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ぬばたまの夜の更けるまで

斉藤ハゼ

やまいぬワークス



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 目 次

はじめての高尾山

猫の都合をきいてきて

昼の相席

ぬばたまの夜の更けるまで





はじめての高尾山


 どんな時でも身体は動いて夢遊病のように会社に来てしまう。かなしい社会人の習性だ。しかし大混乱のダイヤを乗り継いで来た私を待ち受けていたのは、開かない自動ドアだった。
「守衛さんもいねのが」
 地元の訛りで独り言が出る。あれからずっと、四六時中二十四時間年中無休営業で地元のことばかり考えている。
「どうすっぺがな……家さ帰るめんどくせえな」
「んだら……デートばすっちゃ」
「んだな……って、はぁぁぁ!?
 振り向いた先に数井さんが手を振っていた。数井さんはシステム開発部門の人で、今、ちょうど同じ案件に取り組んでいる。
「今日は停電が読めないからお休みだって」
「マジっすか」
 普段はスーツの数井さん、今日はカジュアルないでたちだ。薄手のブルゾンにスニーカー。大学生みたいだ。三十歳は越えてたと思ったけど。
「小野さん、ハイキングみたいな恰好ですね」
 かく言う私も、リュックにスニーカー、ジーンズ。他人のことは言えない格好だ。また歩いて帰る羽目になったら困るし。
「余震があったら困りますし」
「そうだ。格好にちょうどいいところ、行きましょうか」

 そうやって連れてこられたのが、高尾山だった。よく晴れた三月の空気が心地よい。よい登山日和なのに、駅前から登山口に至るまで、ずっと人がいない。高尾名物の蕎麦屋にお土産屋。みな閉まっている。ロープウェイの駅も鎖がかけられ、無人だ。
「ロープウェイ止まってるから、歩いて行きましょう」
「どれくらい歩くんでしょう。私、はじめてなので」
「僕もはじめてなんで、調べます」
 数井さんはスマートフォンの上で二本の指を躍らせはじめた。
「数井さーん、飴ちゃん、食べます? 男梅飴」
「男を舐めるのは、ちょっと」
 そうですか。自分の分だけ飴をむく。男の前で男を舐める。なんだかいやらしい。そういえばデートか。デートってこういうものなんでしたっけ。
「数井さん……デートの定義ってなんですか」
「システムアップデートなら得意なんですけど」
 数井さんってこんな愉快な人だったかな。職場と印象がちがう。服が違うからか。でも眼鏡はいつも通りだし。
「片道百分ですね。なお、帰りは九十分に短縮されます。しかし、この手の予測がアテにならないのはアップデートの常ですね」
「構いません。仕事じゃないですし」
「では、一号路から参りましょう」
「いちごうろ」
 頭の中では一号炉、と変換されてしまった。今この関東の大気の中に、何ベクレルだか、シーベルトだかが、降り注いでいるらしい。大した量ではないんだろう。でも、それを裏付ける知識はないし、何が正しいか判断を仰ぐ力もない。ただ不安と希望的観測だけがある。大丈夫、どうせ大丈夫。タカを括ってしまうしかない。
 一号路は鬱蒼とした杉木立。上のほうから何人か降りてくる。しっかりしたリュックと杖。本格的な山装備だ。比べて私と数井さんの格好はペラペラだ。
「僕らのほかにも、人、いるんですね」
 少し安心する。不安でもある。最初はゆるやかな登り。登山道、という言葉に反してなだらかに歩きやすく、うす暗い。
「小野さんはー、ご結婚してます?」
「してませーん。数井さんはー?」
「してませーん。彼女もいませーん」
「私も彼女いませーん」
 こんなことをだらだら喋りながら話せるくらいには、高尾山の一号路はゆるやかだった。そして、数井さんは温めた牛乳が苦手なこと、自称スネ毛が濃いこと、生まれは秋田で大学は宮城だったこと、などを勝手に白状した。私は酢豚にパイナップルが入っていても許せること、指がやわらかくて異常に反り返ること、生まれは宮城で大学は東京だったこと、などを白状した。

 一時間ほども歩き続けると、突然ケーブルカーの終点駅が現れた。相変わらず誰もいない。すごい、高尾山が貸切みたいだ。私は、えい、と駅の前の広場に寝転がった。空に手を透かす。どうせ人がいないんだ、これくらいやっていいでしょう。数井さんが脇に座る。おっ、数井、距離が近いぞ。ほんとにデートのつもりなのか。
「空が黄色っぽいですね」
 そんなに意味なく言った言葉のつもりだった。
「放射能って、思ってるんです?」
 しかし、数井さんの目は妙に静かだった。
「さあ、なんだか知りません。ただ、いつもより空が黄色いなあって、思っただけです」
「小野さん」
 数井さんが上から私の顔を覗き込んできた。そしておもむろに眼鏡を外す。鼻のつけねに眼鏡の跡。なんだ、このまま数十センチ寄られたらキスになってしまうぞ。私の口の中には三個めの男梅飴が残っている。今はよすんだ。
「僕の眼鏡を見てください」
 失礼ながら、寝転がったまま眼鏡を受け取る。数井さんは眼を細めてじーっとこちらを見ている。
「すごく汚いです。黄色の砂がたくさんついてます」
「たぶんスギの花粉です。ずっと杉だらけだったでしょう」
 そういえば、あちこちに「杉を百万本植えた」みたいな碑があったっけ。
「空が黄色いのは花粉と黄砂かな。たぶん、ですけど」
 数井さんはたぶん、をやたらと連呼する。
「ま、そんなとこでしょうねえ」
「え」
 数井さんが、きょとんとした顔になった。
「放射線が怖くて健康診断ができるかっていうんです」
「はあ……まあ……」
 上半身だけ起き上がると、数井さんがさっと避けた。ハンカチで眼鏡をぬぐって返してあげる。
「さ、頂上までもう少しあるんでしょう。行きましょう」
「小野さん、いつも、とりあえずプロジェクトを動かすほうを選びますよね」
「事実確認にこだわってたら、案件は止まったままです」
「炎上体質だ」
「じゃあ、システム屋さんがしっかり見ててください」
「そこは要件定義からしっかりやってもらわないと」
 ふにゃふにゃのいい加減な仕事用語を交わしていたら、次第に私たちの空気が落ち着いてきた。それは心地よい関係の戻り方だった。
 さらに道を歩く。夏はビアガーデンになる展望台、根っこのくねった蛸杉、さる園に野草園、まんじゅうを売ってるはずのお店。みんなシャッターが下りている。足音と風しかない世界。やがて赤い灯篭が立ち並ぶ参道。まもなく薬王院というお寺だ。
「……あっ! 小野さん!!
「なんですか……って、あ!」
 数井さんの指した先には、なんと開いている売店があったのだ。この高尾山で初めての店! お団子が炭火で香ばしく炙られている。
「ごま団子、ください!」
 興奮気味の私たちとは裏腹に、お店の人は大変冷静であった。ごまがびっしりと練りこまれた生地、刷毛で塗られたあまじょっぱい醤油たれ。ザ・山の茶店にふさわしい味。
「そうそう、こういうのを私食べたかったんです」
「よかった。小野さん、はじめて笑いましたよ」
 数井さんの横顔は、他意がなさそうだ。

 薬王院でお参りを済ませたあとが長かった。道も険しくなれば言葉数も少なくなる。私、なんで山登りしてるんだろう。家にいなくていいのかな。連絡とか、安否確認とか。数井さんのご実家や知り合いはどうだったのかな。
「数井さん、私……」
「手を貸してください」
 言われるままに手を差し出すと力強くひっぱられる。つられて駆け上がる。坂を上り切ればそこにはガランとした広場があった。
「つきました」
 頂上の空はやっぱり黄色かった。
「誰も、いないですね」
「こんな高尾山、きっと一生見られないですよ。なんせ普段はけっこう混むらしいですから」
 誰もいない理由を考えるとあまり喜べない。みんな怯えて委縮しているのだ。
「数井さん……ご実家は、どうでしたか」
「秋田ですから、まあ大したことはないです」
「大学の頃のお知り合いとかは」
「友人連中は大丈夫でした。実家の流れちゃった奴とかもいるけど、まあ無事でした。けど」
 数井さんが横を向く。私にはわかる、この続きが。
「けど、わからない人もいっぱいいるんです。バイトしてた店の常連とか友達の彼女とか、たくさんの人が。……周りの人が僕に言うんです。みんなご無事でよかったですね、って。でも、みんなってどこまでを指すんだろうか。僕は……あの町で、一瞬でも僕に関わったすべての人が……みんな……生きていてくれたら……いいって……」
 震えている数井さんの手を取る。
「ほんと、安否がわからない人だらけで参りますよわ」
 数井さんがはっと私を見た。
「小野さん、宮城って……沿岸のほうなんですか」
「親戚筋は」
「じゃあ、早く帰ったほうが」
「家さ帰って何ができるっていうんです。災害ダイヤルもグーグルパスファインダーもテレビの安否報告も、ずーっと確認してます。電話もろくにつながらない。それに仕事が始まれば修羅場でしょう」
 年度末を迎え私と数井さんの案件は絶賛炎上中。今日はあってはならない休日だった。
「私、逃げてきたんです。会社にくれば津波の映るテレビもネットも見なくていい。案件に没頭してればいい」
 その時、私の携帯電話が震えた。開けば、それは誰かの安否を知らせるメールだった。
「でも、ダメですね。頂上でも私たちは逃げられない」
「電源を切ったら、どうです」
 あはは、と私はつい笑ってしまった。数井さんの変なやさしさが嬉しかった。
「無駄な心配の電源が、切れません。数井さんもそうでしょう?」
「まったくです」
 数井さんがスマートフォンを取り出してみせる。その画面は何かの通知でいっぱいだった。
「ね、小野さん、次はもっと人でいっぱいの高尾山に来ましょう」
「芋洗いかっていうくらいぎゅうぎゅうの時に来ましょう」
 そして私たちは来た時より十分早く山を下りた。帰りの電車は、相変わらずがらんとしていた。





猫の都合をきいてきて


 やべーやべー。やべえよ、やべぇごたよ。よみがえってしまった地元の訛りでつぶやく。暗い非常階段、私の先をひとつの灯りがゆく。前を行くのは数井さん。同じ案件に取り組んでいる協力会社のSEさんだ。いや、ネットワークエンジニアだったかな? まあ、なんかそういうやつ。
 懐中電灯で腕時計を照らす。二十一時。よもやこんな早い時間に会社を追い出されるとは思わなかった。
 あれから四日。もう四日、まだ四日。あの日は三月末にリリースするシステムを、テスト環境から本番環境に移行させる日だった。スケジュールは綱渡り。やばいなあ、やばいですねえ、が挨拶の代わりになっていた。それが今日になっても終わっていない。ただでさえやばいところにダメ押しの地震があって、工程は絶賛炎上中である。
 仕事がちっともはかどらない。停電で社屋から追い出されたり、入れなかったりする。電車の本数は減ったまま。まだネクタイをして出社している人はいない。かくいう私もジーンズにスニーカー、リュックサックだ。アウトドアか。実際、昨日は会社に入れなくて、どうしようにもならなくて、高尾山へハイキングに行ってしまった。
 それにしてもやばい。明日の八時にはテスト項目表をデバッグ班に渡さないといけない。しかし、まだ一行もできてない。それはいい。今から徹夜で作ればいい。それよりやばいのは、社屋から追い出されてしまうことだ。参ったことに私の権限では社外から社内ネットワークに接続できない。これでは、いくら項目表が完成してもデータがアップロードできない。明日も何時にオフィスが開くかわからない。うぬぬ。深夜残業を恋しく思う日が来ようとは。
「ぐぬー」
「どうしましたー」
 先行く灯りが止まる。数井、止まるな。後ろからも人が来る。
「とりあえず歩いてください」
 また灯りが動き出す。振り返ればちらほら灯りが揺れている。みんな懐中電灯や携帯電話の光を頼りに降りてくる。節電でオフィスの灯りを減らすのはいい。許す。しかし、この非常時に非常階段の電気を消してしまうとはどういう了見なんだ。
「で、何がぐぬーなんですか」
 振り向かないまま数井さんが言う。低いところにいるから私より背が低く見える。
「明朝八時までにテスト項目表を送らねばならんのです」
「はあ」
「しかし、私はまだ社外から社内ネットワークに入れませぬ」
「存じております」
 その辺のセッティングは数井さんの会社が受け持っている。
「ぐぬぬー、です」
「小野さん、暗号化USBは持ってきてます?」
「…………」
 暗号化USB、物々しい名前だが要はパスワード機能のついたUSBメモリである。社外秘のデータ運搬に使う。本来は社外への持ち出し、禁止。
「仮に、お持ちだと仮定しましょう」
 こんな時だ。持ち出したからって怒られることもないのだが、なんとなく言いづらい。
「作ったデータを暗号化USB経由で僕にください。そしたら僕が代理でアップロードします。僕は権限持ってますので」
「ちょっと待った。私はこれから徹夜でデータ作るんですよ? 数井さんはどーするんですか」
「僕のほうは、なんか電車止まってるらしくて。面倒だから漫画喫茶にでも泊まろうかと」
 こともなげに言ったな。しかし、待て。
「私も漫画喫茶に泊まれと?」
「飽きたら漫画も読めますよ」
「うぬう」
 会社で徹夜するのとどっちがマシだろうか。地震当日の夜、会社に泊まった人たちもいた。みんな口をそろえて、疲れたと言っていた。二時間半かけて歩いて帰った私は楽なほうだったのだ。たぶん。
 悩みながら階段を降り続ける。八階……七階……うす暗い中、同じところを巡り続けているようだ。
 ジリリリリリンッ! ジリリリリリンッ!
 聞き慣れない黒電話の音がした。わざとらしいくらい黒電話だ。
「小野さん、電話じゃないんですか?」
「私か!」
 ポケットから個人携帯を引っ張り出す。番号だけが表示されている。見慣れぬ番号だ。でも、今は誰からどんな電話がかかってくるかわからない。恐れている暇はない。
「もしもし」
 それでも名乗るのはためらう。
「せり子? これ、せり子の電話?」
 人の名前を呼び捨てにする感じ、この声。
「ヤンちゃん?」
「はい、遊佐ですやーん」
 やっぱり。高校時代の同級生だ。たしか関西のどっかで働いていたはずだが。
「せり子、今、何してんの?」
「まだ会社。これから帰るとこ。ヤンちゃんは何してんの。実家、無事だった?」
「実家ねー、三年前に建てたばっかりだから平気っぽいわー。心配してくれてあんがとね。せり子んちは」
「実家は大丈夫ー」
「そっかー」
 ヤンちゃんも私も生まれ育ちは宮城である
「ヤンちゃん、電話長くなる? かけ直していい?」
「じゃー、続きは会ってしよかー」
「……ヤンちゃん、おめ、どこさいるのや」
「せり子の会社の前♪」

 会社の側に止められたトラックの前で、ヤンちゃんがへらへらとしていた。かつては頑としてスカートを履く主義だった彼女だが、ジーンズ姿だ。隣に知らない男の人が立っている。男連れかおめえ。しかし、私も数井さんを連れてきてしまった。
「せり子、泊めて!」
 久しぶりに会ってそれはねえだろう。
「順番に話せや、ヤンちゃんよう」
 ヤンちゃんの大ざっぱな話をまとめるとこうである。
 ヤンちゃんは今、大阪に住んでいる。震災の翌日、気づいたら職場に辞表を出していた。理屈じゃなく、とにかく東北に行かねばと思ったそうだ。しかし、ヤンちゃんの目的を知った会社の人たちは「しばらく休んでいい」と言ってくれた。それどころか、ヤンちゃんのために救援物資をトラック一杯用意してくれたという。そのトラックは社長の息子が運転してきたそうだ。バンダナを頭に巻いた彼はいかにも誠実な働き者っぽかった。
 聞けば聞くほどめちゃくちゃな話だ。ヤンちゃんの周りの人たちがいい人過ぎる。
「泊めるのはいいけどさあ」
 黒岡くん、という若者がぺこりと私に頭を下げた。
「とりあえず、数井さん」
「はあ」
 数井さんは、なんで自分がここにいるのかわからん、という顔をしている。すまん。
「数井さんも私の家に来てくれませんか。私、徹夜で書類作りますから。そしたら、数井さんにサーバに上げてほしいんです」
「はあ、まあ」
「漫画喫茶ほど快適じゃないかもですが!」
 頼む、数井、空気を読んで!
「いいですよ」
 よし。
 高校で一緒にバカをやった同級生と、彼女の連れてきたよくわからん若者と、三人だけで夜を明かすのは嫌だった。誰か味方がほしかった。数井さんが味方になってくれる保証はないけど。
「とりあえず、私んちの駅で集合な」
 黒岡くんとヤンちゃん、二人に私の最寄り駅を教える。駅くらいしか目印のないところなのだ。私と数井さんは電車移動だ。
「電車、一時間くらいかかりそうだから、二人はゆっくり来て」
「了解! じゃー十時半に集合ね」
「二十二時三十分目安、で」
 十時半では、まるで朝のような気がしてしまう。
「じゃあ、また後でねえ!」
 二人はバタン、バタン、とトラックのドアを閉めた。発進を待たずして私と数井さんも駅に向かう。
「元気な人、ですね」
「ヤンヤンヤヤー、八木山のー」
 小さく口ずさむ。子供の頃から何度となく聞いたCMソング。
「ベニーランドのでっかい夢がー」
 数井さんが続いてくれる。さすが、仙台の大学に通っていただけのことはある。
「はずーむよー、はねーるよー、こーろがーるーよー」
 二人でユニゾンする。人影のない歩道に仙台の遊園地の歌が響く。
「ヤンちゃんは、昔、八木山に住んでたんです」
「八木山ベニーランド」
「それでヤンちゃん」
 ヤンヤンヤヤー、の歌を知らない仙台人はいない。
「ヤンチャだから、とかじゃないんですねえ」
 数井さんが溜息のように言った。
「なんか、変になってますよ、今は」
 さっきのヤンちゃんは相当変だった。高校の頃も面白枠ではあったが、勢いだけの人ではなかった。今はなんだ。救援物資を積んで大阪からずーっと走ってきて、このまま仙台へ向かうと意気込んでいる。アテがあるのかと聞けばないという。とりあえずヤンちゃんの実家へ行って、適当な避難所に物資を配るんだそうだ。適当な、って。仙台だけでどれだけ避難所ができていて、どこが大変かもわからんのに。文化祭準備のとき「駄菓子は甘いモンだけじゃなくて、しょっぱいモンも腹に溜まるモンも、まんべんなく仕入れろ!」と怒ったしっかり者の面影はない。
 駅は今日もうす暗い。入口のホワイトボードは何度も書きこまれ、消された跡でうす汚れている。電車の中だけが明るい。そういや日中、輪番停電があったはずだ。うちはどうなっているだろう。
「数井さんちは、停電対策どうしてます?」
「うちは腐るものとかないんで」
 数井さんは自炊しない派か。
 電車は駅ごとにドアを開き、閉める。誰も乗り降りしなくても几帳面に開き、閉じる。東京の電車には開閉ボタンがない。
「ドアは節電、しないんですかね」
「バラバラに開けたり閉めたりするのも、かえって電力を消費しそうですが」
「そういうものですか」
「さあ」
 会話が心もとない。電車だけが確実に進んでいく。
「一緒にいた黒岡くんって、いくつなんでしょうねえ」
「確実に二十代でしょうね」
 二十代でも、二十二なのか、二十八なのかでは、だいぶ心の持ちようが違う。私とヤンちゃんは三十ちょうどだ。
「数井さんは、おいくつなんですか?」
「僕は、三十二になりました」
「なりました?」
「はい、一昨日に」
「えっ……そのー、えーと、おめでとうございます?」
「ありがとうございます、かなあ……」
 数井さん、額のあたりを指でかいている。昨日、高尾山で言ってくれればよかったのに。お団子くらいご馳走したぜ。
「……とりあえず、降りましょうか」
 電車はいつしか、乗換駅に着いていた。

「ここ、東京なの?」
 駅前に再集合した四人の沈黙を破ったのはヤンちゃんだった。
「おっしゃりたいことはわかる」
 二十二時三十分、多磨霊園駅の駅前は暗かった。人気もない。静かなところなんだ。
 二人のトラックを私の契約している駐車場に止めさせ、私の車はコインパーキングに入れた。ついでにコンビニでいくらかの買い物をした。全員が私の部屋に落ち着いたのは、もうすぐ日が変わりそうなタイミングだった。
「広いっすね!」
 人の部屋をぶしつけに見回した黒岡くんが言い放った。古めのマンション、2DK。一人暮らしにはやや広い。
「前は弟が泊まりに来てたから」
「そうなんすかー」
「はい、お風呂使う人!」
 勢いよくヤンちゃんの手が挙がる、遅れて黒岡くん。
「はい、じゃー順番に使って」
 へーい、とヤンちゃんが立ち上がる。タオルご持参の様子である。
「あと、ご飯食べる人!」
 今度は三人とも手が挙がった。はいはい。コンビニで皿と割り箸を買っておいてよかった。
 冷凍庫をそっと開ける。停電があったはずだ。冷凍の豚肉に触れてみる。カチっとした手触り。溶けた様子はない。オーケー。ご飯を研ぎ、炊く。実家から大量に送られてきた白菜と長ネギを切る。コンビニで買った人参、ジャガイモを剥く。里芋もあればよかったのだが、ないものはしょうがない。片端から鍋に放り込む。しめじ、こんにゃく、豆腐も入れる。味噌を溶かす。久しぶりの作業。食事の支度なんてろくにしていなかった。最後にご飯を炊いたのはいつだったか。
「シャワー借りたー」
 ヤンちゃんがお風呂場から戻ってきた。
 そういや数井さんと黒岡くん、今、二人きりか。何か話すことあるのかな。

「ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさまでした」
 希望者全員がお風呂に入り、晩ご飯も食べ終わった。なんとなく、みんなの表情から影が減った気がする。
「いやあ美味かったっすね、えーと……あの味噌汁、芋煮っていうんですよね?」
「えっ」
 黒岡くんの発言に、私たち三人がぴたっと動きを止めた。
「部屋の中で食べたら芋煮でねぇんでねえの」
「里芋が入ってなきゃ芋煮じゃないよー」
「僕は鶏肉を入れた醤油味のほうが……」
 三人の剣幕に黒岡くんが固まった。黒岡くん、君は地雷を踏んだのだ。我ら宮城に縁持つ人間にとって、芋煮の定義はアイデンティティに関わる。
「俺、先に寝させてもらうっす! 明日も運転なんで!」
 黒岡くんはダイニングに敷いた弟用の布団に退避していった。賢明な判断である。
「じゃあ、私らはやりますか」
「はいはい」
 私と数井さんはこたつにノートパソコンをセッティングする。
「ヤンちゃんもさ、早く寝なよ。私のベッド使っていいから」
「せり子はどうすんの」
「徹夜」
 ヤンちゃんから、うげーという声が漏れる。しかたがねえべ。
「ああ、数井さん用にも毛布とか用意してあるんで、適当に、その」
「ありがとうございます」
 テレビはつけなかった。つけたくなかった。親戚の住む地域のことや避難所の様子。東北がどうなっているのか。いくらでも気になることはあった。つけてしまえば朝まで囚われるように見つめてしまう。昨日までの私がそうだった。だけど人がいると、テレビをつけたいという欲求に打ち勝てる。
 淡々とエクセルに表を作り、文章を貼り付け、補足する。数井さんの指もキーボードの上で動いている。ヤンちゃんはクッションを抱いたまま、携帯をじっと見ている。ふすまの向こうにいる黒岡くんの気配はわからない。
 時が経つ。
 数井さんが眼鏡を外して目頭をもんでいる。ヤンちゃんは身じろぎしない。寝ているのかと思ったが、目は開いている。私の仕事は淡々と進んでいる。
「そういや……や……遊佐さん」
 数井さんがヤンちゃんを見る。
「救援物資は何を持っていかれるんですか」
「マスクとタオルと軍手、乾電池と、飴ちゃん」
「それと、そっ、その、女の人の……使う……あれっすね」
 ふすまの向こうから黒岡くんの声が被さった。
「そうそう、ナプキン。避難所ではあまり用意されてないらしいよ」
「俺らの会社、大阪なんで。だから神戸出身の人、結構いるんす」
 数井さんが曖昧にうなずく。阪神大震災、か。
「持ってく物は、神戸で避難生活経験のある人に決めてもらったの。新品の物、腐ったりダメになりにくい物、みんなで分けられる物がいいんだって」
「配りやすいようにビニール袋もあるっす」
 宮城は地震が多い土地と言われている。私より年上の人たちはみんな『宮城県沖地震』を経験している。どこのビルが倒れた、どこが地割れした、そんな話をよく聞いた。避難する時はブロック塀を避けて通れ、とかも知っている。でも、避難した後に何が役立つ物資か、なんて話は聞かなかった。これが三十年以上前のことと、十六年前のことの差なのか。
「ねー、せり子も一緒に来ない?」
「宮城へ?」
「うん。車あるんでしょ? 行こうよ。よく落ち着いて仕事してられるよね」
 落ち着いてるように、見えるんだなあ。
「仕事ば……あるもん」
 数井さんのマウスの動きが止まっている。数井さんは秋田出身。帰りたいのだろうか。
「仕事ってさあ、それ、今やらなきゃダメなこと?」
 ヤンちゃんはペットボトルの水を一口飲む。
「ダメっしょ」
 私はちら、と作りかけのテスト項目表を見る。三月末に私たちがリリースするはずのシステム。
「ジャンプだってお休みだよ。いろんなこと自粛してるんだよー?」
 ただテレビで見せつけられるだけなんて、辛いよ。行かなきゃ。とヤンちゃんは言い添えた。
 それはヤンちゃんの心の都合だ。でもヤンちゃんはえらい。人を巻き込んででも、何かをしようとしている。
 私も、そうすべきなのだろうか? 今すぐ辞表を出して東北へ走っていけば、何かの役に立つのだろうか?
 ヤンちゃんのすることは偽善のような気もする。動機はあくまで自分のため。でも、それでも、しないよりは。ここでただ時が経つのを待っているよりかは、マシなんだろうか? 胸のあたりがぐるぐるする。津波が仙台空港を飲みこんでいくのを見たときの感覚。私は、どうしたらいい。ヤンちゃんが正しくて、私が間違っているのか?
「遊佐さん。僕らの作っているシステムのお客さん、誰だかご存じですか?」
 話し始めたのは数井さんだった。
「僕らが作っているのは、オンラインの通信教育システムです。使うのは全国の小中学生」
「へえ」
 ヤンちゃんの気のない返事と、数井さんの静かな口調のギャップ。
「だから……その。僕たちは、新学期に間に合わなきゃいけないんです。どんなことがあっても必ず新学期は来る。君たちは心配しないで勉強していいって、お客さんに、子供に、言ってあげなきゃいけないんです。それが……小野さんの仕事です」
 言い終えて、数井さんはノートパソコンの影に隠れてしまった。僕はまあ、協力会社なので、とか余計なごにゃごにゃは、ヤンちゃんの耳には届かないようだった。
 ふすまの向こうの黒岡くんも、ヤンちゃんも黙っていた。私も黙っていた。
 私の沈黙は卑怯だった。数井さんが言ってくれたことは嬉しかった。けど、それは私が言わなきゃいけないことじゃなかったのか。私は再びモニタに目を落とす。仕事に逃げるのだ。

 五時過ぎた頃。やっと書類一式が出来上がった。
 ヤンちゃんは私のベッドで寝ていた。数井さんはクッションを枕にして突っ伏している。ふすまの向こうからは黒岡くんの寝息が聞こえる。みんな寝ている。起こそうか、起こすまいか。とりあえず米をどっさり炊くとするか。
 ダイニングの黒岡くんを起こさないよう台所に立ち、いつものように食器棚の写真に手を合わせる。
「猫、っすか」
 黒岡くんが布団から上半身起こしてこっちを見ていた。
「そう、そーだよ。猫をね、飼ってたんだ」
「死んじゃったんすね」
「去年にね」
「そうっすか」
 黒岡くんは、同情とも無関心とも違う、平坦な顔を見せてのしのしと洗面台へ歩いて行った。間もなく、豪快な水しぶきが聞こえた。男の子って感じだ。
 全員を叩き起こし、数井さんの手を借りてデータを提出し、おにぎりと昨日の汁をみんなで食べた。
「で……この味噌汁? って、結局、何なんすか?」
 黒岡くんは相変わらず首をひねっている。
「芋煮ってのはさあ、豚肉にジャガイモないし里芋を入れた味噌仕立てなんだよ」
「ジャガイモは邪道じゃない?」
 ヤンちゃんが脇でうるさいが、黙殺する。
「豆腐も野菜もいっぱい入れる。だから……まあ、口の悪い他県民が豚汁! っていうことも、ある」
 数井がすっと目をそらした。あいつ、鶏肉に醤油味がいいとか昨日言ってたよな。秋田県民め。
「芋煮と豚汁の差ってのはさ、私は家で食べたら豚汁。外でみんなで食べたら芋煮、だと思ってるよ」
「認めたくないものだな、たいして差がないっていう事実を」
 ヤンちゃんが七味を振りながら言う。まあね。大差ねえんだ。
「それなら……これ、芋煮じゃないっすか」
「なして?」
「だって、みんなで一緒に食べてるっす」
 久しぶりに会ったヤンちゃんと私、数井さん、黒岡くん。他人の四人。だけど鍋を囲めばみんなで一緒、か。そうか、そうかもね。

「首都高が混まないうちに出るっす」
 そう言って、二人はトラックに乗り込んだ。
「ヤンちゃん、黒岡くん、おにぎり食べて」
 結局、私は仕事を選んだ。東京に残る。故郷のために何もしない。だから故郷へ向かう彼らに何かを渡したかった。
「そーだ、小野さん」
 黒岡くんが窓からひょいっと顔を出した。
「また帰り寄っていいっすか」
「うん、来てよ。芋煮くらいしか出せないけど」
「帰りは……猫を連れてくるっす」
 彼は生真面目に言った。猫?
「家のなくなった、困ってる猫を連れてくるっす。面倒見てあげてほしいっす」
「うちはいいけどさ、猫の都合、聞いてからにしてね」
「わかりました、ちゃんと聞くっす!」
 黒岡くんが親指をぐっと突き立てた。トラックが動き出す。私と数井さんは助手席側に回る
「行ってらっしゃい、ヤンちゃん!」
「おうよ! せり子も数井さんも、仕事頑張りなよ!」
「まがしとき!」
 私は黒岡くんを真似て親指を突き立て、数井さんは小さく頭を下げた。トラックは東北へ向けてゆっくりと曲がっていった。
「数井さん、これからどうします? 出社します?」
「うーん……ちょっと待ってくださいね」
 数井さんはすいすいとスマートフォンをいじる。
「ああ……会社は十時までダメですね。予定通り停電してます」
「データ送っといてよかったー」
 陽ざしがまぶしい。駐車場の梅がもう終わりかけている。春が進んでいる。
「小野さんは寝なくていいんですか?」
「ご飯作ったら目が覚めちゃいまして。ま、一度、家さ戻りますか」 家に戻り、部屋中の窓を開ける。朝の風が部屋に流れ込んで夜を振り払う。
「そだ、チョコレートとチーズ、どっちが好きです?」
 こたつでぼんやりしている数井さんに透明な覆いのついたケーキを差し出す。昨日、コンビニで買っておいたのだ。
「なんですか急に」
「ケーキですよ。お誕生日のお祝い、しましょうよ」
「僕のですか」
 お前以外の誰がいるというのだ。
「ろうそく立てましょうか。太いやつしかないけど」
「いいです」
「歌いましょうか」
「結構です」
 数井さんはチョコレートケーキを選んだ。プラスチックのスプーンでケーキをすくう。雨上がりの土みたいな手ごたえだった。
 食後にインスタントのコーヒーを淹れた。淹れたというより、溶かしたって感じの飲み物だ。口の中の甘さが何かに変わる。
「黒岡くんたち、どこまで行きましたかね」
「まだ首都高じゃないですか?」
 新潟回りで行くか、栃木経由で福島から行くか、決めてないと言っていた。ヤンちゃんもいい加減だけど、黒岡くんもなかなか適当だ。
「道路、調べてみますか」
 数井さんはブラウザを立ち上げて、いろいろなウェブサイトを見ている。私はテレビのリモコンに手をかけ、やっぱり止めた。
「あのう、数井さん。ありがとうございました」
 数井さんのマウスを動かす手が止まる。
「なんかこう、変なことに付き合わせちゃって」
「漫画喫茶で仕事するよりは、ずーっと良かったですよ」
 それなら良かったんだけど。
「それに、ヤンちゃんに言ってくれたじゃないですか。『全国の小中学生に新学期がちゃんと来るって、伝えなきゃいけない』って。……それ、ほんとは私の言うことなのに」
「ああ」
 数井さんが、不意に横を向いた。
「僕の本当のお客さんは誰なんだろう、っていつも考えてるんです」
「はあ」
「僕は、ほら、協力会社の人間じゃないですか。外部の人間です。僕のお客さんは小野さんの会社です」
 数井さんがコーヒーを飲む。私も飲む。溶けきらない塊がある。
「小野さんの会社のお客さんは、全国の子供ですよね」
「うちの部署はね」
 会社全体で言えば、子供向けから大人向けまでいろんなサービスを展開している。
「だから本当は、僕が全国の子供のために頑張ってるって言うのは、間違ってるんです。僕は、あくまで小野さんの会社にサービスを提供することを頑張る。で、小野さんたちが全国の子供のために頑張る」
 朝の数井さんは饒舌だった。高尾山の頂上にいた時みたいだ。
「でも。僕も新学期がちゃんと来るって子供に言いたい、です。それを言う権利は、本当は小野さんたちにしか、ない。だけど、言ってみたかった。すみません、なんか言ってることが変になってきた」
「数井さんに権利がねえとか、そんなことねぇっすよ」
 黒岡くんの口調が移ったな。
「エンドユーザー、誰のために作るかってとこは一緒でしょう」
 数井さんが小さく笑った。
「今まで貰った中で、一番うれしい誕生プレゼントだなあ」
「えっ、何が?」
「今の言葉、ですよ」
 えっ。当たり前のことを言っただけだよ。数井、安い! 安すぎる男だよ!
「数井さん、不憫すぎます。あとでなんか買ってあげます」
「不憫だと言われると途端に辛くなったので止めてください」
「不憫です」
「やめて」
「不憫すぎる」
 数井さんが手を伸ばしてテレビをつけた。朝のニュースは福島のこと、津波のこと、助かった人のこと、助からなかった人のこと、これからのこと、いろいろを告げていた。今日も理不尽の朝だった。
「数井さん、あのね」
「はい」
「私、ずーっと思ってたんです。私がもし、仙台に住んでたとして。うっかり結婚なんかしちゃったりして。仙台あたりで一戸建ての家を持つとしたら、海沿いの住宅地っていう選択肢は、かなりあったはずなんですよ」
 甚大な被害を受けた地域の名が浮かぶ。
「こんなこと考えてもキリがねえってわかってるけど……もしかしたら、津波に遭ったのは私だったんじゃないかって」
 仙台に暮らしていたかもしれない架空の自分。東京で今、ここにいる自分。引き比べることに意味はない。わかっている。わかってはいる。
「小野さん」
「はい」
 数井さんはいったん息を吐き、それからこっちを向いた。
「そういうことは、自分が結婚してから考えてください」
「なっ」
 数井おめえ!
「そういうこと考えるのは、もっとずっとずーっと、後でいいです。浮かんでしまうのはしょうがない、けど、自分で考えるのはやめましょう」
 数井さんは私の頭に、ぽん、と一度だけ手を置いた。風呂に入ってないから止めてほしい。でも嫌な気分ではなかった。
「台所、借りていいですか? 今度は僕がコーヒーを淹れましょう」
 どっこいしょ、と数井さんがわざとらしく立ち上がる。
「コーヒーに関しては、僕のほうが上手いですよ」
 くそ、ぐうの音も出ないぞ。さっきからやられっぱなしだ。
「インスタントに上手いも下手もないですよ!」
「あるんですよ、それが」
 コーヒーを飲んだら出かける支度をしよう。私たちは新学期が無事に来るよう、働くのだ。猫を迎える準備もしなきゃならない。
 そうだ、いつまでも座ったままではいられないのだ。私はテレビをつけたまま、数井さんの背中を追った。





昼の相席


「ご相席、よろしいですか?」
 人気の店もお盆なら空いている。そう思って昼食にやってきた私を迎えたのはそんな台詞だった。店内を見回すと、昼からボトル焼酎を飲み交わすおじさんおじいさん達でいっぱいだ。しまった、なんかの寄り合いと被ったか。飲んでる人と相席はいやだなあ。羨ましさがつのって爆発しそうだ。
「ん?」
 視界の隅でちらりと揺れるものがある。男の人が手を挙げている。注文? いや、あれは。
「すみません、あそこに座ります」
 店の人にそう告げて、そのテーブルへ足を運ぶ。
「お疲れさまです、数井さん」
「お久しぶりです、小野さん」
 かつて同じプロジェクトに携わっていたSEだかネットワークエンジニアだかの数井さん。相変わらずの眼鏡男子。胸ポケットにネクタイを差し込んだ昼食スタイルだ。
「何年ぶり……でしたっけ」
「あの小学生向けシステム以来ですか」
 社内常駐協力会社の数井さんと、クライアント側の私。同じ社内にいても異動で出会ったり別れたりを繰り返している。最後に仕事をしたのが二〇一一年、あの地震のときだ。
「あれは大変でしたねえ」
「いや、本当に」
 店員さんに「いわし天ざる」を注文する。九八〇円(税抜)で、ざるそば、いわしのお寿司、いわしと野菜の天ぷらが食べられる。ゴージャスに決めたいときの必殺ランチだ。
「いわし、いいですね」
「数井さんは何にしたんですか?」
「まぐろのほほ肉天丼です」
「それ絶対美味しいですよ!」
 まぐろの、ほほ肉を、揚げて、オン・ザ・ご飯! そんなのメニューにあっただろうか。見回したら壁にひっそりと貼ってあった。ぬかった。自分の選択が急に色あせて思える。悔しい。
「数井さんは、今、どこの部署にいらっしゃるんです?」
「八階のほうですねー」
 部署名をビルのフロアで表現するのはうちの会社の習わしだが、それだけでは具体的にはわからない。
「それって、何の……」
 数井さんの目線が二つ隣のテーブルにちらと向く。首からのぞく緑のIDカード紐。弊社の人間だ。なるほど、仕事の話はやめましょう。エレベーターといえども社外、ましてや外食の席で仕事の話などもってのほか、とは研修における正しい答え。我々はコンプライアンスを遵守するのである。
 お茶をすする。数井さんもすする。仕事以外に話題が思いつかない。スマートフォンに触りたい誘惑が押し寄せてくる。相席の空気が存外に重い。
 座敷のほうから酔った笑い声があがる。おのれ、こっちは盆休み関係なく仕事してるのに。
「そういやあ……遊佐さんって、すごいですね」
 重たさをはらうように数井さんが切り出した。
「遊佐って、ヤンちゃん?」
 ヤンちゃんは高校時代の同級生だ。
「そう。被災地で活動されてるそうで」
「えっ、初耳」
「小野さんは最近遊佐さんと連絡取ってないんですか?」
「ぜんっぜん」
 最後に会ったのはあの震災の時。ヤンちゃんが関西から押し掛けてきたので、うちに泊めたのだ。そのとき数井さんとも会っている。彼女はそのあと仙台へ救援物資を持って旅立っていった。
「なぜヤンちゃんの近況を?」
 数井さんはすいすいとスマートフォンをタッチすると、その画面をこっちに向けた。
 『歌でつなぐ笑顔の架け橋 ヤンちゃん(遊佐幸恵)』
 電子ピアノを弾きながら歌う友人の写真が写っていた。フェイスブックのページだ。
「なんぞこれ」
「遊佐さんと僕、友人登録してるんで」
「なんでそうなった」
「僕の名字珍しいから向こうが見つけたみたいで。申請が来たんですよ」
「っていうか数井さん本名でSNSとかやってんですか」
「ええまあ」
「顔丸だしで」
「……ええまあ」
 人は見かけによらないな。
 ヤンちゃんのフェイスブックをつらつらと見る。奴、仮設住宅などを回って、懐メロをお年寄りと歌う活動をしてるっぽい。絆、スマイル、輪と和、忘れない、前を向いて。そんな単語の洪水。いろいろえらいのはわかった。
「CD出したみたいですよ。テレビの取材も受けたとか」
「はー」
 ヤンちゃんと私は高校三年間のつきあいに過ぎないが、親友と呼んでも差し支えないくらいの仲ではあった。もちろん卒業後も何度も遊んだ。
 それが卒業から十年以上過ぎた今では、私にはなしのつぶてで、一度会ったっきりの数井さんのほうが彼女のことをよく知っている。なんだか落ち着かない。
「じゃあ……ご結婚されたのも、知らない?」
「はい?」
 知りませんー知ーりーまーせーんーとーもー。
 眉間にしわを寄せた私を見て、数井さんが身を引いた。
「校門とこのお好み焼き屋で、あんなに相談したのに」
 数井さんがすごく気の毒そうな顔で私を見ている。
「お互いに結婚するときは友人代表のスピーチをしようって。原稿も作ったんですよ」
「どんな話ですか」
「ありきたりなやつですよ。『新婦幸恵さん……いや、ヤンちゃん、とあえて呼ばせてください』ではじまって、制服にカーディガンを羽織っていい運動で活躍したとか、学校七不思議の一つ、部室棟の下水漏れを突き止めたとか」
「それ、ありきたりですかねえ」
 あーあ、ヤンちゃん、ほんと薄情な女だぜ。女の友情はもろいって、本当だったんだ。
「奴とはまた会うだろうって信じてたけど、なんだか自信なくなりました」
「すみません、僕のせいで」
「どう考えたってアイツのせいです」
 はは、と数井さんが曖昧に笑っている。
「そういや、小野さんも宮城のご出身でしたよね」
「ええまあ」
「僕、去年、気仙沼に行ったんですよ」
「気仙沼にお知り合いでもいるんですか?」
「いえ……その、ただ、観光に」
 気仙沼は宮城の海沿い最北端。フカヒレとサンマで有名な町だが、観光しておもしろいかどうか。
「どうでした?」
 そして、津波によって甚大な被害を受けた土地でもある。
「なんか、すごかった、です」
 数井さんのスマートフォンが差し出される。
 それは写真。鉄筋の骨組みだけが残った港の建物。真新しい二階建てプレハブに「復幸商店街」の文字。芸能人の支援する新築の飲食店。「がんばろう」「がんばっぺ」の踊る窓。ここまで津波がきた、と示す標識は遙かに高い。狭い国道を走るたくさんのダンプ。ピラミッドでも造っているような、おびただしい盛り土の荒野。途切れた線路。仮設のコンビニと床屋。花の手向けられた碑。
「四年経ってもまだ……始まったばかり、って感じで」
「なして、気仙沼へ」
「そのう……遊佐さんがフェイスブックに書いてたんです。どうぞ東北に遊びにきてください、被害を受けた街にも来てください、物見遊山でかまいません、って。物見遊山でいいなら行こうかな、って気が楽になって」
 なんで数井さんがヤンちゃんに影響受けてるんだよ。
「仙台の友達に会いに行ったってのもありますよ。僕、大学は仙台ですから」
「知ってます」
 二〇一一年の時に聞いた。それくらい知っている。
「インターネットがあれば、会う意味なんてもうないですね。同じ社屋にいても、私と数井さんは四年も会わない。なのに、数井さんは、私よりヤンちゃんのことに詳しくって」
 みんなで遊びに行こうって約束して集合したら、私だけ歩きで、ほかは全員自転車に乗ってきたみたいな気分だ。
「ほんとに、会う意味ってないんでしょうか?」
 数井さんが指を組み直す。
「僕は……久しぶりにお会いできて、その、やっぱり」
 数井さんが何か言いかける、そこで、
「はい、まぐろのほほ肉天丼。お後、いわし天ざる」
 私たちの目の前にトレイがどん、どん、と運ばれてきた。四人掛けのテーブルでもいささか狭い。
「そうだ、追加注文いいですか」
 数井さんがメニューを店員さんに指し、二つで、と告げる。私からは見えない。いったい何を。
 私が割り箸に手をかけると「少し待ってください」と言われる。やだやだ、天ぷらが冷めちゃうじゃないですか。
「はい、これ持って」
 持たせられた小さなグラスに麦色の液体が注がれる。何、この泡のでる飲み物!
「大丈夫、ノンアルコールですから」
「いや、でも、就業中ですよ」
「お盆休みですし」
 数井さんは手早く自分の分も注いでしまうと、軽くグラスを持ち上げた。
「はい、乾杯」
「何にですか」
「……再会に、っていうのは、ダメですか?」
 うわあ。なんかすごい発言来たぞ。そういえば数井さん、しれっと恥ずかしいことを口に出すタイプだったっけ。思い出したぞ。震災のときもそうだった。
 でもまあ、いいか。インターネットごしでは乾杯もできない。会ったからこそ、できることだ。
「じゃあ、それで」
 少しだけグラスのふちをぶつけ合う。はは、私たちも端から見れば、昼酒のおじさんたちと変わらないぞ。
「小野さん、まぐろのほほ肉好きです?」
「食べたことないけど、絶対好きだと思います」
 数井さんがトレイをよいしょ、と入れ替えた。私の前にまぐろのほほ肉天丼、向こうにいわしの天ざる。
「なんで換えてくれるんです?」
「なんか怒ってるから。悪いことしたかなーって」
 怒ってる、私が?
 まぐろのほほ肉はさっくりと揚がり、ご飯との相性も最高だ。こんな美味しいものを今まで知らなかったことは確かに悔しかった。
 それにヤンちゃんのことを思うとまだ腹が立つ。でもそれ以上に、二人が勝手にやり取りしてたことがイライラした。いや、二人は悪くない。壁に貼ってあったメニューを見落としてたようなもんだ。数井さんもヤンちゃんも、私のものでもないのに。
「怒ってはないですよ」
 ただ……嫉妬しただけで。そう心で付け加える。ノンアルコールビールはちっとも酔えなくて、ただ清々しく苦い。





ぬばたまの夜の更けるまで


 二〇一五年九月四日金曜日。天気、晴れに限りなく近い曇り。ここは福島県、JR常磐線竜田駅。常磐線は上野から仙台まで、関東と東北の海側を結ぶ路線だ。だが、今はこの竜田駅で列車は止まってしまう。私たちを乗せてきた列車はすぐに引き返していった。
 同じ列車に乗ってきた人たちがホームで思い思いに撮影している。思ったよりは観光の人が多いようだ。線路をまたぐ跨線橋は閉鎖。その代わり小さな橋が二本架かっている。改札を抜け、小さな駅舎に入る。
『0.017μ Sv
 駅舎に入ってすぐ電光パネルの表示が目につく。ここの空間放射線量を示している、らしい。ここは福島県双葉郡楢葉町、福島第一原発の二十キロ圏内だ。まだ、この町に許可なく宿泊することはできない。今日のところは。
 壁には折り鶴、地元のお知らせ、震災前の風景写真……さまざまなものが飾られている。そうした細々したものを、いちいち撮る人がいる。背の高い三十代男子、眼鏡、淡いブルーのシャツ。数井さん、旅の連れだ。
「それが新しいカメラですか」
「撮った写真が自動転送されて便利ですよ。レンズも明るいですし」
「はあ」
 数井さん、すかさずスマートフォンの上で素早く指を動かす。この間合いはあれだ。
「で、フェイスブックへの投稿もすぐできる、と」
「そうなんですよー」
 我が意を得たり、とばかりに数井さんはいい顔で笑う。
 彼は撮った写真をすぐにインターネットに出してしまう。それも身の回りの人の目につくところ、ソーシャルネットワークだ。
 数井さんと知り合ったのはずいぶんと昔のこと。数井さんは私の勤める会社の協力会社勤務で、ネットワークエンジニア? ITなんでも屋さん? みたいな人だ。私はデジタル系の制作に携わることが多く、自然と数井さんと組むことが多かった。
 仕事上でつかず離れずを繰り返し、プライベートでも縁があり、ついに旅行に至ってしまった。が、断じて彼氏ではない。
「お、遊佐さんから早速『いいね』が」
 数井さんはおもしろいこと、素敵なこと、ちょっとしたこと、みんなインターネットに流してしまう。だれかの視線が頭の片隅にいつもある。目の前にいる私のことはネットの次。そんな人を好きになるのは、私には難しい。でも私のことを第一に考えない男の人は、友達としては悪くない。そんなもんでいいんだよ、友達なんだから。
 駅前に出るとバスが止まっている。張り紙によれば駅やいくつかの待ち合わせ場所を経て、最終的に2F事務本館、というところにいくらしい。
「2Fって、どこの二階なんですかね?」
「福島第二原発、の略じゃないですか」
「はー」
 ここに来る前に『いちえふ』という漫画を読んだ。1Fは福島第一原発の略。ならば2Fは福島第二原発の略だろう。
 『未来へのキックオフ! 光と風のまち ならは』と書かれた看板。四月二十二日から使用できるようになったポスト。錆びたタクシー乗り場の案内。シャッターの降りた商店。足場の組まれた家。静かな田舎の町の風景に見える。
「じゃあ、行きましょうか」
 ここから二十分ほど歩いたところに、復興商店街と呼ばれるところがある。そこでお昼ご飯を食べよう、とあらかじめ決めてあった。
 駅から歩き出せばすぐに住宅街。二〇一一年以降、住むことを許されなくなった町。塀の上や隙間から勢いよく草木が飛び出している。家、家、空き地、家、空き地。空き地には資材や巨大な黒いビニールバッグがたくさん置かれていた。高さ、幅ともに一メートル以上はあるだろう。
「あれ、フレコンバッグですね。除染した土とか入ってるんです」
 数井さんがその巨大黒ビニールバッグを指す。
「そういや、遊佐さんが」
 遊佐、というのは私の高校時代の同級生だ。いつの間にやら数井さんとフェイスブックで『友達』になっていたらしい。
「ヤンちゃんな」
 遊佐幸恵、というやつの本名は未だに馴染めない。私にとっては、いつまでもヤンちゃんのままだ。
「阪神大震災で被害を受けた町はブルーシートの青、今回の震災で津波の被害を受けた町は茶色、福島はフレコンバッグの黒、の印象がある、と書いてましたね」
 しゃべりながら歩く。食堂、魚屋、薬局。家と家の間に挟まるように小さな商店がある。日本全国、どこにでもある町だと思う。ただ、目に見えない何かが降り積もっているような気がする。放射線とかなんとか、身体の害になるようなものではなくて、ただ、もっとあいまいな何か。ここが特別な地域だと知っている自分がそう感じてしまっている気もする。
「なんだか高尾山を思い出しますね」
 二〇一一年三月の震災直後、私と数井さんは高尾山に登った。がらんとした人のいない山頂。あのとき、世界をやけに黄色く感じた。あれはスギ花粉や黄砂のせいだったんだろうけど。
「あ、猫」
 猫が水たまりを舐めている。わりと太っている。ご飯をもらってるのかな。数井さんがレンズを向けたら、ぴょんと走っていった。
「撮れなかった……」
「当たり前ですよ、撮らせてくださーい、って声かけなきゃ」
「猫にですか」
「猫だからです」
 猫は写真がなんだかわからないからな。
「猫写真って、みんな好きなんですよ。僕も好きです。だから撮りたいんですけどねー」
「あー、そういうのダメ、いちばんダメ、猫に嫌われますよ。猫をダシにしようっていう心がけがよくない」
「なるほど、そういうものですか」
 数井さんは存外に素直な男だ。だから友達づきあいできるんだけどさ。
 さらに歩く。今日は歩くしかない。車で来る、という選択肢もあった。でも、私は歩きたかった。車で過ぎることで、とりこぼしてしまう何かがあるはずだ。歩いて何かがわかる保証もないけれど。
 塗りたてのように綺麗な壁の美容室。止まったままの時計が不釣り合いだ。針は二時四十九分を示している。
「震災のとき止まったんですかね」
「時計って、揺れで針とかずれないのかな」
 ボロボロのバイク屋。雨どいが落ちて垂れ下がっている。側面の窓ガラスも割れたまま。ブルーシートが力なく落ちている。ほこりまみれのバイクやスクーター、自転車。色あせたポスター、整理されたままの工具類。美容室は今にも人が出てきそうだったのに、バイク屋さんは廃墟同然だ。
 何かを崩す音がする。向かいの家の敷地でショベルカーが動いている。まったく人がいないわけではない。たまに車も通る。
「明日で規制解除、なんだっけ」
「そうそう。ふつうに住んでいいんですよ」
「ふつうに」
 ふつう、ってなんだっけなあ。
 ゆるやかな坂道から、急な坂道に変わっていく。三十代にはキツい登坂。その頂上に中学校がある。ここの生徒はみんなこの坂を登るのか。校舎が見えてくる。二階建てのコンクリート造り。
「小野さんとこの中学って、どんなんでした?」
「鉄筋の四階建てでしたねー。よくあるやつ」
「うちは木造でしたよ」
「まじで」
 いずれにせよ、目の前にある、大きなガラス窓のかっこいい建物とは雲泥の違いだろう。
 中学校のぐるりを回る。「ハイタウン赤粉宅地分譲中」という看板があちこちに立っている。校舎の裏は、掘り返したようなむき出しの土。いくつもの重機が並ぶ。竹林から鳥の声がする。中学を離れて坂道を下る。町民体育館、そして国道六号。車が頻繁に往来している。
「おお、横断歩道だ」
「この町で初信号ですね」
 横断歩道を渡ると「食べるも! 買うも! ここなら商店街」という青い看板が飛び込んでくる。プレハブの連なった細長い平屋だ。側面にしだれ桜の絵が描いてある。駐車場はほぼ満車に近い。
「ああ、ちょうどお昼どきにぶつかっちゃいましたねえ」
 十二時二十分。現場で働いている人たちがいっせいに押し寄せてきたのだろう。作業服の人たちだらけだ。青、緑、茶色、いろんな上着の色。サラリーマンの昼食とはだいぶちがう色合い。
「どうします? ここでお昼を食べようとは思ってましたが」
 三件のお店を順番に覗く。お蕎麦屋さん。定食屋さん。そしてスーパー。どこもごった返している。私たちは物見遊山だが、働いている人は時間が限られているだろう。
「ちょっと時間ずらしましょうか」
「そうですねえ」
 とは言っても、ほかに店はない。ベンチもないし、公園もない。しかたがないから、プレハブの壁に二人してよりかかる。桜の絵の余白には、マジックの落書きが散りばめられている。
「こういうのって……絵、そのものの上には描かないんだねえ」
「隙間が空いててさみしいって思うんでしょうか」
 流行りの妖怪、うさぎ、アンパンマン。どれも子供の絵だ。
「高尾山には、なんか不良っぽいサインが多かったですね」
「スプレーで描いたやつね」
 会話がすぐに途切れてしまう。数井さんはスマートフォンをいじっている。私もいじっている。することがない。買い物袋を提げた人たちが胡乱な目で私たちを見る。ここに来る人はみな仕事着、スーツか作業服なのだ。シャツだのパーカーだのを着た私たちは浮いている。この町には私たちの居場所がまだない。
「観光に来て、よかったんですかねえ」
 数井さんの顔を見ないようにしてつぶやく。この町に彼を誘ったのは私だ。来たかったのだ。どこか、震災の傷の残る土地を知りたかった。でも、一人で来る度胸は持てなかった。
「物見遊山でも構わない、遊びにきてください、って遊佐さんは書いてましたけどねえ」
 またヤンちゃんの受け売りか。すっかり仲良しさんだな、君ら。
「でもヤンちゃん別に楢葉の人じゃないじゃん」
「でも、僕らよりは、東北の人なんじゃないですか」
 数井さんは秋田出身。私は仙台出身。二人とも大学進学で地元を離れた。震災をきっかけに故郷仙台に帰ったヤンちゃんにくらべれば、東北濃度は薄い。
「でも、私らだって、自分を東京の人間だと思ってないでしょう」
「そりゃあまあ」
 そろそろ東京にいる時間と仙台にいた時間が半々になる。このまま働き続けるなら、私の成分はどんどん東京の比重が高まっていく。どれだけ住めば自分のことを東京の人間だと思うようになるのだろう。
 隣の横顔をちら、と見る。何か考えている。スマートフォンの上で指が動いている。ネットかな、と思って画面をのぞき込んだらゲームをしていた。はは。
 駐車場の片隅に青いトラックが見える。ガードマンが二人も立っている。後ろのドアが開いて階段がついている。荷台の中に乗り込めるみたいだ。
「あれ、なんだろ」
「どれどれ」
 数井さん、手元のカメラを構える。レンズがたけのこみたいに長く伸びている。
「とう、ほう、って書いてありますねえ……東邦銀行移動店舗車」
「移動店舗車?」
 窓口が中にあるんだろうか。
「ATMが入ってるみたいですねー」
 インターネットを見て数井さんが言う。五十歩くらい行けば現物があるのに、カメラで覗いて、ネットで調べて。私たちはなんでもそうやって知った気になっている。朝、天気が気になるとき、窓の外は覗かず天気予報サイトを見るように。
 インターネットでわからないことが知りたくて、ここに来たはずなのに。それにしても手持無沙汰だ。ネットの中にしか居場所がないような気がする。いつまでしゃがみこんでればいいんだろう。私は何を知りたくて、ここに来たんだろう。
「車、減りましたね」
 数井さんの声に顔を上げると、駐車場がいくらか空いていた。
「そろそろお昼にしましょうか」
「ほい来た」
 協議の結果、おそば屋さんを選んだ。中に入ると壁一面に手描きの文字がぎっしり詰まっていた。。
「復興に来ました」「高知から来ました」「がんばろう楢葉!」「美味しかったです」「ソフトクリームまた食べに来ます!」
 いろんな人の文字が模造紙にぎっしり詰まっている。
「取材?」
 食券を渡したおじさんに声をかけられた。
「いえ……ちがいますけど」
「こっちの人?」
「ええ、まあ……」
 東日本、っていう意味でこっち、くらいのつもりで相槌を打つ。何か用事があって来たわけでもないし、地元の人でもない、縁があるわけでもない。
 明日、九月五日の零時を迎えると、この町は再び住むことができるようになる。規制解除まであと十一時間くらいか。それで今日の夕方から「キャンドルナイト」というイベントをやるのだそうだ。明かりを灯して亡くなった人を悼み、これからを願う。
 ただ、わけもなくこの町に来てみたかった。というのは、不謹慎だろうか。今日見たものを思い返す。フレコンバッグ、止まった時計、草ぼうぼうの公園、除染作業の看板、崩れそうなお店。傷ばかり見ている気がする。プレハブの復興商店街は真新しいかさぶた。でも、傷ばかりではないんだ。震災よりも前からの光景だって残っている。むしろ、そのほうが多い。なのに傷ばかり探して見ているようだ。私、なんだか浅ましいよなあ。
 数井さんはまた写真を撮り、ネットに上げている。数井さんが何を撮り、何を書いているかは知らない。私はネット上の『友達』じゃないからね。
 冷やし蕎麦が来る。添えられたプチトマトが青臭くて、妙に美味しい。食後には名物のソフトクリーム。
「おー、みかん色だ。すごい黄色い」
「味もみかんっぽいですねえ」
 よくあるさっぱり系柑橘ではなく、甘味強めだ。
「幸せの黄色いソフトクリームだって」
「なるほど、幸せの甘さですか」
 そういや数井さん、いつまで経っても敬語のまんまだな。年上なのに。
「さて、行きますかねえ」
「はいはい」
 小さなスーパーをたっぷり時間をかけて覗いたあと、国道六号を渡る。山へ入っていく道。今日の目的地はこの上だ。急な登り坂。車も通らない。右側の山肌は草まみれだ。時折、フェンスや遊具が草の中からひょっこり頭を出す。太陽光パネルだけが妙に真新しい。一応、道に街灯はある。しかし点灯するのだろうか。数井さんが私の前を行く。登りでも歩くペースが変わらない。私は少しずつ離されながらついていく。
 十分も登っただろうか、やっと「楢葉町総合グラウンド」の看板が出てきた。右手に折れて、駐車場の中に入る。砂利を踏む感触、懐かしい。割れ目からすすきや草がたくさん飛び出したテニスコート。故障中の張り紙がある電話ボックス。私と数井さんの足音だけがする。
スタンド脇の階段を上りきると、陸上のグラウンドが広がっていた。まだ誰の姿もない。
「今日、ほんとにここでイベントやるんですかねえ?」
「時間、早かったですかねえ」
 たしかイベントは十八時開始と聞いている。今は十四時。そろそろ支度しはじめてもいいのではないか。
「どうしましょう、小野さん?」
「うーん……時間をつぶす場所もなさそうだしなあ……」
 商店街の食べ物屋さんは、どちらもお昼でおしまいだ。車があればどうとでもなるのだろうが、歩きでは行くところを思いつかない。
「……ここで待ってるって言ったら、数井さんどうします?」
「じゃあ、そうしましょう」
 グラウンドを見下ろすスタンドのベンチに二人、座る。グラウンドは一周四百メートルぐらいだろうか。記憶にある校庭よりは広い。空は晴れに限りなく近い曇り。
 シュッと聞き慣れぬ音がしたので、横を見たら数井さんが蚊取り線香に火をつけていた。缶の皿に渦巻く緑。
「用意、いいですね」
「これも」
 数井さんの手が私に伸びてくる。なんか貼られた。見れば数井さんの肩にも白いシールが貼ってある。クマのプーさんが描いてあるぞ。
「なんですか、これ」
「虫除けシールです。スプレーもありますよ」
「どこまで虫を避ける気ですか」
「嫌じゃないですか、なんか」
 かゆみ止めもあります、と彼は言う。万全過ぎる。
 蚊取り線香の匂いただよう中、二人でちまちまとスマートフォンをいじる。
「そういや、小野さんちの作業テーブル、調子どうですか」
「や、特に変わりありません」
 先日、数井さんはうちに来て台所の作業用テーブルを組み立ててくれた。購入から完成までまるまる一日かかったが、数井さんは終始浮かれていた。変な人だ。
「天板は月に一度、トリートメントオイルを塗り込んでくださいね」
「はいはい」
 その話、聞き飽きました。
「どんな風に使ってます?」
「料理するときは、なにかと物置きに使いますけど……」
 数井さんの表情がみるみる曇っていく。あ、こういう返事じゃダメなのね。
「そうそう、こないだピザを生地から造りましたよ。台がしっかりしてるからやりやすいですね」
「いいですねえ、ピザ!」
 これが正解っぽいな。うん。
「次はうどんにも挑戦してみようかなあ。粉もの練るのって、無我の境地になれていいですよ。達成感もあるし」
「ものづくりっていいですよねえ」
「仕事も一応、ものづくりなんですけどねえ」
「ええ、まあ」
 忘れがちだが、私ら、お客さまにウェブサービスとか作って提供した仲なんである。
 話をしてはいるが、別に互いの顔を見たりはしない。見ているのはずっとスマートフォン。レベル上げがはかどる。
 グラウンドの隅に車が見えた。ややして若者たちが二、三十人ほど入ってくる。気がつけば一時間過ぎていた。
「お、準備ですかねえ」
「そうですねえ」
 数井さんが持ってきたポテトチップのり塩味を割り箸でつまむ。数井さん、スナック菓子はお箸派だそうだ。たしかにスマートフォンが汚れなくていいや。
 若者たちが下からチラ、とこちらを見上げる。
「私ら、どういう人間に見えてるのかな」
「箸でポテトチップを食べてる人間じゃないですか。そうだ、ビールでも買って来ればよかったですねえ」
「それもなんか違うでしょ」
 お酒は嫌いではない。けど、この町にいるうちはふさわしくない気がする。
「小野さんはー、なんで楢葉に来ようと思ったんですか?」
 眼下で若者たちが説明を受けている。大学生くらいかな。
「たまたま仕事のキリがよくて夏休みが今取れたっていうのとー、あとは……なんていうんですかねえ、そろそろちゃんと知らなきゃいけないかな、って」
「知るって、何を?」
「……震災?」
「はあ」
「あれから四年半経って。帰省するたび通る仙台駅前は何事もなかったかのような調子だし。実家は被害らしい被害がなかったし。身内死んでないし。友達元気だし。親戚の隣の家の人が津波にさらわれたけど、帰って来たし。いろいろあったけど、なんにもない。なんだか、そのことが後ろめたい」
 割り箸ののり塩を舐める。磯の味。
「いいじゃないですか、それで」
「でも、大変なとこも、大変な人も、いるわけでしょう」
 たとえばこの町。
「たぶん、これが、九州の話だったら私、こんな気持ちにならないんですよ」
「東北の、ことだから」
 そう。東北のことだから。
「不思議なもんですよねえ、仙台から見ると青森と茨城って、たしか青森のほうが遠いんですよ。なのに青森にはなんとなく親しみがあって、茨城は納豆のとこ? くらいの感じで。東北六県って誰がどういう理由で決めたのかな。なんで私はそんな曖昧な線引きに、気持ちが振り回されてるんですかねえ」
「なるほど……興味深い着目点ですね。フェイスブックで聞いてみましょうか」
「聞くなよ!」
「冗談ですよ」
 わかっているが、やや疑ったのも確かだ。
「いいねがいっぱいつくと思うんだけどなあ」
 冗談だよな?
「書きませんってば。僕は、自分の体験や考えしかコンテンツ化しませんから」
「コンテンツ化?」
「なんていうんですかねえ、こういうところ行ったーとか、焼肉美味しかったーとか、そういうのって、自分だけのものじゃないですか」
 そりゃあそうだ、体験なんだから。
「でも、それを写真や言葉で人の目に見えるところに出すと、それはコンテンツになる。誰かがそれを見て何か思う。何も思わないかもしれない。まあどっちでもいいです。そうしてコンテンツになって、消費されて流されていくと、僕の出来事なのに僕から離れていって、なんだか気分がさっぱりするんです」
「でも、全部が全部ネットに書けるわけじゃあないですよねえ」
 たとえば仕事とかな。
「まあね。人をネガティブにさせそうなことは表に出しませんよ」
「じゃあ、そういうのはどうやってさっぱりさせるんですか?」
「物を捨てます。僕、捨てるフェチなんで」
「断捨離……とか?」
「まあ、そういう。僕の理想は全部の持ち物がトランク一個で収まることなんで」
 ダメだ、だんだん数井ワールドについていけなくなってきた。
「掃除、楽そうでいいですね」
「楽ですよ。ルンバを放しておけばだいたい済みますから」
 ルンバってトランクに入るのかなあ。
 グラウンドの上では集合写真を撮っている。きっとあれもインターネットのどこかに載るんだろう。 
 どうでもいい話をしたり、飽きて周囲を歩いたり、グラウンドの様子を眺めたり、またレベル上げをしたり。私、福島まで来て何をやってるんだろう。
「手伝いに行ったほういいのかなあ」
 目の前のグラウンドでは、たくさんのキャンドルホルダーが並べられている。バケツに浸す、目印に沿って並べる。その作業を学生さんたちがずーっと繰り返している。
「やってみたいんですか?」
「ううん」
 やりたくはない。ああいうちまちました作業は苦手だ。
「じゃあ見てましょうよ。小野さん、変なところで真面目だから」
 そうこうしているうちに陽がだいぶ落ちてきた。作業をする人、うろうろと様子を見る人、グラウンドやスタンドにだいぶ人が増えてきた。ざわざわとした人の気配が懐かしい。テレビカメラが来ている。その前でしゃべる人がいる。脚立に乗って写真を撮る人がいる。
「間もなく夜ですね」
「帰り道はぬばたまの夜でしょうねえ」
「ぬばたま?」
 数井さんがきょとんと私を見返す。まだ表情がわかる程度には明るさがある。
「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く、とか。ぬばたまは和歌の枕詞。だから意味はないんですが」
「夜に掛かる言葉なんですか?」
「そう。ぬばたまって言葉は、べったりと重い夜、っていう雰囲気があるなあと勝手に思ってて」
 街灯が点くのかどうかわからない帰り道、ぬばたまの夜って感じなんだろうなあ。
「なるほどねえ。ぬばたまーって感じ、何か出そうですね」
「妖怪ぬばたま、とか」
 六時、点火がはじまった。ライターを持った人たちが火をつけていく。ひとつ、またひとつ、夕闇のあちこちに火が点る。やがて、グラウンド手前側、四分の一くらいのスペースに言葉が浮かび上がる。
『こころ つなぐ ならは』
 キャンドルはひらがなの形に並んでいた。
「僕らも降りていってみましょうか」
「そうしましょうか」
 お祭りと呼ぶにはどこかさびしくて、儀式と呼ぶには雑多な空気。言葉を形成するキャンドルホルダーにはそれぞれメッセージが書きこまれていた。大好き。楢葉。みんな。復興。福島。がんばろう。東北。絆。帰りたい。ふるさと。ありがとう。明日。忘れない。読み取れないほどびっしりと書かれた何か。色とりどりの大きな文字。絵。飾り。内側の炎を受けて浮かび上がる。夜に近づいていくほどに燈明は強さを増す。
「……私、ここにいて、良かったのかなあ」
「いいと思いますよ」
「ここの人じゃないのに」
「参加自由、って書いてあったじゃないですか」
「ここのこと、なんにも知らないのに」
「今日、少し知ったじゃないですか」
 二人で言葉の縁にしゃがむ。
「僕、去年はじめて気仙沼に行ったんですよ」
「言ってましたねえ」
「でね、その後ネットで気仙沼の記事とか見かけると、なんか嬉しいんです。港の写真とかあると、あー知ってるわー、っていう、不思議な気分になる」
「はあ」
「小野さんも、そうなりますよ。これから楢葉のことを見かけるたびに、今日のことを思い出すんです。そして、あー知ってるわーって思う。きっと、それでいいんじゃないかなあ」
「それ、なんの役にも立たないのでは」
「知らないことは悲しめない。知らないことは喜べない。知らないことはわからない。知った、それでいいんです」
「……それも、誰かがフェイスブックに書いてたんですか」
「これは僕のオリジナルです」
 頭では数井いいこと言うなと思うけど、気持ちは納得していない。腑に落ちないのだ。だけど。
「なんかまあ……ありがとうございます、数井さん」
 きっと私のことを思って言ってくれたのだろうから。
「心こもってないお礼、ありがとうございます」
「こもってますよ、多少は」
 多少ねえ、と数井さんが曖昧に笑う。
 炎が揺らめく。人々の影がざわめく。グラウンドの奥は闇に沈んでいる。ぬばたまの夜だ。
 『ここ楢葉町では……六時から点火がはじまり……約三千本のろうそくが灯され……』
 この様子を中継しているリポーターの声が聞こえる。誰かがテレビを通してこの光景を知っている。
 知って、これから私はどうしたらいいのだろう。ただ好奇心のまなざしで傷だけを見て、満足しただけではないのか。後ろめたさを払いたくてこの町に来たのに、知れば知るほど罪悪感が募る。私は何をしにきたのだろう。本当に知ったのだろうか。
「小野さん、まだなんか考えてるんでしょうけど、そういうことはご飯を食べて、一杯飲んで、明るいとこで考えましょう。いわきの美味しい店、調べときましたから」
「また食べログで星の多いとこでしょ」
「レビューもちゃんと見てますってば」
 願いの燈火に背を向ける。そして私たちは夜の道を降りていく。

初出

はじめての高尾山
 テキストレボリューションズ アンソロジー1
猫の都合をきいてきて
 テキストレボリューションズ1 無料配布本
昼の相席
 テキストレボリューションズ アンソロジー2
ぬばたまの夜の更けるまで
 テキストレボリューションズ2 無料配布本

本作品の続編は、文芸系同人誌頒布イベント「テキストレボリューションズ3」(2016年3月13日)にて公開予定です。

ぬばたまの夜の更けるまで

2015年11月15日 発行 初版

著  者:斉藤ハゼ
発  行:やまいぬワークス

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