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第一話 憎悪と恋慕と妥協
日本の南に田舎と都会の中間ぐらいの賑わいを持つ街がある。
田舎という程寂れてはいないし、都会という程栄えてもいない。
いわゆるどこにでもある目立たない、便利ではあるけれど特別な何かを持たない、そんな街。
欲しい物はある程度手に入るし、手に入らない物もインターネットで検索すればすぐに注文して届けてもらえる。
実に便利な世の中になったものである。
そんなどこにでもある街のやや栄えているエリアに、十五階建のマンションがあった。
都会では大した事のない高さだが、この街では十分に高層マンションと表現してもいい規模の建物だ。
その最上階は他の階と違い、一室として扱われている。
他の階は三LDKの六戸に分けられているので、その広さはかなりのものと言えるだろう。
建築当初から最上階だけはそのように設計されているのは、その部屋の持ち主こそがこのマンションの持ち主だからでもある。
しかし玄関のネームプレートには名前が表示されていない。
真っ白なプレートには何も書かれておらず、一見すると誰も住んでいないように思えるが、もちろん住人はいる。
今も中にいる。
浴室でシャワーを浴びている男がその住人だった。
紫紺の髪を湯に打たせながら、気持ちよさそうにしているその男は、よく馴染んだ気配に気付いて口元をつり上げた。
楽しみがやってきた、という表情だ。
琥珀色の瞳に嗜虐的な光を浮かび上がらせながら、その気配がいつ自分に仕掛けてくるのかをワクワクしながら待っていた。
この広い浴室に身を隠す場所など存在しない。
しかし、気配の主は確実のこの浴室内に存在する。
姿を消し、仕掛ける隙を狙っているのだ。
男は何も気付かない振りをしながらシャワーを浴び続ける。
隠した気配の中でも分かる、研ぎ澄まされていく殺気。
その練度を感じ取って、男は嬉しくなった。
出会った頃よりも確実に成長している。
今日よりもっと、明日よりずっと。
確実に強くなってみせる。
そんな鋼のような意志を感じる。
それは男にとって好ましいものだった。
未来に向かう一途で純粋な意志はとても好ましい。
そのきっかけを与えたのが自分だというのがたまらなく誇らしい。
まあ、気配の主はそんな事を思われていると知ったら確実に怒るだろうが。
今も叩き付けられる、自らを殺そうとする意志は紛れもない本物だ。
つまり、この気配の主は自分を心の底から憎んでいる。
殺したい程に恨んで、憎んでいる。
この世で最も清らかな存在だった自分を貶めた事を絶対に許さないと誓っている。
「………………」
出会った頃の事を思い出そうとした時、ぐさりと心臓を貫かれた。
銀のナイフは背後から刺し込まれ、肉を貫き心臓を貫き、そして胸板から先端を覗かせていた。
「大したものだ。気配は感じていたのに、どこから来るのかまでは読めなかったぞ」
「………………」
心臓を貫かれても男は平然としている。
その事に、ナイフの持ち主は不快そうに眉をしかめた。
並の吸血鬼ならばこれで重傷の筈だ。
銀製武器が吸血鬼だけではなくあらゆる魔物の弱点になりうるのは、素材そのものが聖属性であるだけではなく、銀は人間の意志を込めやすいという事にある。
つまり殺意を込めて振るえばその意志は確実に傷つけた相手を浸食するし、魔力をコントロールすれば魔法のような力も上乗せする事が出来る。
熟練した者が扱えば、肩を刺しただけでその付け根から腕を吹っ飛ばす事が出来る程の威力を発揮する。
「だが魔力のコントロールはまだまだだな。心臓を破裂させた程度なら高位吸血鬼はまだ動けるぞ」
男は高位吸血鬼でもある。
ある程度の高位ではなく、最高位とも言える実力の持ち主だ。
そう簡単に殺される事はない。
銀製武器で体中を刺し貫かれてもまだ平然としているだけの再生力を備えている。
心臓を破裂させた程度で死ぬ程ヤワではないし、それは襲撃者にも分かっている事だろう。
それでもこうせずにはいられない理由が襲撃者には存在する。
たとえ届かなくてもこの殺意を、そして憎悪を抱き続ける事こそが自分を保つ為に必要な事なのだ、とでも言うように。
「七星。これだけか?」
「……まだ、やれる」
七星と呼ばれた襲撃者は苦しそうに呻いた。
平然としている男が腹立たしいし、この程度のダメージしか与えられない自分が不甲斐ない。
そんな声だった。
しかしその声はとても澄んだ楽器のように美しかった。
七星まだ十五歳前後に見える少女だが、実年齢は既に二十歳を越えている。
肉体年齢は十五歳で停止してしまったが、中身はしっかりと成長している。
少なくとも本人はそのつもりだ。
真っ黒な髪は絹のように柔らかく、肩のところで無造作に結ばれている。
顔立ちはとても整っている日本美人だが、その瞳だけは日本人らしくなかった。
澄み切った青空のような蒼。
瞳の奥まで覗き込めそうな透明感。
水のような揺らめきを湛えるその瞳はどんな宝石よりも魅力的だった。
蒼の瞳に挑戦的な光が浮かぶと、男も満足そうに笑った。
「なら、仕掛けてこい」
「言われなくてもっ!」
心臓から抜かれたナイフが今度は首筋に襲いかかる。
「ふん」
今度は大人しく刺されてやるつもりはない。
ひょいっと避けてから笑いかける。
この程度か、と。
「~~っ!」
次々と繰り出されるナイフの攻撃。
その全てを男は避けていく。
しかも紙一重で避け続ける。
七星の動きを全て読んでいる、という事だろう。
これだけの実力差がある事に歯噛みする七星。
「………………」
しかし男は感心する。
ナイフの腕も随分と上がっている。
戦闘能力が着実に上がっているのは嬉しいし、頼もしい。
弱いままではいつどこで殺されるか分からないからだ。
傍にいて守ってやる事が出来ない以上、自分の身を守れるぐらいに強くなって欲しいというのが男の願いだった。
自分を殺そうとしている相手にこんな事を願うのは矛盾しているかもしれないが、それでも男は七星が何よりも大切なのだ。
七星が自分をどう思っているかは関係ない。
男にとって七星はこの世界でただ一人の眷属なのだから。
自らの血と力を分け与えたたった一人の分身であり、従僕でもある。
人間から吸血鬼へと彼女を貶めたのは他でもない自分である。
男は七星が欲しいと思ったからそうしたのだし、七星はそれを絶対に許さないと誓っている。
それは別に構わないのだ。
心を開いてくれなくても、自分を愛してくれなくても、七星が自分のものであるという事実だけは覆せないのだから。
そのたった一つの事実が存在するだけで、男は満足だった。
「腕は上げているようだが、まだ甘い」
「あっ!」
顔面を狙ったナイフを持った手を掴んで、男はその攻撃を止めた。
膂力差は絶対的で、どれだけ七星が動いても離れない。
どれだけ足掻いても押さえつけられる。
「速さはなかなかだが、攻撃が素直すぎる。もう少しひねらないと簡単に読まれてしまうぞ」
「……努力する」
「いい答えだ」
「だから、離して」
「どうして?」
「どうしてって……」
「離したらまた襲いかかってくるだろう?」
「………………」
事実なので気まずそうに視線を逸らす七星。
そんな七星の反応を堪能しながら、男はその腕を引き寄せた。
「あっ!」
裸のままの男に抱きすくめられて、七星が身をよじる。
「先程までの力は発揮出来ないようだな。そろそろ飢えている頃合いだろう?」
「う~……」
その通りだった。
男は吸血鬼であり、七星はその眷属だ。
つまり、血を必要としている。
必ずしも主の血が必要な訳ではない。
生き血であれば普通の人間のものでも構わない。
しかし七星はそれを拒絶していた。
吸血鬼として人間の血を吸う事だけは嫌だったのだ。
それでは身も心も化け物に成り下がってしまう。
身体は吸血鬼にされてしまっても、その心はかつての自分であると自負している。
だから人間の血は吸わない。
代わりに……
「ほら、欲しいんだろう?」
首元を近付けながら男がにやりと笑う。
「リージェス……」
七星は躊躇いがちにマスターである男の名前を呼ぶ。
誰よりも憎い筈なのに、彼に依存しなければ自分は生き延びる事も出来ない。
それを堪らないと思う時もあるけれど、それでも今はごくりと喉を鳴らす。
「遠慮はいらない。七星に血を吸われるのは嫌いじゃないしな」
「う~……」
吸血衝動は限界に達している。
放っておけば本能が理性を上回り、七星の意志と関係なく人間に襲いかかってしまうだろう。
そうなる前にリージェスの血を吸う必要がある。
「………………」
七星は自分からリージェスに抱きついてからその首筋に牙を突き立てた。
かぶり、と肉を突き破ると血が流れ出す。
その血を舐め取り、そして貪欲に吸い上げていく。
「ん……ふぅ……」
他の血の味は知らないが、リージェスの血液はこの上なく美味だった。
それがリージェスだからなのか、それともマスターの血は特別なのか、吸血鬼の血が特別なのか、七星には分からない。
けれどこの血液が最上級のご馳走である事は本能が知っている。
その度に、自分の意志の弱さを憎みたくなる。
自分を吸血鬼に貶めたリージェスを確かに憎んでいるし、殺したいと思っている事も本当だ。
それなのに、それ以上に、自分はこの血を求めてここにやってきたのだ。
本当にリージェスを許せないと思っているのなら、心の底から憎悪しているのなら、人間の血を吸ってでも生き延びればいい。
リージェスの血を求めてしまうのは、憎みながらも彼に依存しているからだ。
そんな自分が不甲斐なくて、リージェス以上に許せないと感じてしまう。
けれどどれだけ殺そうとしても、どれだけ憎んでも、リージェスは優しく自分を受け入れてくれる。
それが七星には困るのだ。
憎んでいるのに、憎みきれない。
許せないのに、寄りかかってしまう。
矛盾する感情に挟まれて、とても切なくなってしまうのだ。
いっその事リージェスを愛してしまえば楽になるだろう。
けれどそれは出来ない。
これは許してはいけない事だ、と自分の中に譲れない感情が存在している。
自分が自分でいる為にも、ここは譲るべきではない。
「う……うぅ……」
首筋から血を吸い尽くしてしまい、七星は不満そうに唸る。
もうこの部分から吸える血液はない。
もっと吸いたいのに。
しかしこれ以上吸ってしまえばリージェスが危険だ。
吸血鬼はその血液こそが力の源である。
その血を吸われてしまえば力も吸われてしまう。
リージェスはそれを承知で七星に血を与えている。
弱ったリージェスならば簡単に殺せるかもしれないが、七星もそこまで恩知らずにはなれない。
血をもらった後は大人しく感謝するぐらいの分別はある。
「まだ足りないか?」
「うー……」
足りないけどこれ以上は吸えない。
これ以上吸えばリージェスが危ないと分かっている。
だから我慢する。
「俺の方は輸血用血液で何とかなるが、まあ先に礼を受け取りたいものだな」
「うー……」
にやりと笑うリージェスにやや後ずさりする七星。
この五年の間に何度も繰り返したやり取りだが、やはり七星は気まずいようだ。
この初々しさが失われないのも魅力の一つである。
リージェスにとってはいつまでも変わらない、無垢な乙女の魂こそが何よりものご馳走だった。
血がかなり失われているのでいまいち力が入らないが、動けない程ではないし、今は七星を優先させたい。
七星を浴室の壁に押しつけてから、そのまま唇を奪う。
「ん……ふぅ……」
抵抗らしい抵抗もしない七星はされるがままになっている。
血をもらった対価だと自分に言い聞かせているが、それ以上に七星の身体は快感にひどく弱いのだ。
蹂躙されるような熱いキスも、触れてくる手の熱も、全てが気持ちいい。
最初こそ抵抗していたが、今はうっかりすると自分から求めたくなってしまう程に馴らされている。
それだけはしてたまるかと自制しているが、身体の方は勝手に反応してしまう。
「ふああ……あっ! ああああーーっ!」
「いい声だ。まあこっちでも栄養は満たせるし、お互いにとって悪い事じゃないだろう」
「ん……ああっ! やっ……ふああんっ!」
身体のあらゆる部分に触れてくる手が気持ちよくて、七星はリージェスにしがみつく。
その表情はとろんとしていて、先程までの殺意や憎悪が嘘のように消えている。
もっと触れて欲しい、もっと気持ちよくして欲しいと、理性の溶かされた表情で求めている。
「………………」
この表情がリージェスは好きだった。
自分だけを求めて、自分だけに乱れてくれる淫乱な聖女。
これ程までに魅力的な存在を、リージェスは他に知らない。
聖域の道具として利用されていた聖女を奪い取り、吸血鬼に貶めて、そして自分のものにした。
それから五年の歳月が流れているが、自分の心は未だに七星を求めている。
名前を与えて存在を縛ったのも、万が一にも自分から離れていかないようにする為だ。
七星、という名前はリージェスがつけた。
聖女であった頃には冠名はあっても個人の名前は存在しなかったのだ。
その冠名で呼ぶのは聖女のままであると認めるようなものであり、そして彼女個人を認めないようでもあった。
だからこそ名前を与えた。
七星、という聖女に相応しい美しい名前を。
自分の腕の中で藻掻き、そして喘ぐ七星。
そんな七星に触れて、そして何度も貫いた。
その度に上がる声に満足しながら、リージェスは自分のものである七星を強く抱きしめた。
もうしばらくすれば再び自分から離れていくであろう華奢な少女を少しでもこの腕の中に留めておきたかった。
「……ん」
浴室から移動してベッドの中でも激しく絡み合った二人は汗にまみれたまま倒れ込んでいる。
血が足りないまま攻め続けたリージェスも流石にぐったりしているが、攻められ続けた七星も力尽きて倒れている。
それでもリージェスは七星を離すつもりはないらしく、その腕の中に抱え込んでいる。
たくましい腕枕に頭を乗せながら、七星もぼんやりとリージェスを見上げていた。
「朝になったらまた出て行くのか?」
「……うん」
残念そうに訊いてくるリージェスに頷く七星。
寂しそうな表情をされると弱い。
七星と違い、リージェスは素直に求めてくる。
許せない事はあっても、こういう風な態度を取られると邪険にもしづらいのだ。
しかし次の仕事がある以上、あまりのんびりもしていられない。
「次は誰を狩るつもりだ?」
七星の仕事は吸血鬼狩りを生業とするハンターだ。
自らも吸血鬼でありながら、この職業に就く者は実のところ珍しくない。
マスターに無理矢理吸血鬼にされた者や、人間にも吸血鬼にも馴染めない混血の吸血鬼など、吸血鬼そのものを憎む吸血鬼は珍しくないのだ。
もちろんハンターには真っ当な人間もいる。
しかし吸血鬼のハンターは滅多に人間と組む事はないし、関わりも最小限に留めている。
人間側は彼らを化け物と見下すし、警戒もする。
油断していると仲間に狩られる可能性もある。
敵を前にして味方を警戒するような無駄はしたくない、というのが実際のところだ。
だから七星もフリーのハンターとしてソロで活動している。
その実力はかなりのものだが、まだ活動期間が短いのと、本人に目立つつもりが無いお陰で名前はそれ程知られていない。
能力が高いのは当然で、眷属の吸血鬼の実力はマスターの力に影響される。
強い吸血鬼をマスターに持っているのなら、眷属の力もまた強くなる。
そしてリージェス・ゼーレシュタットは吸血鬼の中でも最上位種だ。
吸血鬼の王族であるゼーレシュタットの血脈であり、一族の中でもかなりの力を持っている。
といっても、直系王族ではないので将来的に吸血鬼の王になる事はないのだが。
力だけならゼーレシュタット一族の中でも一、二位を争う実力の持ち主だ。
そしてゼーレシュタットのような高位吸血鬼は滅多な事では眷属を造らない。
それは血脈の純粋性を保つ為でもある。
人間の血を取り込む事によって高貴な血脈が穢れると考えられているのだ。
リージェスはもちろんそれをくだらないと考えているので、平気で眷属を造った。
大事なのはそんな古い考えではなく、自分が何を望むかなのだ。
そして生まれたのが七星という眷属だ。
七星の眷属としてのスペックは純血脈に迫るものがある。
本来の能力をフルに発揮出来れば高位吸血鬼にすら太刀打ち出来るようになるだろう。
それどころか、眷属としての力だけではなく、七星が本来持っている聖血の力も発揮出来れば、それこそ吸血鬼に対して無敵になる。
七星を聖女として成り立たせていた、彼女がこの世界で最も清らかなる存在として崇め奉られていた原因、それこそが聖血なのだから。
それはあらゆる魔を退け、そして浄化していく。
限りなく最強に近い吸血鬼であるリージェスの力をもってしても、その力を完全に無効化する事は出来なかった。
それどころか、眷属化する時にリージェス自身が小さくはないダメージを負わされた程だ。
七星にも、そして他の誰にも悟らせてはいないが、今もまだその後遺症に苦しまされている。
完全にその影響が消えるには後十年程かかるだろう。
七星は吸血鬼として最強の位置に上り詰める可能性を秘めている。
今はまだ未熟なひよこだが、いずれ誰よりも強く、そして美しく成長するだろう。
その成長を近くで眺めるのがリージェスの楽しみでもある。
だからこそマスターとして行動を縛る権限を持ちながらも、彼女に自由行動を許しているのだから。
「次は……誰だったかな……。殺す相手の名前とかどうでもいいから、覚えていない」
「……殺される相手が可哀想な扱いだな」
「うー。覚えていてもしんどいだけだし。殺す相手の事なんか」
「そりゃそうかもしれないが……」
むすっとした表情もまた可愛い。
そんな風に考えてしまうリージェスは立派にデレデレ吸血鬼だ。
少なくともこんな緩みまくった表情を一族の誰かに見られようものなら、次の集まりでは確実に笑い者にされてしまうだろう。
それに七星も薄情という訳ではないのだろう。
殺す相手の事を記憶に焼き付けたくない。
そうしてしまう事で自分が苦しくなるのなら、それは自衛手段としての割り切りなのだ。
七星は優しい少女だ。
自分を貶めた筈のリージェスの事でさえ、好意を向けられてしまうと憎みきれない程に。
愛情に対して憎悪を返す事が出来ない。
それは七星が優しいからというだけではなく、彼女自身が気付いていない心の奥底で、それを求めているからだろう。
愛される事に戸惑いながらも喜びを感じる。
自分が孤独である事にすら気付かなかった、個人として生きる事を許されなかった聖女には、それが何よりもの喜びなのだ。
それに、本人だけが気付いていない。
「でも雨音さんからの仕事だから変なものじゃないと思う」
「……あいつか」
雨音、という名前を聞くとリージェスが嫌そうに眉をしかめる。
「……嫌いなの? いい人だと思うけど」
「別に嫌いって訳じゃない。苦手なだけだ」
「?」
きょとんとした表情で首を傾げる七星。
「何でもない。あいつからの仕事なら確かに妙なものではないだろうな」
「苦手な割には信用してるんだね」
「付き合いだけは長いからな」
「そうなんだ。変なの」
「変?」
「だって雨音さんって吸血鬼ハンターの仕事窓口を請け負っている神父さんだよね。それなのにハンターでもない吸血鬼と付き合いが長いって、変じゃない」
本来なら敵対するべき存在である筈なのに、と言いたいらしい。
確かに吸血鬼狩りの仕事を紹介する人間は吸血鬼そのものを憎んでいる者が多い。
仕事とは言え、七星のような吸血鬼にそれを依頼する事すら面白くないと思う事も少なくはない。
七星はそういう態度に何度も出くわしてきたし、最近は慣れてもきた。
そんな中で雨音だけは分け隔てなく公平に接してくれているので、彼女の中ではかなり好感度の高い人物として記憶されている。
しかしそれは利害を一致させる仕事仲間としての信頼だ。
狩られるべき吸血鬼側であるリージェスにまで好意的というのは、少しばかり意外だった。
「まあ、あいつは吸血鬼なら誰彼かまわず殺せとかいう過激な奴じゃないからな。人間社会に迷惑をかける害ある吸血鬼だけを対象としている理性的な奴だよ。だから俺のような存在と折り合う事も出来る」
リージェスは人間社会に迷惑をかけるような吸血鬼ではない。
血液は輸血用を利用しているし、生き血を吸う事もない。
自分の意志で人間を害したのは七星が最初で最後だ。
その七星も自分の管理下にあって人間に害を為している訳ではないのだから、敵対される筋合いはない、という事だ。
「ふうん。そういうものか……」
「かといって別に仲がいいという訳じゃないからな。勘違いするなよ?」
「勘違いって?」
「……何でもない」
気まずそうに視線を逸らすリージェス。
訳が分からないと再び首を傾げる七星。
後ろめたさがあるのはリージェスの方だけで、事情を知らない七星の方は気にする事は何もないのだ。
とはいっても、気にされなければされないでちょっぴり複雑な心境になるリージェスなのだが。
そもそも、七星にはそういう発想がないのかもしれない。
「早めに終わらせて戻ってこい」
「やだ」
「………………」
「血が足りなくなったらまた殺しにくる」
「………………」
「……どうせ殺せないだろうけど」
「………………」
分かっていた事ではあるし、受け入れているつもりの事でもあるが、やっぱり寂しいものがある。
無理矢理手に入れてしまったが故に、その心だけは思い通りにならない。
それを覚悟の上でやった事だが、いざそうなってしまうと割り切れるものではないらしい、と今更ながらに痛感する。
この手の中に閉じこめてしまえればどんなにいいだろう、と夢見る。
リージェスにはそれが出来るだけの力がある。
マスターとして、眷属の行動と意志を縛る権限があるのだ。
それこそが絶対に覆せないマスターと眷属の関係なのだから。
しかしそれでは人形と同じだ。
リージェスは自由意志を持った個人としての七星を手に入れたいのであって、七星の姿をした人形が欲しい訳ではない。
本来なら許されないマスター殺しの行動を認めているのも、いつかは七星自身に折り合いをつけてもらいたいと願っているからだ。
そうする事で、リージェスは本当の意味で七星を手に入れる事が出来ると信じている。
思い通りにしたい癖に、思い通りにしかならないのは不満なのだ。
心とは、何とも複雑極まりない厄介な代物だと自分で呆れてしまう。
それでもそこで妥協しないのは、それこそが自らの信念だからだろう。
自分が納得出来る事しか望めないし、望みたくない。
「まあ、それでもいいさ。俺の傍からいなくならないのなら」
「………………」
「七星もそれなりに成長したから大丈夫だとは思うが、くれぐれも気をつけろよ。相手が高位吸血鬼だった場合は、固有スキルがあるからな。対処法を知らないと太刀打ち出来ない場合がある」
「分かってる。簡単に殺されるつもりはないし……それに……」
「おい」
「………………」
その先をリージェスは言わせなかった。
聞きたくなかったし、言わせたくもなかった。
それに、死んだらそれで楽になれるし。
七星はそう言おうとしたのだ。
今の生き方を望んでいない。
化け物として生きていくのは耐え難い。
自分から死ぬつもりはないけれど、精一杯生きてそれでも力及ばず殺されるのなら、それは悪い事ではない。
自殺は悪い事だと理解しているし、簡単に殺されるつもりもない。
けれど心のどこかで終わりを望んでいる。
そうすればもう苦しまなくて済むから、という理由で。
そうしてしまったのはリージェスで、それを止める権利など、本来はないのかもしれない。
それでもリージェスは七星にそんな事を許すつもりはなかった。
もしも七星が自殺を望んでいたのなら、主義に反する強権を発動してでもそれを止めていただろう。
生きていればいつかはいい事がある、などという綺麗事は言わない。
せっかく手に入れた宝物に勝手に死なれてはたまらないのだ。
あくまでも自分の為であり、七星の為ではない。
「お前が自由に生きる事を止めるつもりはない。だが、俺の前からいなくなる事を許すつもりはないからな」
「……それって、自由って言えるの?」
「四六時中傍にいろと言っている訳じゃない。まあ、傍にいてくれたら俺は嬉しいが」
「………………」
「こうしてたまにこの腕の中に戻ってきて、そして生きていてくれればとりあえずはそれでいい。十分に自由だろう?」
「……いつか、殺すかもしれないのに」
「眷属に殺される程ヤワじゃない。少なくとも今の七星よりは圧倒的に強いしな」
「む~……」
むくれる七星が面白くて笑うリージェス。
こんな風に表情をころころ変えてくれるようになったのも最近の事で、少しは心を開いてくれていると思うと嬉しくなる。
吸血鬼の血によって肉体の成長を止められていても、中身だけは二十年の歳月を過ごしている筈なのに、こうして子供のような一面を残しているのも楽しい。
それにリージェスの見たところ、実年齢はともかくとして、七星の精神年齢はとても幼いのではないかと思っている。
それは七星の生い立ちにも関係しているのだろう。
しかし少しずつだが、確実に成長している。
出会ったばかりの頃は『生きた死体』のようだった七星も、最近では随分と『生き生きしている吸血鬼』のように見えるのだ。
本当の意味で自分の人生(鬼生?)を生きる事を始めている七星は、自分では気付いていないかもしれないがとても輝いている。
「という訳で仕事に行くのは朝にしろ。今夜はここでのんびりしよう」
「それは、命令?」
「どちらかというとお願いだな」
「……それなら、聞いてあげてもいい」
「………………」
眷属がマスターに取る態度ではないが、自分の意志で妥協してくれているその言葉こそが嬉しかった。
七星を引き寄せてから満足そうに抱きしめる。
「じゃあ一緒に寝ようか」
「ちょっと、苦しいってばっ!」
じたばたともがく七星だが、腕の力は緩まない。
抵抗する七星の反応も含めて楽しんでいるのだ。
それを知っている七星はむっとするが、それでも本気で抵抗しないのは、この腕に安心を感じているからである。
それは七星にとって大きな安らぎであると同時に、大きな不安でもある。
七星は怖いのだ。
いつか、リージェスを許してしまいそうで。
許してはならない事を許してしまいそうで、とても怖い。
「…………で……」
「ん? 何か言ったか?」
聞き取れなかったリージェスが問いかけてくる。
「何でも……ない……」
七星は辛くなってしまい、そのままリージェスの胸に顔を埋める。
今の顔を見られたくなかったし、慰められたくもなかった。
あんまり、優しくしないで。
その言葉は届かなかったけど、それでいい。
それは言ってもどうにもならない事だ。
許したくないから優しくするな、など。
それは七星自身がしっかりしていればいい事で、その意志が揺らいでしまうのはリージェスの所為ではなく、自分が弱いからいけないのだ。
どんな事になっても折れない強靱な意志が欲しい、と強く願った。
この腕に寄りかかりながらも、憎悪の炎を燃やし続けられるだけのしたたかさが欲しい、とも。
それは不器用な七星には望むだけ残酷な願いだったが、それでも求めずにはいられなかった。
☆
真昼の太陽が昇り、祝福の光が大地に降り注ぐ日中に、教会のベルが鳴り響く。
正午を告げるベルは街中に響き渡る。
このベルを聞いて休憩時間だと喜ぶ会社員や、空腹に気付く職人、売店に駆け出す学生など、様々な人間がいるだろう。
時間の節目を告げる合図は、街に住む人間にも大きな影響を与えている。
その合図は、街からやや外れた位置にある陵教会から発せられている音だ。
定刻になると自動的に鳴る鐘の音に、教会を預かる神父である陵雨音はぱたん、と本を閉じた。
ちなみに読んでいたのは聖書ではなくライトノベルだ。
なかなかにフリーダムな神父である。
まあ聖堂内には信徒が誰もいないのでこれぐらいは許されるだろう。
「こんにちは、七星さん」
本を閉じて振り返ると、入口には七星が立っていた。
「こんにちは、雨音さん」
「今日もきちんと時間通りですね。流石です」
黒髪黒目という日本人らしい外見を持つ雨音の言葉に、七星は苦笑した。
二十代後半に見えるこの神父は、自分を子供のように扱う。
けれどそれは馬鹿にするようなそれではなく、七星の中身が幼い事をきちんと見抜いていて、子供には優しくしなければならないという良識的な意志の下、そうしているにすぎないのだ。
つまり善意である。
子供扱いされるのは正直面白くないのだが(実年齢が二十歳だという自覚がある為)、甘やかしてくれようとする雨音の事は嫌いではない。
というよりも、どうやら自分は甘やかされる事に弱いらしい。
リージェスも、雨音も、とことんまで七星を甘やかそうとする。
それに抗おうとするけれど、いつの間にかどっぷりと浸かってしまっている。
それを不甲斐ないと思う自分と、心地いいと思う自分がいて、混乱する。
「時間ぐらい守れますよ。というか、遅刻した事なんてないと思うんですけどね」
「そうですね。七星さんは優等生です」
「うー。だから子供扱いしないでくださいよぅ」
雨音はそれでも優しげな表情を崩さずににこにこしている。
この穏やかで朗らかな神父が吸血鬼狩りの窓口を務めているなど、初めて会った時には信じられなかったし、今でも向いていないと思う時がある。
「すみません。では早速仕事の話に入りましょうか」
「そうしてくれると助かります」
仕事の話をする時だけは一人前のハンター扱いしてくれるので、七星としてもその方が嬉しい。
内面は子供扱いでも、その実力はきちんと認めてくれている。
七星にとって雨音とは、決して多いとは言えない信頼出来る人間の一人だった。
『姫君』
今回の敵はそう呼ばれているらしい。
敵の頭はもちろん『姫君』。
そして取り巻きは姫君を守る『騎士』。
本質はただの化け物かもしれないが、自らをそう定義する事は彼らにとってとても気持ちのいい事なのかもしれない。
化け物ではなく騎士として戦う事が出来る。
紛い物の誇りをその胸に、偽りの姫君の為に命を懸けて戦う。
いざ戦闘になればさぞかし手強い敵になる事だろう。
恐怖で逃げ出さず、命尽きるまで向かってくる敵は厄介だ。
特に、この命も惜しくはないと全力で向かってくる場合には、実力以上の力を発揮する事がある。
何せ守護対象は『姫君』なのだ。
騎士の全てを懸けて守るに相応しい存在だろう。
「総勢二十人程で組織的活動をしていますね。この街で吸血行為を繰り返し、被害者もかなり出ています。放っておけば被害者は更に増える事になります」
「……二十人、という事は私の単独任務じゃないですよね?」
「ええ。歴戦のハンター十人による襲撃になります。七星さんも含めて」
「そっちの人たちは?」
「現地で様子見ですよ。七星さんの到着は昼過ぎになると伝えてあります」
「……遅刻じゃないですか」
既に他のメンバーは襲撃準備万端だというのに、自分だけのこのこと最後に現れるなど笑い物もいいところだ。
「そうではありませんよ。もともとは九人で襲撃する筈だったんです」
「?」
「ただ、様子見をしている内に敵の戦力評価がこちらの予想を少々上回りまして。せめてもう一人、腕利きを追加して欲しい、という要請があったんですよ。それで七星さんに連絡を取った次第です」
「なるほど」
そういう事なら納得だ。
つまり今回は助っ人という事だろう。
「ええ。今回は助っ人として動いてもらいます。姫君の襲撃はこちらがもともと用意していたメンバーで行いますので、残りのメンバーと共に騎士の相手をしてもらいたいのですよ。頼めますか?」
「いいですよ。仕事ですし。報酬は弾んでくれるんでしょ?」
「それはもちろん。成功報酬でこれだけ、でどうです?」
提示された金額は七星にとって十分すぎるものだった。
「もしも姫君を倒した場合は追加報酬がもらえる、という事でいいですか?」
本来の仕事から逸脱するつもりはないが、予想外の展開になって、必要以上の仕事をする羽目になる事がある。
そうなると報酬の増額も検討してもらいたい。
がめついのではなく、働きには正当な報いが必要だと考えているからだ。
「ええ。ただ、姫君に襲いかかるメンバーは決まっていますから、彼らの邪魔にならないように配慮してくださいね」
「それはもちろん。ただ、手強い敵なら戦ってみたいと思っただけです」
「なるほど、ね。七星さんらしいですね。でもどちらかというと騎士の方が手強いと思いますよ。何せ姫君を守る為に戦う騎士様ですからね。元々のスペックがそれなりに高いですし、それにモチベーションが最高潮にある。だからこそ七星さんに応援を頼んだ訳ですし」
「それならそれでいいですよ。危険を引き受けるのは望むところです」
リージェスが聞いたらまた怒りそうな台詞だが、今は気にしない。
もっともっと強くなる為に、強い敵と戦いたい。
それは七星が焦がれる程に求めているものだ。
「相変わらず、リージェスさんに襲いかかってるんですか?」
苦笑しながら問いかけてくる雨音に七星は肩を竦める。
「まだまだ相手にしてもらえませんけどね」
「でも、うまくいっているみたいで何よりです」
「え?」
意外な言葉にきょとんとなる七星。
「最近はうまくやれているんでしょう? リージェスさんと」
「え? え? うまくやれているもなにも、昨日だって殺しに行って失敗したんですけど……」
まるで良好な関係を築けていると言われているようで、戸惑う七星。
しかし雨音の言葉はそのままの意味だった。
「まあ僕にとっても大事な友人なので、殺されるのは正直困るのですが」
「………………」
「でも、うまくいっているんでしょう?」
「な、何でそんな事……」
「だって、最近は七星さんの表情が優しくなりましたから」
「え?」
「いつも何かに追い詰められているような、何かに切羽詰まっているような、幸せなんてこの世のどこにもないと悲観しているような七星さんでしたけど、最近はちょっとだけ幸せそうですよ。リージェスさんとうまくいっているって事でしょう?」
「ちょ……ちょっと待ってくださいよ。だから私はリージェスを殺そうとしてるんですってば」
「まあ確かにそうなんですけどねー。でも多分、無理だと思いますよ」
「んなっ!」
自分の生涯をかけた目的をあっさりと否定されて唖然とする七星。
怒ればいいのか、それとも悔しがればいいのか、どうすればいいのか分からずに動揺する。
「眷属とマスターの間には絶対的な強制力が働きますからね。リージェスさんが本気になれば、七星さんは彼を殴る事すら出来なくなります。目の前で指先一つすら動かす事が出来なくなります」
「う……」
「まだまだ実力に開きがあるようですから強制力を使うまでもないようですし、そうする事で七星さんの成長を促しているのでしょうけど、実際に命を脅かされるようになれば、リージェスさんだって強制力を使うと思いますよ。つまりお互いの実力とは全く関係なしに、リージェスさんはいつでも切り札を握っている、という事です」
「う~……」
「まあ、もしもリージェスさんが七星さんに殺されてもいいと思ったのなら、敢えてそれは使わないかもしれませんけどね」
「………………」
「でもそんな無抵抗も同然のリージェスさんを殺す事が出来ますか?」
「………………」
出来る、とは言えなかった。
リージェスはどこまでも自分を受け入れてくれる。
きっと、殺そうとしている事すらも。
だから本当に殺せるようになったら、自分の死すらも受け入れるのかもしれない。
だけどそうなったリージェスを七星は殺せない。
憎む相手がどこまでも慈しんでくれるのなら、最後はきっと許してしまうだろう。
「そういう事です。貴女はとても優しいですからね。七星さんにリージェスさんは殺せない。だから貴女達二人はいつかきっと本当の意味で仲良くなれると思いますよ」
「それは……困るんですけど……」
「困りますか?」
「困りますよ。だって、私は私を貶めた相手を許しちゃいけないんですから……」
「別に許さなくてもいいんじゃないですか?」
「え?」
「許さなくても、歩み寄る事ぐらいは出来るでしょう?」
「歩み寄る……?」
「というより、もう歩み寄りかけていますよね。七星さんの表情を見ればそれは分かりますし」
「そ、そうなんでしょうか……」
「そうですよ。前よりも少しだけ幸せそうです」
「………………」
「許す必要は、別にないと思いますよ。ただ、結果だけを考えてみて、歩み寄ったり妥協したりする余地はきっとあると思うんですうよ」
「余地って……」
雨音が何を言っているのか分からず、七星が首を傾げる。
雨音は口先だけで誰かを丸め込むような人間ではない。
だからこれは真面目な話なのだ。
そしてきっと、大事な話なのだ。
「たとえば、貴女の境遇」
「………………」
「貴女はかつて聖域の鍵だった。この世界で最も清らかな存在として、神のように崇められていた。けれど、それは道具として祀られていたに過ぎないのではないですか?」
「それは……」
その通りなのだろう。
自我を成長させた今ならば分かる。
自分は神ではなく、鍵でもなく、ただの道具だったのだと。
それが理解出来る程度に、自分は神聖なる存在から遠ざかってしまったとも言えるが。
「貴女の神聖さが失われた事で、この国は最大の聖域を失う事になりました。これは退魔を生業とする者にとっては大きな損失です。けれどそのお陰で貴女は貴女として生きられるようになった。道具としてではなく、個人として」
「まさか……リージェスはその為に私を眷属にした、とか言うつもりですか?」
「いえいえ。そんな事は言いませんし、リージェスさんはそこまで優しくありませんよ。哀れな少女を救う為に眷属を造る? 彼はもう少し自分勝手で、そして残酷です」
「………………」
「彼はただ貴女が欲しい。それだけの欲求に従って貴女を貶めた。それがひとつの事実です」
「………………」
「けれどそのお陰で貴女は自由を手に入れた。個人として生きる自由を。自分の意志で考え、そして行動出来る。それは道具だった頃には叶わなかった事でしょう?」
「………………」
「それが二つ目の事実です。ただし、こちらは結果論に過ぎません。彼は貴女を救いたかったのではなく、貴女を手に入れたかっただけなのですから」
「………………」
「だから、もしも今の貴女が道具だった頃の自分を嫌悪しているのなら、彼を許せなくても、歩み寄るぐらいの余地はあると思うんですよ。違いますか?」
「……分かりません。まだ、どうしたらいいのか分かりません」
七星には分からない。
歩み寄る事と、許す事の違いが、どうしても分からないのだ。
どこで線引きをすればいいのか、どこまで受け入れればいいのか、分からない。
それを理解するにはまだ経験が足りないし、時間も足りない。
少なくとも今すぐに結論を出す事は無理だった。
「今すぐに結論を出す必要はないと思いますよ。七星さんとリージェスさんには時間がたっぷりあるんですから。これからゆっくりと折り合いをつけていけばいいんです」
「うー。検討ぐらいはしてみます……」
「ええ。是非そうしてみてください」
「……何だか楽しそうですね、雨音さん」
からかわれているのかと思って軽く睨みつけると、雨音は無邪気な笑顔を向けてきた。
「悩める子羊の姿は神父にとってのご馳走ですから。それがこんな可愛らしい女の子なら尚更ですね」
「んなっ!」
さらりととんでもない事を言われてしまった。
「仮にも神父さんが何て事言うんですかっ!」
悩める子羊を導く神父さまの台詞ではない。
しかし雨音はけろりとしたものだった。
「いやあ。人間相手にはこんな事しませんよ。つついて楽しむのはあくまでも人外だけです」
「ひどっ!」
「殺し合うよりは健全だと思うんですけどねぇ」
「そうかもしれないですけどっ!」
温厚で優しい神父さまの意外な一面を見せつけられて、七星はショックを受けていた。
それでもその黒さは親しみの証でもあるので、嫌う事は出来ないのが複雑なところだが。
人外だから苛めてもいいというのではなく、遠慮をしないでいいぐらいに好意を抱いてくれているからこそ、からかいたくなるのだろう。
「もういいですっ! 仕事に行ってきます!」
「はい。行ってらっしゃい。あんまり無茶しちゃ駄目ですよ。リージェスさんが心配しますからね」
「知った事じゃないですっ!」
「ありゃりゃ……冷たいですねぇ」
ぷんすかしながら出て行く七星を見送りながら、雨音はクスクスと笑っていた。
それから七星は雨音に渡された地図の場所に辿り着く。
その建物は三階建ての事務所で、今はもう潰れてしまった会社のものらしい。
それを無断拝借している訳だ。
もちろん後には何の痕跡も残さず立ち去るので問題はないのだが。
入口には目立たないように見張りがいた。
パイプ椅子に座って新聞を眺めている。
休憩中の仕事人に見えるが、纏っている空気が普通の人間とは決定的に違っている。
見張りの男はすぐ傍に寄ってきた七星の存在に気付いて顔を上げた。
「陵教会から派遣されてきたハンターです。中に入れてもらっても?」
「ああ、君がそうなのか。随分と若いけど、大丈夫か?」
「足を引っ張るようでしたら遠慮なく見捨ててくれて構いません。それに見た目通りの年齢でもないですしね」
「という事はあんた、混血か?」
吸血鬼と、そして混血は実年齢と見た目が一致しない。
吸血鬼は吸血鬼になった時点で肉体の成長が止まるし、混血は人間よりも成長が遅い為、見た目の年齢が一致しなくなる。
「………………」
吸血鬼と人間の間に生まれた混血ならば真昼である今の時間帯でも外を歩く事が出来る。
そう考えて男は問いかけたのだが、七星は曖昧に笑って肩を竦めるだけだった。
混じりっけなしの吸血鬼だと言っても簡単には信じてもらえないだろう。
太陽の下を歩ける、聖なる銀製武器を扱える、というのは純粋な吸血鬼としてはかなり異常なのだから。
「まあいいや。歓迎するよ、お嬢ちゃん」
「どうも」
見張りの男は七星を事務所の中に案内した。
中には五人程がくつろいでいた。
武器の整備などもしているので、くつろいでいるように見えても戦闘準備態勢なのだろう。
「鈴守さん。陵の旦那からの助っ人が来ましたぜ」
「おお、やっとか」
鈴守、と呼ばれた男が二階から降りてくる。
体格のいい男だった。
がっちりとした筋肉は無駄のない引き締まりを見せており、その動きは達人のそれを思わせる。
顔立ちは粗野に見えるがその瞳には深い知性がある。
一筋縄ではいかない、理想的なリーダータイプだな、と七星は考えた。
髪の色も瞳の色も黒く、日本人らしい顔立ちをしている。
ここにいるハンターの半数は外国人のようだが、取り纏め役は日本人である鈴守らしい。
「お嬢ちゃんが助っ人か。また可愛らしいのを紹介してくれたものだな」
「………………」
最初から侮られているが、七星は気にしない。
自分がどう見られるかなど、長くはないハンター経験の中でも十分に分かっている。
「おいおい、鈴さん。こんなお嬢ちゃんが使い物になるのかよ。足を引っ張られるのは御免だぜ」
「いや。でも結構可愛いじゃん。守ってあげたら今夜付き合ってくれるっていうなら考えちゃうかも」
「いいね。それ乗った!」
「………………」
勝手に乗るな、と怒鳴りつけたくなるのを堪える。
「お嬢ちゃん。あんた、ハンター歴は? 見た目通りの年齢じゃないのは分かるが、それでもまだ随分と若いだろう?」
鈴守がじっと七星を見下ろす。
これだけの体格差があると大人と子供どころか、巨人と赤子のように見える。
「ハンター歴は五年。実年齢は企業秘密」
「………………」
その発言に鈴守だけではなく周りも唖然とする。
これから行くのはかなり危険な吸血鬼の巣窟なのだ。
今いるのはベテランのハンターばかりで、十年以上のキャリアを持つ。
そんな彼らが今のままでは厳しいと判断して、雨音に追加戦力を要求したのだ。
その結果がたった五年しか活動していないハンターでは、失望するなという方が無理だろう。
戦力になるどころか足を引っ張られかねない。
いくら足手まといになるなら切り捨てると言っても、目の前で仲間が殺されれば動きが鈍るし戦いにも影響が出る。
これならば自分達だけで攻め込んだ方がまだマシだ、と誰もが考えた。
「お嬢ちゃん。一体陵の旦那から何を聞いてきたのかは分からないが、状況はきちんと分かっているか?」
「少なくともこのままでは厳しい、という事だけは分かっているつもりだけど」
「それが分かっていてここにやってきたのか? お嬢ちゃんが?」
「それを分かっていて私を紹介したのは雨音さんだって事も理解してもらいたいところだけどね」
「………………」
雨音は状況判断が出来ない程愚かではない。
この状況で七星を送り込んできたのは、足を引っ張る為ではなく立派な戦力になると判断しての事だ。
しかし彼らには七星の実力が分からない。
「別に、私はこの仕事を引き受けなくてもいい。このまま断って帰ってもいい。私が邪魔だというのなら、それで構わない。どうせ困るのは貴方たちであって私じゃない」
「そりゃあ冷たいな。一応は仲間なんじゃないのか?」
「吸血鬼である私を貴方たちがそう思えるならそうかもね」
「……そりゃあ厳しいな」
精々が利害の一致する敵、だ。
同じ敵を目の前にして共闘は出来るが、仲間として信頼する事は難しい。
「だから私も貴方たちを仲間だとは思わない。このまま仕掛けて死ぬ事になっても、別にどうでもいい」
それは七星の本音だった。
好き好んでチームで仕事をする訳ではない。
雨音の依頼だから引き受けただけで、本来ならばソロで行動出来る依頼しか受けないのが七星のスタイルだった。
「そこまで言うなら本当にお嬢ちゃんのフォローはしない。俺たちとは別行動でやってもらおうか」
「? 騎士側の陽動じゃないの?」
「だから侵入路を分けるのさ。俺たちは最上階から姫君狙い。こいつらが正面から侵入して騎士どもの相手をする。お嬢ちゃんは裏口から逃げる奴の始末を頼むわ」
「つまり、裏口にあちらの戦力が集まっていた時、私は孤立するって事ね」
「そういう事だな。まあその場合はすぐにこいつらが駆けつけると思うが、それは助けじゃない」
「いいよ、それで」
「いいのか? てっきり不満だと思ったんだが」
「私は私の役目を果たして報酬さえもらえればいい。私の仕事に貴方たちとのチームワークは含まれていない。貴方たちは私を助けない。私も貴方たちを助けない。共闘はするけど協力はしない。そういう方針なら不満はないよ」
「経験が浅い割には肝が据わっているな」
鈴守は敢えて七星に不利な提案をした訳だが、それを理解した上で口元を吊り上げる七星を見て、少しだけ評価を改めた。
新米ではあるが、少なくとも無能ではない。
足を引っ張られる可能性は低そうだった。
軽いミーティングを終えてから、それぞれが配置についた。
敵のアジトは事務所からそれ程離れていない場所にあった。
それも当然だろう。
その為にあの場所を借りていたのだろうから。
そこは小規模なマンションだった。
三階建てで部屋数は九。
一番上が姫君、そして残りは騎士たちの部屋として使われているのだろう。
もしかしたら人間のいたのかもしれないが、どうなったかは敢えて説明するまでもない。
二度とこの世に現れない、という事だけは確実だが。
鈴守ともう一人のベテランは屋上に、七星は裏口に、そして残りのメンバーは正面につく。
「よし。仕掛けるぞ」
リーダーである鈴守が合図を出すと、それぞれが侵入を開始した。
七星も階段裏口から侵入する。
どうやら敵が集まっているという事はないらしく、とりあえず簡単に進む事が出来た。
裏口から一階エントランスに出る事は出来ないので、ひとまず二階に向かう。
一階エントランスには何人か敵が待ち受けていたのだろう。
激しい戦闘が繰り広げられているようだ。
しかしもちろん、助けに行く義理はないのでこのまま進む。
彼らは仲間じゃない。
それは七星にとって掛け値なしの本音だった。
二階に出ると、そこには誰もいなかった。
「……いや、いる」
通路には誰もいない。
しかし一番奥の部屋には七人の吸血鬼が固まっているのが気配で分かる。
「……一対七、か」
少々厳しいが、相手が並の吸血鬼ならば相手に出来ない数ではない。
伊達にソロ活動を五年も続けている訳ではない。
それにゼーレシュタットの眷属としての能力もある。
並の吸血鬼相手ならば圧倒的優位に立てるだけの実力を七星は持っている。
「じゃあ、行こうか」
七星は腰から銀製武器のナイフを引き抜く。
それから何の構えもなしに、気楽な調子で玄関のドアを開けた。
「ーーっ!」
開けた瞬間、銃弾が胸に集中した。
人間相手だと思って油断したのだろう。
心臓を直撃しているが、この程度ならば問題なく動ける。
ゼーレシュタットの力はこの程度の傷ならばすぐに回復してくれる。
七星は傷つかずに相手を倒すのではなく、傷を負いながら相手を倒すのだ。
「やったぞっ!」
「馬鹿な小娘だ。堂々と入って来やがって」
「心臓に直撃したのは間違いない。一階は結構やばい事になってるからな。さっさと応援に行くぞ」
「おう」
騎士を名乗る吸血鬼たちが、たった一人の少女を殺したと思い込んでいきり立つ。
吸血鬼である事にも気付かず、人間だと信じて、死亡確認すらしない。
これで騎士とは笑わせる。
傾く身体を支えながら、七星は口元をつり上げた。
本人に自覚はないかもしれないが、その笑い方はマスターであるリージェスにそっくりだった。
五年もの間関わってきた相手だ。
知らず知らずのうちに影響を受けてきたのだろう。
自分の横を通り過ぎていく騎士二人をまずは殺した。
「え?」
「は……?」
いつの間にか両手に握っていた銀のナイフで二人の心臓を一突き。
殺意の意志もしっかりと込めているので、一瞬でその心臓を破裂させた。
二人には何が起こったかさっぱり分からなかっただろう。
「間抜け」
冷たい声で言い放つ七星。
生きている事にも気付かず、七星の殺傷範囲に近付いたのだ。
間抜けと言われても仕方がない。
「この小娘、生きてるぞっ!」
「どうしてっ!?」
「どっちでもいいっ! 死ぬまで殺せっ!」
真昼に攻め込んできたので人間だと信じていたようだが、これで認識を改めたようだ。
それでも恐らく混血だと認識しているだろう。
混血は人間よりも身体能力が高いが、純正の吸血鬼よりはややパワーが落ちる。
それが分かっているからこそ、五人の騎士は力押しで七星を殺すつもりだ。
それぞれ剣を抜く。
騎士としてのこだわりなのか。
こんな狭い空間で長物を振り回すなど正気とは思えない。
やはり間抜けなのだろうか、とぼんやり考える。
敵が間抜けならば手間が省けて助かるけれど。
対する七星はナイフを片方懐に戻す。
二刀流ではなく片手ナイフ使いが七星本来の戦闘スタイルだ。
もう片方の手は別の事に使うのだ。
「かかれっ!」
「おうっ!」
逃げ場を塞いで七星に襲いかかる騎士たち。
同士討ちをする程の間抜けではないらしく、剣の軌道はきっちりと分かれていた。
七星はその攻撃を全て紙一重で避けていく。
騎士たちが驚きを隠せずに声を上げるが、七星にとってはこの程度の事は造作もない。
こんな雑魚たちよりもずっと速く動く相手と何度も戦ってきたのだ。
その相手に殺意はなかったけれど、でもその攻撃は手加減というものがなかった。
お陰で動体視力や身体の動きは徐々に研ぎ澄まされ、七星の体捌きはかなりのレベルに達している。
肉弾戦で七星と互角に張り合える吸血鬼はもう少ないのではないだろうか。
攻撃を避け、左手で敵の服や腕を掴んで引き寄せる。
そして引き寄せると同時にナイフを心臓に突き入れる。
それだけで決着はつくのだ。
片手を自由にしているのは体術も駆使する為であり、決して遊ばせている訳ではない。
もちろ左手だけではなく、両足も大活躍だ。
足を引っかけて体勢を崩したり、牽制に蹴りを放ったりしている。
中には頑張って七星を背後から羽交い締めにした吸血鬼もいたが、しかし並の吸血鬼では純粋膂力で七星を押さえつける事は不可能だった。
「はっ!」
締め上げられてもダメージを受ける事なく、そのまま力ずくで首を締め上げる腕を引き剥がし、振り向きざまにナイフを眼球へと突き刺す。
その刃は脳にまで達している。
そこに殺意を込めれば脳を破壊する事が出来る。
吸血鬼の身体的弱点は脳と心臓であり、そこを破壊されれば活動を止める事になる。
高位吸血鬼はその両方を破壊されても生きているが、繰り返し攻撃する事によって再生力の限界を突破させる事が出来れば倒す事も可能だ。
もちろんそれは気の遠くなるような作業になってしまうのだが、しかしその気の遠くなるような作業を生業としているのがハンターという職業なのだ。
「や、やばいぞ。こいつ、ただ者じゃない」
生き残った二人のうち一人が呟く。
しかしもう遅い。
攻撃が成功したと勘違いした時点で七星の実力を見抜く事が出来ず、侮っていた代償をここで支払う事になる。
七星は彼らを見逃すつもりなどなかった。
吸血鬼を殺す事が仕事で、そして数少ない生き甲斐でもあるのだから。
それは人間を守るという高尚な精神からくるものではない。
もっと身勝手な感情だ。
自分を貶めた吸血鬼という存在を、この手で痛めつけ、そして殺す。
これはとても気分のいい事だった。
こうなった元凶であるリージェスにはまだ太刀打ち出来ないので、見知らぬ吸血鬼で鬱憤を晴らしている、という訳だ。
要するに八つ当たりである。
褒められた事ではないと分かってはいるけれど、そうする事でこの世界に害を為す吸血鬼を減らし、結果として誰かが守られる事となり、更には報酬まで発生するのだ。
八つ当たり一つで一石三鳥なのだから、自分の行いに対する後ろめたさは全く存在しない。
「さっさと死ね」
ビクついている騎士たちを前に、七星は無情に言い放つ。
動きが鈍った彼らを殺す事など、それこそ造作もない事だった。
こうして七星はたった一人で七人の騎士を撃退したのだった。
「ふう……」
殺された吸血鬼は死体も残さず消えていく。
ざらざらと灰化していき、そして開け放たれた窓から入ってくる風に流されていく。
灰そのものは無害なので、七星も気に留めない。
「次はどうしようかな……」
下に援護に向かうか、それとも上に姫君を倒しに行くか。
気配から察するに、姫君はまだ生きているようだ。
苦戦しているのか、それともとっくに鈴守たちが倒されたのか。
邪魔をするつもりはないけれど、かといって始まる前に散々自分を馬鹿にした他のハンターたちをわざわざ助けに戻るのも面倒くさい。
彼らの命を心配する義理などないのだ。
だったら追加報酬目当てに姫君狙いで行くべきか。
「うーん……」
七星はその場で腕を組んで悩む。
そうして悩んでいると、玄関から誰かが入ってきた。
「何だ、無事だったのかお嬢ちゃん」
「まあね」
入ってきたのは事務所で見張りをしていた男だった。
「一階エントランスの方はあらかた片付いたからな。こっちにも戦力が集中していると思って来たんだが」
「問題ないよ。全部殺した」
「思ったよりもやるな、お嬢ちゃん。何人いたんだ?」
「七人」
「………………」
一人で七人を殺したのか、と唖然とする男だが、床を見ると灰の塊が七つ存在している。
嘘を言っている訳ではないとすぐに分かった。
後からやってきたメンバーもそれを見て驚いている。
七星の実力が未知数だというのは承知していたが、まさかこれ程とは思わなかったらしい。
最悪、七星の死体を引き受ける覚悟でやってきたのだ。
引き受けるといっても依頼主である雨音に届けるぐらいの事でしかなかったが。
「下も片付いたなら上に行ってもいいよね? 邪魔はしないけど何か援護出来るかもしれないし」
「あ、ああ……」
後は鈴守たちに任せても構わなかったのだが、一度引き受けた仕事は最後まできっちり、というのが七星の方針である。
唖然とする彼らの横を颯爽と通り過ぎて、七星は階段で三階に向かう。
騎士たちは全て片付けたと考えていいだろう。
上から感じる吸血鬼も気配は一人。
しかしこれがかなり大きい。
並の吸血鬼どころではない。
おそらく高位吸血鬼だ。
今の自分がどこまでやれるか、七星は冷静に考える。
「リージェス……は例外だよね……」
彼は高位吸血鬼ではあるが、その中でも更に高位、最強の吸血鬼と言える。
彼らの中にも厳然たる格付けが存在し、この気配の大きさならばどちらかというと下位に位置付けられる。
だから今の自分でも何とか相手取る事は可能かもしれない。
もちろん敗北の可能性もある訳だが、ここで引き下がるようではリージェスを殺そうとする資格はない。
この困難を乗り越えてこそ、更なる力を手にする事が出来るだろう。
「おい、待てよお嬢ちゃん。せめて俺たちと一緒に……」
すたすたと進んでいく七星に慌てて声をかけてくる見張りの男。
しかし七星はお構いなしに進んでいく。
「最初から私と協力するつもりなんてなかったでしょ? なのに今更協力プレイとか言われても困るんだけど」
「冷たいな」
「最初に冷たかったのはそっちだし」
「う……それを言われると辛いが……」
「一緒に来たければ勝手についてくればいい。別に付いてくるななんて言ってないし」
「そ、そうだな……」
とりつくしまもない七星の態度にやや困りながらも、言われた通りについてくる。
騎士たちを排除した以上、他にする事がないからだ。
黙々と階段を上っていく七星たち。
七星に申し訳なさを感じつつも、謝罪も交流も拒絶している彼女に今更何を言っていいのかも分からず、気まずそうについていくメンバーたち。
七星はそんな彼らの気まずさを十分に承知していたが、関心が無かったので敢えて無視しておいた。
三階のエントランスに辿り着き、そのドアを開けようとした時の事だった。
「ーーっ!?」
世界が突然赤く染まった。
「なっ!?」
視界が真っ赤になる。
目がおかしくなったのではない。
おかしくなったのは周りだ。
景色が全て赤い。
「ぐっ!」
「あぐ……」
「……う」
「これ……は……」
付いてきていたメンバーたちがばたばたと倒れていく。
「ちょっとっ!?」
関心が無いといっても、目の前で倒れられて無視出来る程無情ではない。
慌てて駆け寄るが、既に意識を手放してしまっていた。
「まさか、血界!?」
吸血鬼の固有スキルに結界を張る、というものがある。
特殊な結界で、その血を用いて張られる為、血界とも呼ばれている。
赤い世界に取り残された七星は抱き抱えた男を地面に寝かせて状況を確認する。
これは間違いなく血界であり、かなり高位のものだ。
高位吸血鬼が持つ固有スキルを発揮した結果だろう。
つまりこの血界を張ったのは騎士たちの崇める姫君。
誰だか知らないが、こんな事を平気で出来るという事はかなりの実力を持っているという事だろう。
仕掛けた鈴守たちが無事である可能性は低い。
これは人間に効果を発揮する血界のようだ。
人間の生気を吸い取り、自らの糧とする類の物だろう。
七星は既に人間ではなくなっているので効果はない。
人間や、混血ならばこれに太刀打ちするのは難しいだろう。
放っておけば倒れた彼らは死ぬ。
助ける義理はないが、このままでは依頼を果たせない。
「けど……」
鈴守たちもこの血界にやられているだろう。
もしかしたら彼らは善戦したのかもしれない。
だからこそ切り札が発動した。
そう考えれば姫君は弱っている可能性もある。
七星一人でも十分に勝ち目はある、かもしれない。
それに依頼を途中で放り出す事は出来ない。
ハンターは信用第一の商売で、失敗したという事も、途中で逃げ出したという事も、消えない汚点として今後つきまとう事になる。
ハンターが失敗する時は死ぬ時。
それがこの業界の鉄則だ。
撤退もありえるが、それは今後のハンター人生を諦める覚悟が必要になる。
鈴守たちは失敗した。
けれど七星はまだ何も失敗していない。
「なら、迷う必要なんてないよね」
目の前に敵がいるのなら、立ち向かうのみ。
七星は死にそうになっている彼らには見向きもせずに、三階の扉を開けるのだった。
「………………」
三階にも三つの扉があったが、敵がどこにいるのかはすぐに分かった。
真ん中の扉が開け放たれているからだ。
そこから人の腕がはみ出している。
よく見ると鈴守だった。
うつ伏せに倒れて、そしてそのまま意識を手放している。
このまま放っておけば後数分で死ぬだろう。
それ程までに生気の吸収スピードは速い。
「あら、まだ動けるヤツかがいたのね」
中から聞こえてきたのは少女の声だった。
真っ赤なドレスに身を包んだ、金髪の少女は姫君と呼ばれるに相応しい美しさを持っていた。
外見は七星よりも少し下、十三歳ぐらいだが、もちろん実年齢は遙かに上だろう。
髪と同じく金色の瞳は魔性の光を帯びていて、今も爛々と輝いている。
その光は姫君をの美しさをより一層際立たせていた。
「なるほど……」
これなら『姫君』と呼ばれる訳だ。
その美しさは同性である七星ですら見入ってしまいそうな魔性が存在する。
存在そのものが他者を魅了する。
彼女はそういう性質を持ってるらしい。
「あなた、吸血鬼なのね。道理でこの『赤き夜』が効かない訳だわ。これは人間に反応する血界だしね」
「まあ、その通りだよ。同胞殺しを責める?」
「いいえ。そんな事はしないわよ。見たところ純血じゃなくて誰かの眷属みたいだけど、理由は復讐かしらね。自由に動いているところを見るとマスターは死んじゃったのかしら? 復讐対象がいなくなって八つ当たりの真っ最中? そういうの、あたし好きよ」
クスクスと無邪気に笑う姫君。
こうしていると愛らしい子供にしか見えない。
「まあ八つ当たりって言われても仕方ないけどね。報酬ももらえるし、合理的な仕事についてるって言ってもらいたいかな」
マスターについては明言しなかった。
マスターが眷属に完全な自由行動を許しているなど、他の吸血鬼からしてみれば異常でしかないからだ。
「ふうん。でも今ってまだ昼よね。あたしたちみたいな高位吸血鬼ならともかく、眷属でしかないあなたが外を出歩けるなんておかしいわね。混血ならまだ分かるけど、その場合はこの血界の餌食になる筈だし……」
姫君はじっと考え込んでいる。
目の前にいる七星の存在を測ろうとしているのだろう。
眷属でしかない七星が真昼に外を出歩けるのは、マスターであるリージェスの力ではなく、七星自身の特異性によるものだ。
その特異性に気付いた姫君は楽しそうに笑う。
「どちらにしても面白いわ、あなた。マスターがいないならあたしに従うつもりはない? 悪いようにはしないわよ」
「断る」
「ちょっとぐらい考えてくれてもいいんじゃない?」
姫君はぷっくりと頬を膨らませる。
そうしていると本当に子供っぽい。
「私がここに来たのは吸血鬼を殺す為だからね。下僕になる為じゃない。それに、姫君に従うなら同性よりも異性の騎士の方がいいんじゃない?」
「だってあたしの騎士はみーんなあなたに殺されちゃったんだもん。責任とってよ」
「……別に私が全員を殺した訳じゃないんだけど」
「あ、そうね。他の人たちも結構頑張ったんだっけ。今はみーんな役立たずだけど」
そう言って足下に転がっている男を踏みつけにする。
彼は鈴守と一緒に姫君へと仕掛けたハンターだ。
無様に床へと転がされているが、まだ死んではいない。
七星はそれを無言で見ていた。
そんな七星を見て面白そうに笑う姫君。
「あれ? 怒らないんだ。仲間なんでしょ?」
「仲間だと思った事はない。あくまで共闘関係だった人たちっていうだけ」
「ふーん。そういう冷たいとこも好き。やっぱりあたしの下僕になっちゃいなよ。本当に悪いようにはしないからさ」
楽しそうに無邪気な提案をする。
駆け引きかと思ったが、どうやら本気で言っているらしい。
「やめとく。人間を庇う気はないけど、人間の血を吸うのもやっぱり嫌なんだよね」
「あら、じゃあ普段は輸血用? それだと力出ないでしょ?」
吸血鬼の力の源は生き血である。
輸血用血液でもそれを賄う事は可能だが、やはり生き血の方が大きな力を与えてくれる。
「そういう訳じゃないけど。まあ私にも色々あるんだよ。だから貴女の支配下には入らない」
「そう。残念だけど戦うしかないって事ね」
「そうなるね」
言った瞬間、七星が動いた。
足に力を込めて踏み込みを加速し、十メートルも離れていた姫君との距離を一気に縮める。
「うわっ!?」
驚いている姫君を無視して、そのまま容赦なくナイフを振り下ろした。
肩から腹まで一気に。
もちろん魔力を込めているので、ただ切り裂いただけではなく、そこから肉体の破壊が行われる。
「ーーっ!!」
肉を破裂させた姫君は慌てて距離を取る。
しかし七星は逃がさない。
食らいついて、そのままナイフの攻撃を繰り返す。
捕まえて引き寄せてナイフを突き刺す。
心臓も狙っているがそこは流石に防御が堅く、きっちりと防がれてしまっている。
「やるわねっ!」
姫君が忌々しげに吐き捨てる。
実際、七星の動きは予想以上で、姫君は苦戦していた。
高位吸血鬼である姫君がまさか眷属如きにここまで後れを取るとは思わなかったのだ。
しかし七星にとってその誉め言葉は皮肉にしか聞こえない。
この程度で強くなったなどと言えない。
リージェスを苦戦させられなければ意味がない。
自分はまだ弱いのだ。
だから強くならなければ。
その一心でナイフを振るう。
「貴女程度を殺せないようじゃ、あいつを殺す事なんて出来ない。だから、勝たせてもらうよ」
最終目標はリージェス・ゼーレシュタット。
最強の吸血鬼。
彼を目標にしているのなら、この程度の相手に苦戦する事は許されない。
七星はそう言い聞かせて攻撃を繰り返す。
致命傷は避けられているが、このまま攻撃を続けていけば回復力は低下する。
回復が追いつかなくなれば動きが鈍る。
そうすれば心臓か脳を破壊して終わりだ。
攻撃して、回復して、攻撃して、を繰り返す。
七星の方も無傷では済まない。
何度も姫君から攻撃を受けている。
その攻撃は避けられず、いくつか食らってしまっているが、姫君に負けない速度の回復でそれを補っている。
与えているダメージは七星の方が大きいので、いずれ姫君の方に限界が来るだろう。
それを計算して七星は攻撃を繰り返していたのだが、
「ふふ」
「っ!?」
姫君が不敵な笑みと共に指をぱちんと鳴らした。
すると赤い世界が一瞬だけぶれる。
そして元通りまた赤い世界になる。
「なっ!? えっ!?」
がくん、と膝をつく七星。
身体に力が入らない。
急激に力を吸われているのが分かる。
「どう……して……」
姫君の攻撃に何かを仕込まれていたのか。
しかしそれならばもう少し前に気付いても良さそうなものだ。
これは……
「ふふふふ。驚いた? 『赤き夜』は人間にダメージを与えるだけじゃない。術式を少し切り替えるだけで同じ吸血鬼の力も吸い取る事が出来るのよ。これこそがあたしの固有スキル。人間に対しても、吸血鬼に対しても無敵でいられる理由って訳」
「………………」
勝ち誇るように笑う姫君。
膝をついた七星は苦しげに呻く。
「どう? この血界は動きも封じるからね。動けないでしょ?」
「………………」
動けない七星は姫君を睨みつけるしかない。
油断していた。
高位吸血鬼の固有スキルには気をつけろと、リージェスに言われていたのに。
その忠告を忘れていた訳ではないが、侮っていた事も否めない。
姫君の固有スキルは人間の生気吸収だけだと勘違いしていた。
まさか吸血鬼相手への効果に切り替えられるなど、予想していなかったのだ。
「さて。どうしようかな。あなたには断られたけど、やっぱり面白そうだし、残らず血を吸い尽くして、そして下僕にしてしまうのも悪くないかしら」
マスターを持つ眷属を無理矢理に奪い取る方法は存在する。
眷属の中にあるマスターの血の支配力を、自らの血を与える事により上書きしてしまえばいいのだ。
それはマスターを失ったはぐれ吸血鬼でも同じ事であり、以前の影響力を消す事により新しい支配を確立する。
つまり七星の血を吸い尽くし、リージェスの支配力を弱らせて、自らの血を与えて支配力を上書きする。
そうすれば七星は姫君のものになる。
リージェスのように自由意志を許すつもりなどない。
七星が拒むのならば、傍に仕える人形として手元に置くまでだ。
太陽の下で動ける吸血鬼。
強大な回復力。
そして身体能力。
七星はこのまま殺すには惜しい存在だ。
彼女の秘密を手に入れる為にも、ここは手駒にしておくべきだ。
姫君はそう判断した。
「………………」
姫君は七星に近付く。
血を吸う為に近付いて、そして……
「っ!?」
七星が振るったナイフに首筋を切り裂かれる。
「………………」
「ちょっと……何で動けるのよ!?」
力を吸い取るだけではない、動きも封じる血界なのだ。
自分と同じ高位吸血鬼ならまだしも、眷属でしかない七星にそんな真似が出来る筈がない。
姫君は目の前の光景が信じられなかった。
「何でって……うーん、何でかな……」
動け、動け、動け、とひたすら念じただけだ。
どうしてかと言われても、七星の方が困ってしまう。
「強いて言うなら、根性?」
七星が辛そうに言う。
かろうじて動けたが、それも気力の全てを振り絞ってやっとだ。
膝をついていた身体は無様に倒れ込む。
さっきのが最後の抵抗で、もう指先一つ動かせない。
出来る限り抵抗してみたけれど、どうやらここまでのようだ。
いや、血を吸われればもう少し反撃出来るかもしれないが、それは結果であって七星の力ではない。
それでもこの姫君を殺せるのなら、それでいいかと諦める。
「ふふ、ふふふふ! いいじゃない、面白いわ、本当に面白いわ、あなた。ますます欲しくなっちゃった!」
首筋の傷を塞ぎながら姫君が楽しそうに笑う。
新しい玩具を目の前にした子供がはしゃぐような姿は、とても無邪気で残酷だった。
金色の瞳を輝かせ、嬉しそうに迫ってくる姫君。
「ねえ、名前を教えて。下僕にする前に、知っておきたいわ」
「それはやめておいた方がいいと思うけど……」
「あら、どうして?」
「私の名前は、マスターがつけたから。その名前で私を認識すれば、貴女は私を支配するのが難しくなると思うよ」
リージェスは七星を名前で縛っている。
名前を与えたのは事実だが、七星はその所為でどうやってもリージェスから離れる事が出来ない。
リージェスがマスターとして七星に強制しているのはその一点だけだ。
しかしその名前こそがリージェスの支配をより強力にしている絆であり、姫君が七星の名前を認識するという事は、その支配を認めるという事だ。
そうなると自らの支配を浸食させづらい。
「もしかして、あなたのマスターって、まだ生きているの?」
「誰も死んだなんて言ってないし」
「マスター存命中に、眷属が吸血鬼狩り? 冗談でしょ?」
信じられない、と顔をしかめる姫君。
愛らしい顔が少し歪んでしまっている。
「マスターが私に強制している事はたった一つだけだからね。それ以外は私が何をしようと自由って訳」
「何それ。眷属の意味ないじゃない」
「実は私もそう思う」
リージェスが何を考えて七星に自由を許しているのか、その真意は分からない。
けれど大切にされている、という事だけは分かる。
だから簡単に姫君の支配を受け入れるつもりはなかった。
というより、恐らくは不可能だ。
何故なら……
「さてと。じゃああなたをあたしの下僕にしてあげる」
姫君が近付いてきて七星の首筋に牙を突き立てる。
「………………」
動けない七星はそのまま血を吸われた。
ごくり、ごくりと吸われていく血液。
吸われていく程に七星の身体から力が抜けていく。
意識が遠のきかけた頃、異変が起きた。
「ーーっ!!」
七星を捕まえていた姫君がいきなり離れる。
七星を突き飛ばしてから口元を押さえている。
「な……な……!?」
「………………」
姫君の身体に何が起こったのか、七星は知っている。
血を吸わせればこうなると分かっていた。
「ちょっと……あたしに、何をしたの?」
血を吸った直後だというのに、姫君の身体は震え、顔は真っ青だった。
「あ……うぐぅ!」
口から吐き出されるのは大量の血液。
七星の血だけではなく、姫君自身の血も含まれている。
「別に、何もしていない。貴女が勝手に自滅しただけ、だよ」
七星は辛そうにしながらも喋る。
何も知らずに死んでいくのは哀れだと思ったのだろう。
どうして自分が死ぬのか、せめてそれぐらいは教えておきたい。
「?」
七星と同じように倒れた姫君は困惑の表情で首を傾げる。
「実は、ね。私の血は貴女のような魔物にとっては致死の毒になるの。聖血って言うんだけど、さ。その血で魔を退け、そして魔を滅する。だからその血を取り込めば、もちろん死ぬ」
それこそが聖血の力。
七星が持つ魔物に対する最大の切り札。
「そんな……あなた、吸血鬼じゃない……それなのに……」
自らが吸血鬼という魔に堕ちておきながら、どうして聖血などというものを保っているのか。
理屈に合わない。
聖血とは、神に愛された存在、一部の人間だけが持ちうる性質であり、それらは例外なく現人神として崇められている。
「だから、さ。私を吸血鬼にしたマスターの力でも、この聖血を完全に消す事は出来なかったって事。そこにいるだけで魔を退けるような力はもうないけど、でもその血を口にすれば致死の毒になる、ぐらいの神性はまだ残ってるみたい」
聖域の鍵、聖女としてはもう終わってしまった七星だが、聖血の持ち主としては絶対的な力を保持したままだった。
その事実を知らされた姫君は嘘だと喚く。
「それが本当ならあなたのマスターだって死んでいなきゃおかしいじゃないっ! あなたを眷属にする時、その血を吸った筈でしょう!?」
血反吐を吐きながらも喚く事だけはやめない姫君。
それだけ悪夢的な言葉なのだろう。
「そうなんだけどね。何でかぴんぴんしてる」
「っ!!」
「どうしてかなって今でも疑問なんだけどね。まあ考えるだけ無駄だろうから考えない。アレはそういう変態なんだって思っておく事にする」
……さらり酷い事を言う。
ちなみに変態と称したのは性癖を指しての事ではなく、変な生態、という意味だ。
それならば特異体質とでも言えばいいのだろうが、七星はリージェスに対してそんな気遣いをしてやるつもりは全くない。
「だから、ね。私の血を吸って平気なのは、きっとマスターだけなんだと思うよ。貴女じゃ私のマスターになるには力量不足って事」
「ーーっ!!」
姫君としてもてはやされてきた彼女にはこの上なく屈辱的な言葉だった。
七星の血は今も姫君の身体を侵蝕している。
自分とは相反する性質が問答無用で細胞を破壊しているのだ。
回復すらも封じられている。
まるで即効性のウイルスだ。
「という訳で、貴女はここで死ぬよ、姫君。余計な事を考えなければ、貴女の勝ちだったのにね」
七星を下僕にしようなどと考えず、あっさりと殺しておけば姫君の勝利だった。
それが欲を出した為にこの様だ。
無様極まりない結末だった。
「一人じゃ、死なないわよ……」
きらきらしていた瞳は淀んでいた。
何かを決意して、そしてそれを実行する者の眼だ。
指先に残った力を集中する。
レーザー砲のような攻撃だが、その性質は少し違う。
塵滅砲。
高位吸血鬼が持つ吸血鬼を殺す為の攻撃手段だった。
赤い光が指先に集中する。
吸血鬼、人間問わず、この光に触れれば灰と化す。
並の吸血鬼ならば回復も出来ずに死んでしまうし、高位吸血鬼であっても回復には時間がかかる。
七星本来の力がどれ程のものなのか、姫君には分からない。
もしかしたらとんでもない力の持ち主なのかもしれない。
潜在能力は発揮されるまでその真価を測れない。
けれど弱っている今ならば確実に殺せるだろう。
「………………」
七星はそれがどんな攻撃なのか知っていた。
こうなる事も何となく分かっていた。
動けない自分は、ここで死ぬだろう。
リージェスは悲しむかもしれない。
いつだって彼は七星を心配してくれている。
けれど分かって欲しい。
自分から死のうとした訳ではないのだと。
精一杯抗って、そして及ばなかっただけなのだと。
「………………」
馬鹿みたいだ。
殺したい程憎んでいる相手なのに、どうしてかこの状況で謝りたくなる
最期の瞬間に思い浮かぶのがリージェスの顔だなんて、悪い冗談にも程があるじゃないか……と七星は苦笑した。
それでも、困ったようなリージェスの顔は、たとえ想像であっても七星を安心させてくれた。
ごめんね。
さよなら……
赤い光に包まれた七星がそんな事を呟いた時だった。
「困るんですよね、勝手に殺されるのは」
実にのんびりとした、聞き覚えのある声が響いた。
「え……?」
そこに立っていたのは七星のよく知る人物だった。
「あ……雨音さん……?」
七星を守るように立ち、そして何らかの方法で塵滅砲を防いでいる。
よく見ると右手には紙が握られていた。
「紙……じゃなくて、呪符……?」
「正解です。呪符による結界ですね」
「……雨音さん。神父ですよね?」
「まあそうなんですけど~。陰陽師スキルも持っていたりします」
「………………」
どんな神父だ、と呆れる七星。
しかし助けられた事は事実なので、ここは敢えて突っ込まなかった。
「すみませんね、七星さん。ちょっと見込みが甘かったみたいで。危険な目に遭わせてしまいました」
「それは別に構わないんですけど。こっちの油断もありますし」
「そう言ってもらえると助かるんですけどね。特にリージェスさんに言ってもらえると」
「へ?」
「だって、ねえ? 僕が紹介した仕事で七星さんが死んだりしたら、間違いなく八つ当たりで殺されますよ、僕」
「………………」
「まあ殺されなくても確実に恨まれますね」
「………………」
「それは流石に遠慮したいので、こうして助けに来た訳です」
「ええと、それはどうも、ありがとうございます……?」
自分を心配しているというよりもリージェスに殺されたり恨まれたりするのを心配している、という利己的な理由なので、感謝するべきかどうか迷う七星。
「いえいえ。僕もまさか固有スキル持ちの高位吸血鬼が絡んでいるとは思っていなかったので。すみませんね。七星さんにはまだ荷が重い仕事でした」
「はっきり言われても悔しいんですけどね……」
ぼやくものの、事実なのでしょんぼりと受け入れる七星。
スペックでは高位吸血鬼に迫る七星も、その力を使いこなせているとは言い難い。
自分にどれだけの力があるのかもまだ分かっていないのが現状なのだ。
それでも力に振り回されている訳ではなく、現状で自分に出来る事をきちんとしている、という面では評価出来るのだが。
雨音の結界が消える。
塵滅砲を完全に防がれてしまった姫君が忌々しげに唸る。
美しい声も、その唸りで台無しになってしまっている。
「あなた、誰よ。邪魔してくれちゃって……」
「僕はただの脇役ですよ。知り合いが殺されそうになっているのでちょっと助けに入っただけの、ね」
「………………」
「それよりも姫君? 貴女の方こそ身の程知らずな発言をしてしまいましたね」
「……何ですって?」
「七星さんを自分の眷属にする? 自殺行為ですよ、それ」
「それは既に身を以て味わっているところよ……」
血を吸えば毒に侵される。
だからこそ七星を手に入れようとするのは自殺行為なのだ。
しかし雨音の言いたい事はそうではなかった。
「まあそれも嘘ではないんですけどね。根本的なところで間違っているんですよ」
「……?」
「いいですか? 七星さんは既にマスターを持つ吸血鬼なんですよ」
「だから、何よ?」
「だから、七星さんに手を出して、そのマスターが黙っていると思いますか?」
「………………」
言われて、初めてそこに思い至ったらしい。
手に入れるのは自分で、そのマスターには興味がなかった。
興味を持とうともしなかった。
けれどよく考えてみると、おかしな点がある。
高位吸血鬼である自分をここまで決定的に毒する事の出来る聖血の持ち主なのだ。
その血を吸って眷属にした上、更にはマスターとして存命で、今も七星に影響力を持っている。
そんな存在が只者である訳がない。
吸血鬼の中でもほんのひと握りでしかない、常軌を逸した実力の持ち主。
それは、誰か?
「………………」
歯ががちがちと震える。
そう言えば、雨音と呼ばれるこの神父、リージェスと口にしなかったか?
リージェスとは……あのリージェスなのだろうか?
吸血鬼の頂点、そこに最も近い力を持つ恐るべき王族……
「リージェス・ゼーレシュタット……?」
「その通り」
「っ!!」
その存在に思い至った時、姫君の小さな胸を貫く手に気付いた。
「かは……っ!!」
高位吸血鬼である姫君は心臓を貫かれた程度では死なない。
しかし七星の聖血によって大ダメージを受けていた姫君にとっては決定的な追い打ちになった。
見上げると、見下ろす顔があった。
リージェス・ゼーレシュタット。
限りなく冷たい殺意を放つ琥珀色の瞳には、ただ殺すという意志だけが存在していた。
「人の眷属に手を出すとはいい度胸だ」
「……ゼーレシュタットが、眷属を造る? あはは、悪い冗談だわ……」
純血を重んじるゼーレシュタットは眷属を造らない事で有名だ。
一族が重んじるその決まりを破って、七星という眷属を造ったリージェスを、姫君が嘲笑う。
「関係ないさ。俺は俺が思う通りに生きる。一族の意向なんか関係ないね。そもそも俺はゼーレシュタットにとっては傍系もいいところなんだ。とやかく言われる筋合いはない」
「ふうん。それで、大事な眷属を横取りされた事に怒ってるって訳?」
姫君が弱々しい声で反論すると、リージェスは頷いた。
「当たり前だ。七星は俺のものなんだよ。他の誰であっても七星に触れる事は許さないし、横取りなんて絶対に許さない。あいつは一生、俺だけのものだ」
「………………」
その言葉を聞いた七星が真っ赤になる。
今までそこまで露骨な言葉を聞いた事がなかったからだ。
自分がリージェスの眷属であり、彼のものである事は暗黙の了解だった。
だからリージェスも敢えて口にはしなかったし、七星もそれを聞きたいとは思わなかった。
しかしそれが自分に向けられた言葉ではなくても、そこまではっきりと言われてしまうと……
「おや、七星さん。顔が赤いですよ?」
それに気付いた雨音がニヤニヤとしている。
「ききききき気のせいです目の錯覚ですもしくは眼病です」
「酷いですね~。これでも目はいい方なんですよ」
「あわわわわ……」
「ああ、もしかしてデレちゃいました? 今まで殺してやるーとか意気込んでいましたけど、ストレートな愛の告白を聞いちゃってデレちゃいました?」
「ななななななな……デ、デレてなんかないですっ!!」
「ふーん。へ~。ほほ~う」
「ちょ、何ですかその顔はーっ!!」
「いえいえちょっと面白い玩具……こほん、もとい迷える子羊を見つけたのでちょっとからかって……ではなく導いて差し上げようかと思いまして」
「ところどころ神父とは思えない発言が混じってますけどっ!!」
「気のせいです。……多分」
「多分って言いました!?」
「気のせいです幻聴ですもしくは妄想です」
「病気より酷いしっ!」
「だって吸血鬼は病気になんてならないじゃないですか」
「うぐっ!」
「あ、でも今は病気にかかってますね?」
「へ?」
「ずばり、恋の病?」
「かかってませんーーっ!!」
……などという実に微笑ましい(?)やり取りをしている神父と吸血鬼なのだった。
少し離れた位置でそんな微笑ましいやり取りを目撃させられた二人の高位吸血鬼はぽかんとしている。
「何か、いいわね……」
瀕死な筈の姫君がそれを羨ましそうに見ていた。
七星の初々しさや可愛らしさに何か思うところがあるらしい。
自分はもう死ぬが、最期に幸せの欠片らしきものを眺められたのは意外と悪い気分ではなかった。
「何となく、分かるわ。貴方があの子を欲しがった理由が」
「だろう? でもやらないぞ」
ふふん、と誇らしげに笑うリージェス。
子供のように得意気な笑みだった。
「………………」
七星は眩しいのだ。
闇の中に生きる吸血鬼にとって、七星の存在は太陽そのものだった。
それも自らを灼く死の太陽ではない。
自らを優しく照らしてくれる、闇から光へと導いてくれる暖かな太陽だ。
吸血鬼という存在に堕とされてなお変わらない神聖さ。
どこまでも初々しく、可愛らしく、見ていて暖かい気持ちにさせられる。
そんな少女はきっと世界のどこを探しても、七星一人だけだ。
リージェスが七星を手に入れたのも、きっとあの光を手に入れたいと思ったからだろう。
「もう少し早く、あの子に出会いたかったわね。そうすれば、あたしのものに出来たのに……」
リージェスよりも早く七星を見つけていれば……
そんな無念を姫君が口にする。
しかしそれは叶わぬ願いだろう。
「お前じゃ無理だよ。血を吸った瞬間に死ぬだけだ。言っておくが、人間だった頃の七星は正真正銘の聖女だ。聖血の威力だって今とは較べものにならないぞ」
「……貴方、よく無事だったわね」
「いや、無事じゃなかったぞ。しばらくまともに動けなかったからな。眷属にするのも命懸けだった」
「………………」
それに今でもその後遺症は残っている。
もちろんそんな事は口にしないが。
「それでも俺は、あいつが欲しかったんだ」
「そう……」
欲しいものに手を伸ばす。
それが自らの命を奪う死神であっても。
リージェスはそれを覚悟して手を伸ばし、そして手に入れたのだ。
何よりも大切な存在を。
「あーあ……。あの子、欲しかったなぁ……」
その言葉だけを残して、姫君は消えていった。
ざらざらと灰になってフローリングの床に落ちる姫君だったモノ。
七星の聖血に毒され、リージェスに心臓を貫かれた名前も知らない姫君は、最期は少しだけ満足そうに、そして羨ましそうにしながら逝った。
「………………」
その最期を見送ったリージェス、そして七星と雨音。
この部屋に残されたのはその三人だけだった。
「えっと……」
七星が何を言っていいのか分からず、ただリージェスを見ている。
助けに来てくれた事を感謝するべきなのか、それとも余計な真似をするなと怒るべきなのか、自分でもよく分からない。
力を尽くして死ぬならそれも悪くないと思っていたけれど、死ぬと分かった時には申し訳なさがあった。
口には出さなかったけど、リージェスに向けて謝ったりもした。
だったらやはり感謝するべきなのだろうか……
リージェスはすたすたと七星に歩み寄ってきて、そしてそのまま抱えた。
「わあっ!?」
「血界の影響でまだ動けないだろう? 部屋まで運んでやる」
「い、いらないっ! っていうか恥ずかしいから降ろして!」
「却下」
「~~~っ!!」
暴れる気力もない七星はされるがままだった。
「今回は助かった。一応礼を言ってやる」
リージェスはやや仏頂面で雨音に礼を言う。
「おや、珍しい。てっきり恨まれるかと思ったんですがね」
「引き受けたのは七星だからな。その時点でお前の責任を追及するつもりはない」
「まあそう言ってもらえると助かりますけど」
「七星が死んでいたら八つ当たりぐらいはしていただろうが」
「………………」
助けに来て良かったと心底思う雨音だった。
リージェスの八つ当たりだけは遠慮したい。
「では今回の事は貸しにしても?」
「好きにしろ」
「じゃあさっそく返してもらいたいですね~」
楽しそうに言う雨音と、嫌そうに顔を歪めるリージェス。
「何が望みだ?」
この場で出来る事なら手早く済ませるつもりだったのだが……
「では僕と寝てください」
「ぶっ!?」
その爆弾発言を聞いた七星がリージェスに抱えられたまま噴き出し、
「断るっ!」
心底嫌そうな顔をしたリージェスが力一杯断りの返答をした。
「うーん、残念。せっかくの機会ですのに……」
「別のものにしろっ!」
「じゃあ一緒にお風呂に……」
「却下っ!」
「キスしてください」
「嫌だっ!」
「抱きしめるだけでも」
「男を抱きしめる趣味はないっ!」
あれこれやり取りをしているが、結局のところリージェスは何一つ了承しなかった。
そんな爆弾発言のオンパレードなやり取りを聞いていた七星は恐る恐るリージェスに問いかける。
「あの……もしかして雨音さんって……」
「ああ。こいつは同性愛者だ。忌々しい事にこの俺にご執心なんだとよっ!」
吐き捨てるように答えるリージェス。
「……なるほど」
リージェスが雨音を苦手としている理由が分かった七星だった。
そりゃあ苦手にもなる。
「酷いなぁ。僕は同性愛者じゃないですよ。女の人を好きになる事だってありますし。特に七星さんなんて可愛いですよね。どうですか? リージェスさんから僕に乗り換えませんか?」
「え……えっと……」
爽やかに言われて返答に困る七星。
「こいつは俺のものだっ! お前にはやらんっ!」
「あう……」
堂々と言われてまた赤くなる七星。
まるで愛を囁かれているような気分になり、どうにもやりづらいのだ。
一度デレてしまうとどこまでもデレてしまいそうで、必死に自制する七星。
そんな七星を見てにやにやする雨音。
この神父はかなりのクワセモノだ。
七星は今の状況をどうにかしたくて、強引に話題を変える。
「そ、そういえば雨音さんって戦えるんですよね。ただの神父さんなら必要ないスキルだと思うんですけど、もしかして過去にハンターだったりするんですか?」
やや不自然だが、それでもこの話題が続くよりはマシだと思ったらしい。
「その通りです。僕は吸血鬼専門のハンターだったんですよ。今はもう引退して、ただの窓口になってますけどね」
「引退って、まだ早いと思うんですけど、どうしてですか?」
姫君の塵滅砲をあっさり防いだ事といい、その実力はかなりのものだと七星は感じ取っていた。
少なくとも今の自分よりも数段上の戦闘能力を持っていると確信している。
「そりゃあもちろん愛の為ですよ」
堂々と言ってのけた雨音に、
「………………」
リージェスは心底嫌そうな顔になり、
「………………」
七星はどう反応していいのか分からず、複雑な表情になっていた。
「リージェスさんに出会ってからはとてもじゃないけどハンターなんてやってられなくなりましたからね。敵として出会えば戦うしかないですし。そんなのは真っ平御免です。まあこの世界、愛する者だからこそ殺して自分のものにしたいという趣味の人間も数多く存在しますが、僕としては愛する人とは良好な関係を築いていきたいですからね。という訳で僕はハンター稼業を引退して、実家の家業を継ぐ事になった訳です」
「な……なるほど……。愛の為ですか……」
「ええ、全ては愛の為です」
くふふ、と得意気に胸を張る雨音。
「………………」
ものすごーく嫌そうに溜め息をつくリージェス。
「それにしてもどうして陰陽術なんですか? 何だか神父さんのイメージに合わない気がするんですけど」
「そうですかね。でも陰陽術ってこれで意外と汎用性が高いんですよ。術式はプログラムと同じ要領で、呪符さえ作ってしまえば後は魔力を込めるだけで発動しますからね。マジックスキル系ハンターは魔法陣や呪文などの術式展開に時間を取られる事が多いんですよ。日本では既に古い技術として廃れてしまっていますが、これはこれで使い勝手がいいんです」
「な、なるほど……」
「こいつの術はえげつないぞ。どれだけ強力なものでも予め呪符に魔力を込めておけばそれこそ一瞬で発動するからな。避ける暇もないし、仮にその暇があったとしても大規模術式なら避ける意味もなくダメージを喰らっちまう」
「うわあ……」
リージェスが身震いしながら呟くと、七星もちょっと震えた。
自分がそれを喰らう様を想像して、ちょっぴり怖くなってしまったのだ。
「もしかして、雨音さんと戦った事あるの?」
「……一度だけな。あの時は結構やばかった」
「……リージェスが?」
リージェスの力を嫌と言う程知っている七星はその言葉が信じられなかった。
雨音は確かに強いと思うのだが、それ以上にリージェスが強いと思っていたからだ。
七星から見たリージェスの力は別格だ。
どれ程優れていようとも、人間に後れを取るとは思えない。
「僕とリージェスさんが初めて出会った時の事ですね。だいたい、五年前ぐらいですか」
「五年前って……」
「ああ、七星さんがリージェスさんの眷属になったのも丁度その頃でしたっけ?」
「そうですけど……」
「リージェスさんにとっては運が悪かったですね。あの時は七星さんの聖血によるダメージがまだリージェスさんの中に残っていましたから。本調子じゃなかったんですよ。まあそれでも、並の高位吸血鬼ぐらいの力はあったんですけどね。丁度、先程死んだ姫君ぐらいでしょうか」
「………………」
「殺し合いをしているうちに何だかドキドキしてしまいまして。決着もつかなかった事もあって、不戦協定を結んだ訳です。一目惚れならぬバトル惚れってやつですかね」
「………………」
七星がどう返答していいのか分からず悩んでいる傍で、リージェスは頭を抱えていた。
「まあリージェスさんは基本的に人間相手に危害を加えるような吸血鬼ではありませんし、僕としても付き合いやすい相手なんですよ」
「付き合ってねえっ!」
「人付き合い、という意味ですよ。男男交際ではありません」
「おぞましい事言うなっ!」
「寂しいですねぇ」
「やかましいっ!」
「………………」
仲がいいのか悪いのかよく分からない二人を眺めながら、七星は唖然としている。
リージェスは雨音を苦手としているようだが、それでも嫌っている訳ではないようだ。
というか、単に困っているだけのように見える。
「それで、貸しの件ですが」
「う。忘れてた……」
「僕は覚えています。まあいちゃつくのは諦めますので、手料理を振る舞ってください。それぐらいならいいでしょう?」
「って、待て。俺は料理なんて出来ないぞ」
「知ってますよ。だから提案しているんです」
「………………」
「料理の出来ないリージェスさんが僕の為に四苦八苦しながら料理を覚える。ああ、想像しただけで悶えそうです」
はう、と頬を赤く染めながらうっとりする雨音。
リージェスだけではなく七星までドン引きしてしまう。
「メニューは、そうですね。肉じゃががいいですね。女の子が愛する人に出す手料理としてはかなりの王道ですから」
「…………………………………………」
リージェスはものすごーく長い沈黙の後、
「分かった。くそ忌々しいが、作ってやる。味は期待するな」
と、返答した。
「………………」
その様子を見て七星がぽかんとなる。
まさかリージェスがこんな風に誰かの言葉に従うなどという事があるとは夢にも思わなかったらしい。
それも七星の命を助けてもらった相手に借りを返す為だという事は分かっている。
そう考えるとまた赤くなってしまう。
デレ具合が本気でやばいよ……と落ち込む七星。
今までの自分が徹底的に否定されてしまいそうで、それが怖かった。
「いや~。楽しみですね~」
ウキウキしながら言う雨音と、
「くそ……。毒入りにしてやろうか……」
物騒な事を呟くリージェス。
「さてと。お二人はそろそろ戻っていいですよ。僕はここの後始末が残っていますからね」
「……後始末って」
「姫君に攻め込んだ二人はもう死んでいますけど、残りのメンバーは血界の影響下にあったとはいえ、辛うじて生きていますからね。病院に運んだり、後はこのマンションの隠蔽工作とかも必要ですし」
「そうですか……」
「じゃあ遠慮なく帰らせてもらう。これ以上お前と一緒にいたくない」
「おやおや、嫌われたものですね。僕はこんなに愛しているのに」
「聞きたくないっ!」
「あいらぶゆ~」
「黙れっ!」
背中からコウモリのような翼を広げたリージェスは七星を抱えたまま、マンションから飛び立っていった。
人の目には見えない高々度を飛行している為、気にする必要はないが、抱き抱えられたままの七星はやはり居心地が悪かった。
「肉じゃが、本当に作るの?」
「……仕方がない。あいつに借りっぱなしというのは色々な意味で怖い」
「………………」
本気で身震いするリージェス。
力関係が見えてきた気がして、何だかおかしくなった七星だった。
「……何を笑っている?」
「ううん。別に。本気で困ったり怯えたりしているリージェスを見るのって、そういえば初めてかもって思って」
「む……」
七星がそう言うと、リージェスはまた困ったような表情になる。
今まで強引で偉そうで、それでも最低限は優しかったリージェスだが、どこか壁を感じていた。
それは自分が作っていた壁なのかもしれないが、こんな風に色々なリージェスを見られるのは、何だか嬉しいと思えてくるのだ。
「結構、面白い」
「むぅ……」
「………………」
更に困るリージェスを見て、七星は何となく雨音の気持ちが分かる気がした。
リージェスが困っているところを見るのは面白い。
あれだけ念入りにからかいたくなる気持ちも分かってしまう。
「あのさ……」
「何だ?」
「肉じゃが作るの、手伝おうか?」
「手伝うって、料理出来るのか?」
「ううん、出来ない」
「………………」
「だから一緒に覚えようかなと思って」
「俺と一緒に?」
「うん」
「……どういう風の吹き回しだ?」
今まで必要以上に近付かなかった七星が、急に好意的になっている。
嬉しい気持ちはもちろんあったのだが、それ以上に理由が不可解だった。
「雨音さんが言っていたんだよ」
「む。奴の影響か」
七星が自分からそうしている訳ではなく、雨音に促されてそうしているのだと分かってちょっと不機嫌になる。
七星を変えるのは自分でありたい、というエゴの表れだ。
「許せなくてもいい。それでも、妥協して、歩み寄る事ぐらいなら出来るんじゃないかって」
「………………」
「ちょっと迷ったけど、でも歩み寄るぐらいならしてもいいかなって思った」
「………………」
「私を吸血鬼にした事は許せないし、許しちゃいけない事だと思う。でも、それはそれ、これはこれって考えると、ちょっと気が楽になったよ」
「そうか」
「うん」
「………………」
七星を抱き抱えたまま飛行しているリージェスは、そのまま何も言わずに進んだ。
少しだけ首を動かしてリージェスの顔を見ると、口元が綻んでいるのに気付いた。
こんな嬉しそうな顔を見るのも初めてだった。
「………………」
そんなリージェスを見て、七星も少しだけ嬉しくなった。
「じゃあしばらくはうちにいろ。そのダメージは明日には回復するだろうが、料理は速攻で覚えられるものじゃないだろうからな。しばらくは一緒に練習だ」
「うー。分かった」
「よし」
今までは用事が済んだらすぐにリージェスのところから出て行ってしまっていたが、しばらく一緒に暮らす事を了承した。
これもいいきっかけだと思ったらしい。
五年という歳月がかかってしまったけれど、二人はようやく少しだけ近付く事が出来た。
第二話 日常と非日常の境界線
その日、リージェス・ゼーレシュタットは台所で悪戦苦闘していた。
「くそっ! このっ! ばか! 大人しく剥かれろこのっ!」
台所に立ち、じゃがいもの皮を包丁で必死に剥いているのだが、力を入れ過ぎて皮だけではなく実まで分厚く切ってしまい、それだけではなく自分の指まで切っていた。
指の傷は超回復ですぐに治るのだが、血塗れになったじゃがいもだけは回復不可能だった。
洗い流しても吸血鬼の血液は人間にとって大きな毒性があるので、少しでも残っていれば洒落にならない事になる。
うっかり食べた人間を眷属にしてしまうなどあってはならない事だ。
しかも食べさせる相手があの陵雨音では、眷属にするのは激しく遠慮したい。
本人はノリノリで大喜びするかもしれないが、リージェスとしてはあんな眷属を持つのは御免被りたい。
本人の能力も高いので、更にリージェスの眷属としての力が加われば、本気で迫られた時に逆らえない可能性がある。
マスター権限で強制的に近付くなと命令すればそれで済むのだろうが、リージェスの主義として強権発動は遠慮したい。
「……また失敗?」
それを少し離れた位置から眺めているのは七星。
黒い髪を肩のところで結わえた見た目十五歳ぐらいの少女だった。
蒼い瞳には呆れの色が混じっている。
「失敗だ。料理とはかくも難しいものだな……」
「……まあ、そうかも?」
悔しそうに唸るリージェス。
しかし手伝う為にあっさりと料理を一通り覚えてしまった七星としては、何がそんなに難しいのかが理解出来なかった。
七星は料理の基本を覚える為に、近くの料理教室に通った。
大規模な商業施設の中にあるテナントがちょうど料理スタジオだったのだ。
一週間のお試し短期コースだったが、七星はそれだけの期間で基本は全て覚えてしまった。
後は料理の本を買って一通りのものを作れるように練習して、調味料を調節して好みの味に仕上げるレベルにまで到達した。
料理に関してはかなり手際がいい、というのは自分でもちょっと意外だったらしい。
今度はお菓子作りにも挑戦してみようか、と企んでいるが、リージェスに作ってやるのは何だか照れくさかったので、一人でこっそりとやろうと思っている。
「あーあ。まな板も血塗れだね。洗わないと」
「むう。床にも飛び散っているな」
「それは後で掃除するから。それよりもじゃがいも、もう無くなったんじゃない?」
「う……」
大きなかごいっぱいに盛られていたじゃがいもは無惨な有様で全滅していた。
具体的には全て血塗れになっていた。
「また買ってこないとね」
「そうだな……」
「買ってこようか?」
「頼む」
「うん」
「くそ……。どうして俺がこんな目に……それもこれもみんなあのクソ神父の所為だ。ちくしょう、地獄に堕ちろ……」
「………………」
物騒な事をぶつぶつと呟くリージェス。
そんなリージェスを七星がやれやれと眺めている。
そして七星の背中からぴょっこりと鳥が顔を出した。
「あれ? これ、雨音さんからもらった折り紙だ」
買い物帰りに雨音とはち合わせて、折り紙の鳥をプレゼントされたのだ。
七星はそれを鞄の中にしまっておいたのだが、いつの間にか動き出していたらしい。
しかしただの折り紙は自分で動いたりしない。
鳥はぱたぱたと翼を動かし、七星の近くを飛び回っている。
「これ、何だろう?」
どうして折り紙が動くのか分からない七星はきょとんとしながら鳥をつつく。
つつかれた鳥はぱたぱたと楽しそうに飛び回っている。
「あの野郎……」
そんな七星と鳥を見て、リージェスが物騒に唸った。
「わあっ!?」
そしていきなり手を伸ばしてぐしゃりと鳥を握り潰す。
「ちょっと!? 何するのいきなりっ!!」
遊んでいたところで急におもちゃを取り上げられたような気分になった七星が怒鳴りつけるが、リージェスは負けじと睨み返した。
「こいつは式紙だ。陰陽師がよく使う使い魔のようなものだ」
「使い魔……?」
「つまり、雨音の使い魔だ」
「ええと……」
ぐしゃりと握り潰したそれを速攻で燃やし、忌々しげに床に捨てて踏み潰す。
それで跡形もなくなった。
「要するに、移動型監視カメラみたいなものだ。こいつを通して雨音はこっちの様子を見たり聞いたり出来るんだ」
「……それって、覗かれてたって事?」
「そういう事だ。しかも俺が失敗している無様な姿を見て向こう側でさぞかし大笑いしているんだろうよ」
「……流石は雨音さん」
その姿が簡単に想像出来た七星は乾いた笑みを浮かべながら妙な感心をしていた。
「忌々しい!」
「どうどう。まあ、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかっ! 他に何か妙なモノはもらってないだろうなっ!?」
「あ、うん。あれひとつだけ」
「……そうか。いや、油断は出来ないな。七星に気付かれないよう、もう二、三匹は張り付かせているかもしれない」
「そこまでするかなぁ」
「あいつは他人が嫌がる事なら労力を惜しまない腐れ外道神父だ」
「………………」
それは言い過ぎだろうと思ったが、しかしよくよく考えてみると否定も出来ないという微妙な結論に至った。
喜々としてもう二、三匹準備している雨音の姿が簡単に想像出来てしまうあたり、信用は地に落ちている。
悪い人ではないのだが、悪戯心が過ぎるというか、おちゃめなドSだと最近判明してしまった為、七星も雨音を若干苦手としているのだった。
といっても、七星への被害は微々たるもので、からかいのターゲットはリージェスがメインなのだが。
好きな人程苛めたい、の典型だろう。
それが子供じみた愛情の裏返しではなく、歪んだ大人の性癖として発揮されているのがたちの悪い部分ではあるのだが。
最近までは七星にとって接しやすい、いい人だったのだが、どうやら壁を取り払って心を開いてくれたのか、自分のドSっぷりをはっちゃけ気味に発揮してくれている。
それがいい事なのか悪い事なのか、ちょっと微妙なのだが、それでも面白い人である事は間違いないし、命の恩人でもあるので、嫌ったりしないように心がけている。
それに、リージェスがいたぶられている分は見ていて面白いし。
……これはリージェス本人にはとても言えないが。
「ええと、じゃあ買い物に行ってくるね……」
物騒に唸り続けているリージェスの傍にいるのはちょっと危険なので、そそくさと逃げる七星。
とりあえず追加のじゃがいもは倍の量を買ってこようと決める。
マンションから出てふう、と溜め息をつく。
振り返ると十五階建ての豪華なマンションが聳えている。
まさかこんな平和な時間をここで過ごす日が来るとは思ってもみなかった。
妥協して、歩み寄ると決めたあの日から、二人の時間は穏やかに流れている。
七星もあの部屋をすぐに出て行こうという気にはなれなかったし、何だかんだで雨音の難題に四苦八苦するリージェスを見るのはとても楽しかった。
「ふふふ。何だか変な気分」
歩きながら、思い出し笑いをする。
端から見るとかなり怪しいが、今は誰もいないので気にしない。
お日様が空の真上にやってきているので時間は正午に近いのだろう。
吸血鬼である七星にとって陽射しはややきついのだが、それでも我慢出来ない程ではない。
聖血によって守られている七星は、吸血鬼が苦手とするあらゆるものが通じない。
今日の陽射しもちょっと暑いな、と感じる程度だ。
十五分程歩くと、商店街に辿りつく。
この地区はスーパーマーケットが極端に少ないのだが、商店街では一通りのものが揃うのでそこまで不便は感じない。
デパートも近くにあるので、値段を気にしなければ手に入らないものは少ないと言える。
商店街の八百屋まで移動して、じゃがいもを大量に購入する。
予め頑丈なエコバッグを持ってきていたので、それに入れると満タンになった。
これで他の買い物は出来ない。
「ありがとうございましたーっ!」
八百屋のおじさんが元気よく言う。
七星はぺこりと頭を下げてから店を出る。
さて、戻るかと踵を返したところで、百円ショップが目に入った。
「………………」
ちょっと寄ってみようかと足を踏み入れる。
百円ショップは何でも一通りは揃う便利なお店だが、品質はやや信頼性に欠けるところがある。
まあ安ければそれで構わない、という人間には便利なお店なのだろうが、少なくともリージェスや七星はそれなりに品質を気にする。
お金に困っていない所為かもしれないが、すぐに壊れる安物よりも、長く使える高級品の方が最終的には元が取れる、と考えているのかもしれない。
しかし七星は店内を見て回る。
何かを探しているようだ。
「………………」
そしてキッチン小物のコーナーで立ち止まる。
どうやら目的のものを見つけたようだ。
「もう少し困るリージェスを見ていたい気もするけど、そろそろ可哀想になってきたしね……」
クスクスと笑いながら七星がそれを手に取る。
そしてレジに持って行って会計を済ませた。
百円ショップを出ると、真っ直ぐにマンションへと戻る。
あまり長い時間家を空けるとリージェスがむくれてしまうので、なるべく早く帰るようにしている。
「………………」
それを考えて、七星は苦笑した。
数日前に比べたらもの凄い変化だ、と。
しかし悪い気分ではない。
妥協して、歩み寄る。
それは何かを諦めなければならないと思ってずっと拒否していた事だが、実はそうではないと分かったからかもしれない。
心がすごく軽くなったのだ。
諦めたものは確かにあるのかもしれない。
けれどその分身軽になって、素直になる事が出来た。
そうする事で楽しい時間を過ごせるようになった。
それは決して悪い事ではないと思う。
妥協や譲歩、諦めというのは決して後ろ向きなだけの感情ではないのだ。
どちらかというと、そうする事で少しでも幸せになりたいという前向きなものではないだろうか、とも思う。
今の自分は、もしかしたら人生で一番幸せな時間を過ごしているのかもしれない。
そんな風に思えるから。
道具として扱われていた人間だった頃よりも。
そして吸血鬼として生きてきた五年間よりも。
今が、一番充実している。
道を歩きながら、そう思う。
この一歩一歩でさえ、楽しいと思えてしまうのだから。
「ふふふ。ほんと、凄いね。気持ち一つで世界が変わる」
それは決して大袈裟な表現ではなく、七星が感じる素直な気持ちだった。
そうしているうちにマンションに辿り着いて、十五階へと上る。
「ただいまー」
「おう。お帰り」
こんな風に当たり前のように『ただいま』と言って、当たり前のように『お帰り』と言ってもらえる。
それがとても嬉しい。
「じゃがいも、いっぱい買ってきたよ」
「おう、さんきゅー。これで再開出来る」
「うん。まあ、頑張って」
「さっさと終わらせたいところだが……」
「そうだと思って、ひとついいものを買ってきたよ」
そう言って百円ショップの袋を差し出す七星。
「いいもの?」
がさごそと中身を取り出す。
「何だこれ?」
料理なんて今までまともにした事がなかったリージェスには、それが何なのか分からなかった。
「それはね……」
そして七星はそれの使い方を教えてやる。
三分後……
「おおっ! すげえっ! これすげえなっ!」
百円ショップの安物アイテムを、神器のように褒め称えるリージェス。
「ふふふ。凄いでしょ?」
得意気に胸を張る七星。
……得意気に張る程の大きさではないのだが、そこはスルーしておく。
「ピーラーすげえっ! 力加減が楽すぎるっ! じゃがいもがすぱすぱ剥けるぞっ!」
そう。
七星が買ってきたのはピーラー、いわゆる皮剥き器だった。
包丁よりもたやすく皮を剥ける為、料理をする人間は少なからず愛用している。
中にはピーラーなど邪道だと言って包丁にこだわる人種もいるようだが、便利なモノは便利に使うのが正しいと七星は考える。
今まで黙っていたのはもちろん四苦八苦するリージェスの姿を堪能する為だ。
それも十分に楽しんだので、こうしてお助けアイテムを購入したという訳だ。
「すげえな七星。こんな便利なものがあるならもう少し早く買って来いよ」
珍しくはしゃいだ様子のリージェスが声を弾ませるが、
「いや、四苦八苦するリージェスを見るのも面白かったから」
「………………」
満面の笑顔で言う七星に絶句するリージェス。
「お前……雨音の悪影響を受けてるんじゃないか……?」
「さあ、あんまり自覚はないけど、そう思うならそうかも?」
嫌そうな顔で問いかけるリージェスと、にやにやしながら答える七星。
完全に立場が逆転している。
「……はあ。まあいい。とにかくこいつは助かった。さんきゅーな」
そう言って七星を抱き寄せてキスをするリージェス。
「んむ……」
素直にそのキスを受けていた七星は、離れるとにやりと口元をつり上げた。
「どうせお礼をするならこっちの方がいいな」
つう、とリージェスの首筋を撫でる。
そろそろ空腹の頃合いなのだ。
「夜にな。今はさっさとこいつを済ませてしまおう」
「むー……」
今すぐ欲しかった七星はちょっとだけむくれる。
しかしからかわれたリージェスとしてはそれぐらいの『お預け』をしなければ気が済まなかったのだ。
苛めるのは大好きだが苛められるのは大嫌いだ。
……でも雨音ではなく七星が楽しそうに自分を苛めるのを見るのは、意外と悪い気分ではない。
少しずつ心を開いてくれているようで、嬉しい気持ちにもなってしまうのだ。
身体を手に入れて、心を手に入れる事を諦めていたリージェスにとって、七星の変化はとても嬉しいものだった。
諦めていたものに手が届きそうで、いつか本当に手に入るかもしれないという希望が湧いてくる。
「という訳で手伝ってくれ。この難題さえクリアすれば後は楽なものだろ?」
「うーん。それはどうかなぁ……」
確かにじゃがいもさえクリアすれば、後は人参もピーラーで剥いてぶつ切りするだけだし、タマネギもざくざく切るだけで、後は炒めたり煮込んだりするだけだ。
しかしそう簡単にいくとは思えなかった。
案の定……
「あー! それじゃあ炒めすぎだってばっ! 焦げてる焦げてるっ!」
「あんな奴に出すものなんざ炭素で十分だっ!」
「落ち着いて! 一応お礼なんでしょっ!?」
「はっ! そうだったっ!」
「出汁はもうちょっと丁寧に取らないとっ!」
「こ、こうか!?」
「醤油いれすぎーっ!」
「むむっ!」
「わーっ! 何で砂糖を袋ごと入れようとしてるのーーっ!?」
「奴は結構甘党だからこれぐらい平気なんじゃないか?」
「限度があるよっ!!」
人間の食事を必要としない、食事の味そのものにあまり頓着のない吸血鬼らしい、大雑把すぎる調味料の使い方だった。
七星は人間として生きてきた時間が長いので、味というものの大切さをよく知っている。
吸血鬼になってからも人間としての習慣が抜けきれず、普通の食事を摂る事も多い。
そうして四苦八苦しているうちに、ようやく肉じゃが……らしきものが完成した。
とりあえず七星が監修したので味はまともになっているのだが、じゃがいもはところどころ煮崩れしている。
それでも酷い崩れ方ではなく、まあ辛うじて肉じゃがと言えなくもない。
「まあ、これでいいか」
「いいんじゃないかな。別に不味い訳じゃないし」
しっかりと味見した七星は、これがまともな料理である事を保証した。
少しばかり下手くそな部分が残るが、それはそれでリージェスらしくていいと思うし、雨音も完璧な肉じゃがを求めている訳ではないだろうし。
あくまでもリージェスが四苦八苦した挙げ句ようやく完成させたものを食べたかった、というだけ……の筈だ。
「じゃあこいつを雨音のところに持って行ってくれ」
「自分で行った方が雨音さん喜ぶと思うけど」
「……だから嫌なんじゃないか」
「………………」
気持ちはよく分かるけど、だからといって自分に押しつけられても困る。
やれやれと肩を竦めてから七星は雨音に電話をかける。
今から持って行くから教会にいるかどうか確認の為だ。
「あ、もしもし雨音さん? 七星です。肉じゃが、完成したんで今から持って行こうと思うんですけど大丈夫ですか? え? ええ、いますけど……あはは、やっぱりそうですよねぇ。分かりました。伝えておきますね」
と言いながら電話を切る七星。
「リージェス本人が持ってこないと借りを返した事にはしないってさ」
気まずそうに七星がそう伝えると、
「うげ……」
心底嫌そうにリージェスが呻いた。
「という訳で、行ってらっしゃい」
「うぅ……」
「ついて行った方がいい?」
ついて行くと面白そうだったのでそう言ったのだが、
「来なくていい」
と、断られた。
どうやら思惑は見抜かれていたらしい。
「ちぇ~」
残念そうにむくれる七星を放置して、リージェスはさっそく肉じゃがを抱えて窓から飛び立っていった。
彼に玄関は必要ないらしい。
そんな背中を眺めながら七星は、
「いいなあ、あれ……」
と呟いた。
背中から生えるコウモリの翼。
吸血鬼の飛行は決して難しい事ではない。
魔力を物質化させて身体の一部として扱い、後は思い通りに動かせばいいだけなのだ。
しかし七星にはまだそれが出来ない。
戦闘能力だけならかなりのものだが、それは人間の能力を強化しただけのものになっている。
人外の力、つまりは魔力変化や固有スキルなどは発揮出来ない。
それは人間だった頃の自分に拘っている所為でもあるし、人間の血を吸う事を拒否している代償でもある。
吸血鬼でありながら、化け物としての自分を否定しているが故に、化け物としての力も否定しているのだ。
けれど空を飛ぶのは気持ちよさそうだった。
あんな風に翼を広げて、自分の身体を自由に飛ばしたら、それはどんなに気持ちがいいだろう。
「いつか、出来るかな……」
今までは頑なに否定してきたが、今はそれ程でもない。
化け物であるとは認めたくないけれど、人間ではない自分は少しだけ受け入れられるようになった。
リージェスを受け入れると決めた時から、それは少しずつ大きくなっていく。
人間の血を吸うような存在にはなりたくないけれど、今の自分を認めた上で変わっていく事なら出来ると思う。
空を飛んでみたい。
固有スキルを使えるようになってみたい。
吸血鬼として、もっともっと強くなりたい。
リージェスに守られるだけの存在ではいたくない。
自分の足で歩いて、そして戦える個人でなければ意味がないのだ。
それだけはリージェスと和解しても譲れない、七星だけの目標だった。
よし、と拳を握って、今度頑張ってみようと決める。
それからリージェスのいなくなった窓を眺めながら、
「戻ってきた頃にはまた凹んでるんだろうなぁ」
と、楽しそうに呟くのだった。
神父以外は誰もいない陵教会に高速落下で降り立つものがあった。
リージェスだ。
「いらっしゃい。リージェスさん。待ってましたよ~」
リージェスの気配を感じた雨音がにこにこしながら外に出てくる。
「来てやったぞクソ神父」
「あはははは。嫌われてますね~」
「やかましい。ほら。約束のものだ」
「どうせなら食べさせて欲しいんですけど」
「死ね」
「うわー。ひどい」
「うるさい。作ってやっただけでもありがたく思え」
「そりゃもちろんありがたいですけどね~。あーんなに苦労してようやく出来上がったものですし」
「うぐ……」
「血塗れじゃがいもがわんさか出たでしょう?」
「黙れ」
「あはははは。七星さんが何度も買い物に出かけてましたからね~」
「だからって余計なモノまで寄越すんじゃねえよ」
「式紙の事ですか? あははは。ちょっとした悪戯心じゃないですか~」
「趣味の悪い覗き行為でしかねえよっ!」
「心配しなくても寝室は覗いてませんから」
「当たり前だっ!」
「でも最近はうまくいってるみたいじゃないですか。七星さんと」
「……まあな」
肉じゃがの入った器を受け取った雨音はクスクスと笑いながら聖堂に入っていく。
長椅子に座ってから予め用意していた割り箸を取り出し、そのまま美味しそうに食べ始めた。
「うん。美味しいですよ」
「けっ」
誉められたのに嬉しくなさそうなリージェス。
七星ならともかく、雨音に誉められてもちっとも嬉しくないらしい。
その隣に座っているリージェスは不機嫌そうに溜め息をつく。
「おや、どうしたんですか?」
「何でもない」
「何でもないなんて事はないでしょ?」
「お前には言いたくない」
「嫌われてますねえ」
「大嫌いだ」
「裏返すと大好きになりますけどね、それ」
「未来永劫裏返ってたまるかっ!」
「まあいいですよ。関心がないよりは嫌われている方がいくらかマシですし。気にしてもらえている、という意味ではね」
「ぐ……」
嫌そうに呻くリージェス。
しかし付き合いの長い相手だし、世話にもなっているので、今更無関心にもなれない。
「それで、どうしたんですか?」
「どうもしない」
「嘘ですねぇ」
「………………」
「七星さんが急に素直になったので戸惑っているんですか?」
「………………」
図星だったらしく、リージェスは気まずそうに視線を逸らした。
そんな不器用なリージェスを見て、雨音は楽しそうに笑う。
「いいじゃないですか。嫌われるよりは好かれる方がいいでしょう? 七星さんは今の自分を受け入れると決めて、リージェスさんとも歩み寄ると決めたんです。だから頑なだった壁が壊れた。壊れた後にはデレた。それだけじゃないですか」
「デレた言うな」
「デレてないんですか?」
「……いや。まあ。可愛いけど」
「うわあ。こっちもしっかりデレてますねぇ。御馳走様です」
「振る舞ってねえよ」
「いえいえ。肉じゃがの事ですよ」
「うぐっ」
どんどん墓穴を掘っていくリージェス。
雨音はドS絶好調だ。
「まあ今後は色々大変だと思いますけど、それも恋愛における楽しみの一つですよ。精々悩んで楽しんで、ついでに楽しませてください」
「お前を楽しませるつもりはない」
「酷いなぁ。僕は貴方に失恋しているんですから、端から見て楽しむぐらいはいいじゃないですか」
「最悪だ」
「あ、ひどい」
言い終えると同時に半分程食べた肉じゃがにラップをかけ直した。
「残りは夕食にいただきますね。器は返した方がいいですか?」
「いらん。どうせ安物だ」
「ですよねぇ。百円ショップでしょう?」
「………………」
図星だった。
七星が買ってきたものだ。
「この肉じゃが、随分と七星さんに手伝ってもらったみたいですね」
「……悪いか」
「いえいえ。仲良くなったようで何よりです」
「む……」
「ここ最近はずっと貴方のマンションにいるのでしょう?」
「まあな」
「お手伝いの為でしょうから、しばらくしたら出て行くかもしれませんね~」
「うぐ……」
そう言われると否定出来ない。
和解したからずっと傍にいてくれるのかと夢見ているのだが、許した訳ではない、という事も理解している。
だから必要がなくなればまた出て行くかもしれない、という不安は拭えない。
かといって自分の部屋に縛り付ける事も出来ないし、傍にいてくれと言うのもプライドが邪魔する。
今までマスターとして割と横柄に振る舞ってきた自覚があるので、素直になる事には抵抗があるのだ。
傍にいろ、と命令する事は出来る。
しかし傍にいて欲しい、とお願いする事は出来ない。
何とも難儀な性格だった。
それにせっかく最近はうまくいっているのに、ここで下手な命令をして機嫌を損ねたくない、という打算もある。
強引で俺様性格の割には弱気なリージェスだった。
「まあそれならそれで次に来るのを待つ楽しみが出来る、という事でいいんじゃないですか?」
「そこまで前向きに考えられたら苦労はしない」
「じゃあ僕が七星さんに出張ハンターを依頼しましょうかね~」
「くたばれ腐れ神父」
「リージェスさんは苛め甲斐があってとても魅力的ですよ」
「死ね」
「その暴言も照れ隠しだと任意翻訳すれば僕は満足ですし」
「勝手に意味を変えるな」
「じゃあ七星さんで楽しませてもらいましょうか」
「やめろ」
「じゃあ僕の相手はリージェスさんという事で」
「…………いっそ殺した方がいいのか?」
本気で悩むリージェスだった。
悩んだところで、本気で殺し合えば自分もただでは済まないと分かっているので実行には移さないのだが。
陵雨音は引退したとはいえその実力は超一流だ。
高位吸血鬼相手でも余裕を持って戦えるだけのスキルを身につけている。
単純なスペックならばリージェスが圧倒的に上回るのだが、その差を無効化するだけの切り札を雨音は持っているのだ。
陰陽師の裏スキル、つまり呪術。
こればかりは実力差がどれだけ大きな相手だろうと関係がない。
強制的に名前と魂を縛り付ける呪術は、代償が大きければそれだけ確実に作用する。
通常の呪術など簡単に無効化出来るリージェスだが、雨音が自らの命を代償にして行う呪術には抵抗出来ない。
五年前、雨音と戦った時にそういう呪いをかけられてしまったのだ。
つまり、雨音を殺せばリージェスも死ぬ。
魂の連結。
そういう意味では雨音とリージェスの存在は繋がっている。
この世で最も強固な絆で結ばれていると言えるだろう。
リージェスにとってはこの上なくおぞましい話ではあるが、過去の自分が受けた傷であり、不覚の代償でもあるので受け入れるしかない。
ひとつ救いなのは、必ずしも雨音の死がリージェスの死に繋がる訳ではない、という事だ。
あくまでもリージェスが雨音を殺した場合にのみ発動する呪いであり、二人が今後戦わなければ全く問題はない。
雨音が他の要因で死亡した場合は自動的に解呪される。
「まあリージェスさんを道連れに死ぬのなら悪い気はしませんけどね。でも七星さんを一人残して死んでいいんですか?」
「……よくない」
「ではお互いに平和的な関係を維持するべきですね」
「そう思うならお前も努力しろ」
「え? してますよね、僕」
「………………」
どうやら雨音は言葉の通じない人種らしい、とリージェスは結論づけた。
同じ日本語を喋っていても、根本的に意味が通じないのだ。
意味の通じる会話が成り立たない関係、とでも言うべきか。
それも分かっていてやっているのだからたちが悪い。
腐れ神父、ともう一度リージェスは呟いた。
その日の夜、七星は夜の散歩に出かけていた。
昼の太陽が平気だといっても、やはり吸血鬼である以上、夜の方が居心地がいい。
太陽の光よりも月の光、夜の闇の方に親しみを感じる。
それに今日は満月だ。
吸血鬼の力が最大限に増す日であり、こんな日は散歩でもしたくなるのだ。
月を眺めながらのんびりと夜の街を歩く。
そんな風に時間を過ごすのが七星は好きだった。
リージェスには黙って出てきたが、今更気にするとも思えない。
またどこかに出て行ったと思われるだけだろうし、そのうち戻ってくるだろうと考えているだろう。
……その事でリージェスが不安を感じているなど、七星は全く気付かない。
一度手に入れた幸福を手放すのはとても苦痛なのだと、七星はまだ気付かない。
幸福にはすぐ慣れるが、不幸に慣れるのにはとても時間がかかる。
「何だかなー……」
ぼんやりとしながら歩く。
すれ違う人々は何も気付かない。
七星が危険な吸血鬼である事にも。
いつ自分たちに襲いかかるか分からない化け物である事にも全く気付かず、すれ違っていく。
もちろん七星にそんなつもりはないけれど、それでも人間という生き物の無防備さには少しばかり呆れる。
七星ならば近くに吸血鬼がいたら気配で分かるし、人間であっても殺気を纏う者ならすぐに分かる。
そうやって常に感覚の一部を研ぎ澄ませ、警戒している。
それはぼんやりと歩いている今も同じ事だ。
しかし人間にはそれが出来ない。
当たり前の日常を過ごし、それがずっと続くと何の根拠もなく信じ続けている。
何て平和で、おめでたい生き物なんだろう。
理不尽はすぐ傍にあるのに、誰もそれに気付かない。
七星がその気になれば、たった今すれ違ったサラリーマンの首筋に牙を立てて、その血を吸い尽くしてしまうことだって出来るのに。
「だけどこれが普通なんだよね、きっと……」
人間にとってこれが普通で、この世界にとってはこれが当たり前なのだ。
異質なのは自分たち。
非日常にいるからこそ、日常とは絶対に相容れない。
それを少しだけ羨む気持ちが七星の中には存在した。
人間だった頃も、吸血鬼になった今も、決して持ち得なかった日常。
それは決して自分が手に入れる事の出来ないものだと突きつけられているようで、少しだけ悲しかった。
当たり前に続く毎日を信じられたら、それはどんなに幸せだろう。
だけど七星は知っている。
同じ毎日など存在しない。
そしてある日突然闇に突き落とされる事もあるのだと。
だけどその闇は七星にとって悪いものではなかった。
気付くまで五年もかかったけれど、今は慣れ親しんでもいる。
もう人間ではなくなってしまったし、聖女でもなくなってしまったけれど、それでも今の自分は笑っていられるから。
だったらそれは悪い事ではない。
きっといい事だ。
これからもっと幸せな時間が続けばいいと思う。
それを疑う事なく信じる事は出来ないけれど、その為に努力をする事なら、きっと出来る。
誰にも迷惑をかけず、誰にも害を為さなければ、自分たちは誰にも危害を加えられる事はない。
少なくともその可能性を減らす事は出来る。
そうやってひっそりと、のんびりと生きられたらいいのに……
いっその事ハンター稼業からも足を洗ってしまおうか、と考える。
「流石に、もう殺そうというつもりはなくなったし、ね……」
元々リージェスを殺す腕を磨く為に始めた事であり、今となってはそこまで頑張って自分を鍛える必要はなくなってしまっている。
もちろんまだまだ未熟なので鍛錬を怠るつもりはないけれど、危険に踏み込んでいくような生き方を続ける事もないだろう。
もう少し平和的に強くなる方法だってある。
リージェスに鍛えてもらうのもいいし、何だったら雨音に頼み込んでもいい。
彼は腕利きのハンターだったようだし、まだまだ鈍ってはいないだろう。
「うん。ちょっと本気で考えてみようかな」
このまま危険なハンター稼業を続けるよりも、リージェスの元で平和に暮らす事が出来れば、きっともっと幸せになれる。
七星はそんな夢を見ていた。
自分がどれだけ特異な存在かを忘れて、叶わぬ夢を見てしまったのだ。
「って、せっかくいい気分だったのに、どうしてこうなるかなぁ……」
はあ、と溜め息をつく七星。
感じ取ったのは飢えたような殺気。
場所は目の前にある細い路地の更に奥。
街灯すらも届かない、暗闇の道。
月明かりだけが照らす薄暗い道は、道行く人たちが見向きもしない路地裏へと続いている。
そこから今にも襲いかかってきそうな、ここから飛び出してきそうな程の殺気が放たれている。
「狙いは、私? それとも通行人?」
どちらにしろここまであからさま過ぎる殺気を浴びせられて大人しくしていられる七星ではない。
売られた喧嘩はとりあえず買う。
遺恨を残さない為にも、殺してここで終わりにする。
気配の主は吸血鬼なので、生かしておいたところで何のメリットもない。
他人に危害を加える存在なら尚更だ。
七星は険しい表情のまま路地へと足を踏み入れた。
薄暗い路地を歩きながら、次々と曲がっていく。
入り組んだ路地裏には誰もいない。
気配の主は更に奥。
七星は懐から銀のナイフを取り出す。
いつも使っている銀製武器だ。
そして殺気を放つ吸血鬼が待つ路地裏の最果てに辿り着いた。
「え……?」
「………………」
そこにいたのは確かに殺気を放つ吸血鬼だった。
しかし……
「う……うぐぅ……あうっ! やめ……やめて……ちがう……違うの……あたし……あた……は……」
誰かを殺そうとする加害者ではない。
蹲って苦しむ女性だった。
長い髪を振り乱しながら、綺麗だった筈の赤いスーツは煤まみれになっている。
どこかの会社員だったのだろう。
殺気が溢れているのは、吸血鬼としての本能がそれを押さえきれないからだ。
今にも路地裏の向こうを歩く通行人に襲いかかってしまいそうになっているのを、必死で堪えている。
吸血衝動を抑えきれず、それでも何とか押さえようとして今も苦しんでいる。
「もしかして……新生したばかりなの……?」
彼女のような存在は稀に生まれる。
元々は被害者なのだ。
人間に危害を加える吸血鬼は、秘密裏に人間を襲う。
そしてその血を吸い尽くし、死体はそのまま放置しておく。
吸血行為の際に多少なりとも吸血鬼の体液が被害者の体内に入り込む為、それらは毒となって死体を蝕んでいく。
僅かな吸血鬼性を持った死体は、陽の光をほんの少し浴びただけで灰化してしまう。
こうして被害者は行方不明になってしまう訳だ。
しかしごく稀に、そこから生き延びる存在がいる。
僅かな体液で造り替えられた身体を最適化し、そして新しい吸血鬼として新生する者が、ごく僅かに存在するのだ。
もちろん滅多にある事ではない。
そうでなければこの世界は吸血鬼で埋め尽くされている。
確率で言えば百万分の一に等しい。
吸血鬼としての資質を持った人間が、体内に侵入した異物を自らに取り込んで、そして生まれ変わる。
彼女はその稀なる例外なのだ。
餌として吸血鬼に血を吸われ、そして打ち捨てられ、主なきはぐれ吸血鬼として路地裏を彷徨っている哀れな存在。
本来ならば吸血衝動に飲み込まれて、とっくに人を襲っている筈だ。
しかし彼女は耐えている。
吸血鬼としての素質に優れ、殺されても自力で新生した彼女は、その強固な精神力で今も耐えている。
その事に七星はある種の敬意を抱いた。
自分が無理矢理吸血鬼にされた時、そして初めて湧き上がってくる吸血衝動に襲われた時……
七星は何も考えずにリージェスの首筋へと噛みついた。
吸血鬼としての本能がそうさせたのは分かっているが、人間としての尊厳や理性など最初から七星には備わっていなかったのだ。
道具として育てられた七星は、ただ衝動のままにリージェスの血を吸い続けた。
これまでも、そしてこれからもそうするだろう。
それが必要で、そして生き延びる為なのだから正しいと思いこんでいた。
それが間違いだとは今も思わないが、それでも目の前で人間としての自分を大事にして耐えている女性を尊敬する。
だから、救いたいと思った。
助けたいと願った。
「苦しいの?」
「っ!」
女性ははっとしたように顔を上げる。
元は黒かった瞳はうっすらとした赤に染まっている。
吸血鬼化が進んでいる証だ。
人間から吸血鬼に新生する時、多くの場合は赤い瞳になる。
純血の吸血鬼はその限りではないが、この女性の場合はその通りになっている。
黒髪を乱れさせ、ぼんやりとした薄赤色の瞳が七星を捉える。
「あ……うぐぅ……」
七星を人間だと思っているのだろう。
首筋にかぶりつきたい衝動と、それを否定する理性とが必死で鬩ぎ合っている。
「は、離れて……危ないから……そうでないと……あたし……あたしは……」
いやいやと首を横に振りながら七星を引き離そうとするが、七星は穏やかに笑うだけだ。
「私の血を吸えば楽になれるよ」
「あなた、分かるの……? あたしの事……」
かすれた声で問いかける女性に、七星はそっと頷く。
「だめ、だめよ。あたしは人間だもの……あの男とは違う……化け物なんかじゃないっ!!」
必死で首を振る女性を見て、七星はそうだね、と同意した。
人間であろうとする者は、いつだって人間だ。
「死にたくない?」
「死にたいわよっ! でもだめなのっ! どれだけ傷つけても回復しちゃう! 傷が治っちゃうのよっ! 死ねないのっ!!」
何度も繰り返したのだろう。
そして化け物としての自分と、吸血鬼としての自分を思い知る。
「何でこうなるのよっ! あたしはただ、会社の飲み会に出席して、そして家に帰る途中だったのに……っ! いきなりあの男に襲われて、血を吸われて……そして……気がついたらこうなってたのよっ! 悪い夢なら良かったのにっ! でも苦しいのも、痛いのも、血を吸いたくなるのも本当なのよっ! 朝になったらすごく痛くて、太陽の下にはいられなかった! 慌てて隠れて、どうしてこうなったのか考えて、でも分からなくて……っ! 死にたいって思ってまた太陽の下に出ようとしたけど、でもすごく痛くて……っ! でも今は苦しい……血を吸いたい……何かがそれをしろって言ってる! でも、嫌よ……絶対に嫌っ!」
そして絶望する女性はただ苦しみ続ける。
「死ねるよ」
そんな女性を見て、七星は静かな口調で言う。
「え……?」
「私の血を吸えば、望み通りに死ねるよ」
「嘘……」
「嘘じゃない。私の血はちょっと特別でね。吸血鬼を殺す力があるんだよ。毒みたいなものかな。そりゃあちょっとは苦しむかもしれないけど、でも傷つけ続けたり、太陽の光を浴びたりするよりはずっと楽だと思う」
「………………」
「どうかな?」
この女性を本当の意味で助ける事は出来ない。
けれど化け物ではなく人間として死なせる事は出来る。
それが七星なりの救い方だった。
自分にはこんな事しか出来ないけれど、でも初めて、殺す為ではなく救う為に自らの血を利用したいと思った。
「ほんとう、に……?」
縋るような女性の瞳をじっと見て、七星は頷いた。
「本当、だよ。嘘は言わない。私が貴方を楽にしてあげる」
そう言って七星は自らの首筋を女性の前に差し出した。
そっと女性を抱きしめて、すぐに血を吸えるようにする。
「これで、楽になれるの……?」
「なれるよ。それは私が約束してあげる」
こうなる前に助けたかった、とは言わない。
七星は他人を助ける程のお人好しではない。
今回はただの気紛れなのだ。
この尊敬すべき女性が最期まで人間であれるように、自分に出来る事をしようと思っただけの事だ。
女性は最期につう、と涙を流して、そして呟いた。
「ありが……とう……」
「………………」
首筋に鋭い痛みが走る。
身体から力が抜けていく。
血を吸われている所為だ。
「ああ……これで……」
楽になれる、と女性は目を閉じた。
余程飢えていたのだろう。
七星が動けなくなるまで女性は血を吸った。
しばらくすれば動けるようになるだろうが、もう少し加減して欲しかった、と溜め息をついた。
「あ……がぐぐっ! ああああああーーっ!!」
その直後、女性は苦しみ始める。
しかしそれは長くは続かなかった。
二分程藻掻き苦しんでいた女性は、最期には解放されたような表情で倒れた。
「………………」
これで死んだ。
七星が何度も何度も見てきた吸血鬼の死だ。
ただ、今回は少しばかり後味が悪い。
灰になるまで見届けようとその場に留まる。
吸血鬼は死ぬと灰になる。
この女性が人間の形を留める最期の瞬間まで見届けようと思った。
しかし予想外の事が起きた。
「ちょっと……どうなってるの……?」
七星は混乱していた。
目の前には倒れた女性の死体。
吸血鬼だった女性の亡骸がある。
その女性が死体になったのはもう何時間も前の事だ。
そう、何時間も前。
何時間も前に死んだのに、女性はまだ灰化していない。
通常は早くても数分で灰化する筈なのに、いつまでもそのままだ。
まるで人間の死体のように、ただそこにある。
「何で……? どうして?」
太陽が昇っても女性は死体のままだ。
これは絶対におかしい。
あの女性は絶対に吸血鬼化していた。
七星の血を吸って死んだのが何よりもの証拠だ。
しかし死後は吸血鬼の法則に反している。
これはどう考えても異常事態だ。
七星は朝方には動ける程度に回復していたが、この女性の死体を放っておく訳にもいかず、混乱しながらもじっとしていた。
どうすればいいのか分からない。
吸血鬼の死体である以上、このまま放っておくのはどう考えても不味い。
警察に発見されて解剖でもされたら大問題だ。
明らかに人間ではない細胞の変異が発見されたりすれば大騒ぎになってしまう。
吸血鬼の存在を人間に知られるのは構わないが、その存在を科学的に実証されるのは避けなければならない。
理由は簡単で、吸血鬼の持つ不死性を人間に利用される恐れがあるからだ。
太陽の光、ニンニク、十字架、銀など弱点は数多く存在するが、それらを避ければ不老不死が手に入るのだ。
それを求める人間は決して少なくない。
そして吸血鬼の身体を科学的に調べれば、人工的に吸血鬼を生み出す事だって可能……かもしれない。
人間の科学技術は馬鹿に出来ないし、軽んじるべきではない。
だからこそ吸血鬼は一般の人間に不干渉が鉄則なのだ。
今回放置された女性の血を吸った見知らぬ吸血鬼も、こんな事になると分かっていたら徹底的に殺していたか、もしくはこれ幸いと眷属にしていただろう。
これは完全に予想外の事態なのだ。
「ど……どうしよう……」
動ける程度には回復したものの、女性を一人担いでいける程ではない。
今すぐにでも栄養補給をしたいところだが、リージェスは自宅のマンションにいる。
「むむ……むむぅ……」
懐にはスマートフォンがある。
これもリージェスから渡されたもので、必要な時はいつでも連絡を取れ、という事だった。
しかしリージェスを呼ぶ為にこれを利用した事はまだない。
簡単に頼りたくなかったし、頼るつもりもなかった。
しかし和解してある程度打ち解けた今なら頼ってもいいのかもしれない……とは思ったのだが、それでもリージェスの番号にかけるのは躊躇われた。
しかしあまりぐずぐずもしていられない。
いくら人のいない路地裏だからといって、いつまでも人が来ないとも限らないのだ。
そこに女性の死体があったら騒ぎになるのは必然だ。
警察が呼ばれるだろうし、今は抵抗出来る力もない。
そうなるとやっぱり信頼出来る誰かを呼ばなければならないのだが……
「うーん……」
本気で困った七星は、散々迷った末、電話をかけた。
「七星さーん。大丈夫ですかー?」
やってきたのは大きなトランクを持った雨音だ。
七星が連絡したのはリージェスではなく雨音だったのだ。
リージェスが聞いたらかなり怒り出しそうな話だが、この件はリージェスよりも雨音の方が適任だと判断した。
「すみません、雨音さん。無理言って」
「いいですけどね。で、この人が?」
雨音は倒れた女性の死体に視線を移す。
「……はい。そうです。すみませんけど、運んでもらっていいですか? ここに放置しておく訳にもいかないですし」
「ですね。七星さんの話が本当なら、これは放っておいていい事ではありませんし。あ、もちろん他に報告するつもりはありませんので安心してください」
「ありがとうございます。雨音さんならそう言ってくれると思って、頼らせてもらいました。ついでにこの人の事を調べてもらいたくて。何かいい伝手とかあります?」
「まあ研究機関が近くにありますけど、そっちは不味いですよね」
表沙汰にならない吸血鬼の研究はあらゆる場所で続けられている。
それは不老不死の為の研究ではなく、吸血鬼の身体について調べる事で、弱点を探り出すという目的がある。
吸血鬼狩り組織の中でも最大手として名を知られている『アルカナ・ソード』は資金力、人材共に充実している。
雨音の預かる陵教会も、アルカナ・ソードの影響下にある。
「それは遠慮したいです……。雨音さんに言うのは反則かもしれないですけど……」
「いいですよ。僕は使命よりも愛に生きる神父さんですからね。リージェスさんに嫌われるような真似はしません」
「あはは。素敵です」
神に仕える立場でありながらこの上なく自己中心的な発言に親しみを感じる七星。
平等を重視する非人間性よりも、自己欲を優先する人間味の方が遙かに好ましい。
……まあ、欲望の種類にもよるのだが。
「それにしても、死してなお灰化しない吸血鬼、ですか。この女性が特殊なのか、それとも七星さんが特別なのか、実に興味深いですね」
女性の死体を丁寧にトランクに収めながら、雨音が呟く。
「出来れば前者であって欲しいんですけどね」
「その場合はこの遺体をアルカナ・ソードに引き渡しても構わないんですか?」
「出来ればやめて欲しいです。その人はただの被害者ですから。これ以上苦しんで欲しくない」
「魂はもうここにはないんですけど、まあいいでしょう。七星さんの希望を優先しますよ」
「ありがとうございます」
トランクの蓋を閉じてから雨音が立ち上がる。
「さて。じゃあとりあえず教会に行きましょうか。この女性については人間の医者に調べてもらいましょう」
「人間の?」
「ええ。もちろん真っ当な医者ではありませんけどね。いわゆる非合法の闇医者ってやつです」
「お金、かかりそうですね……」
「まあ結構な金額を請求されるでしょうけど、大丈夫ですか?」
「これまで稼いだ分がありますから、あまりぶっとんだ金額じゃなければ」
「詳細を説明せずに細胞調査、とだけ言えば大丈夫でしょう」
「ではそれで行きましょう」
「分かりました」
「立てますか?」
「何とかそれぐらいは回復してますよ」
七星はそう言って立ち上がるが、すぐにふらついてしまう。
「うっ……」
「おっと」
ふらついた七星を雨音が支える。
端から見ると抱きついているように見えてしまう。
「すみません」
「いえいえ。リージェスさんには内緒にしておいてくださいね。殴られそうですから」
「あはは。もちろんです」
「もう遅いけどな」
「「わっ!?」」
二人の背後からかなーり不機嫌そうな声が聞こえる。
慌てて振り返ると、リージェスがそこにいた。
「なななな、何でっ!?」
一番慌てたのは七星だった。
「あらら。せっかく内緒にしようとしたのに、一秒もせずにバレちゃいましたねえ」
あははは、と困ったように笑う雨音だが、内心ではちっとも困っていないようだった。
むしろ面白がっている。
「な、何でここにいるのーっ!?」
雨音によりかかったまま慌てる七星。
そんな七星を雨音から引き剥がしてから抱き寄せる。
「出て行ったきり戻ってこないから心配したんだろうが」
「う。それはその……ごめん……。でも何でここが分かったの?」
「渡したスマホのGPS機能だ」
「じーぴーえすって、何だっけ?」
機械にはあまり強くない七星だった。
持っているスマホに関しても電話とメールぐらいなら扱えるが、細かい操作はほとんど解らない。
きょとんとしている七星にリージェスが説明しようとしたのだが、その前に雨音が喜々として説明を始めてしまう。
「GPSというのは全地球測位システムの略ですよ。要するにそのスマホには七星さんがどこにいても場所が分かるような発信器的機能がついているって事です。ストーカーするには便利ですよね」
「ス……ストーカー……」
流石にストーカーの意味は分かったらしく、七星がリージェスを見てドン引きしている。
「人聞きの悪い事を言うなーっ! 今時どのスマホでもGPSぐらいは備わってるっ!」
「まあそうなんですけどねー。面白いので愉快な解釈で説明してみました」
「悪意に満ちた解釈でしかねえっ!」
「あははは……」
いつも通りの喧嘩が始まってしまい、七星は乾いた笑みを浮かべる。
さっきまで深刻な気分だったのに、もう和んでしまっているのが不思議だった。
「それで、どうしたんだ? 随分と血が足りてないみたいじゃないか」
「う、うん。ちょっと、トラブルがあって……」
「トラブル?」
何があったのかは知らないリージェスが怪訝そうに首を傾げる。
「出来ればリージェスさんには内緒にしておきたかったみたいですよ」
「む……」
雨音の台詞にあからさまに不機嫌になるリージェス。
隠し事、というのも気にくわないが、その結果として頼ったのが雨音、というのが尚更気に入らないらしい。
「何があった?」
「………………」
「言え」
「………………」
じーっと睨みつけられては隠し続ける事も出来ない。
七星はちょっと涙目になりながらも、起きた出来事を簡潔に話した。
そして今まで見た事もないようなふて腐れた表情で呟く。
「俺にだって医者の伝手ぐらいある」
「へ?」
「だから、そんなクソ神父に頼らなくても、俺が調べてやると言ってるんだ」
「………………」
それは助かるけれど、どうしてリージェスがそこまで怒っているのかが理解出来ない。
「ええと、それは助かるんだけど、どうして怒ってるの?」
「………………」
リージェスは答えずにそっぽ向く。
まだ不機嫌そうだ。
「それはですねー、リージェスさんは七星さんが最初に僕を頼った事が面白くないんですよ」
「へ?」
「余計な事を言うな」
「あら? 違うんですか?」
「違うとは言っていない」
「じゃあいいじゃないですか。七星さんは鈍感ちゃんですから、ちゃんと言わないと伝わりませんよ~」
「むむ……」
「ど、鈍感ちゃんって何ですかーっ!」
「え? 自覚なかったんですか?」
「ひどっ!」
「いや、それに関しては俺も雨音と同意見だ」
「何ですとっ!」
「鈍感ちゃんですよね?」
「ああ。超がつく程鈍感だ」
「………………」
男性二人から鈍感呼ばわりされた七星は一人落ち込んでいた。
「まっとうな判断としては吸血鬼であるリージェスさんよりも僕を頼ったのは正解なんですけどね~。普通の吸血鬼さんは医者と知り合いっていうのは少ないでしょうし」
「やかましい。黙ってろクソ神父」
「酷いですね~。七星さんが泣きそうなぐらい困っている様子で電話をしてきたからこうやって駆けつけてきたのに。もう少し感謝してくれてもいいと思うんですけど?」
「それが面白くないんだよ」
「まあ最初に自分を頼ってもらえなかった不満は分かりますけどねぇ。嫉妬混じりに僕へ八つ当たりされても困るんですよ~」
「うるさい黙れ死ね」
「うわ、鬼畜」
「ええと、その、ごめん……」
自分の所為でこの二人が険悪になるのは申し訳ないので、素直に謝る七星。
「そう思うなら次からちゃんと頼れ」
「……分かった」
「よし」
七星が頷いたのを見てようやく満足したらしいリージェスは口元を綻ばせた。
そのまま七星を抱き抱える。
「俺たちは先に戻る。お前はマンションまで来い」
「酷いですねぇ。僕も運んでくださいよ」
「襟首掴んでいいならな」
「首が絞まりますって」
「じゃあ歩け」
「………………」
七星の為に出向いてきたのにあんまりな物言いだった。
「あの、雨音さん。ほんとに、すみません。迷惑かけて……」
「七星さんは優しいですねぇ。そこのマスターにも見習って欲しいぐらいです」
「あははは……」
「まあいいですよ。貸しにしておきます。このトランクはマンションまで運びますから、お二人は先に戻ってください」
「そうする」
「お願いします」
そしてリージェスは七星を抱えたまま飛び立った。
コウモリのような羽を高速で羽ばたかせて、一気に上空へと移動する。
空を移動すればマンションまでの時間はあっという間だった。
そしてマンションに戻った二人はそこで一息ついた。
七星を抱き抱えたままのリージェスはそのままベッドに移動してから座った。
七星を膝に乗せて、首から血を吸いやすい姿勢を作ってやる。
「ほら。そろそろ限界だろう?」
「うん。じゃあもらうね」
「ああ。遠慮はするな」
「ありがと」
がぶり、と牙を突き立てる。
そのまま遠慮なく血を吸い続けた。
「ん……んく……」
七星は夢中でリージェスの血を吸っている。
どんな飲み物よりも、どんな食べ物よりも、この血が一番美味しい。
一番自分を満たしてくれる。
人の生き血を吸うのが嫌ならば、リージェスと同じように輸血用血液を飲めばいいのかもしれないが、七星にはこの血が一番好ましかった。
リージェスも自分以外の血を吸わせるつもりはないようだ。
それは一種の独占欲かもしれないが、お互いがそれを良しとしているので何も問題はない。
「何でかなぁ……」
「ん?」
途中で七星が顔を上げて笑う。
その笑顔は少しだけ切なそうだった。
「リージェス以外の血もきっとそんなに味は変わらないと思うんだけど、あんまり飲みたいって思わないんだよね……」
「何か問題あるのか?」
「あるよ」
「どんな?」
「自立出来ない」
「しなくていい」
「一人前にはなりたいんだけど」
「俺はずっとこうやって甘やかしたい気分だ」
「う~」
「俺を殺す気が無くなったんなら本格的にハンターもやめたらどうだ? 仕事ならもっと割のいいのを紹介してやるぞ」
「まあハンターを続ける理由はなくなったけど、割のいい仕事って?」
「メイドとか」
「……誰の?」
「俺の」
「……やだ」
「何でだよっ!?」
「何か、いかがわしそう……」
「失礼な! メイド服を着てご主人様って言ってもらってご奉仕してもらいたいだけだぞっ!」
「……変態」
「誰が変態だっ!」
「コスプレにメイドプレイにエロ奉仕って、立派に変態じゃんっ!」
「生々しく言うなっ! その三つには男の夢が詰まってるんだっ!」
「腐った夢なんかそのまま捨ててしまえばいいんだっ!」
「何て酷い事を言う奴だ。もういい」
「え?」
「メイドじゃなくてもエロ奉仕させちゃる!」
「きゃーっ!?」
勢いよく押し倒された七星はベッドの上でじたばたと暴れる。
血を与えられた後はこうなる、というのはいつもの展開なのだが、しかし今は困る。
「ちょっと待ってよっ! 今はダメだってばっ! すぐに雨音さん来ちゃうよっ!」
服の間に手を入れられて、胸をいじられながらも抵抗する七星だが、既に快感モードに突入してしまい、その言葉にはやや力がない。
「あいつはまだ来ないさ。ここまで徒歩なら結構な時間がかかる」
「そういう問題じゃなくてーっ!」
ぴんぽーん……
「………………」
「………………」
絶妙なタイミングで呼び出しベルが鳴る。
「ちっ!」
「………………」
心底忌々しげに舌打ちをしながら立ち上がるリージェス。
いいところで邪魔をされたのが本気で悔しいらしい。
「た、助かった……」
はうぅ……と溜め息をつきながら起き上がる七星。
乱された服を直して、火照った身体も何とか鎮める。
最近はこういう事をされてもほとんど抵抗が無くなっている。
むしろ嬉しいと思ってしまうのが自分でもかなり問題だった。
迫られるのは嫌いじゃないし、求められるのは素直に嬉しい。
けれど流石に今は不味いと自制する。
これから雨音がやってくるというのに、それはあんまりだろうと。
そして来客ベルの主はやはり雨音だった。
「早く開けてくださいよー」
画面越しに手を振る雨音。
随分と到着が早い。
「てめえ、随分と早いじゃないか」
「あ、ひどい。急いだ方がいいだろうと思ってタクシーを拾ったのに」
「………………」
急いでくれたのはありがたいのだが、知らずに死体入りのトランクを乗せてしまったタクシー運転手がちょっと哀れだった。
「分かったからさっさと入ってこい」
「はーい。お邪魔しまーす」
エントランスのドアを開けて、立ち入りを許可するリージェス。
エレベーターに乗ってやってくるのでもう少し時間がかかるだろう。
「まったく。いいところだったのに。徒歩で来やがれあのクソ神父」
「た、助かった……」
ほっと胸をなで下ろす七星。
しかしびしっと七星を指さしてリージェスが念押しをする。
「ただしっ! 後でちゃんと続きをヤるからなっ!」
「うっ……」
「ヤるからなっ!」
「うぅぅぅ……」
どうでもいいけどあまりヤるヤる連呼しないで欲しい。
恥ずかしいからやめてお願い……と視線だけで訴えるがどうやらリージェスには伝わっていないようだ。
「お待たせしました~」
そしてそのタイミングで雨音が中に入ってきた。
「あれ? どうしたんですか七星さん。顔が赤いですよ」
「な、何でもないです……」
エロいマスターのエロい発言に恥ずかしくなったなどと、それこそ恥ずかしくて言えない。
「ふーん。僕が来るまでに何かありました?」
「な、ななな何も無いデスヨ」
ちょっと語尾がどもっている。
「七星さん」
「はひ……」
「胸元のボタン、一個ずれてますよ?」
「っ!!」
慌てて胸元を確認するが……
「………………」
ずれてはいなかった。
「嘘です♪」
「………………………………」
リージェスが『このクソ神父』と忌々しげに吐き捨てる気持ちがとてもよく分かった瞬間だった。
「それで? 死体を運んできたのはいいですけど、この先どうするんですか? 僕の伝手は使わないんですよね?」
「ああ。こっちでも同じ事は調べられるからな。お前を疑う訳じゃないが、お前の知り合いまで信用出来る訳じゃない」
「そりゃそうですけど。でもそれって僕の事は信用してくれてるって考えていいんですか?」
「少なくとも、大した理由もなく裏切ったりはしないと思う程度にはな」
「嬉しいですねえ」
「そうでなきゃこの秘密を知られた時点で殺さない程度に痛めつけた上で身動きを封じている」
「………………」
喜んだ次の瞬間には谷底に突き落とされたような心境になる雨音だった。
呪いの事が無ければとっくに殺している、と言われているようなものだ。
「この件は人間に知られるべきじゃない。俺の推測が正しければ、だが」
「僕も同意見ですね。ハンターである七星さんが同じハンターから狙われるような事態は避けるべきです」
「……狙われる? 私が?」
「ああ。まだはっきりとした訳じゃないから確実にそうなるとは言えないが」
「ちょっと待ってよ、リージェス。確かに死体が灰化しなかったのはおかしいって思ったけど、でもどうしてそれがハンターに狙われる理由になる訳?」
異常事態である事は確かだが、どうしてハンターに、人間に殺されるのかが分からない。
吸血鬼を殺す力ならば人間にとっても利益になる筈で、それならば七星を生かしておいた方が得なのではないか。
七星自身はそう考えていたのだが、
「そうじゃないんですよ、七星さん。貴方を殺す為に狙うのではなく、捕らえる為に狙われる可能性が高い、という事です」
「え? 捕らえるって、何で?」
「もちろん、その聖血を研究する為です」
「え? ちょっと待ってください。聖血の持ち主はこの世界で私だけって訳じゃない筈でしょう? 私みたく中途半端に穢された代物じゃなくても、れっきとした聖血の持ち主に交渉して調べれば済む話なんじゃないですか?」
「確かにその研究も行われた事がありますが、しかし聖血というのは魔物にとっての毒性が強すぎて、研究どころじゃないんですよ。近付くだけで発狂するし、触れればたちどころに消滅してしまいます。それは純粋な吸血鬼ではない眷属でも同じ事です」
「………………」
「しかし七星さんの持つ聖血は違います。程良く毒性が抑えられている所為か、純血の吸血鬼であっても血を吸ってから死ぬまでは僅かなりとも猶予がありますし、それに半端な眷属であっても即死はしなかった。それどころか……」
「でも、死にましたよね?」
「ええ、そうです。死にました。問題は……」
「雨音さん?」
雨音が言い淀んでいると、リージェスが言葉を引き継いだ。
「問題は、死ぬ前にその女が人間に戻ったかもしれない、という事だ」
「へ……?」
一瞬、言われた言葉の意味が理解出来なかった。
「に、人間に戻ったって……嘘……?」
吸血鬼化は不可逆の現象だ。
一度吸血鬼化した者は二度と人間に戻る事が出来ない。
退魔を生業とする人間が吸血鬼化の治療を試みた事は一度や二度ではない。
時に非人道的な実験を繰り返してまで、その答えに辿り着こうとした。
しかし結局は無駄だった。
時間が決して巻き戻らないように、吸血鬼化もまた取り返しがつかない。
一度吸血鬼化した者は、二度と人間に戻れない。
それだけが唯一絶対の解答であり、真実だった。
そしてその不文律が七星という存在によって覆されようとしているのだ。
問題にならない訳がない。
「ちょ……ちょっと待ってよ……。そんなの、信じられない……」
人間に戻りたい。
それは七星が過去に何度も願った事だ。
穢された自分を許せなくて、何度も何度も願った事だ。
それでもこの身体は吸血鬼でしかなくて、もう二度と人間には戻れなくて、そして諦めていた。
それなのに……
「もちろん確証はありませんよ。でも死んだ吸血鬼が灰化しないというのはそれだけ異常な事なんです。だからそんな仮説が成り立ってしまう。そう考える事で辻褄が合ってしまうんです」
「………………」
七星が力なく項垂れる。
突きつけられた仮説があまりにも衝撃的で、これ以上反論する気力も湧いてこない。
「まあ、それはこれから調べればいい」
「調べる、の?」
「嫌か?」
「嫌っていうか……怖いっていうか……」
迷うように呟く七星の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「迷うぐらいなら知っておけ。自分の事だ。知らずにいていい事じゃない」
「……うん」
「それで、どこで調べます? まさかここじゃないですよね?」
「ああ。近くの大学に知り合いがいるからな。施設を一部借り受ける事にする」
「大丈夫ですか? セキュリティとかは」
「問題ない。借りるのは地下の方だ」
「ああ、なるほど。それなら大丈夫ですね」
「地下?」
「疚しい研究をしている施設っていう事さ。そういう奴の弱みを握っているから、こっちの頼みを断れない」
「うわー……。悪どいね……」
「お前の為なんだが」
ドン引きしている七星に悲しそうなジト目を向けるリージェス。
一体誰の所為で悪どい事をしなければならないんだ、と責めている。
「お世話になります」
立場の弱い七星はがっくりと肩を落としてそう返すしかなかった。
それから車で一時間程移動して、三人は山の麓にある大学に辿り着いた。
リージェスたちが住んでいる場所からはかなり離れているし、中心市街地からも遠い。
県境に近い山間だが、近くに寮があり、スーパーやコンビニエンスなどの店もそれなりに存在しているので、学生が生活する上で困るような場所ではなかった。
沖津原医科大学、と門には刻まれていた。
この大学の名前らしい。
「随分遠くまで来ましたねぇ」
一時間も車を運転させられた雨音が少しばかり疲れたのか不満を口にする。
「別についてきてくれと頼んだ覚えはないぞ」
「この車は僕のですし、運転してあげているのも僕なんですけど……」
「タクシーを拾えば問題なかった」
「死体を運ばされる運転手が可哀想ですよ」
「先にやったお前がそれを言うか」
「あははは。まあ僕としても今回の件は興味がありますからね」
「……口外はするなよ」
じろり、と雨音を睨みつけるリージェス。
七星の不利になるような事をするつもりなら、今すぐにでも雨音を半殺しにするつもりだ。
「しませんってば。そこはもう少し信用してくださいよ。七星さんだって信用してくれたから真っ先に僕を頼ってくれたんでしょう?」
「そ、それはもちろん」
最初から疑う気なんて無かった七星は素直に頷く。
「それが一番面白くねえんだよ……」
そして真っ先に頼ってもらえなかったリージェスが思いっきりむくれた。
「ご、ごめんってば……」
そんなリージェスを宥める為に七星があわあわする。
「………………」
むくれた振りをしつつも、自分の為に動揺してくれる七星の姿をしっかりと堪能するリージェスだった。
かなり性格の悪いマスターである。
そしてそんなリージェスの新鮮な表情をしっかりと堪能する神父の姿も近くに存在した。
何も知らずにいる哀れな少女は七星ただ一人である。
「げえっ!」
リージェスの姿を見た瞬間、その中年が発した第一声である。
蛙が潰れたような表情と声で呻いたその中年は、がたがたと椅子からずり落ちてしまい、床に転倒してしまった。
かなり無様な姿であるが、肩書きは結構立派なもので、これでも教授らしい。
「げえっ、とはまた久しぶりに会ったというのに随分な態度ですねぇ、武藤教授?」
「っ!?」
そしてそれ以上に驚いたのは、実に爽やか過ぎるリージェスの態度である。
いつも上から目線の偉そうな傍若無人、というのがスタンダードなのに、今はどこからどう見ても爽やかな好青年だった。
目をぱちくりさせてこいつは一体誰だっ!? と全力で問いかけているが、何度瞬きをしてもリージェス・ゼーレシュタットにしか見えない。
「うーん。こんなリージェスさんもなかなか新鮮ですねぇ」
一人だけ、そんな彼の演技をしっかりと堪能している神父がいたが、それは特に気にするような事でもない。
これはこれで神父のスタンダードだ。
「お久しぶりですね、武藤教授」
「う……うぅ……」
沖津原医科大学の棟にある武藤研究室、というプレートのかかった研究室で、その主である武藤宏隆はがくがくと震えていた。
それは目の前にいるのが強大な力を持つ吸血鬼だから、ではない。
そもそも武藤はリージェスが吸血鬼である事すら知らない。
本と書類が高く積まれた作業机で、武藤はそれを壁にするようにびくびくとしながらリージェスを見上げる。
「な、なななな何の用で来た?」
「いやあ、ちょっと教授の別荘を貸してもらいたいなー、と思いまして」
「あ、あの地下をっ!? ま、まままままさか私の研究を持ち去るつもりかっ!?」
「そんな事しませんって。別に興味ないですし」
「………………」
自らの研究成果を持ち去られる事を恐れていたが、興味がないと言われるのも不愉快だったらしい。
色々と複雑な葛藤があるようだ。
「何だったらお借りする前にデータや書類を全て持ち去ってくれて構いませんよ。俺が利用したいのは機材だけですからね」
「な、何をするつもりだ?」
「ちょっと調べたい事がありまして。手軽に借りられそうな施設がここだけだったんですよね。で、どうですか?」
「うぐぐ……もしも断ったら?」
「明日の新聞の一面を教授の醜聞が飾る事になるかもしれませんね」
にっこり。
それはまるで練達のホストのようだった。
女の子ならばメロメロになるような営業スマイル。
しかし武藤には獲物に狙いを定めた蛇が舌をちろちろ動かしているようにしか見えなかったようで、ひぐぅ、と呻き声を上げた。
余程後ろ暗いところがあるらしい。
「醜聞って……しかも一面トップネタ?」
「あはは~。一体何を握ってるんでしょうね~。ちょっと興味があるので後で訊いてみましょう」
「教えてくれるかな?」
「七星さんが耳を甘噛みすれば一発で教えてくれますよきっと」
「絶対嫌です」
「じゃあメイド服でご主人様、お願いとかは?」
「どうして男って考える事が同じなんだろう……」
「おっと、リージェスさんに先を越されていましたか」
「着てませんからねっ!」
「着たら僕にも見せてくださいね~。あ、でも殺されたくないのでご主人様は言わなくていいですよ~」
「着ないし、見せないし、言いませんっ!」
悪どい交渉の後ろで微笑ましい(?)やり取りが繰り広げられていた。
かくして武藤教授の別荘……もとい地下の研究施設を借りる事が出来た三人はさっそくその場所にやってきていた。
隠し通路から地下へと続く階段を下りて扉を開けると、かなり広い空間があった。
電気をつけると、恐ろしく高価そうな機械がたくさん設置されていた。
「これはまた、凄いですねぇ……」
それらの機械の種類と、そして値段をある程度把握している雨音が本気で感心していた。
「また機材が色々増えてるな。無駄に儲けてやがる」
リージェスも呆れたように呟く。
そのほとんどが医療用、生体調査用だった。
「さっきの人って、どんな知り合いなの? えらく気持ち悪い態度だったけど」
「気持ち悪いって……酷いな」
地味に凹むリージェスだった。
「だってあんなに愛想良くてへらへらしたリージェスなんて初めて見たし」
「そうそう。僕にもあれぐらい愛想良くしてくれても罰は当たりませんよ」
「てめえには一生愛想なんて振りまかねえよっ!」
「まあ今のリージェスさんも大好きですけどね」
「………………」
今度はリージェスが気持ち悪くなったようだ。
「……まあ、あれだ。昔ちょっと色々あって」
「昔?」
雨音は無視してリージェスは過去の事を話す。
「俺は昔、ここの学生だったんだよ」
「ええっ!?」
「それは初耳でしたっ!」
「まあ、初めて言ったし」
「が、がががが学生って、リージェスが!? ここでお勉強していたのっ!?」
「おう。ぴっちぴちの学生だぜ」
「……ぴっちぴち?」
「ぴっちぴち」
疑わしそうな目を向ける七星に堂々と胸を張って答えるリージェス。
吸血鬼のくせに図々しい、という非難は当然の如くスルーだ。
「卒業したのは八年前だけどな」
「何でまた学生なんかに……」
「別に、ただの気紛れだ。あと色々と知識を身につけるには学生という立場で調べるのが一番だからな。質問も出来るし」
「吸血鬼が人間の学問を勉強して何になる訳?」
不思議そうに首を傾げる七星にリージェスはにやりと笑う。
「そう馬鹿にしたものでもないさ。この社会で生きていく以上、人間としての知識は無駄じゃない」
「そういうもの?」
「ああ。お陰でこういう調べ物だって自分で出来るだろ」
そう言ってリージェスは次々と機械を立ち上げていく。
「……それもそっか。っていうか、リージェスはこれらの機械類を扱えるんだね」
「まあな。これもここにいた頃に色々と身につけた技術だが、意外な面で役立つものだ」
「僕としてはあの教授の弱みというのが気になりますけど」
雨音が女性の死体をトランクから運び出してから寝台に移動させる。
「別に説明してやる程の事じゃない。こんな地下施設でやる疚しい事なんてそれこそ想像に困らないぐらいあるだろう?」
「ま、確かに」
ここは人体実験をする施設であり、そこを利用するという事は何をしているかも明白だ。
それが疚しくない筈はない。
武藤はここで非合法の人体実験を行っていて、その結果誰かから報酬を受け取っているのだろう。
この部屋からはそれ程の血生臭さは感じないので、死人が出るような実験ではないと雨音は考えているが、それでも表沙汰に出来る事ではない。
「一体リージェスさんはどうやってその事を知ったんでしょうね」
「人の秘密を暴くのは得意なんでね」
「素敵な得意技ですね」
「はっはっは」
「………………」
黒い会話だ、と思いながらも、今はその恩恵を受けている七星は口出しをしない。
リージェスは淀みなく手を動かしながら準備を整えていく。
「さてと。ここから先はちょっと時間かかるからな。二人とも外に出るか、ゆっくりしていていいぞ」
「何か手伝える事は?」
リージェスに任せっきりにするのも気が引けてそう言った七星だが、
「特にないな」
と、無情な返答だった。
「うぅ」
「そんなに落ち込むな」
「うー、でも私の事なのに……」
「と言われてもな。七星に扱える機械じゃないし。データの読み取りも無理だろうし」
「む……無理です……」
「だからゆっくりしていろ」
「はい……」
しょんぼりしながらソファに座る七星。
そんな七星を眺めながら、後でお礼にたっぷりエロい事をしてもらおう、としょーもない事を企むリージェス。
「まあまあ、お茶でも淹れましょうか」
そんな中、雨音だけがマイペースを崩さなかった。
リージェスがあらゆる機材を使い、女性の死体から肉片や血液などを抜き取りながら色々と調べる事五時間。
集中していた彼は無言で、いつものような飄々とした態度はどこかへ置き去りにして、ただひたすらに没頭していた。
「ふう……」
ようやくその作業に一段落ついたらしく、椅子の背もたれをギシギシ言わせながら息を吐いた。
「終わりましたか?」
そのタイミングでコーヒーを淹れて持って行く雨音。
彼は執事としても素晴らしい手腕を発揮出来るかもしれない。
「まあ、大体は終わった」
受け取ったコーヒーを飲みながら、リージェスは苦々しい表情だ。
「それで、結果は?」
「芳しくない」
「という事は……」
「ああ。完全に人間に戻ってやがる。細胞の変異ダメージすらも残っていない。こいつは誰がどう調べても人間の死体だって言うだろうな。首筋の吸血痕さえなければ吸血鬼の仕業だって事すら認識されないだろうよ」
受けた傷はすぐに回復するのが吸血鬼の特性だが、最初に噛まれた吸血痕だけは回復するまでに数ヶ月の時間がかかってしまう。
だから女性の死体にも吸血痕がまだ残っていた。
この痕さえなければ吸血鬼の死体だとは誰も気付かない。
逆にこの痕が残っているからこそ、吸血鬼の死体である事は確実なのに、人間に戻ってしまっているという証拠が決定的になってしまう。
「………………」
リージェスにとっては望まない結果になった訳だが、雨音も大きな溜め息をついた。
この情報が他に漏れた時の事を考えているのだ。
「ええと、つまり……やっぱりその人は人間に戻ってるって事?」
その意味を理解していない七星がきょとんとしたまま問いかける。
「まあ、そういう事だ」
ふう、と深刻な溜め息をつくリージェス。
凄まじい速度で機械類を操作して調査を完了させた疲労もあるのだろうが、それ以上にその事実こそがそれを倍加させていた。
「ええと、ごめん。私には事態がよく分からないんだけど、それって何か問題があるの? 吸血鬼が私の血で人間に戻ったっていうのは大問題だけど、でも結局のところ死んでる訳でしょ? 生きたまま人間に戻せる訳じゃないんだから、何も変わらないんじゃないの?」
「まあ、その通りではあるんですけどね……」
事態を正しく理解している雨音は苦々しく笑いながら溜め息をついた。
どう説明するべきか悩んでいるのだ。
これは七星の今後に関わってくる問題で、どう考えても蚊帳の外に置く訳にはいかない。
彼らの味方をすると決めている雨音ですらも、人間の為に七星の聖血を研究する事は有意義である、と感情ではなく事実として理解してしまっているのだから。
もちろんそんな事をすればリージェスを敵に回すと分かっているのでこの件を公にするつもりはないのだが、それでも惜しい、とは思ってしまう。
「それは現時点での話であって、たとえばこの先七星さんの聖血をしっかりと研究して、実験を繰り返す事により、違った結果を得る事が出来るかもしれない、という事です」
「………………」
「たとえば、生きたまま人間に戻す事が出来る、とか」
「………………」
「つまり吸血鬼化の完全治療が可能になる、かもしれない」
「………………」
「今回の件はその可能性を示唆している、という事です」
「………………」
吸血鬼が人間に戻れる可能性。
それは人間にとって大きな希望なのかもしれない。
少なくとも、吸血鬼の増加を食い止める事が出来る。
不可逆の被害者を元に戻せるかもしれないのだ。
もしもこの秘密が知られたら、少なくとも人間側は七星を捕らえて研究しようとするだろう。
「……それって、結構やばい?」
ようやく事態の深刻さを理解した七星は身震いしながら問いかける。
事の中心にいるのは自分であり、二人はただそれに巻き込まれているだけなのだ。
その事がひたすらに申し訳なかった。
けれどこの二人がいたからこそその真実に辿り着けたのだ。
だから感謝もしている。
自分だけが吸血鬼のままで、他の誰かが人間に戻れるかもしれない。
そんな情報は知りたくなかった。
けれど知らずにいるのも危険であり、それは受け入れなければならない。
雨音はやれやれと溜め息をついた。
リージェスがかつて大学生であり、このような機器を扱える、というのは意外でもあったが、今回はそれが幸いした、という事だ。
人間に調べさせていたら大変なことになっていたところだ。
「そうだな。人間だけじゃない。こんな事、吸血鬼側に知られても十分にやばいぞ」
疲れたような溜め息と共にリージェスが言う。
「え? 何で? 人間にとっては確かに放っておけないかもしれないけど、吸血鬼にとってはあんまり価値があるとは思えないんだけど……」
先程も似たようなことを言っていたが、やはり七星には理解出来ない。
吸血鬼は人間の血を吸う事、そして気に入った者を眷属にする事にしか興味がない。
吸血鬼を人間に戻すなど、最初から考えない。
七星はそう思っていたのだが、
「そうでもない。七星の聖血は吸血鬼にとって致死のものだ。それだけでも十分に脅威なのに、更には眷属を人間に戻すという可能性まであるんだ。少なくとも俺が敵ならこんな物騒なものを放っておくつもりはない。確実に殺して二度と利用出来ないようにする」
「………………」
その可能性は考えていなかった。
元々ハンターとして吸血鬼には敵対していたので、吸血鬼側の考え方、というのが七星には馴染みが無い。
「つまり七星さんは今後、人間からも、そして吸血鬼からも狙われる可能性が高い、という事です」
「マ、マジですか……」
吸血鬼とは元々敵対しているつもりだったが、人間と敵対する事になるとは思わなかった。
もちろん味方だと思った事もないが、こちらが人間を襲わない限り、敵対する理由もないと信じていた。
人間にも、吸血鬼にも敵として認識される。
味方になる勢力はどこにもない。
「………………」
味方など最初から求めなかったし、リージェスと和解するまでは一人きりで生きてきたつもりだったが、本当に誰も彼もを敵に回す状況になったのだと思い知らされて、七星はぶるりと震えた。
死ぬのはそこまで怖くない。
自分が敵を殺す存在である以上、いつかは敵に殺される覚悟ぐらいはしている。
けれど自由でなくなるのは怖い。
人間側に捕らえられて、自由を奪われて、研究の為の道具として扱われるのはたまらなく怖かった。
そんな七星をひょいっと抱き上げる手があった。
「わっ!?」
まるで子供のように抱え上げて、ぎゅーっと抱きしめる。
「そんな顔をするな。心配しなくてもこの秘密は当分漏れない」
「………………」
「この件を知っているのは俺とお前と、そしてそこのクソ神父だけだ」
「うん。でも、いつかはきっとバレるよね」
「まあ、いつかはな」
「心配しなくても大丈夫ですよ。何があっても七星さんはリージェスさんが守ってくれるでしょうし」
不安になる七星を安心させるように軽い調子で言う雨音。
彼の口からバレる事はなさそうだ。
「そうだね。自分の事を知った、というだけでも収穫があったし。今は不安になっても仕方ないよね」
「そうそう。とりあえず今はまだ平和なんだから、それを堪能しておけよ」
「ん。そうする」
何があってもリージェスは自分を守ってくれる。
そんな力強さを感じる腕だった。
その腕に抱かれている事に安心しながら、七星はぎゅっとその首に抱きついた。
こうしていると安心出来るから不思議だ。
絶対に自分を守ってくれる存在。
それがこんなにも嬉しい事だと、七星は初めて知った。
それから死体の処理をどうするか、という話になった。
「放っておくと腐るでしょうし、まさか今更普通の死体として表に出す訳にもいきませんしねぇ……」
困ったように腕を組む雨音。
「んなもの塵滅砲で消滅させちまえば簡単じゃねえか」
「あ、そう言えばその手がありましたね」
リージェスのあっさりとした言葉にぽん、と手を叩く雨音。
人間の基準で考えてしまった事がそもそもの間違いだったようだ。
「トランクの中に遺体を戻して、それから灰化させちまえばいいだろうよ」
「あ、ちょっと待って」
早速実行に移そうとしたリージェスを七星が止めた。
「何だ?」
「それ、私がやりたい」
「は?」
「だから、私にやらせて」
「………………」
「私が殺して、私が看取った人だから。だから最期まで私がやらないと駄目だと思う」
それが七星のこだわりだった。
もしも最期に人間に戻したというのなら、七星はある意味でこの女性を救ったとも言える。
しかし死んでしまった人にとっては何の救いにもならない。
もしも人間として生き延びさせる事が出来ていたなら、彼女に未来があったかもしれないのに。
けれど出来ない事を求めても仕方がない。
出来ない事は出来ない。
それを受け入れなければ前に進む事だって出来なくなるのだから。
だからこそ、出来る事、そして出来るかもしれない事には全力を尽くさなければならないと思うのだ。
「今の私に塵滅砲は使えないけど、でも、教えてもらったら使えるかもしれない。だからリージェス、私にそれを教えて欲しい」
「………………」
「リージェス……? えっと、駄目、かな?」
塵滅砲は高位吸血鬼のみが可能とする術であり、眷属如きがそれを使うなど本来ならば許されない。
それは重々に理解している七星だが、それでもリージェスならば教えてくれると思ったのだ。
「………………」
「リージェス……?」
もしかして身の程知らずな事を言ったので怒ったのだろうか、と心配になる七星。
リージェスがそんな事で怒るとは思えないのだが、それでもその態度は七星を不安にさせた。
「そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫ですよ、七星さん」
「え?」
「リージェスさんはちょっと拗ねてるだけですから」
「す、拗ねてる?」
「そうそう。せっかく自分が役に立つのに、七星さんが自分でやっちゃおうとするから拗ねてるんですよ」
「………………」
「でも七星さんが成長するのは嬉しいからやっぱり教えちゃうんですよね、リージェスさん?」
「うるさい黙れ死ねクソ神父」
「うわー、ひどーい」
にこにこした態度の雨音に対して、最大限不機嫌な声で応じるリージェス。
「覚えるつもりがあるなら教える」
「っ! ありがとう、リージェスっ!」
ぎゅっとリージェスの腕にしがみつく七星。
「抱きつくなら胴体にしろ」
「たまにはこういうのもいいかなーと思って」
「まあ、悪くはない」
「うわー。僕の前で見せつけないでくださいよー。嫌がらせですかー?」
リージェスに思いを寄せる神父さまが一人むくれている。
二人の恋路を邪魔するつもりはないのだが、それでもここまで見せつけられると切なくなってしまうという悲しい男心だった。
「もちろん嫌がらせに決まっている」
「わーっ! ちょっと離してよーっ!」
後ろから抱え込まれてじたばたと暴れる七星。
「せっかく教えてやろうと思ったのに」
「へ?」
「だから、塵滅砲の術式」
と、言いながら七星の左耳をぺろりとなめる。
「うひゃうっ!?」
「ごにょごにょ」
「ひゃううう~~っ!?」
ふ~っと甘い吐息を吹きかけながら術式の説明をしていくリージェス。
完っ全にセクハラ行為だった。
……そして三分後。
「と、いう訳だ。分かったか?」
「……もう少し落ち着いた状態で教えて欲しかったんだけど、大体は分かった……気がする」
リージェスの膝の上でぐったりとした七星は、セクハラされながらも術式の内容を頭に叩き込んで、そして理解した。
集中力を乱されまくった割には流石の回転率である。
「お二人とも、遺体の前なんですからもう少し遠慮したらどうですか?」
呆れたような雨音の苦情だが、それも半分は嫉妬からくるものである。
これぐらいの嫉妬なら可愛らしいものと言えなくもないが。
「別にいいだろ。そこに魂がある訳じゃないんだから。そいつはただの物体でしかない」
誰よりもその事を理解して言えるリージェスは気にしない。
「うー。不謹慎なのはリージェスだけで私は違いますよーっ!」
被害者である七星は恨みがましく二人を睨みつけた。
女性の死体には少々申し訳ない気持ちになっていたが。
……何だかんだで気持ちが良かったし、もう少しやって欲しいという欲求があるのも本当なのだ。
リージェスによって馴らされた身体はとことんまでに快感に忠実だ。
それを自制するのが七星にとってかなり難しいのだが、もちろんそれを放棄する訳にはいかないので根性とプライドを総動員して平常心に戻るのだが。
リージェスに教わった術式を思い出し、頭の中で再構成する。
自らが扱いやすいように術式の意味を理解し、そして再び組み立てていく。
そして頭の中でイメージを起こし、それを右の手のひらに集中させる。
蒼い光がその中に生まれた。
「これはまた、珍しい」
「七星らしい、とも言えるがな」
「何が?」
とりあえず力の発現には成功したのでほっとしていたのだが、言われた言葉の意味が分からずきょとんとする七星。
手のひらの蒼い光は安定しているので、多少集中を乱したところで問題はない。
「その色だよ」
七星の疑問にリージェスが答える。
吸血鬼の力が発現する時には、その特徴も現れる事がある。
一般の吸血鬼は例外なく『赤』。
高位吸血鬼になるともう少し深い『深紅』。
そしてその中でもほんの一握りだけに許されたオリジナルカラーというものが存在する。
それはその存在を象徴するものであり、力の色でもあった。
たとえば現在ゼーレシュタットの頂点に立つ王、ケリー・ゼーレシュタットの色は『黄金』。
それに匹敵すると目されているリージェスの色は『黒』。
他にも有名どころに『紫』『紺色』『深緑』などが存在する。
塵滅砲は高位吸血鬼の中でも一般的な術なので、色を見分けるには分かりやすいと言えるだろう。
そしてやはりというべきか、それとも必然と言うべきか、眷属でしかない七星にもオリジナル・カラーが存在したのだ。
その色は『蒼』。
彼女の瞳と同じ色。
聖女の象徴だった。
「まさか吸血鬼からブルー・カラーが出るとはなぁ……」
しみじみと言うリージェス。
予想はしていたが、まだまだ七星が自分に染まっていない事が分かってしまい少しだけ落ち込んでいる。
「吸血鬼になっても浄眼を失わない人ですからねぇ。これぐらいは当然、と言うべきなのかもしれませんよ」
雨音は既に諦めの境地に達している。
七星の瞳は人間であった頃から蒼だった。
それはただの蒼ではない。
清浄なる蒼。
浄眼と呼ばれるものであり、聖者の証として崇められるべきものだ。
もちろん浄眼と普通の青眼との違いに気付く者は少ないし、吸血鬼にも青い瞳を持つ者はたくさんいるので、特に珍しいという訳ではない。
ただ、本物の浄眼の持ち主は世界に百人と存在しない。
そして浄眼を持ったままの吸血鬼は七星ただ一人だけだ。
もちろん、七星のそれを浄眼だと知っているのはリージェスと雨音の二人だけだ。
他には気付かれていない。
吸血鬼であるという先入観が、彼女の眼を普通のものとして誤認させてしまうのだ。
「うーん。あんまり特殊だとは思えないんだけどね、この眼も。使いこなそうにもどんな能力かも分からないし」
浄眼にもそれぞれ能力が備わっている。
確認されているものでは『聖属性術式の強化』、『精霊魔法の活性化』、『弱点看破』、『瘴気の浄化』など、戦闘に特化したものから、エリアの浄化まで様々だ。
しかし人間であった頃から七星の浄眼だけはその能力が解明されていなかった。
ただ、七星の聖血が他のそれよりもかなり強力なものである、という事だけは分かっていたので、誰もがその能力を『聖血の強化』だと思いこんでいた。
それが本当なのかどうか、七星にはあまり興味がない。
聖血が強化されている実感などないし、この眼の使い方も分からない。
使い方の分からない力にこだわっても仕方がない、と割り切っている。
それにたとえその力が分かったとしても、聖血がその威力を大幅に落としてしまったように、浄眼もその能力を減少させているだろう。
七星にとってこの浄眼はただの蒼い眼でしかないのだ。
「まあいいや。とにかく術式は安定しているし、この人を灰化させるね」
攻撃用の塵滅砲を可能な限り安定させたまま、優しい蒼い光は女性の死体を包み込んだ。
攻撃ではなく解放の為の光は徐々に小さくなっていき、女性の死体はただの灰になってしまった。
「………………」
塵滅砲が成功した事と、女性をきちんと灰に還してあげられた事にほっとした七星はトランクを閉じてから「おやすみなさい」と呟いた。
ようやくあの女性をきちんと看取ってあげられたような気がしたのだ。
それからきちんと施設の片付けをして、リージェスは研究したデータの完全消去を行っていた。
痕跡すらも残さずにそこから立ち去る。
「まあ武藤教授は俺の事も吸血鬼の事も何も知らない一般人だから、そこまで警戒する必要はないんだけどな」
吸血鬼に繋がる手がかりが何も存在しないからこそ、リージェスはこの場所を選んだのだから、ここを詳しく調べられる心配はない、と言える。
「それなら七星さんはひとまず安心ですね」
「そうみたい。ありがとう、リージェス」
「お礼はメイド服で頼む」
「……考えとく」
今回は色々と世話になった事は確かなので、それぐらいは譲歩しなければ、と唸る七星。
何だかんだで彼女は律儀なのだ。
「え? マジで着てくれるのか?」
意外な返答にリージェスが声を弾ませる。
ウキウキのデレデレだった。
他の吸血鬼にはとても見せられない表情だ。
「き、着るだけだからねっ! ご主人様とか呼んだりしないからねっ!」
「それじゃあつまらんだろうがっ!」
「そんなの知らないっ!」
「絶対に呼ばせてやるからなっ!」
「やだーっ!」
「………………」
仲のいい痴話喧嘩を見せられてやれやれと肩を竦める雨音。
嫉妬はもちろんあるけれど、五年前ならこんなリージェスは絶対に見られなかったと思うと、口元が綻んでくる。
惚れた相手のこういう表情は不思議な事に、自分も幸せにしてくれるらしい。
そして困った事に七星に対してもかなり本気で惚れている雨音だった。
雨音には恋愛感情はあっても独占欲などは存在しない。
惚れた相手が自分の目の届く場所で笑っていてくれればそれなりに満足してしまうのだ。
もちろん自分に愛情を向けてくれたら嬉しいと思うのだが、それを無理矢理に行おうという気にはどうしてもなれない。
独占欲や愛憎が存在しない感情を果たして恋愛感情と言っていいものかどうか悩みどころだが、しかしそれを守る為なら命を懸けても構わないと思うような感情には他に名前のつけようがなかったのだ。
リージェスと七星。
どちらが危機に陥ったとしても、雨音はその命を懸けて守ると断言出来る。
そんな心境になる自分は果てしないお人好しなのか、それとも本当の意味で誰かを愛する事など出来ない欠陥者なのか、果たしてどちらなのだろう、とあまり深刻ではない気分で首を傾げるのだった。
☆
吸血鬼から人間に戻ってしまった女性の処理をどうにか秘密裏に行い、三人はひとまずほっとした。
「ごめんね。私が考え無しな行動をした所為で、二人には随分と迷惑をかけちゃって」
マンションに戻った七星は三人分のコーヒーを淹れてからまずは謝った。
「気にしなくていいですよ。むしろこのタイミングで良かった。僕達が介入出来ない時に同じ事が起こったら、と思うとぞっとしますからね」
「言えてる。七星の聖血は吸血鬼に対して絶対的なアドバンテージを持っているが、元人間の吸血鬼である眷属は強制的に人間に戻される、という情報をこのタイミングで得られた事はむしろ僥倖だ」
「そう言ってもらえると助かるけど……」
他の誰かにバレてしまうよりは、こちらが情報操作の主導権を握る事が出来るタイミングで分かったのは本当に運が良かった。
リージェスも、そして雨音もそう考えている。
事の重大さを本当の意味で理解していないのは七星ただ一人だが、それは仕方がない。
人間にも吸血鬼にも大したこだわりを持たない彼女では、それらに執着する者の気持ちは絶対に分からない。
自らが共感出来ない感情を理解する事は不可能なのだ。
「問題はこれからどうするか、ですよ。七星さん」
「これから……ですか。うーん、特に決めてないんですけどね……どうしよう……」
「ハンターだけはもうやめた方がいいでしょうね。戦いの中に身を置いていたらいつバレるか分かりませんし」
「うーん。ですよねー。いい稼ぎになるから惜しいと言えば惜しいんですけど、まあ仕方ないですね」
と、七星は割とあっさりハンターからの引退を表明した。
リージェスに対する殺意は無くなっているし、今は無理をして強くなる必要もない。
もちろん、自らを鍛える事をやめるつもりはない。
ただ、危ない橋を渡ってまで優先する事ではないと理解しているだけだ。
「ただそうなると何をしていいのかちょっと分からないんですよね……」
「だからメイドを……」
リージェスがちょっぴり未練がましく言う。
ちなみに彼はふざけている訳ではない。
かなり本気で言っている。
「やだ」
「………………」
メイド服は着てもメイドになってやるつもりは全くなかった。
だいたいそれでは囲われているみたいで格好悪いではないか、と七星は内心でむくれる。
七星は自立した自分というのが好きだった。
誰かに頼るのが悪いとは言わないが、誰かに頼らなければ生きていけない自分、というのは嫌だった。
もちろん吸血衝動については仕方がないと割り切っているが、それ以外の部分で必要以上にリージェスや雨音に頼りたくない。
自分で出来る事は可能な限り自分でやる。
そんな風に生きていきたい、というのが彼女の目標だ。
まあ実際のところ、そこまで前向きな目標を見据えるようになったのはリージェスと和解した後からなのだが。
「うーん。とりあえずじっくり考えてみます。何となく、やりたい事はあるような気はするんですけど、それが何なのか、まだうまく言葉に出来ないんです」
七星の中に残っているのは最期に見たあの女性の顔だった。
最期に苦しみから解き放たれて、ありがとうと言ってくれたあの女性。
助けたのは気紛れだけど、でもそうした事を後悔する気持ちはひとかけらも存在していなかった。
でもあの時から何かがすっきりしない。
何かをしなければならないと思うのに、それが何なのかまだ分からない。
きっと答えはすぐ近くにある筈なのに。
まだ届かない。
だから考える。
時間をかけてゆっくりと、自分で答えを見つけ出す。
そうする事が、必要だと思うから。
「何か出来る事があれば言ってくださいね。僕に出来る事なら何でもしますから」
「あはは。ありがとうございます。その時は頼らせてもらいますね」
「だからメイド……」
しょんぼりとした声が届く。
女々しくもメイドにこだわるリージェスだった。
「しつこいなぁ……」
「っ!!」
本気でうんざりとした表情で返す七星に、本気で傷ついてしまうリージェスだった。
……最強の吸血鬼としての威厳もへったくれもない、実に惨めな姿だった。
そしてその夜。
七星はリージェスに冷たくしてしまった事を激しく後悔する。
しっかりと根に持っていたリージェスはメイド服を購入してきてから鼻息を荒くして七星に迫ったのだ。
「さあ、借りを返してもらうぞ! 今着ろ! すぐ着ろ! そしてご主人様へのご奉仕を開始しろっ!」
「……ちょっと、リージェス!? 眼が据わってるんだけど……お、落ち着いて、ね? は、話し合おうか……あは、あはははは」
「問答無用ーっ!!」
「うきゃあああああーーっ!?」
七星が着ていた服を強引に脱がせてから、更には影縛りで動きを止めて、強制的に着せ替え人形にしてしまったのだ。
「う、動けないーっ! 何したのーっ!?」
「はーっはっはっは。影縛りといって吸血鬼の特殊スキルの一つだ! 影に干渉する術で、影に出入りしたり、相手の影を縛り付ける事で肉体の動きを封じたり出来るんだよ!」
「ふあ……ちょっと動けない相手に何して……ふあああんっ!!」
下着姿になった七星に容赦なく触れてくるリージェス。
敏感な部分を攻められてあえぎ声をあげる七星。
その間にも器用にメイド服を着せていくリージェス。
恐るべき手際だった。
「んー、動けない七星をいじるのも楽しいなー」
「ばかーっ!!」
こういう無理矢理な行為はあまり好みではないのだが、しかしプレイの一環としては十分に楽しめるかも、とリージェスはほくほく気分だった。
中途半端に身体を刺激してうるうる眼になった七星相手ににんまりとして言う。
「ほーら、ご主人様って言ってごらん♪」
「こ……この……腐れ外道吸血鬼ーーっ!!」
リージェスに馴らされた身体はこれ以上の我慢を許さなかった。
もっと触って欲しい。
もっと抱きしめて欲しい。
そして激しく抱いて欲しい。
そんな欲求だけしか頭に浮かばなくなってしまう。
しかも深刻な命令ではなく、実に楽しそうに、うきうきした表情で、まるでご褒美を待つような子供の顔で迫ってくるのだ。
流石にこれ以上は拒めなかった。
「お、お願いします……ご、ご主人様……くっ」
最後は屈辱に顔を歪めていたが、しかしリージェスにはそれで十分だったようだ。
「よしきたーーっ!!」
「ふああああーーっ!!?」
改心の表情でうなずいたリージェスは遠慮なしに七星を貫いた。
腰を引き上げて今までで一番激しく動かす。
「あっ! あああーーっ! も、もうちょっとゆっくり……ああああーーっ!!」
メイド服のままあえぎ続ける七星。
今まで経験した事のないプレイを続行され、すぐに快感で頭が蕩けてしまった。
理性がボロボロになっている状態でリージェスは七星を好き放題する。
「ほら、もう一回言ってみようか」
「ご、ごしゅ……ごしゅじん……さま……?」
「くうう~っ! いつもこんなに素直だったらいいのにっ!!」
「あう……も、もう無理……」
「いやいや、許して欲しかったらあの言葉」
「ご、ご主人様ぁ……もうゆるしてぇ……」
「くあああっ! かわいいっ! 七星かわいいっ!!」
「ふあああんっ!!? う、うそつきいいっ!!」
七星の今までにないぐらい素直でかわいい反応に、リージェスの方が理性崩壊して暴走してしまったらしく、絶倫モードに突入してしまったようだ。
結局、それは七星が気絶するまで続いた。
「あ、やべ。やりすぎた……」
あまりにも可愛すぎた七星の気絶した姿に、初めて反省するリージェス。
メイド服のままあらゆる部分を露出させたまま気絶した七星は猛烈にエロかったが、次の日の反応を考えるとちょっぴり怖くなるリージェスなのだった。
第三話 主従逆転?
「あのー、七星?」
「………………」
「七星ちゃーん?」
「………………」
「ええと、口ぐらいは利いてくれないかなー?」
「………………」
「マ、マスター命令だぞ~」
ずだんっ!
「っ!!」
思いっきりテーブルを叩く拳にびくーん、と震えるリージェス。
この程度の攻撃でどうにかなる程ヤワではないが、もちろんこれは身体ダメージとは全く関係のない攻撃である。
つまり、七星は怒っていた。
そして調子に乗りすぎたリージェスはそのご機嫌取りに勤しんでいる、という訳だ。
まあ、その効果は発揮されていないようだが。
先日、借りを返してもらう為に七星にメイド服を着せてご奉仕させようとしたところまでは良かったのだが、そこでリージェスが調子に乗りすぎて、彼女に対して好き放題やりすぎたのがいけなかったらしい。
本来、彼女のマスターであるリージェスにはその権利があるのだが、実質的には別として、本質的には対等にある二人の関係に罅を入れてしまったのだ。
以前ならば七星をそこまで怒らせたところで『どうせ憎まれているのだから』と気にしなかったリージェスだが、和解してしまった今となってはそうもいかない。
せっかく念願叶ってデレてくれたのに、今更昔のツンツン殺戮モードに戻られては困るのだ。
だから和解して以降、リージェスは昔の彼からはあり得ないぐらい、七星に気を遣っていた。
……七星にはそう見えなかったかもしれないが、出来るだけ彼女を怒らせないように気をつけていた……つもりなのだ。
今回の失態さえなければ七星は今日も甘えてきただろうし、甘やかす事が出来ただろうに、今はギラギラと据わった眼でリージェスを睨みつけている。
以前のように殺気は噴き出していないが、怒気はそれ以上に噴出している。
どうすれば七星の機嫌が直るのか、リージェスにはまるで分からない。
とりあえず餌で釣ってみようかと首筋を差し出してみる。
「ほ、ほーら。そろそろ腹が減っただろう? 血を吸ったりとか、な?」
にこにこしながら(ややひきつった笑顔で)首筋を近付けるリージェス。
「………………」
それを冷ややかな眼で見つめた七星は、右手を素早く動かした。
ばりっ!
「んぎゃっ!?」
引っ掻かれた。
噛みつかれるのではなく、思いっきり引っ掻かれた。
盛大に噴き出した血には目もくれず、七星は立ち上がってすたすたと冷蔵庫に向かう。
そこにはリージェス用の輸血用血液パックが保存されていた。
その一つを取り出してからストローを突き刺し、まるでジュースのようにちゅーちゅーと吸い始める。
「………………………………」
そしてぽいっと殻をゴミ箱に捨ててから、七星は出て行ってしまう。
「………………………………………………」
あっという間に回復した首筋の引っ掻き傷の事も忘れて、リージェスは呆然とそれを見ていた。
そしてショックから立ち直るのに一時間程必要だった。
そして三十分後の陵教会では……
「う……うぅぅぅぅぅううううううう…………」
礼拝者が誰一人いない聖堂で、しょぼくれた吸血鬼が暗い声で呻いていた。
長椅子に座って膝を抱えて身体を丸めて、どんよりとした表情で呻いている。
その後ろ姿からは彼があのリージェス・ゼーレシュタットだとは誰も気付かないだろう。
そしてその様子を一人だけ楽しんでいる外道神父がいた。
愛する吸血鬼のしょぼくれた姿をじっくりと堪能しながら、にこにことした様子で話しかけるのはここの主である陵雨音神父だった。
後ろから回り込んでリージェスの肩に顎を乗せて、楽しそうに問いかける。
「またえらく落ち込んでますねぇ。何があったんですか? まあ七星さん絡みだって事ぐらいは分かりますけど」
「七星が怒ってるんだ……」
「割といつもの事だと思いますけど? というかつい最近までは殺す気満々だったんですから今更落ち込むような事ですか?」
「それだけじゃないんだ」
「?」
リージェスはぶるぶると震えながら涙を滲ませる。
「七星が、俺の目の前でっ! 俺がいるのにっ! 輸血用パックに手を出したんだっ!!」
「あー……なるほど……」
リージェスがこれ程傷ついている理由に納得がいった雨音だった。
「あれだけ頑なに人間の血を吸わないって決めている七星なのに! 俺に当てつける為だけにそれをやったんだぞっ! これが傷つかずにいられるかっ!」
こんな情けない姿は他の吸血鬼に見せられないが、雨音相手には今更である。
というよりもリージェスと七星の関係を理解した上で相談に乗ってくれる相手など他に存在しない。
リージェスは雨音を心底苦手としているが、今回は他に頼る相手もいなかったので仕方なくここにやってきたのだ。
一人で呆然と落ち込むにはダメージが大きすぎた、とも言う。
「メ、メイドか? メイド服がいけなかったのか? それともご主人様呼ばわりさせた事か? それとも許してと懇願したにも関わらず気絶するまでヤりまくった事がいけなかったのか……?」
ぶつぶつと己の所行を振り返るリージェス。
そのどれもが教会に相応しくない内容だったが、幸か不幸かそれを突っ込んでくれる常識人は聖堂内に存在しなかった。
「強いて言うなら全部だと思いますけどねぇ……」
その代わり別の突っ込みを入れる神父が一名存在したが。
流石の雨音も呆れを隠せないようだ。
「うわあああああああっ! そりゃ悪かったとは思ってるけど、でも可愛くて歯止めが利かなかったんだよおおおおおおおっ!!」
「うーん……僕に訴えられても困るんですけどねー……」
困ったようにぽりぽりと頬を掻く雨音。
「僕にもそれぐらい情熱的な一面を見せてくれると嬉しかったりするんですけど」
「死んでもお断りだ」
「愛が足りないですよ」
「そんなものは最初から存在しない」
「冷たいですねぇ」
これもいつものやり取りである。
しかしここまで本気で落ち込むリージェスというのも珍しいので、雨音はその姿をしっかりと堪能していたのだが。
愛する者の新しい表情はいつでもどこでも新鮮で素晴らしいものだった。
たとえそれが落ち込んで凹んでいるヘタレ姿であっても。
「でも七星さんが自らに禁じている事は『人間の生き血を吸う事』でしょう? 輸血用血液は長期任務の時には常備していますし、飲むのは初めてって訳でもないですし、そこまで落ち込まなくてもいいと思うんですけどねぇ」
「そういう問題じゃないっ! 俺が! この俺という最大級のご馳走が目の前にいるのにっ! どうしてあんなものを吸う必要があるんだっ!」
「それはもちろん、リージェスさんへの当てつけでしょう」
「………………」
しょぼーん、という効果音が似合いそうなぐらいリージェスはがっくりと落ち込んだ。
ダメージがプラス1000程追加されたようだ。
HP残量がそろそろやばいかもしれない。
いや、ピンチなのはMP(メンタルゲージ)かもしれないが。
「二人とも輸血用で済ませられるならそれでいいじゃないですか」
「嫌だっ! 俺は七星に血を吸われるのが大好きなんだっ!」
「……マゾ?」
「失礼な事を言うなっ!」
「他にどう表現しろと?」
「そこに愛があるんだっ!」
「あるのは変態性癖だけのような気がしますけど」
「お前にだけは言われたくねえっ!」
どっちもどっちだった。
「血を吸う時の七星のうっとりした表情とか、俺の血が七星の喉を嚥下していく音とか、俺の血そのものが七星に命を与えているかと思うとゾクゾクするんだよ! 普通の事だろうがっ!」
「………………普通という言葉の意味をきちんと辞書で引いた方がいいですよ」
普通。
他の同種のものと比べて変わった点がない事。
特別でなく、ありふれている事。
……こんなモノがありふれていたら世の中大変な事になる。
「気持ちは分からなくもないですけどね。僕もリージェスさんに血を吸われたらきっと似たような事を考えるでしょうし」
「てめえの血は一生吸わねえよ」
「じゃあ七星さんに吸ってもらいましょうか」
「実行したらぶっ殺す」
割と似たもの同士の二人だった。
「とにかく、だ」
「はい?」
「七星をこのままにしておく訳にはいかないんだ」
「そうですか? 放っておけば元に戻ると思いますけど?」
七星だってそこまで頑なではないだろう。
一週間もすれば仕方ないなぁ、と許してくれるだろう、と雨音は考えている。
しかし一週間も七星に構ってもらえないリージェスにはそれが耐えられない。
「無理だーーっ! 七星といちゃいちゃしたいっ! もっともっと可愛がりたいんだああああーーっ!!」
「………………」
未知の生物を見るような眼でそれを眺める雨音。
新鮮ではあるがここまで壊れたリージェスというのは少しばかり幻滅でもある。
その幻滅具合も含めて楽しめるのが雨音という人間の悪趣味っぷりを分かりやすく表しているのだが。
どれだけ七星さんの事が好きなんでしょうねぇ、と呆れつつも、五年前よりもずっといい表情をしているリージェスを見るのは楽しかった。
「という訳で七星と仲直りをしたいんだ」
「はあ、そうですか」
雨音としてはもう少しリージェスの無様な姿を楽しみたいのだが、流石にそれは口に出さない。
今のリージェスにそんな事を言えば八つ当たりで殺されかねない。
「何かいい方法はないか?」
「僕を頼るなんて珍しいですね」
「好きで頼っている訳じゃない。どれだけ頭をひねっても思いつかないから仕方なく頼ってやっているんだ」
「……偉そうですねえ」
「で、何かないか?」
「まあ、ひとつだけ思いついた事がありますけど」
「何だ!?」
「タダで教えてあげるのも悔しいんですよね~」
「うぐ……」
「代わりに何をしてくれます?」
「この……クソ神父っ!」
にこにこワクワクとした表情で迫る雨音。
苦虫を噛み潰した表情で、それでも七星に機嫌を直してもらいたい事を優先したのか、リージェスは雨音の交換条件を聞いてやる事にした。
その交換条件とは……
「いえーい♪」
「ぐ……」
プリクラでのツーショットだった。
近場のゲームセンターで神父と吸血鬼、男二人でツーショット。
待ちに入っている女子高生がきゃあきゃあ言っている。
リージェスも雨音も美形に数えられる容姿なので、その二人がカップルっぽくツーショットで出てくれば、そりゃあ腐った関係がお好きな女子高生は盛り上がる。
小声で囁かれている二人の関係についてのあれこれ妄想に聞き耳を立てるつもりはないので、リージェスはさっさとその場から離れた。
「あ、待ってくださいよー。半分に切りますから」
「いらんっ!」
「僕の宝物にしますね~」
「せんでいいっ!」
「じゃあ夜のオカズに」
「やめろっ!」
仮にも神父が公共の場で口にしていい台詞ではないのだが、雨音にそれを気にするようなデリケートさは存在しない。
「で? お前の要望は聞いてやったんだ。そろそろこっちの要望も叶えてもらおうか」
近くのカフェで一息ついたリージェスは今にも殺しそうな視線で雨音を射抜いた。
「ふふふふふ~。まあそう慌てないでくださいよ~」
雨音は念願のツーショット写真をゲット出来てご満悦だ。
プリントアウトされた写真に頬をすり寄せている。
放っておくと涎まで垂らしそうな表情だった。
「その頬摺りを今すぐやめろ気持ち悪い」
「気持ち悪いはひどい……」
「やかましい」
「はいはい。教えますよ。教えればいいんでしょ~」
「む……」
あまりにもつれない態度だと頼るべき雨音がむくれてしまう。
匙加減が難しい、と舌打ちするリージェスだが、もちろんそんな反応も含めて雨音は楽しんでいる。
「で、七星さんの機嫌を直す方法なんですけど……」
「………………」
ごにょごにょ……と雨音が楽しそうに耳打ちする。
その内容を聞いたリージェスは……
「で……出来るかそんな事ーっ!!」
と、憤慨した。
あまりにも論外な方法だったからだ。
誇り高い吸血鬼にとってそれは耐え難い苦行だった。
「おやおや? 効果覿面だと思うんですけどね~」
そしてそんなリージェスを眺めながらニヤニヤと笑う雨音。
とても楽しそうな悪の神父さまだ。
リージェスは恨みがましそうに雨音をちらりと見て、ほんの少しだけ期待混じりの声で問いかける。
「ほ……本当に効果があるんだろうな……?」
「さあ、それは保証出来かねますけど」
「おい」
「でも意外性はあると思いますし、少なくとも口ぐらいは利いてくれるんじゃないですかね? それに謝罪にもなりますし」
「うぐぐ……」
「どうしますどうします?」
にこにこワクワク、という効果音が聞こえてきそうなぐらい楽しそうだった。
「や……やってみる……」
「そうと決まればさっそく衣装を買いに行きましょうっ!」
「衣装までいるのかよっ!?」
「それはもちろん! だって七星さんにもわざわざ衣装を着せたんでしょう?」
「そりゃそうだけど、この場合は振る舞いだけで十分じゃないのか!?」
「いえいえ。物事は徹底的に、やるなら手を抜くべきではないのです」
「む……そ、そうなのか……?」
「そうです。メイド服を着せない状態で七星さんをメイド扱い出来ますか?」
「な、なるほど。納得だ」
自分の所行を振り返って納得するリージェス。
どちらにしてもロクでもない事が行われようとしている事は確かだった。
そして大喜びで衣装選びに精を出した雨音は、準備万端でリージェスを送り出すのだった。
「それでは健闘を祈っていますよ、リージェスさん」
「おう。世話になったな」
「いえいえ。愛するリージェスさんの為ならこれぐらいお安いご用ですよ」
「………………」
「それでは僕はこれで」
「ついでにこいつも持って帰れ」
「げ……」
いつの間にか、こっそりと張り付かせていた式紙を握り潰されている。
紙で折られた小鳥は、見るも無惨な紙屑に変わっていた。
「ば、バレてました?」
「バレバレだ」
どうやらこの後の事をこっそりと覗こうとしていたらしい。
隠匿性能も付与した見た目に反して高性能な式紙だというのに、リージェスはあっさりと見抜いてしまう。
このあたりは流石だと感心する。
ちなみにこれが七星だったら気付かずに放置されている。
「協力には感謝している。だが、覗くな。絶対に覗くなっ!」
「いや~、うまくいかなかったら助言してあげようと思ってたんですけど~」
上目遣いで覗きたい、と訴える雨音だが、もちろんその願いは聞き入れられない。
これから自らのプライドを徹底的に破壊するような事をするのだ。
そんな醜態を晒すのは七星一人で十分だ。
彼女一人ならば許容出来る。
しかし雨音にそんなものを見せてやるつもりはなかった。
「か・え・れ!」
「…………はい」
絶対的な物言いに、しょんぼりしながら戻っていく雨音。
念の為、他にも張り付いている式紙がいないか知覚を研ぎ澄ませたが、大丈夫のようだ。
逆にこれだけ研ぎ澄まされた感覚をも誤魔化しきれる技量が雨音にあるのなら、それこそもうある種の敬意と共に諦めるしかない、と割り切った。
☆
七星はあてのない散歩を終えてマンションに戻ろうとしていた。
「はあ……」
怒って外に出てきたはいいけれど、仕事も何もない状況でただぶらつく、という事に慣れていない七星は、ただ時間を浪費しただけになってしまった。
輸血用血液に手を出した時のリージェスの表情を思い出す。
すごく傷ついていた。
「まあ、そうする事が目的だった訳だけど、さ」
当てつけの為にやったのだ。
傷ついてくれなければやり甲斐がない。
それにしても輸血用血液というのはあそこまで味気ないものだったのか、と思い出して呆れる。
あれが彼の主食かと思うと、どれだけの我慢を強いられているのかが分かる。
あれは食事というよりはただの栄養補給だ。
人間の生き血はまた違った味なのだろう、と根拠もなしに思う。
七星にとってリージェスの血は最高級のご馳走だった。
他のどんなものよりも美味しいと思えたし、他のどんなものよりも自分に力を与えてくれた。
ハンターの長期任務でも輸血用血液を利用した事はあるけれど、あの時はただの栄養補給だと割り切っていたので味を気にした事はなかった。
けれど今は違う。
美味しい血が欲しい、と焦がれる自分がいる事を知っている。
「うー、だめだめ。簡単に許しちゃまた同じ事になるんだからっ!」
本当は仲直りしたいけれど、でもあっさりと許してしまえばまた同じ事になる可能性が高い。
リージェスの楽しそうな表情はまさしく本気だった。
メイドプレイを心の底から楽しんでいた。
あんなに楽しそうな顔を見るのは初めてだったけれど、その為に犠牲になっているのが自分だというのが納得いかない。
もちろんリージェスが本心から七星をメイド扱いしている訳ではないと分かってはいるけれど、それとこれとは別問題なのだ。
今後の安全を確保する為にも、ここはもう少し思い知らせてやるべきなのだ、と許してしまいそうになる自分を律する七星。
「よし。血は欲しいけどもうちょっとだけ我慢しよう。うん」
両こぶしをぎゅっと握りしめてから頷く七星。
そこまで意地を張るならいっその事家出でもしてしまえばよさそうなものだが、そうしてしまうのは七星が寂しい、という優柔不断ぶりだった。
怒ってはいるけれど傍にはいたい、というデレっぷりだ。
その本心をリージェスが聞いたらそれこそ大喜びするのだろうが、もちろんそんな事を教えてやるつもりはない。
「うー……」
まだまだ許してやらないんだから、と妙な決意をしながら玄関のドアを開けると……
「……………………」
玄関にはリージェスが立っていた。
「………………………………」
ただ立っているだけではない。
いつもとは違う服を着ている。
七星の認識に間違いがなければ、あれは燕尾服というものだ。
いつも簡素なワイシャツでだらっとしているリージェスからは想像も出来ないぐらい、びしっと着こなしている。
ちょ、ちょっと格好いい……と思ったけれど、もちろん口にも態度にも出さない。
そしてリージェスは恭しく頭を下げた。
「っ!?」
今度こそ驚愕する七星。
いつも俺様フリーダムの傍若無人なリージェスが七星相手に頭を下げるなど、前代未聞の珍事だ。
何か悪いものでも食べたのだろうか、と本気で心配になる。
「何……してるの……?」
恐る恐る訊いてみる。
しばらく口も利いてやらないと黙り込んでいた事も忘れてしまうぐらい、七星は動揺していた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
そしてリージェスは恭しい口調のままそんな事を言った。
「…………………………………………」
今度こそ思考回路がフリーズした。
これは夢だろうか。
それともどこか異次元にでも迷い込んでしまったのだろうか。
あり得ない事ばかりが立て続けに起こってしまい、流石の七星も逃げ出したくなってしまう。
「………………」
じりじりと玄関から後退する七星。
その顔からは止まる事のない冷や汗が滝のように流れている。
そのまま玄関のドアに手をかけて逃げ出そうとすると、リージェスが慌てて止める。
「待てっ! 逃げるなっ!」
「あ、戻った……」
やっといつものリージェスに戻ったのでちょっとだけ安心する七星。
「あー……えっと、その……だな……。この格好はその……ええと……」
「リージェス……?」
らしくもなくしどろもどろになるリージェスを見て、不思議そうに首を傾げる七星。
「ほら、その……ちょっとした謝罪というか……プレイというか……」
「プレイ……?」
七星がジト目になってしまう。
「いやっ! そうじゃなくてっ! メイドプレイで怒らせたのだから、執事プレイで謝罪すれば許してくれるんじゃないかと、雨音のバカに助言されて……だな……」
「ああ……なるほど。執事プレイね……」
メイドと言えばご主人様。
そしてお嬢様と言えば執事。
世の中にはそういう不思議な法則が存在しているらしい、という事は七星も知っている。
メイド喫茶や執事喫茶などが存在して、お客はお嬢様やご主人様を堪能しているとかしていないとか、そういう噂ぐらいは聞いた事がある。
七星はそういう場所に足を踏み入れた事はないが、そういう看板は何度も目にした事がある。
「ふーん。それで、リージェスが執事?」
「そ、そう。今日一日はお前だけの執事だぞ。どうだ?」
「………………」
じとーっとした眼でリージェスを見る七星。
「うぅ……」
やはりこんな手段じゃ駄目じゃないかこんな恥ずかしい格好をさせて何の効果もないなんてふざけんなあのクソ神父後でぶん殴ってやるついでにプリクラもシュレッダーにかけてやる……などと内心で愚痴っていたところで、七星がにんまりと笑った。
「口の利き方がなってないよ、リージェス」
「……は?」
とても楽しそうな、嗜虐的な声。
いつもの七星からは考えられないぐらいドSなオーラが出ていた。
「執事になります、お嬢様……でしょ?」
にや~っと口元を歪めた七星は、それはそれは楽しそうだった。
「は……はい……お嬢様……」
背筋に悪寒が走った……のは気のせいだと思いたい。
しかしリージェスは僅かに身震いしながらも素直に頭を下げた。
これは執事プレイなのだから徹底しなければならない、と自らに言い聞かせて。
「ん。よろしい」
七星は朝までの不機嫌さが嘘のように上機嫌な様子ですたすたとリビングまで移動した。
ソファに座ってから当然のようにリージェスに命じる。
「お茶」
「へ?」
何を言われたのか分からず、リージェスの方が首を傾げてしまう。
「だから、お茶」
「………………」
「返事は?」
「は、はいっ! ただいまっ!」
既に人格崩壊の域にまで達しつつあると嘆きながらも、リージェスはお嬢様の命令通りにお茶の用意をする。
台所に急行して即座にお湯を沸かす。
「……紅茶でいいよな?」
酒にはこだわるがお茶にはこだわらないリージェスは、正式な淹れ方など分からない。
とりあえずお湯を沸かしてポットに茶葉を入れて、熱湯を注いでカップに入れればいいだろう、と単純に考えた。
七星の私物であるティーポットと、やたら高そうな缶入り茶葉がある事の意味など全く考えずに、リージェスは準備を進めるのだった。
「ど、どうぞ……お嬢様」
「ん。くるしゅーない」
「………………」
お嬢様というよりは殿様になっていないか? と首を傾げるが、もちろんここで正直に言う程空気が読めないリージェスではない。
しかし七星が紅茶に口を付けた瞬間……
「不味い……」
しかめっ面で唸った。
七星には似合わない、低い声だった。
「は……?」
「だから、不味い」
「………………」
「まさかとは思うけど、紅茶の淹れ方も知らないの?」
「そ、それぐらい知ってるぞ。茶葉に熱湯を注ぐだけだろ?」
「バカーっ!」
「っ!?」
「この茶葉高いんだからねっ! お湯の温度も茶葉の量も気にせずにこんな出来損ないにされたらたまったものじゃないわよーっ!」
「で、出来損ないーっ!? せっかく人が淹れてやったのにそこまで言う事ないだろうがっ!」
「淹れてやった……?」
じろっとリージェスを睨みつける七星。
はっと我に返るリージェス。
「もとい、淹れさせていただきましたっ!」
「茶葉を無駄遣いしただけだけどね」
「うぐ……」
「ああ、もう。一から教育しないと駄目かな、これは」
「………………」
やれやれと肩を竦める七星に再び背筋が寒くなるリージェス。
それからお湯の沸かし方と温度の測り方、茶葉の量とお湯の注ぎ方、蒸らし時間に至るまで、徹底的に教育されるのだった。
教育というよりは調教だったのかもしれない。
眷属に調教される吸血鬼、というのはおそらく史上初の光景ではなかろうか。
七星も紅茶そのものに並々ならぬこだわりがある訳ではないのだが、それでも高いお金を出して購入した茶葉が無惨な使われ方をしているのだけは許せなかったらしい。
最低限の知識を叩き込んでから、もう一度紅茶を淹れさせる。
「む……むむむ……」
最強の吸血鬼には似つかわしくない、実に情けない姿で紅茶を淹れるリージェス。
おっかなびっくり温度を測り、蒸らし時間を計り、そしてカップに注いだ。
「………………」
すると香りからして僅かに違うのが分かる。
色も微妙に違う。
「………………」
なるほど。
淹れ方ひとつで微妙に違ってくるのだな、と理解した。
この微妙さが紅茶好きにとっては大きな違いなのだろう、と何となく考える。
「ど、どうぞ。お嬢様」
今度は大丈夫だろう、とびくびくしながら七星に紅茶を出す。
一口飲んだ七星は、
「んー、七十点」
「………………」
ちょっと辛口点数だった。
それでも素人が淹れたにしては上出来だろう、と自分で自分を慰めておく。
のんびりと紅茶を飲む七星は、傍に控えるリージェスを見て楽しそうに笑っている。
プレイとは言えかなり徹底しているのがおかしかったのだ。
いつもならソファでふんぞり返っているリージェスが、今は自分の傍に忠実に控えている、というのは不思議な気分でもあり、楽しくもある。
今日一日自分に従ってくれるというのなら、とことんまで楽しんでしまおうと決めた。
時間はまだ昼過ぎであり、今日という日はたくさんの時間が残されている。
何をしようか。
何をさせようか。
楽しいと逆に考えがまとまらない。
何でもしたくなるし、何でもさせたくなる。
「あ、そうだ」
名案を思いついた、というようにぽんと手を叩く七星。
「七星?」
「お嬢様」
「は、はい。お嬢様!」
「今日ぐらいは徹底してね~」
「も、もちろんです、お嬢様」
にまにま笑っている七星と、たじたじになっているリージェス。
誇り高い吸血鬼にとっては拷問のようなプレイになっているが、七星のこんな楽しそうな表情が見られたのならそれも悪くない、と前向きに考える。
「それで、この後は買い物に行くから荷物持ちよろしくね」
「に、荷物持ち……?」
「そう。荷物持ち♪」
沢山の買い物をして、山程の荷物を持たせてやろう、という意地悪だ。
もちろん買い物そのものも楽しむつもりだが。
もともと七星は拠点を定めていなかったので、私物がとても少ない。
ハンターの仕事であちこちを飛び回っているので、荷物は最低限、消耗品と僅かな着替えのみ、というのが基本スタイルだった。
しかし最近はこの部屋に落ち着いているので、洋服や小道具、出来ればパソコンなどの電子機器が欲しいと考えていた。
「わ、分かりました。お嬢様」
「いい返事だね、執事さん」
「も、もちろん」
恐ろしい量の荷物を持たされるのだろうなぁ、と考えながらも、リージェスは内心でかなり喜んでいた。
本格的にここを自分の家だと思ってくれるのだと思うと、とても嬉しかったのだ。
執事じゃなくても荷物持ちぐらいはいくらでもしてやる、と意気込んだ。
しかしリージェスは甘く見ていたのだ。
女の買い物、という恐ろしさを…………
「………………」
買い物に付き合う事かれこれ二時間。
リージェスはげっそりとやつれた表情になっていた。
「ねえ、リージェス。これ似合うかな? 私としてはこっちも捨て難いんだけど。どっちがいいと思う?」
既に十二軒目になる洋服店で、七星は二つのワンピースを較べていた。
どちらも捨て難いものがあるらしい。
「………………」
そして今のリージェスは両手に大量の洋服が入った紙袋を持たされている。
それも一つではない。
右手に六、左手に七、という有様だ。
重量は大した事ないのだが、まるでブドウのようにかたまったそれらは見栄えが大変よろしくない。
本気で彼女に荷物を持たされているだけの情けない男に見えてしまうのがいただけなかった。
「ええと、俺は右の方が好み……かな……」
「そっか~。じゃあこっちにしようかな~」
「………………」
肉体的疲労は大した事ないのだが、精神的疲労が半端ない。
何軒も何軒も店を回り、じっくりと洋服を眺めては選ぶ、という事を繰り返している。
今まで七星以外の特定の女性と付き合った経験が無かったリージェスは、この恐ろしく気疲れする買い物、というのも初体験だったのだ。
先程のやり取りにもかなり気を遣っている。
最初は悩むぐらいなら両方買えばいいだろうが、と正直に言ったところ、ひどく怒られた。
こってりと絞られまくって、あやうく干物になるかと思ったぐらいだ。
女の子にとって洋服選びというのは楽しい作業であると同時にこだわりの時間でもあるらしい。
男連れでやってきたのなら、自分に最も似合うものを選びたい、そして選んで欲しいと思うのは当然だろう。
だからこそ両方買えばいい、というのは冒涜にも等しい。
きちんと吟味して、どちらがより自分に似合うのかを考えた上で選べ、と無言の脅迫オーラがそこには存在していた。
という訳で七星の要望通り、選ぶ服選ぶ服をきちんと吟味して、どちらがより似合うかを考えさせられたのだ。
律儀なリージェスは適当に答える、という事が出来ず、本当にきちんと考えて返答している為、気疲れがもの凄い事になっている。
会計を済ませた七星が新しい紙袋をリージェスに手渡してくる。
「はい、これよろしく~」
「か、かしこまりました、お嬢様」
哀れな執事はブドウの粒を一つ増やすのだった。
「ありがとうございました~」
元気な店員に見送られながら店を出る二人。
元気な少女と疲れた青年、という対照的な図がそこにはあった。
「まだ続けるのですか? お嬢様……」
「洋服はこれぐらいでいいかもね~」
「よ……洋服は……ですか……」
他にもあるのかよっ! と文句を言いたくなったが、何とか堪える。
今日だけは絶対服従の執事なのだ。
空は薄暗くなってきて、時刻も夜にさしかかってきている。
腕力的にはともかく、見た目的には荷物の量が限界なので、そろそろマンションに戻りたいと考えているのだが。
「まあそろそろ暗くなってきたし、お腹も空いたし、マンションに戻る?」
「そ、そうしてくれると助かります、お嬢様」
「じゃあそうしよっか~」
ご機嫌に歩き出す七星お嬢様。
そのご機嫌の原因がたくさんの洋服をゲット出来たからなのか、それともリージェスの哀れな姿を堪能しているからなのか、あるいはその両方なのか。
深く考えるととても傷つく答えに辿り着きそうだったので、リージェスは敢えて思考を止めるのだった。
ちなみに帰りは徒歩だった。
この恥ずかしい有様で三十分程歩かされたリージェスはまたしても気疲れしてしまうのだった。
マンションに帰り着いた七星はさっそくリージェスに指示を出す。
「服は全部私の部屋に置いてね。後で整理するから」
「かしこまりました、お嬢様」
ようやくブドウ状態から解放されると安心したリージェスは、そそくさと荷物を部屋へと移動させた。
「……つ、疲れた」
ぐったりとしたリージェスは流石にお嬢様の傍に控える気力は残っておらず、ソファに寝転がった。
これぐらいは許されるだろう。
「リージェス」
「はい?」
しかし七星は許してくれなかった。
寝転がるリージェスに乗り上げて、口を開ける。
「お腹すいた」
「……ど、どうぞ」
疲労困憊にあるこの状態で血まで吸われるのかよっ! と嘆きたくなったが、そんな事を言えばまたしても輸血用血液を吸うに決まっているのだ。
あんな屈辱的な経験は二度とごめんだ。
それぐらいならどんなに疲れていても自分の血を差し出す。
「いただきま~す」
かぷ、と首筋に牙を突き立てる七星。
ごくごくと美味しそうに血液を嚥下していく。
「やっぱりこっちが美味しいね」
「………………」
そりゃそうだろう、とむくれるリージェス。
吸血鬼にとっては力の強い同族の血液こそが一番のご馳走なのだ。
栄養という面でも、力の補給という面でも、吸血鬼の血液が一番優れている。
意志の弱い吸血鬼ならば中毒になってしまう程の魅力がそこにはあるのだ。
ハンターとしてではなく、同じ吸血鬼の血液を求めて同族殺しに身を堕とす者も僅かながら存在する程に。
やがて満足したのか、七星はそのままリージェスの上でごろごろと身を委ねる。
この場所はとても居心地がいい。
リージェスも甘えてくる七星が嬉しくてそのままじっとしていた。
「何だか新鮮な一日だったな~」
「俺にとっては半拷問みたいな一日だったが……」
「何か言った? 執事さん?」
「……まだ続けるのですか、お嬢様?」
「もちろん。今日一日はね」
「つまり、零時まで?」
「そういう事」
「………………」
これ以上何をさせるつもりだ、とげんなりするリージェス。
お茶も淹れたし買い物にも付き合った。
血液も与えたし、これ以上執事として何かをしろというのなら、着替えを手伝うぐらいしか残っていないのではないだろうか。
それはそれで大歓迎なのだが、そうなるとリージェスの理性がやばい事になる。
お嬢様に従うべき執事が、お嬢様を押し倒してしまったら不味い。
何が不味いって、この拷問に耐え抜いた挙げ句再び怒らせてしまう事が不味い。
「お風呂沸かして」
「……マジで?」
「マジで」
「エロい事は?」
「禁止に決まってるでしょ」
「そんなぁ……」
がっくりと肩を落とすリージェス。
「ほらほら。早く浴槽にお湯を張ってきてよ」
「うぅ……」
しょんぼりがっくりしながら起き上がるリージェスは、七星お嬢様の命令に従うべく浴室に向かう。
ボタン一つでお湯を張ってくれる全自動システムはリージェス執事の手をほとんど煩わせる事なく入浴の準備を完了させてくれるが、その為の着替えやタオルなどはやはり準備しなければならなかった。
「今日一日の我慢、今日一日の我慢……」
途轍もない我慢を強いられているリージェスは、そろそろ限界が近かった。
これまで誰かに従った事などないリージェスにとって、今日一日の出来事は新鮮でもあった。
あくまでプレイならば、あくまで七星が相手ならば、こういうのも悪くない、と思う。
しかし誰よりも愛しい相手の無防備な姿を前にして、一切の手出しを許されないというのはやはり拷問だった。
「そろそろ沸いた?」
「も、もう少し……」
「ふーん。まあいいや。半分ぐらいはお湯張られてるよね。じゃあ入っちゃう」
あっさりと服を脱ぎ始める七星。
リージェスはその服を回収してから洗濯機に放り込む。
「入ってきたら怒るからね」
「うぅ……」
しょんぼりしながらリビングに戻るリージェス。
たった一日の我慢がここまで苦行を強いられる事とは……と嘆き悲しんでいる。
それでも今日一日を乗り越えればきっと許してもらえる、という希望がリージェスを耐え抜かせていた。
「はあ~。いいお湯だった~」
「それは良かった……」
力なく答えるリージェス。
そろそろ我慢のしすぎで気力が尽きかけているらしい。
「リージェスも入ってきたら?」
「そ、そうする……」
よろよろと立ち上がるリージェス。
その後ろ姿を眺めながら、七星はくふふ、と笑う。
いつもは好き放題に振り回されているので、自分が振り回す立場になるとすごく愉快なのだ。
もっともっと虐めたくなってしまう。
「次はどうしようかな~」
くふふふ……と悪女笑いが止まらない七星。
夜はまだまだこれからだ。
いい加減ムラムラきているだろうリージェスを焦らすのはたまらなく気持ちがいい。
「あ、そうだ」
再びぽんと手を叩く七星。
とても愉快で、そして意地悪な名案を思いついたようだ。
「ふふふふふふふふふ♪」
ぺろりと舌なめずりをして、さっそく準備を始める。
「あははは~。楽しみ楽しみ~」
すっかり悪女笑いが似合い始めた七星だった。
元聖女の筈だが、悪女の素質も十分にありそうだ。
リージェスがややさっぱりして出てきた。
紫紺の髪からはまだ水滴が垂れているが、それすらも彼の色気を際立たせる小道具のような姿だった。
整った容姿、引き締まった身体、そして絶対的な力を誇るが故の安心感。
放っておけばいくらでも女性が寄ってきそうな程にモテ男スキルを所有しているリージェスだが、七星以外に興味はない為、そのスキルが発揮される事はほとんどない。
七星自身も一般的な女性とは価値観が違う人生を送ってきた為、それらの要素に心奪われる事はなかった。
それでも客観的価値観として、リージェスがいい男だという事は七星も知っている。
最近では復讐に縛られる事もなくなった為、ありのままの感情でリージェスに好意を寄せる事が出来る。
それが今の七星には嬉しかった。
そしてそんな彼を好き放題に出来るこの瞬間を神様ではない何かに感謝した。
「リージェス」
「?」
「こっちに来て」
「あ、ああ……」
言われるがままに七星の部屋へと引っ張られるリージェス。
「そこに仰向けになって」
「こ、こうか?」
「そうそう」
言われた通り、仰向けになる。
ベッドに案内された事から、すわこれからエロ展開かっ!? と期待したリージェスだが、その期待は半分程裏切られる。
あくまで、半分程だが。
「両手を上に上げて」
「………………」
訝しみながらも言われた通りにする。
がちゃん。
「っ!?」
物騒な音にびっくりして上を向くと、自分の両手には手錠がかけられていた。
「なっ!? 何の真似だっ!?」
もちろんこの程度の拘束ならあっさりと破壊出来るリージェスだが、それよりも七星にそんな事をされてしまった、という事がショックだった。
「ふふん」
そして七星がリージェスの上に跨がる。
「………………」
マウントポジションをとった七星は悪女さながらに口元を歪める。
「う……」
七星にとてもよく似合っているその悪女笑いに、僅かにショックを受けてしまうリージェス。
悪女になってしまった事がショックなのではない。
悪女笑いが似合ってしまう事がショックだったのだ。
「いっつもリージェスが主導権を握ってるからね。今日ぐらいは私が好き放題してみようと思って」
「は……?」
「つまり、こういう事」
「っ!!」
そのままゆっくりとかがんできた七星はリージェスに口づけをした。
そのまま、服をはだけさせ、リージェスの胸板に触れてくる。
「ちょ、ちょっと待てっ!!」
「待たない」
鎖骨に舌を這わせてゆっくりと舐めていく。
いつになく積極的な七星に唖然とするリージェスだが、これはそこまで不自然な事ではない、と気付く。
この五年間、リージェスはとことんまで七星を抱き続けたのだ。
性欲を叩き付けて、あらゆる行為を繰り返した。
その度に頑なだった身体は馴らされていき、快感に対してひどく弱い、ベッドの上ではたまらなく淫乱な少女が出来上がったのだ。
しかしこれまではリージェスがうまく主導権を握ってきた為、その性欲の方向性も制御出来ていた。
しかしもしも、その主導権が奪われてしまう事があったなら……
「ーーっ!!」
冷たい手が下半身にまで伸びてきて、リージェスがびくりと身体を震わせる。
今までにない感覚に冷や汗が流れる。
「お、おい……」
「駄目だよ。今はまだ私がお嬢様、なんだからね?」
顎にキスをしてから意地悪く笑う七星。
リージェス自身を掴んで弄ぶ手は予測不能な動きで襲いかかってくる。
「しかしこれじゃああまりにも生殺しすぎるっ!」
煽られるだけ煽られて、自分は何一つ手出し出来ないのだ。
いくら執事プレイで絶対服従タイムといっても、限度がある。
こんな事に甘んじられる程リージェスは我慢強くない。
いっその事手錠をぶっ壊してやろうかと考えると、
「それ、壊したら当分許さないからね」
「………………」
その一言で動きが止まった。
これだけの苦労をし続けて許してもらえなかったら流石に立ち直れない。
「ふふふふふふ」
「うぅ……」
嗜虐的な笑みを浮かべながらとても楽しそうにリージェスの身体をまさぐる七星。
これまで自分がされていた事を、逆に出来るというのは何と素晴らしい事か。
日頃の行いが自らに返ってきたと理解していても、リージェスは現状を嘆きたくなる。
相手に主導権を握られる性行為など、リージェスにとっては初めての出来事であり、屈辱でもあった。
しかしその屈辱以上に、これ以上七星を怒らせる事も避けたいので、彼は生まれて初めての屈辱タイムをただひたすらに耐えるのだった。
救いがあるとすれば、自らの上でこれまで以上に乱れてくれた七星の姿がとても新鮮でゾクゾクした、という事ぐらいだろうか。
それでも自らの上で喘いで、腰を動かし、ただひたすらに乱れる七星を前にして、自分は手を出すどころかその場から動く事も出来なかった、というのがとてもとても切ない事実ではあるのだが……
「はふぅ……もう、だめぇ……」
思う存分乱れた七星は力尽きて、そのままリージェスの上に倒れ込んだ。
肌が重なり合い、汗にまみれた身体がべったりとはりつく。
「すぅ……」
そのまますやすやと眠ってしまった七星に、リージェスが深々とため息をついた。
がごん……
繋がれていた手錠を力ずくで破壊して、そのまま七星の身体を抱きしめる。
「俺はまだまだ足りないんだけどなぁ……」
いつもはリージェスのペースで進めていたのに、今回は七星のペースで進められたのだ。
彼女は満足したかもしれないが、焦らされ、弄ばれまくったリージェスとしては不完全燃焼の有様だった。
「ま、いいか。これで許してもらえるだろうし、それに今日の七星は今までで一番エロかったし」
愛しい相手の新しい一面を見られるというのは素晴らしい事だ。
不満は残るがそれ以上に得たものがあったという事で納得しておこう。
「おやすみ、七星」
自分の上で気持ちよさそうに眠る七星を、リージェスはそっと撫でた。
翌朝。
執事プレイも終了したリージェスが、先日の鬱憤を晴らすが如く朝から七星とヤりまくったのは言うまでもない。
気絶するまでそれを続け、再び七星を怒らせて謝り倒したのも、また言うまでもない事だった。
あとがき
お久しぶりです。水月さなぎです。
今回は新シリーズを始めましたよ。
吸血鬼ものです。
昔書いていた設定の焼き直しなのですが、個人的にはこの奇妙な主従関係をなかなか気に入っていたりします。
七星ちゃんがちっぱいなのはもちろんさなぎの好みによるところですよ、えっへん。
今回はエロ要素が結構入っていますのでR15仕様になっています。
でもR18ってほどじゃないので、マイルドな感じですよ。
吸血鬼の設定についてもあれこれ悩みましたが、考えるのは結構楽しかったですね。
「高位吸血鬼」に「ハイディライトウォーカー」のルビを振るのもちょっと悩みました。
真祖と高位とどちらにしようかなー、と悩んだんですよ。
あとは正確には「ハイデライトウォーカー」という名称なのですが、「デ」よりも「ディ」にした方が言葉の響きが好きだったので勝手に改竄してみたり。
まあ元々が創作なのでこれぐらいはいいですよね、ということにしておいてください。
現在このシリーズは四巻分までほとんど原稿が上がっていますので、それぐらいまで出るのは確実です。
それ以降も続く予定ですので、他のシリーズともどもおつきあいくださると嬉しいです。
それではこの辺で失礼いたします。
2015.4.12 水月さなぎ
2015年10月25日 発行 初版
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