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この本はタチヨミ版です。
躑躅が丘
日は南の空に高い。櫟の樹の立つ、ゆるやかに続く坂にはその陰もない。坂の下を挟んで、寺の門、植木屋の庭、花屋の店などの並ぶ、町の入り口に当たってはいるが、上るに従って、ただ畑ばかりとなった。見張り小屋のようなものが小高いところに見える。谷には菜の花が咲き残っていた。路の右左には、紅の躑躅の花が、見渡す先も、振り返った後ろも、いまを盛りと咲いていた。歩くにつれて汗が少し出た。
空はよく晴れて一点の雲もなく、風があたたかに野原を吹いている。
『一人では行ってはいけません』と、優しい姉上の言うことを、肯かず、私はこっそり出て来た。それにしても何とおもしろいながめだろう。山の上の方から、一束の薪をかついだ男がやって来た。眉が太く、目の細い顔に鉢巻をした、その額のあたりに汗をかいて、のしのしと近づきながら、細い道の一方に身を寄せて私を通してくれたが、その後で振り返り、
「危ないぞ危ないぞ。」
とぶつぶつ言い残し、目じりに皺を寄せてさッさッと行き過ぎた。
私が振り向いて見ると、男は早くもゆるやかな坂の下で、その肩は躑躅の花にかくれて、髪を結んだ頭だけがその上に出ていたが、それも間もなく山陰に見えなくなった。遠くの草の陰の小道、小川の流れる谷間の畦道を、菅の葉で編んだ笠を冠った女が、裸足で鋤を肩に背負い、小さな女の子の手を引いて向こうへ行く後ろ姿があったが、それも杉の木立に入ってしまった。
行く前方も躑躅だ。来た後方も躑躅だ。山肌の土の色も花に染まってあかく見えた。あまりのうつくしさに恐ろしくなって、家へ帰ろうと思った時、私の横の一株の躑躅の中から、羽音高く、虫がつッと飛び立って頬を掠め、向こうへ飛んで、およそ五、六尺離れた、小石のある場所のわきにとまった。羽を震わす様子も見えた。私が手をあげて走りかかると、虫はぱッとまた飛び立って、おなじく距離五、六尺ほどのところにとまった。私はその場で小石を拾いあげて狙い打ちしたが、石は逸れた。虫はくるりと一ツ回って、またもとのところにとまる。追いかけるとすぐにまた逃げた。逃げることは逃げるが遠くには去らず、いつも私からおなじくらいの間を置いては、キラキラとわずかに羽ばたきして、ゆったりと落ち着いてその二本の細い髯を上下に円を描くように動かすのが、ひどく憎らしく感じられた。
私は気持ちが苛立って足で何度も地面を踏みつけた。その虫のいた跡を踏みにじって、
「畜生、畜生。」
と呟くと同時に、躍りかかってハタと拳を打ちつけたものの、手は空しく土に汚れただけだった。
虫は一足先に別の場所へ移り、悠々と羽繕いしている。憎いと思う気持ちを籠めて私が見つめると、虫は動かなくなった。じっくり見ると、それは羽蟻の形をして、それよりもやや大きく、身は文字通り五彩の色を帯びて青みがかった輝きを放っている。そのうつくしさは言いようもない。
『色がきれいできらきら光る虫には毒がありますよ』と、姉上に教えられたことをふと思い出したので、私は虫をそのままにしてすごすごと引き返したが、足元にさきほどの石が二ツに砕けて落ちていたことから急に気が変わり、それを拾いあげて取って返し、しっかり毒虫に狙いをつけた。
今度は外さず、見事打ち当てて殺した。私は嬉しくなって走り寄り、もう一度石で直に虫を叩きのめしてからそれを蹴飛ばした。小砂利と一緒に、躑躅の中をくぐってばらばらと谷深くへ落ちて行く石の音がした。
袂の塵を打ち払って空を仰ぐと、日は少し斜めに傾いていた。ほかほかと熱い日の光が顔に当たって唇が乾き、目のふちから頬のあたりにかけて、むず痒いこと限りなかった。
気が付くと、もと来た方とは違うと思われる、別の坂道の方へ、私はいつの間にか下りかけていた。丘をひとつ越えたのであろう、戻る路はまたさっきとおなじのぼりになった。見渡せば、見回せば、赤土の幅の狭い道が、うねりうねり果てしなく続き、その両側に広がる躑躅の花に、ずっと遠くは前後も塞がれ、日の光を吸ってあかく咲き乱れるその花の中、真っ蒼な空の下に、たたずんでいるのは私だけである。
鎮守の社
坂は急ではなく長くもないが、一つ終わるとまた新たに現れる。その起伏はまるで大波のように打ち続いて、いつ平坦になるか見当もつかなかった。
そのうちひどく嫌になったので、一ツおりてまたのぼる坂の窪みにしゃがみ込んで、手の空いているまま、何ということもなく指で土に書きはじめた。『さ』という字もできた。『く』という字も書いた。曲がったもの、真っ直ぐなもの、気の向くままに落書きした。そうしている間にも、先ほど毒虫が触れたのだろうと思うが、頬のあたりがひどく痒く、私はそこを着物の袖でずっと擦っていた。擦ってはまた落書きをする、その繰り返しのなかで、難しい字がひとつ形よくできたのを、『姉に見せたい、』と思うと、急にその顔が見たくなった。
立ち上がって行く手を見れば、左右から小枝を組み合わせて隙間もなく躑躅が咲いていた。日の光はよりいっそう赤みを増しており、手を見るとその上で光り輝いた。
一直線に駆け上って、『これでどうだ、』と見ると、やはりおなじ躑躅の咲いたゆるやかな長い下り坂である。そこを走りおりていま一度走りのぼった。いつまでこのような状態が続くのか、『今度こそは、』という思いとは異なり、道はまたうねった坂をなしている。いつの間にか足の踏み心地が柔らかく、小石ひとつ見えなくなった。
『まだ家までは遠いに違いない、』と思うと、我慢できないほど姉の顔がなつかしくなり、もはや少しも耐えられなくなった。
再び駆け上り、また駆け下りた時、私は自分でも知らずに泣いていた。泣きながらひたすら走りに走ったけれど、それでもまだ家のあるところにはたどり着かず、坂も躑躅も少しも前と違わない。日の傾くのが心細かった。肩や、背中のあたりが寒くなった。夕日があざやかにぱッと茜色に照り映えて、目に眩しいほどの躑躅の花は、まるで紅の雪が降り積もったかのように見える。
私は涙声を張り上げ、できる限り声をふり絞って姉を呼んだ。一度二度三度そうして、答えがあったような気がして耳を澄ますと、遥か遠くに滝の音が聞こえた。どうどうと響くその音の中に、とても高く冴えた声で、幽かに、
「もういいよ、もういいよ。」
と呼ぶのが聞こえた。これは幼い私の仲間が、『隠れ遊び』というものをする時の合図であることに気付いた。一声繰り返しただけで、それはすぐに聞こえなくなったが、私はようやく気持ちがしっかりして、その声のした方へ進み、また坂をひとつおりて一つのぼり、小高い所に立って見下ろした。するとどうだろう、それほど心配することもなかったのだ、お堂の瓦屋根が、杉の木立のなかに見えた。こうして私は、迷い込んだ紅の雪の中から逃れることができた。背後には躑躅の花が飛び飛びに咲き、その間を青い草がまばらに埋めるようになり、やがてお堂の裏に着いた時には、一株も赤い花はなくなって、黄昏の色が、境内の手洗水のあたりに籠っていた。柵で囲った井戸がひとつと、銀杏の古びた樹が見え、そのうしろに人家の土塀がある。そこは裏木戸の空き地で、反対側に小さな稲荷のお堂がある。石の鳥居がある。木の鳥居もある。この木の鳥居の左の柱には割れ目があって、太い鉄の輪がはめられているのさえ、確かに見覚えがある。ここからはもう家はすぐ近くだと思うと、私はさっきの恐ろしさを全く忘れ果てた。そしてただひたすら、自分の背丈よりも高いところ、前後左右を埋め尽くして咲く躑躅の花の、夕日に照り映えていっそうあざやかな赤い色の中に、緑と、紅と、紫と、青白の光を羽色に帯びた毒虫がキラキラと飛んでいる広大な景色だけを、画のように小さな胸に描き出していた。
かくれあそび
さきほど泣きだして助けを姉に求めたことを、彼女に知られずに済んでよかった。言うことを肯かずに一人で出てきた上、心細くなって泣いたと知られたら、『それみなさい、』と笑われるに違いない。優しい人は恋しいけれど、顔を合わせて言い負かされるのはやはり口惜しかった。
嬉しく喜ばしい気持ちで胸がいっぱいになると、わざわざ急いで家に帰ろうとは思わない。それで境内に一人たたずんでいると、わッという声と、笑う声が、木の陰、井戸の裏、お堂の奥、回廊の下から起こって、五ツから八ツまでの子が五、六人、相次いで走り出てきた。かくれ遊びしている子の、誰か一人が鬼に見つかったのであろう。その中の二人三人が走って来て、私がそこに立っているのを見た。彼らはみなで集まって相談していたが、間もなく私に、
「遊びましょう、一緒に遊びましょう。」としきりに勧めてきた。小さな家があちこちに点在する、このあたりに住んでいるのは、物乞いという者だと聞かされていた。彼らの身なりや生活の習わしは、町に住む私たちと少し異なっていた。たとえ親たちが裕福であっても、いい着物を着ている子はおらず、ほとんどみな裸足である。三味線を弾いて時々私の家の門に来る者、汚い川で鰌を捕る者、燐寸、草履などを売りに来る者たちは、みなこの子たちの母、父、祖母などなのだ。『そのような子たちとは一緒に遊ぶな、』と私の友はいつも言っていた。私が町に住んでいるというだけで、物乞いの子は尊敬して、少しの間だけでも一緒に遊びたいと強く願い、親切に、優しく誘ってくる。けれど、いつもは友の忠告にしたがい、こちらから遠慮して距離をおいていたのだが、その時はちょっと前まであまりに寂しく、友だちが欲しいという思いが耐えられないほどまだ強く心に残っていたのと、恐ろしかったあとの楽しさとから、私は誘いを拒まずに頷いた。
物乞いの子たちは喜んでざわめいた。『じゃあもう一度かくれあそびをしよう』と、じゃんけんをして鬼を決めたところ、私がその役にあたった。『見ないように手で顔を覆いなよ、』と言われるまま、私はそうした。するとすぐにひッそりとなって、お堂の裏の崖をさかさに落ちる滝の音がどうどうと、松や杉の梢を渡る夕風とともに鳴り渡る。その時かすかに、
「もういいよ、もういいよ。」
と呼ぶ声が、谺して響いた。目をあけるとあたりは静まり返って、黄昏の色がまた一段と深く迫って来ていた。すくすくと並び立った大きな樹が、朦朧として薄暗い闇の中に隠れようとしている。
声がしたと思われるところには誰もいない。あちこちさがしたが人らしきものはいなかった。
私はまた元の境内の中央に立って、もの寂しい気持ちであたりを見回した。山の奥にも響きそうな、お堂の扉を鎖ざす凄まじい音がした後、しんとして何の物音も聞こえなくなった。
彼らは親しい友ではない。それどころか、これまでいつも避けてきた子たちなので、このような機会を得て私を苦しめてやろうと企んだのかもしれない。身を隠したまま密かに逃げ去ったとしたら、たとえ探しても見つけられるはずはない。『そんな無駄なことをしてもしょうがない』と、ふと思い浮かんだので、『そのままにして帰ろう、』と私は引き返した。けれども、『もし万一私が見つけるのを待っているとしたら、いつまでも出てくることができない。それもまたかわいそうだ、どうしよう』と、心が迷って、あれこれと、空しく立ったまま困っていたちょうどその時、暗くなった境内の、きれいに掃かれた広々とした地面の灰色との対照でいっそう目立つ、顔の色の白い、うつくしい人が、どこから来たかもわからず、いつの間にか傍らにいて、顔をうつむけて私を見た。
極めて背の高い女で、その手を懐に入れて肩を垂れていた。そして優しい声で、
「こちらへおいで。こちら。」
と言って先に立って私を導いた。見知っている女ではないが、うつくしい顔に笑みを浮かべていたことから、いい人に違いないと思ったので、私は怪しまず、隠れた子の居場所を教えてくれるのだろうと理解して、いそいそと従った。
逢う魔が時
私の思った通り、お堂の前を左に回って少し先へ行った突きあたりに、小さな稲荷の社があった。青い旗、白い旗が、二、三本その前に立ち、後ろはすぐ山の裾で、そこに斜めに生えた雑樹が社の上を覆っている。その下の薄暗いところ、穴のように見える空き地を、うつくしい人はそッとめくばせした。その瞳は私の顔を見たまま、水のしたたるように斜めに動いたので、はっきりとその意図が読めたのである。
それゆえ少しもためらわずに、私がつかつかと近寄って社の裏をのぞき込むと、冷たい風が鼻を打った。そこには落ち葉、朽ち葉が積み重なって盛り上がり、水臭い土のにおいがするだけで、人の気配はなく、襟元に冷気を感じ、ぞッとして振り返ると、瞬く間と思われるうちに、あの女の姿はすでに見えなくなっていた。どこへ去ってしまったのであろう。辺りは暗くなっていた。
私は身の毛が逆立って、思わず『ああ、』と叫んだ。
『人の顔がはっきり見えないような、暗い隅に行ってはいけません。黄昏時の片隅には、怪しいものがいて人を惑わすのですよ』と、姉上に教えられたことがある。
私は茫然として目をみはった。足が震えて動くこともできず、固くなって立ちすくんだ。その左手に坂があり、穴のような、その底から風が吹き出てくると思われる真っ暗な下の方から、何ものかが上って来るようだったので、『ここにいたら捕まってしまう、』と恐ろしくなり、私はあれこれ考えることもなく、社の裏から狭いその中に逃げ込んだ。目を塞ぎ、息をころしてそこにひそんでいると、四つ足のものの歩く気配がして、社の前を横切った。
私は生きた心地もなく、ただ『見つかりませんように、』とだけ祈りながらひたすら手足を縮めていた。その間も、さきほどの女のうつくしかった顔、優しかった目を忘れはしなかった。今にして思えば、ここを私に教えたのは、かくれた子どもの居場所を示したのではなく、私を捕らえようとする何か恐ろしいものから、『ここに静かに隠れていなさい、そうすれば助かりますよ』と、導き救ってくれたのではないか―などと、とりとめもないことを考えた。しばらくして、小提灯のあかい火影が坂の下から急ぎ足に上ってきて向こうへ走り去るのを見た。それが間もなく引き返して私の潜んでいる社の前に近づいた時は、一人ではなく二人三人連れ立って来た感じがした。
ちょうど彼らが立ち止まったその時、別の足音が、また坂を上って来て先にいたものと一緒になった。
「おいおい、まだ見つからないか。」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たという者があるんだが。」
と、このあとから言ったのは私の家で使っている下男の声に似ていたので、あやうく出ていきそうになったが、『恐ろしいものがそう私を騙して、おびき出そうとしているのだろう』と思い、恐ろしさがいっそう増した。外の声は、
「もう一度念のためだ、田圃の方でも回って見よう、お前も頼む。」
「それでは。」と言って上と下とにばらばらと分かれて行く。
再びしんとしたので、そッと身動きして、足を伸ばし、板目に手をかけて『目だけなら平気だろう、』と思いながら顔を少し差し出して、外の方をうかがうと、何ごともなかったため、私は少し気持ちが落ち着いた。『怪しいものたちは、どうやっても私を見つけられはしないだろう、馬鹿め、』と冷やかに笑ったが、その時思いがけず、誰だろう、びっくりしたような声がして、あわてふためいて逃げるものがいた。私は驚いてまた身をひそめた。
「千里や、千里や。」と坂の下あたりで、悲しそうに私を呼ぶのは、姉上の声だった。
大沼
「いないッて、わたしゃあどうしたらいいだろう、爺や。」
「ほんとにいらっしゃらないことはございませんでしょうが、もう日は暮れまするし、何にせよ、御心配なことでござります。遊びに出します時、お前様が帯の結び目を『とん』と叩いておやりなさればよろしかったのに。」
「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、今日はお前、わたしにかくれてそッと出て行ってしまったものだからねえ。」
「それはなんとも不注意なこった。帯の結び目さえ叩いときゃ、ただそれだけで姉様なり、
タチヨミ版はここまでとなります。
2019年7月19日 発行 初版
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明治・大正・昭和にわたり、幻想的・耽美的な独特の文体で怪奇・人情・観念・浪漫など、さまざまな作風の小説・戯曲を残した稀代の作家・泉鏡花(いずみきょうか)。そんな泉鏡花の珠玉の名作を現代語訳してご紹介してまいります。
【著者略歴】
白水 銀雪(しろみ ぎんせつ)慶應義塾大学大学院博士課程中退(専攻:数学)システムエンジニア・プロジェクトマネージャー・コンサルタントとして、宇宙分野を中心とする科学技術系システム開発に従事現在、蓼科にて山暮らし