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胃瘻の歴史
History of Gastrostomy

宇野良治(医師,医学博士)
Yoshiharu Uno, M.D., Ph.D.

Office Uno Column



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  この本はタチヨミ版です。



 目 次

はじめに

第一章 手術胃瘻の歴史

    ①可哀そうなマーチン
    ②手術前夜
    ③不成功の連続
    ④生存例の報告
    ⑤胃管形成胃瘻手術
    ⑥胃管形成胃瘻手術の発展
    ⑦チューブ胃瘻
    ⑧合併症を少なくする工夫


第二章 PEG(経皮内視鏡的胃瘻)誕生

    ① 経皮的という概念は1905年にあった
    ② 原理は1933年に出来ていた
    ③ 経皮的トロッカー法のプライオリティは1967年
    ④ 1967年、犬でPEG成功
    ⑤ 胃瘻管の進歩
    ⑥ ワイヤーを胃から口に誘導するという発想
    ⑦ ドレッシング
    ⑧ 1979年PRGの成功
    ⑨ PEGの誕生
    ⑩ ガードラーとポンスキーの決裂疑惑






第三章 放射線科医の逆襲(内視鏡を使わない経皮胃瘻)

    ① 内視鏡がいらない胃瘻
    ② エキスパート登場
    ③ 空腸へのチューブ留置は放射線医が先
    ④ 権威の登場
    ⑤ 日本の放射線科医の意見
    ⑥ 内視鏡医の応戦
    ⑦ 外科医の提言
    ⑧ 天才クープの最終兵器
    ⑨ やはりPEGが真似をする
    ⑩ ペキシーとストミー


第四章 日本人による経皮胃瘻の進化

    ① ペキシーの必要性
    ② 日系ブラジル人「ハシバ」の方法
    ③ 鮒田式胃壁固定具
    ④ 中心巾着縫合
    ⑤ PEGーJ
    ⑥ 新たなる問題


文献及び資料出典





はじめに

 私の亡き父は外科医であったが、若い頃は病理学の研究をしていた。ある日、癌の患者の血液を位相差顕微鏡で見ていた時、血液中に癌細胞を発見した。当時、癌細胞はリンパ管に侵入して転移するものであり、血液中には存在しないというのが医学常識であった。父は多くの癌患者の血液を調べ、癌細胞は血液中に流れ、血行性転移があることを1958年に発表した。それは、父が29歳の時であった。日本の権威ある学者たちは、若い研究者の斬新な発表に対し、口々に、「もう一度、大学で医学を勉強し直してこい」と怒鳴った。しかし、次第に、「血行性転移」が明らかになっていった。私は、その頃の話を、耳にタコが出来るほど聞かされた。そして、父に尋ねたことがある。「どうして、教科書にないことが正しいと考えたの?」父は「どこかから電波が来て、頭の中のコンピュータがカタカタ動いた」と言った。「この人は、天才なんだ!」と思った。
 私が医師になってから、そのことについて調べたところ、確かに父の発表は日本では初めてであったが、世界で最初に報告したのは、1955年の米国のFischer ERであった。このことを父は知っていたのであろうか?つまり、外国の論文を読んだため、血中の癌細胞を調べたのか?そのことを父に聞いたところ、「何も知らないで夢中で研究した後に、論文を書くために文献を検索して、初めて英語の論文を見つけて、自分が正しいと確信した」とのことであった。
 私が医師になって研究をするようになってから、私の目標は世界で初めての研究報告をすることであった。そして、これまで、「日本で初めて」「世界で初めて」という報告もしてきた。その間に感じたことは、その分野の歴史を熟知し、何が問題で、何が求められているのかを知らねば、その先に進めないということであった。
 研究の歴史を調べると、なぜ、新しい技術が生まれたのかがよくわかる。本書は、胃瘻の歴史について、先人たちが、どう考えて、どう行って、どう成功し、どう進歩したのかについて、医学図書館に通いつめて、古い文献を1頁、1頁めくって、徹底的に調査して執筆したものである。








巻頭図1.ルネサンス時代は経口困難例に鼻から管を入れて栄養が与えられていた。
巻頭図2.1913年に世界で初めて成功した胸部食道癌の切除症例 。
この成功にはチューブ胃瘻手術の進歩が不可欠であった。
巻頭図3.困難例に対するPEGとPRGの併用。上は腹腔鏡と内視鏡とCアームX線透視装置との併用した胃瘻造設。下はCTガイド下PEG。(術者は著者)

























第一章 手術胃瘻の歴史

① 可哀そうなマーチン

 最近のほとんどの医学書では1980年、ガードラーとポンスキーによって経皮内視鏡的胃瘻造設(PEG)が初めて成功したことから胃瘻の歴史が始まっている。確かに、定説的にPEGだけをみれば30年の浅い歴史しかないが、PEGは数百年間探求された「胃瘻」のひとつの形であり、それを使った栄養療法も人類が数百年間研究してきたものである。つまり、今、日本で行われているPEGはそれら長い歴史の上にやっと出来上がってきたものである。
 ひとつの手術の成功に対し、それを成功させた医師の技術が評価されることが多い。しかし、医学が一歩進むのに、不成功の患者の犠牲がどれだけ存在し、どれだけの研究者が苦悩したか?影の部分は誰も教えてはくれない。特に基本技術の開発は地味で誰も見向きもしない。
 胃瘻というひとつの医療技術の歴史をみつめながら、多くの研究者達が何故、どのような理由から、開発を進めたのであろうか? について記してゆく。

 胃瘻は現在のように内視鏡で見ながらチューブを皮膚から入れる方法ではなく、開腹手術で腹壁を開いて行われていた。
 しかし、その手術胃瘻にしても、人類が最初にその手術を行うまでに多くの年月を要した。

 まず、「どうして胃瘻という手術を医師がしようとしたのか?」から記す。

 15世紀、16世紀に、危険なものを飲み込む芸がショーやサーカスで行われていたが、それによって事故を起こして、胃からナイフなどを取り出す手術が行われるようになった。1617世紀にオランダ、ドイツの医師が経口摂取の出来ない精神障害の患者を対象として胃瘻を絵に描いたとされるが、詳細は不明である。
 確実な歴史的事実は、1635年、フランスのDaniel Schwabenがナイフを飲み込んで胃瘻と胃腸瘻を来した男性症例を報告したことである。

 「胃瘻が存在しても生命に問題はない」

 このことを最初に報告したのは、19世紀にアメリカの軍医であったボーモント(William Beaumont:1785-1853)であるというのが定説である。ボーモントは1812年に医師になり、イギリスとの戦争では軍医として活躍したが、一度開業した後、再び軍医になり、1819年から五大湖の島の軍医として勤務していた。
 彼は1822年に猟銃が暴発し、銃弾で受傷した28歳の患者の治療を行った。左の肋骨二本が砕けて、横隔膜と胃に穴が開き、胃の一部は外に飛び出していた。食事を与えても全て胃から出てしまうため、浣腸による水補給を行った。幸い、飛び出た胃の辺縁と穴の縁が結合し、10ケ月後には傷はほとんど治癒したが皮膚と胃にトンネル(胃瘻)が出来た。胃の穴は、初めは握り拳の大きさであったが、次第にシリンジ硬貨の大きさになった。
 ボーモントはその穴から、様々な食物を絹糸で結んで胃に入れて、時間が経ってから引き抜いて胃の中でどのように食物が消化されるのか観察した。それらの結果を1825年にフィラデルフィアで報告し、さらに集積したデータを1833年に記し、アメリカのみならずヨーロッパでも有名になった。この患者の名前はマーチン(Alexis St.Martin:サン‐マルタンと呼ぶ場合もある。フランス系カナダ人:1794~1880)というが、彼も有名になった。しかし、マーチンはボーモントの実験動物的存在が嫌になり、ボーモントの家を出てカナダに逃亡して結婚した。ボーモントは4年後にマーチンを探し出し、再びマーチンを連れまわして講演会の旅をした。その後も2回、マーチンはボーモントから逃げたという。ボーモントは「胃液についての実験および観察ならびに消化生理学」の業績が認められ、医学界の殿堂入りとなった。
 その後、ボーモントは家を出ようとした時に転倒して頭部を受傷し68歳で死亡した。ボーモントの死後、マーチンは悪徳医師とインチキ薬屋に騙されて世界中で見世物にさせられ、最終的にアルコール中毒になった。彼の死後もその死体に値段がつけられたが、死体は家族によって体を掘りおこされないように2・5メートルの深さの穴に埋められた。一方、ボーモントは死後も功績が称えられ、現在でもテキサスに彼を記念するWilliam Beaumont Army Medical Centerという大きな病院がある。
 この出来事のなかでのキーポイントはマーチンが胃瘻となってから58年間も生き続けたということである。

図1.81歳のマーチンの胃瘻

 図は81歳の時のマーチンである。左胸部の下に穴が見られる。









② 手術前夜

 「食道癌などで経口摂取が出来ない場合は、人工的な胃瘻が有効かもしれない」

 胃瘻があっても、生命に危険を来すことはないという事から、医師達は新たな医療技術の可能性を考え始めた。それは、それまでの医学界では経口摂取が出来ない患者に対し、鼻からチューブを挿入して栄養を入れていたが、食道癌などで胃まで栄養が届かない場合は栄養を与えることが出来なかったことが背景にある(巻頭図1)。
 栄養を入れるルートとして胃瘻を手術で造設する方法について最初に記したのは、ノルウェーの軍医のエグバーグ(ノルウェー語ではエジュベルゲ:Christian August Egeberg:1809-74)とされている。彼は食道癌で食事摂取困難な患者に手術で胃瘻をつくり、そこからの栄養投与が有効ではないかと1837年に報告した。
 それは、ボーモントが胃瘻の報告をした4年後であるため、ボーモントの影響を受けたのではないかと指摘されていた。また、記録は残っていないが、エグバーグが実際に胃瘻の手術を行ったのではないかという考察もされている。また、エグバーグはボーモントの報告をもとにしているのではなく、米国ニューイングランドのウォーターハウス(Benjamin Waterhouse:1754-1846)が、「1798年にウィーンの病院で外傷で人工的胃瘻となった女性の胃を利用して食品が消化される程度について研究された」と、1809年に記しており、ボーモントの報告の前に知っていたのではないかという考えもある。そして、ウォーターハウスの記載の正当性を示す確認証も申請されたが、ウィーンの症例は歴史の陰に隠れ、ボーモントの報告が後々まで語られることになった(Cuniha論文)
 つまり、ノルウェーの軍医のエグバーグは1837年に考察する何年も前に胃瘻が人体に与える影響を知っており、何らかの手術(おそらくは失敗例)も実際に行われた上で、胃瘻を治療として使用する可能性を報告したのではないかと考察されている。
 ウォーターハウスは天然痘の種痘を始めたエドワード・ジェンナー(1749-1823)の友人であり、ジェンナーとともに種痘の研究を行ったとされる。彼らの師匠は近代医学の父と言われるジョン・ハンター(1728-1793)であり、「ドリトル先生」「ジキル博士とハイド氏」のモデルといわれている変わり者の天才医師であったが、多数の有能な弟子が育った。ハンターは患者の鼻から胃へチューブを挿入して栄養を与えたとされることから、彼らは胃から直接的に栄養を与える有用性を学んだと推察される。以上を簡単にすると、ジョン・ハンターの弟子のウォーターハウスの報告でエグバーグが研究し、ボーモントの報告でいよいよ胃瘻の有用性を確信して胃瘻の手術の有用性を述べた、となる(Cuniha論文)
 そして、1845年から胃瘻の手術が実際に記されたのである。



③ 不成功の連続

 1845年、フランスの外科医セディヨー(英語ではセディロット:Charles Sedillot:1804-1883)は3匹の犬に手術による胃瘻を行い、すべて生存したことを1846年に報告し、「gastrostomie fistuleuse」(胃瘻孔形成術)と名づけた。人間に対して9年間で3人に施行したが全例腹膜炎で死亡したことが1849年に報告された。しかし、この論文により、彼の名前は歴史に刻まれた。彼は失望することなく、「いつの日か、有効な方法で成功するであろう」と記した。しかし、それ以降も不成功が連続した。

●1853年(オランダ)
 オランダのフェンガー(Fenger E)は犬の胃瘻手術に成功した後、人間に行ったが、腹膜炎ですぐに死亡したことを1854年に論文発表した。

●1869年(アメリカ)
 フィラデルフィア病院の外科医モーリー(Maury FF)は胃瘻手術について詳細に記した論文を1870年に報告した。彼は1868~1869年までに25歳の食道狭窄の男性を受け持った。食道狭窄は機械的な拡張術で軽快せず、最終的にブランデー、牛肉の肉汁、ミルクポンチ(牛乳に酒をまぜたもの)のみ摂取していた。1869年にクロロホルムの麻酔で胃瘻手術を行った。左第7肋間から12センチ切開し、腹膜を切除して鉗子で胃を引き出して、銀糸で胃と腹壁を直接縫い付けて人工的に胃瘻を造設した。そして、その胃瘻からチューブを挿入し、すぐに少量の肉汁を入れ、その後、少しずつブランデーと水を注いだ。しかし、患者は14時間後に死亡した。

 彼らの患者が死亡した原因は、当時、抗生剤がなく(世界初の抗生剤ペニシリンが発見されたのは1928年)敗血症の治療が出来なかったこともあるが、全例食道癌等の末期状態で、長い間、経口摂取出来ずに栄養状態が悪く、そもそも手術に耐える体力がなかったことが大きい。また、腹膜炎になった理由は縫合不全で胃液が腹腔内に漏れたためであった。これらの手術は胃の一部を引き出して、それを皮膚に縫い付けるという単純なものであり、多くの場合、引き出した部分で血流障害を生じ、その結果、縫合不全から腹膜炎を引き起こして死亡したのである。
 モーリーの手術では銀の糸が使用された。経験的に銀の糸を使用した方が手術の感染が少ないことが知られていたため、1800年代の手術に使用されたのである。(銀でコーティングされたナイロン糸が7種類の菌の繁殖を予防することが報告されたのは1987年である。最近では銀でコーティングされたカテーテルのみならず、銀イオン効果の風呂桶や消臭剤も販売されているが、200年前に人類が気づいていたというのは驚きである。)



④ 生存例の報告

 一般的に、胃瘻手術を成功させたのは1876年、フランスの外科医のベルヌイユ(Aristide Auguste Stanislas Verneuil:1823–1895)とされる。彼は術後に生存した20例の結果を報告した。この手術が成功した背景には、手術対象を状態の良い患者を選択したことがあげられる。すなわち、セディヨーの場合は末期癌の状態で手術したため死亡した可能性があったが、ベルヌイユは良性の食道狭窄の患者達に施行したため結果が良かったのである。しかし、縫合不全から腹膜炎を来たし、合併症は最高60%にも及んだ。
 1900年代半ばのレビュー論文(Cuniha論文)で、このベルヌイユの報告が人間の胃瘻手術の初めての成功例と記載されたためか、その後の多くの論文や本でもそれが引用され続けた。
 しかし、最近ではイギリス・ロンドンのジョーンズ(Sydney Jones)が1875年に医学誌ランセットに報告した症例、あるいは1870年にステイトン(Staton LL)が行った小児例が初めての成功例とする見解もある。それら症例については、日本で記されたことはない。

 1875年にロンドンのジョーンズは成人の成功例を報告した。症例は67歳、男性。癌と思われる頚部腫瘍で10ヶ月間の嚥下困難、7ヶ月間は固形物を摂取出来ず、呼吸困難はないものの4ヶ月間は発声が出来なくなった。クロロホルムの麻酔で左肋骨下の腹部を切開し、胃を引き出して指が通る孔を開けて腹壁に銀糸で縫い付けた。胃瘻からの栄養は手術後8日目にブランデーを混じたミルクを30㏄から開始し、毎日、ミルク270㏄、ブランデー30㏄、卵1個を入れて栄養を補給し、喉から出血して死亡するまで40日間生存した。

 1870年にアメリカ・ノースカロライナのステイトンは、小児成功例を報告した。症例は8歳の男児でアルカリ製剤の誤嚥で食道狭窄を来した。クロロホルム麻酔で、左肋骨下を7センチ切開し、引き出した胃は水平に2センチ切開され腹壁に固定された。胃瘻にストッパーのついたチューブを挿入し、手術の翌日からチューブを通じてミルクを入れ、その後、ミルク、肉汁、卵黄を入れた。2ヵ月後に嚥下が可能になりチューブ栄養が不要になった。患者は26歳まで生きたが、病気以外の原因で死亡した。

 ミルク、肉汁、卵は栄養学からまっとうであるが、前回のモーリーの報告とジョーンズの報告で気になるのは、ブランデーである。コカイン、モルヒネ、アルコールなどをミックスしたブロンプトンカクテルは末期癌患者に使用されてきた。1900年代の初めにロンドンのロイヤル・ブロンプトン病院で行われたことから由来する名前であるが、その発想はロンドンのハーバート・スノウに始まる(1896年)。しかし、それ以前に末期がんの症例にアルコールを飲ませる発想はイギリス、アメリカで定着していたと考察される。
 ステイトンの症例は、それまでの早期死亡例のような末期癌ではなく、状態の良い小児であったことが成功につながったと思われるが、その他に胃瘻にチューブを挿入してチューブから栄養を入れたという点も見逃せない。チューブを使用することによって、手術部の汚染を予防しながら早期に栄養療法を行うことが出来たのである。後に述べる「チューブ胃瘻」および経皮内視鏡的胃瘻造設に直結する貴重な報告である。


⑤ 胃管形成胃瘻手術

 胃は食物を消化する強い酸性の胃酸を分泌するが、その胃酸で胃自体が消化されないのは、胃の粘膜に粘液層という強力なバリアがあるためである。ただし、粘液が十分に分泌されるためには十分な胃の血流を必要とする。初期の胃瘻手術では胃前壁を引き出して単に腹壁に縫い付けるだけであったため、引き出された胃は血流障害を起こし、粘液が十分に分泌されない。そのため縫合部付近が胃酸でダメージを受けて潰瘍や縫合不全を生じ、手術部位から腹腔内感染を引き起こした。胃瘻の手術が始まった頃は、胃の粘液の役割などは知られていなかったため、縫合不全は主に血流障害による組織壊死であると考えられていた。そして、直接的な死因は胃液や栄養液が腹腔に漏れる腹膜炎であった。

 以上から、 手術を成功させるために

1 胃の血流を保つ

2 胃液が腹腔に漏れないようにする

以上が必要であり、そのためには、

1 胃の血流を保ったまま、胃の一部を筒状にして皮膚に縫いこむ方法(胃管形成胃瘻手術)

2 胃液が漏れないように胃にチューブを埋め込む方法(チューブ胃瘻法)

以上の2つの方向が検討された。



  タチヨミ版はここまでとなります。


胃瘻の歴史

2015年10月1日 発行 初版

著  者:宇野良治
発  行:Office Uno Column

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