この本はタチヨミ版です。
さよならは言わない
<新作読み切り・小説>
あっけなかった。
走り去る車に、訪れる激痛。
何が起こったのかと、頭が理解するよりも早く身体は宙を舞う。
これは、死ぬ。
俺はすぐに悟った。今日までの人生が走馬灯のように駆け巡る。両親のこと、友人のこと、そして恋人……志保の事。
風になびく黒髪、抱きしめると漂うふんわりとした甘い香り、花のような笑顔。
「――綾斗」
そして俺の名前を呼ぶ声。
もう触れられないなんて嫌だ。まだやりたいことあったのに。志保と行きたいところもあった。なのに、ここで終わってしまうなんて嫌だ。
せめて、せめて、あの場所を彼女と共に見たい。叶うなら最後に一度だけ。
叫びたくても声は出ない。身体はボールのように飛び、地面に打ち付けられた。衝撃で何かが身体から追い出された感覚がした。
こうして、俺は命を落とした。
**
火葬場から続々と人が出ていく。あの日の事故から数日後、俺の遺体は焼かれ骨となった。それを両親や親族など、火葬に来てくれた人たちが骨壺に骨を入れていった。そういや昔、親戚の葬儀に行った時もこんな感じだった。
これで俺の葬儀は一通り終わったと言えるだろう。
俺は今、戸惑っている。
あの日の事故で死んだ。それは確かだ。でも生前と同じ姿でここにいる。手足は動かせるし、声も出る。が、少し透けている様にも見え、この声は生者の耳には届かない。いわゆる幽霊の状態だ。
事故の後、自分のうめき声で意識が戻った。ゆっくり目を開けてみれば、目の前には倒れている俺の身体があった。
「うそだろ」
ふらつく足に力を入れて、一歩、一歩と近づく。
「死んじまったのか……?」
恐る恐ると肩へ伸ばした手は、触れることなくすり抜けてしまった。今の自分は幽霊で、もうこの身体には戻れない。
覆せない事実になす術がなかった。
「くっそ…!」
拳を地面に打ち付けても痛みが一切なかった。
これからどうすればいいのか分からず、通りすがりの人が俺の身体を見つけてくれるまで、俺はそこに立っているしかできなかった。
**
「さて、どうすっかなー」
本来なら成仏するべきなんだろう。なんたって俺は幽霊なんだから。でも、逆にこうしていられるからこそ成仏したくないと思っていた。
「やっぱもう一回会いてぇな」
未練は色々あるけど、やっぱ志保のことは気になってしまう。
だって付き合って二年は経つし、今年のクリスマスイブにはイルミネーション見に行こうと約束してたのに、全部台無しになるなんてあんまりだ。
もう一回、志保に会いたい。話したい。
とは言え、今の俺には様々なハンデがあるのもまた事実。まず、俺の姿が生きている人には見えないし、声も聞こえない、物も摑めない。身体は軽いがマンガや小説にのように宙をさまよう、なんて事もできない。問題ばかりだ。今日までの移動は、こっそりと交通機関を使う人の後ろを付いて行った。気づかれないというのは何だか変な気分だった。
「まず存在に気づいてもらわないとなー……」
「おい」
「えっ」
後ろからの突然の声に思わず振り向く。数日前までは当たり前だったのが、酷く懐かしく感じた。
「俺?」
「貴様以外に誰がいる」
冷たく、刃物のように鋭い声だ。
後ろにいたのは黒い男だった。髪から服、少しの装飾品も黒。蝋のように白い肌と、赤い切れ長の目が闇の中で浮いているようだ。
「えっと、どちら様?」
声をかけるのが緊張してしまう。
「オレは、死神」
「へっ?」
死神? 何言っているんだ。
そんな俺の疑問はよそに、男は言葉を続ける。
「貴様みたいな成仏しない幽霊共を」
上着のポケットから何かを取り出す。片手に収まるそれを軽く動かしたかと思えば、黒い刃が向けられた。これは、バタフライナイフだ。
「強制的に成仏させる者だ」
これはヤバいやつだ。
あのナイフに触れちゃいけないと直感した。すぐさま身を翻し走り出す。我ながらいいスタートがきれた。
「待て!」
駆けだした俺を追うように死神とか言う訳の分かんない男も走り出した。
逃げなきゃ。捕まったら終わる。
ひたすら足を動かし続ける。肉体的な疲労は感じないが、焦りで胸のあたりが締め付けられるような感覚がする。
人通りが多い通りに出るが、後ろの男は未だに追ってくる。
「なんなんだあいつは!」
俺が何をしたって言うんだ、と声を荒げながら人込みを掻き分けようとする。
これじゃ追いつかれる。
生前と同じように、人にぶつからないように避けながら走っていたが、ふと俺は気が付く。別に避けなくてもいいのではないだろうか、と。あの時、俺は自分の身体に触れなかった。なら他の人だろうが同じようにすり抜けてしまうのではないか。
頭では分かっていても、いざ人を目の前にするとやはり戸惑う。でも、あの物騒な死神とかいうやつに捕まるって考えれば、怖くない。意を決して、目の前の人を避けずにそのまま突き進む。その瞬間に思わず瞼を閉じるが、何の衝撃もない。目を開ければ、どんどん進んでいく人込みが続いていた。
思った通り。できた。
ホッとしたのもつかの間、あの刃のような声が俺の耳に届く。
「まだ追ってくるのかよ!?」
ごった返す人込みの中、俺は再び走り出した。
**
どんだけ走ったんだろう。
青かった空はいつの間にかオレンジになっていた。
「待て! 幽霊!」
「しつこいな! あんたも!」
俺は未だに追われている。
足が重くなって動かない、というのがないのはいいが、精神的には参ってくる。だからこそ普段じゃやらないような間違いを犯してしまった。
「やっべ……!」
まこうと思って曲がった小道。しかし、そこには新たな道はなくあるのは塀だけ。行き止まりだった。
引き返そうと振り向く。でも、
「鬼ごっこはもう終わりだ。幽霊」
あの黒い死神が立っていた。
一歩、また一歩と距離が詰まっていく。
「ま、まって! ちょっとタンマ!」
「待たん。とっとと成仏しろ」
「ぎゃぁ!?」
振り下ろされたナイフを紙一重で避ける。「チッ」と盛大な舌打ちが聞こえた。
「するけど! 猶予を! 猶予を頂戴!」
「猶予だぁ?」
俺の必死の願いに、死神は蔑んだ目を向けてきた。
「ほ、ほら、今日二十三日だろ? だから明日……明日終わったら成仏するから! だから猶予をくれ! 頼むよ!」
この通り、と顔の前で手を合わせる。妙な沈黙がその場を支配する。
「幽霊ごときが」
沈黙を破ったのは死神だった。
「死神に猶予を望むなど良いご身分だなぁ?」
「そこをなんと、かぁ!?」
再び向かってくるナイフをまた避ける。本当、心臓に悪いとしか言えない。
「危ねぇだろ!」
「狙ってやっているんだ。とっとと刺されろ」
「ヤダよ! それ刺さったら即成仏パターンの奴だろ!」
「よく分かったな。理解が早くて助かる」
「分かりたくないけど、そうとしか思えねぇだろ!」
「だから早く成仏しろ」
「だから明日するから待ってくれよ!」
互いの意見がかみ合わず睨み合いになる。死神の目は蛇のような鋭さで、ちょっとでも気を抜けば怯んでしまいそうだ。でも、俺にも譲れないものがある、と負けじと睨み返す。またしてもこう着状態だ。
「……なぜそこまで明日にこだわる」
張り詰めた空気のまま死神が口を開いた。
「最後にさ、恋人に会いたいんだよ。話したいんだよ。明日の夜に一緒に見たいもんがあるんだよ。ちゃんとした別れを……したいんだよ」
彼女と交わした最後になってしまった約束を果たしたい。ただそれだけだった。
「だから……頼む!」
死神の表情からは何も読み取れない。仮面のようだ。ゆっくり数回瞬きをして、声を発した。
「……明日だな」
「へっ?」
「その件が、明日の夜が終われば成仏するんだな」
「あ、あぁ!」
死神は深いため息を吐いて、頭を掻いた。
「今回だけ見送ってやる。その代わり延長は認めない」
「マジか! うわぁ! ありがとな!」
良かった。繋がった。
「はぁー……」
思わずその場に座り込む。全身の力が抜けた気がした。
「あっ俺は白川綾斗って言うんだけど、お前は?」
「は? なぜ貴様に名乗るんだ」
「だって一日とはいえ俺のわがままに付き合ってくれるんだし、名前ぐらい知りたいなーって思って。死神って呼ぶのはちょっと物騒じゃん?」
死神は眉間に皺を寄せたが、小さく口を開いた。
「ネロ、だ」
「そっか! ありがとなネロ」
「ふん」
そう言っネロは近くの建物の壁に寄り掛かった。
「ネロって死神とか言ってたけど生きてんの? それとも死んでんの?」
「質問が多いな、貴様は」
「いや、気になって。死神なんてそうそう会わないもんだし、俺の中の死神って言ったらデカい鎌を振り回しているイメージがあったけど、ネロが持ってるのってナイフじゃん?」
「そうだな……生きているか、死んでいるかと言えば、死者に近い特徴を多く持つが何とも言えないな。気が付いたら死神として存在していた。それ以前の事は記憶がない」
「ふぅん」
「後、鎌についてだが、昔は使っていたが人口が増え、文明が進んだ今の世の中じゃ使えん。小回りが利かず、間違って生者も巻き込みかねないからな。だからそれに合わせて小さくした結果がこれだ」
「結構大変なんだな」
「ふん」
不愛想で文句を言いつつも俺の質問に全部答えてくれた。律儀な奴だ。
「ところで、その女と対面する手段は考えているのか? 貴様は幽霊だ。生者には見えないぞ」
「そ……そうなんだよ!」
追いかけられていて、頭の片隅に追いやってしまっていたが、まずはこの問題をどうにかしないといけないのだ。しかし考えてもいい案は浮かばない。いくらネロが明日まで待ってくれると約束してくれたとは言え、時間がない。
焦りと混乱でネロの肩を摑んでいた。
「どうすりゃいいと思う!?」
「おいこら、揺らすな!」
「明日じゃん! 時間ねーじゃん!?」
「このバカ! 落ち着け!」
パニックになっている俺の手から何とか逃れたネロは一歩下がって息を整えた。
「はぁ……まったく。不本意だが手を貸してやる」
「マジか!」
「後でできなかったから成仏しない、などと言われても困るからな。死神は貴様のような霊を相手にすることが普通だが、稀に生者と関わることもある。だから一応の術は持っている」
その言葉を聞いて開いた口がふさがらず、思わず彼の方を見る。
「なんだ、そのだらしない顔は」
「あ、あんがと……! よっしゃ! 何とかなった! ネロまじでありがとうな!」
「分かったから騒ぐな!」
興奮のあまりネロの手を包む形で握り、拝んでいた。彼はあっけにとられた顔をしていたが、俺はしばらくそのままにしていた。
**
「雪村志保だな」
「だ、誰ですか? あなた」
日もすっかり暮れた夜、ネロは一人の女性に声をかけた。女性の方は突然見知らぬ男からフルネームで名を呼ばれたため、身を強張らせていた。
艶のある黒いセミロングに涼しげな目元、真珠のような肌に桜色の唇が映える女性。俺の彼女、志保だ。
最後に会ったのは、俺が死ぬ三日前。明日の約束をした日だった。あの日からそんな経っていないが、少しやつれた感じがする。当たり前か。あんな別れ方になってしまったのだから。申し訳ないことをしてしまった。
「貴様の思い人の使いだ」
「綾斗の!?」
ネロが志保とこうして会っている理由、それは明日のことを伝えてもらうためだ。本当なら俺が直接伝えたかったが、
「死者が生者に必要以上に関わるな」
と釘を刺されてしまった。こればかりは許してくれなかった。だから俺は今、ネロの後ろで待機しながら二人のやり取りを見守っていた。目の前にいるのに気がついてもらえないのはやはり寂しい。
「明日、約束通り待っている、だそうだ」
「それって……どういう意味? それに、なんであなたが彼を知っているの?」
「お前は知らなくていい。とにかく明日来い。でないとあの男は成仏しないと言っているからな」
ネロは用件だけ伝えると「失礼する」と言い、彼女に背を向けた。志保は状況が理解できていないらしく固まっていた。
こんな形でしか伝えられない自分がもどかしい。ごめん、志保。でもさ、
「待っているから」
彼女の耳には届かないと分かっているが小さく呟いて、俺はネロの背中を追った。
**
夜だと言うのに人々は浮かれ、街は色とりどりの光で輝いていた。今日はクリスマスイブ。本来はキリストの降誕の前日という日なのだが、今じゃ大切な人と過ごす大切なイベントとなっている日。俺は楽しそうにクリスマスイブを満喫している人々を、賑わう中心部から少し離れたスロープの上から眺めていた。
「もうすぐか」
上着のポケットから黒い石が付いたブレスレットを取り出す。ネロが貸してくれたものだ。これを腕につけると、生者にも姿が見え、会話ができるようになるらしい。
本当に、来てくれるだろうか。
約束の時間である六時まで後五分。期待と不安が募る。誰だって死んだ奴が持っているなんて言われたら、不審がるに決まっている。もし来てくれなかったら、など良くないことばかり考えてしまう。時間が進むのが遅く感じた。
街の中心部にある時計台から鐘の音が響く。六時になったという知らせだ。重く、ずっしりした音が六回耳に届いた。
約束の時間だ。でも、姿は見えない。
「ダメだったか」
そりゃそうだ。幽霊からの誘いを受ける奴なんているはずないんだ。
諦めるよう。
そんな思いが頭をよぎる頃、こちらに向かってくる足音が聞こえた気がした。
その方向を見れば、小走りで向かってくる一人の女性。その顔を見間違えることはない。
「あっ……」
目頭が熱くなるのを感じる。来てくれたんだ。信じてくれたんだ。
感情的になる前に、借りていたブレスレットをまだ付けていなかったことを思い出す。危ない。これを付けていなかったら意味がないのだ。
慌てて左の手首に巻き付ける。緊張のあまり持つ手が震えるのを何とか堪える。無事につけ終わり、彼女がいる方向を見れば、驚いた顔でこちらを見ていた。
彼女の走るスピードが速くなる。
そして、後数歩と言う所で立ち止まった。
「あや……綾斗……?」
「うん」
俺が一歩歩けば、彼女の一歩進む。そうして俺たちの距離はなくなった。
「志保」
涙を堪えている彼女の身体をそっと抱きしめるように腕を回す。姿が見えるようになっても触れない。
「会いたかった」
「綾斗……!」
その一言が引き金になったのか、志保は小さな子供のように泣き出した。
「置いてっちゃって、ごめん」
「ばか……」
「うん」
「もう会えないって思ってた……」
「うん」
「悲しかった……」
「うん」
「私も、会いたかったよぉ……!」
触れられたら、痛いぐらい抱きしめられるのに。見えて、会話ができたのに、これだけは叶わない。生と死の境界線が引かれているようだ。
「綾斗、幽霊なんだよね? どうして私にも見えるの?」
「あぁ、これのおかげなんだよ」
そう言って左腕のブレスレットを見せる。黒い石と金具に紐、というシンプルなデザインだけど、これがなかったらきっと出会うことは叶わなかったから、貸してくれたネロには感謝しかない。
「今日のこと伝えてくれた黒づくめの男がいただろ? あいつが貸してくれたんだ」
「そうなんだ。あの人、感謝はしてるけど、正直ちょっと怖かったなー」
「人間じゃなくて死神らしいよ。俺の昨日会ったけど、いきなり追いかけられて参ったよ」
「それ、何か分かる気がする」
「まじか」
「なんとなくだけどね」
志保は落ち着いたらしく、いつもの笑顔を見せてくれた。あぁ、やっぱり可愛い。
「志保と、これを見たかったんだ」
「わぁ……!」
彼女をスロープの手すりの方へ手招きをする。
街のイルミネーションが一望できる。近くで見る方もキレイだと思うが、ちょっと上から全体を見るようにここに立つと、スノードームを覗いているようで、また違った綺麗さがあると思った。だから、ここからの景色を志保と見たいと思っていたんだ。
「キレイだね」
「だろ? 志保とこれを見たくて、幽霊になってもここにいたんだ」
昨日の逃走劇が懐かしく思えた。
「あの人、何だかサンタみたいだね」
「そうか?」
「だってその人が綾斗にそれを貸してくれなかったら私たち、今こうして会えてなかったよ?」
「まぁ……確かに」
「幽霊限定のサンタさん、なーんちゃって」
「それあいつが聞いたら、眉間に皺寄せそうだわ」
二人の笑い声がこの場を包む。
願わくは、この幸せな時間がずっと続いて欲しい。でも、それは叶わない。時間は無情にも過ぎて、永遠の別れがやってくる。志保もそれを分かっているらしく、俺の方に寄ってきた。
「成仏、しちゃうんだよね」
「それが……約束だったからな」
「そっか」
覚悟を決めたはずなのに、近づく別れを受け入れたくない俺がいる。
志保はこれからも生きていく。俺以外の好きな人と出会って、結婚して、子供を作る……など様々な可能性がある。でも俺にはもうない。俺の時間はあの日で止まってしまった。
どうして俺なんだろう。
志保に会えて嬉しいはずなのに、生きている彼女が眩しくて、羨ましいと思ってしまう。憎いと思ってしまう。
再会したからこそ、いつか忘れられてしまうのではないかと怖くなってしまった。
今はこうして俺の死を悲しんでくれて、また話せたことを喜んでくれる志保も、時が経てば、彼女の中から俺という存在が消えてしまうかもしれない。
それが、怖いんだ。俺は、
「……死にたく、なかった」
志保は真っ直ぐ俺の顔を見ている。何も言わないでくれるのが逆に安心する。
「もっと生きたかった。やりたいこともあった。志保ともっと一緒にいてぇよ」
言えば言うほど虚しくなって、声が小さくなっていく。涙が頬を伝わった。
志保の腕が頭の方へ伸びる。ゆっくり彼女の肩に顔を埋めた。
「忘れないで……」
「忘れないよ。例えみんなが綾斗のことを忘れても、私は覚えているから。私が好きな人は、こんなにもかっこよかったんだって覚えているよ!」
「それにね」と彼女は囁く。俺はそっと顔を上げた。
「こんな素敵な人、忘れられるはずがないよ」
そう微笑む彼女の顔はとても穏やかで、キレイだった。
「ありがとう」
志保の頬へと手を伸ばす。俺の目に映るのは志保だけで、彼女の目も俺だけが映っている。お互いの顔の距離がなくなり瞼を閉じる。そして唇が重なった。触れられなくても、志保の熱が伝わったような感覚がした。
ゆっくりと目を開ければ、止まった二人の時間が動き出した。
「お別れだね」
「すまん」
志保は静かに首を横に振る。
「最後に、会えて良かった」
「私も。こうして話せるなんて思わなかったよ」
「ハハッそうだな」
「あのね」
「どうした?」
彼女は自分の指を俺のと絡めようとする。俺もその動きに合わせて指を動かし、互いの指を絡ませ合う。
「待っててね」
白い息と共にその言葉は出た。
「いつか私も綾斗と同じところへ行くから。お土産たくさん持ってね。だから、待っててね。また置いていったら……許さないからね!」
思わず目を見張る。彼女は小悪魔の笑みをしていた。
あぁ、志保は、俺の彼女はこんなにも強い人だったんだ。
「わーかったよ」
志保の言葉で思わず頬が緩む。多分、今の俺は子供の落書きのように緩んだ顔をしてそうだ。
永遠の別れって思っていたけど、そうじゃないのかもしれない。身体は失ってしまっても、いつかあるべき場所でまた出会える。そんな気がしてきた。
なら俺がやることは一つ。先に行って、志保を待っていよう。
「こっち来る時、ボケて迷子になるんじゃねーぞ?」
「分かってるわよ」
「まぁ、その前に俺が見つけるけど」
「頼りにしてるからね?」
「任せろ。だから、さよならは言わねぇ」
絡ませていた指を解く。それが合図になったかのように二人の間に距離ができる。
死者と生者。今は超えられない壁。でも、いつかまた同じところに立てる。
だから今は……
「またな」
「またね」
しばしのお別れを。
**
「もういいのか?」
「おう。あっこれサンキューな」
街の賑わいとは打って変わり、静寂に支配された踊り場にネロはいた。こちらに気が付いた彼に、借りていたものを返す。
「満足したよ」
「そうか」
「なぁ、ずっと疑問だったけどなんであの時見逃してくれたんだ?」
そう尋ねれば赤い瞳が揺れた。だがそれも一瞬で、すぐさま普段の鋭さが戻った。
「別に……単なる気まぐれだ」
「そっか」
「送るか?」
「いや、自分で行くわ。それ見た目が痛そうだから嫌だ」
「ならとっとと行け」
ネロはつまらなそうにナイフを仕舞えば、そっぽを向いて手を振った。
「ネロ、ありがとう。世話になった」
彼はこっちを向かないが、その口元は少しだけ笑っている様に見えた。
「じゃぁな!」
「さらばだ、綾斗」
俺はネロに背を向けて歩き出す。目の前に光の線が見える。これを辿ればいいんだと直感した。
淋しさはある。でも、もう振り向かない。
「行くか」
行くべき場所へ。待つべき場所へ。
〈了〉
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年12月24日 発行 初版
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