
この本はタチヨミ版です。
これは、登山歴二十年の小西和明さん(当時36・仮名 本社員)たち山仲間のあいだで有名な話である。
北アルプスに、奥穂高、北穂高に囲まれた「枯沢渓谷」という登山基地がある。
シーズンには六百ものテントが張られてテント村と化し、全国の登山家が集まって大変な賑わいになる、という。
そのキャンプ場の真ん中に、通称「昼寝石」と呼ばれる六、七メートルの何のへんてつもない白い岩がある。
下のほうに人が入れるくらいの穴があり、空洞になっていて、日よけにもなるし中も静かなため、シーズンにはキャンパーたちがよくその中で昼寝をする。
そんなわけでこの岩は「昼寝石」と呼ばれているのだが、この岩で昼寝をすると必ず夢見が悪く、うなされるのだという。
「それが本当に、寝たらちょうどいいぞ、という具合に(穴が)あいてるんですよ。初心者はつい入っちゃったりするんですよね……」
これは小西さんの山岳部の後輩、佐藤くんの体験談だ。
山頂にあった昼寝にちょうどいい岩
大学の山岳部でパーティーを組んで登ったときのことだった。
真夏のまっ昼間である。他の大学生や社会人の団体も大勢来ていて、キャンプ場はまるで「シーズンの江ノ島のような芋洗い状態」だった、という。
佐藤くんは、汗くさいテントの中より、風通しのいい外で少し昼寝でもしようと、手頃な場所を探していた。
夏山の日ざしは強烈だ。
おまけに急に雲行きが怪しくなったりするため、にわか雨にも耐える場所、というと大きな木の下がいちばんなのだが、山にはそんな木は一本もない。
たまにある低木と土の合間に、岩がごろごろするばかりである。
ぐるぐると歩き回ってから佐藤くんは、その白い岩に目を止めた。
「昼寝石」だった。岩のてっぺんにはすでに誰かが登っていて、大の字になっている。
よく見ると、岩には穴があって小さな祠のようになっていた。
佐藤くんは、ちょうどいいとばかりに、引き込まれるようにその穴に入って横になった。
サングラスをはずして目を瞑ると、紫外線に焼けた目がひんやりと心地よかった。佐藤くんは、いつとはなしにうとうとと寝入ってしまった。
と、誰かに、肩を、つんつん、と叩かれた。
佐藤くんは仲間の誰かが起こしにきたのかと思ったのだが、目を開けてみると誰もいない。気のせいかと思ってまた目を瞑る。
そうすると、またつんつん、とやられる。
?
…何か変な虫でもくっつけてきたのかな?
高山ではもの凄く大型の足の長い蜘蛛などざらに見るからだ。
毒虫に刺されでもしたらたまったもんじゃない。
半身を起こした佐藤くんの目の前を、さっと何かが横切った。
何だ?
それが横切った先を見ると、
宙に浮くようにして足が二本、ぶら下がっている。
それも膝までしかない剥き出しの生白い女のような足で、柿色の草履みたいなのを履いている。
「!」
草履を履いた女の足は、実際に走るような足さばきで、ぱたぱたぱたっと岩肌の中に消えていった。
どちらかというとヌーボーとしている佐藤くんは、そのときはべつに恐怖感は覚えなかったらしい。
ただ不思議で、いったい何なんだ? という気持ちでしばらくボーッとしていた。
外は夏の日射し、しかも高山だけに紫外線ぎんぎんの眩しさだ。小さな穴の中からは、周囲にいるキャンパーたちの姿も見えていた。
佐藤くんはしばらくボーッとした後、どっこいしょと腰をあげて、自分たちのテントに戻ってきて小西さんたちにその話をした。
「おまえ、あそこで寝たのか?」
テントに戻ると、先輩たちは口々に言った。小西さんが言う。
「実は僕も、以前ちょっとあそこで寝たことがあって、なんか異常に息苦しくなってすぐに出て来た経験があったので、先輩達の話に聞き耳たててたんですが…」
いわく付きの岩穴
「おまえ、あんなところでよく寝られるな」
先輩の一人かがカップスープをすすりながら言った。
「あの岩穴だけど、「昼寝石」っていうのは通称で、正式には「おろく岩」って言うんだ、知らなかったのか?」
「……冬になると、このあたりは全部雪に埋もれるだろ?
近くで死人が出ても交通が途絶えるから、弔うには春を待つしかない。
そこで春の葬式の日まで、遺体をあそこ入れておいたんだ。
あの岩穴は、昔から死体を安置する『室』として使われてたんだよ。
気温も零下になるから絶対腐敗しない。まあ言ってみれば天然の冷蔵庫だよね。
『おろく』っていう女の遺体が放り込まれていたから、そういう名前があるんだって聞いたこともある……」
皆の前で佐藤くんの顔が、みるみる青くなっていったという。
小西さんが言う。
「おまえが見たのは絶対その『おろく』の足だっていう話になって……
草履を履いていたなら、時代を考えてもますますそうに違いない、って皆で妙に納得したんですよ」
初めて選んだルート
冬といえば、思い浮かぶのはスキー、スケートといったウィンタースポーツだが、登山者にとっても魅力ある季節だ。
本当に山が好きな者は冬山を好むというが、横山毅くん(当時28・仮名)も冬山の醍醐味を味わうべく、学生時代の山岳部の友達と打ち合わせて休みを取り、年末年始には毎年、八ヶ岳や乗鞍岳など、長野県の三千メートル級の日本アルプスに登っている。
横山くんは、高校時代から足かけ十三年の登山歴があったが、その間一度も、遭難しそうになったことなどなかった。
それが昨年末、ある山に登ったときのことである。
「大学の山岳部の仲間四人でパーティーを組んで、八ヶ岳に登ったんです。僕がリーダーでした。いつもと違うコースを四人の仲間と登ったんだけど、あのときは本当に死ぬかと思った。今考えても、運がよかったというか、やっぱり誰かに守られていたとしか思えないんです」
その山にはこれまで何度も登っていたし、もちろん冬季も初めてではなかった。
「事故ったりするのは慣れてきたころがいちばん危ないって、どのスポーツでもいうらしいけど、いま思うと、僕たちがまさにそれだったんですよ。いつものコースはもう飽きたから別のルートをとろうって誰かが言い出して…」
横山くんの仲間たちは無謀にも全員頷いたという。
もちろん、それなりに気象情報や地図などを参考に綿密な計画を立ててはいたが……
変わりやすい山の天候だが、冬山となると更に拍車がかかる。
紺碧の空が輝いていたかと思うと、あっという間にガスがまき、あっという間に吹雪に変わるなどと言うことは日常茶飯事だ。
その豹変ぶりを、横山くんたちはなめてかかっていた。
「トランシーバーを二基もっていたし、四人とも一応、登山歴十年以上のキャリアだから、万一遭難しそうになっても絶対大丈夫だと思ってたんです。それが……」
いったいどのあたりだったのか、横山くんたち四人は、冬の八ヶ岳で迷ってしまったのだ。
「最初は好天だったんです。天気予報と照らし合わせたりしても、まぁ頂上まではもつだろうと踏んでたんですが……」
甘かった。
ガスにまかれて、そのうち雪がちらついてきた。
「その日はテントを張ってそこで一泊しました。次の日は朝から猛吹雪で、このままでは危なくて下山もできそうにない。こうなったらレスキューにSOSを出そうということになって、無線で連絡したんですが、とにかく初めてのコースだったんで、自分たちがいる場所を正確につかんでいなかったんです」
横山くんたちは小屋のレスキュー隊にSOSの無線をおくり、必死でテントを張っている場所を説明したのだが、なかなか相手が納得するようには説明できなかったという。
時間はどんどん過ぎていく。
そのうえ、運の悪いことに、烈風でテントも壊されてしまった。
「身を寄せる場所を探したんですが、近くに適当なところがないんです。仕方ないので移動することにしました」
リュックに入っている食料も、そう何日分もあるわけではない。
「これから移動します」
横山くんたちは無線で連絡をとりながら移動して、半日以上歩き続け、やっとのことで避難小屋らしき山小屋にたどりついた。
「助かった、と思いました。小屋であればレスキューも場所をすべて把握しているはずですし、ここに居さえすれば、すぐに来てくれるだろうと思ったんです」
極寒の中の底無しの闇
ところが、である。
ついていない時というのは、物事がすべて悪いほうへ転がる。
トランシーバーの電池が、二基とも切れてしまったのだ。運の悪いことに、予備の電池を誰一人持って来てはいなかった。
燃料も食料も尽きていた。
吹雪は止みそうになく、それどころか激しさを増すいっぼうだ。
日が沈むと、昼間にも増して恐ろしい寒さが四人を襲ってきた。
今晩一晩がヤマだと横山くんたちは腹をくくった。
「山小屋は六畳くらいの広さはあったと思います。燃料どころかライターもイカれてて、火もつけられない状態でした」
宵のうちは、闇のなかで一人がもって来たというウイスキーを飲んで、四人でわざとはしゃいでいたという。
歌を歌ったり、大声で話したりして、どれくらい時間がたったのだろう。
「気がつくと、瀬川って奴の声だけ聞こえない。おい瀬川ーって大声で呼んだら、う―んとかなんとか言ってるんです。要するに、瀬川は疲れと寒さで、もう少しで眠ってしまうところだったんです」
それに気づいたリーダーの横山くんは、みんなに瀬川くんをたたき起こすように命じた。
「顔をたたいたり、大声で叫んだり立たせたりしたんですが、そのときはシャンとしても十分もすると、ふにゃふにゃとしゃがみこんで眠ろうとする。そのうち、もう一人、別な奴も同じような状態になってきて……」
雪山で眠ってしまうということは、すなわち死を意味する。凍死だ。
体力のない者から眠気に襲われる。四人の背後には、もう死がすぐそこまで迫っていた。
「僕のほかにもう一人、田辺っていうのがけっこうまともだったんですが、そいつがいい案を思いついたんです」
田辺くんのアイデアはこうだった。
いま自分たちはみんなで四人いる。
山小屋はほぼ正方形に近いから、いったん、四人がそれぞれ四隅に散り、時計まわりに最初に一人がとなりの角へ走り、その角にいた者の肩をたたく。
たたかれた者は同じように時計まわりにとなりの角まで走って、またそこにいた者の一肩をたたく……と、ぐるぐる回りながら、これをずっと朝まで続ければ、全員が眠らずにすむはずだ……。
たしかに、走っていれば身体も温まるし、睡魔が入りこむ余地もないはずだった。
外は猛吹雪で月明かりさえない。ましてや山小屋のなかは漆黒の闇で、四人は身体に触れあったり、声をかけあったりして、かろうじてお互いの存在が確認できる状態だった。
「……全員が助かるためにはそれしかない」
横山くんたちは、さっそく田辺くんの提案どおり、四隅に散って、時計回りを始めた。
最初に走り出すのは横山くんだった。
横山くんは、走って行ってぶつかった者の肩をポンとたたき、そこでじっとしていると、今度は二十秒もしないうちに、後ろから誰かに肩をポンとたたかれた。横山くんはまた走って、そのぶつかった相手の肩をたたく……。
この「ゲーム」をいったい何時間続けたのだろう。
四人とも疲れ切って声も出ない状態だった。
が、気づくといつのまにか、外が白み始めていた。
吹雪はおさまり、朝陽もさし始めている。
君たち嘘をついている
「助かった!」
四人は抱き合って喜んだ。
外に出てみると、遮られていた視界が晴れていた。
なんと、眼下に山小屋らしき建物まで見えている。
四人はレスキュー隊のいる山小屋のすぐ近くで、一夜を明かしていたのだ。
「それから、僕らは力をふりしぼって山小屋のほうへ歩いていったんですが、その途中でレスキュー隊員が見つけてくれて救助されたんです」
横山くんたちの手当てをしながら、小屋の常駐医師が聞いた。
「火も明かりも無かったんだって? 零下三十度の中に一晩中いて、いったいどうやって眠らないでいられたの?」
横山くんが、ことのなりゆきを話すと、居合わせたほかのレスキュー隊員たちは、しきりに感心した。
が、その医師は少し考えてから、こう言った。
「ちょっと待って。君たちは嘘をついている。それは四人では不可能だよ。だって、そうやってぐるぐる四角をまわり続けるためには、もう一人いないとムリだろう? 考えてみろよ、四人だけで回ったとしたら、最初に走りだした人間がいた角が無人になるはずだろう」
言われてみて、僕たちも初めて気がついたんです。だけどあのとき、たしかに僕たちは真っ暗な山小屋のなかで、朝までずっとそうやって走り回って、現にこうやって助かってるんです。ゲームはちゃんと成立してたんですよ。
ってことは、あの中に、僕たちの他にもう一人いたってことですよね」
一緒に小屋の中を走っていたのは誰なのか?
横山くんたちは今でも、きっと、近くで遭難して亡くなった名も知らない先輩が、ゲームに加わって助けてくれたに違いない、と信じている。
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年8月1日 発行 初版
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