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この本はタチヨミ版です。
不意に姿を消した主の姿を追って、大股で幾つかの部屋を渡るシグナム。
庭にひとり、薄い部屋着一枚で上掛けも持たずに佇む背をようやく見つけて、結構な勢いで窓を開け。
﹁主はやて!﹂
﹁どないしたん? 血相変えて﹂
﹁いえ――﹂
すみません、と小さく謝る。朝の陽の当たる境辺り。振り返った車上の主の傍らに幾冊かの本が積まれていることに気づく。
﹁ああ。﹂
はやてもそちらに視線を移す。
﹁ここのところ、ええお天気が続いたから、古めの本に風、通したろうかと思て。﹂
﹁そうですか﹂
﹁闇の書も、ずっと鎖かかっとったんやから、虫干し、したげような﹂
いつもの膝の上。表紙を撫でる白い手のひら。
﹁あ。もしかして、あんまり日に当てへん方がええんやろか?﹂
﹁闇﹂の書やし。と、はやてらしい思慮の行方に、シグナムは。
﹁いえ……きっと喜ぶと思います﹂
﹁そうか?﹂
幼い眉をあげて、よかった、と微笑んで。
積年に染まる小口をいとおしげに細い指先が辿って、そっと開いた。さらりと捲れる音が、真新しい朝の空気にのる。
一頁ごと、ゆっくりと繰られていく白紙におちる初夏の影のグレイに、幻のように過る面影。
﹁さわり心地のええ紙やなぁ﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁うん。いままで読んだ本の、どれより気持ちええよ﹂
しばし、んー、と言葉を探すはやて。
﹁そう、手触りが優しいんやね﹂
ん? ちょう変な感想かな? と、自ら笑って。
からりと乾いた風がまた心地よく過ぎる。
戦の合間。ほんのひととき、安らいだ日の事。
疲れきった身を泉に浸して、いつまでも失せぬ血の臭いに辟易しながら、鎧に返るそれを
洗い流す傍で。
﹁もう。綺麗な髪が台無しよね﹂
﹁いや、私は構わないから、紅の鉄騎を……﹂
﹁あの子はもうどこかに行っちゃったもの﹂
つまらなそうに口先を尖らせる。
﹁自分でするからいい!って怒られちゃった﹂
﹁わ、私も自分で……﹂
﹁駄目よ。さっきの戦闘で背中に怪我したでしょう?﹂
浅い矢傷だ。隠しているらしいので黙っていたのだが、やはりお見通しだったらしい。
観念したのか、うぅと言葉を詰まらせたきり、押し黙る。
――シャマルの勝ち、か。
﹁さわり心地のいい髪ね﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁ええ。とっても綺麗よ﹂
心底愉しそうな声に。
﹁そうか﹂
戦場では決して見せない、横顔を見る。髪を褒められたことでなく、楽しげなシャマルの
様子が嬉しかったのだろう。そういう奴だ。
身なりに頓着しないあれに、ことあるごと語りかけるシャマル。癒しの風の担い手と呼ばれるに相応しい微笑みと慈愛の彩を湛えた瞳に、おっとりと応じる紅い瞳。
あれは、戦場でも普段も余り表情を変えることはないけれど、このときばかりは相応の表貌をしていた。
知らず、口許に笑みを噛んでいる。
その髪を夜通し梳いて過ごし、迎えた朝もあった。
指先に残る感触は、今生のものだったかすら、もはや定かではない。
不意に思い出された、闇に白く抜ける横顔を――
慌てて払うように冷たい泉の水を乱暴に被ったものだから。派手に雫を飛ばしてしまい、
二人がかりで咎められた。
﹁やっぱり上等な紙なんやろか…… 虫さんきたら、どないしよ﹂
﹁まがりなりにも、魔力を帯びた魔導書ですから、そうそう虫も寄りつかぬかと……﹂
﹁ああ、そうか。普通の本とちゃうもんな。――ごめんな、闇の書﹂
ふゆと浮かぶと、肩のあたりに添う。謝らないで欲しい、と言わぬばかりに。
穏やかな紅い瞳が銀の髪越し、ことあるたび、いつもいつも詫びていた姿を思い起こさせた。
――すまないな、将よ。
果たしてあれは、一体何を我々に謝っていたのだったろう……
朧に霞む、記憶。
﹁どないしたん、シグナム?﹂
﹁いえ。……どうやら喜んでいるようですよ﹂
﹁そうなん?﹂
﹁ええ。そんな気がします。﹂
穏やかに笑んでみせ、その後、はっと眉をあげ。
﹁申し訳ありません、根拠はないのですが……﹂
﹁あはは、ええよ﹂
慌てて正す姿に、はやては明るく笑い返して。
﹁私も、そんな気がするんよ。シグナムもそう思たんなら、間違いないんと違うかな。﹂
――なぁ、闇の書?
主の微笑みにまた、遠く面影をみる。
梅雨の湿った空気はもうずっと昔のことのように過ぎ去り、夏本番間近の爽やかな朝の空気が、今生の街を満たしている。
-了- [ 2013.08.05 ]
/ revised on 2015.09.21
秋の入りばな。
陽の光をいっぱいに浴び、ここ数日吹きはじめた心地よい秋風に存分にさらされ、すっかりほあほあに仕上がった洗濯物たち。ソファーからすいと離れて、かごいっぱいになった傍へ、慣れた様子で両手をついて身を寄せる。
窓を隔てた先、乾き具合をひとつひとつ、丁寧に確かめながら動く背を見上げている。
足早に西へと逃げていく陽が部屋に傾ける長い陰影が、膝のすぐ傍まで伸びてくる。
かごの一番上に重ねられたタオルを手にしたら、いっぱいに陽の匂いが満ちて、嬉しくなる。
﹁主はやて?﹂
窓枠に縁取られ。いかがなさいましたか? と訊ねる蒼瞳にぴんと張り示されたバスタオル。
﹁今日もめっちゃええ感じや﹂
﹁ええ、そうですね﹂
手にしていた洗濯物をそっとかごに寄せ、シグナムが微笑む。身を屈めたシグナムの鼻先にやわらかく差し伸べられたタオル越し、満面の笑みが夕映えに照る。
途端、かたん、と竿が小さく鳴ったのを、ふたり、振り返る。
﹁大丈夫か?﹂
﹁ヴィータ、上の方は私が﹂
﹁へーきだよ﹂
口先を尖らせて不満げに応じる。
﹁……流石に足元がすこーし浮いとるね﹂
シグナムにだけこっそりと囁き、くすくすと笑いながらはやてが口許に寄せていたタオルを畳みはじめる。
﹁物干し、大きいのが使えるようになって助かるよ﹂
窓からの夕陽を受けて部屋を満たした橙に縁取られたシグナムを眩しそうに見上げ、穏やかに告げた。
﹁ありがとうな﹂
﹁いえ――﹂
困らせるのは本意ではなかったはやては、さらりと意識を洗濯物に戻してしまって。
ぱたぱたと手早く畳むちいさな肩は、すぐまた手を留めて。
﹁なあ、シグナム?﹂
﹁はい﹂
﹁魔力て使いすぎたらやっぱり疲れてしまうん?﹂
﹁そうですね。
行使できる総量には限りがありますし、使いきってしまえば倒れてしまうことも……﹂
﹁えっ、そうなん?﹂
一言をきっかけに。穏やかな空気を割り、弾かれたように結構な勢いで振り返って。
﹁ヴィータ!﹂
﹁うおっ、なに? はやて﹂
﹁シグナムと交代!﹂
﹁えー?﹂
﹁いえ、あの﹂
穏やかなこの日々に費やす魔力など――
言葉には、ならなかった。
窓から射す、陽の橙。夏の名残をまだ色濃く残した熱がぐいと背を押してくる。
自らの足許から長く長くおちてゆく昏い影。先の見えぬ戦いに明け暮れ、泥のように崩れて眠りに落ちた暗い石床。
足にこびりつき広がる緋と黒。――鉄錆色に血塗られた掌。
﹁シグナム﹂
あたたかな、家。両足は靴下越しに確かな床を踏む。陽の光を一日かけていっぱいに充たしたフローリング。両手には、陽を帯びた清潔な衣類の清い香り。
いつのまにか、夕映えに染まりひときわ明るんだ闇の書が、はやての傍らに浮かんでいた。
軽やかに床を蹴る裸足の足音が真横を通り過ぎていく。
﹁次はシーツ、干してしまおか﹂
お願いできる? と傾げて。
声にならずにただ頷くしかなかった逆光の自分の表貌は知らず。主が瞳を細めて、こちらを見上げていた。
秋の夜長。
﹁ごめんなあ、この勝負終わったらヴィータと入るから、先入ってな?﹂
熱戦が繰り広げられるリビング。
ゲームに熱中する主とヴィータの邪魔にならぬよう、静かに先を断って、シグナムは浴室へ向かう。
†
――シグナム、はやてちゃんをお願い。
シャマルからねじ込まれた念話は実に端的だった。しかしその後、すぐに事態は把握される。
風呂場の扉越し、人の気配がして、声がかかる。
﹁シグナム、まだええか?﹂
﹁はい、大丈夫ですよ、主はやて﹂
シグナムは浴槽から背を取り戻して手早く水気を払うと、脱衣所のはやてを出迎える。
車上の主は慣れた様子で支度を整えると、シグナムの手を借りて温かな湯気に満ちた白霞む浴室に迎え入れられた。
感情の波が大きく振り切れている様は、たやすく知れた。
そしらぬ風で、普段通りはやての身を流し始めたシグナムの手のうち、波立ちささくれたっていたはやての感情は、普段通りの速度で堅さを解いて持ち前を取り戻してゆく。
頃合いを見てシグナムが問うた。
﹁今夜はヴィータと一緒に入られるのではなかったのですか?﹂
﹁……知らんもん﹂
名前が出た途端、息を詰めた主に、まだ早かったか、と思い至って、シグナムは表情をしっかりと繕う。
やがてはやての全身を真っ白な泡沫が包みこむ。やわらかく肌の上をすべりおりる様子を見送りながら、間近に小さく息をつく。
﹁いかがなさいましたか?﹂
﹁……アイテム禁止やってゆうたのに﹂
珍しく相応な子どもっぽい口調で不満を募らせた口先は絵に描いたように小さく尖っていて、心配よりも先に、微笑ましさといとしさが胸を衝いている。
﹁そうですか﹂
努めて穏やかに返したつもりだったが、聡い主は自分の言動の子どもじみた様子に気づいてしまったようだった。
﹁ちょう、大人げなかった﹂
﹁そのようなことは……﹂
﹁でもゴール前であれ出されたら、避けられへんもん﹂
やはり腹の虫が未だ収まらぬ様子に、流石のシグナムも表情を保つことができず、思わず頬を弛めてしまう。
﹁もー。笑ろうてるやん﹂
小さく咎めながら、はやての頬もいつしかほころんでいた。
﹁なあ、シグナムは負けそうになった時に不利なルールがあったらどないする?﹂
﹁そうですね。状況にも依りますが、私はルールに従ってしまうと思います﹂
﹁負けてしまうかもしれへんのに?﹂
﹁制約の中で最大限の能力を発揮するのも、騎士の矜持かと﹂
﹁ヴィータも騎士やん﹂
まだ名前を出すまでには抵抗があるのか、はやての声は幾分堅くなっている。
﹁確かに、ヴィータは勝負事となるとむきになったり、
熱くなってしまうきらいがありますね﹂
むう、とふくれた頬をちらりと見やって、シグナムは継ぐ。
﹁その実、いつもそうして先に立って道を開いてくれることで、
私がルールを破らねばならぬような状況にならずに済んでいるのかもしれません﹂
穏やかな指先で髪先までを櫛けずりつつ答えるシグナムを、はやてが見返した。
﹁ですので、その場になってみないことには、本当のところは判らないかもしれませんよ?﹂
﹁そうなん?﹂
伏せて笑む蒼瞳を覗き込むように身を起こしたはやてを、さらりかわして、華奢な身を浴槽へ導く。
﹁ともあれ、約束を違えるのは良くありません。――あとでよく言って聞かせます﹂
﹁んー、そんなん、ええよ﹂
浴槽に両腕を伸ばし浮かべて、はやてが笑っていた。
﹁次はぜったい、負けへんもん﹂
決意に満ちた不敵な笑みで夜明け色の瞳が煌めいた。
守護騎士達が苦渋の末に誓約を違え、蒐集への途を辿る、少しだけ前の、秋の夜の出来事。
冷たい雨。傘というのは、なかなかに不便なものだ。
然りとて人の目のある宅地の往来、ささずに済ます訳にもゆかず、多少の不自由をもて余しながら、大分と通い慣れた帰途を辿る。
出掛け。雨の中、夕食の使いを買って出たシグナムに、どこかゆかしく差し出された傘。
恐縮して受け取る。開けば、大きく花咲く。長身の彼女にあわせたサイズで少しでも軽いものを、と探して下さったのだと聞く。何度も開け閉めを繰り返し、ひとりひとりにあわせて丹念に撰び、たまわったそれぞれの一本。誰しもが気鬱になりがちな雨の日の、重く暗くたちこめる雲の下でも、大切な想いが彩り、雨粒に弾け輝く。
人ならざるこの身にあり、戦場でも雨に濡れることのない特質がゆえに、永に縁のなかったそれを、此度の主はさも当然とさし伸べ、さしかけて下さるのだ。
その横顔を思い歩いていると、ふとこの先に、車上の主が横目に一瞬だけ目を奪われる場所があることを思い出す。
車道に沿った歩道を唐突に割って登る、細く急な坂道。
高台の宅地へ続く生活道かと思われる。
ゆき過ぎる瞬間、ほんの僅かに視線をやり、憚るように視線を逸らす。
その道を、何故主が気にかけらておられるのか、未だ尋ねてみたことはない。
さしかかる。
足を止めた。
曲がりくねった坂道の末は見通せない、雨の暗がり。
そそぐ雨露が道の端に騒がしくせせらぐ。
主が夕食の支度にかかられるまでに、まだ少し時間がある。
無意識下に強大な魔力を従える主が、気にされる何らかの理由があるかもしれない。
シグナムは足早に坂道へ分け入った。
石塀に挟まれた小道ほどの坂道。
塀の上には路樹が繁り、見通しはよくない。それほど強くはない雨の音を受けて、それでも街の音をかき消すほどに騒ぐ。
塀に沿い、草臥れた枯れ葉がわだかまって坂を滑る雨の流れを所々で塞き止めている。
陽がなくても育つ類の草が時折吹きつける風雨に打たれるたび、照り揺れる。
先の見えぬ坂道は、幾度かくねり、よじれながら5分程続いてのち、なだらかな登りになり、やがてその先で平地になった。
建ち並ぶ家々は代わり映えのない宅地の風景。
坂の端へ寄れば、隔つガードレール越し坂下の宅地のとりどりの甍が並び、雨を弾く。
とりたてて魔力の気配や、危険などが感じられるわけではなかった。
引き替えに。ようやく気づく、主の意識の端。
†
﹁あっち、行きたいの?﹂
﹁え、﹂
違う、と、はやてが口を開く前に。
察して半歩下がったシグナムをさらに押し退けるように、ヴィータが寄った。
﹁しっかり掴まってて﹂
車椅子のハンドルに手を添えると、ゆるりとヴィータが前傾する。
出しなにかすかに軋んだきり、あとは音もなく、車椅子が滑り出す。
まだ、戸惑ったままの横顔がほんの少しだけ、緊張した。
口を挟む余地もなく、小さくなるヴィータの背をシグナムはやれやれ、と笑んで見送る。
普段の道から右へ折れ、じき急な坂道にさしかかる。
背もたれに背中が押し着く心持ちがした。
ふわりと風を割り、走り抜ける速度にはすぐ慣れた。すれ違う風が髪と頬を撫でてゆく。
カーブの続く、先の見えない坂道。
普段ならば考えただけでぞっとする光景だったけれど、今はちっとも怖くなかった。
秋を去る風を受けて、愉快な気分で前だけを見ている。
背中にはヴィータの小気味良い息づかいが微かに聴こえる。
車椅子は、ぐんぐんスピードをあげ、穏やかな風を切るようにひといきに坂をかけ昇った。
たどり着いた坂の上。住宅の並ぶ道。
ヴィータが見たところ、景色はさきほどまでの住宅街のそれとたいして代わり映えもしなかったけれど。
はやては目を丸くして、きょろきょろと辺りを二度、三度と見まわした。
登ってきた坂のきざはしから居並ぶ屋根。
ひとつひとつを数えるように、きらきらした視線がなぞる。
明るい陽の透ける前髪をヴィータは飽きず見ている。
やがて、振り返って揺れる。
﹁ありがとうな、ヴィータ﹂
﹁うん﹂
坂の上にのった青い青い秋空を背に、息ひとつ切らす風もなく明るく笑うヴィータが、ただ眩しかった。
﹁帰りは難儀やね﹂
ごめんな、などと問えばきっと怒られてしまうので、重たない? と恐る恐る聞くはやてに、ぜーんぜん。とさらりと答えて、後ろ向きに坂を降るヴィータ。
後ろに目があるかのように、危なげなく車椅子を導く様に、やっぱり、騎士ってすごいんやなぁ、と漠然と思う。
身体の重みを背もたれに預け、上目に窺えば、高々と青く抜ける空。
たまに流れる雲の数を数えながら、登ったときの半分の速度で坂をゆっくりと降ってゆく。
はやては楽しそうに道の端の草花を差してはその名をヴィータに教えてくれた。
ひとときの寄り道に、ちいさな白い花を咲かせた緑は揺れ、坂を転がる風がふたりを包んで撫でていく。
﹁ねえ、行きたいとこ、みーんな行こうよ、はやて!﹂
﹁そやねぇ。皆であっちこっち行こな?﹂
闇の書が完成すれば、はやての足だって治るかもしれないんだ。
まだまだ時間、かかっちゃいそうだけど、それまでの間は、あたしがはやてをどこへだって連れて行ってあげるから。
――だから。
奥底で燻る、緋。
紅黒い、鉄錆色の空と闇がない交ぜる、そのただ中でも迷いなく立つ、揺るぎないその瞳の決意を、車上のはやては、まだ知らない。
ああ。
﹁降ってきてしもうたか﹂
図書館のエントランスから軒越しに雨を見上げながら呟く。
朝から続いていた青空を見る間に黒々と塗りつぶした厚い雲は、急な雨を連れ、叩きつけるように地を嘗めた。軽く息をつく横顔。
――すっかり油断したなぁ。
暫くの足留め。
通り雨はすぐに抜け、車輪は濡れた路面をかむ。馴染みの道のりを、湿った音がいつまでもついてくる。雨上がりの匂いに、湿度をもったりと含んだ空気が纏わっている。時折吹く風が少しずつ押し流してくれてはいるけれど、まだ暫くこのまま蒸していそうだった。
あっさりと青さを取り戻し、通り雨など素知らぬふうの春空を見上げて、玄関脇から庭へと車椅子を向ける。
とぽとぽと溢すホースの水。ブラシで車輪の食んだ泥をごしごしと力を込めて流し落とす。
一仕事を終え、すっかり汗ばんでしまった背を少し浮かして、ふうと息をついた所で。
――あ、しもた。
ベランダ側のマット、昨日洗うてたんやった……
何から何まで今日はツイてない。
幾度目かももはや知れぬ溜息をまたのみ込んで、濡れた車輪を横目に。
洗濯物のうち、すっかりうなだれたマットの様子に苦笑い。
――しゃあないな。
雫が伝いきらきらと空色を映すスポークを見つめることで、少しだけ気分を軽くして。
――まあ、ええか。もう、晴れたし。
庭先で、借りてきた本を広げていよう。このまま乾いてしまうまで。
取り出した本の隣に、いつもの本。目的の本と重ねてそっと取り出し、膝の上。鎖が擦れる微かな音を撫でた。
†
﹁しもた﹂
書架に没頭していたはやてが、ふと気づけば。音が聞こえるほどの雨粒がガラスを打ちひしいでいた。
通路を隔てた児童書のコーナーの大きな窓を窺えば、網がかけられたように雫が絶えず伝って、街路の向こうは見えぬほどだった。
﹁失敗したなあ……﹂
眉を寄せてひとりごつ。予約の本を受け取りに寄るだけのつもりだったのに。雨足が過ぎてしまうのを待とうにも、今日は閉館までもうあまり時間もない。
﹁うーん。止むやろか?﹂
――この様子では、望み薄やな。
﹁――はやてさん!﹂
車を呼ぼうと携帯を取り出したはやてを呼ぶ声。
﹁遅くなりました﹂
人前で﹁主﹂と呼びかけるのを避けてくれたシグナムは、慣れぬ呼び方に戸惑うふうもなく。はやてが車椅子の角度を向ける間に広いストライドで足早に寄り、顔をあげる頃にはもう傍に控えている。
﹁わざわざ来てくれたん?﹂
﹁シャマルが雨になると言うので、お迎えに参りました﹂
﹁ごめんな、降るのわかっとったのに……﹂
すまなそうに身を縮める主に微笑みかけると、肩と長い髪の先を湿らせたシグナムは間近に膝をつき、抑えた声音で囁く。
﹁転送の支度が整っています﹂
﹁シグナムは走って来てくれたのに?﹂
﹁私は濡れても乾きますので﹂
微笑みを濃くしてシグナムが嘯けば。
﹁いつまで経っても傘さすんが上手くならへんわけや﹂
はやても笑った。
﹁はやて、おかえりっ!﹂
飛び込むように寄ったヴィータを受け止め、はやてはぎゅっと腕を回した。
暖かな体温と耳に丸く余韻を残す声。そっと包んでいつだって返したい。
﹁ただいま﹂
﹁どこも濡れてない?﹂
﹁うん、大丈夫や﹂
間近で揺れる赤毛に見とれながら、はやてはゆっくりと頷いて。
﹁ありがとうな、シャマル﹂
﹁いえいえ。――おかえりなさい、はやてちゃん﹂
﹁失礼します、主﹂
シグナムがすいと抱きあげようと寄るのをヴィータがつつく。
﹁あたしがやるよ。肩、濡れてんじゃん﹂
﹁あ、ああ。﹂
阻まれた空の手に、ぽんと雑巾が乗る。
﹁シグナムは車椅子、お願いね﹂
﹁心得た﹂
﹁あはは。ごめん、ありがとう、ヴィータ、シグナム﹂
闇の書がもぞと鞄から抜け出して、シグナムの肩の傍を抜け、車椅子の背の辺りに浮かぶ。
ヴィータに連れられて戻った居間には、慌てて取り込まれた様子の洗濯物がまだ少し残っていて。ザフィーラが鼻先を器用に使い、なれた様子でタオルを畳んでくれていて……
抱えあげてくれる背に回していた腕に、知らず力がこもってしまっていたらしい。
﹁どしたの? はやて﹂
﹁んー。……何でもないんよ﹂
ヴィータはそれ以上なにも言わずに、そっとソファーに降ろしてくれた。
覗きこむように寄りきた闇の書をつかまえて、胸元にぎゅっと抱きしめる。
――みんな、あなたのおかげやね。
こんな雨の日も、落ち着いた色の装幀はさらりと乾いた手触りを返してくれる。
精緻な細工の為された表紙を開いて、そっと頁を繰れば、真っ白だけれど落ち着いた風合いの紙面が広がる。
さらりと、のどの淡い影を撫で、こころうちで静かに問うた。
――あなたは、このままでもええの?
いつか読めるだろうかとずっと待ち望んでいた本は、戒めを解かれても誰にも読まれる事のないまま。
蒐集を禁じた私を、恨んではいないだろうか?
答えの返ることのない問いを指先にのせ、未だ文字の無い本に刻まれるはずだった綴りの
向こうを見透す。
――わがままな主やけど、もう少しだけ、傍に居ってな?
窓の外の雨は、ずいぶんと小降りになっていた。夕飯の支度が整う頃には止んでしまって
いることだろう。
微かな雨のヴェールに覆われ、失せた街の音。
とくんと身を伝う心音だけが、今日はいつまでも、いやに耳についた。
冬を思わせる冷たい風は窓の外、数日前から本格的に寄り、街路を震わせているけれど。
夕暮れ時の穏やかな居間には、いつも暖かな空気が満ちている。
﹁なぁ、シグナム﹂
﹁はい﹂
﹁なんでシグナムとシャマルは夫婦なん?﹂
﹁は?﹂
﹁はやてちゃん?﹂
ソファーの隣、はやてに寄りかかって寛ぎきっていたヴィータもさすがに呆気としていたが、いち早く立ち直ったのは斬り込み隊長たる故か。
﹁主はやて、私とシャマルは夫婦でありません﹂
次いで立ち直り、至って真顔で答えるシグナムに堪らず噴き出したら、わりと本気で睨めつけられた。おー、おっかねぇ。
﹁そやけど、シグナムは出掛けるときの支度は当たり前みたいに
シャマルにやってもろうとるし――﹂
﹁ヴィータちゃんやザフィーラの分の支度もしてますよ?﹂
普段なら面白がって乗ってきそうなシャマルがなぜかシグナムの肩を持つ。
﹁気がついたら新聞読んどるし﹂
﹁……すみません﹂
﹁出掛けのシャマルの身だしなみチェックは抜かりないし﹂
﹁えーと、はやてちゃん?﹂
あー。なんだ。はやての瞳ってピュアだよなー。
飲みかけのオレンジジュースのストローをくわえ直して、なまあたたかく成り行きを見守る事にした半目のヴィータ。
次々と挙げられてゆく夫婦項目を流し聞きながら、ふとその向こうには彼女が幼くして亡くした両親への追偲があるんだろうかと思い至って、少し切なくなる。
﹁あと、ご近所さんに、ヴィータは何時の子ぉなんやろかて、訊かれたよ?﹂
ぶはっ
﹁ヴィータ!﹂
﹁タオル、タオル﹂
からからと笑って、むせるヴィータの背中をぽふぽふ叩いてやるはやて。
﹁あたしは二人の子どもじゃねえー!﹂
﹁うんうん。そやからそない云うたら、
あら、やっぱり? そんなに似てないと思ったわー、って納得してはった。﹂
ごん。
――なんの騒ぎだ?
休息から慌てて様子を見に起きた、ザフィーラの念話に応えてくれる者は居なかった。
日ごと短くなる陽を追って引きかえに、長くなる夜が追い立てる日々。
﹁ザフィーラ、おる?﹂
――お呼びでしょうか、我が主。
﹁手が空いとったら、悪いけどこっち来てくれへんかな?﹂
呼ばれるまま、すいと寄り来た青き狼の前足をそっと取り上げるはやて。
﹁ごめんな? ちょう手、出してくれる?﹂
為されるがまま、前足のふさとした深い毛から拇指の爪を探り当てる。
﹁ちょっとだけ、ごめんな?﹂
――いえ。
自らの前足を主に預けて、成り行きを見守る背に。
﹁立派な爪やねぇ﹂
手にした硝子のやすりを添えて、はやてが微笑む。
そっと丹念かつ繊細に繰り返される動きに見入る。やすりの小気味のよい音が握られた前足を伝って耳にまで届く。やがてやすりは先の爪へと。
都合3本分を芒とみつめてのち、事態の畏れ多さにようやくと思い至って口を開く。
――あの、自分で出来ますので……
﹁ん? どこか痛かったか?﹂
――いえ、そうではなく。
﹁そうか、ほんなら、よかった﹂
鼻唄も交じろうかという勢いでやすりを動かしつつ、はやてがそう安堵をこぼせば、もはや何も言えぬザフィーラである。
﹁硬いけど、やわらかいんよなぁ﹂
――はっ。
﹁ザフィーラのにくきゅうやー﹂
にっこりと笑んで、くいと関節を返される不意を衝かれた様子を横目に、取りいだされる、先端の丸ぁるい小振りのはさみ。
﹁肉球の間の毛が伸びすぎたら走ったときに滑ってまうって書いてあったんよ﹂
……先日熱心に読み入っておられたそれは、仔犬の育児本だったのではなかろうか、と思い当たったものの、ザフィーラは黙っている。
﹁うん、そんなに伸びてへんね﹂
ちゃんと手入れしとるんやねぇ――と、もふと撫でられれば、守護プログラムである己は、爪も毛も伸びぬのだとは、やはり言えずに、黙して頷きを返す。
夜ごと地を駆け、他者を傷付け、罪に塗られる前足を、ひととき主に預けるままに。
それでも、ひらりと膝上に開かれた敷き紙の上で毛先の長さを軽く引き揃えると、はやてのはさみはさくりさくりと数度軽い音をたてた。途端、前足がひくり、と退かれた勢いに。
﹁あ、ごめんな﹂
――いえ。
はさみの刃の思いよらぬ冷たさと、切り整えてのち肉球の間の毛をよけ、仕上がり具合をそっと確かめる指先が、過敏な箇所を掠める感触に、こそばゆさを覚えたことを悟られまいとするあまり。
﹁……ぐあい、良うなかったか?﹂
――とんでもございません。
慌てて恐縮し、継げば。
﹁そう?﹂
前足をきゅっと握る、幼い主の申し訳なさげな笑みと、その掌のちいさき在りように、ただ心動かされている。
護る、とは。如何なる事かを改めて、心に刻んで響かせる。
﹁反対も、ええかな?﹂
――はい、我が主。
昼下がりのリビング、忍耐のひとときは今暫しの間、繰り広げられるようだった。
﹁はやて、ただいまっ﹂
﹁おかえりぃ、ヴィータ。おおきにな﹂
がさりとなった買い物袋の音をはやてがかえりみれば。
﹁重かったやろ、ありがとう﹂
﹁別に、平気だよ。……何やってんの?﹂
﹁ザフィーラの爪切りや﹂
ふうん、とソファー越し、ヴィータが見やる。と。
――ヴィータ。断ってくれないか。
――んぁ?
﹁次、ヴィータもしたげるな﹂
――別に断るのはいーけどさ、なんで?
――我らは爪や毛が伸びぬと、打ち明けることが出来なかった。
﹁えっ、いいよ、自分でできるから。﹂
﹁えー。遠慮せんでもええやんかー﹂
――なんだよ、そりゃ。
――すまん。
﹁遠慮とかじゃなくってさ! ほんとに自分でできるからっ﹂
﹁あはは、子ども扱いしとるんとちゃうんよ?﹂
――そっか。なあ、ザフィーラ。
主の傍に侍るザフィーラは、立てた耳をひくりと一度、回した。
――はやては、たぶん知ってると思う。
﹁ほんとにー?﹂
﹁ほんまやって﹂
明るい笑顔ふたつ、夕刻に暮れても、いつまでもあたたかなままの居間に輝く。
――そう、か。
――ん。
﹁ねぇはやて、ありがと。﹂
﹁へっ? まだ何にもしとらへんよ?﹂
﹁いまのは、ザフィーラの分!﹂
転がるようにソファーの背を乗り越えて寄り、ヴィータがにんまりと笑った。
澄みわたる空気に、くすんだ風の色。何処までも同じ色をしている、冬の空。
なだらかに広がる丘と鈍い空の境。風が揺れていた。
見憶えのない場所。その丘のただ中に立つ、一本の糸杉を見上げていた。
もし私が自由に歩けたならば、きっとそこへ向かっただろう。
もし、立ち上がれたならば、これほどに高く感じたか、知れない。
手入れが行き届いているはずの車椅子が手元に軋む感触に、今まさにこれが夢であることを悟るけれど。
高く高く聳えたちのぼる姿に、瞳を奪われている。
冴えた冬の風と梢の織り成す行く末を、飽きることなく辿りつづけた。
先刻から、息が苦しい。
折角の澄んだ冬の乾いた空気も、ちっとも胸を満たしてくれずに、どんなに深く吸い込んでみても全然足りない。
熱く鼓動が響いて打った。それが痛みだと、遅れた認識が肩口をかけあがり頭痛を呼んで、鈍く腰へも滲みてゆく。
浅く早くなるばかりの呼吸に胸許を押されて、とうとう見上げていられなくなった。刺すように数を増す痛みに耐えられなくなって。
腰が折れ果て車上に踞れば、薄い草の蔓延る枯れきった大地は、もはや視界におぼつかず、おぼろげに昏がり、ぐらりと回りはじめる。ひやりと冷や汗が雫を結び、風が削いで抜けた。
午後の陽の落とす長い翳がずるりと延びて目前に広がり、土色にじくじくと泥濘みゆく。
眩む視界に、昼夜の別すらつかなくなってゆく。
奥歯を噛んで顎をあげ、見上げた。
木末は上昇する風に揺られる焔の如、暮れてゆく空へ迫るようにのびあがってゆく威容。
足許に糸杉の落とす蔭がうすらと、俄に傾きを増して、爪先を呑みこんで――
†
暗闇。はじめに、こちり、こちり、と間延びて歪んだ秒の針が遠くから聞こえてきて、次に、ぐったりと汗に濡れた夜着の重さに、うつし世に帰ったことを知る。
コールのボタンを視線で探してのち、手にとることはせず。
胸の痛みは消えていて、気怠く頭痛が残るばかり。浅い息は未だ喘々ときれてはいたけれど、静かに落ち着いて繰り返すうち、秒針の音と共に調い始めた。
夜は脈々と続いていて、まだしばらくは明けそうにない。
何処までも借り物のベッドの上で、無機質に体温を吸い、温む掛け布は素っ気ない。
瞳は闇に慣れぬまま、枕の傍らをまさぐれば、そっと触れた革表紙の慣れた手触りにきちんとゆきあたる。引き寄せて胸許に強く抱いた。
……闇の書も、眠るんやろか。
至って大人しいまま在る、闇の書の表紙の縁を撫でてみる。しっとりと変わらぬ感触が肌の荒れた指先を安らげる。
細く長い吐息を経て、冷めた夜着を着替える気力が、ようやくと湧いた。
†
翳る陽の名残を惜しむように開かれたままのカーテンを、そろそろ頃合いとみて立ち上がった長身。小気味よい音が引かれて、夕暮れの足早に寄る寒気から病室を遮る。穏やかな静けさが増して重なる。
﹁うーん、上手くいかへん……﹂
別段、不満な様子は含まず、ただの独り言のようにぽつりと置かれた。はやての手には先日、ヴィータが持ってきた新作ゲームが握られている。
﹁いかがなさいましたか?﹂
ついと示されそっと窺う画面のうち、ちいさなキャラクターが弓矢を構えていた。どうやら、放つ矢がめあての的に思うように届かぬようで、ちいさく尖らせた口先が珍しく映る。
﹁シグナム、できる?﹂
ゲームに興ずる技術はヴィータに及ばぬものの、主の頼みとあらば、叶えるのが騎士の務め。差し出されたゲーム機を受け取る。射程は先程、見た通り――
﹁あ、届いた!﹂
﹁はい﹂
ほっと弛んだ表情に向け、ありがとう、とほころぶ。その笑みひとつであたたかな燈が心に灯り、じわりと身体は熱く力で満たされる。かけがえのない、大切な何かを得たのだと、たびごとに想う。
それゆえ、ゲーム機を受けとった細い指先の、色の抜けた儚さに、言い知れぬ思いが膝下へと流れ落ちるかのようだった。
﹁なあシグナム、退屈と違う?﹂
﹁ええ﹂
﹁……まだ帰らんでも、ええの?﹂
傾きはじめた陽のもたらす翳が、病室の扉にまで届きはじめようとしているのを先刻からこっそりと確かめていたのは、潮時をはかっていたからと知る。
座上の自分に向かった、深い彩の瞳を見返す。
﹁今夜の食事はシャマルの当番ですので﹂
﹁そうなん?﹂
﹁もうすこし、お傍に居ても?﹂
﹁……うん﹂
いよいよ隠せぬ喜色に。置いてゆかねばならぬ、﹁もうすこし﹂の後を思うと胸が痛んだ。
それには気づかぬ風で、身を起こしたはやてが申し訳なさげに問うた。
﹁昨日なに食べたか、訊いてもええか?﹂
﹁はい。昨夜はヴィータがご近所の方に美味しい味噌を頂いたので、皆で鍋を﹂
﹁そうか﹂
なにかお返しせんとあかんな……と思案しかけるはやてに。
﹁茶菓子を用意して、持たせました﹂
﹁ぬかりないなぁ﹂
安心した様子に解れて、シグナムが微笑み返す。
﹁こんな事いちいち、訊いてごめんな?﹂
﹁いえ。﹂
皆でなんとかやっていると、伝わればいい。主と囲んだ食卓を思い浮かべながら、応じる嘘もずいぶんと上手くなった。
想い出の内の幸福は必ずや、取り戻す。
﹁あ、たまにはお肉とかも焼いてあげてや?﹂
ザフィーラが喜びそうなやつ、お願いな? などと明るに笑んだ主の声を胸の奥底へと深く深く刻んで。
﹁では、次の当番の時にでも﹂
シグナムが請負うと、うん、と頷く前髪が揺れた。
﹁他に質問はあるか?﹂
終始、事務的な言葉が選ばれていたが、最後まで配慮の行き届いたあたたかな口調は揺るぎないまま。
後日予定されている主への取り調べも彼が担当してくれると聞き、安心を覚える。
取調室というには何処か開放的な雰囲気を持った部屋を後にする。
次いで出た執務官と並んで歩く。不躾は承知で、シグナムは小さな口火を切った。
﹁ひとつだけ、訊きたい事がある﹂
上目にこちらを振り仰いだ執務官は小さく頷き、先を促す。
﹁あの夜、リインフォースがなにを望んだのか、教えてはもらえないだろうか﹂
少し間があった。
﹁……君はどこまで知っている?﹂
﹁取引をした、と﹂
唐突に、場に切られたカード。黒衣の執務官は、ふむ、と小さく吐いて。
﹁……それは事実にほど近いが、正確ではない﹂
僅かに伏せられた睫毛の奥に苦渋が浮かび、すぐに消えた。
﹁夜天の魔導書の管制人格の申し出は
あくまで、主である八神はやての今後を懸念しての結果だった﹂
彼本来の表情を取り戻したクロノ・ハラオウンからは、もはや読み取れるものはないように思えた。
﹁――やれやれ、答えになっていないな﹂
小さく、すまない、と告げる黒衣の執務官の表情を見送る。
﹁いや。十分だ。ありがとう﹂
これ以上、答えられることなど無いのだろう。
﹁我々が為すべき事は理解している。なんの問題も無い﹂
右手を差し出したシグナムに応じるクロノ。
﹁チャンスを与えてくれた貴方には感謝している、クロノ・ハラオウン執務官﹂
――貴方の母上にも。
一度きり交えた剣と言葉。深い想いの隠った眼差し。面影は、彼に重なる。
これが血というものか、とシグナムは彼岸を見る。
﹁これからも、よろしく頼む﹂
その思いを知らず、年相応の笑顔を残して、クロノの背は足早に消えた。
†
﹁フェイトちゃん、わざわざありがとうな﹂
アースラの艦内へはハラオウン家に設置された転送ポートからの移動となる。足の不自由なはやての介添えを、迷惑でなければ、とフェイトがかって出てくれた。
﹁……うん。﹂
静かに頷く様子に、ことさら明るく振りあおぐ。
﹁どうかしたん?﹂
﹁ん?﹂
傾ぐ白い頬にさらりと金の髪が伝い流れる。
﹁どうもしないよ﹂
はやては? とは訊かなかった。
……かつて、この時を迎えた自分は、何を考えていただろう?
﹁あ、﹂
先を見ていたはやてが小さく手を振る。
その先に、クロノの姿を認めて、フェイトは足を止めた。
﹁八神はやて、少し構わないか?﹂
﹁はい﹂
﹁代わろう﹂
はやての傍らに回った親友に改めて礼を返すと、後でまた、と告げ、フェイトが去った。
﹁すまない。どうしても本局に移動する前に君に伝えておきたいことがあって﹂
﹁いえ。﹂
執務上、取り調べ対象である自分とこのような形で接触するのは本来ならば好ましくない
ことなのではないだろうか。そんな状況でこうして話をしに出向いてくれているクロノに、
はやては感謝こそすれ。
﹁調書に記載する概略と模範回答には目を通してくれたか?﹂
﹁はい、なのはちゃんとユーノくんがアドバイスも添えてくれました﹂
﹁そうか。……分かりにくい点や疑問に思う点、著しく事実と異なる点は無かったか?﹂
﹁今のところは、ありません﹂
﹁そうか﹂
ここでようやく、クロノの声の緊張がわずかに緩んだ。
﹁承知のように、記録上は、管制融合騎は防衛システム内に居て、アルカンシェルで
消滅したことになっている。リインフォースの名も存在も、公には伏せてある﹂
抑えられた声は、確かにはやてのもとに届く。
﹁くれぐれも、頼む﹂
ちいさく頷く。
﹁古代ベルカの先進的な技術についての研究が始まったのは最近のことだ。
今回ユーノが無限書庫で掘り起こしてきた資料が見つかるまでは、
ごく一部の例外を除けば、歴史的に存在することすらミッドでは意識されてこなかった﹂
﹁そうなんですか……﹂
管理外世界の住人であるはやてにはなおのこと、ピンとこない話だ。
﹁失われた古代の超技術の遺産、ロストロギアについて、詳細な情報はどこにも存在しないし、
正しい知識を持つ者はいない。そもそも存在そのものを知る者も少ない。﹂
クロノやはやてのように、不幸にして関わりを持ってしまった者以外は。
﹁君たちの保護と身元の保証に、古代ベルカ時代の信仰の流れを汲む、
聖王教会というところが名乗りをあげてくれている。
条件は、君と君の守護騎士たちの持つ古代ベルカの技術と知識を、
教会の歴史研究に役立てるための協力をすること。﹂
﹁協力……ですか﹂
﹁要請はあくまで歴史研究への協力のみに限定されるし、勿論、拒否権もある。
協力したくなければ手を貸さなくていいし、話したくないことは話さなくて構わない﹂
﹁はい……﹂
思慮に入りかけたはやてを察して。
﹁今は答えなくていい。聖王教会に親しい友人が居るんだ。
一度会ってみてくれないか? その上で、皆で相談して決めてくれればいい﹂
﹁はい﹂
微笑み、頷く。前を向き直るタイミングで不意に途切れて、クロノの目には、途端に寂寥の翳がさしたように見えた。
﹁あの、ハラオウン執務官……﹂
﹁クロノで構わない﹂
﹁では、クロノさん﹂
穏やかに進められる車椅子の上。
﹁……なんで、リインフォース……管制融合騎について、嘘を?﹂
﹁嘘ではないよ。方便と言ってくれ﹂
クロノは、やわらかに微笑んで。
﹁約束をしたんだ﹂
﹁約束……?﹂
﹁いつかまた、話そう。﹂
ハラオウン家のあるマンションのロビー。フェイトとアルフが手を振ってくれていた。
†
﹁なにか質問は?﹂
﹁ありません﹂
独特のイントネーションで答えが返る事にも、短い時間で随分慣れた。
﹁ではここまでだ。お疲れさま。﹂
この部屋に窓はなかったが、不思議と陽だまりのうちに在るような雰囲気がそこかしこに
感じられる気がした。取り調べを受ける、などという不穏な状況に自分があることを極力、
思い起こさせぬよう、この場を手配し、終始穏やかに語りかけてくれたクロノ・ハラオウン
執務官の気遣いに、感謝は尽きなかった。
﹁八神はやて﹂
だからこそ、改まって呼ばれた名が先程までの柔らかさをいささか欠いている事に気づいて、はやては身をかたくする。継がれた言葉は呼吸のように穏やかだった。
﹁……僕を恨みに思ってくれていい﹂
﹁とんでもない!﹂
目を丸くして、一際大きな声をあげ、はやてが首を振る。
﹁――君を殺していたかもしれない﹂
﹁それは…… しょうがないです、あないな状況で――﹂
﹁君の家族もだ。﹂
クロノのそれは迷いの無い口調だった。困惑に押し黙ったはやての眉が寄る。
﹁でも。ちゃんと助けてくれた﹂
困ったように微笑み、はやては持ち前の穏やかな声で継ぐ。
﹁それに。それを云われるなら、私もおんなじですから﹂
僅かに沈んだ声に思えて、クロノがゆるりと視線を上げる。はやてのてのひらの上に、拘束の術式が結ばれていた。有機の構成式は蔦が根をはるように空間に蔓延りはじめる。
﹁見覚え、あるかもわかりませんね﹂
クロノは答えない。紡がれた魔力は、縛るものに巡りあえぬまま、くすぶりながら塊を成した後に収縮し、やがて臨に達して、散り砕けた。
はやてが余韻を握りしめるのを見つめ、表情を消したままのクロノの様子が、すべてを物語ってしまっている。
﹁闇の書の管理責任は、今は私にあるから――﹂
ゆっくりとこちらに向かう、真っ直ぐな、夜の瞳。
﹁二度とあんな思いは、繰り返させません。﹂
ひたむきであるが故に、危うい。
儚い微笑みの奥に、かの紅き耀きを宿して。
この途をゆくのだと、固い決意を燈して。
深い一礼を残し、はやてが去った後も。クロノはその場を動くことができなかった。
――魔力使用制限と所在地認証はがっちりつけさせてもらうけど。
†
﹁というわけで!﹂
シャマルが口火を切る。主不在のリビング。
﹁魔力制限下で、如何にして、主はやてを守護するか、か﹂
シグナムが継いだ。足元に控えていたザフィーラが鼻先をあげる。
﹁んーなもん、知ったことか! 何が来ようがぶっ叩く!﹂
﹁ダメよ、ヴィータちゃん。はやてちゃんに迷惑かかっちゃうじゃないのー﹂
うっ。
﹁それに、当面はデバイスも制限対象だろう﹂
﹁私とザフィーラは、まあいいとして﹂
シャマルの背後で、がさがさと音がする。
﹁二人にはこれを。﹂
﹁待てシャマル、今その袋をどこから出した?﹂
﹁ん? ……シグナムには内緒。﹂
早速、頭を抱える将。
﹁なにコレ?﹂
スポーツ用品店の長い袋を手渡されたヴィータが首を傾げつつ受けとる。
﹁合法的、かつ合理的に選んでみました!﹂
﹁うお、ゲートボールスティック!﹂
﹁最新型よー﹂
﹁チタン&グラスファイバー!……すっげー嬉しいけど、ちょっとだけ喜べねー!﹂
﹁あら、ヴィータちゃん、どうしたの?﹂
﹁シャマル、軽すぎては武器としての威力と強度が落ちるだろう……﹂
﹁あ、そっか﹂
﹁いいよいいよ。これまで使ってたやつ護身用に回すから﹂
深紅のスティックを握りしめ、ヴィータがキラキラしている。
素振りの様を見て、なるほど、軽い分、手数は増やせるかもしれないな、などと武器としての値踏みを始めたシグナムに、差し出されたのは。
﹁金属バットか﹂
﹁ほら、ご近所さんに出会っちゃった時、竹刀や木刀下げていたんじゃあんまりじゃない?﹂
有事の際にシグナムがバットを振り回しているさまは﹁あんまり﹂ではないのか、些か疑問に思えたが、いつも通りザフィーラは黙っている。
﹁何事も起こらないことを祈るしかないな﹂
シグナムがため息をつく。
﹁管理局でのお仕事が始まれば、じき制限もなくなるわ。
でも、それまで丸腰じゃ不安でしょ?﹂
それにー、と、またどこからともなく取り出した何かを両手に持っているシャマル。今度は綺麗にラッピングされた箱。
﹁はやてちゃんのお手製バッグ付きなのよ?﹂
﹁マジで!?﹂
跳び跳ねん勢いで喜ぶヴィータの隣で、ぐったりと肩を落としたシグナム。
嬉しいやら申し訳ないやら……
﹁シグナムには帽子もあるわよ?﹂
いずこからともなく取り出された野球帽を手に、シャマルが微笑って追い討つ。
﹁だからお前は何処からそれを……﹂
﹁なーいしょ。﹂
†
﹁心配かけてもうて、ごめんな﹂
皆の話を聞きながら、申し訳なさそうにそう謝って。
﹁管理局の保護観察いうくらいやから局の方も見てくれてはるんやろうし、
私は気にしとらへんかったけど、皆にしたら要らん心配が増えてしまうんよね﹂
うーん、と考え込むはやて。
﹁いざとなったら、なのはちゃんもフェイトちゃんも来てくれると思うし、
まあ大丈夫なんとちがうかな﹂
﹁そうですね﹂
――ありゃ。
朗らかに相槌つシャマルと明らかに不満げなヴィータの陰で物憂げな顔を隠したシグナムをはやてはきちんと見てとっていた。
†
今宵の月は、高く昇った先でもまだ広く夜を照らして、齢を誇るかのようだった。
月下、音もせぬほどの早さと精密さで鋭く振り抜かれ続ける金属バット。
はやては声をかけるタイミングを完全に逸していた。
﹁今夜の月は明るいなあ﹂
仕方なしに、言葉を投げる。ようやく手を止めて振り返った将は、汗ひとつかいてはいない。
膝に肘をついた手を顎下に添え、バットの往復を数え飽きたはやての姿を一目で解して、
シグナムは申し訳なさそうな顔をした。
﹁すみません、ご用でしたか﹂
﹁ううん、ただの見学や。気にせんといて﹂
……気になります。
なら、もう少し早よう気にしよか。
すみません。
くすくすと転がる鈴のような笑顔が申し訳なさにしおれるシグナムに添う。
﹁で、どこのチームに入る気なん?﹂
﹁手始めに、主が帽子を下さったチームを目指します﹂
﹁あ。あっこはあかんよ、監督が好かん﹂
﹁そうですか﹂
はやては暫く抑えた笑みをこぼして。
﹁ごめんな。皆の事、頼りにしてへんのとちがうよ?﹂
とりなした表情に。
﹁何かの縁で皆に逢えて、こうして一緒に居れるようになって――﹂
ほんまに、うれしい。
そう言って、また微笑って。傍らに膝をついたシグナムを見つめて、はやては静かに継いだ。
﹁あの子に力を貰ろたから、ちゃんと使えるようになりたい﹂
胸元の剣十字に寄せた小さな手。まっすぐな想いが言葉に伝う。
﹁シグナムも手伝うてくれる?﹂
﹁はい﹂
声になったか、知れない。
﹁ほんなら、騎士のバットに誓うてな?﹂
明るい月灯りのもとで、はやてがまた笑った。
﹁ここをこないして……﹂
ソファーの上に広げた本を後ろに、見ては戻りして、手元に注意を払うはやて。
それをはらはらと見下ろすシグナムの襟元が詰まる。
﹁こうかなあ﹂
﹁あの、主はやて……﹂
﹁んー? なんや?﹂
﹁自分でできますので……﹂
﹁えー、あかんよー﹂
顔にありあり描いた『やってみたい』を見て取って、噤むシグナム。
﹁最初の長さの加減がまだよう分からへん﹂
むー、と難しそうな顔でひとりごち、再び挑戦の様相。
――外すのは随分と上達されたのだがな。
襟首に軽く、しゅうと衣擦れる感触を覚えつつ、そんなことを考えている。
管理局の制服が支給された日。
主にせがまれ、着替えはじめたシグナムの傍。真新しい箱から袋詰めされたシャツやら上着やら小物やらをてきぱきと取り出しては手渡してくれるはやてに恐縮しながら身につけていくシグナム。ふとはやてが手を止めて。
﹁シグナムがシャツの釦、上から留められるようになったん、いつやっけ?﹂
﹁……﹂
どうかお忘れください、主はやて。
ふふふ。冗談や。
でもそれからも、ようシャマルにぐいち直されとったよなぁ。
ころころと可笑しそうに笑いながらこちらを見上げていたはやては、先だってから手にしたネクタイを渡してくれない。
先に渡されたジャケットを着るに着られず、シグナムが戸惑っていると。
﹁前からやってみたかってんよ﹂
一層にっこりと笑って手招いてみせたのは、かれこれ30分ほど前の事。
﹁やっぱり旦那様のネクタイくらい、結べんとあかんやろ?﹂
――ネクタイを自分で結べないような旦那様では困ります。
とは、さすがに言えず。
﹁こうして……こう、や!﹂
﹁お見事です﹂
ようやく喜色に彩られた主の頬を見て、シグナムが微笑み返した。
﹁ヴィータ、ネクタイ結んだろ﹂
﹁あ、ありがと、はやて。﹂
車椅子の主の傍、ヴィータがYシャツ姿でのり出すと、手にしたネクタイをのりのきいた
襟奥にしゅると通して、鼻唄混じりに結びはじめる。
﹁あーっ、ヴィータちゃん、ずるいー﹂
シャマルが自分のネクタイを掴んで寄った。
――お前は良いのか、シグナム?
こちらに鼻先を向けたザフィーラに、ひそめた苦笑で返せば。
――そうか。
委細、通じたようだった。
﹁ふあー﹂
見上げる。遠目にも大きかった海縁に建つ観覧車はその麓まで来るといよいよ聳えて、
思いきり首を上げなければ視界に収まらない。車椅子の背に後ろ髪が擦れるのを気にした
途端、ちょうど一番上に差し掛かろうとするゴンドラの窓が明るく陽を照り返した。
﹁主はやて、失礼します﹂
﹁あ、うん﹂
眩しさにくらむ瞳で返事をすると、さらりと抱えあげられて。
シグナムがステップを上がっていく。三人分のチケットを受け取ったヴィータが後ろに
跳ねるように続いた。
車椅子をシャマルが預かり、ふうわりと見送ってくれるのが、シグナムの揺れる髪越し
に、見える。小さく手を振る。
†
からん、と入り口の錠が下ろされる音を背に聞きながら座席にはやてを下ろすと、礼の
言葉がやわらかく耳に届く。
と、ヴィータが自分を見上げているのに気づいて。
﹁シグナムはあっちだ、あっち。﹂
小声にもかかわらず伝わる必死な様子を心得て、対角に腰を下ろす。こらえ切れなかった
口端の笑みを見咎めたヴィータがばつの悪そうな顔をした。
﹁いやー、やっぱり飛ぶんとはちゃうなぁ﹂
﹁そうだな﹂
﹁安心して周りが見てられるよ﹂
﹁そうなのか?﹂
返すヴィータは、どこか不安げ。
﹁自分で飛ぶんは、まだヒヤヒヤやからなぁ﹂
そう言って笑って、はやては頭をかいたけれど。
――あたしはどちらかといえば今のほうがヒヤヒヤだよ、はやて……。
ゴンドラが、かたこと小さく揺れるたび、ヴィータの複雑な横顔も揺れる。
骨太の土台を斜めに抜けて、一面に景色が広がった。
ゴンドラの内にあった陰の湿気が、からりと乾いた空気に瞬時に入れかわる。
﹁あっちに白い船がおるよ、ヴィータ﹂
﹁え、どこどこ?﹂
窓に張りつき景色を追う二人の背中越しに、澄みきって見える海は陽を明るく照らし輝く。
わずかなスリットの窓の空から、海の香りを孕んだ風が届いた気がした。
見れば、遠く足元でシャマルが眩しげに見上げている。皆で手を振ると、白い手が大きく
振り返された。
ゴンドラが頂点に届く。かたん、と乗り越え揺れたのを合図に、すいと席を立つシグナム
に気づいて、はやてが手を伸べる。きい、と微かに傾いたゴンドラに、すっかり抜けたかと
思えた不安が再び過ぎったか、ヴィータの横顔が一瞬翳った。もうさっきほどではない。
構わず抱き上げた主を、改めて自分の居た対角の席へ連れると、ふわりと微笑みが返る。
﹁ありがとうな、シグナム﹂
青く抜ける空にくっきりと浮かんだ雲を背に、陽を浴びて輝く微笑み。何物にも代えがたい日常のまわりを、一際明るい汐風がまた吹いて抜けた。
真夜中に目が覚めて。頬にひっかかる。
それがあると、ああ、また泣いてしもうてたんやな、と思う。
隣には、うさぎさんを抱えたヴィータが眠っている。
触れてみたことはないけど、その手に私の涙を拭ってくれたあとがあることを知っている。
私はもう、ひとりやなくて、たくさんの人に、護られてる。
嬉しくて、ありがたくて、申し訳なくて、寂しくて…… 今度は何か判らん涙が出てきそうになって、堪えた。
†
居間でザフィーラに寄りかかって眠ってしまった私は、気づけばいつものようにベッドの上。
視界が闇に慣れ、部屋の輪郭をじきに取り戻す。
窓の外、月灯かりがふうわりとさして、青く部屋をひんやりと満たしている。
その日はヴィータが居なくて。代わりにシグナムがついてくれていた。
――シグナム?
放っておくと、椅子の上で一晩過ごしてしまうこともあるシグナムを小声でそおっと呼んでみるけれど。
今夜は寝たふりしとるんかな。
……もしかしたら、ほんまに寝とるんかも? ……どうやろか。
規則正しい息遣いは起きている時ですら乱れることがあまりない。
せやから呼吸だけでシグナムの狸寝入りを見破るんは、今はまだちょぉ、難しい。
だからいうて、ここでごそごそ動いたりとか、身でも起こそうものなら、たとえ隣の部屋で寝てても飛び起きて、とんでくる子やし。
横目に枕元の時計の針を盗み見て、子どもの時間とはかけ離れた真夜中に、私は思案した。
あ。あかん――
﹁っくし﹂
ついて出た小さなくしゃみが静まりきった部屋の空気を派手に震わせて。ゆるりと眼を開いたシグナムの蒼と、しかと目が合う。
﹁おはよう、シグナム﹂
上掛けをかけ直しに寄るのを、申し訳なく見上げる。
﹁起こしてもうて、ごめんな﹂
﹁今夜は随分と冷えます。寒くはありませんか?﹂
いつものように、平気や、と答えかけ、ふと噤む。
﹁そうやね、目、覚めてしもうた﹂
ここ数日で急に冷えこみはじめた秋の訪れ。
ついこの間までヴィータとふたり汗だくになって寝苦しかった気がしとったのになあ。
そうや。目が覚めたんは、急な寒さのせい、やから。
肩口まで引き上げられた羽布団はちゃんとふんわり暖かかったけれど。
﹁ちょお寒いし、いっしょに寝よ?﹂
小さな欠伸を噛んで、誘う。微笑んで頷いてくれた姿に、ほっとする。布団が冷えた夜気をはらまぬよう細心を払いつつ、すいと隣に身を滑らせるシグナムの、ひんやりした夜着の裾をつかんで額を寄せる。前髪の冷たさは、あたたかな胸元にじきに紛れてわからなくなった。
しばらくして、先ほどの欠伸がもたらした雫の欠片が指先でぬぐわれていく。
手、ぬくいね、シグナム。
シグナムは改めて掛け布団を引き上げて、襟元にあったわずかな隙間をそっと埋めてくれた。
﹁うーん﹂
蒼天の書を開き、短く詠んだ。
現した幾つかの術式と綴りをさらう。
珍しく言葉になった戸惑いは自覚していて、その後に続いた溜め息に似たそれは、ことさら慎重に吐き出す。
今日のフィールドは深林の設定。小回りの利きにくい環境。
目標の姿も総数も、未だ捕捉しきれていない。
折り重ねて迫る枝に狭められている細い細い空を上目に、恨めしく見上げてみた。
あの日の光景を憶えている。
無意識下の裡に眠っていたはずだから、正確に云えば私の記憶ではなかったのだろうけれど。
――いっそ、薙ぎ倒して進めたら楽やろか。なぁ? リインフォース。
肩の力が抜けた気がした。
左手で帽子をかぶり直して、口許が笑みに弛むのを隠した。
富んだ森の土に両足をついて立つ。
やわらかくぬかるむ、あたたかな感触。
試してみたいプランをいくつかセットして、表情を引き締める。
風が薙いだ。
黒翼が、音もなく閃いた。
今年の桜は早足で、もうすっかり葉桜だ。
それでも。
吹く度ごとの風に乗り、何処からともなく、しろい花びらが舞い散る。
さっきからもうずいぶんと自由にならなくなってきていた足を止め、音のない風を聴く。
雪をみているようだった。
遊歩道を桜色に染め、道の端への淡いグラデーションを重ねていく。
今日は風が強い日だ。
花冷えに冴えた風は、瞳に滲み入るようで思わず伏せて。
葉々の重なるさざめきと、木漏れのゆれる影が瞼のうらを掠める。
それをきっかけにまた前を向き、歩く。
芽吹いたばかりの若い緑が鮮やかに枝々を彩る頃の、初夏の匂いを待ちわびる。
首筋にうすく張りついた汗をひやりと風が撫でた。髪をさらって枝先へ抜け、花びらを伴い逃げてゆく。
追い風に変わる向きにのせ、高台の桜は淡く一際、街を彩る。
﹁はやて﹂
桜色の道を駆けてくる声。
﹁あったかいのと冷たいの、どっちがいい?﹂
息も切らさず戻った姿に。
﹁温かいのがええかな﹂
﹁はい、じゃあこれ。おつかれさま﹂
差し出されたペットボトルのお茶、ふたはすでに緩められていて。
﹁おおきにな、ヴィータ﹂
﹁……はやて、汗かいてるじゃんか﹂
タオルを取りにベンチに駆けていく背を見送りながら、ゆるく湯気のたつペットボトルを
くわえる。
﹁そろそろ帰ろっか?﹂
﹁んー……﹂
口許の飲み口の湯気に混じって考え中の声が篭った。
﹁もうちょっとだけ、居ってもええか?﹂
﹁うん、いいよ﹂
冷たい方のペットボトルを片手に、にかっと笑って。
﹁いざとなったら背負って帰ってあげるからね﹂
﹁あはは、それならまだまだ安心や﹂
半分になったペットボトルを受けとるヴィータ。
はやての首もとにタオルがふわと添う。
みどり芽生える桜の丘で、翻りながら陽を受けひらめく花弁を連れて、ゆっくりと時の風が流れていた。
﹁で、リインは何を拗ねてるん?﹂
そっと小声で聞いたはやてに、シャマルの穏やかな苦笑が返る。
﹁今日、本局からの帰りに、はやてちゃんが居なかったので、
どこにいったのか? って訊かれて﹂
今日から学校やってんけど。
いつもとちゃう制服や云うて、昨日の晩、大騒ぎしとったのになぁ。
まぁ、わからんよな。
﹁レイジングハートやバルディッシュはマスターと一緒だって聞いて、拗ねてしまって﹂
﹁あー。リインはデバイスとはちゃうからなあ。﹂
持ち込み、ならぬ連れ込みか。
﹁ちょお難しいね﹂
苦笑の中にも、いとおしさを隠せずに。
﹁ええ。でも普段はそんなわがままをいう子ではないので、
よほど淋しかったんじゃないかなって﹂
﹁そうやね﹂
†
﹁ちょっとだけ……﹂
壁の陰に沿い、目立たぬように窓辺へと飛んだ。
おんなじ窓がたくさんたくさん並んでいたけれど、目当ての教室からは、ふんわりとした
はやての気配がしていて、ちゃんとわかった。
リインはなんだか嬉しくなって、ひょいっと覗く。
﹁あ。﹂
みつかっちゃった!
頬杖模様でぼんやり窓の外を眺めていたはやてと、ばっちり視線まで合ってしまう。
ぱくっと半分ひらいた互いの口を見あっている場合ではない。
ひゃあ、と叫びそうになったのを乾いた喉に飲み込んで、慌てて引っ込む。
はやてちゃん、まんまるの目、してたです……。
――リイン。
優しい声の念話が呼んだ。
――……。
――おーい、リイン? 聞こえとるか?
――はい……です。
――飛びながらでは、しんどいか?
――へいき、です。
――そうか。……えーっと、あのな?
――はいです。
――ちょお、髪の毛が見えとるんよー
はわわわっ。
風に煽られるまま、ぴろんと飛び出ていた髪を押さえる。
――来てしもうたん?
――わ、忘れ物を届けに来たです!
――そうなんや! ありがとうな。……はて、なにを忘れたんやろ?
――提出するプリントだそうですよ。
――おお、あれかあ。
きっと、シャマルが持たせてくれたんやね。
――もうすぐお昼休みやから、もう少し待っててくれるか?
――はいです。
ちょっとだけ、小声に絞れる。
ホントは、休憩の時間もちゃんと聞いていたです……
はやてはそっと見逃して、構わずに話を継いでいる。
――中庭に木があるやろ? そこに居ってな。……フルサイズやったら、
待ち合いが使えるんやろけど、まだリインには維持が難しいやろうし。
――はやてちゃん。
――んー?
――フルサイズ、挑戦してみて良いですか?
――あはは、そうか。了解。アシストするよ。
――はいです。
きっぱりと小気味よい返事に、リインの気合いと決意が映りこんでいるようで。
余韻の中、チャイムが鳴りはじめる。
――校門に受付があるから、そこで手続きしとってな。すぐ迎えに行くよ。
†
﹁――で、こんな具合なんか﹂
制服を脱ぎながら、はやてが微笑む。
﹁帰ってきてすぐに、あまりにもよれよれだったもので、
見かねてシャマルが休むように、と……﹂
すやすやと居間のソファーの上、寝息をたてるリインフォースⅡ。
﹁30分くらいはフルサイズで頑張っとったもんな、リイン?﹂
深く眠るのを見計らい、吸気に添えてケットを引き上げてやると、ふにと吐息を洩らして
髪が揺れる。楽しげな夢を観ているのか、穏やかな笑みが寝顔を彩る。
﹁リインも夢て、みるんかなあ?﹂
﹁よく話をしてくれますよ﹂
﹁そうなん? ……私、聴いたことないけど﹂
﹁そのうち、話してくれると思います﹂
シグナムが微笑んでぼやかすのを、不思議そうに見上げて、そうか? と傾げて。
主と家族に彩られたリインフォースの見る夢が語られるのは、まだ少し先の事。
本局の廊下で私を呼び止めた白衣の人。
﹁夜天の魔導書の装丁、ですか?﹂
﹁うん。殆ど資料がなくてねー﹂
﹁それは……そうでしょうね﹂
質問の奥に在る意図を図りかね、申し訳ないなぁと思いながら、曖昧に答える。
オリジナルの夜天の魔導書について、私が知っていることなど実のところ、ほとんどない。課せられている守秘に係らない範囲で答えられることとなってくると、さらに少なかったし、その上、注意深くこなすことを余儀なくされるから、世間話ですら気を遣う。
﹁革張りで良いんだよね?﹂
そう云って白衣の人――マリエル技官がごそごそと何かを取り出す様子をぼんやりと視界に収めながら、私はそんなことを由なく考えていた。
﹁画像データの色彩分析であたりをつけてみたんだけど、
映像と色だけじゃぁ、なーっかなか、ねぇ﹂
綺麗に切り揃えられ整えられたそれは、とんでもない数の革のサンプルだった。何でもないことのように何気なく差し出され、受けとる。今ここで私の手に至るまでの間にも選び抜かれ、絞り込まれた上での結果なのだと容易に推察できた。
言葉を失った私を不思議そうに見て。
﹁はやてちゃん?﹂
﹁……ありがとう、ございます﹂
深く頭を下げたせいで、なんとか絞り出した言葉がぐっと胸に詰まった。
﹁あと、本文の用紙サンプルもあるから……大変だけどよろしくね﹂
――ぴったりのが見つかるまで、ゆっくり選んでくれていいから。
眼鏡の奥の瞳が本当に楽しげに微笑んでくれていた。
†
真夜中に覚めると、読書灯の頼りない灯りのもと、物音ひとつしない部屋。
自分の吐く呼吸の満ち引きだけがやたらと耳についた。
枕元に置いた本の、革張りの背を撫でる。肌に吸い付くような感触が心地よくて。やがて、戒めの鎖が指先に行き当たる。軽く引っ張ってみれば、表紙の慣れた位置の擦れ跡に食い込もうとするから、引くのをやめ、宥めるように冷たい鎖をなぞる。
小口から、ぴったり重なる頁の断面を辿るとやがてはやはり鎖に行き当たる。指をくぐらせ、鎖を引く。ちり、と鎖の擦れる音がして、また表紙を食もうとするので、あわてて指を抜いた。
――いつか、読めるやろか。
抱くように引き寄せ、革表紙の室温に等しい温みと、鎖が孕む夜の冷たさを胸元に置く。
こうしていると、自分の心音が本の奥底に染みるようなこころもちがして、妙に安心する。
欠伸を噛んでそのまま、読書灯の灯りの届かない部屋の隅まで視線で幾度も辿って、睡夢にのみ込まれていくのを待つだけだった。
いまはもう、遠い夜のこと。
†
﹁それ、何?﹂
ヴィータが問うと、はやてはゆっくりと顔を起こす。
﹁夜天の魔導書の表紙の候補やて﹂
﹁ふうん﹂
﹁ヴィータもみてくれる?﹂
﹁……うん﹂
大切な物のように慎重に扱うはやての様子から、手を伸ばすのを一瞬、躊躇う。
穏やかに見守る目線にそっと背を押されて、やっとのことで触れたら、どこか懐かしい革の匂いが浅く薫った。
学用品の支度を整え、アイロンをあてた制服を掛ける。髪留めをはずして、机に置いて。
はやては一日の最後の仕事に取りかかる。
﹁おやすみ、リイン﹂
﹁……はやてちゃん﹂
机のとなりに置かれている自室から、枕を両の手に抱えて呼ぶリインフォースⅡ。
普段からはきはきと応対する彼女にしては小さな声だったけれど、眠りの前の静かな部屋を渡り、きちんとはやてまで届く。
﹁んー?﹂
﹁今日、お泊まりしていってもいいですか?﹂
﹁ほえ?﹂
どこに?
……はやてちゃんち、です。
静かな部屋でも届くかどうか、といったくらいの声でちいさく応じた末っ子の意図を解して、はやてが微笑む。
﹁ええよ。泊まりにおいでー﹂
手招いたはやてに、リインフォースの笑顔がほころぶ。
†
﹁具合はどうや?﹂
﹁ふかふかでいい感じですー﹂
はやての枕に自分の枕を重ねて、ほふほふと足をばたつかせながら御機嫌のリインが応える。
﹁えへへ﹂
﹁眠れそうか?﹂
部屋からケットをひっぱりだして掛けてやるのを受け取って、ぺこりと下げる頭にふうわりと銀の髪が揺れる。
﹁ほな、電気消すよ﹂
はいです、とやや緊張した面持ちのリイン。普段の彼女、自室のベッドのサイドテーブルのフットライトをつけて眠ることをはやては心得ていたけれど。
訪れた夜が部屋に満ちて、闇に目が慣れるまでの時間。
﹁なんだか、寝ちゃうのがもったいないです﹂
﹁うーん、でもちゃんと寝な、保たへんよ?﹂
なるべくそおっと布団に入り、慎重に枕への位置をはかりつつ寝床を定めたはやて。
﹁じゃあ、ちょっとだけおしゃべりしよか?﹂
﹁はいです。﹂
﹁なんか聞きたいこととか、あるん?﹂
ええと。
﹁ちっちゃい頃の、はやてちゃんのこと、聞きたいです!﹂
ふむ、とあごに手をやり。
﹁でも私、リインくらいちっちゃかったことないからなあ﹂
枕元、跳ね起き﹁ぎゃぁ﹂とも﹁にゃぁ﹂ともつかぬ声をあげ不満を表すちっさいリイン。
﹁ヴィータくらいのちっささからなら覚えとるかなー?﹂
﹁どこまで冗談なのか、判断に苦しむですよー﹂
﹁あっはは、ごめんごめん﹂
からりと笑うはやてを、唇を尖らせたリインが枕でつつく。だんだんとそのペースが弛んで、やがて止まって。
はやてが振りあおぐと、リインがこちらを見ている。
﹁どないしたん?﹂
できるだけ穏やかに問うた。
﹁はやてちゃん、家族って何ですか?﹂
﹁んー?﹂
﹁……この間のチェックの時に私、うまく答えられなかったです。﹂
リインの知識レベルは、現時点では作成者のはやてに大きく依存する。元になる構築済みの基礎データはある程度、用意されたものの、あくまで最低限のベースに過ぎない。
リインの人格や経験は固有のもので、ひとつひとつが積み重ねられている途上。
現在は、はやての抱える膨大な魔導の情報を段階的に共有化している段階で適宜、習熟度のチェックも行われていた。
﹁そうやなあ、うちの家族はリインの知っとる定義とは、ちょう違っとったかもしれへんね﹂
うーん、と傾げて。
﹁一緒に生きていこうって想い合った人との間にできる、絆のことなんとちゃうかな﹂
﹁絆……﹂
うまく云えんけど、とはやてが笑う。
﹁じゃあもしも、もうイヤだー、ってどちらかが思ってしまったら、
もう家族じゃなくなるですか?﹂
﹁うーん。一回でも決めたら、ずーっと家族なんよ、きっと﹂
たとえ、道を違えても。
たとえ、死が途を別つとも。
﹁せやから、よくよく考えて決めなあかんよ?﹂
軽い口調にそぐわぬ深い想いを受けて、リインがはやてを見返す。
夜色の瞳に、映る。
﹁はいです﹂
ゆっくりと頷いて。
﹁でも、安心です﹂
﹁んー?﹂
﹁リインは、はやてちゃんやみんなと、もうずーっと家族、です﹂
﹁そうやよー。どんなに嫌になっても、もう離れられへんよー﹂
指先でくすぐられて、きゃー、とリインが転げまわる。
ひとしきり騒ぎ回ったあとには、耳に染みるような静寂と、ほの蒼い天井。
﹁あのね、はやてちゃん﹂
﹁んー、なんや?﹂
﹁……先代の、リインフォースのこと、聞きたいです。﹂
声音に微かに緊張が交じった気がした。なんとなく予測はついていた。微笑んだまま見れば、まっすぐな蒼天のまなざしが、じっとはやてをみていた。
﹁私も、知っとること、そんなにないんよ﹂
ゆっくりと紡がれる、はやてとリインフォースの想い出。
交わした言葉も、ふれあった時間もあまりに短すぎて。
寂しそうな横顔を隠せずに、それでも話してくれたはやての言葉、一言たりとも漏らすことなく聴き入って、リインは枕をぎゅっと抱いている。
﹁他の皆にも、聞いてみたらええと思うよ﹂
好きやったもんとか、もしわかったら教えてな? と微笑って。
その横顔は、どこか見知らぬ人の影のようで、リインはゆっくりと吸いこんだ胸いっぱいの息をしずかにしずかに、細くついた。
﹁……はやてちゃん﹂
﹁んー? これで眠れそうか?﹂
﹁……わかんないです﹂
﹁ありゃりゃ﹂
枕に埋めて表情が見えなくなったリインに向け、ほろ苦い笑みと共に、てのひらを差し出すはやて。
枕越し、リインがもぞと探ってそのひとさし指に手を置く。
﹁明日も本局やろ?﹂
﹁はいです。ヴィータちゃんと行くですよ﹂
﹁そうか。せっかく行く日なんやから、晴れたらええなあ﹂
﹁そうですねえ﹂
リインが祈りのように、置いた手にぎゅっと力を込めた。
﹁ほんなら、おやすみ。リイン﹂
﹁おやすみなさいです、はやてちゃん﹂
――おやすみなさい、リインフォース。
静かに今日も、夜が降る。
明日は、きっと晴れるですよ。はやてちゃん――
ひさかたぶりの、ふたり揃ってのオフ。
ミッドチルダから南へ、郊外へのドライブ。
パーキングに停めた車、助手席から降りたはやてを追い、リインフォースがひらりとドアをくぐった。
﹁ありがとう﹂
はやてが声をかけると、運転席で軽く手をあげ応じる姿。
﹁帰りは姐さんが迎えに来るそうなんで﹂
﹁了解ですー。ありがとうございました、ヴァイスさん﹂
ぺこり、とリインが下げた頭に、ふわりと長い銀の流れが添うた。
﹁お気をつけてな、おふたりさん﹂
おどけた敬礼に、きちりと隙なく敬礼で返すはやてを見て、リインがくすくす笑った。
なめらかにすべりだす車を、見えなくなるまで見送って。
下り坂、歩き出す。普段より大きなストライド。
肩の辺りに掴まって、リインはおしゃべりの続きに夢中。
そのうち、道はなだらかな上りにかわった。
目的地はあの小高い丘の先。
†
﹁んー! なかなか良い眺めやね﹂
﹁はいです!﹂
﹁気に入ったん?﹂
満面の笑みで大きく頷くリイン。高く照らす陽を浴びて、明るい髪がきらきらと一層に耀く。細められた瞳に、晴れ渡る空を余さず映し取り込む。
﹁じゃあ、ここに決めよか﹂
﹁他の皆はなんて言ってたですか?﹂
﹁それが、決定を一任されてしもうてて﹂
――はやてちゃんにお任せしまーす。
――何処なりとも、御一緒いたします。
――いーんだよ。はやてがいる場所が、あたしたちの場所なんだからさ。
皆の顔が順に想い浮かんで、はやては傾げて微笑って。
﹁ちょう困っとったから、リインが一緒に来てくれて、ほんま助かるよ﹂
﹁そうなんですかー﹂
――それにな?
小声で囁く。
﹁祝福の風が好む場所なら、間違いないやんか。なぁ?﹂
﹁うわー、責任重大ですぅ……﹂
﹁あはは﹂
﹁おっきいキッチンが良いです!﹂
ここから~、ここまで!と、ひらり舞うリインの軌跡を、見ひらいた瞳で追いかけて。
未来の間取りをふたり気ままに描いた。
﹁南向きに大きい窓も欲しいなぁ﹂
﹁屋上にテラスとか、どうですか?﹂
﹁うん、ええね﹂
少し先の砂浜から寄せる、波間を渡る潮風がリインの銀を追って揺らした。そのまま旋いで、はやての頬を心地よく撫で、とおり抜けていく。
――なぁ。ここやったら、ついてきてくれる?
波頭きらめく水平線と、晴れ渡る青空の交じりあう境、海の稜を潮風の速度でなぞりながらリインが浮かんでいた。
くるりと振り返って、はやてを見上げて。見守ってくれる。いつも変わらぬ、満面の笑みで。
遥か波頭にさざめく陽の雫に輝るリインが、ただ眩しくて、瞳を開けていられなくて傾げて微笑みを返した。
深く息をすいこめば、潮の気配、幽かに。私たちは確かに、ここにいる。
﹁さて。レールウェイの方にまわってみよか﹂
﹁はいです! 駅はあっちですよー、はやてちゃん﹂
しっかりと地図を頭に納めてきたらしいリインが道案内をかって出る。
ゆっくりと昇り続ける太陽。頂点まではまだ、これから。
陽射しを手のひらに透かして、抜けるような青空を見上げて。不意に浮かんだ思い付きを
気がつけば自然に口にしている。
﹁ちょっとだけ、砂浜、降りてみぃひんか?﹂
駅への道を差し示したまま、肩の辺りで振り返ったリイン、きょとんと見返す間近の瞳。
﹁ん?﹂
――えらいロード長いな。
はやては小首を傾げ、微笑んだ。
覚えたてのフルサイズ・アウトフレーム。
﹁リイン、手、繋ごか。﹂
﹁はいです! えへへ﹂
頬を桃色に染め、ふうわり綻ぶ蕾のようなリインに右手をさしのべた。
つながった手は幼子のようにあたたかで、はやての心を軽くする。
さらさらしたはやての右手につかまって、うっかりすり抜けてしまわないよう、ぎゅうと
握りかえして。
どこか懐かしい、海へ続く風景。
リインが半歩進んで腕を引き、歩き始めるのに、ゆったりついていく。
なだらかに続く、浜までの遊歩道。
サンダルが砂を蹴る。
調子が出てきたリインが、腕をぶんぶん振りはじめたものだから、半歩を追いつき、並んで歩く。
♪~
やがてリインの鼻先にリズムがうまれ、ちいさく歌が咲く。
ハナウタいながら歩くリインに、なんのうた?と訊ねた途端、鳴りやんだ。
見ると、唄い手は自覚がなかったらしく、うっすら頬をほの染めて。
﹁……ないしょですー﹂
﹁なんや、内緒かいな﹂
残念そうに眉を寄せたはやてを見上げてリインは、打ち明けようかと思い直しかけたけれど。
﹁――やっぱり、ないしょです﹂
春色の頬のままちいさく呟き、誤魔化すように前を向いて歩き始める。
緩んだ手と手をぎゅっと結びなおして、ノースリーブのワンピースが追い風に翻る。
はいはい、と笑ってはやてが続く。
海へ。
♪ はやてちゃんと 手をつなぐです~ ♪
♪ ヴィータちゃんじゃなくて リインですぅ~ ♪
♪ リインが 手をつなぐですぅ~ ♪
……やっぱり、これはナイショですっ。
普段なら、尽きぬ会話も時には、なんとなく途切れて。
――こういうときは、決して顔を見ないこと。
﹁ねぇはやて。飲むもの、買ってきてもいい?」
なくなっちゃった――と、空になった缶を振ってみせたヴィータが言えば、そうなんや、と吐息のように微笑む。
借り物の寝台は幾日ものあいだにすっかりと彼女の体温を覚えてしまっていて、絡めとったその人を決して離そうとはしなかった。
うんせ、と思ったよりもじんわりとした動きで椅子から立ち上がり部屋を後にする幼い背、小さく跳ねる紅い髪を細めた眼差しで見送る。
扉が静かに隔てると、ぬるい床の上に彼女は漸くと胸元を押さえて腰を折った。
浅くなる一方の呼吸を努めて深く、深く。あの子が帰ってきてしまう前に。
遠い祷りのように、繰り返す。
どうか、あと少しだけ。この傾ききった陽の名残がすっかりと落ちてしまう、それまでの間だけでええから――どうか。
辛そうな表貌、誰にもみせない。
見てほしくないんなら、見ないよ。
それはちょっとだけ寂しいことのような気もするけど、それをはやてが望むなら、今は。
ねえ、あと少しなんだ。あとほんのすこしで、手が届く。
空っぽの缶をことりとゴミ箱がのみ込んで。穴の向こうはまた暗い影になる。
動かぬ足はもはや感覚をも失って、遠く届かぬものとなった。労り擦るその手の温もりも、やわらかさも、拙さも、もうたぶん。
なのに、それでも。
﹁楽になったよ、ありがとう」
つむじの辺りに触れ振る声はいつだって労りに満ちていて。
﹁なんやちょう、眠なってきてしもた……」
﹁じゃあ、寝ちゃえ!」
掛け布をわっふと掴んで勢いよくはやての肩口まで引き上げてなおした。
﹁わぁ! ……もぉ。いま寝てしもうたら、夜に寝られへんなるやんかー」
﹁あ、そっか」
﹁うーん、でも……ちょお……眠い……」
からからと笑い声が引いてのち、こしこしと瞼を擦る手の陰にちいさく欠伸がおちてゆく。
﹁夜眠れなかったら呼んでいーよ。――こっそり来るよ、みんなで」
﹁そんなん云うてー。この間も帰るの遅なってめっちゃ怒られとったんやろ?」
﹁えっ、な、なん……のこと?」
﹁隠してもあかん――知っとるよー?」
くすくすと笑う顔を見ていると、なんだか無性に可笑しくて。
誤魔化すように、味のよくわからないままの缶を傾けた。
﹁なぁ、ヴィータ」
﹁なぁに、はやて?」
﹁手、つないどってもええ?」
うん、とふうわりと微笑み、繋がれた手は、普段のそれとかわりなどあるはずもないのに。
﹁ごめんな」
﹁ん、なにが?」
﹁ちっちゃい子、みたいやんか」
﹁いいじゃん、別に」
﹁そう?」
﹁ん」
熱い、指先が指の根を擦るのにまかせている。
﹁……ヴィータの手、ちょう、つめたいね」
﹁ご、ごめん! さっきジュース買ってきたから……」
慌ててひっこめかけた手は、思いもよらぬほど強く繋がれたまま。
﹁きもちええんよ」
﹁……なら、いいけどさ」
身体の奥に苦痛伴う熱を隠らせたはやてが少しでも心地いいというのなら、いい。
﹁眠れそう?」
﹁うん。…………寝てしもうたら、帰ってな?」
﹁じゃ、寝ないでよ、はやて」
﹁ええー?……そんなん、無理やわぁー。なんや今、めっちゃきもち、ええもん……」
瞼をみつめて微笑む。
痛みを退いて、すべるように眠れる魔法が使えたらと願うけど。
そんなもの、この手の内には無い。撃ち壊して進むことしかできやしない。だから。
今してあげられることは、たったひとつだけ。
†
﹁――ヴィータちゃん」
唐突に呼ばれ、ぎくりとする。隠したつもりだけれど……バレたろーな。
﹁んーだよ、起きたのか」
﹁うん」
﹁どうだ、具合」
﹁すごく、いいよ」
﹁そうか」
その眼差しは、いつかみたあの日のたった半分くらいしか、なくて。
﹁なんだか今日、すごく明るいね」
﹁そうだな」
﹁晴れてるの?」
﹁ああ。いい天気だよ」
くそ天気、ってやつだ、畜生。
﹁そっかぁー」
間のぬけたような口調は、なにひとつとして変わらないのに。
﹁ヴィータちゃん」
﹁……なんだ?」
﹁私が眠ったら、帰っていいよー」
﹁んーだよ、それ。待たねーよ」
﹁へへへ。」
重く閉ざされたカーテンの向こうの窓から、洩れ入る限りの僅かな陽光。
開け放して見せてやりたいところだけれど、きっとガラス越しの陽の重みすら今のコイツの体にはたぶん、重荷になる。
シーツに埋もれて彩の抜けおちた白く白く儚い横顔に落ちる、深い影。
﹁ねむいー」
視線をそらして、微笑みを貌ちどる。
﹁はやく、寝ちまえ」
うんざりとした声を繕う。膝の上の掌は、きつく結んだまま。
﹁…………えー。」
あたしにしてあげられることなんてない。
あたしにできる、たったひとつのことすらも、今は――
﹁えーじゃねぇ。ほら、とっとと寝ちまえよな」
﹁はいはい。……うん。」
喉の奥を軽く揺するように咳払い、それから呼吸を深くするに努めるのが判った。
……まぁ、帰った方がいいんだろうな。
だけど。
カーテンの向こうの窓の外に高々と昇るだろう陽を睨みつける。
﹁ほーら。もう寝たよー?」
﹁ウソつけ」
﹁ヴィータちゃんが声かけるから目がさめちゃうんだよ」
﹁そーかよ」
尖らせて塞ぐ。表貌までは見えてやしないだろう、けど。
……黙りこくったあたしに、ふうと吐く息みたいに。
﹁フェイトちゃん、もう帰った?」
﹁ああ」
﹁そっか」
あたしには、隠すことなく安堵をおとす。お前ってやつは、本当に……
﹁明日は、はやても来るってよ」
﹁あはは、うれしいな。よーし、やっぱり早く寝なくっちゃ!」
﹁何でだよ」
﹁早く会えるでしょう?」
﹁そうかよ」
﹁うん。」
動かぬ身体に押し込められた意識をもて余す、戸惑いも焦りも。
﹁……それで、早く治すんだぁ」
ふんわりと浮かぶ、雲の上へと突き抜けてゆく、迷わずに。
﹁――そーしてくれ」
﹁うん」
随分と浅くかけてた椅子の居心地の悪い生温さ、縫いつけられたみたいにあたしの爪先から伸びる影。
うす暗い静かな療の帳のうちに曖昧に交ざりあっていって、境は知れない。見極められない。
﹁ちょっぴり悔しいな」
﹁ん?」
﹁いま、きっとすっごくチャンスなのに、撫でられないや」
﹁撫でんな!」
﹁あははっ」
白い包帯の下、頬が緩む気配だけがした。
あたしがしてあげられることなんてたぶん、この先たったひとつきり。
﹁はやてちゃーん」
ひらひらと紙をひらめかせて寄る。
机からゆっくりと引き向き直ると、自信に満ちて口角を引いてまっすぐに眉を並べて。
﹁終わりました!」
﹁おお、はやいなぁ」
用紙を受け取り、さっと眺めみてのち、ふんわりと微笑む。
﹁うん、合うてるよ」
﹁やった!」
﹁さすがやねぇ」
跳ねんばかりに喜ぶリインとひとさし指で繋いだ。
﹁次の、今作っとるから、ちょう待っててな?」
﹁はいです!」
大きく頷いて、行ってしまおうとするリインを呼び留めた。
いつもなら肩の上だけれど、今日は。
﹁狭ない?」
﹁だいじょうぶです~」
膝掛けの上にちょこんと足を伸ばして座るつむじを見下ろし問えば、明朗に返る。
かたかたと鳴るキーの音。ウールの膝掛けの上、肌触りが落ち着かぬのか、伸ばした足を、
時折揺らしている。
細くて長く流れる銀糸は、デスクライトの落としたかけらを受けてひらめく。
――きれいや、なあ。
﹁?」
手を止め空けた左手で、そっと触れると振り仰ぎ返る、澄んだ蒼い瞳。
愛しい気持ちが指先伝いに触れて降る。
﹁どうしたですか?」
﹁きれいやなぁと思て」
﹁ほぇっ!?」
へへへ、と崩した相好に、頬染める。
﹁……えへへ」
拇指が細い細い髪をそっと梳いてゆく繊細でやわらかな感触に、砂糖細工がとろけるような笑顔をみせて。
﹁はやてちゃんの指は、きもちいいです。」
﹁そうかー?」
もっと撫でたろ、と笑みがまた降る。
﹁はやて、おかえ、りー…………?﹂
制服姿のまま、ふらふらと廊下を抜けきたはやての姿に。
﹁だいじょうぶ?﹂
﹁ただいま、ヴィータ……﹂
ふにゃりと笑うと、むぎゅっ、と音がみえるほどに抱きつかれて。
おぼつかぬ様子に、しっかりと腕を回し返す。
﹁ねぇはやて、だいじょうぶ?﹂
もう一度、訊ねみる。
赤毛に頬を乗せるように縋ってくるはやてが心配でならない。
つむじの辺りにぬくぬくと沁みてくる体温に囁きかけるように継いで問う。
﹁――どしたの?﹂
﹁どうもせぇへんよ?﹂
………。どうやら答える気はないらしい。
﹁わっ﹂
右手を引いて回し直して、慣れた様子で抱え上げる。
﹁ちょ、おろしてや﹂
﹁んー﹂
そのまま、すたすたと居間を抜け部屋へと連れる。
じたと暴れるのに構わずにいたら、すぐに大人しくなった。
ベッドに下ろす頃には、もうすっかりいつものはやての表貌をしてる。
﹁ヴィータ﹂
﹁んー? なぁに、はやて?﹂
﹁……ちょぉ寝る……﹂
﹁うん、それがいいよ。着替え取ってくる﹂
﹁自分でやるから、ええ……﹂
﹁いいからいいから――っ、て﹂
――はやて?
思いよらぬ強さで掴まれていた左手首に留められる。
﹁ちょぉ、寝る﹂
﹁……わかったよ﹂
ベッドにへたりこんだままのはやての傍へ寄ると、手首の熱がようやく緩んだ。繋ぐまま、空いた右手で俯いた額を撫でてやる。へへへ、と甘えた笑みが降る。
もっとあたしの掌がおっきかったらよかったのに――と、こんな夜はいつも思う。
照明を落としている間に、ころりと横たえられていく身を横目に追い、伏せられていく瞳の彩を慎重に観察してみる。
端を踏んづけてしまってたケットを取りなして、腰の辺りにかけてやる。
空調温度の調節に端末を開きなおしたら、眩しげに横顔をみつめられている。
﹁低めにしといて?﹂
﹁寒くないの?﹂
﹁うん。いっしょやったらきっと平気や﹂
返事に困って、ふぅんと曖昧に置く。
はやての表情は普段と変わらず、ただいつもよりは眠そうにみえた。
空いた傍らへそっと添えば、まだ新しい乾いたシャツの匂いがする。
じきに寝息をたてはじめたはやての、制服の襟を開く。左手は未だとられたまま。ちからの抜けきった指先を、振りほどく気にはどうしてもなれなかった。
ネクタイを引かずに緩めるのに少々難儀するけれど、時間ならまだ十分にあるだろう。
……なにがあったんだろうな。
それがわかる日は、きっと来ないけど。
自分はこうしているだけでいいのだと、知っているから。
ようやくと引き抜いたネクタイをぷらんと目前に掲げみる。まだ真新しいそれの堅い縁を
指でそっとなぞって。やがて飽きて手の甲からシーツの端にぽふと投げ出した。
触れる左肩はきちんとあたたかで。
明日も晴れたらいいのにな、と短く祈った。
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年10月18日 発行 第2版
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