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この本はタチヨミ版です。
東伊豆の穴場 S岬
釣り好きの石原裕也さん(当時38 研究者)は、本人はまったく霊感などない、というが、どういうわけかその種の場所に行くことが多い。
それにいつのまにか、実際それらしきものを見るようにもなってきている。「霊感がすごく強い知り合いができたりしたから、そのせいもあるかも……」 その小田原在住の石原さんが、以前足繁く通っていた釣りの穴場に、東伊豆のS岬というポイントがある。
小田原の家から、車で南西へ一時間半ほど飛ばした場所だが、魚影が濃いため、初心者でもまずボーズになることはめったにない。
ただここは実は禁漁区で、石原さんは特別に、地元の漁師の友達から許可を得て釣っているのだという。
禁漁区だけあって、よほどの通でないとこの場所は知らないのだが、それでも中には、石原さんのように魚の匂いに釣られて遠方からやって来るマニアもごくわずかだがいる。
そういうマニアどうしのコミュニケーションというのはすぐに密になるらしく、石原さんにも、こういう、共謀者のような秘密の釣り友達が何人かいる。
その釣り仲間たちの間でS岬は、
「魚もうじゃうじやいるけれど、変なモノもうじゃうじゃいる」
と評判なのである。
これは石原さんから聞いた、S岬にまつわる釣マニアたちの体験談である。
霊感が強いKさんの妻
石原さんの古い友達に、東京から来ている釣り好きの夫婦がいる。
名前を仮にKさん夫婦としておく。
ご主人にはまったくないのだが、釣り暦の浅い奥さんのほうが強い霊感の持ち主で、東京から小田原に車で来る時でさえ、いくら時間がかかっても遠回りになっても、絶対通ってはならない道、というのを決めているほどだった。
「Kの奥さんがそこを通ると必ずなんか見るらしい。Kは鈍感だから関係ないけど、カミさんがおかしくなるからしょうがない、って言って……」
だからK夫妻は、道を選びながら、そうとうな時間をかけて石原さんの元へやって来ていた。
「あんまり教えたくないけど、魚影が濃いから、よかったら案内するよ」
そのKさん夫婦と、もう一組、Wさん夫婦という、こちらも東京からのカップルを、石原さんが初めてS岬に招待した時のことだ。
「自分も通い始めたばかりの頃で、S岬がどんな因縁のあるところか全然知らなかった頃だよ。
夏の終わりの金曜日の夜で、みんな仕事が終わってから来るから、僕とK夫婦とW夫婦、五人全員が集まった時には夜の九時を過ぎてた」
一番よく釣れるという突堤でしばらく釣った後、時間があったら湾をぐるっと回って移動し、それでまた時間があったら岩場に入って貝や海草拾いでもしよう、というのが、その夜の予定だった。
先に着いた石原さんとW夫妻が、突堤の横の駐車場で荷物を広げ、釣りの準備をしていると、
「ごめんごめん、遅くなって、こいつがいろいろ言うから……」
三分ほど遅れて到着したKさんが、やっと車を降りて来た。
何かあったのか? と聞くと、何でもない、いつものことだ、と言う。
「釣り場はこの辺一帯、だいたいどこでもOK。トイレはこの駐車場の奥ね、それからタバコの自販は……」
石原さんが、Kさんに一通りこの辺りの説明をしていると、
「こんばんは、遅くなってすみません」
やつれた顔をしたK妻(=Kさんの奥さん。こんがらがるので以後Kさんの奥さんを略してこう書く)がやっと車から出て来た。
K妻もKさんと一緒に車を降りて来たのだが、
「私、この辺ちょっとダメかも……」
と言いだした。
「みんなで行くんだから、一人だけそういうこと言うなよ」
「だってどうしてもダメだもん」
K妻は脅えた目で辺りを見回している。
「またそういうこと言う。来れないんなら一人で車の中で待ってろ!」
「いやだ、怖いもん」
「いいかげんにしろよ」
石原さんの説明もそっちのけで、いつのまにか夫婦ゲンカが始まってしまった。
「で、ごちゃごちゃ言い合って、結局K妻は突堤が見える、駐車場の車の中で待ってることになったんです。
それで、みんなでしばらく突堤で釣って、W夫妻とKさんがそろそろ移動したい、ってことになった。
僕も行こうかなと思ったけど、僕はそこでけっこう釣れてたから、僕だけもうちょっとここにいるから、みんな先に行っててよ、ってことになって…」
W夫妻とKさんの三人だけ、釣り道具一式を抱えて湾の向こう側へ行くことになった。
小さな湾だが、歩くとけっこうな距離だ。
三人は一台の車に乗り込んで、湾岸の道を進み、ある場所で降りたようだつた。
「あたりは真っ暗でしょう?
小さな湾で、車のライトがつーっと海岸線を走っていって止まって、ヘッドランプを点けたWたちが降りて、てんでに自分のポイントにつくのが、こっちからかすかに見えるんです。
まあ携帯があるからすぐに連絡もとれるし、ああ、あそこだなって確認して……」
四人をここに呼んだ責任もある。
その晩石原さんは、いってみればリーダーでいなくてはならなかった。
みんなの安全を確認し、石原さんが一人で突堤で釣り糸を垂れていると、しばらくして、
「なんか退屈しちゃった。……ここで見ててもいい?」
そう言って、K妻が駐車場に停めてあった車から降りてきた。
「Kさんならあそこにいるから行ってみたら?」
と、石原さんは、湾の向こう側、暗闇の中にかすかに見えるヘッドランプの光を指さして言った。
「え?……どこ?」
「あそこ、あそこ」
「…ああ、あそこね、あそこは……」
K妻は薄目を開けて、じーっとその光のほうを見ると、
「あそこさあ、そうとうやばいよ」
と言う。
「どういうこと?」
「ここよりやばいよ。だっていっぱい見えるもん、ここからでも……」
「!?」
「あっ、今、Wの奥さん、たぶん背中触られてる!」
「見えるの?」
「うん、全部見える」
石原さんにはただ、漆黒の闇の中に、ホタルのようなヘッドランプがちろちろと見えているだけだ。
またあ、やめてくれよ、などと言っていると、突然石原さんの携帯が鳴った。
「ここは十や二十じゃない」
―― 「これからそっちへ帰る、っていうKたちからの電話だった。釣れたの?って聞いたら、まあまあ、とか言ってる」
それじゃあ、K妻も降りて来たから、今から自分たちもそっちへ行く、と言うと、
「いや、来なくていい。後で話すから、とにかくそこにいてくれ。すぐ行くから」
Kさんたちはとても焦っている様子である。
こちらから見ていると、車を出したようで、一瞬ホタルの光が大きくなって、つーっとこちらに近付いてくる。
ものの二、三分でKさんたちの車は突堤に到着し、三人が転がるように車を降りてきた。
「なんだよ、もう止めたの?」
石原さんが聞くと、Kさんが、出たんだよ、といって両手をぶらんと胸の前に垂らして見せた。
「出たよ、出た」
Wさんの顔色も変わっている。
「……ねえ、背中触られたでしょ?」
こちらから見ていたK妻が言うと、
「触られたなんてもんじゃない」
と、まっ青になったW妻(Wさんの奥さん)は言った。
―― 「とにかくその時、Kの奥さんが言ってたことと同じことが起こってたらしい。Wの奥さんなんてもう帰るとか言って泣き出して……」
Wさん、Kさん、W妻、の三人が釣り糸を垂らしていたのは、岩場だったという。
風の具合で時々雲間から月が覗くが、基本的には真っ暗に近い。
足場はめちゃめちゃ悪かった。
油断すると、海中に真っ逆さまで、すぐ近くには巻き込まれたらまず助からない、というテトラポットもあった。
お互いに近くにより過ぎても釣り糸がからまるし、かと言って危険だからあまりばらばらになっても心配だ。
三人はほどよい距離を保っていた。
ぼちぼち釣れ始めた頃、
「いやだ、やめてよぅ、おどかさないでよぅ」
いきなりW妻が奇声を発した。
「誰かが背中に触ったのよ。私、ダンナが私をからかったんだと思って……」
……振り向いたが誰もいない。
夫のWさんは、数メートル離れたところにいる。
Kさんもかなり離れている。
おかしいなあ、風のせいかなあ……。
秋の釣りとあって、冷え防止のため、W妻はそれなりに重装備をしていた。
(ダウンジャケットの背中に、飛び出した岩場の岩がこすれたのかもしれない)
そう思い直してまた釣り糸を垂らし、十分ほどたったという。
…… ウーン、ウーン…… 、
いきなり何か呻き声のようなものが耳元で聞こえた。
びくっ、としてW妻は振り向いたのだが、やはり誰もいない。
見回すと、夫もKさんも黙って釣っている。
(おかしいな、なんかへんだな、ここ……)
と思った時だった。
ゾーリ、ゾーリ……ゾーリ、ゾーリ……。
ダウンジャケットの背中を、誰かが確かに擦っている。
暗くておぼろだが、確かに自分の視界の中に、WさんとKさんは入っている。
二人はあっちにいるのだ。それなのに、
ゾーリ、ゾーリ……ゾーリ、ゾーリ……。
W妻は全身の神経を背中に集中させるしかなかった。
どう考えてもこの感触は、何か、猫の爪のようなものに、なぞるようにダウンジャケットをゆっくりとひっかかれている感じだ。
足場の悪い岩場である。このまま振り返ってバランスを崩すと、海に落ちるかもしれない。
W妻は、そのまま固まっているしかなかった。
すぐそばに二人が見えているというのに、助けを呼ぼうにも声が出ない、言葉が出てこない。
「あ、あ、あ……」
それでもK妻は渾身の力をこめてなんとか声を出すことができた。
「…何か言った?……あっ!?」
「あ!!」
W妻の声に振り向いたKさんとWさんは、この時見てはならないものを見たのだ。
海面から半身を出した、ほとんど骸骨のような白っぽいモノが、W妻に後ろから覆いかぶさり、ゾーリ、ゾーリ、と骨だけになった手で背中をひっかいていたのである。
「わーっ!!」
最初にWさんが大声を出して駆け寄った。
「わーっ! ぎゃーっ!」
Kさんも叫びながらW妻のほうに走って来た。
二人には、その骸骨のようなモノが、今にもK妻を海底に引きずりこもうとしているように見えたからだ。
二人が必死でW妻のもとに駆け寄っている十五秒ほどの間に、ソレはだんだん薄くなり、闇に溶け込むように消えていった。
そして我に返ったKさんが、慌てて突堤にいる石原さんに電話したのだという――
「…やっぱり。だってこっちから見ててわかったもん」
真っ青になって戻ってきた三人に、霊能力があるK妻は言った。
「このへんは何か、特別な場所だよ。十とか二十なんてもんじゃない、もっともっと沢山の霊がいる。それも時代がばらばらみたいだし」
深夜に到着した車
よく釣れる、というので、物凄いものを見たにもかかわらず、その後もWさん夫妻は懲りずにS岬に通って来た。
Wさん夫妻というより、Wさんが来たがるので、W妻のほうはいやいやながらついてくる、という感じだった。
やはり寒い季節である。
当日W妻は、寒いし怖いし、という理由で、一人だけ突堤の横の駐車場に停めた車の中に待機していた。
石原さんとWさんはその日はあまり遠くまでいかず、突堤辺りにずっととどまって釣りをしていた。
三時間くらい釣るといいかげん釣れたので、今日はこれで帰ろうということになった。
そして二人が釣り道具をまとめて持ち、突堤から駐車場まで歩いていた時だ。
駐車場には電灯が灯り、夜中でもそれなりに明るく保たれている。
当然二人の視界にも明るい駐車場は入っていて、W妻が待つ車も、前方五十メートルくらい先に見てとれた。
すると、
「おっ、今頃来るやつもいるのか? 根性あるな」
「ほんと……」
一台の黒い大型の乗用車が、駐車場に猛スピードで入って来るところが目に入った。
そして、
「あっ、危ない―」
ドドーンッ!!
その黒い車は、あっと言う間に宙を飛ぶように舞い上がったかと思うと、物凄い音をたてて、真上からWさんの車に激突したのである。
確かにぶつかったはずが…
―― 「俺もWも、てっきり事故だと思った。
はっきり二人とも見たからね。こう、車が宙を飛ぶところが見えて、Wの車の上にばーんと落ちるのも見えて……。
でも、落ちた後がどうなってるのかが、物陰になっててそこからはよく見えない。
で、俺もWも必死で駐車場まで走ってったんだけど、そしたら……」
駐車場についてみると、Wさんの車はぜんぜん無事である。もといた場所にある。
それに事故の痕跡はおろか、その黒い車の影も形もない。
駐車場は何事もなかったかのように、しーんと静まりかえっている。
「おい、今、車ぶつからなかったか?」
車の窓をたたいてWさんが妻に聞くと、
「何が?」
と言って、W妻は寝ぼけた顔を出した。
「今来る時にあっちから見てたんだけど、なんか黒い車がガーンとぶつかったんだよ、この車に」
石原さんも興奮して聞いたが、そんな車など来なかった、と言う。
「ああ、でも今ね……」
と、W妻は言った。
「私、あったかくて気持ちよかったからずっと寝てたんだけど、なんか今さっき、頭の上で突然ドーンッていう音がして起こされちゃったとこ……」
音だけはW妻も聞いていたのだ。
災いは背後からやってくる
この夜の不思議な出来事はこれだけだったのだが、実は後日談がある。
――「それから一カ月ほどたってからなんだけど、休日、Wたちは都内を車で走ってたらしい、六本木かその辺り……」
Wさんは路上駐車して妻を車の中で待たせ、一人だけコンビニによるために車を降りた。
買い物をすませてコンビニを出たとたん、
ドドーンッ!
いきなり黒い車が突っ込んで来て、目の前の自分の車に馬乗りになった。
あの突堤の駐車場で聞いた音と同じ音、車の色も形もそっくりだった。
―― 「黒いのが後ろからガーンと来て馬乗りになった。車の後ろ半分がめちゃくちゃにつぶれたんだけど、運のいいことに、その時奥さんは前の助手席にいたから、ムチ打ちっぽくなっただけで大事にはいたらなかったみたい……」
S岬の駐車場で石原さんたちが確かに見たアレと、その、都内での事故を考え合わせると、Wさんと石原さんはあの時あの場所で、一瞬タイムスリップしたのかもしれない。
「でもWたちとも話したんだけど……」
ひょっとしたら、と石原さんも言う。
ひょっとしたら、以前W妻が、S岬の岩場でガイコツのようなモノに後ろからゾーリ、ゾーリとやられた、あの出来事と今回の事故は、何か関係があるんじゃないか、と……。
「Wはこう言うんです。Wは、S岬で妻が後ろからゾーリゾーリとやられてるところもしっかり見てたじゃない? で、あの駐車場に出た化け車も、実際に六本本でオカマ掘った車も、どっちとも、乗ってる車の後ろから、こう、ガーッと来てぶつかった。
その、後ろからガーッて襲ってくる感じが、なんか三件とも似てる。すごく似てるって……」
……コノ次ハムチ打チダケジャスマナイヨ、そう言われているような気がする、とWさんは真顔でそう言っていた。
都内での事故の後、W夫妻は一年ほど釣りを休んでいたが、K夫妻はまったく懲りずに、霊感の強い妻も一緒に、怖い道を避けつつS岬に通っていたという。
霊感はほとんどないという石原さんも、豪胆にもあいかわらず一人でもS岬に通い続けたが、さすがに夜中の十二時前には帰ることにした。
「なんなんだろうね、いや、自分はほんとうにそういうものには鈍感なはずなんだけど、それでも十二時過ぎると、なんとなく周囲がざわざわっとしてくるのがわかる。
空気が変わるっていうか、やかましくなってくるんですよ」
くどいようだが、石原さんは霊だの超常現象などには、はなから興味がない。
私(筆者)がこういった話をすると、理路整然としたものすごい機関銃トークで反論されてしまう。
テレビによく出てくる、あのどこかの大学の教授のような、典型的な霊否定論者なのだが、そんな本人の意志に反して、彼はどういうわけか「おっかない目にあう」ことが多い。
こんなことはありえない、と思いながらそういう目にあってしまうのだから、しばしば本人も混乱する……。
S岬は禁漁区なのだが、とにかく魚影が濃く、釣れる日には近所の磯とは比べものにならないほどよく釣れるのだという。
もちろん日によってたまにだが「ボーズ」の時もある。
が、比較的確率がいいことはたしかだった。
石原さんは引き潮の時には長靴をはいて海に入ってアワビなどの貝や海老をとり、潮が満ちれば突堤に上って糸をたれる。
貝やらイカやらと一晩でとれ過ぎて家族ではさばききれないので、友だちにクール便で送ることさえあったという。
そんな、釣り三昧のある秋口である。
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年7月29日 発行 初版
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