spine
jacket

───────────────────────



ニコ、ジョン、保安官

松永肇一

まつなが出版



───────────────────────

ニコ

「そのときエジソン師は仰いました。よろしい、ならばその言葉を打ってみせよ。若者は傲慢にも電鍵を叩きましたが、最初の単語が終わるか終わらないかのうちにエジソン師はすべてのみ言葉を送り終えておりました。若者は頭を垂れ、エジソン師に忠誠を誓います。かくして電信(インターネット)に平穏がもたらされたのです」
 お祖母さんの話が終わって、僕は猛然とテーブルの上のものを胃の中に片付け始めた。肉とスープとパンがいつもの順に並んでいる。インドだかインドネシアだか東洋の国のスパイスの効いたチキン、トマトベースのスープ、焼きたてのフランスパン、目が見えなくたってどこにあるか分かる。ああ、そう。僕は目が見えない。事故のせいだ。
「ニコ、もっとゆっくり食べなさい」
「十分ゆっくり食べてるって」
 ニックって呼んでほしいよね。
「師は仰いました」
 お祖母さんの声は気持ちいい。声帯が震えて、空気が振動して、僕の鼓膜をうち、神経の電位に置き換わり、僕の脳を裏側から刺激する。
「霊話の時間だよ」
 僕は口いっぱいにチキンを詰め込んだまま言った。そうでもしないとエジソン教団の話が無限に続く。案の定お祖母さんは口を閉ざして霊話機の前に行った。決して触らせてくれないけど、霊話機は電話のようなかたちなんだそうだ。まあ同じエジソン師の発明だからね。この隙に食事を平らげ、ごちそうさまっと叫んだ。
 お祖母さんの気配が離れていく。
 問題。目が見えないとどの感覚が研ぎ澄まされるでしょう。聴覚か、嗅覚か、はたまた触覚か。正解は足の裏の感覚でした。ほんとほんと。アンケートをとったわけじゃないけど。足の裏は大切な情報源なんだ。ここのダイニングの絨毯はだいぶ擦り切れている、特に僕が座るところは足の裏でこするからボロボロだ。足を滑らせると異なる感触が規則的に現れる。つまり二種類の素材の幾何学模様だって分かる。ここから自分の部屋に移動してみよう。カーペットはテーブルのところだけ。足を滑らせるとすぐひんやりとした木の床がある。ちょっとざらりとしているのは、掃除していないから。お祖母さんにしては珍しい。木の床の木目方向に進むとドアがある。廊下も木なんだけど、こっちはつるりとして木目がない。安い木を組み合わせると、こうなる。僕の部屋まではほんの五歩。ベッドの前に立つとわずかに傾斜が感じられるのは、この家が山際にあるからだ。
「リチャードなの。元気。また遠視塔を作っているの。どこなの、フランス? あれはもうダメよ。今は電信なのよ」
 お祖母さんの霊話がかすかに聞こえてくる。
 リチャードお祖父さんは、電信でフラットになる前の世界で、遠視塔を作る技術者だった。覚えているかな。ちょっと前まであちこちに建っていた三〇フィートもある石造りの塔を。てっぺんにはできそこないの人形の手足のような棒が何本も突き出しているやつさ。あれが遠視塔。祖父は国内にいくつも遠視塔を建てたんだそうだ。でも、もう使われなくなっちゃった。エジソン師の広めた電信がとってかわった。その後は電話に。
 気配がする。お祖母さんが霊話機を使うといつもこうだ。気配。僕にとって人は気配だ。大きな気配、クールな気配、病んだ気配、素早い気配、いろんな気配がある。いま感じているのがリチャードお祖父さんなのだろうか。背が高くて、どこにいくにも帽子を手放さなかったお祖父さん。今はもうない遠視塔の技術者だったお祖父さん。お祖母さんが話している声は聞こえるけれど、内容はもう聴き取れない。
 死者との通話。それは冒涜的にも思えるけれど。
 ラジオからノイズが聞こえる。ジージー。チューニングしても何も聞こえない。ダイアルをいったん左に回しきって、記憶にある周波数に順番に合わせていっても、やっぱりダメだ。戦争でラジオ局がやられちゃったし、カルフォルニアの青い空も濁ったままだ。いや、嘘ついた。青いかどうかは知らない(だから濁っているかどうかも)。でも色は分かる。そう言うとむかしはよく驚かれた。情熱の赤、冷静の青、大自然の緑、暗闇の黒、白熱灯の黄色。エジソン教徒は白熱灯の下で跪くんだってね。色というのは、人の使う言葉にとてもつよく結びついているので、イメージするのは難しくない。難しいのは色を混ぜること。情熱と大自然を混ぜる?
 突然ラジオから大音量が流れ出して、僕はベッドの上で跳び上がった。なんなんだ。
「てるか。まともな大人はタバコなんざ吸わない。あらゆる害悪の源、悪魔の草、低知性の結晶、政府の陰謀、国を滅ぼす悪習、自然の法に反する。たまたま一時的に合法だからって、こんなものに手を出すな。愚かなやつらの仲間入りをして一生を棒にふる気か。知ってたか、タバコを吸わなくても仕事も、読書も、カードもできる。なのにお前らときたら、テーブルにつくともうタバコを手にしてやがる。このキャプテン・クランチに言わせ」
 まったくおかしなDJだった。ひたすらタバコの害について喚きまくって、ひとしきりがなりたてると今度は唐突に曲が始まった(ファミリービジネスの『ドリーミン・カリフォルニア』)。反タバコの演説とはまるで不釣り合いな軽快なメロディーと能天気な歌詞がスピーカーから溢れだす。僕は呆れて聴いていたけど、ここで我に返った。
「なんだこいつ」
 思わず声が出た。まるでそれを聞いていたかのようにふっつりと曲が途切れた。ほんとになんなんだよ。ダイアルを左右に回して、探す、探す。しかし、さっきまでのうるさいDJがどうしてもみつからない。ラジオから聞こえるのはハム音だけだ。夢でも見ていた、いや聞いていたのか。
 いろいろ試した(ラジオを叩くのを含む)結果これは駄目だと結論を出して、あきらめてベッドに仰向けになった。いつの間にか霊話は終わったらしい。お祖父さんの気配も消えていた。
 ママが生まれたのは第一次ベトナム戦争の最中で、リチャードお祖父さんはママの顔を見ずに戦争で亡くなった。それからお祖母さんがひとりでママを育てた。賢く、かわいらしく、ベル人形にそっくりな金髪の少女。ママは、お祖母さんの自慢の娘だった。ファーストベトナムの末期、ママは大学生になっていた。街じゅうの若者がママにプロポーズしたけど、ママはうんと言わなかった。その前にお祖母さんが立ちふさがった。僕だってゴメンだよ。そんなある日この街に巡回セールスマンがやってきた。辞書と洗剤を売るそのセールスマンはママと出会い、この街に居ついた。それがパパだ。お祖母さんの目をどうやってごまかしたのか知らないけど、ママは妊娠してしまった。ばれるのは時間の問題。だからパパとママは逃げることにした。なかなかやるなあ。でも途中で事故を起こした。二人は病院に運ばれて、ママは僕を産んで死んだ。
 お祖母さんはパパやママの話は滅多にしない。でも僕をひきとって育ててくれたからとても感謝している。科学の教師だったお祖母さんは、ラジオの修理だってできる。数学と文法とエジソン教について教えてくれる。ただ盲人には必要なことがある。少し大きくなった頃、僕は盲学校に通うようになった。第二次ベトナム戦争の起きる前の平和な時代の話だ。フィッシャーマン盲学校って名前だったけど、みんなアサイラムって呼んでいた(そして先生に怒られていた)。アサイラムには僕のように目の見えない子供がいて、僕はそこで点字や空間の把握方法を学んだ。エコーロケーションもジムから教えてもらった。
 お祖母さんのが寝室のドアを閉じる音がした。
 よし、大冒険の時間だ。
 窓を開け放つと虫の音色がどっと流れ込んできた。お祖母さんは絶対に外に出てはいけないと言う。
「外は危険すぎるの。特に、ニコ、あなたには」
 そんなこと言われてもなあ(それとニックって呼んでほしい)。初めて勝手に外出したとき、迷子になった僕をお祖母さんが見つけてくれた。家からほんの十フィートのところで立ちすくんでいたらしい。お祖母さんはひどく怒って僕をクローゼットに閉じ込めた。笑っちゃうよね。クローゼットの中でも外でも僕には変わらない。でもあの狭い空間は嫌いじゃ無い。世界の裏に座り込んだような感覚。あれは嫌いじゃないんだ。
 それから僕はこっそり夜中に外に出るようになった。この辺にはうち以外の家も無いし、危険な動物もいない。せいぜい鹿だ。だから夜の散歩をする。最初は迷子になった十フィートを徹底的に探検した。
 アサイラムで学んだことは、僕たちが思う地図とお祖母さんの地図は違うってこと。僕の地図に道はない。道で区切る意味もないし、道に沿って移動する意味もない。凹凸のある平面の上に知っている場所が点々と存在するのが僕の地図だ。
 音を立てないように窓から外に降りる。
 虫の声。
 草の匂い。足元の湿った土。
 フーバーケインを身体の正面にかまえて、前後に振る。この白い杖の使い方もアサイラムで教えてもらった。ただ僕のはちょっと特別で、握りの部分にバネと板金を組み合わせた仕掛けがある。指で弾くと大きな音が出るんだ。これをエコーロケーションに使う。頭いい。
 アサイラムのジムはエコーロケーションのちょっとした天才だった。やつは口の中で器用に舌を使ってチチチって破裂音を出していた。その反響を聴いて障害物を判定するわけ。まるでコウモリだね。僕はそこまでは無理だけど、障害物の大まかな位置を把握するぐらいのことはできる。
 今日は家から三〇フィートほど離れてみることに決めた。
 ケインを振り、握りについた板を鳴らし、耳を澄ます。一歩踏み出す。足を覆う草の露がひんやりと冷たい。土の感触はすぐにアスファルトに変わる。自動車が通ることのない無人の道路。きっとどこまでも伸びているはずだ。横切ろうとしたとき、はっとした。低い振動が足元から伝わってきた。足を止めてすばやく家の前まで戻る。
 信じられない。
 自動車のエンジン音だった。
 ここはサンノゼまで二〇マイルは離れている山の中だ。むかしはお祖母さんと一緒によくサンタクララなんかにでかけたんだ。ジャパンタウンとかさ。でもある日帰ってきたお祖母さんが言った。
「街はもう無いよ」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。エジソン師にお祈りしなさい」
 それ以来外出することはなくなってしまった。僕ひとりじゃ遠出はできないしね。だから突然現れた自動車には驚かされた。お祖母さんの車とは違うガソリンの匂い。そういえばガソリンもまだ使えるのか。
 エンジンはすぐ近くで止まり、声が降ってきた。
「おどかすなよ。お前さんは誰だい」
 三十代後半、男性、髭面、風呂に入っていない。敵意はなさそう。そして煙草を吸わない。間違いない。
「あなたはDJ?」
「ホッホー。俺の放送を聞いていたのか。海賊放送を聞くとはなかなかみどころがあるやつだな。この車に放送機材を積んであちこち走りながら放送しているんだ。このへんは初めて、というか山道で迷うところだった。やっとこの道路をみつけて命拾いをしたところさ」
 続けてDJは当然の疑問を口にした。
「で、お前さんはなんでこんな時間に明かりもつけずにウロウロしている」
「僕は目が見えないんだ。だから夜のほうが散歩に向いているの」
 フーバーケインをひょいと降ってみせた。
 DJはちょっと驚いたようだった。
「目が見えないから深夜に散歩か。よく車にはねられないもんだ」
「僕は道があるところなんか歩かないから。それに、戦争からこっち滅多に車は通らないよ。あなたのが初めてだ」
「戦争?」
「うん、第二次ベトナム戦争」
 一拍の間。
「ふうむ。もう少し詳しく聞きたいが、今日はもう行かなきゃならん。今夜中にサンノゼに戻りたいからな。俺に連絡をとりたきゃ電話してくれ」
 DJはジョンと名乗ると、電話番号を告げ、重そうなエンジン音を轟かせて消えた。
 ガソリンの匂いだけが残った。
 ジョン、タバコ嫌いのDJ、意外な出会いに興奮してベッドに潜り込んでもなかなか眠れなかった。他人に会うのはひさしぶり。街がなくなってから初めてだ。海賊放送をやってるってことは聴いている人がいるってことだよね。どこにいる、どんな人なんだろうか。もしかすると街も復興しているのかもしれない。必ず電話してみよう。電話網を守ってくれたエジソン教団の人たちには感謝感謝。第二次ベトナム戦争でカリフォルニアが中国軍に攻撃されてたくさんの街が消えた。新聞も本も雑誌もずっと発行されていないそうだ。電信電話網だけは、エジソン教徒が守ったとお祖母さんに教わった。だから国が崩壊しないのです、だって。
 翌日から僕はお祖母さんが外出する日をじっと待った。お祖母さんは僕が電話するのを許してくれないから、いない日を狙うしかない。三日目にお祖母さんは病院に行くと言い出した。
「ドクはいい腕なのよ。戦後のお医者には珍しいわ」
 僕はさっそく電話の前に陣取った。
 電話は面白い。人の神経のように、国中にネットワークが広がっていて、その一番奥には機械の脳が、コンピュータがいる。電話は音で操作できる。それに気づいたのはもうだいぶ前のことだ。目が見えない僕には電話は最高のおもちゃだった。動かなくても誰とでも話せる。最高でしょ。かける相手は自分で見つけた。いたずら電話というやつ。またもやお祖母さんにひどく怒られた。どうも電話局とかいうところから使用料金の請求が来て、僕のいたずらがバレてしまったらしい。お祖母さんはめったに電話しないから、僕が使うとすぐ分かっちゃうんだ。
 そこから電話の研究が始まった。受話器を上げるとツーって音が聞こえる。ボタンを押すとピ、ポ、パってボタンごとに違う音がする。これ、口笛で真似できるって知ってた? 僕はこれに熱中して、毎日こっそり電話機のまえで口笛を吹き続けた。
 アサイラムで決定的な出来事があった。あそこで出会った目の見えない人たちの中には、同じように電話機の探検を趣味にしている人たちがいた。彼らの知識と僕の知識を合わせてみると、いろんなことが分かったんだ。
 電話機は音で電話網をコントロールしている。
 数字を表す音は二つの音を混ぜている。
 トランクラインという特別な電話網に入る音がある。
 トランクラインはオペレータが長距離電話をつなぐときにつかう回線だ。オペレータがだけが持っている特別製の電話機がないとアクセスできない。トランクラインを経由すると別の電話網に入れて、市外通話も可能なんだ。そのトランクラインに普通の電話器から直接入れる音がある。二六〇〇ヘルツ。
 もうひとつとても重要なテクニックがある。まずフリーダイアルにかけて、そこからトランクラインに入ると、電話会社は最初のフリーダイアルにかけ続けていると思い込む。つまり無料で電話ができるというわけ。やったね。こっちはトランクラインにいるから、アメリカ中どこにでもタダで電話ができる。誤算だったのは、それを口笛でできるのが僕だけだったってこと。数字を送るには二つの音を同時に出さないといけない。何も考えずにできた僕はやり方をうまく教えられなかった。やればできるんだから。アサイラムでは玩具のピアノを使うのが流行したけど、そんなの持ち歩けないでしょ。だからこの話もそのうちみんな飽きてしまった。
 まず適当なフリーダイアルにかける。次に深呼吸して、口をすぼめ、送話口にむかって口笛を吹く。きっかり二六〇〇ヘルツの口笛が電話網に吸い込まれていく。電話線という神経をたどり、何キロも先の巨大な網の中央にいるはずの機械の脳をだまし、トランクラインへ侵入する。ここからなら世界中のどこにでもいけるけど、今日は市内のジョンの電話番号に戻す。ジョンは一回で出た。
「お前さんか。名前を聞いてなかったな」
「ニコラス・カーペンター。ニコでいいよ」
「ニコ、この前の話を聞かせてくれ。戦争がどうしたとか言っていただろう」
「第二次ベトナム戦争のこと? 僕よりジョンのほうが詳しいでしょ」
 それでもジョンに促されて、僕はお祖母さんに教わったことを話した。最初のベトナム戦争がいったん終わった後、諦めきれなかったアメリカが三年後にまた戦端をひらいた。今度はアメリカが優勢だったけど中国が参戦してきて形勢が逆転、中国は代理戦争の枠組みを飛び越えてアメリカ本国を爆撃して、主要都市は灰塵に帰してしまった。ほんの一年のあいだのできごとだ。中国は引き上げたものの、アメリカのはひどい傷を負ったままになっている。これがだれでも知っている第二次ベトナム戦争の経緯だ。
「ニコ、お前さんのうちにはラジオやテレビは無いのか」
「ラジオはあるけど、もうほとんどの局が入らない。戦争でラジオ局が破壊されたからだよ。ジョンの海賊放送は」
「おかしいと思わなかったか」
 ジョンの声がなぜか沈んでいる。
「おかしいとは思わなかったか。この国がそんな状態なら、なぜこうしてのんびり電話ができる。なぜ食料に困らない。なぜガソリンで車が走っている」
「電話網はエジソン教の人たちが守ってくれたから」
 僕はつとめて明るく答える。
 それより、ずっと疑問に持っていたことを、思い切ってジョンにきいてみた。
「霊話機のことなんだけど」
「なんだって」
「霊話機。死んだ人と話せる電話」
「スピリチュアル・フォンのことか。エジソンが発明した」
「あ、待って。お祖母さんが帰ってくる。またかけるね」
 電話をきった。お祖母さんはまだ帰ってこない。でも霊話機のことを聞くのが急に怖くなった。ずっと疑問だった。本当に死んだ人と話ができるのだろうか。だとすれば、ママとも話せるのだろうか。
 その日以来お祖母さんは毎日のようにドクのところに通っている。だからジョンに電話するのは簡単なのに、ふんぎりがつかなかった。足の裏でダイニングの床の汚れを気にしていたら、あっという間に一週間が過ぎた。
 霊話機のことは話さないでおこう。そう心に決めて、一方的に口笛のことを話した。
 ジョンはとても興味をもったようだった。彼は軍隊で技術者だったそうだ。じゃあ、なんで僕に第二次ベトナム戦争のことなんか聞いたんだろう。
「しかし、お前さんだけだろう。そんな器用に口笛が吹けるのは」
「うん」
「待てよ。この前なんか言っていたな。霊話機とかなんとか」
 ジョン、その話はしたくない。
「お祖母さんがリチャードお祖父さんと話をするのに使っているんだ」
「そのとき何か変わったことが起きないか。照明が暗くなるとか、お前さんたち以外の声が聞こえるか」
「照明は節約しているんだ。だからあまり使わない。声も、ああ、気配はするよ。近くじゃないけど、お祖父さんが来ているのかもしれない」
「お前さんの口笛の話をきいて思いついたことがある。また電話してくれ」
 それからの騒ぎはなんと説明すればいいだろう。ジョンは、霊話機が詐欺だと疑っていた。
「晩年のエジソンは死者との更新に熱中してな。やつは万物はエネルギーだと信じていた。魂もな。そしてエネルギーは不滅だから、魂も不滅だと信じていたのさ。魂が不滅ならどっかにいるんだろうってことで、霊話機なんてものをつくろうとしたが、うまくいかなかった。五十年も昔の話だ」
 僕が教えたことを元に、電話につないで周波数を自由に出せる機械を作り(ブルーボックス。語源は知らない)、電話網をいろいろ調べたそうだ。そして発見したのがループナンバー。特定の二つの番号をダイアルすると相互に接続して通話ができる仕組みで、相手がダイアルしていなければ何もおきない。
「霊話機は、ループナンバーをダイアルするだけの装置だ。決まった時間にループナンバーに電話をさせて、それを受ける。おそらくお前さんの家に近くに詐欺師はいるはずだ」
 確かにお祖母さんの霊話の時間は決まっていた。それにいつも霊話のときに感じる気配を思い出した。あれはお祖父さんでもなんでもなくて、詐欺師のだったのかも。というわけで、今日は自分の部屋で霊話が始まるのを、気配が現れるのを待っている。窓は開けてある。ひんやりとした空気が流れこんでくる。
 お祖母さんが霊話を始める時間だ。
 窓から音を立てずに外に出た。虫の音と草の匂い。神経を集中すると気配はすぐ見つかった。ほんとうに近くだ。僕はいつも霊話が終わってから窓から出ていた。ぎりぎりのタイミングですれ違っていたんだ。ジョンの海賊放送用の大型車まで移動して、ドアを軽く叩く。気配の方を指さした。
「あれか。ちょっと話してくる」
 ジョンの声が降ってきた。風呂に入ろうよ、ジョン。
 ジョンは詐欺師たちと何を話したかは知らないし、ジョンも言わなかった。詐欺師たちはすぐにどこかに立ち去って、その日からお祖母さんは霊話機を使うことはなくなり、ふさぎこむことが多くなった。
 まだたくさん教えることがあるから、ベイエリアでの仕事が終わったらすぐ戻ってくる。ジョンはそう言った。
「お前さんはこれからいろんなことを学ばねばならん。特に」
 ジョンはそこで言いよどんだ。
「希望を捨てるな」
 ジョンは去っていった。
 僕は考えることがある。
 霊話機をお祖母さんに渡せるのは誰だろう。滅多に人に出会うこともないこの山の中で、お祖母さんに霊話機を渡せるほど信頼されている人物。決まった時間に霊話するようにアドバイスできる人物。
 ドクだ。
 霊話なんて話を吹き込んで、お祖母さんに手渡せる人は他にいない。でも確かめる方法はない。僕はドクが誰なのか知らないし、どこに住んでいるかも知らない。お祖母さんを騙した医者は何者だろう。
 こんなとき自分が光も闇もない空間に浮かんでいるような気になる。
 たぶん世界は僕が思っているようなものとは違う。
 点字機で文字を打つときのように、クローゼットの中で物思いにふけるときのように、裏と表があって、どちらから捉えるかですっかり変わってしまう。
 僕は手の中の霊話機をなでてみた。お祖母さんが捨てようとしたのをもらったんだ。電話機によく似ていて、一回りほど小さくて、ボタンがひとつしかない。これが死者と通話するボタン。何度か指を滑らせ、思いきって押した。霊話機を置き、窓から身を乗り出して耳を澄ませる。エジソン教徒たちがやってくる。そんな気がして。

ジョン

 直方体のケースに、電話機と同じボタンが三行四列、合計十二個並んでいた。側面にも別のスイッチがひとつ。そして小さなスピーカが付いている。ジョンがニコラスからの情報を元に作ったブルーボックスだった。これさえあれば電話を自由に操ることができる。電話網を通じてどこにでももぐりこみ、聞き取り、通話できる。張り巡らされたネットワークの視点から、世界を捉え直すことができる。
 まあ、電話網が生きていればの話だ。
 まだかろうじて、電話網は維持されている。しかしそれほど長く持たないだろう。ネットワークは眼に見えないが、またもうひとつの世界なのだ。裏側の世界が崩壊すれば表の世界も終焉を迎えるだろう。
 ジョンはブルーボックスをダッシュボードに押し込むと、車を出した。
 フロントガラスから広がるカルフォルニアの広い空は茶色に濁っている。第二次ベトナム戦争でまさかこの国が戦場になるとは思っても見なかった。すっかり荒れ果てた101を走る。両脇には瓦礫の山が延々と続いき、ところどころから黒い煙が上がっている。人影はない。
 マイクを握って生存者に話しかける。
「お前ら、生きているか。クソのように降ってきた爆弾や、汚れた空気や、腐った水や、濁った空を、笑ってやりすごしてきたか。昨日死んじまったダチや、小さな家に住む目の見えない少年のことを思い出すか。俺はキャプテン・クランチ。お前らのDJだ。俺たちの曲を聞かせてやる。おっと煙草を吸うやつは悪いが向こうに行ってくれ」
 ときにはニコラスのような相手に会える。ニコラス。口笛で電話網に入り込むあの少年には、この国が滅びかかっているなんて言えなかった。祖母と二人で暮らす盲目の少年には、とても。通信を、電話網を、裏側の世界を救うには。
 トラヴェリンバンドの『ライト・オブ・トレイン』をかける。絞りだすような、それでいてよく響くヴォーカル。人種差別のひどかったころのこの国を歌う曲だ。皮肉なことにこの国からもはや人種差別も何も無くなってしまった。あるのは生存本能だけだ。
 目の前に黒いものが飛び出した。
「くそっ」
 ジョンはブレーキを踏み込んだ。タイヤがきしんで焦げ臭い匂いを放った。
 道路の真ん中にフラフラと飛び出した人影が倒れる。ジョンは車を止めてじっと周囲をうかがった。ここで無条件に車を降りるほどお人好しではない。たっぷり五分ほど待ってからゆっくりとドアを開けた。痩せこけた男が道路の真ん中に座り込んでいる。男は手のひらを上下に振るとかすれた声で言った。
「ガソリンがある。俺には用がない。何か交換するものはあるか」
「食い物はない。音楽がある」
 真っ黒に汚れた男の両目が輝いた。
「音楽と言ったか。レコードか、テープか」
「両方あるぜ。なにがいいんだ」
「オンタイムの『サプライズ・オン・レイルズ』はあるかい」
「テープで渡す。先にガソリンをよこせ」
 痩せた男は身軽に立ち上がり、ひょこひょこと身体を揺らしながら瓦礫の向こうに姿を消したかと思うと、大型のポリタンクを引きずりだしてきた。ジョンも降りて積みこむのを手伝う。
「曲はどうやってきくんだ」
「カセットテープレコーダがある。あれなら電池で動くし、電池ならこのへんでまだ掘り出せるからな。全ての電池がなくなるまで長生きできる気もしないし、それでいいさ」
「分かった」
 ダビングの間、痩せた男はダグと名乗りあれこれと話しかけてきた。このあたりの生存者は小さいながらもコミュニティを作っているという。確かに瓦礫の隙間に住居らしきものが散在している。
「そいつらはどこに行ったんだ。姿が見えないようだが」
「森だよ」手をひらひらと動かす。「俺は留守番」
「留守番が勝手にガソリンを売っていいのか」
 ダグは薄笑いを浮かべて答えない。こういうところに長居は無用だ。
 ダビングの終わったテープを取り出して渡した。
「じゃあな」
「森には行くなよ。あそこにはスレンダーマンがいるんだ。子供が行方不明になったって全員ででかけていったが、果たして何人帰ることやら」
「ガキの怪談かよ」
「嘘じゃねえぜ。森は人を呼ぶそうだぜ。気をつけるんだな」
  101はロサンゼルスからオレゴンまで続く長大なハイウェイだが、戦争の影響でずたずたに寸断された状態になっていた。細かく側道を迂回しないと前に進めない上に、それがトラップの可能性もあるので気が抜けない。
 道路の真ん中にわざとらしく瓦礫が積み上げてある。罠にも見えるが、他に道もない。ジョンはしかたなく何度目かの側道に車を乗り入れた。道はひどく狭かったが意外なほど整備されており、パンクの心配もなかった。少し機嫌を直して進むが、くねくねと蛇行する道にすぐに方向がわからなくなった。空はいつもの茶色に濁り、なんの情報も与えてくれない。唐突に道がひらけると、そこは森だった。
 戻れと本能はささやいていたが、ジョンは車を降りた。小型の拳銃を右手に握りしめる。
 ダグの言葉がひっかかっていた。
 子供が行方不明。どうもニコラスと知り合ってから自分はずいぶんと甘くなってしまったらしい。こんなことをしていたら命を落とすことになる。自嘲しながら森に足を踏み入れた。森の木々は汚れて黒い。
 日光が直接そそぐことのない土地の森はなおさら暗い。
 ジョンは奥へ奥へと進んだ。不思議と行く先には確信があった。
 半時間ほど歩いただろうか、まるで森を繰り抜いたような木が一本も生えていない場所に、それはあった。十フィートは優に超える細長い胴体に、枯れ枝のように細長い腕が何本も生えている。
 スレンダーマン。
 陰からひとりの男が現れた。黒っぽい布で顔をおおい、その中から鋭い目でジョンを睨んでいる。
「これは遠視塔だな」
「お前は」
 しわがれた声で男がぼそりと問うた。それをきっかけにしたようにひとり、またひとりと人影が森から現れた。
「そうか。あんたらがコミュニティか」
 遠視塔の扉が開き、中から少年が顔を見せた。それがニコラスの顔に見えて、ジョンは動揺する。遠視塔の中には、一フィートほどのバーを何本も組み合わせた操作部がある。操作部のバーを動かすと、遠視塔の外に付いている腕が同期して動く。操作部は遠視塔のいわばミニチュアなのだ。遠視塔の動作は、別の遠視塔から望遠鏡でチェックする。そして、同じ動作を繰り返し、次々と遠くの遠視塔に伝える。これが電話や電信が広まる前の唯一の高速通信システムだった。
「お前は」
 男がふたたび同じ問いを発した。
「俺はジョン。敵じゃない。ダグってやつにきいてここまできた」
 男はじっとジョンをみつめながら話し始めた。
「この国に必要な物はなんだと思う。食料か。きれいな水か。それもあるだろう。しかし人はお互い知ることが必要だ。孤独は人間を疑心暗鬼にする。俺たちは通信を復活させたい。電話網はかろうじて機能しているが、交換手がいなければ遠距離通信はできん。しかも電力の供給は日々不安定になっている。もっとシンプルで安定したシステムが必要だ」
「だから遠視塔か」
「このまま通信が滅ぶのを看過するわけにはいかない。エジソン教徒としてね」
「電話網はまだ死んでない。自由にアクセスできる」
「それは本当なのか」
 最初の男は疑わしげだ。
「ああ、本当だ。後で見せよう。硬貨もオペレータもいらない。遠視塔と電話、このふたつがあれば通信をなんとか維持できるはずだ」
「あっ」
 少年が空を見上げた。
 つられて男とジョンが、そしてエジソン教徒たちが同じように空を見上げた。
 濁った茶色い空に小さなひびが入り、太陽光が漏れ出して、黒い森を青く照らしていた。

保安官

 みるからに保安官、ファーガソンはそんな男だった。がっしりとした引き締まった肉体をワークシャツと縦縞のベストとジーンズに包み、テンガロンハットを少し傾けて乗せている。もちろん幅の広い革のベルト、ハットには星形の鋲がずらりと並んでいた。これで口の端からシガーをぶらさげていれば完璧なんだが。保安官助手のポップは考える。大股で歩く保安官はカルフォルニアの直射日光を浴びても汗一つかいていない。それに比べてオイラは。ポップは汚れたハンカチで顔を拭きながら、保安官を必死で追いかける。この百八十ポンドの体重をなんとかしないといけないな。ポップはその日何度目かのダイエットを決意する。
 保安官は小さなダイナーに入るとお決まりの窓際の席に座り、いつものクラブサンドと砂糖てんこもりのドーナツを注文する。あれで太らないんだから。ポップはコーヒーを頼む。保安官はウェイトレスのメアリに冗談を言うことも忘れない。メアリは保安官の肩を叩き、うれしそうに厨房に入って行く。入れ替わりに出てきたダイナーの主人はメキシコ系の陽気な男だ。さあ名前はなんと言ったっけ。ポップは思い出せない。
「商売はどうだい。ファン」
 そうだった。ファンカルロス・ディアス。なんでメキシコ料理の店を出さないんだ。
 ファンカルロスは笑みを浮かべ保安官と二言三言会話を交わす。いつの間にか保安官のテーブルの上に小さな封筒が置いてある。ファーガメン保安官はそれをポケットに滑りこませる。中身は十ドル札が何枚か。
 ファーガソンは悪徳保安官だった。悪人からも善人からも等しく金をまきあげる。
 ファーガソンにとって犯罪捜査とは新しい金づるの発見だ。だから捜査には熱心で、それが市民の信頼の元になっている。金を脅しとられていない市民の。
 ファーガソンは一種芸術的な金額設定の能力があるらしく、不法移民を見逃してもらっているファンだって恨んでいるようにも思えない。
「ちょうどいい。それが大事だ」
 食事を終えた保安官は車に乗り込み、ボップに行き先を告げた。
「アサイラム」
 フィッシャーマン精神病院は薬品の横流しをファーガソンにおさえられて以来、保安官の言いなりになっていた。しかし、「今月分」は先週回収済みのはずだ。ちなみにアサイラムの「ちょうどいい」は三百ドルだった。ポップの顔を見て、ミラーサングラスをかけた保安官が続けた。
「捜査だ」
「捜査ですか」
「上からの命令だ。このへんで電話のただがけをしまくっているやつがいるってんで、マベルはカンカンだ」
「マベル?」
「ATT(米国電信電話公社)。トラック一台分の弁護士を警察署に送りつけてきたらしい」
「それがなんでまたアサイラムなんですか」
「行けば分かる」
 フィッシャーマン精神病院、通称アサイラムは深い森に覆われた山に近い地区にある。比較的軽症の患者を収容する木造の新棟と、重症患者用の石造りの旧棟が縦に並ぶ構造だった。
 受付をすますと、アサイラムの医師に先導されて保安官とポップは旧棟に足を運ぶ。
 明るい日差しを大きく取り入れる作りの新棟から、一歩旧棟に入ると、石造りの重苦しさがポップを圧倒する。ひんやりとした空気にもかかわらずどっと汗が吹き出す。ポップはしきりに汗をぬぐう。廊下の左右にずらりと重そうな扉が並んでいた。笑い声や話し声や叫び声が廊下に染みのように漏れて出てくる。冗談じゃないぞ。ポップ腰のあたりをもぞもぞと動かした。
「ここです。患者の名前は不明。自分ではジョンと言っています。職業も不詳。こっちも自己申告では海賊放送のDJ」
 医師が説明しながら古めかしい鍵で扉を開ける。
 女性ボーカルの美しい旋律が流れ出してきた。
「アワ・ニュー・ビギニング」
「ご名答」
 答えたのは、ベッドに横たわるひげ面の男だ。部屋にはベッドの他に洗面台と小さな棚があり、私物が置けるようになっている。そこにいくつかの見たこともない機械が並んでいる。ポップには何に使うものか見当もつかない。
「そいつがブルーボックスかい」
「ホッホー。お前さんは保安官だな。そうだろう、どこからみても保安官だ。で、こいつは、そうさ、ブルーボックスだ」
「金を支払わずに電話をすれば、誰かが怒る」
「そういう考え方もあるな」
「あんたの考え方とやらを聞こうじゃないか」
「俺の考えか。単純さ。通信を守る。電話網は人と人をつなぐもっとも重要なインフラだ。誰とも会話をせずに人間がひとりで生きていけると思うか。電話網は、この国の血管のようなもんだ。全部つながっていて意味がある。電話網は一部の企業が独占していいようなものじゃないんだよ。それが今や崩壊の危機だ。第二次ベトナム戦争に中国が参戦するとは誰も思わなかった。おかげでこの国は死にかけている。だから俺はブルーボックスを作ったし、これからも作る」
 保安官は医師の方を見た。
「いつもこの調子です。合衆国が戦争で滅んだという妄想にとらわれている。ほかは普通ですし、むしろ知能は高い。だからこそ困るわけですが」
「外を見せればいいじゃないか」
「もちろん試しましたが、ジョンには見えていないようでダメなんです。視力の問題なのか、認識の問題なのか。まあ本人が言うには自分は世界を裏側から見ている。そうすると本当のことが分かるそうです」
「そいつはもらっていくぞ」
 保安官が目配せをしたので、ポップは慌てて立ち上がり、ジョンと名乗る患者が作ったブルーボックスを抱え込む。曲が『風の中の誰か』に変わる。
 旧棟を出たところで、ポップは思わず長々と息を吐く。
「あんな話をきいてどうするんです」
「お前、ジョイス・カーペンターを知っているか」
「山に篭っている変わり者のばあさんでしょ。確か孫をひきとって育てている」
「それだ。そこへ行ってくれ」
 ブルーボックスの山を後部座席に投げ出して、ポップは運転席に座った。
 ジョイス・カーペンターの家は山沿いの小さな一軒家だ。ポップが庭先に車を止めると、すぐにジョイスが玄関から姿を見せる。
「ドク」
 軍医あがりのファーガソンは市民からはドクと呼ばれている。
「ジョイス。元気そうだね」
「ドクのおかげよ。でも最近ちょっと足が痛くて。このあたり家もなければお店もないでしょ。車ばかりであまり歩かないから弱ってきちゃったのかしらねえ」
「ジョイス」
「何かいいお薬でもないかしら」
「分かった。あとで持ってこよう。ああ、すまないが、今日はニコラスに用事があるんだ」
「ニコですって」
 途端にジョイスの声に険しいものが交じる。
 ポップは呆れてこのやりとりを聞いていた。まるであれじゃ本物の医者と患者じゃないか。保安官は今度は医療詐欺でもやるつもりなのか。
 ジョイスはしぶしぶと言った様子でニコラスを呼びに戻っていく。
 保安官がポップの元にやってきて囁く。
「車をすぐ出せるように用意しておけ」
「これは何のジョークなんですか」
「ジョイスは普通じゃない」
「それは分かりますよ。保安官を医者と間違えている。ぼけちゃってんですかね」
「それはまだいいんだ。問題はニコラスの方だ。やつは盲目なんだ」
「それは知ってますけど、あの婆さんが教育しているんでしょ。珍しく科学の教師だったって聞きましたけど」
「ジョイスの娘のことは知っているか」
「娘って、ニコラスの母親ですか。知りません。僕がこの街に来たときはもうあの婆さんは変わり者で有名でしたよ」
「ジョイスの娘はだいぶ前に事故でなくなっている。それ以来、自分の娘のことを許していないんだ。駆け落ちだったからな」
「へえ、許さないってもう死んでるんですよね」
「一部は死んでないな。それがあのニコラスだ。母親に生き写しだそうだ。ジョイスはあの少年が盲目なのをいいことに、ここに閉じ込めて一切情報も教育も与えていない。自分で勝手に作り上げた妄想の歴史を吹き込んで、この世には何も希望はないと思わせようとしたんだ。最初は質の悪いジョークのつもりだったんだろうよ。そのうち自分でもわけがわからなくなった」
「ああ、ばあさんボケちゃってるから」
「このままじゃニコラスがどうなるか分からん。とりあえで自治体で保護する」
「サービス満点ですね。LASDって不幸な子どもや惚けたばあさんの面倒まで見るんですか」
「ニコラスは特別だ。ブルーボックスの仕組みを自称ジョンに教えたのはニコラスなんだ。あの子をどうにかされるとこっちが困る」
 ポップが目を丸くする。あのガキがあの妙ちきりんな機械の作り方を教えた?
「ドク」
 ジョイスの声に二人は振り向いた。傍らには小柄な金髪の少年、ニコラス・カーペンターが不安そうに立っている。少年の手には盲人用の白い杖、フーバーケインが握られている。保安官はニコラスに近づき小声で話す。少年は青ざめた顔で小さく頷いた。
「ジョイス、薬はすぐ持ってきますよ。その前にニコラスの診察をしないと」
「お願いしますよ。その子は大事な孫ですからね。母親が帰宅する前にかえしてくださいね」
「分かっているよ」
 少年を後部座席に乗せると、ポップは素早く車を出す。頭がおかしくなりそうだ。
 ちらちらと少年の顔をバックミラーで見ながら、横に座る保安官にささやくような声で尋ねる。
「何を吹きこまれたんですか、この小僧」
「もう国は滅びたと言われていたようだ。エジソン教団の信者が復興しようとしているとかなんとか、そんな与太話だ」
「エジソン教。なんですかそれは」
 ファーガソン保安官はそれには答えない。車はまっすぐサンノゼのダウンタウンを目指して走る。一分の隙もない保安官のベストには、大きな星の保安官バッジと並んで小さなバッジが光っていた。白熱電球をかたどったバッジ。まぶしいぐらいの空の青を反射している。

ニコ、ジョン、保安官

2015年10月9日 発行 初版

著  者:松永肇一
発  行:まつなが出版

bb_B_00139073
bcck: http://bccks.jp/bcck/00139073/info
user: http://bccks.jp/user/118761
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

松永肇一

エンジニア、二児の父。Ruby、SF、(生きている)ジョブズ好き、コミック「STEVES(スティーブズ)」の原作者。

jacket