水城ゆうが主宰するテキストライティング塾「次世代作家養成塾」では、塾生から多くの作品が寄せられています。
そのなかから秀作を選りすぐり、塾長のコメント付きで塾の機関誌を編纂しています。
その第5号です。
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水城ゆう
現代朗読協会テキスト表現ゼミ——またの名を「次世代作家養成ゼミ」——の機関誌『HiYoMeKi』第五号をお届けする。
この時代にテキストでものを伝える、そのことの意味、意義はなんだろう、といつもかんがえている。
人になにかを伝えるとき、さまざまなことがいわれ、方法論が提示されている。ハウツーがあり、講座があり、提唱がある。
たとえば、最近私が聞いたことばに「グラフィック・ファシリテート」というものがある。文字やことばで伝わりにくいものを、グラフィカルなもの、絵やグラフなどを駆使してリアルタイムに伝えていこう、というファシリテーションスキルのひとつだ。くわしい人は「グラファシ」などと略したりする。
グラファシの前はプレゼンテーションといえばパワーポイントを駆使した、やはりビジュアルに訴えるものがもてはやされていたし、いまもプレゼンテーションの現場では多用されている。文字がたくさんならんだプリントを参加者にくばって説明する、などというプレゼンは論外とされている。
表現の世界でも、小説などの文字文芸から、コミック・漫画、アニメーション、CGなど、視覚的なもののマーケットが拡大している。必然的に「物語の才能」もそちらに流入している。ふと気がつくと、文字文芸の世界は寒風吹きすさぶ状況となっている。
ゼミの仲間が「ライトノベル作家になりたい」というので、ときおり手にとって読んでみるが、すくなくとも私にとっては読むに値するものに出会うことはすくない。
テキスト表現の世界はこのまま荒廃し、消滅していくのだろうか。
いや、そうではない、と私は思う。テキストという、限定された、制約の多い、めんどくさい表現方法によってしか伝えられない「なにか」があり、小説家はそのために日々キーボードにむかって悪戦苦闘している。映像によって表現されたものと、テキストによって表現されたものでは、たとえまったくおなじストーリーであったとしても伝わるものはまったく異なってくる。
たしかに文字を読むというめんどうな行為を自分の楽しみのひとつに取りいれる人は減少する一方かもしれない。だからといって、マーケットが縮小するからといって、自分の表現方法をあきらめたり手放したりできるものだろうか。できる者はそうすればいい。しかし、私はできないし、する気もない。マーケットが縮小しようが拡大しようが、自分の表現の方法をみがきつづけ、自分自身の最良の表現作品を求めつづける、そんなふうに死ぬまでやっていきたいと思うのだ。
このひさしぶりの『HiYoMeKi』にも、たとえ一時的にせよ、自分自身をテキストによって表現し、その時点でベストが尽くされた作品が結集している。あなたのお好みの作品、作者は見つかるだろうか。
結婚披露宴という「非日常」が接続してうんざりするほどの「日常」を、叔母の「茶寮」と叔母の存在そのものと対比することで、立体的に切りだすことに成功している。日常と非日常、うんざりする作業と静謐なたたずまい、これらがたんに対照的に配置されているだけではない構成に、テキストのほとんどが「説明」であるにもかかわらず小説として成立している。(水城)
ぐっと押しつけたペン先がわれて、まっさらな白いページにインクがとんだ。ユカは、青いシミがひろがってゆくのを見つめながら、親指の爪をガジガジと噛んだ。母親に、やめなさいと言われ続けて、中二でぴたりと止まった癖だったが、ここ数日、十数年ぶりに復活している。それもこれも、永遠に続くかと思われるこの煩雑な作業のおかげである。あーん、もう、と嫌気をはっきりと声に出して汚れたページを破り捨てた。
去年のクリスマスイブの夜、三年間付き合った彼にプロポーズされた。女として究極の幸福な瞬間だろうと想像していたが、なんとなくそろそろかなという感じと、彼の緊張で白くなった顔で簡単に予測できてしまった。彼は同じ会社の二年後輩、去年からお互いの親とも対面済み。サープラーイズって顔を作るのに少し努力した。そうです、私はしあわせものです。贅沢ですよね、予測可能だったなんて覚めた言い方は。
式場も今年の十月、広大な庭園をもつ高級ホテルのバンケットルームをおさえてある。ひとり娘の結婚披露宴はここ、とかねてより考えていた私の父の希望を叶えたかたちである。しかしこの、親族の希望を聞いたという事例を残したために、その他の親族からやがて一斉に希望やらアドバイスやらが雨あられと降ってくるようになった。あまりのやかましさに、しばらくノイズキャンセリングヘッドフォンを装着してツタンカーメンの石室のなかにでも篭りたくなった。
プロポーズという人生で光輝く一瞬を通りすぎると、結婚式までの間は、数多くの決めなければならない事柄に追いかけられる日々となる。親族への報告から式場の予約、招待客の人数とその内容、披露宴の料理、演出、ドレス、招待状の文面などなど……、膨大な数の項目について、価値観の全く違う人間がそのひとつひとつを決めていかなければならないのだ。お互いの考え方の違いがわかるのはいいが、式まであと三ヶ月にせまったこの頃では、彼は、
「ユカに任せるよ」が口癖になっている。
今日は休みを利用して、北鎌倉の叔母の家に遊びに来ている。東慶寺のすぐ並びにある、週二回だけの完全予約制の茶寮を経営する彼女は、私がふらっと遊びに行くと、いつも何も聞かず、静かに受け入れてくれる。叔母の家は、古い庵の佇まいで、私のために用意されたこじんまりとした和室の窓の外には、日本画のような初夏の緑が風に揺れている。静寂と、やわらかな色彩と、いさぎよい畳の香りが、わたしのイラッと硬くなった心をすこしずつ溶かしてくれる。
私は青いペンを使って、ノートにウェディングリストを書き込んでいた。新居の生活に必要な品物を友人たちに分担してプレゼントしてもらうためのリストである。気分を変えようと、部屋から出た。叔母が単の紬に割烹着を着て広い台所に立っていた。釜が二つゆうにおける広い土間もある台所は、柱や天井が黒く煤けている。きちんと食器や鍋が整理され、機能的で使いやすそうな台所である。よくみると、圧力鍋が四つもある。
「おばさん、圧力鍋、好きなの? たくさんあるけど」
「そうねえ、料理によって使い分けているから多いんだけど、好きなのかもね」
小柄なおばにとって持ち上げるのも大変そうなおおぶりなものから、二人前くらいのちいさなものまである。どれも使いこなされている感じだが、ピカピカに磨かれている。
「ユカちゃん、圧力鍋でつくるお料理は、結婚生活のようなものなのよ」
ぽかんとする私を見て、叔母は、いたずらっぽい目をしてクスッと笑った。
その後の答えを叔母は教えてくれなかった。いずれわかると、言うばかり。
首をひねりながら部屋に帰ったわたしは、真っ白いページに鮮やかな青いインクで「圧力鍋」と書き入れた、いちばんキレイな文字になるように、ゆっくりと丁寧に。
いつもしつこく書いていることだが、長く書くより、短く書くほうがずっとむずかしい。だれもが身に覚えのあることだと思うだろうけど、人は書きはじめるとどんどん書きたくなる。饒舌になって、自分が不要なことばを書きつらねていることにすら気づかなくなる。人に読ませるものを書く人間は、ここのところをきびしくいましめたい。
百枚の小説を五十枚で書けなかったか。十枚のエッセイを三枚で書けなかったか。千字のテキストを三百字で書けなかったか。二十行の詩を三行で書けなかったか。佐藤ほくを見よ。(水城)
満身創痍
私の涙は
あなたの傷に
しみるだろうか
痛むだろうか
臨月
海に映る鳥居を眺めながら
ずっとあなたの名前を探していた
牡蠣ばかり食べたね
跡
もう会えなくても
思い出せなくても
AF
ここにも
あなたの名に似た配列
半袖
いや
いつもスーツなので
初めてみたなと思って
一泊の道行き
午前零時
半そでを3枚ほど鞄に
明日の今ごろ
わたしは何を着ているのだろう
文体は身体である。もしその文章を読んでから書き手を見たとき、文体と身体の印象がずれていたとしたら、その書き手は文体もしくは身体のどちらかに、あるいは両方に、嘘をついているのだ。
山口世津子の書いたものを読んでから実際の山口世津子に会ってみると、たいていの人は「ああ」というだろう。
ちなみに、私・水城の文章を読んでから私に会った人の多くが「えっこんなおじさんだったんですか」という。(水城)
さすがに音が切れ切れになることが増えてきた気がするが、俺の九〇年代メイドインジャパン根性はそうそう死なない。
日光が暗闇を一掃し、俺は目が覚めた。風圧でキラキラ舞っているのは俺にも積もっていた埃だ。押入れに横たわり、どれくらい時間が経ったかも分からない。
唐突に身体の両端を掴まれた。
「げほっ。重てえ」
知らないオッサンだが、このやる気のない感じに覚えがある。俺の<持ち主>だ。
<持ち主>は、よっ、と年寄り臭い独り言を発し、俺を畳の上に慎重に置いた。
尻ポケットからポーンと小さなスティックが飛び出す。せんべいサイズのそいつにはイヤホンが巻かれていた。
あいつが今の<持ち主>のパートナーらしい。
冷凍睡眠から目覚めた心持ちだ。黒くてイカす身体が、今や埃まみれ灰色ボディでしっかり歳も喰った気分だ。
<持ち主>が埃を拭き取るが、表面の凹凸まではしっかり取りきれないようだ。まあ多少は若返った。
俺のプラグが電源に刺さったので、久々に表示板に再生時間「00:00」を表示してやった。
扱いはえげつなかったが、今日から重低音鳴らしてやる。いつものニルヴァーナか? UKロックか? FMもいけるぜ。
〈日本の童謡 1〉
エキゾチックなセレクト過ぎるぜ。
〈新しい持ち主〉は、前の〈持ち主〉が話しかけてもほとんど反応しないような寝たきり老人というやつだ。
毎日何時間も、か細いヴォイスや合唱を鳴らし続けることになるとは思わなかった。たまの洋楽は賛美歌だ。
最初は本当に嫌々だったが、今では家で唯一CDを再生出来る事が誇りなんだ。
障子越しに拡散した陽光に眠気を誘われたのか、<新しい持ち主>は寝息を立て始めた。
子供を寝かしつけるのはこんな感じだろうかと俺は思った。
大宮駅十八番線ホームで、毎週土曜の午前十時四十三分に彼女と合う約束だ。
いつも僕は少し早く来て、スマホの時刻表時とにらめっこしている。
十時二十四分の表示と、構内に響く足音が同時だったので、思わずビクッとしてしまった。
必ず待ち合わせ時間の一分前に来る彼女はしっかり者だ。今日も青いニットキャップがよく似合う。
ずっと走って来たのか、深く息を吐く姿はとても健気。
幼い顔に似合わずもう見事な曲線を描いた身体に、もうため息が止まらない。
ホームの男性客もじっと彼女を見ているが、見せ物ではないのだからあまり視線で汚さないでほしいものだ。
途中で雨に打たれたのだろう。むきたてのゆで卵のように白くてツヤツヤでシミも無い彼女の肌に少し水滴が付いている。
ますます健気だ。僕は切なさに突き動かされて、彼女の顔を抱きしめた。
「離れて下さい! はいー危険ですから離れてぇー下さいー! 発車します」
一分だけの約束。シンデレラは必死で追いすがる僕を気にしつつ走り去っていく。
何故僕は陸上部に入らなかったのだろう。
次第に小さくなっていく彼女を、僕はなす術も無くカメラにおさめた。
「また明日、会えるよね……」
風景に溶け込んでいく彼女の姿を見届けながら、僕のつぶやきも十八番線に溶けていった。
ふきのとうが顔を出し、小さな動物たちから順々に目を覚ましていきます。
固くなった雪が小川の水になり、魚たちが姿を現すと、動物たちは目を輝かせながら川をながめます。
ヤマザクラが八部咲きになるころ、暗い穴蔵の中でツキノワグマさんも大きな欠伸をして目を覚ましました。
中々開かない目をこすりながら鼻先だけほら穴の外にだすと、みずみずしい春の匂いがただよっています。
いよいよ北の森に春がやって来ました。
ツキノワグマさんは早速小さなカゴを持って、野原に青いお花を摘みにいきました。
沢山のオオイヌノフグリを摘むと、わらを敷き詰めたほら穴に戻り、小鉢でグリグリとすり潰します。
別の小鉢にも、去年の秋に集めておいた真っ赤な紅葉や黄色いイチョウをすり潰します。
紅葉は赤い粉に。
イチョウは黄色い粉に。
オオイヌノフグリは青い汁になりました。
赤い粉と黄色い粉を混ぜて橙の粉に。
黄色い粉と青い汁を混ぜて緑の粉に。
青い汁と赤い粉を混ぜて紫の粉ができました。
ツキノワグマさんは食料庫からハチミツを取り出すと、六つの粉にそれぞれ混ぜました。
秘伝の染料の出来上がりです。
ツキノワグマさんは大忙し。
掘り返した切り株のテーブルをほら穴に運んでいると、カッコウさんとリスの夫婦がやって来ました。
「こんにちは。暖かくなりましたね。」
ツキノワグマさんが挨拶をすると、リスの夫婦は両手一杯のずんぐりした毛玉を差し出し言いました。
「冬毛を持って来たの。子供の柔らかい毛もあるのよ。」
「まあ! 素敵な筆が作れるわ」とツキノワグマさんは大喜び。
「カッコウさん客寄せお願いね」とツキノワグマさんはカッコウさんを送り出しました。
のど自慢のカッコウさんの声は森中に響き渡ります。
「ネイルサロン・ベアークローOPENだよ!」
ツギノワグマさんは森のネイリスト。森の女子たちは毎年の春こぞって開店を楽しみにしています。
最初にコツメカワウソさんがやって来ました。
「青いネイルをお願いしようかしら」
ツキノワグマさんは、小リスの毛でコツメカワウソさんの小さな爪に優しく青を塗りました。
「ありがとう! とってもセクシーだわ!」
コツメカワウソさんはお礼にヤマメをおいていきました。
次にアライグマさんがやってきました。
「やわらかい感じがいいな」
ツキノワグマさんは、アライグマさんの爪に黄色と緑を混ぜた新緑色を塗って上げました。
「ありがとう! とっても爽やかだわ!」
アライグマさんはお礼にザリガニをおいていきました。
次にヘラジカさんがやってきました。
「ギャルっぽい感じに出来る?」
ツキノワグマさんは、ヘラジカさんのひづめを黄色と赤のグラデーションで仕上げました。
「ありがとう! とってもkawaiiわ!」
ヘラジカさんはお礼にコケモモをおいていきました。
次にハイイロオオカミさんがやってきました。
「いま流行っている感じがいいわ」
ツキノワグマさんは、ハイイロオオカミさんの爪を黄色に塗り、小さな押し花を添えてあげました。
「ありがとう! とってもお洒落だわ!」
ハイイロオオカミさんはお礼にアライグマさんをおいていきました。
ツキノワグマさんのサロンは大繁盛。食料庫は春の恵みでいっぱいです。
「さあ、開店祝いの準備をしましょうか」
一面のヤマザクラの下で、女子会が開かれました。
ヤマメはお刺身にして、ザリガニはふきのとうと天ぷらにしました。
色々なお肉は山菜と煮込みにしました。血の塩味もしっかりついて栄養満点。
デザートはコケモモとハチミツのコンポートです。
食べきれないほど沢山のごちそうで、森のみんなは明け方までお花見を楽しみました。
おしまい。
照井数男はプロの数学研究者である。プロの、というのも変だな。数学研究者である。これでいいか。
現在、パリ在住。パリの大学で現代幾何学の共同研究にいそしんでいる。それとこのテキストとどう関係があるのか。「ある」と書いて、その裏付けをひねりだそうと思ったが、やめた。関係があってもなくてもいいのだ。読み手はただその不思議な味わいをじっくりと味わい楽しめばいいのだ。書き手が小説家であろうが、主婦であろうが、ピアニストであろうが、女子高生であろうが、数学者であろうが、ただ前提や判断なく味わってみるということができるかどうか。そのことのいかに難解なことよのう。(水城)
松江シティホテルの窓から宍道湖を眺めていると、湖に入っていく人影が見えたので、気になって湖岸にいってみた。
雨の中、全裸の男が湖に浸かっていた。
「大丈夫ですか」
と声をかけてみたが、男は返事をしなかった。
「彼は料理人、四十五年間宍道湖のシジミの汁を煮ていましたが、自分の味に自信をなくしてしまいました。宍道湖のシジミの声を聞くためにこうして湖に入っているのです」
湖岸にいる女将と思われる女性がそう言った。
私も湖に入ってみようと思った。最近自分の仕事に自信が持てなくなり、一人フラッと松江に来たのだ。
靴を脱いで湖に入ってみると、からりからりとしたシジミの感触が、靴下越しに感じられた。
「どうだいこれが宍道湖の味だよ」
と裸の男が近寄ってきた。
自分は何かが足りないと思った。
「大橋をくぐった先には中海があります。宍道湖、中海、それから日本海、とだんだん塩が濃くなっていきます」
湖岸の女将が教えてくれた。
私はどうしたものか考えあぐね、ただシジミを足裏で転がしていた。
すると、湖岸の女将が帯を解き出し……。
シジミは「宍道湖七珍」の一つであるらしい。
残りの六珍もぜひ味わってみたいと思った。
よく音信不通になったり、行方不明になる人だ。いまはなんとか連絡がついて、書いているものも時々読める。最近は文学フリマとかいうところに出展したり、あちこちの同人誌に書いたりもしているらしい。
しかし、あなた。もしこの人がですよ、文学フリマのブースのひとつにちょこんと潜んでいて、ひっそりと作品を並べていたとして、それを発見できますか? あなたの眼力が試される。私は人(の作品)を見る自分の眼に相当自信があるけれど、多くの人がこの人の底知れない実力と作品の魅力を発見しそびれているのではないかと、勝手に危惧している。本人はきっと大きなお世話というだろうが。
二作品、つづけてお送りする。(水城)
プップットルルル、
「お電話ありがとうございます、お客様サポートセンターでございます」
「やあ」
「松波様、いつもご利用ありがとうございます。本日はいかがいたしましょう」
「キミに会いたい」
「その件につきましては、先般もお話させていただきましたとおり、」
「規則ねぇ」
「業務外でございますので」
「ぼくはキミの好みじゃない?」
「私どもはお客様の状態を確認させていただくために映像を拝見しております。お客様を選んだり区別したりすることは一切ございません」
「うーん、せめてキミの顔が見られればなあ。そうしたらもう少しうまくコミュニケーションとれると思うんだけどなあ」
「もうしわけございません」
「ときどき映るキミの手と、その声で、ぼくは十分キミに恋しちゃってるけどね。ね、手、見せてよ」
「……どうぞ」
「きれいな爪だ。指先までの長さってのもいい。薄いピンク色のマニキュアなのかな、目立たないけど、おしゃれに無頓着じゃないって感じがいいんだ」
「ありがとうございます」
「あ、まだだよ。もっと突き出して。長い指だなぁ。肌もきれいだ、すべすべしてる」
「……よろしいですか?」
「だめだってば。もっかい出して。もっと前に。手首まで。そう。そのまま、裏返してみて」
「…………」
「ああ、いますぐその白い手首を掴んで、青い血管に齧りつきたいよ」
「…………」
「肌が少し赤くなってきた気がするけど、気のせいかな? そのままもう少し、肘のあたりまで突き出せる?」
「……もうしわけございません、これ以上は」
「しかたないなぁ、じゃあもっかい。両手を出して。手首を揃えて。そう、くっつけて。そのまま、よく見せて」
「はい」
「動脈と静脈も。よく見える。肌のキメのひとつひとつをじっくり見せてもらうよ。この肌はキミの体中に繋がっているんだ。
ほら、キミの仕事はぼくの状態を見ることだろう? こっちを見て。見てる?」
「……拝見しています」
「ふふっ、一段と赤くなってきたね。
火照ったキミの体のすべてを舐めつくしたい気分だよ。いや、もうぼくの舌はキミの体を這い回っているよ。キミの毛細血管のすべてを余すところなく。ほら、感じてるだろう?」
「…………」
「聞こえてるよ、キミの息遣い。ああ、キミの体温が欲しい。ぼくに直接触れてほしい。キミの瞳を見つめ返したいよ、キミに触りたいんだ、……ダメだ、もう、あっ」
「ご利用ありがとうございました」
プッ。
「かまいたち、かなあ」
右手の人差し指の先の腹の部分を見ながら、彼女が言った。肌色の絆創膏が巻かれている。
僕は、地味な色合いの事務服の袖口から延びる彼女のほどよく細くて白い手首から人差し指へのラインを視線で辿りつつ聞いている。
「朝ね、起きたら、ぱっくり切れて血が流れ出していたの」
「夢遊病じゃないの? 寝てる間になにかで切っちゃったんだよ。それとも、歳のせいで肌が乾燥して割れちゃったとか」
ひどーい、とほっぺたを膨らませて彼女は笑った。人差し指の絆創膏を僕の目の前に突きつけている。
僕はその指先の裸の部分を狙うようにツンと、自分の右手の人差し指をくっつけた。
「E.T.ごっこ」
「なにそれ。知らなーい」
彼女はアハハと十代の女の子のように笑う。同世代だけれど彼女とは話が合わないことがよくある。でもこの笑顔さえ見られれば話題なんでどうだっていい。
「おはようございます」
背後で声がして、反射的に壁の時計を見た。
八時五十五分。
小野はきっちりこの時間に職場に現れる。会社にはもっと早く着いているらしいのだけれど、始業ギリギリまで更衣室にいるらしい。
ふと気が向いて、
「小野さん、E.T.ごっこ知ってる?」
小野に向かって人差し指を差し出してみた。
小野は、だまって僕の人差し指を凝視している。
「あれ?」
僕の人差し指の先の腹の部分から血が出ていた。
とまどっている僕に、
「人に夢遊病だとか歳だとか言ってるから、きっと、うつったのよ」
と、彼女。クスクス笑顔もかわいい。
「キミの切り傷は接触感染するのか」
そう言って、「1」の状態に突き出したままの人差し指を見ていると、にゅっと、前から伸びてきた指先が僕の人差し指に触れた。
わ。
驚いて、反射的に指を引っ込めた。顔を上げると、小野がまだそこに立っていた。
「……ごめんなさい」
いや、と言いよどんでいる僕に、彼女が急に寄り添ってきた。
「どうしたの? くっついてくれるのはうれしいけど?」
「小野さん……」
表情を強張らせ、彼女は、くちびるをほとんど動かさないままで、なんとか喋っているという感じ。
「うん、小野さんはE.T.ごっこってわかるみたいだよ」
「……今、電話が。小野さんのお母さんから。小野さん、昨夜、亡くなったって」
聞こえる言葉を言葉として捉えられないまま、視線を、彼女から小野さんに移した。
冬の終わりにしては、今日は陽射しが暖かい。
窓から射し込む光を小野さんはキラキラと反射していた。
「……ごめんなさい、怖がらせたかったわけじゃないんです」
時間の中で、小野さんの声だけが動いている。
「死ぬって一生に一度のことだから。ちょっとだけびっくりさせてみたくて……」
ごめんなさい、と小野さんの声が繰り返していた。
小説を読む楽しみとはなにか。あるいは我々はなぜ小説を読むのか。ストーリーなのか、風景なのか、キャラクターなのか、文体なのか。あるいはそれら全部なのか。
たぶん全部なんだけど、とくにそのなかでもこの書き手はここが魅力だな、というのはたしかにある。荒川あい子の小説はどうだろう。
彼女の小説を読むと、私はいつも不思議な気持ちになる。不思議な感覚につつまれる。それは自分が経験したことのないものだし、自分で作り出せないものだ。すぐれた書き手の条件のひとつとして、私はそれを大事にしている。
二作品、つづけてどうぞ。(水城)
「あ、また誰か飛び降りた」
りこが空を見上げると、誰かがヘリコプターから飛び降りていた。叔父の京橋は、ちらっと見上げて、すぐにダイビングシューズの点検の続きをした。波しぶきを立てて、ぱちゃぱちゃと音を立てると、小さな熱帯魚が、そのしぶきを避けて泳いでいる。
「カメラとってくれる」
りこは、京橋の鞄の中から、水中カメラを彼に渡した。
両親が十年前交通事故で亡くなった時、京橋は彼女を引き取った。そして同じ年に、彼は雑誌社を辞めて、フリーの海洋写真家になったのだ。
十二歳になったりこには、それがどんなに大変だったか想像がつく。それを言うと、
「自分が決めた予定は、どんなことが起ころうと変えない方がいいんだよ」とだけ言った。
京橋は水中でカメラの点検をするため海に潜ると、りこは家に戻って、昼食の支度を始めた。
キッチンの窓から、京橋の泳ぐしぶきを見ながら、レタスをむく。
この窓から見る景色が、りこは大好きだ。
庭の木の葉が、生い茂って、青空と合っている。もう少ししたら入道雲も見えるだろう。
サンドイッチと、京橋の好きな焼きそばを作ると、りこは窓辺にかかっている金色のベルを鳴らした。
五分もしないうちに京橋は海から上がると、タオルで体を拭きながら、家に入り、食卓についた。
京橋が焼きそばにこしょうをかけている時、
「ねえ。全国テストの結果見た?」と聞いた。
「見たよ。この前より成績が下がったね」彼は焼きそばをほおばった。りこの顔を見ずに、
「来週からバハマに行くよ。一ヶ月で帰ってくる」
「ねえ。それ隣のおばさんに言った?」
「いいや」
「またあ? なぜか私が怒られるんだよね。子どもを置いてくなんて、て」
「でもお前は家事も一通り出来るし、しっかりしてるから、迷惑をかけないだろ。俺はお前を子ども扱いしてないんだよ」
りこが口をとがらせると、「これ、うまいな」と言った。
りこは片足をぶらぶらさせた。
「ねえ。私も将来海洋カメラマンになって欲しいと思う?」
「どうしたんだ? 突然。なりたいのか?」
「子供が同じ仕事に就くのって、親は喜ぶっていうじゃない。おじさんは、父親じゃないけど……」
「お前らしい写真が撮れるなら、嬉しいね。人真似じゃなくてね」
「あっ、洗濯物が」
窓を見ると、砂浜をりこの赤いワンピースが飛んでいる。先週、京橋が買ってくれたワンピースだ。りこは立ち上がって家を出ると、全速力で砂浜におりた。大丈夫、捕まえられる。腕を伸ばして、ワンピースを握る感触が頭をよぎった。しかし強い風が突然やってくると、ワンピースは風に乗って高く舞い上がった。りこは思わずつぶった目を開けると、ワンピースは海の上へ向かっていく。りこは見上げると、ワンピースのはるか上の空をスカイダイビングをして落ちてくる人影を見えた。
あの人がワンピースをつかまえてくれればいいのに。空中でひろって、それをその人が着ている服の中に丸めて入れこんで、海に降りれば、もしかしたらワンピースは濡れなくて済むかもしれない。
しかし、ワンピースは海の上に落ちてしまった。りこは海に入り、クロールで泳ぐと、やっと服を手にすることができた。
ワンピースをこれ以上濡らさないように左手で服を握って海面より持ち上げながら、立ち泳ぎで浜へ向かった。海をかき分ける右手に、少し冷たい海の感触がまとわりついた。
浜へ上がると、家の前で京橋がタオルを持って、立っていた。
りこはタオルを受け取ると、ワンピースを優しく押すように拭いた。
「ごめんね。洗濯バサミでとめておくのを忘れてたみたい」
「すぐに真水で洗い直せば、いい。いきなり海に入って大丈夫だったか?」
「平気よ。私は誰の姪だと思ってるの?」
「俺だって魚じゃないんだよ」京橋は笑うと、部屋に入った。
テーブルには、二人の食べかけのお皿があった。りこは洗面台でワンピースを丁寧に洗うと、洗濯機の中に入れて、ドライ洗濯のボタンを押した。
シャワーを浴びて体を洗い、タオルで濡れた髪を拭いながらリビングに戻ると、京橋はもう食べ終わって、オレンジの皮をむいていた。
むいたオレンジをりこのお皿の前にぽんと置くと、
「なあ。これいいじゃないか」と言って、テレビの横に置いてある水槽を指差した。水槽には地球儀が入っている。地球儀は昨日図画工作の授業で、りこが作ったものだった。りこは作っている時から、それを気に入っていた。家に持ち帰って、自分の机の上に飾ったが、玄関にずっと置きっぱなしになっていた空の水槽を思い出すと、地球儀を水槽の中に入れてみた。しばらく眺めてから、黒の画用紙に、星の絵を描き、それを水槽の内側に貼りつけた。それをテレビの横に置いたままだった。
「何か自分が巨人になったみたいで、面白かったんだ」
「いいね。地球儀の海に描いてある魚はクジラか?」
「よく分かったね。先生は分からなかったのに」
「俺だったら、オーロラや雷雲を、周りに作るなあ」
「ええ?凄く難しそうだよ。それって」
京橋はオレンジをほおばった。
「りこはまだ自分のなりたいものが分からないんだな。俺はカメラマンになりたいと思ったのは、専門学校生の時だが、海に関わる仕事に就くと決めたのは、十二歳の時だった。今はまだ具体的に決まらなくても、自分がどこにいたいか考えるのもいいんじゃないか。空と陸と海、それだけでも決められるだろう。これは役に立ちそうじゃないか」
りこは水槽を見て、眉を上げた。
京橋は立ち上がると、自分の空のお皿を持って、流し台に行って、皿を洗った。
そして濡れた手をタオルで拭くと、また砂浜に出ようとドアの前に立ち、思い出したように振り返ると、にやっと笑った。
「でもな、もう少し勉強は頑張った方がいいぞ」
ぷいっとりこは大きく顔をそらしたので、京橋は笑って出て行った。
りこが振り返ると、窓からは白い砂浜と青い海、そしてスカイダイビングをしている人影が見えた。
「あれ?ここに誰かいなかった?」
めぐみが、左を向いてふと言った。
「何言ってるの。誰もいなかったわよ。私たちだけじゃない」
向かいに座るますみが、コーヒーを飲む手を止めて、言った。
「そうだよね。変ね、誰かいた気がしたわ。男の人が」
「ええ?嫌だなあ。幽霊かしら?」
「霊感はないんだけど」
めぐみは微笑んで、一応辺りを見回した。
カフェの中は、ひとつのテーブルごとに空けて、人が座っているぐらいで、混雑しているとは言えない。確かに三十代前半のめがねをかけた男性はいるが、席は離れていて、もちろんますみの隣に座ってはいない。他には老人と中年の夫婦だけだった。コーヒーの値段は少々高いが、コーヒーの味も天井が高い店内も気に入って、めぐみはよくこの店に来るのだ。
「もう夜の九時だわ。どうする?帰る?」
ますみが聞いた。
「明日仕事だっけ?もしよかったら帰っていいわよ。私はもう少しいるから」
「何時までいる?明日から旅行じゃなかったっけ?」
「十時になったら帰るわ」
「じゃあ私もそうしよっ」
めぐみは壁に背中をよせると、天井を見つめた。ますみが、
「ごめんね、たくさん話を聞いてもらっちゃって。疲れちゃったね」と言うと、めぐみは驚いて、
「どうして?いいのよ、心配だったし、色々聞けて安心したわ」
「うん……。話してすっきりした。夫とは今は一緒に暮らせないけど、のんびり待ってみる。自分を見つめるいい期間だと思って、好きなことするよ」
「うん、それがいいわよ」
めぐみは力なく笑った。
十時に店を出ると、めぐみは歩いて自宅へ帰った。めぐみも結婚しているが、単身赴任で暮らしている。彼女が郊外に転勤したので、夫と彼の母を東京に残したのだ。夫は郊外へ引っ越すことも、母を残していくことも嫌がった。久しぶりの旅行は、二人で行くはずだったが夫の仕事が忙しくて、結果的に彼女一人で行くことになった。一人旅行は残念だったが、別居についてはあまり気にしていない。元々一人でいることが好きだし、生活というものが苦手だった。日常にまみれながら、互いを理解していくことより、自分を見つめてから相手を見つめるという、結婚前までの二人のあり方を変えることができなかったのだ。転勤が決まったのは、結婚二年目の時だった。
次の日、めぐみがエコノミークラスの窓がわ三列の真ん中に座っていると、隣の窓側の席に座った中年の男性が声をかけてきた。めぐみは驚いた。
「信じられない」
「こんなところで会うのは奇遇だ。一年ぶりくらいかな。あれはどこだったっけ」
「銀座のカレー屋さんです」
「そうそう、確かご主人と一緒だったね。今日はご一緒じゃないの?」
「主人は仕事で」
「そう。しかしよく覚えていてくれたね」
「とても印象深かったから。あの日のことをよく思い出して夫と話をするんですよ」
「あの時は、たまたま相席になって、私がずうずうしく話しかけたんだよね。いや、若い人が好きなんで、あの後もよく話しかけて迷惑がられたりしたけど、君達とは長い話をしたのを覚えているなあ。最もどんな話をしたか忘れてしまったけど」
「とても楽しかったです。ええっとお名前は……」
「相澤です」
男性は名刺を胸ポケットから出した。職業は経営コンサルタント会社の取締役だ。一年前と仕事は変わっていない。エコノミークラスにいるのが不思議だったが、あえてめぐみは触れなかった。
言葉の通り、めぐみにとって相澤氏の思い出は、貴重で奇妙だった。
彼は一年前、目の前で大盛りのカツレツを食べたあと、こう言った。
「ここはカレー屋でも、頼むとカツだけ出してくれるんだよ。このカツが大好きでよく来るんだ。あさってに、オペラを見に行くために、今日はたらふく食べているんだよ」
「オペラと食事と何が関係あるんですか?」
めぐみの夫が聞くと、
「これは私の見解なんだけどね、人が吸収できる情報量は、決まっているんだよ。食べ物も情報のひとつだ。情報量が体の中で臨海状態になった時は、新しい情報なんて入らない。だからあさってのオペラを楽しむために、エネルギーを蓄えてるんだ。ゆっくりと消化して体をからっぽにしてからオペラを見るためにね。感動が全然違うよ」
「へえ。僕らはこの後展覧会へ行くんですよ」
夫は笑いながら、めぐみを振り返った。
相澤は左手を振った。
「若い人は、それでも平気だよ。でも私はもう六十だからね。同じようにはいかないよ。もう何を見ても感動なものなんて、ほとんどないんだから。自分なりの工夫が必要なんだ。だから人によっては、私の体重がころころ変わることに驚くんだよ」
ハハハと笑ってコーヒーを飲むと、
「いや、あんまり若い人の邪魔をしちゃいけないな」と言って席を立った。二人もその後すぐに出ると、彼は店の前の路地を渡った向かいで、煙草を吸っていた。二人を見つけてパッと左手をあげた。二人も笑顔で会釈すると店を後にした。めぐみ達が行った展覧会は、三年前に亡くなった建築家の個展だった。実際に建った建築、幻に終わった建築の模型や図面が並んでいる。ますみは、模型を見るとき、その中に自分がいる姿を想像しながら、見るようにしている。色々な角度から、模型を覗きながら、相澤の話を頭の中で繰り返した。
「あれは確か九月だったね」と、相澤が言った。
「まだあの食事法をされてるんですか?」
「ああ、勿論だよ。そのせいでこの通り健康だし、仕事も続けられる。あれから独立してね。大した規模じゃないが、私が生きていける程度で何とかやっているよ。働けるだけで、ありがたいね」
めぐみは大きく肯いた。
その時ちょうど機内食が運ばれてきた。めぐみは朝から紅茶しか飲んでいなかったので、ライスを残して食べ終えたが、相澤は食べなかった。
めぐみは相澤に会えて嬉しかった。ふっとめぐみは彼によりかかりたくなった。性的な意味はない。一年ぶりに偶然再会したことが、彼をとても近い人間に感じたからだ。まるで子供の頃から知っている叔父のように感じた。似た感情は昨日もあった。ますみとカフェにいたときだ。隣を見ると誰もいなかったが、カフェには眼鏡の男性がいたのをめぐみは覚えている。あの時はあの人によりかかりたかったのだろうか、めぐみはそう思うと軽く頭を振って、眠ることにした。相澤も黙っている。めぐみも起業を考えていたので、相澤の話を詳しく聞いてもよかったが、これ以上話をはずませるのは怖い気がした。実は昨年相澤の話を聞いてから、めぐみも少食を心がけるようになったのだ。軽い空腹の方が心地よく、集中力も増える。周囲からは、食べないと子供が出来にくくなる、と言われたが、めぐみは気にしなかった。朝食べないのも、ライスを残すのもそのせいである。
目を閉じて、飛行機の音に耳を澄ませた。ゴーっという強い音、足の裏のふわふわした感覚で、自分が空の中にいることが分かる。飛行機を照らす強い太陽の光を感じた。
夫とは、相澤のように偶然再会することなんてあるのだろうか。結婚しなかったら、二度と会えない相手だったかもしれない。一年後に再会しよう―。そんな約束を交わせば、地球の裏側の砂漠で再会することもあるかもしれない。だが約束がないなら、再会はかなり困難だろう。めぐみが心の中で望んでいるのは、そんな偶然の再会が色んな場所で成立する世界に、二人で身を置くことだった。他人が聞いたら、子供じみた夢だと笑うだろう。夫には、付き合っているとき、よくこの夢の話をした。彼は真剣にうなずいてくれたが、今はどう思っているのだろう。そんな約束をしたことはないが、もし約束をして、一年間何の連絡もせず、会わなかったら、彼は待ち合わせ場所に来るのだろうか。別居をする前とは、めぐみも夫に対する考えが変わってしまった。彼のことが分からなくなった。
めぐみはそっと相澤を見た。彼は腕を組んで寝ていた。彼女は、いすに手をかけて、機内を振り返った。知らない人たちの顔が並んでいる。性別も人種も年齢もさまざまなひとたち。彼らはイヤホンをつけて映画を見たり、眠ったり、本を読んだりしている。めぐみは彼らをゆっくりと眺め回すとまた腰を落ち着けて、目を閉じた。
非常に文章をあやつることが達者で、なんでも書こうと思えば書けるはずだが、非常に頑固なところもあって書きたいものを書きたいようにしか書かない。また、ひょっとして自分には書けないかもしれない、という領域にも果敢に踏みこんでいく。失敗して落ちこむこと多しだが(これは私だってそうだ)。
これが作家の資質でなくてなんだというのだろう。自分では長らくライターをやっていたことを軽く卑下するようにいうことがあるが、そんな必要はない。
二作品、みじかいのと、うんとみじかいのと。(水城)
「最近ションベンが出にくいんだ」
祖父は目をしょぼつかせて、湯のみをちゃぶ台の上に置いた。
「へえ」
母は自分の湯のみだけに茶をつぐと、低く一言だけ吐き出した。
ガラガラピシャンに続いて祖父の雪駄のちゃりちゃりが遠ざかるのを聞き届けて、橙子は母に問う。
「おかあさん、おじいちゃんに冷たくない?」
母は土間に下りると笊をとり、流しに放り出してあったキュウリを入れた。
「あたしがおじいちゃん病院に連れていこうか」
「いらないことをしないでもいいよ」
「なんで」
「自業自得だからさ」
翌日、橙子は祖父をなだめすかして病院へ連れて行った。問診のあと、検査の予約を入れて下さいと言われ、いちばん早い日で決めた。それを母に報告すると、母は俎板に落としていた目をゆっくりと前に上げ、手にしていた包丁の切っ先をドンと俎板に立てた。橙子はごくりとつばを飲み込んだ。
「無駄なことを」
「だって……おじいちゃん、前立腺がんの疑いがあるっていうんだよ、大変じゃない」
「じいさんは検査できないよ。MRIだろ?」
「そう……だよ、なんで……?」
「自業自得だよ」
母が立てた包丁を逆手に取りあげた。橙子は思わず後ずさった。母はそのまま俎板の上に包丁を置き直すと、流しに両手をついて、深い息を吐いた。
三日後、母の言ったとおり、祖父は検査をせずに帰宅することになった。橙子が医師に問いただすと、医師は困ったような顔をしてみせたが、唇の端がふるふるっとふるえたのはなにをこらえたのだろうか。
「おじいさんはずいぶんやんちゃだったようですね」
橙子は知らず、不愉快な気持ちがじわりと浮き上がるのを感じた。何を言いたいのだこの医師は。
「だからさ……あんたのじいさんは女遊びがひどくてチンポまわりに刺青してるんだよ」
帰宅した橙子が不満気にその話をすると、母はちゃぶ台の向こうの祖父から目を背け、思いきったようにひといきに言った。
「まわりだけじゃない」
目をまんまるにして口を差し込んだ祖父に、橙子が目をまるくした。
祖父が金属顔料を含んだ和彫りを入れているためにMRI検査を行えないというのを橙子が知ったのは、母が祖父に熱い茶の入った湯のみを投げつけ祖父が額を火傷して病院に後戻りすることになり治療を受ける待ち時間、看護婦に教えてもらってのことだった。
アルコールの香りはファンタジックで比重は軽いのに体を通すと重くなって異臭を放つのはヒトの肉体が汚れきったフィルターだという証左ではないのかと考えながら、その異臭と重い空気にまとわりつかれて立つ、霜並沢駅のホーム、午後十一時であった。
心なしか前後左右に揺れる隣近所の人々、ランダムに微かな肌の触れ合いが生まれるのであった。
そのとき左隣のグレイのスーツ姿の男性、五十五~六十歳くらいと思われる、が突然がくりと膝を折って、沈む身体を前の肩も露わなあやぎぬの女性、二十五~三十歳くらいと思われる、の背中で支えようとしたのであった。
「ぎやああ」という悲鳴とともに、まさにキヌを引き裂く音が立ち上り、男性は床にくずおれ、女性は後ろ半身全面の肌を露出した状態で直立不動の像と化したのであった。
私は俄かに不安と焦燥を纏って左半身を硬直させた、私は安全か、安全なのか、落ち着け、すでに事件は起きた、被害は私の斜め左前にあり、私は被害を受けていない、そう事件はすでに収束したのである。
〇・二秒ほどで私は自分を納得させることに成功し左半身の硬直を解いた、そのとき足下で「うぐえあぐおえ」という潰れた声が上がるのを聞いたのであった。
そして私の左足の白いスニーカーの上にカレーの一皿が出現しているのを私は見た。
小説をふくむテキスト表現の上達法はなんだろう。いうまでもなく「書くこと」だ。しかし、これもいうまでもないが、ただ漫然とたくさん書けばいいというものではない。量によって向上していくものもたしかにあるかもしれないが、場合によってはただたくさん書いたせいで逆に後退してしまうことだってある。問題になるのは、質だ。
私と奥田浩二の付き合いはもう何年にもなる。この次世代作家養成ゼミにも何人もの参加者がやってきて、たくさん書いて、また去っていったが、奥田浩二は最初からいて、いまもいる数少ない参加者のひとりだ。そしてなにより彼は継続的に書きつづけている。ある種の集中力を保ちながら。
なかなかできることではない。私だって書くことにたいするモチベーションはあがったりさがったりする。ときにはゼロになってしまうこともある。奥田浩二のすごさは、書くことにたいするモチベーションがゼロになった瞬間を見たことがない、ということだ。どんな内容であっても、とにかく書きつづけてここまできた。そしてその結果がこれだ。
何千人という作家をめざす者たちの書くものを読んできた私だが、はっきりいおう。奥田浩二のテキストはすでに職業作家のレベルに達している。達しているどころか、場合によっては凌駕している。
非常に楽しみな書き手だ。注目すべし。(水城)
張り付くような日差しは、天蓋のような広葉樹で十分遮られていたが、風はなく、湿気は相変わらずワタのように首筋を締め付けてくる。重なりあったセミの鳴き声は、頭の中で薄い膜のように響いて、どこにいても音の中心にいるようだつた。
「まったく、クソ暑いな」
智也は白熱する太陽に辟易しながら、アゴの先を拭うと、爪に溜まった汗を指で弾いた。白いシャツも汗で背中にベッタリと張りつき、太ももはジーパンの中で、ギュウギュウと蒸されている。ピンクのサマーカーディガンは、肩にかけられてタオルの代わりにされていた。
深大寺の境内に入り、何気なく振り返ると、彼は正門の分厚い藁ぶき屋根に、緑が伸び上がっているのをみつけた。日の直射を受けない環境が、若草をほどよく守っているように見えた。
正門の裏手には、親子連れや外国人観光客の列が出来ていた。列の先にはスタンプラリーの捺印台があった。智也はその列の最後尾に並ぶと、汗を吸ってゴワゴワになったパンフレットをバリバリとひらいた。
パンフレットには周辺の店で使えるクーポン券の他に、スタンプラリーの台紙が付いていた。スタンプを三つ集めると、ギフトカードや、調布手拭いが当たるらしい。本来の目的のついでに始めたことだが、智也はつい目を細めて賞品を吟味してしまった。
智也はダルマ市の頃に、一度ここを訪れたことがある。その時はまるで老若男女のごった煮のように、道も境内も押し合いへし合いしていた。
その時と比べると、今日は人出が少なく歩きやすかった。前は蕎麦屋を巡るどころか、人の背中に張り付くように、つま先で進むのが精一杯だったのだ。夏休みが始まり、子供連れでもっと賑わっていると思っていたから、これは彼にとっては嬉しい誤算だった。
智也がスタンプを押し終わるころには、参拝者の集団は先に進んでいて、線香の煙を浴びたり浴びせたりしていた。
智也は捺印台にパンフレットを広げたまま、記された蕎麦屋の数をかぞえた。この中に両親が出会ったという、店内に木の生えた蕎麦店があるはずだった。
さてどこだろうと、智也が地図を眺めていると、
「あの、すみません」
と声をかけられた。少しトーンの高い、よそ行きの女性の声だった。
同年代なら大学生だろうか。彼女は智也の背後で、怪訝と不信を好奇で割ったような表情を浮かべていた。彼女の手には智也と同じ深大寺のパンフレットがあった。
「あ、すみません。どうぞ」
慌てて捺印台を空けると、彼女は微塵も逡巡せず、智也の脇に立った。細いうなじに玉のような汗が転がっている。ショートにした髪の毛の先が、汗に濡れて針のように尖っていた。彼女は台紙にスタンプを押しつけると、手もとが動かないように息を止めた。
頭上でサワサワと音がなった。
智也が彼女の真剣な様子に目を奪われていると、台紙を見た彼女は悔しそうなため息を吐いた。見ると深大寺の緑色のスタンプが、少し傾いて押されていた。
「あ、曲がっちゃいましたね」
というと、
「ほんと、表の絵柄に合わせて押したのに、このスタンプ、少しズレてるみたい」
と彼女はもう気が済んだように笑った。
「俺も斜めになった」
と智也が自分の台紙を見せると、彼女は少し歯を見せた、含みのある表情を浮かべた。
「これ、本気でやってる人いたんだ」
「え?」
彼女は智也のパンフレットに押された、つつじヶ丘駅の赤いスタンプを指差した。
「凄い、あと一個で完成なんだね」
「あ、ええ、まぁ。それほど賞品が欲しいわけじゃないんだけどね。イベント事は見るより参加したほうが面白いから」
智也はそういって斜に構えたが、彼女はジッと見上げて表情をくずさなかった、智也はなんとなく気恥ずかしくなって、ニワトリのように彼女に会釈を繰り返して歩き出した。
参拝するときに思い切り柏手を打ったら、隣にいたごま塩頭に
「バチが当たるぞ」
と睨まれた。
作法を間違えた気まずさでつい、
「わざわざバチを当てに来る神様って、暇そうで嫌だなぁ」
と軽口を返すと、ごま塩頭は苦いものでも噛んだような顔をした。
本堂を左に行くと、セミの鳴き声の他に、水の落ちる音が高くなってきた。
武蔵野周辺には高地の武蔵野段丘と、低地の立川段丘の崖線がある。その崖線から湧き出る深大寺の水は、大地を絞ったような透明である。水は幾つもの筋になって石を伝い、水面に落ち、水製のレコード盤ともいえる波紋を作っていた。
そんな水面を見ていると、ごま塩頭に感じた恥や敵対心が、背に隠れて、自分の感情までが透明になっていくようにおもえた。
「それにしても暑い」
スマホの天気予報を見ると太陽のアイコンが真っ赤に燃えて、熱中症注意と警告がでていた。
昼時だった。おそらくまだ暑くなる。
植物園の入り口付近には蕎麦屋が三軒並んでいて、智也を見つけるとそれぞれの店のおばさんが、手を振って彼に蕎麦を勧めた。
「冷房効いてます?」
「ガンガンヨォ」
店のノリの良いおばさんに、蕎麦よりも冷房で誘われて、彼はそのうちの一軒の店に入った。
「あれ?」
「あら?」
深大寺の正門にいた女性が蕎麦をすすりながら、面白そうな声を上げた。
「また会ったね」
それ以上声をかけるのは、少し図々しい気がしたので、智也は笑みを返すと汗をぬぐうのに夢中なふりをした。
再び目が合ったとき、パンフレットのクーポンが使えることを教えると、それをきっかけに、馴染んだ空気に変わった気がした。
なんじゃもんじゃの木の名前の由来を、ボンヤリしすぎだろうと冗談めかしてはなすと、彼女は目尻に涙を浮かべて喜んだ。
「で、お兄さんはどうしてここに?」
「お兄さんていうほど、年は離れてないと思うけど」
智也はそういうと、彼女を見返した。
はなしを面白がって聞いてくれる女性に、智也はめっきり弱い。智也は彼女に問われると、ポツポツと話しだした。そもそも勿体ぶるほどのことでもない。
「いや、うちの両親がむかし、深大寺の蕎麦屋で出会ったらしいから、その店がどんなところか見てみたかったんだ」
智也がそう言うと、彼女は真剣な表情で考え込んだ。
「この辺、お蕎麦屋さんはたくさんあるよ」
「まったく」
「手がかりはないの?」
「店内に木が生えていたらしい」
智也がそう言うと、彼女の真剣な顔がみるみるほころんだ。彼女は柔らかな笑みを浮かべながら、髪でもかきあげるような自然な動きで、彼の頬に手を伸ばした。
「な、なに?」
彼女の手の感触に智也がすっかり緊張していると、彼女は両手を頬に添えたまま『回れ右』を促した。
「お店に入るとき、気づかなかったの?」
彼女の声の先に、彫りの深いクヌギの幹が天井を突き抜けてそびえ立っていた。
「入園料おごってもらっちゃった」
「別にいいよ、おかげでいい写真が撮れたし。親も喜ぶ……かどうかは分からないけど、話のネタくらいにはなるだろうしね」
というと、彼女はふふんと胸を張った。
打ち解けたせいか、最初の印象より年齢相応というか、いくぶん子供っぽい仕草になったようだった。
「智也くんのスタンプラリーはこれで完成か。でも私は駅のスタンプが押せないから、これまでだね」
と彼女は残念そうにいった。
「どうして」
「私、自転車だし」
「じゃあ俺、つつじヶ丘から帰るから、ついでに帰りに君のも押して投函しとくよ」
そういうと彼女は猫のように目を見開いて、彼に好機の目を向けた。
「応募用紙書いちゃいなよ」
「ふーん、そういう手口なんだ?」
「え?」
なんのことか分からず戸惑っていると
「名前。森下真紀よ」
といって彼女は笑った。
「ああ、そうか。いやそうじゃなくて」
「ま、別にいいけど」
「それにしても暑いな」
しどろもどろになって、智也が空を見上げて誤魔化すと、
「植物会館は涼しいよ」
真紀はそういってクルリと回ると、智也の先に立ち、おいでおいでをした。
太陽が最後の咆哮を終えると、夜が水のようにヒタヒタと足元にたまりはじめた。亜熱帯の湿気のせいなのだろうか。フィリピンに来てから、陸上自衛隊歩行戦車『ケルベロス』はセンサーの不調を頻発させていた。
坂木茂は『国際連合アジア安定化ミッション』第七次隊に参加する陸上自衛隊二等陸曹である。年齢は三十六歳。小隊を率いるは今回のミッションが初めてであるが、歩兵戦車の黎明期を代表する『シュテルツ』『蒼炎』に搭乗してきたベテランである。部下からは「歩兵戦車のことは坂木さんに相談すれば大体解決する」と信頼されているし、同期からは「歩兵戦車のこと以外は平均以下」と評される男である。
坂木はモードを変更しながら『ヘラクレス』の再起動を繰り返していたが、ようやくヘッドギアに明かりが灯り、こぼれた光がコックピットを青白く照らした。ヘッドギアとの間から、痩せた狼のような頬がのぞいた。日焼けした肌はフィリピンに来てからのものではない。
『ヘラクレス』とは歩行戦車『ケルベロス』に搭載された外部情報統合システムの名称である。このシステムにより『ケルベロス』の搭乗員はヘッドギアを通じて、戦車の砲塔から頭を突き出しているような視覚を得ることができる。『ケルベロス』の車高はおよそ六メートル。九十式戦車の二倍強の車高があるから、まさに『ヘラクレス』は搭乗者に巨人の視覚をあたえるのである。
坂木は空を仰いだ。闇が来ていた。森の津波が左右から覆いかぶさってきているようだった。深い海色の空が、緋色をにじませて、細く果てまで続いていた。現在位置をGPSで確認すると、Fルートという、多国籍軍の補給路の上にいた。いつのまにか、森から追い出されてしまっていた。
すぐ目の前に、僚機の『ケルベロス』が、こちらに背中を見せて、膝をついているのが見えた。
陽が落ちても、白い装甲にペイントされた「UN」の文字がかろうじて判読できるのは、お互いの距離がそれだけ近い証拠だった。
画面に浮かぶ、モード選択のアイコンを見て、操縦桿の決定スイッチを押す。短い効果音のあと薄暗かった視界が、緑色の明るい視界に切り替わった。
目の前の『ケルベロス』に「03」というマーカーがかさなる。
「FCSおよびスターライトサーチの再起動を確認しました」
目の前の火器管制席から、若い男の返答があった。陸士長の篠塚である。彼は歩行戦車の修了が平成三十九年というから、今年で二十四か五だろう。
「マスターアームズ起動」
アイコンに赤いアラームが追加表示された。
「起動確認しました」
坂木は操縦桿の送信ボタンを押した。ヘッドギアのイヤフォンにノイズが入った。坂木は声に不安が乗らないように、出だしの音を頭の中で何度か繰り返し、ようやく声を出した。
「指揮車から各機へ、ゴールキーパーの使用を許可する」
「——了解」
ノイズの向こうから三号機の車長、戸谷の返答が聞こえた。
「篠塚、どうした」
「ゴールキーパーが三号機とリンクしていません」
坂木はデータリンクを確認した。他のデータは三号機とリンクしているから、こちらの『ゴールキーパー』単体の不調が原因だろう。
「マニュアルで撃てるか」
「やってみます」
ゴウンと機体が揺れた。
『ケルベロス』は多身砲を構えなおすと、MK38『ゴールキーパー』の引き金を一段引いた。モーターが起動し、キーンと甲高い音を立てて砲身が回転した。
「電圧は正常。大丈夫です」
『ケルベロス』は将棋のコマのように、お互いを支援し合うデータリンクシステムをもっている。たとえ敵勢力が初撃で一体の『ケルベロス』を撃破したとしても、即座に複数機からの反撃を受けることになる。だから容易には手を出せない。世代間の能力差は戦闘機以上といわれる歩行戦車において、第二世代の『ケルベロス』が、第三世代の歩行戦車と渡り合えているのは、ひとえにこのシステムのおかげだった。
坂木は視線をわずかに下げて、データーリンクを確認した。
電波妨害は無い。喉がカラカラなのは、電子機器を保護するために、わざと乾燥させた空気のせいだけではなかった。
敵はそこまで来ている。
鹵獲した歩兵戦車で武装したゲリラだった。赤くペイントされたベトナム軍の『ケルベロス』や韓国軍の『バウルシュテルツ』に混じって、第六次隊のものとおもわれる陸自の『ケルベロス』が数分前の小競り合いの中にいた。破壊された『ケルベロス』のコックピットは統一感のない部品で修復されていた。
今、自分は戦場にいるのだ。次の瞬間、コックピットを爆散させるのは自分かもしれない。
坂木には、まるで現実感がなかった。悪い夢でも見ているように息がおもい。よく冷えた水を、一息に喉に流し込みたい気分だった。
二機の『ケルベロス』はお互いの背中を守るように湿地帯に膝を浸し、おびえた獣のように、森に多身砲を突きつけた。
不意に森がざわめいた。一斉に夜鳥が飛び立ったのだ。
「RPG!」
篠塚の悲鳴のような報告と同時に、『ケルベロス』の右肩からフレアが自動発射された。
『ケルベロス』の周囲がオレンジ色の火球で満たされた。そこに森を縫うようにして飛来した熱源探知式のRPGが、次々と吸い込まれていく。爆発で機体があおられた。同時にスターライトサーチの保護装置が作動して、目の前が真っ暗になった。
闇の中で僚機が倒れる音を聞いた。
スターライトサーチが再起動し、緑色の世界に破壊された三号機の姿が浮かび上がった。
「隊長!」
篠塚の緊張した声とゴールキーパーの射撃音が重なった。赤い火線が森をないだ。
「どこにいる!」
「う、上です」
針葉樹の太い幹を右手で掴んでゴリラのようにぶら下がる機影があった。
「なんだあれは!」
「シルエットに該当なし。しかしあれは…… 新型(第四世代機)です」
赤いシングルアイを持つ機影が、ゆっくりと左腕をこちらに向けた。ロックオン警報がコックピットにけたたましく鳴り響いた。
母が懐かしいものを買ってきたというから見てみると、真ん中で半分に折って食べる、奥田家では『チューチューアイス』と呼称される氷菓子だった。
ビニールの筒の中に入ったカラフルなシロップを、凍らせてから食べるあれである。
大抵十本入りで、色と味がそれほど一致していない、あれである。
夏の終わりに冷凍庫の奥の方で一本だけ発掘され、得をした気分になりつつも「今年の夏も終わりだ」と私に焦燥感と哀愁を学ばせてくれた、そう、あれである。
魚の骨を捨て終わった母が対面キッチンの向こうで、懐かしいねぇといいながら、『チューチューアイス』をパキンと折った。
私は電光の速さで、折れ口をサッと確認した。
凍らせかたが甘いと、折るときにビニールが伸びてしまい、規定ラインできちんと折れないのだ。
規定ラインで折れないということは、天国と地獄に分かれるということだ。
つまり、筒状のアイスがスポンと出てくる方(天国)と、おちょこのような余分なビニールが残った方(地獄)にわかれてしまうということだ。
中身より外見をかじることになるおちょこビニール。あれは地獄と呼んで差し支えないであろう。
今回は規定ラインで折れている。
私は胸を撫で下ろした。
「昔はよく食べたねぇ」
と母が懐かしそうにいった。
私は先端の方のアイスを受け取った。
おまけ付きの方である。
おまけ付きの方とはつまり、ピロッとした先端部に、濃い最後の一滴が残る方のことである。この一滴が美味しい。逆さにしてポトリと一滴が美味しい。
私と母は同時にかじりついて、無言になった。
会話を失った家庭に、NHKの武田真一さんの声が染みる。
床屋にいったばかりなのだろうか、七三が見事だ。
「……味がしないねぇ」
とポツリと母がいった。
「果汁が入ってないんじゃないの?」
「いや、果汁が入ってる方を買ったんだけどね。果汁が入っている方が少し高いんだよ。高い方買ったのに味が薄いねぇ」
「昔食べてたのは無果汁だったから、そのせいかな」
「でもこっちの方が高いんだよねぇ」
今日も母はご立腹である。
年を取ると、庭石にすらキレるというから、そういうものかもしれない。
「ふうん」
私は触らないように、慎重に流すように返事をした。
「ガリガリ君にしようかねぇ」
残念そうにいって、母は立ち上がった。
母のいうガリガリ君は百円ローソンで三本入りのソーダアイスのことだから、正確にはガリガリ君ではない。
ていうか、母は三本入りのラクトアイスを持ってきたから、もうガリガリ君でも何でもない。
「ほら、白いの」
「うん、白いね」
『白いの』は奥田家においてその場に存在するラクトアイス全てを対象とする呼称である。複数存在する場合はなんとなく理解するしかない。
私は一口、白いアイスの左肩をかじりとった。
「ああ、味がする」
そう私がいうと、味がするねぇと、母もいった。
武田さんが岡村真奈美さんの横で、うんうんと天気予報を聞いている。
岡村さんは相変わらず魔女っ子で、指し棒を振るう度に、何か魔法が飛んできているような錯覚に襲われる。
「さっきのアイスは味がしなかったねぇ」
と母がシミジミといった。
「ああいうアイス、何ていうか知ってる?」
「何?」
「貧乏アイス」
そう私がいうと、母は喜んで、貧乏アイス貧乏アイス、と繰りかえした。
「確かに貧乏だったからねぇ」
「あんなので兄貴とギャーギャー喧嘩をしてたんだよね」
そしてハッと気がついた。
そういえば、兄貴はこのアイスに関しては容易に手を引いていたような気がしたのだ。
まさか兄貴は三十年前、中一の時点で、これが『貧乏アイス』だということに気がついていたというのか。突然目の前が真っ暗になる。
指先の冷たさは、貧乏アイスのせいだけではないと思った。
「貧乏だったからねぇ」
我に返ると、母がBSに切り替えていた。
丁度、TARAKOがナレーションをしている、旅番組が始まったところだった。
「今日バス旅は?」
「九時から。ぶらりもあるし、木曜日は目白押しで忙しいのよねぇチャンネルは5、4、8よ」
私は母に先週の旅行先は聞かない。
どうせ覚えていないからだ。母は知識を仕入れるというよりも、その瞬間を楽しんでいるようだった。刹那的な母なのだ。
「貧乏アイスは、あと何本あるの」
棒を咥えながら聞くと母は、責任取って食べるからいいよ、ときかない。
「捨てちまえ」
と私がいうと
「なんて贅沢なのアンタ!」
と母が私の発想に度肝を抜かれていた。腰を抜かして座り小便の勢いである。
「貧乏貧乏いうな!」
寝たはずのおとんが、隣の部屋でわめいた。
日が出たばかりの畑を、雨滴をためたミゾソバを踏みしめ、柔らかな土の感触に警戒しながら、彼女はゆっくりあるく。目的を持って。まっすぐに。
ひさしぶりに雨があがった。谷の空気はたっぷりと湿り気をおびている。決然と歩く彼女の影は、くっきりと長く背後へとのびている。
ふいに耳の至近距離を振動音が通過する。
ぶうん。
蜜蜂が一瞬にして通過していくが、すばやくて姿を追うひまもない。
さらにもう一匹。
ぶうん。
うるさいな。
彼女は口のなかでつぶやく。自分がほんとうにそうは思っていないことを自分でも知っている。しかし彼女はもう一度いう。
うるさいな。
蜜蜂にむけていっているのではないことに、すでに気づいている。
うるさいな、もう。あいつも、あの子も、おかあさんもおとうさんも、それから自分も。自分がいらいらしていることに気づき、そのことでさらにいらいらする。なんでなんでもないのにこんなにいらいらするんだろう、うざいよ、もう、自分。
ぶうん。
蜂が飛びさった方角には養蜂箱がならんでいる。一列、二列、東西の方角に長くならんでいる。たぶん三十箱以上ある。べつの畑にもある。山向こうの谷にはもっとある。うちの仕事だ。
梅雨も終わりに近づき、夏も本格的になると、蜜が取れる花もすくなくなる。幼虫や女王蜂のために、働き蜂たちはたくさん働きたくなっているのかもしれない。
ならんでいる養蜂箱の一番端から異常はないか点検していく。電気で対策はしているけれど、山からの動物がまれに箱を襲うことがある。あるいは、蜜蜂が病気になったり、ダニやスムシにたかられたりして、被害をこうむることもある。なにか異常があれば、生まれたときから蜜蜂とすごしてきた彼女には、すぐにわかる。だから、朝の見回りは彼女の仕事になっている。
眠いけれど、朝一番のこの仕事をいやだと思ったことはない。谷の空気を吸い、蜜蜂たちといっしょにいる感じは、彼女を落ち着かせてくれる。しかし、今朝は理由のないいらいらが彼女をわずらわせている。
いらいらを追いはらおうと、彼女は蜜蜂の点検に集中する。もう花粉を持ち帰ってきて、巣箱にもぐりこんでいく蜜蜂がいる。うしろの両足にくすんだ黄色の花粉だんごをくっつけて帰ってくる。よかった、この子はどこかに花を見つけたんだ。それを仲間に知らせて、みんなが取りに行くことだろう。そしたらこれは、幼虫の体を作るタンパク源になる。
クラスメートで養蜂の仕事を理解している者はいない。担任の霜島先生だって理解しているとは思えない。
今年の春、年度が変わったばかりのころ、霜島先生から訊かれた。
「ミツバチが全滅しちゃう病気が世界中で流行しているらしいけど、おまえのところはだいじょうぶなのか?」
蜂群崩壊症候群というやつで、日本ではまだそれほど大きな問題になっていないけれど、欧米では大問題になっている。ダニ、ウイルス、農薬など、いろいろな原因がさぐられているけれど、まだはっきりとしたことはわかっていない。特定の農薬を糾弾する環境運動家もいるけれど、問題はそれほど単純じゃない、とおとうさんがいっていた。
霜島先生が心配してくれていることがわかって、そんなことを伝えたのだけれど、うまく伝わったかどうかはわからない。
クラスメートたちとそんな話はまったくできないし、する気も起こらない。みんな、ゲームかアニメかファッションか、友だちや友だちの家のことや先生たちの噂話か、どうでもいいようなことを一日中熱心にしゃべっている。
彼女は突然、自分がなんにいらだっているのかわかったような気がする。
そうだ、あたしはみんなの愚かさにいらだっているんだ。いや、みんなだけじゃない。先生たち大人も、社会全体も、あたし自身も愚かで、なんにもわかっていない。もっといっぱい知りたいのに。もっといろんなことがわかりたいのに。
日がだいぶのぼった。まだ穂をつけていないススキの葉先には乾ききっていない水滴がキラキラと光っている。その手前を、金色に光った蜜蜂たちがピュンピュンと山に向かって飛んでいく。斜め三〇度くらいの角度で飛びあがり、すぐに見えなくなってしまう。その先の山すその谷川ではアオサギが岩の上から朝食を物色している。
世界はこんなに美しいのに、美しく見えているだけなのかもしれないと思って、彼女は苦しくなる。
一番奥の巣箱の前で、彼女は足をとめる。なんとなく養蜂箱のふたをそっと持ちあげてみる。面布は着けていない。なかでは数万匹の蜜蜂が団結しているサインのジュワジュワという羽音をいっせいに立てる。
異常なし。
ひたいに一匹のミツバチがコツンとぶつかってきた。
「ごめんごめん。邪魔しちゃったね。すぐに閉めるからね」
刺されはしないことを彼女はよく知っている。でも、もっともっとミツバチのことを知りたい。おとうさんよりももっとたくさん知りたい。知りたいのはミツバチのことだけじゃない。
神さま、あたしにこの世の秘密を教えてください。
祈りながら、彼女はそっと箱のふたを閉める。
なかを泳げるほどの濃霧の朝、ぼくらは出発する。
ぼくらを岸壁から引きはなしたタグボートがはなれていくと、フォグフォーンを一発。ながく尾を引く警告音が港内にひびきわたり、ぼくらは白灯台を右に見ながら外海へと乗りだす。
波はない。波高ゼロ。油を流したように凪いだ海面を、濃い霧がなめている。その霧と海面の境界を分けて、ぼくらのコンテナ船五万トンがゆっくりと進んでいく。五万トンの海水が右と左と下へと分けられ、巨大なスクリューによって後方に押しやられる。巨大な質量の移動だが、それは静かにおこなわれる。聞こえるのは低くくぐもったディーゼルエンジンの音と、ひたひたと船腹をなでる水音だ。
カモメが何匹かついてきて、船のまわりをせわしなく調べる。自分たちに餌を投げあたえる人影がないかどうか、調べているのだ。が、出港時のいそがしい時間に、そんなことをする乗組員はいない。すくなくともぼくらのコンテナ船にはいない。もしいるとしたら、暇を持てあますか、酔いざましにデッキに出てきた客船かフェリーの乗客くらいだろう。
コンテナ船が沖へ出て、エンジン音が変化すると、カモメたちもあきらめて霧のなかへと去っていく。
霧もまた、急速に薄れていくようだ。
陽が射しはじめると、濡れていたコンテナもあっというまに乾いていく。陸地近くでは凪いでいた海面も、沖合に出るとわずかなうねりを見せはじめる。ほとんど揺れはしないが、わずかに平行が傾くと、老朽化したドライコンテナの継ぎ目からノイズミュージックが聞こえはじめる。
ぎしっ、ぎしっ、かちゃん。
ぎゅっ、ぎしっ、かちん。
それぞれのコンテナはセル・ガイドにそって固定されていて、船が揺れても荷崩れの心配はない。積荷も船体そのものも、巨大ハリケーンにも耐えるように作られている。ぼくらは海に出てすでに十五年を経たベテランだけれど、まだまだやれる。現役まっさかりといっていい。
ぼくら大型コンテナ船は、各地のハブ港に集結したコンテナ貨物をさらに積みかえ、世界をまわる。香港、シンガポール、ドバイ、ハンブルグ、ロッテルダム、ブレーメン、ニューヨーク、ロサンゼルス。地球を何周したことだろう。人々が見たこともないような光景をたくさん見てきた。
フォークランド諸島の沖合で無数のクジラの群に遭遇したことがある。吹きあげる潮と壮大な合唱で、海がだれのものなのか思い知らされた気がした。
ペルシャ湾では巨大な空母とそれから発着する戦闘機を見た。彼らは昼となく夜となく働いて、思想信条のことなる人々を殺戮するのに余念がなかった。ぼくらのすぐ上をミサイルが飛びすぎたこともあった。
冬のノルウェー沖では満天に踊り舞うオーロラに怖れおののいた。それらはときに天使の舞のように、ときには悪魔の牙のように、ぼくらの身体のなかにまではいりこんでくるような気がして、生きたここちがしなかった。
夏の日本海ではイカ釣り漁船団のまっただ中を通過したこともあった。無数のまばゆい集光灯が、まるでそこに一機の巨大な宇宙船でも着水しているような錯覚を見せていた。
いま、ぼくらは、霧が晴れ、まばゆい陽光を受けながら、おだやかな南シナ海をすすんでいる。高雄、香港を経由し、いまはシンガポールに航路を取っている。この航路では何度か台風に見舞われた。でもぼくらはそのつど、台風の目が頭上を通過するなかを、五万トンの水を分けながら進んでいった。十二メートルに達しようという波もものともせず乗りこえてきた。五〇メートルを超えるほどの風速でも、きっちりと積みあがったコンテナの位置は一ミリも狂わなかった。
ぼくらの右のほうからかなりの速度で、おそらく中国籍の漁船がちかづいてくる。大きな漁船でも、何人かの男が船べりで立ち働いているのが見える。これから遠洋に出かけるのだろう。彼らはぼくらの後方をすり抜け、左後方へと遠ざかっていく。漁船がけたてる白い波が静かな海にくっきりと航跡を残す。ぼくらの航跡もまた、黒々とした海面の色をうすくかきまぜて、まっすぐ後ろへと、速力24ノットでのびている。
コンテナ船の仕事は、入港前と接岸時、そして入港後がピークだ。よく、遠洋航路の船員はいろいろな土地を訪れることができることをうらやましがられることがあるが、実際には入港してものんびり上陸して観光しているような時間はほとんどない。ガントリークレーンによる荷揚げ、荷積み、積み込みのプログラム、コンテナの計数、マニフェストとの付きあわせといった山のような仕事がある。接岸するとほぼ一日がかりで荷揚げと荷積みがおこなわれるが、それでも何百個というコンテナの入れ替えが一日しかかからない。そして乗組員はのんびり上陸を楽しむ時間はほとんどない。
港を出てしばらくし、点検、データ確認などの作業が終わると、ようやくひと息つける。しばらくは退屈との戦いの日々となる。
香港を出て半日、ちょうど秋分に差しかかろうという秋の太陽が、いま、西の水平線へと落ちかかっていく。ぼくらはそれを、朝がたに中国の漁船が去っていった方角、左舷後方に見ている。
左舷後方の水平線近くには、いつの間にか薄い雲がかかっている。たっぷりバターを使ったパイ生地のように層状になっていて、太陽はまさにその層のあいだをくぐり抜けて沈もうとしている。大気圏で光がゆがみ、倍の大きさになった太陽。空中の塵で青色が拡散し、オレンジの火球と化した太陽。オレンジ色は雲と空と、それを映す海面をもそめあげる。
一瞬たりともとどまらない変化のなかで太陽は水平線へと急速に落ちていき、やがて溶けこむように海に呑みこまれて消える。
赤の光は空にとどまり、やがて紫から青みを帯び、暗く沈んでいく。光量が急速に減衰し、宇宙の背景があらわれるとともに、星々が姿を見せる。
ぼくらの船は星空にブリッジを高々と突きあげ、左舷の緑色灯と右舷の赤色灯をほこらしげに輝かせて進みつづける。
夜がふけると、船員たちは当直と眠れない者を残してほとんどが、それぞれの寝台で寝静まる。当直の航海士は操舵室に立っているが、ぼくらはオートパイロットで航海しているし、なにか障害物があればレーダーが知らせてくれる。当直も四時間の辛抱で、真夜中が来れば交代して自室にもどれる。あるいはしばらく星でも見ようか。今夜はミルキーウェイが見られそうだ。
と、レーダーに右舷からなにか接近してくるものが映る。船ではない。低く飛ぶ航空機のようだ。旅客機ではない。軍用機、速度からして戦闘機かもしれない。南シナ海は東シナ海ほどではないにせよ、さまざまな軍事的緊張がある海域で、ぼくらもいろいろな軍事的事象を見てきた。空母や護衛艦、駆逐艦などの艦船はもとより、いまのように航空機も軍用のものを頻繁に見る。浮上した潜水艦が休んでいるのを見たこともある。あれはひょっとしてエンジントラブルで停止していただけだったのかもしれない。
ぼくら民間船が港と港をつないで人々に物資をとどけているあいだにも、軍用船はあっちへいったりこっちへいったりと、ぼくらみたいに忙しそうにしている。ぼくらコンテナ船が車の部品や、衣服や、コーヒー豆や、缶詰や、パスタや、ワインや、果物や、材木や、冷凍肉や、スパイスや、本や、電気製品を運んでいるあいだにも、彼らはダミーの的になっている廃船に向かって大砲を撃ったり、戦隊を組んで演習したりしている。
レーダーの機影は、やがて左舷方向に消えていった。
夜中がちかづいてくる。
このあたりの緯度だと、この季節でもさそり座がくっきりと前方に視認できる。アンタレスの目玉がひときわ赤い。
そしてミルキーウェイ。
それを斜めに横切っていく人工衛星。
すこし波が出てきている。といっても、一メートルかそこいら。二メートルはない。
波を切る音が立つ。暗闇でほとんど見えないけれど、航跡はさらにくっきりと白いことだろう。
ぼくらは闇と黒い海面を切りわけて、力強く進む。
ぼくらが運ぶのは、さまざまな国の、さまざまな人種の、さまざまな階層の、さまざまな立場の、さまざまな人々のいとなみのための物資。ぼくらを待っている人が、世界中にいる。
2015年12月2日 発行 初版
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東京世田谷在住。作家、音楽家、演出家。 現代朗読協会主宰。音読療法協会オーガナイザー。 朗読と音楽による即興パフォーマンス活動を1985年から開始。また、1986年には職業作家としてデビューし、数多くの商業小説(SF、ミステリー、冒険小説など)を出している。しかし、現在は商業出版の世界に距離を置き、朗読と音楽を中心にした音声表現の活動を軸としている。 2006年、NPO法人現代朗読協会設立。ライブや公演、朗読者の育成活動を継続中。数多くの学校公演では脚本・演出・音楽を担当。 2011年の震災後、音読療法協会を設立。音読療法士の育成をおこなうとともに、音読ケアワークを個人や企業、老人ホーム、東北の被災地支援など幅広く展開している。 詩、小説、論文、教科書などの執筆も精力的におこなっている。