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Edited by tsukiAtari
表紙イラスト: 川崎しょう さま(syo map)
イラスト彩色: サンぽん さま(だすとdeしゅーと)
璃都 さま(古都の木の香りは刹那に)
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夜を好きになれたのは星が落ちるように恋に落ちたから
Website: http://81315.blog112.fc2.com
Pixiv: http://pixiv.me/rito1315
小さい頃は夜が本当はとても怖かった。幼い頃の体験の所為もあるだろう。
機動六課。この部隊との出会いが私の人生を変えてくれた。
ママ達と出会い、いろんなことを教えてもらった。たくさんの愛情を注いでもらった。特別な生まれ方をして、特別な力があって。
その所為でたくさんの人に迷惑を掛けてしまった。だけど。そんな私を受け入れてくれて、抱きしめてくれた優しいママとその仲間の人に支えられて。毎日楽しく過ごすことができた。
私の中に眠る大きな力の所為で起きた事件も収束を迎え、大切な人たちと過ごした宿舎を 出てからは事件に関わった人たちと過ごす時間が減ってしまった。それでも忙しい中、時間を 見つけては会いに来てくれるので寂しさもそんなには感じることはなかった。
なのはママと二人で暮らし始めてから過ごす夜はそれまでとは全然違った。新しいお家で 新しいベッドでなのはママとくっついて眠る。今までなのはママとフェイトママが私を包み 込むように抱きしめてくれていたのに。
フェイトママは海のエースとして、次元の海へと出かけることが多く、帰ってこられない 日々が続いた。次元航行艦での旅で疲れているはずなのに、そんな様子を私には見せること なく、忙しい合間を縫って寝る前に必ず通信でおやすみのあいさつをしてくれる。
そんなフェイトママの優しさとなのはママの温もりを感じて新しいお家での夜を迎える。
いつも感じていた温もりが無くなっただけでこんなにも寂しく感じてしまう自分が少しだけ嫌だった。だけど、なのはママが抱きしめてくれるから心地よい眠りを感じていた。
それから少しの時間が過ぎて、時々なのはママとフェイトママに包まれて過ごす夜がうれしくて。そんな日が来るなんて思っても居なかった。
だから突然自分の部屋を貰い、その時から一人で寝るなんて信じられなかった。
初めて一人きりで眠る夜は怖くて不安で。窓の向こうに誰かいるかもしれない。また誰かが私を連れて行ってしまうかも。今度こそママ達に会えなくなってしまうんじゃないかと怖くてしかたがなかった。だけど、ママ達に心配を掛けたくなくて。ずっと我慢していた。
暗闇に包まれた夜の気配を怖いと思うのは私が弱いからだ。あの日の様に泣いて、助けを 求めて。自分では何もせず、またママを傷つけてしまうことになってしまう。そう思い、優しく強いママを護れるように私は強くなろうと決意した。
最初はテレビでストライクアーツの中継を見て、見よう見まねで始めた。そんな私に気が付いてスバルさんが格闘技の基礎を教えてくれ、時間を見つけては公園で一人練習に励んでいた。
その所為で、擦り傷などの怪我が増えてシャマル先生に診てもらうことが多くなった。いつも困ったように笑って﹁頑張るのも大切だし、擦り傷を作って強くなるのもいいけれど。ちゃんと身体を休めることもしないとだめよ?」と頭を撫でてくれる。
がむしゃらに練習をして疲れても、やっぱり一人で迎える夜が怖くて眠れないことを見透かされてしまったようだ。そんな私を見かねてなのか部隊長が声を掛けてくれる。
﹁ヴィヴィオ、今度の週末に泊りにけぇへん?」
このお泊りをきっかけに私は夜が大好きになった。
気が付けば白色に輝く魔力光に包まれてはや十分。なんでこんなことになったんだろう。
﹁いやぁ、許可とるの苦労したわ。ごめんなぁわざわざこんな遠いとこまで連れ出してしもうて」
顔のすぐそばで声がする。まったく悪びれた様子が伝わってこない謝罪に顔を向けると楽しそうに笑う部隊長がいた。
﹁私は大丈夫ですけど……いいんですか? 夜間飛行なんかして」
﹁かまへんよぉー。ちゃんと許可は下りたし。この辺は人も少なくてなんの問題もない。一応人払いの魔法も掛けてあるしな」
いたずらを実行する子供の様に無邪気に笑う。
ここはミッドの北西部にある小さな山間の中のキャンプ場。冬場なのと奥まったところに あるためか少し寂れていて利用する人も少ない。
そんなキャンプ場の上空をゆっくりとしたスピードで私は飛んでいる。部隊長の腕に抱え られて。
﹁というか、なんでそんな畏まった喋り方なん? なんや寂しいなぁ」
なんでと言われても。私も初等部に通い始めたし、何より。
﹁どんな立場の人なのか理解した以上はきちんとしないとだめだと思いまして。部隊長は管理局きってのエースのうちの一人じゃないですか」
八神はやて。管理局の陸のエースと呼ばれるこの人は出世コースを駆け上っているすごい人だ。因みになのはママは空のエース。不屈のエース・オブ・エースとも呼ばれている。フェイトママは海のエース。三人とも実はすごい人なのだ。
そんなすごい人に対して、いくら小さな頃からお世話になっているからと言っても馴れ馴れしい態度はとるべきではないだろう。そう思っての事なのだが……かなりの不満らしい。眉根をこれでもかというほど仲良くくっつけている。
﹁いやいや。ヴィヴィオのママの親友に対する態度としては間違っとるやろ」
﹁そうかもですけど。お世話になった部隊の隊長でしたし」
﹁関係ない。私は私でしかないんやから。こうして二人で会っている時はヴィヴィオのママ達の親友でただの八神はやてや。だから普通に話してくれん?」
微笑んで見つめられるとなぜか抵抗できなくなる。
﹁わかりました……はやてさん」
﹁……まぁ、呼び方だけでも直ったのならええか。もう、部隊長でもないしな」
そう納得してからそのまま上昇を始めた。
この間、シャマル先生の手当てを受けた時に泊りに来るように誘われた後、なのはママ達に連絡を入れるとあっさりと許可が下りた。
現在、私にストライクアーツを教えてくれているノーヴェにもきちんと許可をとった上で ここまでやってきた。
最初はただはやてさんの家にお邪魔するだけだと思っていたのに。気が付くと八神家の皆さんと共にこのキャンプ場へと連れてこられていた。なのはママ達はあいにく予定が合わず来られない為、私が八神家のキャンプにお邪魔する形になったのだけど。
どうやら本当の目的は別にあったらしい。もしかしたらその目的のために急遽このキャンプを敢行したんじゃないだろうかと今なら思えてくる。
﹁そろそろ雲を抜けるで。寒くないか?」
上昇するにつれ雲の層が厚くなり周りの空気がさらに下がったことを実感する。昼間は晴れていたが夕方から少しずつ曇り、とうとう雪が降り始めていた。コテージを借りているため 雪は特に心配もしていなかったのだけど。
夕食を済ませ暖炉の温もりに包まれたリビングでのんびりしているところを散歩に誘われたのだ。雪の降る外に行くのに薄着で出かけるわけがなく、シャマル先生にしっかりとコートとマフラー、手袋まで渡されているのだ。
﹁大丈夫です。それに、はやてさんのおかげでとても暖かいですから」
魔力光に包まれたこの空間はとても暖かく、何よりもはやてさんの体温が心地よい。
寒さもまったく感じられないほど私の体はぽかぽかとしていた。
﹁そか、よかった。ほんなら雲も抜けることやし、しっかり楽しんでもらえるかな」
はやてさんがそう言った瞬間に厚い雲を突き抜けてそれは私の目の前へと広がった。
﹁わぁ……すごい……」
言葉が出なかった。目の前には数え切れないほどの星の瞬きが煌めいていて、空一面を埋め尽くすほどだった。
満天の星空。
普段から目にする夜空とは全く違い、大きく包み込まれるような。星の海の中を泳いでいるような気持にさせてくれる。白く優しい光越しに見る星の海はとても綺麗で安心できるものだった。とはいっても、最近は夜に星空を見上げることもなくなっていた。
夜が怖くて仕方が無くて。窓の向こうから突然誰かが入ってきて連れ去られてしまうのではないか。そんな不安は解消されず、私はいつも布団を頭まで被って窓の外を見ることさえできずに過ごしていた。
だけど、今私の目の前に広がるこの光景はそんな不安を吹き飛ばすほど綺麗なものだった。
﹁綺麗やね。ほんとうに」
同じように星空を見つめているはやてさんに視線を移せばにっこりと微笑んだ。
﹁私もな、怖いと思っていた時期があったよ」
﹁え?」
﹁子供の頃はずっとヴィヴィオと同じで、夜が怖かったんよ。というか、朝が来るのが怖かったって言えばええんかな」
どこか遠い所を見つめるように、優しかった瞳が徐々に悲しみの色に染まってゆく。
﹁家には私ひとりっきりで、家族は誰も居らん。身体が不自由でな、よく発作を起こしてたんよ。苦しくても声を出すこともできんで、誰も助けてくれる人は居らんかった。だから、恐怖を誤魔化すように本を読んで物語の世界に逃げとった。いつかこのまま誰にも気が付かれる ことなく朝を迎えることが出来んのやないかって。眠るのが怖かった」
﹁……でも今はすごく元気そうだし、それにシグナムさんたちがいます」
﹁んー。そうやね。シグナムたちと出会ってからは世界が変わったよ。でも、出会う前は一人やったんよ。魔法の事も何も知らんかった時。私は一人でずっと過ごしとった。気にかけて くれる人とかは居ったんやけどね。……その頃はとにかく夜が怖くて。朝が来るのも怖かった」
知らなかった。いつも飄々としているこの人にそんな寂しい時間があったなんて。だって、無邪気に笑って。とても元気で。忙しいのに私のことも気にかけてくれて。優しく、強い人だと思っていた。
﹁でもな? シグナムや、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。みんなに出会えて世界が文字 通り変わったんよ。夜は一緒にヴィータが寝てくれて、昼は皆が居てくれた。そんな時にな……夜空を見上げるようになったよ。綺麗やったなぁ。その時初めてちゃんと空を見た気がする。それからは、昼間も空をよく眺めて過ごすことにしたんよ。いつも俯いて生活してた分、勿体ないなぁって気が付いたからなぁ」
﹁もったいない」
﹁せや。こんなに綺麗な空、見ずに過ごすなんて勿体ないやろ? 昼間の空も、夜の空も、とっても綺麗で。下向いて過ごすなんて勿体ない」
確かにもったいないのかもしれない。こんなに綺麗で安心する空を知らないなんて。昼間の空は青く澄んでいてどこまでも行けるようななのはママの瞳の色でとても安心できる。そんな空だった。だからその空の下、仕事で居ない時間でもいつだって見守ってくれているようで
安心できた。
夜は暗くて吸い込まれてしまいそうな不安しかなかったけれど、よく見れば優しい藍い色をしている。星々も煌めき、淡く優しい光の月も浮かんでいる。
この夜空の色を私はとてもよく知っている。優しくてあたたかい心の持ち主を。
﹁でも、どうしてわかったんですか? 私がその……夜が不安だって」
﹁簡単や。昔の私にそっくりな目をしてるって……シャマルやヴィータに言われたんや」
急に言葉に詰まったかと思ったら、気まずそうに視線をそらされた。
﹁……自分で気が付いた訳じゃないんですね」
﹁うっ、仕方ないやろ? 自分で自分のそんな顔とか見えへんし」
焦った様子で弁明するはやてさんがおかしくてつい笑ってしまった。
﹁……とにかく。そんなヴィヴィオに知ってほしかったんよ。夜天の主としてはな。夜空も
本当は優しいんやってことを」
﹁そうですね……とても優しいです」
目の前の夜天の主と呼ばれたこの人の優しさに、そして寂しさに触れることができた。
﹁今日はありがとうございます! 本当に、知れてよかった」
﹁うん。私もヴィヴィオに夜を好きになってもらえてよかったわ」
﹁はい。とっても好きになりました!」
もう、夜を怖いなんて思うことはないだろうな。だって、こんなに温かくて優しいことを知ってしまったのだから。
﹁でも、残念です。私じゃまだまだ届かないんだろうなぁ」
そう。まだ私には手の届かない存在。きっといつか……絶対に。
﹁この手で掴んでみせます」
ゆっくりと目の前で輝く星に手を伸ばす。
﹁あはは。つかめるとええねぇ。近くまでならいつでもこうして連れてきてあげるよ。がんばってな?」
面白そうに笑うから悔しくなって。
﹁絶対に自分の力でやり遂げてみせます!」
﹁楽しみやね」
†
﹁子供の戯言だと思ってたでしょ?」
﹁まぁ……可愛いこと言うなぁって風には思うてたかな」
十年たった今もはやてさんと二人で星空を見上げる。あの時決意した通り、私は手に入れることができた。
﹁はやてさんあったかーい」
﹁こーら、苦しいやろ?」
ぎゅっと抱きしめる手に力を込めるとくすぐったそうでいて、困ったような言葉をなげかけられた。全然苦しそうな感じではない。あの頃は私がはやてさんの腕にすっぽりと収まっていたのに。今では私の腕の中にはやてさんが収まってしまっている。
星空に輝く満天の星を手に入れるなんてできないことを私は充分に理解していた。それに、手にしたかったのは星なんかじゃない。
夜天の主と呼ばれるこの人自身。寂しさを溶かし込んだような瞳の色が悲しみに染まることの無いように。優しさと温かさで彩られるあの日の夜空のような澄んだ夜天色を保てるように。傍に居て、支えていきたいと幼い心で誓った。
シグナムさんたちに負けないように。そして、なのはママとフェイトママにだって追い付けるように。背中を追い続けた。
まっすぐに駆け抜けてきたつもりだったけれど。追い付くどころか今もきっと私はこの人の背中すら見えていないのかもしれない。
はやてさんの心を手に入れたのか、私の心が奪われたのか。それは解らない。解らないから、これからも一緒に空を見上げていけるといいな。
﹁はやてさん、大好き」
﹁なんや、恥ずかしい。やめてや」
﹁えぇー いいじゃないですか。別に誰も聞いていたりしませんよ?」
﹁そうゆうことやなくてな……抱きしめられたまま言われると恥ずかしいんや」
後ろから抱きしめているため俯かれてしまうと表情を窺うことができない。けれど、耳まで真っ赤に染まっているので本当に恥ずかしがっていることはわかった。
﹁可愛いー。あぁ、私の恋人は本当に可愛いんですがどうすればいいんですかね」
﹁とりあえず、解放したらええんちゃうかな?」
からかうように言えば絶対零度の声色で返されてしまった。
﹁なんですかもう」
しぶしぶ解放するとくるっと向きを変えたはやてさんがにやりと笑った。
チュッ
軽いリップ音が耳に届く前に微かな温かさと柔らかい感触が唇から離れてしまった。
﹁っな!?」
﹁ふふーん。顔が真っ赤やで? 私の恋人は可愛いなぁ」
唇から伝わった熱は顔全体に行き渡った後、身体全体に広まった。
﹁っ!? ずるい!」
まだまだはやてさんには敵いそうにない。
九本麻有巣 さま(有りがとうございま巣)
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どうも初めまして、九本麻有巣です。この度は拙作にお付き合いくださりありがとうございます。はやて司令の油断しきった魅力が伝わればなー、と思います。少しでも皆様の お眼鏡に適えば幸いです。
それでは、またの機会がありましたらお会い致しましょう。
Twitter: kot9a
Pixiv: http://pixiv.me/kot9a
﹁うわぁ……」
白色蛍光灯が室内を照らし出したその直後、仰ぐような少女の声。余韻を残して乾いた吐息が尾を引く。
ここは、地球でない場所。第1管理世界ミッドチルダの湾岸居住区。高層ビルから低層建築物が整然と並ぶ区画の、高層に属する方のマンション。 空に近い17階の広々とした間取りの 一室。そのリビング。 少女の正面に設えた引き違いの硝子戸からベランダに乗り出せば、 遠く水平線を臨む海上には行き交う船舶の光灯が煌めき、近く地上にはネオンの波が鏤められる、特等の展望台となる。
しかし、少女の目の前、楕円形のテーブルの上には、空の硝子瓶とグラスの山が散乱して いた。瓶のラベルを確かめれば、各所名産の安物から高級アルコール飲料だ。遠くの夜景よりも近くの惨状、少女はもう一度嘆息を溢した。
少女の名は、高町ヴィヴィオ。翠と紅の虹彩異色が特徴的な面立ちは、十代をもう少しで過ぎ去る齢に似つかわしい。今は親元を離れて暮らしており、時空管理局海上警備部司令官補佐見習いと言う、長ったらしい肩書を持っている。
ヴィヴィオは膝を折ると、アルコールの香るテーブルの上に手を伸ばす。匂いだけで酔ってしまいそうに芳醇な香りだったが、鼻の根元に皺を寄せながら瓶を1本ずつ整頓していく。
目の前のこの惨状の原因は、ヴィヴィオには無い。ミッドチルダでは飲酒の年齢制限が無いのでアルコール類を飲めないワケではなかったが、地球出身の母親がそう言うのを気にして いるのを知っているので、極力自重しているのだ。
となると、その原因は? 思い悩むまでも無くヴィヴィオには犯人を確信する事が出来た。何、それ程大それた推理は必要ない。単にそれ以外の原因が見付からないだけだ。
﹁はやてさ~ん。あんまり自棄酒はしないでくださいよ~」
八神はやて。それが犯人の名だ。時空管理局海上警備部司令の肩書を持つヴィヴィオの上官であり、同時に同棲関係にあるヴィヴィオの最愛の女性である。
薄いドア1枚を隔てた向こう側の寝室に居るであろう同居人へと声を張り、ヴィヴィオは 酒瓶を片付ける。 返事が無いのは大方の予想通りであり、恐らくは寝入っている事であろう。苛立ちも悲しみも生まれなかった。
カチャカチャと鳴り合う瓶とグラスを小分けにして食洗台へと運び終えると、テーブルを 濡れたタオルで軽く拭く。一通りに片付けてから、ヴィヴィオは同居人が眠るであろう寝室へ続くドアのノブへと手を掛ける。
静かにノブを下ろして押し開けると、晦冥が光を呑み込むと同時に、リビングから射し込む光明が闇を裂く。
ヴィヴィオは光と闇の間境に立ち、闇の中に視線を向ける。僅かな光量で、闇の中に起伏の輪郭を探す。寝室に設けた2基の寝台の内、ドアに近い方の上でモソリと動く気配。目を凝らせば、布団の上に人が転がる稜線を見て取れた。
﹁はやてさん、もう寝ちゃってますか?」
眠っているなら起こさないように、起きているなら気付くように、声量を絞った呼び掛け。返ってくるのは、沈黙。
呆れたような溜め息を溢すと、上着とシャツを脱ぐ衣擦れの音。 ドア傍の壁に掛かるハンガーを取り外すと脱いだばかりの装束を丁寧に掛け、壁に戻す。カチャリと、ハンガーのフックとハンガー掛けの金具の音が重なり合う鈍い金属音が、静かな闇の中に響く。
上半身だけ下着姿になったヴィヴィオは、暗闇の中に足を踏み入れる。冷たいフローリングから毛の長い絨毯へと足裏の感触が変わると、人の温もりが香る寝台の前。 ゆっくりと膝を折り、寝台に腰掛ける。
寝台の上には、ヴィヴィオよりも一回り齢を経た、しかしヴィヴィオに劣らぬ幼さが残る 女の寝顔。 布団も被らず仰向けに、狸毛色の髪を純白の枕の上に散らし、緩み切った寝顔を晒している。
﹁もう。シャツも着たまま、だらしない恰好しちゃってからに……はやてさん、風邪引き
ますよ?」
零した愚痴のその通り、女は――八神はやては寝台の上に眠りながらも、その格好は寝間着では無かった。上着を脱いでネクタイを外しているものの、薄手のシャツ一枚を羽織った姿。下半身はスカートを脱ぎ、下着一枚であられもない。
大きく溜め息を吐き出して、ヴィヴィオははやての右隣に寝そべった。顔を横に向けると、そこには瞼を閉じるはやての面立ち。透き通った肌、長い睫毛、緩りと弧を描く黛、スラリと伸びる鼻梁、柔らかく厚みを持つ紅色の唇。暗闇の中にあっても仔細に見て取れる至近の距離。漏れ零れる寝息さえ鼓膜を叩く。
﹁はやてさん……」
はやての顔に見入りる。濡れ濡つ響きで、夢に旅立つはやてに語り掛ける。しかし、返事は沈黙。完全に夢の世界の住人になっている。分かり切っていた事だ。
眠るはやてに、伸ばす右手の人差指。指の腹を頬に重ねると、指先に熱る人肌の温もり。 押すと返る弾力は、甘く柔こいマシマロのよう。
ツ……と稜線に沿って指を滑らせると、童顔の輪郭に沿って頤へと落ちる。猫をあやすようにクリクリと撫でると、唇の端を僅かに吊り上げ、こそばゆさを主張する。
ヴィヴィオは頬を綻ばせて笑うと、指を動かす。目的地は、唇の谷間。 下唇の山を登り、上唇との狭間に到達。唇の双丘が返す弾性は、地球で食べた羊羹のように瑞々しい。 プニと押すと、押し返す雫のような柔らかさ。
ヴィヴィオが調子に乗って何度もプニプニと押していると、突然はやての唇が動く。可愛らしい小さな口を半分程開くと、ヴィヴィオの指を唇で甘く噛む。まるで子供が自分の指を咥えるような甘えん坊の仕種だ。
ムニムニと、はやての唇が恋人の指を食む。ニヨニヨと、ヴィヴィオの瞳が恋人の幼い仕種に見惚れ入る。恋人同士の、甘く甘えた甘え合い。
﹁はやて、さん♪」
寝転がったままで、三度呼ぶ。今度も返事は無いだろう。そう思っていたし、実際に返事は無かった。しかし――
唐突に。はやての体が転がった。ヴィヴィオへ向けて四半回転。腕と御々脚が跳ね上がり、年若い恋人へと覆い被さる。腕はヴィヴィオの首に回り、両腕でガッチリと絡み合う。脚はヴィヴィオの右太腿に巻き付き、両脚で確りと搦め取る。 親猫が子猫を大事に抱き抱えるようなその様は、まるでヴィヴィオが抱き枕にでもなったかのようだった。
突然の事態に反応が遅れたヴィヴィオ。抗う事さえ出来ず、紅葉を散らすように顔を真っ赤に染めた。
﹁ちょ! は、はやてさん?! いきなりそんな?!」
慌てふためき、アワやアワやと泡を食う。 突き放すべきか、このまま想い人からの抱擁を 甘受すべきか、それさえも結論付けれない程に取り乱す。
しかし、当のはやてはと言うと、
﹁ZZZzzz……」
酒気混じりの寝息を立てていた。
はやての寝息に、ヴィヴィオはドッと肩の力が抜ける。 どうやら寝惚けて抱き付いてきただけのようだった。
﹁はぁ……。もう、はやてさんてば……」
溜め息を溢して、年上の恋人が為すままに。ヴィヴィオもはやての背中に腕を回す。
﹁……はやてさん……。少し、苦しいですよ?」
ギュゥと抱き付かれ、互いの心臓の鼓動が重なる。 2人の繋がりを確かめる命の律動。
不思議な安心感に包まれて、ヴィヴィオは﹁ほぅ」と艶のある吐息を溢す。
﹁……はやてさん……。頬っぺた、こそばゆいですよ?」
肌理の滑らかな頬と頬が擦り合う。﹁むにゃ」と湿るはやての寝息が耳元に囁くと、耳朶に温い吐息が吹き抜ける。
﹁……はやてさん……。あの、股間を太腿に擦り付けないでくださいよ?」
布一枚越しに、ヴィヴィオの太腿にクリクリと擦り付けられる恥丘の窪み。 少し低く唸るような抗議の声で、少女は恥じらいを露わにする。
産毛が触れ合う感触さえも拾い上げれる程に密着した2人の距離。もう一度、ヴィヴィオははやてを抱き締める。逃がさないように、離れないように、情熱的な抱擁。
﹁はやてさん……。愛して、ますよ?」
暗がりの中、秘めやかに囁くささめきごと。光の下では、照らし曝され照れてしまい、言葉に成せない言の一葉。今の今だけは、素直に言葉に成せる。
﹁わた……も……」
耳に届いた言葉は、ヴィヴィオの耳元に生まれたささめき。細く掠れる小さな言葉は、寝入るはやての生の声。
ヴィヴィオの心臓が跳ね上がる。耳を澄ませば、ドキドキと早鐘のように鳴る心臓の鼓動を割って、はやての唇から漏れる静かな寝息。
掠れるように零れたその言葉は寝言だった。ヴィヴィオは﹁ほぉ」と胸を撫で下ろす。
﹁私も……大好……き……やで……。……ヴィ……ヴィ……」
途切れ途切れに囁くはやての寝言に、ヴィヴィオはこそばゆそうに、面映ゆそうに微笑んだ。寝ても醒めてもヴィヴィオを想い、こうして眠りの世界でも愛の言葉を囁いてくれる。恋人として、これ以上の幸せが
﹁ヴィ……タ……」
……思考が、止まった。微笑みが、固まった。ついさっきまで幸せに包まれていた心の中に、闇が墜ちた。
﹁お肌……すべすべで……ちっちゃくて……抱っこしやすぅて……大好き……やで……。ヴィー……タ……」
――そうですか。
――ああそうですか。
――恋人がすぐ傍らにいるのに、夢に見るのは他の女ですか。
――分かりました。
――よく分かりました。
――はやてさんがどう思っているのか、よく分かりました。
思考が、フツフツとした怒りに埋め尽くされる。微笑みが、表情を殺した能面に上書きされる。
ヴィヴィオの右手が大きく振り上げられて、大きな大きな公孫樹の葉となる。
﹁はやてさんの――」
囁く言葉は冷たく燃えて。ヴィヴィオはギリと奥歯を噛む。
﹁ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
――バチコーん!!
振り上げた右掌が、はやての頬に叩き下ろされる。
肉と肉がぶつかり合うと、弾けるような音が爆ぜる。
﹁いっっっっ! たぁぁぁぁぁぁい!」
暗い室内に、はやての悲鳴が響き渡る。
公孫樹の葉を叩き付けられた頬を押さえてゴロゴロと寝台の上を転げ回るはやてに冷たい 視線を送りながら寝台を降りると、ヴィヴィオは﹁ふん」と鼻を鳴らす。
﹁な、なんや? 何があったんや?! あれ? ヴィヴィ? 帰ってたん? 一体何が? あれ? どうなってん?」
混乱するはやてに、ヴィヴィオは一言﹁知らない」と吐き捨てて。並ぶもう1基の寝台へと体を放り投げた。
はやてはヴィヴィオが何か機嫌が悪い事を察するが、その原因が何かなんてサッパリ分からず。ただただ頭の上に﹁?」を飛ばしているだけだった。
﹁はやてさんの、バカ。もう知らない!」
不貞腐れるように頬っぺたを膨らませると、布団を被って不貞寝する。まだまだ子供なヴィヴィオの背中に、はやてはただただ意味が分からないと首を捻るばかりだった。
なお、後日ヴィータがヴィヴィオに﹁勝手にはやてさんの夢に出て来ないでください!」と絡まれるのだが、それはまた別のお話。
多色 さま(時雨文芸堂)
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ヴィヴィはや合同、主催のミナトさんから「好き勝手やってええで」というお言葉を頂いたので、ほんまかいなと問い直すこともせず勝手に書きました。楽しかったです。聖王系女子は清らかさ大事、というあたりが気に入っております。
『ここのあたりのヴィヴィオ可愛えな』ですとか『八神さんの制服の重さを書かんちゅうのは何事や!』などの感想や質疑をいただけると、そこらへん広げて考えたり書いたりしますので、よろしくお願いします。
お読みいただき、ありがとうございました。
﹃ヴィヴィオ、急にごめんです! あなたにしか頼めないお願いがあります!﹄
﹃いいよー、リインのお願いならやりまーす﹄
﹃わぁい内容も聞かないのに即答! 懐が深いです! じゃあ高町さんちに置いてあるはやてちゃんの制服を持って、うちの仮宿に来てください!﹄
﹃不思議なお願いだね。いいけど、どこ?﹄
﹃管理局のすぐ近くです! お部屋までの地図と、お部屋の入室パスをクリスに送ります! あと出来たら夜ご飯と明日の朝ごはんと、明日朝にはやてちゃんがいま着ている制服をクリーニングに出しておいてください! ご飯はインスタントで構いません! 費用とお礼ははやてちゃんが払います!﹄
﹃ちょお、リインー? ずいぶん無茶なワガママやろ、そこまでやったらヴィヴィオ帰れへんやん﹄
﹃ヴィヴィオに泊まってってもらってください! だいたいです! はやてちゃんがお上と 揉めるからお願いせざるをえないんです!﹄
﹃ひゃー、怖いなぁー﹄
﹃泊まっていく分には大丈夫なんですが、ごめんなさい、ちょっと話についてけないです﹄
﹃ですよね! とりあえずクリスにいま送ります送りました! あとなのはさんにも事情説明を送ってお泊まりの許可を取っておきます! はやてちゃんの面倒をよろしくお願いします! では!﹄
﹃ごめんなぁヴィヴィオ、あとでなぁ﹄
﹃あっはい、お疲れさまです﹄
ということで、来ました。﹃八神家が借りているお部屋です。お仕事で忙しくて帰れないときに使っているんです﹄という部屋がある、管理局に近いタワーマンションの前に立つ。なかなか立派な建物で、入口もきれい。 こんなに高いマンションに入るのは初めてで、わくわくしながら足を踏み出す。入室パスはクリスに送ってあるということで、認証パネルの前にクリスが近づくと、ドアが開いた。 マンションだと知っているけれど、管理局とか禁書架とか、古物保管所とか、そういう施設みたい。
明るく開放的なエントランスを抜け、エレベーターに乗り込み、わっ、エレベーターの起動でも入室パスが必要なんだ。クリスに動かしてもらう。
あっというまに止まって、廊下に踏み出す。静かな屋内で足音が鳴らないようにか、カーペットが敷かれている。さっきと違い、閉鎖的で人の気配の無い雰囲気と相まって、なんだかホテルみたいだと思う。
先導していたクリスが止まって、ピッと振り返る。
﹁ここ?」
クリスが指す部屋番号を見ると、ここだった。開けてもらう。
﹁お邪魔しまーす……」
八神家さんのお家のより、遥かに小さい玄関だ。静まりかえっている室内は、八神さんちのあの賑やかさがなくて、ちょっと緊張する。ドアが閉まる音は小さかったのに、鍵がかかる音は大きくて、そういうことにもビックリする。
﹁クリス、リインさんとはやてさんに、いま着きましたって連絡してくれる?」
連絡をクリスに任せて、とりあえず室内を眺める。 小さなキッチンの横に、二人用の小さなテーブルと椅子がある。冷蔵庫もレンジも小さくて、食器棚や食料保管庫は無い。 うちや、八神さんちに比べるとほんとうに小さくて、なんだか家じゃないみたい。なんとなく、ここは必要があるときにしか来なさそうだと感じる。今日みたいに仕事で帰れないときのためだけの部屋。だからあんまり、物が無いんだと思う。テーブルも椅子も家電もぴかぴかに見えるし、物が無さすぎてきれいを通り越して、生活感が無い。
はやてさんのシャツとスカートを出して、ハンガーにかけて、椅子の背もたれにかける。 それと、握ってきたおにぎりと、海苔と、きんぴらごぼうと、カップのお味噌汁をテーブルの上に並べて置く。簡単だけれど、多分はやてさんは喜ぶと思う。数日前に作っておいた常備菜のきんぴらごぼうはなかなか美味しかったし、辛子を混ぜてあって少しピリッとする風味は はやてさん好みなはずだし、なによりはやてさんは和食好きだし。
いろいろ考えていると、クリスから、メールを受信したと伝えられた。
﹁なんだろう」
クリス開けてーと声をかけると、文章が宙に浮かべられた。
﹃あと十五分で着くよー。おやつ買ってく﹄
待ってますね、と送っておく。あと十五分で着くってことは、あと十五分で会えるってことだ。楽しみ。さいきん会ってなかったから、どきどきする。もうちょっとお洒落な服にして おけば良かった。パジャマ代わりに持ってきたジャージも、スポーツ用なのであんまり可愛くないし……。
﹁あ」
そう言えば、タオルって私の分もあるのかな。 二つある扉のうち、洗面室と思われるのを開ける。当たってた。ここも清潔感はあるけれど生活感がなくて、ちょっとホテルっぽい感じ。タオルは、あったあった。大きいタオルだけでも三、四枚あるから大丈夫だ。リビングに戻ってジャージの入った袋を取り、洗面室に置く。
お風呂がどんな感じなのか気になったので、開けて見る。普通のお風呂だ。することもないし、洗って待とうかな。
スポンジでざっと磨いて、あとは流すだけ、という頃、はやてさんは帰ってきた。生の声を聴いたら早く会いたくなってしまって、どきどきしながらリビングに入る。
﹁お疲れさん。働かせてしもて、なんや悪いなぁ」
﹁お疲れ様です。これくらいなんでもないですよ、私も使わせてもらうんですし」
はやてさんの向かいに座る。久しぶりのはやてさんは、なんだか疲れて見える。笑顔が小さい。いつもは満面の笑顔、っていう表現が似合う笑い方をしているのに、いまは五割減くらいの控えめな、微笑みって感じ。それでも笑ってはいるし、怪我とかもしていなさそうだから、大丈夫なんだろうけれど。
﹁お風呂、お先にどうぞ。その間にご飯の準備しますよ」
﹁気がきくなぁ、助かるわ」
立って別の部屋に入り、着替えを持って浴室に行くはやてさんを見送る。深く息を吐く。
﹁やっぱり、はやてさんすごく可愛い……」
﹁ヴィヴィオー? 私になんや言ったー?」
﹁いえ! クリスとおしゃべりしていました!!」
﹁さよかー」
びっくりした。扉越しの呟きに気づくって、耳が良いなぁはやてさん。心臓に悪いです。 ぶつぶつ言ってないで、はやく準備しよう。
持ってきたおにぎりはもう冷めきっているし、ラップに包んだまま渡すのはさすがにどう かなと思ったので、レンジとお皿を借りて温めてだそう。シンクの下を開けると、必要最低限の食器があった。耐熱性がありそうなものを取る。
クリスが手伝いたそうにしていたので、お湯を沸かしてもらうのをお願いする。インスタントカップのお味噌汁はお椀に出すのはおかしい気がしたので、そのまま作ることにする。買い置きがそろそろ無くなりそうだから、送ってもらうよう桃子ママにお願いしなくちゃいけないなと思いつつ、具とお味噌汁を開けて、テーブルに置いておく。適当なマグカップも借りて、お茶の用意もしよう。
温めたおにぎりをテーブルに置いて、きんぴらごぼうを隣に並べ、海苔はえっと、とりあえず一袋でいいかな。お茶は先に淹れて、お味噌汁ははやてさんが上がってからにする。
ひと段落ついたので、休憩しよう。シンクの前に立って、コップに水を入れて、一息に飲み干、
﹁ヴィヴィオー、ごめんやけど下着取ってくれるー?」
﹁ぶぅっ!!」
吹き出して、咳き込む。下着って。まじですか、どこですか、というのが言葉にならない。
﹁カバンの横に紙袋があるやろ? それ丸ごとくれたらええんやけれど、 ヴィヴィオ大丈夫かー?」
大丈夫ですけれど平気じゃないです、という返事も出来ないので、咳き込みながら紙袋をとり、最小限だけ開けたドアの隙間からはやてさんに渡す。咳と動悸で死にそう。いや死んでいる場合じゃない、吹き出した水でびしゃびしゃにしたシンクを拭かなくちゃ。
﹁ごちそうさん、ほんまに美味しかったよ」
﹁練習したんです」
はやてさんに食べてもらいたくて。とは言わず、はやてさんのついでに淹れたお茶を飲む。はやてさんの顔と声にちょっと元気が出たので、お世辞じゃなく、本当に美味しかったんだと思うことにする。
﹁ほー。なのはちゃんとかフェイトちゃんが忙しいときに作ってあげてるん?」
﹁それもありますし、私が和食好きなので」
﹁ええなぁ。うちはアギトも私もおらんときに任せると、鍋かシチューが多いなぁ」
﹁……煮込めばいいから、ですかね」
﹁そう。この間は鍋にチーズとブロッコリーとしいたけが入っとってな。出汁入れそうなんを止めて、急遽トマト鍋にしてことなきを得たよ。ローレルとかコンソメ入れて、最後はリゾットにして」
﹁それはそれで美味しそうですけれど、急ハンドルって感じの料理ですね」
﹁そうやねぇ」
シャマル先生のことだから、栄養はバランス良くとれるのだと思う。それ以外のバランスがすこし悪いだけで。
﹁お菓子を作らせたら一番上手いんやけれどな? 卵不使用ケーキとか、牛乳不使用クッキーとか、美味しいよ」
﹁あ、それ一度食べたことあります。美味しいですよね」
たしか、アレルゲン除去したおやつだって言っていた。普段の料理と違って、そういう神経を使わないといけない料理のときはレシピ通りに作るから、普通なんだとか。
﹁美味しかったって言っとったって、シャマルに言っとくわ」
﹁またくださいって伝えてください」
﹁了解や」
お茶のおかわりいるかなぁ、もうそろそろ寝るかなぁ、と思って時計を見ると、十時前。 私なら寝る時間だ。はやてさんは仕事をしたりするのだろうか。
﹁ヴィヴィオ、眠いん?」
﹁いいえ、まだ大丈夫です」
﹁なんや、本でも持ってきたん? 私はそろそろ寝るよー」
﹁じゃあ私も寝ます。はやてさんが仕事するなら、起きていようかなと思っただけです」
﹁そうか」
じゃあ寝よ寝よーと、はやてさんが立ち上がったので、私も立ち上がる。
﹁寝室はこっちや」
﹁あ、はい、お邪魔します」
やっぱり、まだ見ていない部屋は寝室だったらしい。はやてさんに開けられて入る。
…………えーっと?
﹁あの、はやてさん、ベッドが、ひとつしか」
﹁うん? ダブルだから大丈夫やろ?」
﹁あっ」
そうですね、って嘘でも言えない……! 無理じゃない? 私は無理。だからこれ、無理です。私ほら、思春期だし。恋しちゃうお年頃だから。でも聖王系女子は爽やかさ大事だし、清らかさ大事だから。っていうか、事実として私は清いし。……たぶん。とにかく、一緒のベッドはもう、絶対無理。他に寝られる所なかったっけ。
﹁あの、ソファーとか」
﹁無いなぁ。なんや、私と寝るのがいやなん? 悲しーなぁ」
﹁そんなことないです全然大丈夫です。寝ましょう」
拗ねた声を出されて、発作的に返事が出た。そっかー大丈夫なんだ私。私が大丈夫って言うなら大丈夫なんだろう。っていうか、大丈夫とか大丈夫じゃないとかじゃなくて、考えることを止めればいいんだ。私ははやてさんと眠るだけなんだから、なんでもないじゃん。
……なんでもなくないし、考えないとか無理でしょ私。
ベッドに入っていくはやてさんの横に入ろうと、とぼとぼ身体を動かす。こんなに重い気持ちでベッドに入るのは初めてだ。
﹁失礼します」
﹁他人行儀やなぁ。お泊まりのとき毎度一緒に寝とったのに、どしたん?」
﹁どうしたもこうしたも……最後に一緒に寝たのなんて、五年は前ですよ」
﹁そうやなぁ。まだヴィヴィオが小さかった気がするわ」
﹁でしたね。もう小さくないので、ことわりをいれたまでです」
﹁えー? いくら大きくなったって、中身はそう変わらんやん。ヴィヴィオははやてちゃんのこと好きやろ?」
﹁う」
あっはい、かるく五年は前から好きです。はやてさんの言う﹁好き」と違うんですけれど。なんかもう死にそう。図星突かれて痛いし、はやてさん可愛いし、恥ずかしくて辛い。含み 笑いをしているはやてさんが、こっちを向いた。
﹁からかい過ぎたなぁ。ごめんな?」
﹁いい、です」
頭を撫でられる。死ぬ。もう無理。はやてさんの胸が腕に当たってるんです。止めてもらうか、私が死ぬしかない。疲れからか眠気からか、あるいは両方でテンションがおかしなはやてさんに、やらしげなことを考えたくないんです。はやてさんのことを大事に思うヴィヴィオでいたいんです。
なんですけれど、意識があるうちは、どうしても悶々としてしまう。思考を強制的に止めるには……。
﹁もう寝ましょう」
﹁ん。明日は四時起きなんや。起こしてもらえる?」
﹁随分早いんですね。いいですよ、起こします」
﹁早いからここに泊まったんよ。宜しくなぁ」
はやてさんがごそごそと身じろぎして、仰向けになる。深呼吸をひとつ、吐かれる。
﹁ありがとなぁ、ヴィヴィオ。おやすみ」
﹁…………いいんです。おやすみなさい」
会えて嬉しいから、なんて言えなくて、口ごもってしまったけれど。うとうとしているから気付かれてないし、おやすみはきっと聞こえていたと思う。気持ちを伝えられなくても、それでいいんだ。お仕事で疲れているはやてさんの助けになれれば、今はそれでいいから。明日はお茶漬けと漬物を用意して、元気にお仕事に行ってもらおう。﹁朝起こすのと、ご飯を食べてもらうのは、生活にクリティカルな事だからね。効くよ」とは、なのはママの弁。今日はなかなか良い仕事をしたんじゃないでしょうか。この調子で、高町ヴィヴィオ、明日も頑張ります。
ほのか さま(好きこそモノの上手なれ)
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何故今ここに自分がいるのか不思議でならないほのかです、初めましてこんにちは。兎にも角にも、貴重な体験をさせていただきました。ありがとーございました(わーい)!!
﹁少し休憩しませんか?」
﹁え?」
ふいに掛けられた声に驚いて顔を上げると、すぐ目の前にヴィヴィオが立っていた。
﹁…ごめん、何て?」
思っていた以上に深く思考に沈んでいたようで、こんなに近くに居ながら何と言われたのかわからず聞き返すと小さなため息を一つ吐いてヴィヴィオが薄く苦笑いを零す。
﹁少し、休憩しませんか? って言ったんです、司令」
大丈夫ですか? と少し上体を屈めながら心配そうな顔で覗き込み、眉根を寄せまっすぐにこちらをみつめるヴィヴィオ。
﹁……今日は、ずっと疲れたような顔をしています」
ほんの少し怒っているようなそんな顔。あまり無理をしないで下さいと続けられた言葉に、小さく堪忍と呟く。ほぅと深く溜息を吐きながら肩の力を抜いて、時間を確認するともうすぐ20時を超えようかという時間。
もうこんな時間なんやね……ポツリと呟く。
﹁司令?」
﹁…ぃや、何でもないよ」
油断するとまた余計な事に気を取られそうになる意識をぐっと引き寄せて目の前のヴィヴィオに笑みを向けた。
立ち上がり両の腕を天井に向けてグッと押し上げ伸びをする。
︵あかんなぁ…。思ってた以上に堪えとるやんか)
デスクの上の少しも減っていない資料の山を視界の端に置き、ヴィヴィオに悟られないよう細く息を吐く。
︵えらい疲れたな…)
そんな思いが顔に出ていたのだろうか。念を押すようにヴィヴィオが口を開いた。
﹁本当に大丈夫ですか? 司令」
﹁ん? あぁ、平気や」
いくら平気だと口にしてもその額面通りには受け取ってもらえず渋い表情のヴィヴィオに 苦笑して。
﹁……なぁ、ヴィヴィオ」
﹁はい?」
﹁ちょっとそこまで付きおうてくれるか?」
﹁そこまで、って?」
﹁そこまでは、そこまでや。ちょお、休憩しよ」
とりあえずはヴィヴィオを安心させる為にと、少し外に出る事にした。
◇
﹁うわぁ…… 凄い…」
﹁凄いやろ… わたしのお気に入りの場所なんよ」
そこは地上本部から歩いて数分の場所。都会のど真ん中ともいえる一画に、まるでどこかの庭園から切り取られて来たかのような穏やかな空間が広がっていた。感嘆の声を上げ立ち止まったヴィヴィオの視線の先には、夜の暗さと、空に浮かぶ綺麗な月を背景に柔らかな暖色系の明りに照らされた大木が2人の訪問を歓迎してくれるかのように葉を静かに揺らしていた。
﹁これって……桜?」
はらりと舞い落ちてきた花びらを見つめながらヴィヴィオがはやてに尋ねる。
﹁せやね」
﹁…こんな場所に、珍しい」
多分、地球に所縁のある誰かがここに桜の苗木を植えたのだろう。 それが長い時を経て 大きく成長し、こうして花を咲かせているのだ。
適当な場所に2人そろって腰を下ろす。暫くは無言で2人とも桜をただ見上げていた。
﹁綺麗やね……」
﹁ほんとに……」
こうして何も考えずにゆっくりと何かを鑑賞するなんてこと、随分と久し振りだなと思う。
時折頬を撫でていく風は、桜の葉々を揺らしながらその花びらを空に舞いあげていた。
両手で体を支えるようにしながら桜を見上げていたヴィヴィオの膝に僅かに重みがかかる。ゆっくりと視線を下げるとヴィヴィオの膝を枕にしたはやてと目が合った。何を言うでもなく暫し見つめ合い、そしてヴィヴィオがくすりと微笑む。
﹁制服、汚れちゃいますよ?」
﹁ええよ」
﹁……ねぇ、はやてさん……」
﹁ん?」
﹁…いえ、なんでも」
﹁そうか?」
何かを言いたげに口を開き、けれど何も言わぬまま視線を桜へと戻すヴィヴィオ。
そんな様子に気が付いているだろうはやても、何も言わずただ桜を見上げていた。
﹁…綺麗やなぁ」
﹁……そうですね……」
二人の間に、長い長い沈黙が落ちた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。気が付くとはやての視線は桜ではなくそれを見つめるヴィヴィオへとその先を変えていた。
ざわざわと風が葉を揺らし、はらりはらりと変らず桜の花びらを舞い散らせている。はやてがそのひとひらに手を伸ばした。ふわりと風に乗り舞う花びらはそんなはやての指先をするりと抜けて音もなく地面へと着地した。
――散る桜の花びらを、落ちる前につかむ事が出来たなら……
誰が言い出した言葉なのかもわからない、そんなおまじないを思い出す。空だけを掴んだ その掌をはやてはぼんやりと見つめた。
﹁はやてさん?」
動きを止めたはやてを訝しみヴィヴィオがその名を呼ぶ。
﹁なぁ、ヴィヴィオ…」
﹁はい?」
﹁…ぁ、いや……なんでもない……」
言いながらもう一度はやては手を伸ばす。唐突に触れたくなったなんて、そんな事。うっかり口が滑るところだったなどとは年甲斐もない。はやては内心で苦笑した。
﹁………宙に舞う、花びらを掴めたら……」
﹁え?」
﹁あ、いえ……その、ちょっと思い出して」
﹁何を?」
思わずといった風にヴィヴィオから洩れた言葉にドキリとする。
記憶を辿る様に視線が動きそしてはやてのそれと絡まった。
﹁なのはママが言ってたんです。舞う桜の花びらを、落ちる前に掴む事が出来たなら、願い事が叶うんだよって」
﹁そうか……」
手を伸ばしたままのはやてが、ヴィヴィオなら何を願う? と問いかける。
そうですね、と答えながら徐にヴィヴィオも手を伸ばした。
はらりはらりと桜の花びらは舞い、そして踊る。
﹁願い事、たくさんあるんですよね」
﹁そうなん?」
へへへと悪戯っぽくヴィヴィオが笑う。欲張りやねぇ、とはやても一緒になって笑っていた。
はらり……。
ひらり……。
花びらが躍る。そして、ひとひら、まるで誘われたかのようにそれはヴィヴィオの掌に舞い降りた。
﹁あ……」
﹁なんや、花びらの方からやって来たみたいやったな」
﹁そうですね……」
体を起こしたはやてが隣に並んで座る。
﹁で、ヴィヴィオは何を願うん?」
﹁たくさんあり過ぎて、困っちゃいますね……。でも」
﹁ん?」
﹁………」
﹁なん?」
小首を傾げたヴィヴィオがはやてを見つめながらくすりと微笑んで、
﹁当ててみてください」
﹁……わたしが?」
﹁はい。はやてさんが…」
﹁……たくさんある、言うたやん……」
﹁そうですけど……﹁今」に限るなら一つだけですから」
﹁それにしたって、なぁ……」
﹁多分、さっきはやてさんも考えた事、だと思うんですよねぇ」
大ヒントですよ、これと人差し指をピンと立てながら何か悪戯を思いついた子供のように 笑うヴィヴィオに、何を企らんどるんよ? と溜息ひとつ。
考えてた事なんてたった一つなんやし、と見透かされてしまった心の内を想い軽く嘆息しつつ、目の前で何かを期待したかような顔のヴィヴィオに頬は緩む。
﹁……なら、答え、合わせなあかんね」
﹁…ぇ? ……ん……」
ざぁーっと吹き抜けた風に言の葉を重ねながら、乱された髪にヴィヴィオが気を取られた 一瞬の隙を狙いはやてがさっと唇を重ねた。見開かれたままの目の前を桜色がふわりと横切っていく。あっさりと去ってしまった甘やかな温もりに、ほんの少し不満顔のヴィヴィオ。
﹁……一瞬過ぎて、答え、見逃しちゃいました」
なんて文句を口にするから﹁なら、自分でちゃんと確認し……」とはやてがくすりと微笑む。
夜風にほんの少し冷たくなったはやての頬に手を添えて僅かに首を傾げ近づけば、確かな 答えがヴィヴィオのそれと静かに重なった。
一橋。さま(一橋的迷想宮)
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ストレス溜まるとお酒に走るから長生き出来ひんよねえ、と笑いつつ、せやけどかいらしお嬢さんが一緒に飲んでくれたら酔っ払う訳にはいかへんからお酒も控えられるかも、とか管理局のお若いお嬢さん口説いてるとこヴィヴィオさんの 保護者(過保護な方)に見付かってお説教喰らってる捜査官ください。
Twitter: hitotsubashi_1
Pixiv: http://pixiv.me/hitotsubashi_1
フェイトちゃんが寂しそうにしてる。折角早めに帰れたというのに、最愛の娘が不在とあっては仕方のないことなのかも。それにしたって、ご飯時も食後のお茶の今も心ここにあらず なんて、目の前のわたしに対して流石に失礼なんじゃないのかな。これはお話しするしかないかな。なんて思ったときだった。
﹁……ヴィヴィオも、家族はたくさん居た方が、嬉しいのかな……。」
多分、自分でも気付かないまま溢してしまったのだろう。聞こえるか聞こえないかの小さな呟きに、思わずため息を吐きそうになって思い止まる。フェイトちゃんがネガティヴなのは、今に始まった事ではない。
﹁なんなら、キャロとエリオも、うちで引き取っちゃう?」
わざと明るく声を掛けてみたら案の定、可哀そうな位狼狽えて、危うく珈琲カップをひっくり返しそうになってる。仕方がない人。苦笑いしながらカップを取り上げ、そっとテーブルに戻すと後ろから確りと抱き締める。
﹁フェイトちゃんって、ほんと、鈍感。」
﹁え、え…っ?!」
﹁そこまで鈍いと、あの子が三指ついて、『長らくお世話になりました』って言い出すまで
気が付けないかもね。」
﹁えっ? えっ? なに、なんの話してるの、なのは?」
﹁しっかりしてよね、フェイトママ。」
﹁あ、あうー……。」
なんの話か分からないままわたしの腕の中で顔を真っ赤にしてるフェイトちゃんが可愛くていじらしくて、艶やかな髪に頬を寄せてぐりぐりと擦り付ける。優しくて鈍感で、自分の幸せはいつも後回しのフェイトちゃんが、あの子に好きな人が出来たと気付いたら一体、どんな顔を見せてくれるのだろう。
相手が相手だけに、流石に大慌てするのかな。反対したりするのかな。なんて。ちょっぴり意地悪な気持ちになるくらいは、許して欲しいわたしなのでした。
瑞穂 さま(MOON CHILD)
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Twitter: kawausokaookami
Pixiv: http://pixiv.me/moonchild_mizuho
真っ黒な夜空にまるで時空の穴を開けたかのように輝く真円の光は二つ。
佇んでいるように見えてゆっくりゆっくりと公転している。
ミッドチルダのどこからでも見える金色の真円は管理局が管理する南駐屯地内A73区域からでもよく映えた。
海沿いの地区だけに遮る建造物が無い分、中央区よりもよく見えるかもしれない。
A73区域の駐屯地には通常任務を行う支部の他に隊舎が建てられている。
局員用の寮だ。
中央からはやや距離があるため、殆どの局員は利便性から隊舎に住居を構えていた。
局員の数だけ部屋は用意されており、外から見ると縦横均等に窓が並んでいる。
明かりが点っている窓もあれば暗い窓と様々だ。
明るい窓の局員は、待機勤務なのかただの夜更かしなのか、それとも自主訓練中なのか。
いずれにせよ、真夜中でも多数の人の気配が感じられた。
﹁ご苦労さん」
軽い口調で気配を労って、敷地内にはやては侵入する。
入り口に設置された監視用のセンサーは反応しなかった。
そのまま、ざくざく足を踏み入れて支部を避けて隊舎の外壁沿いにはやては歩く。
脇に筒状に巻かれた白い布を挟み、手には藤で編まれたバスケットを持っていた。
場所が公園でお昼ならばピクニックと間違えられてもおかしくないが、ここは駐屯地で今は夜中である。
はやてを知らぬ者にとっては不審者にしか見えない。
それなのに、支部の局員も隊舎の局員も、はやての行く手を阻もうとしなかった。
センサーが無反応なのだから当然といえば当然だが誰一人として声をかけようとしない。
悠々自適に人気がない敷地の外れまで歩き、伸びた雑草を踏んで茂みを分けて開けた芝生の上で、はやては足を止めた。
﹁ここは変わらんなぁ」
わざとらしく手庇を作ってはやては景色を眺める。
大海原が視界一杯に広がっていた。
湾岸地区の駐屯地ならではの景色である。
もっとも月が空の高い位置にあるこの時間では蒼い海も暗い谷のようにしか見えないのだがはやてに気にする様子はなかった。
後方には隊舎がそびえ立っている。
海と隊舎の間に位置するそこは小さな巣穴のようだった。
一頻り海を眺めたはやては、脇に抱えていた布を広げる。
布は人一人が座れる程度の大きさだった。
海風に攫われないように、転がっている石で四隅を固定する。
その布の上にバスケットをはやては置いた。
﹁ふんふんふーん」
鼻歌交じりにバスケットからランタン型の灯りと簡易型の空間シミュレータを取り出す。
灯りは点して近くに置く。
シミュレータは投影範囲を極限まで絞ってからスイッチを入れる。
かちかちと音を立ててシミュレータが起動した。
はやてを中心に半径五メートルが光に包まれて、やがて収束する。
設定が深夜になっているため、空の明るさは変わらない。
しかし、景観には大きな変化があった。
大地に樹齢を感じさせる大木が何本も現れて根を張る。
精悍な枝が左右に伸び、枝のそこかしこから花が咲く。
薄紅色の花びらが舞う。
薄暗い芝生があっと言う間に桜に囲まれた華やかな草原に変化した。
﹁シャーリーは相変わらずええ腕しとるなぁ」
ミッドチルダには無い桜の再現精度に、はやては感心する。
そして、一番の特等席となった布の真ん中にはやては腰を下ろした。
バスケットからアルコールの缶を出し、封を開ける。
ぷしっと炭酸が弾けた。
﹁ええ眺めや」
はらはらと降る花びらにはやては手を翳す。
簡易シミュレータで再現された花びらは実際には掴めない。
それでも、はやては優しく握る。
開いた掌には何も残っていなかった。
﹁しゃーないか」
些かの侘しさを感じながらも諦めると、背後で草を踏む音がした。
﹁こんなところで、何やってるんですか」
﹁夜のお花見や」
纏っている魔力で誰なのか気がついたのだろう。
振り返りもせずにはやては答える。
声をかけた方も理解しているのか、驚きもせずに続けた。
﹁シミュレータまで持ちこんで」
﹁地球やと今は春なんや。お花見の文化は知ってるやろ?」
﹁それは知ってますけど」
金色の真円と薄紅の花弁を交互に見て来訪者は言う。
﹁……本物を呼んできましょうか?」
﹁呼んできてもかまへんけど、来いへんよ」
言って、ごろんとはやては仰向けに転がった。
﹁せやから、ヴィヴィオが来たんやろ?」
ヴィヴィオは答えない。
溜め息をついて持ってきたブランケットを差し出す。
﹁なのはままからの差し入れです」
﹁さすがなのはちゃん。ありがと言うといてな」
﹁こっちはフェイトママからです」
白い水筒をヴィヴィオを差し出す。
﹁中身はブラックコーヒーです」
﹁はは。帰る前に酔い醒ましで頂くわ」
親友二人からの差し入れをありがたくはやては受け取った。
手ぶらになったヴィヴィオが手を腰に当てて辺りを見回す。
立派な桜が何本も並ぶここは紛れもなく宴の場だ。
﹁局内の一部で広まっている噂、知ってますか?」
﹁なんや?」
﹁毎年、この時期になるとこの辺りに狸が出没するそうですよ」
﹁ほぅ」
﹁その狸はミッドでは生育していない花を生やしてお花見をするそうです」
﹁けったいな話やなぁ」
﹁また不思議なことに管理局の上層部がそのお花見を邪魔しないように裏で通達してるらしいんですよね」
﹁……どうりで侵入が楽なはずや」
﹁もう十年も続いてるらしいですよ」
﹁毎年けったいな狸の観察とは管理局も暇になったもんやなぁ」
けらけら笑って、はやては起き上がる。
笑いが止まった。
背が丸まり、手元でアルコールが揺れる。
﹁もう、十年か」
﹁……はい」
﹁早いもんやなぁ」
﹁はやてさんもすっかりおばさんの仲間入りですね」
ぴくりとはやての眉が上がった。
﹁ヴィヴィオ」
﹁なんですか?」
﹁そこはもうちょお、しんみりすること言えへんか?」
﹁おばさんは否定しないんですね」
﹁やかましいわ」
﹁しんみりしてどうするんですか」
すっぱりはやての意見をヴィヴィオは切り落とす。
﹁私は生きてますよ。なのはままやフェイトママ、そしてはやてさんを始めとする機動六課のみなさんに助けてもらって、元気に生きてます」
スカリエッティに連れ攫われて聖王の器として利用されそうになった幼い頃の思い出。
悲しくて辛い記憶だが、時が経った今はもう笑ってヴィヴィオは話せる。
﹁みなさんのお陰で普通の女の子として育ちました」
なのはの娘になりフェイトに見守られて育ったヴィヴィオは特殊な生まれを露ほども感じ
させない、どこにでもいそうなうら若い女の子になった。
そのヴィヴィオを見つめて、はやては言う。
﹁……普通かどうかはさておき、よう育ったるな」
﹁さておく、のは私の出生のことですか?」
﹁ちゃうわ。あほ」
ほろ酔いを感じさせない真顔ではやては一喝した。
﹁その胸に二つあるやつや」
言って、ヴィヴィオの胸をびしっと指す。
﹁あないにぺったんこやったのに、なしてそないに育っとるねん。普通以上あるやろっ!」
﹁……普通はそこにかかるんですか」
﹁極めて重要な話やろ」
﹁せめて酔ってから言ってください」
素面なのか、それとも顔に出てないだけでもうかなり酔っているのか。
顔色では解らないはやてに呆れて、やれやれとヴィヴィオは空を見る。
薄紅色の花弁と優しい金色の光に、いってらっしゃいと送り出した母親と心配しながらも
止めなかった母親を思い出す。
二人の面影と宴の会場に選ばれたこの場所が痛い記憶に触れた。
﹁……なにも奪われはしなかったじゃないですか」
ぽつりと呟くヴィヴィオの頬を花弁が撫でる。
感触はないのに、まるで本当に触れられたかのようにヴィヴィオは思う。
﹁それなのになにを悔んでるんですか。十年も、ずっと」
﹁悔んでる、とはちゃうな」
後ろ手を突いて、はやては息を吐いた。
目に見えない澱が空に昇る。
﹁自戒、やな」
﹁……自戒?」
﹁ヴィヴィオが言うように、スカリエッティに奪われたもんを取り返した私達はなんも失わ
へんかった」
レリック、ギンガ、ヴィヴィオ、ゆりかご。
いずれもスカリエッティの手に渡ったものの、はやて達は総力をあげて取り戻した。
﹁せやけど一度は奪われた。大切なもんを、な」
任務として守らなければいけない物、人として大切にしていた者。
何一つスカリエッティには渡さないと誓ったのに裏をかかれて一時は奪われてしまった。
﹁辛い思い、悲しい思いをさせて、傷つけてしもた」
ヴィヴィオを攫われて自分を責めたなのは、憤りに歯を噛み鳴らしたフェイト。
なのは達だけではない。
家族である守護騎士達にも無理をさせ、大怪我もさせた。
かの日にした約束を反故にしかねなかった。
﹁ヴィヴィオかて、痛い思いしたやろ?」
﹁それは……」
ヴィヴィオを聖王にするために何度も行われたスカリエッティの実験は苦痛しかなかった。
体中を襲う電流のような痛みと自分が自分ではなくなる恐怖から助けを求めて、なのはの
名を泣き叫んだ。
﹁正直に言うと、痛かったです」
﹁せやろ」
﹁でも……」
﹁ん?」
﹁なのはままの一撃はもっと痛かったので、そっちの思い出の方が強く残ってます」
ヴィヴィオを止めるため、取り戻すためとはいえ、容赦ない一撃をなのは放った。
発光した桜色の魔力は綺麗で、綺麗過ぎて。
怖かった、とヴィヴィオは思う。
﹁あー……」
はやての頬が引き攣った。
﹁あれは、記憶にこびりつくな……」
なのはの一撃は体よりも心を貫く。
その威力を思い出したはやての背筋が震える。
﹁やけど、そのなのはちゃんですら私は泣かせたんやで」
﹁なのはままは、はやてさんのせいだと思ってないですよ」
﹁わぁっとるよ。私が勝手にそう思うとるだけや」
ヴィヴィオが攫われても、なのはもフェイトも、作戦の責任者であるはやてを一度も責め
なかった。
全ての元凶はスカリエッティだと理解しているからだ。
管理局からも咎めはなかった。
奪われたモノを取り戻すために無理を通したにも関わらず降格もなく、逆に事件を終息させたとして評価されている。
しかし、お咎めがないからこそはやてには心残りがあった。
失態を失態として認めてもらえなかった悔しさが楔となって刺さっている。
﹁それで自戒ですか……」
﹁みんな無事だった結果はほんまに良かったと思うとるけど、忘れたらあかんからな」
隊員に怪我をさせた。隊舎を壊滅させた。 なのはを泣かせた。家族を危険に晒した。ヴィヴィオを攫われた。
思い返せば返しただけ後悔は募り、自身の不甲斐なさが浮き彫りになる。
もしも、もう一度同じメンバーで同様の事件に遭遇しても同じ失態は繰り返さない自信は
ある。
けれどそれは、失敗を踏まえての成功だ。
あの悔恨の払拭にはならない。
忘れるわけにはいかなかった。
﹁……誰も忘れていないですよ」
﹁それもわぁっとるよ」
結果に満足して慢心するような隊員は元機動六課には誰もいない。
メンバーを集めたはやてがそれは一番理解している。
﹁私が勝手に花見の肴にしとるだけや」
言って、アルコールを飲む。
﹁ん?」
缶の中にアルコールは残っていなかった。
逆さに振っても数滴垂れるだけで空だった。
飲み干した缶をバスケットに戻して、新しい缶をはやては出す。
ぷしっと炭酸が弾けた。
ヴィヴィオに背を向けて二本目をゆるゆると飲むはやての背中はどこかやけっぱちのように見えた。
どうして、はやては、なのはやフェイトを呼ばないのか。
どうして、はやてを、なのはとフェイトがそのままにするのか。
その理由がヴィヴィオには解った気がする。
﹁はやてさんって……」
﹁んー?」
﹁ほんと、ひねくれてますね」
﹁せやろー」
待ってましたと言わないばかりに、振り返ってはやては笑う。
﹁ひねたおばちゃんは放って、ヴィヴィオもはよ帰り」
ひらひらと手を振るはやてにヴィヴィオは眉根を顰めた。
大股ではやての近くまで歩き、一人用の布の上に無理矢理腰を下ろす。
﹁うぉっ」
背中を押されたはやてが前のめりになった。
ヴィヴィオの長い髪がはやての肩を掠める。
﹁ちょお、ヴィヴィ――」
﹁嫌です」
はやてに背を向けて座り、ヴィヴィオは言った。
体育座りをして、膝に頬杖を突く。
﹁私はここにいます」
﹁なんでや?」
﹁いたいからに決まってるじゃないですか」
淀み無くヴィヴィオは言い放つ。
﹁それから、さっきのは訂正します」
﹁さっき?」
﹁私は普通の女の子じゃないですね」
出生の事だと思ったのだろう。
背中越しに伝わってくるはやての動揺に心で舌をヴィヴィオは出す。
﹁普通の女の子でいたら、はやてさんについていけないってよく解りました。だから、普通じゃなくていいんです」
﹁どういう意味やねん」
﹁そのままの意味ですよ。解ってますよね?」
返答はなかった。
面倒臭い人だと、心からヴィヴィオは思う。
嘘なのか本当なのか解らない笑顔で煙に巻くくせに、隠しきれない。
いつまでも優しくて、どこまでも寂しい人だと思う。
﹁はやてさんの気が済むようにして下さい。私はここで待ってますから」
手は差し伸べない。
助け起こすつもりもない。
ただし、どこにも行かない。
転んで、後悔して、今でも痛いと泣いている大きな子供が、自力で立ち上がるまで。
傍でヴィヴィオは待つ。
悽惨な事件の中で、なのはが教えてくれたように。
﹁怖いなぁ」
はやての肩が震えた。
くつくつ、笑う。
﹁二代目は初代より強いかもしれへんわ」
﹁母親は越えるものでしょう?」
﹁誰が言うたんや、それ」
﹁ノーヴェです」
﹁超えるのは師匠やって訂正しとき」
体育会系ならではの教えを実直に守るヴィヴィオに、はやては頭を掻く。
﹁私の方が子供みたいやんか」
﹁年齢は大分、上ですけどね」
﹁うっさいわ」
はぁっと大きく、はやては息を吐いた。
ふわふわ軽く空に昇っていく。
﹁なぁ、ヴィヴィオ」
﹁はい?」
﹁来年の花見も付き合うてくれるか?」
はやてがヴィヴィオの背に凭れかかる。
重かった。
最後の夜天の主としての宿命、伝説の部隊と称される機動六課の元部隊長としての経験、 司令としての責務。
普通の神経なら押し潰されてもおかしくない重さに、ぐっとヴィヴィオは体に力を入れた。
﹁来年も再来年も付き合います」
約束して倒れないように、はやての背をヴィヴィオは背で支える。
気がつけば真円は傾き、海の方に遠ざかっていた。
はらはら舞う薄紅色は、風に乗って空へと飛んでいく。
小さなランタン型の灯りだけが地の上でじっと動けずにいた。
しかし、灯りが消えることはない。
誰かが必要とすればいつでも助けになる。
迷う人を導くために道を照らし、輝きを増すだろう。
﹁綺麗な夜ですね」
﹁……せやな」
南駐屯地内A73区域の片隅で満開の桜に囲まれてこっそり行われたお花見。
それはまるで、十年越しの卒業の日のようだった。
mugita さま(ガラクタ。)
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Pixiv: http://pixiv.me/zibusyoyu
﹁ぶたいちょー」
一家の団欒が温かくこもるいつものリビングに、いつもと違う幼い声がひとつ転がる。夕食後の緩慢な空気の中、洗い物を済ませて一息ついたところに見計らったようなタイミングで 呼ばれた方へ振り返ると、思いもかけずはやては目を丸くした。
﹁どないしたん、ヴィヴィオ」
ザフィーラの背中で頭の上の二つ結びがひょこひょこ跳ねている。ついと視線を落とせば、寡黙な瞳と目が合った。 沈着な様子は全く平素と変わらず、幾ばくか瞬きを繰り返していたはやても事態を把握してすぐに口元に柔らかい笑みを含ませた。
﹁ザフィーラにのせてもらったの!」
えへへ、と届かない足をぶらぶらさせる無邪気さに微笑ましくなって、よかったなー、と 頭を撫でてやる。
﹁ザフィーラの背中、おっきくてもふもふやろー」
﹁うん、もふもふー」
ころころ笑う声音が心地よく耳朶を掠めて、はやては目を細めた。 重なる輪郭がちらりと 脳裏をよぎって、センチメンタルが揺れる。
﹁そや、そろそろお風呂入らんと、夜更かしになってまう」
けれど夜更けは待ってくれなくて、名残惜しさに手を振りほどきながらはやてはヴィヴィオを促した。はぁい、と素直に返事をしてザフィーラの背中からぴょこんと飛び降りたヴィヴィオは、後からはやてがついてこないことに不思議そうに首を傾げる。
﹁ぶたいちょーは?」
﹁ん、まだちょうお仕事残っとるから、あとでな」
﹁そうなの?」
くりくりと大きなオッドアイを向けられて、ほんの少し良心が痛む。 いや、何もやましい ことはしてへんはずやけど。 はやては胸の中で自問して、それでも真摯な眼差しに掴まら ないように僅かに視線を逸らした。
﹁代わりにシャマル先生が一緒に入ってくれるよ。なぁシャマルー?」
﹁はぁい。準備万端よー」
語尾を張ると浴室の方からほんのりとした声が上がる。
﹁お着替えもちゃあんと向こうに用意しとるからなー」
﹁はーい」
我ながらできすぎとるな。苦笑いは口の中で噛み潰して、ひらひら手を振ってヴィヴィオを見送る。
﹁あ、ザフィーラはおとこのこだからついてきちゃだめだよ!」
廊下から上がるのはやんわりとした拒絶。
思わず視線を落としてザフィーラと目を合わせる。
女の子として羞恥心が芽生えることは立派な成長やと思うけど。
堅牢な彼の青い瞳は相変わらず少しも揺るがない、でも。
﹁……ドンマイやな」
ペタペタと足音を引きずりながらリビングを去っていくに後姿に微かに同情を寄せた。
誰もいなくなったリビングではやてはふぅと呼気を漏らす。 しめやかな空気がすっぽりと 日中の熱を包んで内側から満たされていく。静まり返った夜更けが胸の空洞を穏やかに打つ。
ソファに背を沈み込ませながら、はやては何もない空間にそっと指を這わせる。すぐに冷たい機械音と共にウィンドウが目の前に現れる。迷うことなくプライベート回線を呼び寄せれば、画面越しにエプロンを外しているヴィヴィオの母親が現れた。
﹃ヴィヴィオはいい子にしてた?﹄
挨拶もそこそこに、サイドテールを揺らしながら彼女は尋ねた。
﹁それはもう、」
首を回して廊下の先に消えてしまった彼女の娘の後姿を追いかけつつ、はやては笑う。
﹁いい子すぎるくらいや」
﹃そっか﹄
﹁なのはママの教育のおかげかなー」
そうおどけてみせれば、もう、と呆れた声が返ってきた。
背後の映像がくるりと忙しく回ってダイニングテーブルを映したところで静止する。テーブルに着席した彼女が一息ついたところでおもむろに口を開いた。
﹃でも、本当によかったのかな、はやてちゃんにお願いしちゃって﹄
﹁なん、まだ気にしてたん?」
吐いた溜息の分、しなやかな重みを伴って緩やかに下降していく何かを見つめながら、はやてはくつくつと肩を震わせる。
親子揃って気を使いすぎや。
それは単なる思いつきだったが、案外その通りなのかもしれない。そう思って、でもそれは口には出さなかった。 家族だからだ、と思い込むことにした。一緒に生活するということは 呼吸でさえも伝わってしまうものなのかもしれない。
﹁平気やって言うたやろ。フェイトちゃんが長期渡航から帰ってきてるんやし、久々に夫婦 水入らずで仲良うしてや」
あ、婦婦の方がええかな。
﹃もう、はやてちゃんったら﹄
﹁ふへへ、堪忍堪忍」
膨れ面を作るもその頬に朱が差していることくらい、見なくてもわかった。そう、だって、彼女にとってこの二カ月は途方もなく長い距離だった。星と星との間を跨ぐくらい遠いところなのだ。光だってすぐには届かない。そんな二人のためにお膳立てをしてやるのも親友の務めだろう。幸い、ヴィヴィオは八神家を気に入ってくれていた。機動六課時代ヴィヴィオのお守をしていたザフィーラや顔馴染みの面々が多かったこともあるだろう、今ではすっかり勝手知ったる顔ではやての家族とも打ち解けている。
独り身が寂しいからヴィヴィオに癒してもらうわ、と冗談とも知れない愚痴をこぼすと、
﹃あんまりヴィヴィオのことたぶらかさないでね﹄
あはは、と笑いながら釘を刺された。
おー、おっかない。おっかない。大げさに肩を竦めてみせれば、あからさまに不満げな声が上がる。
﹃本気で思ってないんでしょう?﹄
﹁本気で言うとらんくせに」
数瞬見つめ合って、それから二人同時にぷっと噴き出した。
噛み殺しきれない笑い声が口の端からぷかぷかと浮いている。やがて部屋に満ちた夜の温度に食まれていって、再び元の静寂が落ちていく。
﹁そういえばな、」
﹃なぁに?﹄
目を閉じるとなのはの声だけがして、彼女がすぐそばにいるようなそんな錯覚さえ覚える。ふぅ、と息を吐く。耳を澄ませて、目蓋の裏側でつい先ほどの出来事をなぞっていく。
青い輪郭に幼い面影。褪せた色が静かに中心で揺れ動く。
﹁今日な、ヴィヴィオ、ザフィーラに乗せてもろてた」
﹃――そうなんだ﹄
﹁ヴィヴィオ、すっかりザフィーラの背中が気に入ってしもたみたいや」
隊舎があった頃はよくそうやってザフィーラがヴィヴィオのお守してたっけ。
そうだったかも。
ふふっ。
﹃はやてちゃんもだったよね﹄
﹁ほへ?」
急に話題を振られて素のリアクションを取ってしまう。 目を瞬かせるはやてが珍しかったのか、なのはがますます楽しそうに口の端を吊り上げた。
﹃はやてちゃんも昔ザフィーラさんの背中に乗ってたじゃない﹄
﹁そうやったっけ?」
﹃もう。一緒に乗せてもらったこと、忘れちゃったの?﹄
﹁あかんなのはちゃん、その訊き方はずるいで」
観念したように肩を竦めるとなのはの笑みが勝ち誇ったようになった。とぼけたふりをしていたのは何となく気恥ずかしいせいだ。ザフィーラの背中に並んで乗った記憶を引き連れてやってきた感情は、大人になってしまった今ではすっかり持て余してしまった。同時に、そんな感情をまだ抱えたままでいるヴィヴィオが今となっては少し眩しい。ちょうど彼女の髪の色と一緒だ。ブロンドが輝いて辺りにキラキラ光を撒いている。
廊下から引き戸の開く音が響いて、遠くにしていた意識を呼び戻す。報告だけするつもりがずいぶんと話し込んでしまった。 長い付き合いだとそれだけ波長が合ってしまうのかもしれない。そんなことを別の頭で考えながら、ほんならまたと伝えて通信を切った。
﹁やがみぶたいちょー」
とてとてと足音が近づいてくる。リビングに途端に賑やかしい空気がなだれ込む。振り向くと寝間着姿のヴィヴィオを見つけた。風呂上りで紅いほっぺたが更に色付いて、ぷっくりしている。目を凝らせば頭の上からほかほか湯気まで見えそうだ。 幼い体温を持っている彼女を見ているとそんなふうに錯覚してしまう。拙い足取りで寄るヴィヴィオを手招く。
﹁だれとおはなししてたの?」
はやてと触れ合うか合わないかの絶妙な間合いを取って、ヴィヴィオはとんと隣に座り込んだ。
﹁んー? なのはママやよ」
﹁まま?」
﹁ヴィヴィオはいい子にしてますーって」
ヴィヴィオの首に掛けられたタオルを取り上げて、彼女の頭の頭の上に被せる。タオルの上からでもヴィヴィオはあたたかい。シャマルによって髪は十分に乾いていたけれど、髪が傷まない程度にわしゃわしゃとしたくなった。きゃっきゃとはしゃぐ声が耳元を掠める。無邪気で透明な声だった。子供は子供らしくあってほしい。遠慮がちに開けられた距離を詰める。そんなこと言えた性格じゃないけど、だからこそ強く思う。
﹁ヴィヴィオの手はあったかいなぁ」
物心つく頃から寂しい夜を過ごしてきたヴィヴィオだから、はやてはそんなことを思って しまう。無意識に彼女の手を取って、タオルが膝の上に落ちる。
﹁やさしい手や」
しまったな、と思った時にはもう遅かった。触れ合った皮膚からヴィヴィオの熱がジリジリと伝播していく。すぐに手を解こうとしたけれど、できそうになかった。自分から掴んでおいて掴まれてしまう。そのヴィヴィオはよくわかっていなさそうにしばらく目をくりくりさせていたが、やがてにへらと笑った。理由がわからなくても幼いなりに気遣いを見せてくれる。 痛みに聡い子なのだ。子供らしく、なんて願ったわりに、自分がまだ大人になりきれてなかった。失態だと苦笑いを噛んで、はやてはようやく手を離した。
﹁ほんなら、そろそろ寝よか」
﹁あのね……はやてさん」
腹の中で意を決めたヴィヴィオが上目にはやてを覗き込んだ。はやてはほんの少しだけ意外そうに目を丸くする。彼女が﹁はやてさん」だなんて珍しい。幼い耳には物珍しく響いたのだろう、もう部隊長ではないのにその呼び方を気に入ったヴィヴィオは以来ずっとはやてをそう呼んでいる。 なのはに言い直されていたけれど、はやては面白がってそのまんまでええよと 気にしなかった。 ヴィヴィオからそう呼ばれることに、はやて自身まんざらでもなかった ことは胸の内の秘密にしている。
体を捩らせてもじもじしていたヴィヴィオが自分から切り出すのを待つ。もごもごと口の中で言葉を噛んで、それから彼女はゆっくりと赤らめた顔を向けた。
﹁おねがいが、あるの」
﹁もうちょう、こっちきたらええやん」
ベッドサイドの暖色の灯りが柔らかく膨らんでいる。はやてのベッドに滑り込むことに成功したヴィヴィオは天井を見上げてぼんやりと、淡い光の輪郭を辿った。壁時計の針の刻む音がやたらと大きく響いて、かちこち世界が回る。閉め切った寝室には自分の呼吸と自分ではない呼吸が膨らんでは萎んだ。そのリズムが心地よくて目蓋の縁に乗った睡魔が下りてきそうになる。でも、ここで眠ってしまってははやてのお風呂上がりまで待っていた意味がなくなってしまう。抗いがたい誘惑を必死に押しのけて、ヴィヴィオは素直にはやての声に従う。ぴったりくっついた寝間着越しの腕はとてもひんやりとしていた。ぽかぽかやなぁ。はやての笑い声が降りかかってきて、自分が今とても熱いせいだと知る。
﹁ヴィヴィオ、眠たいん?」
んーん。首を横に振ってみせる。その拍子に鼻から抜けた返事が曖昧に転がる。覗き込もうとするはやての顔を明かそうとしてじっと目を凝らした。 でも照明側にいる彼女は短い髪を傾けるばかりで、表情は窺い知れない。なんとか空中に浮いた言葉を手さぐりでかき集めようとする。
﹁おはなし、ききたいの」
どうにか言葉を形にすると、隣から小さく息を呑みこむ音が聞こえた。それから触れ合った肌から震えが伝わる。 そろそろと見上げると優しい眦に見返されて髪を柔らかく梳かれた。 やさしい手つき。はやては自分の手をそう言ったけど、はやてだっておんなじだとヴィヴィオは思った。自分だけが特別なんかじゃない。 それともはやてはまだそのことに気づいていないのかもしれない。今度そのことを教えてあげよう。はやての指先で今にも夢の中へ連れて行かれそうな意識でそんなことを思う。
﹁ほんなら、何読もか?」
﹁あのね、このあいだのつづきがいい」
そう言うとはやては一瞬目をぐるりと回したが、すぐに得心したように微笑んだ。ぽんぽんとヴィヴィオの頭を軽くさすって、はやてはベッドから抜け出した。 デスクの方へ向かい、机上にある背表紙を細い指がなぞっていく。一往復したところでぴたりと停止して何のためらいもなくそれに指をかけると、はやてはもう一度布団に潜り込んだ。シーツがめくり上がるとふんわりとこもったぬくもりが隙間から転がっていく。
﹁どこまで読んだかなー」
そう言いながら、ページをめくる手つきは確信を帯びていた。随分と読み込まれたのだろう、文庫本のタイトルはかすれてくたびれてしまっている。 ぺらぺらとページが捲れ上がるたび閉じ込めていた時間が立ち込めてつんと鼻孔を刺激した。
しばらくしてはやての手が止まって、二人の間に静寂が下りる。 自分の心臓の音ばかりが大きく聞こえて、鼓動は今か今かと待ちわびていた。 すうっと息を吸い込むはやての唇に釘付けになる。開かれた口から終わりかけの物語がゆっくりと紡がれていく。
﹁カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、……」
暗闇に溶け込んでいく柔らかな声に耳を傾けながら、不意にはやての手元に広がる世界が知りたくなった。小さな首をこっそり伸ばして、ヴィヴィオは覗き込む。でもそこには知らない言語が整然と並んでいるだけだった。ヴィヴィオは咄嗟にママ達の故郷の文字なのだと思った。ヴィヴィオの知らない言葉で、はやての口から語られる世界はとても美しく思えた。煌びやかな白鳥の海岸も赤い火を灯した蠍も後光の射指すサウザンクロスも、想像だにしない彩りで地球の夜空は溢れている。思わず天井を仰いだけれど、煌びやかな白鳥の海岸も赤い火を灯した蠍も後光の射指すサウザンクロスも、何もなかった。淡い人工灯に照らされた白い壁があるばかりで、ヴィヴィオは恋しい気持ちでいっぱいになる。
﹁サウザンクロスって、どんなおほしさまなのかな」
はやての手の中で物語が閉じていく。それは寂しい音がして、ヴィヴィオの胸を打つ。
﹁うーん、日本からやとよう見られへん星やけど、確か」
少し考える素振りを見せて、はやてはそっと宙に指を這わせる。 すると四つの恒星が何もない天井で輝いたようにヴィヴィオの瞳に映った。 浮かび上がった星の上をはやての指先がなぞっていく。
﹁ほんとうにじゅうじかだ」
﹁せやね」
二人は小さく笑い合った。
笑い声が途切れたところで、そろそろ寝よか、とはやてが切りだした。はやての見せてくれた星空をもう少し眺めていたかったけれど、はやてが手を握ってくれたのでうんと頷く。
ベッド脇の照明を落とすと、もう部屋は真っ暗になる。 夜目が利くようになると、微かな星明かりがぼうっと差し込んで窓辺を濡らしているのが見えた。 はやての背中越しで眺めていたヴィヴィオは、そこで彼女も同じ方向を向いていることに気づく。
﹁カムパネルラはどこに行っちゃったんだろう」
急に心臓がきゅうと切なくなって、自分でも気づかないくらい小さな声を漏らしていた。 それでもはやては聞き逃さずに、穏やかな声音でヴィヴィオを包む。
﹁まだどこかで旅してるんやないかな」
目蓋が閉じる寸前、視界の端できらりと光るものがあってヴィヴィオは目を凝らした。チェストの上で、金属の硬度が星々の明かりを浴びて冷たく照り映えている。剣十字だと気づいた時には、はやての手のひらに目元を覆い隠されてしまった。
﹁おやすみ」
ひんやりとした手のひらが心地よくて、はやての声もすぐに微睡に溶けていく。はやての手のひらの夜空は冬の冷たい空気のように澄んでいる。十字の星座が仄かに瞬いていて、はやてはきっとこれを見つめていたのだと思った。背中越しで見えなかった彼女の視線を辿る。酷くおぼろげな憶測だったけど、それでもどこか間違いないという確信めいた予感があった。でもそれも夜のぬくもりの中に溶けて消えた。
おやすみなさい。
届かない距離を想いながら、ヴィヴィオはそっと二つの十字架に囁いた。
森村 慧 さま
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今回の企画に参加させていただき、ありがとうございます。楽しんで書かせていただきました。と言いたいところなのですが、テーマに沿って書くというのは自分にとってこんなにしんどいことだとは思いもよらず、ずいぶん苦戦してしまいました。ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです。
Pixiv: http://pixiv.me/shunncha
深夜零時すぎ。ぼんやりとした薄明かりの中、モニターを開き仕事をしていた。聞こえる のは、加湿器の小さなモーター音と、微かな波の音。そして、ベッドの中の苦しそうなはやてさんの寝息。
無限書庫で仕事中、シャマル先生から連絡をもらった。はやてちゃんが大変なの、って。
期限の近い仕事ではあったのだけれど、はやてさんが大変、なんて聞いてしまうと、何を置いても飛んでいきたくなる。実際、通信を閉じた頃にはすでに、書庫を飛び出していた。
シャマル先生によると、朝から外せない会議があり、少し体調がよろしくないのを押しての出勤。会議の後、医務室に来ると約束したにも関わらず、一向に現れない。手持ちの事件が 急進展し、バタバタしているうちに定時を迎えてしまったのだという。普段スケジュールを 調整しているはずのリインさんは所用でマリーさんのところへ出かけていて、だれもセーブ する人間がいなかったというのも原因の一つ。
事件は解決したものの、はやてさんは倒れた。そして、こんな日に限って、普段誰彼となく人がいる八神家に誰もいない。それで、私に連絡が回ってきたというわけだ。
家に帰ってきたのは、七時すぎ。管理局を出る前に頓服は飲んだものの、熱は下がってい ない。とりあえずベッドに寝かせ、シャマル先生に言われた通り、湿度を保ち水分補給のための飲み物も用意した。
言われはしなかったものの、局で一度戻したと聞いていたから、また吐いても大丈夫なように洗面器も用意しておいた。
帰って来た時は意識もあって自分でパジャマも着替えたのだけれど、少し水分を取った後ずっと眠ったままだ。熱は一向に治まらない。浅く息をする苦しげな表情が妙に色っぽくて、ドキリとする。
気持ちを逸らすためというのもあるけれど、仕事を放り出してきたことを咎められそうな気がして、ベッドの横でモニターを開いて仕事をする。してはいるものの、やはり集中は出来ず、だらだらとただ画面を見つめていた。
眠ったままのはやてさんは、変わらず苦しそうだ。火照ってほんのり赤みを帯びている頬に触れてみると、計るまでもなく高熱なのがわかる。それでも正確な数字が知りたくて、体温計を使うとあっという間に四十度を超えた。
熱が下がらなかったらもう一度頓服を飲ませてねって、そうシャマル先生には言われているのだけれど、薬のために起こすのはどうだろうか。迷う。
はやてさんの額からは汗がにじみ出ていて、少し布団を深く被せすぎたかも知れない。
タオルで汗をぬぐい、布団を浅くかけ直す。起こさぬようにと心掛けたのだけれど、はやてさんの瞳はゆっくりと開いた。そして、開ききらない目で、私を見た。
﹁ヴィ、ヴィオ?」
﹁うん、ヴィヴィオだよ」
まだ意識がはっきりしていないようだった。力なく瞬きをするその瞳も、ちゃんとこちらが見えているのかあやしい。でも、起きてしまったのならちょうどいい、薬を飲んでもらおう。
﹁はやてさん、薬、飲める?」
聞くと、小さくうなずいた。起き上ろうとするのを、慌てて支える。ベッドに腰を下ろし、はやてさんを横から抱えた。当然だけど、触れる体も熱い。ふらついているくせに、自分で 支えようとするのを引き寄せた。
﹁あかん……、そんな、近づいたら、うつしてしまう」
﹁大丈夫だよ。シャマル先生にうつらないように薬もらっているから」
﹁そうなん? ……なら、ええかな」
そう言って、ゆっくりと体を預けてくれた。ごめんなさい、薬をもらったなんて、嘘。それに、この家まで移動する間もべったりで、うつるならもうとっくにうつっている。いつもならそんなの、すぐに見抜くのに。熱で判断が鈍っているのか、それとも……。
腕の中でぐったりしているのを気に留めながら、ベッドの脇にあるサイドテーブルから頓服をとる。
﹁あぁ。自分で飲めるよ」
薬を飲ませようとすると、そういって私の手から頓服を持ち去る。そうだね、これは人に してもらうより自分で飲んだ方が飲みやすいかもしれない。
薬は自身にそれを任せ、私は白湯が零れても大丈夫なように、胸元から膝にかけてタオルを乗せ、頓服をゆっくりと口に運ぶはやてさんを見守った。どうにか飲み終え、再び白湯を口に運ぶ。上手く飲み終えたと思った途端、咳が出た。
あわてて手からコップを取り去り、背中をさする。一度出た咳は止まることなくしばらく 続き、その咳は吐き気を呼び、さっき飲んだ頓服をほぼ全部、戻してしまった。折角用意していたにも関わらず、洗面器が間に合わなかった。なんて失態。
夕食を食べていなかったことと、倒れる少し前に一度戻していたことが幸い、幸いと言っていいものか疑問ではあるが、して吐物はさっき飲んだ白湯の他は胃液、そして残念な事に先程の頓服。
あぁ、思わず声が出そうになるのを飲み込む。咳が治まり、少し落ち着くまで背中をさすった。さすりながらあいているほうの手で、汚れたタオルを吐物がこぼれないように取り去る。タオルのおかげで布団は汚れずに済んだものの、それでもパジャマの胸元が少し汚れてしまった。ずいぶん汗もかいていたし、着替えたほうがいい。
大丈夫? と聞くと首を縦に振るものの、大丈夫そうにはとても見えない。
﹁口もと、拭くね。あ、口の中気持ち悪いよね」
新しいタオルを膝に置き、その上に今度はちゃんと洗面器を用意した。白湯のはいった湯呑を口もとに持って行き、中をゆすぐよう促す。はやてさんは子どもみたいにその都度、うんうんとうなずいた。ゆすいだ白湯が飛び散らないように、洗面器を持ち上げて受け取る。何度か繰り返し、はやてさんが目線を合わせてきた。その目が、もう大丈夫と言っていた。
私は洗面器を置いて、はやてさんの口もとを軽く拭く。こちらを見る目がもう、閉じているのか開いているのかわからない。さっきの咳でずいぶん体力が取られたようで、深いため息をついて背もたれに倒れこんだ。
﹁じゃ、パジャマの着替えを持ってくるね」
私ははやてさんの背にクッションを挟み、汚れたものを持って部屋を出た。シャマル先生に聞いていた引き出しから手早くパジャマを取りだし、途中キッチンに寄ってレンジで蒸しタオルをつくった。洗面器もきれいにして、また吐いても大丈夫な状態にして部屋に戻った。
はやてさんが寝込んでいるところなど、今まで見たことがなかった。健康管理はシャマル 先生がきっちりしているし、寝込むことがあっても私が知るころにはもうすっかり治ってしまっているからだ。見ない姿を目にするのは新鮮ではあるけれど、出来ればこういうのはなしにしてほしい。
戻るとはやてさんは、またこほこほと小さく咳をこぼしていた。これでは頓服を飲んでも また吐いてしまうかもしれない。
アツアツの蒸しタオルを少し振って温度を下げながら、次の手を考える。頓服がダメなら……。もし頓服が飲めないようならと、そう言ってもらった座薬。これを使うしかないのかな。でも、嫌がるだろうな、はやてさん。
タオルの温度が少し下がったところで、一声かけてからそっとタオルをはやてさんの額に 当てた。はやてさんは小さく、んん、とだけ言って顔をしかめる。まだ熱すぎたか。
﹁ごめんなさい、熱かった?」
はやてさんは黙って、首を振る。私はほっとして、作業を続けた。おでこに続き、頬、耳、口、顎と順に顔全体を丁寧に且つ素早く拭く。拭き終えると、急いでキッチンに戻り新しい 蒸しタオルを作って戻る。
﹁えっと、服、脱がすね」
頷いているのか力が抜けたのか、よくわからないけれど、とにかく頭が振れるのを確かめてからパジャマのボタンに手をかけた。
脱がしたことなど何度もあるくせに、妙にドキドキした。こういうとき、いつもはやてさんは私の指先を目で追っていた。でも今は、とろんとした瞳で私を見上げている。その表情が婀娜っぽくて、思わず目を逸らす。逸らしてボタン外しに集中した。
すっかり外し終え前をはだけると、露わになる肌。いつもの白い肌が熱のせいでほんのり 色づいて、この人は今高熱にうなされる病人なんだと、イチイチ自分に言いきかせなくちゃ ならなかった。ドキドキする気持ちをどうにかこうにか脇に置き、手早く首筋から順に丁寧に拭いた。蒸しタオルが冷めてしまわないうちに胸元から臍周りを、そして背中。
袖から腕を抜き、新しいパジャマの袖に通す。その間もはやてさんは力なくふらふらと前後して、早く寝かせてあげなきゃと焦る。
なんとかボタンを閉め終え、上半身は終わった。さて問題はこれから。
はやてさんには横になってもらい、下半身を着替える前にもう一度タオルを蒸し直す。
戻って触れると、まだ体は熱いまま。頓服も戻してしまって、さっきの今で急に熱が引くわけがない。わかっているのに、ため息が出る。もう一度頓服を飲ませたとしても、きっとまた 戻してしまう。
やっぱり座薬しか……。
もしかしたら、このまま大人しく眠っているだけで、朝には熱が引いてしまうかもしれない。だけど、私は医療についての知識はないし、なのはママならそういう判断も出来るかもしれ ないけれど、私には無理だ。なにより、今苦しんでいるはやてさんを、そのままにしてはおけない。ただの発熱ならいざ知らず、四十度を超える高熱だ。
意を決して、私ははやてさんの耳元で囁いた。
﹁座薬、入れたいんだけど、いい?」
座薬と言った途端に、首を横に振る。予想していた返事。だけど、それを聞くわけにはいかない。
﹁でも、頓服だとまた吐いてしまうでしょう」
そう言っても、いやいやと首を振る。
﹁薬を飲まないと、熱が下がらないから」
﹁いやや、絶対」
弱々しい声ながら、頑なに拒否をする。意識が朦朧としているくせに、そんなところはきっちり判断してくる。
いくら付き合っているといっても、お尻の穴など見られたくないというのはわかる。私だってそうだ。いくら好きでも、はやてさんにそんなところを見られるなんて、考えただけでも 顔が紅くなる。
だけど、今はそんなこと言っている場合じゃないし、見られるのは嫌だけれど、見るのは、その、……歓迎する。とはいえ、そんなことを真正直に言おうものなら、ますます嫌がるに 決まっている。
﹁はやてさん、座薬、嫌なら入れなくてもいいけど、それなら私は熱が下がるまで、一晩でも二晩でも寝ずに看病するからね。寝ずに、だよ」
寝ずに、というところを強調する。我ながらヒドいやり方だと思う。こんな脅迫めいたこと。
はやてさんは潤んだ瞳で、こちらを睨んだ。当然と言えば当然。なのだけど、熱にうなされている人の睨みなど、ちっとも恐くない。
﹁このままだと、熱下がらないよ」
暫しの睨み合いの後、わかった、と渋々言った。悔しそうなその表情が、拗ねた子どもみたいでなんだか可愛い。こんな状況なのに顔がにやけてしまいそうだ。そんなことを気にしつつ、はやてさんの気が変わらないうちに私はさっさとパジャマに手をかけた。本来なら四つんばいになってもらい、願わくばお尻を突き上げる形が一番入れやすいのだろうけれど、それは負担が大きい気がするし、もしくは仰向けになってもらい足を持ち上げてってのがいいのだろう けど、こんなの嫌がるに決まっている。やはり、横向きに寝てもらって入れよう。
はやてさんに横向きに寝かせ、腰を少し曲げてもらった。観念したのか素直にいうことを きく。
﹁入れるね」
目を伏せて、はやてさんが頷く。お尻に手をかけると、緊張からか固くなる。
﹁力抜いて」
とはいっても、なかなか緊張は解けない。
﹁もしかして、座薬入れるの初めて?」
そう聞くと、ん、と小さく返事した。座薬なんてそうそう入れないか。大人になってから だとなおさらだろうし、しかも他人に入れられるとか緊張するなと言うほうが無理な話かも しれない。
でも、リラックスしてもらわないと無理やり押し込むなんて出来ないし、いつまでもお尻を出しっぱなしというのはいけない。
私は後ろから包み込むように、はやてさんを抱きしめた。
﹁はやてさん、大丈夫だよ。あっという間に終わっちゃうから、リラックスして」
耳元で囁いてみる。はやてさんは短い呼吸を繰り返しながら、頷いた。
﹁大きく深呼吸して」
そう言って、自分でも大きく息を吸い込んで呼吸した。私の深呼吸にだんだんとはやてさんが合わさって、呼吸が同じになったところで、すっと座薬を押し込んだ。
﹁んんぁん」
入れた瞬間、はやてさんが鼻に抜けるような色っぽい声を出して、その色っぽさにこっち まで変な声が出そうになる。なんて可愛い人。さっき脇に置いたドキドキが戻ってきて、気がつくと首筋に唇を寄せていた。はっとして、すぐに離れる。幸いはやてさんは気づかない、というかそんなことには構ってられないのだろう。我に返った私は座薬が出てこないように指先で角度を変えた。押さえていた指を離し、下着とパジャマを履かせた。無事に終えることが 出来て、ホッとする。
﹁終わりましたよ」
顔を覗き込んでそう言うと、涙目のはやてさんが何かぼそぼそと言うので耳を寄せると。
﹁はよ、手、洗ろてきて」
﹁え、そんなに急がなくてもいいでしょ。はやてさんの匂いだもん」
って、つい口が滑った。当然ながら、ものすごい形相で睨まれた。さっきの比じゃない。 比じゃないとはいえ、怖いというよりまだ、可愛いが優っている。でも口が裂けても今は言えない。それこそ睨むぐらいで済まされないに違いない。今はともかく、元気になってからが 怖い。なので、ぐっとこらえる。これ以上病人を興奮させるわけにはいかないから、私は素直に手を洗いに行くことにした。
戻ってくると、はやてさんがゆっくりと顔をこちらに傾けた。赤い顔のまま、気だるそうだ。
﹁また少し眠って」
そう言うとコクリとうなずく。目を閉じるのを確かめてから、新しい氷枕を作りに席を立った。キッチンで氷を砕いていると、弱々しいはやてさんからの念話。
﹃ヴィヴィオ、どこ?』
﹃キッチンだよ。氷枕の替えを作ってる』
﹃そうか、うん』
﹃眠れない?』
﹃うん』
﹃でも寝ないと』
﹃うん』
﹃すぐに戻るからね』
﹃うん』
さっきから、うんばっかり。いついなく弱気なはやてさんの元へ、急いで戻った。氷枕を 替え、横に坐る。
重そうな瞼を薄っすら開けて、ありがとう、と力なく言った。
﹁ヴィヴィオ」
﹁ん?」
﹁手」
見ると布団から手先だけを出していた。指先が誘うように、弱々しく動いた。私はその手を握る。はやてさんは表情をふっと緩ませ、じっと私の顔を見た。
﹁目を閉じないと、眠れないよ」
﹁眠れそうにない」
﹁そうかもしれないけど、今は眠った方がいいから」
﹁そうやけど、……目をつぶると真っ暗になるやろ。ただでさえしんどいのに、真っ暗なんはいやや」
小さい声でぼそりと言った。一瞬、耳を疑う。今すごく可愛いことを言ったんじゃない? そう思うと、もう胸の辺りからきゅるるって、音が聞こえるかと思うぐらいキュンキュンした。思わず可愛いと口走りそうになって、あわてて口を噤む。ここでそんなことを言ってしまったりしたら、きっとそっぽを向いてしまうに違いない。私は何食わぬ顔で、ひとつ深呼吸した。
﹁私がそばにいるから大丈夫だよ。ほら、手も繋いでいるし」
そう言っても、不安がぬぐえない様子。困った。
﹁えっと……」
﹁じゃ、何か話して」
話してくれたら目を閉じるから、ってまるで子どもだ。私の声を聴いていると、安心するのだと言う。
こんなに甘えてくることが、今までにあっただろうか。嬉しいのはやまやまなんだけど、 熱のせいでおかしくなっちゃったんじゃないかと、ちょっと心配にもなる。
心配にはなるけれど、こんなはやてさんが見られるなら、ちょくちょく熱を出してくれても……。いやいや、まったく何を考えているんだ、私は。
そんな不謹慎なことを考えていないで、何を話すか考えないと。さっきから急かすような 視線が痛い。
﹁どんな話がいい?」
﹁なんでも」
﹁それ、一番よくない答えだよ」
﹁ふふ、ほんとやね」
﹁でもまぁ、今日は。はやてさんお熱だから、特別に許します」
力ない声ではあるけれど、笑顔が戻ってきた。微かに笑うはやてさんを見ながら、モニターを開いた。何かはやてさんが食いつきそうな面白い話はっと。そう言えば、無限書庫の奥で 見つけたのがあった。地域に古くからある伝承を集めた本で、その中のとある地域に伝わる話が特に気になってはやてさん、というか守護騎士の皆さんに聞いてみようと思っていた話が ある。
話し始める前に、詳細を説明した。約束したにも関わらず、はやてさんはまだ目を開けた ままで、話す私を見ている。ちゃんと目を閉じて、って言っても頷くだけで、まったく閉じる気がない。そのへんはもう軽くスルーして、話を進めることにした。
﹁私ね、ここで語られているベルカの騎士たちって、守護騎士の皆さんじゃないかと思うんだ」
モニターでファイルを探しながら、話しかけても返事が返ってくることはなく、でもそれは熱のせいだとわかっているから、別段気にもせず続けてファイルを検索する。
﹁じゃ、読むね。はやてさんみたいに、うまくは読めないけど」
視線をはやてさんに戻すと、さっきまで開いていた目が閉じられていた。
あれ、寝ちゃった?
顔を近づけてよく見てみる。しっかりと閉じられた瞼は、再び開く気配がない。よかった。これで朝までぐっすり眠れたら、きっと熱も引くはず。心なしか、呼吸がさっきより楽になっている気がした。
眠っているとは思うけれど、さっきのようにすぐ起きてしまうかもしれない。また念話なんかしていらぬ体力を使わせるのも嫌だし、私はしばらく、ベッドの横に坐ったままはやてさんの様子を見ていた。
どれぐらいそうしていただろう、はやてさんは話すのをやめた私に続きを催促することも なく、じっと目をつむったまま動かない。もう大丈夫みたい。ちゃんと眠れた、かな。私は 繋いでいた手を、ゆっくりと離す。とその指を、はやてさんに絡め取られた。
﹁続き」
と、ぼそり。 まだ起きていたんだ。 というか、手を離したことで起きちゃった? 眠りが浅いんだ。これは眠ったと思っても、手を離すわけにはいかないな。私は眠りを妨げないようにゆっくりと穏やかな語り口調で、物語を読み始めた。
それほど長い話でもないけれど、読み終えた時には握っていた手の力が抜けて握っているというより、ただ触れているだけになっていた。だけど、離れるとまた起きちゃう気がして、 そのままはやてさんの寝顔を見ていた。
見ながらここに来てからの、はやてさんの様子を思い出していた。素直に甘えてくれるはやてさんの可愛いことと言ったら。高熱で意識が朦朧として素が出たのか。それとも私を誰かと、たとえばはやてさんの大切なあの人と勘違いしたのか。どちらにせよ、普段私の前では決して見せないような姿だ。いつか、熱にうなされていなくても、こんな姿を見せてくれる日が訪れるのだろうか。 もし訪れるなら、近い将来であって欲しい。 そのための努力は惜しまない つもりではあるけれど。
とはいえ、はやてさんは熱で寝込むと可愛くなる、ということをとりあえずメモっておこう。
北乃ゆうひ さま(North SunSet)
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アボカドは一日1つ食べるのにとどめておきましょう(挨拶)
そんなワケで北乃ゆうひと申します。
リリマジ合わせとして見ると、かなりギリギリの滑り込みで参加させて頂きました。
夜と言えば夜食だろうという発想からこんなお話。二人の年齢・外見描写は敢えてナシです。
皆様の妄想にお任せいたします。読者の皆様へ、ひとときのメシテロになれば幸いです。
参加させて頂きまして、ありがとうございました。
Twitter : YU_Hi_Kitano
Website: http://northsunset.gozaru.jp/
Pixiv: http://pixiv.me/north_sunset
明かりも最小限まで絞られ、非常灯の明かりすらありがたく感じるような廊下をヴィヴィオは歩く。
今日と明日の狭間のような時分。建物には警備員や、緊急出動の為の夜勤メンバーがいる 程度だ。そんな夜勤の人達だってこのフロアにはいないので、完全に静まりかえっている。
聞こえるのは、カツカツと地面を蹴る自分の足音だけ。
しばらく歩くと、扉の隙間から、ほんの僅かに灯りが漏れてる部屋が見えてくる。
それを見て、ヴィヴィオは嘆息した。
きっと残業しているだろうからと、買い物をしてここへとやってきたのだ。それは間違い ない。そうはいっても、居たら居たでとても複雑な気分になってしまう。
自分の首筋を撫でながら、灯りが漏れている部屋へと歩いていく。
呆れるような、仕方がないような――胸中に渦巻く複雑な気分を、首を撫でることで、心の奥底に押し込む。それが上手くいくと、気持ちを切り替えて、ヴィヴィオはいつも通りの笑顔を浮かべた。
そして、声を掛けることも、ノックをすることもせずに、ヴィヴィオはカードキーを使って司令執務室の扉を開ける。
扉を開けるのがヴィヴィオだと分かっていたのだろう。こちらを一瞥することもなく、司令は書類に目を落としていた。
﹁あーッ、やっぱり残業してるーッ!」
その司令――八神はやてを見ながら、ヴィヴィオは少し大げさに声を掛けるのだった。
﹁あーッ、やっぱり残業してるーッ!」
突然、執務室の扉が開くなり、見知った声があがった。
やっぱりも何も分かってて訪ねて来たのだろう――と思いつつも口には出さず、はやては 顔をあげながら苦笑する。
﹁こんな時間に何の用や?」
声を掛けながら、手元の書類にサインをして、処理済みの書類の山へと投げ入れた。
キリが良いので、そこでペンを置く。
﹁昼間来たときに、いっぱい仕事抱えてるのを見てましたからねぇ……」
そう言って肩を竦めるヴィヴィオに、はやては困ったように眉を顰めた。
﹁それで良く残業するってわかったなー」
仕事を抱えていたからって、残業するかどうかは、ヴィヴィオに判断できるものだろうか。
疑問に思いながら、首や肩を回していると、
﹁根詰めすぎるのも良くないですよ?」
心配そうに声を掛けてくる。
﹁しゃーないやろ、仕事が山積みなんやから」
﹁それは分かるんですけど」
わざわざ倒れてないか様子を見に来てくれたようだ。
こんな遅い時間だと、彼女のママ達が心配しそうなものだが――
﹁ママ達にはナイショでこっそり抜け出してきました」
――だ、そうである。
﹁バレたら怒られるんは、私なんやけど」
﹁その時は怒られてください」
快活な笑顔でさらっと酷いことを言う口から、舌を引っこ抜きたい。
﹁この時間って、給湯室使えます?」
﹁ん? 使えると思うけど、何でや?」
﹁どうせロクなモノ食べずにお仕事してるんですよね? 夜食、作ってきますよ」
告げると、ヴィヴィオはくるっと踵を返して、部屋を出ていった。
戻ってきた時に、料理を抱えていると、扉を開けられないかもしれないので、一時的にロックを解除し、自動モードにしておく。
﹁何を作ってくれるんかは分からへんけど、美味しいモノを食べられるんは大歓迎や」
そう独りごちながら、はやては再び書類に目を落とす。
待ってる時間、ぼーっとしてるのももったいないので、ヴィヴィオが夜食を持ってくるまでの間、書類仕事の続きをすることにするのだった。
隊舎にはもちろん食堂があるが、各フロアには給湯室もある。
お茶ならここで淹れられるし、コンロもあるし、包丁やまな板などの調理器具もあるので、ちょっとした料理をすることも出来るのだ。
﹁さてと、それじゃあやりますか」
とはいえ、お世辞にも広いとは言えないし、コンロも一つしかない。あまり凝ったことを する余裕のない場所である。
それでも、今回はコンロを使う予定もないので、問題はなかった。
ケトルに水を入れて、スイッチを入れる。
お湯を沸かしている間に、持ってきたアボカドをまな板に乗せた。
﹁うんうん、良い感じ」
アボカドを指で押した時の手応えが、ちょうど良い具合に熟していることを示していて、ヴィヴィオは満足そうにうなずく。
そのアボカドを縦半分に切って、大きな種を取り除く。皮を剥いて、柔らかな果肉を一口 サイズへとカットした。
その後、お茶碗を用意して、隊舎へ来る途中で買ってきた白米を盛り、その上にカットしたアボカドを置いていく。
急須に、粉末の昆布茶と、顆粒の本出汁を入れて、お湯を注ぎ、軽く味見。
﹁んー……お醤油をほんのちょっと入れてもいいかな」
そうして味を調えたら準備完了だ。
薬味として、ワサビと、白ごま、刻み海苔を用意する。
ちなみにご飯も薬味も急須も、当然二人前である。目の前で美味しそうに夜食を食べられたら、我慢できないのはわかっているのだ。
﹁でーきたッ、と」
お箸も二膳用意して、茶碗と薬味、急須を全部トレイに乗せる。
﹁お出汁が冷める前に急ぐとしましょう!」
うふふんっと鼻歌交じりでトレイを持つと、ヴィヴィオは給湯室を後にするのだった。
﹁お待たせしました~」
執務室の扉が開いて、楽しそうなヴィヴィオがトレイを持って入ってくる。
執務机に一度トレイを置いて、そこから茶碗と薬味だと思われる小皿が置かれた。
ご飯の上に乗っている黄緑色の塊はアボカドだろうか。
﹁急須は熱いので気をつけてくださいね」
そう言って、急須も一緒に置かれる。
置き方や、置くための所作など、なかなか悪くない給仕っぷりである。
給仕服などを着せれば、かなり良いモノが見れるかもしれない――そんな妄想をしている時、ふとトレイの上にまだお茶碗などが乗っていることに気がついた。
﹁……ところで、お茶碗や急須がもう一セットあるんはどうしてや?」
﹁もちろん、私の分です」
きっぱりと宣言するヴィヴィオに、はやては呆れたような笑みを浮かべる。
何がもちろんなのだろうか。
まぁいいか――と思いつつ、ヴィヴィオの目を見るとその視線の意味に気がついたようだ。
笑いながらうなずいて、食べ方を説明してくれる。
﹁急須の中の熱いお出汁をしっかりアボカドに掛けるように注いで食べてください。薬味は お好みですけど、個人的にはワサビは必須です」
﹁つまり、アボカドのお茶漬けってコトやね」
﹁はい!」
何とも珍しい変わり茶漬けだが、お手軽だしお腹にも優しそうで、夜食の選択肢としては 悪くない。
ヴィヴィオも、隣にある別の机にトレイを置いて、そこで自分の分も用意した。
﹁夕食は食べたんとちゃうの?」
﹁夜食って別腹になっちゃいません? それに一人で食べるって寂しいですよね?」
﹁ま、そうやね」
ヴィヴィオの言い分に納得して、はやては両手を合わせた。
﹁いただきます」
﹁はーい。召し上がれ~」
楽しそうに、ヴィヴィオは勧めてくる。
その笑顔にうなずいて、はやては小皿からワサビをとって、ご飯の上に乗せた。
それから言われた通りに、急須の中の出汁をアボカドに掛けるように注いで、ワサビを溶きながら軽く混ぜ合わせる。
そうして、アボカドとご飯を一緒に口に運ぶ。
﹁おお」
思わず、そんな言葉が漏れた。
お茶漬けなので、さらりと食べられて、それでいてしっかりと味がある。
熟して柔らかくなったアボカドは元々クリームやバターのような口当たりだ。それが熱湯によって、表面が柔らかくとろけ、より滑らかな口当たりになっていた。
ダシの風味と共に、口の中で溶けるアボカドは、良質な脂を蓄えた魚介や肉のお茶漬けとも勝負出来る味だ。
ダシの味、そしてアボカドの味が混ざり合い、あっさりとした口当たりながら、濃厚でこってりとした後味を持つ。そこに、清涼な辛さのワサビが、良いタイミングで濃厚な余韻を断ち切ってくれるので、いくらでも食べられる気がする。
﹁その顔は、満足してくれてる顔だよね?」
﹁おう。めっちゃ驚いてる」
考えてみれば、アボカドをわさび醤油で食べることもあるのだから、和風の味付けが合わ ないわけがない。だが、アボカドのお茶漬けなんてものは、はやてのレパートリーには存在 しなかったメニューだ。
﹁それにしてもアボカドのお茶漬けやなんて、変わったもん作ったなー、いやめっちゃ美味しいけど」
こういう新しくて美味しいものを食べてしまうと、趣味の料理したい欲がむくむくと大きくなっていうから困る。
もしかしたら、そうやって仕事から少しでも切り離そうというヴィヴィオの戦略かもしれ ないので、なかなかに侮れない。
﹁ふっふっふー……まぁ最近、司令は無理してお仕事詰めてましたし、ご飯も結構いい加減だったんじゃないかなーってことで、栄養満点なモノがいいかなって」
﹁確かに栄養満点やね」
地球のギネスブックにも、もっとも栄養豊富な果物として乗っているくらい、アボカドの 栄養価は高いのだ。
仕事も詰めてて、栄養補給の為の携帯食やサプリメントみたいなものばかりだったのも確かである。
食べやすくて栄養満点という点で見ても、ヴィヴィオの選択肢は完璧だ。
﹁それに、アボカドって森の美容液って呼ばれるくらい、女性の為の食べ物ですしね」
豊富な栄養の中には、塩分排出を促進するカリウム、赤血球を作る銅、生理痛や頭痛を抑えるマグネシウムも豊富に含まれている。ついでに、美肌効果も高い。アボカドから作るアボカドオイルは食用としてだけでなく、肌や髪に塗っても効果があると至れり尽くせりな内容となっている。
ヴィヴィオの言う通り、女性のための果物というのはあながち間違いでもなかった。
﹁残業とかで大変そうな司令は、そういうとこを疎かにしちゃってそうなので、周りにいる 人が気を使ってあげないとですからッ」
グッと拳を握りながら力説するヴィヴィオに、はやては親指を眉間に当てながら、うめく。
﹁余計なお世話――と、言いたいんやけど……」
確かに、ヴィヴィオの言う通り疎かになっているのは事実だ。
美容よりも仕事を優先しきってて、最近どんどん女子力が下がっているのは間違いない。
ここまで歳の離れてる相手に、それを心配されるのはちょっとだけ悔しいのも確かだが。
とはいえ、ありがたいのは間違いないので、はやてはお礼を言おうと顔を上げる。
だが、ヴィヴィオの語りはまだ終わっていなかった。
﹁それに、多忙とストレスを考えると、司令ってなのはママやフェイトママよりも老けるの 早そうじゃないですか。なので、並んだ時に一人だけ見劣りしちゃうのは可哀想ですから、ずっと美人な司令でいてもらう為に、ヴィヴィオがんばっちゃいますよ?」
ニッコリとそれはもう良い笑顔で語りきったヴィヴィオに、はやては半眼を向ける。
﹁………………」
﹁あれ? 司令? 何で目がすわってるんですかッ!?」
ヴィヴィオは良いことしてるはずなのに――と、叫ぶ彼女へ、はやては深く深く息を吐き ながら告げる。
﹁心遣いはむっちゃありがたいのに、それを伝えるのに余計な情報が多すぎるからやッ!」
口を尖らせているヴィヴィオのほっぺたに手を伸ばし、それをむにーっと摘んで引っ張った。
﹁いたいいたい、いたいですよしれー!」
ヴィヴィオの抗議は無視して、はやてはぐにぐにと抓るのをやめない。
﹁アボカドは確かに栄養豊富なんやけどな、食べ過ぎ注意の食べ物でもあるんよ。アボカドの栄養と同じくらい豊富な言葉を語るこのお口も、回しすぎは毒っちゅうわけや」
手を離して、反省するように言うと、ヴィヴィオは神妙にうなずく。
﹁ううー……っ、次からはもっと司令が気持ちよくなれるような言い回しになるように気を つけます」
全く気をつける気のなさそうなヴィヴィオのほっぺたに、はやては再び手を伸ばす。
﹁口は災いのもと言うとるやろがーッ!」
﹁あーッ、しまったーッ!」
さっきとは逆のほっぺたをぐにぐにの刑にしながら、はやては眦をつり上げるのだった
やいのやいのと騒ぎ合う夜食会は、二人が食べ終わったところでお開きだ。
食べたらとっとと帰れと追い返すはやてに、ヴィヴィオも素直に﹁はぁい」と答える。
はやてと自分、その両方の食器をトレイに乗せて、部屋を出ていくヴィヴィオの背中を見 ながら、はやては小さく笑った。
﹁まったく、あの減らず口は誰に似たんだか……」
扉が閉まり、ヴィヴィオの気配が完全に消えた後で、さらに笑みを深めて独りごちる。
﹁ま、ありがたいんやけどな。こうやって気を使ってくれる人達を守りたいから、好きでやってる残業や」
仕事量に関しては管理局のせいだが、ぶつくさ言いながらも残業をしているのはそういう 理由である。
残業することで、大切なものを守ることが僅かでも出来るのだから、必要以上に手を抜く わけにはいかなかった。
それに、美味しいものを食べたり、誰かと仕事以外のおしゃべりをするというのは、良い 活力になってくれる。
なので、ヴィヴィオが夜食を作りに来てくれて嬉しかったのは事実である。
﹁元気でたし、もうひとがんばりしよか。ありがとな、ヴィヴィオ」
ヴィヴィオが出ていった扉へとそう告げて、はやてが仕事を再開しようとすると、自動設定のままだった扉が開いた。
﹁そーゆーのは独り言じゃなくて、ちゃんと私の顔見て言ってくださーい」
からかうような表情と、さぁカモンカモンっと催促する表情が混ぜこぜになった顔のヴィヴィオが、開いた扉から姿を見せる。
それに、はやては顔を真っ赤にしてしばらく口をパクパクさせていたが、やがて正気に戻ると、手にしたペンを力いっぱい握りしめた。
﹁……とっとと帰れ言うてるやろッ!!」
照れ隠しにそう言うと、ヴィヴィオは﹁はぁい」と余裕たっぷりの笑顔を浮かべ、投げキスをしてくる。
はやてがそれに面を食らっていると、彼女はひらひらと手を振りながら扉から離れていった。
その態度が余計に恥ずかしいやらムカつくやらで、思わず手にしたペンを投げつける。
だが、はやてのその行動を予測していたかのように、良いタイミングで自動扉が閉まり、 投げたペンがヴィヴィオへと届くことはなかった。
﹁…………くぅぅぅ、あんな年下に手玉に取られるとは、八神はやて一生の不覚や…………」
両手で顔を覆い、身悶えしながら、はやてはしっかりと決意をする。
二度とヴィヴィオにからかわれないように、残業と徹夜の量を減らそう、と。
疲れと眠気で不覚をとったに違いないと、そう判断したのだ。
だが、よくよく考えてみると――
﹁アカン、そうやって残業を減らそうと考えるコトまで込みなのかもしれへん……」
疑い出すとキリがないと考えたはやては、今宵の出来事を深く追求するのはやめて、仕事の続きに取りかかるのだった。
【 If you aren't always a beauty, you don't permit. - closeds. 】
弐師 さま(ZEROPOINT)
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どうも初めまして
弐師でございます
某人の策略? にはまり ものの見事に参加させていただき
ました
かなり普通とは違う方向に出来上がってますが
クスっと笑ってもらえると幸いです
Website: http://www.n1sh1.sakura.ne.jp/
﹁そろそろええ時間やし、帰るわ」
﹁そうだね」
ミッドチルダにあるなのはフェイト家。たまたま仕事帰り一緒に帰ったなのはとお茶でも ということで、お邪魔していたのだった。仕事の話半分、何でもない日常の話を半分。そんな話をしている間に、日が変わるぐらいの時間になっていたのだった。
はやてが立ち上がって、飲んでいていたお茶のカップを片付けようとする。
﹁あ、別にいいよ」
﹁じゃあお言葉に甘えて……ってあら」
ふと視線を落とすと、ヴィヴィオがすやすやと眠っていた。散らばる色鉛筆を見て、ふと はやてが悩む。
﹁学校の宿題で、絵本を描くって言ってたかな」
﹁へぇ、そうなんや」
﹁私はヴィヴィオを寝かせてくるから」
ひょいっとヴィヴィオを抱きかかえると、なのはがヴィヴィオの寝室に歩いていく。
﹁……」
ヴィヴィオが描いていた絵本に目が行く。
﹁…まぁ、ええよな」
何がいいのかはさておき、はやてがヴィヴィオの書いた絵本を開いた。
﹃オオカミ・・・﹄
ん、最後の方に消した後が、まだタイトルが決まってないんかな。
﹃むかしむかし、あるところにちっちゃくてかわいいリインちゃんがいました。ある日リインちゃんは病気のヴィータおばあちゃんのところにおみまいに行くことになりました﹄
ヴィータおばあちゃんって!
思わず笑いだしそうなところを必死に抑える。ちょうどそこの部分の絵はまだ描けていないらしく、残念ながらヴィータおばあちゃんの姿は拝見できない。
続きや、続きはどうなってるんや。
﹃リインちゃんは森を抜けて、ヴィータおばあちゃんの家に着きました。寄り道をしたので、夜も遅くなってしまいした﹄
うーんどうも赤ずきんちゃんの話に似てるんかな。
﹃リインちゃんがお家に入ってベッドで寝ているヴィータおばあちゃんに話かけると、いつもよりしわがれた声が返ってきます﹄
確かにこんな話やったなぁ、懐かしいわ。
﹃リインちゃんがどうして、声がおかしいのと言うと風邪を引いたのよと答えました。そして眼も悪くなったので、もっと近くに寄ってほしいと言います。リインちゃんはヴィータおばあちゃんのいるベッドに近づいていきます。するとヴィータおばあちゃんの大きなお口が見え ました。リインちゃんは、どうしてそんなに大きなお口をしているのと聞きます﹄
そろそろ話しの見せ場やな
﹃するとあなたを食べるためだよと、はやてオオカミがおそってきました﹄
な、なんでや!
思わず声が出る。
まさかの展開にはやての目がまんまるになってしまった
﹃なんとはやてオオカミは夜とお月様のこだいの力を手に入れて、オオカミたぬきとなって しまったのです﹄
え、ええ??
ちょっとまって、色々と急展開すぎて置いてかれてしまったんやけど。まず月で変身するんはオオカミ男や。それ赤ずきんちゃんじゃない。よく他の話やなんかが混ざって伝わるって ことは結構あるけどこれは意外すぎるわ。いきなり生き別れの弟とかが出て来る、急展開漫画を思い出すわ。
そしてなんで、こんなかわいいはやてちゃんがオオカミ女にならなきゃならんのや。
ちなみにはやてはお酒を飲んでいるわけではありません。
夜とお月様の力ってなんとなーく合ってる気もしないところが何とも。てかなんでたぬき オオカミに変身するねんっ
ちなみに怖いは程遠いかなり可愛いオオカミたぬきが、がおーという感じでリインにこれまたかわいい口を開いていた。
色々と突っ込みがありつつも、絵本のページをめくる。
﹃リインちゃんを一飲みにしようとします。とその時です﹄
今度はなんや?
﹃さっそうとなのはママが来てくれました。スターライトブレイカーで一発です﹄
オオカミさーん。
﹃しかしそれでもはやてオオカミには﹄
続き、続きはどうなんや!!
ページをめくる。だがそこには何も書かれてなかった。
ここまでしか出来てへんとか、気になるすんごく気になるんやけど。てかいったいヴィヴィオちゃんにどんな風に思われてるやろ。
色々と考えを巡らせてみるが…… だがやっぱり、どうしてもどうしてこうなったのかまったく理解できなかった。まったくをもって。
まるでパンドラの箱を開けしまった少女の如く、そっと絵本を閉じて元の場所に戻す。
……
そのままじっと絵本を見つめる。感情が上がったり下がったり、まるでジェットコースター。
しばらくして、ヴィヴィオをベッドに寝かしてつけて来たなのはが戻って来た。
﹁はやてちゃん?」
何やらただならぬ状況を感じ取るなのは。
それはたしかに、じっとヴィヴィオの描いた絵本を見ている光景。それはたしかにただならぬ状況である。
﹁なぁ、なのはちゃん。私のこと、ヴィヴィオちゃんにどう映っとるんやろか」
うるうるとなのはを見るはやて。
﹁え、えとぉ。はやてちゃん?」
なのはにはまったく理解不能の一言である。
﹁なぁ、なのはちゃん……」
迫るはやて。
﹁え、あ、あの?」
なぜどうしてが全く分からないなのは。
このしばらくこの状況が続いたとか続かなかったとか。
後にこの問題作。完成したタイトルは、オオカミはやてちゃん。この作品は関係者(その ほんの一部)に衝撃が走る一作となる。このあとヴィヴィオに優しくなった人がいたとかいなかったとか。
それはまた後程のお話。
雨野渓悟 さま(戯言亜空間)
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濃厚なヴィヴィはや分でお送りできると思いますのでお楽
しみください、ついでに当サークルのやさぐれヴィヴィオ
シリーズも御贔屓お願いします。
Twitter : Circle_ZN
Website: http://noiscal-headphone.ldblog.jp/
Pixiv: http://pixiv.me/noiscal_children
窓の外ではすでに陽が落ちて随分と経ったらしい。そうした実感はなかったが、街々に横たわる夜の暗さは濃さを幾分も増している。点在する街灯の明かりが心もとなく揺れているような気がした。それは案外私の心根を映しているだけなのかもしれなかったけれど。
やけに座り心地の良いソファーへ深く身を沈める。はやてさんの家にはいくつもの優れた家具があるけれど、その中でもリビングに置かれた団欒用のソファーが私は一等のお気に入りだった。質の良い革張りされた生地だが、それが妙に柔らかく身体へ合うのだ。あと、やけに大きい。俗に大人モードと揶揄されたりする格好を今の私はとっているのだけれど、それでもこのソファーからしてみれば小さい人扱いだろう。
値段の話というのも無粋だが、しかし一体いくらになるのだろうか私は気になった。家具に限らず多くの調度品が高級なアンティークものである八神家において、このソファーが例外であるとは到底思えなかった。ごく一般的な金銭感覚を持って育った私からすれば、おそらく 目が飛び出て戻ってこない程の価値があるのだろう。先ほど夕食で使っていた食器一枚が私の愛読書数十冊分に及ぶのだから全く有り得ない話ではなかった。
はやてさんが流し台で食器を洗っている気配を背後に感じながら、私はまだボーっと窓の外に広がる街の景観を眺めていた。高台に建てられたこの家からはペインザックの街を一望できるのだ。眼下の煌めきは泡沫の夢に似た眩しさで、その隙間を縫うように潜んでいる夜の黒色がそら恐ろしくも感じた。私はそんな言い知れない気持ちを飼いながら、どこへと宛てのない視線をただ彷徨わせ続けている。
首都クラナガンからドビーヒル縦貫道をひた走ること二時間と少し。そこから西へいくつかの国道を抜けるとセレブの街として有名なこのペインザックに辿り着く。私はその中でも一等地とされる南の高台に居を構えるはやてさんの自宅で緩やかな時間を過ごしていた。
豪華な夕食を振る舞われ、絢爛な夜景を片手に随分と穏やかな時間を私は得ていた。それらは最近では少し縁遠かった私の充足感を満たし、いい気分転換のきっかけになっていた。どうにもここ数日は気持ちを塞ぐ出来事が多かったせいもあって、言い知れぬ疲労感がずっと張り付いているような感じがしていたのだ。
とはいえ、全てが全て充足しているわけではない。ここ数日、急に上がった気温の所為で しなだれている街路樹のように、私もまた急変した現状に居住まいの悪さを感じていた。そもそもとして私は貧乏性なのだ。豪勢な料理はありがたかったけれど、しかしだからといって 歴史に名立たる品々に囲われて食事がしたいかといえば別の問題だろう。一見してシックに 纏めてあるこの室内にしても総額で計算すれば果たしてどれほどの数字になるのやら。私は その恐ろしい考えの結論について思いを巡らせないことにした。
しかし、だ。
視線を外の景観から天井へ向け、あるいは未だに食器洗いに精を出すはやてさんへ向けた。私は誤魔化すことを止めた。つまるところ私が真に感じている居心地の悪さは、そうした表層的なものではないのだ。確かに豪華絢爛は肌に合わない性質ではあるけれど、これほどの充足感を覚えていれば実のところそう感じるものではない。これでいて私は随分と単純な人間で ある。出された料理に舌鼓を打っていれば、その料理の下に敷かれた皿の値段など忘れてしまえる類だ。だから根本的に座りの悪さとは、このソファーの所為ではないし、あるいは室内に優しく灯っているブラケットライトの所為でもなかった。
﹁はぁ」私は溜息を一つ吐く。﹁どうしたもんですかね」
ひっそりと呟いた声は案の定、はやてさんには聞こえなくて水流と時おり食器同士がぶつかり合う音だけが響いていた。私はどうにも居た堪れなくなってソファーから立ち上がった。
﹁はやてさん」
﹁ん?」
﹁あー……いや、ちょっとシャワーお借りしますね?」
﹁おぉ、えぇで。場所分かっとるよな?」
﹁何度も来てますから」
リビングを出て玄関とは反対へ進み、突き当りを左に曲がればすぐに浴室が見えてくる。 私がここへ来るのは初めてではなかったし、そもそも広いとはいえ家の中で迷子になるほど 残念な方向感覚を飼っているわけでもない。
脱衣所で少し縒れたワイシャツを脱ぎ、カゴへ雑に放り投げる。肌を夜の冷たさが少しだけ撫でた。少し急くようにパンツを脱ぎ捨て、それから下着の類もワイシャツと同じように放った。几帳面な性格をした親から何故こうも色々といい加減な娘が育つのかはなはだ疑問ではあったが、しかし私とすれば身に寄り添ってくる冷気の中で律儀に散らかした服を畳む気にはなれなかった。
浴室に入り、蛇口をひねる。シャワーの水は一瞬でお湯に変わり、辺りに蒸気を散らした。私に纏わりついていた肌寒さもすぐに洗い流れていく。ついで身体にへばりついていた汗の 不快感も少しずつ無くなっていった。熱いシャワーを顔から浴びて、凝り固まった雑念の類を落としていく。肌を伝う水滴は大理石の床へ広がり、ゆっくりと排水溝へ流れていった。私が抱えていた居心地の悪さを引き連れて行ってくれているようにも思えた。
しばらく無心でシャワーを浴びていると、やがて胸や腹を中心に全身から鈍い痛みが走り だした。傷口にシャワーの湯が沁みている痛みだった。
壁に掛けられた小さな鏡を見る。二十代中頃の姿形をした私は、その相変わらず険の強い 視線で向こう側の私を睨んでいるようだった。 実年齢を考えれば随分と筋肉質な肢体には いくつもの傷があり、まだ薄らと赤を滲ませていた。痛みの原因は考えずともそれらだった。
﹁はぁ」
やるせない気持ちを吐き出し、広がる痛みについてあまり考えないようにした。
先ほどからリビングに流れていた居辛い雰囲気の主たる原因は、この傷たちだった。その 全ては私の不注意、あるいは実力不足によって生れたものだけれど、しかしより正確に言えばはやてさんの所為でもあった。
いつものように多忙な両親が仕事で家を空け、そしていつものように道化主義者な狸に拉致されたのが今朝の話。そして約束事のように彼女の無謀な仕事に付き合わされ、道中で私が ドジを踏んだというわけだ。
弁明するならば私だって日頃ならばこんな傷を負うような間の抜けたことはしないだろう。しかしここ数日、私の気分を塞ぐ出来事が多く続いてた所為もあって注意力散漫になっていたのだ。結果がこの様である。
もちろん、私が抱えていた問題の多くは大したものではない。それは家族のことであったり友人のことであったり、あるいは自分や過去についてのことだったりだ。ありきたりな、つまるところ人生に付随する避けられない類の問題だ。けれどタイミングが悪かった。それらを 消化する前になのはママたちは仕事に出かけてしまったし、はやてさんは私を遊びに誘って しまったのだ。
結局のところ、この傷については誰が悪いというわけではない。それに一見して派手では あるが、この多くはシャマル先生が帰ってくれば消えるものである。不都合があるとすればシャワーがやけに沁みることと、この後に待ち構えているだろうシャマル先生の小言くらいだ。
そう、私が間抜けだっただけで、全て大した問題などではないのだ。だというのにはやてさんは帰って来てからしきりに私へ気を遣っている。私の感じていた居心地の悪さとは、まさにその所為である。
確かに日頃はもう少し落ち着きを持ち、そして人を思いやる心でも持てと零しているが、 実際にこう大人しくされると気味が悪くて仕方がない。彼女は傍若無人で自分勝手であり、 いつだって人を過大評価しては無茶苦茶に付き合わす、そんな怒濤な人物であるべきなのだ。それはおそらく彼女の素にもっとも近くで触れている私だから思う感想なのかもしれない。
ともかく、現状は私にとって居心地悪いものであるが、しかしシャマル先生が明日の朝まで帰ってこない以上、この傷たちは抱えたままである。私もはやてさんも治癒魔法という類は とんと苦手なので仕方のない話だ。
どうしたものかと鏡を見れば、すっかり水分を含んで垂れ下がっている前髪の隙間から億劫屋の目が私を眺めていた。いくら考えたところで結論は出ず、ただのぼせるだけだろう。私はそう感じて、仕方なく思考を切り替えた。後のことは後で考えようと、充分に温まった身体に満足を覚えつつ、髪を洗い始めた。
友人からもよく咎められる粗雑さで髪や身体を洗い終えると、シャワーを止めて脱衣所へ 出た。壁に掛かっている時計を見るに、考え事をしていた割にそう長く浴びていたわけでは ないらしい。カゴを見ると脱いでいた服は片付けられ、真新しいシャツが出ていた。はやてさんと比べて私の方が幾分か身体が大きいので彼女の服というわけではないだろうが……まぁ、背丈の似ているシグナムのものだろう。
服の横に出されていたタオルで身体を拭くのは些か抵抗のあることだったが、急速に冷えていく体温を感じて私はそれを手に取った。案の定、塞がり切っていない幾つかの傷の所為で タオルを少し赤く染めてしまった。まぁ、それくらいははやてさんも織り込み済みだろうからとやかく言いはしないだろうが、どうにも申し訳ない気持ちだった。
身体に残る水滴を素早く拭き取り、下着を身に着ける。それからスウェット生地のパンツを穿き、フリーサイズのシャツに袖を通した。少し窮屈さを感じなくもないが、しかし気になる程ではなかった。
﹁おぅ、案外早かったんやな」
﹁シャワーだけでしたしね」
リビングから顔を出したはやてさんに言葉を返す。そういえば日頃ならば浴室に乱入して きてもおかしくはなかっただろう。平穏なことに物足りなさを覚えるあたり、つくづく調子を崩されている感じがする。
﹁これ、シグナムさんの?」
﹁せやで。私のやとサイズ合わんしなぁ」
﹁一回りくらいは違いますからね。いい具合ですよ」
﹁さよか、そりゃ良かったわ。お前のんも明日までには乾くから」
﹁すみませんね、洗濯までお願いして」
﹁えぇって、えぇって。そもそもお前そういうの出来ひんやろし」
けらけらと笑いながら揶揄する言葉を投げかけてくる。それについては否定する言葉がなかったし、反論する材料もなかった。私は不貞腐れたように肩をすくめ、自分がまだ髪を乾かしていないことに気付いた。
そういえばと話を切り、はやてさんにドライヤーの所在を確認する。入り浸っているとは いえ、流石に細かい機器の収納場所まで覚えているわけじゃない。
﹁そんなら私が乾かしたるわ、こっち来ぃや」
私が素っ頓狂な声を上げなかったのは、ひとえに私の極めて優秀な自制心によるものだろう。傍若無人が服を着て歩いているような人間が吐き出す言葉にしては随分と出来の悪い冗談みたいな台詞だった。しかし、どうやらジョークの類ではなく真剣らしい。彼女が私を寝室に手招く様子からも、それが分かった。
私はどういう顔をすればいいのか分からないまま、彼女の言う通りに二階へあがり、日頃の書類が散乱した私室からは考えられない整頓された部屋へ入っていった。そして鏡台の前に こじんまりと置かれた椅子へ座ると、はやてさんは引出しからドライヤーを取り出し、おもむろに私の髪を乾かし始めた。
それから暫くは私たちの間に沈黙が横たわった。無理からぬことだ。私とはやてさんが知り合って、というよりも素を曝け合うようになってから数年以上が経っているが、こんな状態は未だかつてない。何を喋れと言うのだ。
時計の音だけがうるさく響いている。その隙間を埋めるようにドライヤーの送風音が滲んでいた。鏡越しにはやてさんの表情を見るが、あまり日頃と変わらない面持ちのようだ。それが余計に私の行動を決めかねさせていた。
私の髪があらかた乾き終える頃、ようやく意を決することにした。彼女は丹念にブローを していたが、もう寝るだけだ、さほど重要なものではないだろう。
﹁いい加減、止めにしません?」
﹁何言うてんの。寝るだけやってもしっかり乾かしとかな、傷むで?」
﹁そっちじゃないですよ」私が言う。﹁その余所余所しい態度。皆さんの八神はやてなら別に良いですし、なのはママの高町ヴィヴィオなら私だって構わないんですけどね。はやてさんが、私にそういう態度を取るのは些かくすぐったくて敵わないんですよ」
﹁言いよるな、小娘」
﹁そうそう、それです。小娘がちょっと怪我したくらいで馬鹿みたいに気を遣わないで下さいよ。面倒臭い」
はやてさんは何やら少し考えている様子だったが、手を止めることはしなかった。私はと いえば、はやてさんが会話を止めている以上、言及のしようがなかった。結局、彼女の沈黙に付き合うしかないのだ。
﹁まぁ、正味な話、ちょっと思うとこはあってん。リインが怪我したとこやったしな」
﹁そういえば言ってましたね」
﹁お前を除けばアイツが一等私に近いヤツやったんや。アイツに、そんでお前やろ? 誰やってちったぁ省みるもんやで」
﹁ヴォルケンズの皆さんには言わない癖に」
﹁アイツらはどこまで行っても家族やからな。お前らとはちょい違うわ」
﹁彼女らには同情しますよ」
私の冷やかしに、はやてさんはようやく口角を少しだけ吊り上げるようにして笑った。私の知る彼女の笑みとは、そうした凶悪なものだった。なんとなく安堵した気持ちになった自分を苦々しく思ったが、しかしシャマル先生が帰宅するまであの不快感さに耐えるよりはずっと マシなことだ。
ドライヤーのスイッチを切り、彼女はそれを乱暴にベッドへ放り投げた。広々としたベッドの上で数度弾むドライヤーを見送りつつ、私ははやてさんの方へ向き直る。彼女も同じようにベッドへ腰掛け、私の方を見ていた。
﹁でもまぁ、確かにウチらしくはないわな」
﹁全くですよ」
﹁はん、お前に慰められるとはウチも随分焼きが回りよったな」
﹁私は貴女の人間らしいところが見れて少し気分が良いですけどね。人の傷を殊勝に気にしてる貴女の姿を見るのは愉快でした」
﹁こいつめ」
はやてさんが言うや否や、私は彼女に腕を取られベッドへと引き倒されていた。倒れ込む 途中でうまい具合に下へ追いやられ、いわゆるマウントを取られた姿勢になる。藪蛇だったかと思ったが、珍しくあまり後悔した気分ではなかった。
﹁安心せぇ、シャマルが帰って来よるまでウチがちゃーんと面倒見たるわ」
﹁……そりゃ、お手柔らかに頼みますよ」
しかしはやてさんは頷くことをしなかった。私は苦笑いして背中に広がる鈍い痛みから意識を外した。この痛みもどうせ朝までの付き合いなのだと思えば、そう悪いもののようには思えなかったからだ。
きっとシャマル先生が帰る頃には八神司令だし、私はヴィヴィオちゃんなのだ。日が暮れる頃に始まった恋は、朝まで咲いているのだろうか?だなんて流行歌じゃあるまいし、私たちはこれでいい。
あぁ、夜明けまでまだ遠い。私は揺らめくカーテンの外側に広がるのっぺりとした暗闇に ついて少しだけ考えた。
END
安曇タケオ さま(何も探してない。)
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この度は素敵な企画にお誘いいただき、誠に感謝です。
締切に間に合わず、過去作品の再掲という形でお茶を濁す 自分をお許しください……。埃まみれの作品をお渡しする のはさすがに失礼かと思い、頑張って綺麗にしたつもりです。
自分にとってのヴィヴィはやの原点となる話なので、少し でも気に入っていただけたら、嬉しいです。
この本を機に、ヴィヴィはや好きが増えますように……!!
Twitter: azumi3
Pixiv: http://pixiv.me/asukl3
Website: http://lackygirl.jugem.jp/
大丈夫だよ、と言った声が震えていたなら、多分もう少し簡単だった。
肩まで引き上げた布団に包まると、意外と深い溜息が零れ落ち、それがシーツの上を滑っていくのをヴィヴィオはぼんやり眺めていた。頬を押し付けた枕からは柔軟剤が仄かに香り、 鼻の奥が少しむずむずする。決して不快ではないけれど、何故だろう、少し落ち着かない。ベッドで何回か寝返りを打ち、ようやく落ち着けるポジションを見つけると、ヴィヴィオはそっと息をつく。跳ね返る吐息には、自宅とは違う匂いが混じっていた。
静かな部屋だった。以前泊まりに来た時は夜中でも賑やかに思えたのに、まるで当てが外れてしまった。壁を隔てていても、家人が少ないだけでこんなにも気配が変わるものなのか。 空気が地を這うような音を立てている気がする。静けさが布団越しにヴィヴィオの肌をかり かりと擦るせいで、なんだか胸がざわめいてしまう。
ベッドサイドランプの茶色い小さな明かりが、ヴィヴィオの息遣いをしっとりと縁取る。 部屋の隅には暗がりが溜まっていて、その傍らに、青い獣が体を丸め伏していた。毛並みの 上でそっと波打つ仄かな光のリズムを数えながら、ヴィヴィオは爪先に溜まった一日の名残を持て余す。
﹁眠れないのか」
青い獣のまぶたが開き、低い声で尋ねられた。ヴィヴィオは横になったまま首肯する。
﹁おかしいね。何度も泊まりに来てるのに」
今日に限って、この家のすべてがよそよそしく感じられるのだ。水と油が混じり合わないのと似ていた。まるで、初めて一人で寝たときのような、そんな心地。
ザフィーラは大きな尾をわずかに振った。
﹁そんな夜もある」
穏やかな声音に、ヴィヴィオはそうだねと頷く。ザフィーラの尾がもう一度床を叩いて、 ぞろぞろとした気配を蹴散らした。
一人寝が寂しいわけでも、夜が怖いわけでもない。ただ、なんとなく眠れない。窓の向こうで嵐が暴れているかのように、胸の奥がざわついている。寝返りを打っても消えてはくれない。ザフィーラの言う通り、そんな夜もあるだろう。今夜はきっと、いつもと違う夜なのだ。
眠れない体を横たえているのもつまらなくて、ヴィヴィオはベッドからそっと抜け出して みる。足を下ろすと、ひんやりとした敷き布が足裏をくすぐった。
﹁どこへいく」
どちらかというと無表情なザフィーラが、訝っているのがわかる。薄手のタオルケットを引っ張りながら、﹁ええと、リビング……」と零してみた。 何気なく呟いただけだけれど、口に したらそれが正しい事のように思えて、ヴィヴィオは手繰る手つきを早めた。
リビングのソファで寝てみるのはどうだろう。ここで寝るより寝つきがよくなるかもしれ ない。普段だったら怒られてしまうけれど、今日は違う夜なのだ。寝る場所が違っても許されるのではないか。
――でも、朝まで寝てたら、はやてさんびっくりしちゃうかな。
そう考えていたら、ザフィーラがまるで先回りするかのように、
﹁リビングには、まだ我が主がいるだろう」
と、立ち上がる。ヴィヴィオは、タオルケットをマントみたいに体に巻きつけてみた。引きずらないように何とか抱えながら階下へ下りる。ザフィーラはヴィヴィオの半歩後ろをついてきた。かつ、かつ、という爪の弾く音は、一つ一つ暗闇へ滲むように消えていった。
電気のついていない夜の廊下が薄ら恐ろしいのは、どこの家も一緒なのだろう。影がひとりでに動くのではないかとか、床板の軋みが得体の知れない呻きに聞こえたりとか、子供ならではの想像力から逃げるように、ヴィヴィオは少し早足で歩いた。息を潜め、刺激をしないようにする。何が目覚めてくるかわからないから。
リビングへの戸は開いていた。そこから漏れる微かな明かりは灯台の灯のようだ。滑るように体をもぐりこませると、マントの裾がたなびいて踊る。走ってみたら楽しいかもしれない。そうは思ったけれど、ヴィヴィオは分別のある子供だった。
リビングのソファに、はやてが腰かけているのが見えた。こちらに背中を向けているから 何をしているかはよくわからない。ただ、彼女の前には一枚のモニターが展開されていて、 それが唯一の光源だった。同じような光景を自宅でも見たことがあるので、きっと仕事なの だろうと思った。
ヴィヴィオはタオルケットの裾を手繰り上げる。音を立てたつもりはない。けれど、はやてがこちらを振り返った。
﹁おや、」
意外そうに目を丸くして、
﹁てるてる坊主みたいやね」
そう言って和らいだ口元を見て、ヴィヴィオはようやく固まっていた息を吐き出した。ほたほたと歩いてソファへ回り込むと、はやては体を少しずらしてヴィヴィオの場所を作ってくれる。
﹁こんばんは、夜更かしさん」
﹁こ、こんばんは」
そういえば、今はもう大分遅い時間だった。ヴィヴィオにとって夜更かしが許されている のは、一年の終わる時くらいで、そんな特別な日でもないのに起き続けているのはやはり悪い事なのだろう。でも、眠れないのだから仕方がない。
だけど、はやては﹁寝坊しても知らんで」とにやつくくらいで、何も言いはしなかった。 咎めるような雰囲気はなく、なんだか、大事な秘密を小さな箱にそっとしまうような口ぶりだった。寝付けない時とは違う意味で、お尻のあたりがむずむずする。
羽織ったタオルケットを襟首まで引っ張り上げ、ヴィヴィオはモニターを見上げた。
﹁お仕事、ですか? ママも、時々おうちでお仕事してる」
﹁せやな。宿題みたいなもんやしな」
﹁そっかぁ」
大人になっても、宿題が出るらしい。宿題は学校に通っている子供にだけ出されるのだと ばかり思っていた。ヴィヴィオはモニターを睨みつけてみる。はやてはヴィヴィオをちらりと窺っただけで、その視線はまたモニターに戻っていった。
何が書いてあるのかはさっぱりわからない。文字が読めないわけではなくて(読めない言葉もあったけれど)、羅列してある言葉の意味がよくわからなかった。目の回る思いで、ヴィヴィオははやての腕にもたれかかる。
﹁大変そう」
﹁うん。すっごい大変」
そうなんだあ、とヴィヴィオは一人ごちる。ヴィヴィオの周りにいる大人たちは素敵な人 ばかりだから、宿題なんてすぐに片付けられるのだと思っていた。事実、ヴィヴィオがつまずいてしまうような問題などについて、わかり易くアドバイスをくれたりもする。
﹁……大人になったら、何でもできるんだと思ってました」
﹁がっかりした?」
掴んだ服に、ヴィヴィオは額をこすりつける。柔らかな布地が心地よかった。はやての部屋着からははやての匂いがして、それが鼻腔を通り抜け胸元にすとんと流れていく。水面に色水をぽたり、と落とされたような、そういう気持ちだった。
ヴィヴィオはそのまま、はやての腿に頭を乗せ寝そべってみる。細めた目が、それを許してくれた。母親とよく似ている瞳が、ヴィヴィオを丸く照らした。優しい灯りに、ざわざわしたものは心の端に追いやられていく。闇色の毛布を頭から被って隠れるその背中を、ヴィヴィオは色違いの瞳で無感動に眺めた。
薄暗がりの中、青い毛並みの上を仄かな光が川面のように流れる。ザフィーラはカーペットの隅で体を丸めている。どうして、そんなに距離をとるのだろう。
﹁あそこが、定位置なんよ」
そうだったのか、と虚ろに考える。近くも遠くもない所にいるのが、いいのだろうか。
﹁ずっと寂しかった、気はするけど」
空から一番に落ちてくる雨粒のように、言葉が先にこぼれ出す。
﹁そうじゃない気も、します」
か細い声が床へ落ちると、そこから眠気の波がやってきて、ヴィヴィオの小さな体を押し 流そうとする。 穏やかな潮騒がゆりかごのように揺らいで、 自分が何を喋っているのか、 今どこに立っているのか、ヴィヴィオにはわからなくなった。
﹁……本当に、さみしくはないんです」
﹁そうか」
はたり、と雨粒が落ちる度、はやてが穏やかに笑うのがわかる。顔を見なくても、わかった。それが何故なのかは、まだヴィヴィオにはわからない。
目に見える景色に別のイメージが滲んで、頭の中にモザイク画が広がっていくようだ。 波打ち際のぎりぎりでふらついている。
もう少し、もう少しお話ししていたい。
﹁寝てもええよ」
優しげな声と共にふわりと髪の毛を撫ぜられれば、誰が逆らえようか。ヴィヴィオはまぶたを下ろし、五感の一つを閉じた。はやての体に押し付けられた耳には、その向こうから、何かがさざめく音が届く。砂と砂が擦れあう様な、風に揺れる木立の中にいるような、そんな音が響いて重なり合っている。霧深い神聖な森の中で、光の飛沫がさらさらと流れていってしまうのも、そんな音に似ていた。
なのはやフェイトと一緒にいる時には、感じたことのない気持ち。ヴィヴィオではまだ持て余してしまうこの気持ちに、いつか名前をきちんと付けてあげることができるのだろうか。 そんなことを思いながら、ヴィヴィオは静かの森に、ぷかりとその身を横たえるのだった。
麻鞍ミナト(TsukiAtari)
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2015年の聖夜を越えたころに、ふんわりはじまりを告げた
「夜のヴィヴィはや」合同企画。
いつもすてきな作品を楽しませてくださっている方々から、ふたりのお話をお預かりする、という至福のひとときを経て、このしあわせな本はできあがりました。
ふたりのお話が好きだと仰ってくださる方へ、心をこめて
お届けいたします..。
みなさま、ほんとうにありがとうございました!
Website: http://tsukiatari.tumbler.com
﹁さしますよ――私の方が背、高いですし」
さらっと言ってみた。うっ、と僅かに詰まらせた事には気づかぬ振り決めこむ。取りあげるように手にした傘をさしかけると、歩きだすきっかけをやんわりとした動きでくれる。
並んで歩くなんて、何年振りだろう?
こんなに小さかったっけ……
綺麗に運ばれる足元、肩はあまり揺れない。いつもはわりと投げ出すように早足なヒールは今夜、ずいぶんとおとなしめの歩幅。
傘からこぼれおちてゆく雫が、この華奢な肩を濡らしてしまわぬように。気がつけばそればかりを気にしてた。
﹁歩きにくくないです?」
﹁うん。あぁ、遅すぎるか?」
﹁……ううん」
そっか、私の為に加減してくれてたのか。
もう。私、はやてさんよりおっきくなったんだよ?
同じ傘の下のはやてさんは、いつもよりもずっと、よく聴こえてる。穏やかな吐息と話し声。いままでにないくらいに間近に在る音は、ぽつりぽつりと雨音に交じりあいながら、私の耳をくすぐっている。
灯りはじめた街灯を微かに受けて雲英と照る雨を、沈黙の傘の内、思い思いに瞳の端にかけている。
傘の縁の曲線がつくりだす境界から、まっすぐに引力にひかれて垂れて降るラインは、世界の色をおぼろに薄くする。浅くなりがちな呼吸を意識して深くして、しっかりと握り直した傘の柄。その他に確かなものは隣をゆく肩だけのように錯した。
湿りけた髪を掻きあげた指先のあと、残された耳許のピアスの弾く尖った光が、鈍い空気の中に鋭くやけに瞳をひいた。
†
煉瓦敷きの遊歩道を一段濃い色に染みてゆく雨の色。傘の境目から合羽の裾が見え隠れ。
かえるを模した緑鮮やかなそれは、アルトが贈ったものらしい。
どことなく覚束ず、ふらふらとした足取りに思えて。
――その傘、まだ重たかったやろか?
黄色のそれはキャロのお下がり。よたよた一歩手前、といった様をいよいよと見かねて、 ころんと丸い傘の尖端をそっとつまんで支え、まっすぐに立ててやる。
﹁ぶたいちょー」
﹁んー?」
ぱらぱらと重なる雨音を割いて届く、くっきりと澄んだ声。
﹁じぶんで、もてるよ」
﹁何がや?」
﹁かさ。」
ふすー、とふくらませて、ヴィヴィオが言う。きゅっと握り直す手が、明るい黄色を映して渡る雫越しの境にちらりと見える。
﹁そうか、ごめんな?」
手離せば、またゆらゆらと先が揺れはじめる。真新しい長靴の爪先に、跳ねる雫が遊ぶ。
フードを飾るかえるさんの、逆さになった顔を見下ろして送る。
歩みが頼りなさげなのは傘のせいでなかったか。うすく立ちこめる雨の匂いと、くすむ色彩。
輪郭の端々がくっきりとしない意識、この気圧では無理もない。
ふと。左足半歩先の傘がくるりと振り返る。伏し目がち、ふたつ折り返した袖から幼い手が伸ばされる。
﹁手、繋ぐんか?」
こくりとちいさく頷いた拍子におおきく傘が傾いた。はみ出さんばかりに迷いなく差し伸ばされるてのひらに、あわてて自分の傘をさしかける。
﹁こっちでもええ? ……おいで」
はやてが差し伸べた右手に、白い左手が伸びなおって掴まり、きゅっと結んだ。
冷たい雨から護られていた、ふくふくとあたたかな指先。
ここへ来た頃を思えば、もうずいぶんと元気になった。
つま先に、雨垂れが跳ねる。阻まれ狭まる歩幅に奪われ、傘に払われる注意はいよいよ散漫。
はやてのももの辺りに、雫を散らす先端をコチンコツンとぶつけては反動で斜めに下る角度を見かねる。
﹁ちょお、待って」
自分の傘を肩に挟んで、先ほど濡らしてしまった方の手が当たらぬように慎重に雨合羽の フードをかぶせ直してやる。
できあがったひとりのちいさなかえるさんは、案の定、重たげな睫毛をもて余している様子。
﹁眠たいんやろー?」
﹁ねむくなーい」
﹁えー? 手ぇ、ぬくぬくやでー?」
﹁かっぱが、あったかいのっ」
﹁あはは、そうかそうか」
もう。と、朱のさす頬がまたふくれて。
――完全に、かえるさんやな。
ぽつぽつと唄う、まるい雨音を聴きながら。また歩きだす、並んだふたつの傘がゆうるりと揺れている。
†
不意に強まり叩きつけられはじめた大粒は傘の下を途端に無口にする。些か賑やかすぎる音に眉を寄せたら、困ったなあという様相で、その実あまり困った風に見えない微笑みがこちらをみつめていた。
縒れた雫はひっきりなしに重みに伝って、傘の尖から筋を描いて流れていく。地に落ち弾け、足首まで湿らしてくる。
さすがに一旦、屋根あるところで雨宿りした方がいいかな? と思い始めた矢先。
﹁……はやて、さん?」
あのう、その……
﹁なんや?」
肩に髪、触れてます……
﹁どないしたん?」
降りあおぐ瞳と、間近に過ぎるあたたかな体温。雨に交じる――香り。
﹁いえ、その」
……肩が、ですね。近い、です。
あーっと。もしかしてこれ、抱いちゃったりしちゃってもいい、のかな?
﹁――肩」
﹁か、かたっ?」
ふぇっ!?
﹁濡れてしもうとるやん」
……ああっ。私の肩……、ですか。
大丈夫か? 寒ない? なんて気遣わしく尋いてくれてるはやてさんが狭めてきた距離には、なにひとつ不純なところなどあろうはずもなくて。
5ミリの距離はそれっきり、そこから付きも離れもせずに完璧にキープされたまま。
……いーんだけどっ。この早鐘きった動悸が伝わってうっかりバレたりしなかったんだから結果オーライ、いいんだけどさぁっ!?
負け惜しみなんかじゃないんだから、ほんとに。
よし、お蔭ですっかり落ち着いてきたぞ。
右手の傘を濡れた左手に持ちかえてあけたら、わざと雑な仕種で華奢な肩を掴んで寄せた。一瞬驚いた表貌が見られてラッキー!! ……って。開き直ってなんて、いないってば。
﹁はやてさんの肩も、結構濡れちゃってますね」
気を付けてたつもりだったんだけどなぁ。
﹁こんだけ降っとったら、しゃあないよ」
前髪を経て傘越しの雨の線を見あげたはやてさんの肩を抱く手にちょっとだけ、力をこめてみる。なにか言われちゃうかな、って少しびくびくしながら。特に気づいた風もなくて、私たちは雨に阻まれる歩幅を整えて、歩く。
相変わらず雨音を尖らせて跳ねる地面。目線を斜め前におろしているはやてさんの前髪は、しっとりと湿りけたまま軽く揺れてる。
不意に。
﹁手ぇ濡れてるやんか……」
﹁ふえっ!?」
細い指に傘の柄ごと包まれた左手。 お蔭で傘を取り落とさずに済んだ、けど。
﹁もっと早ぅ気ぃついたったら良かった。……ごめんな」
いつも冷たいはずの手が、今夜はやけに熱っぽく触れた。私の体温を重々に吸いきった傘の柄は手の内で所在なさげに小さく収まる。
﹁へーきです」
﹁でも、つめたなってるよ?」
﹁はやてさんの手があたたかいんですって」
﹁――そうか?」
雨に煙る夜の空気をなんでもないことのように傘の下へと誘って。
はやてさんは夜明け前の色をした瞳を細めると、ふうわりとまた、微笑んだ。
2016年7月5日 発行 第3版
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