な父王が、よくぞそんな洒落た贈り物を考えついたものだ、と密かに感心していた。今もまた同じ思いを胸に抱いたラグナだったが、それと同時に、これまでは考えもしなかった一つの疑問が、ゆらりと陽炎のように浮かび上がり、彼はそっと唇を引き結んだ。
果たして、王の身分違いの恋を、その右腕たるヘリストはどう思っていたのだろうか、と。
「ともに力を合わせて豊かな国を作り上げてゆこう、との陛下のお気持ちの表れでもあったのでしょうね」
「本当に、素敵よねえ!」
アンが、うっとりとした表情で頬に手をやる。しばし宙に視線を彷徨わせたのち、笑みとともにラグナのほうに向き直った。
「姉ちゃんが伴侶と巡り合えたのは、勿論嬉しいけど、一番嬉しかったのは、こんなに可愛い甥っ子ができたってことかねえ。ウルスにとっては、従兄弟で、兄弟で、友人だよ。なんて有難いんだろうねえ」
照れくさいやらむず痒いやらで、ラグナは何と返したものか分からなくなった。謙遜の言葉で誤魔化そうかとも考えるも、何かそぐわないような気がして、ただもごもごと口ごもる。
そんなラグナの様子を見て、アンが楽しそうに笑った。
「最近は、ウルスだけでなく町の皆もヘリスト先生に勉強を教えてもらっちゃって、本当に皆さんには、言葉で言い尽くせないぐらいに感謝してるんだよ」
そして、いつになく真剣な眼差しが、ラグナの目を覗き込む。
「何があっても、あたし達はあんた達の味方だからね」
不意に窓から吹き込んできた風が、食卓に飾られた花束を揺らした。
ウルスが帰宅したのは、それから一時間もたたないうちだった。どうやら作業半ばで工房長に無理矢理帰宅させられたらしく、ぼそぼそと不満を口にしながら壁に鞄をかけている。
「殿下をお待たせしてはいかん、って、本人が自分の意思で早めにやって来たんだから……」
「父ちゃんは見なかったかい?」
皿と皿がぶつかる音とともに、アンの声が台所から響いてきた。
「帰りに二号坑の前で会ったけど、もう少しかかるから、先に食べといてくれって」
なんだって、と、アンが声を荒らげた。
「お祝いだ、って言ってんのに、何考えてんのよ、あの人は。馬っ鹿じゃないの」
エプロンで手を拭きながら、アンが眉を吊り上げて居間に戻ってくる。怒れるアンを見慣れていないサヴィネが、長椅子の上で弾かれたように背筋を伸ばした。
「ちょっと、ウルス、あんたもう一度鉱山に戻って、あの馬鹿を引っ張って帰ってきてちょうだい」
ウルスが抗議の声を漏らした、その時、窓の外から甲高い鐘の音が聞こえてきた。
室内にいた全員が、一斉に黙って息を詰めた。
半鐘は、急いた調子で、拍子をつけて、何度も何度も打ち鳴らされる。
「火事、ですか」
騎士の顔に戻ったサヴィネが、油断のない眼差しで腰を上げる。
「いいや、この拍子は事故だね。鉱山で、事故が起きたんだ」
エプロンを脱ぎ捨てるや、アンは戸口へと走っていった。
「あたしは、ちょっと様子を見に行ってくるから、あんた達は先にご飯を食べときな」
「ラグナ様」
サヴィネの言わんとすることを理解して、ラグナは静かに頷いてみせた。事故の状況にもよるだろうが、騎士の機動力と腕力は、きっと人々の助けとなるに違いない。
「サヴィネさん、馬、出してくれるのかい?」
「勿論です」
「助かるよ。じゃあ、あたし達はちょっと出てくるから、ウルス、ラグナ、あんた達二人は絶対に家から出ないこと。いいね、わかったかい!」
二人が頷くよりも早く、アンとサヴィネの姿は扉の向こうに消えた。
けたたましく鳴り響いていた半鐘もやがて沈黙し、玄関口で立ち尽くしていたラグナとウルスは、二人揃ってのろのろと居間へと戻った。
窓の外を真っ赤に染める夕焼けが、今は酷く不吉なものに見える。
落盤か、出水か、なんにせよあれだけ半鐘が打ち鳴らされたということは、事態は相当差し迫ったものなのだろう。ラグナは思わず唇を噛みしめた。鉱山で働く人々には、ラグナの知り合いも少なからずいる。言葉こそ交わしたことはなくとも、笑顔で会釈をしてくれる者に至っては、数えきれないほどだ。
「じゃあ、ご飯を食べようか」
ウルスが淡々と口火を切った。傍耳に聞く限り冷たい物言いのようにも感じられるが、ラグナは慣れたものとばかりに、静かに頷いた。
「そうだな。確かに、いつまでもここにつっ立っていても意味がないからな」
そうは言っても、やはり事故のことがラグナは気になって仕方がない。ウルスとともに料理の皿を食卓へと運びながらも、彼は何度も窓の外へと視線をやる。
と、すぐ後ろで足音が立ち止まるのを聞き、ラグナは、自分が食卓の手前でうっかり足を止めてしまっていたことに気がついた。
「悪い」
ウルスに道を譲ったラグナは、黙々と食事の準備をするウルスをじっと見つめながら、大きく息を吐き出した。
「お前は、こういう時も冷静だな」
大したものだ、との感嘆の声を、ウルスはなんでもないとばかりに受け流す。
もう一度溜め息をついてから、ラグナは再度窓のほうを振り向いた。
「俺も見習わなくては、と、思うのだが……、どうしても、駄目だ。鉱山のことが気になって仕方がない」
「僕は、諦め慣れているだけだよ」
事も無げに投げかけられた言葉の、意味を判じかねて、ラグナは無言でウルスと目を合わせた。
ウルスが、すっと視線を外す。
「僕は、普段から多くの選択肢を持たない、いや、持てない人間だからね。僕が選ぶことのできない選択肢は、僕にとっては存在しないのと同じだから、考慮に入れないようにする癖がついてる。そして、今、僕には家で待機するという選択肢しかとり得ない、と、ただそれだけのことなんだ」
「選択肢、か」
「僕がもっと腕っぷしが強ければ。もっと声が大きければ。もっと人々と渡り合える話術があれば。もっと胆力があれば。もっと、もっと。もっと、もっと――」
ウルスの口調は、あくまでも穏やかだった。穏やかだからこそ、彼の言葉は、ラグナの胸に深く突き刺さる。
「――もっと僕にできることがあれば。ならば、君みたいに、色んなことで悩んだんだろうけど」
ラグナから顔を逸らせたまま、ウルスは静かに目を伏せた。
むやみにおのれを卑下するな。そう言うことは簡単だった。だが、ラグナは何も言うことができなかった。ただ息を詰めて、己が従兄弟を見つめ続ける。
と、家の表側で砂を蹴散らす足音がしたかと思えば、次の瞬間、悲鳴にも似た声とともに、玄関の扉が激しく叩かれた。
「ラグナ、ウルス、いるんでしょう? あけてちょうだい!」
二人は弾かれたように戸口へと向かった。
ウルスが鍵をあけるなり、髪の毛を振り乱したフェリアが、家の中へとまろび入ってきた。
「どうした」
荒い息で床に膝をつくフェリアを助け起こして、ラグナが問う。
「さ……サヴィネさんは……」
必死の形相で、フェリアが二人を交互に仰ぎ見た。「サヴィネさんに……お屋敷へ……」
「サヴィネは、ここにはいない」
ラグナが簡潔に答えた途端、フェリアは愕然と目を見開いた。そこに絶望の色を見て、ラグナは、みぞおちの辺りが縮み上がるような気がした。
「何があったの?」
ウルスに促されたフェリアは、まだ治まらない息の下で、ぽつりぽつりと言葉を吐き出し始める。
「選鉱場で、鉱車が、転落したのよ」
「なんだって」
ラグナとウルスの声が重なった。それから「どこで」「怪我人は」と口々にフェリアに質問を浴びせかける。
「二層目よ。ズリ(廃石)を積んだ鉱車が下の層に落ちて、五人が……」
声を詰まらせ俯くフェリアの頭上で、ラグナとウルスは、互いに青ざめた顔を見合わせた。
選鉱場とは、三号抗の東南にある、鉱山で一番大きな施設だ。平たい建物が、階段状に山の斜面に貼りつくようにして建つ姿は、湖の対岸からでも一際よく目立つ。
坑道から掘り出された鉱石は、軌道を走る鉱車で坑外に運び出され、その選鉱場に集められる。鉱石を水で洗い、こぶし大に砕き、そうして選鉱婦と呼ばれる女性達によって手作業で、鉱石は廃石と選別されるのだ。
全部で四つある各階層は、水力を利用した帯式運搬装置で繋がっていた。流れ作業で除去された廃石は、階層ごとに鉱車に集められ、鉱山の隅のズリ捨て場へと運ばれることになっている。その際、往復の手間を惜しんで、鉱車に廃石を山と積んでいたであろうことは、想像に難くない。
「怪我人の状況は?」
ラグナの問いに、フェリアは、小刻みに首を横に振った。
「イスルさんは自分には無理だ、って! ロスも、高位の術は使えないって言って、エステラ先生ならば、って! でも」
鉱山付きの癒やし手達の名を順番に挙げていく、フェリアの声が震え始めた。
「でも、そのエステラ先生が、この事故に巻き込まれてしまってて、だから、サヴィネさんに、ルウケのお屋敷にリキ先生を呼びに行ってもらおうと思って……」
「ロスが駄目だと言うのなら、若先生にも無理だろう。確か若先生のほうが、使える術が少なかったはずだ」
ラグナが苦渋の思いでそう告げると、フェリアは小さな悲鳴を上げた。
両手で口元を覆い、真っ青な顔で立ちつくすフェリアを見ながら、ラグナは必死で考えを巡らせる。
「隣町は? 隣町から術師を連れてくるというのは、どうだ?」
ラグナの思いつきは、即座にウルスによって叩き落とされた。
「この辺りの町村で、唯一の高位癒やし手が、エステラ先生なんだ」
「なんてことだ……」
癒やし手は、神の加護を受けて、医者や薬師の領分を超えて傷や病を治すことができる。だが、その技は決して万能ではなく、症状の軽重によっては、一時しのぎがせいぜいということも珍しくなかった。
「ああ、どうしよう、どうしよう……!」
おろおろと取り乱すフェリアに、ウルスが、ぼそりと問いかけた。
「もしかして、フェリアのお母さんも怪我を?」
返事の代わりに、フェリアの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れだした。
高位の術師でなければ手の施しようがない怪我とは、一体どのようなものなのか。想像もしたくないそんな悲惨な状況を、フェリアは目の当たりにしてきたのだ。それも、自分の母親の身の上に。
それでも、フェリアは、涙をこらえてここまでやって来た。何とかして母親を、怪我をした皆を助けようと、必死で気持ちを奮い立たせて。それなのに――!
ラグナは、思いっきり奥歯を噛み締めた。希望を失い、今やくずおれんばかりのフェリアを、夢中で胸にかき抱いた。
ラグナの傍らで、ウルスが大きく息を呑む気配がした。
ラグナは、ひたすらフェリアを強く抱きしめる。
フェリアの手が、ラグナの胸元をそっと掴んだ。そうして彼女は、ラグナにしがみついて、声をあげて泣き始めた。
「おか……お母さん……! お母さんが、死んじゃう……!」
「大丈夫だ。安心しろ。俺が必ず助けてやる」
「どうやって」
間髪を入れず、ウルスが静かに問うてくる。
ラグナは、決意を眼差しに込めて、ウルスを振り返った。
「領主に援助を要請しよう。確か、あそこの城の癒やし手は、老先生と位が同じだと聞いている」
領主の城は、ヴァスティの東隣の町から少し山を登ったところにある。馬を飛ばせば、宵のうちには帰ってくることができるだろう。つい昨日見たばかりの、ブローム公の顔を思い浮かべて、ラグナは僅かに口元を歪めた。いけ好かないやつだが、この際、背に腹は代えられない。
だが、依然としてウルスの表情は晴れなかった。
「ブローム公が、お抱え癒やし手を、一介の領民のために簡単に貸してくれるとは思わない」
「王太子の頼みなら断れまい」
その言葉を聞くや否や、フェリアが涙声のまま「待って」と顔を上げた。まだ激しくしゃくり上げているにもかかわらず、両手の甲で涙を拭いながら、ラグナの腕から逃れようと身をよじる。
「私、ラグナに、いえ、殿下に、そんな身勝手なことを、頼むつもりは……!」
フェリアを抱えていた腕が、振りほどかれる。即座にラグナは、空いた両手でフェリアの肩を掴んだ。少し身を屈めて正面からフェリアの目を覗き込み、思いの丈を言葉に変える。
「お前がどういうつもりかなんて関係ない。俺が、お前を助けたいんだ!」
みるみるうちにフェリアの頬が赤く染まった。
杏子の花びらのような肌の上に、新たに生まれた涙の雫が、光る筋を描く。
たっぷり一呼吸の間、ラグナとフェリアは互いに見つめ合った。
涙を湛えた鳶色の瞳が、物言いたげに揺れている。切なそうに寄せられた眉も、微かに震える唇も、彼女の全てが今、ラグナに、ラグナただ一人に向けられていた。
一瞬にして胸の奥が燃えるように熱くなり、ラグナは思わず息を詰めた。口の中に溢れてきた唾を呑み込もうとしても、喉の奥が引き攣れてしまっていて上手くいかない。
ラグナが喘ぐように息を継ぐのと同時に、フェリアもまたそっと息をついた。僅かに顔をラグナから背け、か細い声で「駄目よ」とたしなめる。
「一国の王太子が、そのようなことを軽々しく口になさっては……」
その瞬間、ラグナは、見えない手で頬を思いっきり張られたような気がした。叫び出しそうになる衝動を必死で抑えて、フェリアの肩から両手を引き剥がすと、爪が手のひらに食い込むのも構わずに、両のこぶしを力一杯握り締める。
「ラグナ、確かに君の言うとおり、現時点でとれる最善の策は、ブローム公を頼ることだと思う」
ウルスの、普段と変わらぬ落ち着いた口調が、ラグナの心を少しばかり鎮めた。
辛うじて我を取り戻したラグナに、ウルスは小さく頷いて、それからフェリアに向き直る。
「フェリア、君は今すぐ事故現場に行って、ブローム公のことをサヴィネさんに伝えるんだ。サヴィネさんにルウケのお屋敷に戻ってもらい、ヘリスト先生に一筆書いていただいて、それを持ってブローム公の城へ……」
ウルスが説明し終わるよりも先に、ラグナはウルスに食ってかかっていた。
「待て、何をそんな回りくどいことをする必要がある。俺が直接城へ赴けば、時間も手間もかからないだろう!」
だが、ウルスも、一向に引く様子がない。
「君を取り巻く状況は、君が考えているよりもずっと複雑だ。ここはまずヘリスト先生の指示を仰ぐべきだろう。それに、もうすぐ日が暮れる。危険だ」
「俺を取り巻く状況なんかよりも、フェリアのお母上が直面している状況のほうが、遥かに危険だろうが!」
胸倉を掴まんばかりに距離を詰めるラグナを、一切意に介すことなく、ウルスはフェリアのほうを見た。
「フェリア、行ってくれ」
泣き腫らした目に強い意志を宿して、フェリアが外へと駆け出してゆく。
後を追おうと踵を返したラグナの前に、一歩早くウルスが立ち塞がった。
「そこをどけ」
「嫌だ」
ラグナは、ぎり、と、歯を食いしばった。
「解った。俺が、先生に知らせに行く」
全てを見透かしているかのような眼差しが、ラグナを真っ向から貫いた。
「サヴィネさんに任せるんだ」
「俺が、一番疾い。サヴィネよりも」
「君が疾いんじゃない。君の乗る馬が疾いんだ。そして、これからゆかねばならないのは、真昼間の馬場ではなく黄昏時の山道だ。サヴィネさんに任せたほうがいい」
ラグナがありったけの力を込めて睨みつけても、ウルスは怯まなかった。どこにこれだけの胆力を隠していたのだろう、と驚くほどに、彼は真正面からラグナを睨み返し、低い声で、一言一言を吐き出していく。
「君は、王太子であるということの重みが、解ってるのか」
「ああ、解ってるさ。王太子というだけで、分不相応な名馬を与えられている、ということもな」
つい口をついて出た皮肉に、ウルスの眉が不快そうにひそめられる。
ラグナは、大きく嘆息すると、足元に目を落とした。
「皆が、自分を犠牲にしてでも俺を守ろうとしてくれているのは、知っている。それがどういう意味かも解っているつもりだ」
胸の奥まで深く息を吸い込んで、ラグナは顔を上げた。腹の底から気迫を絞り出せば、さしものウルスも気圧されたか、僅かに半足を引く。
「だが、これは王太子だからこそ務まる仕事だ。今まで与えられたもの、そしてこれから与えられるであろうものの対価を、俺に払わせてくれ!」
一息に言いきって、ラグナはウルスを押しのけて外へ飛び出した。
全速力で坂を下ったラグナは、大通りの少し手前にある食堂の角を曲がった。靴音も高らかに路地を進み、裏手の木戸を入る。
「殿下、どこ行きなさるんだね!」
鶏舎のすぐ脇にある裏口が開き、食堂のおかみさんが顔を出した。「殿下はお留守番だ、って、サヴィネさんが言ってたけど!」
「予定変更だ」
おかみさんに一言だけ返して、ラグナは納屋の外に繋がれている愛馬の手綱をとった。
いつもウルスの家を訪問する際、ラグナ達はこの広い裏庭で馬を預かってもらうことになっている。いかなる事態にもすぐに対応できるように、と、鞍をつけたまま待たされていたにもかかわらず、鹿毛の馬は、疲れた様子もなく精悍な眼差しで主の命令を待っていた。
「予定変更、って、いいのかい?」
おかみさんが、心配そうに眉をひそめながらも、木戸をあけてくれる。
ラグナは小さく頷いてみせたのち、愛馬を曳いて街路に出た。
来た道に目を凝らしても、ウルスが追ってくる気配はない。自分ではラグナを止められないと判断して、次なる手を打つべく鉱山へと向かったのだろう。
ラグナはきつく口を引き結ぶと、ひらりと愛馬の背に跨った。
町全体がいつになく重苦しい空気に包まれているようだった。
町を東西に貫く大通りに出たラグナは、微塵の躊躇いも見せずに、馬首を東へ――ルウケの館に帰るのとは逆の道へと向けた。「俺が、先生に知らせに行く」とウルスに言いはしたが、もとよりラグナは直接領主の城へ向かうつもりだったのだ。なにしろ、ここから湖の対岸にある館へは二里近くの道をゆかねばならぬ。駈歩でも往復で半時間はかかる勘定だ。それだけの時間があれば、おそらく領主の城へ到達することができるだろう。
夕焼けの朱が先刻よりも更に深みを増し、向かう東の空は、徐々にかち色に侵食され始めている。事故の影響か、目抜き通りにもかかわらず、往来は普段の賑わいが嘘のように閑散としていた。これならば、道ゆく人々に「どこへ行きなさるか」と一々声をかけられずに済む。速歩で馬を駆りながら、ラグナは微かに安堵の笑みを浮かべた。
『君は、王太子であるということの重みが、解ってるのか』
ふと、先刻のウルスの声が、耳元に甦る。
では、逆に、王太子ではないおのれに、果たしてどれほどの価値があるというのだろうか。ラグナの微笑に、嘲りの色が混じる。
自分には、何も無い、と。
たまたま天がラグナに与えたもうた、王太子という身分。だが、その唯一のものですら、陰で「半賤の王子」などと揶揄する者がいる有様だ。そして、彼らは、ラグナがしくじるのを、常に手ぐすね引いて待ち構えている。いや、今は好意的に受け入れてくれている者であっても、何かあればまばたきするよりも早く、その手のひらを反すことだろう。
ラグナはそっと唇を噛んだ。
平民の子である、という負い目は、物心ついた時から影のようにラグナの背後に控えていた。だからこそ、自分は優秀であらねばならない。ラグナはその一心でヘリストの厳しい指導をその身に受けてきた。父の、母の選択が間違いではなかったのだ、と証明するために。そして、自分を支持してくれる者達に報いるために。
幾人もの人々の面影の最後に、ラグナはフェリアの顔を思い浮かべた。
初めて会った時から、フェリアがラグナに向ける眼差しは、ウルスに対するそれと同じだった。もうずっと長い間、彼女は二人を等し並みに扱ってくれていた。ラグナとウルスが、主であり従である以前に従兄弟同士であるように、フェリアとラグナもまた、外界から切り離された「子供の世界」において、身分を越えた友情を育んできたのだ。
だが、ラグナが友との性差を意識し始めるのと時期を同じくして、フェリアは他人の目を意識するようになった。彼女の言葉に敬語が交じるようになり、遂にはラグナのことを「殿下」と呼ぶようになった。
自分と距離を置こうとするフェリアを前に、ラグナはなすすべを持たなかった。唯一手元に残った「学友」という関係も、彼女の考え一つで簡単に途切れてしまう儚い縁だ。だからこそ、今、自分がフェリアに力を貸せるかもしれない、ということが、ラグナにはとても嬉しかった。
お前を助けたい。ラグナの言葉を聞いたフェリアが涙に濡れた顔を上げたあの時、彼女の視線を真に独り占めにしたあの瞬間、自分の中に湧き上がった感情を、ラグナはなんと表現したらよいのか解らなかった。胸の奥から溢れ出す莫大な熱量に思考の全てを炙られながら、ラグナは、ただひたすら、彼女の力になりたいと願った……。
深く息を吐き出すと、ラグナは彼女の幻影を頭から振り払った。ぴんと背筋を伸ばし、ふくらはぎで馬腹を圧す。
馬の速度があがるほどに、ラグナの思考から雑念が消えてゆく。己が道行きに全ての意識を集中させて、ラグナは街道を東へひた走った。
ヴァスティの隣町、ケルムの北の外れにブローム公の居城はある。
もともとこの一帯は、三百年前に当時の国王から外孫に叙された領地だった。以来その係累であるブローム家が代々治めてきたのだが、先々代の当主が男子に恵まれなかったことから、長女の嫁家であるキッポ家が爵位を相続し、現在に至る。面積こそさほど広くはないが、国内でも有数の鉱山を抱え、第二次産業の隆盛とともにキッポ家は、臣民爵位の中で二番目の発言力を持つ一族となっていた。
西方の山々が幽かな濃紅の冠を頂く中、足元に押し寄せる宵闇を蹴散らし蹴散らし、ようやくラグナはブローム公の城に到達した。
慣れない上に薄暗い道を半時間以上も早駆けしたせいだろう、全身汗にまみれ、疲労のあまり崩れ落ちそうになりながらも、ラグナは力を振り絞って馬から下りた。愛馬の首筋をつたう滝のような汗を申し訳程度に拭い、そっと口の中で感謝の言葉を呟く。頼もしい相棒が事も無げに鼻を鳴らすのを聞いて、ラグナは思わず涙ぐみそうになった。
だが、ここで気を抜いてしまうわけにはいかない。ラグナはあらためて腹の底に気合を溜めると、柵の下りた城門の前へと馬を曳いていった。そうして、誰何の声を待たずして、高らかに名乗りを上げる。
「私は、カラント王クラウスが息子、ラグナ・カラントである! ブローム公爵アウグスト・キッポ殿にお目通り願いたい!」
夏虫舞う篝火の傍ら、二人の門番が、全く状況が把握できていない様子で互いに顔を見合わせた。
ラグナは胸一杯に息を吸い込んだ。はやる気持ちを必死で抑えつつ、取り出した懐剣を木柵の隙間から門番に差し出す。
「これを公爵にお見せすれば、お分かりになるだろう。とにかく火急の用件なのだ」
柄頭に施された王家の紋章が、灯りに照らし出されるのを見て、年配のほうの門番が大きく息を呑んだ。震える手で懐剣を受け取るや、背後にそびえる主塔に向かって大慌てで走ってゆく。
ほどなく、騒々しい足音や怒鳴り声とともに、ブローム公が姿を現した。
「こんなところでお待たせして、殿下に対して失礼であろう! 早う門を開けんか、この馬鹿者!」
主人の怒声に、残っていた門番はもとより、付き従って来た使用人達もが、慌てふためいて門の脇へと走った。巻き上げ機を動かす重い音とともに、木の柵がゆっくりと持ち上がってゆく。
「気が利かぬ者ばかりで、本当に失礼いたしました。どうか、どうかお許しを……」
ブローム公が、芝居がかった調子で地面に片膝をつく。
恭しく差し出された懐剣を、ラグナは密かな溜め息とともに受け取った。
「いや、彼らは彼らの職務を忠実に全うしたまでのこと。約束もないのに押しかけた私が悪いのだ」
「なんとご寛大なお言葉でございましょうか! ささ、どうぞ中へ……。王都の城の壮麗さにはとてもかないませぬが、こう見えて我が城も……」
「火急の用件なのだ。ここでいい」
詩歌を吟ずるがごとく滔々と語りだしたブローム公を、容赦なく遮って、ラグナは本題を切り出した。
「ヴァスティの鉱山で事故が起きた。大怪我を負った者が何人もいるのだが、町の癒やし手では力が足りず、貴公のところの優秀なる癒やし手のお力をお貸し願いたい」
「は?」
ブローム公は、口を半開きにしたまま、しばしまばたきを繰り返した。たっぷり一呼吸の間ののち、ようやくラグナの言いたいことを理解できたか、両手を揉み合わせながら満面に笑みを浮かべる。
「流石、ラグナ殿下はお優しゅうございますなあ!」
篝火が、ブローム公の口角に刻まれた微かな皺を、くっきりと浮かび上がらせた。
「しかし、鉱山には事故がつきものでございましょう。今年に入ってからも、私が知っているだけでも火事が二、三度。ちょっとした事故なら数え切れず。それでも彼の町の者が余所へ助けを求めるようなことは一度としてありませんでしたがねえ」
皮肉ありげな声音に気がつかなかったふりをして、ラグナは慎重に口を開く。
「それは、あの町に高位の癒やし手が存在するからだ。だが、今回、その癒やし手自身が事故に巻き込まれてしまっている。貴公の助けが必要だ」
わたくしめの、とブローム公が目を輝かせるのを見、ラグナはすかさず畳みかけた。
「事は、ヴァスティの町の問題だけではない。この辺り一帯の町村が、その癒やし手の恩恵を受けていると聞いている。領民の覚えめでたき貴公が、このような危機を見過ごすはずがないと思っていたが、どうか」
「勿論でございますとも。そういうことでしたら、喜んでヤルヴェラめをお貸しいたしましょう。ですが、もう日も暮れて、道中危のうございます。殿下にはお部屋をご用意いたしますので、出発は夜明けを待って……」
「一刻を争うのだ!」
反射的に声を荒らげてしまったものの、ラグナは即座に「すまない」と頭を下げた。落ち着いて考えるまでもなく、非常識なことを要求しているのはラグナのほうだったからだ。いくら整備された街道といえども、夜間に馬を駆るのは非常に危険が伴うだろう。往路の苦労を思い返したラグナは、今更のように、サヴィネに任せよとのウルスの言葉を噛み締めた。
「王太子殿下にもしものことがあれば、なんとしましょうか。こればかりはいくら殿下の頼みといえども……」
「何故、私が単騎で貴公をおとなったか、分かるか」
深呼吸一つ、ラグナは腹を括った。とにかく今は、一刻も早く癒やし手をヴァスティに連れ帰るのが先だ、と。
「ブローム公爵のお手を煩わせようというのに、私自身が礼を尽くさずにどうするか。それなのに、皆は私が行くことを頑迷に反対したのだ。名馬に『乗せられている』だけの私には無理だ、とな」
敢えて尊大な態度で、ラグナはブローム公をねめつけた。
「それとも、貴公までもが、私の馬術が不安だと言うのか」
「め、滅相もございません!」
「ならば、何も問題なかろう。万が一のことなど、あるわけがないのだからな」
もしもこの場にヘリストがいれば、どうなっただろうか。ラグナは心の中で苦笑いをした。恐らくは、危機管理の甘さや論理性の欠如を厳しく指摘されたのち、一大反省文をかかされることになるに違いない。
替えの馬をお貸しいたします、との有難い申し出を受けて、ラグナはブローム公とともに厩へと場所を移した。
ラグナが馬丁に愛馬を引き渡しているところへ、人影が一つ息せき切って飛び込んできた。
「お、お呼びですか、お館様」
「おお、ヤルヴェラか。すまんがおぬしにはこれから殿下とヴァスティまで行ってもらうぞ」
壁にかけられたカンテラの光が、小柄な壮年の男の姿を浮かび上がらせる。見事な巻き毛を左肩で一つ括りにした癒やし手は、ブローム公の話をふむふむと聞いていたが、内容が王太子殿下の素晴らしい馬術に及ぶや、彼はちらりとラグナのほうを見やって、主人に見えないように悪戯っぽい笑みを作った。
「よいか、事態は一刻を争うのだ。私に代わって、しっかり殿下のお手伝いをしてまいれ」
ヤルヴェラは、最前とは一転して真剣な表情になり、「承りました」と頭を下げた。
「エステラ殿のお噂は、私めも聞き及んでいます。殿下の仰るとおり、彼がもし死ぬようなことがあれば、それはお館様にとっても非常に大きな損失になるでしょうね」
ラグナが想像していた以上に、ヤルヴェラは頼りになる男だった。「お館様の名代として全力を尽くす所存です」と、胸を張った彼は、そのまま流れるような弁舌で、松明を持った二騎の先導役をブローム公からもぎ取った。続けて、領主の名代に恥ずかしくない馬を、と、厩で二番目に立派な騎馬を借り受ける。勿論、一番勇壮な馬は王太子であるラグナのために。最後に、街道までの近道となる、城の南西に広がる庄を通り抜ける許可を得たヤルヴェラは、ラグナに向かって得意そうに片目をつむってみせた。
暈のかかった三日月が、正面に横たう山の彼方へ沈まんとしている。頼りなげな光ではあったが、それでも、月のない夜とは比べるべくもない。銀色の弧が沈みきる前に少しでも前へ進もうと、ラグナ達一行はひたすら道行きを急いでいた。
流石は勇猛なる騎士の騎馬、馬上で燃え盛る松明の炎を恐れることなく、着実に歩みを進めていく。そして、それ以上にラグナが感嘆したのは、乗り手である騎士達の豪胆さだった。馬手のみで手綱を制御することの難しさは言わずもがな、それに加えて彼らが弓手に持つのは松明なのだ。体勢を崩しでもすれば、炎がおのれや馬体に襲いかかることになる。そんな危険をものともせず、二人の先導役は迷い無き足さばきで、時にラグナやヤルヴェラを気遣いながら、夜の闇を切り開いていった。
眉月が山の陰へと隠れると、完全なる闇の世界が姿を現した。方角はおろか上下すら見失いそうな暗闇の中、それでも先へ進むことができたのは松明のおかげだった。コルメ山の東の枝尾根を越え、ヴァスティの町の灯りが見えるようになるまで、小さな二つの炎とそれに照らし出される僅かな空間だけが、彼らにとっての現実だった。
往路の倍もの時間をかけて、ようやくラグナ達はヴァスティの町へと到達した。
ラグナがウルスの家を出てからは、かれこれ三時間近くが経過している。もしかしたら、もう手遅れなのではないだろうか、というラグナの不安は、急いた男の声によって吹き飛ばされた。
「ラグナ様! おおおお待ちしておりました!」
町の入り口に焚かれた篝火の向こうから飛び出してきたのは、エリックの父、ヴァスティ鉱山の経営者であるランゲ親方だった。
「ブローム公爵にお仕えしている、癒やし手のヤルヴェラです。怪我人はどこに」
馬から下りようとするヤルヴェラを、親方は必死の形相で押しとどめた。
「ああ、そのまま、そのままで。怪我人は選鉱場でね。とても動かせる状態ではなくて。とにかく、先生、どうかこちらへ!」
言うなり、親方はヤルヴェラを先導して走ってゆく。
残されたラグナは、待機する松明の騎士達に騎馬を預けたのち、ゆっくりと篝火のほうを振り返った。
眉間に険を刻んだウルスが、そこに立っていた。
ウルスの反対を押し切って、しかも「俺が先生に知らせに行く」と嘘までついて飛び出してしまった手前、ラグナは彼に対してどんな顔をすれば良いのかわからなかった。しかしウルスが今ここにいるということは、おそらく彼には何かラグナに言うべき、伝えるべきことがあるのに違いない。覚悟を決めたラグナは、ウルスの傍へと歩み寄ると、胸一杯に息を吸い込んだ。
だが、ラグナが謝罪の言葉を口にするより早く、ウルスが、いつもと全く同じ調子で話しかけてきた。
「あのあと、僕はなんとかサヴィネさんと合流できてね。サヴィネさん、君が勝手に出ていったって聞いて、すごく悪態をついていたよ。サヴィネさんでもあんな言葉を使うんだね、驚いた」
口調こそ普段どおりだったが、ウルスの眼差しは先刻からと同じ、不機嫌そうなことこの上もない。
「サヴィネさんは、一連の出来事をヘリスト先生に知らせに一旦ルウケのお屋敷に戻ってから、君を追って単身ブローム公の城へ向かったよ。どうやら君達とは行き違ってしまったみたいだね。ヘリスト先生は、すぐにこちらへ駆けつけてくださって、助けが来るまでなんとかして怪我人の命を繋ごうと、癒やし手達と一緒に頑張ってくださっている」
淡々と状況を報告し終わるや、ウルスはむすっとした表情で口をつぐんだ。そうしてくるりとラグナに背を向け、鉱山のほうへ歩き始める。
ラグナは、慌ててその背中に、先ほどは言いそびれた言葉を投げかけた。
「すまない。悪かった」
更に一歩を進んだところで、ようやくウルスが足を止めた。渋々といった態度で、ラグナのほうに顔を向ける。
「謝るのは、どういう理由で? 勝手なことをしたから?」
「館へ帰ると嘘をついて悪かった。勿論、勝手なことをしたことも、だ。そして――」
先刻ラグナを出迎えた時の、ウルスの表情が脳裏に甦り、ラグナは一旦言葉を切った。
「――そして何より、心配をかけて悪かった、と思っている」
その言葉を聞くなり、ウルスはまず目を丸くして、それからそっと溜め息をついた。視線をややラグナから外して、ぼそぼそと囁く。
「……別に、僕達は、君が王太子だから心配したんじゃないから」
今度は、ラグナが目を丸くする番だった。
「フェリアが、大事なことだからきちんと伝えておけ、って。それと……」と、寸刻言いよどんだのち、ウルスは心持ち投げやりな口調で言葉を継いだ。「……助けたい、って言ってくれて嬉しかった、ってさ」
伝令の仕事は終わった、とばかりにウルスが踵を返す。
ようやく我を取り戻したラグナは、坂道を上っていく従兄弟の背中を急いで追いかけた。
ラグナとウルスが選鉱場の二層目に足を踏み入れたのとほぼ同時に、大きな歓声が室内にこだました。忙しなく動き回る人々の足音とともに、担架だ、治療院へ、と勇んだ声が辺りを飛び交う。
広い部屋には、水力を利用した帯式運搬装置や作業台のほか、台車や貨車といった運搬具などが、あちこちに雑然と置かれていた。土埃舞う室内を、恐る恐る見回したラグナは、入り口から数丈先にある大きな作業台が、見るも無残にひしゃげてしまっていることに気がついた。まるで巨人に踏みつぶされたかのような残骸の向こうには、鉱車が鋼鉄の車輪を天井に向けて転がっている。辺り一面に散らばる廃石は、さながら崖崩れの現場のようで、被害に遭った者を救出した跡だろう、掘り返された廃石の隙間から、朱に染まった床が見えた。
「どいた、どいた!」と威勢の良い声とともに、担架を持った男達がラグナの傍らを走り抜けていった。ほんの一瞬、身体を硬くしたラグナだったが、彼らの瞳に希望の灯を見て、そっと肩の力を抜く。
治療院へと向かう担架を無言で見送ってから、ラグナはゆっくりと部屋の中央へと歩みを進めた。
人だかりに近づくにつれ、血なまぐさい、すえた臭いがきつくなってくる。
足元の床に、怪我人を引きずっていったと思しき跡が赤黒く残っているのを見て、ラグナはあらためて腹の底に力を入れた。このままこの場から立ち去ってしまおうか、と考えかけるも、自分にも何か手伝えることがあるのではないか、との思いが、彼の足を前へと運ばせる。
水の入った桶や敷布などを抱えた人々の輪の中に入り込んだ途端、吐き気を覚えるほどだった悪臭が一瞬にしてかき消えた。部屋中に舞い立っていたはずの砂埃も、空中を拭き清めでもしたかのように一切見受けられない。床の上に展開する凄惨な景色とは裏腹に、清々しい空気に満ち溢れた一角、その中心に師の姿を見て、ラグナはすぐに得心した。普段の生活ではあまり腕を振るわないが、ヘリストは王家に仕える儀仗魔術師だ。これは彼の仕業なのだろう。
「次は、こちらを」
ヘリストが落ち着いた声で語りかけた先には、ヤルヴェラがいた。手水鉢の水を取りかえに下がる女性に礼を言いつつ、両手を手巾で丁寧に拭っている。
「あまりにも出血が酷い箇所を魔術で少し焼きましたが、まだ……」
「分かりました。先ずはそこから取りかかりましょう」
ヘリストの傍ら、毛布の上に意識なく横たわるのは、ラグナの知らない年配の女性だった。右足が腿の部分まで酷く損傷し、残る三肢全てにも添え木が施されている。
鉱山付きの若い癒やし手が、ヤルヴェラに場所を譲ろうと立ち上がりかけて、そのままばたりと床に倒れ込んだ。恐らく、ヤルヴェラが来るまでの「繋ぎ」として、力を使い果たしてしまったのだろう。屈強な男衆がすかさず人の輪から飛び出してきて、倒れた癒やし手を担いでゆく。
入れ替わりに、ヤルヴェラが怪我人の傍に膝をついた。深呼吸ののち、指で空中に複雑な印を編み込みながら、厳かな声で詠唱を始める。
静まりかえる室内、どこかで誰かが小さくすすり泣いている。
長い祝詞を詠み終えたヤルヴェラが、両手でそっと患部を撫でた。その指先から、見えないちからが溢れ出すのが、術の素養のないラグナにもまざまざと感じられた。
印を結び、呪文を唱え、ちからを注ぐ。一連の動作を、ヤルヴェラは根気よく何度も繰り返した。そうこうしているうちに、土気色をしていた怪我人の皮膚に、少しずつ生気が戻ってくる。
「これで当面は大丈夫、かな」
大きく息をつくと、ヤルヴェラは汗で額に貼りついた巻き毛を掻き上げた。
再度、歓声が辺りの空気を震わせる。
二つ目の担架が運び出されたあとも、ヤルヴェラは休みなく施術を続けた。どの怪我人も、目を背けたくなるような有様であったが、優秀なる領主の癒やし手は、消えかけていた命の炎を、一つ一つ確実に熾していった。
最後の一人となった怪我人が、フェリアの母であることに気づき、ラグナは耐えきれずに視線を人の輪の外に逸らした。思いつく限りの全ての神々に、ただひたすら、どうか助けたまえ、と、祈る……祈り続ける。
五度目の歓声が、割れんばかりの拍手とともに湧き起こった。
人垣が割れ、最後の担架が運び出される。
担架の後についていたフェリアが、ラグナに気づいて足を止めた。
よかったな。ラグナはただそれだけを伝えたくて、フェリアの目をじっと見つめた。
まだ怪我が治癒したわけではなく、予断は決して許されないが、一先ず生命の危機は脱することができたのだ。ここから先は、治療院の医師や薬師がその力を充分に発揮してくれるだろう。
立ち止まったフェリアを残して、担架が運ばれていく。
よかったね、よく頑張ったね、と、入れ代わり立ち代わり周囲の人々が、フェリアをねぎらい肩を叩く。
その間も、ずっと、ラグナはフェリアを見つめ続けた。
そして、それはフェリアも同じだった。零れんばかりに涙をたたえた瞳が、真っ直ぐにラグナの目を、更にその奥をも射る……。
喜びに沸く空気を突き抜けて、ヘリストがヤルヴェラの名を呼ぶ声が聞こえた。
感謝の言葉とともに深々と頭を下げるヘリストの姿を見て、皆が次々と口をつぐみ始める。夜道をおして馳せ参じてくれた皆の命の恩人が、一体なんと応えるのか、と、固唾を呑んで見守りながら。
ヤルヴェラは、疲労の色濃い眼を一度二度としばたたかせたのち、にっこりと笑みを浮かべた。
「お顔をお上げください、ヘリスト様。今回、私の術が成功したのは、それまで皆さんが怪我人の命を繋いでくださったからです。皆さんの適切な処置がなければ、おそらく私は何の役にも立たなかったことでしょう」
と、そこで一度言葉を切って、それからヤルヴェラはラグナを振り返った。
「そして、王太子殿下が私を呼びに来てくださるのが、あと少し遅くても、私の仕事は無くなっていたでしょうね。危ないところでした」
ヤルヴェラの話が終わりきるのを待たずして、大歓声が選鉱場内を揺るがせた。
皆が一斉にラグナの傍に押し寄せる。感謝と歓喜の声が、雨のごとくラグナに降り注ぐ。ウルスが慌てて間に割って入るも、ラグナを庇うどころか、一緒にキスやハグを受ける羽目になっただけだ。
人々に揉みくちゃにされながら、ラグナは必死で首を巡らせた。
フェリアは、ラグナを取り囲む人の輪から少し離れたところに立っていた。
二人の目が合った次の瞬間、フェリアが、そっとはにかんだ。ほんの刹那、瞼を伏せたのち、再び真っ直ぐにラグナと視線を合わせてくる。
それから、フェリアは、ゆっくりと唇を動かした。「ありがとう」と。続けて、声なき声で、「ら、ぐ、な」と。
ラグナの心臓が、一際大きく跳ねあがった。
声にこそ出さなかったが、今、フェリアは、確かにラグナの名を呼んだ。あの、どこかよそよそしい「殿下」などという単なる敬称ではなく、はっきりと、「ラグナ」という名前を。
ラグナは、必死で身をよじった。フェリアの許へ行こうと、夢中で人混みをかき分けた。
ラグナが自分のほうへ来ようとしているのを見て、フェリアもまた駆け出した。頬をつたう涙を拭おうともせず、真っ直ぐにラグナに向かって。
「それにしても、酷い臭いだな、ここは」
突然響き渡った濁声が、皆の喜びに水を差した。
聞き覚えのある声に、ラグナは咄嗟に足を止め、入り口を振り返る。
ラグナの周囲に押し寄せていた人々も、一斉に黙り込み、そっとラグナから身を引く。
一同の視線の先には、眉をひそめ口元を手巾で覆った、ブローム公の姿があった。
「どうやら怪我人とやらは助かったみたいだな」
ヤルヴェラが、ブローム公には見えないように大きく溜め息をついた。そして、すぐに何事もなかったかのようなすまし顔に戻り、主人の前に進み出る。
「まだまだ油断はできませんが、皆さんのご協力あって、一応は命を繋ぐことができました」
ヤルヴェラの返答に、ブロームは更に眉間の皺を深くした。
「『ご協力』したのはお前のほうだろう。助けを求めてきたのはここなんだから」
ぐるりを見まわしたブローム公は、ラグナに目をとめるや、途端に目元を緩ませた。
「ラグナ様直々にお願いされなければ、ヤルヴェラを遣わすことなど考えもしませんでしたからな。お前達は、しっかりとラグナ様に感謝するように!」
と、ブローム公の背後から、なにやら騒がしい音が聞こえてきた。
「お待ちください」「危のうございます」との声とともに、複数の靴音が戸口をくぐってくる。ブローム公が慌てて後ろを振り向き、制止するように両手を振った。
「エリナは外で待っていなさい。危ないし、臭いし、お前が来るような場所じゃないよ」
「でも、お父様、殿下もそこにいらっしゃるのでしょう?」
艶やかな栗色の髪の少女が、軽やかな足取りでブローム公の傍にやってきた。教会の壁画に描かれた神の御使いが、絵から抜け出してきたかのような、華やかで愛くるしい姿に、皆は一様に息を呑む。
予想もしていなかった展開に、ラグナは硬直したまま目をしばたたかせた。エリナと呼ばれた娘の背後に、疲れきった表情で佇むサヴィネの姿を見て、辛うじて我を取り戻す。
エリナはつかつかとラグナの前までやってくると、ラグナの右手を両手でぎゅっと握りしめた。
「ラグナ様、ああ、なんてお優しいんでしょう。人助けのために、危険も顧みず我が城へ飛び込んでこられたお姿、本当に凛々しくてございましたわ。私、心を打たれてしまって、それで、こうやってお父様にお願いして、私もラグナ様のお手伝いに参ったのでございます」
ヘリストが、大儀そうにラグナ達の傍へとやって来る。
ラグナは、今こそはっきりと思い知った。何故ウルスがあんなにも頑なに、ラグナが領主に会いに行くのを止めたのかということを。そして、事態はもうラグナ一人の手におえるようなものではなくなってしまっている、ということも。
冷たい手で臓腑を鷲掴みにされたような感覚に襲われて、ラグナは勢いよく後ろを振り返った。
そこに居たはずのフェリアの姿は、もうどこにも無かった。
「とんでもないことをなさってくださいましたな」
一夜明けたルウケの館、扉を閉め切った書斎にて、ヘリストがこれ見よがしに溜め息をついた。
昨夜は、この館を訪れたがる領主親子を躱すために、ラグナ達は交代で仮眠をとりながら、夜通し怪我人の世話や事故の後始末を手伝った。最初のうちは「素晴らしい」「お優しい」と誉めそやしながらラグナに付きまとっていた領主達も、どうやら睡魔には勝てなかったようで、夜半過ぎには来た時と同じ馬車に乗って、すごすごと城へと帰っていった。また近いうちにお屋敷にお邪魔いたします、との言葉を残して。
「ブローム公爵に借りを作ることだけは、避けたかったのですがね。国内の勢力図を不用意に書き換えるわけには参りませんから」
苦々しげなヘリストの声に、ラグナは我慢しきれずに抗議の声をあげた。
「ならば、先生は、あのまま皆を見捨てればよかったとでも?」
「何事も、それぞれにはそれぞれの優先順位がある、ということです」
ヘリストは、ラグナの問いには直接答えずに、険しい眼差しを返してきた。
「もしも、怪我人の中にフェリア殿のご母堂が含まれていなかったら……、ラグナ様はどうされましたかな」
「勿論、やはり同じように、皆の命を助けようと……」
「ウルスに止められても?」
「……そうだ」
「サヴィネを探しに来たのがフェリア殿ではなくとも?」
「そ、それは……」
反論を試みたものの、すぐにラグナは言葉に詰まってしまった。そもそも、あの時フェリアが助けを求めてこなければ、おそらくラグナは、歯がゆい思いを抱えながらも、大人しくウルスとともにアンやサヴィネの帰りを待っていたに違いないからだ。
ラグナは、唇を噛んで、足元に視線を落とした。
ヘリストの溜め息が、ラグナの胸に突き刺さる。
「テア様のことがありますからな、どうしても軽くお考えになってしまうのでしょうが、陛下とテア様のご結婚も、本来なら許されるべきものではなかったのですよ」
穏やかならぬ単語を耳にし、ラグナは勢いよく顔を上げた。
「これまでも、爵位を持たぬ家の者と結ばれた王族がいなかったわけではありません。しかし、それらの方々は全員が王籍を離脱しておられます。身分の違いというものは、それほどまでに重いことなのです」
それでは、何故、現国王は平民との成婚後もまだ王位についていられるのか。そもそも、何故このような婚姻が成立できたのか。
ラグナの表情を読んだのだろう、ヘリストが静かに語り始めた。
「陛下のご結婚が、世の平均的な男性に比べて少々遅めであったということは、お分かりですな?」
小さく頷くラグナに、ヘリストは驚くべきことを口にした。
「もともと陛下は、生涯どなたともご結婚なさらぬおつもりだったのです」
テア様と巡り会われるまでは、と、付け加えて、ヘリストはそっと微笑んだ。
先々代の王の御代から、カラントという国は急速に発展し始めた。厳しく長い冬に痩せた土地、という不利な条件を補おうと、地道に積み上げてきた技術がようやく花開いたばかりか、その抜きんでた冶金技術が、大いに他国にもてはやされ始めたせいだった。
かくして、大陸の北の端に引っかかったような貧乏な小国は、豊かさと引き換えに牧歌的な生きざまを失うこととなった。それまで自らの領地経営に手一杯だった地方領主達は、こぞって他国と交易を行い、手に入れた富でおのれの勢力を拡大することに腐心した。現国王クラウスの代になる頃には、そうやって強大な力を持つに至った者どもが、伝統あるカラント王家をも呑み込まんとして、互いに牽制し合う状況となっていた。
「中でも、セルヴァント伯、ブローム公、ドゥリアス伯のお三方は、それはもう露骨に王妃様の座を狙っておられましてな。しかし、非常に残念なことに、どなたも到底陛下の御眼鏡に適える方ではあらせられなくて、それで、陛下は一計を案じられたのでございます」
このままでは、そう遠くない未来に、カラントという国はバラバラになってしまう。危機感を抱いたクラウス王は、妃の座を餌に対立する家々を上手く使い、各領主が有していた交易などの権利を王家の統制下に置こうとした。より激しくしのぎを削り合う貴族達をなんとかあしらいつつ、これまで慣習と不文律が埋めていた政策の穴を、少しずつ塞いでいこうとしたのだ。
そのような駆け引きを貴族達と行う一方で、クラウスは生涯独身を貫ぬく腹づもりでいた。自分を囮にして可能な限り貴族達の権力を削いだのちに、既に良縁を得ていたたった一人の弟に王位を譲ろうと考えていたのだという。
王妃の座を狙う者どもは、互いに苛烈に足を引っ張り合う一方で、一致団結して自分達の縁者以外の者がクラウスに近づくことを許さなかった。妃候補がこれ以上増えることがないように、彼らはクラウスの周囲から自分達に関わりの無い女をことごとく排除しようとしたのだ。尤も、誰とも結婚するつもりのなかったクラウスが相手では、彼らの努力は完全なる徒労であったわけだが。
そして、今から十九年前、運命は誰もが想像していなかったほうへと転がり始めることになる。
「陛下がヴァスティ鉱山を視察なさった際も、何人もの太鼓持ちが王都から随行していたのですがね、案内役の技師が女性とは思っていなかったようで、彼らはあっさりと陛下とテア様の出会いを許してしまったのです。しかも、彼らはあろうことか肝心の鉱山の見学を、退屈だと言って欠席したため、その結果、我々は非常に有意義な時間を過ごすことができました。
あの時、テア様は仰いました。私はこの国を愛していると。この町がこの町たりえるのも、私が私たりえるのも、カラントという国があってこそだと。不満なところが無いわけではないが、それは陛下がなんとかしてくださるのでしょう? と、そうテア様が微笑まれた時の陛下の御顔は、中々の見ものでしたぞ」
ヘリストの頬が、ふ、と緩む。普段あまり表情を面に出さない彼にしては、とても珍しいことだった。
「テア様は、実に聡明な方でした。この才能が埋もれてしまうのは惜しい、と、私は強く思いました。全てを失いかねない陛下のこの恋を、止めねばならぬ立場にもかかわらず、私は酷く悩みました。テア様が陛下を補佐してくだされば、陛下のお仕事は格段に楽になるに違いない。加えて、譲位の必要もなくなれば、陛下はより長い時間を国政のためにお使いになることができるだろう。我々側近の者がそう逡巡している時に、どこから聞きつけたかセルヴァント伯が、テア様を支持する、と申し出てきたのです」
セルヴァント伯爵とは、先ほどもヘリストの話に登場した、ブローム公爵をしのぐ力を持つ臣民爵位筆頭の家系である。
「セルヴァント家とのしがらみが増えることになるとはいえ、直接セルヴァント家と姻族になるわけではない。それよりも、テア様を王家にお迎えできる利点のほうが大きい、と、我々は考えました。そうして、陛下は、晴れてテア様にご結婚の申し込みをされたのです」
ならば自分だって、と、即座にラグナは考えた。確かに母は博識な上に頭が良い。だが、フェリアだって捨てたものではないだろう。少なくとも、これまで王都で会った同年代の娘達の誰よりも、フェリアのほうがずっと知的で、教養豊かだった。あんな、服装と食べ物と他人の噂話にしか興味を示さない連中なんかよりも、ずっと。
ラグナの考えなどお見通しと言わんばかりに、ヘリストがすっと目を細めた。
「平民との結婚という暴挙に出られた陛下が、今なお王の座に留まることがお出来になっているのは、セルヴァント伯の後ろ盾のおかげもありますが、何よりも、テア様の並々ならぬ才覚のおかげです。どこの馬の骨とも知れぬ町女が妃の座に相応しいわけがない、と、どんなに熾烈な無理難題が、どれほどテア様に投げかけられたか……」
師の声は、これまで聞いたこともないほど暗かった。冷たさを増した眼差しが、ラグナの幼稚な幻想を、完膚なきまでにへし潰す。
ラグナは、言葉も無く、ただ黙って話の続きを待ち続けた。
「テア様は気丈なお方ですが、ご懐妊なさってからは、諸々がお身体に障らないよう、しばらくの間ご公務をお休みいただくことになりました。このルウケの館が建てられたのは、その時です。故郷の近くに、息を抜ける場所を、との陛下のご配慮でした。
そのあとのことは、ラグナ様もよくご存じでしょう」
そしてヘリストは教師の顔に戻ると、「いいですか」と、ラグナの目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「ラグナ様がフェリア殿をお求めになるということの意味を、今一度よくお考えください。我々と同じ業を、お二人が背負う必要が、本当にあるのでしょうか」
その瞬間ヘリストの瞳に浮かび上がったのは、紛れもない苦悩の色だった。彼が今「我々」と言ったように、彼自身もまた、国王夫妻の結婚に対して多大なる責任を感じ続けているのだろう。国のため、王家のために、本来なんの義務も負わないはずの一人の女性に、苦難を強いているということに対して。
しかし、テアは自らの意に沿わぬことに、唯々諾々と従うような人間ではない。ならば、彼女は自分でこの道を選んだのだろう。尊敬する王と、愛する国のために、全てを覚悟して、茨の道に足を踏み入れたのだ。
ラグナは、フェリアのことを考えた。昨夜、選鉱場で、確かにフェリアはラグナの声なき呼びかけに答えてくれた。そればかりか、ラグナのもとへ駆け寄ろうとすらしてくれた。
子供の頃から変わらぬ短い髪をなびかせ、屈託なく笑うフェリア。彼女に理不尽な苦しみを科すようなことはしたくない。そう思う一方で、都合のいい考えもラグナの頭をよぎる。平民との結婚が王家にとって御法度だったとしても、現国王夫妻という成功例が目の前に存在している以上、諸々の風当たりは以前よりもやわらいでいるのではないだろうか、などという身勝手で楽観的な考えが。
物思いにふけるラグナを、ヘリストの冷静な声が現実に引き戻す。
「さて、お小言はこれぐらいにして、ラグナ様、出立のご用意をなさってください。準備でき次第、王都へ帰ります。ぐずぐずしていると、ブローム公がご息女と押しかけてこられるでしょうからな」
あまりにも急な話に、ラグナは思わずヘリストに食ってかかっていた。
「何故だ。適当な理由をつけて、またヴァスティにでも避難すればすむことだろう」
「ブローム公が足繁くラグナ様のもとにやってくる、ということ自体が問題なのです」
溜め息一つ、ヘリストの声音が僅かに低くなった。
「先ほども申し上げたとおり、テア様の一件で、我々はセルヴァント伯に大きな借りを作りました。ですが、なんとしても政でその借りを返すわけにはまいりません。となれば、他の部分でできる限り伯の不興を買わぬように動くしかないのです」
その言葉の裏に潜むものに気づいて、ラグナの奥歯に力が入る。
「逆に、もしも押しかけてくるのがセルヴァント家の者だったならば……、黙って受け入れろ、と言うつもりか」
重苦しい沈黙が、しばし辺りを支配した。
「幸い、今のところセルヴァント伯がラグナ様に縁談を持ち込んでこられる様子はありませんが……」
一瞬、ヘリストの瞳が不安げに揺れた。だが、すぐに彼は小さく首を横に振ると、静かに踵を返す。
「お忘れ物のないようにご注意ください。ここへは当分の間、来られませんから」
その言葉どおり、王都に帰ったラグナがその後一度もルウケの館を訪れぬうちに、夏が終わった。
秋が過ぎ、冬を越し、やがて春がやってくる――。
ようやく緩み始めた風が、野の花と楽しそうに語らっている。天高く舞うひばりの歓喜の歌を聞きながら、ラグナは、実に八か月ぶりに従兄弟の家の前に立った。
ラグナがこんなにも長い期間ヴァスティから離れていたのは、初めてのことだった。ラグナが通う王立学校には、王都に住まう有力者の子弟以外に、地方貴族や郷士の子弟も多く在籍している。普段寮生活を送る彼らが庄の繁忙期に国元に帰り易いよう、季節折々に十日ほどの休日が用意されており、ラグナは、今までそれらの休暇を全て「里帰り」につぎ込んでいたのだった。
八か月の間に、ウルス達に何か変わったことはなかっただろうか。余程の出来事なれば、なにかしらの知らせが王都に届けられるであろうが、それにあたわぬと判断されてしまった事柄は、遠方のラグナには到底窺い知ることはできない。えもいわれぬ不安を振り払うように、大きく深呼吸をしてから、ラグナは呼び鈴に手を伸ばした。
懐かしい鈴の音に続いて、ぱたぱたと軽い足音が廊下を近づいてくるのが聞こえる。アン叔母の、あの勢いのある抱擁に備えて両足に力を込めたラグナだったが、扉があいた瞬間、まばたきをすることすら忘れて、その場に立ちつくした。
扉の向こうに立っていたのは、フェリアだった。肩まで伸びた胡桃色の髪を、ふんわりと風に揺らしながら、「お久しぶりです、殿下」と頭を下げる。
「あ、ああ。久しぶりだな」
辛うじて一言を返したものの、ラグナは動揺を隠すこともできず、ただ茫然とフェリアを見つめた。彼女の髪が伸びていることにも驚いたが、それより何より、何故、今、彼女がウルスの家にいるのか、という疑問が、ラグナから言葉を奪い取る。
「殿下が来られましたよー」
フェリアが背後に向かって声を投げれば、すぐに奥からアンの声が応答した。
「すまないねえ、今、ちょっと手が離せないんだよ。ラグナ、入っておいで」
錆びついてしまったような足を必死で動かして、ラグナはアンの言葉に従った。サヴィネとフェリアが、八カ月前と何ら変わらぬ調子で挨拶を交わしているのを、背中で聞きながら。
「サヴィネさんも、お久しぶりです」
「ご無沙汰しております。フェリアさん、髪の毛、伸ばされたんですね。とてもよくお似合いですよ」
「ありがとうございます。いつまでも子供みたいな恰好をしてるのも変かな、って、思って……」
ラグナは、落ち着かない気持ちを胸に抱えたまま、とりあえず外套を壁の帽子掛けに引っかけた。そうして、ゆっくりと室内を見まわす。
戸棚、箪笥、壁掛け、カーテン、食卓、そして椅子の数。全てが、まるで時が止まっていたかのように八カ月前のあの夕べと同じだった。なのに――
「お帰り! ラグナ!」
エプロン姿のアンが、台所から出てくるなり、ラグナを抱きしめた。途端に、肉料理の美味しそうな匂いがラグナを包み込む。
ラグナの腹がぐうと鳴くのを聞き、アンが楽しそうに声をあげて笑った。
つられてラグナも、思わず小さく笑い声を漏らす。
「ただいま」
「随分久しぶりだねえ。選鉱場の事故以来だから、八か月ぶりかな」
アンはラグナを解放すると、「元気そうでなによりだ」と目を細めた。
「あの時は、本当に、色々とありがとうね。おかげさまで、全員、無事怪我も治ってね。今日、あんた達がうちに来るって聞いて、あの時世話になった皆が、でっかい鵞鳥を差し入れてくれてねえ。今日のご飯はびっくりするぐらいに豪勢だよ」
それは楽しみだ、と、微笑んでから、ラグナは当たり障りのない問いをまず口にした。
「叔父さんとウルスは?」
「二人ともまだ仕事だよ。一応、今日は早めに帰ってくるって言ってたけど」
続けてラグナは、心持ち緊張しながら、一番知りたかったことを口にする。
「フェリアは、今日はどうしてここに?」
アンと入れ替わりに台所へ入っていたフェリアが、オーブン用の手袋を両手に嵌めたまま食堂へ戻って来た。
「今日はたまたま仕事がお休みだったから、『でっかい鵞鳥』のお届け係を拝命したの」
「ついでに色々手伝ってもらっちゃってね。ありがとうね、フェリアちゃん」
「殿下は母の命の恩人ですもん、いくらでもお手伝いしますよ」
フェリアがにっこりと笑った瞬間、部屋が明るさを増したような気がした。ラグナは何も言うことができずに、ただじっとフェリアを見つめる。
ラグナとフェリアの視線が重なり合い、そして、行き違った。フェリアがそっと目を伏せたのだ。
「あの時は、本当にありがとうございました」
「お前の力になれたこと、嬉しく思う」
思った以上に声に熱が入ってしまったことを自覚して、ラグナは密かに動揺した。だが、それ以上にフェリアのほうが、うろたえた様子で顔を上げた。
フェリアの瞳が、一瞬、揺れる。
次の瞬間、「ただいま」と静かな声がして、二人は同時に玄関のあるほうを振り返った。
「おかえり、ウルス」
フェリアが、髪をふわりと揺らしてウルスに微笑みかけた。と、自分の手にオーブン用の手袋がまだあることに気がついて、「いっけない」とアンに返しに台所へ向かう。
ウルスは、外套を着たまま、ラグナの目の前――先ほどまでフェリアが立っていたところにやってきた。
「相変わらず、早めだね。来るの」
「暇な学生で悪かったな、技師先生」
先生、という響きに、ウルスが面食らった表情になる。
ここぞとばかりに、ラグナはにやりと笑ってみせた。
「ヘリスト先生に聞いたぞ。帯式運搬装置の改良版、お前の案が通ったそうじゃないか」
ラグナが、感嘆を込めて「流石だな」と言葉を継げば、ウルスが照れくさそうに顔を背けた。
「先輩のお手伝いで、なんだけどね」
それからウルスは、あらためてラグナと目を合わせると、「久しぶり」と笑った。
「まあ、聞いてくださいよ、サヴィネさん」
六人掛けの食卓の端、ウルスの父ヨルマが、蒸留酒片手に真っ赤な顔で右隣のサヴィネに語りかけている。妻であるアンに対しての、愚痴で始まって惚気に終わる、サヴィネでなくとも相槌に困る内容だ。
サヴィネの右側にはフェリアが座り、向かいの席のアンと楽しそうに語らいながら料理をつついていた。一緒に夕食を食べていったら、とのアンの誘いを、一度は断ったフェリアだったが、「フェリアちゃんにも、この『でっかい鵞鳥』を食べる権利がある」とアンが押し切った結果、彼女も一緒に食卓を囲むことになったのだ。
酔っ払い相手に四苦八苦するサヴィネを正面に見ながら、ラグナが美味しい食事と賑やかな空気を存分に味わっていると、右手に座るウルスが、ぼそりと口を開いた。
「一週間ほどいるんだって?」
ラグナの今回の滞在は、ブローム公爵が家族揃って旅行に出かけたことによって、ようやく実現したのだ。
「ああ。でも、今回は先生の講義は無しだ」
ブローム公を不必要に刺激することはあるまい、との、ヘリストの判断には、ウルスも異議がないようだった。「仕方ないね」と、心持ち寂しそうに頷く。
「すまないな。夏には諸々が落ち着いておればいいのだが」
「どうだろうね」
ウルスの目には、既に諦めの色が浮かび上がっていた。貴族達が水面下で繰り広げている権力争いについて、充分に理解しているのだろう。そればかりか、カラントを取り巻く国々の情勢についても、彼は正確に把握しているのかもしれない。そうラグナは思った。
何しろウルスは、ヴァスティにおいてはヘリストの一番弟子ともいうべき存在だ。生真面目で優秀なことに加えて、この口堅さである。本来なら表に出せない情報でも、王太子の傍に控える際に必要だとなれば、師は躊躇わずにウルスに耳打ちするに違いない。
だが、それは、地方の鉱山で技師として生きようという男にとっては、背負うに重すぎる荷ではないだろうか。
ラグナは、唇を引き結んで、隣に座るウルスを見やった。
ウルスは、じっと黙ったまま、鵞鳥の肉をフォークでつついている。
それにしても、と、ラグナは、正面右手でサヴィネに絡み続けているヨルマをあらためて見つめた。それから、自分の左側でフェリアと歓談しているアンを見た。口数だけで考えれば、ウルスがこの二人の子供だとはとても信じられない。
ラグナの視線に気づいたアンが、早速そのお喋りの矛先をラグナに向けてきた。
「そういや、姉ちゃんは元気かい? 最近忙しいみたいで、手紙もめっきり減っちゃったからねえ。こっちから出すのも、ちょっと気が引けるというか……。まあ、姉ちゃんぐらいに有名人になると、他から消息が伝わってはくるけど。どう、機嫌よくやってる?」
「機嫌は……どうかな。好きな本を読む時間が無い、ってぼやいていたが」
ラグナの返答を聞き、アンが何度も小刻みに頷いた。
「ああ、それ、前に手紙に書いてたわ。忙しくて本は読めないけど、仕事の合間に陛下が今までに読んだ本の話をしてくださるから楽しい、って。いつまでも仲良くていいわよねえ」
そう言って、ちらりと非難めいた眼差しを、向こう角の酔っ払いに投げる。
「まあ、機嫌よくやってるんだったらいいんだけど。ほら、なんか今度、南から怖ーい人が来るらしいじゃない。姉ちゃんもだけど、陛下大丈夫かな、って、皆心配してるんだよ」
去年の夏の終わりのことだ。南の帝国が、陸づたいに内海を越えて、カラントの南隣の小国ブラムトゥスに侵出してきた。海賊退治の要請を受けて、との言い分どおり、帝国軍は海岸沿いを荒らしまわっていた海の民を速やかに追い払い……、そして、何故かそれ以降も当然の顔でブラムトゥスに居座り続けた。
この十数年の間に、帝国はじわじわとその勢力範囲を広げてきていたが、カラントを始めとする内海北岸の国々にとっては、文字通り対岸の火事でしかなかった。それゆえ、突然喉元に突き付けられた刃に、北岸の国々は大いに慌て、今更のように対応策を探り始めた。
温室育ちのこわっぱなんざ、さっさと南岸に追い払ってしまえ、と息巻く国が多い中、カラント議会が選んだのは現状維持だった。帝国がこれ以上兵を進めてこないならば、ブラムトゥスのことは不問にする、との声明を、議長であるセルヴァント伯の音頭で、声高らかに発表した。そうして、それを受けて、この秋に帝国とカラントとで平和会談が行われることが決定したのだ。
「怖い人、って、マクダレン帝国皇帝の弟君ね」
と、ウルスが冷静に訂正を入れる。
「兄君と違って温厚な方だと聞いている。ブラムトゥス遠征にも批判的だったとか。だから、皆が気に病むようなことなどない」
敢えて力強い口調を意識してラグナは言った。
それを聞いたヨルマが、「ほら、陛下なら大丈夫だ、って、俺ぁ言っただろ?」と得意そうに胸を張る。
「しっかし、あったかい国の連中が、何を好き好んで、わざわざこんな寒いところにやってくるのかね。俺にはさっぱり分からんねえ」
少し大げさに首をかしげたのち、ヨルマは一息にカップを空にした。
「それはともかく、サヴィネさんよ、一口ぐらい飲まんかね」
「あ、いえ、お料理だけで、もう、お腹がいっぱいで……」
「俺ばっかり飲んでばっかりで、なんだか申し訳なくてな……」
そう言いつつ、ヨルマは躊躇いのない手つきで蒸留酒の瓶を掴み、自分のカップの上で傾けた。
ぽつり、と、琥珀色の雫が一滴だけ、カップの中へと落下していく。
片目をつむり瓶の中を覗き込むヨルマを見て、フェリアが腰を浮かせた。アンのほうへ身を乗り出して、小声で囁く。
「何か飲み物、取ってきましょうか」
「いいのいいの。欲しけりゃ自分で取りに行く、ってのが我が家のやり方だからね。フェリアちゃんは落ち着いてお食べ」
「でも、それだと、おじさん、また蒸留酒をお替わりするんじゃないかな。うちも、父に任せておくと、ずーっとお酒ばっかり飲んでるから」
「そうねえ、そろそろやめさせたほうがいいかねえ」
ひそひそと行われた秘密会議ののち、フェリアは台所へ行くと、水差しを持って戻ってきた。
「サヴィネさん、麦湯はいかがですか? あ、おじさんにも入れますね」
フェリアは、にこやかにサヴィネに声をかけつつ、まずヨルマのカップに問答無用に麦湯を注いだ。
サヴィネが、助かった、と言わんばかりの表情でフェリアを見上げる。ヨルマも、思いもかけない給仕を受けて、すっかり上機嫌だ。
「フェリアちゃんがうちにお嫁に来てくれたらいいのになあ」
ヨルマの暢気な声が、食卓の空気を大きく揺らした。
サヴィネに麦湯を注いでいたフェリアの手が、止まる。
ラグナは、知らず息を詰めて、皆の出方を窺った。
「父さん、飲み過ぎてるんじゃない」
刺々しいウルスの声が、辺りに響き渡った。
フェリアが、麦湯をつぎおえたカップを、サヴィネに渡す。無言で。
「けどさあ、最近、お前達よく一緒にいるじゃないか。二人とも、もうイイ歳なんだし……」
今度は息子に絡み始めるヨルマだったが、当のウルスはけんもほろろ、父親のほうを一瞥すらしない。
「僕が選鉱場に行くのは、運搬装置の仕事があるからだ。フェリアは、お母さんが心配だからだろ」
あまりにも冷たいウルスの物言いを聞くに聞きかねたか、アンがわざとらしく溜め息をついた。
「まったく、この子は、本っ当に愛想ってもんがないんだから」
「事実を述べたまでだよ」
ウルスの声はあくまでも平坦で、ラグナはひとまずほっと胸を撫で下ろした。だが、その一方で、言葉にできない違和感が、じわりと足元から這い上がってくる。何か、靴の上を甲虫が這っているかのような、不吉な気配が。
ラグナは、ウルスの横顔をそっと盗み見た。
ウルスは、ただ黙って、麦酒の入ったカップを呷った。
賑やかな食事が終わり、ラグナはウルスの家を辞した。
月の光が静かに辺りに降り積もる。馬を取りに行ったサヴィネをウルスとともに玄関先で待ちながら、ラグナは東の空を見上げた。
「素晴らしい満月だな」
知らず感嘆の声がラグナの口をついて出る。同時に、去年の夏のあの暗い道行きが思い出されて、ラグナはつい苦笑を浮かべた。これぐらい明るければ、楽だったんだがな、と、胸の内でこっそり呟く。
「でも、所詮、月は月だ。太陽が登れば、姿を消すしかない」
そう言ったウルスの声は、とても冷たかった。
ラグナは黙って話の続きを待った。
ウルスは、じっと満月を見つめたまま、一音一音を噛みしめるようにして、囁く。
「なのに、月は、太陽が存在しなければ、光ることもできないんだ……」
ラグナも再び月を見上げた。夜空に金の光をぼんやりと振り撒く、天の円盾を。
「そうはいっても、夜の世界にとってはかけがえのない存在だ。闇に潜む悪しきものどもから、我々を守ってくれるのだからな」
ウルスが自分のほうを向いたのが、ラグナには分かった。ラグナは、真っ向からその視線を受け止める。
「それに、とても美しいじゃないか」
ウルスが、何か言いかけて、口をつぐむ。
その時、二人のすぐ横で玄関扉があき、籠を下げたフェリアが姿を現した。
奥から、酔いつぶれたヨルマを介抱するアンの声が微かに聞こえてくる。
フェリアは、にっこり笑うと、大きな籠をラグナに差し出した。
「はい、これ、ヘリスト先生にお土産」
「『でっかい鵞鳥』か」
「そう。皆からの『でっかい』感謝の気持ちよ」
あの時は、先生にも本当にお世話になったから。そう微笑むフェリアに、冷ややかな声が投げかけられた。
「フェリア」足元に視線を落として、ウルスは言葉を継いだ。「今日は随分とご機嫌だったね」
フェリアが、そっと眉をひそめる。
「何が言いたいの? ウルス」
「別に、何も」
しばしの沈黙ののち、フェリアが大きな溜め息をついた。
「ねえ、何を怒ってるの?」
「怒ってなんかいない」
「嘘。絶対怒ってる」
「『絶対』って、どうして君に僕の気持ちが分かるのさ」
二人の会話を聞いていて、ラグナはもう少しで舌打ちをしそうになった。思わせぶりに話題を振っておきながら、その意図を一向に明確にさせないウルスの態度に、ただ苛立たしさだけが募ってゆく。
ラグナがいよいよ堪忍袋の緒を切ってしまいそうになった時、道の向こうから馬の足音が近づいてきた。
淡い月影に、馬を曳いてきたサヴィネの姿が浮かび上がる。
と、突然、サヴィネが上ずった声をあげた。
「ラグナ様!」
サヴィネの指さす方角を、ラグナ達は一斉に振り向いた。
ウクシ山の中腹に、赤く揺らめく炎が見える。
「火事、か?」
まだ半鐘は鳴っていない。半信半疑なラグナの声を、フェリアの悲鳴がかき消した。
「あそこ……託児院だわ」
そう呟くなり、フェリアは後も見ずに駆け出していった。
がなり始めた半鐘の音に追い立てられるようにして、ラグナ達は坂を駆け上がった。地を蹴るごとに手足は重くなり、心の臓がますます早鐘を打つ。息をするたびに軋む胸を気力でもたせ、彼らは死に物狂いで走り続けた。
冬を名残惜しむ夜風の中、全身汗だくになって教会の角を曲がれば、少し開けた広場の向こう、うねり逆巻く火焔が一同を出迎えた。見慣れた二階建ての建物が、向かって右の側面を炎に呑まれ、ごうごうと悲鳴を上げている。すぐ横に立つトウヒの葉が、風に煽られるたびにちりちりと火花を散らしていた。
半鐘を聞いて駆けつけたのだろう、広場には、水桶を持った近所の人々が集まってきていた。坂を少しだけくだったところにある溜め池から水を運ぶべく、炎に向かって一列に並んでゆく。ラグナ達が列に加わるのとほぼ同時に、水の入った桶が、広場へと順に送られてきた。
「フェリア、ああ、フェリア!」
しわがれた声とともに、小柄な老婆が彼らのもとへ駆け寄ってきた。名を呼ばれたフェリアは、両隣のラグナとウルスに断りを入れて、水桶を送る列から外れる。
「院長先生! 子供達は?」
「大丈夫、皆、ここにいるよ」
その言葉を裏付けるかのように、少し離れた植え込みの陰から小さな影が幾つも飛び出してきた。皆、一様にべそをかきながら、託児院院長とフェリアの周りを取り囲む。
「泊まりの子供達を、リンと一緒に寝かしつけておったら、一階から火が出てね。どうやら厠に行こうと勝手に布団を抜け出したダニーが、火のついたランプを落としてしまったらしくてね」
そこで一旦言葉を切って、院長は憔悴しきった面を伏せた。
「さっさと助けを呼べばいいものを、一人で火を消そうとしたのか、わしらが気がついた時には、もうどうしようもなくてね……」
「ダニーは無事なんですか?」
「廊下の途中で倒れておったが、どうやらそのおかげで煙をさほど吸わずに済んだようでね。今さっき、リンが治療院に連れていってくれたよ。手足のあちこちに酷い火傷をこさえておってね……可哀そうに……」
院長が嗚咽を漏らし始めるのを聞いて、子供達の泣き声も大きくなる。と、その時、広場の入り口辺りから子供の名前を呼ぶ声が幾つも聞こえてきて、フェリアはホッと胸を撫で下ろした。
「みんな、お家の人が迎えにきてくれたよ」
子供達は、自分の迎えを見つけるや、一目散に駆け出していった。先ほどまでの悲しみや恐怖の発露とは違う、安堵の泣き声が皆の胸を打つ。
だが、穏やかなひとときは、甲高い女の声によってあっけなく引き裂かれた。
「エミル! エミルはどこ?」
若い母親が、半狂乱になって我が子を探し回っている。
院長が、愕然と目を見開いて、燃え盛る建物を振り返った
「エミル……、そうだ、エミルを見とらん……」
「どういうことですか」
フェリアの声が、震えている。院長は、まるで独り言のように、訥々と口を開いた。
「煙が上がってきて、布団に入っとった子は間違いなく全員避難させたんだ……そう、間違いなく全員。だが、エミルはおらんかった……」
「もしや、エミルもダニーと一緒に?」
「だから、ダニーは自分一人でなんとかしようとしたのか……お兄ちゃんぶって……」
こりゃあ、ランプをひっくり返したのはダニーじゃないかもしれんな。そう院長が唇を噛む。
「ダニーの傍にエミルはいなかったんですね?」
「ああ」
「じゃあ、あの子、隠れてるわ、きっと。怖くなって」
「なんてこった……!」
その場に崩れ落ちる院長を残して、フェリアは素早く踵を返した。水桶を送る人の列に駆け戻るなり、ウルスの手から水の入った桶をもぎ取る。
ウルスはもとより、ラグナもあっけにとられて見守る中、フェリアは頭から水をかぶると、炎なめる建物へと駆け出していった。
「ま、待て、フェリア! 俺が!」
一拍遅れて、ラグナは我を取り戻した。フェリアを止めるべく、彼女のあとを追う。
だが、三歩も進まないうちに、ウルスがラグナを羽交い絞めにした。
「列に戻るんだ、ラグナ。僕達の仕事は、彼女のために火勢を少しでも弱めることだ」
「ふざけるな! お前、彼女を行かせて平気なのか!」
腹の底からウルスを怒鳴りつけるも、拘束は全く緩まなかった。なんとかしてこの腕を振りほどこうと、ラグナは必死で身をよじる。
その間に、フェリアは、あけ放されていた玄関扉から建物の中へと姿を消した。
冷たい手が、ラグナの腹を割り、臓腑を鷲掴みにする。とどめを刺すのは、耳元を震わせる冷徹な声。
「今ここにいる誰よりも、彼女が、子供達の行動様式を知っている。この建物の構造についても、だ。僕達じゃあ、足手まといになるだけだ」
「しかし!」
それでも足掻かずにはおられなくて、ラグナは肩越しにウルスを振り返った。この、腹立たしいほどに冷静な従兄弟を、正面切って威喝せん、と胸一杯に息を吸い込む。
次の瞬間、ラグナは、言うべき言葉を見失ってしまっていた。
そこにあったのは、ウルスの、恐ろしいまでの苦悶に歪む顔だった。
「いいか、ラグナ。彼女は、つまらない英雄主義に酔いしれるために行ったんじゃない。盲目的な献身欲を満たすためでもない。子供を、助けるために、行ったんだ!」
ウルスが言葉を吐くたびに、鮮血が辺りに飛び散るようだった。
ラグナは、茫然とウルスを見つめた。普段の彼からは想像もできない形相に、驚きとともに胸騒ぎを覚える。まさか、と。まさか、ウルスは――
ラグナが大人しくなったのを見て、ウルスが縛めを解いた。
ラグナは、無言で、燃える建物を振り返った。今、水桶の列に戻っても、つつがない進行を邪魔することになるだけだと思ったからだ。おそらくウルスも同じことを考えたのだろう。ラグナのすぐ横に立つと、思い詰めたような表情で、じっと炎を注視している。
建物は、既に三分の一近くが火焔に呑まれている状態だった。フェリアが飛び込んでいった玄関の付近はまだ炎に包まれてはいないが、建物内部がどうなっているかは分からない。有毒な煙だって充満していることだろう。ラグナは手のひらに思いきり爪を立ててこぶしを握りしめた。その間も、炎は容赦なく逆巻き、熱気がうねり寄せ、灰が降りしきる。人々の掛け声と、水をかける音の、なんと頼りないことか。
絶望に耐えかねたか、託児院の院長が泣き崩れた、その時、風に押し戻されて半分閉まりかけていた玄関扉が、派手な音を立てて蹴破られた。
子供を抱えたフェリアが、建物から転がり出てくる。
水桶を持った男が二人、すかさず飛び出してきて、フェリアと子供の身体を冷やす。空になった水桶を列に向かって放り捨て、二人を建物から離れたところへ運んでいこうとする。
フェリアが自分の足で立ち上がったのを見て、居並ぶ面々から大歓声が湧き上がった。
ラグナも、歓声を上げた一人だった。感極まり、フェリアのもとへ駆け寄ろうとして……、視界の端に異変を捉えて、ラグナは驚いて振り向いた。
ウルスが、すっかり気の抜けた表情で、地面に膝をついていた。ラグナの視線にも気がつかない様子で、呆とフェリアを見つめている。
やがて、ウルスはぺたりと地面にへたり込むと、両手で頭を抱え込んだ。
「良かった……!」
それは、囁くような小さな声だった。だが、何よりも雄弁に彼の心を表していた。
ラグナは、ウルスを見下ろしながら、身動き一つできずにいた。
八か月前の選鉱場での事故にて、怪我人が命をとりとめていくたびに沸きかえる室内で、一人冷静な顔でラグナの傍に控えていたウルス。最後の一人も助かり、皆が熱狂してラグナのもとに押し寄せてきた際も、ラグナを守ろうといち早く前に飛び出してきたウルス。
いつも冷静沈着な彼が、ここまで感情をあらわにするさまを見るのは、ラグナにとって初めてのことだった。
そして、先刻の夕食の席での、ウルスらしからぬ拗ねたようなあの態度。
――まさか、ではない。間違いなく、ウルスもまた、フェリアのことが好きなのだ。
「エミル! ああ、エミル!」
早速子供を胸に抱いた母親に、フェリアが落ち着いた声で指示を出す。
「少し煙を吸ったみたいなので、早く治療院へ」
「はい!」
弱々しく咳き込む子供を抱えて、母親が駆け出していく。ほどなく「エステラ先生が教会前にいるよ」と声がかかり、母親は感謝の言葉とともにそちらへ向かった。鉱山付きの癒やし手が、助けに来てくれたのだ。
「ああ、フェリア、よくやってくれたね! ありがとうね!」
託児院の院長が、フェリアの足元に泣き崩れた。慌ててフェリアが身を屈めて院長を助け起こす。
喜びの涙にむせびながらも、院長がついと眉根を寄せた。
「可哀そうに、怪我をしているじゃないか」
「あ、これは、最後の最後で、火のついた木切れか何かが飛んできたから……。でも、上手く避けたでしょ」
よく見れば、フェリアの左頬には、親指の太さほどの擦り傷があった。熱風に晒されたせいだろう、袖まくりをした腕や手は全体的に赤みがかり、手の甲には真っ赤に腫れた火傷も見える。
院長は、いたわしそうにそっとフェリアの髪に手をやり、すまなかったね、と唇を噛んだ。
「折角伸ばした髪も……可哀そうに」
左頬を傷つけた木切れとやらの仕業だろう、フェリアの髪は、丁度耳の横から肩にかかる部分の毛先が、熱でちりちりになってしまっていた。
「これは……切るしかないかねえ……」
院長の言葉を聞き、フェリアの表情が一瞬固まった。
ふと気配を感じてラグナが横を見ると、いつの間に立ち上がっていたのか、ウルスがじっとフェリアを見つめていた。眉間に微かに皺を刻み、唇を軽く噛みながら。
皆の懸命な努力の甲斐あって、火勢は随分弱まってきたものの、消火活動はまだまだ続く。水を汲む者、それを運ぶ者、炎に撒く者、そして空になった水桶を戻す者。交代で休憩をとりながら、人々はひっきりなしに動き続けた。
最初のうちは、ラグナ達はひとところに固まって消火作業を手伝っていた。人員が入れ替わるほどに、いつしか皆、散り散りになってしまい、今はサヴィネは最前線で水を撒き、ウルスはラグナよりも少し炎に近いところで、黙々と水桶を前へ送っている。
ラグナは、両脇の人に「少し休む」と言い置いて、水桶の列を抜けた。
炎が収まるにつれ夜が深くなる広場を、真っ直ぐ教会のほうへ向かう。
「先手を打て」と、内なる声がラグナに囁いていた。相手は、この自分よりも、圧倒的に有利な立場にいる。先手を打たなければ、勝てないぞ、と。
心の隅に僅かに残る罪悪感を払い落とすように、ラグナはゆるりと頭を振った。更に歩調を速めて、教会の前に出る。
礼拝堂の入り口のところで、フェリアが火傷の手当てを受けていた。石段に腰かけたフェリアの左手に、助祭が薬を塗っている。
包帯を巻き終えるのを待って、ラグナはフェリアの名を呼んだ。
フェリアが、ほんの微かに柳眉を寄せた。
ラグナは、ひとけの無い礼拝堂の裏手へとフェリアを誘った。
建物の向こう側から、広場の喧騒が漏れ聞こえてきて、ラグナはきつく唇を引き結んだ。この非常時にお前は一体何をやっているんだ、との声が、ラグナの中で大きくなる。だが、彼は、躊躇いを一思いに奥歯で噛み砕くと、勢いよくフェリアを振り返った。
冴え冴えとした月明かり降りしきる中、フェリアがもの問いたげに首をかしげる。
「話って、何?」
単刀直入に切り出されて、ラグナは内心狼狽した。早鐘を打ち始めた心臓を落ち着かせるべく、そっと呼吸を整える。
「怪我は、大丈夫か?」
「痛くないわけじゃないけど、これぐらい大したことないわ」
「そうか」
ラグナは、フェリアの手に巻かれた包帯に目を落とした。
「まさか、燃えている建物の中に飛び込んでいくとは……」
「間取りを考えたら、まだなんとかなるかな、と思ったのよ。玄関も、あの子が隠れてそうなところも、火元の食堂から離れていたし」
「そうは言っても、建物内部がどんな状態かなんて、外から見ただけでは分からないだろう」
先刻の、あの胸を締めつけられるような焦慮を思い返し、ラグナは一旦息をついた。それから、静かに言葉を継ぐ。
「本当に、心配したんだぞ……」
「ごめんなさい」
フェリアが、申し訳なさそうに頭を垂れた。
山からの風が、辺りに漂う焼け焦げた臭いを、ほんの刹那、吹き払う。
ラグナは、腹を括った。胸一杯に息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。
「好きだ」
フェリアが顔を上げた。
驚きに見開かれた彼女の眼を、ラグナの視線が突き通す。
「フェリア、俺はお前のことが好きだ。これからも、お前とずっと一緒にいたい」
一音一音に想いを込めて、ラグナは言いきった。
フェリアは、瞠若したまま、彫像のように立ちつくしている。
やがてフェリアは、そっと目を伏せると、静かに首を横に振った。
「何をばかなことを」
「何がばかなものか。俺ははっきり解ったんだ。俺にとってお前がどんなに大切な存在か。お前を失うかもしれないと考えるだけで、目の前が真っ暗になるような気がした。お前がいない世界なんて、俺には考えられない」
フェリアの背中が燃え盛る建物の中へと消えていった時の、あの絶望が思い出され、ラグナは知らずこぶしを握りしめた。
そして、同時に思い至る。あの瞬間、ウルスもまた、ラグナと同じ思いを抱いたであろうということに。
「あなたには、国を背負うという大切な仕事がある」
フェリアは、思い詰めたような表情でラグナを見上げ、そうきっぱりと断言した。
だが、ラグナとてこの程度で引き下がるつもりはない。
「好きな女一人背負うことができずに、国など背負えるものか」
思いの丈を込めて言いきれば、フェリアの瞳が微かに揺れる。
ラグナは大きく息を吸うと、祈るような心地でフェリアの目を覗き込んだ。
「フェリア、お前の気持ちを、聞かせてほしい」
狼狽の色を目に浮かべ、フェリアは一歩あとずさった。何かを言いかけ、また口を閉じ、つい、と、視線をラグナから外した。そうして、まるで独白のように、ぼそりと呟いた。
「私は、あなたには相応しくないわ」
「俺は、そうは思わない」
即座にラグナが否定するも、フェリアは、俯いたまま力無く首を横に振った。
「私は、あんな綺麗な服なんて持ってない」
あんな、とは、一体何のことを差しているのだろうか。予想もしていなかった彼女の言葉に、ラグナは思わず眉をひそめる。
「髪もばさばさだし、お化粧なんてしたことないし」
「一体何の話だ」
話の行き先が読めず、少し苛々しながらラグナが問いかければ、フェリアが寂しそうに微笑んだ。
「選鉱場で、ブロームの姫様があなたの手をとった時、なんてお似合いなんだろうって思ったわ」
その瞬間、ラグナは息が止まりそうになった。喘ぐような呼吸を数度繰り返したのち、ブローム公の娘と自分とは何の関わりも無いことを、弁明しようとした。
だが、フェリアは、そんなことは承知の上だとばかりに、ゆるりと首を横に振る。
「別に、彼女に限定して言っているんじゃないの。身なりは勿論、立ち居振る舞いや話し方一つとっても、私と彼女達、いえ、あなた達では、もう、決定的に、違うのよ」
「だからどうした。俺が好きなのは、他の誰でもない、フェリア、お前なんだ!」
ありったけの想いを込めて、ラグナはフェリアを見つめた。
フェリアは、今度は目を逸らさなかった。琥珀の瞳が、真っ直ぐにラグナを見返してくる。
「でも、私は、あなたの傍にいてよい人間じゃ、ない」
フェリアの頬をつたう大粒の涙が、月を映して銀色に輝いた。
「そう思って、髪を伸ばしたのに、どうして今更……」
髪。子供時代からずっと変わらなかった、フェリアの髪。背が伸び、身体が柔らかみを帯び、ラグナやウルスとは違う存在へと変化する中でも、まるで時が過ぎゆくのを惜しむかのように、彼女の髪は短いままだった。身分というものの意味もよく解らぬまま、ともに過ごした幼い日々が、このままずっと続きますように、と、それはまさしく祈りのごとく……。
『いつまでも子供みたいな恰好をしてるのも変かな、って、思って……』
夕刻のフェリアの言葉が、ラグナの耳に甦る。この長い髪は、子供時代との決別を意味していたのだ。
そこまで考えて、ラグナは唐突に気がついた。今日の夕食の席におけるフェリアの様子が、八か月前とは、少し違っていたということに。ラグナとウルス、二人に等しく注がれていたはずの彼女の眼差しが、今やその均衡を失ってしまっていたという事実に。そう、彼女の瞳がラグナに向けられているように感じられた時も、その視線は、実際にはラグナを通り過ぎていた――!
ラグナは、おのれに重なるもう一つの面影を思い起こした。ラグナとよく似た見目の、ラグナとは似ても似つかぬ冷徹な男の、かんばせを。
「フェリア、そこにいるの? 院長先生が呼んでるわよ」
「は、はい、今行きます!」
表のほうから名を呼ばれて、フェリアは慌てて袖口で涙を拭った。そうして、ラグナの横をすり抜けて、走り去っていった。
ラグナは、放心したように、一人、広場に立っていた。
一時は天をも焦がす勢いだった託児院の火事も、あらかた消し止められ、黒々とした柱の残骸と煤だらけの壁が、無残な姿を月の光に晒していた。灰色の煙が立ち上る中、あちらこちらでまたたく小さな炎に、数人が手分けして水をかけている。
すぐ背後に砂利を踏む音を聞き、ラグナはのろのろと振り返った。
「どこ行ってたの? サヴィネさんが探してたよ」
ウルスが、疲れきった表情で立っていた。頬には煤が、髪には灰が沢山へばりついている。俺がフェリアと話していた間も、こいつは懸命に消火に当たっていたんだな。そうラグナはぼんやりと思った。
だが、罪悪感はなかった。ウルスをねぎらう気持ちも、称賛の念も、ラグナの表層には浮かび上がってはこなかった。代わりに胸腔からこみ上げてくるのは、目の前の男に対する、気が遠くなりそうなほどの妬ましさだ。
ラグナの視線に気がついたのか、ウルスが眉をひそめた。ラグナを咎めたてるような口調で、一言、「何?」と問うてくる。
考えるよりも早く、ラグナの口が動いた。
「フェリアに告白した」
その言葉がもたらした効果は、覿面だった。ウルスは、まさしく一撃を喰らった顔で、僅かにあとずさる。
「さっき、解った。俺には、フェリアが必要だ。彼女のいない世界なんて考えられない」
どうしてこんなにも穏やかな口調でウルスと話ができているのか、ラグナは自分でもよく解らなかった。
「彼女は、なんて?」
ウルスの声が、微かに震えている。
ラグナの口元が、とても自然に、笑みを作った。
「自分はあなたには相応しくない、だそうだ。可愛いことを言ってくれる」
どこかほっとした様子で、ウルスが小さく首を横に振った。
「階級というものは、君が思うよりも、ずっと、大きな障壁だ」
「だが、俺の両親は乗り越えた」
ラグナが間髪を入れずに切り返せば、またもウルスの声が、頼りなげに揺らぐ。
「でも、彼女は断ったんだろう?」
「いいや」
ウルスが、愕然と目を見開いた。
ラグナは、これ見よがしに胸を張ってみせる。
「俺の軽率さをたしなめはしたが、拒否はしなかった。かつての母上のようにな。ならば、こちらも父上に倣って、ゆっくり腰を据えて説得するまでだ」
堂々と宣言するや、ラグナは挑戦的な眼差しを思うさまウルスに突き刺した。
しばしの間、二人は無言で睨み合った。
焼け跡から瓦礫の崩れる音がする。
最初に視線を逸らせたのは、ウルスだった。彼はラグナから顔を背けると、そのまま何も言わずに立ち去ってゆく。
ラグナは、そっと足元に視線を落とした。
今しがたまでラグナの胸を突き破らんばかりに荒れ狂っていたウルスへの嫉妬は、いつの間にか消え、あとにはただ虚しさだけが残っていた。
火事の翌日、ラグナはルウケの館から一歩も出ずに過ごした。
その次の日も、また次の日も、学校の課題を口実に、ラグナは館に引き籠った。
フェリアへの告白について、ウルスには「断られていない」などと言い放ったものの、実のところ、それが負け惜しみであるということは、ラグナ自身はっきりと自覚していた。
館の二階にある自室のバルコニーから、何とはなしに湖を眺めながら、ラグナは何度目か知らぬ溜め息を吐き出した。
間違いなく、ウルスはフェリアのことが好きなんだろう。何しろフェリアは、人見知りで内気なウルスのことを小さい頃から気にかけてくれた、かけがえのない人間だ。恋心を抱くようになるのも、無理はない。
そして、恐らくフェリアもウルスを悪しからず思っている。ウルスの家での夕食の席で、ヨルマが二人の仲に言及した際、彼女は始終無言だった。仮にフェリアにその気が無ければ、彼女の性格からして、何か言わずにはおられなかったはずだった。冗談めかせてはぐらかすなり、やんわり断るなり、いっそ話題を変えるなり。あの時フェリアが何も言わなかったのは、ウルスの反応を窺っていたからに違いない。
ラグナの口から、また深い溜め息が漏れる。
ヴァスティから離れていた八か月の間に、ラグナはすっかり取り残されてしまっていた。
それというのも、全ては、選鉱場での事故で怪我人を助けるために、ブローム公の援助を受けたせいだった。あの時ラグナが、ウルスやヘリスト達の言うことに従ってさえおれば、こんなにも長い間ヴァスティを留守にする必要なぞなかったのに。後悔の念がラグナの胸に押し寄せる。
だが、そうなれば、おそらくあの時怪我をしていた人間は、全員命を落としてしまっていただろう。近隣で一番の腕前を持つ癒やし手も、フェリアの母親も。そして、それを回避できる唯一の手段が、ラグナ自らがブローム公を頼ることだったのだ……。
あの時、選鉱場で、フェリアは確かにラグナの名を呼んでくれていた。ラグナに向かって真っ直ぐ駆け寄ろうとしてくれていた。邪魔さえ入らなければ、ラグナはその腕の中にフェリアを迎え入れることができたはずだった。
ラグナは思わず唇を噛んだ。
ウルスは、まだ自分の気持ちをフェリアに伝えていないようだった。どうやらそれはフェリアも同様で、二人は、互いに手探りで相手との距離を測っているように見受けられた。
ならば、と、ラグナはこぶしを握りしめた。ならば、二人の間に自分が入り込む余地は、まだ残されているのではないだろうか、と。
恐らくは八か月前まで、フェリアから見てラグナとウルスは同じところに立っていた。いや、フェリアの髪のことを考えるならば、むしろウルスよりもラグナのほうがフェリアに近かったかもしれない。今はウルスに先んじられてはいるが、これから追い上げればいいだろう。押しの弱いウルスが競争相手なら、余程の悪手さえ打たなければ、勝てるのではないだろうか。
そこまで考えて、ラグナは握りしめたこぶしをそっと開いた。勝とうと思えば、勝てるだろう。だが、……。
傾き始めた太陽が、湖面を赤く染めてゆく。
欄干に身をもたせかけながら、ラグナは、出口のない迷宮を彷徨い続けた。
お客様がお見えですが、と、使用人頭がラグナの部屋をノックしたのは、火事の晩から五日が経過した昼下がりのことだった。
期待と不安とが入り混じった声で、ラグナが「誰か」と問えば、エリック・ランゲの名が告げられた。よくラグナやウルスにつっかかってくる、鉱山主の「バカ息子」だ。
「一体何の用なのだ」
「ヘリスト様が応対しておられますが、どうやら殿下に直接お話ししたい、と仰っておいでのようで……」
客間でお待ちです、と、ラグナに支度を促して、使用人頭は階下へ降りていった。
エリックがこのルウケの館にやってくるのは、初めてのことだった。そもそも彼とラグナとは、友好的と言えるような間柄ではない。そんな彼がわざわざここまで出向いてくるとは、一体どんな理由があるのだろうか。
鏡台の前でシャツの襟を正しながら、ラグナはそっと眉をひそめた。
結局、あれからラグナは一度もヴァスティの町を訪れていなかった。何か口実を作ってフェリアを遠出に誘おうかと思わなくもなかったが、火事の始末に多忙を極めているであろう彼女や彼女の同僚に迷惑がかかることを考えると、どうしても二の足を踏まざるを得なかったのだ。焼け跡の片付けを手伝いに行けば、との案も、火事から三日を自室で呆けて過ごした後では今更実行に移しづらく、かくして学校の課題ばかりか、ラグナが委員長を務める学生代表委員会の年次計画書案までもが、その完成度を格段に上げることになってしまっていた。
俺は逃げているのだろうか、と、ラグナは鏡に向かって独りごちた。勝とうと思えば勝てる、などと言っておきながら、理由をつけて行動するのを先延ばしにしているとしか思えない現状に、苛立たしさを禁じ得ない。その一方で、ラグナの思考の奥の奥で、時折小さな声が囁くのだ。まだ勝てる、望みがある、と考えることこそが、逃避に他ならないのだぞ、と嘲笑うように。
鏡の中のラグナが、そっと頭を横に振る。今はそれよりも、あのバカ息子の話とやらを聞かなくては、と。
溜め息を部屋に残して、ラグナは扉を閉めた。
ラグナが客間に入るなり、エリックがばね人形のように長椅子から立ち上がった。幾分ホッとして見えるのは、ヘリストと二人きりでいた時間が相当気まずかったからに違いない。
ラグナが何か言うよりも早く、エリックが急いた調子で口火を切った。
「選鉱場から宝石が消えた」
突拍子も無い話題提起に、ラグナは眉をあげて応えた。まあ落ち着け、と、エリックに再度椅子に座るよう促して、自身も長椅子の向かいにある肘掛け椅子に腰を下ろす。
「それは一体どういうことだ?」
「お前……」と、言いかけたところで、ラグナの後方で控えるヘリストの存在を思い出したのだろう、エリックは慌てて背筋を伸ばした。「でっ、殿下、は、何か知らないか」
階段状に四層に分かれている選鉱場では、坑道から近い最上層から順に、鉱石の洗浄、破砕、選別、と、作業が進められていく。鉱物の種類ごとに選り分けられた鉱石は、鉱車によって運び出され、鉱倉に一時的に蓄えられることになっているのだが、エリックの話によると、鉱倉行きの鉱車に乗せられていたはずの輝石の原石が一つ、無くなってしまったというのだ。
「わざわざ鉱山の外まで話を聞きに来たということは、紛失ではなく、盗難を疑っているということか」
ウルスの問いに、エリックは身を乗り出して、自分の膝に肘をついた。
「そうだ。床板を引っぺがす勢いで、隅々まで選鉱場を探しまくったが、見つからねえ」
「だが、鉱山の入り口にある詰所で、厳重な身体検査があるはずだろう」
「ああ。けれども今のところ検査には一切引っかかってねえんだ。あまり小さなものじゃねえから、見逃してしまったなんてこともあり得ねえ」
そう言って、エリックは右手の親指と中指とで輪を作ってみせた。確かにその大きさならば、隠し持つのも容易ではないだろう。
宝石の捜索に、高位の魔術師であるヘリストを貸せ、とでも言いたいのだろうか。エリックが来訪した目的が今一つ理解できず、ラグナはとりあえず問いを重ねる。
「その宝石が無くなったのは、いつだ」
「四日前だ」
エリックは一際大きく息を吸うと、いつになく真剣な眼差しをラグナに向けた。
「選鉱場では、上から順番に鉱石を帯式運搬装置で運んでいくのは、知ってるだろ? そいつがこの間故障してな。ハルスの工房から何人かが修理に来てくれたのが、四日前だ。で、現場で指揮をとった技師二人のうち、一人がウルスなんだ」
話ここに至り、ようやく得心のいったラグナは、口元に苦笑を浮かべた。
「なるほど、それで私を疑って来たのか。私がウルスを使って宝石をせしめたのではないか、と」
ウルスの勤める工房は鉱山の敷地内にあるが、ラグナがそこを訪れるに際して所持品検査を受けたことは、たったの一度も無い。ラグナ自身は、皆と同様に身体検査を受けることに異論はないのだが、ラグナの姿を見るなり駆け寄って門をあけてくれる、門番の好意を無下にすることもないかと、毎度そのままありがたく通らせてもらっていたのだ。
エリックは眉間に皺を刻んだまま、ぶんぶんと首を横に振った。
「いや、流石に王子様を犯人呼ばわりする奴はいねえよ! 宝石なんざ、わざわざ盗まなくても、王子様なら幾らでも手に入れられることができるだろうからな」
「つまり、逆に、ウルスが私を利用して宝石を横領したのではないか、と」
肩で息をついたのち、ラグナは椅子に背中を預けた。
「どちらにせよ、ありえないな。何しろ私はここしばらく鉱山には近づいてはいない」
目を細め、疑わしそうにラグナを見据えていたエリックだったが、やがて「そうか」と尊大に頷いて、こちらも背もたれにふんぞりかえる。その態度が少々気に障り、ラグナは心持ち語気を鋭くした。
「そもそも何故ウルスを疑うんだ。可能性のある人間は他にもいるだろう?」
「そりゃ、関わりのありそうな奴は、片っ端から順番に、一通り話を聞いたさ。だがな、ウルスだけが、何も言わねえんだ。知らねえとも、盗ってねえとも、何にも言わねえ。一っ言もだ」
予想もしていなかった展開に、ラグナは思わず椅子の背から身を起こす。
背後で、ヘリストが「なんですと」と小さく呟くのが聞こえた。
「盗ってねえ、って言うことすらできないとなると、こっちも奴を拘留するしかねえ。たとえ奴が王子様の親戚だろうとな、鉱山には鉱山のやり方ってのがあるんだからな。けど、丸一日尋問しても、やっぱり奴はうんともすんとも言わねえ」
鉱山の仕事は常に危険に満ちている。災害や事故に立ち向かうため、そしてそれらを防ぐため、鉱山で働く人々の結束は非常に固かった。だがそれは、裏を返せば、裏切り者には容赦しないということでもあった。一昔前ならば、掟を破った者は、その命で罪を贖わさせられたと聞いている。
現代においてカラントの法律は私刑を禁じているが、官吏の目の行き届かないところ――閉鎖的な鉱山などはその最たる例だ――では、必ずしもそれが守られているとは限らない。ラグナは、知らず椅子の肘掛けをきつく握りしめる。
「無くなった原石も見つからねえし、完っ全に手詰まりなんだよ。なあ、お前なら何か知ってるんじゃねえのか? あいつは、私利私欲で仲間を裏切るような奴じゃねえ。だんまりを決め込んでいるのにも、何か理由があるはずなんだ」
いつになくしんみりとした様子のエリックに、ラグナは驚きを隠せなかった。
「お前は、ウルスのことが嫌いなのだと思っていた」
エリックは、何を今更当たり前のことを、と言わんばかりに口元を歪める。
「ああ、嫌いだな。いじいじしているところとか、はっきりしないところとか、反吐が出るほど嫌いだね。だが、それとこれとは別問題だ」
思いもかけない言葉を聞き、ラグナは思わず目をしばたたかせた。今まで、エリックのことを、粗暴で愚昧なだけの人間だと思っていたからだ。
「なんだよ、俺の顔に何かついてんのか」
「いや、目が曇っていたのは、どうやら私のほうだったようだ」
「は? 何をわけの分かんねえこと言ってんだよ」
エリックが、ラグナに向かって斜めに顎を突き出し、凄んでみせる。
即座にヘリストの咳払いが部屋の空気を揺らし、エリックは、またもや、ばね人形のように背筋を伸ばした。
「何か思い出したことがあったら教えてくれ」と言い残して、エリックは帰っていった。
彼が退出するや否や、ヘリストが慌ただしく外出の用意を始めた。今回の盗難事件について、詳しい話を聞きにヴァスティの町へ行くと言う。
帰りが日没を過ぎる可能性も考えて、サヴィネがヘリストの伴を務めることになった。「お独りでは絶対にお屋敷から出ないでくださいね」と再三にわたってサヴィネに釘を刺され、ラグナはつい苦笑する。
「解っている。せいぜい貝のように閉じ籠もっておくさ」
お願いいたしますよ、となおも念を押すサヴィネのあとをついで、ヘリストが気遣わしげに口を開いた。
「とにかく、せめてウルスの様子だけでも、見てまいります」
「よろしく頼む」
玄関扉を押し開き、一歩踏み出したところで、ヘリストが静かに振り返った。
「ラグナ様」
ほんの刹那瞼を閉じたのち、ヘリストは真っ直ぐにラグナの目を見つめた。
「わざわざ言うまでもないことですが、仮にウルスが、本当に罪を犯していたとして、ラグナ様の従兄弟だからと、彼の罪を無かったことにすることはできません」
その言葉はまるで、ヘリスト自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「規律を守らせるべき立場の者が、規律を破るということは、これ以上無い悪手です」
「解っている」
ラグナが力強く頷いてみせれば、ヘリストの眼差しが微かに緩む。
「それでは、行ってまいります」
二人の乗った馬が門の向こうへ消えるのを待って、ラグナは館の中に戻った。依然としてざわめき続ける胸を、そっと右手で押さえながら。
ヘリスト達がいなくなると、館は急に閑散としたように感じられた。使用人達は、丁度使用人頭の部屋で午後のお茶を喫している頃だろう。ラグナは自室に上がると、エリックの来訪で中断させられた読書の続きに戻った。
しかし、目は文字を追うものの、本の内容が一向に頭に入ってこない。気がつけば、同じ頁の同じところを何度も何度も堂々巡りしてしまっている有様だ。ラグナは少し大げさに溜め息を吐き出してから、勢いをつけて椅子から立ち上がった。気持ちを切り替えるべく、掃き出し窓をあけてバルコニーへ出る。
ウルスならば、こんな非常事態においても、他事に気を取られることなく冷静に己が為すべきことを遂行することができるのだろう。これまでも、思慮深い従兄弟のことを思い起こすたびにおのれの未熟さを自覚させられてきたラグナだったが、あの火事の晩以来、その思いは特に強くラグナを苛み続けている。
だが、と、ラグナはそっと唇を噛んだ。その冷静沈着を絵に描いたようなウルスが、よりによって今回、問題の渦中に巻き込まれてしまっているというのだ。
そもそも、あのウルスが盗みなどという馬鹿げた行為を働くはずがない。そう確信しつつも、ラグナは不安を抑えきることができないでいた。いくらウルスが身内以外に対しては口不調法なのだとしても、身に覚えがない嫌疑ならば、彼はその旨きっぱりと主張するに違いないからだ。
逆に、万が一彼が本当に宝石を盗んだのだとしても、証拠が見つかっていない現状、「知らない」とそらとぼけてしまえば、拘留されずにすんだはずだった。現にウルス以外の人間は、真実はどうあれ、そうやって追及の手を一旦逃れることができているのだから。
それなのに、丸一日に亘る尋問を受けてなお、沈黙を守り続けるということは……。
「まさか、誰かを庇っている、ということか?」
思考の続きが、ラグナの口をついて出る。バルコニーの欄干を掴む手に、力が入る。
と、その時、ラグナの目が、道の遠くに人影を一つ捉えた。
湖畔の道をこちらへ駆けてくるのは、フェリアのようだった。バルコニーから身を乗り出し、目を凝らし、確証を得るなりラグナは急いで館内へとって返した。一階へ降りると、階段ホールから直接庭園に出られる、色ガラスをあしらった扉を押し開く。ここから庭を突っ切れば、裏門はすぐ目の前だ。
ルウケの館は湖を背にして建っている。湖のほとりを一周する道は、館の手前で二手に別れ、一方は館の正門へ、もう一方はそのまま館の裏を通り抜けてゆく。ラグナが裏門を選んだのは、門番と押し問答を繰り広げるのが面倒だったというのもあるが、何よりこちらのほうがフェリアのいるところまで近かったからだった。
閂を外し、敷地の外へ出る。独りでは屋敷を出ないよう、というサヴィネの言葉は、ラグナの頭から完全に抜け落ちてしまっていた。ただひたすら、夢中で、フェリアのもとへと走る、走る。
ラグナが館の表への岐路に到達した時、フェリアは、まだ五丈ほど向こうにいた。町からずっと駆けどおしだったに違いない、すっかり疲れ切った様相で、時折足をもつれさせながら、こちらに向かって走ってくる。
「一体どうしたんだ、フェリア」
ラグナの問いが終わりきらないうちに、フェリアが今にも泣きだしそうな表情で、ラグナに取り縋ってきた。
「お願い、ウルスを、ウルスを助けて!」
フェリアの髪は、以前のように短くなっていた。火事で痛めたせいだろうか、それとも――
なんにせよ、こんなところでは落ち着いて話なぞできるわけがない。ラグナは、足元にへたり込んでしまったフェリアをそうっと助け起こした。
「とにかく、館で話を聞こう」
一体全体、今、ウルスの身に何が起こっているのか。フェリアを伴って館に向かいながら、ラグナは、胸の奥からせり上がってくる不安感を無理矢理嚥下した。
来た道を通ってルウケの館に戻ったラグナは、少し逡巡したのち、フェリアを二階の自室へと連れて上がった。おどおどと落ち着かない様子でひどく周囲を気にしているフェリアを見るに、不用意に話を大きくするのは拙いと思ったのだ。
ラグナが部屋の扉を閉めると同時に、フェリアは先刻と同じ台詞を繰り返した。お願いだからウルスを助けて、と。
ラグナは、深く息を吸い込むと、ひとまず奥の長椅子をフェリアに勧めた。
「まずは座ってくれ。あの距離を走ってきたのだろう? 足元がふらふらじゃないか」
「ゆっくりしている時間はないの。このままだと、ウルスが……、ウルスが……!」
フェリアが頭を振るたびに、見慣れた短い髪がふわりと揺れる。自分の鼓動が早まるのが分かり、ラグナは軽く唇を噛んだ。平静を装いながら、諭すようにフェリアに語りかける。
「落ち着くんだ、フェリア。選鉱場から宝石が無くなった件なら、奴が盗ったと確定しているわけではないんだろう?」
フェリアは、喘ぐように息を継いだのち、強く唇を引き結んだ。そうして、ゆるりと首を横に振った。
ラグナには、フェリアのその反応が、俄かには信じられなかった。思わず息を詰め、フェリアをじっと見つめ続ける。今にも泣きだしそうな彼女の表情に、半ば絶望を覚えつつ、ラグナはようやく一言を絞り出した。
「どういうことだ」
フェリアの唇が、痙攣するように震えた。
「ラグナも分かるでしょう? ウルスが宝物を隠しそうな場所」
「……盗品を、見つけたのか」
ラグナ自身が驚くほど、その声は酷く掠れていた。
フェリアが、髪の毛を振り乱しながら、ラグナの眼前に身を乗り出してくる。
「ウルスは、本当ならこんなことする人間じゃないわ。魔が差したのよ。ねえ、ラグナ、どうか皆に、大目にみるように頼んでちょうだい」
「そんなことをしても、あいつの罪は消えないぞ。盗人の烙印だけでなく、余計なものまで背負わせるつもりか」
ヘリストが出がけに言った言葉が、ラグナの耳元でこだまする。
フェリアは大きく息を呑んだ。それから唇を噛んだ。自分の要求が道理に悖るということが、分からないフェリアではない。恥じ入るように足元へと視線を落とし……、それでも、まだ諦めきれないのか、ぼそりと一言を呟いた。
「彼が盗んだのは、紅玉だったのよ」
その一瞬、ラグナは、うなじを冷たい手で撫でられたような気がした。
フェリアが、そろりと顔を上げた。零れんばかりの涙を両目に湛えて。
「工房の裏手、古い樫の木のうろの中に、手巾にくるんで隠してあったわ。女性像……髪の短い女性の像を彫りかけた紅玉が」
フェリアの頬に、涙が光る筋を描く。
ラグナは全てを理解した。ウルスが、紅玉でフェリアの像を作ろうとしていたということを。あの火事の夜に、嫉妬心からラグナが放った負け惜しみが、ウルスをここまで追い詰めてしまったのだということも。
ラグナの胸を、激しい後悔の念が締めつける。だが、その一方で、えもいわれぬやるせなさも募ってゆく。
「馬鹿な奴だ」
ラグナの口から、苦い声が漏れた。原因がなんであれ、それでも、罪は罪なのだ。どんなに情状を酌量しようと、ウルスの罪自体が消えてなくなることはない。
はらはらと涙を流すフェリアを見据えると、ラグナは静かに口を開いた。
「それでお前は、この俺に、愚か者の命乞いをせよ、と言うのだな」
フェリアが俯いた。
ラグナはなおもフェリアに言い募る。
「実の母親が死に瀕した時ですら、王太子の助けを固辞した、お前が、か」
そんなにあいつが大切なのか、との問いを、ラグナは辛うじて呑み込んだ。代わりに溢れ出すのは、皮肉めいた台詞。
「八か月の間に、随分と処世術を身につけたものだな」
フェリアが、蒼白な顔で数歩あとずさった。
そんな彼女の様子を見つめながら、ラグナは心の中で呟いていた。解っている、解っているんだ、と。単なる事故に過ぎなかった母親の件とは違い、今回のウルスの窃盗は、自分が引き起こしたも同然だとフェリアは考えているのだろう。
お前は何も悪くない。ラグナは、フェリアにそう言ってやりたかった。……彼女が庇っているのが、ウルスでさえなければ。
「俺なら、お前の言いなりになると思って来たんだろう?」
本心とは裏腹な言葉が、またもラグナの口をついて出る。フェリアがそんな傲慢な考えを持っているなんて、ラグナは微塵も思っていなかった。藁をもすがる思いでラグナを頼ってきたということぐらい、誰に言われなくとも解っている。
「自分に惚れている男だからな。なんでも言うことを聞いてくれる。そう思って来たんだろう?」
それなのに、ラグナは暴言を止めることができなかった。口を開くたびに、胸の奥にたまった澱が、腐臭を放ちながらあとからあとから込み上げてくる。
「俺も随分と安く見られたものだな」
嘲笑うように言い放てば、フェリアが大きくかぶりを振った。
「殿下を言いなりにさせようなんて、考えてなどおりません!」
ラグナとフェリア、二人の隔たりは僅か一丈ほど。数歩進めば手が届く距離にもかかわらず、ラグナには途方もなく遠く感じられた。
フェリアは、流れる涙を拭おうともせずに、ゆっくりと床に膝をつけた。忠誠を誓う騎士のように、祈りを捧げる修道士のように、神妙な顔で頭を垂れる。
「でも、ウルスを救えるのは、殿下だけなのです……。どうかお願いです。私がご用意できるものは全て……たとえこの命であろうと、殿下に捧げます。足りない分は、一生かかってでも、なんとしてでも。ですから、どうか……」
ラグナは奥歯を噛み締めた。
感情のままに泣き喚かれたほうが、いっそよかったのかもしれない。ならば、フェリアに対するラグナの気持ちも醒めてしまっていただろうから。だが、彼女は、そうはしなかった……。
改まった口調が、ラグナの逆鱗をかき撫でる。途端に、ぞくりと身体中を駆け巡る震え。捌け口を見つけた怒りが、歓喜に席を譲り渡す。
ラグナは、下目でフェリアを見下ろして、静かに問うた。
「なんとしてでも、と言ったか」
フェリアが、おずおずと顔を上げた。
ラグナは、彼女に向かってゆっくりと右手を差し出した。
「こちらへ来い」
ぎこちない動きで立ち上がると、フェリアは一歩前へ踏み出した。
もう一歩、更に一歩。
微動だにしないラグナを怪訝に思ったか、フェリアはそこで足を止めた。
「もっとだ」
それでも躊躇い続けるフェリアに向かって、ラグナは大股で距離を詰めた。
フェリアが、慌てて後ろに下がろうとする。
ラグナはすかさずその腕を掴まえた。そのまま力一杯手元に引き寄せ、フェリアを胸に抱きしめる。
身をよじるフェリアの肩口に、ラグナは無言で顔を埋めた。
「ラグナ……」
上ずった声が、ラグナの名前を紡ぐ。
ラグナは、フェリアを抱く腕に力を込めた。このまま時間が止まってしまえばいい、と、詮無い望みを心で叫びながら。
フェリアが、もう一度「ラグナ」と呼んだ。それから、囁くように言葉を継いだ。
「ウルスを、助けてくれるの?」
ラグナは、ここでようやく我に返った。我に返ると同時に、ああ、と、嘆息した。今、まさにこの瞬間、ラグナは永遠に失ったのだ。おのれが何よりも渇望していた、フェリアの心を。
からからに乾いた喉を湿そうと、ラグナは無理に唾を呑み込んだ。きつく目をつむり、一言を囁く。
「お前が望むなら」
胸の奥で、何かが酷く軋んでいる。それを誤魔化すように、ラグナはフェリアに口づけた。
茜差す寝台の海に、敷布の波がうねる。ラグナのもとに打ち寄せては引いて、彼を内部から凄烈に揺さぶる。
波間で溺れそうになりながらも、ラグナは夢中で身体を動かした。荒い息を繰り返し、水面に落ちる艶めかしい影を、ひたすら追い求める。
ヴァスティの町まで二里足らず。人の足では一時間半ほどといったところか。投げ入れた石が生むであろう波紋が、岸辺に届くまでは、まだ少し間があるだろう。
触れた肌が次第に汗ばんでゆくのを感じながら、ラグナはそっと唇を噛んだ。
なんとかしてフェリアを振り向かせてやる。そう考えなかったわけではなかった。相手は、何事にも慎重で控えめなウルスだ。下手を打たない限り、勝てるのではないかとも思っていた。
たぶん勝てた。
そして、そう思ったのは、ラグナ本人だけではなかったのだ。
ラグナは、ウルスが紅玉を見つけた時のことを思い描いた。
火事の晩にラグナが射かけた負け惜しみの一言は、ウルスにとっては宣戦布告も同様だったのだろう。王太子が本気を出せば、平民のウルスには勝ち目なんてない。そう絶望していた彼の前に、奇しくも大きな紅玉の原石が現れたのだ。
鉱石の持ち出しは、鉱山の門にある詰所にて、専任の魔術師を始めとする複数の係員によって厳しく検査されている。逆に鉱山内に限るなら、鉱石の移動は比較的容易だった。鉱石は、鉱山の外に持ち出して初めて、価値を持つようになるからだ。
ウルスにとって、その原石は、絶望の闇に差した一筋の光だったのだ……。
フェリアは、ウルスが罪を犯したのは自分のせいだと思っているのだろう。だがそれは違う。全ての元凶はラグナにある。
あの時ラグナがウルスに放った、不用意な一言。それは、堤にあいた、たった一つの小さな穴だった。しかしそこから染み出した水は、少しずつ、だが確実に、周囲の土を削り続け、そして遂には濁流となって、全てを押し流していったのだ。
先刻から、フェリアは一言も言葉を発していなかった。どんなに激しくラグナが攻め立てても、ただ押し殺した声を漏らすのみ。
肌がどんなに熱を帯びようと、その芯が冷え切っているのが分かる。八カ月前の事故の際、助けてやる、と言って抱きしめた時の、服越しに感じられた彼女の温もりは、もうどこにもない。
ラグナは小さく息を呑んだ。まさかウルスは、ここまで計算していたのだろうか、と。どうせ奪われるのなら心だけでも自分の元に、と、そう考えて紅玉を懐に入れたのだろうか、と。
急に視界が昏さを増したように、ラグナには思えた。込み上げてきた衝動のままに、彼はフェリアの耳元に口を寄せる。
「愛してるよ、フェリア」
少し抑揚を抑え、心持ちゆっくりと、やや擦れたように発音する。
固くつむられていたフェリアの目が、見開かれた。そうして、錆びついた自動人形のような動きで、ラグナを見上げる。
「やめて」
そっと、ラグナは微笑んだ。穏やかな月の光を思わせる、はにかむようなあの笑みを、心の中でなぞるようにして。
「フェリア、君を、愛してる」
「お願い。やめて」
もっと声を聞かせてほしい。俺を見てほしい。まさしく何かに憑りつかれたかのように、ラグナはなおも言葉を重ねてゆく。
「どうして? フェリアは、僕のことが嫌いなのかい?」
フェリアがゆるゆると首を横に振った。涙を湛えた瞳が、まるで宝石のようだった。西日を映して煌めく琥珀。そこに映るは、果たしてどちらの顔なのか。
フェリアの唇が、微かに震えた。
「ごめんなさい……」
それは、とても小さな声だった。
ラグナは、頭から冷水を浴びせかけられたような気がした。身体の中で荒れ狂っていた熱が、急速に那辺へ引いていくのが分かった。
「……違う」
ラグナが漏らした呟きを聞き、フェリアが怪訝そうに眉を寄せた。
「違うんだ。謝るべきはお前じゃない。……俺、だ」
フェリアが、ラグナに向かっておずおずと手を差し伸べた。
温かい指先が、そっとラグナの頬を拭う。そこで初めて、ラグナは、自分が涙を流していることに気がついた。
フェリアの手は、そのままおとがいをうなじへと滑ってゆく。そして彼女は、ラグナの頭を優しく抱き寄せた。
散じた熱が、再びひとところに集まりだす。
ラグナは無我夢中でフェリアを胸にかき抱いた。熱に浮かされたように、ただひたすら彼女を求め続ける。
フェリアの身体がいよいよ熱くなるのが、ラグナには直に分かった。ほどなく、ラグナの心が、胸の奥が、強い力で締めつけられる。
一際大きな波にはね上げられ、波間に叩きつけられ、そのまま二人は沈んでゆく。どこまでも深い、海の底へと。
静けさを取り戻した水面に、いつしか月の影が柔らかく降り注いでいた。
夜遅くになって、ようやくルウケの館は騒がしくなった。玄関扉が慌ただしく開け閉めされる音に続いて、複数人の足音が入り乱れる。使用人頭が夜食をどうするか尋ねる声を遮って、ヘリストがラグナの所在を問う声がした。
廊下に出ていたラグナは、部屋に戻ると静かに扉を閉めた。ほどなく騒々しい足音が廊下を駆けてきて、扉が激しく叩かれる。ラグナが「入れ」と告げる間もなく、扉は勢いよく開かれた。
「もっと早くやってくると思ったが、意外と遅かったな」
そうと分かっておれば、もう少しゆっくりしたのにな、と思わせぶりに呟いてみせてから、ラグナは口角を引き上げた。
肩で息をするウルスが、そこに立っていた。尋問とやらの名残だろう、口の端と右の頬には膏薬が貼られ、両手には指先まで隙間なく包帯が巻かれている。
やや遅れて、ヘリストもその後ろに駆けつけてきた。サヴィネは、恐らく厩に馬を繋ぎに行っているのだろう。
ウルスは、つかつかとラグナの面前に進み寄り、真っ直ぐラグナの目を覗き込んできた。
「君が手をまわしたんだな?」
有無を言わさぬ口調で、ウルスが訊いた。
「突然、お咎めなしと放免された。誰に聞いても、何も言ってくれやしない。すまなかったな、と謝るばかりで、埒があかない」
ウルスの背後から、ヘリストも、咎めたてるような声で呼びかけてくる。
「ラグナ様、先ほど使用人頭から、ラグナ様が夕刻に町へ手紙を届けさせたと聞きました。一体、何をなさったのですか。お教えください」
ラグナが何も言わずにいると、ウルスが、ふ、と目を伏せた。唇を噛みしめ、両手をじっと見つめ、それからまなじりを決して視線を上げた。そして、もう一度ラグナと目を合わせ、一音一音を噛み締めるように言葉を発していく。
「僕は、確かに、罪を、犯したんだ」
「なんだって?」
素っ頓狂な声が、ヘリストの喉から飛び出した。
ウルスは、ぎゅっと強く両目をつむってから、恐る恐る後ろを向く。
「……すみません、先生。自分のしでかしたことが、そして何より王家の皆さんに迷惑をかけてしまうことになるのが恐ろしくて、今まで言えませんでしたが……、紅玉を盗んだのは、僕なんです……」
「なんてことだ……」
ヘリストが、がくりと壁に寄りかかった。爪を立てるようにして両手で額を押さえ、ずるずると床にへたり込む。
ウルスは、再度ラグナに向き直るなり、右手を大きく振り開いた。
「そうだ。僕は裁かれるべき盗人だ。なのに、王太子である君が、その片棒を担いでどうするんだ!」
「何故、そんなことを……」
震える声で、ヘリストが問う。ウルスは、師に背を向けたまま、力無く俯いた。
「僕は……僕は、どうかしていたんです。あの紅玉さえあれば、もしかしたらラグナに勝てるんじゃないかと……、彼女を振り向かせることができるんじゃないかと……」
「紅玉の、像……」
ヘリストが、愕然と呟いた。
ウルスは、足元を見つめたまま、今度はラグナに向かって声を絞り出す。
「それに、僕は、君を出し抜こうとしたんだぞ。君に助けてもらう資格なんて……」
「勘違いするな。俺はお前のためを思って行動したんじゃない」
満を持してラグナが口を開けば、ウルスが驚きの表情で面を上げた。
「大切な幼馴染みを助けたい、という彼女の――我が愛しい婚約者の願いを聞いたまでだ」
「婚約、ですと? それは一体どういうことですか!」
床に膝をついたまま、ヘリストが声を荒らげる。その顔は、僅かな時の間に、すっかりやつれ果ててしまったように見えた。
ラグナは、芝居の語り手のように、少し改まった声で話し始めた。
「自分の父親と同様、故事にちなんで好きな女に求愛しようとした我が儘王子が、彼女に内緒で紅玉の女神像を作るよう、手先の器用な従兄弟に依頼した。良い原石が見つかったら確保しておいてくれ、あとで自分が買い取るから、と。
しかし、なにしろ王子はいい加減な性格なため、従兄弟と約束した諸手続きを見事に忘れてしまっていた。不本意にも盗みの嫌疑をかけられた、忠実なる従兄弟は、王子に醜聞が立つのを恐れ、黙秘を続けている。――それが、俺が届けさせた手紙の内容だ」
ラグナが話し終わるのと同時に、二人の口から言葉にならない唸り声が漏れた。
「像はまだ完成していなかったようだが、彼女は俺の求婚を快く受け入れてくれたよ」
そう言って、ラグナは後ろを振り返る。
寝室の扉があいて、フェリアが無言で姿を現した。
ウルスは、何も言わなかった。何も言わずに、部屋を出ていった。ようやく本館に戻ってきたサヴィネが、家まで送ろうと声をかけたようだったが、ウルスの返事は聞こえてはこなかった。
おそらく彼は、全てを理解したんだろう、と、ラグナは悟った。それこそ、ラグナとフェリアの間で、どのような取引がなされたかも、全部。ウルスに全て見透かされた、とラグナが認識していることすら、ウルスは解っているのだろう。
ヘリストは、しばし壁にもたれて放心していたが、開けっ放しの扉からサヴィネの足音が近づいてくるのが聞こえるや、あっという間に自分を取り戻した。サヴィネに、明朝に王都へ早馬をお願いする、と予め告げ、書状をしたためるから、と、フェリアを伴って部屋を出ていった。
一人取り残されたラグナは、掃き出し窓をあけてバルコニーへと出た。
小さい頃に一度、冒険譚のようにここから部屋を抜け出せないか、と、三人で縄梯子を作ろうとし、ヘリストにこっぴどく叱られたことがあった。実行しようと言い出したのはラグナだったが、話のきっかけはフェリアだった。そして、より安全に降りられるよう、単なる縄ではなく縄梯子を作ろう、と主張したのが、ウルスだった。
まったくもって、変わり映えの無い。昔を思い出してラグナはくつくつと笑った。
ふと、欄干に背を持たれかけて、思いっきり身をのけ反らせる。
中天に、少し欠けた丸い月が見えた。
今、足で軽く床を蹴れば、俺は頭から下へ落ちるのだな。他人事のようにラグナがそう考えた時、部屋のほうからノックの音が聞こえてきた。
「殿下、お客様がおいでで……」
使用人頭の声が途中で途切れた、次の瞬間、扉がいきなり開かれ、エリック・ランゲがずかずかと中へ入ってきた。
「お客様、困ります! 下でお待ちくださいと申し上げたではありませんか!」
「うるせえ。こいつと話をしたら、さっさと出ていってやらあ。ぐだぐだ騒ぐな!」
と、怒号をぬって、金属同士が擦れる甲高い音が、廊下のほうから聞こえてきた。
「ラグナ様! ご無事ですか!」
明日に備えて寝支度をしていたはずのサヴィネが、長剣を握って飛び込んでくる。その抜き身のごとき気配に、さしものエリックも、ぎょっとした表情で動きを止めた。
「大丈夫だ、問題ない。二人とも下がれ」
サヴィネと使用人頭は、互いに顔を見合わせてから、今一つ納得がいかない様子で、不承不承頷いた。そうして、ぶつぶつと口の中でエリックに対する悪態を呟きながら、部屋を出ていく。
扉が閉められるのを待って、エリックがラグナに詰め寄ってきた。
「どういうことだ!」
「何がだ」
「盗られた宝石のことだよ! 昼間に俺が来たときには、知らないって言ってただろ!」
肩で息をしながら、エリックがラグナを睨みつける。
ラグナは、彼の視線をしれっと受け流した。
「自分がしでかしたことの大きさに気がついて、怖くなって、つい嘘を言ってしまった」
「ああ、確かにこの手紙にもそう書いてあったな。だがな、与太話も大概にしやがれ! あの時のお前は、間違いなく、この件について、何も知らなかった!」
これがこいつの武器なんだな、と、ラグナは思った。粗野で愚鈍だが、人を見る目には、確かなものがある。
とはいえ、今回ばかりはエリックには、この目をしっかりと閉じておいてもらわなければならない。
「だが、宝石は見つかったんだろう? 俺が手紙に書いたとおりに」
エリックが、ぐう、と唸り声を漏らした。
「お前が信じたとおり、ウルスは仲間を裏切るような人間ではなかった。王太子という異分子が、彼に無理矢理そうさせただけだ」
「それも、この手紙に書いてあったな。何が『エリック・ランゲの公正な判断と仲間に対する信頼』だ、俺に恩を売っているつもりか!」
束の間、二人は無言で睨み合った。
やがてエリックが、大きく息を吐き出して肩を落とした。
「なあ、本当は、何があったんだ」
ラグナは、ゆっくりと息を吸うと、同じ主張を繰り返した。
「手紙に書いてあるとおりだ」
エリックの口元が怒りに歪んだ。顔を真っ赤に紅潮させ、「クソが!」と吐き捨て、靴音も荒々しく去ってゆく。
玄関扉が乱暴に閉められる音が、壁越しに微かに聞こえてきた。
再び訪れた静寂の中、ラグナは再び窓のほうへと足を向けた。バルコニーには出ず、窓際の長椅子の上に仰向けに倒れ込む。
何度目か知らぬ溜め息が、仄かに差し込む月光を揺らす。
堤は、決壊してしまったのだ。あとは、誰も彼も、ただ押し流されてゆくのみ……。
サヴィネが王都からの返信を携えてルウケの館に戻るや否や、事態は急速に動き始めた。
国王夫妻は、ラグナとフェリアの婚約を、幾つかの条件を提示した上で、認める、と回答した。
まず、フェリアは、早急に王都に上がること。そして、古くから王家に仕えるケルヴィネ男爵家に養女として入ること。
婚約についての正式な発表は、六月末の麦秋祭で行うことにするが、それまでは極力公にはしないよう、ヴァスティ鉱山に申し入れること。
結婚の時期は、来年のラグナの中等学校卒業以降とすること。そして、ラグナは、卒業試験で少なくとも五科目以上で主席をとること。
他にもフェリアの両親宛てのものなど細かい項目が幾つか並んでいたが、ヘリストはそれらを元に、各方面への書状を淡々と作成した。
封筒には、ラグナ宛ての私信も同封されていた。父からは、驚きと応援の言葉が、そして母からは、励ましの言葉とともに「お前はもう少しこらえ性というものを鍛えなさい」とのお小言が記されていた。
そもそも今回の婚約は、所詮は王太子個人による独断専行に過ぎない。国王を始めとする王家縁の人々から無効と断じられる可能性は少なからず存在したが、過去に同じ道を選んだクラウス王としては、とても反対する気にはなれなかったようだった。
それに加えて、ヴァスティ鉱山の経営陣が既にこの婚約話を知っている、という事実も、ラグナにとっては追い風となった。なにしろヴァスティは、今や国内有数の規模を誇る鉱山なのだ。鉱山主のランゲは、身分こそ平民に違いないが、財力や経済界への影響力は下手な下級貴族よりも勝っている。王太子妃輩出に沸いているであろう彼らを失望させるのは得策ではない、というのが、王城の見解だった。
「いいですか、ラグナ様」
明日にはルウケの館を発つという晩、書斎にラグナを呼びつけたヘリストは、周りに誰もいないのを確認してから、静かにラグナに語りかけた。
「ラグナ様の婚約に纏わる『真実』を知るのは、我々を含めて四名だけです。ラグナ様と、フェリア殿と、ウルスと、私。我々は、この秘密を、墓場まで持っていかなければなりません。たとえ相手が国王陛下やテア様であろうと、決して口外しないとお約束ください」
翌日、王都への帰途につく王太子の馬車を、今までにない大人数が街道に出て見送ってくれた。
仏頂面ではあったがエリックも、父親であるランゲ親方の隣にいた。ハルス機械工房の工房長を始めとする顔見知りの技師達も、アン叔母もヨルマ叔父も見つかったが、ウルスの姿だけはどこにもなかった。
当然だな、と一人ごちた次の瞬間、ラグナは我が目を疑った。
フェリアが、両親に押し出されるようにして人々の前に出てきたかと思えば、にっこりと笑みを浮かべて馬車に向かって手を振ったのだ。
ラグナは、思わず腰を浮かせると、馬車の窓にかぶりついた。ガラスに額を押しつけ、後方へ流れていくフェリアの笑顔を見つめた。
やがて木立に隠れて見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、見つめ続けた……。
王都へ戻ったラグナは、目が回るほどに忙しい日々を送ることになった。
もともとラグナの成績は、殆どの教科において常に学年の上位ではあった。おのれを支持してくれる者の期待に応えるため、そして、それ以外の者に対して隙を作らぬため、日々真面目に学業に取り組んできたからだ。
だが、そんなラグナにとっても、「五教科以上で主席をとれ」という条件は、決して簡単なものではなかった。友であり好敵手でもある者達の顔を思い浮かべながら、ラグナは腹を括った。彼らに確実に勝とうとするならば、今から少しずつ知識を積み上げていかねばなるまい、と。
それに加えてラグナは、この春、学生を取りまとめる代表委員会の委員長に選出されたばかりだった。弁論大会や舞踏会といった硬軟入り混じった沢山の行事の準備に追われつつも、ラグナは、学校への行き帰りの馬車の中など、ちょっとした時間を見つけては、こつこつと勉強に励むのだった。
フェリアは、ラグナに遅れること僅か二日で、王都に入ったとのことだった。
「これからは、人前では彼女のことを『ケルヴィネ嬢』とお呼びくださいますよう」
と、ヘリストが、フェリアの養子縁組が問題無くなされたことをラグナに報告した。
壮年を過ぎたケルヴィネ男爵夫妻には子供がなく、また、彼らの人柄もあって、フェリアの輿入れによって国内の貴族達の勢力図が変わることはないだろう、と、ヘリストは語った。
「面倒臭いな」
「面倒臭いんです」
大きく肩で溜め息をついて、ヘリストは眉間に皺を寄せた。「面倒臭くされたのはラグナ様なんですから、お諦めください」
返す言葉も無く、ラグナは「解った」と頷く。それから、「それで」と言葉を続けた。
「私は、フェリアにはいつ会え……」
「当分はお諦めください」
ラグナの言葉を遮って、ヘリストが言いきった。
「ケルヴィネ嬢には、麦秋祭までの二カ月の間、いわゆる貴族社会というものについて、みっちりと学んでいただかなくてはなりません。それこそ、礼儀作法から、主要な方々のお名前、家族構成まで。ラグナ様と遊ぶ時間などありません」
「私は別に、彼女の足を引っ張るつもりはないぞ。何か彼女の助けができないかと思……」
「ラグナ様」
非難めいた眼差しで、またもヘリストがラグナの言葉を遮った。
「来月あたり、彼女が養家にいくらか慣れた頃を見計らって、両家の顔合わせを行うつもりです。それまでは大人しくなさっていてください」
こう言われてしまうと、もはやラグナには何も言えなかった。なにしろ、全ては、他ならぬ自分に端を発しているのだから。
「それと、先ほど陛下から例の紅玉の代金を賜りましたので、明朝にでも鉱山へ届けさせようと思います。つきましては、紅玉のお受け取りはどうなさいますか?」
盗難騒ぎを引き起こした反省も込めて、きちんと筋を通すために、代金を支払うまでは紅玉は鉱山で預かってもらうことになっていた。
胸の奥からせり上がってきた重苦しい塊を、ラグナは今一度、深呼吸ののちに呑みくだした。それから、なんでもないような態度で、口を開いた。
「既に婚約は為された上に、像は未完成なのだろう? 約束通り金を払った上で、紅玉は鉱山の好きに任せよう。迷惑をかけた詫び事代わりに」
「……よろしいのですか?」
ヘリストが、そっと眉をひそめる。
ラグナはおざなりに首を縦に振った。
「ラグナ」
課外授業が終わり、ヘリストの部屋から自室へ戻る途中、西日差す廊下の片隅で、ラグナは父王クラウスに呼び止められた。
「丁度私も、用があって部屋に戻るところでね」
ラグナに歩調を合わせながら、クラウスはにっこりとラグナに微笑みかけた。
「このところ、なかなか二人で話す機会がなかったからね」
屈託のない表情のせいだろうか、クラウスは、同年代のヘリストよりも十は若く見える。身分の差ばかりか十六もの歳の差を乗り越えてクラウスがテアと結ばれることができたのは、彼の人となりの他に、この見目もものを言ったのではないだろうか、と、ラグナはつい下世話なことを考えた。
「しかし、驚いたなあ、いきなり婚約だなんて」
「……申し訳ありません」
「ああ、いや、もう既に我々も心を決めたことだからね。お前を責めるつもりはないよ」
石造りの壁や天井に、二人の靴音がばらばらと反響する。
「素敵な娘さんなのだそうだね。思慮深くて、芯が強くて、お前ととてもお似合いだとテアに聞いたよ」
「母上が」
こらえ性を鍛えなさい、と、何よりもまずラグナに釘を刺したテアが、そんなふうに二人のことを肯定的に語っていたと知って、ラグナは思わず驚きの声を漏らした。
「彼女はお世辞なんて言わない人だからね。だから、皆、お前が良い相手と巡り合えたんだな、と、心から喜んでいるよ。ハスロの叔父貴なんて、テアの時にはあんなに反対したくせに、『テアさんがそう言うのなら、良い娘さんなんだろうな』なんて言うんだから、どうしてくれようかと思ったよ」
そう満面の笑みを浮かべ、それからクラウスはそっと視線を伏せた。
「まさかこの私が、子の親になれたばかりか、子の結婚相手を迎えることができるとはなあ」
ありがたいことだ、と呟いたクラウスの声は、本当に嬉しそうだった。
ラグナが無言で見つめる中、クラウスは再びラグナのほうを向くと、照れを隠すように、口角を引き上げる。
「お前達のためにも、まだまだ頑張らないといけないな」
ラグナは、八カ月前にヘリストに聞いた、両親の馴れ初めの話を思い返していた。王家のために生涯独身を貫くつもりだった父が、あの鉱山で母と出会ったのは、まさに僥倖だったのだろう。しかし、と、胸の奥で続けると同時に、ラグナは「父上」とクラウスに呼びかけていた。
「なんだい?」
「父上は……、その……、どうして母上と結婚しようと思ったのですか」
目の前に実父という前例が存在するラグナと違い、クラウスの場合は、最初の一歩目からして、先を見通せない漆黒の闇に足を踏み入れるようなものだったはずだ。そこに不安や躊躇いは無かったのか。ラグナの問いかけに、クラウスはそっと目を細めた。
「私はね、お飾りや政治の具が欲しかったわけじゃないんだ。生涯をともに語り合い、ともに歩むことのできる連れ合いが欲しかっただけなんだ」
例えばヘリストのように、と付け加えてから、クラウスは少し芝居がかった調子で周囲を窺った。「おお、いけない。これを言ってしまうとテアに怒られるんだった」と朗らかに笑う。
「『どうしてそこで先生のお名前が出てくるんですか。私の恋敵ですか。全く勝てる気がしないんですが』だってさ。テアが誰かに負けるはずなんてないのに」
息をするようにするりと吐き出された惚気に、ラグナは内心で溜め息をついた。いつぞや聞いた『いつまでも仲良くていいわよねえ』というアン叔母の台詞が、まざまざと脳裏に甦る。
そんな息子の心情に全く気づいた様子もなく、クラウスは柔らかい笑みとともに、ラグナの顔を覗き込んできた。
「そうだ、ラグナ。ヘリストには、お前も大いに感謝しなければならないよ」
「どうしてですか」
一体何の話だろう、とラグナが首をかしげれば、クラウスは悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「紅玉の像での結婚の申し込みはね、元々ヘリストの考えた案だったんだよ。『それぐらいの予算は分捕りますから、さっさとそれ持って心置きなく思いの丈をぶつけてきてください』ってね」
クラウスの話を聞きながら、ラグナは、ウルスが罪を告白した時のことを思い出していた。ウルスが何を目的に紅玉を盗んだのか知ったヘリストが、憔悴しきった顔で床にくずおれたことを、思い出した。
俺はどこまで他人を傷つければ気がすむのだろうか。機嫌よく話し続ける父親の横で、ラグナは密かにこぶしを握りしめた。
楽隊の奏でる円舞曲が、軽やかに風に乗って、広い庭園を囲む木々の葉までをも踊らせる。どこまでも澄み渡った青空の下、煌びやかに着飾った人々が、笑いさざめきステップを踏む。見事なダンスが披露されるたびに、飲み物を手にした見物から惜しみない拍手が湧き起こった。
今日は、小麦の収穫が無事終わったことを祝う麦秋祭だ。王都の広場という広場に楽器を持った人々が集まり、天からの恵みに感謝を捧げて歌い踊る。それは王城でも例外ではなく、聖堂脇の庭園では、国内の主だった有力者を招待しての舞踏会が行われていた。
六月は、カラントが一番輝く季節だ。刈り取りを待つ小麦の海と、その背後にそびえる緑なす山々。滄湖に写り込む風景は、まるで巨匠が腕を振るった一枚の絵画のよう。やがて刈り入れを迎えて、一度は枯れ草色と化した小麦畑が、次第に若草色に塗り替えられていくさまにも、胸躍らされる。
そうして迎えた祭の日、浮かれ騒ぐ人々を更に浮かれ立たせたのは、ラグナ王太子ご婚約の知らせだった。尤も、大多数の市井の人々にとってケルヴィネ男爵の名は、北のほうにそういう名前の町があったような、という程度の認識でしかなく、皆は「あのお小さかった王太子殿下が」と、ラグナの成長を喜ぶばかりだった。
しかし、詳しい話が事情通などから広まってゆくにつれ、人々の噂話は、当初とは少し趣を変えて盛り上がってゆくことになる。
男爵のご令嬢って、もともとはアタシらと同じ平民なんだって。
命がけで火事から子供を助けた姿に、男爵夫妻がいたく感動して、是非我が娘に、と引き取ったらしいよ。
王妃様もだけど、王家に嫁ごうって人は、やっぱり普通の人とは違うんだねえ。
結局のところ、元平民っていっても、今は男爵様とやらのお嬢様なわけだし。
でも、少なくとも、そこらのお貴族様よりかはずっと、わしらのことを見てくださるんじゃないか?
王妃様のように。
そうだな。王妃様のように……。
養父母とともに王城庭園に姿を現したフェリアは、もう、どこから見ても押しも押されもせぬ良家の娘だった。銀糸をあしらった翠玉のドレスに、大きく開いた胸元を飾る金剛石のネックレス。胡桃色の髪は、襟足を逆立たせた上で耳の脇からぐるりを生花で飾り、短さを目立たなくさせている。そして、それら華やかな装いにも負けぬ、強い輝きを放つ琥珀の瞳。
物見高さからフェリアに向けられた、幾つもの不躾な眼差しが、漏れなく感嘆の色を浮かべるさまを目の当たりにして、ラグナは密かに胸を撫で下ろしていた。危惧していた短い髪も、化粧師の見事な仕事ぶりに加えて、ヘリストが事前にそれとなく流した「火事から子供を救い出した勲章である」という逸話が功を奏したか、居並ぶ一同に嘲るような気配は感じられない。
ケルヴィネ男爵一家は、真っ直ぐに国王夫妻とラグナの前に進み出ると、深く最敬礼をした。重ねて招待状へのお礼を述べたのちは、王の前から下がり、王族公爵から順に、挨拶を交わしていく。
神妙な顔で養父母に付き従っているフェリアを、ラグナははらはらと見守り続けたが、次なる招待客が自分達のほうへやってくるのを見て、仕方なく意識を目の前に戻した。
お客様は全員おいでになりました、と家令がクラウス王に告げるや否や、ラグナはフェリアを探しに庭園の奥へと向かった。
先ずは、ダンスに興じる人々の中にフェリアがいないことを確認し、そっと安堵の溜め息を吐く。そうしてあらためて周囲を見回して、一番外れにあるテーブルの傍に、背筋を伸ばして佇む、愛しい娘の姿を見つけた。
ラグナは、他の客に失礼のないよう気を配りつつも、出来得る限りの早さでフェリアのもとへと向かった。
「ケルヴィネ嬢」
心持ち上がった息を整えながら、ラグナはフェリアに声をかけた。
フェリアは、優雅な仕草で軽く膝を折り、返事の代わりとする。
カラント家とケルヴィネ家、両家の顔合わせ以来、実に一か月ぶりの再会だ。次に会えたら、と楽しみにしていたことが、ラグナには山ほどあったはずだったが、胸の奥から溢れ出す熱にのぼせてしまったか、一向に思考がまとまらない。言うべきことを見失ったラグナは、とにかく右手をフェリアに差し出した。
「一曲、踊っていただけないか」
絹の手袋に包まれた華奢な指が、そっとラグナの手に乗せられる。
フェリアの所作に、すっかり見惚れてしまっていたラグナだったが、握りしめた彼女の手が微かに震えていることに気がついて、彼は小さく息を呑んだ。
深呼吸一つ、頭にかかる靄を振り払う。それからラグナは、父親仕込みの見事なステップで、フェリアを優しくリードした。
風とたわむる軽やかな調べが、二人を世界から切り離す。
フェリアの動きにはまだ少しばかり堅さが残ってはいたが、その足運びは完璧だった。一体どれぐらい練習したのだろう、と感嘆する一方で、誰と練習したのだろう、との悋気もラグナの中で首をもたげる。
本当に俺はどうしようもないな、と、ラグナは内心で苦笑を浮かべた。大きく息をつき雑念を追い出し、フェリアを見つめる。
フェリアは、真剣な表情で、進行方向を見据えていた。
そのひたむきな眼差しを眺めるほどに、胸の奥を締めつけられるような感覚に襲われ、ラグナは奥歯を噛み締めた。
「苦労をかけてすまない」
「いいえ」
あまりにも早い返答が、余計にラグナの心を切り苛む。
痛みに耐えて、ラグナは胸一杯に息を吸い込んだ。
「お前は、絶対に、俺が幸せにする」
それが、フェリアへの償いだ。そして、ウルスやヘリストへの贖罪でもある。そうラグナが胸の内で呟いたその時、フェリアが僅かに顔をラグナに向けた。
「存じ上げております」
取りすました口調を裏切る、柔らかい眼差し、悪戯っぽい笑み。
ラグナは、自分の頬が一気に熱くなるのが分かった。
フェリアが再び視線を前へ戻す。
ラグナは自動人形のごとく淡々とステップを踏みながら、ひたすらフェリアの横顔を見つめ続けた。
無事一曲を踊り終え、最初のテーブルへと戻ってきたラグナ達のところへ、一人の恰幅の良い紳士が近づいてきた。派手やかな宝飾品を幾つも身につけ、波打つ緋色の髪をだらりと両胸に垂らしたその男こそ、臣民爵位筆頭の力を持つ、セルヴァント伯爵に他ならない。
伯爵は、わざとらしいほど愛想の良い笑顔で、ラグナに向かって両手を大きく振り開いた。
「ラグナ殿下、そのお嬢さんを紹介していただけませんかな」
ラグナは、フェリアに小さく頷いてから、セルヴァント伯に向き直った。
「彼女は、フェリア・ケルヴィネ嬢です。ケルヴィネ嬢、こちらが、マルクス・セルヴァント伯爵」
フェリアの披露した丁寧な挨拶に、セルヴァント伯は至極満足げな笑みを浮かべた。
「いやはや、お噂に違わぬ美しい方ですな。流石、殿下のお心を射止めただけのことはある」
フェリアをねめまわすセルヴァント伯の目つきが、次第に粘り気を増していく。
込み上げてきた不快感を、ラグナは無理矢理呑みくだした。
「今しがたのダンスもお見事でしたな。お二方とも、息もぴったり合っておられて、ほれ、会場のあちこちから、恋破れた者どもの嘆きが聞こえるようではありませんか」
そう言って伯は、大きな動作で庭園をぐるりと見まわす。
「私めの孫がもう少し大きければ、私もあれらの仲間入りをするところだったんでしょうがね。良かった、と申しましょうか、残念、と申しましょうか……」
芝居がかった調子で胸に手をあて、セルヴァント伯は深々とお辞儀をした。
「心から祝福いたしますぞ、殿下」
「ありがとうございます」
機会がありましたら是非我が城にもおいでください、と去ってゆくセルヴァント伯と入れ替わるようにして、ヘリストがラグナ達の傍にやってきた。
ヘリストは、飲み物を乗せた銀の盆を、ねぎらいの言葉とともに、ラグナよりも先にフェリアに差し出した。殿下のあとで、と何度も遠慮するフェリアだったが、とうとうヘリストに押し切られて、恐縮しつつも錫の酒杯に手を伸ばす。
紅を差した唇が器の縁にそっと口づけるさまを横目で見ながら、ラグナはヘリストに語りかけた。
「先生」
「なんでしょう」
「セルヴァント伯のご令孫は、確か十三歳になられたと記憶しているが」
一瞬、ヘリストの気配が大きく乱れたのがラグナには分かった。
だが、流石はヘリスト、殆ど間を置くことなく、彼は平静を取り戻す。
「左様でございます」
「伯は、父上の時にご息女を妃にと仰っていたとのことだが、その時、伯のご息女はお幾つだったのだ?」
ヘリストは、しばしの無言を経て、絞り出すように声を発した。
「……十二歳であらせられました」
「ということは、伯は」
「お待ちください、ラグナ様」
ラグナの言葉を遮って、ヘリストは静かに話し始めた。
「伯が父君として振るうことのできたお力と、現在、祖父君として振るうことができるお力とを、同列に語ることはできません。ましてや、伯のご子息――件のご令孫の父君であるミュリス男爵は、かつて従者として陛下にお仕えしておられた少年のみぎりから、忠臣の誉れ高いお方です。さしもの伯も、ミュリス様のご意向を無視して、ラグナ様にご令孫を差し出すことはできなかったかと思われます」
ヘリストの口調は、普段よりも若干早口に聞こえた。
「しかし」
「ラグナ様」
有無を言わさぬヘリストの声に、ラグナは思わず口をつぐむ。
「ここから先は、我々の仕事です。ラグナ様には、ラグナ様の為すべきことがおありになるはず」
そう囁いたのち、ヘリストは、優しい眼差しを二人に向けた。
「今は、ご学業のことと、ケルヴィネ嬢のことを第一にお考えください」
カラントにもようやく本格的な夏がやってきた。
積乱雲浮かぶ紺碧の空の下、みずみずしい蔬菜や果樹が、来るべき収穫の日を待ち望んで、豊満な身体を甘い風に揺らしている。木々はいよいよ青く、水はますます清く、休みの日ともなれば人々は競って近郊へ足を延ばし、短い夏を全身で謳歌するのだ。
王城の菜園で採れたばかりの野菜のスープを、朝食にいただきながら、ラグナはふと窓の外を見やった。
植栽の緑よりも更に深い常盤の山が、脳裏にゆらりと浮かび上がる。
「今年はヴァスティには行かないそうね」
まるでラグナの心を読んだかのような言葉が、向かいの席から投げかけられ、彼は勢いよく視線を室内に戻した。
ラグナの母、テア王妃が、灰緑の瞳を真っ直ぐにラグナに向けていた。
肩口に優雅な螺旋を描く朱の髪は勿論、その顔貌も、テアは妹であるアン叔母と非常によく似ていた。ただ唯一、この眼差しだけが、彼女達姉妹を決定的に違えさせている。真理を見通さんとばかりに対象物に打ち込まれる、容赦のないこの眼差しが。
「珍しくアンから手紙が来たわ。ラグナはいつこちらに来るのだろうか、って」
動揺を悟られないように細心の注意を払いながら、ラグナはそっと目を伏せた。
「勉強しなければならないから、当分は無理だとお伝えください」
「勉強なら、向こうでもできるのでは? 今までは、そうしていたでしょう?」
あまりにも無神経な問いかけに、ラグナはつい語気を荒くした。
「主席を取れと言ったのは、母上でしょう」
と、テーブルの左辺から、わざとらしい咳払いとともに、クラウス王が苦笑を投げかけてきた。
「あー、すまないが、あの条件をつけたのは私なんだよ」
「父上が」
「まあ、なんだ。お前が、想い人が近くに来たことで浮かれてしまって、為すべきことを疎かにしてしまわないか、と心配してね。どうやら、とんでもない杞憂だったみたいだけど」
クラウスはそこで少し息を継いで、お前は私と違って本当にしっかりしているね、と、破顔した。
「条件を少し厳しくしすぎたかな、と後悔しているんだよ。なんなら……」
「別に構いませんよ。私が暇になったところで、ケルヴィネ嬢が忙しくては、浮かれようもありませんからね」
半ば投げやりに肩をすくめてみせれば、テアが、「フェリアも?」と眉を寄せた。
「本当に、勉強熱心な娘さんだね。麦秋祭では驚いたよ。生まれついての貴族のお嬢さんと言われても、誰も疑わないだろう。違和感なんて微塵も無かったからね」
クラウスが上機嫌で話している間も、話し終えたあとも、テアはじっとラグナを見つめ続ける。
やがて、テアが静かに口を開いた。
「ウルスが、工房で班長に昇格したらしいわ」
その名を聞くなり、ラグナの目の奥を火花が走った。痛みに似たその感覚に、食事の手が一瞬止まる。
ラグナは、気力を振り絞ると、何事もなかったかのように、パンを口に運んだ。
「それって、凄いのかい?」
クラウスが、唐突な話題転換に頓着することなく、無邪気にテアに問いかける。
テアは、ラグナから視線を外さぬまま、「あの若さでは普通は無理です」と答えた。
「誰よりも早く工房へ行って、誰よりも遅くまで残っている、と、アンの手紙にありました。休みも殆どとらず、一心不乱に仕事に没頭しているそうよ。アンとヨルマが何を言っても耳を貸さず、このままでは身体を壊してしまうんじゃないか、と心配している、と。ラグナが来てくれたら、ウルスも気分転換ができるんじゃないか、と、そう記されていました」
全力で平静を装うラグナの脳裏に、絶望に見開かれた灰色の眼が、まざまざと浮かび上がってくる。
ラグナは、胸の中が空になるまで息を絞り出した。未だ記憶の片隅にこびりついていた残像を、吐く息とともに、今度こそ残らず追い出さんとして。
ほどなく、しぼみきった胸腔に、新鮮な空気が勢いよく流れ込んでくる。
「奴が好きでやっていることでしょう。私が行ったからといって、何か変わるとは思えない」
依然としてラグナを見据えつつ、テアは静かにラグナの名を呼んだ。
ラグナは、黙ってテアを見返した。
「仮に、もしも主席の条件が無かったとしたら、お前はヴァスティに行くのですか?」
「行きませんね。代表委員会の仕事もありますから」
しばしの間、母子は互いに正面から睨み合った。
クラウスが、固まった空気をほぐすように二人に話しかける。
「そりゃあそうだろう、テア。ケルヴィネ嬢も王都に居るとなれば、ここを離れがたく思うのも当然だろう。なあ、ラグナ」
「そうですね」
おざなりに頷くと、ラグナは目の前の皿に意識を戻した。刺すようなテアの視線を全身で感じながら。
テアに言ったとおり、生徒を取りまとめるべき代表委員長として、ラグナは放課後も多忙な日々を送っていた。
ラグナの通う王立学校は、いわゆる上流階級の子弟のための学校だ。生徒達は、将来人の上に立つことが約束されている者ばかり。領地経営や事業経営に携わる人材を育てるという観点から、課外演習の一環として、多種多様な学校行事の運営を、代表委員を中心に生徒自らが行うことになっている。
夏の休暇が終わった今は、来月に開催される馬術競技会の準備が、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。この日の放課後も、ラグナは授業が終わると、同じ組のもう一人の代表委員とともに、校舎の北の端にある代表委員執務室へ向かった。
執務室には、既に何人もの下級生の姿があった。対して、最上級生である六年生は、ラグナ達二人しか来ていない。どうせ政治学か歴史学あたりの授業が長引いてしまっているのだろう。もう少し人が集まるまでは自由にしてくれ、と、ラグナが一同に告げた時、派手な音をたてて扉が開かれ、五年の委員が部屋の中へと駆け込んできた。
「大変だ、競技会の日程を変更しろ、って先生が」
何故ですか、と声を上げた下級生のほうを向いて、五年生は話を続ける。
「例の会談だよ。秋に南の帝国との平和会談がクセスタで行われる、って話だったろ。その日程が、ついさっき学校に通達されたらしいんだけど、それが、よりによって競技会当日なんだって」
皆がざわめき始める中、先に来ていた別な五年生が、「委員長」と、ラグナに呼びかけた。
「どうしましょう? 今から調整すれば、前の週に行えるかも……」
「当初から、競技会は会談のあとに行うと決めていただろう?」
ラグナはやんわりと指摘したつもりだったが、その五年は血相を変えて「すみません!」と頭を下げる。
気にするな、と苦笑を投げかけてから、ラグナは一同をぐるりと見回した。
「今のカラントにとって、帝国との会談は最優先事項だからな。万全の体制で臨むべきだ。たとえ学生の行事であったとしても、少しでも余計な労力を会談前に割くわけにはいかない」
たかが学校行事といえども、生徒達が動けば必然的にその親や縁者も動く。国の根幹を成す大勢に影響が出るのは必至だ。
「なあに、延期については、もとより想定済みだったから、問題ない」
鷹揚に構えるラグナに、知らせを届けた五年生が、急いた調子で問いかけてくる。
「日付はどうします? クセスタまで片道二日ぐらいだから、余裕をみて、一週間後?」
「いや、二週間後にしよう」
ラグナの言葉を聞いて、皆が意外そうな表情になった。それらを代表するようにして、六年生が口を開く。
「帝国と我が国と、互いに不可侵条約を結ぶ。それが、今度の会談の内容だろう?」
「そうだ」
「条約の内容は、既に両国の間で調整済みだと聞いているが」
「そのとおりだ」
「ブラムトゥスとの国境に行って、条約に調印して、帰ってくる。それだけのことに、二週間を? 冬が来るぞ」
正面切って異議を唱える級友に、ラグナもまた、真摯な眼差しで応えた。
「万が一を考えたまでだ。二度の延期は、流石に難しかろう」
「……まあ、確かに、二週間もあれば、何があっても大丈夫ではあるな」
この場にいる全員の同意を得たところで、ラグナは皆に指示を出した。
「まずは、この新しい日程の案を、早急にそれぞれの組に伝えてくれ。異論がある者は明日の放課後までに申し出るように、とも、頼む」
まだ教室に何人か残っているかも、との誰かの声を皮切りに、ばらばらと全員が執務室をあとにする。
最後の一人となった先刻の六年生が、ふと、戸口のところでラグナを振り返った。
「ラグナ」
「なんだ」
「万が一、ということが、あると思っているのか?」
ラグナは、ゆっくり大きく息を吸い込むと、涼しい顔で笑ってみせた。
「まさか」
「……そうか」
級友の背中が扉の向こうに消えるまで、ラグナがその表情を崩すことはなかった。
秋の気配が日に日に色濃くなる中、親しい者を招いてのラグナ王太子十八歳の誕生祝いの会が、王城にて催された。
大広間には長い長いテーブルが用意され、料理人達が前日から仕込んでいた豪勢な料理が、所狭しと並べられた。王族公爵の面々は言うに及ばず、ヘリストを始めとする王の側近や近侍達までもが、テーブルに席を与えられ、ともに晩餐を楽しんだ。
勿論、その中には、ケルヴィネ男爵一家の姿もあった。
ラグナがフェリアに会うのは、先月に余所の夜会でエスコートして以来、実に三週間ぶりのことだった。見るたびに洗練さを増す彼女の姿に、ラグナはただ見惚れるばかりで、何度も親戚の大人達のからかいを受ける羽目になった。
楽しいひとときはあっという間に終わりを迎える。
招待客が三々五々いとまを告げるごとに、吹き込む風に宴の余韻は吹き散らされ、賑やかだった大広間は、みるみるうちに物寂しくなってゆく。
「今日は身内の集まりだっただけに、皆、遠慮が無かったからな。疲れただろう」
最後に残ったケルヴィネ男爵夫妻が、国王夫妻と話し込んでいる横で、ラグナはフェリアをそっとねぎらった。
「いいえ。皆様、親切な方ばかりで、とても楽しゅうございました」
「そうは言っても、無理は禁物ですよ」
と、いつになく真顔で、サヴィネが横から口を出す。
邪魔者は去れ、とのラグナの視線に一向に気づく様子もなく、サヴィネは眉間に皺を寄せたまま話し続けた。
「あまり根をお詰めにならないでくださいよ。我々が力になれることがあれば、遠慮なく仰ってください」
「ああ。そのとおりだ。何でも言ってくれ」
言うべき台詞をサヴィネに取られてしまい、ラグナはつい声に力を込めた。
だが、当のサヴィネは、ラグナの機嫌などお構いなしに、真剣な表情で更に言葉を重ねていく。
「例えば、ヴァスティに何か手紙など届けたいものがあれば承りますから。ね、ラグナ様」
「え、あ、ああ」
思わぬ話が飛び出したことに、ラグナはつい声を詰まらせた。
フェリアは、にっこりと微笑んで、うやうやしくサヴィネに頭を下げる。
「ありがとうございます。でも、特に何もありません」
「遠慮なさらなくてもよいのですよ。ルウケのお屋敷へは、定期的に人が参りますから。改まった用件ではなくても、気軽に手紙を託けてくだされば。生みのご両親やウルスさん達もお喜びになるでしょうし」
「大丈夫です。必要な時は、お父様やお母様にお願いいたしますから」
その瞬間、微笑んだままのフェリアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
燭台の灯りを映して煌めく雫が、ラグナの目を焼き、脳髄をも焦がす。
ラグナが、身動きは勿論、声を出すことすらできないでいると、フェリアが慌てて指の背で目元を拭った。
「あら、いけない」
サヴィネが、おろおろとフェリアとラグナを交互に見やる。
フェリアは、再び花綻ぶようにサヴィネに微笑みかけた。
「すみません。殿下ばかりか、サヴィネさんにまでこんなに親切にしていただいて、私はなんて幸せ者なんだろうと思って……」
「フェリアさん、随分お疲れのようでしたが、大丈夫でしょうか」
ケルヴィネ家の馬車を玄関先で見送りながら、サヴィネが心配そうにラグナに語りかけてきた。
国王夫妻やヘリスト達が、馬車が門から出てゆくのを見届けて、建物の中へと戻っていく。それを横目で見つつ、ラグナはサヴィネのほうに向き直った。
「仕方がないだろう。彼女が王都へ来て、まだ半年も経っていないんだからな。慣れない地で気も張るだろう」
「それはそのとおりなんでしょうが、でも……」
サヴィネは、まだ門のほうを気にしている。
ラグナはなんだか無性に腹立たしくなって、思わず声を荒らげた。
「でも、何だ。彼女が俺との結婚を嫌がっているとでも言うのか」
「どうしてそんな話になるんですか?」
心底不思議そうなサヴィネの声音を聞き、ラグナはハッと息を呑んだ。
狼狽える余裕すらなく顔を背けるラグナに、サヴィネの視線が突き刺さる。
「ラグナ様は、何を誤魔化しておられるのですか?」
ラグナの脳裏に、ヘリストの声がこだました。我々はこの秘密を墓場まで持っていかなければなりません、と、何度も、何度も。
大きく深呼吸をしてから、ラグナはサヴィネの顔を見た。
「何も誤魔化してなどいない。そもそも、俺ごときの誤魔化しが通用するお前ではあるまい」
「そういう意味ではないです」
「なら、何だというのだ」
しばしラグナを見つめたのち、サヴィネは静かに口を開いた。
「ラグナ様は、何について、ご自分を誤魔化しておられるのですか?」
瞼を閉じれば浮かび上がる、フェリアの笑顔。柔らかい曲線を描く白磁の頬をつたう、一筋の涙。
あの涙が、目に焼きついて離れない。
ラグナは、枕を思いっきり寝台に叩きつけた。
白い羽毛が幾ひらも宙を舞う。
彼女が俺との結婚を嫌がっているとでも言うのか。――この言葉が口をついて出た刹那、ラグナは、自分が自らの咎をいつの間にか心の奥底に塗り込めてしまっていたことに気がついた。
そう、この婚約は、彼女の弱みにつけ込んでこぎつけたも同然のもの。それは、ラグナ自身理解していたはずだった。自分の行いが、どれほど卑怯で唾棄すべきものかということも、充分に。愚かな行為に及んだラグナの涙を拭い、抱き寄せてくれはしても、それは彼女の優しさが為せたものであり、ラグナに心を寄せてくれたわけではない、と、解っていたつもりだった。
だが、と、ラグナはこぶしを握りしめた。だが、あの見送りの時、彼女はラグナに笑顔を向けてくれたのだ。
それは、暗闇を彷徨うラグナに差し込んだ、一筋の光だった。フェリアの心を失い、ウルスという知己を失い、故郷をも失おうとしているラグナに残された、たった一つの希望だった。
ラグナは、このか細い光明に、全力ですがりついた。もしかしたら、これから少しずつ二人の時間を重ねてゆけば、やがてフェリアの心をウルスから完全に引き剥がせるのではないか、と夢想した。いつかは自分達も父や母のようになれるんじゃないか、と、夢を見た。
そして、それが現実となったかのように、フェリアはラグナに微笑みかけてくれた。両家の顔合わせの時も、麦秋祭の舞踏会でも、そして今日も――。
ラグナの脳裏で、また、涙の雫が床に落ちる。
次いで、無言で俯く頼りなげな人影が、ラグナの目の奥をよぎった。ルウケの館で、失意のまま去っていくウルスを見送ったあと、ヘリストに連れられて部屋を出ていったフェリアの姿が……。
ラグナは奥歯を噛み締めた。それから、床に落ちた羽毛を蹴散らして、寝室を飛び出した。
ヘリストは、図書室にいた。一番奥まったところにある机で、分厚い本を傍らに、難しい顔で何か書類を書いていた。
ラグナは、大きく息を吸うと、腹に力を込めた。
「先生!」
ヘリストが、顔を上げた。
「先生は、フェリアに、何を言ったんですか」
ランプの炎とともに、壁に映ったヘリストの影も揺らぐ。
ヘリストの眉が、怪訝そうにひそめられた。
「何の、いえ、いつの話ですか」
「ルウケの館で、ウルスと先生に、フェリアとの婚約を告げた、あの晩に」
ラグナの言葉を聞いて、ヘリストの顔から一切の表情が消えた。
「ケルヴィネ嬢のご意思の確認はいたしましたが」
「意思の、確認」
「ええ。あなたは本当に、快く、ラグナ様の求婚を承諾なさったのですか、と」
ラグナの喉が、ごくりと鳴った。
ヘリストは、淡々と話し続ける。
「ケルヴィネ嬢は、『勿論です』とお答えになりました」
風が吹き込んだか、机上の灯りが明滅する。
ヘリストの眼差しが、深みを増した。
「ですから、一言、ご注意申し上げました。『ならば、皆にそう見えるように振る舞ってください』と」
ラグナは、目の前が真っ暗になったような気がした。
愕然と立ち尽くすラグナに、ヘリストが囁いた。あくまでも無表情のまま、「何か問題がありましたかな」と。
澄み渡る秋空に、トランペットの音が吸い込まれてゆく。
大勢の人々が見送る中、クラウス王一行が、国境の町で行われる平和会談に出席するために王都を出発した。
片道僅か二日の行程とはいえ、一国の主の同道となれば、その規模もそうそうたるものである。何台もの馬車や荷馬車を騎兵や歩兵が取り囲んだ、威風堂々とした行列に、沿道の人々から何度も歓声が上がった。
歩兵の掲げる旗の中には、セルヴァント家の紋章が入ったものもあった。近衛兵長のミュリス男爵だけでなく、その父親のセルヴァント伯爵もが、今回の旅には同行しているのだ。
「父上を頼んだぞ、サヴィネ」
城の門の前、勇壮なる行進を見送りながら、ラグナは思わず独りごちた。
「陛下には、近衛兵も儀仗魔術師も選りすぐりの者どもをおつけいたしましたからな。王城が手薄にならないか、と、逆に陛下のほうが心配なさっておられたぐらいです」
ヘリストが耳ざとくラグナに話しかけてくる。ラグナは唇を引き結ぶと、曖昧に頷いた。
誕生会の夜以来、ラグナはどうしても師の言葉を素直に聞けないでいた。
ヘリストに一切の邪心が無いことは、ラグナにも分かる。彼はいつだって、主人であるクラウス王を、いや、王家を第一に考えていた。そのたぐいまれな頭脳を、全てカラント家のために捧げていた。
優秀であるがゆえに、ヘリストが選ぶのは常に最適解だ。途中どんなに逡巡しようと、あとでどれだけ心痛めることになろうと、決定に際して何らかの感情が差し挟まれる余地はない。それは、テアの輿入れにまつわる話を聞いた時に、ラグナも薄々気がついていたことだった。
そして、このたびのフェリアの件である。ヘリストにとって、フェリアが思い入れのある教え子であるのは間違いない。彼が事あるごとに彼女を気遣っているのは、この婚約がラグナによる一方的なものであることに薄々気がついているからだろう。
だが、それでも、ヘリストはフェリアの退路を容赦なく断ち切った。王家の評判に僅かでも傷がつくことを、忌避したのだ。
ラグナは、そっと奥歯を噛み締めた。ヘリストからみれば、ラグナですら王家隆盛のための単なる「駒」でしか過ぎないのかもしれない、と。
「なんにせよ、この条約が無事締結されれば、当分は国の外のことを気にせずにすむでしょうな」
ラグナの胸中を知ってか知らずか、ヘリストは語り続ける。
「さて、陛下がお帰りになるまでの一週間、我らも我らの仕事をしっかり為し遂げるとしましょうか」
それから二日間は、何事も無く日が過ぎていった。
三日目の朝まだき、円い月がまだ空の高くにいるうちに、ラグナはヘリストに叩き起こされた。
「至急、陛下の執務室へおいでください」
そう囁いた師の声は、はがねのように堅かった。ラグナは文句を言うことも忘れ、最低限の身支度を整えると、ヘリストに従って部屋を出た。
黙々と渡り廊下を進み、執務室のある棟へ入る。
静まり返った長い廊下に、ヘリストの持つランプの光が、二人の影を幻燈のように浮かび上がらせた。影は、それ自身が意識を持った生き物のように、手足の長いいびつな身体をゆらゆらと揺らしながら、二人とともに階段を上っていく。
こんな時間に、しかもヘリストが直々にラグナを呼びにくるなんて、普通では考えられない事態だった。一体何が起こっているのか、不吉な予感を胸に、ラグナは国王の執務室に足を踏み入れる。
ランプの灯された王の机の横には、テアの姿があった。ラグナ同様、休んでいたところを無理に引っ張り出されてきたのだろう、普段よりは幾分気軽な服装で、だが普段どおり凛とした態度で、背筋を伸ばして立っている。
テアのすぐ面前、王の机の手前には、薄片鎧を着た男が、深々と頭を垂れ、片膝をついて控えていた。
「……サヴィネ!」
それが、父王とともに南へ旅立ったはずの騎士と知って、ラグナは思わず声を上げた。
「ラグナ様……」
錆びついてしまった蝶番のように、サヴィネが顔をラグナに向ける。憔悴しきったその表情を目にして、ラグナの心臓が跳ね上がった。
「サヴィネ、何があったのか、あなたの口からラグナに説明してください」
分かりました、と応える声は、ラグナが今まで聞いたこともないほどに掠れ、震えていた。
「今日の……いえ、もう昨日ですね。昨日の昼前、クセスタまでもう一息という切り通しで、我々は正体不明の武装集団の襲撃を受けました」
「なんだって?」
あまりな知らせに、ラグナは二の句を継げなかった。ただ喘ぐように息を繰り返し、サヴィネの次なる言葉を待つ。
サヴィネは、眉間に深い皺を刻んだまま、呼吸を整えるように左手で胸元を押さえた。腕に巻かれたまだ新しい包帯に、うっすらと血が滲んでいるのが見えた。
「我々は、必死で応戦いたしましたが、完全に虚を衝かれた上に、敵には射手ばかりかどうやら高位の魔術師までおり、我がほうの術師殿はことごとく倒され……」
口の中に溢れてきた唾を、ラグナは静かに嚥下した。魔術の習得には、多くの専門知識が必要だ。それゆえ、一人前の魔術師ともなれば、仕官の口に困ることなどない。つまり、王一行を襲ったのは、単なる盗賊などではない、ということになる。
「私は……、なんとか、陛下、を、お連れして、敵の包囲を突破しました。負傷なさった陛下には、少し離れたところにあった山小屋に避難していただいて、私は、こうして単身、皆様にお知らせしようと、馬を飛ばして参りました……」
そこまで語って、サヴィネは力尽きたようにがくりと顔を伏せた。
「父上は、ご無事なんだな」
暗闇に篝火を見出した心地でラグナが問えば、サヴィネは、下を向いたまま、一音一音絞り出すように、口重に、答えた。
「はい。ご無事です」
「母上、すぐに援護の兵を」
「お待ちください、ラグナ様」
テアに詰め寄らんばかりのラグナに対して、背後から落ち着いた声が投げかけられる。
「現在、ブラムトゥスとの国境付近には、平和会談に合わせて帝国軍が展開しております。下手に兵を送れば、彼らと戦争になるかもしれません。なにより、背後から矢を射かけられる可能性があります」
「裏切り者が王都にいる、と言うのか」
ラグナの語気が、自然と荒くなる。
ヘリストが、さも意外そうに眉を引き上げた。
「ラグナ様も、うすうす気づいておられたではありませんか」
「しかし、今回、セルヴァント伯自身も父上に随行していただろう」
その疑問に答えたのは、サヴィネだった。彼は、俯いた姿勢のまま、声音に苦悶を滲ませて、訥々と言葉を吐き出していく。
「当然ながら、伯の馬車も我らとともに襲撃を受けました。ですが、伯の姿は、既に馬車には無く……」
と、そこで一度声を詰まらせ、サヴィネは大きく息をついた。
「我々は陛下の命を受けて、道中、伯の行動を注意深く監視しておりました。昨日も、伯が馬車に乗り込んだのを確認したはずでした。ですが……」
「伯のご子息のミュリス男爵は?」
ラグナの問いを聞き、サヴィネの喉から唸り声が漏れた。
「……我らとともに、陛下をお守りしておられましたが……ご無事かどうかは……」
「実の息子をも切り捨てたのか……!」
腹の底から一気に込み上げる、嫌悪感に、忿怒。一瞬にしてこめかみの辺りが熱を帯びるのを自覚して、ラグナは咄嗟にこぶしを握りしめた。手のひらに爪が食い込む痛みが、おのれをおのれに繋ぎとめる。
「ミュリス様は、陛下の信奉者であらせられましたからな……」
ヘリストの声からも、切々たる無念さが聞き分けられた。
「私の後見人に手を挙げたものの、一向に甘い汁は吸えぬわ、着々と自分達の特権は削がれていくわ、業を煮やした、というところでしょうね」
そう言って、テアは窓のほうへ顔を向けた。どこか遠くを見つめながら、いつになく弱々しい声で呟く。
「ラグナに縁談をねじ込んでこないのは、権力争いの愚かさに気づいたせいか、と一縷の望みを抱いていたのですが、やはりそうではなかったのですね……」
「この数か月ほど、伯の屋敷を不審な人物が足繁く訪れているのを確認しておりました。伯が陛下に随行して王都を離れるこの機会に、セルヴァント家を検める計画でおりましたが、まさか彼奴が先手を、それもここまで道を外れた策を打つとは思っておらず……」
怒りに顔を歪ませ、絶句するヘリストに、テアはゆるりと首を横に振ってみせた。
「先生、悔やむのは後にいたしましょう。とにかく、今は一刻も早く陛下を助けに行かなければなりません。陛下が無事なことを、王都の謀反者達はまだ知らないはずです。彼らに気づかれる前に、秘密裏に行動する必要があります」
もうテアの声には、一片の不安も感じられなかった。静かな決意を瞳に湛え、ヘリストを、ラグナを、順に見据える。
ヘリストもまた、テアの言葉に深く頷いたのち、ラグナを見やった。
「私も、テア様も、王都を離れるわけには参りません。かといって、名代とするに値する者を見極める時間もない」
そう言ってヘリストは、深呼吸を一つした。正面からラグナの目を覗き込み、徐に言葉を継ぐ。
「ラグナ様ならば、数日皆の前に姿を見せなくとも、色々と言い訳が立ちましょう。どうか行ってくださいますか」
「勿論だ」
ラグナの愛馬は、既に玄関前に用意されていた。その横には、荷物を括りつけたヘリストの馬。サヴィネが乗ってきた馬は、とても使い物にならないのだろう。
気丈に振る舞ってはいるがやはり不安であるに違いない、テアが珍しく感傷的な面持ちで、馬に跨ったラグナの手をそっと握ってきた。
「どうか気をつけて」
「父上と合流し次第、すぐに戻ります」
ラグナが力強く頷いてみせれば、テアが満足そうに微笑んだ。
「サヴィネの言うことをよく聞くのですよ。わがままを言って困らせることのないように」
「分かっています」
「サヴィネも……くれぐれも気をつけて。ラグナを頼みましたよ」
「分かり、ました」
少し気負い過ぎたか、サヴィネが言葉の途中で息を詰まらせた。慌てて「お任せください!」と胸を張る。
満月が、西の空を柔らかく照らしている。東の空が闇の縛めから解き放たれるまでは、まだもう少しかかることだろう。
サヴィネに従って、ラグナも馬の腹に脚を入れた。絶妙な呼吸で、愛馬が地を蹴る。
夜のしじまの中へと、二頭の騎馬は粛々と歩を進めていった。
月の光に助けられて、二人は、速歩で城下を駆け抜けた。ヘリストの采配か、開放されていた町の門を通り、街道を南へ。次の集落を通り過ぎる頃には夜も明け、道行きは格段に楽になった。
馬の扶助についてラグナに簡単な指示を出す以外は、サヴィネはずっと無言だった。何しろ彼は、王都に凶事を伝えるために、昨日の昼からずっと駆けどおしだったのだ。疲れきった身体では、ラグナを先導するだけで手一杯なのだろう。怪我を負った両腕も痛むに違いない。いつもの朗らかさはすっかり鳴りを潜め、鷹のごとき眼差しが、影差す眼窩で油断なく光る。
不測の事態を回避するため、時には町を迂回し、馬を潰さぬよう休息を挟みながらも、彼らは快調に道を進んでいった。
夕刻になって、二人は街道を逸れた。牧草地を横切り、森の中を通る小路へと足を踏み入れる。道が悪くなった上に日も落ちて、足運びは格段に鈍くなった。目的地までは、あとどれぐらいかかるのだろうか。じりじりしながら、ラグナはサヴィネの馬のあとを追った。
見事な望月が中天にかかる頃、二人の騎馬はようやく森を抜けた。
眼前に広がる農地を、降りしきる月の光が灰色に塗りつぶしている。向こうのほうに黒ずんで見えるのは、種まきを終えたばかりの小麦畑だろうか。その少し手前側に、一軒のお屋敷が建っているのが見えた。
サヴィネは、何も言わずに屋敷のほうへと馬首を向けた。
ラグナは馬の歩度を少し上げて、サヴィネの真横に並んだ。
「あの屋敷に何か用が?」
ラグナの声が聞こえていないのか、サヴィネからは、何の返答もない。
「宿なら、不要だ。まだ行ける」
声に力を込めて言いきれば、サヴィネが掠れた声で応えた。
「ここが、目的地です」
「どういうことだ」
ラグナは思わず眉をひそめた。クラウス王を山小屋に避難させた、とサヴィネが言っていたように思っていたが、勘違いだったろうか、と。あらためて周囲を見回してみると、確かに正面も右手も農地のすぐそこまで山が迫ってきてはいるが、この屋敷を「山小屋」とは呼ばないだろう。
サヴィネは、再び唇を引き結ぶと、黙々と馬を進ませていく。
その思い詰めたような眼差しに、ラグナは、それ以上何も言うことができなかった。
屋敷の門のところには、白髪の老人が一人、佇んでいた。
サヴィネに倣って馬からおりたラグナに、老人は深々と礼をする。
「ヘリストの奴から早馬で連絡を受けております。とにかく中へ」
そう言うなり、老人はくるりと踵を返した。
ラグナは、門番に馬を預けるのも早々に、慌てて老人のあとを追った。玄関を入ったところで、ようやっと老人に追いつき、夢中で問いかける。
「父は? クラウス王はどこに……?」
「陛下なら、ここにはおられません」
老人の言葉を聞き、ラグナは勢いよくサヴィネを振り返った。胸中で渦を巻く、驚きと、不安と、怒りといった感情を、大呼して一息に叩きつける。
「どういうことだ、サヴィネ!」
サヴィネが、ラグナから顔を背けた。目をきつくつむり、歯を食いしばり、こぶしを握りしめ……、そうして、突然何か糸が切れたかのように、がくりと床にくずおれた。
「お許しください、ラグナ様……!」
両手を床について嗚咽を漏らし始めるサヴィネを前に、ラグナはただ声を荒らげることしかできなかった。
「泣いていては分からぬ! 説明しろ、サヴィネ!」
「私からご説明差し上げよう」
静かな声が、背後からラグナに差しのべられる。
ラグナは、恐る恐る老人のほうに顔を向けた。
「……あなたは、一体……?」
「もう隠居して久しいですがな、先王――殿下のおじい様のもとで、儀仗魔術師長を務めておりました。かつてヘリストには師匠と呼ばれたことのある身でございます」
ラグナにとって祖師とも言うべきその人は、慈しむような眼差しでラグナに向かって微笑んだ。その笑みに助けられ、ラグナは幾分落ち着きを取り戻す。
「それで、これは一体どういうことなのか」
眉間に険を刻み、問いを重ねるラグナに対し、祖師は、至極淡々と言葉を返した。
「国家転覆を目論む奸臣から、殿下をお守りしようというわけでございます」
祖師の発言の意味が、ラグナにはすぐには理解できなかった。
「どういうことだ。私は、怪我をした国王陛下を助けに来たのだ。このサヴィネが奸賊の手から救出してくれた、父上を」
「残念ながら、陛下は既に奸臣の手にかかってお亡くなりになっておられます」
俄かには信じがたい言葉を問い質すよりも早く、サヴィネの慟哭がラグナを打ちのめした。
「私も、最後まで陛下をお守りしたかった……! ですが、陛下が、早駆けはお前の右に出るものはおらぬから、と! 一刻も早く王都へ、このことを知らせるように、と! 殿下をたのむ、と、そう仰って、雨と降り注ぐ矢の中から、私の騎馬を押し出されて……!」
そこから先は、もう、彼が何を言っているのか聞き取れなかった。サヴィネは獣のごとく咆哮しながら、こぶしを何度も床に打ちつける。
ラグナは、身体の中ががらんどうになってしまったような心地で、ぼんやりとサヴィネを見下ろしていた。
王の執務室で凶事を報告していた時から、この屋敷へ至るまで、ずっと、サヴィネの様子は変だった。ラグナと目を合わせようとしなかったのも、必要なことしか喋らなかったのも、この、由々しき秘密を抱え込むがゆえだったのだ。
そこまで考えて、ラグナはようやく重要な事実に気がついた。
口の中がカラカラに乾いてしまっているにもかかわらず、あっという間に苦いつばきがじわりと舌の上に滲み出てくる。ラグナはそれを無理矢理嚥下すると、泣き伏すサヴィネに問いかけた。
「ということは、父上を助けに行け、というのは、嘘なのだな? 皆で俺に嘘をついていたというのだな? お前も、先生も、母上も……」
しゃくり上げ続けるサヴィネの代わりに、祖師が口を開いた。
「事実を告げられたらば、殿下は、皆と運命をともにしようとなさったのではありませんか?」
その瞬間、ラグナの脳裏に甦ってきたのは、母の姿だった。別れを惜しむように、馬上のラグナの手をそっと握りしめた、母の手のひらの温もりだった。
ラグナは、奥歯を強く噛み締めた。胸の奥が燃えるように熱かったが、不思議なことに、頭の中は冷水を浴びせかけられたかのように冴えきっていた。今しがたまで身体中を蝕んでいた疲労感も、まるで嘘のように消え失せている。
ラグナは無言で踵を返した。床にぬかずき、むせび泣くサヴィネの横を通り過ぎ、玄関扉に手をかける。
背後から、祖師の声が追いかけてきた。
「殿下、どちらへ」
「決まっている。王都へ帰る。帰って、皆とともに裏切り者と戦う」
大きな溜め息が、ラグナのすぐ後ろで聞こえた。
「やれやれ。だから、ヘリストは殿下に本当のことを言わなかったのですよ」
次いで、何か詩歌のようなものが、ラグナの耳に飛び込んできた。
血相を変えて振り返るラグナの眼前、祖師が空中に指をひらめかせて呪文を唱えている。
ほどなく、ラグナの視界に靄がかかり始めた。頭の芯が痺れだし、手足の感覚がどんどん鈍くなっていく……。
「やめろ! 俺は、王都へ戻……」
そして、ラグナの意識は、闇に呑み込まれた。
見慣れぬ鎧の軍団が、王都の通りを整然と並んで進んでゆく。
街角に満ちる不安げな囁きは、誰かが「南の帝国だ」と呟いたのを境に、恐怖に彩られた沈黙と変わった。人々は慌てふためいて建物の中へ逃げ込むと、息を潜めて窓から外を見つめた。
大鷹をあしらった旗のすぐ脇には、もう一つ、こちらは皆がよく見知っている旗が、誇らしそうにはためいていた。その下に見えるは、誰あろう、マルクス・セルヴァント伯爵の堂々たる姿。
隊列は、粛々と街を抜け、真っ直ぐ王城へと吸い込まれていった。
その日のうちに、セルヴァント伯爵による声明が、王都中を駆け巡った。
曰く、十年以上もの長きに亘って、クラウス王は傀儡と化していた。王を操り、実権を握っていたのは、王妃と儀仗魔術師長。
彼らの施政は、全て彼らが私腹を肥やすためにあった。例えば、平民の子供に教育を強制しようというのも、そう。人々から貴重な働き手を奪って困窮させ、彼らを統べる貴族にその尻拭いを押しつける。貴族と平民の垣根を崩し、社会の秩序を乱す。彼らはそうやって貴族を弱体化させ、国政をほしいままにしようとしていたのだ。
彼らの罪は、それだけではない。更なる権力を求めた王妃は、王を唆し、平和を求めて我が国を訪れた帝国からの使者を暗殺しようとしたのだ。
そのような、人の道に悖る行為を、見過ごすことができようか。カラントの民に、卑怯者の汚名をかぶせるわけにはいかない。
斯くして、非道に堕ちたクラウス王の軍勢は、清廉なる帝国軍によって返り討ちとなった。帝国軍は、報復としてカラント全土に戦火を広げようとしたが、命の恩人であるセルヴァント伯たっての願いを聞きいれ、戦争はぎりぎり回避された、と……。
王城に入った帝国兵は、このたびの騒乱の首謀者である王妃と儀仗魔術師長を拘束した。抵抗した王太子とその婚約者も抑留。のちに全員が処刑台の露と消えることになる。
王妃達の罪を認め、セルヴァント伯及びマクダレン帝国に従うならば、命を助けてやってもいい、と告げられた王太子は、裏切り者の言葉に貸す耳はない、と、最期まで威風堂々とした態度を崩さず、刑場に居並ぶ帝国兵を圧倒させたということだ。
偵察から戻ったサヴィネの話を聞き終わるなり、ラグナは愕然と呟きを漏らした。
「ウルスが……俺の身代わりに……」
祖師の屋敷の、ラグナにあてがわれた客用寝室。ラグナの向かいのソファで、サヴィネが唇を噛んで顔を伏せた。
ラグナは、自分の手元に視線を落とした。ほんの刹那、おのれの手が赤い血で染まっているさまを、幻視したような気がした。
「何故だ。何故、そんな……」
「代役を立てるというのは、殿下を安全に逃がす上で、非常に有効な手段ではありますからな」
と、ラグナの右辺に座っている祖師が、静かな声で解説を入れた。
「ヘリストのことですから、その従兄弟殿には、有事に備えて早くから話を通していたのでしょう」
祖師の言葉に、サヴィネが静かに頷いた。
「ウルスさんは、もう何年も前から、万が一の際にラグナ様の身代わりとなることを了承しておられました。王太子の従兄弟というだけで、普通ではあり得ない優遇を受けてきた、その恩を返したい、とのことでした」
自分一人が蚊帳の外に置かれてしまっていたことに、ラグナは口惜しさを禁じ得なかった。同時に、あんな酷い仕打ちを受けたにもかかわらず、ウルスがラグナのことを命に代えて守ってくれた、という事実に、罪悪感と後悔が怒濤のごとく押し寄せてくる。
それに。
「それに、何故、フェリアまでもが死ぬ必要があったのだ……」
苦渋の声を絞り出すラグナに、サヴィネもまた、沈痛極まる表情で首を横に振った。
「それは……分かりません。どこまでも殿下とともに、と、自ら囚われ人となったとのことで……」
そもそもフェリアは、現時点では、王家に対して何の義務も権利も持ち得ない、単なる婚約者でしか過ぎないのだ。しかも、この婚約が王太子側から出たものであることは、殆どの人間が知っている。自ら出頭さえしなければ、彼女が処刑されることなどなかったに違いない。
「自ら……」
ふと、とある考えに思い至り、ラグナはゆっくりと顔を上げた。
「自ら、というのは、本当に、彼女の意思なのか?」
「そうせざるを得ないよう、仕向けられた、と仰るのですかな?」
ラグナは唇を噛んだ。そう、例えば、幸せそうにラグナに微笑んでみせた時のように。選ぶことのできる選択肢が他に存在しなければ、彼女は残った道をゆくしかないのだから。
「奸臣の非道さを喧伝するために? それならばなおのこと、寡婦として生き残っていただいたほうが、より効果的だと思いますがな」
祖師がフェリアのことをまるで盤上の駒か何かのように語るのを聞き、ラグナは思わずムッとした。
そんなラグナの様子を一向に意に介したふうもなく、祖師は状況を読み解こうと試み続ける。
「可能性としては……、従兄弟殿が道連れを求めたか……」
ラグナは即座に首を横に振った。
「いや、ウルスはそんな奴ではない。あいつなら……何がなんでも彼女の命を救おうとするだろう」
そう言いきったラグナの顔をじっと見つめながら、祖師は、勿体ぶるようにゆっくりと口を開いた。
「ならば……」
「ならば?」
「ならば、婚約者様が、間違いなくご自身の意思で、『殿下』と運命をともにしようと考えなさったのでしょう」
祖師はふっとラグナから視線を外すと、理由は分かりませぬがな、と付け加えた。
「なんにせよ、奸臣がこの先どのようなつもりであろうと、カラントという国は瓦解するでしょうな。ですが、殿下さえご無事なら、再興は可能です」
躊躇いの欠片もなく断言する祖師に対し、サヴィネもまた力強く何度も頷く。
「長期戦ですがな。まずは、お二人には、ここから東に……」
テーブルに広げた地図の上に身を乗り出し、これからのことを話し合う祖師とサヴィネを、ラグナは、ぼんやりと見つめた。
「……王家の血とは、一体何なのだ」
先刻から胸の内で渦を巻いていた疑問が、ラグナの口をついて出る。
何の罪もない前途有望な若者を、王太子と顔かたちが似ているというだけで、死に追いやった。王家の血を絶やさぬために。それは――
「――それは、それほどまでに、重要なものなのか」
サヴィネが目を丸くする横で、祖師が、ついと目を細めた。
「それは、過去と現在を繋ぎ、カラントをカラントたらしめるもの、とでも申しましょうか」
「過去と、現在を、繋ぐ……」
「それに、ヘリストには、クラウス様に大きな恩がありましたからな」
祖師が、何かを懐かしむような眼差しを、虚空に投げた。
「ヘリスト家の三男坊に時の当主が求めたのは、聖職者となって家のために祈ることでした。それを、クラウス様がお止めになられたのです。宝玉を重石に使うなどもってのほかだ、と」
そうしてヘリストは、その優秀なる頭脳をカラントのために惜しみなく使えるようになったのだ。それが彼にとってどれほど幸せなことであったかは、想像に難くない。
「ヘリストにとって、王家の血とは、クラウス様が、引いては自分自身が、この世に確かに存在したという証しに他ならないのですよ」
迷い無き瞳で言いきる祖師の向こうに、ラグナは、肖像画でしか知らない祖父の姿を見た。
「証し……」
ラグナは思わず我が胸を押さえた。自分はまだ何もしていないのに、父祖のお陰でこんなにも多くのものを与えられる、と。
だが、そこまで考えて、ラグナは、小さく息を呑んだ。気弱に微笑む従兄弟の顔を思い出して。
与えられる、のではない。奪っている、のだ。
長い時をかけて築き上げられた枠組みの中で、皆、与えざるを得ないように仕向けられている。追い込まれている。好むと好まざるにかかわらず、ラグナがそこに存在するだけで、無言の圧力が生じるのだ。そして、ラグナはその中心で、ただひたすら惰眠をむさぼっていた。
国の外からやって来た圧倒的な力によって、ラグナは、今、ようやくそのことを理解したのだ……。
ラグナとて、望むものが何だって手に入る、などと思っていたわけではない。
だが、具体的に何が手に入らないのか、と問われると、途端にラグナは答えに窮した。眼前に障害が立ち塞がっていたとしても、何とかなるのではないかと、考えてしまうのだ。
フェリアとの関係でも、それと同じことが言えた。声高に「嫌だ」とでも明言されれば、さしものラグナも思いとどまったかもしれない。だが、誰が王太子にそんな台詞を放つことができるというのだろうか。何も言えずに、黙るしかない。そしてその沈黙を、ラグナは「是」と捉える。
一体いつからこうなってしまっていたのだろう。
ラグナは、自分の手をじっと見つめた。
もっと幼い頃から、既に兆しはあったのだ。ウルスやフェリアと、身分を意識せず過ごしていたつもりでも、常にラグナには優越感があった。ウルス達が勉強することができるのは自分のおかげだ、と言い放ったあの時以外にも、常に。俺はお前達とは違うのだ、と……。
最初から、三人の力関係は、歪んでいたのだ。
屋敷の玄関前に、二頭の馬が引き出された。ラグナの愛馬と、かつてはヘリストが使っていた、サヴィネの馬。
ラグナが、サヴィネに教わりながら荷物を愛馬に括りつけていると、玄関扉があいて、祖師が見送りに出てきた。
「神のご加護を。どうか殿下の前途に幸多からんことを」
加護、という言葉を聞き、ラグナは密かに唇を噛んだ。
ウルスがラグナの身代わりとなることは、ラグナがこの世に存在する限り、避けようのないことだったのかもしれない。
だが、フェリアについては、それとは全く話が違う。
誰に強制されたわけでもないのに、彼女は自ら死を選んだ。恐らくは、ラグナから逃れるために。何故ならば、ラグナが生きている間は、フェリアは決して自由にはなれないからだ。それゆえ、彼女は、本当に好きな男と、手に手をとって常世へと逃げることを決めたに違いない。
あの時、ラグナが浅はかな行動にさえ出なければ、少なくともフェリアは死なずに済んだのだ。
鉄錆の味が、ラグナの口の中にじわりと広がる。
加護どころの話ではない。救済は勿論のこと、たとえ罰であろうと、今のラグナが神から賜ることのできるものなど、何も、無い。
祖師と別れの挨拶を交わしたのち、二人は馬に跨った。夕焼けに染まる空に、鳥の声が、二つ三つと響き渡っている。
「参りましょうか、ラグナ様」
ラグナは、淡々とした声で、サヴィネに応えた。
「そいつは、死んだはずだろう」
そう、〈ラグナ王子〉は死んだ。婚約者とともに。愛し合う二人は、これでようやく一緒になれたのだ。
唐突にラグナは、我が身を切り刻みたい衝動にかられた。それと同時に、本当はそんなこと出来もしないくせに、との嘲笑がこみ上げてくる。
できるはずがない。自分には何も無い、などと拗ねながらも、その実、無意識のうちに抱え込んでいた全能感を手放すことを恐れて、自分の都合の良い世界で、真実から目を背け続けていたくせに。
彼ら二人のためというよりも、自分のために、ラグナは祈った。どうか天上で幸せに暮らしてくれ、と。俺は――
「さて、地獄までの道を、裏切り者どもの血で塗り固めてやるとするか」
「どこまでもお伴いたします」
黄昏に染まる道へと、ラグナは踏み出した。
* * *
「見事なまでに荒らしてくれたものだな」
王都……であった街を見下ろす丘の上で、ラグナは口角を吊り上げた。
街の周囲に広がる黒ずんだ湿地は、かつては一面の小麦畑だった。本来、今の季節ならば、冬を乗り越えた麦の若穂が、南風にさんざめいているはずだった。
「先祖達が努力と工夫の限りを尽くして拓いた土地が、たった十二年でこうも荒廃するとは、な」
十二年前、〈ラグナ王子〉の処刑から僅か三か月後、マクダレン帝国の名のもとにカラント王国は解体され、南接するブラムトゥスとともに、帝国貴族セルヴァント男爵領とされた。帝国本土からは、新天地を求めて、持つ者は勿論、持たざる者も大挙して押し寄せ……、その結果が、このざまだ。
故郷を離れ、各地をさすらった十余年、ラグナはあらためてカラントという地の厳しさを思い知った。そして、長い時間をかけてそれと共存するに至った先達に、敬意を抱いた。
カラントは、カラントの民にしか治められない。他でもないカラントの風土が、カラントの民を作りあげたのだから。
まなじりを決すると、ラグナは懐から小さな包みを取り出した。
唇を引き結び、真剣な表情で、包みを解く。
中から現れたのは、紅玉で作られた像だった。穏やかな笑みを浮かべる、短髪の女性を象った彫像だった。
十二年ぶりに王城に入るなり、ラグナは真っ先に礼拝堂の裏へと足を向けた。王城をセルヴァント家が接収した際に、命を賭して王家の墓を守ってくれた者がいた、という話を耳にしていたからだ。果たして、そこには、以前と変わらぬままの先祖代々の墓に加えて、父と、母と、ラグナ自身の墓碑と、ラグナの墓に寄り添うようにして並ぶフェリアの名が刻まれた墓標があった。
墓の前で立ち尽くすラグナに、墓守を名乗るかつての家臣が、紅玉の像の入った包みを手渡した。フェリアがいまわのきわに懐に入れていたことから、ともに棺に入れようとしたのだが、いつ抜け落ちたのか、埋葬を免れてしまっていたのだ、とのことだった。
『ケルヴィネ男爵にお渡しすべきか、と思いつつ、果たせずにおりました。そうこうしているうちに、ラグナ様が生きておられるらしいと小耳に挟み、これは是非ともラグナ様にお返しせねば、と、今日のこの日を指折りお待ちしておりました』
墓守の言葉を思い返しながら、ラグナは紅玉の像を手のひらに乗せた。
ラグナがこれを見るのは、実に初めてのことだった。紅玉の代金を受け取ったヴァスティ鉱山は、律儀にもウルスに紅玉を渡したのだろう。そして、ウルスは彫りかけだったそれを、見事に完成させたのだ。
紅玉の娘は、幸せそうに微笑んでいた。像に込められたウルスの想いが胸に迫ってきて、ラグナは息が止まりそうになった。そっと目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
像を片手に、ラグナは傍らにある大岩に目をやった。それから、もう一度、丘の麓を振り返った。
――ここからなら、王都の全てが一望できる。
大きく頷くなり、ラグナは、大岩の丁度目の高さほどにある亀裂の奥に、紅玉の像をそっとはめ込んだ。
――俺が二度と道を誤まらぬよう、お前達はどうかここから見守ってくれ。
「陛下」
大岩の反対側で控えていた、栗色の髪の若者が、頃合いを見計らったかのように、ラグナに声をかけた。
「そろそろ戻らないと。皆さんが心配なさります」
「……そうだな」
土地を奪われ、苛政から逃げ、各地に散り散りになった者達も、やがて懐かしい故郷へと戻ってくるだろう。
ここからが正念場だ。ラグナは外套の裾をひるがえすと、物見の丘をあとにした。
2015年8月20日 発行 初版
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創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
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「紅玉摧かれ砂と為る」
サイト初出 2015/4/22~8/5