spine
jacket

───────────────────────



『転生』

南原充士

亜鈴亭阿舎



───────────────────────




  この本はタチヨミ版です。


第一章 誤 配

 この頃は宇宙ステーションも過去に比べると数もふえ従来の実験や研究目的の滞在以外にもある程度短期の観光旅行もビジネスとして成り立つようになっていた。ロケット打ち上げの成功率もほぼ百パーセントの成功率を達成するに至ってスペースシャトルの需要も高まりそれに伴ってパイロットやクルーの需要も増加していた。とはいえ現時点では、月まで行けるような宇宙技術までは開発できてはいなかったし、人類が地球以外のスペースに移住するにはまだまだ気の遠くなるような時間がかかるだろうと言われていた。
 コータは、二十八歳の背年宇宙パイロットとして、すでに一人前の仕事をこなしており、月一度ぐらいのペースで主として旅行業者主催の観光ツアーを担当していた。それほど頻繁ではないとはいえ、心身の健康維持は特別に気を遣う必要があったし、一度宇宙ステーションまで往復すると極度の疲労を覚えた。それでも、仕事はやりがいがあったし、収入もかなり高額だったので、十分の休養をとることで疲労回復を確保して次ぎのフライトに備えるのだった。
 コータには、三歳年下のクミというガールフレンドがいた。クミは、いわゆる帰国子女で英語が堪能だったし、国際的な感覚を身につけていたものの、日本人として日本の伝統文化にも愛着を感じていた。また、めぐまれた容姿を生かしてモデルの仕事をしていた。それほど有名なモデルというわけではなかったものの、ちょっとした雑誌や広告などにしばしば登場していた。
 二人とも忙しい日々を送っていたので、なかなか会う時間が持てないのが悩みだったが、それでもできるだけ都合を合わせてわずかの時間でも一緒にすごすようにしていた。
 今日は二週間ぶりにコータの部屋で会うことになっていた。どこかで食事をしてからコータのマンションに来ることが多かったのだが、今回はコータの帰宅がかなり遅い時間になりそうだったので合鍵を持っているクミが先に部屋に行って待っていることにしたのだった。クミも一人暮らしだったので、同居してしまったほうがお互い便利なような気もしたが、二人は生活のペースがかなり違っていたし、拘束し合わないという点でなんとなく暗黙の了解ができていたのだった。
 今年の梅雨は例年になくしつこく、このところ雨が降り続いていた。その日もじとじと降る雨の中を派手な傘をさしたクミが午後七時頃コータのマンションにやって来た。コータと飲むためのワインは部屋においてあったが、それに合わせたつまみは調達する必要があったので、生ハムやチーズなどを買い込んできたのだった。
 クミは、コータの部屋に来るたびにコータの体臭を嗅ぎ取った。正確には、コータが愛用しているオーデコロンと体臭が混ざった臭いを。クミは、コータと付き合うようになってから、麝香のような強くてセクシーな香りのコロンを勧めもしプレゼントもしていた。それまでの柑橘系の香りはあっさりし過ぎていてクミには物足りなかったのだった。
 クミは感性の鋭いタイプの女性だった。特に臭いには敏感だった。体臭や口臭にも気を配って身づくろいしたし、食べ物、ゴミ、建物、インテリア、家具、小物なども清潔感をたいせつにして取り扱った。
 いつもの習慣でふきんを濡らしてテーブルやキッチンの周りをきれいに拭き、掃除機で軽くほこりを除去したあと、コンパクトなソファに座ってテレビのスイッチをつけた。ニュース番組は終り、バラエティショー、スポーツ番組、ドラマなどが放映されていたが、クミは海外の観光スポットを紹介する番組を選んだ。クミはアメリカに住んだ経験があったものの、それ以外の国々に行った経験は少なかったので、できればヨーロッパやアジアなどにも旅行に行きたいと思っていたが、コータがあまり旅行好きではないので無理に誘うことは差し控えていたのだった。
 その番組では、イタリア特集ということで、何回かに分けてイタリアの有名な観光地を紹介していた。今回はフィレンツェがとりあげられていた。
 行ったことはないものの、フイレンツェの街の映像は何度か目にしたことがあるような気がした。メディチ家の隆盛を忍ばせる宮殿や街づくりやあちこちに残る紋章が画面に表れた。ダ・ヴィンチやボッティチェッリなどの名画を集めた世界的に有名なウフィッツィ美術館も取り上げられた。
 それから場面はおすすめのレストランや料理に移った。季節的にはかなり暑い頃なので、歩きながらアイスクリームを舐める観光客の姿があり、焼きたてのピザを味わうひとびとのようすがあった。小さなレストランやピッツェリアさらに地元の肉料理やワインを楽しめる高級レストランの紹介もなされた。クミはおいしいものに眼が無いほうだったので、いつかはあんなレストランで食事をしたいと漠然と思った。
 次にショッピングの紹介がなされた。フィレンツェは革製品で有名らしかった。腕のよい職人が作るバッグや靴や革製品などがおすすめらしかった。クミはおしゃれなバッグもほしいと思った。ヴェッキオ橋の上には貴金属品を売る店がいくつも並んでいるという。そうだ、ちょっとしたアクセサリーもいい記念になるとクミは想像をたくましくした。
 キッチンで軽くワインのつまみになるような食材をとりそろえたりしながら、テレビを見ていたので、ところどころ見逃したものの、フィレンツェの映像はクミの心に強い印象を残した。
 番組が終わったので、次はどの番組を見ようかと考えたときふとこの前この部屋に来たとき予約しておいたファッションショーを見ていないことを思い出して録画の再生装置を操作しようとしたときDVDが挿入されたままになっていることに気づいた。
 コータがなにを見ていたのかちょっと興味を覚えてそのDVDを再生してみた。
 クミの顔が急に曇った。画面に映し出されたのは、グロテスクな裸の男たちの絡み合う姿だった。外国人の大きな体とクロースアップされた局部が目に入ったとき、クミは反射的にリモコンのボタンを押していた。クミはおぞましいものを見たようなショックを受けた。コータにはゲイの趣味があったのだろうか?予想外の発見に動揺した。
 クミとしても一般論として世の中に同性愛者がいることそして個人の自由は尊重されるべきだということは理解していたが、いざ自分の恋人がそうかもしれないという状況に直面してみると、なんだかパニックに陥ってしまったような気分だった。
 考えてみれば、自分にも親しい同性の友人がいるし、なにかというと体に触れ合ったり抱き合ったりする。だからレスビアンという感覚もあながち理解できないものではないような気がした。ただ、性的な関係まで行くとなると、なにかを踏み越えてしまった罪悪の臭いがするような感じもして複雑な感情が沸き起こった。男同士の肉体関係は女同士の場合に比べてよりリアルで汚らしいという先入観も入り混じり、それを偏見だとして打ち消そうとする意識と葛藤する自分を感じた。コータがクミとの性行為にいまいち積極的でないように思えるのはひょっとするとコータが同性愛者あるいはいわゆるバイセクシュアルであるせいかもしれない。クミは思い悩みながら、気を取り直そうと、テレビ番組を見ながら、できるだけたわいもない内容のものを選ぼうと思った。お笑い芸人によるクイズ番組があった。それにチャンネルを合わせるとケラケラ笑う出演者の顔が大写しになった。クミはただぼんやりと画面に目をやりながら時計をときどき見やった。そろそろコータが帰ってくる時間だった。
 窓から外を見てみると相変わらず雨が降り続いていることがわかった。うっとうしさがなお増すような景色に思えた。
 クミはめずらしくひとりでアルコールに手を出した。普段はコータと一緒でないとお酒を飲むことはなかったのだが。冷蔵庫にはワイン以外に缶ビールが冷えていた。クミは缶ビールを取り出してタブを引き上げ、そのまま口につけて飲んだ。冷たくて苦かった。
 クイズでは、世界で一番観光客の多く訪れる国はどこか、という問いが出されていた。クミは、どこかなあと考えた。アメリカかヨーロッパだろう。うーん。歴史の古さや芸術文化の蓄積ということからすれば、フランス、イギリス、イタリアあたりだろうか。うーん。フランスかな。パリという際立って魅力的な首都。やっぱり。クイズの答えは、フランスだった。小さなことでも当たればうれしい。ついついクイズに引き込まれる。
 いくつかの問題が出されて、クミはなぜか全問正解だった。あまりクイズが得意なほうだという意識はなかったので、山勘が働くことがあるということだろうと思った。
 クミは、ふと部屋に置かれてある時計を見た。間もなく十時になろうとしていた。コータがそろそろ帰ってくる時間だ。クミは立ち上がり、チーズ,生ハム、サラミ、レタス、トマト、かまぼこなどを冷蔵庫から取り出して手早く皿に盛った。冷やしておいたワインボトルも取り出した。クミはモデルという仕事をしている関係であまり手の込んだ料理をすることはなかったが、いずれ結婚することとなればきちんと料理を習って夫となる相手に喜んでもらいたいと漠然とは考えていた。家事の嫌いな女性というイメージはクミにとってはマイナスだった。とはいえ、今なにか努力しているというわけではなかった。
 テレビでは金曜ドラマが始まった。クミとしてはめずらしく続けて見ているドラマだった。登場人物があまりにも人がよすぎるので、嘘っぽいとは思うのだが、妙に気になって見てしまうのだった。モデルの仕事は割りと不規則だったし、ないときは月に一回ということもあり、集中するときは数回も仕事が入った。忙しいときは録画しておけばいつでも好きなときに見ることができた。とにかくヒロインが善良なのだった。騙されても傷ついても事故や病気にあってもくじけないのだった。そして他人に限りなくやさしいのだった。家族にも恋人にも友達にも学校や会社や地域のひとにも。今時そんな天使みたいな女性はいない、と強く否定しながら、なぜかそのヒロインに惹かれる自分がいるのだった。
 その日のストーリーは、重病の従姉妹のために片方の腎臓を提供するという話だった。クミは自分ならとてもそんなことはできないだろうと思いながら、ドラマの中の腎臓移植手術のようすを見ていた。腎臓が切り取られるシーンは真に迫っていた。おそらく合成した映像だったのだろう。胸が悪くなりそうだったが、画面から目を離すことができなかった。
 そのときドアがかちゃっと開く音がした。「ただいま」というコータの声がした。クミは反射的に立ち上がって玄関まで走るようにした。
 にこやかな表情を浮かべたコータが両手を差し出した中へとクミは身を投げた。コータはクミをぎゅっと抱きしめながら「待たせたね」と言った。
「ううん」とクミは言いながら、体の方向を変え、テレビを見ていたリビングルームのほうへ向かった。
 コータが追いついたとき、クミはキスを求めるそぶりをしたが、コータは、手を洗ってくるからと言った。コータは職業柄風邪とか感染症とかに特別な注意を払っていた。
 クミは、手洗い、うがい、着替えさえ済ませたコータの熱い抱擁とキスを受けて満足した後、テーブルに食器を並べ始めた。
 コータはいつ見てもさわやかな表情をしているように見える。特にハンサムというわけではないのだが、おそらく穏やかで楽天的な性格とある程度の知性と強靭な体力とがうまくマッチしていかにも頼りがいのある男という印象を与えるのだった。コータは、同世代の男たちに比べて収入もかなり多かったし、女たちから見ればかなり魅力的な存在と映っただろう。
 ひとつだけ問題があるとしたら、仕事柄、フライトのための周到な準備やフライトの最中の心身への重たいストレスへの対応、フライト明けの十分な休養など、かなりきめ細かなマニュアルどおりに生活をすることが求められるため、手放しでデートを楽しめる時間がとりにくいことだった。コータは、仕事にやりがいを感じているらしく、プライベートな部分にあまり時間を割けないことにはそれほど大きな苦痛を感じているわけではなさそうだった。
 それでも、クミは積極的にコンタクトをとろうとしてきたし、美貌と教養という面ではかなりハイレベルに属すると言えたうえ、明るくておしゃべりな点が、比較的口数の少ないコータには居心地がよかったのだろう。最近では、コータの部屋に泊まっていくことが習慣化していた。若い男女にとっていっしょに夜を過ごすことはかけがえのない歓びであったし、自然な成り行きだっただろう。
 クミが用意しておいたいくつかの食べ物を載せたお皿を並べるのを見ながら、コータはワインボトルの栓を抜き始めた。
 ボルドーの赤ワインが定番だったが、今晩は、イタリア産のバローロだった。
 きれいに栓が抜けたのでクミが少し称賛めいた視線を送った。
軽くテイスティングをしたのち、コータは、二つの大き目のワイングラスに三分の一ほどずつ注いだ。
ふたりは待ちかねたように乾杯をした。ネビオーロの重厚な喉越しがふたりに大きな満足を与えた。
「三週間ぶりだね」
「そうね」
 コータはクミの顔を見つめながら、「元気そうだね。なにかいいニュースがあるのかな?」と言った。
「ううん。でも、なかよしの友達から誘われて女子会に行くようになって、けっこう同性のともだちがふえたかも」
「そりゃいいね。男でも女でも友達が多いのはいいことだと思うよ。楽しいしなんだかんだいってプラスになるから」
「男のひとといるより女同士のほうが気楽ってこともあるのよね」
「そっか」
「テレビドラマや週刊誌なんかじゃ、すぐ恋愛とか結婚とか不倫とかそんな話題ばかりとりあげるけど、実際はもっと地味なところで生きてるんだと思うんだ」
 クミはいつもよりワインを空けるピッチが早かった。
「どうしたの?クミらしくない言い方だね」
 クミはちょっと小首を傾げた後言った。
「ははは。わたしらしくないね。ほんとうはエッチなことが大好きなのに・・・なんてそんなことを言わせないでよ、コータ」
 コータも穏やかな表情でクミの顔をながめながらブルーチーズをつまみワインを飲んだ。
「なかなかいいね、このワイン。ボディがしっかりしてて」
「そうね、フランスワインもいいけど、イタリアワインもなかなかいいわね」
 クミは生ハムを巻いたメロンを一切れ口に運んだ。空のワイングラスにコータがワインを注いだ。クミはサンキュと言いながら一口飲んだ。
「一緒に飲む人がいいとおいしいのよね」と言いながら方目をつぶってみせた。
 コータは茶目っ気のあるところに惹かれるものを感じた。
「ところで、コータはどうだったの?」クミが聞いた。
「今度のツアーは気難しいお金持ちのおば様が多くてくたびれたよ。宇宙旅行って年齢が高くなるときついはずなんだけど、どうしちゃったんだろうね、みんな元気で、ぼくのほうがまいっちゃった」
「生物学的に女の方が強いのよ。長生きするし、無重力にも強いのかもね」
「医学的なことまではよくわからないけど、スペースステーションでの過ごし方を見ているとやっぱり女の方が男より耐える力が強いのかなって感じるよ」
 コータは珍しく仕事のことを話した。
 クミはうれしそうにコータの話に耳を傾けた。
「もう一本ワイン開けようか?」コータが言った。
「そうね。そうしましょう」クミは即座に答えた。
「きょうはなんだかお酒が進むね。もうずいぶん飲んだような気がする」
「ふふふ。いいんじゃない。気分よく飲めるときばかりじゃないし」
「そうだね。じゃあ、奮発してボルドー行こうか?」
コータは、何本かあるストックの中からその中では最高級のボトルを取り出して、栓を抜き始めた。手がすべってソムリエナイフがキキキといういやな音を立てた。コルクが半ば割れそうになったもののなんとかうまく抜けた。
 テイスティングはコータの役割だった。コータはワインを静かに口に含んだ後、
「おっ、こりゃすげえ」と言いながら、クミのグラスにも注いだ。
「おいしいわね」クミもちょっと飲んだだけでそう言った。
 時間は瞬く間に過ぎていき、クミは最後にピザを並べた。コータがコーヒーを入れた。ふたりは、十分に飲み食いして満足の至りだった。
 ふたりは空いたボトルや食器を片付けた後、いつものようにクミが先にシャワーを浴びた。
コータがシャワーを浴び終わる頃には、クミはネグリジェに着替えてベッドに横たわりながらファッション雑誌をめくっていた。気がつけば、ムーディーなインストルメンタルの音楽が部屋に流れていた。部屋の照明がすこし暗くなっていた。
 コータはバスタオルのままクミのそばにより、慣れた手つきでクミの髪を撫でた。そしてクミの脇に寝そべって静かにクミの肩を撫でた。クミは雑誌を手放し、コータの腕の中に身を寄せた。コータはそっとクミの顔を抑えて軽くキスをした。そして次第に激しいキスへと変わっていった。コータがクミを強く抱きしめいとしさをぶつけるように愛撫して次のステップへ移ろうとしたとき、クミはふと目を開けてコータに呼びかけた。
「ねえ」
「なーに」
「気になることがあるのよ」
「一体どうしたの。なにが気になるの」
 コータは不思議そうにクミを見た。
 クミはちょっと迷うようなしぐさを見えたが、やがて思い切ったように言った。
「あのDVDのことなだけど・・・」
「うん?DVD?」
 コータは一瞬意味がわからずにクミの顔をながめた。
「ほら、なんか変なDVDあるでしょう?あのレコーダーのとこに」
 コータはやっと思い出した。そして言った。
「ああ、あれか。あれねえ、なんか間違って配達されたみたいなんだ。ぼく注文したおぼえがないんだよ。土砂降りの雨が降ってた日に配達されたんで、宛名や差出人の文字がひどく滲み出して読めなくなってたんだよ」
「ほんとう?」クミは疑り深い目で至近距離にいるコータの目を見た。
「ほんとうだよ」
「じゃ、なぜ送り返さなかったの?」
「ああ、仕事が立て込んでてついつい忘れちゃったんだ。それになんだか返送しづらいじゃない」
 クミは半信半疑だったが、一応納得したように「ふーん」と言って見せた。
「コータってあっちの気があるの?」
「えっ。そんなことないよ」



  タチヨミ版はここまでとなります。


『転生』

2015年10月11日 発行 初版

著  者:南原充士
発  行:亜鈴亭阿舎

bb_B_00139097
bcck: http://bccks.jp/bcck/00139097/info
user: http://bccks.jp/user/135493
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

南原充士

 既刊詩集12冊あり。未発表の小説も10篇弱あり。エッセイ「価値観の研究」ブログに掲載。575系短詩、57577系短詩もあり。今後『南原充士全集』を出版することを目指している。電子書籍はこれからスタート。まず小説から始めたいと思うのよろしくお願いします。

jacket