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 目 次

十二月には隠蔽する。 尋隆

コワイヨル 二三竣輔

人形遊び ヨシ

悪友と哲学者の行進曲 第六話「悪夢」 二三竣輔

たとえ空が赤色でも、世界がイブで終わりでも。第二章―②「再生専用の音楽プレイヤーで幸せを奏でて」 二丹菜刹那

表紙写真 尋隆

あとがき

君が色づけたんだ。

十二月には隠蔽する。

尋隆

<新作読み切り・小説>

十二月には隠蔽する。

 何だったかな、きっかけは。特に目立ちたい訳でもない、むしろ目立ちたくなんかない。
「今の子、名前なんだっけ」
 名前を呼ばれるのも
「ああ、紫に花で、あい、だよ。確か」
 好きじゃない。
「そうそう、変わった名前の」
 できることなら、何事もなく過ごしていきたかったはずなのに
「紫花、ちょっといいか」
「なに悠樹」
「来月の文化祭のことなんだけど」
 こんなにも騒がしい中にいる。




 高校に入学してやりたいことはなかった。部活にも興味はさほど湧かない。将来なんて考えたこともない。今を生きるのに、今を守るのにそれなりに必死で、他人との関わりなんて考えたくもなかった。
「それじゃあ、寂しいでしょう」
 穏やかに笑った桜川先生の髪が、木枯らしに靡く。寒いというのにどうして風にあたるのか。暖房も点いているのに。西校舎三階の閲覧室は西日がちょうど入って暖かい上に解放的だ。この空間は私と桜川先生、そしてもう一人、宮園の秘密の空間。一年前、桜川先生が赴任してきて初めての担任を受け持つことになったのが、私たち一年四組だった。柔らかな物腰に、穏やかな口調。栗色の細くて長い、腰まであるストレートの髪は、まるでそれらを具現化しているようで、第一印象は可憐、その言葉がよく似合うと思った。
「先生は、学生時代どうやって過ごしていたんですか」
 いつからだろう。この教室で先生と話すことが日課になっていたのは。
「そうね。夢をみて期待をして裏切られたり。努力はやっぱり報われないと頑張ることをやめたくなったり」
 きっかけはたしか先生がこの教室で泣いていたとき。あのときからもう一年が経っている。
「苦しいことばかりじゃないですか」
「ええ、大きな青春の一ページを刻んだわ」
 苦しいと肯定したのに、先生の顔は晴れやかで、私の顔には疑問が浮かぶ。
「どんなに大人ぶっていても納得できないのなら、まだまだお子様よ」
 そんなつもりはない。けれど、苦しいのが青春だというのなら、なおさら関わり合いなど持たなくていい。
「苦しいは辛いとつながっているわけじゃないのよ。裏切られることは多い。報われることは少ない。けれど、その経験から学ぶことは多い。考えることをやめてしまったら、苦しかった、としか残らないけれど、学ぶことができたなら、自分の糧になったのであれば、その青春は悪くなかったんじゃないのかしら」
 当時は後悔してしまうものだけどね。付け加えるように言いながら、遠い目で窓の外を見る。
 大人は、後悔のない人生を歩めと、人生の選択を間違うなと私たち子供に命令をする。それを言いつけのように守る私の生き方を、後悔しないために人と極力関わらない生き方を先生は「寂しい」という。私は寂しくはないのに。
「ときに、日向さん」
「はい」
 向き直り、先程の微笑みとはまた違う笑みを浮かべる先生はまるで悪戯っ子のよう。
「生徒会、やってみない?」




 人と関わることは極力避けたかった。ただえさえ女という性別に生まれて、女同士の関係も、男女の関係も面倒だというのに。女同士では同意が大事だ。思っていなくても、可愛いと思えないものでも同意を求められたとき、同意しなければ「私は可愛いと思うんだけどな」と。そう言うのであれば聞かなければいいのに。自分の中に留めておけばいいじゃないか。“共有”が全て悪いとは言わない。けれど押し付けになってしまったら違う。男女間にある恋愛関係がとても嫌い。憧れていました。綺麗だから。どうして? こんなに性格が歪んでいるというのに。「私のことなにも知らないでしょう」。これから知っていけばいいなんて、私は到底あなたたちの理想には当てはまることはできない。
 なんて息苦しい。
「演じてしまうのも楽しいよ」
 演劇部に所属する宮園は口角だけを上げる。
「そんなに器用じゃない」
 知っているはずだろう、幼馴染なのだから。家が隣同士。幼稚園からここまで何の因果か高校まで同じところになってしまった彼女とは腐れ縁だ。
「なのにやるんだね。生徒会」
「やるつもりはなかった」
 自然と眉間に皺が寄る。あの人はずるいと思う。あれよあれよと言いくるめられ「よろしくね」なんて。最初から拒否権なんてなかったんじゃないか。役職は書記だからいいものの、これからが嫌だ。ポスターに立ち会い演説に、穏やかだった世界が一気にめまぐるしく回り始める。ああ、嫌だ。
「人に振り回される紫花も珍しいものだね」
 目をきゅっと三日月型にして笑う。いつもの演技じみた笑い方よりもこちらの方がよっぽど可愛い。だからこそ、皮肉にしかとれないのだけど。
「まあ、立ち会い演説は私が出てあげるから」
「ありがとう」
「紫花がどれだけ素晴らしい人間か知らしめてあげるわ」
「絶対にやめて?」
 冗談だって、と笑う彼女は信用ならない。当日風邪でも引いてくれないかなこの女。そう思うほどに、彼女は嫌に笑う。




 私たちが通う梅ヶ高校の生徒会役員は通年であり、冬のこの一回しか選挙は行われない。だからか少し変わっていて三年生が会長も副会長もやるのだが、卒業してからは生徒会長と副会長を現二年生の書記と会計が引き継ぐ。そのまま繰り上がるように。よって既に生徒会長と副会長は決まっていることになるので選挙枠は書記と会計の二つのみ。次期二年生しか立候補できず書記、会計ともに男女問わず一人ずつのため毎年倍率は高いと先生が言っていた。もしかして、うまくいけば当選せずに済むんじゃないだろうか。このまま何もせずにことを過ぎることを待てば……。
 放課後にある顔合わせに向かう足も軽くなりそうだ。ふっと力が抜ける感じがした。やはり気負うのは好きじゃない。穏やかに、どうか平穏に何もなければいいと思う。
 同じクラスからは、あと二人。書記に立候補の鈴木君と会計に立候補の漆間くん。もちろん、どちらも話したことがない。顔すら思い出せないくらいだ。
 北校舎三階の生徒会室。
「失礼します」
 足を踏み入れると中にいた人たちが一斉にこちらを向く。生徒会室にしては広いそこは、ほかとは異質。人の視線は苦手だ。敵意、好意、興味。いろいろな目を向けれる。
「日向さんだね。こちらにどうぞ」
 いつも笑みを浮かべていて人望の厚い現生徒会長である逢坂先輩に促されて書記の候補者席に通される。どんな仕事でも彼に任せておけば大丈夫、と先生方も豪語するほど厚い信頼のある人だ。確かに、去年の文化祭はこれが高校の文化祭か、というのにはもったいないほど素晴らしく、他の高校の校長が直々に挨拶に来るくらいだった。ここに、と言われ席を見れば名札に「漆間」と書かれた男子の向かい。少し会釈をして席に着く。漆間……ああ、確か去年の入学式の新入生代表挨拶をしていた。淡々と述べる言葉に乗った低い声は、静かな体育館に素晴らしく響いた。睡魔もかき消すほどに印象的だったのを覚えている。心地いい声ではあるなと、でもそれだけ。関わりを持ったことはない。きっとこれからも持つことはないだろう。
「すみません、遅れました」
 私の右隣の席に座った、どこにでもいそうな線の細い男子。彼が鈴木君らしい。
「さて、みんな揃ったね」
 爽やかに笑った逢坂先輩が全員を見渡して話を進め始める。立候補者は会計が七人、書記が七人の計十四人。この中から二人だけが選ばれる。やる気に満ちあふれる人ばかりで選ばれなそうだとほっとしたのは内緒だ。
「みんな、質問は以上かな? では、会計と書記はペアを組んで」
 楽しそうに笑いながら発した言葉が緊張で張りつめていた空気を一気に壊す。どよめきだす人達と何が起こっているのか理解が追いついていない人。それぞれが浮かべる顔が滑稽だったのか副会長が口元を歪める。冗談じゃない。私なんか初めて見た顔しかいないというのに。クラスメイトのフルネームでさえも今、知ったというのに。誰かが動く気配はない。大体、彼の意図が読めない。どうしてペアを組まなければいけないのか。何をさせようというのか。困惑が満ちる中、逢坂先輩はにこやかなまま。その様子を見かねた書記の山内先輩が口を開く。
「今すぐに、というのは難しいでしょう。明日の放課後までにペアを決めて報告しに来てください。名簿に記入をして頂いてから、プリントをお渡しします」
 丁寧な物言いに全員が頷き「よろしくね」と逢坂先輩はにっこり笑った。




「日向さん、ちょっといいかな」
 クラスメイトに呼び出されたのは久しぶりだった。
「……なに」
 昨日の今日での呼び出しだ。大体の検討はついている。
「ペアになってくれ」
 漆間君はまっすぐに私の目を見つめて言う。わかっていたことだけれども、返答にはとても困ったものだ。だってこの人は、会計になるつもりは充分。その先、会長になることを目指している。けれど、私にやる気はない。できれば別の人にしてほしい。この人と組んでしまったら、生徒会に入ってしまう気がする。
「……できれば断りたい」
 素直な答えだった。漆間君の顔が歪む。それでも私の答えは変わらない。下を向いた彼から深い溜め息が溢れる。
「日向さん以外と組む気がないんだよね、俺」
 もう一度顔を上げた漆間君の瞳と向かい合う。
「どうして、私なの」
「頭がいいから」
「それは、鈴木君もでしょう?」
「お前、国語、満点だったろ」
 あと、数学。にやっとした彼の口調は少し乱暴なものに変わっていた。どうして知っているのか。おそらく彼は満点に近い点数だったのだろう。しかし、個人の成績表には二位の文字が書いてあったに違いない。否定できないな。私も溜め息を吐く。
「やる気、ないけど」
「それでもいい」
 気持ちが揺らぐ。お手上げだ。彼は恐らく引いてはくれないだろう。まっすぐな瞳は私から視線を離さない。まったく。桜川先生といい。私はお人好しになった覚えはないんだけどな。しょうがない、そう思って顔を上げて視線を交わらせる。
「よろしく?」
 勝ち誇ったように笑う彼は手を差し出した。
「……よろしく」
 あくまでペアになるだけだ。手は握らなかった。




「これがプリントです。このプリントは今年度の部費の割当表です。これを基に来年度の部費の割当表を作成してください。相談は可能です。もちろん、先生方にも。期限は一週間です。今日が十一月二十八日の水曜日ですから来週の水曜日、十二月五日に提出してください」
 事務的に並べられた言葉を頭の中で整理していく。来年度の部費の割当表の作成。お手本があるものの金額は違うので一から自分で作らなければならない。
「日向、これを見て何を思った?」
 急に覗き込まれて思考が停止する。くっきりとした二重。まつげ長いな、こいつ。この顔だけで何人の女子を敵にできるのだろう。でも性別が違うから憧れになるのか。
「日向?」
 こてん、と首を傾げる。この仕草は好きじゃない。まるで自分が可愛いこと、効果が異性にあることをわかっている上で行っているような気がするからだ。一気に冷めた。
「今年度の資料だけでは基準がうまくわからない。せめて前年度のものも欲しいな。そうすれば割当はわかりやすい」
「そうだな。じゃあもう一度、生徒会室に行こうか」
 踵を返してもう一度生徒会室のドアを叩く。
 なんだかうまく乗せられている気がする。やる気はないと言ったはずだ。ここまでする必要もないはずなのに。実は、もう一つ疑問があった。「期限は一週間です」この期間はどちらかと言えば長い。割り振って入力するだけの簡単な作業。これに一週間。前々年度のが必要だと気がつけば一日でできる。ペアが今日中に決まらなかったための猶予? なにか引っかかりはするがどちらにせよ大きな問題ではないか。さっさと終わらせるだけだ。
 プリントを見つめる。この作業にどんな意味があるのか、何を試しているのか。何故ペアにならなければいけないのか。気になることだらけだが、知らない振りが一番だろう。正直なところこれ以上は厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。漆間がプリントを片手に戻ってくる。どこか窓が開いているのだろうか。吹き込んでくる風に少し身震いした。




 違和感を感じたのは、割当表が完成してからだった。情報室の無機質に並べられたパソコンの一角。光が灯る画面に映し出される整理されまとめられた割当表。配当もしっかりできていたはずだ。なんだろう、この違和感。電卓を出して計算をし直す。
「日向、どうした?」
「少し、待って」
 指が数字の上を滑っていく。来年度の計算に間違いはない。どうして違和感が生まれるのか。……あり得なくはない可能性を孕んでいる今年度と前年度の割当表の計算を試しにしてみた。嫌な予感がする。当たらないでくれ。そう願いながら数字が画面に刻まれていく。位が高くなっていく数字たち。ある数に行き着くと指が止まった。
 口にしたくない。ここで言わなければ確実に生徒会に入れなくて済むはずなのに「言わなくていいの?」って心の中で問いかけられる。言わなければならないだろうか。言わなくてもいいだろうか。きっと彼なら一人でも気がつくはずだ。だったら余計なことなど……。
「日向?」
 また、あのまっすぐな瞳を向けられる。やめてほしい。そんな瞳で見られれば答えなければいけない気に駆られる。だけど頑張るのは面倒だ。あぁ、どうしてこんな単純なことに悩まなければならないのだろうか。知らない振りが一番だと昨日思ったばかりなのに。
「紫花」
 静かな空間に響いた低い声は確かに私の名前を呼んだ。
「俺はやる気がないと言ったお前を俺の我が儘で無理矢理ペアになってもらった。だからお前に頑張らせる気はない。ただ、ヒントを見つけたら俺に教えてくれ。必ず俺がどうにかしてみせるから」
 その自信はどこから来るのか。私のなにを信用するというのか。ヒントさえも嘘だったらなどと考えないのだろうか。
「漆間君ってキザだね」
 くだらないことなど考えても意味がないじゃないか。頑張ることができる人には何を言っても無駄だ。どんなに挫けそうになっても勝手に歩いて行ってしまう。私は無気力でありたい人間だから頑張れる人からは逃げてきた。逃げてきたからこそ疑問も沢山持った。どうして苦しいのに前に進むの? 持たなければ捨ててしまえば苦しくなんかないのに。悩まずに済むのに。抱えきれないのに持とうとするんだろう。溢れ落ちて行くのにそれすらも拾い上げようとする。自覚なんてしたくなかった。
 いつから私はつまらない人間になってしまったんだろう。
 人の上に立ちたいとはこれっぽっちも思わない。漆間君といても誰かと関わり合いたいとは思わない。けれど、これは引力だ。とてもとても重い。だからまずいと思ったんだ。生徒会に入ってしまう。それが確信に近くなって行く。
「漆間君は生徒会長になりたいの?」
 少し驚いた表情をする。初めて見る顔。まるで弱点でも見つけたような気分になる。
「なりたいよ」
「何故?」
「楽しそうじゃん」
 迷いもせずに放ったそれはあまりに単純過ぎて、すとんっ、と音を立てて私の中に落ちた。そんな理由で? 私は彼の為に彼の引力に引かれて頑張ろうと心を動かされなければならないのか。なんだか、いやとても癪だ。
「漆間君って格好つけたがるよね。実は口調少し荒いし頑固だし。生徒会長になったら大変そう」
「それって悪口じゃない?」
 彼は困ったように笑う。
「でも、確かに楽しそう」
 時計が五時を指す逢魔が時。窓際に座ったのが仇となったか。西日のせいで逆光になった彼の表情は見えなかった。
「まず、この期間これだけの作業のために一週間は長いと思わない? ましてペアでやるんだし、一日で終わる作業だよね。実際に終わっているし……、聞いてる?」
「あ、ああ、聞いてるよ」
「じゃあ、続ける。この作業に二人も一週間もいらないんだ。……なに?」
 顔をじっと見つめられる。そんなに見つめられても喋りづらい。
「いや、笑うんだと思って」
 不思議そうな顔をして言う彼を引っ叩いてもいいだろうか。恐らく今、失礼なことを言われた気がする。
「悠樹」
 先程の仕返しだ。それにしても、慣れないことがこんなにも恥ずかしいなんて。男の子の名前なんて下の名前で、しかも呼び捨てで呼んだのなんて初めてだ。赤くならないでどうか。邪魔だと思った西日に感謝だ。
「ちゃんと話を聞いて。最初からおかしいと思っていたわけなんだけど、この割当表に感じる違和感」
「でも計算はあっているんだろ?」
「“来年度”はね」
 そう、来年度に問題はない。問題なのは“今年度”の割当表だ。
「本当だ、計算が合わない」
 どう計算しても前年度のものは一万円が足りていない。大きな額だ。生徒会が気がつかないはずがない。
「恐らく、これが今回の本当の課題」
「前年度は?」
「合ってる」
 前年度のものが合っていても今年度が合っていないのであれば来年度の割当表は作れない。それでは、画面に映し出されている立派な割当表も意味を失う。消えた一万円をどうにかしなくては。
「去年、なんか言ってたか? この割当表の配布の生徒会集会で」
「なにも言っていなかったはず」
 偽造された一万円。どうして誰も気がつかなかったのか。どうやって偽造したのか。
「もう一度、生徒会室に行こう」
 それに同意して頷く。日はもう落ちていた。




 今日だけで生徒会室に三回は出向いているが固く閉ざされた扉は一度も開きそうもない。走り回って、部活動の半分以上は「部費があっているか」という聞き込みは終わった。だが、めぼしいものはなにも出てこない。先生方にも聞いてみようと思ったが、一万円の行方なんて聞いたら騒動になってしまうんじゃないかという考えから、安易に行動ができない。
「大変そうね」
「ええ、とても」
 慣れないことなんてするものではない。日頃の運動不足をただただ恨む。くすくすと笑う宮園には殺意を覚えそうだ。
「桜川先生はなにかご存知ないんですか」
 窓際で静かに小説を読みながら肩をふるわせ笑いを堪えている先生。バレていないとでも思ったのか、白々しく顔を上げる。
「そうねえ、特にはなにもないと思うけど、今年、なにかあったかしら」
 今年……、特に大きな事件もなく今年は終わろうとしている。球技大会。文化祭。催し物だとそれぐらいしか、思いつかない。違和感のある一万円。計算がずれることを知っていたなら犯人は雑費などのところに一万をプラスしてもよかったわけだ。なぜそうしなかったのか。書き換え、で言うと犯人は生徒会にいる線が濃厚だが、教師の横領だったら? 一万なんて取るだろうか。わかりにくいから? どうして一万なのかもわからない。このままでは前に進んだところで進展はない。
「残りの部活に聞き込みしてくる」
 結果は変わりなさそうだけど。憂鬱で深い溜め息が出る。




 特に進展もないまま土日を挟んでしまい、憂鬱さは増して行く。せめてなにか、変わったことがあればよかったんだけど、簡単にもいかないわけで。
「また表とにらめっこしてるの?」
 前の席に座る宮園が呆れたように言う。
「好きでやっているんじゃない」
「今回ばかりは嘘だね。自分の意志でやってるじゃん」
 癪だ。確かに自分の意思でやっているが、この女に指摘されると癪でしょうがない。今日を合わせてあと三日で提出をしなければならない。なのに進展はしない。一日が長ければいいと、授業がもどかしいと思ったのは生まれて初めてだ。
「あれ? 最終割当表はあるのに割当表案はないんだね」
「割当表案?」
「春の最初の生徒会総会で配られた、今年はこんな配当ですよーっていう」
 おぼろげな記憶を呼び覚ます。そんなのもあったかもしれない。悠樹はまだ登校していない。あとで話をしてみようか。




 悠樹に会うと既に、割当表案を手にしていた。
「土日の間に探し出した」
 不機嫌そのもので差し出された割当表案を現在手にしている最終割当表と見比べる。
「これ……」
 割当表案、中腹の『文化際賞金 一万円』の文字。最終割当表からは消えている。これが今回の発端の消えた一万円だろうか。
「なにがなんでも生徒会に聞いてみる必要があるな」
 怒気を含んだそれは半ば八つ当たりに等しい。三年生の教室に向かって歩く悠樹の背中を追いかけた。



 
「文化祭の優勝者の金一封? ああ、結局なくなったんだよ」
 副会長の梅山先輩がそういう。伝達がうまくいってなくて。運悪く悠樹に捕まった先輩は申し訳無さげに言った。
「私もおかしいなーと思ってたんだけど、単なるミスかなって」
 そう話す先輩はどんどんと怒気を孕んで行く悠樹とは裏腹に屈託なく話続ける。
「あのときは確認も伝達も上手くいっていなくて、あとから放送でも入れればよかったんだけど、気がついたのが当日だったんだよね」
 運営としてどうなのだろうか、と思うところはあるが、それはさておき
「では、一万円は余った、ということですか?」
 それで終われば、この頑張りは取り越し苦労で終わるのだが、まあ、表はできているからよしとする。
「あー、余らなかったな、確か」
 ということはだ、どこかでこの一万円は使われていることになる。また問題が増えた。
「どこで使われたんだろう。ほんとごめんね。把握してなくて。逢坂もさこの文化祭の伝達ミスがあってから、更に完璧を目指すようになっちゃったんだよね。……完璧なんかじゃなくていいのに」
 笑顔が消え、表情に陰を落とす。
「逢坂にはもっと周りを頼ってほしいんだよね」
 確かに、頼りないけど。消え入りそうな声で呟けばまた、ころっと表情が変わり
「あ、もう一つ、不思議と言えば、他校の校長が来たとき当日、急に決まったにも関わらず、逢坂は手土産も用意してたんだよね。これくらいかな、わかるのは」
「そうですか、ありがとうございます」
 頭を下げて、教室に戻る。悠樹の歩く足は速い。それにしても、梅山先輩はころころと表情の変わる人だったな。表情の変わらない逢坂会長と反する梅山副会長。だから成り立つのだろうか。
 どん、と衝撃が走る。目の前には悠樹の背中。
「ここ、文化祭で優勝した教室」
 するといきなり扉を開けて
「すみません、委員長いますか!」
 大きな声で言い放つと教室内は静まり返る。
「僕、だけど」
 少し茶髪の髪をワックスで遊ばせた先輩が立ち上がり、こちらまで歩み寄ってきた。
「少し、お話いいですか? ここではできないので、場所を変えましょう」
 不敵な笑みを漏らす悠樹。味方なら強いけれど、絶対に敵にはしたくない。
 移動してきたのは資料室となってしまい今はほとんど使われていない教室。
「話って?」
 口火を切ったのはいらいらした先輩で、一色触発しそうな雰囲気に押される。
「文化祭のことなんですけど」
 先輩の眉がぴくり、動いたのをきっと悠樹も見逃さなかっただろう。
「来年優勝したいんですよね。賞金ほしくて」
「賞金? なんのこと」
 恐らく、この人はそんなに頭が良くない。見た目からして皆を引っ張って行けるから、委員長になったのではないだろうか。そんな気がする。
「あれ? もらいましたよね? 賞金」
 単なる鎌掛けだ。これに乗ってくるかは、五分五分。なんとも強引な手に出たものだ。とりあえず、黙って見守るのが吉だろう。
「……誰に聞いた?」
 それは肯定だった。悠樹の口の端が更にあがる。楽しんでいるんだろう。この駆け引きを。こいつ、本当はとんでもなく性悪なやつなんじゃないだろうか。
「噂で」
 ありもしない嘘を平気で吐き続ける彼と正直に答える先輩。失礼だけど滑稽で、笑いそうになってしまう。
「まあ、各クラスの委員長しか知らないから、詰め寄ればわかることだけど。他に漏らすなよ」
「はい」
「確かにもらったよ。五千円だけどな」
 見なくてもわかる。悠樹の顔は今までにないくらい、満面の笑みだろう。となりからばしばしと伝わってくる。
 ああ、これでやっと一気に真実へ詰め寄った。




 昨日まであんなに楽しそうにしていた悠樹は言い放ったのだ。
「これは、気づいてはいけない嘘だ」
 静寂が苦しい。消えた一万円。それは事件でもなんでもなく、完璧主義者による隠蔽。彼は気がつかなかったことにする、と言うのだ。
「どうして」
「これが露見したら、生徒会の信用をなくすだろ」
 それは俺にとっては痛手だ。そういう悠樹の横顔を見つめる。これは、本心なのだろうか。
「じゃあどうして、この課題なの」
 この課題を進めて行けば、行き着く先は同じだ。ならば別の物でもいいじゃないか。わざわざこれにしたというのは、知ってほしい、気がついてほしい。そういうSOSのメッセージが込められていると考えていた。愛想笑いを浮かべてばかりの会長だから、気がついてほしいと思っているんじゃないだろうか。急に、会長が孤独なものに思えた。



 期日までに表を出し終えることはできたが、やはり腑に落ちなかった。だから今日、ここに来ることは、悠樹には伝えなかった。きっと止められる。そう思ったから。でも、孤独に愛想笑いを浮かべる彼と、答え合わせをしなければならないと思ったから、時間を取ってもらった。緊張からか、ただ寒いからか、指先がかじかんでいる。はぁーと暖かい息を指先に落として生徒会室の扉に手をかけた。
「失礼します」
 中からの反応を待つ前に、足を踏み入れる。
「やあ、日向さん。怖い顔でどうしたの?」
 生徒会長と書かれた席に着いて、普段と変わらず彼は爽やかに笑う。
「そういえば、お疲れさま。漆間君と一緒に協力してやり遂げたみたいだね」
 西日が嫌に彼の味方をする。眩しくて、彼の表情が窺えない。心地いいと感じていた木枯らしも身体の芯を冷やしていくだけだ。
「えぇ、結局未完成になってしまいましたが」
「そう? でもいい出来だったよ。ちゃんと配当をわかっている」
 あどけなく笑う彼はとても楽しそうで不気味だった。
「逢坂会長」
 しっかりと彼、逢坂会長を見据える。しかし笑うことをやめない。
「なにかな、日向さん」
 こんな面倒ごとに自分から突っ込んでいくなんて思いもしなかった。これは気がついていはいけない嘘だと悠樹は言った。けれど、私はそうではないと思ってしまったんだ。
「どうして笑っているんですか」
 こてん、と首を傾げる。似合ってはいる。だけど会長がやると更にわざとらしくて気に食わない。
「どんなときも笑っている会長を凄いと思っていました。私は愛想笑いなんてできないから。笑顔を絶やさない、完璧にこなす会長を尊敬したこともあります。ただ今は……」
「怖い?」
 そこに愛想笑いはなかった。笑わない会長、それは最早恐怖の対象に成り得るしかなかった。なにもかも見透かされている。足場のない空に投げ出されたようだ。
 息を呑む。
「はい。だから、言うことも躊躇いました。悠樹、漆間君も“気がついてはいけない嘘だ”と言ってなにも知らない振りをしていました。でも、会長はわざわざこれを課題に選んだ。自分の立場も危うくなるかもしれないのに」
 ふっと彼は視線を外に移す。もう暗くなってしまった校庭に運動部の姿すらも見えない。
「これから、憶測の話をします。聞いてもらえますか?」
 うん、小さくだが、聞こえた返事を合図に話を始める。
「今回の課題、最初の時点で不自然な点が二つありました。簡単な書類作りに一週間という期間。そしてペアであることという条件。書類を一枚作るのに期間も人もそれほどいりません。お手本もあるのに」
「そうだね」
「この課題は、書類を作ることではなかった。問題はこのお手本“今年度の割当表”でした。漆間君がもらってきたのは最後の生徒総会で行う最終割当表でした。配当額と総額が一致しない。一万円足りなかったんです」
 顔は未だにこちらを向かない。それでいい。こちらを向かないでくれ。声が震えているから。
「聞き込みや調べて行くうちにある事実に行き着きました。文化祭の話です。ここからはご本人がよくわかっていると思います。この先の話は、私の観察とかき集めたピースとピースを合わせた話です。失礼を言ってしまったらすみません」
 もう一度、息を呑む。こんなに喋ることができたことに自分で驚きだ。喉が渇いた。
「何故、逢坂会長は一万円を隠蔽しなければならなかったのか。最初の総会に配布されていた割当表案の数字は合致しているのに。惑わされましたよ、まさか、割当表が“案”と“最終”の二枚あるなんて」
 ぴくり、肩が揺れる。
「去年の文化祭中、こんな噂が立っていたと先輩方から聞きました。“優勝した組には金一封がでる”。内容額は知りません。しかし案には『文化祭賞金 一万円』と書いてありました。最終割当表からは消えていましたが。不思議に思ったので優勝した組に聞きました。優勝賞金は出たのか、と。答えは“出なかった”でした。見当違いだった。そう諦めかけようとしたとき、教えてくれたんです。裏取引があったことを」
「誰が」
 ゆっくり振り向いて彼は言う。
 恐怖。
「誰が言ったのかな」
 足が竦む。歪んだ口がもう一度開かれようとした。 
「——っ言いません。話を戻します」
 息を吐く。あと少し、あと少しだから。頑張れ、自分。
「そのとき三年の委員長のみが集められたそうですね。優勝した組に賞金を出すと。前日に。公にしなかったのは情報伝達がうまくいっていなかったんじゃないでしょうか。その事実に気がつくのに遅れた。準備期間前に公布していればよかったんでしょうけど、気がついたのは前日だった。クオリティが高く活気づいている三年生だけに内密でこの裏取引を持ちかけたんです。賞金“五千円”と」
 両手で頬杖をつき、見つめられる。
「残り五千円はどこにいったのでしょう? 他校の校長が来るのはアクシデントだったそうですね。流石生徒会長、見事に臨機応変に対応して手土産まで持たせになったらしいじゃないですか。そして、ばれることを恐れた会長は割当表の『文化祭賞金 一万円』を消して最終割当表にしたんです」
 ほぼ、一年前の割当表案なんて持っている人などいないだろう。賞金が出なかったのであればそこでその話は終わる。三年生たちは口裏をあわせておけばいい。気がつく人なんてそうそういないはずだ。
「この課題にした理由はなんですか」
「言ってしまえば伝統かな」
 自分の失敗をわざわざ課題にするんだよ。苦しそうに、それでも笑う先輩は見ている私の胸も締め付けた。生徒会の伝統。通年であり繰り上げであるが故、人選には気をつけなければならない。最後まで責務を果たせる人でないと、この役割は無理に等しい。そのために課題を設ける。自分の失敗談を含めて。
「失敗なんてないと思ったんだ。本当に単純なミスだった。連絡が伝達できていなかっただけの」
 歯を食いしばる。狂気にも似たそれはどれだけ抑圧してきたのだろう。ましてや、それを知られなければいけないなんて、完璧を求められる逢坂会長にとってはどれほどの苦痛だっただろうか。周りの期待に応えなければならないというのはどれほどの重荷なのだろうか。失敗ができないなんて、呼吸すらできなくなりそうだ。
 しかし、それなのに、課題がこれであった意味は?
「課題は誰が決めるのですか?」
「副、会長……」
 ああ、これで最後のピースが埋まった。
 今回の真犯人は、副会長の梅山先輩だ。
 こんなにも回りくどいやり方をするなんて。
「会長、完璧じゃなくてもいいと思います。人間は、失敗をする生き物です。私は、今まで人と関わることをしてきませんでした。先生が言ったんです。寂しいよって。それでもいいと思っていたのが間違いでした。失敗することは悪いことではないです。失敗をして学ぶことができたら、世界はこんなにも輝く」
 ちゃんと見てくれている人もいます。小さな声を拾ったのか、彼は、ふにゃり、顔を柔らかく歪ませては笑い泣いた。これは橋渡しだ。生徒会室の外にいるであろう副会長への。恐らく、副会長がわざわざこの内容にしたのは逢坂会長が書類を書き換えたのを知っていたから。消えた一万円。偽装された書類。失敗を認めない会長。裏取引も知らなかったのだろう。一度失敗すると、諦める人間と固執する人間がいるが、会長は後者だったのではないだろうか。怖くなった副会長は、この機会を利用する。まんまと利用された私たちは謎を解いて会長に失敗を認めさせる。しかしこの目的は失敗を認めさせることではなくて、失敗してもいいのだと伝えること。もっと仲間を頼って欲しいと願うこと。
「私、喋るの苦手なんです」
「……え?」
「こんなに喋ったのは初めてです」
「うん」
「疲れたので帰ります」
「え!」
 足下に置いていた鞄を手に取る。
「あとは、自分で伝えてください。では、失礼します」
 扉を開けてちらり、右側の壁に張り付いた彼女を見る。頑張って。私はここまで利用された。あとは彼女が頑張るだけだ。




「よう、お疲れさま」
 寒空の下、三時間このなかで待っていたというのか。
「馬鹿じゃないの? はい」
 あまりの寒さ故に購入したホットココアを手渡す。あったけぇ、とココアを握る悠樹のては真っ赤だった。
「解決できたんだな」
 今日のことは伝えていないはずだった。なのに。
「紫花なら、頑張ってくれると思った」
 何故待っていてくれてそんな風に笑ってくれるのか。
「悠樹がいけばよかったのに」
「駄目だよ俺は。周りは見えないし、人のことそこまで考えられないからな」
 だから、紫花とペアになったんだ。ぼそり言ったそれに驚いて悠樹の顔を見つめる。
「本当の理由。あぁ、楽しかったなぁー!」
 天に両手を伸ばす。楽しかった。確かに楽しかった。沢山の人と話をした。関わりを持つために走った。各部への聞き込みなんてなんの意味もなくて結局は利用されただけだった。それでも、楽しかった。
「そういえば、なんでいるの? 心配で待ってたの?」
 突っ込まれると思っていなかったのか、耳まで赤くした顔を、ふい、と背けると
「うるさい」
 と先に歩き始めた。
 副会長の彼女は、伝えることができただろうか。十二月の木枯らしが纏わりつく。ぶるり、身震い。きっと逢坂会長は変わるだろう。他人を頼るようになるかもしれないし、笑うこともやめるかもしれない。失敗と一緒に歩める人生を送れるかもしれない。そうしたら、二度とこんなことなんて起こらないだろう。いつか、会長が本当に笑えればいい。
 身体中を刺すような寒さの中、空を見上げる。澄み渡る空気に輝く星たち。私たちを照らす月。いつぶりだろう、見上げたのは。
 待っていてくれた彼の背中を追いかける。きっと、生徒会に入ってしまうね、そう口元を緩めながら。

〈了〉

ああ、扉が閉まってしまう。

コワイヨル

二三竣輔

<新作読み切り・小説>

コワイヨル

帰路

 大きなトラックが、怒号のようなエンジン音を響かせて、通り過ぎて行った。
 俺と美咲は、思わず首を急回転させてトラックの行方を追ったが、トラックはかなりの速度で走り去ったようで、俺達が振り向いた時にはすでに肉眼でぎりぎり確認できる程度にまで遠ざかっていた。
 一旦落ち着くために、わざと空白の時間を設けてみたが、それが意味のある行為だったかどうかはよくは分からない。
 とりあえずは、俺も美咲も前を向き直し、先程のトラックなど元から存在していなかったかのように、自然な雰囲気で再び歩き出した。なんとなく、小学生の運動会のリレーで、転んでしまったような、そんな気恥ずかしさを感じた。
 隣を歩く美咲は、本当に先程のトラックのことを忘れてしまったかのように、様々な話を俺に振ってきた。
 どの話も、とりとめのない日常の話題で、俺は共感するでもなく、かといって何か意見や、アドバイスのようなものを言うでもなく、ただ、薄く、弱い相鎚を何度か打ってやった。
 美咲は、意外にもそれだけで十分なようで、楽しそうに、話題と表情を次々に変えてゆく。
 楽しそうに話しながらも、時折、乾燥している空気のせいで、少しだけ荒れている両手に息を吹きかけて、一生懸命温めている。きっとそれでも気休め程度の効果しかないだろう、それは美咲も分かってはいるのだろうが、健気にも、息を吹きかけたり、何度も両手をこすり合わせたりして、なんとか暖を取ろうとしている。
 観ていられなくなり、仕方なく右手を差し出してみる。
 意味を理解できなかったようで、きょとん、としていたが、少し経つとようやく理解が追いついたらしく、ぱあ、と顔いっぱいに笑顔を咲かせて、ぎゅう、と俺の手を握ってきた。
 小さく、頼りない手は、少しだけ湿っていたが、不思議な温もりを感じることが出来た。俺は、その温もりを離したくなくて、出来るだけ優しく、だが、しっかりと美咲の手を握った。





遊び

 だだっ広い家の中は、むせ返るような血と肉の生臭い匂いで満ちている。
 普通の人間ならば、本能的に拒絶するべき匂いのはずなのに、俺の肉体は、鼻を通して吸い込まれるこの匂いを完全に受け入れている。
 それどころか、この匂いによって安らぎのようなものを得てしまっている。
 僕の手に握られている包丁の先から滴る血の雫は、まるで目の前に転がる肉塊たちの涙のようで、とても痛々しく、悲しい。
 僕は、すでに息絶えている肉塊に、もう一度包丁を突き立てる。
 ぬぶり、とし柔らかい感触が包丁を通して伝わってくる。それは包丁の中にも僕の神経が通っているかのように、とても鮮明なものだった。
 強い電流のような快感が、びり、と僕の体の中を走り抜ける。それは一瞬だったが、今までの退屈な、抑圧された人生では感じたこともないような、満ち足りた感覚だった。
 もう一度、包丁を突き立てる。
 もう一度、包丁を突き立てる。
 もう一度、突き立てる。
 もう一度、突き立てる。
 もう一度、突き立てる。
 もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もう一度、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。
 は、と気が付いた時には、目の前の肉塊は、すっかり壊れて、使い物にならなくなってしまっていた。
 辺りを見渡すが、転がっている肉塊は、どれも壊れてしまったものばかりで、使い物にはなりそうもない。
 僕は溜め息をついて、仕方なく歩きだした。
 床一面の広がっていた、赤い水たまりが、びちゃり、と音を立てる。
 包丁を突き立てるのに夢中で気が付かなかったが、結構な大きさの水たまりが出来てしまっている。
 僕は、なんとなく足元を見つめる。
 赤い水たまりに映っていたのは、子供のような、満面の笑みを浮かべる僕の顔だった。





帰路

「ごめんね」
 美咲が、なんの前置きもなく謝罪の言葉を口にしたのは、長い住宅地を抜けて、明るく騒がしい大通りに差し掛かった時だった。
 街灯や、車のライト、店の看板のネオンなどが乱反射して、万華鏡のように幻想的な光景を創り出している。
 美咲の声は、俺の鼓膜をくすぐるような、小さくて穏やかなものだったが、不思議と周りの轟音にかき消されることもなく、ちゃんと俺の耳にまでたどり着いていた。
「別に、気にするなよ」
「でも、私から誘ったのに、こんなに遅くまで引き留めて、しかも送ってもらっちゃって」
「大丈夫だって、俺の家もそんなに遠くないし、べつにたいしたことじゃないよ。それに言い酔い覚ましにもなるし」
 気にする必要がないことを、美咲にアピールするための方便でもあった言葉だが、実際、俺の家が近いことは確かだし、たいしたことじゃないのも事実だ。
 それに、いくら何でもこんな夜更けに、酔った女性を一人で帰すなんてできっこない。ただでさえ、最近、通り魔だ、何だと危険な輩も多いというのに。それに、少しでも美咲と一緒に居たいという下心も少しだけないこともない。好きな女の子に、食事に誘われたのだ、連絡が来たときは小躍りするほどに喜んだ。その上、家が近くならば、帰りは送って行くと言う名目で、少しでも一緒に居たいと思うのは当然だ。
 ちらりと横を見てみれば、整った、可愛らしい顔立ちが様々な光に照らされて光っている。まるでスポットライトを浴びている舞台女優のようで、俺の視線は、思わず釘付けになってしまう。
 一瞬のように思っていたが、少しだけ長い時間、見惚れていたようで、いつの間にか、こちらに顔を向け、不思議そうな目で俺の顔を見つめる美咲と、視線がぶつかった。
 美咲の、大きな目には不信感というよりは、好奇心に近い感情が宿っているのが見て取れるが、それでもあまり長い時間見ているのは、印象的にも、俺の心臓にとっても、あまりよくはないだろう。
 先程から、俺の心臓は信じられないほどに激しく脈打っている。怖いくらいに、一点の汚れもなく澄み切っている美咲の瞳に驚いたのか、それともこちらをじ、と見つめる、美咲の顔に緊張しているのかは、分からないが、ただ、以上に元気に稼働している心臓のおかげか、体全体に微かな熱がこもっている。恐らく、顔も赤いだろう。
「どうしたの」
 抑えきれなくなった好奇心の一端を、美咲は疑問の言葉に変えて、俺に投げかけてきた。随分と緩やかな軌道で、俺の元へたどり着いた言葉は、このまま膨らんで破裂しそうな気さえした。
「別に、なんでもないよ」
 緊張と焦りでしどろもどろになり、思わずそっけない返事をしてしまった。数秒をようしてして、自分が言った言葉がどういったものだったのかを理解し、後悔した。もう少し落ち着いていれば、もっとましな言葉を返すことが出来ただろう。
 俺は、今すぐ時間を遡って、数秒前の自分を殴り倒したい衝動に駆られたが、美咲が、俺に向けてくれた眩しい笑顔を見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。
ぎゅう、と握られている、右手が熱い。
なんだか、締まりのないふわふわとした空気のまま、俺と美咲は、大通りの喧騒の中をゆっくりと歩いてゆく。





遊び

 びちゃり、びちゃり、と気持ちのいい足音をたてながら、僕は歩く。とりあえず、返り血で汚れた服は着替えた。他に準備するものは何かあったかなあ、なんて、呑気なことを考えながら、僕は家の中を歩き回る。
 出かける準備など、ただの口実で、本当は素敵な匂いでいっぱいのこの家を、もっとじっくり堪能したいだけなのかもしれない。
 特に用などないけれど、僕は胸を張って、リビングの中央に立つ。ちょうどそこに壊れた肉塊があったから、適当に蹴飛ばしておいた。
 両手をゆっくりと広げて、深く空気を吸い込んだ。
 こんなに素敵な匂いが他にあるだろうか、こんなに素敵な空間が他にあるだろうか、僕は、僕がこの世で一番大好きな匂いを、深く、深く、吸い込みながら自分に問いかける。
 いや、無いに決まっている。
 あるわけがない。
 拍子抜けするほどに、あっけなく結論は出た。
 それはそうだ。獲物を狩るのは生物としての、本能だ。僕はその本能に従っているだけなのだ。窮屈な社会は、下らない、役にも立たないルールで僕を縛ろうとするけれど、そんなもの知ったことではない。
 本能に従うというのは、最高の快楽だ。僕は、その快楽をたっぷり味わいたいだけなのだ。
 さて、そろそろ時間だ。
 思考の海に沈んでいた意識を無理矢理に引っ張り上げて、僕はゆっくりと玄関へ向かう。
 さあ、次の狩りの時間だ。





帰路

 先程まで二人で歩いていた大通りとは打って変わって、今歩いている道は、人気が全くなく、聞こえる音は俺と美咲の足音だけだ。他の音は一切聞こえはしない。
 明かりも、ぽつりぽつりと街灯があるだけで、何とも頼りない、微弱な光だけだ。
 道自体は決して狭いわけではないのだが、やはり大通りと比べると、やや窮屈に感じてしまう。
 どことなく、寒気がするような不気味な雰囲気が漂っているせいか、この道の周辺だけが、俺達の知っている世界から切り取られた、別の空間のような錯覚に陥ってしまう。
 美咲は、流石に慣れているだろうが、俺はその雰囲気に圧倒されて、自然と口数も少なくなってしまう。
 時々、ぎこちない言葉の応酬があるだけで、盛り上がるような会話が出来ずにいる。
 せっかく美咲と一緒にいるというのに、なんとも歯痒い。
 情けない自分を叱咤して、何とか話題を繋げようとするが、やはり上手くはいかず、せっかく出た話題も、膨らんだ傍からしぼんでしまう。
 なすすべもなく、このまま延々続くのではないのかと思えるほどの長い道を、黙々と歩いてゆく。すると、リズムよく点滅している切れかけの街灯が照らす先に、不気味な夜道にぞぐわない、真新しい一軒家が現れた。
 その家は、まるで俺を誘い込もうとする、狡猾な罠のように見えた。
「私の家、あそこなんだ」
 ここまでずっとだんまりしていたとは思えないほどに、明るい声で、自分の家を紹介し、満面の笑みで駆け出して行った。慌てて追いかけるが、元々、すでに美咲の自宅は、目と鼻の先にあったのだ、追いつくのにたいした時間はかからない。
「よかったら、寄って行ってよ、コーヒーくらい出るからさ」
 本当に楽しそうな顔で、話す美咲の言葉を聞いた途端、俺は、正体の分からない違和感に襲われたが、なんとかそれをどこかへ追いやって、美咲の後ろに続く。
 明るい顔で、はにかむと、美咲は勢いよく玄関のドアを開けた。
 訳の分からない異臭が、大きな雪崩となって、俺の元に飛び込んできた。
 本能的に、この場から逃げようと、一歩後ずさるが、先に家の中に入っていた、美咲に腕を掴まれた。
 なんとか振りほどこうとするが、俺と手をつないでいた時とは、別人のような力で掴まれており、なかなか振りほどけない。
 腕の筋肉が、ぎりり、と悲鳴をあげると同時に、俺は思い切り家の中へと引き込まれた。
「ようこそ、僕の家へ」
 鼻が曲がりそうな匂いと、目の前に広がる惨状のせいでぐちゃぐちゃになっている俺の頭に届いたのは、本当に楽しそうな、綺麗な美咲の声だった。
 ああ、ドアが閉まってしまう。
 バタン。

〈了〉

退屈な日常が終わる

人形遊び

ヨシ

<新刊サンプル・小説>

人形遊び

「あれ、本当にここで良いんだよね」
 今、私はある駅で人を待っている。ちょっとしたことから『良いバイト』見つけ、その面接を受けるためにここまで来た。電話を掛けたときはここで待っていれば送迎用の車が来ると言われた。しかしそんなものはどこを見ても見当たらない。それどころか同じ募集を受けてきたような人すらいなかった。車での送迎だというのなら大抵は他の人がいてもおかしくないはずだがそれすらもいなかった。
 腕時計を見れば指定の時間帯はとっくに過ぎている、周りを見回してもそれらしき人も車もない、降りる駅を間違えたかとも思った。
 私は高崎愛、二十五歳の女でこれまでの人生をなんとなくぶらりと生きてきた人間だ。これまでの人生で面白いことはなかったしこれからもないだろう。このバイトに申し込んだのだってなんとなくだ。
 特にやることもなくぼおっとしていると、後ろから車の音が聞こえてきた。やっと来たかと思い、振り向いてみると何もない、後ろでは電車が通っているだけだ。とても気のせいとは思えない音だったが聞き間違いだとも思えなかった。そう思いながら体の向きを元に戻すと、さっきまでなかった小型の車が一台置いてあった。まさかと思い、私はその車に近づいて行った。
「あのう、すみません」
 車に気を取られていると、後ろから声が聞こえてきた。さっきまで聞こえなかった男性の声だ。思わず後ろを振り向くと、長身でスーツをまとった男性がそこにいた。
「あなたが高沢さんですね。初めまして、私が大山浩です」
 その男は大山浩と名乗った。その男は私と変わらないか少し年上のように思える男性だった。突然目の前に現れたこの男性に私は何といえば良いか分からなかった。
 言い回しからして私が申し込んだ会社の人間なのだろうが突然見ず知らずの人間にそんなことを言うとは思わなかった。
 それにこの人は何とも言えない不思議な雰囲気を漂わせていた、のらりくらりとは言え、色んな人間を見てきた私は人を見る目は優れている方だと思っている。その人間がどういう性分の持ち主かは一目見れば分かると私は思っていた。だがこの人だけは例外でどんなに見てもどういう人間かは分からなかった。見たことのない人間というよりかは人間でないものを見ているかのような気分だった。
「どうかしました、なにか気に障ることでもしてしまいましたか」
 気に障ることをしたか言えばその通りである。突然現れた人間にいきなり自己紹介をされたら何といえば良いか分からなくなる。しかしそれを言ったところで何も解決しないし、何か言おうとしても皮肉めいたことしか口にできなさそうだったので何も言わなかった。
「いえ、大丈夫です。スーツを着た人と話すのは久しぶりだったもので」
 この答えは即興で思い付いたものなので半分嘘になるが半分は本当だ。思い返してみると私のいる職場は大体が私服か作業着の人間ばかりでスーツ姿の人間はほとんどいなかった。そう言った私を大山さんはじっと見ていたが、半分は本当だったことからか、すぐに目を元に戻した。
「ふむふむ、スーツは人によって緊張感をもたらす、今度は別の格好をして行ってみるとするか」
「すみません、多分そうなるのは私だけだと思います」
 思わず口走ってしまったが彼は私の言うことに聞く耳を持たなかった。ぶつぶつと何かに取り憑かれたかのようにペンを握る姿は人によっては恐怖を感じるかもしれない。この時点で薄々ながらも『大山浩』のおかしさや異様なものを感じつつあった。
 この姿を眺めていた私は、大山浩という人間が本当にあの会社の人間なのかを疑い始めていた。この手の手合いの人間はどこにでもいるものだ。彼もその中の一人であっても何らおかしくない、だが幸運なのか不幸なのかは分からなかったが杞憂に過ぎなかった。
 メモを取っている彼の懐から名刺入れが落ちたのだ。そこから出てきた名刺は大山浩のものであり、確かにそこには株式会社大山総合部品制作所と書かれていた。この会社は私が面接を受けようとしている会社そのもの、つまりは目の前の大山浩は本当に私を会社まで送りに来た人で正しいということだ。
 あんな形で求人を出すという時点でまともな会社ではないことは分かっていたが、まさかこんな人間に送迎をさせるような会社だとは思わなかった。現実に直面されながらも、私は彼の落とした名刺入れを中身を入れて手渡した。今回はきちんと受け取ってくれた。このとき彼の手元にメモはなかった。
「ありがとうございます、落とし物はよくしてしまうんですよ」
 彼は礼を言うと、何もなかったかのように名刺入れを胸ポケットにしまい、さきほど突然現れた小型車に乗り込んだ。この車も最初は何事かと思ったが、こうやって見てみると何の面白みもない普通の作業用の二人乗りの車だ。
「どうしましたか、早く乗ってください」
「ちょっとすみません、もしかしてここに来るのは私だけなのですか、てっきり他の人がいると思っていたのですが」
「そうですよ、今回申し込んだのはあなただけです」
 それがどうしたんだ。と言わんばかりに大山さんは私に言ってきた。正直こんな言い方で答えが帰ってくるとは思っていなかった。車での送迎だと書かれていたのである程度の人数がいるものだと思っていたがどうやら違ったらしい。
 確かに車での送迎というだけでそんな結論になるのは良くなかった。さっき確認した限りだとこの駅にはバスもほとんど来ていないようだったので、車での送迎も十分にあり得るし、小さな規模の会社だったらこのような待遇でも納得がいく、しかし、本当にこの車に乗って良いのかと私は内心思っていた。
 今から乗り込む車はどこかおかしい大山さんと二人の密室だ。彼が会社の人間だということは分かっていたがそれでも怪しいものがある。本人には申し訳ないと思うがこの中で二人になるのは正直怖い。一度走ってしまえば車の中は密室だ。外から見えるとは言え何が起こってもおかしくない、それに元々今から行く会社には胡散臭いところがちらほらとあった。
 色々と迷ったが、私はこの車に乗り込んだ、確かに怪しい求人で怪しいアルバイトだったが、あの退屈な日常に戻る方が私は嫌だった。
 車に乗り込むと大山さんはすぐに車を動かした。ぶおんぶおんと聞こえるエンジンの音は、これまでの日々にさよならを告げているかのように私には感じた。

〈続く〉

いろいろと(仮)

『人形遊び』はコミックマーケット89二日目(30日)東ホ44bにて領布します。
 今回が初出店となります。
 以降、サークル『いろいろと(仮)』は夏コミや冬コミだけでなく、文学フリマやDLsiteなどの様々な場所で、様々な形で作品を発表していきたいと考えております。
 もし見かけたら是非本をお手元に取ってください、よろしくお願いします。

 メールアドレスは
liangjigaoliu[at]gmail.com

 Twitterのアカウントは
@bowbow_55b

 です。よろしくお願いします。

 作中の内容はあの後加筆修正が加えられております。

悪夢は、終わらない

悪友と哲学者の行進曲
 
第六話「悪夢」

二三竣輔

<新作連載作品・小説>

悪友と哲学者の行進曲 あらすじ

 大学生の斎藤信二は、昔からの腐れ縁である藤堂慶介にむりやり連れてこられた居酒屋で、昔の恋人、川原桜の様子がおかしいという話を聞く。どうするのかと、問う藤堂に対して、自分には関係のないことだ、と突っぱねるが、自宅に帰り一人になると、少しだけ気になりいろいろと考えてしまう。そんな斎藤の元に、噂の張本人、桜からメールが届き、仕方なく会うことになる。久しぶりに会った桜の変わりように呆然とする信二、そして、桜の口から語られる相談の内容は信じられないものだった。
 桜の相談に自分なりの答えを示した斎藤は、複雑な思いを胸に抱え、藤堂といつかの居酒屋へと行く。
 そして、新たな物語が始まる。


第一話「魔窟」
澪標 二○一五年七月号
http://miotsukushi1507.tumblr.com

第二話「理由」
澪標 二○一五年八月号
http://miotsukushi1508.tumblr.com

第三話「受信」
澪標 二○一五年九月号
http://miotsukushi1509.tumblr.com

第四話「決断」
みおつくし 二〇一五年十月号
http://miotsukushi1510.tumblr.com

第五話「悪友」
みおつくし 二〇一五年十一月号
http://miotsukushi1511.tumblr.com

第六話「悪夢」

 苦しい。
 息が出来ない。
 苦しい。
 心臓が痛い。
 苦しい。
 体の中に、水が入ってくる。
 苦しい。
 頭が、沸騰しそうなくらい熱い。
 苦しい、苦しい、苦しい。
 誰でもいい。
 誰か、誰か、助けて。







 意識が、煙や、霧のように、薄ぼんやりとしたものになってゆく。
 ああ、このまま死ねたらどんなに楽なのだろうと、僕の脳内は、順当にいけば迎えられるであろう、死、という極楽に思いを馳せていた。
 もう苦しさを紛らわす為にもがくこともやめた。無駄な労力だ。
 あとはこのままじっとしていれば、向こうの方から僕を迎えに来てくれる。
 僕は溢れる期待に胸を膨らませて、止まりかける呼吸、鼓動が鈍くなってゆく心臓、チカチカと点滅し始める視界、消えかける思考、全てに身を委ねた。
 ああ、終わる。終わることが出来る。そう思うだけで、僕はなんだかうきうきした気分になった。
 ああ、早く、早く終わらせてくれ。一秒でも早く、僕を殺してくれ。
 あともう少し、あともう少しで、終わる、終わる、全てが、終わってくれる。
 ようやく、あとほんの少しで僕の呼吸が止まるというタイミングで、僕の髪の毛を鷲掴みにしながら、僕の後頭部を力いっぱい押し付けていた手が、思い切り僕の頭を引き抜いた。
 僕の首から上が、水の中から引き出される音は、思いのほか大きく、男子便所の個室の中に響き渡る。
 急に引き上げられたことによって、僕の肺は僕の意志とは関係なく、否応なしに空気中の酸素を取り入れようと、フル回転で稼働し出す。
 そのせいで、個室の中に蔓延していた、排泄物と、何かとにかく汚いものが混ざり合ってそのまま腐ったような匂いが、まだ誰の肺にも入ったことのない、新鮮で綺麗な酸素に混ざって、僕の肺の中に、許可もなく侵入してくる。
 遠慮も配慮もなく、僕の肺の中を汚そうとしてくる汚い空気の侵攻に、僕は堪らず咽てしまう。
 僕の無様で不恰好な様子がよほど愉快だったのか、僕の頭部を掴んだまま離そうとしない男が、下品で気持ちの悪い声で高笑いをする。
 ひとしきり笑った後、男は吐き気がするほど濁った目で、僕の顔を舐めまわすように見る。周りの人間はこの男の顔を、整っている、格好いい、と表現するのだが、僕にはどうにも理解できない。
 この男の顔はまるで、常に腹を空かせた毒蛇のように獰猛で危険に感じる。
 男は寒気のするにやけ面で僕の事を思う存分見下し、蔑んだ後、思わず殴りつけたくなる口を開いて、脳みそが溶けてしまいそうなほどに不快な声で喋り始めた。
「こー、ばー、やー、しー、くー、んー」
 僕の視界いっぱいに、薄汚い腐った男の顔が映しだされる。
「続き、やろうか」
 男は僕の首から上を丸ごと、水の溢れた大便器の中に突っ込んだ。

〈続く〉

そしてそらちゃんは人殺しの指示を出した。

たとえ空が赤色でも、
世界がイブで終わりでも。

第二章―②
「再生専用の音楽プレイヤーで幸せを奏でて」

二丹菜刹那

<新作連載作品・小説>

たとえ空が赤色でも、世界がイブで終わりでも。あらすじ

 友人の理沙に告白された正人は、彼女の告白を断った。理由は、自分の理想の容姿を持つ女の子に出会い、恋に落ちていたからだ。
 理沙にどうして断るのか理由を教えてほしいと言われた正人は、正直に答えた。桐峰そら、という女の子のことを好きになったから告白を断ったのだと。
 その言葉に、理沙は驚き、そして鋭い目つきで、決然と言った。
「正人。その子はやめた方がいい。これはあなたのために言っているのよ」
 どういうことだろう。どうして理沙がそんなことを言うのだろう?
 正人は疑問に思うのだった。


第一章「Trust you,trust me」
みおつくし 二〇一五年十月号
http://miotsukushi1510.tumblr.com

第二章―①「再生専用の音楽プレイヤーで幸せを奏でて」
みおつくし 二〇一五年十一月号
http://miotsukushi1511.tumblr.com

第二章―②「再生専用の音楽プレイヤーで幸せを奏でて」

「やめた方がいいってどういうこと?」
 疑問に思った僕は理沙にそう問いかけていた。質問したいことは一瞬で山ほど生まれたけれど、まず訊くべきはこれだと思い、最初にこの質問を投げかけたのだった。
 理沙の顔が少しずつゆがんでいく。まるで嫌な過去を思い出したときのように。
「桐峰そらは危険な子なの。おかしいの。だから、ぜったいに近づいちゃだめ」
 他人をけなす発言を理沙が言うなんて僕は信じられなかった。彼女は他人に対してひどく優しいから。
 僕はいったい理沙とそらの間になにがあったのだろうと思う。もしくは間ではなく、二人がいた環境になにかしらの問題があったのか? なんにせよ、理沙はそらのことを知っているというのは事実だ。おそろしくマイナスな認識を持ってはいるけれど。
「どう危険なのさ?」
 当然のことながら、僕はそこに疑問を持った。確かに客観的に見れば桐峰そらは変な子ではある。空が赤く見える、世界がクリスマスイブに消滅する。そんなことを口にするような子なのだから。あるいは僕もおかしいのかもしれない。そらの言葉をすべて正しいものとして受け入れているのだから。
「――あの子は普通じゃないの」




 わたしとそらちゃんは一緒の中学校に通っていたの。そらちゃんは出会ったときから変な子だった。これについては変な子って表現するしかないの。悪意のあるなしに関わらずね。これからの話を聞いてくれれば、たぶん理解してくれると思う。
 可能性。
 それがそらちゃんの口癖だった。
『私は強者よ。そして、導く者でもあるの』
 強者。導く者。
 そらちゃんはこの言葉もよく使ってた。
 ……わたしのクラスにはね、いじめを受けている子がいたの。女の子。なんでいじめられてたのかはよくわからないの。たぶん、そういう空気とか雰囲気があったんだと思う。
 そらちゃんは近づいた。自分の席でうつむいて、じっと息を潜めているその子に。
『あなたは自分の可能性を押し殺している。周りがそういう環境に押しやっているからというのがあるかもしれないけれど、でも、あなたはその環境に組み敷かれている。心を踏み砕かれながらも、逃げることができず、どこにもいけず、だれにも頼ることができず、敗者で居続けている。いい? あなたは可能性を持っているのよ。なににでもなれるとは言えないけれど、なにかになろうとすることはできるし、なりたいものに近づくことならできるの。この意味、わかる?』
 そらちゃんはその子にとにかく話しかけるようになった。いじめは、最初のうちは続いていたけれど、気づけばなくなってたの。理由はそらちゃんが近くにいるようになったからってのはあるんだけど……それももちろん理由としてはあるんだけどね、その女の子が抵抗したんだって。もうやめてって言ったんだって。
 これだけ聞けば、そらちゃんは女の子をいじめから救った人って風に聞こえると思う。確かに事実はそうかもしれないけれど、そう言葉にしていいか、わたしにはわからない。
 いじめられてた女の子はね、抵抗するためにナイフを持ち出したんだって。それで、「私の可能性を潰すなッ」って叫んだんだって。
 可能性。そらちゃんの言葉だよね。
 その女の子はそらちゃんの言葉をぜんぶ信じるようになったの。少なくとも彼女には、そらちゃんは自分を救ってくれた救世主に見えたんだろうね。心がそらちゃん一色に染まった。
 さっき、女の子はそらちゃんの言うことをぜんぶ信じるようになったっていったよね? それは意味通りなの。女の子はそらちゃんに頼まれて、いじめられてる子、独りでいる子を探して、そして報告した。
『弱者を探して。可能性が潰えそうな者を探して』
 そらちゃんは次々に人を救っていった。追い詰められている人の心を、環境を、生き方を変えた。影響力があったんだ。カリスマ性って言えばいいのかな? そらちゃんの周りには人が集まるようになった。そらちゃんが救った人の集まり。
 それは異様な光景だった。そのグループではそらちゃんが正義なの。普通の友達同士には見えなかった。
 そして……事件は起こったの。
 そらちゃんのグループがね、そらちゃんをのぞいてみんな学校でタバコを吸ったんだ。『ショートホープ』っていうタバコ。その事件の首謀者はそらちゃんだった。家から親が吸っているタバコを持ってきて、ライターをカチ、カチってやって、みんなに吸えって言ったんだって。当然、タバコを吸った人はみんな停学になったよ。でも、そらちゃんは根掘り葉掘りどうしてこんなことをやったんだって訊かれたけど、「強者になってほしかっただけだ」って答えたらしいの。
 その一件でグループの人の大多数は目を覚ましたみたい。この人についていくのは危ないんじゃないか、助けてもらったけど、環境は変わったけど、ナイフを持ち出すなんて方法は行き過ぎた行動だったんじゃないのか……。そう考えるのが普通だよね。自分の考えと行動を見つめ直すのが普通だよね。
 でもね、そらちゃんを信仰する人はまだ残ってたの。
 信仰。うん、ここまでくるとそういう領域にまでなってる気がする。だから信仰って言葉を使うことにするね。
 考えてみれば、そらちゃんのおこなったことは変ではないと思う。やり方がおかしいだけで、自分の力で自分の可能性を広げる、夢に近づけさせる、それって普通なことだと思うの。だれかの言葉に影響を受けても、結局なにかをやり遂げようと思って行動するのは自分なんだから。そらちゃんを信仰した人たちは、そういう想像力に欠けてた。そらちゃんがなにもかもを指し示してくれる、自分が歩くべき道を切り開いてくれると思い込んでたんだね。
 あのタバコ事件のほかにも事件は起こった。そらちゃんが指示したからなんだ。窓ガラスを割ったり、物を盗んだり、徐々に犯罪の色を増していった。危ないよ、やめなよって周りに言われても、信仰している人たちはやめなかった。そらちゃんは指示を出すだけで、別に信仰者を誉めたりはしなかった。でも、信仰者にとって、そらちゃんの言葉は正義だったから、どんなにまちがったことでも実行したの。
 そしてそらちゃんは人殺しの指示を出した。
 さすがにその指示には信仰者の人たちもたじろいだ。当然だよね。だって、人を殺すなんてこと、どう考えたってまちがってるから。今までのおこないもまちがいではあったけど、人殺しはレベルがちがう。
 一人をのぞいて、それはできませんって信仰者の人たちは言った。そらちゃんは「そう」と無感情の声で呟いて答えた。信仰者に対して、それ以外なにも言葉を投げかけはしなかった。
 最後の一人は――人殺しを実行しようとした。
 計画まで立てたんだ。人殺しの計画。場所はどこで、凶器はなにで、死体はどう隠せばいいのか。真面目に殺すことだけを考えた。でも倫理や道徳については考えなかった。正義であるそらちゃんが人殺しを命令した。その子にとってそらちゃんの命令が倫理であり、道徳になっていたから。
 うん、そうだよ。最後の一人っていうのは、そらちゃんが最初に助けた女の子。おかしいって思う? そうだよね、その子はおかしいよ。でも、それだけいじめられていた毎日が辛かったんだ。自分を嫌って、他人を信じられなくなって、世界を憎んで……。
 その計画を見たそらちゃんは、うんざりした顔を見せた。溜息をついて、嘲笑を浮かべて、語り出した。
『あなたは最後まで残った。そして私の命令を、最後の一線を越える命令を実行しようとしている。あなたは馬鹿よ。自分の可能性を導けるのは自分しかいないの。自分がなんとかするしかないの。でも、あなたは私の言葉に従い続けた。それが正義か悪かなんてことは考えずに。あなたはまちがっているわ』
 でも、信じている人の言葉を信じることは悪いこと?
 女の子はそう思った。そして言葉にした。
『なにを信じるか信じないか。それを選び取るのは自由よ。でも、まちがったものを選択するのは愚かな人間がすること。あなたは愚かな人間よ』
 でも、あなたを信じる以外になにも思いつけないんです。
 女の子はそう思った。そして言葉にした。
『あなたは根っからの敗者なのね。いいわ。私が矯正してあげる。私は強者だもの。導く者だもの。あなたという敗者を強者にしてあげるわ』
 そこから二人の物語が始まったんだ。




「待って」と僕は理沙が話すのを止めた。「訊きたいことがあるんだ」
 話を聞いていると不自然な点が多々あった。どうして理沙がこんなに詳しい話を知っているのか、当事者の感情まで知っているのか。疑問、と言い代えてもよかったかもしれない。
 理沙は哀しげに笑った。
 その瞬間、僕はなにも言えなくなって、

「正人の訊きたいこと、わかるよ。そうだよ、最後に残った女の子っていうのは、わたしのことだよ」

 彼女が言う真実に、どう反応すればいいのか、わからなかった。

〈続く〉

表紙写真

尋隆

<新作撮り下ろし・写真>

あとがき

編集後記

小桜店子

 今年も残り一週間を切りましたね。
 ミニ澪標こと、『みおつくし 二○一五年十二月号』の編集を行いました、小桜店子です。
・澪標(3月〜9月)5冊
・別冊澪標(3月・7月・12月)3冊
・ミニ澪標(10月〜12月)3冊
・澪標文庫(12月)1冊
 一年間で12冊の電子書籍を制作してきました。また、文学フリマやコミックマーケット、学祭など、たくさんのイベントで頒布や展示を行うこともできました。
 会員による『澪標』の作品達を、多くの方に届けることができていましたら、代表として身を尽くしたかいがあります。
 来年は今年以上に作品達を届けることができるように、よりいっそう努力する所存です。
 読者の皆様も良いお年をお迎え下さい!

 二○一五年十二月二七日
 身を尽くす会 代表 小桜店子

身を尽くす会 会員著書

◆『春夏秋冬』小桜店子(編・著) 鈴原鈴(著) 爽燕(著) 藤井カスカ(著)

 大学生四人組によって制作された短編集です。テーマは「春夏秋冬」で、それぞれの季節を題材にした作品四編から成り立っています。

◆『春夏秋冬』ランディングページ
 http://shunka-shuto.tumblr.com

◆『澪標 二○一五年四月号』小桜店子(編・著) 二丹菜刹那(著) 尋隆(著) 高町空子(著) 藤井カスカ(著) 篠田らら(著) 青空つばめ(著) 朝霧(著・表紙イラスト) あちゃびげんぼ(著) 吉田勝(表紙撮影)

◆『澪標 二○一五年四月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1504.tumblr.com

◆『澪標 二○一五年六月号』小桜店子(編・著) 藤井カスカ(著) 二三竣輔(著) 青空つばめ(著) 二丹菜刹那(著) 古布遊歩(著) 矢木詠子(著) 松葉クラフト(著) 朝霧(イラスト) 逸茂五九郎(著) 篠田らら(著) 櫻野智彰(著) ひよこ鍋(著・表紙イラスト) 咲田芽子(著) 尋隆(著)

◆『澪標 二○一五年六月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1506.tumblr.com

◆澪標 二○一五年七月号 小桜店子(編・著) 青空つばめ(著) 逸茂五九郎(著) 松葉クラフト(著) 篠田らら(著) 南波裕司(著) ZOMA(著) 藤井カスカ(著) 尋隆(著) 二丹菜刹那(著) 高町空子(著) 毒蛇のあけみ(著) 二三竣輔(著) タリーズ(表紙イラスト)

◆『澪標 二○一五年七月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1507.tumblr.com

◆『別冊澪標 七夕号』小桜店子(編) 柊藤花(著) 青空つばめ(著) 藤井カスカ(著・イラスト) 二丹菜刹那(著) 篠田らら(著) 二三竣輔(著) 尋隆(表紙イラスト)

◆『別冊澪標 七夕号』ランディングページ
 http://miotsukushi-tanabata.tumblr.com

◆『澪標 二○一五年八月号』小桜店子(編) 朝霧(著) 三角定規(著) 二三竣輔(著) ヨシ(著) 二丹菜刹那(著) 海風音(著) ひよこ鍋(著・表紙イラスト) コスミ・N・タークァン(著) 篠田らら(著) 青空つばめ(著) 藤原翔(著)

◆『澪標 二○一五年八月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1508.tumblr.com

◆『澪標 二○一五年九月号』小桜店子(編) 高町空子(著) 二三竣輔(著) 尋隆(著) 二丹菜刹那(著) ひよこ鍋(著・イラスト) テトラ(著) 朝霧(表紙イラスト) 吉田勝(表紙撮影)

◆『澪標 二○一五年九月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1509.tumblr.com

◆『みおつくし 二○一五年十月号』小桜店子(編) 青空つばめ(著) 尋隆(著) 二三竣輔(著) 二丹菜刹那(著) ZOMA(表紙撮影)

◆『みおつくし 二○一五年十月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1510.tumblr.com

◆『みおつくし 二○一五年十一月号』小桜店子(編) 二三竣輔(著) 青空つばめ(著) 松葉クラフト(著) 二丹菜刹那(著) 三枝智(表紙撮影)

◆『みおつくし 二○一五年十一月号』ランディングページ
 http://miotsukushi1511.tumblr.com

身を尽くす会について

 身を尽くす会では電子書籍・同人雑誌といった形式で小説雑誌を制作・販売しています。

 また、会員の相互協力によって、従来の手法では出版が困難な作品の制作支援、著者の知名度向上や作品頒布の促進など、未来の出版文化の振興に貢献することを目的としています。

 主に制作・販売している小説雑誌は『澪標(みおつくし)』で、船の航路を示す同名の標識が誌名の由来です。

 澪標が航行可能な道を示した標識であったように、『澪標』も著者と読者をつなぐ道として機能することを願っています。

◆身を尽くす会 公式サイト
 http://miwotsukusukai.jp

ご意見・ご感想をお待ちしております!

 最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございます。

 よろしければ、ぜひご意見・ご感想をお寄せ下さい

 ご指摘や激励は、今後の創作活動の参考や意欲向上へと繋がります。

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◆身を尽くす会 問い合わせ
 http://miwotsukusukai.jp/p/contact.html

みおつくし 2015年12月号

2015年12月27日 発行 初版

著  者:小桜店子(編) 尋隆(著・表紙写真) 二三竣輔(著) ヨシ(著) 二丹菜刹那(著)
発  行:身を尽くす会

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身を尽くす会

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