Seeing is Flying.
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夏の作り出すコントラストの中で見る景色は、強く網膜に焼きつく。
特に、何も知らずに受け身も取れない、子供のころに感じる衝撃波は大きい。
少なくとも自分にとって夏の体験は、毎年毎年がキラキラしていた。
海に入り、浮き輪の上に浮かびながら波の音を聞いたり、
ヤドカリをバケツいっぱい捕まえて遊んだり、
お盆にきゅうりとなすの馬を作って、お墓参りに行ったり、
山の中でおいしい空気を肺いっぱい吸い込んだり、
汗だくになってサッカーやバドミントンをしたり。
それは、誰しもが持っている頭の中の宝箱に、大事に大事にしまわれる。
そして時が何年も過ぎ、毎日背広に身を包んであくせく働くその合間にふと、
鍵が外れて、中のものが少しだけ溢れ出す。
ざぁっと、夏のあの風景が、脳内に大型スクリーンの虚像となって蘇り、
懐かしさと恋しさに胸が詰まる。
あぁ、それがもしかしたら、恋愛感情に似ているのかもしれない。
だから私は、夏に恋をする。
時々、ライブなんかに行くと
音楽のチカラはすごいと、気づかされる。
たった一音階、いやたった半音階の音の変化の中に無限の感情、言葉、衝動が詰まっている。
それを表現するもの。アーティスト。
それを受け取るもの。観客。
薄い薄い鼓膜の微振動でメロディーを敏感に感じ取り、
その小さな針穴に込められた強い想いを身体の中に取り込む。
音を食べる。
そして、ヒトとヒトは想いをつなぐことができる。
それが音楽。
分かりづらくて複雑で、胸につかえるもどかしい気持ちも
音に乗せればあの子に届くかもしれないな。
時間に追われれば追われるほど、細かいことが気になってくる。
しかしその気になることがだんだんおおごとになると、
逆にもう気にならなくなってくる。
もちろん半分くらいは、気にした方がいいことなのかもしれない。
しかし逆説的には、もう半分は気にしなくていいことなのかもしれない。
一周回って元に戻って、何の問題もなくなっているかもしれない。
ケ・セラ・セラ。
細かいことはあまり気にしすぎず、いきましょう。


全身の血液を激しく巡回させ、
やがて隅々まで張り巡らされた毛細血管の先の先まで、それは到達し
酸素というガソリンを運ぶ。
脳は思考を止めない。
数千の感情を融合し、数万の選択肢を提示する。
早く、早く。血が滞らないうちに。
初冬、あっという間に日が暮れたあとの赤い余韻を微かに残した空に
細い爪のような三日月が音もなく浮かぶ。
凪いだ砂浜を私は駆け出し、その「彼」に向かって靴を蹴った。
すると放物線を描いて宙を舞う軌道は空へ還り
突如として、鏡を真っ二つに割るように飛行機雲が現れた。
重力に従ってぼとりと砂に打ち付ける靴の音は聞こえたが
代わりにその一直線な雲はどこまでも無音のまま
無重力であるかのように進んでいく。
軌道は続いている。
「三日月にシュート」
スペイン、バルセロナに建つカトリックの大教会、サグラダ・ファミリア。
稀代の建築家、アントニ・ガウディが遺した巨大な作品は、
着工から100年以上経った今も建築途中である。
ガウディはこの教会の形状に対し、あくまで「自然界」の一部であることにこだわった。
一本の糸の真ん中に重りを取り付け、天井に糸の両端を括り付けて吊り下げるときにできる
紡錘形をそのまま尖塔にし、
アンモナイトのような黄金比の螺旋を階段にあてがう。
彼のインスピレーションは、とりわけ自然と一体化することで産まれるようだ。
特に地上の教会堂へ足を踏み入れると、そこには巨大な生物の背骨のようなものが
はっきりと見て取れる。
直線でもなく、曲線でもないそれは、言葉も呑み込むほどに美しい。
それと同時に、「生き物の体内にいる」という錯覚に戸惑い、畏怖すら覚える。
サグラダ・ファミリアは生きている。
ある人は「巨樹の無数の枝に包まれ、花が咲いているようだ」と表し
ある人は「ここには神が住まうと身体で感じることができる」と表す。
どれも正しい。どれも、すっぽりと覆い守ってくれる。
西日の射し込む堂内はほんのりと温まり、優しい子守唄がどこからか聴こえてきて
安らぎの眠りへと私たちを誘う。
そういえば紫陽花を青空の下で意識して見たことはなかった気がする。
なんとなく、“梅雨の花”というイメージだから。
そういう意味では、雨に濡れるこの花は本当に綺麗なのだけど、
青空のもとで白く群れるアナベルも、またいいなと思って。
自分に足りない何かを。
あるいは、相手に足りない何かを。
自分が欲しいと思う何かを。
あるいは、相手が欲しいと感じる何かを。
パズルのピースをはめるように、補い合えるカップルは、素敵だと思います。
桜の撮影をしていたら、偶然、ハートを形作っている木を見つけた。
正確に言えば彼らはふたり、両脇の二本の樹からそれぞれ枝が伸びている。
淡い桃色の花びらもあいまって、それは本当に誰かの心のようだった。
そのあとに知ったのだけど、日本にいるソメイヨシノはほとんどが遺伝子の同じクローンだそう。
ソメイヨシノは自身で世代を下に残すことはできない、なのでいま存在する多くの樹は
人が接ぎ木などで少しずつ、大切に増やしてきたものだそうだ。
みんなが同じ遺伝子を持つから、気候条件がそろえば一斉に咲くのだとか。
改めて、このハートの桜の樹を見る。
愛するということが、クローンとなって、全ての樹の遺伝子のなかに組み込まれているとしたら。
それは人間も同じなのかもしれない。
人は誰しも、愛するという遺伝子を持っている。
後天的な差があるのかもしれないけれど、
根本的には誰かや何かにそういう感情を抱くことができる。
そう考えると、この世界はもっと優しくなれるのかもしれない、という思いに至る。
夢はある日突然、終わる時がある。
それが叶わないことを、空気を吸い込むみたいに自然に悟る。
肺の底に澱のような白い物質が溜まり、時折内側から痛む。
それをひた隠しにしながら、当てのない未来を生きていく。
時間をかけて忘れてしまおうとするけれど、
何かの周波のように、ピリリとその澱は棘を出し、胸を刺す。
それでも彼は笑うから。
代わりに私が泣くのだろう。
何かを成すのに、それが上手くいくという理由が欲しい。
そうでなければ怖い。拠り所がなければ不安で堪らない。
でも、もともと支えもいらずに二本足で立っている。
それを思い出して、ほんの少しだけ勇気を奮い立たせる。
その自信には、根拠も確証もない。
それでもいいから、飛べ。
とてもつらいことがあって、
とても苦しいことがあって、
とても悲しいことがあって、
生きていると、誰もがそういうことに直面する。
視界は暗く色を失い、粘性の強い泥の中に足も手も取られて動けなくなり、
顔の筋肉は固まり、耳の奥から不協和音がする。
それらをすべて一度に振り払い、乗り越えていくことなんて
到底不可能だと思える。
自分は決して強くない。
そういう黒い塊のようなものを肺の奥底に置いたまま、
たまに圧迫されて息が詰まりそうになりながら、
それでも呼吸は続いて、生きていく。
やがて時間が溶かすかもしれないその塊を、
一時忘れてしまうことは、悪いことではないと思う。
またそれで半歩でも泥の中の脚が動くのなら。
生きていくということは、立ち続けていくということ。
胸骨の真ん中に一本の芯を持ち、それに縋り、折ることなく、踏ん張って、
両足に力を入れて、立ち続けること。
誰かに、手や足、腰を支えてもらってもいい。
それでも、立つという意志を持って、そこに在り続けるのは自分ひとり。
どんなに辛くても、悲しくても寂しくても、立ち続けるのは自分の力。
それが生きていくということなんだなぁと、最近実感する。
山梨県にある山高神代桜は、日本最古、二千年もの時を生きる桜。
人間には感じることのできない途方もない時間を、
一度も折れることなく、休みもせず、
毎年春になれば無限の花を咲かせる。
その樹齢を物語るように、この木のあちこちの枝は木柱に支えられている。
本当にあちこち。あちこち。
その姿は、ともすると格好悪いとか、愚かに見えるかもしれない。
それでも、彼は休むことなく立ち続けている。
生きている。
整ってなくてもいいし、格好悪くてもいいから、足掻くように生きてみようか。
立ち続けてみようか。
そう思うと、少しだけ両足に力が入る。
【 ① 相対性原理 】
ある日、通勤電車の中でふと思い浮かぶ。
「相対性理論って何だろう?」
ネットに億万の情報が転がっている昨今、
その日は一日中説明文章に齧りついていた。
一応理系の自分でも、高校の時の物理の知識では
よく理解できないところもありつつ、その考え方はとても面白く、
とても、恋(しかも片想い)に似ていると思った。
相対性理論の前に語るべき、ガリレオが唱えた相対性原理というものがある。
これは簡単に言うと、「物体が動いているか止まっているかを知ることはできない」ということらしい。
駅で電車に乗って、窓の外には行き先が反対の電車が停まっているとする。
その窓の景色が動いたとき、自分の電車が動いたのか、対向車が動いたのか、分からない。
そういうことらしい。
相手がいる場合、自分が動いていて相手が止まっているのか、
相手が動いていて自分が止まっているのか知る術はない。
それは恋の始まりの、定義できないヤキモキとした気持ちのようだ。
自分が動かされているのか、相手が動かされているのか。
本当に知りたいことほど、この世の中は教えてくれない。
【 ② 相対性理論 】
で、よく言葉は耳にする相対性理論。
ドイツの物理学者、アインシュタインが最初に提唱した驚くべきセオリー。
その考え方は、「光というものは何においても絶対」という前提のもと、
「モノにはそれぞれ固有の時間があり、それは一定ではない」ということ。
今の常識からするとにわかに信じがたい…というか、意味が分からない。
しかし、世界のすべての時計が共通に刻む「1秒」は実は嘘で、
自身そのものと周囲の環境によって歪められ、変化するものなのだと言う。
光の速さは秒速30万kmと言われ、
それは誰から見ても一定らしい。
自分が止まっていようが、動いていようが、光の速さは30万km/s。
それより速くも遅くもならない。
これを前提とすると、時間の概念が覆る。
自分が止まっているときの1秒より、自分が加速しているときの1秒が伸びるそうだ。
つまり、動いている人は、止まっている人よりも過去にいる。
動いても、動いても、加速すればするほど、
自分は過去に取り残される。
地上の光は、未来へ進んでいく。
早く追いつきたいのに、もどかしい片想い。
僕らはとても不完全で、
過ちをしばし犯し、恥を掻き、また逡巡する。
僕らはとても未完成で、
左右対称にもなれないし、重心を真っ直ぐに歩けない。
だがそれが愛おしい。
不完全だからこそ足掻く。
未完成だからこそ続きがある。
いつか届くかもしれない、届かないかもしれない
その高い高い理想を眩しく見上げながら、
今日も僕らは一歩前に進んでいく。
小さいころは何も知らなくて
何ものすべてが発見だった。
「はじめて」はいつも人になにかを与える。
そういう思い出をたくさんたくさん、たからばこにしまう。
大切にとっておくために、鍵をかける。
いつか、大人になったときに忘れていた鍵を開けてみよう。
たくさんのことを思い出せる。
あのとき、わたしはこの壁を何色で塗ったっけ。
あのとき、ぼくはなにを捕まえて、かごにしまったっけ。
じりじりと肌を焼く太陽も、道に長く伸びる影を作る太陽も、
どっちも知っている。
いつか、その鍵を開けてみよう。
友達が教えてくれた。
「ハッピーバースデー」は、「君が生まれてきてくれてありがとう」という意味だと。
自分がこの世界にいることを受け入れてくれる、とてもとても優しくて、
泣きそうになるくらい心に響くシンプルな言葉。
だから私も貴方に贈ろう、このフレーズを。
今日が貴方の生まれた日。この世界にやってきた日。
HAPPY BIRTHDAY
表紙≫ 神奈川県 横須賀市 観音崎
1≫ 埼玉県 川越市 時の鐘
2≫ 東京都 台東区 上野動物園
3-4≫ 神奈川県 藤沢市 新江ノ島水族館
5≫ 東京都 豊島区 サンシャインシティ水族館
6≫ 神奈川県 三浦市 城ヶ島 馬の背洞門
7≫ 長崎県 長崎市 伊王島
8≫ 神奈川県 横浜市 みなとみらい
9≫ 山梨県 甲府市 酒折ワイナリー
10≫ アメリカ ニューヨーク
タイムズスクエア
11≫ 茨城県 笠間市 笠間つつじ公園
12≫ 神奈川県 二宮町 吾妻山公園
13≫ 千葉県 館山市 鏡が浦
14≫ スペイン バルセロナ
サグラダ・ファミリア
15≫ 山梨県 韮崎市 わに塚の桜
16≫ 埼玉県 幸手市 権現堂堤
17≫ ドイツ ベルリン ブランデンブルグ門
18≫ 長野県 須坂市 臥竜公園
19≫ 神奈川県 藤沢市 新江ノ島水族館
20≫ 岩手県 宮古市 区界
21≫ 福島県 白河市 関川寺
22≫ 青森県 三沢市 三沢航空科学館
23≫ 神奈川県 横須賀市 ソレイユの丘
24≫ 山梨県 北杜市 山高神代桜
25-26≫ 埼玉県 飯能市
あけぼの子どもの森公園
27≫ 埼玉県 南埼玉郡 東武動物公園
28≫ 埼玉県 飯能市 あけぼの子どもの森公園
29≫ ドイツ リューベック
30≫ 山梨県 北杜市 明野
2015年9月27日 発行 初版
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Seeing is Smiling.