この本はタチヨミ版です。
閉じ込められた時計台はゆったりと漂う真っ白な雪に彩られ、輝きだした。
<みおつくし2015年10月号掲載>
俺は今、自転車を漕いでいる。
いわゆるママチャリと呼ばれる安物ではなくイタリア製の長距離用のクロスバイクで、荷物を積んでいるため普通に漕ぐより遥かに重い。
いつもサイクリングで走っている見慣れた景色が俺とすれ違い、後ろへと走っていく。
いきなり車体が揺れた。あ、と思った瞬間、体が一度大きく痙攣し、視界に薄汚れた天井が飛び込んでくる。その天井が築四十年の木造アパートの自室であることに気がつくのに時間はかからなかった。そこで今自分の身に起きたスリップ事故が夢だったことに気がつく。
二ヶ月ほど前から自転車事故を起こす夢を見るようになった。スリップしたりトラックに接触したりと事故の種類は様々だったが、毎回事故が起きた瞬間痙攣が起きて目が覚める。
――今日だけはこの夢を見たくなかった。
枕元の目覚まし時計の針は五時四十七分を指している。アラームは六時半にセットしてあるから起きるにはまだ早い。かと言って二度寝する気分にもなれず、流しに行きコップ一杯の水で渇いた喉を湿らせ、居間に行きカーテンを開ける。窓の外はすっかり明るくなっていて、昨夜ラジオの天気予報で聞いた通り空に雲は一つも無い。四月の日の出って意外と早いんだな。と思ったがすぐにさっき見た夢で頭が一杯になる。
「行くな。って事なのかな」
一瞬そんな考えが浮かぶ。が、頭を左右に振って追い出そうとする。そんなわけない。
ふと窓際に置いてある札幌の時計台のスノードームが目に留まった。二年前に姉貴が札幌旅行に行った時に買ってきてくれた土産だ。手の平の中で一回転させて元の場所に戻すと閉じ込められた時計台はゆったりと漂う真っ白な雪に彩られ、輝き出した。
一時間早く出発するか。と、思いつく。今日一日の予定が少し狂ってしまうが、余裕があって損をする事はないだろう。そんなことを考えながら、時計台を見つめていると、降り続く雪の中でまっすぐ俺を見つめる少女が脳裏に甦った。四年前、大学一年の冬に見た光景だった。
もともと人と接するのが苦手な俺は小さい頃から友達が少なかった。そんな俺にも高校に入り親友と呼べる友ができた。田村秋夜と吉岡光助。この二人とは高校の入学式で初めて出会った。秋夜は身長約一八〇センチと俺よりも十センチほど背が高く、体格もしっかりしていて、優しい目をしていた。誰からも慕われるような奴だった。高校に入って初めて話しかけてきた相手も秋夜だった。
「おう、お前確か大浦っていったよな。ええと、大浦……」
入学式の行われる体育館でピシッと並べられた椅子に座り式が始まるのを待っていると、秋夜は左隣の席に座りいきなり話しかけてきた。
「純」
少し戸惑いながらも答えると
「あれ? 光助ってお前じゃなかったっけ?」
などと訳の分からない事を聞いてきた。すると今度は俺の右隣に座っていた赤いフレームの眼鏡をかけた真面目そうな顔の男子生徒が吹き出し、俺たち二人に顔を向け笑いながら
「それ、俺の名前」
赤メガネ……光助は言った。
「まじか。わりい、勘違いしてた。ええと。お前は確か吉岡だっけ?」
光助は頷くと、
「すげえな、もうクラスメイトの名前覚えたのかよ」と秋夜に聞きかえした。
実際クラスメイトの名前の記載された新入生の名簿を受け取ったのはついさっき高校の校舎内に入った時に渡されたのが最初で、しかも席順が出席番号順になっているとはいえ、誕生日順になっているこの高校の出席番号で名前と正確な番号を覚えるのは簡単じゃないはずだ。それが出来たというのなら凄い暗記力だな。などと考えていると秋夜が答えた。
「全員は覚えてないけど最初の十人は覚えたぜ。一番から森田、岡本、高山、木村、中西、鈴木、瀬田、で、」そこまで言うと光助と俺を順々に指さし、「吉岡、大浦、俺」と言った。
そこまで言われて気になった事が一つあった。本人も気付いたらしく、
「ちなみに俺は田村アキヤ。秋の夜って書いて秋夜ね」と自分から名乗り出た。「よろしくな」
それからの二年間はあっという間だったように感じる。入学式の一件以来、三人は仲良くなり、秋夜は柔道部、光助は陸上部、俺はバスケ部に入り、部活がそれぞれ違うために登下校で一緒になることはあまりなかったが、それ以外の学校の休み時間は基本的に一緒にいたし、定期テスト前の休みの日はよく一緒に遊びに行ったりもした。
三年の七月半ば、もうすぐ始まる高校生活最後の夏休みに対する全校生徒の思いは様々だった。一か月半に及ぶ長い休みをどう遊び通すか考える者、自分の進路に向けて有効に活用しようとする者、部活動に打ち込む者。三年生はもうほとんどの生徒が部活動を引退して自分の進路を決定するために動き出していた。
「お前らも進学希望だよね?」
光助が帰りの道すがら俺と秋夜に聞いてきた。三人ともすでに部活は引退して、進路を真剣に考え始めていた。
「ああ」
「そだよ」
「オーキャン何校位行く?」
光助の質問に俺が「まあ、行けるだけたくさんは行っておきたいよね」と言うと、秋夜が「え、大橋大だけ行っときゃ良いんじゃないの?」と驚いたような声を上げた。
三人とも進路は進学希望で、第一志望の大学は三年に上がる前から決まっていた。光助は建築学を学びたいと言って隣県の美術大学、俺と秋夜は一人暮らしがしたい、という希望と本格的に歴史を学べる大学に行きたい、という希望があったので、その二つの条件を満たし、尚且つ二人の学力に見合ったレベルだった二つ隣の県の大橋大学を第一志望校にしていた。
「一校しか見なかったら他の大学と比較できないじゃん。それにお前もし大橋大駄目だったらどうするつもりだよ」
秋夜の能天気ぶりに半ば呆れながらも言い返した。
「まあ、落ちなければいいだけの話じゃん」
だいじょーぶだいじょーぶ。と秋夜は笑いながら答えた。
「それに予定いっぱい詰めちゃったら夏穂ちゃんと遊べなくなるじゃん?」
夏穂ちゃんとは秋夜と二年生の秋ごろから付き合っている同級生の大泉夏穂の事で、秋夜と並ぶと子供かと思うほど背は低く、眼鏡をかけた大人しい、いわゆる「地味」な女の子だった。
「落ちればいいのに」
話を聞いていた光助がぼそっと隣で冗談めかして言うのが聞こえた。
結局目指していた第一志望校に俺と光助は推薦、秋夜は一般入試で合格した。
秋夜は十月の推薦で落ちた時にかなり落ち込んでいたが、さすがにこのままじゃまずいと思ったのか予備校に通ったりして二月の一般試験まで全力で勉強に取り組み、見事に合格して見せた。
そして二月の自宅学習期間中に俺と光助は秋夜に呼び出され、高校近くのマクドナルドで、大橋大に合格した。という報告と大泉夏穂と別れたという二つの報告を受けた。
「え、なんで?」光助が目を丸くした。
俺と光助は秋夜が大学に合格したことよりも大泉夏穂と別れていたことに驚いた。
「実は九月の頭にはもう別れてたんだ。本人も勉強に集中したいって言ってたし。そっちの方が俺も勉強に集中できるからって。まあお前らに報告するのは卒業が近くなってからでもいいかな。と思って黙ってた」
それを聞いて、勉強嫌いで楽天家の秋夜が受験勉強に全力投球できた理由がわかった気がした。
「大泉って結構頭いいとこ受けたんだよな?」
なんとなくそんな疑問が思い浮かび秋夜に問いかけてみた。
「まあ、そうだな」
目に前のフライドポテトを口に放り込みながら答えた秋夜の声に何か暗いものが含まれていた。気がした。
春休みになると、俺と秋夜は大学から電車で二駅のところにアパートの部屋を借りて一人暮らしを始めた。
俺と秋夜でルームシェアすることも考えたが、秋夜が拒否したため、同じアパートの違う部屋にそれぞれ部屋を借りた。築二十年の木造アパートだったが、大家さんが日課として毎日掃除していたため、目立った汚れなどは見当たらず、その外観は、近くにあるまだ建ってから十年も経っていないアパートよりも新しく見えた。
新生活が始まり、秋夜が俺の部屋に泊まりに来ることも多く、ルームシェアした方がよかったじゃん。と思うことも多々あったが、他の住人の方々も優しい方が多く、住み心地は良かった。
大学生活は充実していて、これといって不満の無いような生活を送っていた。そんな大学一年の十二月のある日、秋夜がいなくなった。
クリスマスが近づき街中を幸せな色で染める準備で人々が慌しくなる十二月の中旬、男子であろうと女子であろうと誰とでも分け隔てなく仲良くなれる秋夜が急に女子と距離を置くようになった。高校生の時からずっと一緒だったこともあり、秋夜の様子がおかしくなった事にはすぐに気が付いた。しかし本人に聞いてみても
「気のせいじゃね? 俺はいつも通り皆と接してるよ」
としか返されず、それ以上深く聞く事も出来なかった。
秋夜がそんな調子になってから一週間が経ったある日、いつもの様に俺の部屋に秋夜が泊まりに来た。晩飯を済ませた俺達は最近中古で買ったステレオコンポから流れてくる音楽を聴きながら、大学でのことやバイト先でのこと、家族のことなど話し合った。
会話のネタも尽き始めて、会話が途切れた時、ある曲が流れてきた。確かこの間ミュージックプレイヤーに入れたばかりのロックバンドの曲だったと思うそれは、一九八〇~九〇年代をイメージさせるディスコ調のイントロの曲だった。
最初二人ともぼっと曲を聴いていたが、曲の途中から、秋夜の表情が変わったことに気付いた。
「知ってる曲?」
ふと思ったので聞いてみた。が、
「ん、いや、知らない曲。」
どこか寂しげな顔をした秋夜は、ステレオコンポに耳を傾けながらそう答えた。
翌朝、起きると部屋にすでに秋夜の姿はなかった。その時は急用か何かが出来て自室に帰ったのだろうと思いそのまま気にしないで大学に行ったが、大学にも秋夜の姿はなく、電話をしても返事が来なく、何か違和感を覚えた俺は午後の授業をばっくれて、アパートの秋夜の部屋に急いだ。
秋夜の部屋の前に着き、ドアをノックし、秋夜の名前を呼ぶ。返事はない。ドアノブを回すと、ドアが開いた。部屋の鍵が開いたままになっていた事に不安を感じた。
思っていた通り、部屋にも秋夜の姿はなかった。部屋の真ん中にあるテーブルの上には秋夜の携帯電話と残高の残っていない通帳、定期やその他ポイントカードなど身元が特定できる物が全て財布から抜き取って置かれていた。
最初は一体この光景が何を意味しているのか全く理解出来なかったが、近寄って通帳を手に取って見ると預金が全て引き出されたのが今朝だったことに気付き、一つの推測が脳裏をよぎった。不安が焦りへと変わっていく。混乱している頭を何とか落ち着け、まず秋夜の実家に電話をかけた。電話に出た秋夜のお母さんは、俺から電話がかかって来たことに驚き、そして声を落として
「秋夜が何かやらかしたの?」
と聞いてきた。この言葉から秋夜が実家に何も伝えていないことには気付いた。
何といえばいいのか分からず少しの間黙ってしまったが、秋夜のお母さんは何も言わず俺が言葉を発するのを待っていてくれた。
「実は、秋夜が財布だけを持って今朝から行方が分からなくなってしまっているので、もしかしたら実家の方に何か連絡が行ってるのではないかと思って電話をかけたのですが、なにか連絡はありませんでしたか」
早口になるのをこらえ、確認のために言った。
「いえ……特に電話とかは来てないけど……大浦君は何か聞いてないの?」
声から秋夜のお母さんが落ち着きを失っていくのを感じた。これ以上電話を続けても相手をさらに不安にしてしまうだけだと思った俺は、
「いえ、まだ詳しいことは分かってないので、またこちらから電話かけます。あいつのことなんでもしかしたら夜になったらひょっこり帰ってくるかもしれないんで」
とだけ言って電話を切った。帰ってくる可能性が低く、ただの気休めにしかならないだろうということは十分承知していた。
それから一週間ほど大学を休み、高校時代に秋夜と仲の良かった奴に電話をかけたり市内に住んでいる人に聞き込みをしたりと秋夜を探した。
その中で、目撃情報はなかったものの、高校の同級生の一人が教えてくれた情報にショックを受けた。そいつは「もしかしたらアレが関係あるかも」と言い、「パソコンで[かほ 現役女子大生]で検索して上から三番目に出てくるサイトを開いてみろ。こっちじゃそこそこ話題になってるぜ」と続けた。
嫌な予感がした。そしてその予感は現実のものとなった。言われた通りのワードを入力して検索するとアダルトビデオの紹介サイトが表示された。そのサイトのトップに紹介されているアダルトビデオの表紙の写真が誰なのかは一目でわかった。
髪を金色に染めて眼鏡を外しているが間違いなくその姿は大泉夏穂だった。
言葉を失った。理解できなかった。なんで大泉がこんなことをしてるんだ?
このアダルトビデオが発表された時期を見てみると、秋夜の様子がおかしくなる一週間前、今から丁度三週間前になっていた。
その瞬間、秋夜が姿をくらます前日に聞いた曲を思い出した。ミュージックプレイヤーを引っ張り出してきてこの間聞いた曲をうろ覚えのメロディをヒントに探し出して再生する。
そしてパソコンの検索サイトでこの曲のタイトルを入力して歌詞を検索した。
表示された歌詞を読んで呆然とした。
一週間前に秋夜の置かれていた状況と見事なまでに一致したからだ。
全力で壁を殴りつけていた。なんで気が付かなかったんだ。
自分を責めた。何が「知ってる曲?」だ。馬鹿じゃねえのか、俺。
気が付いたら光助の携帯番号をプッシュしていた。誰かにこのやりきれない思いを伝えなくてはいけない、そう思っていた。
光助は落ち着いていた。俺が落ち着きを失っていたからそう感じただけなのかもしれないが、冷静に俺の話を最後まで聞いていた。
光助は聞き終わった後、しばらく黙っていたが、やがて「何で近くにいて気付いてやれないんだよ」と消え入りそうな声で呟いた。
それから俺はバイトを辞めて、しばらく学校を休んだ。どうしても気持ちを切り替える事が出来ず、授業を受けたところで全く頭に入らない気がしていたからだ。
光助とも一切連絡を取らなかった。また電話を掛けてしまえばギリギリのところで二人を繋いでいる何かが切れてしまう気がしたからだ。
その後も秋夜の行方は分からなかった。警察も失踪事件として捜査しているが、金だけ持って行方をくらましたという事はどこか遠い場所で誰にも気付かれずにこっそりと命を絶った可能性がある。と自殺の可能性を示した。
自殺をする為に秋夜が失踪した可能性は意識していて、覚悟はしていたつもりだったが、いざ他の人に言われるとその言葉の重さを実感した。
そうしているうちに年を越し、一ヶ月が経った。
結局秋夜が失踪してから一月末の秋学期終了まで学校には行かなかった。同じゼミの友人から聞いた話だと単位は春学期に取れるだけ取っていたのと、十二月半ばまで真面目に授業に出ていたため進級できるだけの単位は取れていたらしいが、正直もう学校に行くことも無いと思っていたため単位の話などどうでも良かった。
二月も半分が過ぎたある日曜日、五センチも積もる雪が降った。この地方では五センチも積もる程の雪は滅多に降らず、その日の朝はやけに冷え込んだ。
あまりの寒さに目が覚めてカーテンを開けるとグレーに染まった空からしんしんと降り続ける雪に染まった白い街が目に映った。こんなに積もった雪を見たのは何年振りだろうか。
「すげ……」
真っ白な世界に見とれていると
――外に出てみたくなった。何か理由があったわけでもないが、久しぶりに見る雪に心が躍ったのだろう、適当な服を着ると防寒具で身を固めてアパートを出た。
あえて傘は差さなかった。傘でこの空を遮るのが嫌だった。
家から五分ぐらい歩いた所にあるアーケード街に入る頃にはコートはかなり濡れてしまっていた。やっぱり傘を差してくるべきだったな。とも思ったが、これはこれで雪の冷たさを直に感じられて好きだった。
アパートの前まで戻ってくると一人の少女が入口のところで手に持ったメモとポストを交互に見ていた。
どこかで見た事のある顔だな。などと思いながらその脇を通り抜けて二階の自分の部屋へと向かおうとした時、後ろで「あ」という声がした。
何かと思い振り返ると少女は口を開けたまま俺を見つめていた。
「大浦さん……ですよね?」少女は聞いてきた。
思い出した。俺はこの少女を知っている。
「お久しぶりです」少女は小走りで俺に近づくと少し不安そうな顔で俺の顔を覗き込んだ。「私の顔、覚えてます……よね?」
忘れるはずが無い。その真っすぐで澄んだ瞳は兄の秋夜そっくりで最後に会ってから一年以上経った今でも何も変わっていなかった。
「もしかして……美雪ちゃん?」
その途端、少女の顔が綻んだ。
「やっぱり。なんか先輩だいぶ雰囲気変わりましたね。最初見た時一瞬誰だか分かりませんでしたよ。先輩が高三の夏休みにうちに遊びに来て以来ですよね」
そう言って微笑んだ。
「俺に用?」
「はい」
そこであることに気が付いた。
兄が行方をくらましてからまだあまり経っていない、にも関わらず美雪ちゃんの表情から不安や焦りは一切感じられなかった。
まるで秋夜が生きていると確信を持っているようだった。
「なんでまたいきなり、とりあえず部屋入りなよ、ここじゃ寒いでしょ」
「いえ、すぐ帰るから大丈夫です」その次の言葉に俺は驚きを隠せなかった。「お兄ちゃん、帰ってきてないですよね」
その言葉に一筋の光を感じた。秋夜は生きている。根拠は無かったがそう感じた。
「秋夜のやつ、生きてるのか」
おもわず詰め寄っていた。
美雪ちゃんはいきなり声を荒げた俺に驚いて一歩後ろに引いたものの、俺の目を真っ直ぐに見つめながら答えた。
「はい」その言葉に偽りは感じられなかった。「本人だと言う確証は無いですけど」そう前置きしてから話し始めた。「この間兄から手紙が届いたんです。家族あての物と大浦先輩、吉岡先輩、夏穂さんあてに四通。届いたと言うより通りすがりの男の人にいきなり『これ、なんか背の高い兄ちゃんに「あそこの女の子に渡してくれ」って言われたんだけど』って言って手渡されたものなんだけどね。まあお兄ちゃんはその男の人に手紙を渡してすぐいなくなっちゃったみたいなんだけど」
そう言って肩から下げた鞄から封筒を取り出した。
「ちなみに家族あての手紙には『人が信じられなくなりました。しばらく知っている人達と距離を置こうと思います。安心してください。死ぬつもりはありません。またいつか気分が落ち着いたら帰って来ようと思います。』って書いてありました。」
そう言って封筒をよこした。その封筒には大きく[純へ]と書かれていた。
「なんで直接渡しに来なかったんだ」
「多分私だったら会っても大丈夫だと思ったからじゃないですか。知ってる人と距離を置きたいって書いてありますし」
確かにそうだとすれば秋夜からすれば妹が一番会いやすい、会ってもリスクの少ない人物なのだろう。
「確実に兄が書いた手紙かどうかは分からないですけど、私達家族は絶対に兄が書いた手紙だと信じています。それじゃ、私帰りますね」
少女はそう言うと、俺に背中を向けた。
「あいつらにはもう手紙は渡したのか。」光助と大泉にも秋夜の声は届いたのだろうか。
「夏穂さんは所在を調べているところです。吉岡先輩は」そこで少し言葉を切ると少し気まずそうに「受け取ってくれませんでした。」と言った。
光助が手紙を受け取らなかったのはなんとなく理解できた。はっきりと秋夜からの手紙だと分からないものを受け取って無駄に喜びたくなかったのだろう。
「そう。わざわざ遠いところからありがとう。」
「いえ、電車で遠い所に行くの結構好きですから。それにお兄ちゃんがどんな所に住んでいたのか気になっていましたので。」
そう言うと傘を指して歩き出した。アパートの屋根の下から出て二、三歩進んだところでこちらを振り返り
「大浦先輩もお兄ちゃんが帰ってくるのを待っていてあげてください。」
そう言い残すと彼女はまた背中を向けて歩いて行き、やがて姿は見えなくなった。
気が付くと雪は止んでいた。時計台の周りには永久に溶けることのない雪が積もっている。
秋夜が俺あてに書いた手紙には『心配かけてごめん。またいつか会いに行くから今はやるべき事をやって欲しい。』とだけ書かれていた。今でも大切に机の引き出しにしまってある。
この手紙がなければ俺は大学を中退し、罪悪感を感じながら抜け殻のような人生を送っていたんじゃないかと思う。
光助とはその後美雪ちゃんが間に入ってくれたおかげで関係を回復させる事は出来たが、あの一件以来、二人の会話の中で「秋夜」という言葉はタブーとなっている。
大学を卒業し、就職せず旅に出ようと思い立ったのは、そうすれば秋夜とどこかで会えるのではないかという期待が心のどこかにあったからだった。それと同時に秋夜と再会するのを心のどこかで恐れてもいた。事故の夢はその恐怖心から来たものだったのだろう。
身支度を済ませ、部屋を出る。大家さんにしばらく部屋を空ける旨を伝え、荷物の積まれた自転車にまたがる。
ふと上を見上げると、やっぱり空に雲は一つもなく、ただただ青い空がどこまでも続いている。ふと、地平線の先は何色の空なのか気になった。
ペダルに足をかける。これから先、何があっても俺は俺自身のペダルを踏み続けるだろう。もう迷いはない。
ペダルを踏み込む。「さてと……行くか」
見たことのない空を見に。
〈了〉
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年3月27日 発行 初版
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