spine
jacket

───────────────────────



炒り豆をめぐる冒険

那識あきら

あわい文庫



───────────────────────

 目 次


夜風は囁く


炒り豆をめぐる冒険


天穹に詩う

夜風は囁く

 
 
 えんじの上衣じょういは正義のしるし。
 茶色の髪の青年が、調子っ外れな歌を口ずさみながら、えんじ色の上着を袖で腰に結わえた。慣れた手つきで剣帯を留め直し、「これでよし」と胸を張る。
 ここは、峰東ほうとう州の都ルドスの、馬車の行きかう中央通り。町の治安を守る警備隊、その証しである制式上着は、夏には薄手のものが支給されるのだが、この炎天下に襟つき長袖は暑苦し過ぎる、と言って、彼――ガーランはまともに着用したためしがない。
「なんだ、その変な歌は」
 少し先を歩いていた警邏の相方が、怪訝そうにガーランを振り返った。こちらは前のボタンこそ留めてはいないものの、上着をちゃんと身に着けている。もっともこれが普通であって、「警備隊の誇り高き象徴」を結んだり団子にしたりするのは、隊内ではガーランぐらいのものだ。
「一昨日しょっ引いた羊泥棒が、『えんじの上衣はムカつく奴ら』とか何とか歌ってやがったんでな。正しい内容を広めようと思ってな」
「よくやるよ」
 呆れ顔になる同僚を見て、ガーランの頬がますます緩んだ。悪戯っぽい光を目に宿し、より素っ頓狂な歌を披露し始める。
 いいかげんにしろ、と同僚が眉を吊り上げるのと時を同じくして、道の向こうの路地からガーランの名を呼ぶ声がした。
「うわ、やべ。さっさと行こうぜ」
 大慌てで歩調を速めるガーランを、同僚が小走りで追いかける。
「行こうぜ、って、あれ、東の助祭長だろ」
「だから逃げるんだよ。あのクソ坊主、俺のことをていのいい使いっ走りとしか思ってないんだからな。どうせまた、『教会の前のドブ掃除を頼むわ』とか何とか言いやがるに決まってる」
 と文句を言いながら人波をかき分けたガーランの前に、ひらりと人影が立ち塞がった。
「名を呼ばれて無視をする奴があるか」
「お、おやっさん……!」
 いつの間に先回りをしたのか、噂の人物が、腕組みをしてガーランを睨みつけていた。
 こんがりと日焼けした小麦色の肌に、白い僧衣が輝いて見える。袖口から覗く腕は、老境に身を置く者とは思えないほど鍛え上げられており、その活力に溢れたさまは若いガーランと比べてもなんら遜色がない。現に今も、小柄な助祭長に対して頭二つ分は背が高いはずのガーランが圧倒される一方である。流石は、若い頃、南方で船乗りをしていたという、元・荒くれ者だ。
 先ほどまでの余裕はどこへやら、すっかり意気消沈してしまった様子のガーランに対し、助祭長が得意げに口角を上げる。
「他でもない、おぬしに頼みがあってな」
 ほらきた、と呟いてから、ガーランは両手を腰にあてた。
「なんだよ。ドブ掃除か?」
「そんなつまらぬ用事に、わざわざ警備隊員殿のお力など借りぬわ」
 しれっと言い切る助祭長に、ガーランの眼差しが冷ややかなものとなる。それを気にしたふうもなく助祭長は言葉を継いだ。
「礼拝堂の尖塔に、カラスの死骸が引っかかっておってな。それを取っ払ってもらえんかな」
 ガーランの背後で、同僚がふき出した。
「やっぱり掃除じゃねえか」
「尖塔に登ろうにも、わしはもう歳だし」抗議の声を華麗に受け流して、助祭長は語り続ける。「司祭様のお手を煩わせるわけにはいかぬし、助祭も侍祭も高い所は駄目だと言いよるし、癒やし手達の伴侶をあてにしようにも、独り身の者か年寄りしかおらぬし、いかんせん男手が足りんのだ」
「俺だって忙しいんだぞ」
 吐き捨てるように反論を口にするガーランだったが……。
「酒場でくだをまく暇はあるのに、可哀相な老いぼれの頼みを聞く時間はないというのか。なんと無慈悲な」
 見事に返り討ちにあい、彼はがくりと肩を落とした。
 助祭長は、そんなガーランの様子を満足そうに見つめて、それからそっと声を潜めた。
「それに、あまり『あのこと』を広めたくない。既に知っているお前は適任だ」
「また、それかよ」
 何やら口の中でぶつぶつと悪態をついたのち、ガーランは両手を上げて降参した。
「分かった、やりゃいいんでしょ、やりゃあ」
「仕事がひけたら帰りに寄ってくれ。死骸を放置しておいて、良からぬ虫が病気を運んできたら大変だからな」
 と、そこで助祭長は片目をつむってみせた。「町の平穏を守るのがおぬし達の仕事だろう?」
 ガーランは心底悔しそうに石畳を蹴りつけた。
 
 
 
          * * *
 
 
 
 折角の貴重な日勤日だったってのに。盛大な溜め息とともにガーランは礼拝堂の丸屋根の梯子に手をかけた。もう一度深く溜め息をついて、いざ、茜色に染まる空へと段を上る。
「非番に酒飲んで何が悪いってんだ。つうか、酒でも飲まなきゃ、あんな苦労の多い仕事、やってらんねーよ、くそったれ」
 ここなら助祭長の地獄耳も及ぶまい、と、ガーランは心置きなく毒づいた。途中から仕事の愚痴になってしまっているのも構わず、風を相手に鬱憤を晴らす。ひとしきり文句を吐き出したところで、また大きく息をつき、それから少しだけ眉間を緩めた。
「まあ、あのクソ坊主のためじゃなくて、教会のため、ってんなら、屋根でも何でも登りますけどね」
 ここ、東の教会は、生命の神アシアスを祀っている教会だ。
 アシアス信仰はこの国における実質的な国教であり、他の八百万の神々とは一線を画する存在であった。それは、祈りによって神の加護を得る「癒やしの術」の影響力によるところが大きい。アシアスの教会には大抵、「癒やし手」と呼ばれる術者を集めた治療院が併設されており、そこは、アシアスへの感謝の「気持ち」を持つ者なら誰でも――たとえ異教徒でも――救いを求めて訪れることができるのだ。
 ガーラン自身、子供の頃から治療院には何度も世話になっている。つい先月も捕り物の際の刀傷でここに駆け込んだことを思い出し、ガーランは心の中でこうべを垂れた。それから、よし、と気合を入れ直して、最後の段を登りきる。
 夕暮れの鐘に背中を押されながら、ガーランは尖塔に辿り着いた。
 そこは、丸屋根の頂上にしつらえられた東屋とでもいうべきものだった。大人が四人ほど手を繋いで輪を作れば、丁度これぐらいの広さになるだろう。六本の柱に囲まれた円蓋の中央に、そこらにある井戸と同じぐらいの大きさの丸い穴がぽっかりとあいていた。
 その穴は、礼拝堂丸天井の天辺にあけられた、明かり取りの眼窓めまどだった。尖塔は、この円形の窓から雨が礼拝堂内部に入り込まないよう、傘のような役割を担っているのだ。
 穴の縁は周囲よりも少し高くなっており、気をつけてさえおれば、そうそうこの眼窓から落ちることもない。が、流石にこの高さである。ガーランは、黒々とあいた穴から充分な距離をとって、柱の傍に背負い袋を下ろした。荒縄の束と麻袋を取り出して、やれやれと一息をつく。
 そこへ、ガーランの名を呼ぶ声が足元から響いてきた。
 ――聞こえる、聞こえる。
 そうっと眼窓から下を覗けば、会衆席の間に、ちんまりと佇む助祭長の姿が見える。ガーランは、にんまりと口のを引き上げた。
 これこそが、昼間、助祭長がガーランに耳打ちした「あのこと」であった。一体どういうからくりなのだろうか、礼拝堂内の音が、驚くべき明瞭さでこの塔の上まで響いてくるのだ。
 今からおよそ二十年前、父親の大工道具を勝手に使って壊してしまったガーランは、叱られるの嫌さに教会の尖塔に隠れて、偶然この秘密に気がついた。そうして、自分を探しに来た助祭長――当時はまだ助祭であったが――に興奮した面持ちでこの大発見を報告した。
 ところがガーランの思いをよそに、助祭長はこの知らせを聞くなり難しい顔で、「悪戯する人間が現れてはいけないから」とガーランに口止めをした。今から思えば、悪戯は勿論のことだが、「司祭様達が祈りの声に耳をそばだててるらしいわよ」といった不名誉な噂が立つことを彼らは心配したのだろう。
「おおーい、ガーラン、首尾はどうだ」
 過去から現在へと意識を戻すと、ガーランは穴の上へと心持ち身を乗り出した。そして「問題ねえよ」と返答する。
「……なんだって? 声が小さくてよく聞こえんわ」
 そういえば聞き耳のからくりは礼拝堂から尖塔への片道のみだったな、と、ガーランは改めて腹の底から声を張り上げた。
「何も問題ねえっての。今から仕事にかかる」
「そうか。山神様のお使いだからな、くれぐれも丁重に頼むぞ」
 ついでに俺のことも丁重に扱ってもらえませんかね。そう胸の内でぼやきつつ、ガーランは大きく息を吸った。
「助祭長のアンタが、んなこと言ったら、アシアス様が嫉妬すんじゃねえの?」
「我らが主は、そんな狭量なお方ではないわ」
「そうだな、アンタが神職につけるぐらいだもんな」
 助祭長の豪快な笑い声を聞きながら、ガーランは辺りを見回した。
 目窓を挟んだ向こう側、尖塔の屋根の縁に、物悲しい黒い影が風に揺らめいてぶら下がっていた。
 ガーランは慎重にカラスの死骸を屋根から下ろした。夏の日差しに冒されつつあるそれを麻袋に入れ、閉じた袋の口を荒縄の端に結わえつける。それから眼窓の傍に膝を突き、階下へと袋をゆっくり下ろしていった。
 助祭長が袋を受け取ったのを確認して、ガーランはやれやれと立ち上がった。両手を軽くはたき、大きく伸びをする。そうしてガーランは周りをぐるりと見回した。
 西にそびえる連山の縁が、燠火おきびのように鈍く光っている。血の色にも似たその明かりも、やがては薄汚れた灰に静かに埋もれていくのだろう。東の地平線から迫り来る藍色の下、家々の灯りが点々とまたたき始めているのを見下ろしながら、ガーランはそっと目を細めた。
 大陸を東西に分断する山脈に沿って、その麓に細長く伸びている坂の町、それがここルドスだ。町の中心を南北に貫く大通りを境目に、西の高台に為政者など上流階級に属する者の住居が、東に下々の者どもの住み処がある。この東の教会は、その中央通りから細い路地を一角ひとかどくだった所にあった。
 ガーランの生家は、ここから少し北の、いわゆる職人街にあり、物心ついた頃からこの辺りは彼の庭だった。助祭長こと「おやっさん」は、そんな彼が何か悪さをするたびに、遠慮のないゲンコツを喰らわせてくれていたものだった。
 まさか、おやっさんを返り討ちにしたくて励んだ体術や剣術が、自分の身を立ててくれることになろうとは。つい口元を緩ませたところで、当の助祭長の呼び声を足元に聞き、ガーランは慌てて咳払いをした。
「どうしたガーラン、何か問題でもあったか」
「人使いの荒い誰かさんのせいで、疲れてんだよ。ちょっと一服してから降りるわ」
「そうか。ならば、わしはこいつを裏の畑に埋めに行ってこよう。真っ暗になる前に、気をつけて降りてくるんだぞ」
「へいへい」
 薄暗さを増した町並みの上を、心地よい風が吹き抜けていく。比較的標高のあるルドスの夏は、日さえ暮れてしまえば、とても過ごし易い。しばし夕涼みをば、と、ガーランは柱の前に腰を下ろした。
 柱に身を預けると、手足の先から疲れが一気に這い上がってくる。警備隊という職務の特性上、日勤日といえども仕事が長引くことは珍しくない。ガーランは助祭長の依頼に応えるために、昼から一度も休憩を取っていなかったのだ。
「感謝しろよクソ坊主」
 言葉に見合わぬ穏やかな笑みを口元に浮かべ、ガーランはそっと目を閉じた。
 
 
 ――なんてこったー!
 ガーランが次に目をあけた時、周囲は深い闇に包まれていた。
 満天の星の下、山肌に這いつくばる灯りの数から判断するに、時刻はどうやら真夜中のようだ。毒虫にどこも噛まれていないことと屋根から転げ落ちなかった幸運にほっとしつつ、ガーランは立ち上がった。自分のあまりの間抜けっぷりに、助祭長に八つ当たりする気力すら湧いてこない。心の中でべそをかきながら凝り固まった肩をほぐしていると、地の底、もとい階下の礼拝堂から、人の声が聞こえてきた。
「……どうか報いを」
 それは、触れれば切れそうなほどに張り詰めた、女の声だった。
 眼窓から下を覗けば、闇に沈む会衆席を月明かりがおぼろかに浮かび上がらせている。だが、床に差し込む月の光も声の主のところまでは届いていないようで、姿かたちは勿論、その影すら定かではない。
「苦しみを与えたまえ」
 切々と放たれる呪詛の声に、ガーランは身動き一つすることができなかった。
 
 
 

 次の日、夜半過ぎ。準夜勤を終え帰途についたガーランは、ふと、教会に寄ってみようと思い立った。
 昨夜は結局、ガーランが呆然としている間に、呪詛の主はさっさと礼拝堂を退出してしまったようだった。意を決したガーランが屋根の梯子をくだり、礼拝堂の二階の回廊に降り立った時には、辺りには人の子はおろかネズミ一匹見当たらなかったのだ。
 ――あんな忌まわしい祈りを神に捧げる者がいるとはな。
 他人の不幸を神に願うなど、果たして許されることなのだろうか。ガーランは眉を寄せた。
 呪いは、呪った者に返ってくる。彼は子供の頃に何度もそう言い聞かされ育ってきた。そして、今でもそれは真理だと思っている。
 もっとも、呪いは勿論のこと祈りにしても、呪文や印のちからによって恩恵を賜る「癒やしの術」と違い、神がそれらを漏れなく拾い上げてくださるかといえば決してそういうわけではない。だが、それでも人は神に祈り続けてきたし、これからも祈らずにはおられないだろう。人々にとって神という存在は、「心の支え」そのものに他ならないのだ。
 そういえば、と、ガーランは苦笑を浮かべた。教会は当然として、鎮守の大木と呼ばれている楡の木や、天高くそびえる霊峰相手にも、「良縁がありますように」だの「逃げた羊が無事帰ってきますように」だの、皆好き勝手に祈っているな、と。神様も、管轄外の仕事を請け負った場合はそれぞれの担当の神様に申し送ったりするのだろうか、などと馬鹿なことを考えてみる。
 そうこうしているうちに、ガーランは東の教会に辿り着いた。簡素な門をくぐり抜け、年季の入った石畳を奥へと進む。灯りこそ灯されていないが、祈りに訪れる者のために礼拝堂は夜中も施錠されることはない。盗まれて困る物など何もないからな、と豪胆に笑う助祭長の顔を思い浮かべながら、ガーランは礼拝堂へ向かった。
 と、暗闇の中、前方でひらりと何かがひるがえった。
 次いで、静かに扉が閉まる音。
 ガーランは口をきつく引き結んだ。そして、今度は気配を殺して歩き始めた。正面にある、先ほど何者かが入ったと思われる扉を横目で見て、礼拝堂の側面へ回り込む。
 例の眼窓の真下、祭壇のある祈りの場は建物の一番奥まった所にある。その場所へ少しでも近づくべく、ガーランは壁際を這い進んだ。植栽を避けながら、側壁に並ぶ腰高窓の下部に隠れるようにして。
 そろそろか、と足を止めたガーランの耳が、遠い声を捉えた。
「何卒、愚か者に報いを」
 暗がりをぬって聞こえてきたその声は、ともすれば風の音にかき消されてしまいそうなほど小さく、だが、決して弱々しくはなかった。並々ならぬ思いを込めて、静かに紡がれる、闇の祈り……。
 ――意外と若そうだな。
 紡がれる言葉の内容とは裏腹に、凜とした美しさすら感じられる、声。俄然興味が湧いてきたガーランは、声の主の姿を求めてそっと身を起こした。窓の下辺に手をかけて、そろりそろりと頭を上げる……。
 体勢を変えようとした拍子に、ガーランの靴が小枝を踏んだ。枝の折れる音が、夜のしじまにやけに大きく響き渡る。
 しまった、とガーランが思う間もなく、礼拝堂の中を足音が走り去っていった。慌ててガーランも立ち上がり、建物の表側へと向かう。
 木の根に何度も躓きながら植え込みを抜け、なんとか礼拝堂の正面へ出たガーランを待ち受けていたのは、人っ子一人いない静まり返った前庭と、……微かに残る甘い花の香りだけだった。
 
 
 
 翌日、準夜勤二日目。同じく準夜勤だった警備隊隊長の、「飲みに行かないか」との誘いを断って、ガーランはまたも教会へ向かった。どうしても「彼女」のことが気になったからだ。
 この世知辛い世の中、ガーランだって人を呪ってやりたくなったことはこれまでに何度もある。「ヘソ噛んで死ね」程度の悪態なら、正直なところ日常茶飯事だ。ヘソではすまない鬱憤について、酒場でくだをまくことも珍しくもなんともない。
 昨夜の彼女にしても、ああやって呪詛を声にして吐き出して、心の安寧を保っているのだろう。呪いの言葉を神に聞かせるのはどうかと思うが、独りで恨みつらみを抱え込むよりは、ずっといい。
 ――耐えて、耐えて、その挙げ句、限界に達して、取り返しのつかないことになるよりは……。
 時を巻き戻すことは、誰にもできないのだ。そう、神にすらも。ガーランは苦虫を噛み潰したような顔で、夜道を急いだ。
 
 昨日よりも少しだけ早い時間に教会に着いたガーランは、迷うことなく礼拝堂に入り込んだ。勝手知ったる何とやら、入り口脇の狭い階段を登り、二階の回廊から丸屋根へと出る。件の人物を尖塔で待ち伏せする作戦だ。
 果たして、ガーランが眼窓の傍に腰を下ろすのとほぼ同時に、階下から足音が聞こえてきた。
 作戦成功、と口角を上げたガーランだったが、下を覗いてがっくりと肩を落とした。一昨日と同様、月明かりはその人物を照らしきることができず、ただ何者かの気配だけが闇の中にぼんやりと感じられるばかりだったのだ。これでは、下の彼女がどこの誰だか判別のしようがない。
「卑怯者に、相応の報いを」
 凜とした声が礼拝堂の壁を駆け上がり、眼窓を抜けて、ガーランの耳元をそっとくすぐる。
 なすすべもなく、ガーランは唇を噛んだ。
 
 
 
 次の日、ガーランは夜勤だった。
 夜警に出ている間も、ガーランは礼拝堂へ、あの声の主へと思いをめぐらせていた。
 ――今日も祈りに……、いや、呪いに行っているのだろうか。
 愚痴をこぼす相手として、神は打ってつけの存在かもしれない。尖塔に誰かさんが隠れているようなことでもない限り、その思いが他人に漏れることはないのだから。
 だが、もしも、それが単なる恨み節などではなく、決意表明だったらば……。
 ガーランは、ごくりと唾を呑み込んだ。
 そっと山の方角を振り返れば、月明かりの中、家々の屋根の向こうに切り立った崖が見える。大昔に大きな鬼が腰掛けに使っていた、と謂われている「居敷きの崖」だ。
 九年前、ガーランの目の前で、一人の娘があの崖から身を投げた。
 その娘は、ガーランもよく知っている娘だった。実家の裏に住んでいた、一つ年下の、いつもガーラン達悪ガキどもから少し離れたところで一人静かに本を読んでいた、内気な娘。
 
 それは、ガーランが警備隊員になって一年目の春のことだった。まだ実家住まいだったガーランが、裏庭で剣の素振りをしていた時、珍しくも彼女のほうから木柵ごしに彼に問いかけてきたのだ。ねえ、あなたは人を斬ったことがあるの? と。
 答えを口にするのが躊躇われてガーランが黙ったままでいると、彼女は小さく笑った。笑って、一言を呟いた。
「あのひとを、ころしてやりたい」
 彼女が最近、婚約までしていた男に捨てられたということを、ガーランは人づてに聞いていた。なんでも、相手の男が他の女の財産に目がくらみ、婚礼を目前にあっさり鞍替えしたらしい。
 ガーランは、彼女に何と言えば良いのか分からなかった。分からなかったから、ただ、おざなりに言葉を返した。
「そんな物騒なこと、言うなよ」
 しばしの沈黙ののち、彼女はそっと目を伏せた。そうね、と囁くように言葉を残して、彼女は去っていった。
 
 そして一週間後、ガーランは彼女と対峙する。捕り手と下手人という立場で、崖の上で。
 
 あの時、もっと親身になって彼女の話を聞いていれば。ガーランのこぶしが、固く握り締められる。
 ――もう二度と、あんな失態は繰り返さない。
 ガーランは、昨夜の礼拝堂の声を思い返し、唇を引き結んだ。あの、痛々しいほどに張り詰めた声は、九年前の彼女と同じ、覚悟を決めた者特有のものだ、と。
 ――いい声なんだけどな……。
 他人を呪うことなどやめて、いっそ妙なる調べを聞かせてくれたら。そう溜め息をついたガーランの脳裏に、ふっと閃くものがあった。
「……まあ、駄目でもともと、ってな」
 ガーランは小さく頷くと、にぃっと口のを上げた。
 
 
 
 夜勤明けの休日。昼間にたっぷりと身体を休めたガーランは、夜を待って教会を訪れた。
 二日前と同様、尖塔に上がって待ち構えていると、またしても夜半になって女がやってきた。
「神よ。どうか我が願いを聞き届けたまえ」
 どんなに目を凝らそうと、月の光なくしては女の姿は闇に沈んだきりだ。
 だが、それは向こうにとっても同じこと。ガーランは二度三度と深呼吸を繰り返した。そう、下にいる彼女からも、暗い尖塔に潜むガーランの姿を見ることはできないはず。
「どうか、苦しみを与えたまえ」
 ならば、上手くやれば、彼女が一体どういう問題を抱えているのか聞き出すことができるかもしれない。たとえ力にはなれなくとも、彼女の憂さを多少なりとも晴らすことができれば……。
 ガーランは、大きく息を吸い込むと、下腹に力を入れた。
「おのれの浅はかな行いで、傷つけられた者がいることを忘れぬよう、生涯消えぬ苦しみを」
「随分深い恨みなんだな」
 思いきってガーランが階下に放った声は、壁や床に反響しながら、暗闇の中へ吸い込まれていく。
 女が、黙り込んだ。
 女の出方を窺おうと、ガーランもまた口をつぐんだ。
 
 ――我慢比べか。
 中庭の木々が夜風に囁きを交わしている。
 沈黙を守り続ける女に、ガーランも無言で対抗した。
 と、不意に、階下の気配が揺らいだ。
 礼拝堂を吹き抜ける風の音が、ガーランの五感を惑わせる……。
 
 風がやみ、再び静寂が訪れた。
 ガーランはそうっと唾を呑み込んだ。全神経を集中させて、下の様子を探る。
 ――逃げられたか。
 小さく舌打ちして、ガーランは腰を上げた。溜め息一つ、礼拝堂に下りようと梯子へ向かう。
 その時、山のほうで突然ヨタカが鳴きだし、ガーランはぎょっとして動きを止めた。
 キョキョキョキョ、キョキョキョキョ。
 甲高い鳥の鳴き声が、小刻みに何度も夜陰を震わせる。脅かすなよ、とガーランが肩を落とした直後、軽い足音が眼窓の下から聞こえてきた。
 足音はまたたく間に遠ざかり、扉が開いて、閉じて、そうして今度こそ間違いなく真の静寂が世界を包み込む。
 危なかった、と、ガーランは思わず胸を撫で下ろした。
 
 
 
 次の日、準夜勤が終わると、またまたガーランは教会に直行した。
 今度は念のため礼拝堂の中を通らずに、暗闇に乗じて外から尖塔を目指すことにした。抜かりなく持参した背負い袋に靴を放り込み、木陰の死角を選んで石積みの外壁に挑みかかる。
 実は、ガーランが礼拝堂の壁に登るのはこれが初めてではない。去年も助祭長に庇の修理を頼まれて、壁から屋根へと登らされている。ただ、その時は助祭長が縄梯子を用意してくれていた。登攀とうはん訓練はガーランが最も苦手とする種目であったが、真面目に励んでおいて正解だったな、と彼は満足そうに自らに頷いた。
 ――迷える仔ヤギを群れに戻すのだ。どこから入ろうが、神様も大目にみてくれるに決まってる。
 月の光に助けられながら、ガーランはなんとか尖塔に辿り着いた。
 
 いつもどおりに眼窓の傍らに腰を落ち着け、息を殺して、ガーランは待ち続けた。
 半時が過ぎる頃、階下に変化が現れた。突然、隅の暗がりで何者かの気配が動いたのだ。
 ガーランは知らず息を呑んだ。
 扉は開かれなかった。つまり、彼女もまたガーラン同様、下で待ち伏せをしていたのだ。念には念を入れて良かった、と胸を撫で下ろしてから、ガーランは上唇を舌で湿した。
 階下では小柄な影が一つ、会衆席の隅々までを見回っていた。そのまま月明かりの中に留まってくれ、とのガーランの願いも虚しく、影は最後に窓の外を確認したのち定位置に戻る。
 そうして、再び辺りは静謐に満たされた。
 さて、と、ガーランは顎をさすった。物事を先へと進めるためにも、彼女から情報を引き出さなくてはならない。
 ――野郎相手なら、話は簡単なんだがなぁ。
 こと女性相手ならば、「女たらし」の称号も輝かしい我らが隊長の真似をするのがいいだろう、そう結論づけてガーランは居住まいを正した。お定まりの呪詛を吐き出し始めた女の声を遮るようにして、眼窓から声を投げる。
「貴女のような美しい方に、かような呪いの言葉は似合いますまい」
 隊長の物真似にかけては隊内随一、とガーランは自負している。それに、これはガーランの本心からの言葉だった。もっとも、根拠など何もないのだが。
「美しい?」
 一呼吸置いて、鼻で嗤う声が響いてきた。対話成立、作戦成功だ。
「ふざけないで。あなたは誰? 昨日もいたわね。どこに隠れているの?」
 強気なところも悪くない。ガーランは満足そうに口角を引き上げた。さて何と名乗ったものか、しばし思案してから、ガーランはその瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「私は精霊です。夜風の精霊です」
 さしものガーランも、神を騙るのはあまりにも畏れ多いと考えたのだ。
 一方、女は逃げるでなしに、靴音も高く説法台や祭壇の裏を見て回っているようだった。残響のせいで、ガーランの声がどこから聞こえてくるのか判らないのだろう。そもそも、自分の声がこんな高い所にまで届いているなど夢にも思っていないに違いない。
「隠れていないで、出てきなさい」
 ――意外と肝が据わっているな。
 ガーランは思わず笑みを浮かべた。気の強い女は隊長の鬼門だからな、などと勝手なことを胸の中で呟いてから、今度は心持ちいかめしい顔で「どこにも隠れてなどおらぬ」と助祭長の口調を真似てみる。
「嘘」
 冷たく一言を言い放ち、女は今度は窓を改め始めた、それから祭壇の横手にある通用口を開く。
 まさか、このまま立ち去るつもりだろうか。ガーランは猿真似をかなぐり捨てて女を呼び止めた。
「だから、どこにも隠れてなんかいないって!」
「まさか」
「現に、どこにもいなかっただろ?」
「でも、精霊がヒトの言葉を話すなんて……」

 精霊もまた、神と同様にヒトの理に縛られぬ存在である。だが、そんなことはガーランの知ったことではない。
「精霊だって、たまには人恋しくならぁな」
「……ふうん」
 物凄く不審そうな声が下から漂ってきた。が、ガーランは気にせず、ここぞとばかりに質問を繰り出す。
「で、この間から何をそんなに呪っているんだ?」
 女が、大きな大きな溜め息をついた。ややあって、投げやりな口調がそのあとを継ぐ。
「今度、結婚させられるのよ……」
「させられる? 好きでもないのに、ってことか?」
 また、溜め息が聞こえた。
 そして沈黙。
 やがて、いつもの感情を押し殺した声が真っ直ぐ眼窓を突き抜けてきた。
「姉がいたの」
 唐突な話題転換に、ガーランは目をしばたたかせる。
「『いる』じゃなくて『いた』?」
「……死んだわ」
 吐き捨てるように発せられたその言葉を追いかけるようにして、どこかでヨタカが鳴き始めた。
 夜気を打ち震わせる鳥の声に、つい気を取られたガーランが我に返った時には、女の気配はすっかり消え失せてしまっていた。
 
 
 
 それから毎晩、ガーランは礼拝堂の壁をよじ登った。
 女はいつも、開口一番「いるの?」と囁いた。
 ガーランが無言でいると、女はこれまでどおり呪詛を口にし始めたので、彼は毎回「いるよ」と答えなければならなくなった。
 そうすると、女はわざとらしい溜め息とともに、黙り込む。
 そうして、あまりの静けさにガーランがうっかり居眠りをしてしまいそうになる頃、女は「精霊」に話しかけてくるのだ。
 
 あなたは誰、どこにいるの、どこからきたの?
 俺は精霊で、ずっとここにいる。アンタこそどこから来たんだ?
 
 そんな問答を懲りもせずに繰り返しては、ヨタカの声とともに女は姿を消すのだった。
 
 
 
「また昨日も夜勤を交代してもらったらしいな」
 大あくびとともに警備隊本部に登庁したガーランは、訓練場の扉の前で、不機嫌そうな声に呼び止められた。しぶしぶ振り返れば、えんじの上衣をビシッと着こなした切れ長の目の青年が、いかにも文句を言いたげな表情で階段を下りてくる。彼こそが、ルドス警備隊隊長その人だ。
「夜勤だけじゃなくて、ちゃんと非番も一くくりにして、交代してますから」
 文句は言わせませんよ、と唇を尖らせるガーランに、隊長は、「そういうことが言いたいんじゃない」と肩を落とした。
「いいかげん休みを入れないと、身体を壊すぞ」
「でも、それじゃあ夜勤も入れなきゃならなくなるでしょ」
「当たり前だ」
 隊長に真正面から顔を覗き込まれて、ガーランは思わず目を逸らした。しまった、と即座に視線を戻すも、隊長の目つきは険しくなるばかりだ。
「ガーラン、お前、何を企んでいる?」
「何も企んでいませんて。人聞きの悪い」
 ガーランはそう苦笑を浮かべてから、大きく息をついた。
「仔ヤギがね、懐かなくって」
「は?」
「群れに帰ってくれないんスよ」
 無言で眉をひそめる隊長に、ガーランは肩をすくめてみせた。
「そんなわけなんで、もう少し俺の好きにさせてもらえませんかね」
 
 
 
 そうして更に五日が過ぎた。
 ガーランと女は、お互いの正体は棚に上げたまま、世間話をぽつりぽつりと交わすようになっていた。
 ガーランは、女が良家の娘であると推理した。他愛ない会話にさりげなく混ぜ込んだまつりごとの話題に、彼女が難なく話を合わせて来たからだ。この国の歴史や社会情勢などなど、ガーランが職務上必要にかられて必死で詰め込んだそれらの知識を、彼女はとても自然に口にした。
 初等学校だけでは到底得られない博識さ。それは、彼女がいわゆる「上流階級」に属する人間だということを示しているといえよう。そう思って眼窓から影の仕草を見れば、なるほど、彼女には確かにそこらの町女とは違う、優雅さや気品が感じられるような気がした。
 裕福な家のお嬢さんが、深夜お屋敷を抜け出してまで呪いたい相手とは。ガーランの興味は、日を重ねるごとにますます深みを増していった。
 
 その答えは、何の前触れもなくもたらされた。
 ふと途切れた会話の糸をどうやって繋ぎ直そうかガーランが考えていると、彼女がぼそりと呟いたのだ。まるで今朝見た夢の内容でも語るかのように、事も無げに。
「姉が、死んだの」
 それは、彼女がガーランと最初に言葉を交わした時に口にした台詞と同じだった。
 ガーランは黙って続きを待った。
「身分違いの恋人を父に殺され、断崖絶壁から身を投げたわ」
 あまりにも衝撃的な告白に、ガーランは言葉もなく奈落を見つめる。
「姉は、父に仕えていた下級騎士と恋に落ち、将来を約束し合った。でも、父はそれに猛反対した。何故なら、父はさる有力者に、姉を嫁がせるつもりだったから」
 深呼吸一つ、なんとかガーランは平静を取り戻した。
「政略結婚、ってやつか」
「お相手は、六十を越えてまだ独り身の男で、良からぬ性癖が噂される人物だった。まあ、絶望する姉の気持ちも解らないでもないわね」
 淡々と紡がれる言葉からは、一切の感情が読み取れなかった。
「しかし、いくら縁談の邪魔になるからって、殺す、ってのは酷過ぎるぞ。どこかに訴えるとかできなかったのか? いくらお偉いさんでも、実の娘の告発なら……」
「枷が無ければ、ね」
 彼女の声が、更に一段低くなった。
「『お前が余計なことをすれば、妹を殺す』……父はそう姉を脅したのよ。
 母は早くに亡くなり、私達はたった二人だけの姉妹だった。だから……」
 なんて腐れ親父だ、とガーランはこぶしを握り締めた。そんな奴なんかとっとと見限って、姉妹で家を出てしまえば良かったのに。そう考えかけたガーランだったが、即座に「無理か」と思い直す。
 世間知らずの細腕の娘二人では、とても世の荒波を乗り越えてはいけないだろう。たちまち身を持ち崩すか、追っ手に捕まり連れ戻されるか。こうやって夜な夜な恨み言を神にぶつけるのですら、彼女にとっては精一杯の冒険のはずだ。
「妹を守りたい。でも、ヒヒジジイと一緒にはなりたくない。それで自ら……、ってことか」と、そこでガーランはあることに思い当たった。「って、まさか、アンタが今度結婚する相手って……」
「そうよ」
 なんだか急にやりきれなくなって、ガーランは大きく息を吐いた。
「で、アンタは、夜な夜な父親を呪い続けている、ってわけか」
「違うわ」
 刃物のような声音が、辺りの空気を両断する。
「私が呪っているのは、姉よ」
 彼女の言わんとしていることが理解できずに、ガーランはおずおずと問いかけた。
「でも、お姉さんは、亡くなったんじゃ……」
「ええ、あの崖から落ちたら、命はないでしょうね」
 冷笑とともに彼女は言い放つ。
 死者を呪う、ということの重さに気づいたガーランの背筋を、怖気おぞけが走った。
 
 
 
 ――腑に落ちねえ。
 夜道を歩きながらガーランは独りごちた。とはいえ、実際のところ何が腑に落ちないのか自分でもよく分からない。おのれの頭が悪いことを恨めしく思いつつ、ガーランは今夜も日課をこなす。
「また来たのか」
「あなたもね」
「俺は夜風の精霊だからな」
 すっかり細くなった月の光が、頼りなげに床を照らしている。
 雄弁だった昨日が嘘のように、彼女はじっと黙りこくっていた。
『私を身代わりにして、自分は常世でのうのうと暮らしているなんて、許せない』
 昨夜、立ち去り際に彼女が残した言葉を、ガーランは反芻していた。
 八つ当たり以外の何ものでもない子供じみた捨て台詞を聞いて、ガーランは驚くと同時に首をかしげた。これまでのやり取りから想像していた彼女の人物像と、ひどくかけ離れた印象があったからだ。
 普段の会話で窺える彼女は、とても聡明だった。ガーランの小芝居に対する反応一つとっても、愚かな小娘という像からはほど遠い。
 それが、いきなりのこの台詞だ。そうでなくとも、もやもやとはっきりしない「何か」が彼女の姿を霞ませている気がして仕方がないのに。ガーランは知らず唇を噛んだ。
 ――姉さん、か……。
 兄弟のいないガーランには、それがどのような存在であるのか今一つ見当がつかない。なんとかして彼女の思考を辿れないか、と頭をひねるガーランの脳裏に、先日、同僚の妹が忘れ物を届けに本部にやってきた時のことが浮かび上がってきた。兄を容赦なく言い負かす妹を見て、ガーランは自分に妹がいないことを神に感謝しつつも、じゃれあう二人をどこか羨ましく思ったものだった。
 ――ああそうか、甘えているのか。
 意識を階下に戻したガーランは、何となく納得した。きっと、彼女達は仲の良い姉妹だったんだろう。姉が亡くなってしまった今も、彼女は姉に甘えにここにやって来ているのだ。「馬鹿なこと言わないの」との叱責を求めて。
 こうやって人目につかない所で羽を伸ばし、そうしてまた朝が来れば、たった独りで理不尽な運命と闘うのだ……。
 ――もしかしなくても、俺、お邪魔虫なんだな。
 悪いことしたなあ、とガーランが頭を掻いていると、久方ぶりに彼女が話しかけてきた。
「どうして、毎晩邪魔をするの」
 痛いところを突かれて、ガーランは密かに苦笑を漏らした。潮時か、と。
 ガーランはゆっくりと深呼吸をした。それから、腹に力を込めた。
「アンタみたいないい女に、呪いの言葉は似合わない」
「何も知らないくせに」
 あからさまに鼻で嗤う気配が伝わってくる。
 もう一度ガーランは息を整えた。
「いいや、知ってるさ」
 面と向かっては、とてもこんな台詞は言えないからな。そう心の中で呟いて、ガーランは胸腔一杯に空気を吸い込んだ。
「アンタが、しっかりと背筋を伸ばして、惚れ惚れするほど真っ直ぐに立ってるってことを」
 階下で、息を呑む気配がした。
 再び、沈黙が辺りを支配する。
 さて、猿芝居の種明かしといこうか、と、ガーランが腰を上げた時、遠くから木が軋むような音が聞こえてきた。
 ヨタカの声だった。
「星送りが始まるわね」
 ぽつり、と彼女が呟いた。
 星送りとは、毎年この季節に行われる追悼と慰霊の祭りのことだ。新月の夜から三日間、人々は死者を悼んで川におふだを流す。太古の昔から続く夏の情景だ。
 彼女は、どんな思いで姉を見送るのだろうか。唇を噛み締めるガーランの耳に、いつになくしおらしい声が飛び込んできた。
「毎晩、こんな馬鹿な女の話に付き合ってくれて、ありがとう」
 不意打ちを喰らい言葉に詰まりながらも、ガーランはなんとか声を絞り出した。
「いつ、なんだ? 結婚式は」
「星送りの祭りが終わったら」
「って! もう五日もないじゃねえか!」
 礼拝堂内に、ガーランの悲鳴が何度も反響する。
 微かに、ほんの微かに、彼女が笑った。
「さようなら、精霊さん。今まで楽しかったわ」
 囁きが、夜風とともにガーランの頬を撫でる。
 そして、扉が開く音。
「待てよ!」
 そう叫ぶや否や、ガーランは屋根の梯子に飛びついた。何度も足を踏み外しそうになりながら、二階の回廊に下りる。階段を駆けくだり、扉を押し開き、礼拝堂の表へ飛び出した。
 見渡す限り動くものは何もない、寝静まった世界に、ただヨタカの鳴き声だけが虚しくこだましていた。
 
 
 
 次の夜、女は礼拝堂に現れなかった。
 
 ガーランは朝一番に本部に登庁すると、一目散に隊長の執務室に飛び込んだ。
「隊長、アンタお貴族様の端くれなんだったら、社交界ってのもお馴染みなんだろ? 星送りの祭りのあとに結婚式を挙げる奴の噂とか、知らないか?」
 窓際の執務机で事務仕事に勤しんでいた隊長は、書類から顔を上げることなく言葉を返してきた。
「すまないが、私はそういうことには疎いんだ」
「晩餐会に舞踏会に、高嶺の花をとっかえひっかえだったくせに、何が『疎い』だ」
「いつまでも昔のことを蒸し返すな」
 眼光鋭く、隊長がガーランを睨みつける。
「嫡男でもない上に家を出てしまった『放蕩息子』が、そんな貴重な情報を持っているわけがないだろう」
「じゃあ、お屋敷に戻れば情報が手に入る、と」
 大きく身を乗り出すガーランに向かって、隊長は思いっきり眉間に皺を刻んでみせた。
「ガーラン、お前、人の話を聞いているか?」
「聞いてますよ、隊長。俺が必要としている情報が、隊長のご実家にある、ってことっしょ? さっさと調べに行きましょう!」
 言うなり、ガーランは隊長の腕をむんずと掴んだ。そのまま椅子から引っ張り立たせようとするのを、隊長が全力で拒む。
「いや、だから、私は、父が彼女のことを認めるまでは屋敷の門をくぐらないと……」
「じゃあ、手紙書いてくださいよ。セバスのじいさんに、これこれこういう人を知らないか、って」
「お前、どうして我が家の家令の名を……、って、いや、そうではなく、ガーラン! 理由を言え! まずはそれからだ!」
 
「おかしいぞ」
 ガーランの話を一通り聞き終わるなり、隊長がきっぱりと言い切った。
「まず第一に、良家の娘が夜中に町をうろつけるというのがおかしい。ましてや東の教会だろう? 西ではなく」
 町の中央を貫く大通りの西と東では、住民の層が違っている。町の有力者や貴族といった「持てる者」の屋敷は、町の西側、山へと続く高台に建ち並んでいた。
「そもそも、騎士を擁するほどの有力者なら、普通は屋敷に礼拝堂があるだろう? どうして、わざわざ外に出る必要がある? お前、おかしいとは思わなかったのか」
 尊大に言い放つ隊長に対して、ガーランは盛大にムッとした顔を作った。
「俺にとっては、礼拝堂ってったら、教会にあるものと決まってるんでね」
「それにしても、だ。連れはいなかったのか? 馬車の音は? 婚礼を控えた娘が夜中に独りで出歩くなぞ、絶対にありえない」
「ありえないも、ありえなくないも、事実がそうなんだから仕方がないでしょう」
 一歩も退くつもりのないガーランの勢いに、隊長は溜め息をついてペンを手に取った。
 
 

 その日の夕方、警邏から帰投したガーランは隊長に執務室に呼び出された。
 机の前に立ったガーランに、隊長は手に持った紙をぞんざいに机上に広げて見せた。
「該当者無し、だそうだ」
「は?」
「州知事が有する名鑑の中に、星送りの前後半年間に婚姻した、もしくは婚姻する予定の者はいなかった、とのことだ」
 その瞬間、ガーランは見えない手にがつんと頭を殴られたような気がした。
「夢みがちな乙女の、お姫様ごっこだったのではないか? 悲劇の姫に自らをなぞらえて一人芝居を楽しんでいたところに、精霊を騙る馬鹿者が闖入し引くに引けなくなったとか、もしくは、お前の悪戯に気づいての仕返しだったとか……」ほんの少しだけ同情の色を瞳に浮かべて、隊長が椅子に背もたれる。「それとも、その者こそが、ヒトにあらざる存在であったとか……」
 まるで、隊長の声がどこか遠くから聞こえてくるようだ。
 ガーランは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
 
 
 
 東の教会、礼拝堂より少し下がった所に建つ治療院。その裏手で、白いエプロンを身につけた若い女性が洗濯物を干していた。
 雲一つ無い夏空を背景に、何枚もの敷布が気持ち良さそうにはためいている。最後の一枚を干し終えた女性は、物干し場をぐるりと見渡してから大きく頷いた。そうして空になった洗濯籠を抱え上げ、治療院の裏口へと戻ってくる。
 ガーランは扉の陰から出ると、女性の進路を塞ぐような位置で足を止めた。
 女性が、怪訝そうな表情で立ち止まる。
 束ねられた褐色の髪は日の光を受けて艶やかに波打ち、襟足を優雅に飾っている。涼しげな瞳は、澄みきった泉のごとく。思ったとおり、いい女じゃねえか、と心の中で呟いてから、ガーランは姿勢を正した。
「アンタがラナさん?」
 ガーランの問いかけを――声を聞くなり、彼女の足元に籠が落ちた。
 ラナと呼ばれた女性はしばし身動き一つせずにガーランの顔を凝視していたが、やがて何か観念したかのように両手を軽く上げた。
「もしかして、私は、何かあなた方の仕事を邪魔してしまっていたのかしら」
 彼女の視線がえんじの上衣に注がれていることに気づき、ガーランは小さく首を横に振った。
「俺が勝手に夜の散歩をしてただけさ」
「とんだ精霊がいたものね」
 冷ややかな眼差しを咳払いではね返して、ガーランは話を続ける。
「アンタの話を聞いていて、どうしても引っかかることがあったんだ」
 ラナの形の良い眉が、すっとひそめられた。
「俺は頭が悪ぃからさ、何がどう引っかかってんのか、すぐには解らなかった」
「すぐには、ということは、今はもう解っているってこと?」
 挑戦的な質問に、ガーランは得意げに頷いた。
「アンタ達姉妹は、仲が良かった。特に、姉は妹のことをとても大切に思っていた。自分の幸せよりも妹の命を優先するほどに。でもな、そんなに妹が大事なんだったらなおのこと、何故死んだのか、腑に落ちねえんだよ。政略結婚なんだから、自分が死ねば妹が身代わりになることぐらい、いくらでも想像できるはずだ。死ぬほど嫌だった縁談を、死んでまで守りたかった妹に押しつける、っておかしかないか?」
 ラナの表情が、僅かに硬くなる。
「そもそも父親の脅し文句だって、『姉のお前がいうことを聞かなければ、代わりに妹を嫁にやる』でも良かったはずだろ? なのに、実際は違った。腐れ親父は妹の命を盾にし、姉は死を選んだ。妹では姉の代役にはなれなかったんだ。
 だが、妹に何か問題があったわけではない、というのは、今回政略結婚のお鉢が妹に回ってきたことから分かる」
 まさしくこの矛盾こそが、ガーランの抱いた違和感の大本だったのだ。
「つまり、こうだ。アンタ達は歳の離れた姉妹だった。それも、四つや五つどころではなく。幼い妹が後釜におさまることはないと確信できたから、姉は命を絶ったんだ」
 沈黙を肯定と捉えて、ガーランは話し続ける。
「すると、ますますアンタが姉を呪う理由が解らなくなる。その当時の姉の事情がアンタに理解できないことはないだろうし、それなら姉に甘えるにしてももっと違うやり方を選びそうなものだしな。そもそも、アンタが呪うべきは、父親だろう? そして、それをアンタ自身も承知していた」
 ラナが唇を噛む。
「なのに、アンタは姉を呪い続けた……」
 ガーランは一旦言葉を切ると、大きく息を吸った。それから、静かに言葉を継ぐ。
「……ラナ、アンタが『姉』なんだろ?」
 
 洗濯物がばたばたと暴れる音とともに、一陣の風が二人の間を吹き抜けていった。
「……と、まあ、答えを知ったあとなら、いくらでも偉そうに言えるわな」
 ガーランは、少しばつが悪そうに頭を掻いた。
「答えを知った……?」
「アンタ達が歳の離れた姉妹だ、ってところまでは想像がついたものの、その先、なんでアンタが姉を呪うのかがさっぱり解らなくってな。でも、嘘や作り話というにはアンタの雰囲気は痛々し過ぎるし。とりあえず、アンタの正体は棚上げにすることにして、亡くなったという『姉』について調べてみたんだ」
「隊長さんね。確か、州知事の息子さんだとか。……本当、あなたが警備隊員だったなんて、迂闊だったわ」
「ああ、まあ、普通だったら俺みたいな庶民にゃ、お偉い方々の、しかも異郷の事情なんて分かりっこないからなあ」
 ふう、と息を吐き出すと、ガーランはこれまでの経緯を語り始めた。
「隊長んちで訃報の束を調べたところ、今から十年前に、さる南方のお貴族様が、妙齢の娘さんを不慮の事故で亡くした、という記録が引っかかった。
 どんな小さな手がかりでも欲しかったんでな、俺はここの助祭長に話を聞きにきた。南の海で船に乗っていたおやっさんなら、もしかしたら何か知っているかもしれない、ってね」
 そこでガーランは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「おやっさんも歳だね、思い出話につるっと悲恋の姫が登場した。口が滑ったことに気づいて誤魔化そうとしやがったが、なんとか聞き出してやったぜ」
 引き換えに、今度の休日に教会の薬草畑の柵を修理する羽目になったことは、自分の胸にしまっておくことにする。
「十年前、世話になっていた船長が倒れたという知らせに、おやっさんは海を渡った。そこでおやっさんは、海岸の波打ち際に倒れていたアンタを見つけたんだ。
 事情を知ったおやっさんは、アンタをルドスへ連れてきた。そうしてアンタは、ここルドスで別人として暮らし始めた」
 ラナが、小さく頷いた。
「だが、最近になって、アンタは、風の便りに自分の妹が結婚することを知った。そうなんだろ? お相手は、自分の時と同じ、隣の領主。それで、アンタは後悔にうちひしがれた……」
 深い溜め息とともに、張り詰めるようだったラナの気配が緩んだ。一息つくガーランのあとを受けて、彼女は訥訥と話し始める。
「あの時、妹はまだ五つだったし、相手は既に老境にさしかかっていた。あの子が私の身代わりになるなんて考えもせずに、ただ絶望から、私は発作的に海に身を投げた……」
 そこで、ラナの口元が僅かに歪んだ。
「そもそもあの強欲な父が、将来有用な手駒になりうるあの子を、私への見せしめのためだけに殺すなんて、ありえない。父は見抜いていたのよ、運命を嘆くばかりで、自分からは何も動こうとしない私のことを。だからこそ、心にもない脅し文句を平然と口にすることができたんだわ。そんなことすら解らずに、私は……」
 喘ぐように息を繰り返し、ラナは顔を伏せた。こぶしを握り締め、もう一度大きく息をつき、震える唇を再度開く。
「あの子に謝らなければ、と思った。できれば代わってやりたかった。でも、私は既に死んだ人間だから、今更故郷には帰れない」
「だから、アンタは『自分』を呪ったんだ。何も知らない妹の代わりに、全身全霊を込めて呪詛を吐いた」
「……私が死んだと思えばこそ、あの子は運命を受け入れたのでしょう。ならば、今ここで私がのうのうと一人生き永らえていてはいけない。でも……」
 そこまでを語って、ラナは言葉を詰まらせた。握ったこぶしを胸にあて、青い顔で息をつく。
 ガーランはそっと目を細めると、彼女の言葉を引き取った。
「……でも、既にアンタは、ここになくてはならない人になっていた」
 息を呑み顔を上げるラナに、ガーランは片目をつむってみせた。
「相当頑張ったんだってな。おやっさんが誉めてたぜ。なんにもできなかった気弱なお嬢様が、今や治療院筆頭の癒やし手だ、って」
 唇を噛んで、ラナが顔を背ける。
 ガーランは怪訝に思って片眉を軽く上げたものの、そのまま話を続けた。
「実はさ、最初は『星送りの祭りのあとに挙式予定のある名家』ってふうに、『妹』の線で調べてたんだけどさ、それでは該当する家が見つからなかったんだよ」
 ラナが困惑の表情でガーランを見た。
 その様子を横目で見つつ、ガーランはすまし顔で言葉を重ねる。
「それがな、去年だったんだ。アンタの妹さんが結婚したの。なんてったって海の向こうだ、遠いからなあ、風の便りは風任せ、一年かかってやっとアンタのもとへ辿り着いたってわけだ」
「去年……!」
 なんてこと、と目を見開くラナをよそに、やけに勿体ぶった調子でガーランが口を開いた。
「そう。去年の星送りの祭りのあと、マタル領主の娘ロナと、カフタス辺境伯アクラムの結婚式が執り行われた、ってね」
「え?」
 ぽかんと口を開いて絶句するラナに、ガーランは遠慮なくにやにや笑いを浴びせかける。
 ラナは、たっぷり一呼吸の間、身動き一つしなかった。それからごくりと唾を呑み込んで……、そして、ガーランに噛みつかんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「アクラム!? イスハルではなく……?」
さきの辺境伯は、二年前にポックリ流行り病で亡くなって、ド田舎に追いやられていた甥が跡を継いだんだと。若いのに優秀だってんで、領民の評判も上々、結婚してからは愛妻家でも通っているって噂だ」
 それを聞いて、ラナはまるで糸が切れたかのように、へなへなとその場にへたり込んだ。
 ガーランは、黙って彼女を見守り続ける。
 やがてラナは、ぽつりぽつりと話し始めた。まるで独白のように。
「……私がいなくなれば、教会の皆が困る……、それはそうなのかもしれない。でも……、私は……私はただ、死にたくなかっただけなの。ここでの生活を手放したくなかっただけなのよ……」
 ラナの日に焼けた頬を、幾つものしずくが、つたって落ちる。
「あの時のことは、今でも覚えている。私は、全てを捨てて崖から身を投げた。誰かに助けられるなんて夢にも思わず、本気で命を絶とうとした」
 小さくしゃくり上げてから、ラナは激しく頭を振った。
「でも……! もう、駄目なの。物見櫓に上っても、居敷きの崖に行っても、もう足がすくんで動かない。死を選ぶほど嫌だったことをあの子に押しつけておいて、今更死ぬのが怖いだなんて、ふざけているにもほどがあるわ。だからせめて、自分のしたことをこの身に、魂に、刻みつけようと……」
 やがて彼女は両手で顔を覆って、静かに肩を震わせ始めた。
「折角おやっさんが助けてくれた命なんだ、死に急ぐことないだろ」
 ガーランはラナの前にしゃがみ込むと、その頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「妹さんも、良い旦那さんに恵まれてよろしくやってるわけなんだしさ」
 とうとう嗚咽を漏らし始めたラナの頭を、ガーランは撫で続けた。ここで抱き締めるのは反則かなあ、などと余計なことを考えながら。
 
 
 
          * * *
 
 
 
「なんだ、その変な歌は」
 深夜の町角、警邏の終わり頃になって、同僚が思い余ったようにガーランに問いかけてきた。
「え? 歌? 俺何か歌ってたか?」
 真顔で返すガーランに、同僚は呆れ返った表情で天を仰いだ。「分かってないんだったら、いい」
「え? なんだよ、気になるだろ。歌がどうかしたのかよ」
 ガーランがしつこく食い下がると、同僚はこれ見よがしに肩を落としてみせた。
「幸せそうで良かったな、ってことだ」
「しあわせ? まさか! 夜勤続きでへとへとな俺に、そんなことよく言うな」
 はいはい、と軽くいなす相方に、ガーランはなおも言い募る。
「明日は明日で、貴重な休みの日だってのに、治療院の大掃除手伝わされるんだぞ。まったく、あのクソ坊主め、人使いが荒過ぎるっての」
 憮然とした口調とは裏腹に、その頬は緩み、足取りはどこまでも軽い。
「さーて、さっさと次の組と交代しようぜー」
 溜め息をつく同僚をあとに残し、ガーランは鼻歌を口ずさみながら巡回路を進んでいった。
 
 
 

炒り豆をめぐる冒険

 
 
 おおー、着いたぞーっ!
 そう心の中で叫んでから、リーナは大きく伸びをした。豪快な動きに合わせて、太い三つ編みがぶんぶんと揺れる。
 喧騒渦巻く、州都の停車場。つい今しがた停まったばかりの乗合馬車から、リーナに少し遅れて、残る乗客がのろのろと地面に降り立ちはじめた。皆一様に疲れの目立つ表情で、大儀そうに腰を叩いたり伸ばしたりしている。
「リーナちゃんは元気ねえ」
「へへへへ、そりゃー、若いですからね!」
 リーナは思いっきり得意げに胸を張って、長旅の道連れ達に笑い返した。
「リーナちゃんのお蔭で、楽しかったよ」
「そうそう。また帰りも一緒だったらいいね」
 馬車から降り立った八人は、それぞれ荷物を抱えて、各々の目的地へと散っていく。さてと、と大きな鞄を肩にかけようとして、リーナは外套のポケットのふくらみを思い出した。右のポケットから干し芋を、左のポケットから炒り豆が入った袋を取り出し、鞄の中に移し替える。どちらも、馬車に乗り合わせたおじさんおばさんから貰った大切な品物だ。
 ――私って、年上受けするのかなあ。
 これで、一食分の食費が浮いたかも。リーナはにんまりと笑みを浮かべた。
 
 
 峰東ほうとう州の都ルドスと、東の最果ての街サランとの間を、十日に一度の割合で長距離の乗合馬車が行き来している。元々郵便を運搬するために開設されたこの馬車便は、いつの頃からか、同行者がおらず、経済的に余裕がなくて護衛やお供を雇えない旅人を、比較的安価な運賃で運ぶという重要な役割をも担うようになっていた。
 リーナがその乗合馬車に乗り込んだのは、もう半月も前のことだ。
 サランの西隣、イという名の小さな田舎町でリーナは暮らしている。町に一つしかない教会の、治療院が彼女の勤め先だ。この旅のために、リーナはここ数ヶ月間、休日を全て返上する勢いで働いた。
 だが、そうしてやっとのことで手に入れたひと月余という長期休暇も、州都までの長い道のりの前にはあまりにも心もとなかった。多くの路銀と時間とをつぎ込んだにもかかわらず、彼女がルドスに滞在することができるのは、わずか一週間にも満たない。
 ――仕方がないよねえ。あっちだって、状況は同じようなものなんだし。
 大きく溜め息をついて、リーナはこれから会う予定の人物の顔を思い描いた。栗色の前髪の下から覗く人懐っこい瞳。男前には違いないが、どこか掴みどころのない笑顔が特徴の恋人――サンが出仕している帝都は、ここから更に西、険しい山々の向こうにある。
 二年前、サンが上京して半年、初めての里帰りに彼はわずか一日しか故郷に滞在することができなかった。それも、悪天候を一切考慮しない、やけっぱちもいいところな強行軍だったらしい。
 たまたまあの時は運に恵まれた、だが、流石にもうそんな無茶はできないだろう、次はいつ帰れるか分からない。そう語るサンからの手紙に、じゃあ、どこか途中で落ち合わない? と返したのは、リーナのほうだったのだ。
 ――って、でも、こうするしか他に手はなかったよねえ?
 ルドスで会おう、って自分が切り出さなければ、サンは一体どうするつもりだったんだろう。まさか、それっきり、はい、サヨウナラ、ってことはないと思いたいけれど、あのままでは、いつまでたっても「会いたいね」「会えたらなあ」を繰り返したまま、二人の関係は自然消滅してしまったかもしれない。
 ――大体、煮えきらなさ過ぎなのよね、あいつ。何を遠慮してるんだか知らないけれど、したいこと、してほしいことがあるなら、ずばーんっと言えばいいのに。
 まったく水臭いんだから、とリーナが鼻息も荒く両手を腰に当てた、その時。石畳を蹴る軽い足音とともに、彼女の背中に何かが勢い良くぶつかってきた。
 うぎゃっと情けない悲鳴を上げて、リーナは前方につんのめった。その拍子に、肩にかけていた鞄が路面に落ちる。すんでのところで体勢を立て直したリーナの前に、帽子を目深にかぶった一人の少年が、息せききった様子で回り込んできて、落ちた鞄を拾い上げてくれた。
「ごめんよ、急いでるんだ!」
「危ないでしょ、まったく。気をつけなさいよ」
 分かった、と大きく頷きながら、少年は路地の向こうへと走り去っていく。
「……全然解ってないし」
 ふう、と大げさに溜め息をついてみせてから、リーナは大通りをゆっくりと歩き始めた。
 
 
 
「もう逃げ場はねえぜ」
「さあ、観念してアレを渡すんだな」
 見るからに悪人面をした二人の男が、ひとけの無い路地に追い詰めているのは、先ほどリーナにぶつかってきたあの少年だ。
「お前がアレをお頭からスリ取ったのは分かってんだ。酷い目に遭いたくなければ、返してもらおうか」
 背が高いほうの男が、少年の胸倉を掴んで力任せに引き上げる。少年は両足をばたつかせながら、必死で大声を上げた。
「知らないよ! 僕、そんなもの知らないよ!」
「嘘をつけ!」
「嘘なんかじゃないよ! 持ってないよ! 嘘だと思うんだったら、探してみろよ!」
 少年の叫びに、背の高い男――仮に、悪党其の一とでもしておこう――がほんの少しだけ怯んだ様子を見せた。その隙に、少年は其の一の腕を振り払って地面に着地する。即座に脱兎のごとく逃げ去ろうとした少年を、今度はもう一人の男――こちらは悪党其の二か――が捕まえた。
「やい、お前、どうしても痛い目に遭いたいらしいな」
「だから、持ってない、って言ってるだろ! 離せよ! あんたら、子供を捕まえるのと、宝石を取り戻すのと、どっちが目的なんだよ!」
 その言葉を聞いて、悪党其の一と其の二はお互いに顔を見合わせ、しばし沈黙した。
「なるほど」
「よし分かった、お前の持ち物を調べさせてもらうぞ」
 言うが早いか、其の二が少年の上着のポケットに手を突っ込む。其の一はズボン。服の上から少年の身体をパタパタと叩き、帽子を逆さに振り、上着の裏地を調べ……。
「兄貴、こいつ、持ってねえ……」
 最後に少年の口の中を覗き込みながら、其の一がそう絞り出した。
「ほら、知らないって言っただろ?」
 得意そうな顔で少年が上着の襟元を正す。じゃ、頑張ってね、と立ち去ろうとした彼の首根っこを、其の二が慌てて鷲掴みにした。
「って、お前、なんでアレの中身が宝石だって知ってるんだ!?
 重要な点にようやく気がついたらしい男は、しまった、という表情を作る少年に向けて拳を固めた。
「お前、やっぱり、盗ってやがったな!」
「知らない、知らないよ!」
「ふざけるな!」
「でもよ、兄貴、現にこいつ、何も持ってなかったぜ」
「おい、お前、どこに隠した!」
「知らないって!」
「まだトボけるか!?
 噛みつかんばかりの勢いで少年を恫喝する其の二に、其の一が至極不安そうな視線を絡ませた。
「どうすんだよ、兄貴。お頭にどやされちまう……」
「待て、良く考えるんだ。あの時、お頭にこいつがぶつかってくるまでは、あの袋はあったんだろ?」
「で、そのあとすぐに俺達はこいつを追いかけた」
「どこかに隠したか、仲間に手渡したか……」
 そこで、二人はもう一度顔を見合わせて、今度は叫び声を上げた。
「あー! さっきの女!」
 一瞬生じたわずかな隙を、少年は見逃さなかった。勢い良く其の二のむこうずねを蹴り上げ、緩んだ手を振りほどく。そうして少年は全速力で袋小路から逃げ出した。
「うわーっ! 助けてー! 殺されるーっ!」
 表通りへと続く細長い坂道は、人通りこそ無いものの、彼らが先ほどまでいた場所とは違って見通しは格段に良い。石畳と家々の壁に反響した少年の声に、男達は激しく動揺した。
「おい、こら、人聞きの悪いこと言うな!」
 一角ひとかど走ったところで、其の二はやっと少年に追いつくことができた。問答無用で少年を羽交い締めにし、なんとか口を塞ごうとする。
「あの女の居場所を言えば何もしねえよ!」
「たーすけてーっ! 人さらいだー!」
「くそ、黙れ! クソガキ! あの、茶色の三つ編みの田舎娘はどこだ!」
 あれだけの邂逅で、リーナのことをこれだけ把握できているというあたり、この悪党其の二、ある意味大した慧眼の持ち主なのかもしれない。
「ころされるぅうー!! だれかー!」
「何だか知らないけど、子供相手に大人げない。離してやれよ」
 突然頭上から涼しげな声が降ってきたことに驚いて、其の二と少年は一様に顔を上げた。
 ひょろりと背の高い、だが意外にがっちりとした肉づきの若い男が、腕組みをしながら二人を見下ろしていた。
 その飄々とした態度と気の良さそうな瞳に勇気を得たのか、其の二は不敵な笑みを浮かべて若い男をねめつける。
「よぉよぉ、兄ちゃん。これは身内の問題なんでね、関係ない奴はすっこんどいてもらおうか」
「嘘だ、嘘だよ! 身内なんかじゃないってば! こんなおっさん知らないよ!」
「……って、言ってるけど?」
「反抗期ってやつさ。さあ、とっとと……」
 威勢良くそこまで啖呵を切って、それから其の二は動きを止めた。硬直した視線は、若い男の腰に注がれている。外套越しでも窺うことのできる、ひと振りの長剣の存在に。
「兄貴、どうしたんですかい。こんな優男、さっさと……」
 少年が自由を取り戻すのを見て、其の一の目が丸く見開かれた。
「兄貴!?
「……どのみち、あのガキは持ってなかったんだ。女を捜すぞ」
「で、でも兄貴……」
「うるさい、行くぞ!」
「ええー!? あにきぃー」
 
 どたどたと騒々しく走り去っていく二人を、若い男は無言で見送っていた。
 その後ろでは、危機を脱した少年が、これ幸いとばかりに、そろりそろりとこの場から離脱しようとしている。
「ちょっと待った」
 だが、少年が走り出そうとするよりも早く、若い男の手が少年の右手首を掴み取った。
「な、なんだよ」
「……何か言うことがあるだろ?」
「へ?」
 本気でわけが解らない様子の少年に、若い男はがっくりと肩を落とした。
「あのねえ、別に感謝されようと思って助けたわけじゃないけどさ、こういう時は、一言お礼を言うものだろ?」
 なるほど、と合点がいった様子で、少年は深々とお辞儀をする。
「助けてくれてありがとうございました。……じゃ、そういうことで」
 爽やかにそう言い捨てるや否や、すかさず回れ右をして駆け出そうとする少年であったが、今度は男に左手首を掴まれ、大きく前につんのめってしまった。
「な、何すんだよ!」
 子供らしからぬ気迫を瞳に込め、少年は男を睨みつける。その視線を事も無げに受け流しながら、男は顎に手を当てて何事かを考え込み始めた。
「……茶色の……、田舎……、いくらなんでも、考え過ぎだと思うけど……でも、なんかひっかかるんだよなあ……」
「何だよ、手を離せよ!」
「……ま、時間もあるし、思い過ごしだったらそれはそれで問題ないわけだし……」
「おい、何言ってんだよ!」
「……よし」
 何やら納得した表情で大きく頷いてから、男は長身を折り曲げるようにして少年の眼前にしゃがみ込んだ。じたばたと暴れる少年と改めて視線を合わせて、にっこりと笑顔を作る。
「さてと。どういう理由で、あいつらに追われていたんだ? おにーさんに話してごらん?」
「……あんた、何者だよ」
「俺? 俺はサン。通りすがりの旅行者さ」
 朗らかに少年に笑いかけているにもかかわらず、サンの眼差しは少しも緩んではいなかった。
 
 
 

「いやーん、かっわいー!」
 いちの立つ広場の一角、硝子細工の装飾品を並べた小さな屋台店の前にリーナはいた。キラキラと目を輝かせながら、組み合わせた両手を右頬に当てて、うっとりと首飾りに見入っている。
「お嬢ちゃん、お目が高いねえ。それ、ウチの自信作だよ」
「そうなんですかー。こんなに綺麗なの、私、今まで見たことないですよー」
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
 鼠色のショールをまとった年配の女が、ワゴンの中の小箱から一粒の硝子玉を摘み上げて、陽にかざした。綺麗に磨かれた多面体が、秋の太陽を幾つも映し込んで幻想的に輝く。
「どうだい、宝石もかくやのこの煌き」
「ホントだ、すっごーい! キラキラしてる! 宝石なんて見たことないけど、本当にこんな感じなんだろうなあ!」
「んふふふふ。お嬢ちゃんたら、上手だねえ。どうだい、特別にオマケしておくよ?」
 女主人が思わせぶりに片目をつむる。リーナはほんの一瞬だけ目を輝かせて、……それから穴の開いた皮袋のように、みるみるうちにその身体を萎ませてしまった。
「……あ、でも、持ち合わせがそんなにないんですよね……」
「うーん、じゃあ、これなんかは? どうだい?」
 そう言って女が取り出したのは、普通の丸い硝子玉と、美しくカットされた硝子玉とが、ほど良く混ざり合って作られた首飾りだった。
「これで、お値段は……」
 続きを耳打ちされたリーナの目が、再び見開かれる。だが、彼女はすぐに悲しそうな表情になって、再度がっくりと肩を落とした。
「……帰りの馬車代をとっておかなきゃならないし……」
 さしもの女主人も、少し不機嫌そうな眉で小さく唇を尖らせる。
「ルドスに着いたばかりって言ってたろ? 買い物に来たんじゃなかったのかい?」
「買い物もしたいけど、一番は、人に会いに来たから……」
 そこで、女主人の瞳がきらりん、と光った。
「デートかい」
「ええ、まあ」
「なんだい、なんだい、景気の悪い顔をして」
「いや、ちょっと今、我に返ってしまって……」
 右手でこめかみを押さえながら、リーナは、はあっ、と大きな溜め息をついた。
「バカみたいな大金使って往復一ヶ月も馬車乗って、せっかく州都に来たのに好きなもの一つ買う余裕もなくて、そこまでしても一年にほんの数日しか会えなくて、私、一体何やってんだろう、って……」
 リーナのぼやきに、女主人の眼差しが同情の色を帯びる。と、ふと何かを思いついたらしく、女は悪戯っぽく口のを上げてリーナの肩をポンポンと叩いた。
「馬鹿ねえ。簡単なことじゃない。彼氏に買ってもらえばいいのよ」
「へ?」
「向こうの都合で、遠路はるばる呼びつけられてるんでしょ? 好きなものの一つぐらい、彼氏に買わせなさいよ!」
「買わせる……」
「そうそう」
「好きなものを……?」
「そうよぉ」
 にこにこと頷く女主人につられるように、リーナは晴れ晴れとした表情で顔を上げた。
「そっか! 買ってもらえばいいんだ!」
「こんな遠くまで来てあげたんだぞ、って、お礼の品ぐらいねだっても構わないわよ」
「そうですよね! 構わないですよね!」
「そうそう、その意気!」
「よーし、なんだかやる気が湧いてきましたーーー!」
 
「……って、どう考えても無理よねえ……」
 硝子細工の店から離れて、リーナは再び大きく嘆息した。店のおばさんに乗せられてああは言ったものの、数歩も行かないうちに彼女の足取りはすっかり重くなってしまっていた。
「あいつだって、無理してルドスまで来てくれてるんだもん。買わせる、つってもなー」
 興奮した時の癖で独り言を連発していることに気がつかないまま、思考だだ漏れ状態でリーナは歩き続ける。
「でもさ、近衛兵のお給金って、なんだか良さそうだよね。……ああ、でも、帝都って物の値段が高いって言ってたしなあ。『葡萄酒が一杯どれだけすると思う?』って、それは単に贅沢してるだけじゃん」
 サンの声色を真似てみせてから、自分で反論してみて。独り芝居を繰り広げつつ、リーナは広場を歩き続けた。そうこうしているうちに、暗い気持ちが少しずつ晴れ始めて、再び買い物気分が盛り上がってくる。そもそも、彼女はあまり落ち込みが持続する性格ではないのだ。
「そうだよ、見るだけならタダだもんね。眼福、眼福」
 リーナは鞄を肩にかつぎ直し、足取り軽く買い物客の人波の中へと戻っていった。
 
 
 ぐう、と腹の虫が自己主張を始め、リーナは正午が近いことを知った。今日の朝食が、小さな硬いパンと干し肉一切れだけだったことを思い出してしまい、空腹感が更に増幅される。
『十月の第一週あたりの夕刻に、前回と同じ宿屋で』
 これが今回、サンとなされた約束である。お互い天候に左右される長い旅程ゆえに、正確な日付を指定しての待ち合わせは不可能だ。無事会えた暁には夕食をともにする予定だったが、果たしてそれが叶う日が来るのかどうか……。
 もしも自分が魔術師だったなら、この風に声を乗せて彼に届けるのに。そこまで考えてから、リーナはがくりと大きく肩を落とした。あの複雑怪奇で意味不明な古代語の呪文を習得するなど、自分にできようはずがない。そもそも癒やしの術で手一杯な身が何を言う、と。
「……ま、悩んでも仕方のないことは忘れるに限る、ってね」
 あっけらかんと自分に言い聞かせてから、リーナは改めて辺りを見まわした。
「晩ご飯は、出たとこ勝負ということでいいけど、まずは昼ご飯よね。干し芋も炒り豆も、帰りのためにとっておきたいしなー」
 ついつい視線が、食材や軽食の屋台に吸い寄せられてしまう。
 ――無難にパン屋を探そうか、少し奮発してあそこの揚げ菓子を買ってみるか、うーん、でも、向こうにあった果物の露店も魅力的だ……。
 眉間に皺寄せ考え込むリーナの背後に、ふっ、と黒い影が立った。
 
 
「お嬢さん、何かお探しですかい?」
 揉み手すり手猫なで声に精一杯の愛想笑いもつけて、悪党其の一は、標的であるところのリーナに話しかけた。周りの買い物客が、ぎょっとした表情で二人を見比べては、そうっとこの場から離れていく。
「何を、って、それが、今悩んでいるところなのよ」
 だが、当のリーナは何かぶつぶつと呟くばかりで、一向に背後を振り返ろうともしない。其の一は負けじと、ぎこちない丁寧口調で食い下がった。
「お洒落なお召し物なら、お向こうにお安くて良いお店があるぜ……ますよ」
 客を呼び込むどころか、全力で逃げられかねない上ずった声が、痛々しい。
「別に、服は間に合ってるからいいや」
 心ここにあらずといったふうな返事ののち、リーナがぴん、と姿勢を正した。そうして何やら鼻をひくひくさせながら、きょろきょろと辺りを見まわしている。
 ややあって、彼女はすたすたと歩き始めた。依然として悪党達に背を向けたまま、広場の片隅へと向かっていく。
「……ちょ、ちょっと待ってくれよー、向こうに安い店が……」
 置いてけぼりを食らった其の一を肘で小突いてから、今度は其の二が小走りに標的を追った。
「お嬢さん、いい靴屋を教えてやるよ?」
「これ、まだまだ履けるしなあ。いらないや、ありがと」
 リーナの歩調が更に少し速くなった。其の二は雑踏に揉まれながらも、必死で声をかけ続ける。
「鞄とか、帽子とかは?」
「いらない。お金に余裕ないし……」
 すげない声が、瞬く間に周囲の喧騒にかき消される。
 呼び込みの声、値切る声、笑い声、歓声。それらを彩る、行きかう人々の多種多様な服装。山の民、海の民、白い頭巾は砂漠の民か。色とりどりの人波に、香辛料と炙り肉の匂いがかぶる。……そう、おいしそうな串焼きの香りが。
 香ばしい煙が上がる一角へと邁進するリーナの後ろで、二人の悪党はひそひそと額を突き合わせた。
「兄貴、なんか話が違うぞ? 作戦間違いなんじゃ……」
「おかしいな。田舎から買い物に出てくる娘っこのお目当てといったら、このあたりのはずなんだが……」
 流石の其の二も、まさかこのリーナが人に会うためだけにわざわざ州都にやって来たとは、思ってもいないのだろう。
「意外なところで、装飾品や化粧品のほうが釣れるかもしれんな」
「でも、本当に金を持ってなさそうだぜ?」
 二人とも、かなり失礼なことを言っている。
「嘘に決まってるだろ! 買い物に来るのに、金を持って来ない奴がどこにいる?」
「なるほど」
 お互いに大きく頷き合ってから、二人は改めて追跡を再開した。広場の外れ、串焼き屋台のすぐ近くまで歩みを進めた茶色の三つ編みに、なおも勧誘の言葉をかける。
「土産物にぴったりな、首飾りなんかはどうだい?」
「あー、もう!」と、そこでようやく、リーナが二人を振り返った。「そのことは、今は考えないことにしてるの! お腹空いてるんだから、ちょっとあとにしてよ!」
 そうして両頬を見事にふくらませたまま、再び串焼きへと向き直る。二歩ほど進んだのち、ふと彼女の足が止まった。
「……って、おじさん達、誰?」
 あまりの言い草に、悪党二人のおもてに朱が入る。たまりにたまった鬱憤の堰が、遂に切れてしまった瞬間だった。
 
 
 
「全部話したんだから、もう帰ってもいいだろ?」
「だーめ」
 にっこりとサンに笑いかけられて、スリの少年は思わず背筋を震わせた。視線を合わすことができずに、鳥打ち帽を目深にかぶり直す。
 身体を掴まれているわけでも、紐で繋がれているわけでもないのだから、逃げようと思えばいつだって少年はサンのもとから離れることができる。なのにそれを実行する気になれないのは、サンの屈託のない笑顔の奥底に、言葉には言い表せない不穏な何かが蠢いているような気がしてならなかったからだ。少年は今、助けを求める相手を間違えたんじゃないかという思いに、心の底から苛まれている最中であった。
「カイがあいつらの財布をスリ取ったのが原因なんだから、きっちり最後まで付き合うこと」
「警備隊には突き出さないでくれるんだよな?」
 二人は、前を行く荷馬車にならって大通りから細い路地へと角を曲がる。薄暗い建物の影がしばらく続く向こうに、明るく開けた広場が見えた。
「それは俺の仕事じゃないからね。ま、あまり人様に迷惑をかけないようにして生きることだね」
 余計なお世話だ、と鼻を鳴らしてから、カイと呼ばれた少年は、不貞腐れて腕組みをした。
「んじゃ、今している事は、あんたの仕事なのか?」
「そうかもね」
 そう軽く答えたのち、サンが少し真面目な表情でカイを見やった。
「身長が五フィートとちょい、年の頃は十七、八。茶色の三つ編み、東部訛りで連れは無し。色んな布をはぎ合わせた大きな肩下げ鞄、おせっかいっぽいおばさん口調……。流石、スリをしているだけのことはあるなぁ。大した観察眼じゃん」
「それほどでも」
 露店の並ぶ大広場に足を踏み入れた途端、二人の顔面を喧騒が打った。群衆のざわめきが、広場を取り囲む建物の壁々に反響して、うねるように四方から押し寄せてくる。
「その人物像が確かなら、その女とやらが俺の知っている人間と同一人物である可能性は、かなり高いんだよな」
 長身を活かして辺りをきょろきょろと見まわしていたサンが、小さく頷きながら、広場の奥のほうへと足を向けた。カイも慌ててそのあとを追う。
「で、もしも彼女なら、市の立つ今日、ここに来ないわけがない」
「って、もしかして兄さんの恋人?」
「まぁ、ね」と、少しだけ照れたような笑みを浮かべて、サンが再び前方へ向き直った。「折しも、昼飯時。彼女ならきっと、何を食べようか悩んで食べ物関係の屋台をさすらっているに違いない。手ごろで美味そうな店から聞き込んで回れば、たぶんすぐに……」
 ふんふん、と適当に相槌を打っていたカイだったが、次の瞬間、あるものを認めて大きく目を見開いた。
「あーー! 兄さん、あれ!」
 カイの叫び声に、サンが弾かれたように振り返った。
 買い物客でごったがえす広場とは対照的に、建物の壁沿いには、幾つかの屋台がまばらに出ているだけで、通路とも言える空隙くうげきが細長く開けている。その遥か遠くの向こう隅、見覚えのある凸凹コンビが一塊となって建物の陰へと姿を消した。それはほんの一瞬の出来事であったが、二人組の悪党が三つ編みの女を無理矢理連れ去る様子が、はっきりと見てとれた。
「冗談じゃない!」
 毒づくと同時に、サンが駆け出した。
 何度も人にぶつかりそうになりながらも、彼はまるで風のように、俊敏に人波を避けては、女が連れていかれた路地を目指す。
「……すげー」
 カイはしばし呆然とサンを見送って、それから慌ててそのあとを追いかけ始めた。これは面白いことになったぞ、と上唇を湿しながら。スリの本領発揮とばかりに、これまた見事な身のこなしで人々の隙間をぬい進む。
 広場を抜けたサンに続いて、カイも角を曲がった。
 明るさに慣れた目が、路地の薄暗さに視力を奪われる。思わず足を止めたカイの眼前で、サンの背中が影の中へと飛び込んでいった。微塵も躊躇わぬその豪胆さに、カイの口から感嘆の息が漏れる。
 石畳や塗り壁が次第に輪郭を取り戻し始める視界の中央、一角ひとかど向こうで馬車の扉が閉まった。同時に辺りに響き渡る、鞭の音。
 ゆっくりと車輪が回り始め、馬車は建物の陰へと消えていく。
「待ちやがれ! そこの馬車!」
「兄さん! こっちが近道だよ!」
 すぐ左手の建物の裏、溝とも通路ともつかない家々の隙間が、大通りに繋がっているのを、カイは思い出したのだ。
「馬車が通れる道なんて、限られているもんね」
「なるほど。スリには土地勘も必要ってわけか!」
「そのとおり! 僕にまかせてよ!」
 言うが早いか、石壁の間へとカイは身をおどらせた。
 
 
 

 二人組の男に飛びかかられて、問答無用に口を塞がれ、力任せに引きずられ、馬車に押し込まれて。
 未だかつてない非常事態に、半ばパニック状態に陥りかけたリーナを正気づかせたのは、馬車の中で待ち受けていた中年の男の、くるりんと見事なカールをえがいた口髭の存在だった。
「さあ、アレを返してもらおうか」
 細面の輪郭からはみ出た焦げ茶色の巻き髭が、口の動きに合わせてゆらゆらと揺れるさまに、リーナは思わず二、三度とまばたきをし、それからふき出しそうになって思わず下を向いた。
「なに、怖がらなくったっていいんだよ、お嬢ちゃん。アレさえ返してくれたら、無事に家に帰してあげるから」
 ゆらゆら、ゆらりん。
 夏の太陽の下で風に揺れるキュウリの蔓を思い出しながら、リーナは必死で笑いをこらえつつ顔を上げる。
「……あ、アレって、何ですか?」
 辛うじてそう答えたリーナに向かって、巻き髭氏はフン、と鼻を鳴らしてみせた。それから、リーナの両脇を固める悪党其の一と其の二に、ちらり、と視線を投げた。
 小型の二輪馬車の座席は狭く、一人で片側の座席にふんぞり返る巻き髭氏に対して、其の一と其の二は半分以上お尻が座席からはみ出した体勢で、窮屈そうにリーナを両側から捕まえている。そんな不安定な姿勢にもかかわらず、巻き髭氏の目配せを受けた其の二は慌ててリーナの鞄を奪い取った。
「な、なにするのよ、ちょっと、これ私の鞄……!」
 抗議の声を上げて身を乗り出そうとしたリーナを、其の一が座席に押さえ込んだ。うひゃあ、としりもちをつくリーナには目もくれずに、其の二が彼女の鞄の中を探り始める。
「あ! ありましたぜ、お頭!」
「あーっ! 私の豆ーっ」
 得意そうに吼える其の二の手には麻の小袋が掴まれていた。それを見たリーナが思わず叫び、傍らの其の一が耳を押さえて床にうずくまる。
「何が豆だ。往生際が悪いぞ」
「って、お頭、本当に豆です」
 その瞬間、ぴくり、と髭が痙攣するように震えた。ほんの一呼吸の間硬直していた巻き髭氏だったが、はっと我に返って其の二の手から麻袋をむしり取る。滑稽なほどに慌てた様子で袋の中に手を突っ込み、そして再び動きを止めた。
「……豆だ」
 信じられないものを見る眼差しで、巻き髭氏は摘み上げた炒り豆を凝視する。
 悪漢達三人の注意が一粒の豆に集中した隙に、リーナは勢い良く身を起こして、其の二から鞄を、巻き髭氏から炒り豆の袋を奪い返した。手早く小袋の口を縛り直してから鞄の中に放り込み、誰にも渡すものか、と身体全体で鞄を抱え込む。
「帰りに食べるのを楽しみにしてるんだからね! おじさん達なんかにはあげないんだから!」
「誰が豆を欲しがるか!」
「取ったのはおじさんじゃん」
 ぐ、と言葉に詰まりながらも、巻き髭氏はトカゲを思わせる瞳に精一杯の威厳を込めて、リーナを睨みつけた。
「宝石をどこへやった」
「何、その、ホーセキって」
 怪訝そうに問い返すリーナに、今度は其の一が詰め寄ってくる。
「スリの小僧から受け取っただろう!」
「知らないよ」
「知らないはずがないだろ! あいつはお前以外の誰とも接触しなかったんだぞ! さあ、答えろ、宝石はどこだ!」
 今度は、リーナが耳を塞ぐ番だった。さっきの仕返しと言わんばかりの、其の一の大声は、狭い馬車の内部をびりびりと震わせる。
 耳元でがなり立てる其の一の剣幕が一段落ついたところで、彼女はそうっと耳から手を離し、そうして大きく溜め息をついた。
「だから、本当に知らないんだってば。ねえ、そんなに大変な物をスられたんだったら、警備隊に行ったほうがいいよ。私も一緒についていってあげるからさ」
「行けるわけがないだろう!」
 血相を変えてそう答える巻き髭氏に、リーナは殊更に軽い調子でひらひらと手を振った。
「やだなぁ、おじさん、警備隊に行けないなんて、お尋ね者じゃあるまいし……」
 冗談めかしてそう言ってから、リーナは微かな違和感を覚えて一同を見渡した。
 向かいの席に座る巻き髭氏が、右隣に腰かけている悪党其の一が、左側に中腰で立つ悪党其の二が、やけに神妙な顔で黙りこくっている。
 ――嫌な予感、が、する。
 しかしあるじの懸念をよそに、リーナの口は見事な勢いで言葉を吐き出し続けた。
「……それに、宝石が盗品だっていうわけじゃあるまいし……?」
 その場に降りた沈黙は、更にその深みを増して、リーナの身体を呑み込んでいく。……そう、まさしく泥沼のように。
 わざとらしい咳払いののち、巻き髭氏は手に持ったステッキで、馬車の天井を三度小突いた。
「おい、スーリャの店へやってくれ。場所を変えて仕切り直しだ」と、ねっとりと粘着質な視線をリーナに絡ませ、「なに、そのうち嫌でも隠し場所を喋りたくなるだろうよ」
 藪をつついて、なんとやら。あまりのことにリーナは大きな目を更に丸くして、そして叫んだ。
「ええええーっ? 正解なわけー!?
 にやり、と口角を上げる巻き髭氏。その拍子にご自慢の髭が、くるりんと可愛く揺れた。
 
 
 
 馬車はそれからしばらくの間走り続け、ようやく目的地に到達した。
 もちろん、リーナとて大人しく捕まっているつもりはなかった。他に何のとりえもない自分だが、こう見えても癒やしの術だけは自信がある。イの町一番の癒やし手たる自負も充分に、「昏睡」の術で活路を開こうとした。
 いわゆる魔術とは違い、癒やしの術は施術相手に触れる必要があるため、どうしても一度に相手ができる人数が限られてくる。だが、最初に二人を昏倒させることができれば、残るは一対一。相手が武器を持っていたとしても、この狭い馬車内ではあまり役に立たないだろう。
 そう覚悟を決めると、リーナは抱えた鞄の陰で慎重に指を動かし、密かに術の印をえがいた。気づかれないよう口の中でボソボソと呪文を詠唱しながら、両手をそっと悪党達に差し伸べる……。
 その瞬間、馬車が大きく跳ね上がった。車輪が小石を噛んだのだろう、つぶてが馬車の底面に当たる鈍い音が響く。
 予期せぬ揺れに、リーナの両手が虚しく空を切った。驚きのあまり声を抑えることを忘れ、詠唱の続きが悪党達の耳に入る。
「お頭、こいつ、癒やし手だ!」
「なんだと」
「こいつ、汚い真似を!」
 汚いのはどっちだ、とリーナが文句を口にするよりも早く、彼女の両手は其の二によってねじり上げられてしまった。そのまま後ろ手に手首を拘束され、術を封じられる。
「痛い痛い、痛いって! 暴力反対!」
 そうやって、成すすべもないままに、リーナは馬車から引きずり下ろされ、どこかの裏口から薄暗い建物の中へと連れ込まれてしまったのだった……。
 
 
「ちょっと。何か良からぬことにアタシの店を巻き込まないでおくれよ」
 泣きぼくろがちょっと色っぽい三十代ぐらいの女性が、気だるそうな表情で三人組とリーナとを交互にねめつけた。
 ベッドと机だけが置かれた殺風景な部屋。窓には鎧戸が下ろされているのか、真っ昼間にもかかわらず暗い室内に、ランプの光がやけに頼りなげに揺れている。机に浅く腰をかけた女性の冷ややかな視線に怯むことなく、巻き髭氏は部屋を悠然と横切ってベッドに腰をかけた。
「まあ、そうカリカリするなよ。これから長いお付き合いだろう?」
「まだ、そうと決まったわけじゃないよ」
 ――あれ? この人、この連中の仲間じゃないのかな?
 扉の前、凸凹コンビに両脇を固められて立つリーナは、大きな瞳をぐるりと巡らせた。
 両手を塞がれて術を使えない現在、彼女にできる事と言えば最善の機会を窺うことのみだ。三人がかりで襲いかかられるという事態にでもなれば別だが、そうでない限りは下手に騒げば体力を消耗するばかりである。
 癒やし手という博愛主義に満ち溢れた職業柄、曰くありげな怪我人の治療をすることも、それに付随した騒動に巻き込まれることも、リーナは何度か経験している。我ながらヘンな度胸がついたものだわ、と嘆息しながらも、彼女は油断なく辺りに注意を配り続けた。ほんの一秒だけでも片手が自由になれば、こっちのものだ。そうなったら、ものの数秒で全てのカタはつけられる、と。
 ――あのおかしな巻き髭のおじさんはともかく、右側に立つ背の高い奴はちょっとどんくさそうだし、左側の兄ちゃんは根は人が良さそうな雰囲気をしている。あのお姉さんも立ち位置が微妙そうだし、最初に狙うのは髭のおじさんでいいだろう。いや、それとも、まずは両側の二人を倒すほうがいいかな……?
「『そうと決まったわけじゃない』? なんだよ、まだ使ってなかったのかよ」
 ――やだなあ、このおじさん。なんだかさっきから急に口調がねちっこくなってしまってるよ。
 そう思いつつリーナがちらりと左右を窺うと、其の一も其の二も彼女同様に、げんなりとした表情で自分達のボスを見つめていた。
「馬鹿言うんじゃないよ! いくら薬師やくしが問題なかろうって言っても、あんなもの、いきなりあの達に使えるわけないだろ?」
「わざわざ薬師に調べさせたのか。用心深いこったな」
「当たり前だろ」
 ――何の話をしているんだろう。ってか、私は一体どうなるんで?
 疑問符を頭の周りに飛び交わせながら、リーナは黙って事態の推移を見守り続ける。
「……で、自分が試そう、と。相変わらずイイ女だな、スーリャ。俺が相手してやろうか?」
 ふゆふゆと揺れる髭が、全てを台無しにしているような気がする。気障な男に徹しきれない巻き髭氏を見つめながら、リーナはつらつらと考えていた。人間、中身で勝負って言うけれど、やっぱりある程度の外見は必要だよねえ……、と。
「謹んで遠慮させてもらうよ。今晩にあの人が来るからね」
「ふん。だが、その必要はないぜ。今から、この女で試せばいいんだからな」
 そこで初めて、巻き髭氏はリーナのほうを向いた。その、やけに粘ついた視線に、リーナの背筋に悪寒が走った。
「で、一体何事なのよ。このが一体どうしたって言うのよ」
 スーリャと呼ばれた女性が、怪訝そうに眉をひそめる。美人はどんな表情をしても美人だなあ、なんて暢気なことを考えている場合ではなくって!
 急に話題の矛先が自分に向けられたことに、リーナの心臓は早鐘のように打ち始めた。
「なに、この女が、俺からくすねたブツのありかを、どうしても言いたくないらしくてな」
「だから、知らないんだってば!」
「……って、言ってるけど?」
 すまし顔のスーリャに、リーナの左腕を掴んでいる其の二が、どういうわけかどこか得意そうに胸を張る。
「姐さんともあろう人が騙されてるんじゃねえよ。この女がどんなにしたたかに俺達の追跡をかわしたか、見せてやりたかったな」
 ――追跡? かわす? なんだそれ。追跡されていることに気がつかずにかわせてしまう追跡って、それ、追跡って言えるわけ?
 当然の疑問ではあるが、流石に口にするのは憚られて、リーナは眉間に皺を寄せるだけにとどめた。
「それに、あんただって、いくら薬師のお墨つきを貰ったにしても、効果の良く解らないものを使うのは、勇気がいるってもンだろう?」
「え、まあ、そりゃあ、ね……」
 得意げな巻き髭氏に、言いよどむスーリャ。リーナの胸中に不吉なものが押し寄せてくる。
「じゃ、決まりだ。あれを一つ持ってきてくれないか?」
「……ここにあるわよ」
 少しだけ躊躇いがちに、スーリャが懐から小箱を取り出した。
「あのー。イマイチ話が見えないんですけど……」
 嫌な予感に耐えきれず、リーナはおずおずと口を開いた。と、巻き髭氏が、酷くもったいぶった調子でスーリャを指し示す。
「この姐さんはな、ここ、『風雪花』の女将なんだよ」
「『風雪花』って?」
 巻き髭氏の手にいざなわれるがままに、今度はスーリャのほうに問いかけるリーナ。
「妓楼さね」
「ぎろー? って、え? その、あの、妓楼!?
 リーナの故郷、辺鄙なイの町には、売春宿など存在しない。純朴な田舎娘としては、思わず叫んでしまうのも仕方がないだろう。
「……したたか? なんか、雰囲気違うんだけど?」
「演技だ、スーリャ。騙されちゃいけねえ」
 勝手なことを訳知り顔で述べてから、巻き髭氏がゆっくりとベッドから立ち上がった。
「とにかく! この姐さんは妓楼の女将で、先日、この俺様を頼って、ある悩み事を相談してきたのだ!」
「別に、相談したんじゃなくて、あんたが勝手に愚痴に喰いついてきただけじゃないか」
「とにかく! 曰く、新人のウブなが、客をとるのを躊躇らっていて、ナンギだと! できれば、無理矢理させるのじゃなく、自然と職業意識を出してくれるようにならないだろうかと!」
 不必要に力の籠もった演説に、リーナの両側から微かな笑いが漏れた。
「そこで! この『貪欲丸』の登場だ!」
 ――何、そのイケてない名前。
 今度は、リーナも失笑を禁じえなかった。だが、そんな聴衆の様子にかけらも気づくことなく、巻き髭氏は芝居がかった態度でスーリャから小箱をむしり取った。
「東の砂漠近くの秘境に生えているという、神秘の植物ルカカラの根を煎じて調合した、究極の媚薬! わざわざ辺境から取り寄せた、貴重な一品! これさえあれば、どんな生娘だろうが、瞬くうちに艶めかしい妖婦に変身すること間違いなし!」
 なるほど。それは確かに、薬師に相談もしたくなるだろう。毒ではないと判ったにしても、こんなにいかがわしいもの、なかなか使用には踏みきれないはずだ。
 そこまで考えて、リーナは、ふと我に返った。我に返った途端に、一気に全身から血の気が引いていく。
「ちょ、ちょっと待って! もしかしてそれを……」

 好色そうな目つきで、巻き髭氏が口のを吊り上げた。これまで笑いの対象でしかなかった口髭が、急にいやらしいものに感じられてくる。
「拷問ってのはな、痛いモノとは限らないんだよ、お嬢ちゃん。すぐに俺達の言うことをききたくてたまらなくなるだろうさ。スーリャも、薬の効果を直に見ることができるわけだし、まさしく一石二鳥だな」
「お頭、あったまいいー」
 物凄く嬉しそうに其の一が合いの手を入れる。ぞわぞわと鳥肌が立つのを覚えて、リーナは無我夢中で大声を上げた。
「冗談じゃないわよ! なんで私がこんな目に遭わなきゃならないわけ!?
「嫌なら、宝石のありかを白状することだな」
「だーかーらー、知らないって言ってるでしょ、この禿オヤジ!」
 その言葉に、目を丸くして頭を押さえる巻き髭氏。どうやら痛いところを突かれてしまったらしい。
 言っちまった、と思いつつ、気が治まらないリーナは、勢いに任せて暴れ始めた。
「大体、お尋ね者が盗品スられて何をブチ切れているわけ!? 自分がした事を他人にされて怒ってりゃ、全然世話ないじゃん! 子供じゃないんだから、自分の胸に手を当てて良く考えてみたらいいのよ!」
「語るに落ちたな。やっぱりお前がスったんじゃないか!」
「おじさん達がそう言ってたんでしょ! バッカじゃないの!」
 小娘に罵倒されて、巻き髭氏の顔色がみるみる赤みを増してくる。だが、歯軋りののち大きく息をつき、彼はにやり、と卑猥な笑いを浮かべた。助平心が怒りを呑み込んだのに違いない。
「そうやってしらばっくれられるのも、これまでだ。やい、お前ら、娘っこを押さえつけろ!」
「了解!」
 二人組の、これまでにない絶妙のコンビネーションに、リーナの頭は真っ白になった。
 ――こ、こんな事態は完全に想定外だ。どうすればいい? どうやって……
「そ、そこのお姉さん! 助けてー!」
「この状況では、ちょっと無理ねー」
 苦笑とともにスーリャが肩をすくめた。本当に美人は、どんなポーズをとっても美人だ……なんて見とれている場合じゃない。
「ええええ、そんなぁー!」
「ごめんねえ」
 リーナの膝の裏を、其の一だか其の二だかが軽く蹴った。がくっと膝が折れて、リーナはそのまま床の上に正座する形となる。
 先刻までの余裕はどこへやら、リーナの背中を冷や汗が滝のように流れ落ちていく。叫び声を上げようにも、カラカラに乾いた舌は全く動こうとしてくれない。
 ――ああ、どうしよう。媚薬、って、やっぱり、ソノ気にさせる薬なんだよね? 究極の……って、何? 私、こんな奴らの相手をさせられるわけ!?
「さあ、観念するんだな」
 うきうきとダンスのステップを踏むかのような足取りで、巻き髭が目の前に近づいてくる。
 必死で歯を食いしばるリーナの口を、男の指がこじ開ける。
 ――助けて、サン!
 リーナは心の中で絶叫した。
 
 
 
『風雪花』と書かれた扉を開け放した途端、甘ったるい香りがサンの身体を包み込んだ。薄暗い店内、釣り灯籠が投げかける華やかな光に、お香の煙が薄っすらと渦を巻く。カイが追いついてきたのを目の端で確認してから、サンは室内へと足を踏み入れた。
「ちょっとお兄さん、一体……」
「悪い、上がらせてもらうよ」
 出迎えの女を軽やかにかわし、サンは早足で真っ直ぐ広間の奥へと向かう。何事か、と視線を向ける女達に、にっこりと微笑みかけることだけは忘れずに、彼は奥の扉を押し開いた。
「何が近道だ」
「近道には違いないさ。ただ、ちょっと、予想外だったかなーって」
「結局回り道だったろ」
「そんなの、僕のせいじゃないぞ!」
 カイが教えてくれた近道はあまりにも効率が良過ぎたために、かえって悪漢達の馬車を見失う羽目になってしまった。慌てて裏路地を戻り、偶然見つけたカイの仲間達の目撃証言を得、そうして彼らは、ようやっとこの妓楼に辿り着くことができたのだ。
 二人は押し問答をしながら狭い廊下をずんずん進んでいく。片っ端から扉を開けて中を覗き込んでは、傍若無人に家捜しを続けた。食堂、厨房、風呂場、洗濯室、……リーナが囚われているのは、どうやら一階ではないらしい。
 鉤の手状に曲がった廊下の突き当たりに、上の階へと向かう階段があった。吹き抜けの天井を見上げてから、サンは大きく息を吸う。
「リーナッ! どこだ! 返事をしろ!」
 
 二人が二階に到達する頃には、あちらこちらの扉から店の女の子達やその客が、何事かと顔を出し始めていた。これ幸いと、サンは開いた扉から強引に中を覗きつつ、廊下を奥へと進みゆく。あちこちから湧き起こる誰何と非難の声をものともせずに、彼らはリーナの姿を求めて次から次へと部屋を渡り歩いた。
「大騒ぎじゃん、兄さん」
 至極楽しそうにカイがそう言うのを聞いて、サンは微かに眉をひそめた。
「誰のせいで、こんなことになったと思ってるんだ」
「そりゃあ、もちろん、あの悪党達のせいさ!」
 大きく溜め息をつき、サンは目の前の扉を開けた。ほとんどの扉が開いている中、唯一固く閉じられた部屋に踏み込めば……簡素なベッドの上、四つん這いになった金髪の女に覆いかぶさる男の姿が……。
 咄嗟に、サンはカイの目を塞いだ。そのまま慌てて扉を閉じる。
「おい、手を離せよ! 前が見えないじゃんか!」
「……お前にゃ、五年は早い」
 
 
 店の主人が不在なのが幸いしたのだろう。サン達の暴挙に対して女達は文句を言いこそすれ、それを止める手立てを持たなかった。彼の腰で揺れる長剣の、並々ならぬ存在感のお蔭とも言えるかもしれない。二人は誰に邪魔されることもなく、とうとう最上階である三階に足を踏み入れた。
 彼らの少し後方には、事態の推移を見守る女達が階段の幅一杯に列をなしていた。そういったてんやわんやの外野には目もくれずに、サンはただひたすら捜索を続行する。これまでと同じように手近な扉から開こうとしたところで、彼はふと、その手を止めた。
 微かな金切り声。……女の、悲鳴?
 声の聞こえてきた方角へと、即座にサンは振り向いた。
 廊下の一番奥か、その手前。そう見当をつけて足を速めるサンの耳に、今度は明瞭に女の叫び声が飛び込んできた。
 リーナ、無事でいてくれ。それだけを祈りながら、サンは勢い良く一番奥の部屋の扉を押し開く!
 
「あんた、こんな危険なものを、よくもアタシらに売りつけようとしたね!」
「いや、これは何かの間違いだ」
「何が間違いなのさ! もう、金輪際あんたには店の敷居は跨いでほしくないね! さっさと目の前から消えとくれ!」
 扉を開けたサンが見たのは、一人の女が、センスの悪い口髭の男に物凄い剣幕でくってかかっている姿だった。
 青い顔でヒステリックに叫ぶ女の形相は、なかなか鬼気迫るものがあった。怒りのあまりに吊り上がった目が、くっきりと血走っている。部屋の隅へと巻き髭氏を追い詰めたところで、女はくるりと振り返り、今度は泣き出さんばかりの表情で部屋の中央へと戻ってきた。
「ああ、可哀想に。まさかこんなことになるなんて思ってなかったから……、許しておくれね」
 そう言って女がひざまずいた先に倒れているのは……、茶色の三つ編みの若い女。
 リーナだ。
 板張りの床に無造作に投げ出された細い腕は、ピクリとも動かない。
 その一瞬、サンは我を忘れそうになった。伝説の狂戦士のごとく、その場の全てを薙ぎ払いたい衝動にかられながらも、彼は辛うじておのれを制す。
「お前ら、彼女に何をした?」
 やっとのことで、サンはその一言を絞り出した。地獄の底から響いてくるかのような怨嗟の籠もった声に、その場の空気が完全に凍りつく。
 怒りに震える手を必死で制御しながら、サンはゆっくりと腰の剣を抜いた。
 
 
 
          * * *
 
 
 
 漆黒の闇に、薄っすらと光がさしてくる。
 完全なる静寂に、微かなざわめきが押し寄せてくる。
 
 失われていた手足の感覚が戻り始め、心地良い浮遊感が身体を包む……。
 
「気がついたか?」
 懐かしいその声に、リーナは反射的に微笑み返した。少し遅れてようやく焦点が定まってきた彼女の視界に、心配そうなサンの顔が大写しになる。
「あれ? ここは? サン? 私、どうしてこんなところで寝てるの?」
 陽光の差し込む明るい部屋は、狭いながらもとても開放的であった。大きく開かれた窓の向こうには、少しだけ色づき始めた広葉樹が、気持ち良さそうに風に梢を揺らしている。
 眩い陽の光に照らされながら、リーナはベッドの上に起き上がった。洗いざらしの寝具からほのかに立ちのぼるお日様の香りが、鼻腔をくすぐる。首を巡らせば、白を基調とした壁紙と、掃除の行き届いた室内が目に入ってきた。清潔感に溢れたその部屋は、リーナにとって、とても馴染みの深い気配がした。
「憶えてないのか?」
「え? いや、ちょっと待って。えっと……」
 酷く混乱しながら、リーナは額に手をやった。記憶の中を探りつつ、もう一度ゆっくりと室内を見渡す。ベッドに起き上がる自分は、普段着のまま。窓際の小さな台には自分の鞄が載せられていた。知り合いから貰ったはぎれで作った、遠出用の丈夫で大きな鞄。
 ――そうだ、ルドスに来てたんだ。サンに会うために。
 ベッドの足元には、白のエプロンをつけた妙齢の女性が静かに立っている。彼女の佇まいと部屋の調度から、リーナはここが治療院であることをはっきりと確信した。
「今日の未明に、ここルドスのとある名家の屋敷に賊が押し入って、宝石を幾つも奪っていったらしい」
 ベッド脇の椅子に腰かけたサンが、リーナの目を覗き込みながら静かに語り始めた。何の話だろうか、と、思いつつも、リーナは黙ってサンの語りに耳を傾ける。
「で、こいつが……」サンが自分の肩越しに背後を振り返った。「……たまたま財布をスリ取った相手がその賊で、その財布には盗品の宝石が入っていた、と」
 サンの後ろから、ひょこっと小柄な影が飛び出てくる。ばつの悪そうな笑顔を浮かべて、少年はリーナに向かってペコリと頭を下げた。
「追いかけられ、捕まりそうになったところで、こいつは、たまたま道でぶつかった相手の鞄に、盗った財布を紛れ込ませてしまった」
 
『ごめんよ、急いでるんだ!』
『危ないでしょ、まったく。気をつけなさいよ』
 
 おお、と両手を打ってから、リーナはカイを指差した。
「あの時の少年!」
「ごめんよー、姉さん」
 口では謝っているものの、カイは一向に悪びれる様子もない。
 サンが苦笑を浮かべながら立ち上がった。リーナの鞄の傍に行くと、一言「悪りぃ」と断りを入れてから、やにわに鞄の中に手を突っ込む。突然の出来事に文句を言うことも忘れて、ただ口をぱくぱくと開閉するリーナの目の前に、小さな麻袋が差し出された。
「ほら、これだ」
「私の豆!」
 やたら力の入ったリーナの台詞に失笑しつつも、サンは黙って小袋の紐をほどく。摘み上げた彼の指先では、目も眩むばかりの貴石が一粒、日光を受けてキラキラと輝いていた。
 顎が外れそうなほどに、あんぐりと口を開けて、リーナは固まってしまった。
 その様子を見るなりサンが盛大にふき出した。肩を小刻みに震わせながら宝石を袋に戻す。それから彼は、空いたほうの手を再び鞄の中へと差し入れ、第二の袋を取り出した。
「豆はこっち。石は重いからね、すぐに鞄の底のほうに潜っていってしまったのさ」
 袋はお互い瓜二つで、ぱっと見ただけではどちらがどちらか判別できない。もう一度双方の中身を確認したのち、宝石のほうの袋を手に、サンが再び椅子に戻ってきた。
「それより、リーナ。どうしてこんな無茶をしたんだよ。たまたま俺が間に合ったから良かったものの……」
 サンの言葉を継いで、部屋の隅に控えていた癒やし手が静かに言葉を発した。
「あなた、自分で自分に『昏睡』をかけたでしょう? どうやって『解呪』するつもりだったの? 彼がここに運んでくれなかったら、大変なことになっていたわよ」
「あー……」
 そこで、やっとリーナは全てを思い出した。
 変な巻き髭の男、悪党面した二人組、妓楼の女将。
 宝石を返せ、ってこういうことだったのか、と、得心のあまり繰り返し頷く。
「……助けに来てくれたんだ」
「ああ。偶然にこいつと出会って、もしや、と思ってさ。あの店で倒れているお前を見た時は、本当にどうしようかと思ったぞ……」
 何度目か知らぬ溜め息を漏らして、サンが大きく肩を落とす。その横でカイが、心持ち及び腰でサンを一瞥した。
 
 

 数刻前、妓楼『風雪花』。
 サンのあとを追ってその部屋に飛び込んだカイは、即座に激しい後悔の念に苛まれることとなった。
 鎧戸を締めきった薄暗い部屋の中で、鬼火のように光るのは、ランプの灯りを映し込んだ長剣の刃。その向こう、床に横たわっているのが他でもない自分達の尋ね人と知り、冷や汗がカイの背筋をつたう。
 調子に乗ってこんなところまでついてきた自分が馬鹿だった。隙を見てさっさと逃げるべきだったんだ。おのれの浅慮を呪いつつ、カイはじりじりと廊下のほうへと下がり始めた。サンを刺激しないよう細心の注意を払いながら。
「……彼女に何をした?」
 サンが、低い声で同じ言葉を繰り返す。凍てついた氷のようなその気配に、カイは自分の直感が正しかったことを知った。
 ――この兄ちゃん、怒らせたら絶対怖そうだと思ったんだよな。
 情けない悲鳴を上げて、巻き髭の男が床にしりもちをついた。がくがくと震える顎からは、意味不明な音の羅列が漏れ出てくるのみ。
 部屋の反対側では、悪党其の一が、壁に貼りつくようにしてサンとの距離をとりつつ絶叫した。
「し、知らねえよ! 俺、何もしてねえぞ!」
「お、俺もだ! あいつが、」と、今度は其の二が巻き髭男を指差して、「変な薬をこの娘に飲ませて、そしたら急にぶっ倒れてしまって!」
 ガツン、と突然響いた大きな音に、カイは心の底から震え上がった。床に剣の切っ先を突き立てたサンは、柄から手を離すことなく、倒れ伏すリーナの傍らに膝をつく。そうして、指先をそっと彼女の首筋に当てた。
「……生きてる」
 その瞬間、その場にいる全員から大きな溜め息が漏れた。これで、あの剣が血の舞を舞うことはなくなった、と。
 静寂が降りる室内に、金属同士が擦れる音が響く。一同が顔を上げれば、剣を鞘に収めたサンが、リーナを抱きかかえて立ち上がるところだった。行く手を塞ぐ巻き髭に、刃のごとき瞳で一言。
「どけ」
「ひぃぃぃいいいっ、どきます、どきます、どきますからぁっ、命だけはご勘弁をぉおおっ!」
「カイ」
「は、はい!」
 話しかけられただけなのに、どうしてこんなに心臓がばくばくいうのだろうか。カイは必死で平静を装って、サンの前に立った。
「治療院はどこだ」
「あ、う、うん、案内するよ!」
 急いで部屋から出ようとしたカイは、ふと大事なことを思い出し、立ち尽くす凸凹コンビの傍に転がるリーナの鞄をかつぎあげる。
「急ぐぞ」
「了解!」
 
 
 ――本当に、この姉ちゃんが無事で良かった。でなきゃ、今頃自分はあの世行きの船の上でべそをかいているに違いない。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ。知らず背筋を震わせて、カイはもう一度サンを――穏やかに微笑むサンの顔を――盗み見た。
「聞けば、あなた、結構な使い手だっていうじゃない。もしもルドスの治療院に、自分よりも腕前の良い癒やし手がいなかったらどうするつもりだったのよ?」
「すみません……」
 リーナが申し訳なさそうに下を向いて身を小さくした。癒やし手は、ふう、と大げさに息を吐くと、眉間を緩めて優しい笑みをリーナに向ける。
「ま、大事に至らなくて、本当に良かったわ。もうこんな馬鹿なことをしては駄目よ。解っていると思うけれど、しばらくはふらふらするはずだから、もう少しここでゆっくりしていけばいいわ。今はベッドも部屋も沢山空いているから」
 そう言ってから、癒やし手はサンから例の小袋を受け取った。「じゃ、これは警備隊のほうに届けておくわね。それと、君」
 天使の微笑みを向けられて、カイは思わず頬を染めて姿勢を正した。癒やし手の右手が優雅にカイに差し伸べられ……
「君には、助祭様からお説教のプレゼントがあるからねー」
「痛たたたたたたっ!」
 
 
 耳たぶを引っ張られながら、カイが扉の向こうに姿を消した。廊下に反響した悲鳴が、ゆっくりと遠ざかっていく。
 苦笑を浮かべつつ、サンは静かに立ち上がった。ようやく訪れた二人きりの時間である。彼は今まで座っていた椅子を脇へよけ、ベッドの縁に腰をかけた。そうして、ぽんぽん、と優しくリーナの頭を叩く。
「まったく。無茶にもほどがある」
 言いたいことは山ほどあったが、それを全部彼女にぶつけるわけにはいかないだろう。そこまで考えて、サンはようやっと重要な事実に気がついた。今回の騒動において、リーナは被害者の立場にあるのだ、ということに。
 そういえば、彼女はさっきからずっと俯いたままだ。あのリーナが、ただ黙ったまま、しょぼくれているなんて。恐ろしい目に遭ったはずの彼女に、ねぎらいや慰めの言葉をかけることなく、あろうことか彼女の非を責めてすらいた自分に気がついて、サンはほんの刹那瞼を固く閉じた。
「怖かったろ。もう大丈夫だから」
 可能な限りの優しい声でそう囁きながら、静かにリーナを胸に抱き寄せる。彼女がそのまま自分に身を預けてきたことに、彼は心底ほっとした。
「……仕方がなかったのよ……」
 ぽつり、とこぼしてから、リーナが顔を上げた。
 潤んだ大きな瞳がやけに艶めかしく思え、サンは小さく息を呑んだ。慌ててわずかに視線を外し、軽く咳払いをする。
「……ん。あー、どうした? 顔が赤いけど」
「ああ、どうしよう。やっぱり?」
「やっぱり、って?」
 サンの問いに、リーナがもじもじと身じろぎした。何事か言いよどんでから、彼女は再び下を向く。桜色のうなじが、サンの目を射た。
 久しぶりに会うせいだろうか、なんだか今日の彼女はとても色っぽく思える。知らずサンは彼女を抱く腕に力を込めた。ついうっかり弾みそうになる声を抑えつつ、当たり障りのない会話を続けようとする。なんとかすぐにでもここを出て、一刻も早く宿屋にしけ込めないだろうか、と、そのことだけを考え続けながら。
 今朝早くルドスに到着したサンは、既に待ち合わせの宿に部屋をとって、荷物もそこに置いてきているのだ。あとは、リーナを連れてその部屋に直行するのみ。しまり屋の宿の親父相手に、宿泊条件の押し問答を長々と繰り広げる必要もない。
「……あのね、やばいのよ」
 会話の流れとしてありえない単語が、突然リーナの口から飛び出てきたことで、サンの夢想は強制的に中断させられた。眉間に皺を寄せながら、リーナの顔をそうっと覗き込む。
「何が?」
「飲まされたの」
「何を?」
「なんて言ってたっけ……、究極の媚薬、とかいうやつ」
「び……!?
 絶句、そして硬直。
 動きを止めて固まったサンを、濡れた瞳が切なそうに見上げてくる。
「宝石のありかを教えろ、って。知らないって言っても、全然聞いてくれなくて。あ、やだ、なんか……」
 更に頬を上気させ、リーナが目を伏せた。微かに身体をうねらせる様子に、サンの喉がごくりと鳴った。
「…………で?」
「でね、白状させてやる、って言って、そのぉ……、薬を無理矢理飲まされて……」
 リーナがそこで一旦息を継いだ。サンはといえば、固唾を呑んで、話の続きを待つばかり。
「抵抗しようにも、両手縛られてたら呪文も唱えられないでしょ? 無理矢理、口をこじ開けられて……、仕方がないから、素直に飲み込んだわけ」
 息切れがするのか、またもリーナが大きく息を吐く。
「私が飲んだのが判って、連中は手をほどいてくれたから、とりあえず自分に『昏睡』かけて。そうやったら、薬も効きようがないでしょ?」
 ……いや、違う。息切れなどではない。高まってきた気分を逃がすために、彼女は深呼吸をしているのだ。
 そのことに思い当たってしまったサンの口の中に、再び唾が溢れてくる。
 ――まずい。
 おのれの身体の変化を自覚して、サンの背中を冷たいものが走った。ここは、神聖なるアシアスを祀る教会の、その敷地内にある治療院なのだ。更に言えば、自分は休暇中とはいえ、帝国の要を守る選ばれし近衛兵。こんなところでこんなものをおっ勃てている場合ではない。
 そんな彼の葛藤を知る由もなく、リーナがまたしても顔を上げた。そしてサンを真っ向から見つめる。……熱の籠もった目で。
「店の人は、悪い人じゃなさそうだったから……そのうちに治療院に運んでいってくれるだろう、って思ったし。その頃には、薬の効果も切れているかな、って思っていたんだけど……」
 確かに、それは良い考えだったかもしれない。サンがこんなに早く助けに来なければ。
 だらだらと冷や汗を流しながらも、どろどろとした熱い塊が身体の中で蠢き始めることを、サンは感じ取っていた。
「あ……、だめ、やっぱり、まだ……」
 甘い吐息とともに、リーナが身をくねらせる。こう見えて彼女は結構スタイルが良い。柔らかい双丘が胸に押しつけられる感触に、サンの身体を衝撃が走った。
 ――ヤっちまえよ。あの癒やし手は当分戻っては来ないだろうし、残りの癒やし手も、こちらが呼ばない限りは奥には来ないだろう。
「……まだ?」
 ――いやいや、やはりそれはまずいだろう。もしも他人に見られでもしたら、末代までのいい語り草だ。
「やっぱり、まだ、薬が……」
「……効いているんだ?」
 こくりと小さく頷くリーナのあまりのいじらしさに、サンは思わず彼女の耳元に口を寄せていた。途端に、腕の中の身体が、びくん、と跳ねる。
 誰もいない部屋、そして恐らくは、当分誰も来ないであろう部屋。
 サンは生唾を飲み込んで、大きく息を吐いた。
 ――治療院の奥の部屋。そうだ、これって、俺が何度もおかずにしている設定じゃないか? これで彼女がいつものあの白いエプロンをつけていれば、もう完璧に。
 いや、しかし! ここで踏みとどまってこそ、あとの楽しみが増すというものだ!
 そう必死でおのれに言い聞かせるサンの決意を、リーナは容赦なく揺り動かす。
「…………ごめん、サン……」
「何が?」
「……お願い、少し、離れて……。耳が……」
「耳がどうかした?」
「くすぐったい……の」
 逆効果、とはまさしくこういうことを言うのだろう。艶めかしいリーナの声に、サンの鼻息は更に荒くなった。
 おのれの呼吸に合わせて腕の中で小刻みに震える肩が、たまらない。
 一年間も待ったんだ。メインディッシュはもう少しおあずけだとしても、これぐらいは許されるだろう? 言い訳じみた思いを胸に、唇が触れるか触れないかという距離で、サンは囁き続ける。
「耳、触ってないけど?」
「でも、息が……っ、ほら、また……」
「え? 何だって?」
「や……、もう、バカっ、意地悪っ、サンなんか……っ」
 溢れんばかりの雫をたたえた瞳が、真っ直ぐサンに向けられる。切なげに震える彼女の唇に、サンの喉がごくりと大きく上下した。手のひらが一気に汗ばむのを感じながら、彼は静かに問いかける。
「俺なんか?」
 輝石の煌きが、リーナの頬をつたってサンの膝に落ちた。たった一滴の熱が、サンの身体から一瞬にして自由を奪い取る。
 言葉を失い、身動き一つできないサンの胸元、縋るようにしてリーナがしがみついてきた。
「…………だい、す、き……」
 
 熱い吐息が、サンの呪縛を解き放つ。彼はリーナの身体を強く引き寄せると、空いている手で彼女の顎をすくい上げ、唇を重ねた。
 この、何ものにも代え難い瞬間を、一年もの間彼は渇望していたのだ。
 肉体の乾きは、やろうと思えば幾らでも潤せる。例えばおのれ自身で、また例えば色町で。だが、お互いの心と心を溶かし合うこの行為だけは、彼女が相手でなければ叶わないのだ。
 そっと瞼を開けば、恍惚とした表情のリーナがサンの視界を満たす。少しだけ眉間に皺を寄せて、眠るように目を閉じ、頬を紅色に染めたリーナの顔。こんな頼りなげな表情をしていながら、今まさに彼女は激しく貪欲に自分を求めてきているのだ。
 サンの頭の奥底、一番深い部分で、ぷつん、と何かが切れた。
 
 
 
「ただいま」
「あ、お帰りなさい。どうでした?」
「丁度、警備隊に被害者が詰めていたから、すぐに手渡せたわ。盗まれた宝石も全部揃っていたみたい」
 治療院の玄関脇、職員詰所。リーナに解呪を施した癒やし手が、話しかけてきた同僚にそう答えていた。脱いだ外套を壁にかけ、背中越しに今度は逆さに問いかける。
「で、例の彼女の様子は?」
「いえ、特に問題ないみたいですよ? って、ちょっと前に来た怪我の子供に皆でかかりっきりだったから、一度も見に行ってないんですけど」
「まあ、彼氏がついているから、何かあったら言いにくるでしょうけど。ちょっと見て来ようかしら」
「本当に、どうしてまた、自分で自分に術なんてかけちゃったんでしょうねえ」
 同僚の声に軽く肩をすくめてから、癒やし手は奥へと向かった。日の光が差し込む明るい廊下を、ゆっくりと歩いていく。
 
 リーナのいる病室の前に立ち、ドアノブに手をかけた癒やし手は、何かの気配を感じ取って一歩下がった。
 ほぼ同時に、ばたん、と大きな音をたてて扉が内側から開かれる。戸を蹴破らんかの勢いで、リーナを抱えたサンが彼女の目の前に飛び出してきた。
「すみません! 治療代は明日に、必ず! 払いに来ますから!」
 酷く切羽詰まった様子で、サンが叫ぶようにそう宣言した。彼の腕の中では、上気した頬のリーナがぼんやりと彼に身を預けている。
「え、ええ。いいけど……?」
「じゃ、そういうことで!」
 癒やし手の返答を聞くや否や、サンは物凄い勢いで廊下を走り去っていく。外へ向かって。
「…………お大事にー」
 呆然としながらも、癒やし手は二人の背中に向かってひらひらと手を振った。
 
 
 
          * * *

 
 
 
 明けて翌日、市の最終日。
 買い物客でごったがえす人ごみの中を、小さな人影が悠然と歩いている。鳥打ち帽を目深にかぶり、あちらこちらにさりげなく視線を巡らせて歩くのは、誰あろう、カイだ。
 助祭様のお説教などどこ吹く風といった調子で、カイは鋭い視線を前方から歩いてくる中年の紳士に絡ませる。
 そっと深呼吸して、いざ獲物に近づかんと歩調を速める彼の足が、唐突に止まった。
「身体のあちこちが痛いー」
 聞き覚えのある声に、カイは慌てて傍らの屋台の陰に隠れた。声のしたほうをこっそりと覗けば、予想通りの顔が二つ、こちらに向かって歩いてくる。
「酷いよー、一体ナニをしたのよー」
「憶えてないわけ?」
「憶えていたら、訊かないよー。大体、私、治療院にいたはずなのに、なんで気がついたら宿屋なわけ?」
「それは、まあ、色々とあって」
 昨日とは打って変わって、サンの表情はやたら晴れ晴れしく、そしてスッキリとしている。随分な変わりようじゃんか、とカイは思わず一人心の中で呟いていた。
「ああ、もう、痛いったら……」
「そんな、無理をしたつもりはないんだけど。おっかしいなあ」
 見つからないように屋台の隙間に身を縮ませるカイの目の前を、二人は横切っていく。
「絶対変なことした。そうじゃなきゃ、なんでこんなところが筋肉痛になるのよ」
「まあまあ、お詫びに何でも好きなもの買ってあげるからさ」
 その台詞に、リーナがぴょん、と跳びはねる。「本当!? じゃあね、昨日見つけたんだけど……」
 そこで、彼女はしばし動きを止めて、眉根を寄せた。
「あれ? 今、お詫び、って言ったよね? やっぱり悪いことした自覚があるんだ!」
「そりゃないだろ……」
 
 二人が完全に通り過ぎていったところで、カイはそっと物陰を脱した。人波に埋もれていく背中を見送ってから、ふう、と息をつく。
 ――なんだか知らないけど、色々大人も大変なんだな。
 大きく伸びをしてから、カイは再び鋭い瞳で人々の海へと飛び込んでいった。
 
 
 

天穹に詩う

 
 
 派手な音をたてて水差しが床に落ちた。中に残っていた水が、剥き出しの石の床に飛び散る。
 奥のベッドで入院患者の身体を拭いていた同僚から、即座に「何やってんの」と叱咤の声が飛んできた。
「すみません!」
 マニは身をすくめると、深々と頭を下げた。
 ここは、古都ルドスの治療院。癒やし手見習いとして働くマニは、敷布を取り替えに各病室をまわっているところだった。この部屋で最後という段になってうっかり気が弛んだのか、替えの敷布を一旦ベッド脇の台に置こうとして隅に置いてあった水差しを引っかけてしまったのだ。
 険しい眼差しで振り返った同僚は、マニの顔を見るなり、一転して決まりの悪そうな表情になった。
「……あ、まあ、気をつけて、ね」
 先ほどとは打って変わって、歯切れの悪い口ぶり。
 マニはそっと口を引き結び、足元から水差しを拾い上げた。
「すみませんでした。水、汲んできますね」
「いいの、いいの。まだこっちにもあるから、大丈夫よ!」
 少し大仰に両手を振ってから、同僚は再び患者のほうへ向き直った。
「でも」
「それよりも、詰所に今誰もいないんじゃないかしら。敷布はあとで私が替えておくから、そちらをお願いできる?」
 てきぱきと仕事をこなす彼女の背中は、マニの目にはとても頼もしく、そして美しく映った。対して、「わかりました」と俯き返答するおのれの、なんという情けなさよ。
 溜め息が漏れないようマニは口元に力を込めると、そっと部屋を退出した。
 
 マニが癒やし手としての修行を始めて、今年で四年が経つ。入門に際しての「見極めの儀」では申し分のない成績を残し、術師としての素質は充分と言われたにもかかわらず、未だに彼女は簡単な術しか使えずにいた。文字通り寸暇を惜しんで癒やしの術の習得に励んでいるのだが、どうしても成果が上がらないのだ。
 ――このままでは、何もできないまま終わってしまうかもしれない。
 治療院の廊下をとぼとぼと歩きながら、マニは大きく息を吐いた。喉元までせり上がってきた不安感を無理矢理呑み込んで、突き当たりの扉を開く。
 同僚が言ったとおり、詰所は無人だった。
 もっとも、この部屋に人がおらずとも大して不都合はない。街の人間にとって治療院とその隣に建つ礼拝堂は、自分の家も同然だったからだ。勝手知ったる我らが教会、わざわざ詰所を通さずとも、適当にそこらを歩く人間を捕まえれば大抵の用事はそれで事足りる。
 つまり、マニは体よくあの場から追い払われたのだ。
 溜め息を道連れに、マニは窓辺へと寄った。街並みの向こう、高台にそびえる領主の城を望む。
『君が働く必要など、ない』
 忌々しそうに吐き捨てる領主の声が耳元に甦り、マニはきつく目をつむった。
 マニは、ルドス領主の遠縁にあたる。マニの家は何代も前にまつりごとの一線から退き、今は先祖の残した土地を郷士たちに貸与することで辛うじて糊口をしのいでいる、名家とは名ばかりの、ただ古いだけの家だった。
 そんなマニを、領主は妻にと望んでくれていた。感謝こそすれ、疎ましく思うなどもってのほかだろう。
 ――しかし。
 マニはそっと柳眉を寄せると、胸元でこぶしを握り締めた。溜め息に合わせて、琥珀の髪が優雅に揺れる。肌は真珠、瞳は翡翠。物言う花、と領主が誉めそやすその見目は、憂いすらも艶に変えるようだ。
 マニが十五を迎えた春、すぐにでも輿入れを、との領主の意向を伝える両親に、彼女は必死の思いで「もう少し待ってほしい」と言葉を返した。今の自分に領主夫人が務まるとは、とてもではないが思えなかったからだ。
 可愛い一人娘の、恐らくは生まれて初めての我が儘に、両親は揃って領主に頭を下げた。曰く、この子はまだまだ未熟です、今のままでは領主様にご迷惑をおかけするばかり、もうしばらく世の中のことを学ばせていただけないでしょうか、と。
 そうして、マニは癒やし手になるために治療院へ通い始めた。とにかく何か人のためになる仕事をしたかったからだ。それに、癒やしの術を司るアシアス神はルドスの守り神とされている。領主の妻となるのならこれ以上の肩書きはない、と、そう彼女は考えたのだ。
 しかし領主は、マニが「働く」ことに否定的であった。野外作業はするな、日に焼ける。水仕事などもってのほか、手が荒れる。そもそも金が欲しいのならば、幾らでも私が融通してやるのに。マニが勤めだしてすぐに教会に物言いに来た領主のせいで、同僚達はマニを腫れ物に触るように扱うようになった。
 それから四年。一向に癒やしの術が上達しないことも手伝って、マニはすっかり治療院のお荷物となってしまっていた。
 ――もう、諦めてしまったほうがいいのだろうか。
 一際大きな溜め息がマニの口をついて出たその時、騒々しい足音とともに詰所の扉が開いた。
 
 
 戸口に現れたのは、僧衣を着た中年の男だった。ただでさえよく日に焼けた顔が、白い衣のせいでますます黒く見える。
「助祭様」
 助祭と呼ばれた男は、小柄な体躯には見合わない力強さで、扉の陰からもう一人、栗色の髪の若い男を引っ張り出した。
「丁度良かった、マニ。こいつの怪我を診てやってくれないか」
「え、私がですか……?」
 突然の事に狼狽するマニに向かって、助祭はひそひそと声を落とした。
「急を要す怪我ではないから、おぬしの練習台に丁度いいと思ってな」
「え、でも……」つられてマニも、小声で返す。「私などでは……」
「構わん、構わん。わしが責任をとるから」
 教会の誰もがマニに対して他人行儀に接する中、この助祭だけは、他の者と分け隔てなく話しかけてきてくれた。彼がいなければ、恐らくマニは四年も経たずに修行を諦めてしまっていただろう。
「ほれ、おぬしもさっさとこの椅子に座らんか。何をぼんやりしとる」
「え、あ、はいっ」
 助祭の傍らで呆けたように立ち尽くしていた若者が、心持ち赤い顔で、弾かれたように背筋を伸ばした。助祭が引いてくれた椅子に腰を下ろし、マニに向かって右手を差し出す。
 手の甲一面が、赤剥けた火傷となっていた。
「……これは……痛そうですね」
 ええまあ、と軽く頷く彼の額に脂汗が浮かんでいることに、マニは気がついた。施術の邪魔にならぬよう、静かに痛みに耐えているのだろう。苦痛のあまり暴れたり、叫んだり、八つ当たりをしたりする者も少なくない中、彼のこの心遣いはマニにとってとてもありがたいものであった。
 術の練習台、などと自分本位なことしか考えていなかったおのれを恥じながら、マニはゆっくりと両手を前方に差し伸べた。同僚達のように洗練された術でなくともいい、少しでも彼の傷を癒やせたら、そう一心に祈りながら。
 
 空中に指で印を描きながら、「消炎」の呪文を唱えてゆく。形成された力場が次第に指先に収束するほどに、マニの心臓は高鳴り、高揚感が身体を満たす。
 今こそ、みなぎるちからを解き放たん。マニは若者の右手にそっと触れると、術を起動させた。
「……あ、れ?」
「どうした?」
 固唾を呑んで見守ってくれていた助祭が、若者を押し退けて身を乗り出してくる。
「……あ、も、もう一度やり直します……」
 すみません、と頭を下げるマニに、若者がにっこりと笑いかけてきた。
「そんなに緊張しないで」
「あ、はい、でも」
「もしかして、新人さん?」
 髪と同じ栗色の瞳が、そっと緩む。その眼差しがあまりにも優しくて、マニの肩から力が抜けた。
「あの、私、これでも四年目なんです……。なかなか上達しなくって……」
 笑われるか、呆れられるか。マニの覚悟を、柔らかい声がそっと包み込む。
「ゆっくりと、一歩ずつ進んでゆけばいいんですよ」
「そういうおぬしが、一番その台詞を必要としているんだろう」
 笑い声とともに、助祭が若者の頭を軽く小突いた。「自分の術で火傷をした魔術師など、初めて見たぞ」
 若者が魔術師と聞いて、マニはつい目をしばたたかせた。マニにとって魔術師といえば、領主お抱えの、恐ろしく厳めしい白髪の老人のことだったからだ。
 実は、癒やしの術も広義では魔術の中に含まれる。「アシアス神聖魔術」というのが癒やしの術の正式名称なのだが、長くて呼びづらいため、皆、通称の「癒やしの術」としか言わないだけのことだ。
 対して、一般に「魔術」といえば、古代ルドス魔術のことを指した。祈りによって神の加護を得る癒やしの術と違い、古代ルドス魔術は既に失われて久しい古代語を触媒とするため、その習得には多大な知識が必要となってくる。
 領主の城の老魔術師と比べてしまうとどうしても目の前の若者が頼りなく見えてしまうが、きっと彼も素晴らしい叡智の持ち主なのだろう。そう素直に感心しかけて、ふと、マニは眉を寄せた。
 ――自分の術で、火傷を……?
「この間も、術を失敗して頭にコブこさえていただろう」
 助祭のからかい声に、若者が慌てふためく声。
「あ、いや、その、ですから、少しずつ、ゆっくりと、ですね……」
「その前は、切り傷だったか」
「もういいじゃないですか」
 にやにやと笑う助祭に恨めしそうな一瞥を投げて、若者は再びマニのほうへ向き直った。ごほん、とわざとらしい咳払い一つ、場を仕切り直す。
「だから、あなたも焦らずじっくり練習すればいいんですよ」
 全く慰められた気がせず、マニはつい溜め息をついた。
 
 
 
 それから毎日のように、彼は治療院に姿を見せるようになった。
 彼は、名をヒューといった。遥か東方から幾つもの国境くにざかいを越え、魔術の修行をしにルドスへとやってきたとのことだった。
 ルドスは、その名のとおり、かつてこの大陸を統べたルドス王国の都だったと謂われている。古代ルドス魔術の発祥の地でもあり、領主の城には呪文書の原本が保管されているとの噂だ。
 そんな聖地ともいえる街で本場の魔術を修業したい、そう考える者は決して少なくなく、要望に応えて何代か前の領主が城内に学び舎を設立していた。そこには単元別に細分化された短期講座が幾つも用意されており、より高みを目指す者は、自らの技能と懐具合に見合った講座を選んでは、路銀が尽きるまで修行に没頭するのだ。
 見たところヒューは相当慎ましい生活を送っているようだった。教会に出入りするようになったのも、治療代の代わりに労働力を提供するためだったらしい。
 畑仕事の合間などにマニの姿を見かける都度、ヒューは屈託なく声をかけてきた。少し離れた場所から大きな声で手を振ってくるヒューに、マニは慣れないながらも見よう見まねで挨拶を返すようになった。
「あんだけ元気じゃ、あいつ、また助祭様に追加で仕事ふっかけられるよ、きっと」
 同僚の癒やし手が、珍しくも楽しそうに笑いながらマニに話しかけてきた。「……ほーら、来た。見てな、『なんだ、まだまだ働き足らないようだな』」
 彼女の声真似と、助祭の声とがぴったりと重なって、マニは思わずふき出してしまった。
 それを見て、同僚がマニの背中をぽん、と叩く。
「さ、私らも、仕事、仕事」
「……あ、はい!」
 とても自然に言葉を交し合えたことに、マニは胸の奥が温かくなるのを感じた。
 
 
 
 その日は、朝から街中が大騒ぎだった。街の西側、山岳地帯で大きな崩落があり、巻き込まれた農夫や牧童の救出が自警団によって行われていたのだ。
 治療院の癒やし手達も、総出で怪我人の救護に向かっていた。そんな中、マニは自ら留守番を買って出た。一刻を争う現場において自分の存在は足手まといにしかならないということを、充分に自覚していたからだ。
 同僚達を見送るマニの胸中は、不思議なほどに穏やかだった。今は留守を守るのが私の仕事なのだ。そう素直に思うことができた。
 
 昼を過ぎた頃、ヒューが治療院にやってきた。職員の大半が出払っていることを聞きつけ、授業がひけるや否や駆けつけてくれたのだ。
「癒やしの術は使えないけれど、雑用ぐらいはできるからね」
 何を手伝ってもらおうか、とマニが思案していると、詰所の外から子供の激しい泣き声が聞こえてきた。
 尋常ならざる様子で泣きじゃくる声に、マニは驚いて戸口に向かった。と、彼女の目の前で扉が勢いよく開き、血相を変えた助祭が部屋に飛び込んできた。
 助祭は、七、八歳ぐらいの子供を抱きかかえていた。服を朱に染め、狂ったように泣き叫ぶ男の子を。
「助祭様!?
「とにかく、止血だ」
 言うが早いか、助祭は傍らの長椅子に子供を横たえた。
 恐慌をきたしているのだろう、自由になった手足をばたつかせて子供は泣き続ける。その動きに合わせて、鮮やかな赤が辺りに点々と飛び散った。
「これは、一体」
「この馬鹿が、そこの物見櫓で遊んでいたのだ。子供が勝手にのぼるなと、あれほど言っておったのに。案の定上から落ちかけよってな、なんとか柱にしがみつき辛うじて落下せずにすんだが、建材に腕を挟んでこのとおりだ」
 そう言っている間も子供は一向に泣き止もうとしない。押さえ込もうとする助祭の手を振り払っては泣き喚き続ける。
「ヒュー、手を貸せ。足を押さえつけろ。マニはいつもの籠を」
 慌てて戸棚に向かうマニの背後、ヒューが子供をなだめる声が聞こえる。
「ほら、いい子だ、もう大丈夫だよ、落ち着いて、落ち着いて。……って、全然聞こえてないですね……」
「とにかく、こいつを大人しくさせなければ止血もできん。マニ、おぬしはまだ『昏睡』を使えないのだったな?」
 応急手当用具一式が入った籠を手に戻ってきたマニは、下唇をきつく噛みながら「はい」と一言を絞り出した。
 助祭の手元、痛い痛いと喚きながら、子供が何度も身をよじる。
「ある程度血が止まらんことには、『治癒』も効かんし……。そうだ、ヒュー、おぬし魔術師だったな。『睡眠』の術だ」
 その一瞬、ヒューの身体が強張ったのが見てとれた。彼は、滅多に見せない難しい顔で何事か考え込む。
「まさか……、『睡眠』は初級中の初級の術と聞いたが」
「いえ、勿論使えますよ」
 ふう、と大きな溜め息を吐き出したヒューは、泣き喚く子供の顔を覗き込んだ。
「この子の名は?」
「ガーランという」
「手を、離してやってください」

 助祭は一瞬不安そうな表情を浮かべたものの、静かに頷いてヒューの言葉に従った。
 戒めがなくなった途端、子供が再び四肢をばたつかせて暴れだした。
 マニは、思わず息を呑んだ。一体ヒューはどういうつもりで、助祭に手を離せなどと言ったのだろうか。このままでは、どんどん処置が遅れてしまうではないか。
 心配するマニをよそに、ヒューは至極落ち着いた様子で子供のほうへ身を乗り出した。
 そして、正面から彼を抱き締めた。そっと、優しく、そしてしっかりと。
「いい子だ、ガーラン。もう大丈夫だから」
 耳元に口を寄せ、ヒューは囁くように語りかける。頬に頬をすり寄せ、抱きかかえた頭を撫でながら、大丈夫、大丈夫、と繰り返す。
 ほんの僅か、子供の泣き声が小さくなった。
 辛抱強くヒューが頭を撫で続けるうち、やがて、泣き声にしゃくりあげる音が混じりだした。手足の動きも、少しずつ収まり始めている。
 息を詰めていたマニの口から、安堵の溜め息が漏れた。
「だが、このままでは治療を始めるとまた暴れだすぞ……」
 助祭の声に軽く頷き返してから、ヒューは子供を抱き締めたまま、なにやら両手の指を複雑に動かし始めた。穏やかな旋律が辺りにたゆとうたかと思えば、やがて子供はコトンと眠ってしまった。
「よくやった」
 間髪を入れず、助祭が動く。子供の左腕、ぱっくりと開いた傷口を閉じさせるようにしてガーゼを当て、その上から腕を握り締め、止血を行う。
 助祭に場を譲り身を起こしたヒューの服には、あちこちに血がついてしまっていた。
「どうしましょう、服が……」
「もともと襤褸みたいなものだったし、気にしないで」
 にっこりと微笑むヒューの眼差しがとても優しくて、マニは息が詰まりそうになった。辛うじて「ありがとうございました」と絞り出し、深々と頭を下げる。
「時に、おぬし、どうしてすぐに術を使わなんだ?」
 ならば服を汚さずにすんだだろうに。そうつけ加えて、助祭が怪訝そうに首をひねった。
 確かにそのとおり、とばかりにマニも大きく頷いてみせる。
「魔術師の術って、癒やしの術と違ってやたら攻撃的なんですよ。同じ眠らせるにしても、『昏睡』は、こう、すうっと眠りに落ちる感じだけど、『睡眠』ってのはかなり乱暴で、力任せにガツンと意識に蓋をさせる。だから、被術者が興奮状態にあると、術の衝撃がかなり大きくなってしまうんです」
「それで、術の前にこいつをまず落ち着かせようとしたのか」
 なるほどなるほどと頷いたのち、助祭が悪戯っぽく口の端を引き上げた。「ヘッポコのくせに、よく知っているな」
「色々条件を変えては自分でも試してみたんで」
 ヒューは少し照れたような表情で、だが誇らしげに胸を張った。
「そこまでせずとも良かろうに。そんなことをしているから、いつまでたっても位が上がらないんだろう? 収穫祭までもう日が無いぞ」
 呆れたように助祭が肩を落とす。
 ふと引っかかるものを感じて、マニはおずおずと口を開いた。
「収穫祭に何かあるんですか?」
 マニの言葉を聞いた瞬間、ヒューの瞳が僅かに揺れた。それから彼は、顔を窓の外へ向けた。まるでマニの視線を避けるかのように。
「そろそろ、手持ちが尽きるんでね。冬が来る前に故郷くにに帰ろうかと思って」
 そう言って口をつぐむヒューの横顔を、マニはただ黙って見つめ続けた。
 
 
 
「余所者の魔術師など相手にするな」
 迎えの馬車に強引に乗せられて領主の城へと連れてこられたマニに、彼は開口一番こう言った。
 重厚な石造りの、古い城。小さな窓から差し込む陽光が、等間隔に闇を切り抜いている。光と影とがせめぎあう薄暗い部屋の中、奥の長椅子に腰掛けた領主は、機嫌の悪さを隠そうともせずに忌々しげに鼻を鳴らした。
「聞けば、まだ第三の位しかない、とんだ落ちこぼれだそうじゃないか」
 長椅子から五歩ほど下がったところに立ちながら、マニは知らずこぶしを握り締めていた。
「そもそも、なんだ、そのみすぼらしい服装は。お前の両親もだが、栄えあるルドス王の末裔が、そのような町人と変わらぬ身なりをするなど、正気の沙汰ではない」
 藍の瞳に浮かぶ、嘲りの色。金糸を束ねた麗しい髪すらも、今は影に沈んで冷たく見える。
 幼い頃よく一緒に遊んでくれた、五つ年上の優しい「兄さま」が、いつの間にこんなに遠くなってしまったのか。マニはそっと唇を噛んだ。
「私どもは、自らの身の丈にあった生活をしているだけです」
「服なら幾つもあつらえさせたであろう」
「あのような服をまとって、仕事などできません」
「だから、君が働く必要などない、と言っている」
 指で肘掛けを苛々と叩きながら、領主が吐き捨てた。
 高い天井にこだました声が、隅の暗がりに呑み込まれていく。
 マニは、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「何も知らず、何もできず、ただ着飾って、あなたの隣で愛想をふりまいておけばいいというのですか」
「それは違う」
 予想外の返答に、マニは目をしばたたかせた。もしや自分は何か誤解をしていたのだろうか、と。
 だが、彼の次の言葉に、マニは我が耳を疑った。
「君が微笑みかけるのは、私だけでいい。そんなことをせずとも、君の美しさは、万人を魅了する。勇猛な王に、美しい后、これ以上の組み合わせがあろうか」
 愛している。いつも別れ際にそう囁く、彼の言葉を疑うつもりはない。けれど、と、マニは唾を呑み込んだ。
 ――けれど、彼は一体何を愛しているのだろうか。
 室内が急に暗さを増したように、マニには感じられた。
 彼が求めているのは、何なのか。彼にとって、そもそもマニという存在は何なのか。
 領主が、ゆらりと立ち上がった。
 マニは身動き一つできずに、ただその場に立ち尽くす。
「マニ、我がもとに来い。そして、我が子をせ。かつてこの地に栄えたルドス王国を、我らが血で再びこの世に甦らせよう」
 斜めに降り注ぐ日の光の中に、領主が歩みを進める。まばゆく照らされる足元に比して、上半身が闇に沈んだ。まるで、暗黒をその身にまとうがごとく。
 マニの胸の奥に、何か冷たいざらざらしたものがせり上がってきた。これが恐怖というものだ、と、その刹那彼女は理解した。
 闇に彩られた手が、マニに向かって伸ばされる。
 彼女は反射的にそれを払いのけた。
「し、仕事がありますゆえ、これで失礼いたします……!」
 無礼を承知で、マニは踵を返した。そのまま、後ろを見ることなく部屋を飛び出す。
「四年も待ったのだ。これ以上はもう待てぬ!」
 追いすがる声を振り払いながら、マニは暗い廊下を走り続けた。
 
 
 
 治療院の裏、教会の畑の柵にもたれながら、マニははなうたを口ずさんでいた。
 
 領主の城を辞して治療院へと戻ってきたマニは、自分が今日休暇扱いとなっていることを知った。今からでも、と仕事に戻ろうとしたマニを、同僚達は口々に「もう今日は休んでていいから」と押しとどめた。
「領主様を気にして言ってるんじゃないよ」同い年の同僚が、いつになく真剣な顔でマニに語りかけてきた。「今日のアンタ、本当に顔色悪いんだもの。折角休みになったんだから、ゆっくりしておきな」
 他の皆も、心からマニのことを心配してくれているようだった。
 半年前のマニならば、とてもこんなふうに考えることなどできなかっただろう。こうやって心安く同僚達と言葉を交わすことも、無かったに違いない。
 皆の気遣いに甘えて、マニは治療院を出た。風の気まぐれからいつもとは違う裏手の道を選び、菜園の脇を通る。
 ふと辺りを見渡せば、蔬菜達が瑞々しい葉を気持ち良さそうに秋風に揺らしていた。
 マニは足を止めると、目の前の柵に寄りかかった。
 まばゆいばかりに降りそそぐ日の光が、夏を名残惜しんでいる。
 鼻腔をくすぐる土のにおいに、草の香が混じる。
 さやさやとそよぐ緑をぼんやりと眺めるうち、いつしかマニは、風のまにまに心に思いつく旋律を口にしていた。
 
 
 そうやってどれぐらいの時が過ぎただろうか、土を踏みしめる音が聞こえて、マニは背後を振り返った。
 ヒューがそこに立っていた。
 栗色の髪が、陽を映して黄金色に輝く。乱雑に切りそろえられた前髪の下で、穏やかな瞳がそっと微笑んだ。
 マニの鼓動が、ほんの少しだけ、速まった。
「精霊使いなんだ?」
「え?」
 突拍子もないことを唐突に問いかけられて、マニはゆっくりとまばたきを繰り返した。
「その歌。魔術の波動を感じる」
 いつもと変わらぬ静かな口調で、ヒューはもう一度繰り返した。「精霊使い、じゃないの?」
 精霊使いとは、精霊と契約を結び、それを使役する技の持ち主のことをいう。ただ、その時にヒトの言語が使われることはない。もっと観念的な、いわゆる「うた」と呼ばれるもので彼らは精霊と意思を通わせるのだ。
「あなたが歌うと、ここらの草や花の気配が『揺れる』んだ。まるであなたに語りかけるかのように」
 そう言って、ヒューはにっこりと笑った。
「まさか……」
「意識せずにうたを交わしていたの? すごいや、愛されているんだね」
 ヒューの口から愛などという言葉が飛び出してきたことに、マニはつい狼狽して視線を伏せた。
「でも、精霊使いなんて、子供の頃に昔語りで聞いただけで……」
「確かに、精霊使いは圧倒的に数が少ないからね」
 知らなくて当たり前だよ、と優しい声が慰めかけてくれる。
「精霊使いの技には、魔術と違って、系統づけられた習得方法が存在しないんだ。それに、何よりも精霊に好かれなきゃいけない。こればっかりは、個人の努力だけではなんともならないんだよね」
 流石は魔術師、専門の分野だけに、その語りは流暢だ。自信に満ち溢れた声音にマニはじっと聞き入っていた。
もっとも、魔術の場合も、魔力を『練る』能力については、個人の努力なんて関係ないわけだけど」
 魔力を練るちから無くして、術師になることは不可能だった。その適性を量るのが「見極めの儀」であり、癒やし手、魔術師の別なく術師を志す者は皆、この儀式を通過する必要があった。
「たぶん、魔術も、精霊使いの技も、根っこは同じなんだと思うんだけど……」すっかり思索に夢中になってしまった様子で、ヒューは語り続ける。「精霊と契約しているという状態が、魔術における呪文を唱えている状態に等しい、とか。それなら、力場が互いに相克し合う可能性がある。精霊使いと他の魔術との親和性の低さも、説明できるかも……」
「親和性……?」
 つい聞き咎めたマニの呟きに、ヒューが、しまった、という表情になる。そのことが余計にマニの注意を引いた。
「どういう意味なんですか?」
「あ、いや……」
「他の魔術と、何がどう馴染まないというのですか?」
 マニは、まっすぐヒューを見つめた。
 ヒューは、大きく息を吐き出したのち、思い詰めたような眼差しをマニに向けた。
「精霊使いは、他の魔術との相性が悪い、という話を聞いたことがある」
 たっぷり一呼吸の間、マニは言葉の意味を理解することができなかった。
 まばたき一つ、少し遅れて、それは鋭い刃物のようにマニの胸に突き刺さる。
 
 魔術に対する適性は充分だ、そう「見極めの儀」で告げられた。にもかかわらず、いつまでたっても進まない修行。同じ時期に入門した者達はおろか、後輩ですら、次々と新しい術を習得しては、一人前の癒やし手として第一線で働いているというのに。
 努力が足りないのだろうか。マニはこの四年間、ずっと自問自答を続けてきた。足りないのなら、あとどれぐらい頑張ればいいのだろうか。寸暇を惜しんで修行に励んだ結果、身体を壊したこともあった。何度も何度も本を読み、教えを請い、ひたすら練習を繰り返した。
 そこまでしても、彼女が満足に使えるようになった術の数は、片手で足りる程度しかない……。
 
 マニは、唇を噛んだ。
 こめかみの脈動する音が、ごうごうと頭蓋に反響する。吹き荒ぶ嵐のごとき轟音に絶えかねて、マニは耳を塞いでその場に膝をついた。
「大丈夫!?
 ヒューの声が、どこか遠くから聞こえてくる。
「ひどいわ……」
 嵐は一段と激しさを増し、逆巻く濁流がマニを呑み込む。空気を求めて荒い呼吸を繰り返しながら、マニは言葉を絞り出した。飲み込んだ水を吐き出すかのように。
「頑張って勉強して、練習して、どうしても上手くいかなくて、それでもいつかきっと私にもできるようになる、って信じていて」
 ――領主様をお待たせして、皆には迷惑をかけて。
「なのに、よく分からないちからのせいで、全部無駄になってしまうなんて……!」
「無駄になんてなってないよ」
「いいえ! どうせ私は何もできない、何も期待されない。家柄も、見た目も、ただ父母から受け継いだだけ。私が持っているものなど、何一つ無いのよ……!」
 これまで胸の奥底に封印していた澱が、荒れ狂う波にによって水面へ巻き上げられる。そうしてそれは涙となって、ぽたりぽたりと大地を濡らす。
 俯くマニの視界に、そっと影が差した。
「……ごめん」
 おそるおそる顔を上げれば、目の前にヒューの顔があった。
 見たこともないぐらいに真摯な瞳が、マニの姿を映していた。
「あなたを傷つけるつもりなんてなかった。あなたが精霊使いと知って、何か力になれないかと思って、つい……」
 苦渋の表情で、ほんの一瞬ヒューが目をつむる。それから彼は、もう一度まっすぐマニを見つめた。
「あなたには、あなたにしかできないことがある」
 マニは、呆然とヒューを見つめ返した。
「嘘」
「嘘なものか」
 ヒューらしからぬ力強さで、彼はきっぱりと言いきった。
「僕は、あなたに怪我を治してもらったよ。痛がっている子供をあやしたり、不安そうな人に声をかけたり、いつも皆のために働いているじゃない」
「そんなの、私でなくとも……」
「僕は、あの時怪我を治してくれたのがあなたで、本当によかったと思ってる。たぶん、他の人だって同じだよ。皆、あなたと出会えたことを喜んでいる」
 再びマニの胸に何かが突き立った。一際高く鼓動が跳ね上がり、みるみる息が上がってくる。
 だがそこに痛みはなかった。那辺から湧きあがる熱だけが、マニの胸の奥を満たしている。

「だいたい、僕なんてあなた以上に何も持っていないんだよ? 少しぐらいは僕にも自信を持たせてよ」
 朗らかに笑うヒューに支えられて、マニはふらふらと立ち上がった。
「ね、うたってみて」
「え? でも、私、どうすればいいのか……」
「さっきみたいに歌えば、精霊のほうが合わせてくれるよ、きっと」
 だって、皆あなたのことが大好きなんだから。そう正面切って言われて、マニは思わず顔を伏せた。
「すごい。耳までまっ赤っかだ」
「意地悪」
 少しだけ唇を尖らせてみせて、それからマニは畑のほうを向いた。
 ゆっくり呼吸を整え、静かに息を吐き出してゆく。
 素朴な旋律が、ふうわりと辺りにたゆとうた。それは、土の香りと交じり合いながら、緑の葉をさやさやと揺らす。
 ふと、マニの視界の端で、何かが動いた。
 ヒューが、何か呪文を唱えていた。
 囁くような詠唱を、指が優雅な動きで大気に編み込んでいく。なにやら満足そうに彼が頷いた瞬間、マニを中心に風が周囲へ吹き渡っていった。
 うたが、風に乗った。
 世界が、広がる。そうマニは思った。自分の中から溢れ出る調べが、みるみるうちに菜園を、小路を、治療院の裏庭を、覆い尽くしていくのが分かった。
 それに呼応するようにして、なにか温かな気配がマニの中に流れ込んでくる。
 ああ、と、マニは目を閉じた。
 瞼の裏に、家の庭の景色が浮かび上がってきた。
 近所の人々が、街一番の美しさと誉めそやす庭。庭師を雇う余裕などないため、朝な夕な、丹精込めて母とマニの二人で世話をしている庭。心に浮かび上がるままに、はなうたを口ずさみながら水をやれば、緑なす木々が嬉しそうに枝を揺らす……。
「これ、本当は、声を届ける場所をいかに一点に集中させられるか、が勝負な術なんだけどね」
 ヒューの声に、マニはそっと瞼を開いた。
「でも、こういう使い方だって、いいと思わない?」
 ヘッポコ万歳、と嘯くヒューに、マニは心からの笑顔を向けた。
 
 
 
 とうとう収穫祭がやってきた。
 街中が浮かれ大騒ぎしているのをよそに、治療院にはいつもと変わらぬ空気が流れていた。もっとも、近隣の村々からもどんどん人が集まってくる分、忙しさは普段の比ではなく、癒やし手達は勿論のこと教会の職員も全員総出で、一年に一度のお祭に万全の体制で臨まんとしていた。
 マニも、自分にできる範囲で仕事をこなしていった。直接治療にあたる以外にも、やるべき事は山ほどある。患者の世話から掃除、洗濯。手を休める暇などない。
 そしてヒューも、朝から治療院にやってきて皆の手伝いをしてくれていた。若い男手はいつも以上に皆から重宝され、次はこっち、その次はあっち、と引っ張りだこであった。
 
 そろそろ日が暮れる、という頃になって、井戸端で包帯を洗っていたマニのもとに助祭がやってきた。
 助祭は、どことなく寂しそうな表情をしていた。
「マニ、今日はもういいから、上がりなさい」
 西日に染まる街並みに、太鼓の音が遠く近くこだましている。祭はまだまだたけなわ、つまり、マニ達の仕事もこれからだ。
「え、でも、まだ」
 戸惑うマニを優しく制しながら、助祭は背後を見やった。
 裏庭の向こう、イチイの木の下に、ヒューが佇んでいるのが見えた。
「せっかくの祭だ。彼を案内してやってくれないか。いつもいつもこき使ってばかりでは悪いからな」
 でも、と逡巡するマニに、助祭がぽつりと呟いた。
「もう、日も無いことだしな……」
 マニは何も言うことができず、包帯を手に握り締めたまま、静かに大きく頷いた。
 
 
 宵闇に沈む街は、どこもかしこも人でごった返していた。人々の歓声に、物売りの呼び声。山車が鳴らす鈴の音が建物の壁に反響して、賑やかなことこの上もない。
「もう少ししたら、向こうの広場で、豊穣の踊りが始まるんです」
 教会の敷地を出てひと角先、大通りの人混みの中で、マニはヒューを振り返った。と、すぐ後ろを歩いていた男にぶつかってしまい、彼女は大きくよろめいてしまった。
 慌てて体勢を立て直そうとするも、脇道から合流する人の流れが、どんどんマニを押し流していく。頭一つ向こうの栗色の髪が遠ざかっていくのを見て、マニは必死に人波をかき分けた。
「おい、押すな!」
「すみません」
 冷や汗をかきながら、つま先だって周りを見回す。ヒューの姿は、どこにも、無い。
 ――どうしよう。
 マニは冷たい手に心臓を鷲掴みにされたような気がした。僅かしか残されていない貴重な時間を、こんなことで無駄にしてしまうなんて。唇を噛み締めながら、目元に力を込め、なんとかして人垣の向こうを見通そうとする。
 だが、人混みは容赦なくマニを翻弄し続けた。今度は足先が何かに引っかかり、そのまま地面へ倒れ込む。
「危ない!」
 左腕が強く引かれ、すんでのところでマニは転倒を免れた。
 ヒューが、いつもの笑みを浮かべて目の前に立っていた。汗に濡れた額に髪が貼りついている。少し上がった息は彼がマニを探しまわっていた証だろう。無事でよかった、と笑って、ヒューはそっとマニの腕から手を離した。
「あ、ありがとうございます」
 自分の頬が熱くなるのを感じて、マニは思わず俯いた。その途端、また濁流に流されそうになる。
「一旦、端のほうに避難しよう」
 ヒューが、マニの手を取った。そうして、そのまま人の波を抜けていく。
 マニはおそるおそるヒューの手を握り返した。
 人ごみの中を、二人は手を繋いで歩き続けた。
 
 
 豊穣の踊りを見物したあとは、皆で感謝の歌を歌い、古都ルドスの祭りの夜は更けてゆく。
 迷子になってはいけないから、と、ヒューはマニの手を離さなかった。
 マニも、ヒューの手をずっと握り続けた。
 
 やがて、広場から少しずつ人々が散り始めるのに合わせて、マニ達も帰途についた。大通りに向かって、細い路地を通っていく。
 ふと、違和感を覚えて、マニは眉をひそめた。
 家々の庇に吊るされた提灯の灯りに、三々五々道を行く祭りの見物客がぼんやりと照らされている。それらに交じる、重苦しいマントを羽織った人影。祭の興奮冷めやらぬ様子で笑いさざめく者どもとは対照的に、マントの男達は、ひたすら無言でゆっくりと路地を進んでいる。
 マニは、ヒューの手を握り締めた。
 ヒューが、怪訝そうにマニを振り向いた。
 次の瞬間、マントの人影が、一斉に二人の周囲に押し寄せてきた。男達は無言のままに二人の間に割って入ると、二人を、いや、ヒューを取り囲んだ。
 繋いでいた手が、引き離される。
 声を上げる間もなく強い力で肩を引かれ、マニは人垣の外へとはじき出された。
 すぐ傍、マントの下で剣帯がガチャリと音を立てた。
 騎士だ。
 自分の肩を掴んでいる手を、マニは振り払おうとした。だが、即座に別な腕が彼女を羽交い絞めにする。
 またつるぎの音が聞こえた。今度は、人垣の向こうから。鞘から剣を引き抜く音。
 次いで、押し殺したような呻き声が漏れ聞こえてきた。
「やめてください!」
 やっと、声が出た。夜のしじまに響き渡ったマニの悲鳴に、騎士達が一瞬怯む。
 マントの隙間から、沈みゆく栗色の髪が見えた。
 だがすぐに彼らは隊形を立て直し、ヒューの姿はマントの向こうに消えた。
 そうして、どさり、と何かが地に落ちる音。辺りに漂う、鉄錆の臭い。
 マニの意識はそこで暗闇に呑み込まれた。
 
 
 
 街一番の高台にそびえる領主の城。秀峰の斜面にしがみつくようにして建つ要塞は、西側を天衝く岩山に、東側を断崖絶壁に囲まれている、天然の要害だ。
 その中でもとりわけ人目を引くのが、北の塔と呼ばれる城壁塔だった。目も眩むばかりの崖に面した尖塔は、城壁の丈を加味すると、その高さは主塔すら凌駕する。
 その北の塔の最上階、窓から差し込む月明かりの中に、小さな机に無言で俯すマニの姿があった。
 他には簡素な寝台があるだけの殺風景な部屋は、普段は物見の番人の居室として使われていた。梯子を外せば出入りができなくなるこの塔を、領主はマニを留め置くのに使用したのだ。
 下のほうで錠があけられる音がした。階段を踏みしめる足音が近づくとともに、部屋の入口がぼんやりと明るくなる。
 大きな影が、揺らめきながら天井を覆い尽くす。ランプを手に、領主が姿を表した。
 
「まだ食べていないのか」
 脇机の上の食事が手つかずなのを見て、領主が眉をひそめた。「二日も眠り続けていたというのに。何か口にしなければ身体を壊すぞ」
 マニは、ゆっくりと身を起こした。やつれ果てたおもてを領主へ向け、一言一言噛み締めるように言葉を発す。
「彼は、無事なのですか」
 泣き喚きたい気持ちを必死ではね退け、マニはまっすぐ領主を見つめた。
 領主は、表情一つ変えず、ただ一言を言い放った。
「盗人は、裁かねばならぬ」
「彼は、何も盗んでなどいません」
 即座に言い返せば、領主が忌々しそうに口元を歪める。
「奴は君を――私の妻を盗もうとした」
「私は、まだあなたの妻ではありません」
 淡々とそう返してから、マニは、ふ、と寂しそうに微笑んだ。「それに、彼も私も、あなたを裏切るつもりなどありません……」
 穏やかな、月の光のような笑みに、領主が怯む。
 だが、彼はすぐにおのれを取り戻すと、鼻を鳴らした。
「口ではなんとでも言えるからな。まあいい。どうせ君は明日みょうにち我が妻となるのだから」
 あまりにも横柄な言いざまに、マニは思わず語気を荒くした。
「おたわむれを。このようなところに閉じ込めた挙げ句に婚礼とは、父や母も黙っていないでしょう」
「知ったことではない」
 全てを尊大に切り捨てる領主の言葉に、マニはきつく唇を引き結んだ。
 くずおれそうな心を叱咤しながら、ゆっくりと息を吸う。
「……お受けしたくありません」
 領主が息を呑んだ。ランプの灯りが、大きく揺らぐ。
 しばしの沈黙ののち、領主の口から深い溜め息が漏れた。
「奴は、死んだ」
 マニは、頭から冷水を浴びせかけられたような気がした。
「私もこの目で確かめた」
 領主の眼差しは、壁に映る影よりもずっと昏かった。
「亡骸は、街の外の荒地に捨てさせた。もうとっくに野獣の餌となっていることだろう」
 耳を塞ぐことはおろか指一本動かすこともできず、マニはただ目を見開いて、むごたらしい知らせをその身に受ける。
 領主が、嗤った。
何人なんぴとたりとも、私の邪魔はさせない」
 
 ランプの芯が燃える微かな音が、静寂を震わせる。
 彫像のように微動だにせぬまま、マニはやっとのことで「一人にしてください」と絞り出した。
 
 
 領主が退出し再び闇に落ちた部屋の中で、マニは身じろぎ一つせず立ち尽くしていた。
『あなたには、あなたにしかできないことがある』
 柔らかく微笑むヒューの顔が、瞼の裏に甦る。
 ――そう、あなたにも、あなたにしかできないことがあったのに。
 マニの目頭が、一気に熱くなった。
 ヒューは、マニに数え切れないほど多くのものを与えてくれた。彼と出会わなければ、マニの世界は今もって、酷く色褪せた、矮小なものでしかなかったろう。
 マニはバルコニーへ通じる扉をあけた。
 夜風がマニの髪を揺らした。
 
 きっと彼はこんなこと望んでやしない。
 分かっている。
 でも。
 
 マニはそっと目をつむり、虚空に身を投げた。
 
 
 
 
 
 
 おのれの名を呼ぶ声に、マニはうっすらと目をあけた。
 視界をほんのりと満たす、青白い光。その中央に、苦笑を浮かべるヒューの顔があった。
「だめだよ、命を粗末にしちゃ」
 自分がヒューの腕の中にいることを知り、マニは悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさい、私のせいであなたまで死なせてしまって」
 常世でヒューに会えたら、まず言わなければならない、と思っていた言葉だった。
 そうして次には、一番言いたかったことを。現し世では決して明かしてはならなかった、この想いを。
「でも、こうやってあなたと一緒になれて、嬉しい……」
 みるみるうちに、ヒューの顔が真っ赤に染まった。
「ちょ、ちょっと待って。僕も、あなたも、まだ死んでいないから」
「え?」
 ヒューが何事かを呟くと同時に、青白い光が消えうせた。やがて、漆黒に沈む世界がぼんやりと輪郭を取り戻し始める。墨色の空を切り取る雲の影。向こうに見えるのは領主の城か。反対側に目を転じれば、葉影の奥に街の灯りがまばらに灯っている。
 身じろぎに合わせて、腰の下でざらりと砂が音を立てた。
「え? え? でも、私……、それに、あなたも……」
「うん。たぶん領主達は、僕が死んだ、と思っているんじゃないかな」
 事も無げにヒューが答える。それから、身を起こそうとするマニに手を貸しかけて、「いたた」とわき腹を押さえて背を丸めた。
 驚き慌てるマニに、ヒューが「大丈夫」と片目をつむった。切られた服の隙間から、夜目にも白い包帯が見えた。
「僕は、確かにあまり多くの呪文を習得していないけれど、一つ一つの術をじっくり研究したおかげで、他の誰もが想像できないような術の使い方ができる」
 自信に満ちた声が、夜気を震わせる。
「彼らを煙に巻くぐらい、どうってことないさ」
 マニは、涙が溢れるのをこらえられなかった。
 
 

 マニが落ち着くのを見計らって、ヒューがわざとらしいほどに厳めしい表情を作った。
「それにしても、僕が間に合ったからいいようなものの、だめだよ、死のうだなんて」
 まだ少し鼻をぐすぐすいわせながら、マニは小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「でも、許せなかったのよ。私自身を……そして何より、領主様を」
 それからマニは、まっすぐにヒューを見上げた。
 雲が切れ、月光が辺りに降りそそぐ。大きな瞳が、月明かりを映して燃えるように輝いた。
「力ずくでは、何も手に入らないんだと、領主様に思い知らせてやりたかった」
 
 たっぷり一呼吸の間、ヒューは微動だにしなかった。驚きの色を目に浮かべ、じっとマニを見つめている。
 それから、まいったなあ、と満面の笑みを浮かべ、マニをそっと抱き締めた。
「好きだ、マニ」
「私も。好き。ヒュー」
 言葉は、もう必要なかった。代わりに唇が刻むのは、声なき想い。
 やがて、どちらからともなく、二つの想いがそっと重ねられた。
 
 
 
 傾き始めた月を見上げて、ヒューが腰を上げた。
 マニも、手を貸してもらって立ち上がる。
「行こうか。助祭様が街の門で待ってる」
「え?」
「あなたのご両親もいらっしゃるんじゃないかな。大層心配なさっていたから」
 目を丸くするマニに、ヒューが真剣な眼差しを向けた。
「僕と一緒に、来てくれるかい?」
 その一瞬、これまでの人生を巻き戻すかのように、マニの脳裏に数々の映像が去来した。両親と過ごした日々が、治療院での思い出が、堰を切ったように溢れ出してくる。
 一番最後に、にっこりと微笑みかけてくるヒューの瞳が大写しとなり、マニは思わずヒューに飛びついていた。
 承諾の返事に、ヒューの「痛たたた」という呻き声がかぶさる。
 マニは大慌てで身体を離すと、心配そうにヒューを見上げた。
「ごめんなさい!」
「大丈夫。いざとなれば、あなたに治してもらうから」
 はい、と力強く頷く声が、風に乗ってどこまでも吹き渡っていった。
 
 
 

炒り豆をめぐる冒険

2015年8月23日 発行 初版

著  者:那識あきら
発  行:あわい文庫

bb_B_00137914
bcck: http://bccks.jp/bcck/00137914/info
user: http://bccks.jp/user/131950
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

那識あきら

創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
http://greenbeetle.xii.jp/




「夜風は囁く」
サイト初出 2011/11/3
「炒り豆をめぐる冒険」
サイト初出 2007/11/27~12/18
「天穹に詩う」
サイト初出 2012/6/14

jacket