spine
jacket

───────────────────────



ストラタジェム;
ニードレスリーフ

巻の零 アプライズ

波野 發作

株式会社ブックアレー



───────────────────────

目次

アンギッシュ

第▲2章 秀吉の遺産

ディフラワー

第▲1章 階段の途中

コンフィデンス

参考文献





アンギッシュ




 鈴木春信の朝は早い。

 日が昇ると同時に、春信の一日は始まる。朝、最初にすることは暗いうちに書いた絵の出来映えの確認である。行灯の明かりでは、本当の出来映えがわからないからだ。錦絵をやるようになってからは、尚のこと色使いには気を使うようになった。昨夜のものは、まずまずの出来だった。春信は愛おしそうに自作を眺めると、深く溜息をついた。今日彫り師に渡せば、色付けに戻ってくるまでしばらくこの子たちには会えないのだ。その寂しさを紛らわせるために、春信は今日もまた絵を描き続けるのだった。

 春信は希代の色男であるが、めったに屋敷から外に出ないので世間にはあまり知られていない。外に出ると埃っぽくなるのが嫌であるし、うっかり道端で眠ってしまうとまずいからである。春信は、布団で寝ない。たまに寝床に入ると、すぐに新しい絵のアイディアが浮かんでしまい、飛び起きて画卓に向かってしまうので、おちおち寝てもいられないのである。その代わり、四六時中小刻みに一瞬ずつ眠ることが多い。昨日も色指定の打合せに来た摺り師と話していたが、飛び飛びに眠っていたため、うまく話が通じなかった。摺り師の方では心得たもので、あとはうまいことやると胸を叩いて出て行った。そんな調子であるので、下手に外を出歩くと、歩きながら眠って堀に落ちたりする心配もあるので、いきおい在宅での仕事が多くなったわけである。

 しかし、本人が外に出ないなら出ないで、黙っていても人は勝手にやってくる。春信の絵を見て弟子入りを志願するものは後を絶たないし、美男子だとの噂を聞きつけて物見遊山にやってくる婦女子も一山いくらで集まっている。ここ数年は源内がたいそう春信に惚れ込んで、毎日のようにやってきていた。毎日来ているうちに、春信もまんざらではない感じになっていたし、源内は源内で色絵を刷り出すのに欠かせない『見当』を考案するなど、実に献身的であった。風呂好きの春信に付き合って、源内もずいぶんと長風呂もするようになったと、下女も言っていた。

 春信はたびたび、気づかないうちに眠って夢と現実の区別がつかなくなることがあり、やれ小人が現れただの言い出すこともある。平賀源内が小人がどんな様子か見てみたいというので、絵に書いてみたら大いにウケ、結局一冊に括れるほど描いてしまったという。

 昨夜は、春画をたくさん描いた。これを彫り師に渡せばひと段落だ。じっと自作を見つめる。やはり、かわいい。現実の女子などちっともかわいらしくない。自分の描いた絵こそが美であると、春信は声を大にして言いたかった。しかし、気がふれたと思われるのも堪え難かったし、屋敷にも女子おなごはいて、彼女らが傷つくのは本意でないので、言えなかった。春画か。春信はまた溜息をついた。春画がどんどん幕府の禁書になっていく。丹誠込めて描き上げた作品が、禁書になればもう誰の目にも触れることなく、消し去られてしまう。辛い。先月も2冊禁書になった。きっと回収されて燃やされてしまったのだろう。切ない。あの子たちに二度と会えないなら、自分が生きていることになんの意味があろう。こんな哀しい思いをするぐらいならもう死んでしまおうか。そうだ、もう死んでしまおう。

 舶来の赤絵の具が体に毒だと聞いたことがある。これを一皿も喰らえばんでしまうにちがいない。そうしよう。さらば愛しきわが絵たち。春信は、絵の具を水に溶き、一息に飲み干そうとした。座敷の方が騒々しいので様子をうかがったら、源内が来たらしい。やれやれまたか。朝からなんとも面倒なお方だ。正直、今日は来て欲しくなかった。が、『見当』の礼もせねばなるまい。あれで色絵は一層美しく仕上がるようになったのだから。春信は溜息をついて、赤絵の具を画卓の下に隠し、下男の柿助に源内を当取絵アトリエに呼ぶように言った。





第▲2章 秀吉の遺産




 トレジャーハンターの朝は早い。

 わしが目利きを頼まれるのは早朝が多いのだが、それはその日のうちに家屋の解体を済ませようと思ったら、朝のうちに家財の処分を済ませなければならないからだ。今日も朝の5時に川越くんだりまで呼びつけられた。家を出たのは3時だ。かみさんは黙って寝ておればいいものを、わざわざ起き出してきてグダグダと愚痴をこぼしくさった。まったく朝から不愉快だ。しかし、そんな不愉快もお宝とご対面となると、すっかり忘れてしまうものである。今日は旧鶴屋の奥屋敷の隠し蔵の解体だそうで、大いに期待している。さてさてどんな金銀財宝が眠っていることやら。

 鍵が壊れて久しいので、この扉が開かれるのは実に100年以上ぶりだそうだ。下手をしたら明治維新からこっち一度も開かれていないかもしれない。実に楽しみである。馴染みの鍵師がずいぶんと苦戦している。よほど錆び付いているのだろう。このまま開けられないようなら、重機でぶち破ることになるかと思うが、中にどんな貴重な品々が並んでいるかわからない以上は、できるだけ避けたい。ファイバースコープで窓から確認できたのは、和本の山だった。和本となるとピンキリである。貴重な文献か、あるいは新発見の艶本でもあればちょっとした収入が期待できるのだが。そういえば今日は貸本屋が来る日だな。洒落本でもいくつかあればありがたい。禁書でも混ざっていればなお良い。などと皮算用をしていたら、鍵師がついに鍵を開けたようだ。わしが先頭に立って、重い扉を開いた。

 正直、期待はずれだった。荒らされてこそいないが、一面にほこりが積もっており、しかも湿っぽい。カビの匂いもずいぶん強かった。蔵の手前は比較的風通しがよかったせいか、このあたりの本は、思ったほど痛んではいないようだった。しかし、奥の方は摺り師の工房のようになっており、財宝の類いはまったくと言っていいほど見当たらなかった。少し茶道具があったぐらいだ。内心がっかりして和本の中身を確認した。大半は『ものほん』か地図のようだ。これだと目白か野方だな。とりあえず依頼主クライアントへの買い取り額はできるだけ安く抑えて、転売して今日の日当ぐらいにでもなれば御の字だろう。いや、鍵師と折半なら雀の涙だ。おもわず溜息が出た。これでは骨折り損のなんとやらだ。もっともわしは扉を開けただけだから、たいした骨も折っていないのだが。鍵師はどうしているかなと思ったら、奥の座敷のような方へ入っていた。銭箱でも出たのかなと様子をうかがうと、いつの間にか見慣れない男と一緒にいた。解体作業員ではないようだ。依頼人の関係者だろうか? まじまじと壁際に積まれた油紙の山をのぞき込んでいる。中から一つ取り出して、傍らの男に見せていた。男は携帯に着信があったが無視して、電源を切っていた。

 鍵師がこちらに寄って来て、声をかけてきた。

「鳥さん、いいのあったかい?」

「いや、あんまり期待はできないねえ」

「こっちの和本は全部持ってっていいから」

「え?」

「わたしらはあっちの版木だけでいいよ。あんたは版木はいらんのでしょう?」

「ああ、まあ版木もらってもどうしていかわからんしね」

 そういうことだから、と鍵師はそそくさと一緒に来た男の方へ去っていった。ラッキーなのか、なにか儲け話に乗り損ねたのかよくわからなかったが、あまり欲をかいても仕方あるまい。とりあえずもらえるものだけもらってさっさとドロンした方がよさそうだ。遠くで鍵師が、社長、社長と叫んでいた。あれはどこぞの社長だったらしい。そんなに金持ちそうには見えないがな。社長は解体作業員に現金を渡して、大量の版木をトラックに運ばせていた。

 それを横目に、とにかく選別をしておこう。何冊か脇に避けたらひと際分厚い本が出て来た。色はほとんど抜けているが、朱で「秘」と大きく記してあった。旧字は得意ではないのだが、中央に『禁書乃目録』と書いてあるようだ。中は何やら書名と版元名が並んでいた。ふむ。表題通りこれが『禁書目録』なのだろう。ということは周りのこれらの本も禁書なのだろうか?

 地図で禁書というのはちょっと考えにくい。和本の山から、地図本を取り除いて脇へ置いた。後は読み物が多いようだ。時間がないので、とにかくざっと目を通して選り分けることにした。ほとんどが学術研究書の類いだった。だが、入門書か何かばかりで、たいした内容ではなさそうだ。同じ本がいくつもあった。結局、黄表紙のようなものは一つだけだ。レアものか人気書ならなあと思って表題を読んだら、『大磯風俗仕懸文庫』とある。これはわしでも知ってる。山東京伝だ。しかもなにやら摺り味がくっきりしていてきれいだ。紙の傷みの割に保存状態がいいように見える。おお、奇跡だ。これでどうにか赤字はならずに済みそうだ。いや、京伝の人気書とくればもう一桁期待してもよさそうだ。とくれば長居は無用。さっさと和本をケースに詰め込んで、おいとますることにした。

 最後に禁書目録が残った。分厚くてケースに収まらない。どうしたものかと裏からめくってみたら、何やら注意書きのようなものがあった。カビが多くてよく見えないのと、ずいぶん崩した文字なので詳しくはわからないのだが、『太閤埋蔵金』という文字はどうにか読み取れた。くだらん。何が太閤埋蔵金だ。そんなもの今どきジョークにもならん。徳川埋蔵金ですらもう存在しないと言われているのに、そのさらに一桁多い太閤埋蔵金なんて、バカバカしいにもほどがある。だいたいそんな大量の小判をどうやって運んだと言うのだ。捨てていこうかとも思ったが、もし本物の禁書目録なら神田が買い取るかもしれん。保険代わりに持っていっておくか。神田が買わなくてもうちの娘ならどこか引き取る相手を知っているかもしれん。わしはケースの上に目録を乗せて写メを取って、娘にLINEで送り、ケースを急いでクルマへ運び入れた。

 鍵師と社長のトラックはとっくにいなくなっていた。わしがクルマを出すと、背後で,待ちかねたバックホーがうなりをあげて古蔵を更地にすべく、取り壊しをはじめた。時計を見ると、午前9時だ。すっかり遅くなってしまったが、午前中には目白に寄れるだろう。それから野方に寄っても、3時にはウチに帰れるだろうて。10万でまとめて買い取った家財が、うまくすれば全部で30万になるか。東屋の鰻重ぐらいは食えそうだ。いや、京伝ならそれだけで50万はくだるまい。いや摺りが良いならもっといけるかもしれん。そしたらトータル100万も夢ではない。アマゾンがわしを待っておる。うははははは。





ディフラワー




 吉原の朝は早い。

 菊園は眠れないまま、朝を迎えようとしていた。この美しい娘は吉原の女郎屋、松葉屋の新造である。昨日が水揚げの日取りであったので、本当であればこの時点で菊園は乙女おぼこではないはずだったのだが、少々トラブルがあって結果として未だ乙女のままである。困ったことになった、と菊園は眠ることができなかった。当の御大尽おだいじんは、まるで少年のように菊園の胸に顔をうずめて、泣きつかれてすやすやと眠っていた。

 このまま日が昇り、女将が上がってくると、水揚げの儀はおしまい、晴れて散茶女郎として客を取る身となる。はずだった。昨夜は、少し早めの時間であったとはいえ、覚悟を決め初体験の相手の御大尽様もいよいよだと目配せをくれ、さあ床入りというところで、その後のことは本当にもう思い出すのも苦痛である。ただ、それでも菊園は、この男を憎むことはできなかった。

 なにしろ長年恋いこがれた男である。最初に出会ったのはまだ禿かむろの頃だ。花魁おいらんが「御曹司」と呼んでいたのを庭ごしに見ていたら、小さな菊園を見つけてにっこりと穏やかに微笑みかけてくれたのが、この男だ。御曹司は、そう滅多にくるわに来ることはなかったのだが、菊園は心待ちにし、来る度に顔を出すものだから、ついには顔も名前も覚えられてしまった。あるとき、花魁が寝入ってるところで、御曹司が行灯を頼りに草紙本を静かに読んでいるのをこっそり覗き見ていたら、不寝番にみつかって折檻されそうになった。

「およしなさい」

と御曹司が不寝番を制止し、菊園はひっぱたかれずに済んだのである。

「こっちへおいで」

と、小声で近くへ呼び寄せられ、花魁が起きないかとおそるおそる近寄っていったところで、

「本が好きなのかい?」

とやさしく聞かれた。菊園は別段本が気になって見ていたわけではなかったのだが、御曹司はこの禿が本好きで、いつもこっちを見ているのだろうと勘違いしていた。菊園は本ではなくこの男が好きだったのだが、思わず首を縦にふってしまった。

「これをあげよう。私はもう読んでしまったから」

 そっと渡されて、本を手に取るとぎゅっと抱きしめて、菊園は恥ずかしくなってその場を去ってしまった。背後で御曹司が小さくはははと笑うのが聞こえた。耳まで真っ赤になって恥ずかしかったのを今でも覚えている。

 菊園は字が読めなかったが、その御曹司の本を読めるようになるために、花魁や先輩女郎に教えを乞い、今ではたいていの書物であればすらすらと読めるまでになった。御曹司に授かった本が『花月草紙』と題されていたのも、あとで知ったのであった。

 花魁が身請けされ松葉屋を去ってからは、御曹司も足が遠のき、菊園は寂しさを抱えて暮らしていた。ある日女将に呼ばれていくと、

「菊、あんたもそろそろ新造だ。となると水揚げを考えねばならぬのだけどね」

と切り出された。廓に生きるものの宿命さだめであり、とうに覚悟はできていたが、いざその日を向かえるとなるとどうしても不安が頭をよぎるのだった。

「あるお方からね、前からあんたが水揚げのときはぜひにとお声をいただいていてね。今夜久しぶりにおいでになるので、面通しをするからきっちり仕上げときな」

 菊園は短く返事をして下がったが、あまりに急な話で気分はすっかり沈み込んでしまった。

 しかしその夜、愛しの御曹司と再会してからは、菊園はずっと有頂天になったままだった。それは昨夜のこの別館での水揚げの晩まで続いたのだったが、今となってはすべて過去の話である。

 恋いこがれ夢にまで見たその相手が、今、自分と床を共にしている。しかし、ついに菊園の乙女をこの男が奪うことはなかった。捧げられなかった貞操は、きっと次の誰かに持ち去られるのだろう。菊園は悔しかった。御曹司のひいきになれば、末は花魁も夢じゃないと女将は言っていた。いまさら御曹司と何もなかったなどと、女将に言えようはずもない。御曹司に恥をかかせるわけにはいかないのだ。しかし、きっと御曹司はもう松葉屋には来ない。菊園にはわかる。吉原にも、もう来ることはないだろう。菊園の身体は彼には捧げられなかった。しかし、心は捧げよう。菊園はそう決めた。

 外で烏が下品な叫び声を上げだした。昨夜のあいつらのようにだ。死ねばいいのに。御曹司との最後の静寂を奪われて、菊園は呪いを込めて無情にも光を増していく朝日を睨め付けた。愛する男の頭蓋をやさしく抱きしめながら。

 憎い。烏が憎い。隣客が憎い。何もかもが憎かった。そして、この男だけが愛おしかった。

 菊園がいくら祈っても、朝寝はそう長くは続かなかった。いつしか、むくりと目を覚ました男は、もう菊園を見ることもなく、ただ黙ったまま松葉屋を後にした。そして、二度と吉原大門をくぐることはなかったのだった。





第▲1章 階段の途中




 貸本屋の朝は早い。

 荷物があるので、通勤ラッシュの前に現地まで行きたいからだ。両国となると相当混むので七時までには移動を終えておきたいと思う。なので、俺はいつも朝が早いのだ。因果な商売だ。

 今朝も仏壇を拝む。早朝なのでりんは鳴らさない。思えばずいぶん鳴らしてないな。いいのだ拝むことが大事なのだ。そもそもこの仏壇には位牌もなければ遺影もない。ただ、あんたが死んで拝むものが他にいないのも切ないなと思ったから、俺が拝むことにしただけだ。それでいいのだ。そうだろ? あんたの娘もずいぶん立派になった。無茶ばかりするので心配ではあるが、年々あんたにそっくりになって驚くばかりだ。会うたんびに店に来い来い言うんだが、冗談ではない。それだけはない。

 俺は今日の予定を手帳で確認し、配本を確かめた。客先は7件ほどあるが、まあ問題なかろう。時間が決まっているのは朝と夕のだけだ。あとは流れで回るだけだからな。

 駅に着き、ホームまで上がったが客はまだまばらだ。ほんの1時間違うだけでずいぶんと変わるものだ。何せ俺はこの荷物を背負っているのだから、ラッシュは本当にまずい。普段なら10時に動き出せばいいのだが、あの店主がいつも8時半に指定するもんだから、まったく面倒だ。開店前に取引を済ませようってことなんだろうが、こっちはいい迷惑だ。ま、これが客商売の辛いとこだな。タクシーが使えれば楽なんだが、このままではタクシーに荷物が入らないのが問題なのだ。後部座席は当然ながら、トランクにも入らないし、助手席も無理だった。カバーを外してケースをバラせばどうにか収まるとは思うが、毎度それでは仕事にならん。やはり伝統のスタイル通り、足で稼がねばならんのだろう。このところピリピリと感じるので、腰痛がちょっと気になるが、無理をしなけりゃ大丈夫だろう。

 目的地に着き車両を下りたが、やはり早く着きすぎてしまっていた。どんなに早くても8時より前には、相手は来ていない。ファーストフード系のカフェでコーヒーのセットを頼んで朝食にした。なんともヒマだ。

 俺が昨夜確認の電話をしたとき、店主が出なかったのが気になっていた。今まではなかったことだ。でもまあ変更があるときに連絡がなかったことはないのだから、問題はないだろう。周囲の客が増えて来た。最近のスマートフォンはずいぶんと大きいものが増えた。鷲掴みでスマホを眼前に構えてなにやらチマチマと操作しているのは、なんだか俳句の会を見ているようで可笑おかしい。俺のガラケーもそろそろ限界かな。顧客システムを刷新するのは非常に面倒だが、そろそろ考えていかないとならないだろうな。体質も客もなにもかも古い業界だから、前回iモードのシステムを導入した時も一悶着あった。それをまだ10年も経ってないのにまたいろいろ替えるとなると逆風が強いだろうな。誰か代わりにやってくれないかなと思うが、組合にそんな旗が振れるヤツが見当たらない。もちろん俺はもう嫌だ。疲れるから。今のシステム導入で燃え尽きたのだ。あとは後継者たちに托すのがよかろう。後継者なんていないけどな。

 カフェが混んで来たし、ヒマを持て余すのも限界なので、そろそろ待ち合わせ場所に向かうことにした。少々早いが、早い分には構うまい。路地を曲がってすぐ、俺は異変に気づいた。二階角の事務所に灯りが点いていなかったからだ。いつもなら店主はすでに来ている時間だ。嫌な予感はしたが、予感が的中したことはすぐにわかった。

*****************

一身上の都合により、

イズミヤ書店は閉店いたします。

長年のご愛顧に感謝申し上げると

ともに、

以降の詮索は無用に願います。

            店主敬白

*****************

 読んですぐにイラっとした。なんだこの不真面目な張り紙は。詮索するなとは何事だ。

 すぐに社長に電話をしたが、出なかった。事務所にもかけてみたが、遠くで呼び出し音が聞こえるだけで、誰も出なかった。ずっと上の事務所窓を睨んでみたが、まったく人影はなかった。本当にここには誰もいないようだ。9時になればここの店員もやってくるだろうが、どうしたものか。本人がいないのであれば、まったく用は成さない。俺の取引相手は店主個人であるからだ。とりあえずさっさと次の客先まで行くことにしようと思ったが、このタイミングは重度のラッシュのまっただ中である。しばらく張り紙を睨んだまま考えていたが、どうも考えがまとまらない。ひとまず駅まで戻ることにしよう。話はそれからだ。

 駅に戻ったが、コンコースが通勤客で少々ごったがえし始めていたので、なるべく人目につかないよう端っこに寄って、荷物を降ろした。この重力からの開放感がたまらない。貸本屋の醍醐味であるが、これについては仲間はちっとも共感してくれない。誰かわかってくれないもんだろうか。

 まずは、再び店主のケータイにかけてみた。今度は電源が切られているか、圏外であるメッセージが流れた。居留守をやめて電源を落としたか。姑息なヤツだ。いずれにしてもあいつに貸している艶本は少々値が張るのだ。そう簡単に見逃すわけにはいかん。貸本屋をナメると大ヤケドするということは、骨の髄まで思い知ってもらう必要がある。

 次は組合長に連絡だ。横の情報網で消息を探ってみることにした。今のところ店主に関する情報は上がっていないようだ。結局俺のこの連絡が第一報になった。スエヒロも確か店主と取引があったので、連絡をしてみた。聞けば昨日は取引ができたらしい。スエヒロも高い艶本を出しているそうなので、驚いていた。今日は仕事が少ないので、少し動いてくれるようだ。持つべきものは仲間である。他に店主に本を貸している仲間がいないか聞いてみたが、スエヒロは知らないと言った。

 店主に出している本は、次の予約も入っている。貸本屋の威信にかけても決して見逃すわけにはいかない。荷物を片掛けにして、ちょっと移動した。本屋の店先が見えるところまでいってのぞき込んでみると、若いのが二人ほどボーッと突っ立っていた。店員はネクタイ着用のはずだから、おそらく奴らはアルバイトだろう。ケータイだかスマホだかを激しくいじってるから社員か誰かに相談しているのだろう。一人先に帰りはじめた。なにやらニヤニヤしながらメールを打ってこちらに向かってくる。急に休みになったのでデートの約束でもとりつけているといった感じだ。若いってのはうらやましいねえ。

 さて、俺もいつまでもこうしてはいられない。電車もそろそろ空いてくるころだから、市ヶ谷に向かうことにしよう。片掛けにしていた荷物をぐっと両肩に背負い上げた。店主が失踪してイライラしていたのが災いしたのか、勢いをつけすぎて少々腰をひねってしまった。うーむ。これは少々どころではないかもしれないが、まずはホームまで上がってしまおう。ひと休みしたら痛みも収まるだろう。なるべく腰に負担をかけないように改札をそおっと通り抜け、階段を何段か上りはじめて、ようやく俺は自分の置かれている状況を自覚した。

「まずいなこれは」

 つぶやいて、数段上がったところでついに腰の状況は一線を越えてしまった。俺の骨格の中枢部を襲った激痛に太ももと膝と足首の力が完全に抜け、階段のコンクリートに両手をついてしまった。かろうじて後ろに倒れることはなかったが、貸本の全重量がのしかかり、もう微動だにできなくなってしまった。背中の緑の塊が、完全に俺の動きを封印してしまったのだ。体勢が悪く、息がほとんどできないのもまずい。叫び声を上げて駅員を呼ぶこともできない。誰かが気づいてくれるのを待つしかなかった。それまで無事に生きていられればの話だが。

 どれほどの時間が経っただろうか。永遠だったかもしれないし、ほんの数秒だったかもしれない。背後から階段を駆け上がる靴音がして、真横で止まった。俺は反射的にそちらを向いた。知ってる顔だ。というより、さっき見た顔だ。こいつはイズミヤの前にいたヤツだ。俺はすがるような気持ちでこの若者に向けて声を絞り出した。肺に残った最後の空気だった。

「すまないが、ちょっと手を貸してくれないか」





コンフィデンス




 田沼意次おきつぐの朝は早い。

 遠からず老中に任じられると目される身ともなると、日々のスケジュールはパンパンである。意次は日の出から丑三つ時までひたすら公務に従事せねば裁ききれないほどに多忙を極めている。懇意にしているとはいえ、在野の学者の世迷い言など放っておけばいいのだが、そこは惚れた弱みである。頼まれたからには、どうにかせねばなるまい。それに、源内に貸しを作っておくことは、借り返すこと以上に有益である。チャンスのあるときに恩を売っておけば、多少のわがままは、しょうがねえな、の一言で済ませてもらえるのだ。

 しかし、上様との予定は最優先事項であり、融通は利かせられない。となれば、融通を利かせられる、意次より立場が下の者にしわ寄せを回すしかない。禁書目付の仲田新左衛門なかだしんざえもんは、前夜遅くにいきなり意次に呼び出され、夜明け前に家を出て、夜明けとともに田沼邸に参上つかまつった。

「仲田新左衛門仰せによりただいままかりこしました」

「うむ。早うからご苦労である」

「田沼様のお呼出しとあらば母親の葬式であろうとも」

「おためごかしはよい。親の葬式は出ろ」

「はは」

 田沼意次は、脇にあった包みを新左衛門に差し出した。

「これを改めよ」

「は」

 新左衛門が包みを開くと、一枚の版木が出て来た。反転しているので、何が書いてあるかよくわからない。

「これは……?」

「うむ」

 意次は黙って腕を組んだまま目をつぶっている。

 新左衛門は黙って上司が口を開くのを待っていた。こんな早朝に呼び出すぐらいだから、相当な任務に違いない。心して指示を仰がねばなるまい。緊張で掌が汗で濡れてきた。じっと下を向いたまま待っているが意次は何も言い出さない。あまりに待たせるので畳の目を数えはじめた。百を超えていくつまで数えたか忘れた頃に、ついに意次が口を開いた。

「ときに。貴様は『太閤埋蔵金』を知っておるか?」

「は?」

 あまりに予想外のことに、思わず聞き返した。太鼓美味い雑巾?

「太閤殿下の埋蔵金じゃ。石田三成が隠したと伝えられておる」

「申し訳ございません。それがしの不勉強にございます。存じ上げませぬ」

「うむ」

「太閤殿下というのがまずわかりません」

「禁書目付ともあろうものが情けない」

「申し訳ございません!」

 新左衛門は納得の行かなさを腹にしまって、平になった。

「うむ。まあよい。続きがある」

「は」

「太閤殿下というのは、大権現様が天下人てんかびととなる前に、天下人だったお方じゃ」

「はあ」

「うーむ。共通の知識がないと説明が難しいのう」

「申し訳ございません」

 意次は新左衛門がかわいそうになってきた。そもそも豊臣秀吉のことなど、幕府では教えていないのである。歴史を深く学ぶ学者ならいざ知らず、新左衛門のような目付ぐらいの人材では、そのような歴史の素養など薄くて当然である。そもそも豊臣の歴史書の大半は禁書になっている。禁書目付といえども、禁書を紐とくことは許されない。そういう意味では、仲田新左衛門は任務に忠実であると言える。

「ああ、新左衛門。面をあげい。何もそちをいじめようと思っておるわけではないのだ」

「はは」

「とにかくだ、大昔の天下人の残した金がたくさんあってのう」

「はい」

「それを手下だった石田がどこかに隠しておるのだ」

「はい」

「その額、4億5千万両」

「は?」

「現代の日本円にして、だいたい200兆円じゃ」

「何を申されているのか皆目見当がつきません」

「そうじゃろうのう」

 意次は少々困って来た。話が壮大すぎて、まったく相手に響かないのだ。源内を恨んだが、当の本人はいまごろ鈴木なにがしとよろしくやっているに違いない。まったく腹の立つ。

「とにかくだ。太閤埋蔵金という大金が、この日の本のいずこかに隠してあるということじゃ」

「それは誠にございますか。早く見つけ出して幕府で管理せねばなりますまい」

 根っからの真面目官僚である。この件でこういう人材を相手にするのは、意次とて少々気が重い。

「まあとにかく、楽にして聞け。わしも疲れて来た」

「はぁ」

「でまあ、その、埋蔵金のありかがな、禁書の中に含まれて、おる、ということがだ、明らかになったということだ」

「それは誠にございますか。早く禁書を調べ上げて発見して幕府で」

「うるさい」

「はは!!」

 仲田新左衛門は床すれすれに頭を下げた。もう意次はめんどくさくなった。
「禁書ゆえ、調べてはいかん」
「はあ」
「あと、これから出てくる禁書も、どこに埋蔵金の手掛かりが書かれているやもしれんので」
「はは」
「禁書になったものは、一切処分してはならん」
「はは!」
「巻本、写本、刊本、版木、その他あらゆるものをすべて収納庫に収め、これを徹底管理せよ。普請もすべてそちに任せる」
「かしこまりました」

 意次は生真面目にかしこまる仲田新左衛門が不憫でならなかったが、まあだいたい話は伝わったのでよしとした。おっと、忘れるところだった。肝心の指示をせねばなるまい。

「でだ、この内容のすべてを、その版木に起こしてあるゆえ」
 意次は、新左衛門の手にしている板切れを指差して言った。 
「今後一切の禁書目録には必ず付け加えるように。過去のものにもさかのぼってな」
 禁書目付仲田新左衛門は田沼意次の命をかみしめ、版木を持って田沼邸を後にした。


「4億5千万両じゃと」
 田沼意次は、庭で朝練に精を出す我が子竜助をやさしく眺めながらつぶやいた。竜助は素振りを止め、父に向き直った。
「何かおっしゃりましたか父上」
「ははは。4億5千万両の金を、石田三成はどうやって運んだのかのうと、思ってな」
「それは大金なのですか?」
「うむ。とてつもない大金じゃ」
「であれば、父上」
 竜助は真っすぐな汚れのない瞳で、父親に言った。
「それは大勢で運んだのでありましょう」
 田沼意次は久しぶりに大声で笑った。

 笑い声に反応して、遠くでからすが鳴きはじめた。
 こうして物語は始まったのである。


(この本は販促キャンペーン用のスピンアウト短編集です。メインストーリーは『巻の壱;キルアクロウ』からお愉しみください)

参考文献

ロビン・スローン/島村浩子訳『ペナンブラ氏の24時間書店』(東京創元社)

白倉敬彦監修『春画の楽しみ方完全ガイド』(池田書店)

白倉敬彦著『春画と人びと 描いた人・観た人・広めた人』(青土社)

内田啓一『大出戸カルチャーブックス「江戸の出版事情」』(青幻舎)

井上泰至『角川選書「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」』(角川学芸出版)

今田洋三『江戸の禁書』(吉川弘文館)

石川英輔『講談社文庫「大江戸生活事情」』(講談社)

石川英輔『実見江戸の暮らし』(講談社)

石川英輔『大江戸番付づくし』(実業之日本社)

鈴木俊幸『平凡社新書「江戸の本づくし」』(平凡社)

中野三敏監修『江戸の出版』(ぺりかん社)

木村八重子『草双紙の世界 江戸の出版文化』(ぺりかん社)

棚橋正博『山東京伝の黄表紙を読む』(ぺりかん社)

木越俊介『江戸大坂の出版流通と読本・人情本』(清文堂)

花田富二夫『江戸はやわかり事典』(小学館)

橋口候之介『和本入門 千年生きる書物の世界』(平凡社)

橋口候之介『続和本入門 江戸の本屋と本づくり』(平凡社)

小田光雄『平凡社新書 ヨーロッパ 本と書店の物語』(平凡社)

今田洋三『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』(NHKブックス)

川西教槙『ホワイトボックス法案の罪と罰〜壊れる出版〜』(斜陽社)

ジャック・バーロー/伊藤和樹訳『インターネットはウハウハの鉱山』(斜陽社)

八田軽四郎『ADRとは何か〜そして著者と読者だけが残った〜』(斜陽社)

筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)

吉沢英明『Wikipedia ウィキペディア 完全活用ガイド』(マックス)

ゴーズ『おとなの再入門 Googleサービス』(学研パブリッシング)

久寿川なるお『SOAPのMOKOちゃん(ヤングチャンピオンコミックス)①〜⑤』(秋田書店)

ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(翔泳社)

井畝満夫・岩淵龍三監修『遊び尽くし お好み焼き免許皆伝—東西の熱い競演・基本テクニック』(創森社)

西村仁『加工材料の知識がやさしくわかる本』(日本能率協会マネジメントセンター)

八重野充弘『埋蔵金発見!』(新人物往来社)

シェアパーク監修『シェアハウスで暮らす 』(誠文堂新光社)

菊池仁『ぼくらの時代には貸本屋があった』(新人物往来社)

池上良太『図解メイド(FーFiles)』(新紀元社)

ストラタジェム;ニードレスリーフ;巻の零;アプライズ

発行日  2014・10・23

著者   波野 發作

発行者  原田 晶文

発行所  株式会社ブックアレー

東京都千代田区岩本町1-12-4大洋ビル4F-B

http://honyoko.com

harada@honyoko.com

©Hassaku Namino

ストラタジェム;ニードレスリーフ;巻の零;アプライズ

2015年9月24日 発行 初版

著  者:波野發作
発  行:株式会社ブックアレー

bb_B_00138555
bcck: http://bccks.jp/bcck/00138555/info
user: http://bccks.jp/user/122094
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

波野發作

1971年生まれ。東京都中野区生まれ、長野県山間部育ち。横浜市、鎌倉市、松本市、千葉県を転々とし、現在は東京都江戸川区在住。身長171cm。双子座。O型。好きなもの:横浜FC、Apple、ホンダ、ゼロ戦、橋梁。趣味:読書。好きな作家:椎名誠、筒井康隆、清水義範、隆慶一郎、田中芳樹、西原理恵子、押切蓮介、ジェフリー・アーチャー、アイザック・アシモフ、ジェイムス・ジョイス。職業:小説家(今日から)、ワンマンパブリッシャー(前から)、SideBooksエヴァンジェリスト(いつでも)、ADR準備委員会発足検討会発起人(予定)、日本ロビン・スローンファン倶楽部(未公認)会員No.003(候補)、印刷営業士取得、編集者経験あり(実用書中心に約20年)、涙枯れるまで泣く方がいいかもXメイソ管理人(2000年〜2001年)、元『最凶の7500を作る会』主宰(秋津野博士名義)

jacket