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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

眠り、落とす、あなたの声 高町空子

人類が望んだ世界 二三竣輔

笑わないで、僕の世界を。 尋隆

その身に溶けた、不可触な愛 二丹菜刹那

夕闇あんくれっと―風に乗せるモノ― ひよこ鍋

ハエトリグモ テトラ

悪友と哲学者の行進曲 第三話「受信」 二三竣輔

表紙イラスト 朝霧

あとがき

声に惹かれて、落ちてゆく。

眠り、落とす、あなたの声

高町空子

<新作読み切り・小説>

眠り、落とす、あなたの声

 眠りにつく前、いつも同じ声が私の名前を呼ぶ。その声はなんだか嬉しそうで、悲しそうで、楽しそうで、寂しそう。いろんな感情がこもった心地いい声。
 つむった目の奥で、声の主の姿を想像してもすぐに睡魔にかき消されてしまう。
 夢の入り口に誘う声に私は恋をしていた。どんな声もその声の代わりにはなれない。朝を告げる小鳥の声だって、賑やかな街の声だって、世界の輪郭をぼかす雨の声だって、私を眠りの中には連れて行ってくれないから。
 私は夜が嫌いだった。一人、固い布団の上で時計の音を聞きながら、朝を待つのが怖くて怖くて仕方なかった。眠ろうとすると、目の奥に焼き付いた嫌な過去と不安定な未来ばかり浮かんでくる。丸めた体の生ぬるい体温が気持ち悪かった。疲労感と孤独感に挟まれて、眠れない夜が続いていた。陽が落ちるたびに、待って行かないで、まだ暮れないで、今日を終わらせないでと、手を伸ばして泣いていた。
 泣いたところで、陽は沈み、静かで寂しい夜が来てしまう。ドアを開かなければ私が生きているかも、死んでいるかもわからない部屋の隅、布団の中、体を抱えて朝を待つ。
 そんな夜を、あの声は終わらせてくれた。最初は固くなっていた私の体をほぐすように柔らかく、二回目は寄り添うように優しく、三回目は寂しさを分け合うように悲しく、四回目は全てを許してくれるように愛おしく、私の名前を呼んでくれた。
 真っ黒な頭の中に声が響くたびに、溶けていくように意識が薄れていった。目を開けることができないくらい強烈な眠気に襲われて、声の正体を確かめる前に、夢に意識が溶けるとともに体が布団に沈んでいった。



 いつもの声。私の名。見えない姿。愛おしい存在。あなたは誰?
 どうして私を眠りへと連れて行ってくれるの? どうして私の名を呼ぶの? どうして、姿を見せてはくれないの?
 現実と夢の狭間、そこでいつも私を待っている。
 あなたは現実? それとも、夢?
 どちらでもいい。ただお礼を言わせてほしい。眠れない夜を終わらせてくれてありがとう。一人の私の名前を呼んでくれてありがとう。
 いつしか、おやすみなさいがありがとうに変わった。
 あれだけ怖かった夕暮れを笑顔で迎えることができるようになった。伸ばしていた手を振って、また明日と言えるようになった。
 あれだけ長かった夜は流れ星が流れるように、朝につながっていく。
 私はようやく、絶え間なく流れる時間に睡眠という境界線を引いて、一日を終わらせることができる。
 声は今夜も私を呼んでいる。無意味でも、空っぽでも私の生きた今日を終わらせる声。ドレスはパジャマ。馬車は布団。王子様は姿もわからないあなた。
 手を引く代わりに、声で包んで誘われる眠りの中で、幸せな夢を見る。終わりの鐘の音は、目覚まし時計のけたたましい音。
 そして、また今日が始まる。



 誰かといた記憶、体温、感情。それはいつも一人になると煙のように薄れるから、涙が頬を濡らしてしまう。
 さようならの言葉で、一人になった私を収納するこのアパートの一室は、空っぽな心とは反対にガラクタばかり詰め込まれている。
 実家から届いたダンボール、誕生日にもらった猫の置き物、自分で買った洋服、ガタがきている家電、くたびれた布団、黄ばんだカーテン、書類、ノート、手紙……。
 そして、私。
 必要なものがここにどれだけあるだろう。不必要なものはどれだろう。燃やしたら、全部消えてしまうものの中に大事なものはありますか?
 昔、夕焼けに溶けようとした少女の話を、本で読んだ。あの子は何を求めて夕焼けを見ていたのだろう。私がそうだったように今日が終わるのが怖かったのだろうか。話の最後を覚えていない。あの子がどうなったのか、笑ったのか、泣いたのか、もう思い出せない。



 蝉の声が宵闇に反響して、少し開けた窓から風と共にカーテンを揺らした。何度目かの夏が来て、扇風機が唸る声の前でコップが汗を流している。
 持ち帰った仕事を片付けながら、コップに口をつけて傾ける。カラン、と氷が軽い音を鳴らし、コップの表面についていた水滴が私の指を伝っていく。濡れた手を服で拭いて、また書類とパソコンのモニターを見ながら、キーボードを叩く。
 恋愛など疎遠になって、若いときのように夢中になれる趣味も執着心もなくなり、仕事より優先すべきものなんて見当たらなくなった。生活しているだけで精一杯で、言ってしまえば息をすることすら億劫で、もし明日死ぬとなっても泣きもせずに、いつも通り布団に入って眠るだろう。
 その場合、誰が私を見つけてくれるのだろう。この部屋のインターホンなんて、親が送った荷物を届けに来る宅配の人しか鳴らさない。
 私が死んだことを誰も知らず、自分自身すら気づかないまま、夢を見続けて腐敗していくのだろうか。
 それならそれでもいいかな、と思う自分が悲しい。エンターキーを押すと同時にため息がもれた。固くなった肩が痛い。パソコンのしすぎで視界がぼやける。
 やるべき仕事の半分くらいは終わっただろうか。蝉の声が疲れた脳内をグルグルとかき回す。これ以上進めたらミスが出て、逆に仕事が進まなくなるかもしれない。
 ファイルを上書き保存して、右上のバツをクリックする。シャットダウンして真っ暗になったモニターを見ながら、溶けた氷で薄くなった麦茶を一気に飲み干す。
 唇に触れた氷が痛いほど冷たい。コップを置いて、濡れた唇を指でなぞる。冷たかった。今日、この口が発した言葉を聞いた人は何人いただろう。私は今日、誰とどんな話をしていた? はっきり思い出せるほど楽しい話も真面目な話も悲しい話も嫌な話もしていなかったのだろう。愛想笑いで引きつった感覚が頬に残っているだけだ。
 コップを洗って、スタンドに立てる。汗ばんだTシャツとジャージを脱ぎ、洗濯かごに入れて、丁寧に畳んであった花柄のパジャマに着替える。
 蝉の声が流れ込んでくる窓を閉めて、外と部屋の中が切り離された。世界から孤立した部屋の中で、唸り声を上げる扇風機の電源ボタンを押すと、息を引き取るように唸り声が小さくなっていった。
 パチン、と電気のスイッチを押す。真っ暗な視界で、家具にぶつからないように気をつけながら、布団に向かう。
 無事にたどり着いた布団に横になった途端、疲労感がじわじわと滲み出てくる。ぼんやりする視界は、暗さに慣れたのか少し汚れた天井を映し出している。何となく手を伸ばしてみたが、腕の重さですぐ布団に落ちてしまった。
 また今日が終わる。世界から切り離されたこの部屋の中、一人分の呼吸の音を聞きながら、目をつむる。



 目をつむった数秒後、いつもの声が聞こえてきた。目を開けたらきっとこの声は消えてしまう。姿を見たらもう二度と私の名前を呼んでくれなくなる。そんな気がするから、私はただただ声を脳内に響かせて、津波のように押し寄せてくる眠気に身を投げるだけだ。
 今夜の声はひどく優しい声音で私を呼んでいる。幼い頃に、母が私を抱きしめて名前を呼んでくれていたときのような、大好きだった彼が手を繋ぎ、微笑んで私に呼びかけたときのような、そんな引き寄せられる優しさ。そんな声で私の意識は深い眠りへと落とされていく。
 もう誰も私を呼んでくれない。ここから連れ出してはくれない。あなただけ、私を寂しい現実から切り離してくれる。もうあなたの声に引き寄せられるままに眠り続けたいよ。夢から覚める瞬間も、今日が昨日になっていくのも、失くしてよ。一人の部屋で、誰にも知られないままなのはもう嫌なの。
 いつの間にか、嗚咽がこぼれて涙が頬を伝っていた。声が止んで、部屋の中に私の泣き声が散らかっていき、体中の水分がすべて流れてしまうのではないかというくらい涙は止まらない。空気を求めて呼吸は荒くなり、空っぽの胸が痛くて体を丸める。怖かったのは今日が終わることだけじゃない。一人、ここで生きていることが何よりも怖いのだ。
 声が聞こえない。どうして? あぁ、だってあの声は私の作り出したあなたの声だ。一人が怖い私が望んだ声だった。世界にも、現実にも切り離された可哀そうな自分を慰めるために生み出した精神安定剤なのだから、気づいてしまえばもう終わり。もう効き目はなくなってしまう。嗚咽が止まると同時に、固く閉ざしていたまぶたをゆっくり開けて、見慣れた天井を見上げた。
 手を伸ばしてみた。誰かに触れられる、誰かに触れてもらえるはずだったのに、ここで自分の重さだけ感じて潰れそうになっている。細い腕、小さな手のひら、開いて、閉じても空気をかき乱すだけだった。
 寂しいな。声に出してみたら、案外単純な言葉だと思った。だけど、積もり積もった寂しいは、胸の中に詰まってどこにも吐き出せないまま、私を壊していく。助けてほしかったのに、一人をこじらせ過ぎてもう手遅れになってしまった。現実がつらいことを知りすぎたから、理解してしまったから、都合のいい妄想を作り出すたびに、その落差に首を絞められる。
 手を下ろし、深呼吸して空っぽなのに息苦しい胸の中に、生ぬるい空気を通した。声は二度と聞こえないから、また眠れない夜を過ごさなくてはいけない。先程まであった眠気はもうどこかに消えて、疲労感だけが体を包んでいる。
 もう慣れた、そう思い込んで諦めよう。朝になれば忘れるから、人混みに紛れれば隠せるから、大丈夫。きっとみんな、同じような寂しさを持っている。私が思っていることなんて誰もが感じるありきたりなものだから、ほら一人じゃない。独りだけど、一人じゃない。
 眠れないけど、せめて目を閉じよう。眠ったふりをしておこう。


『   』


 まぶたの裏で何かが聞こえた。
 私の声じゃない声。誰かの声。


『   』


 疲労感の中に、心地いい眠気が生まれていく。いつもの感覚が、もう感じられないと思っていた感覚が、体を飲み込んで、意識を深く沈ませる。


『   』


 作り出したと思っていた声は、ちゃんとそこにいてくれた。暗闇の中で声は響く。優しくて、寂しい声が私を呼んでいる。
 耳元で囁かれる声のほうに行ったら、柔らかい布団のように、私を受けて止めて、全てを許してくれる気がした。もう悲しくなんて、寂しくなんてなくなると思った。
 意識が遠のいて、底のない暗闇の中に落ちていく。


『おやすみ、なさい』


 二度と浮いて来れないような重い声が私に絡みついて、眠りへと、夢へと沈ませる。もがくことなんてできるわけなくて、心地いい感覚に身を任せて、私はどこかに落ちる。ゆっくり、ゆっくり、引き寄せられるままに。
 暗闇に沈む途中、あの話の少女のことを思い出した。あの子もどこかに行きたくて、誰かの中に生きたくて、でもできなくて、いつも眺めていた綺麗な夕焼け空に溶けてしまった。最後、あの子は笑っていた。全部、燃やして綺麗なままで消えていった。
 現実から離れていく中、姿も知らないはずのあの子が私を見ている。落ちていく私を見て、何を思っているのだろう。表情を確かめる前に、通り過ぎてしまった。
 見上げたあの子は、真っ暗なここを照らすように燃える。笑った気がした瞬間、夕日が沈むように真っ赤になって燃え尽きて、消えてしまった。
 私は声に導かれるままに、沈み続ける。その果てに何があるかなんて知らなくていい。
 おやすみなさい。さようなら。



「次のニュースです。都内在住の三十代の女性が、遺体で発見されました。女性は一人暮らしで、一週間、無断で仕事を休んでいた女性を不思議に思った会社側がアパートに連絡したところ、布団で亡くなっているのが発見されました。発見されたときにはもう死亡から数日経っており、現在は死因を調べるために病院に搬送されています。では、次は天気予報です――」


「ねぇねぇ、このアパートのどこかの部屋、呪われてるらしいよ」
「えー! なにそれ、こわー!」
「なんか、住んだ人みんな死んじゃうんだってさ。やばくない? しかも、みんな死因不明で、寝てるみたいに布団の中で死んでるんだって!」
「やば! でも寝てるうちに死ねるならよくない? 痛くないし」
「確かにー。てか、明日のテストだるくない? あたし、全然勉強してないんだけど!」
「私もやってないから大丈夫だよ。ていうかあれは先生が――」


 また今日は始まっていく。

〈了〉



  タチヨミ版はここまでとなります。


澪標 2015年09月号

2015年9月23日 発行 初版

著  者:小桜店子(編) 高町空子(著) 二三竣輔(著) 尋隆(著) 二丹菜刹那(著) ひよこ鍋(著) テトラ(著) 朝霧(表紙イラスト) 吉田勝(表紙撮影) 三浦茜(身を尽くす会アイコン)
発  行:身を尽くす会

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身を尽くす会では電子書籍・同人雑誌といった形式で小説雑誌を制作・販売しています。また、会員の相互協力によって、従来の手法では出版が困難な作品の制作支援、著者の知名度向上や作品頒布の促進など、未来の出版文化の振興に貢献することを目的としています。主に制作・販売している小説雑誌は『澪標(みおつくし)』で、船の航路を示す同名の標識が誌名の由来です。澪標が航行可能な道を示した標識であったように、『澪標』も著者と読者をつなぐ道として機能することを願っています。
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