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第十七章
それぞれが、自己紹介した。あの日から三日が過ぎていた。それで、美雪が心配した事は叶えられたのか。そう思うだろう。それは、班長の涙が提案してくれて何も問題はなく解決してくれた。もしかすると、涙は、相談された時から考えていたと思えた。新の介護するのは、二人で、それも交代ですると、だが、考えていたのと違うのは、必ず、美雪が必要だと決められた事だった。
「おはようございます」
美雪は、長老の玄関の扉を叩いた。まだ、時計が発明されていないのに決って同じ様な時間に訪れるのだ。朝日は昇ったが、太陽が地面を温めるのを始めた頃だ。現代的に時間で言うなら七時頃だった。それ程まで早く来るには理由があった。
「美雪さん。おはよう。毎朝、早く来てくれて済まないな」
「いいえ。わたくしも楽しみしていますので気にしないでください」
「そうか、今日は、水団(すいとん汁)を婆さんが作ってくれたよ」
「うぁああ、楽しみです」
朝早く来る理由は、新と食事を共に食べなければならないからだ。正確に言うなら、長老夫婦と、新と美雪の四人だった。それは、何も問題ではなく、美雪は喜んで来ていた。その後、朝食も食べ終えてお茶を飲んで寛いで居る時に、医師の輪が訪れるのが普通だった。そして、新の包帯を替えようと準備をしている時に、二人目の女性が現れる。別に介護するのが嫌で遅く来るのではない。元々、誰が決めた訳ではないが、村人が自然と仕事を始める時間だった。
「おはようございます。もしかして包帯を替えてしまいましたか?」
「千佳さん。おはよう。まだ、これからです」
「それなら、良かった」
「それでは、二人で包帯を解いてください」
そう言われると、二人の女性は丁寧に包帯を解き始めた。
「痛い?」
「少しね」
「直ぐ終わるから我慢してね」
「うん」
「それでは、傷を診るからね。治ったかな?」
頭から包帯が解かれたので、上から下へと傷の様子を診た。
「大分良くなったね。後、二週間もすれば完治するよ」
「新ちゃん。良かったわね」
美雪が嬉しそうに微笑を浮かべた。
「良く頑張ったわね」
千佳は、自分の子供にするように頭を撫でた。
「今日は、何して遊ぶ?」
「そうね。でも、仕事が終わってからよ」
「うん」
そう言いながら、美雪が何かするのを楽しそうに微笑んでいた。
「そんなに楽しいの?」
「うん」
そして、千佳が冗談のつもりで聞いてみた。
「新ちゃんは、美雪が好きなの?」
「うん。大好きだよ。結婚したいくらい好きだよ」
「もう千佳さん。からかわないでください」
と、言葉では否定しているが、顔中だけでなく耳まで真っ赤にして喜んでいた。
「僕は、本当に美雪お姉ちゃんと結婚したいよ」
「もう分かったから、もう仕事にならないわ」
と言うように、新が思っている事を素直に言うので、逆に遊ばれているとも思えた。
「それにしても、記憶は戻らないわね。先生は何て言っているの?」
「特別な方法も薬も無いらしいの」
「そうなの」
もう三日も過ぎているが、新の様子は変わらなかった。治すようにしているか、と言われると何もしていない。医師の輪の話しでは、何気ない普段の生活で記憶が戻ると言うので、仕事中でも休憩の時も、新の好きなようにさせていた。だが、一日の殆どは仕事で終わる。それでも、新は何処にでも付いて来ては、美雪に嬉しそうに話し掛けるのだ。この様子を見た人たちは、美雪だけが居れば満足なのだな。と考えるのは当然だった。恐らく、今日も何も変わらないで一日が終わる。誰もが、そんな雰囲気の三時の休憩の時だった。
「今日はね。驚く物を持ってきたわよ。祖母が子供の時に食べた物なの」
「何々、早く見せて?」
「それは、何ですか?」
「祖母が子供の時に作ってもらった。その調理方法が蔵から出てきたのよ。その菓子を作ってくれたの。それよりも、その菓子の名前がね。あの仙人の霞の饅頭なのよ」
「キャー」
六人の女性が悲鳴を上げた。その菓子の噂は、この辺境の村にまで届いていた。だが、代替わりしたのは伝わってないだろう。それと、偶然に訪れた商人の奥さんが、饅頭を食べた感じと、作る様子を思い出しながら作った偽物と思える。だが、それでも、この世の物とは思えない美味しさと感じて調理方法を教えて貰ったのだろう。
「見せて、見せてよ」
「これ食べていいのよね」
「勿論よ。でも、一人一個しかないけどね」
「あの幻の饅頭よ。一個で十分よ」
「でも、何で調理方法なんて探したの?」
「新ちゃんの話をしたら祖母がね。美味しい物って忘れられない記憶らしいから食べたら何かを思い出すかもしれないわ。そう言って蔵を探したらしいの」
「それなら、新ちゃんから先に食べさせないとね」
「どうしたの?」
「大丈夫?」
七人の女性は驚きの声を上げた。なぜか新が呟きながら頭を抱えて蹲っているのだ。
「新ちゃん。大丈夫?」
「何が言っているわよ?」
「えっ何て?」
「仙人の霞の饅頭と、言っているみたい。でも、なぜ?」
「そんな事よりも、誰か先生を呼んで来て」
班長の涙が、皆に向かって叫ぶが、新の状態に驚いているからだろう。誰一人として呼びに行く者が居なかった。その為に、新の事を一番心配している者なら正気に返るのも早いはず。それに、医師を呼びに行く途中に、誰に会ったとしても話しなどで時間を潰さずに、一秒でも早く医師を連れてくるはずだ。そう考えて、一人の肩を叩きながら命令のように叫んだ。
「美雪。確りしてよ。先生を呼んで来るの。今直ぐよ」
「うっうう、はい」
美雪は、涙を堪えていたからだろう。ハッキリとした返事は聞えないが、その変わりに、直ぐに駆け出した。医師を一秒でも早く連れて来るためにだ。
「何だ。どうした?」
医師は、何が起きたのかと慌てているからだろうか、それとも、長老の屋敷の隣の畑だからなのか、何一つとして医療の道具を持って来なかったが、もしすると、我を忘れる程まで急いで駆け付けてくれたのかもしれない。その後に、美雪も息を切らせながら現れた。
「分からないの。気が付いた時は、今の状態なのよ」
「何かを食べた副作用の痙攣とも思えます。何かを食べさせましたか?」
「いいえ」
涙は、少し苛立ちを感じていた。それは当然かもしれない。医師の輪は問い掛けるだけで、容体を診ようとしないからだ。
「・・・・・・ん。痛みからの呻きかと思ったら何かを呟いているな」
「はい。先ほどまでは、仙人の霞の饅頭と呟いていました」
「もしかすると、記憶を無くした原因なのか、それなら、記憶が戻る前兆かもしれない」
「でも、苦しそうよ。何でもいいから助けてあげられないの」
「だが、苦しいなら記憶が戻る為の重要な情報のはずだろう。見守るしかない」
今の新の脳内は記憶を結び繋ごうと活動していた。その為の痛みだったのだ。それ程まで重要な言葉なのかと思われるだろうが、確かに重要だったのだ。裕子が最後に指示した饅頭を買うことでもあり、初めて金を現金に交換した理由であり、自分で初め買った品物が饅頭であるだけでなく美味しいと始めた感じた菓子だった。それだけでなく、初めての友人になる動機でもあった。そして、最期に友と別れる最期の思い出でもあったのだ。
「もう思い出さなくていいのよ。これ以上まで思案したら死んでしまうわ。だから、思考などしないで帰ってきて、もうお願いだから帰ってきてよ」
美雪は、涙を流しながら身体の痙攣を止めようと強く抱きしめた。その行動よりも、心配する気持ちが、新の脳内だけでなく体中に広がったのだ。その温かい感情が、バラバラになっていた記憶が一つ、また一つと優しく繋がり始めた。そして、最期の記憶は、裕子が指示した最期の言葉が繋がろうとしていた。
「裕子・・・・・?」
「もう裕子でも、美雪でもいいわ。お願いだから正気に戻って」
今の美雪の願いが届いたのだろう。
「あっ違う。美雪さんでしたよね」
「えっ・・・ん。今何て言ったの?」
言葉の内容よりも、幼児のような話し方でなく、理性を感じる男の声だったので驚いたのだ。それだけでなく、美雪の感情では、幼児から大人の男と認識した。そして・・・・。
「キャッ」
と、悲鳴を上げた。美雪は、男に抱き付いているに気が付いたのだ。それだけでは感情が収まるはずもなく、新を突き飛ばす反動を利用して、今の場所から逃げるように離れた。
「気が付いたのか?」
「・・・・・」
医師は、新の目から理性を感じて声を掛けた。それなのに、不思議そうに辺りを見回すだけなのだ。もしかすると、想像もできない場所に居るので脳内では記憶にあるか確認に忙しくて、医師の問い掛けは言葉として認識していないかもしれない。それで、記憶が混乱しているが、一番大事な記憶から上書きされたと思える言葉を吐いた。
「裕子・・・・・・いや、美雪さんでしたね」
「もしかして記憶が戻ったのですか?」
先ほどまでは幼児のような声色だったのが、今では知性を感じる声色に変わっていた。そんな、豹変に驚く感情とは違い。美雪は、恋をした乙女のような感情に変わっていた。
「ですが、部分的にしか思い出せません。いろいろとご迷惑を掛けて済みませんでした」
真っ先に美雪に頭を下げた。その後に、医師と女性たちにも何度も頭を下げていた。
「それは、良かったですわね」
女性たちも自分の事のように喜んでくれた。
「良かった。本当に良かった。あっ長老にも知らせないとならない」
第十八章
医師は、簡単な診断した後に屋敷に向かった。
「長老。どこに居ますか?」
居間で休んでいると思って駆け込んだが居なかった。だが、長老が帰るまで居間で待つなど出来るはずもなく、慌てて屋敷の周りを探しに向かったのだ。
「そんな真剣な表情をして、どうした?」
中庭で盆栽の育ちを見ていたが、人を驚かせえるに十分な声を掛けられて振り向いた。
「はい。男の記憶が戻りました」
「おお、それで?」
「まだ、それだけです」
「そうか・・・わしも様子を見てみよう。だが、医師からの判断で早いと言うなら別だが?」
「構いません。それでは一緒に行きますか?」
「そうしよう」
二人は無言で歩き出した。どちらも聞きたい事があるが、その答えは男の話を聞いてからでないと、何も返事が出来ないのが分かっていたからだろう。
「ほう、凛々しくなったではないか、それにしては騒がしいな」
「そうですね。なぜか、女性たちが興奮しているようです。恐らく、男が原因でしょう」
「それは間違いないだろう。だが、まるで少女のように喜んでいるぞ」
「そうですね。急ぎましょう」
「そうだな」
二人の男は駆け出す勢いだったが、早歩き程度だった。、だが、もしかすると長老は死ぬ気持ちで走っているのかもしれない。その横で走っている。医師は、急ぐと言ったはずなのに共に走っているのは身体の機能の限界でなく、長老の身体が心配なのだろう。
「おかえり」
「ありがとう」
と、医師は軽く頭を下げることで礼を返した。
「長老様。新さんの記憶が戻りましたわ」
美雪が自分の事のように喜びを表した。
「長老様。今いろいろと思い出してくるのですが、泣きたくなるほど恥ずかしいことや面倒もお掛けしました。本当に済みませんでした」
「いやいや、本当の孫ができたと思って楽しんでいたよ。それにしても、美雪さんの言う通りに記憶が戻ったようだな」
「分かるのですか?」
新は首を傾げた。
「ああ、今の挨拶だけでも、朝食の時からでは目の輝きや声色が別人だから本当に記憶が戻ったと思えるよ」
「それにしても、何の話題で楽しんでいたのかな?」
長老は、自分から言うと角が立つとでも思ったのだろう。医師に一瞬の視線を送ったことで、先ほどまで何を騒いでいたのか、その話題を聞いて欲しいと伝えていた。
「あっそれは、班長さんが饅頭を持ってきてくれたのです」
美雪が嬉しそうに教えた」
「そう、そうですよ」
「その話をしていたいの」
女性たちは、また、歓声を上げた。
「ほうほう、饅頭とは何十年ぶりに聞くな。あれは葵(あおい)婆さん以来だな」
「えっ、もしかして花咲(かさき)葵(あおい)婆ちゃんのことですか?」
「そうだ」
「変ね。長老の話しなんて一度も、それより、長老の話をすると、直ぐ不機嫌になるわよ」
「まだ怒っているのか?」
「何があったのですか?」
「むむ、それは・・だな」
「はい」
過去のことを話したくないのだろう。だが、この場にいる全ての者に視線を向けられては誤魔化すのは無理と感じた。それでも、昔の話をする決心がつかなかった。
「昔の話をしよう。その後は、新さんが記憶を無くした理由を教えてくれないかな?」
「構いません」
「教えてくれるのか、それならば、仕方がない」
新が素直に返事をしたので、長老は話をするしかなかった。
「あれは、十五年前の母が亡くなり三日が過ぎた時だった。わしが何も食事を食べていないと、誰からか聞いたのだろう。それで、甘い物が好物なのを知っていたからだろう。葵婆さんが饅頭を持ってきてくれたのだよ」
「ああ、そう言えば、その頃ね。一週間くらい三食の食事の後に饅頭が食べられて喜んでいたのを思い出したわ。もしかしたら長老様と病気のお母さんに食べさせたかったのね」
「今思えば、そうだったと思えるよ」
「でも、変よね。饅頭を作るくらいなのだから好意を持っていたのよね。今では想像も出来ない事だけどね。ねえ、長老様。何をして怒らせたの?」
「今でも、そんなに怒る理由とは思えないのだよ」
「もしかして食べなかったの?」
「食欲は無かったが、村一番の美人の手作りだ。嬉しそうに食べたはずだ」
「変よね。それならば不機嫌になる理由がないわね」
「そうだろう」
「あっ、そう言えば、饅頭を作ろうと考えた時に、お婆ちゃんが言っていたわ」
「何と言っていた?」
「美味しい物って忘れられない記憶らしい。そう言ったの」
「意味が分からないぞ」
「あのね。お婆さんに、新ちゃんの話をしたら美味しい物って忘れられない記憶らしいから食べたら何かを思い出すかもしれないわ。そう言ったのよ」
「そうか、だが、わしは記憶喪失ではないぞ」
「そう言う意味ではないの。長老様は、子供の時だけど、何かお母さんに菓子でも作ってもらった記憶はありますか?」
「あるぞ。葛餅(くずもち)を作ってくれた。本当に美味しかった。もし食べられるならば、もう一度だけ食べてみたい」
長老は、母と菓子を両方思い出しているのだろう。子供のように満面の笑みを浮かべた。その笑みで、涙だけでなく、この場に居る全ての女性が分かったようだ。
「長老が怒らせた理由が分かったわ」
「えっ、なぜ?」
「たぶん、長老は饅頭を食べた時にお母さんの事を思い出したのよ。それだけでなくて、今のように満面の笑みを浮かべて、今話したことをお婆さんに言ったのね」
「それなら怒るわね」
「でしょう」
「わたくしも怒るわ。だって、心配だから作って持っていたのに、喜んでくれるのでなくて、母の葛餅が食べたいではね。泣きたくなるわ」
この場に居る女性たちは、涙の祖母の気持ちが分かると、次々と思いを長老にぶつけた。
「・・・・・」
長老は何も言えなかった。涙や女性たちが言った通りだと思ったからだ。そして、今まで生きてきた中で最大の驚きを感じるのだ。
「長老様。もしかしたらだけど、祖母は、本当は長老と結婚したかったのかも、その思いだけでも伝えたくて饅頭を作ったと思うわ」
「それは無いはずだ。彼氏もいたぞ。それに、結婚式では喜んでいただろう」
「女性の心が分からないのね。好きって言ったから好きになるのでなくて、わたくしが好きなのだから、当然、あなたもわたくしを好きなのよ。だから、女性からは好きと言えないの。男なのだから好きって言ってね。これが、女性の心なのよ」
涙が今言ったことは、この場の女性が当然だと頷いていた。それで、なぜか、長老に言っているはずなのだが、女性たちの視線は、新に向けていた。
「はっあぁ」
女性たちが大きな溜息を吐いたのは、視線の理由に気が付かない新の気持ちだった。
「ねえ、新ちゃんは、仙人の霞の饅頭って食べた事があるのでしょう」
「はい。その店屋で僕が買いました」
「それなら、饅頭を食べたら本物の味か分かりますよね」
「はい。分かると思います」
「まあ我々は、この場から消えよう。饅頭の割り当てが減ったと言われるのが怖いからな」
長老は医師の肩を叩いた。その意味が分かったのだろう。顔を青ざめながら何度も頷いていたが、話を終えると逃げるように屋敷とは反対の方向に歩き出した。恐らく、花咲家に向かったのだろう。それも、葵に会って謝罪すると思えた。
「饅頭を食べましょう」
長老が言った通りに、二人の男の姿が見えなくなると嬉しそうに言うのだった。
「新ちゃんが先に食べてみて」
新の記憶を戻すために饅頭を持ってきたが、今は記憶が戻ったのだ。それならば、意味が無いと思われるだろうが、違う意味で先に食べて欲しかったのだ。確かに、噂の仙人の霞の饅頭と同じ味だと思って食べるのと、普通の饅頭だと思って味わうのでは違うからだ。
「ありがとう」
新の表情を興味深く見詰めた。そして、饅頭が口の中に消えるのを待った。新には想像が出来ないだろうが、女性たちの心臓の音が隣に座る人に聞える程まで高まっているのだ。もしかすると、新が全ての感覚器官で饅頭の鑑定をしていなければ心臓の鼓動が聴こえたかもしれない。
「間違いありません。この味は、仙人の霞の饅頭と同じ物と考えて良いでしょう」
「キャアアア」
女性たちが狂ったとしか思えない。そんな悲鳴が辺りに響いたのだ。
「これが、噂の饅頭なのね」
「いや、幻の饅頭よ」
それぞれの思いの言葉で興奮を抑えようとしていた。そして、世界一の宝石を見るように饅頭を見るだけでなく、ゆっくりと口に運びながら味わって食べたのだ。
「うぁああああ、何て美味しいの。このような菓子は始めてよ」
女性たちの中では涙を流す者までいたのだ。これ程までの興奮が直ぐに収まるはずもなく、次々と話題が膨らんでいった。それとは逆に、新の話題が上がらなくなり女性たちだけの話題で休憩時間が過ぎても会話は終わる事はなかった。その様子を、新は見ていた。いや、正しく言うならば、美雪だけを見ていたのだ。それは、本当に心底から嬉しそうにしていたが、この村でも饅頭の係わりがあった事に気が付いていないだろう。それは全ての記憶が戻ってないからかもしれない。それは変だと思われるだろう。確かに、西都市での記憶はある。だが、都市に入る前の記憶が部分的しかないのだ。それでも、裕子の名前と姿を重ねたはずだ。だが、その理由は、夢幻のように夢の中の理想の女性とでも思っている感じだったのだ。それでも、裕子は現実にいて、裕子の指示で旅の第一の目的が始まったが、もしかすると、この村に来るのが目的だったのかもしれない。それが証拠のように赤い感覚器官は、行き先の方向を示さずに円を描いていた。
第十九章
花咲家の手作り饅頭が、噂の仙人の霞の饅頭と同じ、いや、それ以上の物だと村中に広まるのは、新が証明した日の夕食までも経たなかった。それで、涙の祖母は嬉しそうに作り出したのは、村人の言葉よりも、長老の謝罪と食べてみたい。その言葉が理由だった。
「おはよう」
そして、次の日の朝のことだ。美雪が、長老の玄関の扉を叩く時に、突然に肩を叩かれたのだ。振り向いてみると、なぜか、班長の涙が荷物を持って立っていたのだ。
「あっ班長さん。おはようございます。でも、どうしたのですか?」
両手に、大小の風呂敷包みを持っていた。恐らく、小さい包み物で肩を叩いたようだ。
「婆ちゃんが、長老に届けろ。そう言うから仕方なく朝食も食べずに来る事になったの」
「もしかして、饅頭ですか?」
「そうだ。皆の分も持ってきたから休憩の時でも食べよう」
「はい。楽しみにしています」
「それなら、小さい包みを持ってくれる」
「はい」
小さい包みを受け取った。
「何をしているのだ?」
「キャッ、長老さん。おはようございます」
「美雪さん。おはよう」
玄関の扉を叩いていないのだが、長老は話し声が聞こえたからだろう。玄関の扉を開けたまま立っていた。
「あっこれ、祖母が、長老に渡すように頼まれた物です」
大きい方の風呂敷に包んである物を渡した
「ありがとう。婆ちゃんと一緒に食べるよ。ありがとうと伝えてくれないか」
「分かりました。喜んでいたと伝えておきます」
「もしかして、涙さんは、まだ、朝食は済んでいないのかな?」
「はい」
恥ずかしそうに頷いていた。
「今から帰って食べるのも大変だろう。三人分も四人分も一緒だから食べて行きなさい」
「それでは、喜んで頂きます」
二人の女性は、礼儀正しく入室の礼儀を守って入ろうとしている時、長老だけは、まるで子供のように台所に駆け出したと思ったら直ぐに戻ってきた。
「今日は、ふろふき大根だぞ」
おかずの内容を言うと、居間に座って、二人に手招きしていた。
「うぁああ、大好きです」
「わたくしも好物です」
「それは、よかった。さあ座って待っていなさい」
直ぐに、長老の連れ合いが現れて、朝食を並べ始めた。二人の女性は手伝うと言うのだが、嬉しそうに断るのだ。恐らく、並べられた料理を見て、二人の女性が本当に食べたいと思える笑みを見たので、台所で全てを知ったら笑みが見られないと思ったのだろう。それから、直ぐに朝食の用意が終わって食べ始めた。まるで、誕生日などの特別の日と感じるはしゃぎ様だったが、その雰囲気を壊す音が響いた。その音は、玄関を叩く音だった。
「・・・・・・」
長老が不機嫌そうに現れた。
「お邪魔かと思ったのですよ。ですが、診断に必用な準備をしなくては・・・・」
「気にするな。二人の介護の女性は、もう来ている」
「そうでしたか、自分は用意がありますので、用意が終わりしだい呼ぶので、お茶でも飲んでいて欲しいと伝えてください」
「わかった」
「それと、長老。全ての記憶は戻っていませんか、これ以上の記憶は戻らないかもしれません。それで、これからの事を考えて欲しいのです」
「わかった。後で時間を作ってくれないか。一緒に考えて欲しいのだ」
「自分の方は、暇な時は薬の調合をしていますので何時でも構いません」
「そうか、分かった」
医師は、間の悪い時間に来たと感じた。だが、都合が良かったとも思ったのも確かだ。新と二人で話が出来るからだ。直ぐに必用な物を用意すると、隣の部屋の扉を叩いた。
「起きています。どうぞ」
「おはよう」
「おはようございます」
普通の成人のような挨拶を聞いて、本当に記憶が戻ったと感じた。
「空腹だろうが、少し朝食の前に聞きたい事があるので時間をくれないか?」
「構いません」
「ありがとう。済まない。それで、なのだが・・・・」
「はい」
医師は、簡単な傷の診断をした後、不審に思う事から、自己紹介まで聞いたのだ。だが、医師が考えていた事は違っていた。それは、昨日までは、十歳くらいまでの子供の時の記憶しかなかったのだが、今は、正確な記憶は数日しかないのだ。他は所々しか記憶がない。生まれた所も、旅の目的も、自分の名前まで憶えていないのだ。これでは、記憶が戻ったと言えない。それで、記憶の事は時間と何かの拍子で戻ると考えるとしても、今考える事は、男が危険人物なのか、その事が重要だった。これは一人で決められるはずもなく、長老と相談するしかない。そう決めると、行動は早かった。直ぐに、隣の扉を叩いたのだ。
「長老。開けても宜しいでしょうか?」
扉の向こうから「仕事を始めよう」「新の朝食の用意を頼む」と、などが聞えた後に・・・・。
「構わない」
そして、医師は扉を開けた。すると、長老と目が合い。自分が何か相談があると感じてくれた。それだけでなく、後で話を聞くと目で合図を送ってくれたので安心して、新の方を振り向いた。
「新君。自分のような男の顔を見ながら食事を食べるよりも、二人の女性と話しながら食べた方が美味しいだろう。自分は、食べ終えた頃にまた来るので寛いでいなさい」
「えっ・・・・・」
「はい。そうしましょうね。新ちゃん」
新は何て答えて良いのかと悩んでいたが、二人の女性は朝食の後片付けをしながら素直に返事を返すので、医師は不快感を表した。その様子を見て、長老は笑っていた。
「若くない男は邪魔らしい。外で少し時間を潰そう」
「・・・・あっ、そうですね」
医師は一瞬だが意味が分からなかった。だが、少し考えると、先ほど相談があるのだろう。それを聞くと意味だったのに気が付いたのだ。そして、二人は中庭に向かい。長老の自慢の盆栽の話をしていると装いながら会話をしていた。その内容は、男の事で分かった全ての事を伝えることだった。
「これ以上の記憶は戻らないと思われます」
「そうか」
「ですが、本当は全ての記憶が戻っているのに言ってない可能性もありますが、それよりも、危険な人物かの判断をしたいのです」
「もしかすると、皿家(さらけ)の竜太郎(りゅうたろう)に判断して欲しいと言いたいのか、確かに、人を殺した者なら目を見れば分かる。と言っていたが、そこまでする必要があるのか?」
「考え過ぎと思いたいだけです」
「わかった。だが、傷が癒えても里から出ない場合でも良いだろう」
「そうですね。もしもですが、思惑がばれたと思われて騒がれては困りますからね」
「まあ一月もあれば傷は癒えるのだろう。その時に里に居たいか聞いてみよう。それで、村に居たいと言った時は、竜太郎に仕事の役目を選んでもらうと同時に、危険な人物かを判断してもらう。これで良いな。だが、その間までは監視を頼むぞ。それと、竜太郎には、それとなく、村の見回りを頼むことにする」
「ああっ、それなら安心していられます」
「それでは、戻ろうか?」
「そうですね」
長老は、直接に新がいる部屋には向かわずに、台所に向かった。
「新が食べた膳は戻ってきたか?」
家内のの郁江(いくえ)に問い掛けた。
「戻ってきましたわよ。それも、残さずに食べてくれました」
長老の連れ合いは、何か嬉しそう言った。
「嬉しそうだな」
「そうよ。作ってくれた物を残さずに食べてもらえるのが嬉しいわ」
「俺は、残すのが多くて済まないな」
「いいのよ。残すのを知っていて作るのですからね。それよりも、新君の所に行かなくていいの。そろそろ、美雪さんと涙さんたちが会話の話題が尽きる頃と思うわ」
「長老。それでは、自分は戻ります」
「そうだな、それがいいだろう」
新たちが居る部屋に急いで向かったが、医師と長老夫婦の考えていた事と違って、男女三人の楽しい会話の声が部屋から溢れ出ていたのだ。その様子のために急いで来たのが馬鹿馬鹿しくなったのだが、逆に部屋に入ると邪魔をすることになるだろうと感じてしまった。それと同時に、部屋の中に入るには可なりの勇気が必要だと思ったのだ。それでも、このまま扉の前で待っていることも出来るはずもなく。扉を叩くかと悩んだ時だった。
「キャー」
と、美雪と思える悲鳴が聞えて、医師は条件反射のような感じで扉を開けた。
「大丈夫か?」
「えっ何?」
医師の鬼のような表情を見て、二人の女性と男が驚いた。
「美雪。何があった?」
怒りを表しているように見えるが、心の中では極限の恐怖を感じていた。それは、美雪が独身だと言うこともあるのだが、両親が恐ろしい人だからだ。今では子供が生まれて引退したが、当時は村の警護隊の隊長と副隊長でもあり。村の一番と二番の最強と言われた武人だったのだ。もし美雪に何かあれば、全ての関係者が死ぬ気持ちを味わうのが確実だったからだ。
「何もないですぅ」
顔中だけでなく耳まで真っ赤にして首を振るのだ。その姿を見た後に、涙を見た。
「本当に何もないです。ただ、新ちゃんが、裕子さんの話をしていた途中に、扉の向こう
から人の気配が感じるって、それを確かめようとして、寝台から起き上がる時に、美雪の手に触れただけよ」
「そうか、それなら何も問題はない。驚かせて済まなかったな」
「いいえ。それよりも、怪我の診断をするのですよね」
「そのつもりだ」
「手伝います・・・・・・美雪。どうしたの?」
美雪が、新の手足などを怯えるようにして包帯を解いていた。
「あっ何でもありません」
第二十章
美雪だけは、自分の感情が分かっていないが、医師と涙には、新の事が好きなのだろうと感じていたのだ。それでも、新の記憶が戻る前から一目惚れしたのではない。恐らく、記憶が戻ってからの態度が男らしい様子なので異性と感じると同時に、恋する思いが膨らんだのだろう。だが、本人も異性と恋する気持ちの区別がついてないはずだ。このような介護が、そろそろ一月が過ぎようとしていたのだ。
「記憶が戻ってからと言うか、最近の新ちゃんは大人しいわね。大好きな裕子さんに似た。美雪がいるのよ。嬉しくないの。それとも、記憶がはっきりしたら似てないのが分かったのかな?」
「そっくりですよ。本当に綺麗です」
「まっま」
美雪は恥ずかしさから、言葉が喉から出てこなかった。
「どれどれ、傷の状態は治っているかな?」
三人の言葉を麻酔の変わりとでも思っているのだろう。会話の内容に動じずに診断を始めた。その容赦のない触り方で、三人は目を瞑るのだが、新は苦痛の悲鳴を上げなかった。
「完治したようだ。だが、今日一日だけは様子を見よう」
「はい」
「美雪さん。もう介護はいいでしょう。今まで手伝って頂いてありがとう」
医師が言うと同時に、新も美雪と涙に頭を下げていた。
「いいえ。ただの話し相手ですから何もしていません」
「涙さんも、ありがとうございます。あっそうそう、涙さん。以前の健康診断の結果がでましたので、教えますね」
「え?」
「あっ、それでしたら、わたくしは外に出ていますね。ほらほら、新さんもですからね」
意味がわからず。涙は呆然としていた。その様子を、女性だからなのか、美雪が感じ取って部屋から出ないと行けないと感じたのだ。
「すみませんね。それと心配しなくても病気って感じではないですよ」
医師が、涙に片目を瞑って合図をした。少しの時間が欲しいと言う意味だった。
「直ぐに終わると思う。先に畑に行っていてくれ」
「安心しました。もしかして、お酒の飲みすぎを注意するのでしょう」
「そのような感じですね」
「分かりました。先に行っていますね」
「すまない」
二人の男女が消えると同時に、長老も隣の部屋から現れた。
「どうかな?」
「長老様も一緒ですか、それで、何の話なのですか?」
「新君のことです」
「そうでしょうね。そうだと思っていました」
「それなら聞きますが、新君は変な行動とかしていませんか」
「行動?」
「そうです。何かを探しているような様子や、何かを探るような問い掛けなどです」
「そのような素振りはないですが、変な様子なのは確かね」
「それは何です?」
「見ていて分かりませんか?」
「我々が居ない時は、脅しているのか?」
「違います。むっむむ、そうですね。今から様子を見に行きませんか?」
「なぜだ?」
「見たら分かると思います。と言うよりも分かっていると思っていました。そのことで、あたしたちも、長老に相談しようと考えていたのですよ」
「それは、何だ?」
「新ちゃんから何も聞いてないけど、それでも、村の一員になるなら問題はないのだけど、もし育った所に戻る考えなら、その前に運命の泉を覗かせてあげて欲しいのです。それで、二人が運命の相手でないのなら良いのですが、もし結ばれるのが運命なら何かしてあげたいの。それでなくては、美雪が、かわいそうよ」
「確かに、好意を示しているのは感じていた。だが、村の様子を探る為の演技だと考えていたのだ。様々な情報を探るのには、恋人を装うのが一番だからな」
「そこまで言うのなら、二人の様子を見に行きましょう」
「・・・・・・・・」
男たちの考えが信じられないと、涙は怒りを爆発させながら部屋から出た。そして、仕方ないと思う様子で、後から二人も出てきた。
「あれを見て」
それでも、涙は我を忘れていなかった。畑の方に指先を示して叫ぶが相手から見えない位置でもあり、涙の叫ぶ声も、二人だけに聞える声量だった。
「・・・・」
三人の視線の先は、まるで、母が歩き始めた子供をはらはらと様子を見ているとも、溺愛する兄が妹を心配するとも思える様子なのだ。それも、美雪が視線を向けてない場合の時だけ態度を変えていたのだ。その時、美雪が雑草の根に足を絡ませて転びになった時だ。
「また、立ち上がった。駆けつける気持ちだったのかな」
「そうね。今転びそうだったからね。駆け寄って抱きとめようとしたのかも、キャキャ」
この話題は、美雪だけが知らないので、クスクスと笑いながら囁いていたのだ。
「えっ、何の話なの?」
二人の視線の先を、美雪が見た。だが、見た先は、新は空を見ていたのだ。それも、大切な昔の思い出なのでしょう。何か知らないが、悲しみとも喜びとも思える複雑な表情を浮かべる。そのような横顔に、美雪には感じたのだ。だが、他の女性たちには、美雪を見ていたのが悟られないように空を見て誤魔化しているとしか思えなかった。
(もう何て表情をするのよ。可愛いって言うか、かっこいいわ。それほどまでの大切な思い出なら聞いてみたいな。わたしだけに教えてくれないかな)
恋をしてしまった心からなのか、それとも、恋をする感覚器官があり、その感覚器官が目の機能を変えたのだろうか、美雪の目に映る全てが理想の姿や景色に見えていた。
「また、立ち上がったと思ったら座るのを繰り返しているの?」
「もう、幼い頃の記憶の時の方が、良かったわね」
「そうね。まつわりついて邪魔だったけど、態度はハッキリとしていたわ」
「何の話しですか?」
「新ちゃんのことよ。記憶が無い時のほうが可愛かったって話をしていたのよ」
「そうですか、今の方が男らしいとい言うか、昔を思い出す様子が色っぽいと思うわ」
「はい、はい。仕事しましょうか」
「そうね」
もう何を言っても無駄だと感じて、皆は仕事を始めた。だが、皆は、チラッと新の様子を見たが、ある意味、美雪を見て心配する態度は子供としか思えなかった。そして、今の様子を見たら、美雪は何て言うだろうと考えていた。そして、クスクスと笑ってしまうのは、美雪のことなのか、新のことなのか、両方なのか、それを考えると笑ってしまうのだ。
「どうしたの?」
と、美雪は問い掛けて、視線の先を見るが、新は空を見ていた。そして、もう少し遠くの長老の庭にある建物の隙間からも見ている者たちも居た。
「今の様子を見ても、同じ様に感じますか?」
「それなら聞くが、隊長として共に働くだけでなく信頼も出来るのか?」
「まあ、仕事が出来るのか、それは分からないけど、人として信頼は出来そうよ」
「分かった。それなら、任せてもいいのか?」
「いいわよ」
「だが、信じないのではないが、皿家の竜太郎に確認してもらう」
「ああっ、人を殺したか目を見れば分かる。その事ですね。構いませんが、それよりも、竜太郎の先生でもある。美雪の両親の方が確実だと思うわ」
「うぅ、まさか、知っていたのか?」
「隊長に就任する時に、もしも部下たちが誤って、二人と係わってしまった場合は、死ぬ気持ちで部下を守れ。そう言われたのです。その後、それとなく聞きました」
「それで、何て紹介する。まさか、殺人が好きな変体なのか調べて欲しいと言うのか?」
「いいえ。正直に言うわよ。美雪に好意を感じている人だってね」
「そんな事を言ったら、俺たちの命がない」
「その様に紹介してもらうわ。もし誤魔化した場合は、私が正直に言うわ」
「俺たちに死ねと言うのか?」
「違うわ。いや、死んで欲しいかも、だって、美雪がかわいそうよ。もう二十五歳なのよ。女の幸せも知らないまま歳だけ取る姿なんて見たくないわ。もう、その歳まで生きて楽しんだのだし、美雪の結婚のために死んでください」
「お前は、何も知らないから言えるのだ。美雪の母は、月の光が無くても暗闇が見える。猫の様な目を持つだけでなく、猫のように無音で近づき、二本の料理包丁で人を殺す。と言われている伝説の人なのだぞ。それだけでなく、近隣諸国では、一個や二個師団でも倒せないと言われ、恐怖から料理包丁の名称が猫目包丁とまで言う国もあるのだ」
「そう」
「そして、父の方も天才的な弓の達人だ。暗闇でも、目標物が見えなくても、全て目標とする物や人を弓矢で当てる事が出来る。神の様な感覚器官を持っていると、そう言われている伝説の人なのだぞ」
「そう」
何一つ表情を変えずに頷いていた。まるで、小学校の時に完全に憶えた九九を、大人になってから聞いているような感じだった。そして、悲しそうに・・・・・・。
「私は、美雪から泣きながら相談されたことがあるの。美雪は、何度か結婚してもいいかなって本当に考えた人がいたらしいの。でもね。相手の親に紹介するって言われて会うと、次の日になると結婚は出来ないって言われるのだって、もっと酷い人だと、美雪の顔を見ただけで泡を吹きながら失神する人もいたらしくて、何故なのだろう。そう言われたのよ」
「そんな事があったのか」
「もしかしたら、殆どの村人は知っているかもしれないわ。そうでなければ、私の班に男性が居ないのに納得がいくわ。そうでしょう。力仕事なのに女性だけなのよ」
「まあ、男が居ないのは違う理由だろう」
「今何て言いました?」
一瞬だからか、それとも見間違いかもしれないが、涙の額に角が現れたように思えた。
「それは・・・だが、先ほどのような事があったのなら考えなければならない。その者たちの家名は分かるか?」
鋭い視線で睨まれて、必死に誤魔化そうとした。
「今まで、美雪と一緒に働いた男たちよ」
「それなら直ぐに分かる。その男たちに言ってやろう。女性を好きになったのなら守ることもできないのかと、それに、両親を説き伏せることもできないのかと、そう言ってやる。だから安心しろ。最低でも謝罪だけでも言わせてやるからな」
二人の男は、この場から立ち去ろうとしていた。
「誤魔化して逃げるのですか!!」
涙は、両手で、二人の男たちの肩を掴んだ。
第二十一章
二人の男達は、涙に肩を掴まれて、そして、離されるまでの一瞬の間だけ過去を思い出された。それは、忘れることもでない子供の時に感じた恐怖だった。
「何をしているの?」
男たちは、成人の儀式が済んで、初めての仕事をするために、ある班に入れられた時だった。まだ、仕事に対しての心積もりがあるはずもなく、遊ぶ事しか考えられなかったのだろう。それで、軽い気持ちで女性に声を掛けたのだ。それも、舞台劇の役者のように膝を付いて、何かの遊びのような感じで、恐らく女性の受けを狙った礼儀らしかった。
「えへへ、班長に自己紹介をしていました」
普通なら謝罪するのだが、肩を掴んだ者は班の者ではなく、まだ成人にもなっていない女の子だったので、悪ふざけをしてしまったのだ。
「私のお姉さんに何をしていたのって聞いたの」
「ですから、自己紹介をしたのですよ。お嬢さん」
「挨拶って、お尻を触る事なの」
「お嬢さんには分からない。大人の挨拶だよ」
「それなら、なぜ、お姉ちゃんは泣いている・・・・・・・・・のですかね」
謝罪すれば許そうとしたのだが、男たちは、嫌らしいにやけた笑みを浮かべた。それで、謝罪する気持ちがないと感じ取って、自然と両腕に力が入ってしまったのだ。
「痛い、痛い。やめてくれ」
二人の男は同時に叫んでいた。
「私は大丈夫だからやめて、ねぇ、美智子(みちこ)ちゃん。もうやめてね」
「でも、女性の尻を触るなんて許せないわ。それもお姉ちゃんのお尻を触ったのよ」
「それでも、人殺しは駄目よ。許してあげなさい」
「人殺しって、まさか、あの、白粉家の美智子なのですか?」
白粉家は村の武術の師と言われる家系だった。その中でも、美智子は十歳で全ての武、剣、槍を極めたのだ。まだ、未成年だから村の警備には配属されてないが、それでも、武、剣、槍の師として教えていたのだ。
「そうよ。だから、死にたくなければ直ぐに謝りなさい」
二人の男たちは、「そうよ」だけを聞くと、泣きながら謝罪したのだ。
「許してください。白粉家の人と分かっていたら声も掛けませんでした」
二人の男たちも、噂は知っていた。だが、想像では、成人のような身長で女性とは思えない逞しい姿と思っていたのだ。それなのに、平均的な十歳よりも小さいのだ。それだけでなく、笑っているような表情を見たら、誰でも分かるはずが無かった。
「それなら、白粉家以外の人たちにはするのね」
「いいえ。誰にもしません。許してください」
美智子の姿が正確に伝わらなかったのは、まだ子供だから大人の醜い姿を見せたくなかったのもあるが、余りにも幼い子供に負けたと言えないのが一番の動機なのかもしれない。
「その気持ちを信じます」
やっと力を抜いてくれた。それで、悲鳴を上げ続けて疲れたのだろう。その場に座り込んだ。そして、美智子の姿をハッキリと見る事ができた。少女の顔は、目を瞑っているのかと思える細い目で、花を見て嬉しそうに満面の笑みを浮かべているのか、そう思える表情だった。だが、この表情を見て、さらに恐怖を感じたのだ。これでは、何時、気分を害したか分からないだけでなく、何時でも殺される心構えをしてなければならないからだ。
「でも、良かったわ。後、もう少し遅ければ目を開いていたわ。そうなったら誰にも止められなかったわよ」
「ひっひっ」
自分達が死ぬかもしれない所だったと言われると、悲鳴を上げて失神した。そして、昔の記憶が途切れたからだろうか、現実に引き戻された。
「お前には、分からないのだ。あの人は、魔性の女だ。笑みを浮かべていても、何時、気持ちが変わって、相手の首の骨を折るかもしれない女なのだぞ」
「そう、逃げるのね。いいわよ。今言ったことを伝えるわ」
「待て、それを言った時点で、俺の命が消える」
「それなら、一緒に、新ちゃんを紹介するのに行ってくれるわね」
「うっう」
もう脅迫される問題が多すぎて拒否する事ができなかった。
「それなら、何も問題はないわね。今日は仕事を止めて、直ぐに美雪の家に行きましょう」
「新君の心構えを聞いてからの方がいいのでないか?」
「長老たちと違って大丈夫よ。それなら、少し待っていてって言いたけど、逃げそうだから一緒に来てください」
「・・・・・・・」
まるで、二人の男を新米の部下のような接し方だったが、弱みがあるためにしぶしぶと従った。涙はすたすたと歩きだすが、二人の男が後から付いてきているか、それも確かめもせずに、新の所に向かった。
「ねね、聞きたい事があるのだけど、いいかな?」
「構いませんよ」
「それでね。このまま村で暮らすの?」
「そう考えているのですけど、駄目でしょうか?」
「駄目ってことはないわよ」
「それなら、良かった。もしも駄目って言われたら、どうしようかと考えていました」
「何で?」
「記憶がないから行く当てもないからです」
「そうだったわね。ねね」
「何ですか?」
「新ちゃんって、美雪さんのことが好きでしょう」
「えっ、何で分かったのですか?」
「それは・・・・・・心が読めるのよ」
(嘘でしょう。あの態度や仕草は無意識でしているの)
「それは、本当なのですか、ねね、僕にもできますか?」
(信じたの?)
「それは、厳しい修行をして神様に選ばれたらできるの」
新は、悲しそうな表情を浮かべた。それを、慰めようと頭を撫でながら・・・・・。
「それでね。村に住むとしても、美雪さんと結婚するとしても、美雪さんの両親の許可がいるの。勿論、挨拶に行くわよね」
「いいよ。でも、なぜ、村に住むとしても、美雪さんの両親の許可がいるのかな?」
「それは、美雪さんに、振られて、いや、結ばれなくても村で暮らすのでしょう」
「はい」
「親ってね。娘が、男を振った後が怖いの。逆恨みされるのでないかってね」
「僕は、そんなことをしないよ」
「そうね。でも、親が、それを自分の目で確かめたいのよ」
「そう」
「でもね。もし、村に住むのを許してくれた時は、良い所を案内させてあげるわ」
「待て。話がある。向こうまで付き合え」
「何なのよ」
長老と医師は、涙の肩を叩いて話を中断させた。そして、指先で数メートル先を指した。
「新ちゃん。少し待っていてね」
「いいですよ」
男女三人が向かう先を、新は見ていたが話し声は届かない距離だった。
「何です。長老様」
「あのな、運命の泉を調べるための間者かもしれないのだぞ。それを、見せるとは何を考えているのだ」
「だって、村に住むのが許されたなら、誰でも直ぐに行くと思うわよ」
「それは、そうだが、それでも、少しの時間でも隠していたいのだ」
「でも、長老様。もう、何百年も運命の相手を映さない泉なのですよ。まあ、それでも、利用はされているわ。それでも、隠す意味があるのですか」
「そうだ。映す、映さないでないのだ。その泉だと、それだけで価値があるのだ」
長老が言っても、涙が言ったことも確かな事だった。泉が本当に運命の相手を映すのが本当だったか、記録が消えるほどの時の流れが過ぎている。だが、それでも、相手の想いを確かめるには利用されていたのだ。それは、涙が言った。ある女性の場合、自分の事が本当に好きなら泉を見られますね。そう言うのだ。その後なら身体を許しても良いと、それでも、もし、映らなくても、まだ、恋愛の途中だから見えないのね。と言えるが、もしも、自分以外の女性の姿が見えたら嘘になる。そうなると、発情した獣と思われて、誰にも相手にされなくなり、村にも居られなくなるからだ。だから、結婚が決ってから本当の運命の人なのかと確認するのが普通だった。勿論、結ばれたのだから映るはずがない。
「分かりました。泉の件は、美雪に任せます。それでいいですね」
「仕方がない」
「それでは、新の所に戻って話を続けてきます」
「我々は、美雪に理由を知らせて来るとしよう」
「あっ、美雪の想いを聞いては駄目よ。新のことは話してもいいけどね。出来れば、新が村で生活ができるか、その許しを貰いに行くって話がいいかも」
「分かった。分かった。女性とは複雑だな」
「今頃になって気が付いたの?」
「まあ、美雪と新を連れて行けば、分かると思うのだが・・・あの二人に会うのが怖い」
そして、十分後、長老と医師、涙と新とで美雪の家に、五人で向かった。
「美雪さんの家に向かっているのだよね」
新は不審を感じた。それは当然かもしれない。村の奥に、その奥へと行くからだ。それでも、進み続けて民家も無くなり、畑や田んぼも少なくなって来た。だが、それでも、まだ進むので問い掛けたのだ。
「そうですよ」
と、美雪は答えてくれたが、もう周りは未開の森のような状況で、歩いている道も、もしかしたら、獣道なのかと考えてしまうほどまで楽な道ではないからだ。
「あっ」
新が突然に驚きの悲鳴を上げた。突然に木々が消えて眩しくなったのもあるが、無数の田んぼかと思える物が、何個もあったからだ。だが、近寄ってみると、生け簀なのに気が付くと同時に、幻の岩魚の生け簀だと分かり、また驚くのだった。そして、何個あるのかと数えようとしたのでないが、数百メートル先に家らしき物があり。二人の男女も視界の中に入ったのだ。何かしているので目を凝らしてみると、生け簀の手入れをしていた。
「お母さん」
二人の男女に声が届くほどまで近づくと、美雪が声を上げながら駆け出した。その声に気が付いたのか、それとも、四人の男女に気が付いたから視線を向けたとも思えた。なぜかと言いと、父親が無表情で睨みつけていると感じたからだ。それに、長老と医師が答えるように顔色を青ざめながら何度も頭を下げていた。だが、涙は満面の笑みを浮かべながら手を振るのだから、父親は普段から無表情なのかとも思えた。それとは、逆に、母親の方は目が無いのか、それとも盲目なので目を瞑っているかと思えるほどの満面の笑みだった。だが、二親は一瞬だけ顔色を変えたように思えたのは、新を見たからかもしれない。
第二十二章
「こんにちは、久しぶりですね。遊びに来てくれたの。それとも、何か御用なのですか?」
「それは・・・・」
「・・・・・」
(神よ。目を開かせないでください)
二人の男は、心底から祈った。そして、大きく深呼吸した後・・・・・・・。
「この少年が村で暮らせるか、その審査をお願いに来たのです」
「そうなの。もしかして噂の記憶喪失の少年かな?」
「はい」
「それで、医師殿」
「はっ・・・はい。何でしょうか?」
長老に全てを任せて他人事のような態度をしていたが、直接に声を掛けられるとは思わなかったのだろう。蛇に睨まれた蛙のように膠着していた。
「少年は、記憶は戻ったの?」
医師は、今までのことを話している途中に、もう一人の親が不審を感じたのだろう。仕事の手を休めて近づいて来た。
「そう、完全に戻ったのでないのね。それでは帰りたくても無理ね。仕方が無いから村に住むのは許可を出してもいいけど、それは少年の意志よね」
「まあ、何の許可かしらないが、妻が良いと言うなら何も問題は無い。だが、なぜ、美雪と少年が一緒に来るのだ。それには、何か意味があるのか?」
妻が思案して結論を出した答えには無表情で承諾したのだが、娘の父親として何か不快な感情を感じたのだろう。人を脅すような低い声で問い掛けた。
「そっ・・・・それは、長老に聞いた方が分かりやすいと思います」
「えっあっ」
長老は、医師に文句でも言う考えだったが・・・・。
「長老殿。何か意味があるのか?」
と、言われて何も言えなかった。
「駄目ね」
(それほどまで怖いのね。仕方が無いわ。それなら私が言うわ)
「あの。新ちゃんは、美雪に好意があるみたいなの」
まるで、飴玉を一個ください。と言うような無邪気な感じで言ったのだった。
「まさか、美雪も・・・」
「それは、後で話しするとして、新ちゃんって人を殺した事があるように思えますか?」
「えっ」
新は意味が分からず。驚いた。
「それは無いだろう。もし記憶喪失が本当だったとしても、人を殺した者なら普通とは違う感覚が感じられる。それがないのだから心配しなくても良いだろう」
「それと、間者と思えますか?」
「それも、考えすぎだろう。安心しても良い。もし間者なら一月も村にいるはずがない。それより、美雪のことなのだが・・・・・」
「長老様。これなら、何も問題はありませんね」
涙は、故意にではないだろうが、美雪の父の問い掛けを無視した。長老と医師は身構えながら、涙の問い掛けに答えていたが、二度も問い掛けを無視したのだから、自分たちに八つ当たり的な報復をされるのは間違いない。そう思案すると即座に・・・・・・・。
「長老職の仕事が残っていますので、また改めて、今回の礼をしに参ります」
「自分も、医師としての仕事がありますので、今日は残念ですが失礼します」
二人は誰が見ても残念と思ってない表情を表していた。
「ほうぉ。帰るのか、ほうほう。なぜか嬉しそうだな」
夫が困っているので変わりに聞きに来た。
「ええっ、今日は仕事をしない約束でしょう」
「我々は仕事をするが、涙さんたちは休んで構わない。ゆっくりと楽しんでくれ」
「何か話が噛み合ってないみたいね」
「いや、大丈夫です。何も問題はありません」
「何か、意地でも帰りたいみたいね」
「ヒッ」
長老たちの目には、魔性の女の細い目が少し開いたように感じたのだ。
「い、いいえ。あの、その」
恐怖の視線から逃げるために目線を逸らすと、池の魚が跳ねた。それを見て・・・・・・。
「い、い、岩魚が食べたくなりました」
「じ、自分も食べたいです」
「そうでしょう。誰でも岩魚を見ると、皆が同じ事を言うのですよ」
開きかけた目が閉じたと言うよりも、さらに細くして喜んでいた。
「俺が獲って来よう」
「分かったわ。先に行って用意していますね」
「そんなに手間が掛かる料理でなくて、串焼きで構わないのですが・・・・・」
「そうですね」
「今何て言いましたの?」
「その、ですね」
「まさか、聞き間違いだと思って聞きますが、岩魚のコース料理を作ってあげようと思っているのに、まさか、串焼きの一匹しか食べたくない。そんなこと言っていませんわよね」
「はい」
長老は、自分に関係する話題から逸れてくれと神に祈っていたのだが・・・・・・。
「はい。そうです。何かの聞き間違いだと思います。長老は知りませんが、自分は、そんな勿体無いことを言うはずがありません」
「な、な、何を言うのだ。わしでも、そのようなことを言うはずがないだろう」
「二人で、それほどまで否定するのなら聞き間違いなのだろう。済まない。忘れてくれ」
「でも、先ほど長老たちは・・・・・」
涙が、話を蒸し返そうとしたので、長老と医師は「殺すぞ」と、誰にでもわかる殺気を放つ視線を送って、その話題を持ち出すのを止めさせた。
と、などの話題をしている時、偶然なのか、外で話題が終わるのを待っていたかのように、美雪の父親が扉を開けて入って来た。
「特に美味しいと思える物を捕まえてきたぞ」
「ありがとう。そうそう、串焼きが一番に食べたいみたいなの。五人前だけ作ってよ。残りは、今から調理するから台所に置いといてね」
「わかった」
「あっ、少し時間がかかるから作るのを見てきていいわよ。興味があるのでしょう」
「そうするか」
長老が、視線で医師に何かを伝えようとした時だった。
「でもね。突然に急用ができたって帰ったら、後で殺しに行くからね」
テーブルに皿を並べながら、冗談を言う感じで思いを伝えた。だが、内容が内容なので、冗談なのだろう。と、皆は、美雪に問い掛けるような視線を向けた。
「大丈夫よ。料理を残さなければ何もしないからね」
親と同じ事を言っているが、娘なので冗談と思うしかなかった。それでも、もしもの場合があるので、食事は残さずに食べなければならない。そう心に誓うしかなかった。
「・・・・・・」
「お父さんが行っちゃったわ。ねね、早く行こう」
「そうだな」
「・・・・・」
まだ魔性の女よりは、無言と無音で近づいて殺すだけの。死に神のような男の方が精神的に落ち着くと感じたのだろう。素直に、美雪の後を付いて行った。そして、驚くことに作り方を見せるための準備と、人数分の椅子を用意して待っていたのだ。
「それでは、岩魚の串焼きの作り方を教える」
この男は強面の見た目とは違って、信じられない程まで細かく丁寧に教えるのだ。それで、誰もが子供のように夢中になって見続けてしまっていた。
「もう食べ終えたの」
「まだだ。もう少し焼き上がるまでには時間がかかる」
「それは、良かったわ。もう少しかかりそうなのよ。待っていてね」
突然に現れたと思ったら、一方的に話して、勝手に納得して台所に戻って行った。
「お父さん。もういい?」
「まだだ」
娘に言われて否定するのだが、二分くらい過ぎると・・・。
「最適な焼き上がりだ」
美雪は自分の感が間違いないとでも思っているのだろう。不満そうに父を見るが、それでも、五個を同時に焼き上げるのだから腕も感も確かだと思える。それが、証拠のように五人の男女の顔の表情を見て、美雪も納得していた。
「家の人の焼き方は絶妙でしょう」
「・・・・」
夢中に食べているので、皆は頷くだけだった。
「さあ、今度はあたしの番よ。どうぞ入ってください」
「・・・・・・」
長老と医師は、死ぬ覚悟と言うか死んでいるかのように無言だった。もしかすると、死んでからの閻魔大王の裁判と同じ気持ち、いや、それ以上の恐怖を感じているようだ。それでも、テーブルの上の料理を見ると、気持ちが和んだようだった。それから、椅子に座って楽しい食事会になるのだが、楽しんでいるのは、女性二人と男性一人だった。残りの長老と医師は、魔性の女に脅されながら、新のことで伝えたくなかったことの全てを話すことになったのだ。
「そうなの」
全てを聞き終わると、二親の片方は驚き、もう片方は怒りを表していた。
「むむむむむ」
「駄目よ。気持ちを抑えて・・・・」
自分の連れ合いを背中から抑えているが、我慢の限界を超えようとしている時だった。
「もう駄目だわ。美雪。皆を連れて山から下りなさい」
「えっ」
美雪が驚くのは当然だった。普段は、母の我が侭で何かを頼まれても、何かされても怒らなかった。そんな父親が、男の友達(恋人?)を連れてきたので、我を忘れて暴れる寸前の状態だったのだ。確かに、家族以外の人々からは恐怖を感じる者が居たが、それでも、娘の前で、二親たちは喧嘩もした事がなかったのだ。
「早くして、もう限界なのよ。早く逃げなさい」
「でも・・・・」
「長老の家で待っていなさい。後で迎に行くわ。だから、早く行くの」
「はい」
今まで一度も見た事のない。二親の変な様子と、長老と医師の血の気のない表情だけでなく、涙と新が怯える姿を見ると、何が起きたのか想像ができない。それでも、母の叫び声に従って、この場から立ち去る以外の考えしか思いつかなかった。
第二十三章
五人の男女は斜面を駆け下りていた。行く時は、何度か休みを取りながら向かっていたのだが、なぜか休もうとすると、獣のような雄叫びが聞えるので恐怖のために駆け続けていたのだ。恐らくだが、駆けている時は意識が走る事に集中しているから聞えないのかもしれない。そして、一度の休憩もとらずに長老宅に着いた時に感じるのだ。死ぬ気なら何でもできるのだ。
「わたしの両親のことで、本当に済みませんでした」
「いいのだ。想像はしていたからな。何も気にするな」
「そうですよ。まだ魔性の女が本性を表すよりはましですから、何も問題はありません」
何度も、長老と医師に頭を下げていたが、涙と新が無言で俯いていた。
「ガチガチガチガチ」
「うぁうぁうぁうぁ」
そして、心配だから近づいて様子を見ようとしたのだが、今まで生きてきて始めて聞く音を聞いた。先に、新の肩を叩いたが反応がなかったので、身体の状態と何の音なのか確認するために、音がする所に顔を近づけた。それは、恐怖のために歯の根が合わない状態だったが、美雪には理由が分からなかった。それでも意識があるのが分かると、安心したのではないが、それよりも、涙の正気とは思えない声が止まないので向かうしかなかった。
「大丈夫?」
「安心しなさい。大丈夫ではないが、二人は心底からの恐怖を感じたのだ。それだから、脳内と身体の機能から恐怖を忘れられる時間が必要なのだ」
医師は、二人の容態を確かめると言うよりも、子供の頃を思い出して納得している感じだった。そして、長老も・・・・。
「それは、本当だ。わしの場合は、半日も、二人と同じ状態だったらしい」
「半日も?」
「このままではかわいそうだ。家の中で寝かせよう」
長老は、美雪の問い掛けの返答には頷くだけで答えてから、医師に片手で合図を送ったのだ。その意味が分かり、涙と新を家の中に運ぶのを手伝った。そして、子供の時の記憶だったはず。それなのに正確な記憶だった。二人は半日で目を覚ました。それよりも、長老宅に来ると言ったはずの、美雪の両親は、この時間になっても現れなかった。
「今日は泊まって行きなさい」
「それでは、お言葉に甘えて泊まらせて頂きます」
「自分の家のように寛いで良いのだからな」
「はい」
普段よりも丁寧な態度は別に長老宅に泊まるからではない。涙と新が正気に戻ったのに怯えるような態度だけでなく、特に新がよそよそしい態度なので悲しい気持ちが心を満たし泣きたい気持ちだったからだ。それでも、新は、美雪に好意を感じているのだろう。美雪の視線を感じなくなると、自分の意思でなくて自然と視線は美雪に向くのだった。
「ぶっ」
涙が二人の様子を見て笑ってしまった。当然、長老も医師も気が付いていたが、長く生きてきたことで、気持ちを抑えることができたのだ。
「そうだった。新君。確かめたいことがあったのだ」
「なんでしょうか?」
「この村で暮らすなら皆と同じ様に義務を果たさなければならない」
「構いません」
「何か得意などはあるか?」
「得意?」
「そうだ。今まで何の仕事をしていたか聞きたいが、記憶がないのだから分からないだろう。それで、何か得意があるならば、いや、興味でも構わない。それを仕事にしようと考えていたのだ。何かあるかな?」
「うぅむう・・・・・・うぅうう」
新は真剣に悩んでいた。
「思いつかないか」
「はい。それでしたら長老が決めてください。僕は何でもします」
「そうか・・・・・・・」
一瞬だけ、涙に視線を向けた。その意味が分かったのだろう。
「それなら、わたくしの班に入らない。男が居なくて困っていたのよ」
「はい。入ります。よろしくお願いします」
「本採用ではない。何かの支障があった場合は、直ぐに変更する考えはある」
「分かりました」
「まあ、それはありがたいですが、大丈夫ではないですかね」
「がんばります」
「それでは、担当は、美雪ちゃんにしてもらいましょうかね」
「おぅ、美雪さん。よろしくお願いします」
「ねえ、できそう?」
「班長が、そう言うなら頑張ってみます」
上司に対して最高の礼で承諾すると伝えた。それも真剣な表情なのは部下ができたからではない。それなら与えられた任務が厳しいからでもなかった。それは、新に対しての照れ隠しと思われる態度としか思えなかったのだが、この思いも表情の変化も長い付き合いだから分かることなので、新に分かるはずがない。そして、当然だが、知らせることはしなかった。いつ記憶が戻って村から出て行くか分からないのもあるが、先に男から一言でも言ってもらうのが、女性としては最高の幸せだからだった。そして、そろそろ、夕飯ができた。そう言われそうな時に、扉を叩く音が響いた。
「長老、直ぐに出てきなさい。重大な話があるのです」
「ま、魔性の女が来た。こ、殺しに来たのか?」
脅迫するような口調で言われたら、誰も会うはずもない。だが、娘から思えば、安心できる喜びまで感じる言葉にしか思えなかった。
「お母さん。お父さんも来たの?」
「そうよ。だから直ぐに開けなさい」
美雪は玄関の扉を開けようと立ち上がったが、長老と医師の開けないでくれと感じる視線を見ると、どうするか迷っていた。
「あらあら、ひさしぶりね」
居間の雰囲気などを無視して、長老の連れ合いが玄関を開けた。
「先輩。ひさしぶりです。お元気でしたか?」
「元気よ。でも、もう先輩って言われる歳ではないわ。それで何の用なの?」
「歳は関係ないと思います。先輩は先輩です。それで、今回は娘のことで参りました」
「もしかして、美雪ちゃん?」
「そうです」
「嫌だわ。そうだったの。もう、家の人は何も言ってくれなくて知らなかったわ」
「お前は、知り合いだったのか?」
玄関での会話の雰囲気が穏やかなのを感じ取って、恐る恐ると玄関に現れた。
「そうです。初めての班に配属された。その時の班長でした」
「懐かしいわね。あっ、そうそう、昔を懐かしんでいる場合ではないわ。何か用事があったのでしょう。どうぞ、中に入って」
「ですが、わたくし達は、長老に嫌われている見たいなので、その・・・・」
「えっ、そうなの?」
普段は物静かで、長老の我が侭も何も言わずに聞いている。そんな連れ合いが、信じられないほどの殺気を放ったのだ。これを見て、魔性の女を従えた。その班長なのを少し納得した。と、同時に、これからは少し態度を改めた方がいいと考えるのだった。
「違うのだ。村の客人に関係することなので慎重な態度をしていただけなのだ」
「そうでしたか、娘の心配をしてくれていたのですね。本当に済みませんでした」
「それでしたら、家に上がってもらっても構いませんね」
「当然だ」
虚勢を張ったが、連れ合いには助けを求めるように視線を送った。
「はっあぁ。わたくしも相談を聞いてあげるわ。子供のことなど男には分からないでしょう。特に、家の人は子供を育てたこともないのだしね」
「本当ですか?」
「元部下ですもの本当よ」
三割は本心を言ったが、残りの七割は連れ合いを助ける気持ちだった。
「その前に、夕食を食べてからにしましょう。美智子ちゃんもまだなのでしょう」
「そうだけど、美智子ちゃんって言う。それはやめて欲しいです」
「そう、でも、わたくしの気持ちでは、まだ部下のままよ」
「そうですね。当時もいろいろと親身になって相談に乗ってくれましたわね。部下と思われた方が話し易いかもしれませんね。改めて本当に宜しくお願いします」
本当は、昔の話をしながら楽しく話をしたかったが、連れ合いが縋る眼で見られると、今のように言うしかなかったのだ。
「それでしたら、当時の部下のように料理を作ります」
「それはいいのよ。出来上がっているから運ぶのを手伝ってくれるだけでいいわ」
「分かりました」
「それなら・・」
「お母さん」
「涙さんも、美雪も座っていていいわ」
この言葉の後、無言で料理を運び、他の者も並べられるのを見ていた。
「それでは食べましょうかね」
並べ終わると、普段なら長老が言うのだが、無言で連れ合いの郁江(いくえ)に視線を向けるだけで何も言わなかった。それで、仕方がなく視線の理由の通りに食事の挨拶を言った。それから、皆が無言で食べていたのだが、美雪の父だけは怒りを抑えていた。長老は極度の緊張に耐えられなくなった。
「この場に居る者は、様々な理由があるだろう。だが、全ては、新の記憶喪失に関係があるはずだ。それで、今直ぐに答えを出すのでなく、一年だけ待ってみたいと思うのだ。その間に、記憶が戻るのならば、帰る場所に戻るだろうし、もしも好きな者ができた場合でも、直ぐに結論が出せるだろう。それに、一年も共に過ごせば性格などもわかるはずだ。それだけでなく、仕事も憶えることもできるだろう。そうなれば、自分以外の者も養える経済力も持てるはずだ。この提案では納得ができないだろうか?」
何一つとして、誰の、問題の理由を話さないだけでなく、誰の提案を聞かなかったが、これ以上の提案はなかった。と、言うか、皆の前で言える内容ではなかったのだ。
「それでは、わたくしは、そろそろ帰ります」
この中で、新と関係がない。と言うか、仕事の部下と上司としてだけの繋がりしかないので、用件が終わったと感じたのだろう。食事を食べ終わると席を立ったのだ。
「遅くまで済まなかった。明日から頼む」
長老が皆の代表のように言うと、他の者も手を振って見送った。だが・・・・・。
「分かりました。それでは、新ちゃん。明日から仕事を頑張りましょうね」
「はい。よろしくお願いします」
新だけは、立ち上がり挨拶を返したのだ。
「美雪。また明日ね。おやすみ」
「はい。班長さん。おやすみなさい」
第二十四章
この場の者は、それぞれに、皆に挨拶するのだった。
「それでは、あたし達も帰りましょうかね」
「・・・・・・・・・」
「あっそうそう、美雪。井戸の所に岩魚を持ってきたのよ。それを捌いてきてくれる」
「はい」
「外は、暗いと思うから灯りを持って行きなさい」
「月明かりだけで捌くのは慣れていますから大丈夫ですよ」
夫が何か言いたそうな様子だったが、娘には聞いて欲しくないと感じ取った。それで、自分で捌く予定だったのだが、娘に部屋から出る用事を与えた。そして、外に出ると・・。
「何か言うことがあるのでしょう」
「そうだ。確か、新と言ったな」
「はい」
「娘の確認は取ってないが、もしもだが、娘に好意を感じているのなら、泉を見に行く気持ちはあるのか、もしあるとしても、娘以外の顔が映った場合は、俺はお前を殺すぞ」
「ひっ」
「だが、一年は友人としてなら付き合うのは許す。それでも、最大の希望は記憶が戻って里から出て行ってくれるのが嬉しい。それだけは、心に留めておいてくれ」
「はい」
「それと、もし他の女性が好きになったのなら喜んで手助けしてやるぞ」
「はい」
としか、言葉が思いつかなかった。
「あたしからもあるわ。美雪が幸せならいいの。もしもね。美雪が、新君を好きになったのなら喜んで協力するわ。家の人と喧嘩してでもね。でも、美雪を泣かしたら殺すわ」
「ひっ」
「返事は?」
「分かりました」
「あっ、もう一つあったわ。もしもね。記憶が戻って奥さんが居たのを思い出したのならね。あたしに言って、美雪を説得するからね。その時の涙なら許すわ」
「分かりました。そうですね。僕が結婚している可能性もありますからね。その時は必ず知らせます。信じてください」
「分かったわ」
聞き耳でも立てたいたのか、それとも偶然なのだろうか、話が丁度終わると、美雪が帰ってきたのだ。
「お母さん。岩魚の捌きが終わったわよ」
「そう。終わったの。それなら帰りましょうかね」
「これ、どうするの?」
美雪は、捌いた数匹の岩魚を、誰に渡すか迷っていた。
「班長。迷惑を掛けた。そのお詫びとして受け取ってください」
「気にしなくていいのに、でも、美味しそうだから頂くわね」
「本当に美味しいわよ」
桶に入っている魚を、そのまま手渡した。
「そうでしょうね。新ちゃんと一緒に頂くわね」
「はい。食べてみてください。桶は、明日でも取りに来ます」
「班長。今度はゆっくり遊びにきます」
「そう、楽しみしていますわね」
美雪の家族は、長老宅から自宅に向かった。だが、男親だけは、不機嫌そうに先頭を歩いていた。
「お父さん。まだ、怒っているの?」
「そうみたいね」
「お父さんって、本当に、男の人を連れてくると怒るわね」
「心配なのよ」
「そう、でも、久しぶりに怒った姿を見たわ」
「そうね」
「もう怒った姿は見られないと思っていたの」
「なんで」
「お父さんが怒る時って、私が、男の友達を連れてきた時だけでしょう」
「そうかな?」
「私の記憶では、そうよ」
「それで、なぜ、見られないって思ったの?」
「お母さん。本当に分からないの?」
「分からないわ」
「村で、私と歳が近いって言うか、独身とか既婚に関係なく、全ての成人男性は近寄って来ないだけでなくて、偶然に会ったとしても駆け出して逃げ出すのよ」
「何で、そんなに嫌われているのよ。何かしたの?」
「最期に友達を家に連れてきたのが原因ね」
「あっ、確か、健二君だったわね。憶えているわ」
「本当に健二君は、岩魚釣りの極意を聞きに来たのに、何を考えていたのか、お父さんは、身体を鍛えてやるって武術を教えていたけど、失神させるだけでなく、片手と片足を骨折させたからよ」
「そうだったわね。初めは釣りの師匠と言っていたけど、最後は、人殺しとか騒いで逃げって言ったのを憶えているわ。でも、今考えても、骨折していたのに山を下りられたのが不思議に思っていたのよ」
「それは、死ぬ気持ちを味わったからだと思うわ」
「まあ、死ぬ気持ちなら何でもできるわね」
「その健二君が、村中に広めたのよ。美雪と係わると殺されるってね」
「そうだったの」
「それを証明するように次の日から、私の農作業の班から男性が消えたわ」
「そんな事があったの。そうだったの」
「もう気にしてないからいいけどね」
「ねぇ、美雪」
「なに、お母さん」
「その、あの、あっ、新ちゃん。明日来るといいね」
娘の話を聞いて驚くと同時に、新に言い過ぎたかと感じたのだ。あの話のままだと、恐怖を感じて、他の男と同じに来なくなると感じたのだ。
「二、三日は来ると思うけど、噂を知ったら来なくなると思うわ」
「そう思うのね」
(一言でも言って来ようかしら、でも、これ以上なにかを言ったら村から逃げる可能性があるわね。なら、二、三日は様子を見てから決めた方がいいかもね)
「お母さん?」
「何、どうしたの?」
娘に何度も声を掛けられていた。だが、思案していたので娘の声が耳に入らなかったのだ。それでも、思案が終わると、やっと耳に言葉が入ったようだった。
「遅いよ。もう、お父さんに置いて行かれるよ」
「あっ、そうねぇ。急ぎましょう」
二人の前方に歩く父は、大声を上げても届かない程の距離まで広がった。
「ねえ、お父さん。何を怒っているの」
「分からないわ」
「でも、納得したから一緒に来たのでしょう」
「美雪が心配だから怒りを抑えたのかな?」
気が付かない振りをしているが、可なり怒っているのは確かだった。それは、当然かもしれない。娘に近寄る虫を追い払うつもりで来たのに、手助けすると言えば怒るのは当然だろう。だが、怒鳴りたいのだが、これ以上、怒りを表したら娘に嫌われると、考えたのだ。それでも、自分の連れ合いの表情や些細な言葉でも我慢できなくなるので、無視をしていたいのだ。恐らく、早く家に帰って寝る気持ちなのだろう。
「ねえ、でも何を怒っているの?」
「新ちゃんを村の一員にしたくないらしいわ」
(本当のことを言うべきなのかな、まあ、でも嘘ではないわよね)
「なぜなの?」
「分からないわよ」
(それは、あなたが新を好きだと思っているからでしょうね)
「もう、お父さんに聞いてくる」
「ちょっと待ちなさい」
美雪は即座に駆け出した。それを止めようと叫ぶが、母の言葉など今の状態では聞えるはずがなかった。
「もう怒りが収まったのに、そんな事を言ったら、また暴れるわよ」
そう呟いた。だが、暴れたら抑えるのは自分にしかできないのが分かっていたので追いかけようとしたのだが、連れ合いが立ち眩みのように倒れたのが見えたのだ。
「あなた?」
夫を心の底から愛しているからできたのだろう。まるで、瞬間移動をしたかのような勢いで、連れ合いの元に駆けつけていた。
「大丈夫?」
息をしているが、顔中を真っ赤にして唸っていた。
「お父さん・・・・・・」
「何があったの。何を言ったの」
「新さんを、村に住めるようにしてって言っただけなのに・・・・・・」
「ああっ、そう言ったのね」
(あらら、かわいそうに、あまりの怒りのために限界を超えたのね)
「私、先生を呼んでくるわ」
「呼ばなくてもいいわ。それより、先に家に帰って床の用意をしてきて」
「大丈夫なの?」
「少し休めば起きると思うわ。今日はいろいろあったから疲れたのよ。だから、少しでも早く休ませてあげたいの」
「はい。それと、湯も沸かしておくわね」
「ありがとう」
二人を残して家に向かったが、少し歩く毎に後ろ振り向いていた。その娘の姿を見て手を振って急ぎなさいと伝えていた。それでも心配なのだろうが、父の意識が戻った姿を見て安心したのだろう。戻ろうとしたが、母の指示の通りに急いで家に向かったのだ。
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「良かったわ。それでね。美雪は、自分でも新君の事が好きなのか分からないのよ。だから、一年は何もできないのだし少し様子をみましょうよ。あまり騒ぐと、恋を感じる心の
炎が燃え上がるわよ。そうなったら何を言っても無駄になると思うわ」
「そうだな」
寂しそうに頷くと、妻の肩を借りながら家に向かって歩き出した。
第二十五章
娘が床の用意が終わった時に、二親が戻ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「何かあったの?」
母の言う通りに元気なのは分かるが、なぜか、悲しそうな表情を浮かべていたのだ。
「何もないわよ。それよりも、明日も仕事なのでしょう。早く寝ることにしなさい」
「・・・・・でも・・・・」
「村の義務なのよ。寝不足で仕事に支障があったらどうするの。早く寝なさい」
「はい」
美雪は不満だったが、仕事に支障があると言われては寝るしかなかった。寝られないと思ったのだが、様々なことがあったのだ。神経が疲れていたのだろう。横になると直ぐに夢の中に入っていた。だが、楽しい夢ではなかった。それは、今まで係わった男たちが恐怖を浮かべて離れていく場面だった。それは、夢と言うよりも今までの記憶だった。なぜ、今まで忘れていたはずなのに夢に見たのは、もしかすると、新も同じ態度をする。そう心の隅で考えていたのか、それとも、自分では気が付いてないが、新の事が好きになり始めているのだから、昔と同じになるのでないかと、恐怖から夢を見たのかもしれない。
「美雪。朝よ。早く起きなさい」
「えっ?」
まだ、夢と現実の区別が付かないのだろう。
「何を泣いているの?」
「えっ?」
意味が分からず。指を目元に触れると涙が溢れ出ているのに気が付くのだった。
「怖い夢でもみたのね。何の夢だったの?」
「憶えていないの」
「そう。ご飯は出来ているけど、今日も食べていかないの?」
「もう介護は終わって、今日から普通の仕事だから食べて行きます」
「そう。それなら早く起きなくてもよかったのね。ごめんなさいね」
「いいの。そのお陰で、久しぶりに家族三人で食べられるから嬉しいの」
「そうね。一緒に食べましょう。食事の用意をしておくから洗顔をしてきなさいな。その泣き顔を見たらお父さんが心配するわ」
「はい。洗ってくる」
洗顔などを済ませて着替えをしていると、母が現れた。朝食の用意が終わったと言われると思ったが違っていたのだ。今までは仕事優先の男性の仕事着だったが、驚くことに母は女性の仕事着を持ってきたのだ。別に、畑仕事に不似合いではないが、少し女性的な色合いで、小花の模様の服だった。そして、居間に行くと。
「可愛い服だな。似合っているぞ。もしかしたら村の独身男性から声を掛けられるかもしれないぞ。それも大勢からだと思うから選ぶのが大変かもしれないな」
「そんなことはありえないわ。ただの女性の仕事着なのよ」
二人の様子を見ながら朝食の用意をしていた。
「馬鹿なことを言っていないで早く食べなさい」
「はい。頂きます」
普段は、褒めることも冗談を言う父でないのだが、今朝は酒でも飲んで酔っているのかと思うほど様子が変だった。そのために、久しぶりの家族の朝食だったのだが、一人で急いで食べ終わると、逃げるように家から出ていた。
「本当に似合っているかな?」
普段なら鹿のように軽やかに山から下りて平地でも早歩きするのだが、衣服に気持ちが向き素人が山から下りる様だった。それだけなく、平地でも誰かに見られているのではないか、そして、似合わないと笑われていると思ってしまうのだろう。辺りをキョロキョロとして歩くので、長老宅に着くのは予定よりも時間が掛かってしまった。それでも遅刻かと思ったのだが、まだ、班長だけしか来ていなかった。
「おはよう御座います」
「美雪なの?」
「はい」
美雪は、涙が驚いているので、自分の服が似合わないと思われていると感じて、恥ずかしそうに俯くだけだった。
「まあ、可愛いわよ」
「本当ですか?」
「皆が来ても同じ事を言うと思うわ。それだけでなく、可愛いって抱きしめられるかもね」
「もう班長さんったら」
「そうよね。女性では意味がないわよね。男の人に抱きしめられないと駄目ね」
「もう本当に怒りますよ」
そう言うが、笑みを浮かべたままなので喜んでいるようだった。
「本当に似合うわよ」
などと、ふざけている時、女性が興奮しているような悲鳴が聞え、その声が聞こえる方向に視線を向けた。と同時に、抱きつかれたのだ。
「可愛いわよ」
「留美。もう驚くでしょう」
首に巻き付いている腕を解いていた。
「だって、可愛かったのですもの」
「うんうん」
「もしかして・・・誰か好きな人ができたからなの?」
「・・・・違うわ。今朝、母から貰ったの」
「そうなの」
頷いたが、一瞬の間があったので偽りだと感じたのだ。それでも、何も言わなかった。
「騒がしいぞ。何事なのだ?」
「あっ」
七人の女性が一斉に振り向いたが、長老だと分かると、気まずそうに謝罪していた。
「おお、美雪が女性の服を着たのか、それで、うんうん、似合っているぞ」
一人で勝手に納得していた。
「長老様まで、私をからかうのだから、もう」
「だが、本当に可愛いぞ。それなら、確かめてみるか?」
「えっ?」
「若者と言うか・・・新に見せたら、わしらが言っていることが正しいと直ぐに分かるぞ」
「そうそう」
美雪以外の女性が頷いていた。そして、言うか迷っていたが、美雪を勇気付けようとしたのだろう。嬉しそうに笑みを浮かべて祝福していた。女性たちは言葉にはしなかったが、新に見せるために着たとしか思えなかったのだ。
「私も、ここに来る前に、男たちに頼まれたのよ。美雪が女性の服を着て長老宅に向かったって、それで、想い人でも出来たのなら聞いて欲しいってね」
「わたしも、親が女物の服を許したのなら、その相手は誰なのか知りたいって言われたわ」
他の女性も同じ様に言い始めた。そして、美雪は・・・・・・。
「違うの。母から貰っただけだから・・・・・本当に意味はないのよ」
美雪は、告白を恐れる女性のように否定するのだった。
「そうなの。でもね。本当に似合うから、これからも着てきなさいよ」
班長の涙は、美雪の気持ちが分かったのだろう。娘が同級生の男にからかわれて泣いて帰ってきた時のように言うのだった。
「うん」
嬉しいのか悲しいのか複雑な表情で頷くのだった。その姿を見てから、女性たちは、涙を見ると、その視線には、「もう、この話は止めましょう」と感じたのだ。それで、女性たちは、残念そうな表情を浮かべると、それ以上、言うのを止めたのだ。
「直ぐに仕事に行くのか、お茶でも飲んで行かないか?」
「今日は、新君の始めての仕事でしょう。わたくしたちだけで、気心を確かめますわ」
「そうか・・・・そうだな・・・・それが良いだろう。今、連れてこよう」
「お願いします。長老様」
長老が自宅に入るのを視線で追って、出て来るのを待った。勿論、新が現れるのを待つのだった。そして、数分後に・・・・。
「おはよう御座います。今日からよろしくお願いします・・・・・・あっ」
扉が開けると同時に挨拶をしたが、顔を上げると同時に、心が奪われてしまった。それは、美雪の姿を見たからだった。
「裕子なの・・あっ・・美雪さん・・・綺麗です」
新は一瞬だが、白昼夢を見ているような感覚を感じたのだ。過去、現在、もしかすると、未来が見えたかもしれない。裕子と暮らしていた時か、本当に目の前にいる姿なのか、それとも、この里で結婚して美雪と暮らす未来、いや、自分の里に戻り、裕子と暮らすのか、まさか、美雪、裕子と三人で暮らす未来か、それとも、只の空想を見たのかもしれない。それでも、美雪の姿を見て、心が奪われたのは確かだった。
「えっ・・本当?」
先ほどまで女性たちに言われたが、独身男性に言われるとは意味合いが違っていた。両手で顔を隠したと思ったら、直ぐに胸や腰などを手で隠すのだが、どこを隠せば良いのかと恥ずかしくなって我を忘れているようだった。
「もう」
(仕方がないわね。二人を見ていると、あたしの方も恥ずかしくなるわよ)
「あっ」
涙の一言で、二人は我に帰った。
「まあ、今日は新君の初めての仕事だから午前中は仕事内容の話などをしましょう。午後から仕事をするけど、今日の割り当ては気にしない事にします。それでは行きましょうか」
新以外は。意味が分かり返答した。そして、涙は、皆の気持ちを確認すると畑に向かって歩き出したが、畑に着くと、座る場所が決っているのではないが、何時もの様に涙を中心に円を書くように座るのだ。そして、なぜか、決められたことではないのだが、皆は持参した包みを開けるのだ。その中身は、おしんこや菓子などの食べ物で、直ぐに作り方などの会話がはずむのだが、故意に、新を無視していたのではない。女性の中で男一人なら話題に入ることが難しいのだろう。その様子は、まるで、新人社員のように聞き役に徹するしかなかったが、もし、玄人の男性社員でも会話に入るのは難しいはずだろう。などと会話を楽しんでいると、正午が過ぎ、昼食も食べ終えて、会話を楽しんでいる時だった。
「そろそろ、一時ね。仕事を始めましょうか」
と、班長の涙は時間を忘れてなかったのが驚きだった。
「もう、そんな時間なのね」
女性たちは、話し疲れるほど話したと思うが、まだ足りなさそうにしていたのだ。
「そうよ。さあ立って仕事をするわよ」
「新ちゃん。毎日、あたしたちを見ていたのだし、皆から話も聞いたから分かると思うけど、このような感じだからね。頑張りましょう。それで、新ちゃんの担当は、お茶くみ担当ね。勿論、休憩の時もだけど、仕事の時も喉が渇いたと言われたら持って行くのよ。それで、二つほど肝心なのは、皆のお茶の温度を憶える事と無理して働こうとする人がいるから、その時は、仕事を代わってあげるのよ。良いわね」
「はい。頑張ります」
第二十六章
真面目な性格なのだろう。本当にお茶の温度を聞き回って、お茶を作ろうとするのだが、仕事の時は、麦茶を作り置きで良いと言われると、何度も頭を下げ終わると、駆け出して作りに行くのだった。皆は、この姿を見ているだけで自分も疲れを感じるのだろう。それで、急がなくてもいいと声を掛けたくなるほどだったのだ。それでも、新は、自分で意識してないが、美雪に視線を向いてしまう。それを誤魔化そうとしているのか、それとも、本心から心配しているのだろう。
「美雪さん。大丈夫ですか、交代しましょうか?」
と、声を掛けてしまうのだ。美雪は心臓が張り裂けそうなほどまで動くのだが、無関心を装いながら断るのだ。そして、残念そうに肩を落として他の人に声を掛ける。そんな、新の姿を見て微笑むのだ。だが、新は、その姿は知らないだけでなく、美雪に好意を振りまいている自分の姿までも、誰にも気が付かれてないと思っているのだ。まあ、そうでなければ、何度も美雪に声を掛けられないだろう。
「休みましょう」
三時の休憩をしようと、涙が叫んだ。少し時間が早いのだが、新が殆ど意味もなく駆け回るので、その様子を見ている側が疲れたとしか思えなかった。
「はい。直ぐにお茶の用意をします。待っていてください」
「慌てなくていいわよ」
と、皆は言うが、お茶を作ることだけが脳内を満たしているのだろう。耳の感覚器官まで働いているとは思えなかった。だが、皆の好みの温度のお茶は間違えることはなかった。
「美味い」
涙が真っ先に飲んだと同時に叫ぶが、他の者たちも、それぞれの表現で気持ちを表した。それだけなら良いのだが、一度、感情が高まってしまったのだ。気持ちが収まるはずもなく、お茶飲み会の話が爆発するのは当然だった。それでも普段の涙なら時間になれば仕事を始めると言うのだが、新の体調を考えて終業まで止めようとしなかった。
「今日は、これで終わりにしましょう」
「は~い」
「また、明日な」
新と涙だけが残って、皆を見送っていた。
「涙さんは帰らないのですか?」
「長老に、ちょっと用事があるからな」
「そうですか?」
「帰りましょうかね。あっ、弁当箱とお茶の道具は持ち帰るのですよ。それは、もう新ちゃんの専用の仕事の道具なのですからね。大事にするのですよ」
「はい」
道具を片付けて振り向いてみると、涙は、もう居なかったが、長老の奥さんの郁江(いくえ)が向かってくるのだ。
「仕事は、どうでした。上手く行きましたか?」
「上手く行ったか、分かりません」
「でも、涙さんは、良く頑張る人だと褒めていましたわよ」
「そうなのですか」
「それに、弁当は美味しかったですか?」
「美味しかったです」
「それなら良かったわ。また明日も、だし巻き玉子を入れてあげるからね」
「えっ」
「美雪さんに言われたの。新ちゃんが美味しそうに食べるから作り方を教えてって、まあ、簡単に教えたから明日にでも作ってくるらしいわ。食べてあげるのよ」
「はい」
その話題の美雪は、今何をしているかと言うと・・・・・美雪の父も不審を感じていた。
「美雪は何をしている」
「だし巻き玉子を作っているわよ」
「料理だと」
妻の話を聞くと、玄関に向かって走り出した。
「何をしているの?」
夫が空を見上げているのだ。
「雨でも降っているのかと」
「そう思うのは正しいわね。今まで一度も料理なんて作った事がなかったからね」
「今日の夕飯を作っているのか?」
「違うわ。明日のお弁当よ。でも、沢山あるおかずの一品だけだけどね」
「そうか、やっぱり女の服を着ると女の子らしくなるのだな」
「どうでしょうかね」
「俺も食べてみたいと伝えてくれないか?」
「美雪。お父さんが食べてくれるって言うから好きなだけ作っていいわよ」
「お父さん。ありがとう」
台所から首だけを出して、居間に居る父に礼を行った。もしかすると服が芸術的に汚れているのを見せたくなかったのだろう。
「えっ?」
「今日の夕飯のおかずは玉子だけになりそうよ」
「そうなるのか・・・・それでも、娘の初めての料理だ。喜んで食べるよ」
これから数十分後、玉子料理の芸術作品が並ぶのだ。だが、それは、料理とは思えない物だ。もう少し良い方向に考えれば、幼稚が書いた絵を実体化したと考えたら近いかもしれない。だから、どう見ても食欲が無くなる物だったのだ。
「お父さん。どうかな?」
「むむ、確か玉子料理だったよな」
娘から問い掛けられ何て答えて良いのか迷っていたのだ。どう見ても、同じ玉子料理とは思えないからだ。ある意味天才と思えた。同じ材料で、これ程まで違う物が作れるのは凄いと拍手したい気持ちと同時に、食べても命があるのかと思えたからだった。
「はい。玉子料理です。だし巻き玉子ですよ」
「食べてあげないの」
思案している時に、食事の挨拶をしたのかもしれない。それよりも驚くのは、選びながらでも食べていたからだ。もしかすると女性だからか、それとも、作るのを見ていたので身体に害がないのが分かるのかもしれない。そう思いながら連れ合いを見ていた。
「頂きます」
と、挨拶した時は、食卓の上には、おかずが丁度、三分の一だけ残されていたのだ。妻の視線からは「後は、あなたの分よ」と言っているようだった。
「良い。酒のおつまみだった」
料理を見て食欲は消えたが、それでも酒の肴として考えて口にしたら珍味と感じられたので何とか食べ終えたのだ。だが、二度と食べたくないと感じたのも確かだった。
「それで、突然に料理を作ったのは、何があったのだ?」
「それは、新君に食べさせたかったの」
「えっ」
「でね。新君って凄く優しいのよ。私が、転びそうになっただけでも駆け寄ってくれるの。そして、大丈夫ですか、って声を掛けてくれるだけでなく、休んだ方がいいですよ。僕が代わりましょう。なんて言ってくれるの。私、嬉しくてたまらなかったの」
美雪は、事実、気を失うほどの喜びだった。
「そうか」
(俺が死ぬ気持ちを味わったのは、あの男のためなのか・・・・)
「それでね。一つ癖があったの。好きな料理を食べる時って、早食いするの。それも、しゃっくりが出るほどまで急いで食べるのよ」
「そうなの。百個くらい癖があったりしてね」
娘には暖かい気持ちを視線に向けるが、夫には、殺気と同時に「怒りを表したら殺す」そう、夫に視線を放ったのだ。
「うん。私も百個くらいあると思ったの。それで、全てを探し出したら結ばれるかなって」
「そうね。そうかもしれないわね」
「・・・・・・俺は・・寝る」
「お父さん。おやすみなさい」
「おやすみ、あなた」
「ああ」
人生の生きがいが無くなったかのようにがっくりと肩を落としながら寝室に向かった。だが、この日から毎日、口を開くと、新の話題しか出なくなったのだ。それと、同時に、新の癖が一個、三個と見つけたと言うのだった。それから、一月、二月、半年と過ぎて、収穫祭の前日になり、新の癖も八十個まで見つけていたのだ。その頃になると、村の一員として考える人も多い。それは、新が何一つとして愚痴を言わずに村の手伝いをしたからと、誰にでも優しく接するからだろう。そして、新にも想い人ができたと喜んでくれる人がいるのだが、その想い人にも、よそよそしく接するので、もしかすると、自分では養えないので幸せにできないのだろう。そう思って「安心しなさい」と言う人もいたのだが、「もしかしたら僕は結婚しているかもしれません」と言われ、村人は悲しみを感じたのです。もしかしたら、記憶を取り戻すのが第一で、残りの人生を村で暮らす気持ちがない。これでは、誰も、二人の仲を取り持とうとは一人も居なかった。それでも、祭には興味を感じていたのだろう。その証拠のように祭の準備には誘われる前から参加していた。だから楽しみにしていたはず。だが、祭の当日は、参加するのでなく見ているだけだった。それが、突然に駆け出した。その様子を見て笑みを浮かべる人が多くいた。その進む先には想い人と思える人が数人の男性に囲まれていたので、襲われていると思って心底から心配したのだろう。新は、女性の名前を叫びながら駆け寄ったのだが、女性は笑みを浮かべながら手を振ったのだ。途中で勘違いと分かったからなのか、女性の笑みを見て恥ずかしくなったのか、それとも、男性たちから馬鹿にされると感じたのだろう。俯きながら近寄って一言だけ呟くのだった。
「楽しそうな祭ですね」
「そうですね。一緒に祭を楽しみましょう」
美雪が返事を返すのと同時に、数人の男性は笑いを堪えるように噴出した。
「この男は駄目だ。踊りの誘いなんてするはずがない。だから俺たちの誰かに決めなよ」
この村では、とい言うよりも、この地の人々は、男性が女性に踊りの相手を頼み。それを承諾する事は結婚を承諾したと同義だった。その会話を聞いて、新は、「この場の男性に決めるのですか」そのような表情を浮かべた。そして、美雪が口を開けて何かの言葉を言う。その時、新は想像した言葉を聞きたくなかったので、遮るように叫んだ。
「僕と、一緒に踊ってくれませんか」
その言葉を聞いて、美雪は恥ずかしそうに俯いた。そして・・・・。
「はい。その言葉を心底から楽しみしていました」
美雪は、満面の笑みを浮かべた後は、嬉し涙なのか、それとも、今まで苦しんできた。その恋する気持ちからの胸の痛みを思い出したからか、瞳から涙が溢れて止まらなかった。
「その涙の理由は、私ですね。許してください。済みませんでした」
新は謝罪のために何度も頭を下げていた。
「もう謝るのは良いですから、気持ちが分かりましたから頭を上げてください。今日は始めてのお祭でしょう。一緒に楽しみましょう。ねえ、新さん」
「はい。楽しみます」
第二十七章
新は、周りの状況の変化には気が付かなかった。男たちが、美雪に片目を瞑る者、笑う者、手を叩く者がいたが、一つだけ共通することがあった。それは、新を騙して、美雪に踊りの誘いをするように企んだのだ。それが見事に成功したので、興奮を表していたのだが、美雪の安心したような嬉しい表情を見て、一人、二人と美雪と新から離れて行くのだ。恐らく、自分の本命相手に踊りの誘いを言いに行くのだろう。それには気が付かないまま、自然と祭の中に入り、人々の中に溶け込んだのです。皆と一緒に時間を忘れるかのように楽しみ、祭りは夜遅くまで続いた。そして、夜の暗闇が増すにしたがい人が少なくなるのは家に帰るのではないが、それでも祭が終わりそうなのは確かだった。勿論、美雪と新も祭の場から離れるが、別の場所で祭の余韻を楽しむはずだ。だが、二人は、いや、全ての村人は気が付かないのだ。今日だけが、村人全てが集まることができた最後の日なる。その理由が明日分かるだろう。
「ぶぼ~ぶぼ~」
日の出と同時に法螺貝の音が響いた。何事かと目を覚まし音が聞える所に、人々が向かった。その殆どは既婚者だったのは仕方ないだろう。他の人々は音など耳に入るはずもなく眠り続けていた。集まった人たちは客人が来たと、少しだけ喜びの興奮を表していた。
「集まって来たな。それでは、領主様の言葉を伝える。健康な成人男性全てを兵として徴兵する。それを知らせに来たのだ。この場に居る者は、村中に、今の言葉を知らせなさい」
目線だけでは何人なのか数えられない人が集まった時、数十人の兵士の中で隊長らしい人が声を上げたが、村人は呆然としていた。恐らく、村人の脳内の中では、劇の口上と思っていたのだろう。それで、誰も動かず、人によっては笑みを浮かべている者がいたので、隊長らしき者は、心底から怒りを感じていたのだ。
「何をしている。何故、知らせに行かないのだ」
「領主様の思いを知らせに来てくれたのですね。ありがとう御座います。領主代理殿と御呼びすれば宜しいのでしょうか、私は、この村の村長をしています」
「領主代理で構わないぞ。それで、何が言いたいのだ?」
「村人が集まらないのも、この場の者たちが失礼な態度をしているのも理由があるのです。昨日、何年かぶりの盛大な祭を行ったのです。それで、気持ちが高ぶっているだけでなく、未だに夢心地なのでしょう。それの為なのです。お許しくださいませ」
「我らは、昨晩が祭りだと思って朝早くに来たのだ。この時間では、誰も逃げることができないと考えたからだ。村長の考えは分かっている。隣の村と同じ企みを考えているなどお見通しだ。だから、直ぐに成人男性を全て連れて来い」
「領主代理殿、この村の者は村から出た事が無いのです。皆は、この地でしか生きられないのです。ですから、村の外のことなど分かりません。勿論、逃げようなど考える者も行く場所もないのです。ですから、領主代理殿、少しの時間を頂けないでしょうか?」
「時間だと?」
「そうです。昨夜と、今日の昼までは全ての仕事は休みと決めていたのです。それでも、昼には、私の家に集まります。これからの農作業などの計画を決める予定でしたので、ですから、昼まで時間を頂けないでしょうか、そうお願いをしているのです。勿論、当然なことですが、領主代理殿と他の方々もお疲れでしょう。昼まで休まれては、どうでしょう。豪華とは行きませんが、直ぐにでも食事の準備を致します。それだけでなく、領主代理殿が酒を所望でしたら酒の用意も致します」
「ほう、酒を出すのか、飲まして襲う考えか」
「領主代理殿、それは、余りにも失礼な言い方ですぞ。訂正して欲しい。この村に住む者は、誰一人として邪な考えなど思う人など居ません。領主様が、兵を希望すると言うなら誰一人として拒む者などいません。正直にはっきり言いましょう。数時間の家族の思い出と別れの時間が欲しいと言っているだけですぞ」
「分かった。分かった。済まなかった。我も疲れているのだ。疲れから言ったのだと思って欲しい。そうだな、我らも昼まで休むとしよう。皆に食事の用意をして頂けるのだったな。楽しみにしているぞ。それと、確認だが、昼までだったな。先ほどの話を信じるぞ」
領主代理は、言い過ぎたと思ったのだろう。苦笑いを浮かべながら謝罪をしていたが、最後の一言だけは、人を殺せる程の鋭い視線を放ったのだ。それは、当然の殺気だ。もし、部屋に押し込んだまま、建物に火でも焚かれたら逃げることができないからだ。
「それでは、村の衆、解散だ。解散してくれ、だが、昼には家に集まってくれよ。それと、この場に居ない者たちの家にも知らせて欲しい。それは、必ず忘れないで伝えてくれ」
村長の話の後には、村人は何かを言いたそうな様子だったが、誰一人として何も言わずに帰って行った。そして、昼が来た。領主代理と他の者たちは、死を感じる程の長い時間だったはずだ。もしかしたら食事に毒は入ってないだろうかと、考えながら食べるだけでなく、突然に背中から襲われるのではないのかと、恐怖を感じていたのだ。それでも、領主代理は、戦の経験が長いから肝が据わっているのか、それとも、護衛がいるからなのか、さっさと食事を食べ終わると寝てしまった。それとは反対に、村人の気持ちでは、時間が経つのが早すぎると感じているはずだ。そして、村人は約束の通りに集まったが、領主代理が起きるのを通夜のように静かにと言うよりも、自分の葬式のように無言で待っていた。村長だけは、領主が起きようと関係ない態度だった。それよりも、自分が言ったことが心配だったのだろう。昼が過ぎると直ぐに玄関に向かった。そして、一人、一人の顔を見ると言うよりも、村の成人男性の全てが着ているのかと数えていると思えた。全てを確認した後は、何度も頷いた後に話し出した。
「皆の衆、話は聞いている者もいるだろうが、今日の朝に領主代理殿が村に来て、村に住む全ての成人男性の徴兵されることになったのだ」
突然に、長老の後ろから声を上げる者がいた。それは、領主代理だった。
「それは違うと、先に言っておく。病気、一人息子、親が病気の者は徴兵しない。だが、するかしないかは、領主の代理として来た。俺が決める。それを、これから調査するが、嘘を言った者は、先ほどの言った理由でも徴兵を強制する」
「・・・・・・・・・・」
「それでは、剣術、弓を経験ある者は、右に、無い者は、左に並べ」
一名を除き、全てが右に並んだ。
「ほう、この村は戦争経験が多いのだな」
「いえ、領主代理殿。そうではありません。弓なら狩で皆が使えます」
「そうか、人を殺した者は居ないのだな?」
「はい。領主代理殿、直ぐに徴兵したとしても兵として役に立たないでしょう」
「それは、俺が決めることだ」
「はい。そうでした。済みませんでした」
領主代理は、村長の話も聞かずに、部下が居る方に視線を向けた。
「加賀(かが)。村人の弓の腕前を確かめろ。そして、部隊配置を決めておけ」
「承知しました」
村長は、二人の会話を聞いて青ざめた。このままでは全ての成人男性が連れて行かれると感じたのだ。
「領主代理殿、お話したい事があります」
「この場では駄目なのか?」
「あっ、話をしながら見せたい物があるのです」
「そうか、わかった。加賀、夕方までには出発するぞ。準備をしておけ」
「はい。承知しました」
加賀の返事を聞くと、領主代理は、村長の勧める部屋に入った。村長は何をするのかと言うと、村の為、村人の為に最後の決断をしようとした。領主代理に農作業などの計画行動書簡を見せる考えだった。この書簡を思うと同時に、今思えば、毎年、毎年、村人から書簡作成などを作る必要が無いと苦情を言われていたのだ。だが、心底から作って正解だったと感じていた。それでも、書簡を見せただけでは、村長の提案には承知しなかった。だが、根気強く説得するのに二時間も掛かり、丁度、村人全ての腕前を確かめる終わる頃だった。
「加賀、使えそうな者は居たか?」
「お帰りなさいませ。村人たちが自慢していたように弓の腕前は、まあまあ使える程度ですが、兵としては大丈夫と思います。ですが、一名だけが、何の武道派なのか分かりませんが、武道の基礎の形が感じられました。少々鍛える機会があれば、剣と弓の腕前は正規兵を抜く可能性があります」
「ほう、その男は誰だ?」
「その者は、記憶が無いらしく、皆に記憶なしの新と言われている者です」
「長老、先ほどの話を承諾しよう。だが、新と言う男は連れて行くぞ」
「心得ております」
「なら良い。あっ加賀、この村に四日間の滞在を決めた。その間に、村人を使えるように訓練しておけよ。それと、お前が気に入った男も鍛えてみろ」
領主代理は、長老と話をしていたが突然に思い出したかのように部下に話を掛けた。それも、何か嬉しそうに笑みを浮かべていた。その視線から判断すると、部下の昔を思い出しているようだった。恐らく、戦死した息子のことだろう。
「村の衆。領主代理殿の気持ちで、村の成人男性の全てでなく半数で良いそうだ。それを決めるのに、くじ引きで決めるのが平等だと思うが、どうだろうか?」
村人は、驚きと安堵の気持ちを声で表したが、それは直ぐに消えた。当然だろう。自分が徴兵されるかも知れないからだ。
「異議がないのならば、くじ引きで決めるぞ。それでは、直ぐに用意をするので少し待っていてくれ、それが終わりしだい帰っても構わない」
村長は直ぐに家の中に入ると直ぐに箱を抱えて現れたが、何かの仕掛がある不正のくじ引きと思われるだろう。だが、その箱のくじ引きは、農作業などの役割を決めるのに毎回使われていた物だったので不正はできなかった。
「それでは、普段の通りに一列に並んでくれ、勿論、私も家族もくじ引きを引くから安心して欲しい。それで、私の家族が外れたとしても、長男は徴兵に志願すると約束する」
村人は、直ぐに帰りたかったのだろう。長老の言葉を最後まで聞かずにくじ引きを引いた。そして、喜びの叫びを上げる者、青ざめる者と様々だった。それから、何人目かで新の順番に来て、箱に手を入れようとした時・・・・・。
「新君。くじを引かなくていい。先ほどの話を聞いていただろう」
新は、驚きの顔をするのだ。その表情を見て、長老は・・・・。
「聞いていなかったようだな。領主代理殿は、新を徴兵に必要だと言ったのだ」
「気にしないでください。記憶喪失なのに、村の一人として接してくれただけでなく、村で暮らすのを許してくれたのです。その恩を何かで返そうとしたのですから、喜んで徴兵に志願します」
「本当に済まない」
「気にしないでください。それでは・・・・僕は、もう部屋に帰っていいですか?」
「構わない。それと、一人になりたいだろう。離れ家を好きなように使いなさい」
「ありがとう御座います」
新が疲れたように離れの家に向かう時に、美雪と出合った。
「どうでした?」
「僕は、徴兵に応じます」
「まさか、志願したのですか?」
「僕は、領主代理殿に気に入られたようです」
「そう・・・・そう言われたのですか」
第二十八章
一人の女性が、いや、この村の全てと言って良いほどの者が泣いていた。
「でも、何が遭っても村に帰ってくるのですよね」
「はい。必ず帰ってきます。僕が帰る所は、この村だけですから」
「それなら、あたしは、新さんが帰って来るのを待ちます。良いですよね」
「僕は、本当に嬉しいのですが、戦争に行くのですよ。もし帰って来ても何かの障害があるかもしれません。それだから、美雪さんは、僕を忘れた方が良いと思います」
「何で、そんなこと言うの。私が好きなのでしょう。どのような姿になっても気持ちは変わらないわ。本当に・・・私は、新さんが好きよ」
「ありがとう。僕も好きですよ」
二人は満面の笑み浮かべ合った。
「ねえ、一つお願いしていい?」
「いいよ」
「運命の泉に一緒に来て欲しいのです」
「運命の泉?」
「そうです。運命の相手が水面に映ると言い伝えの泉なのです」
「そんな泉があるのですか、それなら戦に行っても結ばれるか分かりますね」
「そうなのです。ですが、もう長い間、映ったと聞いた事がないのです。それでも、一緒に行きたいのです。今回は、いや、その、わたくしだけは映りそうに思うのです」
「いいですよ。美雪さんが行きたい所なら、どんな所でも行きますからね」
「今からでも良いのですか?」
「いいですよ」
「キャッ、それなら直ぐに行きましょう」
「でも、確か、美雪さんの家の前を通るのでしたよね。それだと止められるかも」
「普通なら、その道だけど、あたしなら違う道を知っているわ。だから、安心して」
「そう、それなら行こう」
「うん」
美雪は嬉しそうに歩き出した。その後を、新は付いて行くが、どの方向に進むのかと考えていると、やはり美雪の家の方向だった。そして、このまま山に登れば、美雪の家だ。それなら、二親に姿を見られるだろう。もし見られなくても近くを通るのなら挨拶するのが礼儀だと感じて、その事を伝えようとした時、山には登らずに通り過ぎたのだ。この予想とは違ったことで驚きの余りに言葉を飲み込んだのだ。今度は逆に、本当に泉に向かっているのかと考え始めたのだ。それは当然かもしれない。人が通る道でなく獣道を進むからだ。木々を手で払いながら進み、どこまで行くのかと思っていると、美雪が立ち止った。
「この下よ」
と、声を上げると同時に、下方に指を示したのだ。新は近づいて、その方向を見た。
「おおっ」
新が見た物は、楕円形の泉だった。長い所で三十メートルもあり、短い所でも二十メートルもある。普通の泉だと透明度はないのだが、驚く程まで透き通る綺麗な水に見えたが、深いのだろう底が見えなかった。なぜ、綺麗なのが分かるのとか、と言うのは、周囲の辺りだけが底が見られるので綺麗な水だと感じたのだ。それだけが驚く事ではなかった。泉の水面を見られるように周囲が人工的に作られていたのだ。恐らく、水面が波で揺れないようにしているのだろう。そして、泉に近くで見ると、また、驚く事があるはずだ。
「下りるわよ。足元には気を付けてね」
別に、絶壁の崖ではないが、それでも、一度でも滑れば下まで滑り落ちるのは間違いなかった。だが、所々の木や草を掴めば、簡単に降りられる程度の斜面だったのだ。
「綺麗でしょう」
「綺麗だね。でも、水が出入りする所がないね」
「それは、泉の底が、どこかに繋がっているらしいわ。それに、湧き水なのよ。中央辺りに水が沸いているような感じが見られるでしょう」
「うん」
「その湧き水が、もう少し勢いがあった時は、泉に運命の相手が映ったらしいの」
「ほう、その湧き水が原因かもしれないな」
「そうよね。でも、どうする事もできないわ。それでも、映るかもしれないって、祈る気持ちで見に来る人は多いのよ」
「そうか」
「あたし達も見ましょうか?」
「そうだね。でも、作法があるのだろう」
「特にないわ。手を繋いで祈るだけ、でも、真剣に心の想いを泉に込めるのよ」
二人は、どっちが先と言う訳ではないが、自然と手を動かして殆ど同時に手を繋いでいた。そして、数分祈る様に泉を見詰め続けた。
「駄目みたいね」
只の泉だと思うだろうが、本当に運命の人を始めは映していたのだ。だが、それは、泉に力がある時だった。そのきっかけは、何千年後の未来では時を飛べる機械が作られて、時の流れの不具合や、新のように赤い感覚器官と羽衣の力で時を飛ぶ者たちの力が込められた。ある不具合の物(恐らく、この時代にない過去か未来の遺物だろう)が泉に落ちたのがきっかけだった。その不具合での力も長い年月と、運命の相手を映すことで力を使い果たしたか、時の流れの不具合が修正されて消えたか、只の石にでもなったのだろう。
「そうだね」
そして、何気なく、泉の温度でも測るつもりで、新は左手を泉に入れたのだ。
「うっ・・・・わぁ」
手首まで入れると、何かが刺さるような痛みを感じたのだ。それで、一瞬だけ目を瞑ったのだが、目を開けると、泉に美雪の姿が見えたのだ。それも、嬉し涙だろう。ぼろぼろと流しながら満面の笑みを浮かべた姿だった。
「どうしたの?」
美雪は、意味不明な声に驚き聞える方に顔を向けた。そして、新が泉を見続けていたので、また、泉に視線を向けたのだ。先ほど、新が泉に手を入れたので、水面が風に当たって揺れたように波が立っていたが、何かを映そうとするかのように七色の光が屈折する光が見えたので、収まるまで見続けたのだ。
「見えるわ。新さんが見えるわ。新さんもあたしが見えるわよね」
「うん。見える」
恐らく、泉は、新の赤い感覚器官を媒体として、時の流と繋がり、時の自動修正の力が流れ込んだのだろう。それで、力が復活したとしか思えなかった。二人は、早送りのような画像が流れるので、消えるまで視線を動かすことができなかった。
「美雪さん。何か聞えましたか?」
「いいえ。泉に新さんが見えただけよ。何で?」
「僕には聞えた」
「何て?」
「片方の羽衣を渡すようにと・・・それで、連れ合いを守れると・・・・そう聞えた。
本当は、それだけでなかった。膨大な量の言葉が流れてきた。それは、まるで、インターネットで検索した時全ての情報が音声で流れたような膨大な量だったのだ。だが、新は記憶や歴史などが分からないために、意味不明な呪文の言葉としか判断できなかった。だが、初めに聞えた言葉だけが、意味が分かり耳に残ったのだ。
「羽衣?」
美雪は初めて聞く、言葉で何なのかと考えていた。
「そうです。今から渡す物は、美雪さんを守ってくれる物です。そして、僕が、何処に居ても無事が分かるらしいです。それで、羽衣は、美雪さんの次に大事な物ですから無くさないでくださいね」
「分かりました」
美雪の言葉を確認すると、両手を背中に回して何かを取る仕草を始めた。
「?」
美雪は、新の仕草を見続けた。
「これです」
羽を取り外すには痛いと感じるだろうが、まったく痛みはなかった。それに、一度、接がしても湿布のような感じだったので、また、付けられるようになっているのだ。それに、昆虫の羽根のように透明で、布のように柔らかくて軽いのだ。その証拠に微風に反応するかのように軽い羽毛のように飛んで行きそうだった。
「えっ?」
美雪は、新が両手を広げて何かを持っているようにしているが、何も見えなかった。だが、新が嘘を付くはずがない。そう思いながら見続けた。すると、何か光の屈折するのが見えた。もっと注意してみると、布のような物があるのが分かったが、それでも、錯覚かと感じていたのだが、両手に重みを感じて、本当に羽衣があると実感したのだ。
「軽いわ。それに、透き通って綺麗ですね」
それは、トンボの羽のような透明な絵柄で、光を浴びると七色に輝き、触り心地は絹のように柔らかく、羽毛のように舞い上がるだけでなく、手を離せば勝手に浮く感じだった。
「これは、僕の背中にある羽なのですよ」
「そうなの」
美雪は信じられなかった。それは、当然だろう。人の背中に羽衣などの羽などあるはずがないからだ。だが、新が言うなら何かの理由あるのだろうと、信じたのだ。それに、もしかしたら、異国の物。いや、町では普通に売っている物かもしれないと思ったのだ。
「この羽衣を、常に身に着けてくださいね」
「はい。大事にしますわ」
「それと、一つ聞きますが、赤い糸って分かります?」
「キャー、分かるわよ。でも、男の人が話題にするなんて始めて聞きましたわ。運命の人にしか見えないと言う。あの左手の小指の糸ですよね」
「そうです。羽衣を身に着けている時だけ赤い糸が見えます。それだけでなく、赤い糸の方向を示す先が、僕が居ます。勿論、僕が無事なのか、それも感じ取れますよ」
「そんな事ができるの?」
「そうです。ですが、出来ると言うよりも意思に関係なく感じ取れます」
「それにしても、綺麗ね。この世の物とは思えないわ。何で出来ているの?」
美雪は驚くのも当然だろう。
「虫の羽や蜘蛛の糸に近いと思います」
「それで、身に着けるって言うけど、どうするの?」
「そうですね。首から垂らすか腰にでも巻いてください」
恐る恐ると怖がるようにも、驚きを感じているようにも思える態度で、羽衣を肩掛けのように左肩から垂らした。すると、身体が痙攣したような動きをした後、左手の小指に痛みを感じたのだろうか、左手を顔の前に上げた。まるで腕時計を見るようだった。
「えっ、これ何?」
自分の左手を見て驚きの声を上げた。当然だろう。左手の小指には、真っ赤な毛糸のような感じの生き物としか思えない物がピクピクと動いているのだ。それでも、恐怖や険悪感などは感じなかった。それは当然だった。目の前に居る愛しい人の感覚を感じたからだ。そして、もっと新の感覚を感じたくて、目を瞑った。
「うん。分かるわ。目を瞑っても居る場所が感じるわ。何て言うか手を繋いでいるような感覚で、身体が浮いているような感覚を感じます。本当に不思議だわ」
「そうでしょう。今度は、目を開けてみて」
「はい。キャッ・・・・・・嘘・・・浮いているわ」
新の言葉の通りに目を開けると同時に、悲鳴を上げるほどまで驚いた。なぜかと言うと、自分が、新を見下ろすように空中に浮いているからだ。それだけでなく、羽衣を中心に透明な膜のような感じの中に居たからだ。
「でも、空中に浮くほどの力は、僕と居る時だけです」
第二十九章
美雪は、空中でくるくると回っていた。これも羽衣の力でできることなのだが、自分の意思で回転しているのではなかった。それは、驚きの余りに顔色が真っ青で助けを求める声も出せなかったのだ。
「落ち着いてください。大きな岩の上に立っていると思ってください。そう考えると回転が止まるはずです」
「はい」
言われたように目を瞑って言われるように考えた。すると、本当に回転が止まり、空中の上にたった。そして、目を開けても回転することはなかった。
「ねえ、このような大事な物を、あたしに渡しても、新さんの身の危険が守れるの?」
「大丈夫ですよ。それは、片方の羽ですから、もう片方の羽を持っていますからね」
「分かりました。あたし、羽衣を、新さんと思って帰って来るのを待ちますわ」
「本当ですか」
「もう馬鹿ね。子供の様に無邪気に喜ばないの」
「済みません。本当に心底から嬉しくて、本当に嬉しく・・・・て」
「もう泣かないの。気持ちは分かったわ。もうあたしが心配したのが馬鹿みたい」
「心配してくれたのですね」
「当然でしょう。戦争よりも、村を出れば、他の村や街には綺麗な女性に会う機会があるのでしょう。そうなったら、あたしの事なんて忘れて・・・・・村に帰ってこないかも・・・・」
「そんな心配はしないでください。僕は必ず帰ってきます」
「うん。そうね。でも、浮気しても良いから必ず帰ってきてよ。遊びなら許すからね」
「浮気なんてしませんよ」
「でも、戦争って相手の命を奪うのよ。そのような命のやり取りをしていたら優しい心が消えてしまうわ。だから、遊びなら許してあげるから優しい心を無くさないでね」
「大丈夫ですよ。美雪さんが思っているままの、心も気持ちも変わらないで帰ってきます」
「うんうん」
美雪は、嬉しくて涙を流しながら俯いていた。普通の恋人同士なら抱き合って接吻するはずなのだが、新は恥ずかしいのか、美雪の頭を撫でながら謝るだけだった。
「美雪さん。そろそろ家に帰らないと、お母さんとお父さんに怒られるのでないかな」
「はっあぁ。大丈夫と思うわよ。ねね、それよりもお腹が空いたでしょう。あたしが何か作ってあげようかぁ」
美雪は大きな溜息を吐いた。当然のことだ。戦に行く前の思い出を作ろうとして、新の行動を待っていたのだ。それでも、嬉しい事を言われたし、大切な物も頂いたけど、やはり、接吻くらいの甘い思い出が欲しいのは、女性でも分かるのに、軟弱で天然の新には分からなかった。それで、天然の新でも分かるように食事を作ると言う理由で、新の家に泊まる気持ちだったのに気が付いてくれず、怒りを感じる溜息を吐いたのは当然だった。
「嬉しいですが、結婚前の女性が男性の部屋に居るのが分かると、お母さんやお父さんが怒る。いや、心配するでしょう」
「新さん。あたしと居るのが嫌なの。それとも、本当に嬉しいのなら自分の想いを表すだけでなく、あたしに抱きついて気持ちを表して欲しいわ」
美雪は、怒りを表した。
「気分を壊してごめんなさい。僕は、心底から嬉しいのですよ。でも、戦に行くのです。もしかしたら死ぬかもしれないのですよ。その時、美雪さんが、僕以外の人と結婚する時に迷惑が掛かるようなきがしたのです」
「もう馬鹿。あたしは、新さん以外の人と結婚する気持ちはありませんわ。そんな他人行儀な考えよりも、抱き付きながら接吻でもして思い出をください。それだけで、あたしは一生、新さんだけを想って生きて行きます。もう馬鹿。女性のあたしに、このような事を言わすなんて、うっうううう、うぁあああ」
新の気持ちが分からないために怒りを感じた。そして、泣き出してしまった。
「ごめんなさい。美雪さん。本当にごめんなさい。もう泣かないでください」
美雪の思いとは違うけど、新が抱き付いて慰めてくれたので涙は止まったが、新の気持ちは慰める気持ちではなくて、恐らく、この場から駆け出して逃げ出すとでも思って引き止めているのだろう。それでも、美雪は嬉しかった。
「もう痛いわ。何処にも行かないから、大丈夫ですから少し力を緩めてください」
「あっ・・・ごめんなさい」
新は、自分の行動に驚いて直ぐに、美雪の身体から両手を放した。
「凄い力だったわ」
「本当にごめんなさい。それで、もし、今からでも良いのでしたら・・・・・その・・・」
「何です?」
「美雪さん。今からでも良いのでしたら夕食を作ってくれませんか、僕も、その料理を思い出にして、どのような戦でも生き抜いてみせます」
「いいわよ。なら、新さんの家に直ぐに帰りましょう」
「はい。家っていうより、長老殿の離れですけどね」
「意味は同じでしょう。もう・・・・」
「そうですね」
「何をしているの。時間が無いのよ。早く行きましょう」
美雪は、新の言葉を聞くと直ぐに歩き出した。そして、直ぐに後ろを歩いていると思ったのだが、なにやら惚けて立っている姿を見て言葉を掛けた。すると、満面の笑みを浮かべて、新は、美雪の所に駆け出した。その後、二人は嬉しそうに食事の話や今までの思い出などの話をしながら家に向かった。勿論、家に着けば直ぐにでも、長老の家に行って材料を頂いてから新のために料理を作り、一緒に食べるでしょうけど、そのまま二人は、朝まで思い出を作るはずだ。
「新さん。おはよう」
新は、今日一日、いろいろなことが起きて疲れていたのだろう。朝まで起きている気持ちだったが寝てしまった。だが、美雪は寝る事ができなかった。それも当然だった。四日間の時間はあるが、何時、予定が変わって直ぐにでも戦に行くかもしれないのだ。それでは、寝られるはずもなかった。だが、それだけではなかった。愛しい人だから寝顔も見ていたかったのだろう。
「あっ・・・おはよう。美雪さん。もう起きていたのですか、早いですね」
寝起きで、脳内は、まだ夢の中にいるのだろう。自分で何を言っているか分からないようだ。そして、数十秒後・・・・・・。
「ごめんなさい。昨夜は、寝ずに思い出を作ろうと、僕から言ったのに・・・・知らない間に寝てしまって本当にごめんなさい」
「いいのよ。昨日は、いろいろな事があって精神的に疲れていたのでしょう。それよりも早く顔を洗ってきて、一緒に朝食を食べましょう」
「うんうん、食べます。食べます」
美雪は、新を見詰め続けた。
(まさか、顔を洗わずに水で濡らしただけ、それに気が付いて不潔な人って思ったのかな)
新は、美雪の視線に耐えられず、内心を打ち明けようとした時だ。
「ねえ、新さん」
「ごめんなさい」
「えっ、どうしたの?」
「何でもないよ。それで、何を言い掛けたのですか?」
「あのね。朝食を食べ終えて、新さんを送り出した後にね。お母さんとお父さんにお願いしようと思うの」
「お願いですか?」
「そうよ。三日後には徴兵されて村を出るのでしょう。その間だけでも、新さんの家で生活するのを許してもらうの」
「えっ・・・・ええ・・」
(そんなこと言ったら、僕は殺されるよ)
「嬉しくないの?」
「嬉しいよ。でも、結婚もしてないのに許すはずがないよ」
「新さんは、何も心配しないで喜んで待っていればいいのよ。あたしが心底からお願いをすれば、誰もが許してくれるのは分かっているでしょう。だから、大丈夫だからね」
「う・・・・・・ん」
(それって、脅迫って言うのでないかな。何か後で困ることが起きそうな感じがする)
「新さんは、何も心配しなくていいの。それよりも、さあ、朝食を食べましょう。今日は忙しい一日になるそうだわ。だって、この家の掃除をしないと駄目だしね」
今の返事を言いたくないからだろう。無言で食べていた。もし、何か一言でも答えれば何倍も返ってくるのは想像ができた。それよりも、徴兵される人たちが教育させられる。その集合時間が近づいていたのだ。
「美味しい?」
「うん」
「お替りはいいの?」
「うん。お腹がいっぱいです」
「そう、もう行く時間なのね」
新が、そわそわとしていたので、何か感じ取ったのだ。
「うん」
「あたし、この家で待っているわね」
「でも、一人で家に居るのは危ないよ。それに、夜遅くなるまで掛かるかもしれないよ」
「大丈夫よ。あたしは少しでも早く会いたいから、この家で待つわ」
「そうか、それなら、お母さんとお父さんの許しが出たら家で待っていて」
「分かったわ」
「良かった。そろそろ時間だから行くね」
「あっ、ちょっと待っていて、昼食も作っておいたの。持っていってね」
「ありがとう。行ってくるね」
「いってらっしゃいませ」
嬉しそうに見送るのだが、これから先のことをまだ知らないのだ。これが別れの会話で、それだけでなく、新の満面の笑みを見るのも最後になるかもしれない。それを知らずに、忙しい一日が始まった。真っ先に、自分の両親を説得と言う脅迫をしに家に帰り。それが終わると新の家の掃除と洗濯などを嬉しそうに初めて、終わると夕食の料理を作るのだ。その頃なると、今日一日何も食べてない事に気が付くのだ。だが、新と一緒に夕飯を食べたいからだろう。腹の虫が鳴かない程度だけ口にして、玄関に出て待つのだ。予定なら、そろそろ帰ってくる頃なのだが、何時間も待っても帰ってこなかった。それでも、待ち続けて、そろそろ次の日になる頃だった。
「美雪。家に帰ろう」
「遅いから迎いに来たよ」
「でも、新が帰ってこないの」
二親に声を掛けられると、その場で泣き崩れた。
「その理由は、お父さんが聞いて来たわ。教えるから家に帰りましょう」
美雪は、拒否すると言う考えで立ち上がったが、気力の限界だったのだろう。気を失ってしまったのだ。それは、当然だろう。空腹でもあり、一日身体を動かし続けたのだから、それも、新の笑みが見られると思っていたから出来たことなのだからだ。そして、二親は泣きそうな表情を浮かべながら娘を抱えて家に帰った。
第三十章
父親は娘の部屋から出てきて、妻に言うのだった。
「寝かせてきたよ」
「そう」
「明日の朝まで起きないかもしれない」
「そう」
二親が話をしている声が聞こえたのか、美雪が起きてきた。
「お母さん。お父さん。何か知っているのでしょう。今直ぐに話を聞かせて」
「いいわ。私たちもお腹が空いたから、食べながら話をするわ。いいわね」
「はい」
美雪に食べさせるために、嘘を言っていると普段は分かるはずなのだが、それほどまでに、理由を知りたかったに違いない。
「何があったの?」
食卓に料理を並べたが、美雪は食べようとしなかったので、二親は、先に料理を口にして、美雪も食べろ。そう視線を向けた。直ぐに話を聞きたかったが、食べなければ話しをしない。そう感じたので仕方なく食べ始めた。それを見て・・・・・・・・。
「先に言っておくわ。私たちは何も言ってないからね」
「分かったから早く教えて」
「お父さんが、朝になっても美雪が帰らないのは、新君だろうと、それで、一言だけでも文句を言いに行くって長老の家に行ったのよ。そしたら、朝一で村から出て行ったと言われたらしいわ。そして、長老に理由を聞いたのよ。それは・・・・・・」
領主代理は、四日間村にいると言ったのは嘘ではなかった。勝ち戦だったのだが、戦では何が起きるか分からない為に、予備兵力の徴集が任務だったらしいのだが、今日の朝、村に、緊急の領主の使いが現れて、戦況が突然に変わって味方が撤退を始めたと、それで、至急に徴兵した兵が必要だと書面を見せたのだ。その内容を聞いて、美雪は泣き出した。
「そんな酷いわ。挨拶も出来ないのなんて」
「確かに、そう思う。だが、書面には一年の契約期間らしいのだ。それだけでなく、補給の部隊だから命の危険はないらしい。だから、安心して、新君を待ってあげなさい」
「気持ちが収まらないのなら、新君の家に行っても良いわ。一年も誰も入らなければ、人が住めなくなるほどまで汚れるだろうからね。その掃除に行ってもいいから、だから、夜だけは帰ってきなさい。分かってくれるわね」
「はい」
嗚咽を吐くような返事だったが、気持ちだけは伝わったようだった。
「それでは、もう寝なさい。朝一には家に行くのでしょう」
少しは気持ちが晴れたのだろう。言われた通りに自室に戻り床に入った。そして、二親が思った通りに、いや、それ以上だった。二親が起きる前には起きて、朝食の用意もしてあった。当然だが、娘は居なかったのだ。新の家に向かったのだろう。それ程まで早かったのだから、もしかしたら寝ていなかったのか、そこまで分からないが、二親から何も言
われないように全てを終わらせて自宅から出て行ったのだ。
「もう居ないわ。もう新君の家に行くなって引き止めたりはしないのに、朝食くらい一緒に食べてくれればいいのに・・・・・」
「そうだな」
二人は悲しそうに、娘が一つだけ作れる得意料理を作って行った。その料理を食べた。そして、美雪は何をしていたかと言うと、運命の泉に居た。新の様子が感じられるかと思ったからだった。
「確か、新は、左手の小指の赤い感覚器官が示す方向に居ると言ったわ。でも、朝起きて寝台の上で見ようとしたら赤い感覚器官は見えなかった。だから、泉に来たのに見えないわ。どうすれば良いの?」
泉の周りを動きながら腕時計を見るように何度も見ていた。諦められるはずもなかった。そして、泉の神様に失礼な事をしていると、そう気が付いたのだ。直ぐに正式な作法を始めた。早く新の無事を知りたくて、慌てたので何度も失敗したが、それでも、最後の一つを残すまで作法を終わらせていた。そして、祈る様に最後の作法をしようとした。それは泉の水を一口飲むことだった。慌てたので口からこぼしたが、何とか飲む事ができた。
「感じたわ。北西の方向にいたわ。でも、段々と村から離れて行くわ。一言でも別れの挨拶がしたかった。それも許されないのですから・・・神様・・・・」
美雪は祈った。少しでも早く、でも無事で帰ってきてと、心の底から願った。言葉にしたら願いが叶えられない。そう思って口も開けずに、もしかすると自分でも気が付いていないのだろう。息も止めて真剣に願ったのだ。その願いが通じたのだろうか・・・・・・。それとも、徴兵された者たちを哀れと感じただけか・・・・・。
「頼む。国の危機なのだ。一年の契約で必ず帰れるように申請を出す。だから、今は耐えて欲しい。もし脱走をしたと記録が残った場合は、契約は白紙にされてしまうのだ」
新だけでなく、他の徴兵された人々も別れの挨拶も出来ないと苦情を訴えていた。だが、村に帰りたいと願う気持ちは叶えられるはずもなかった。
「脱走とは大袈裟な、ただ、別れの挨拶をしたいだけだ。今なら一時間もあれば戻って帰れる。それだけなのだ」
「駄目だ。もう徴兵連絡隊から正規軍に指揮権が移行してしまった。俺には権限はない。だが、その代りと変だが、今日から契約日としたことで許して欲しい。本当なら徴兵された先の戦場に着いてからなのだ。だから、他の村人たちより数ヶ月は早く帰るようにしたことで、納得してくれないだろうか?」
「分かりました・・・だが、詳しい状況と何があったのかを教えて欲しい」
ここまで説得されたら納得するしかなかった。
「そうだな、本隊に着くまで全ての状況を話そう」
元々、乙国との戦は終結する寸前だったのだが、突然に、内乱とは大袈裟だが、北東都市が西都市に戦を起こしたのが原因なのだ。なぜ、突然に戦を起こしたか理由は分からないが、恐らく、乙国が劣勢だったために戦を有利にする策略だと思えるのだ。それでも、都市間の戦は直ぐに収まったのだが、数ヵ月後に、北東都市は、また西都市に戦いを仕掛けた。それも、乙国の旗を掲げて現れたのだ。恐らく、北都市のさらに北にある隣国の丙国経由で使者と物資が行き来しているのだろう。それで、当初は乙国との戦いの補給部隊に徴兵だったのだが、北東都市の援護部隊として必要になった。そう言う理由だったのだ。
「え、補給隊でなく、兵員としての徴兵なのか?」
「名目的な兵員だ。西都市と東都市との補給路の警護だ。殆ど命の危険はないはずだ」
徴兵隊を落ち着かせよう。として話を続けるのだった。
第三十一章
この鏡泉(きょうせん)の村からの行軍は、他の五箇所の村に寄っては徴兵を続けながら一週間後に東都市に着いた。
「凄い。何て人の多さだ。全てが徴兵された兵員なのか?」
東都市の人の多さに驚いていたが、今回の戦で特別に徴兵されたために人が多いのではなかった。元々、陸路、海路の両方の交易で、関係者や交易する者たちが多く居たのだ。それを証明するかのように服装や髪型などで様々な国の者たちだと分かるはずだ。
「この都市では、殆ど徴兵された兵員はいない。休息と派遣先が決れば直ぐに都市から出発するからな、まあ、家族と別れの挨拶も出来ない者が多いので、一日くらいは自由に出来る時間を頂けるはずだ。その時に手紙と同時に土産でも送ってやるのだな」
「・・・・・」
「ああ、安心すると良いぞ。我々の主様は気前が良い人だ。先に半年分の契約金は自由時間が取れた日に頂ける。好きな物を買って送って上げるのだな。勿論、海路でも陸路でも送料の代金は、主様が全額負担するぞ」
「うぉおおお」
先程まで、死んでいるかのように青ざめていたのが嘘のように興奮を表していた。もしかすると、先程までの状態では兵員として役に立たないのが分かっていたからだろう。それで、士気を上げるのと同時に、他国の交易人に戦争でも交易に問題がないと知らせるのも目的なのだろう。確かに、交易人たちは、交易に関する税を安くしたとしても訪れてくれない。中には命を掛けても金が第一だと考える者もいるだろうが、殆どの一般交易人は
長い旅で会えない子供に交易での楽しい思い出を聞かせながら客の笑顔も思い出したいのだ。その楽しみで交易を続けてこられたはずだ。そのために、徴兵された者たちは、村から出たことも、交易人を始めて見る人が多いので、最高に適した客でもあり。新たな交易の開拓にもなるのだった。
「それでは、宿舎に案内をしよう。今日は、疲れを取って寛いで欲しい。明日の朝一には迎いに行く。そして、この戦の最高指揮官の労いの言葉と、配置先を決められるだろう」
都市の大事な用途だけを案内しながら様々なことを話し続けている時に・・・・・・。
「新なのか?」
新も他の兵員と同じく珍しそうに辺りを見回していた。すると、駆け寄って来る者を見続けるが記憶にはなかった。それでも、記憶を無くす前の知人なのかと考えていた。
「やはり、無事だったのだな。本当に心配したのだぞ。半年も、どこに居たのだ?」
「・・・・・・・」
新は、誰なのかと、考えると頭痛がした。
「どうした?」
「・・・・・」
「忘れたのか、俺だ。登だよ」
「のぼる?」
新は、初めて口にするのに、心の中では安らぎを感じる気持ちを感じていた。
「もしかして・・・記憶が無いのか、やはり、崖から落ちたのが原因なのか、それで、探しても、名前を叫んでも答えてくれなかったのか、そうか、そうだったのか」
徴兵隊の隊列が乱れたからだろう。新と登の所に駆け寄って来る者がいた。
「なぜ、隊列を乱すのだ。まさか、脱走する考えなのか」
「すまない」
「登殿・・・・・この者と知り合いなのですか?」
登は深々と頭を下げた。その姿を見たから低姿勢な態度に変わったのではなかった。登は客分の扱いだが、事実上では、近衛隊を除いた。全ての隊員の副官だったのだ。上官と言うよりも、雲の上の人々と感じるほどの上官だった。
「貴方の仕事に邪魔をしてすまなかった。出来れば名前を教えてくれないだろうか?」
「名前など、勿体無いことです。邪魔ではありません。好きなだけお話くださって構いません。時間など気にせずに、どうぞ、どうぞ」
「そう言う意味ではない。この徴兵隊を、自分の隊に編入したいのだ」
「えっ・・・・それは・・・」
「それで、名前を聞きたかったのだ」
「・・・・・・そうでしたか、それでは、こちらで手続きはしておきますので、何も気にせずに徴兵の兵員をお連れください」
名前を言って恩を売らないのかと考える者は多いと思うが、ある程度の上官なら伝えるかもしれないが、これほどまでの上官では、名前を憶えられるのは逆に恐怖を感じてしまったのだ。
「ありがたいことなのでしょうけど、我々は、先ほどの内容でないと困るのです」
「内容・・・・だと・・・新殿。それは、どう言うことだ?」
登は意味が分からないので、新に問い掛けた。だが、新は、徴兵隊の隊長に視線を向けて言って良いのかと視線を向けるのだが、なぜか、関わりになりたくない。その様な態度で視線を合わせてくれなかった。それで、登の話を断ろうとしたのだが、他の徴兵された人たちの視線を感じて、仕方がなく全てを話したのだ。
「ほうほう、特例として期間を短くしてもらったのか、それなら大丈夫だ。そのようにしよう。だが、新は駄目だぞ。一緒に都市に帰ろう。主はお礼をしたいと言っている。小津殿も心配しているのだぞ。勿論、都市の皆も同じ気持ちだ。それに、約束の饅頭も食べさせたい。あっ、憶えていないと思うが、新のお陰で都市が救われたのだぞ」
「都市?」
「そうだ。その事もある。いろいろと話がしたい事があるのだ。お前が好きな饅頭を食べながら話をしよう。あれから、新に何時あっても良いように饅頭を持ち歩いているのだぞ」
「饅頭って、仙人の霞の饅頭?」
「なんだ。記憶があるのではないか、それなら饅頭を食べたら全てを思い出せるはずだ」
「・・・・・・」
何て答えて良いのか悩むと同時に、詐欺師か誘拐犯なのかと、完全に他人と感じていた。
「新。まるで別人のようだぞ。なぁ都市に帰ろう」
「・・・・・」
「余程のことがあったのだな。俺が守れなかったのが原因なのだろう。だから、償いとは違うが都市で気持ちを解そう。前のように満面の笑みを浮かべながら饅頭を食べる姿が見たい・・・・・・・・駄目なら諦める」
登は本心で心配し、また無邪気な表情を浮かべる新がみたかった。その気持ちを新にぶつけたのだが表情も変えてくれなかったので、仕方がなく諦めようとした時・・・・・。
「自分は、新と同じ村の者です。新は、好きな人がいて可能な限り直ぐにでも村に帰りたいのです。その気持ちが心に満ちているので、他のことには関心が向かないのでしょう」
二人の様子を見て、新の態度の理由を伝えなければならないと感じた。
「そうだったのか、それなら紹介してくれよ。なあ、新、都市の皆も喜ぶぞ」
「・・・・」
登は大袈裟に言っているが、心の中での思いを伝えていたのだ。
「はい。皆が一緒で良いのでしたら行きたいと思います」
「安心しなさい。都市から他の都市に行く道の警護をしてもらうだけだ。戦いにはならないだろう。それに、期間のことも伝えておくからな」
「ありがとうございます」
「なら、一緒に俺と来てくれないか?」
「・・・・・・」
不審そうに、登を見続けた。
「当然、皆も一緒だ。と言うよりも、俺を信じてくれ。別の指揮系統に組み込まれたら助けられない。だから、一緒に来てくれ」
「分かりました」
皆に視線を向けて頷くのを見ると、登に頭を下げた。そして、登は、嬉しそうに何があったのかと、聞くのだが、記憶が無いことは言えるはずがなかった。だが、それでも、最近の村の話を嬉しそうに話しするのだった。そして・・・・。
「まだ、結婚式はしていないのだろう。西都市で結婚式をしないか?」
登は、自分のことの様に喜ぶのだが、新は、暗い顔をするのだった。
「記憶を無くしたとしても、西都市の人々は、新のことなら喜んで祝福してくれるぞ」
「そうですか、それほどのことを、自分が何かしたのですか?」
「正直に言うと、何かしたと言えばしたが、して無いと言えばしてない」
「それだけのことなのに、都市に住む人の全てが祝ってくれるのですか?」
「何があったか全てを話そう。そろそろ、この場から移動しないか、何事なのかと見物人も増えて来たし、信じて付いてきてくれないか?」
「あっ、驚いていただけです。信じていると言うよりも、信じたいのが本心です。自分の命だけでなく、皆の命を助けてくれるのですよね」
「正直に言ってくれて嬉しいと同時に悲しい。本当に泣きたいくらいだ。それでも、訂正しなければならないな。命を助けるのではない。戦になる確率の低い部隊に赴いてもらうだけだ。俺も正直に言うが、戦になる場合もあるぞ」
登は、鼻をすすっていた。本当に悲しいのだろう。確かに、新のように言われれば殆どの者が、怒りを超えて泣きたくなるはずだ。
「それでは、行こうか」
「もし出来れば、今まで歩き続けて身体が疲れているのです。直ぐに出発するのでなく、少し休ませて欲しいのです」
「安心しろ。西都市の宿泊施設に向かうだけだ。その施設で身体の疲れをとってから出発しよう。予定では、二、三日の余裕があるはずだ」
(俺が知る新とはは、まるで別人だ)
第三十二章
登は、新に言葉を掛けるのでなかった。そう思い始めている。あの崖から半年も過ぎたのだ。嫌なことだとして忘れているのかもしれない。それか、もしかしたら別人なのかと・・・・・それで、あることを聞こうとした。
「安心しました。それで・・・・・・ん?」
登が何か言いたそうとしていたので、新は、それ以上は言葉を口にしなかった。
「一つ、聞いてもいいかな?」
登は、以前に、共に行動する運命を感じると言ったことを思い出して、もしも別人でなければ、方向か、行動の理由などを言うと考えたのだ。
「はい」
「何か感じないか?」
「感じ?」
「そうだ。行けなければならない方向か、何かの運命を感じないか?」
「それを、なぜ、分かるのですか?」
「新が、何かの運命を感じると言って、俺と一緒に西都市を出たのだ。その途中に刺客に襲われて、逃げる途中で記憶を無くしたはずだ」
「あっ・・そう言う理由が・・・それで、無事を喜んでくれたのですね」
「そうだ」
「確かに、この都市に来る運命は感じていました。それで、好きな人にも別れの挨拶が出来なくても、何一つ言葉にせずに命令のまま付いてきました」
「そうか、そうか」
「あなたに会うのが目的だったかもしれません。それと、正直に言うと、西に行かなければならない。それは、感じていました」
「そうか、そうか、また、何か嫌なことが起きるのだろうか?」
登は、新の話を聞いて涙を流していた。
「それは、自分には分かりません」
「だが、ここまで大人らしくなって、本当に、いろいろな事があったのだな。俺が一緒なら助けてやれたのに・・・もっともっと・・・捜せばよかった。本当に済まなかったなぁ」
涙を流していたが叫ぶような嗚咽にかわっていた。
「もう気にしないでください。それも、運命だったのです。そのお陰で、運命の人と出会えたのですから、自分は、喜んでいるのです。だから、何も気にしないでください」
「それほどまでの女性に会えたのだな、機会があれば、紹介してくれよな」
「はい。それよりも、自分で何とかするか、それとも、誰かに相談するかと悩んでいたことを、聞いてくれますか?」
「勿論だ。何でも言ってくれ」
「この都市から西に二十里の所で盛大に篝火を一晩中たいて欲しいのです。そして、終わった後も、盛大でなくていいので、西都市の不安が消えるまで続けて欲しいのです」
「約半分の距離だな。一晩中かぁ~可なりの薪が必要になるな」
「出来るでしょうか?」
この赤い感覚器官の指示には理由があった。新も知らないことだが、篝火を焚かない場合は、北東都市が兵糧攻めの計画を実行するために、軍隊を動かして街道の占拠を成功する。それが、新が運命の相手と結ばれない時の流れなのだ。だが、赤い感覚器官は、新を運命の相手と結ばせるために指示を伝えていたのだ。それが、盛大に篝火をたくことで、大掛かりの軍が駐在していると思わせることと、街道を夜でも行き来できるように篝火で照らすことで、北東都市や他国の間者を寄せ付けない効果と、間者を安易に見つけ出すこともできるのだった。そして、当然だが、都市間の情報伝達と援軍や物資なども格段と早くなる利点にも気付くのだった。
「安心しろ。必ず実行する」
「自分の勝手な願いを聞いてくれて、本当にありがとう御座います」
新は、登に深々と頭を下げると、自分の左手の赤い感覚器官を見た。
何ゆえに、人だと言うのに左手の小指に赤い感覚器官があるのか、確かに、第一文明人であり、初代の他宇宙から来た者たちにはあったのだ。だが、武器や防御としての役目の時は、相手に見える時もあるが、普段の形態(指から手の平や手首などに宝飾品のように巻きつけて一文字遊びのように花や鳥などに変えていた)の時は(好きな者に花や動物などの形にして模様を当てさせるのが初期の恋愛の第一歩だった)それは、自分と運命の相手にしか見えないからだ。この程度の機能だったのだが、第二文明の末期には、地球に下りて暮らす人々(同属同時で擬人を守るために滅亡)、初代の人々が住んでいた星に帰ると考えた人々(宇宙を放浪中)などがいたが、最後の月に残った人々の考えのために時の流れに狂いが発生したのだ。何が起きたかと言うと、初代の人々が地球に訪れた。それ以上の過去を飛び、その地を安住の地にすると考えたのだ。確かに、数人だけの試験的な船では成功したのだが、その時の時間の流れの反動を回避する重りを砂なや土(月の地表面)に設定したのだ。当初は、微量の調整ができるので画期的と考えたのが失敗だったのだ。だが、それでも、何年も掛けて小数の人数で実行していれば何も起きなかったのだろう、と思う人もいた。それは後の祭で、人々は巨大船を作り一度で過去に飛んだのだ。その結果、想像以上の重りとして月の地表をもぎ取る事になってしまった。そして、計算違いは、もう一つあった。行き先も違ってしまったのだ。それも、想像もできない。無数の地球と、なぜか一つの衛星の月が存在する多重世界の次元の底に飛んでしまった。それでも、一つの救いは、月は人が住める水も空気も植物もあったのだ。だが、不思議な次元に住む為に身体が適応したのだろうが、子孫を残すのには、多次元の地球に飛んで、運命の相手を探さなければならない身体に変化したのだ。その力が、背中の羽衣が時の流れを感じ取り、赤い感覚器官が運命の相手の方向を示すだけでなく、祖先の過ちからだろう。運命の相手と結ばれるための、時の流れの修正の指示をする機能だった。この様な結果になったのは、自分たちの愚かな過ちなのだが、人の欲なのか、我慢できない人々もいた。また、同じ様な移住の船を作り多重世界の地球に向かった。それが、新の祖先だった。それでも、新は恵まれていたかもしれない。運命の相手が同じ世界であり。同じ時の流れに誕生しているからだ。
「新が言うのだ。特別な理由があるのだろう。だから、必ず篝火を焚くのを約束しよう。それで、肝心なことだが、日時の指定はあるのか?」
「あります。今日から一月の間で、お願いしたいのです」
「分かった。西都市に帰る時に物資と一緒に持っていこう。その途中で、場所の指定もあるのだろう。その指示をしてくれよな」
「ありがとうございます」
「やっと、話が終わったようですね。そろそろ、宿舎に行きませんか、あるのですよね?」
皆に押されて、仕方なさげに、一人の男が言葉を掛けてきた。その男は、この後に徴兵隊が編成されて大隊長になるのだが、今の様子と同じように面倒を押し付けられるのだ。
「すまない。すまない。本当に行こう。俺の後をついてきてくれ」
第三十三章
奇妙な服装の着方をする隊長らしき者が先頭に、それに似合った服装の部隊が町の中を行進していた。だが、人格を疑うような服装でもなく、勿論、宣伝を行う職業でもなかった。それなら何を着て、何をしているのかと言うと、恐らく、青白い顔色で俯いている姿から判断すると、各地から無理やりに徴兵されて宿舎に案内されているのだろう。それで、各地の民族衣装を着ているので珍しそうに、人々が見ていたと思えた。それなら、先頭に歩く隊長らしき者も、なぜ、人々から珍しそうに興味を持たれるのか、それは、都市の軍を表す軍服を着ていたのだ。それも、二つの都市の軍服だった。一つは、東都市の軍服を袖も通さずに肩に掛けていた。だが、軍の規則が合わずに乱して着ているのではない。その証拠のように西都市の軍服を不自然な折り目の一つもなく、西都市の家紋入りの軍靴には汚れもないのだから軍の規則を信条としているはず。もしかすると、無理やり東都市の軍服を着ろと命令されたが断りきれず。妥協した結果が、肩から掛けることになったのだろう。その者は、隊長とも登と言われていた。
「ほう、これが・・・・」
新だけでなく、徴兵された人々も驚きの余りに言葉を無くしていた。それは、当然かもしれない。この都市で二番目に大きい建物で豪華だったために、自分たちが宿舎として利用して良いのかと感じる作りだった。だが、隊長が門を叩くので本当なのだろうかと、何度も確認するように玄関の門に描かれている家紋と建物を交互に見ていた。
「この建物に泊まれるのか?」
「泊まる気持ちのようだぞ。隊長さんが、自分の名前を叫んでいるからな・・・・」
「礼儀などあるのだろう。俺は知らないぞ」
「それは、大丈夫と思うぞ。客人として扱うとは思えない」
「そうだよな。庭が広そうだから簡易な小屋でも作ってくれるのだろう」
「俺は、どこでもいいから身体を休ませたい。もうくたくただ」
「俺も、直ぐにでも寝たいぞ」
「だが、直ぐには休めないだろうなぁ」
「なぜだ」
「当然だろう。俺たちが、簡易な小屋を設置すると思うぞ」
「そうだろうな」
新以外の者たちが、それぞれの思いを伝え合っていた。そして、皆の考えが一致するのと同時に、新に何か言いたそうに視線を向けた。そのことに新は気が付かずに、登を不審そうに見詰め続けた。
「・・・・・・・」
「あっ・・・長老代理殿・・・・・。新さんに聞いてきてくれませんか」
と、新と同じ村人と、他の村人たちも、問い掛けたいことがあるが、登や新に聞く勇気はなく、長老代理が適切かと感じたのだ。この徴兵隊の中で一番の若い者の言葉なら同情を感じて、直ぐにでも休ませてもらえる。そう考えたのだ。
「良いよ。言いたいことは分かるから・・・それに気持ちもね。でも、これからは長老代理でなく、猛(たける)と呼んでいいから・・・・・はっはぁ」
これからも長老代理として様々なことを、誰かの代理として働かなければならないことに気がついた。それなら、長老と敬う言葉を付けて呼ばれた方が気持ちとして落ち着くのではないか、そう思われるだろうが、まだ、未成年の猛には、長老と言う言葉を付けなければ一人の人間として認められない。そう感じるのだ。それと同時に、長老と言えば、強制的に何でもすると思われているらしい。それなら、自分の名前で言われた方が考える余裕があるようにも思えた。だが、猛は一番肝心なことを忘れている。他の者たちは、徴兵されて命の危険がある。それを毎日考えて怯えているのだが、猛は、長老の役目に追われて徴兵されていることも、死ぬかもしれない。その二つのことを忘れていた。もしかすると、皆は、徴兵隊で一番若い。猛の気持ちを考えて言葉を掛けているかもしれない。だが、それにしては・・・・・・・・・。
「猛。早く聞いてくださいよ」
「何て言っていいか・・・」
猛は、登と新を見詰めるだけで一歩も動けなかった。
「だから、新さんと一緒に泊まりたいと・・・・一緒でなければ、どんな待遇を受けるか分からないだろう」
「俺は、どこでも、どんな待遇でもいい。もう動けないぞ。直ぐにでも横になりたい」
「分かりました。直ぐにでも休めるように頼んでみます。それで、いいですね」
数人の人達は、納得しない者もいたが、殆どの者は直ぐにでも横になって休みたいからだった。それは、猛も同じ気持ちだった。そして、猛は、まず先に、新に気持ちを伝えようとして一歩踏み出した。その時・・・・・。
「隊長。お帰りなさいませ・・・・・・ん・・・何か嬉しそうですね。なにがありました?」
正門の隣の小さな扉から一人の男が現れた。
「分からないか?」
そう部下に言いながら猛と話をしていたのを無理やりのように手を引いて隣に立たせた。
「えっ・・・まさか、新殿ですか?」
「そうだ」
「それは、良かったです。無事だったのですね。心配していたのですよ。本当に良かった。これで、小津殿も喜びますよ」
「そうだな。最近の小津殿は、主様の楽しいそうに読書することも、茶も飲んでくれない。そう悲しそうに呟くからな」
「そうですね。これで、少しでも都市に明るい話題を伝えることができますね」
「そうだな」
「それで、この人たちは、誰でしょう」
「ああ、今、首都の命令で東都市が徴兵をしているだろう」
「そうでしたね。我々の西都市ではしていませんがね」
徴兵に不満があるのだろう。不機嫌そうな声色だが、それでも、まだ、登に対しては礼儀を忘れていなかった。
「そう言うな、俺にも気持ちは分かる。だが・・・・」
「もしかして、訓練と同時に徴兵隊に掛かる費用も西都市が出費するのですか、もう今では、共同で陣営も配置していますし、先の援軍の要請に答えてくれた謝礼は渡したのですよね。それだけでなく、この建物も強制的に建てろとの指示に、人件費や建物などの維持する経費も掛かっているのに、まだ要求されるのですか?」
「今回は違う。それに、知らない者が聞いたら東都市の主が酷い人だと思われるだろう」
「そうでした。首都からの役人でした」
「確かに、お前らが不機嫌になる気持ちは分かる。これ以上の警備、いや、今では軍と呼ばれていたな。これ以上の軍に経費が掛かれば臨時報酬はないだろう」
不思議な会話だと思われるだろう。だが、警備隊は西都市の主が経営する会社だったのだ。それで、社員なので利益が上がれば臨時収入は当然あったのだ。だが、先ほどの、北東都市が西都市に宣戦布告されていらい。警備隊では歯が立たないことが証明されたと同時に、交易する人々からも規約の変更がなされない場合は西都市には来ないと、正式に書面で申請されては、西都市の主も変更するしかなかったのと、軍隊を組織しなければ都市の防衛ができない。そうなると、都市の主の考えでないが、湯水のように費用を使わなくてはならなくなったのだ。それだけでなく、同じ神を信じるだけで、名目的に方角で都市として名称されているが、それぞれの都市は治権を認められていた。だが、首都が他国から攻められてからは、他の都市は援軍、費用などの援助をしていた。それが、原因だったのか、戦が長く続くからだろうか、それとも、首都の権力を握る人々は当然の事と思われているのだろうか、それを、確かめることはできないが、首都から役人が全ての都市に現れて要求してきたのだ。それが、新たちが徴兵される原因であり。登の部下たちが憤慨する理由だったのだ。
「殆ど強制的に警備隊から軍に移動ですからね。確かに、元警備隊の者は以前の契約として雇うと言われましたが、それは、名目的だけで利益などでるはずがないです」
「それは、言わないでくれ、素人の者たちの指導に警備隊の力が欲しかった。まさか、他の都市や首都から教育するために人を頼む事はできないからな」
「それは、分かっています。我々は、登殿がいるから軍にいるのです。それで、この場にいる者たちを訓練すればいいのですね」
「確かに、軍に入れるが、新の命を助けた村人だから客人として接して欲しい」
「そうでしたか、それなら十分に満足して頂きましょう」
「頼む」
部下に頭を下げて頼んだ後、徴兵された人たちに視線を向けた。
「確かに約束した契約は守る。それでも、自分を守れる程度の訓練は受けてもらう」
「それは、分かっています。宜しくお願いします」
猛が代表のように返事を返した。その言葉を聞くと、登の部下は後ろを振り向いた。
「正門を開けろ」
ゆっくりと門が開けられた。まるで敷地の中が禁忌と思わせたいように重々しかった。
「さぁ~中に入ってください」
「おぉおおお」
敷地や建物は、禁忌と思えるほど神々しくはないが、一般市民でなくても驚くほどの豪華な建物と敷地の庭だった。そして、先ほどのゆっくりと開閉した理由は、本来なら六人で開けるのを四人で開けていたからだろう。それを、門の後ろを見て感じた。
「池に水が噴出しているぞ。温泉かな?」
不思議に思っている物は・・・・・。
「違うと思うぞ。確か噴水という物だ。貴族や豪商などが人口の泉を作って噴出す水を愛でるらしいぞ。それと、もう一つある。温泉ではないから入るなよ。もし入って泉を汚したと思われたら命の保証は無い」
「嘘だろう」
「本当だ。泉と噴水は庭園の所有者の命と思われているからだ」
「命か、それを汚したら確かに命は無いな」
「だろう」
「これ程の綺麗な庭園では簡易な小屋は張れないな。なら建物の中で休めるのだろうか?」
などと興奮を表している人たちの視線の先には、庭園の中心に楕円形の泉があり。その中に噴水が木を描くように噴出していた。そして、門から噴水まで一本道なのだが、噴水の木を両方から見られるように一回りして建物に向かうように作られていた。
「おおお」
二度目の驚きは建物だった。噴水が活き良くよく吹き出る姿を男性的と考えるのならば、建物は煌びやかな宝石で着飾る女性的と感じられる建物だった。まるで、大理石は白い肌を現し、花や伝説の神獣の彫刻は、女性が着飾る時に使用する装飾品と感じられた。
「驚いているようだな。確かに、俺たちも同じだった。だが、勘違いしないで欲しい。これ程の豪華な造りは、主様が好んで建てたのではないのだ。我ら西都市は他の都市に比べると武力では劣る。だが、少しでも豪華に建てることで、西都市の力を見せる必要があったからなのだ。そのお陰で西都市に交易に来る人は減らなかっただけでなく、軍隊の立場も対等になれた。勿論、徴兵されたお前らも西都市の軍としての身分だ。だから、他の都市の正規軍から命令されたとしても、同列の階級だった場合なら従う必要はないぞ」
(まあ、小津殿の知力が可なり影響しているのだが・・・それは、言わなくて良いだろう)
登は、徴兵された人々が、屋敷や庭を見て驚いているのを見ているが、それでも、顔色は青白く恐怖を感じているので、和ませようとしたのだろう。だが、直ぐに真剣な表情で説得に変わり、そして、自慢の表情を浮かべ、最後には笑みを浮かべて安心させた。
「うぉおおお」
と、徴兵された者たちは本心から歓声を上げた。それ程、徴兵されてから喜ぶことがなかったのだ。内心では、誰にも何一つ言えずに命令に従う。そう思っていた。それが、階級が同列でも、階級が下でも命令をされて命を削らなくてはならない。それが、拒否も命令をしても構わないだけでなく、意見をしても良いと言われたのだ。それが本当に嬉しいのだろう。俯いて歩いていたのが、胸を張って歩くようになった。その気持ちのまま・・・。
「もしかして、客分として目の前の豪華な建物で休めるのかな?」
「どうだろう。それよりも、俺たちの位の方が気になるぞ」
「そうだな」
などと、皆は嫌なことを考えないようにしているのだろう。その気持ちのまま登の後を付いて行く。
「やはり、俺たちは客分として接待されるのだな」
登が、玄関の前に止またからだ。
「この場所から庭を眺めるのが一番の特等席だな・・・・・・後から見てみるといいぞ」
腕を組んで満喫していたが、自分がしなければならないことを思い出して歩き出した。
「えっ」
皆は驚きの声を吐いた。もっと正確に言うのなら失望に変わったのだ。それでも、その場から動かなければならない。そして、何処に向かうのかと考えながら、登の後を歩き出したのだ。
「どこに向かうのだろうか?」
「倉庫でないのか、武器などは、まだ、渡されていないのだからな」
「ああ、そうだな」
先頭に歩く登に聞えない声で囁いている。だが、人が大勢の囁きでは、恐らく、登の耳に届いているだろう。それには、気付かない振りをしているのだろうか、何事もないように歩き続け、建物の正面を、そろそろ過ぎようとしていた。すると・・・・。
「建物の中でなくて、庭で簡易な小屋でないのか?」
徴兵された人々は、益々、囁き声は大きくなり不満を表し始めた。すると、囁くのに夢中で一瞬だけ目を離したすきに登の姿が見えなくなったので皆は走り出した。すると、建物の裏に居た。
「どうした?」
大勢の駆ける音が聞えたので、登は振り返った。
「何でもありません」
「そうか、なら、それでいい。もう少し付いてきてくれ」
「はい」
全ての者が拒否できるはずもなく即座に頷いた。そのまま止まらずに、正面の屋敷の横を歩くと、視線の先には中庭が視線に入った。だが、敷地内の全貌は分からないだろう。もし、空中から見る事ができたのなら、長方形の屋敷が四棟あり、中庭を囲むように四棟が建てられていたのが分かるだろう。そして、先頭に歩く者が中庭に入ると・・・。
「村ごとに分かれてくれ」
登が腕を組みながら正面の建物の裏で立っていた。それも、建物の中間で自分の前に整列しろ。そう伝えるような様子だった。皆は、登の言葉が聞えた者は、従いながら自分の後ろの者や知人に指示されたことを伝え合った。一瞬、ざわめきとも思える声が響いた。その声が、登には届いているはずなのだが、正面を見続けるだけで何も言わなかった。全てが知らない者たちなら時間が掛かっただろうが、村ごとに固まっていたのもあっただろうが、先頭に歩く者は、村の中でも慕われる者なのだろう。その者を中心に適当に固まって、登の前に集まった。
第三十四章
徴兵隊の者達は、適当に村ごとに集まった。
「それでは、これから皆に言うことがある」
やや、不機嫌そうな大声を上げて、登は、皆を自分に振り向かせた。その声色で、皆は何があると、少し緊張したのだろう。囁くのを止めて、登を見た。
「その前に、俺が四人を選ぶから前に来てくれ」
登が皆に言うと同時に、四つに分かれた人々の中から中心にいる四人に指差した。その者たちは、自分なのかと、自分の指で自分を指して確認を取った。そして、四人は、登の前に並んだ。それも、指示を与えてないが、横に並んで何か言われるのを待ったのだ。
「この四人を村ごとの長とする。この指示に拒否を認めないし、不満も認めない。そして、直ぐに、村ごとに一列に並んでくれないか」
殆どの者は、強制的な命令だと感じたのだろう。無言で直ぐに従った。そして、並び終わるのを確認し、登が何度も頷いて納得すると・・・・。
「これから話すことを忘れないで欲しい。一つ、この四つの村の集まりを大隊とする。二つ、二つの村の集まりを中隊とする。三つ、一つの村の集まりを小隊とする」
「・・・・・・」
無言だったが、同じ村ごとで行動すると分かり安心しているようだった。
「選んだ四人を小隊長とする。そして、四人に始めての指示を与える。四人は、百二十人の中から三十人を選んで、五つの班を作り、六人で班と呼ぶ。そして、班長と副班長を選ぶ事、これは、明日の朝まで良い。最後に、新を大隊の客分とする。この客分とは、私だけの指示に従うことであり、大隊の中の誰の命令にも従わない。もっと簡単に言えば、俺の副官だ。仮に俺に何か言いたいことがある場合は、俺でなくて、新に相談をすること、だが、軍の指示を伝ええる場合は、先ほどの四人にしか伝えない。まあ、精神的なことや物品や四人に言えないことを相談すると考えて欲しい。それでも、言ったからと言っても叶えられるとは思わないことだ」
「・・・・・・・」
皆は、直ぐに返事を返すことは出来ないようだ。だが、拒否できないことも分かっているので、何も言わずに、登を見続けた。
「疲れているだろうから、これ以上は何も言わない。正面にある建物で休んで欲しい。部屋割りは、先ほどの四人が決めて構わない。それと、食事が出来た場合は、俺の部下が呼びに行く、それまで自由に寛いで構わないし、建物の中の施設も使用を許可する」
登が自分で決めないのは面倒だからではない。それに、一日時間を置くのも気持ちを落ち着かせる考えもあるが、一日の時間で人と人の相性と判断させて、最適な班を作らせる考えもあったはずだ。
「それでは、解散する。好きなように寛いでくれ」
やっと休めると分かっているはずなのに、皆の感情を表すはずの、ざわめきは響かなかった。もしかすると、今頃になって、やっと厳しい軍隊に編入されたと肌で感じたのかもしれない。そして、軍隊としては当然だが、上官が休めと言われないために誰も姿勢を崩さなかったのか、それとも、登の軍人の殺気を感じて動けなかったかもしれない。
「・・・・・・」
皆の視線が、屋敷の裏口に向いていた。正確に言うのならば、それは、登が裏口に向かっているので、扉の中に消えるはず。その様子を見てから心身とも休もうとしているのだ。
「ふぁあ~」
裏口の扉が開けられて、閉じられると緊張が解けたのだろう。大きな溜息の声が響いた。それも、殆どの者達だったので、もしかすると、扉の向こうの登の耳にも届いたはずだ。
「それでは、行こうかぁ」
登に指名された四人の男が後ろを振り向いて、同じ村の者に言葉を掛けた。
「はい。隊長」
「いや、それは違うだろう。小隊長と言うべきだなぁ」
「まてまて、今までの通り。達也(たつや)でいいよ」
同じ村人の集まりで同じ様に隊長になった者に祝福をしていた。その中で達也は、登が決めたことに拒否できるはずがないのだが、それでも気持ちでは承知することができなくて、せめて名称だけでも拒否しようとしているようだった。その名称だけでも無理だと早く気が付いた。そんな三人の男が、達也と村人が話している所に近寄って来た。
「それは、駄目だな。大隊長と呼ぶべきだろう」
「いや、中隊長だろう」
「いやいや、大隊長になる器だよ」
「お前ら、ちょっと待て、面倒だから俺に押し付ける気持ちだな」
「何を言っているのだ。これほどの者たちが慕っているだろう。そんなことを言わないでくれよ。悲しくなるだろう」
「悲しいと言っていながら笑っているだろうがぁ」
「まあ、そう怒るなよ。もう大隊長は決ったのだからな」
「だから、チョット待てって」
「そんな聞き分けの悪い事は言うなって、早く決めないと休む時間が減るのだぞ」
「そうだよな、それで、誰が、中隊長をするかだな?」
「待てって言っているだろう。勝手に決めるなって、俺の話を聞いているのか?」
三人の小隊長は、大隊長が決められた安心感なのか、それとも、もう一つの面倒な中隊長を自分がすることにならないように説得と言うか、自分が駄目男だと証明するように説得しようとしていた。このような状態では、達也の話しなど聞く者などの居るはずもなかった。そして、四人を囲むようにして、他の村人は早く終わらないかと不満そうに見ていた。その周りの中に達也も追いやられた。だが、それでも、拒否すると叫び続けていたのだが、三人には聞えていないようだった。そして、我慢の限度を超えたのだろう。
「大隊長として命ずる。黙れ」
この叫びで、この場の全てが口を閉じた。
「認めたな」
「お前の性格では、最後は認めると思っていたよ」
「認めてくれましたか、何でしょうか、大隊長殿」
「お・・前ら・・」
達也は極度の怒りのために言葉にしたいことが言えずにいた。その不満を二つの握りこぶしで気持ちを抑えようとしていた。
「そんなに怒るなよ」
「そうだぞ。四人の中で村長の血筋と言えば、お前しかいないだろう」
「俺は、村長の従兄弟の息子だぞ。殆ど他人だ」
「それを言うなら、俺たちは普通の村人だぞ」
「そうだ。そうだ」
「うっうっ・・・わかった・・・なら・・俺が大隊長と言うなら中隊長は俺が決めて良いな。当然だが拒否は認めないぞ」
「・・・・・・」
三人は達也の指示に従う気持ちだった。だが、即、返事をすると、初めの者を指差すはず。そして、・・・・・。
「お前が中隊長だ」
と、言うはず。そう思っていたので無言で達也を見続けた。
「お前に任命する」
「はい。その任命を快く受けたいと思います」
「頼んだぞ。そして、一言だけ言っておくが、任命した理由は、三人の中で癇に障るくらい馬鹿笑いしていたからではないぞ。新の気持ちを考えると、俺は他の村の者だ。それで話しやすい同じ村の者がいいだろうと思ったのだ。本当に癇に障ったからではないからな」
「はい、はい。分かっていますって」
やっと、全てが終わって休憩が取れる。そんな雰囲気の時だった。
「あのう」
新が、心底から困ったような表情で手を上げていた。
「どうした?」
「僕のことは考えなくていいですよ。何か特別な待遇をされて困っているのに、これ以上、同じ徴兵隊の中でも特別な扱いだと本当に困ります」
「ああ、俺が中隊長にした動悸の話しか、あれは嘘だぞ。絶対に俺に対しての嫌がらせだ」
達也に指差しながら新に誤解と解こうとしていた。
「まあ、嫌がらせか違うかの話しは後で話すとしても、新を特別の扱いするためではないぞ。感謝の気持ちと、これから、登殿の用件が増えると思って、何かと話しやすい者と考えただけだ。どうしても嫌なら他の二人にするか?」
「そう言う理由なら構いません」
「チョット待て、俺は嫌がらせなのか確かめたいぞ」
「そうか、俺はいいのだが、皆の雰囲気では、これ以上この場に居ることになれば怒りが爆発するだろう。そうなれば命の危険を感じるはず。それでも良いのなら付き合っても構わないぞ」
「むっむむ」
龍次は、自分に視線を向ける徴兵された者たちの中で、一人、二人と隠れるようにして建物に向かう者を見た。この者たちは、自分を失望して建物に向かったと感じていた。まだ、この程度の人だから良いが、一分、二分と時間が過ぎるにしたがい。失望する者が増えるだろう。それは、確実なことだ。それに気が付き諦めるしかないと感じたのだ。
「建物に入ろうか、いろいろな施設があるらしいし、温泉があるといいな」
「中隊長。温泉があるといいですね」
「そうだろう。なら・・・建物の中の施設に温泉を探しに行くぞ」
「お供します」
第三十五章
龍次は、まだ不満を感じていたが、部下となる者たちの表情を見て諦めたようだ。その気持ちに答えようとしたのか、皆は嬉しそうに返事を返した。この様子を見て、達也は、登の人を見る目は確かだと感じた。そして、自分が中隊長として選んだことにも間違いでなかったと感じたのだ。だが、それでも、三割の者は勝手に建物に入っていたことは、分かっているのだろうが、想定の範囲内と思っているような視線で、皆を見ていた。
「温泉か・・・・あるといいな・・・・俺も行くか」
皆が楽しそうに向かう姿を見たからだろうか、それとも、一人残されたからか、悲しそうに呟いた。恐らく、笑みが消えるほどの厳しい命令を言わなければならない。それが分かっているからだろう。そんな気持ちで歩き続け、玄関の扉を開けようとした時だった。
「何があった」
人の悲鳴・・・海賊が金銀財宝を探し出して我を忘れている。そんな悲鳴と言うか、いや、まだ生ぬるいかもしれない。海賊ならお頭の言うことを聞くからだ。まるで、人としての感情を忘れて、自分の欲望だけを満足する獣としか思えない。そんな、狂った人の叫び声だったのだ。
「・・・・・・・」
人としての感情が残っていて欲しいと、願うように扉の取っ手を握った。それでも、もう、満足するまで誰も止められないだろう。そう感じる叫びだが、それでも、隊長だからではなく、人としての感情から止めさせなければならない。そう心に誓った。
「人として恥ずべきことだぞ。直ぐに狂気の宴を止めないか」
と、叫びながら扉を開けた。すると・・・・・。
「えっ・・・・・何をしている?」
三人の男が、部下に指示をしながら思案している様子だったのだ。確かに、先ほどの想像とは違って、皆が興奮を表しているが、達也が考えていた内容と違っていた。
「隊長。青白い顔をして・・・どうしたのです?」
「恥ずべきこと?」
「狂気の宴?」
「気にするな。何でもない。それで、何をしているのだ?」
「全てが新品なのです」
「なぜ、それが、分かるのだ。それに、折り畳んでいる。その紙は何だ?」
「椅子、戸棚、戸棚の中の皿など、全てに薄紙で包まれていたのです」
「何だと?」
部下の話を聞いて周りに視線を向けた。すると、部下たちは、家具、椅子、戸棚、窓硝子など、部屋にある全てから薄紙を剥がしていた。勿論、先ほど聞いた。狂気の叫びを上げながらだった。
「この薄紙だけでも、それなりの値段はするはずです。それを、包んでいるのですから可なりの値段がすると思うのですが、包みを解いても良かったのでしょうか?」
「隊長。今、俺たち龍次が言ったのと、それと、包装紙も捨てて良いのか、それを、隊長に聞きに行こうとしていたのです」
三人目の小隊長が、話題の付け足を話していると・・・・。
「小隊長、温泉がありました」
「小隊長、各部屋に衣服が置いてありました」
「まさか、人数分が用意されていたのか、それは、どう言う意味なのだ。これは、元から計画されていたのか?」
「そう言う意味ではないと・・・・・感じられます。一つの部屋に十人が寝られるように寝代がありまして、その上に衣服が置かれていたのです」
二人の男は息を切らせていた。恐らく、建物の中を探索しながら走り回って来たのだろう。だが、建物の中が広いからではなく、探索して驚いたことを速く知らせたいのと、早く温泉に入って身体の疲れを取りたいのだろう。
「え?」
「二十の部屋がありまして、同じ様に寝代の上に衣服が置いてあったのです」
「百二十人分はあるのか?」
達也が言った事の意味が分からないと、不審そうな表情を浮かべるために、部下は、この場の一番の上官に、又、同じ事を話した。そして、達也は信じられないのだろう。確認のために、衣服の枚数を問い掛けたのだ。
「えっ・・・そうなりますね」
男は、計算が苦手なのだろう。少し考えてから返事と同時に頷いた。そして、三人の小隊長と、残りの部下は手を休めて、達也に視線を向けて指示を待ったのだ。だが、達也も何て答えてよいかと、一瞬だけだが、新に視線を向けて助けを求めた。その気持ちが新に伝わったのだろう。
「隊長。二百人分がありました」
「そうか、ならよかった」
「登殿に聞いてきましょうか?」
新は、何もしなくて良いと言われて、玄関にある受付みたいな所で悲しそうに皆が作業するのを見ていたのだ。そのような気持ちだったので、達也から視線を向けられて、喜んで頷き、向かいの建物を示しながら答えたのだ。
「いや、それは良い。包み紙などは何かに使えるだろう。綺麗に折り畳んでおこう。そして、俺が食事を食べ終えた時にでも、登殿に聞いてみる」
皆に視線を向けて達也は思いを伝えた。その後に、新には視線と同時に、片手で済まないと気持ちを伝えたのだ。そして、新は・・・・。
「分かりました」
また、悲しそうに頷いた。
「それでは、皆で、早く片付けて温泉に入るとしよう」
満面の笑みで、達也も気持ちを表した。
「僕も何か手伝いたいです」
そして、新は、無理に頼むような視線を達也に送った。
「それでしたら、自分と建物の中を見回りましょう」
「はい」
「龍次。後は頼むぞ。俺が帰ってくる前に終わるようなら先に風呂にでも入っていてくれ」
命令と言うよりも、親しい友でも言うような言葉使いで指示を託した。
「はい、はい。畏まりました。お気を付けて」
命令された方も、気さくな言葉を掛けた。
「それでは行きましょう」
第三十六章
二人の男は、玄関の広間から左右に廊下があるのだが、二手に分かれるのでなく、右に進んだ。そして、直ぐに左側に便所が、右側に洗面台があった。恐らく、左の方にも同じような位置で便所と洗面台があるのだろう。そのまま進み、左側には百個の収納棚が並び、右側には十人部屋が十室あった。その隣に湯殿があり、突き当りが階段になっていた。二階には会議室のような大広間と図書室に倉庫らしき空き部屋があった。残りの左側の上に当たる部分には武器庫があり。そのまま突き当たりまで行くと階段があった。階段を下りると、やはり右側と同じように、左側に百個の収納棚と右側に十室の部屋があった。一つ違うのは、湯殿がある所が食堂室になっていた。そして、全てを回り玄関の広間に戻ると・・・。
「隊長。今やっと全て終わりました。これから風呂に入る所でしたが、一緒に行きますか?」
今、全てが終わったように言うが、戻って来るのを待っていたのだろう。
「そうか、そうか、一緒に入りたいが、登殿が食事の用意が出来たと言いに来るかもしれない。だから、俺は玄関の広間で待つよ。あっ、新さんは、自分に付き合ってくれないか」
「構いませんよ」
新は、頷いた。
「そうですか、分かりました。先に入らせてもらうよ」
三人の小隊長を先頭に、同じ村人が歩き出した。そして、滝崎村の人が同じように広間で待つのかと、達也を見るので・・・。
「あっ、龍次。滝崎村の者も一緒に頼む。そして、着替えは軍服を着てくれ。二階の倉庫にあるからな!」
皆に聞えるように指示を伝えた。
「分かりました」
皆が、玄関の広間から居なくなると、新に視線を向けた。
「新さん。椅子に座りましょう」
「はい」
「残ってもらったのは話があったからです」
「話しですか?」
「そうです。自分だけの胸に留めておきますから話を聞かせえてくれませんか?」
「話したいのですが、記憶がないのです」
「それは、分かっています。ですが、登殿の都市に帰る途中で何かをするのですよね」
「どこで何をするか、それは、その場所に行かないと分かりません」
「そうですか」
「心配しないでください。危険はありません。ある場所で盛大な焚き火をするだけです」
「えっ」
「驚くでしょうが、敵に大勢の援軍が来たと知らせるだけです」
「良かった。皆が何をするのかと心配していたはずです。それなら、今の話は言ってもいいのですね」
「構いませんよ。僕も何となく雰囲気で感じていましたからね」
「それなら、皆に話をしてくるよ。ここは任せてもいいかな」
「何もしていないのです。この程度のことなら構いません」
「すまない。直ぐに誰かを寄越すよ」
「大丈夫だと思いますよ。百人分以上は作るのです。一時間や二時間ではできないと思いますし、先に僕たちより、登さんたちが先に食べるでしょう。だから、ゆっくりどうぞ」
「そうだな。ゆっくり湯に入ってくるよ」
そして、十五分が過ぎると・・・。
「待たせたな」
龍次が現れた。
「早かったですね」
「俺は、鴉の行水だからな、もういいぞ。湯に入ってこいよ」
「ありがとう。入ってきます」
湯殿に向かう途中に部屋を見てみると、何人かの人が寛いでいた。
(部屋割りは決ったのだな。僕はどこの部屋だろう)
と、考えながら歩いていると・・・。
「新さん」
猛が声を掛けて来た。
「軍服を着たのですね。似合っていますよ」
「そうかな?」
「それにしても、丁度よい物がありましたね」
「ああ、何人か服が合わなくて、二階の武器庫にあったらしくて、私の分も持ってきてくれたのです」
「そうでしたか」
「それと、これ」
猛が着替えの軍服を手渡した。
「ありがとう」
「新さん」
「何?」
「風呂に入っている時に決めたのですが、私たち村の者は、十人に分かれて右の一番と二番と三番の部屋に決りました。勿論、新さんと一緒の部屋にしてもらいましたよ。だから、風呂から上がったら右の二番の部屋にきてくださいね」
「ありがとう」
猛と別れ、湯殿の扉を開けて見ると驚きを感じた。まだ人が入っていたからではなかった。今までと言っても記憶をなくしているのだから正確な記憶ではない。それでも、新だけでなく、他の者も同じ様に驚いていた。当時の湯殿は、(更衣室)着替え室と言えば、屋根があるだけで雨や風の寒さに耐えながら衣服を脱ぎ、適当に置かれた籠に着替えを入れる。そして、軽く湯を身体に掛けてから湯に入るのだった。だが、建物の中に湯殿があるだけでも驚きなのに、五十人用の簡易な扉がある棚があるだけでなく、当時では珍しい浴室鏡が数個もあったのだ。もしかすると、軍は規律と身だしなみに厳しいと聞くので、他の軍組織でもあるかもしれない。そう思考するのも忘れるくらい興奮していたのだ。そして、最も期待している浴室の扉を開けたのだ。
「えっ」
すると、湯船が見えると思ったのに、屏風のような物が置かれて中の様子を遮っていたが、中の様子を隠すのでなく入浴方法が絵で描かれてあった。ここまでする理由は、衛生管理が目的だろう。それに、気が付いていないみたいだ。
「これって、シャボン玉だよな」
「そうだろう」
「これって、身体を洗うための物だったのだな」
「いい匂いだな」
「それに、これ鏡と言うのだろう。俺って・・・こんな顔だったのだな」
「・・・・・」
まるで、子供が始めて自分の身体を洗う時のように楽しんでいた。そして、新は、無言で鏡を見る者の隣が空いていたので座って身体を洗おうとしたのだが、何となく隣を見た。
(確か、小隊長の太郎さん・・・だよな・・何しているのだろう)
「どうしました?」
「えっ・・あっ・・想像していた以上に髭が伸びていたので剃りたいと思ってなぁ」
「そうでしたか・・・・・・あっ、もしかして髭剃り刃が欲しいのですね」
「まあ、そうだな」
「それでしたら、後で、登さんに伝えておきます」
「すまない。それでは、失礼する」
と、笑みを浮かべて返事をしてくれたが、他にも何か悩みでもあるかのように浴槽の方に歩いて行った。そして、自分も身体を洗うと、湯船がある方に向かった。
この当時では、身体に湯を掛けるだけで湯船に入るのが殆どだった。そのために、身体の調子が優れない者は病気に成り易かった。それで、屏風に入浴方法を描いて最低限度の衛生を保とうとしたのだ。
「ほう」
湯船は、更衣室に五十人の簡易な扉がある棚があったこともあり、大きいだろうと思っていたが想像よりも大きかった。もしかしたら無理したら百人は入れるだろうと思えるほどで、常に薄い乳白色の温泉が流れていた。
「おお来たか、いい湯だぞ」
浴槽の中から達也が手を振って、新を手招きした。そして、新は頷くと、言葉を掛けてくれたのに無視するのも変だと思ったのだろう。
「そうですね。広くて丁度よい温度ですね」
そう言葉を掛けながら隣の湯船に入った。
「この建物を建てた領主って、どんな人なのだ?」
「・・・・」
「記憶がないのは知っている。ただ、どんな人なのか考えていて声が出ていただけだ。だから、気にしないでくれ」
「そうですね。豊かな都市なのでしょうね。もしかしたら、この東都市よりも大きいのかもしれませんね」
「そうだな。徴兵の兵士でなく、気ままな観光として言ってみたいと思うよ。だが、徴兵なんてなければ、俺たちは村から出るなんて考えもしなかっただろう。そう考えると、良かったのか、悪かったのか、不思議な気持ちだよ」
「そうですね」
「だろう」
達也が、それとなく、湯船の中にいる者に視線を向けた。それは、二人にして欲しい合図を送った。もしかしたら記憶喪失は嘘で何か話をしてくれる。そう思ってのことだろう。
「俺は・・東都市や他の村を見るまでは、自分の村は豊かだと思っていた。毎年祭りも行われていたからな」
「祭ですか?」
「そうだ。だがな、俺の村は物心付く頃には、もう何かの仕事をしていたよ。洗濯、野菜洗い。いろいろな、まあ、冬はしたくなかったが、夏の時は洗濯するなら川遊びができたから急いで洗って、泳いだり潜ったりしていたよ。そして、俺が洗ったのを汚れが落ちてないとか愚痴を言いながら二度洗いしていた。今考えれば、親の目の届く所で遊んで欲しいだけだったのかもしれない。だが、それでも、大人たちは、子供の様子を見ていて、何が得意か判断して、仕事ができる歳になると本当の仕事を与えられる。だが、東都市では、子供が遊んでいるのは不思議に思っていたが、鍛冶屋に生まれた者は鍛冶屋になる。それが、普通らしいな。それでも、次男から下の子は兵になるか旅商人になるらしい」
「東都市って仕事が決っているのですか、不思議ですね。それでも、生まれた所も、登さんの都市も記憶がないから分かりませんが、僕を介護してくれ村の一員にしてくれたところでは、仕事は決っていませんでした」
「そうか」
「ねえ、達也さん。いや、隊長」
「好きなように呼んでいいぞ」
「はい」
「それで、何だ?」
「今の話は誰に聞いたのです?」
「ああ新は、鏡泉村の者だったな。俺は、滝崎村から徴兵された者だから徴兵に来た隊長の部下に話を聞いたのだよ」
「そうなのですか・・・あ・・・・・」
「何か思い出したのか、それとも・・・・しなければならない計画の変更か?」
「あっ何でもないです」
いかにも何かを隠しているような様子だった。
「・・・・・・・」
達也は大きな溜息を吐いた。
(登以外は、誰も信じていないのか?)
「湯に長く入りすぎたようだ。先に上がらせてもらうよ」
心底から悲しそうにがっかりとうな垂れていた。それでも、湯辺りしたと思わせるのは忘れていなかった。
「はい」
一人残されて安心したのだろうか、新は嬉しそうに笑みを浮かべると、心の思いを口から出していた。
「美雪さんですか?」
第三十七章
赤い感覚器官の働きか、それとも、羽衣の繋がりなのか、まさか、泉の力なのか、いや、三つの繋がりと、二人が偶然の時間で水に触れたからだろう。
「この心臓の鼓動は、美雪さんのだ。間違えるはずがない」
名前を言うと、返事のように心臓の鼓動と思える感覚が早くなったのだ。そして、今居る場所を感じ取れた。それは、まるで会話をしているようだった。
「感じるわ。新さんですね」
美雪は、村での一日の仕事が終わる時間は、新も一日の仕事(徴兵)の時間が終わっていると感じて、直ぐに泉に来たのだ。そして、前のように泉の水を口にしたら、新が何処にいるか感じた。それで、また、感じ取れると思い。泉の水を口に入れたのだ。すると、同じように、新が居る方角と無事を感じた。それだけでなく・・・・・。
「この心臓の音は、新さんだわ。間違いない。それだけでなく、私の気持ちも分かるのね。だって、言葉を掛けると心臓の鼓動が早く感じるもの」
美雪は嬉しいと思う気持ちと同時に、もっと感じようと、両腕で強く自分を抱き締めた。
「美雪さん。大丈夫ですか・・・・何か圧迫を感じるよ」
「新さん。大丈夫なの?悲しみの鼓動を感じるわ」
「もしかして、僕が、心配しているから命を削るような気持ちで鼓動を送っているのだね」
「新さん。私が泣くから・・悲しむから・・命を削る気持ちで無事を知らせるために鼓動を送っているのね。もう大丈夫だから・・・心配しないで・・もう気持ちが伝わったわ」
「あっ湯に使っているから伝わるのだね。もう出るね」
「泉の水を飲み続けるから・・・無理やり命を吸い取り続けるように心臓の鼓動が伝わるのね。もう飲まないから・・・・もう安心したから・・泣かないから・・もう大丈夫よ」
「美雪さん。ありがとう。もう大丈夫だよ」
新が思うと、返事のように鼓動がゆっくりと正常な鼓動に落ち着いてきた。そして、美雪も同じ鼓動を感じて安心を感じた。それは、美雪が飲んだ。その泉の水が身体の隅々と浸透するのと同時だった。それは、新にも同じだった。身体に付いた温泉の湯水が身体から流れ落ちて消えるのと同じ状態だった。
「早く着替えなくては・・・もし僕が風邪を引いて、美雪さんに風邪がうつったら大変だ」
「新さん」
この場から離れなくてはならない。そう感じるのだが、まるで、母の鼓動で安心する幼子のように鼓動から離れる事ができなかった。だが、涙も止まり気持ちも安心したからだろう。それとも、運命の神が女性としては酷なことで、この場から無理やり離そうとしているのだろうか、もしかすると、両方とも当てはまるかもしれない。
「グ~グルグル~」
この音は、美雪は空腹を感じてないのだが、身体の機能が勝手に食事を催促したのだ。
「えっ・・・嘘。もう~やだぁ~」
美雪は自分の血液で茹で上がるのではないか、そう思えるほどに真っ赤な顔をして、無我夢中で走り出した。この走りで一気に泉の水が身体に染み渡り消えたことで不可思議な繋がりは消えた。同じ時間で、新も身体に付いている湯水を布で綺麗に拭ったことで消えた。それでも、少しだったが、美雪と話ができて嬉しかった。その嬉しい気持ちを抑えてから軍服を手に取り、気持ちを引き締めながら軍服を着ていた。その時だった。
「新さん。上がりましたか?」
猛は、まるで女性の入浴施設にでも入るように恐る恐ると扉を開けた。これは、恐らく、入浴していたなら邪魔をしないで帰って来いと言われたからだろう。
「ああっ猛さん。今・・上がりましたよ。どうしました?」
新は、猛の声を聞いて、慌てて服を着た。
「登さんの使いの方がきました」
扉を半開きのまま、猛は返事を返していた。その様子を見て、猛は風呂を済ましているのだし中に入れとは言わなかった。もしかすると、呼びに行ったのを良いことに一緒に風呂に入り直した。そう思われないためかもしれない。そのような素振りを普通は感じるはずなのだが、新は、何も気が付かないまま問い掛けた。
「もしかして、食事が出来た。その知らせですか?」
「そうです」
「それでは、登さんの所に直ぐにでも行きましょう」
「はい」
猛は安心したように扉から離れて待った。そして、新は先ほど着ていた着物を手に持つと、待っていた猛にぺこりと頭を下げてから左手で扉を閉めた。それから、猛と共に玄関の広間に向かったのだ。
「来ましたね。それでは行きましょう」
やはり、皆は玄関の広間で、新を待っていた。その声を上げた者は、襟に縫い付けてある兵としての位は最下位と感じられただけでなく、軍服の上に白い割烹着をしていたのだ。この男が、いや、男たちが作ったのだろう。そして、皆は、嫌な予感を感じた。それは、男の料理が美味しくない。そう思うことではなく、次からは、自分たちが自分の料理を作るのではないか、そう思ったのだ。そして、何処に向かうのかと、皆は付いて行くと、右側に同じ様な建物があり。その中に入っていた。
「食堂室は、こちらですよ。まあ、同じ造りの建物ですから分かりますよね」
と、返事も聞かずに進み続けた。まるで自分の自由時間がなくなる。そんな雰囲気を感じたので、皆は無言で後に続いた。それにしては、誰一人とも会わないのは、まだ、軍隊訓練などでもしているのだろうか、などと、不安そうに、皆は食堂室に向かった。
「どうぞ」
白い割烹着を着た男は、扉を開けると食堂室に入らず、皆に中に入るように勧めた。
「うぉおおおお」
先頭を歩く者が中に入ると、大勢の人々の祝福の拍手が響いた。
「我が西都市の部隊に、ようこそ」
「部隊の一員になるのを歓迎するぞ」
「主様のため、都市のため、自分のために共に戦おう」
「無事に満期契約まで頑張ろう」
徴兵隊としての最大の禁忌を口にした者がいたので、一瞬だが沈黙の後に、この騒ぎの趣旨を登が伝えた。
「・・・・・・・まあ、無事は当然として・・・驚かれたと思うが、君たちの歓迎会として、我々が食事を作ったのでゆっくりと食べて欲しい。そして、恐らくだが、まともな食事は、この食事で最後になるだろう。次からの食事は、自分たちで作るのだぞ」
「・・・・・・」
皆は想像していたのだろう。だが、嫌だと言えるはずもなく、押し殺したような雰囲気が食堂室の中に広まった。
「それでは、食事が冷めるだろう。我々は、自室に帰るが、食器などは、そのままでよい。それに、班長までは決った頃だと思うが、まだ、班の組み合わせまでしていないと感じられる。それを、食べながら考えるといいだろう」
新しく徴兵された者たちが、椅子に座るのに、四人の隊長に視線を向けながらおろおろとしながら席に座るのを見て、班の組み合わせが決ってないと感じたのだ。もしかしたらだが、いや、登は、小隊同士で談話でもする考えだったと、不機嫌な表情を浮かべていたのだ。他の一般兵士も、今回の徴兵された者たちは考えが甘い。そう失望したと視線を向けながら食堂から出て行った。そして、一人残る。登が、最後に脅すような言葉を吐いた。それは・・・・・・。
「だが、今日中に班を決めるだけでなく、部屋割りから職業分担まで決めてもらう」
と、話が終わると、黒板に紙片を貼り付けた。
「そして、これだけは言っておく。明日になっても腑抜けた様子なら叩き直すぞ。良いな」
「はい。分かりました。よろしくお願いします」
そう、皆が大声で、それだけでなく息の合った声だった。その言葉を聞きながら食堂から出て行ったが、登は、皆に悟られないように嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「一膳に感謝を・・・・」
達也が立ち上がり、皆に始めての命令を伝えた。そして、数十秒の黙祷の後・・・・。
「頂くぞ」
皆が一斉に食べ始めたが空腹だったのだろう。無言のまま無我夢中でがつがつと食べていた。そして、数十分が過ぎた。真っ先に食べ終えたのではないが、皆が食べ終えたのを確認すると、また、達也が立ち上がった。
「大隊長として命令をする。小隊長は、五つの班を作り隊長と副隊長を選ぶのだ」
「承知いたしました」
三人が頷くのを確認した後・・・・。
「猛。俺は大隊長となってしまった。まるで、徴兵隊の代表みたいな感じになったが、それでも、俺は、徴兵隊の代表は猛だと思っている。お前は村長の息子だ。それ以外は普通の村人だからだ。それで、自分の気持ちや意見が言える立場として班長になって欲しい。 そして、鏡泉の村の班長と副長を決めてくれないか?」
親しい友に話をするように優しく語り出した。もしかして、徴兵隊の中で一番若いので、何かしらの立場の役職にならないと、雑用のような様々ことを押し付けられる。そう思う考えがあった。そんな雰囲気を感じられたのだ。
「はい。それでは、何かと相談相手になってくれている。与平にしたいと思います。それで、残りの三人は、与平に考えてもらいます」
「構わない。それでは、紙片に書いてくれないか」
「分かりました」
「寅之助。滝崎村の班長と副班長は、お前が決めてくれないか、構わないか?」
「何も問題はありません」
「すまない」
そう言うと、安心して椅子に座った。そして、腕を組みながら他の村の者たちを見回した。まるで、その視線は、さっさと決めろと急かしているようだった。だが、その視線に気が付かないほど真剣に話し合っていた。
「時間がかかりそうだな」
それは、そのはずだ。皆は面倒と思うと同時に、隊長などの役に就けば命の危険度が上がると考えているので、いかにして自分には向かないと声を上げるだけだったのだ。
(仕方がない)
達也は、決りそうなら時間が過ぎても気にしない気持ちだったのだが、皆の様子と話を聞いていると、このままでは明日になっても決らないと思ったのだ。それで・・・・。
「大隊長から命令する。小隊長が指名して決めろ。そして、俺の村の班長は、達郎、寅之助、辰夫、三郎、五郎、が班長だ。そして、五人で副長を決めろ」
立ち上がると同時に脅すように伝えたのだ。
「はい。その指示に従います」
まるで、この言葉を待っていたと言うように、それぞれの小隊長は、何も不満を感じない返答だった。そして、名前を叫ぶのだった。
「源五郎。平蔵。二人を班長に決める。二人で相談でもして、班長、副長を決めてくれ」
「辰二郎。三平。二人に班長になってもらう。そして、二人で、班長と副長を決めろ!」
二人は、達也の指示を待っていたのだ。それは、同じ村人であったために無理には言えなかったのだ。だが、自分で決めることにはなるが、それでも、上からの指示だと言えば後から苦情を言われたとしても、大隊長から指名とも言い訳が言えるからだった。
「それでは、決ったようだな。紙片は、我が暫く居ることになる玄関広間に貼っておく。明日の朝まで書いておくこと、それでは帰るぞ・・・・何をしている・・新も行くぞ」
そう言うと紙片を手に取ると、新と二人で食堂室から出て行ってしまった。残された者たちも班長に視線を向ける者、小隊長と様々だったが、選ばれる者たちは、結局は頼れる者たちであった。それでも、最終的には副隊長に視線を向けて指示を仰ぐ様子になった。
「食事の後片付けはしなくて良いと言われたことだし、決めることも片付いた。後は、帰るとしょう。意外と、大隊長も明日まで何をして時間を潰そうかと考えていると思うぞ」
龍次の言葉で一瞬だけざわめきが食堂内に広まったが、同じように副隊長も出て行くので、皆は、それに倣った。皆が思っている行動をしてくれることに安堵した。やはり、登の人を見る目があるのかもしれない。これからの徴兵期間満了まで何も心配はいらない。そう思うのだった。
「遅かったな。やはり、龍次が先か、他の者たちは?」
玄関の広間の椅子に腰掛けて、玄関から誰が初めに帰ってくるのかと見ていたのだ。
「後ろから来ていますよ」
「そうか・・うぅむ・・・・・後は、朝まで何をするかだな」
「そうだと思っていました」
「風呂でも入り直すか?」
「他の者たちは?」
「好きなようにさせるしかないだろう・・・・だが、別れの挨拶も出来ない者もいたのだ。別れの挨拶みたいな感じで手紙でも書かせるか?」
「紙は、どうする。それに費用は?」
「登殿なら手紙の代金の前借くらいできるだろう?」
「手紙の代金でしたら、僕から出してもらうように伝えます。それくらいしか役に立つような事はできませんからね」
「あっああ」
新から返事が頂けるとは思わず、達也は驚いていた。
「それでしたら、今直ぐに聞いてきますよ」
新は、本当に嬉しそうに手を上げると、玄関から出ようとしていた。その姿を見て・・・。
「直ぐでなくて構わない。紙なら腐るくらいあるからな」
と、達也は、新を引き止めた。
「えっ」
第三十八章
新は、意味が分からずに首を傾げながら達也を見たのだ。
「ああっ、あるある。ありましたね」
そして、龍次は、家具などが包んであった大量の紙に指差していた。
「そう言うことだ。親にでも、想い人にでも伝えたいことを手紙に書くとしよう。送る費用は、新殿が何とかしてくれるそうだ」
丁度、新が玄関に出ようとしていた所に、皆が帰ってきたので、三人の話は聞いていなかった。それでも、新は、真剣な表情で頷くので、達也が言った事を皆は信じた。
「新殿。ありがとうございます」
皆は、頭を下げながら玄関から入って来た。中には嬉しくて涙を流す者までいた。
「その前に、やることをやってからだ」
「・・・・」
皆は意味が分からなかった。
「明日の朝まででなく、決めることは決めて、書くことは終わらそうでないか?」
「あっあああ」
登の指示の紙片のことだと分かった。そして、もう、食堂室でのことで、誰がやるかとは決っていると同じだった。それは、誰も言わなくても、皆から視線を向けられた者が、溜息を吐きながら紙片に名前を書いたのだ。
「終わったようだな。それでは、明日の朝まで自由だ。勿論だが、手紙を出したい者は、龍次が寝る前までに手渡して欲しい。それを、新殿が明日の朝にでも登殿に渡してくれるだろう。だが、返事が来るかまでは約束はできないぞ。それを納得しての内容を考えて書くと良いだろう。それと、文字が書けない者がいたのなら、新殿に頼んでみるのだな」
「任せてください。喜んで代書しますよ」
「手間のかかることを頼んですまない」
「いいえ。気にしないでください」
何人分になるか分からないのに笑みを浮かべながら頷いていた。これで、全てが終わったと達也も頷いていたのだ。もしかすると、新の立場をどうするのかと悩んでいたのかもしれない。この事で、もし費用が出ないとしても遺言状として預かると考えているようだった。それは口にしない代わりに・・・・・。
「俺は風呂にでも入り直してくるよ」
(俺も書けないのだ。最後で良いから頼む)
そう言いながら皆に分からないように新に耳打ちした。
「いいですよ。あっ筆と墨って、何処にあるのですか?」
「受付の机の中にあったぞ。あっ・・それと、全員だったら就眠できずに今日中には終わらないぞ。だから、短い文面にしてやれよ」
廊下を曲がったのだが、新に声を掛けられて戻って来た。そして、また、風呂に入ろうとして廊下を曲ろうとした時だった。思い出したように振り返って、皆に念を押した。
「頼むぞ」
後は、何も問題が無いだろう。そう思う様子を表しながら風呂に向かった。
「ああっ、ありました。それでは、どうぞ、内容を言ってください」
少しでも早く終わらせて風呂に入ろうとしたのか、それとも、身体を休める考えだったのだろうか、いや、その両方に違いない。その考えで、皆が一気に新の前に殺到したのだ。
「チョット・・・待ってください。ああっ・・もう順番に並んでくれませんか」
我が一番だと掴みかかる勢いだったので、新が珍しく叫んでしまった。皆は、その驚きで書いてもらえないと考えたのだろう。それでも、掴みかかるのは止めたのだが、我が先だと、三列、四列と列が増えるだけで、一列に順番に並ぶ気持ちがないようだった。
「本当に・・もう、一列に並ばないのなら書きませんよ」
「何をしている。隊ごとに整列だ」
龍次は、便所か自室にいたのだろう。それで、騒ぎ声を聞きつけて玄関に来ると、掴み合いの喧嘩に発展するのではないか、そんな様子を見て、皆に命令を下したのだ。
「何の騒ぎなのだ」
「すみません。代書の順番を決めていました」
二人の小隊長が同時に答えた。
「それで、この騒ぎだったのか・・それなら、班長同士だけで何かで順番を決めろよ」
(なんだよ。終わった頃だと思ってきたのに、殆ど全員かよ)
今度は逆に、班長たちは相手に先にしてくれと勧めるのだった。恐らく、先に代書した者が、龍次に睨まれる。そう思っているようだった。
「仕方がない。俺が決める。それで良いな?」
「はい」
皆は、即答した。
「お前から先にして、次にお前、お前、最後にお前だ」
龍次は、面倒臭そうに適等に指差していた。それが、終わると・・・・・。
「俺は風呂に入ってくる。大人しく代書してもらうのだぞ」
「はい」
龍次は、片手を振りながら玄関広間から出て行こうとしていた。それを見送るようにして返事に答えていた。
「良いですよ。好きな事を言ってください」
「・・・・」
先頭に並んだ者に声を掛けるのだが、困ったように見詰めるだけだった。
「どうしました?」
「あの・・・他の人に聞かれたくないのですが・・・」
「そうですよね。それでは、他の人は廊下で待っていてください。終わった人が、次の人を呼びに行くってことにしましょうか?」
それが良い考えだと思ったのだろう。一人の男を置いて、他の者たちは廊下に移動した。
「それでは、始めましょうか」
そう言うと、男は話しだした。やはり男が言う通りだった。途中まで聞いたのだが、恥ずかしくなって聞き返してしまったのだ。だが、最後には遺言と思える内容だったので、真剣な気持ちになり聞き返すことはなかった。だが、書きあがった後には、本当に、この内容で良いのかと、男に聞き返したのは、心底から心配になったからだ。そして、男が涙を流しながら頷くのを確認すると、手紙を手渡したのだ。それでも、新は納得できなかったのだろう。一言だけ・・・・。
「もし、書き足しなどがあるなら言ってくださいね。明日の朝までなら書き直しますよ」
そう言葉を掛けながら後ろ姿を見るのだった。そして、また次、次と代書をするのだ。だが、初めの話しは、殆どのろけ話か、子供の希望を託す事か、親の心配と同時に安心させることだったのだが、最後の締めだけは、皆同じで遺言としか思えない内容だった。そして、最後の人が終わると、まるで待っていたかのように、達也と龍次が現れたのだ。
「龍次。先にしてもいいぞ」
「そうですか、それでは、先にしてもらいます・・・・・・手紙の内容を聞きますか?」
「いや、廊下で待っているよ」
やはり、龍次も、皆と同じ内容だった。
「終わりましたよ。どうぞ・・・」
手紙を渡されると、直ぐに振り返って達也に終わった事を知らせた。そして・・・・。
「新殿。ありがとう」
もう一度、新の方に振り返って真剣な表情で礼を言ったのだ。
「もし、書き足すことを思い付いたら言ってくださいね」
「大丈夫だ。心底から感謝する」
「いいえ。・・・・・どうしたのです?」
達也が新の方を見るだけで、近寄ってこないのだ。
「・・・・・適当な所に墓を立てて欲しい。それだけでいい」
「聞えません。こちらに来て言ってください」
新は、本当に聞こえ無かったのか分からないが、それほどまで小さい声だった。
達也は、同じことを言いたくなかったのか、遠くから叫ぶのが嫌だったのだろう。新の指示に従ったのだ。
「俺が、もし死ぬような事があれば、先祖代々の墓に遺髪だけ入れてくれ、残りの金があった場合は、村の祭の費用として使って欲しい」
「後は・・・。」
「それだけで構わない」
「そうですか・・・・・出来ました」
また、手紙を渡す時・・・今度は心底から心配するように・・・・。
「もし後から付け足したいなら言ってください。直ぐに書きますからね」
「ありがとう。大丈夫だ」
「そうですか」
「後は、自分の手紙を書くなり。寛ぐなりして時間を過ごしてくれ。皆も礼を言ったと思うが、もう一度、俺からも礼を言う。ありがとう」
そして、玄関の広間に、新だけが残された。そして、何かを書こうとして筆を持つのだが、紙を見詰めるだけで書こうとしなかった。何かを考えているのだろう。そして、ぽたりと一つ、二つと涙を流すと書き始めた。
(仕方がないよ。もし知らせると、一生一人で生きそうだから・・・美雪さん。いいよね)
紙には次の事が書かれた。
もし、僕が死んだ場合は、何一つ記憶がないのですから誰に知らせる人はいません。その時は、その場に埋めてください。そして、お金は、皆で酒盛りでも使ってください。仮に、怪我などで、今以上に記憶が無くした場合は、この手紙を僕には見せず、何も言わずに、満了した金額と一緒に荷物を渡してください。恐らく、宛もなく旅にでるはずです。手紙を読んだ方よろしくお願いします。
「うっううう」
このように泣きながら書いているが、もしかすると、自分は死なないと分かっているように感じられる。まるで未来が見えるように適当な文面とも感じられる。それと同時に、記憶喪失になるので、よろしく。とは記憶喪失が決定している。それを心配しているから手紙を書いた。そう感じられるのだ。仮に他の者の手紙を見ることができる。いや見なくても、普通の者たちは、自分には未来が無い。それを悲しむ文面か、未来がないために思いを託すことや、死別するための別れの文面になるはずなのだ。だが、口から出た言葉では、美雪に会えない気持ちと、死ぬ可能性も考えているのだ。まるで、手が、脳内と心の思いとは別に、違うことを書いていると思えた。そのことに新も、流す涙で手紙の文面が見えないのかもしれない。そう思わなければ納得できないのだ。
「手紙の追加は諦めよう」
新の様子を見ている者が何人もいた。だが、泣きながら手紙を書く姿を見て、皆は諦めて自分の部屋に帰って行った。そして、途中で会う者や部屋にいる者に、新の状態を教えて諦めるように言うのだ。それでも、その話を聞いても、一人だけが・・・・・。
「心配だから見てくる」
「待て・・一人にさせてやれ・・・・よ」
そう猛だけが、部屋から駆け出した。まだ、若いから感情だけで行動するのか、それとも、死と言う言葉も、その感覚も分からないのだろう。そうとしか思えなかった。
「新さん。新さん」
叫びながら廊下を走るので、その言葉で新の涙が止まった。そして、文面を読むことなく手紙を折りたたんだ。もしかすると、赤い感覚器官が時の流れに干渉して、猛を行動させたとしか思えなかった。もしも言葉が聞えなければ書いた内容を読むはずだからだ。
「猛さん。どうしました?」
「えっ」
廊下から玄関広場に出ると、新が微笑みながら視線を向けて来た。
「手紙を書いて欲しいのですか?」
「いいえ。自分で書きましたよ」
「そうでしたか、それで、僕に用事があるのですよね」
「あっ・・・・・その・・・新さんの笑った顔を見たら忘れました」
「そう、何か怖いことでも考えてしまったのですね」
「そうかも・・・何か邪魔したみたいで、ごめんね」
「いいのですよ。手紙を書いていただけですからね」
「あっ、寝台だけど、俺の隣だからね」
「そうですか、ありがとう」
「一人になりたいなら、部屋に戻るけど?」
「いいえ。一緒に部屋に行きたいです」
「うんうん。行こう」
まるで猛は、修学旅行で一緒の部屋になったから楽しい会話の続きをしよう。そんな様子だった。そして、二人は一緒に部屋に帰り。村でのことを話し合った。そして・・・・。
第三十九章
夜が明けたが暗くて、まだ肌寒く感じる時間だった。まだ、朝だと知らせるような鳥の鳴き声もまだ鳴かない。その代わりなのか、それとも、鳥が居ないのだろうか、それは、分からないが、鉄と鉄がぶつかる音が響いた。
「からん、からん、からん」
それも、町内の隅から隅まで響く音だった。
「なんだ。何だ?」
徴兵隊の宿舎から殆どの者が起きて中庭に出てきた。中には音に気が付かずに寝ている者もいるし、既に起きて無関心の者や半分寝ている者もいたのだ。その中で、新と猛もいた。まだ、二人は寝台の上で呆けていたのだ。
「あのまま寝たらしいですね」
「布団の中でなく寝台の上で寝ているから・・・そうですね」
猛は、周りを見回して、昨夜のことを思い出そうとしていた。そして、何時寝たのか記憶が無いのだろう。違う関心のことを口にした。
「新さん。この音は何なのですかね?」
「僕も、同じ事を考えていました」
「新さん・・・・・それにしても外が騒がしいですね」
音が聞えなくなると、今度は人々の声が気になりだした。そして、一番の騒がしいのが窓の外、中庭からだった。
「そうですね・・・・・・もしかして皆は外に出たのかな?」
そう言いながら窓に近寄った。すると、向かいの建物の前で、その建物中の隊が整列して点呼でもしているように見えた。
「そうみたいですよ。何しているのですかね」
「点呼かな」
「点呼?」
「朝礼みたいな感じかな」
「それにしても朝礼にしては早くないですか?」
「そうだね。それなら何をしているのだろう」
「あっ・・皆が、建物に帰って行きますね」
「そうだね・・・・あっ登さんが、こっちに来る」
新の言う通りに、登と他の者たちは朝一番の点呼を取っていた。軍隊としては当然の人数確認と健康状態の確認だった。そして、何時に寝たとしても起床の時間に起きられるかの訓練でもあった。そのことを教える気持ちで、登が向かいの建物に来るのだろう。
「隊長さん。おはよう御座います」
徴兵隊の複数の者たちの中を通り過ぎながら建物に向かっていた。そして、人それぞれの挨拶を聞くのだが、不機嫌そうに頷くだけだった。そんな様子を見て、皆のざわめきが大きくなったが、何も聞かずに建物の中に入るのを見続けるのだった。
「新はいるか?」
登は建物の中に入ると、初めに会った者に問い掛けた。
「寝ていると思います」
「そうか・・・なら、達也は起きているか?」
「はい。起きていますが、先ほど風呂に入るのを見かけました」
「そうか」
「知らせてきますか?」
「知らせなくても良い。風呂に行ってみる。あっ・・・手拭いはあるか?」
「直ぐに用意します」
「あっ俺が持ってきますよ。だから、話を続けてください」
「すまないな」
適当な世間話をしていた。そんな二人に話を掛けたので、片方の相手が気を利かせて駆け出した。直ぐに風呂に入ると感じたのと、何かの話の邪魔になると思ったのだろう。
「すまない。あっ・・それと、達也と話があるから誰も来ないようにしてくれないか?」
「分かりました。あっあの・・もう何人か入っていますよ」
「それは、構わない。中に居る者は、俺から言う」
「持って来ました」
「あっすまない」
「いいえ」
「それでは、頼むぞ」
登は、軍の簡易礼をすると、浴槽に向かった。そして、二人も返事をしなければならないとでも思ったのだろう。同じ様に見様見真似で簡易礼を返したのだ。その姿を見て、気のせいだろうか、笑みを浮かべているように思えた。そんな表情のまま浴室の扉を開けた。
「あっ上がるところだったのか?」
達也は手拭いで身体を拭いていたのだ。
「そうですが・・・何か?」
不思議そうに登を見たのだ。
「チョットな」
「そうですか、それでは、一緒に入りましょう」
面倒な話しだと感じるはずなのに笑みを浮かべるのだ。本当に温泉が好きなのだろう。
「すまない」
「いいですよ。登さんと一緒なら時間を気にしなくて入れますからね」
「そうなのか?」
「そうですよ。何の知らせか分からない音が響きましたし、外では、正規兵なのでしょうか、向かいの建物の前で朝礼をしているらしくて、我々は並ばなくていいのかと、相談されましたので、風呂から上がりたくなかったが出ることになったのですよ」
「そうか、気が付いていたのか」
「はい。もしかして、そのことを話しに来たのですか?」
「まあ、そのような感じのことだ」
「はっあ・・・話だけならいいですが、自分が指示してやる気を起こさせるのですね」
両手を上げるのと同時に、首を大袈裟に横に振って気持ちを表していた。
「まあ、そう言うことだ。それで、誰か中にいるのか?」
「居ませんよ」
「それは、良かった」
更衣室と浴槽の仕切りの扉を開けて、二人は中に入った。
「身体は洗わなくていいぞ。洗ったのだろう」
「はい」
「俺も朝の点呼の前にお風呂に入って洗って来た。だから、湯船の入り方の順番を飛ばしても大丈夫だ。それだから直ぐに湯船に入ろう」
「そうでしたか」
(この規則って、もしかして、登殿が作ったのか・・・軍人特有の礼儀に厳しそうだな。そして、これから、皆に軍律の厳しさを教育することになるらしいな)
「どうした。入らないのか?」
「入りますよ」
(性格からの潔癖でないのを祈るしかないか)
登に隠すように大きな溜息を吐きながら湯の中に入った。
「こちらの温泉はいいな」
「他の建物の方では温泉でないのですか?」
「温泉だが、この建物の方が本流なのだ。他は枝分かれだから濃度が薄くなっている」
「そうでしたか・・・それでも、なぜ・・一般兵の宿舎に本流なのですか?」
「それは、当然だろう。過酷な状態まで身体を動かすのは一般兵だからな」
「あっああ」
想像もしなかったことを言われて、何も言うことができなかった。
「どうした?」
「いえ。それで、話って何ですか?」
「それは、軍の規律のことと、訓練内容だ」
「そうですよね」
「俺と同じ気持ちを感じていたのか?」
「まあ、何時かは言われると思っていました」
「それなら、話が早い」
登は何度も頷くと、自分の気持ちに納得したのだろう。そして、話を始めた。
「最低の礼儀ですか」
「そうだ。最低でも同時の敬礼と足並みだけは揃えて欲しいのだ」
「もしかして、右手で帽子のつばに指をつけて四十五度の敬礼ですね」
「良く知っているな、その通りだ」
「その程度なら、自分でも分かりますが、皆の教育までは無理ですよ」
「そうだろうな」
「・・・・・・・」
達也は、登の次に出る言葉を待った。
「仕方が無い。俺が教えるとしよう」
「それは、助かります」
「だが、全ての者に教えるのは時間的に無理だ。それで、小隊長以上の四人に教える。それを伝えて欲しい。それも、一日で憶えてもらうぞ」
「そんなのはむ・・・り」
「無理だと言わないで欲しい。少し考えて欲しいのだ。このままなら大変なことになるぞ」
「えっ」
達也が何と言うか分かっていたので、言葉を遮ったのだろう。そして、驚く顔を見てから、また、話を始めた。
「この建物の中だけならいいが、俺よりも上官か、他の都市の軍が徴兵隊の様子を見れば、どうなるか分かるだろう。機嫌を損ねたら予定の期間で終わるとは思えない。それだけでなく、研修のやり直しだと言われた場合は止めることはできないぞ」
「むむ」
「正直者なのは分かるのだ。だが、返事が・・・はい。へい。んだ。この返事をされたら気持ちがなえる。勝てる戦いでも戦意が無くなるのが分かるだろう」
「そうですね。十分に分かります」
「そうだろう。だから、最低の軍隊式の礼儀と、行進だけでよいのだ」
「直ぐに憶えてくれそうな人たちとは思えません」
「分かっているではないか」
「それで、我ら四人が今日中に憶えなければならないのですか」
「そうだ」
「はっあぁ。一つ聞いていいですか?」
「何だ?」
「自分はいいのですが、他の三人に言われそうなのですよ」
「憶えられないから時間が欲しいと言うことか?」
「それもありますが、少し違います」
「だから何だと言うのだ?」
「他の三人からですね」
「うん」
「同じ給金では割が合わないと、愚痴を言われそうなのですよ」
「そんなことか」
「と、言うことは・・・・・・もう少し」
達也は思案していたことが成功したと、一瞬だけだが笑みを浮かべてしまった。だが、登が、その笑みを気が付かないはずもなく、返事を口にする前に笑みで返した。
「あっ」
(まずい。言うべきでなかったか)
今度は、表情を変えないように我慢したが遅かったようだった。
「二倍でも、三倍でも構わないぞ。その代り、当然のことだか何一つとして拒否を認めない。口から出る言葉は一つだけ、それは、はい。それだけだ」
「先ほどのことは提案ですので、本心ではありません。ですから、今日中に憶えます」
今度は満面の笑みで誤魔化そうとしたが、それ以上の笑みと同時に笑い声まで上げて、登も返事を返すのだった。
「気にしなくていいぞ。貰っても貰わなくても、指示したことはするのだからな」
「・・・・いや、皆と同じ金額で構いません」
一瞬だけ思案したが、二度の心配は確実だったと感じたのだろう。諦めるしかなかった。
「要らないのか、なら、一日で憶えたら特別金でも渡そうとしたが、それも、要らないのだな。何か得をしたような気持ちだ。良かった。良かったと・・・・・それに、何か首の凝りも取れたようだ。上がるとしようか」
盛大に笑いながら本当なのか嘘なのか分からないことを呟きながら風呂から出た。
「・・・・・」
(この人には勝てない。はっきり言って欲しいくらいだ。黙って命令を聞けば、褒美が出ると言っていると同じではないか・・・何か首の凝りが移ったように痛いぞ)
本当に首を痛そうに回しながら手でも揉みだした。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
返事をしながら湯船から出ようとしていた。
「あっ・・一緒に上がらなくても構わない」
達也の様子を見て言葉を掛けた。
「・・・」
「はっあぁ。本当に構わない。先ほどの音は起床の知らせだが、起きて点呼を取るだけだ。そして、次の知らせまで洗顔、室内の整いなどを済ませる」
「でしたら、直ぐにでも・・・・・」
「それをする時間は十分にある。まだ、三時間くらいあるだろう。だから、ゆっくりして構わない。そう言うことだ」
(チョット悪戯が過ぎたようだ。どうしたら良いかな)
言葉では気持ちが伝わらないと感じたのだろう。先ほどの悪魔のような笑みからくらべたら安らぎを与えるような微笑を浮かべた。そして、その気持ちが伝わったのだろう。
「そうでしたか、それでは、ゆっくりしたいと思います」
湯殿から出て行くと思ったのだが、三歩だけ歩くと振り返ったのだ。
「そうしてくれ・・・・それと、朝食は四人だけは俺と食べることにするが、他の者たちは、こちらの建物で自分たちが作って食べることになると、そう伝えておいてくれ」
達也が肩まで湯に浸かるのを見ると、安心したのだろう。頷きながら扉に向かった。
「はい・・・・・・」
返事を返すが、湯殿から出るまで背中を見続けた。また、振り返って何かを言われると感じているに違いない。そして、扉が閉まると・・・・・。
「ふぅ、茹だるかと思った・・・・・それにしても・・・・・・・」
湯船から出たのだが名残惜しいのだろう。また、足だけ湯に入れた。
「あいつら・・・食事を作れるのだろうか?」
寒気を感じたのだろうか、肩まで湯に漬かるように入った。そして、首が痛いのか、少し片手で揉んだ後・・・・。
「大丈夫だろう。あいつらも、空腹を感じたら適当な物を鍋に入れてでも食べるだろう。さて・・・そろそろ、上がるとするか」
第四十章
達也が、湯から出ると、ふらふらと歩くのだ。もしかすると、湯に入りすぎてのぼせたのだろうか、その状態のまま更衣室に入り、着替える頃になると、青白い顔色に変わるだけでなく、まるで、これから、処刑台に登るような表情までに変わっていた。
「三人に何て言って連れて行くか、いや、何も言わずに、登殿が用事だと、それだけ言って連れて行くか・・・・ふぅ。何か・・・・胃が痛くなってきた」
着替えに、もたついていたのは、登と三人の仲間に会いたくないからだろう。だが、時間をかけたとしても、時間が止まることも遅れるはずもないのだ。その様子は、まるで子供と同じだった。
「おい、登殿の用事とは何だ?」
「達也。俺たちで料理を作れと言われたぞ。それは、お前の考えなのか?」
二人の男が更衣室の中に駆け込んで来た。
「ふぅ、その通りだ。他に何か言われたか?」
「いや」
二人は、首を横に振りながら視線で相手に問い掛けていた。
「言葉を掛けられたのだろう。何も聞かなかったのか?」
「歩きながら擦れ違いに言われたからな」
「俺は、町の業者が食料を持ってきて困っていると、その様子を登殿が見て、自分たちが作って食べる物だから受け取れ。そう言われたのだよ」
「それで、皆は、何をしている?」
「腹が減ったと言いながら寅之助だけが料理を作っているよ」
「そうか、料理が作れたのか、それは、良かった」
「良くないって、あれが、料理とは思えないから、お前に話を聞きに来たのだぞ」
「確かに、そうだな、野菜を丸ごと鍋に入れていた。もし出来れば刻んで入れてくれた方が食べやすいのだが・・・・一言だけでも言った方がいいかな?」
「そう言うことでない。あれは、料理ではないぞ」
更衣室から入ってから今まで、太郎が怒りをぶつけて来るので、その仕返しの気持ちなのだろうか、頬を痙攣させながら無理に笑みを浮かべた。
「そうそう、食べなくても済むぞ。俺たち小隊長は、登殿と向かいの建物で朝食を食べるのだからな。昨夜のように豪華な食事だろう」
達也が豪華と言ったが、それは違っていた。ただ、寅之助が作る物から比べたら豪華だと、その意味のはずだろう。
「俺は、断るぞ。もし食べに行ったら全員から恨まれるからな」
「それは、無理だ。食事は只の次いでだ。先ほど、四人に話があるから来い。そう言われたからな。断ることはできないぞ」
達也は叫ぶ前には、胃の辺りを押さえていたが、叫んだことで痛みが消えたのか、いや、違うはずだ。この二人が駆け込んできてくれたお陰で全てを伝えなくて良くなった。と言うよりも、自分が気を使っていたことが馬鹿馬鹿しくなったのだろう。
「何の話だ?」
「分からん」
達也は、即答で偽りを言った。
「そして、何時だ?」
「知らせの音が鳴ると言っていた。だが、時間までは分からない」
「そうか、何の話しだろうな?」
「決っているだろう。俺たちの四人だけなら部隊としての命令だろう」
身振り手振りでも、龍次は大袈裟に思いを伝えた。
「そうだな」
「何か嬉しそうだな、何かあったか?」
龍次の言葉に助けられて、達也は笑みを浮かべてしまったのだ。
「いや、何もない。ただ、寅之助が作る食事って何なのか考えていたのだ」
「考えなくてもわかる。塩味だけの野菜の姿煮だろう」
「それは、美味しそうだな」
「達也。それは、本気で言っているのか?」
「そんなに嫌なら、自分で作れば良いだろう。これからは、俺たちで作るのだからな」
達也は冗談を言ったのだが、怒りで返されたので、それと同じ様に太郎に返した。
「料理が作れたら何も困らないし、苛立ちを解消するために叫ぶ必要もない」
「泣いているのか、怒りを感じているのか、そんな複雑な表情を浮かべるならば、料理を作れるように憶えればいいだろう」
「それが出来れば苦労しない。俺の家の家訓で男は台所に入ることもできないのだ。この家訓のことで、何度、いや、数えられないほどに泣いた。まさか、姉が作る料理と同じ野菜の姿煮を食べることになるなんて・・・俺は・・・俺は・・・飢え死にしたほうがいい」
「それほどの物か、俺の家でも、母が不在の時は、父がキャベツの姿煮を作ってくれたぞ」
「俺も、親父にナス焼きを作ってもらった。本当に大好物だった。ただ、ナスを半分に切って焼くだけなのだが、綺麗に半分に切るのが肝心だとか、焼き方にもこだわっていたな。そして、俺が結婚した時に、焼き方を教えてやる。それが、口癖だった」
「そこまで、丁寧な作りなら食べる気持ちにもなるだろう。俺の姉は・・・・・」
当時の昔を思い出しているのだろう。目が虚ろだった。
「丁寧ではないと思うが・・・・龍次。そうだろう」
「そうですね」
二人の言葉が聞えたのか、太郎が、我を忘れているような感情が感じられない言葉を吐くのだった。
「畑から収穫してきた物を洗いもしないで、土が付いたまま煮込むのだぞ。それも、味付けもしないで、鍋ごと食卓に置くのだ。そして、食べるまで見続けるのだ。その味は、今でも思い出す。じゃりじゃりと口の中で土の感触を味わうだけならいいが、時々、グニャリと柔らかい感触もあるのだ。恐らく、虫だろう。あのような物を食べるのなら死んだ方がましだ」
「凄いお姉さんだが、一緒に食べえたのだろう。それなら・・・」
達也の話を最後まで聞かずに、否定の言葉を吐くのだった。
「姉が食べるはずがないだろう。痩せる為とか言いながら食べずに、母が帰ってくるのを待っていたよ。それも、腹の虫を鳴らしながら我慢していた」
「だが、寅之助が同じ物を作るとは思えないぞ」
「間違いなく、同じはずだ」
「そうか・・・それなら、その食事を食べずに、登殿の食事を食べたのなら皆から恨まれるだろうな。食べ物の恨みは凄いらしいぞ。なぁ・・龍次。そうだろう」
「うっ」
太郎を無視するような二人の会話だった。だが、同じ更衣室の中でもあり。それに、太郎を無視している感じだが、内容は太郎の話題には間違いなく。その内容を聞いて太郎は頭を抱えて悩むしかなったのだ。
「隊長の言う通り。皆から恨まれるのは間違いないですね」
「そうだろう。あっ龍次は料理が作れるか?」
「できるはずがないでしょう」
「それなら、野菜は洗って食べなければならない。それは、当然だと言うとして、味付けもするように教えに行くしかないか」
「そうですねえ」
「いつまで我を忘れて悩んでいる。おら、おら太郎も行くぞ」
言い過ぎたと思っているのだろう。それで、優しく言葉を掛けたが、まるで、幼子が駄々をこねているような様子だったので、仕方がなく太郎の頭を小突いたのだ。
「痛いじゃないですか」
「早くしないと料理を作り終えるぞ」
「それでは、急ぎましょう」
「行ったとしても、教えることはできません」
「それでも、行くしかない。太郎が食べた同じ物を、皆に食べさせる気持ちなのか?」
「そうでした。知っていて止めなかった。それが分かった場合は命の保証はありませんね」
「当然だろう」
達也は二人に返事を返すが、その表情からは安堵が感じられた。恐らく、やっと、二人から不満が消えて、次の行動する事ができるからだろう。
「先に行っています」
「俺も」
「待て、俺も行く」
真っ先に太郎が更衣室から出て行き、その後を龍次が追い。少し遅れて達也が後を追ったのだ。そして、不思議な事に、龍次が食堂の中に入らずに、何かに驚いていたのだ。
「どうした?」
「それが・・・」
太郎が食堂の中を指差すのだ。
「あっ・・・・・・良い匂いだな」
何かと感じて太郎の所に近寄るのだが、近寄るにつれて美味しそうな匂いを感じるのだ。
「何を驚いている?」
達也は、太郎の隣に立って食堂室の中を見ると、それは・・・・・。
「間違いなく野菜の姿煮です・・・よね」
と、太郎も何て言って良いのかと迷いながら言うのだった。
「そうだな。だが・・・・鶏の骨を砕いては別の鍋に入れているな・・・味付けか?」
「美味しそうな匂いがしますが・・・やはり野菜の姿煮ですか?」
二人が立ちふさがって中が見えないので、後ろから問い掛けたのだ。
「なんて言えばいいのか・・・・自分の目で確かめてみろ」
「はい」
そう言うと、達也と太郎が身体を横に向けて龍次に中を見せた。その調理場では、寅之助の指示で、百人を超える人が食事の用意をしているように見えた。見えたと言うと変に思うだろうが、確かに変なのだ。それは、半数の者が野菜を洗って綺麗になったかと確認すると、切ることも千切ることもしないで、そのまま鍋に入れるのだ。そして、残りの半数は、鳥の骨を砕く者や砕いた者を鍋に入れる者だけでなく灰汁まで取っていた。恐らく、鳥のだしを取って汁物を作っているのだろう。だが、この理由を知る者は寅之助以外、誰も分からないことだろう。それで、皆は食べられない鳥の屑を、なぜ煮込むのだろうと不審を感じているのだ。それでも、寅之助が指示をしているので無言で身体を動かしているのだが、寅之助まで調理の肯定が行くと、美味しい匂いになるために愚痴を言わないのだ。
「何を作っているのだろう」
三人の隊長と小隊長は悩んでいた。だが、調理の経験がある者なら鳥の屑と切らないままの野菜もスープも出汁を取っていると分かるだろう。だが、少し違っていた。鳥の鍋の方は、鳥の屑の肉片などが入らないように綺麗にスープだけ取り出すのだが、野菜の鍋の方は出汁が取れているはずなのに、なぜか野菜を取り出して出汁の液体を捨てるのだ。そして、取り足した野菜を、鳥で取ったスープと一緒の中に入れて味付けを始めるのだから驚いていたのだ。
「あっ小隊長の皆さんと隊長殿。何をしているのですか?」
「それは、俺が聞きたいよ。何を作っているのだ」
「俺の親父の家系に伝わる男の料理です」
「料理?」
「はい。ポトフ風の野菜の姿煮です」
「姿煮?」
「そうです。この料理は男が台所に入れないために、鍋と鉈だけで作る料理なのです。台所とは女性の神聖な場所であり。男子禁制のために台所にある道具を使わずに作るのです」
「いや、なぜ姿煮なのかと聞いたのだが・・・・・」
達也は問いの答えが違うと声に上げるのだが、自分の世界に入って聞えないのだろう。全ての話の内容を口から出さない限り終わりそうになかった。
「この姿煮は作るには代々の秘伝があるのですよ。それは、二度煮るのです。それも弱火で、一度目は、土などや灰汁を取るのです。そして、二度目が野菜の芯まで味が染み渡るように弱火で長い時間じっくりと煮込むのですが、形を崩さないのが秘伝中の秘伝なので教えることはできません」
まるで、代々語り継がれる自慢のような感じとも、先祖の英雄譚を読み上げるように自信満々と話すような感じだった。誰も、そんな話を聞きたいはずもなく、当然、三人の隊長は大きな溜息を吐きながら・・・・・・。
「また、なぜ姿煮なのかと聞いてみますか?」
「聞いても無駄だろう」
「そうですね」
「どうしました?」
三人が自分の話を聞いていないのに不満と同時に、何を話しているのかと不審を感じた。
「いや、なんでもない。空腹を感じているので早く食べたいと言っていたのだよ」
「そうでしたか、長いと言っても一時間くらいですから待っていてください」
満面の笑みを浮かべて喜ぶのだ。その姿を見て達也は、演技なのは誰でも分かることなのだが、その表情は本当に残念そうに・・・・・。
「あっ、それと、我々四人は、登殿から呼び出されている。もしかすると、今の料理が食べられない可能性があるからな・・・・それは考えておいてくれ・・・本当にすまない」
寅之助は、登に呼ばれている。そう言われては何も言えずに、残念そうに頷くのだった。
第四十一章
夜明けに響いた。あの同じ音とは思えない。爽やかに感じてしまう音だった。それ証明するかのように中庭では、清清しく深呼吸する者や大きく背を伸ばして今日一日の幸せを願うように身体を動かす者がいた。同じ音を聞いて時間を感じるとしては、天と地の開きを感じるほどの感情の表し方の違いだった。もしかして爽やかに感じた理由は、身体の機能が完全に目を覚ましているからだろうか、それは、達也たちも同じように感じているのか、いや、達也たちは違っていた。何か心配なことでもあるのか、それとも、緊張しているとも思えるが、恐らく、その両方だけでなく怯えも混じっているよう思えた。
「また、何かしているようだぞ」
外から安堵の声とも大きな欠伸の声とも思える声が聞こえて窓から外を見たのだ。
「龍次。そんな落ち着いている時間はないのだぞ」
「そうでしたね。達也隊長」
「そうだ。登殿のところに行かなくてはならないのだからな」
「そうでした」
「なら、行くぞ」
「はい」
「あっ・・新殿は、俺たちが帰ってからでも会った方が良いでしょう」
新も席から立ち上がり、一緒に来るようだったので言葉を掛けたのだ。
「僕は一緒でなくていいのですね」
「呼ばれてはいない。だが、会わなければならないのだろう?」
「そうですね。手紙を渡さなければならないですからね」
「それなら、俺たちの後がいいぞ。呼ばれる理由は知らないが、上官と部下の話のようなことらしいから一緒だと不快な気分を感じると思うぞ」
「そうですか・・・・・そうします」
新は少し考えてから、複雑な表情を浮かべた後に、達也の言う通りに承諾しなければならない。そう思ったのだろう。答えと同時に頷いた。その言葉を聞くと、四人は席から立ち上がった。そして・・・。
「それでは、行ってくる。帰ってきたら声を掛けるよ」
「分かりました。お待ちしています」
達也が歩き出すと、残りの三人も後を付いて行った。新は見送った後は席を立ち、窓の外を眺めた。すると、廊下から達也が調理室にいる者たちに声を掛ける声が聞こえた。恐らく、食堂室を使用していいと言ったのだろう。そして、皆が食堂室に来るのだろうと思いながら中庭に視線を向けたのだ。
「あっ同じ建物の造りなのですね」
中庭では柔軟体操をする者や四角い庭なのだが円を書くように走る者を見た。そして、少し驚きを感じる者も見たのだ。
「あっ、朝食を作っている」
真正面の先には、自分が居る建物の同じ場所に調理室があり。調理している者を見たのだ。そのまま見ていると、裏口から登が出てくるのを見た。腕を組んで、こちらを見ていた。自分を見ているのかと思って手を振るか頭でも下げようとしたのだが、視線は、自分が居る建物の正面入り口を見ていると感じて、そのまま見続けた。やはり、達也たちを待っていたようで、四人を見ると、片手で中に入れと手を振った後、相手の返事も見ずに建物の中に入ってしまった。そのまま見ていると・・・・・。
「新殿。中で食べていいでしょうか?」
そう言葉を掛けたのは、猛だった。
「いいですよ」
新は振り向き、笑みを浮かべて許したのだ。すると、何人も手に食器などを持って人が入ってきた。そして、それぞれの仲の良い人と別れて食べ始めた。
「隣に座っていいですか?」
そう言葉を掛けたのは猛だった。一度、違う所に座ったが、新と話がしたかったのだろうか、隣に座ろうとしたのだ。
「いいですよ」
「新さんは、食べたのですか?」
「お替りするほど食べたよ」
「そうですか」
「ねね、猛さん」
「何ですか?」
「この中で料理ができそうな人はいるかな?」
「寅之助殿がいなくなってからも、肉など入れたいと言う人がいたけど、料理ができそうな感じの人はいなかったですよ」
「そうですか」
「何で、そんなことを聞くのです」
「あっああ、向かいの建物を見て、向こうの建物の人も料理を作っていたからですよ」
「え・・・あっ本当ですね。白衣を着て作っていますね」
食事の手を休めて、窓から向かいの建物を見た。
「僕たちも作るのですかね」
俯いて皿を見ながら呟いた。何か嫌なことでも考えているようだったが、新には、その気持ちが分かったのだろう。
「そうなると思いますよ。でも、大丈夫ですから、登殿に頼んで料理の先生でも連れてきますよ。だから、安心してくださいね」
「そうなのですか、それは、良かった。確かに、この野菜の姿煮は美味しいですよ。でも、毎日食べえるのかな。そう考えていたのですよ」
「ですよね。それは、僕も思っていたことです」
「それなら、良かった」
「もう安心して食べなさい。冷めたら美味しくないよ」
「そうですね」
新は、猛が食べるのを見ると、また、窓から外を眺めた。
「軍人って自由時間があるのだね」
「新殿。何か言いました?」
「いや、何でもない」
「あっ・・ごめんなさい」
済まなそうに答えた後は、また、食べるのに専念した。
「ゆっくり食べなさい」
「はい」
新は、いや、この食堂室にいる者は分からないだろうが、後で、達也たちから聞かされることになる。軍として生活するのは、全てが時間で縛られて過ごすことになるのだ。恐らく、殆どの村での生活者は、朝日が昇って沈むまで仕事をするが、その後は、殆ど自由なのだが、ここでは、いや、全ての軍では、五分として予定以外のことは出来ない。その中で遊びのような運動はするが決った時間内だけ遊ぶのだが、それも、軍隊教育の一環なのだった。そして・・・・・・・・。
その一環とは、すべてが、鉄と鉄が当たる音、あの音で始まるのだ。
(その一、夜が明ける前後から一時間以内に、何時なるか不定期で音がなるのだ。そして、鳴り終わるまでの五分以内に定められた場所まで整列して点呼を取らなければならない。この訓練は、どのような戦場でも、起床してから五分以内に戦の準備をして命令と同時に戦うためだった。当然だが、雨だろうが雪が降ろうが遅れることが許されなかった。
そのニ、点呼してから二時間から二時間半の間に、この時間の開きは、不定期な音が鳴ってからのために時間のずれがあるのだ。その時間内に、身支度から寝台の整頓に朝食を食べ終えなければならない。当然、専属で食事を作る者などいるはずもなく、食事係りを班毎で担当して、その班が全ての班の食事を作るのだ。勿論、時間以内に食事を食べるだけでなく片付けをして、自分の身支度なども全て終えなければならないのだった。これに一秒でも遅れた場合は刑罰がある。それも、その班だけでなく連帯責任として全ての班で刑罰を受けることになるのだった。だが、遅れる可能性あるからと言って、もし手を貸した場合も連帯責任で刑罰を受けることになるのだった。そして、担当でない者たちは、新が中庭で見たように運動するなり、食事ができるまで自由に時間を潰す。
その三、現代的な時間で言うと、朝の八時半になると、中庭で軍隊全員での朝礼が始まるのだ。この時、今日一日の何をするか決定されるが、殆ど最高指揮官の気分で決るのだ。
その気分とは例えで言うのならば、軍全体での敬礼が綺麗に揃わない場合は、その程度のことで昼食が抜かれるだけならいいが、酷い場合は抜かれるだけでなく、追加訓練として水筒一本の水だけで夕方まで野外戦闘模擬訓練をしなければならない場合があるのだ。それでも滅多にないが、気分の良い場合は、町で一日の自由行動になる場合もあるのだ。
その四、普段の日課では、朝礼後から頭脳教習が始まり、午後から体力教習をする。現代的に言うのなら小学生の低学年程度の授業が始まるのだ。首都と東都市くらいなら富裕層や軍人なら学業を習うが、それ以外の市民や都市では文字も読めない者が殆どだった。そして午後からは、剣、槍、弓、軍隊術(素手での戦い、団体行進などの儀礼教習)を習うのだ。そして、最後に、夕食の担当でない者たちは、片付けや清掃をして一日の教習が終わるのだが、その清掃には上官の軍靴の磨きやその他の類似品などまで含まれていた。
その五、と言うべきか、その他と言うべきだろうか、夕食を食べた後、そして、入浴の後は消灯まで自由時間となるはずなのだが、この時間からは、班の上下関係での時間がある。それは、上官の一日の疲れを揉み解すこと、今日の教習で特に班での足を引っ張った者の助言と言う小言が始まり、就寝のぎりぎりまで小言があるが、それが、終われば、やっと一日が終わるのだが、身体は極限まで疲労しているために、安眠したいのだが、次の朝の不定期の起床の音で起きなければならないために、心底からの睡眠は取れない。それ程までの過酷な起床の音であり。地獄の一日が始まるのだった。
「ねえ」
少し空腹が収まったからだろう。何か別のことに興味を感じたようだ。そして、食事の手を休めて、新なら分かるだろう。そう思って聞いたようだった。
「何かな?」
「隊長たちは、何をしているのかな?」
「そうですね。これから何をするかを相談しているのでしょうね」
「何をするのかな?」
「そうですね」
「分かるの?」
「分かりません。ですが、お金を頂くのですし大変だと思いますよ」
「そうだよね。村の警備の訓練みたいなことをするのかな?」
「そうかもしれませんね」
「そうだよね。そうだよね。でも・・訓練はいいけど・・・・・厳しい訓練なのだろうな」
「頑張りましょう」
「頑張るのはいいけど・・誰か死ぬかもしれないし・・・人を殺すかもしれないのだよね」
「猛さん。絶対とは言えないけど、補給隊だって言うし、命の危険はないと思いますよ」
新は、猛を励ますと言うよりも、それを本当に信じているようだった。
「うん。そうだったね」
猛は、自分を励ましてくれていると思っているのか、いや、子供だし素人の集まりだから命の危険はないと、本当に信じているような満面の笑みを浮かべていた。
「あっ向こうの人は、これから食事のようですね」
毎日のことだから朝食の時間が分かるのだろう。何も知らせがないのに、皆が建物の中に入って行くのを見たのだった。
「何を食べるのかな?」
「何だろうね。でも、料理の先生を連れてくるから何の料理かは楽しみしようね」
「楽しみですね」
「それでも、先生は連れてくるけど、皆で作るのだから美味しいのか分からないよ」
「そうだね。皆って不器用そうだから美味し物なんて作れるはずがないかもね」
「そうかもしれないね」
「でも、本当に何を食べているのかな」
「そうだね」
そう言うと新は、猛から中庭に視線を向けた。恐らく、達也と他の三人が出てくるのを待っているのだろう。
「隊長たちは出てきた?」
「まだ、出てこないね」
「それより、皆も食べ終えたみたいだぞ。食器洗いでも手伝ってきなさい」
「そうだね。行ってくる」
猛を見送った後、また、窓の外を見ていた。何分くらいが過ぎただろうか、別に気にしていたのではないが、隣の調理室から人の声が聞こえなくなった。すると・・・・。
「新さん」
猛が、駆けて食堂室に入ってきた。
「どうしました?」
「知らせを伝えに、それと、話をしたくて」
そう、話をしながら先ほどの椅子に腰掛けた。
「知らせ?」
「皆が、片づけが終わったから部屋で待機しているって、それを新さんに伝えてきてくれって、そう言われました。駄目でしょうか?」
「それを、僕に・・・」
「そうです」
「でも、なぜ?」
「隊長たちが居ない時は、新さんが一番の長みたいな感じだからですよ」
「でも、困るな。達也隊長に怒られそうだ。それに、誰一人として指示を出せる資格はないよ。後で、怒られてもいいのなら部屋で待機していてもいいけど」
「皆も、それで、いいかも。もし新さんが怒られたら・・皆が勝手に休んだって言うよ」
(思うけど、誰も新さんに怒る人なんて居ないと思うよ)
そう心と違うことを思いながら嬉しそうに言うのだ。
「そんな・・」
「僕も言うよ。新さんは悪くないってね」
「あっ・・来たみたいだ」
「えっ」
庭から騒ぐ声が聞こえ。窓の方を見ると、また、向かいの建物の人たちが運動を始めた。その先に、裏口から出てくる四人の隊長を見つけたのだ。
「猛さん。皆は部屋にいるのでしたね」
「そうです」
「食堂に集まるように伝えてきてくれませんか」
「えっ」
「そうすると、褒められるかもしれませんよ」
「分かりました。皆を呼んできます」
満面の笑みで言われては、笑みを消すことはできない。それに、褒められることが本当だと思ってしまう。それでは、断ることはできなかった。そして、頷くと、駆け出して食堂室から出て行った。
「新殿。食堂に集まるように言われましたが、何の用でしょうか?」
少々不機嫌そうに思えた。もしかすると身体を休めようとして寝台の上で横になっていたかもしれない。
「達也さんたちが帰ってきます」
「そうでしたか、それで呼んだのですね」
「そうです」
「分かりました」
そう返事をすると、なぜか後ろを振り向いた。誰か居るのだろう。その者に答えているのか、首だけを後ろに向けて、何かの合図のような仕草をするのだった。そして、まるで並んでいたかのように、何人もぞろぞろと食堂の中に入ってきて椅子に座るのだった。
「皆を連れて来たよ」
猛で最後なのだろう。使命でも終わったかのように清清しく入ってくるのだった。
「すみませんね」
「このくらいのことなら何でもないですから何時でも言ってください」
誇らしげに新の隣に座った。それから、無言で待つのに疲れて溜息が出る頃だ。
「おおっ食堂室で待ってくれていたのか」
「・・・・・」
誰も何も言わずに、四人を見つめていた。その様子は、これから何をするのかと、不安を感じているようだった。
「本当に何も言わずに行って済まなかったな」
皆に謝罪しているのだろうか、そのために席に座る気持ちがないのか、だが、謝罪するような様子ではない。何かを思った事があり。それを、伝えなければならない。そのようは表情で歩きながら話をするのだ。そして、皆の顔が見える場所に立った。
「・・・・・・」
皆は、何が始まるのかと、四人に視線を向けていた。
「それで・・登殿に呼ばれた理由なのだが・・・それは、明日から徴兵隊の訓練をすることになった。その時間割と、何をするのか、その指示内容を言われたのだ」
「・・・・・・」
皆は、何をするのかと不安を感じているようだった。
「それで、その時間割だが・・・・」
第四十二章
達也は、登に言われた通りに伝えた。その中には、上官の気分で訓練内容が変わることも、厳しい訓練内容だとも言っていない。もしかすると、達也も簡単に考えているかもしれない。それは、当然かもしれなかった。登も書面に書かれている内容を話すような感じだったからだ。そして、最後に・・・。
「それで、今日一日は好きなように過ごすのではないぞ。最低でも、明日までに軍隊的な礼儀を憶えてもらう必要がある・・・・・そう言われたのだ。だから、なんとしても憶えなくてはならないぞ」
「・・・・・・」
皆は、何て答えて良いのかと、周りの者の様子を見ていた。まるで、何も自分で決められない幼子が、母に頼るように探しているようだった。
「分かっているのか、遊びでないのだぞ。当然、拒否はできないのだから死ぬ覚悟で憶えてもらうしかない。それを肝に銘じて欲しい」
「はい」
達也の気迫に驚いた為に声が出せる者が殆ど居なかった。その為に・・・。
「やる気があるのか、声が小さいぞ」
達也は怒声を上げたことで、皆は声を上げる事ができたのだが、まるで、精神的からも肉体的な恐怖からも回避しようとしているような様子と声色だった。
「やっと、気持ちが伝わったようだな。明日まで憶えてしまえば、後は飽きるほどまで繰り返す訓練だけだろう。だから、頑張ろう」
やはり、達也も楽観的に考えているようだった。そして、今の言葉で安堵の声が広がってしまったからだろう。そして、緊張を解したのが失敗だと思ったはず。
「だが、登殿は、何かと礼儀に煩そうに感じられた。それだけは、忘れない方が良いだろう。もし、気分を壊した場合は、俺たちの待遇にも影響があるはずだ」
「はい」
安堵でもなく恐怖でもない。その様子を見て達也は安心したようだ。
「それでは、言われたことを伝える」
「はい」
また、返事をしない者や頷くだけの者と、達也でも不快を感じる様子だった。
「一つ、返事は、はい。いいえ。の二つだけ、頷くのは返事ではないぞ。そして、返事は二通りしかないのだから悩まずに、即答するだけでなく、皆が同時に返事を返さなければならない。
二つ、返事と同時に、敬礼もしなくてはならない。その敬礼とは、手の平を水平に相手に向けて、右腕を四十五度に曲げて指先を伸ばし、帽子の唾に軽く付けることだ。当然のことだが、帽子が無くても同じように敬礼をしなくてはならない。
三つ、行進する時は、足並みや手の動きも、皆が揃って歩かなければならない」
「・・・・・・・・・」
皆は、話が終わったのだろうか、それなら、返事をしなければならないのかと、問い掛けるような視線を四人に向けていた。そして、少々の沈黙の後、皆は話が終わったと感じて、返事をしようとした時だった。
「この三つを明日まで憶えなければならない。それと、軍服などの寸法も測るからな。これで、以上だ」
「はい」
「おお、できるではないか、その調子だ。だが、敬礼の仕方がぎこちないな。まあ、今日一日していればなれるだろう」
皆の返事だけは、殆ど同時だったが、敬礼をする者、しない者なのなどがいたが、その様子を見て、後、何度か練習すれば完璧だと、達也は感じているようだった。
「それと、新殿」
「何でしょうか?」
「一緒に、何度かで良いので練習してくれないだろうか?」
「僕も同じ隊員ですから憶えますよ」
「そうか・・・・・それなら、登殿に会うのは憶えてからにして欲しい。それと、行く時は、皆の寸法の資料も渡して欲しいのだ」
達也は、まるで、年上の部下に命令するように気を使っているように思えた。
「構いませんよ。それと・・・僕も同じ徴兵隊員ですから気を使わないでください」
「済まない。そうするよ」
「・・・・・・」
皆の視線を感じたのだろう。そして、達也は・・・・・。
「廊下に出るぞ。そして、二列に並んで敬礼の練習をする」
だが、皆の視線は、龍次が両手で持っている紙板で出来た箱に視線を向けていたのだ。
「達也隊長。その前に寸法を測った方が良いと思います」
龍次は、自分のことを忘れていると感じて、片手で持つ紙板で出来た箱を叩きながら達也に思い出して欲しいと伝えているようだった。
「あっ・・そうだったな・・・なら、長い食卓の上に並べてくれないか」
何か別のことでも考えているのか、ポツリポツリと無理に言葉を吐いているようだった。
「分かりました」
その紙板で出来た箱の中には、小、中、大の靴、帽子、上下の服が入っていた。それを、支持された通りに並べ始めた。その様子を皆は、興味深げに見ていた。そして、皆が一斉に立ち上がるのを見て騒ぎになると思ったのだろう。
「ちょっと待て、やはり、廊下に二列に並んでくれないか」
皆は、なぜと、達也に視線を向けた。確かに、子供が贈り物を開けようとして、次の日まで待て。そんな様子だったのだが、大人だからか、それとも、数分後には手に取れるからか素直に廊下に出て行ったのだ。当然と考えたのだろう。新も出ようとしたのだが・・。
「あっ新殿は、いいですよ。皆の寸法を書き留めてください」
「はい。それでしたら、紙と筆記用具を持ってきますね」
「新殿。待ってください」
「何でしょうか?」
「登殿から用紙は頂いてありますので、書きとめてくれるだけで構いませんよ」
「そうでしたか、分かりました」
扉から出ようとしたのだが、達也に引き止められて戻って来た。
「この紙片に書いてください」
「はい」
紙片と筆を手渡されて、達也の隣に立った。
「龍次。二人ずつ中に入れてくれないか」
「分かりました」
龍次は、言葉と同時に敬礼でも返した。
「ああっ、太郎、貫太郎。廊下で敬礼の仕方を教えてくれないか、部屋に入る時に、敬礼の確認もしたい」
「分かりました」
「ですが・・・その」
「分かっている。直ぐにできるはずがない。だが、中にはできる者もいるだろう。その参考にしたいだけだ。形だけでいいから教えてくれないか」
二人は即答で、龍次と同じように敬礼を返した後に、二人は廊下に出た。そして、達也は、少々の時間がかかると思っているのだろう。その時間を有意義に使うつもりのようだ。
「新殿」
「何でしょうか?」
「いろいろな雑用を頼んですまない」
「寸法のことですか、気にしなくていいですよ」
「ありがとう」
達也は、他にも何か言い足そうだったが、諦めたように頷くだけだった。
「二人を中に入れて宜しいでしょうか?」
開けられたままの入り口に、太郎が敬礼をしながら立っていた。
「構わないぞ」
「はっ・・・・・入って宜しい」
敬礼での返答した後、太郎が入り口から離れた。そして、直ぐに太郎の声が響いたと同時に、二人の男が敬礼をしながら立っていた。
「五十五点」
「えっ・・・五十五点?」
「そうだ。敬礼の完成度が、百点満点で、五十五点と言う意味だ」
「・・・・・・」
敬礼しながら何て答えていいのかと・・・・と、同時に次の行動を考えていたのだ。
「もう少し練習が必要だな。それでは、軍服、靴、帽子を着用して、その寸法を新殿に伝えて終わりだ。だが、廊下に戻って敬礼の練習する必要があるぞ」
二人の男は、敬礼を返した後、軍服などを手に取り、そして、新に寸法を教えた。
「次の二人、中に入れ」
「はい」
「おおっなかなかだな。むむ・・・・七五点はあげてもいいだろう」
先ほどと同じ様に、龍次の返事と同時に、二人が入り口に現れた。確かに、先ほどの二人よりは上手い敬礼なのだが、二人ともやや首が横に向いていたのだ。もしも、それがなければ、百点をあげる気持ちだったはずだ。
「・・・・」
二人は敬礼をしたまま、次の言葉を待った。
「軍服などを着て、新殿に好きな寸法を伝えてくれないか」
その言葉を聞くと、やはり軍服でも新品の服は嬉しいのだろう。まるで子供のように帽子、服と着ては大きさを選び始めた。そして、新に寸法を伝え終わると、同じ様に廊下で敬礼の練習を命じたのだ。それから、このようなことを何組も繰り返した後・・・・。
「終わったようだな・・・・・・やはり百点はいるはずもないか」
「そうですね」
「僕はいいのでしょうか?」
新は、不思議ように問い掛けるのだが、問われた方の達也は大きな溜息をついた。その後に、悩みに悩んだような表情のまま・・・・。
「それでは、見ていますので敬礼をしてください」
「分かりました」
ぎこちなく立ち上がり、達也に敬礼をした。
(七十点が良いところだな)
「それくらいの敬礼ができれば十分ですよ」
達也は、引きつる表情のまま、無理に笑みを浮かべる努力をした。
「そうですか」
「はい・・・・・・あっ・・それと、登殿だけでなく、誰から声を掛けられて返事をする時は敬礼で返事を返してください」
「分かりました」
先ほどよりは少々ましな敬礼を返した。
(七十三点だな)
「行かれるのですね。登殿に宜しくと伝えてください」
達也は心の中で落第点を付けたが、手を振りながら見送った。
「分かりました。忘れずに伝えておきます」
再度、新は、簡易的な礼をした後、振り返ることもせずに、建物の出口に向かったのだ。
「行かれたか・・・・その間、俺たちは敬礼の練習でもするか」
「・・・・・・」
四人の隊長以外の者たちは、完璧な敬礼でも見せてくれないのかと、四人の隊長に不満そうに視線を向けるのだった。
「まあ、新殿が戻るまで敬礼の練習をするとしても、何度も練習をしても直ぐには完璧な敬礼は無理だろう。挨拶なのだから慣れるしかない。そう考えて、他の練習をするか」
「それがいいでしょうね」
達也が、独り言のような呟きをしていたが、龍次の耳に聞えてしまったのだろう。返事は求められていないのだが、何時間も同じ敬礼がしたくない。その心の思いから答えてしまった。
「龍次も、そう思うか?」
「あっすみません・・・はい。嫌々で訓練しても無駄と感じます」
龍次は、慌てて謝罪した。その後、問われたために迷わずに考えを言った。
「それも、そうだな」
「それでは、廊下の者たちを止めさせますか?」
「そうだな・・・・あっ中庭に出るように伝えてくれ」
敬礼の練習を止めさせるには問題がないのだが、休憩の時間を取るか、中庭で行進の練習をするか、迷っていた。そして、休憩なら新が帰ってから皆で取るほうが良いと、判断したのだった。
「分かりました」
隊長に選ばれた。その気持ちからだろう。龍次は正式な敬礼を返した。その気持ちは他の三人も同じで、登が満足行く程度の敬礼ができるのだった。
「頼む。俺も直ぐ行く」
食堂の扉が閉められると、直ぐに、三人の隊長の指示が聞えた。その後、窓の外が気になり、中庭を見たのだ。
「行進するくらいなら問題はないだろう」
すると、遊んでいるのだろうか、それでも、訓練なのか野球らしき球技をしていたのだ。
「それでは、俺も行くか・・・・・・・・・え?」
部屋から出て中庭に向かうつもりだったのだが、中庭の方から人の怒鳴り声が聞えた為に、振り返るだけでなく、窓に近寄り外を見た。そして・・・・。
「あっ・・・・はっあぁ」
見た光景は、徴兵隊と西都市の兵との言い争いを見たのだ。それでも、直ぐに向かわずに何に対して怒りを感じているのかと聞き耳を立てた。すると、怒りを上げている兵士は、礼儀として徴兵隊に正式の敬礼をしたが、徴兵隊の者が頭下げただけだったのが気分を害したらしい。達也は騒ぎの理由が分かり、大きな溜息を吐くと、難しい問題でも悩んでいるかのように首を横に振りながら騒ぎの場所に向かった。
「先輩方、本当にすみません。自分たちは、これから軍隊の礼儀などを教えるところだったのです。許して頂けないでしょうか?」
「これからだったのか」
達也が現れると同時に、兵士たちに謝罪を述べ出したのと、教える立場の者だと言うこともあり。もしかすると、自分たちの上官の位と思ったのだろうか、それで、怒りを抑えたように思えた。それでも、心の底には、まだ、消したはずの焚き火から微かな燃えかすが残っている。そんな怒りがあるよう感じられた。
「はい」
「それでは、何に怒りを感じているのか分からないのなら仕方が無いことだな。今回のことは忘れる。だが、これから確りと、皆に教育して欲しい!!」
「はい。承知しました」
言葉と同時に敬礼を返した。だが、素人のような敬礼なのだが、逆に、その様子が、隊と隊の争いで、部下の非を謝罪するために、自分よりも位の低い者に謝罪をしているように思えたのだ。
「いいえ。こちらこそ、すみませんでした」
やはり、精神的に、上官と認識してしまったようだ。
「・・・・・」
「もういいだろう。続きをしよう」
同じく、達也に敬礼をしてしまった。隣に立つ仲間が、野球と思える運動の再開を提案していた。
「そうだな」
「失礼と思いますが何をしていたのですか、それと、出来れば・・・なのですが、軍に関して分からないことが多いので、教えを願いたいのです」
「むむ・・・・・・・」
自分より位が低いかもしれない者からの命令とも思えるし、まだ怒りが収まっていないのだから、即答、出来るはずもなかった。
「何をしている?」
この場の人たちの後ろから声が聞こえてきた。
「登殿」
「隊長」
「まさか、喧嘩ではないだろうな?」
登の部下は、即座に敬礼を返した。その姿を見て、徴兵隊の人たちも同じ様に敬礼をするのだ。そして、隣に立つ、新にも気が付くのだが、敬礼をするかと迷っていた。だが、登には、聞いた内容の返事に困っていると、感じ取ったようだった。
「いえ・・その・・あの・・・」
確かに、喧嘩に発展しそうだった。だが、謝罪すれば許す気持ちだったが、先ほどの様子を見れば、喧嘩をしているようにしか見えなかっただろう。
「敬礼の指導をして頂いていたのです」
「・・・・」
この場の者は、無言で達也の話しに同意するしかなかった。
「そうだったか」
「はい」
「そうだったか、それは、丁度良かった」
「えっ?」
何が良かったのかと、不審に思っていると・・・・。
「新殿に頼まれていたのだが、誰にするかと悩んでいたのだ」
「あっ・・・・その・・・」
徴兵隊の方では、何かと予想はできていたが、西都市の兵の者たちは想像もできない。何か嫌な気持ちを感じて、何か言わなければならない。そう感じたのだ。
「だが、第一隊が適任だな。それを、第一隊の大隊長に伝えておく」
「あっ・・・」
徴兵隊に謝罪を求めていた。あの男に、西都市の兵の全てが殺気を放つ視線を向けた。
「登隊長。自分たちは何をするのでありましょうか?」
その話は、十五分くらい遡ることになる。
第四十三章
一人の男が食堂から出てきた。何か重大な使命を任された。そのような真剣な表情を浮かべていたのだ。そして、懐に大事な物でも隠しているのだろうか、片手で抑えながら歩いているのだ。そして、建物の出口の外の光景では、数十人たちの殺気を放ちながら何かをしている者たちをすり抜けて、正面に見える同じ建物に行かなければならなかった。そして、建物から一歩を踏み出した。だが、その者たちは、建物から出てきた人が見えないのだろうか、何事もなかったように動き回っていた。そして、やっと、向かいの建物に着いたのだが、扉を開けようとしないで、殺気を放つ者たちを見ていたのだ。
「何かされたのか?」
その一人の男は、不思議そうに中庭を見ているので、言葉を掛ける者がいた。
「いいえ。何もされていません」
見ていたのは、新であり。言葉を掛けたのは、登だった。
「それは、よかった。この球技をしている時は、近寄らない方が良いぞ。もし邪魔した場合は、殴られるのを覚悟したほうがいいな」
この球技を登も好きなのだろう。気持ちの高ぶりを抑えようと、拳を握り締めていた。
「何をしているのですか?」
勿論、これは、現代で言う野球に近い球技だった。
「炸裂弾を投げる練習と、鉄弾を遠くに飛ばすために木の棒で打つ練習をしている」
「そうなのですか、あれは、鉄球なのですか、命の危険はないのですか?」
新は、心臓が飛び出るほどの驚きを感じたのだ。もし手や足に当たるなら怪我や骨折で済むと思うが、もし、頭などに当たれば死ぬ可能性が高い。それほどまで真剣なのか!。そして、徴兵隊の人たちだけでなく、自分もするのかと恐怖を感じていたのだ。
「今は練習だから鉄球でなく、丸い木に皮を巻いてある物だ」
「そうなのですか、でも、皮手袋で取る人もいますよ」
新が考えていたのと違うと言われて、胸を撫で下ろした。
「それは、船での戦の場合は、船の床に落とすことができないために手で取る練習だ」
「えっ・・・そんな事ができるのですか?」
「まあ・・だから・・・その練習だ」
偽りの気持ちからなのか、登は、先ほどからの自信に満ちた話から歯切れが悪かったのは、もしかすると自分でも本当にできるのかと、感じているからかもしれなかった。
「凄いですね」
「まあ、その意気込みもあるが、都市の名誉を懸けての都市間の戦いがあるのだ」
「それで、確かに都市の名誉を懸けてなら分かります」
「そうだろう。そうだろう」
登の喜びようは少し大袈裟のように思えた。もしかすると、武人だけが盛り上がるだけで、特に子供や女性には関心がないのかもしれない。それだけでなく、もしかすると、現代で言う競馬のような賭け試合のほうが有名で、都市の名誉の方は、皆から興味を引かれる事柄でないかもしれなかった。もし本当ならば辺境の村でも噂くらい伝わるはずだろう。
「もしかしてあの人たちは、西都市で選ばれた戦士なのですね」
「むむ・・・選考途中かな」
また歯切れが悪くなった。恐らく、遊びだと言えないのかもしれない。それに、新は気が付かないで興奮していた。
「選考の途中なのですか、それなら、徴兵隊の人からも選ぶのですか?」
「まあ・・本人の意思を確認しなければな」
「そうですよね」
新は興奮して中庭の様子を見ていた。その様子を見て、登は自分も早く参加したい気持ちなのだろうか、それとも、何かの用事でもあるのだろう。
「新殿は、何か用事でもあるのでしょうかな?」
「そうです・・・・・言い難いことなのですが・・・・・その」
便所を我慢するかのようにもじもじとしていた。それほどまで話し難いことなのだろう。その気持ちを解すように、登が先に話を掛けてきた。
「新殿の願いなら出来る限り叶えますので言ってみてください」
「そうですか・・・・・あの・・徴兵隊の人たちの家族への手紙を送りたいのです」
「それなら、構いませんよ。手紙と切手なら直ぐにでも用意させましょう」
「それでしたら、手紙は今あるのです。切手だけ用意してくれるだけで構いません」
「そうですか、それでは、一緒に事務所に行きましょう。直ぐに切手をお渡しします」
「それと、服などの寸法のメモも書いてきました」
「ありがとう。それを、今取りに行くところでした。それと、出発の日時が決定しました」
「それは何時ですか?」
「一週間後です。それで、間に合いますか?」
「何も感じませんので、間に合います」
「それを知らせに行くところだったのです」
新が何か話し辛そうだったので、恐らく、日時のことかと感じたので、先に言って気持ちを落ち着かせようとしたのだったが違うようだった。それで、作り笑いを浮かべて言葉を待った。新は、笑みを見て安心したのだろう。口をゆっくりと開いた。
「そうだったのですか・・・・あの・・」
「他にも何かありますね。遠慮などせずに言ってください」
「それは・・・・」
「何でしょうか?」
登は話を急がせずに、新の口から出る言葉を待った。
「その・・・他の兵員の人たちは・・・食事の用意は誰が作っているのですか?」
新は、伝えたい言葉を正直に言うことはできなかった。
「一週間ごとに班が変わりながら全ての人が料理を作ります。それが、何か?」
新が何を言いたいのかと不審を感じていた。
「その作る料理には、徴兵隊の分も数に入っているのですか?」
「あああ、大丈夫ですよ。数に入っていませんので好きな料理を作ってください。もし他の食材が希望でしたら直ぐにでも用意をさせます。自分の気持ちでは兵員とは思っていません。新殿の客人と考えていますので、何でも言ってくれて構いません」
「あっ・・ありがとうございます」
こんなにも登は優しく何か何まで気遣ってくれるのに、自分たちの我侭を言っていいのかと悩んでいたのだ。
「どうしたのです。あまり喜んでいないようですが、何かあったのですか?」
まるで、親友の親が死んだ時のように心配するのだ。
「隠しても仕方ないので正直にいいます。もうこれ以上ないほど世話してくれて嬉しいのですが、僕たちは材料があっても調理ができる人がいないのです。ですから、僕たちも直ぐに覚えるようにします。だから、料理を教えてくれる人を紹介してくれませんか」
「そのようなことで悩んでいたのですか、直ぐにでも料理をできる人を連れて行きますよ」
「ありがとうございます」
「いいえ。たぶん、その人は喜んで行くでしょうね」
「なぜです?」
「普通の兵員は、決められた材料で料理を作るので腕の振り外がないと嘆いていますし、豪華とはいかなくても、好きな料理が食べられるからでしょうね」
「そうなのですか」
全ての不安が消えた。そう思う。誰でもが分かる満面の笑みを浮かべて喜んだ。
「まあ、徴兵隊だけで食べたいと言うのでしたら、料理を教えた後は帰らせることもできますよ。その方が兵の規律というか、教育にはいいのですがね」
「そのようなことは言わないでください。僕だけでなく他の皆も一緒に食べたいはずです」
「そうですか、それでは、人選を選ぶのが大変ですね。恐らく、皆が教えに行きたい。そう言うでしょうからね」
「そうなのですか」
「間違いなく、そうなるでしょう」
「どうしたらいいでしょうか?」
「隊で一番の料理ができる者を行かせる」
「嬉しいですが、それだと困りませんか?」
「そんなに心配してくれなくても、殆どの者が料理は作れますよ」
「お言葉に甘えます」
「いいえ。いいえ」
「それで・・・・その方は、いつから来てくれますか?」
「まさか、今から朝食を作るのですか?」
「いいえ。朝食は食べました」
「良かった。それなら昼に間に合うように行かせますよ」
「ありがとうございます。それでは、皆に伝えてきます」
頭を下げて、今直ぐに駆け出すところだった。だが、登の顔の表情が今までの柔和な表情から不快を我慢している表情に変わったことで、その場に立ち尽くした。
「あっ・・・・すみません。敬礼を忘れていました」
「少しぎこちないが良い敬礼だ。だが、そのことではない」
「・・・・・・」
新は慌てて登に敬礼で返事を返したのだが、登の顔の表情は変わらない。だが、声色だけが柔らかくなったように感じられた。
「新殿」
「何でしょう?」
意味が分からないのだろう。首を横に傾げていた。
「出発の準備は出来た。新殿が行く日を決めてくれれば、直ぐにでも行動できる。もしだが、今日の昼でも夜でも大丈夫だ」
登が建物から出てきたのは、中庭で運動をしている。その参加するのでなく、やはり、新に会うためだったようだ。
「分かりました。今はまだ何も感じません。でも、突然、一時間後に出たい。そう言っても大丈夫なのですか?」
「それは、構わない。何時でも出発はできる」
「その時は、直ぐに知らせにきます・・・・・たぶん、この場所に何かをしなければならない。そう感じるのです」
「そうか・・・・・・それだと、警護を厳しくしたほうがいいか?」
「たぶんですが、攻めてくるとか戦うとはでは無いように思います。ですが・・・それなりの警戒はしたほうがいいと思います」
「そうだな。そうする」
「本当にすみません」
「いや、俺たちの方にも関係することだから何も謝ることではない」
「それでは、切手をもらってから皆に知らせてきます」
「そうだな。俺も一緒に行こう」
新は問題が片付いたので、締めとして敬礼をした。今度は、笑み浮かべて登も返礼を返したのだ。そして、登が歩き出すと、新も後を付いて行った。
「・・・・・・」
二人は無言のまま歩き出した。確かに、歩いて数分も掛からないはず。それに、新も始めての建物なのだが、作りが同じ造りなので想像が付いていただけでなく。ただ、裏口から正面の玄関に向かえば同じ様な受付があるはず。それが事務所なのだろう。そう感じていたのだ。そして、やはり、考えていた通りだった。
「それで、何通の手紙を送るのかな?」
「百二十通もあります」
「そうか、徴兵隊の全員が書いてくれたか、それだと、手間が省けた」
「えっ?」
新が驚くのは当然だ。皆は読み書きができるはずもないからだ。そして、手紙を書くことになったのは、会話の流れで出たから書くことにしただけなのだ。それだから、切手代を心配していたのに、手紙が必要だと言われては驚くのは当然だった。
「手紙を書いてもらう予定だった」
「手紙ですか?」
新は不審を感じる表情を浮かべた。
「そうだ。徴兵の契約には遺言状の作成が義務なのだ。それを、何て言って書かせるか悩んでいた」
「えっ・・・命の危険が無いって・・・・・たしか・・・約束・・・」
ますます、登に不審を膨らませた。それは、当然だろう。命の危険がないのは約束されているはず。そのつもりで軽い別れの挨拶の手紙のはずなのだ。確かに、病気や自分の不注意などから命の危険は考えているだろう。だから、百パーセントの命の保障はできないのは分かっているはず。その程度の危険から、もしものために家族との別れの手紙なのだ。だが、遺言状の作成とは想像もしていないはずだ。それも、義務とまで言われたら暴動や脱走まで考える可能性は十分に有りすぎる。それほどの驚きを感じて、新は我を忘れそうだったのだ。
「確かに約束はした。だが、もしもと言う可能性がある。仮にも戦なのだ。突然の奇襲に遭うかもしれないし、戦が拡大した場合は普通の兵士のように戦う可能性がだってあるのだ。だから、何が起きるか分からないために遺言状が必要なのだ」
「それなら、皆に言って書き直さなければ・・・・」
「そのままでいい」
「・・・・ですが・・・」
新は思っていることを全て口から出そうとした時、故意に遮った。
「本当なら手紙の内容を検閲しなければ出せないのだが、新殿の驚きようを見たら問題はないだろう。そのまま出して構わない」
「・・・・・・・・」
新は、登を信じられなくなったのだろう。それで何も言うことが出来なかった。
「新殿の気持ちは分かる。だが、軍の規律なのだ。俺は軍を預かるだけでなく、西都市のため、皆の命を守るために間者がいると思って考えなければならないのだ。だが、これで最後だ。後は、新殿に相談して決める」
「はい。分かりました。これで、もう嘘を付く事も騙すこともしなくていいのですね?」
「そうだ」
「確認のために聞きますが、徴兵隊は危険な任務には就かないのですね」
「安心してくれ、約束したとおりだ」
登が話をした後、新は嘘か本当か、それを確かめるためだろう。登の目を見続けた。そして、何秒、いや、数分だろうか、過ぎた頃・・・・。
「あのう・・・・」
静かな玄関の広間に、若い男の言葉が響いた。
「何だ?」
「え?」
二人は驚いて、声が聞こえた方向に顔を向けた。
「あっ・・・その・・・話は終わりましたか?」
登の殺気を感じて、二人の邪魔をしたと感じての謝罪からなのか、それとも、上官の言葉を隠れるように椅子に座って聞くのは失礼だと感じ取ったのか、受付の小さい窓から半身を出した。
「新殿は忙しそうですし、自分に手紙を渡してくれるのでしたら、切手を貼って投函しておきますよ」
「あっ・・でも・・・」
受付をしている男に気を使っていると言うよりも、手紙の検閲をすると遠まわしに言われている。そう考えているように怯えていた。その様子に、登は気が付かないのだろう。部下の仕事に支障がないのかと心配しているようだった。
「忙しくないのか?」
「切手を貼って投函するくらいの時間はあります。勿論、自分の仕事に支障はありません」
「そうか・・・・新殿どうする?」
登は、部下の親切な対応よりも、少しでも新のためになる。そう感じて嬉しそうだった。
「ですが、新殿が投函まで自分でしなければ安心できないのでしたら・・・別ですが?」
「いえ、そこまで考えていません。それなら・・・・お願いします」
登が新の様子を見て優しく接してくれるのに、新は内心で疑っていることに恥ずかしくなったのだろう。そして、自分の命の次に大事そうに受付の男に手渡すのだった。もし、この一連の全てが、登の考えで検閲が目的だとしても、新の様子は人の気持ちを変えるほどの真剣な様子だったために検閲などできるはずもないはずだ。
「確かに預かりました」
「よろしくお願いします」
「はい」
「頼んだぞ。それと、これから先も新殿は来ることになるだろう。その時は俺の判断を仰がなくても構わない。何かと手助けして欲しいのだ」
「はい。ですが・・・金銭面では・・・」
「新殿の署名があれば、何も問題にはさせない」
「分かりました」
「頼む」
「それでは、投函の用意をします」
そう言うと椅子に座って、手紙に切手を貼り始めた。その様子を新は暫く見ていた。恐らく手紙を乱雑に扱ってないか確かめていたのだ。当然、登も付き合い。新の硬い表情が解れると・・・・・。
「皆が待っていると思いますから戻りましょう」
「そうですね」
「それで、料理を教えて欲しいと言っていましたね。朝食は食べたのですか?」
「食べましたよ。それも、野菜の姿煮でした」
「えっ」
二人は兄弟のように話しをしながら裏口に向かった。まるで、弟が始めて一人で暮らすのを心配するような感じで話し合い。そして、失敗したことを笑うが、助言などを教えるのだ。だが、それも、裏口に着くまでだった。
「あっ」
「あいつら、何をしているのだ」
中庭を見ると、二人は驚きの声を上げた。その視線の先には、徴兵隊と中庭で球技をしていたはずの者たちが争っているように見えたのだ。その様子を見て・・・・。
「徴兵隊の人たちが何かしたのですね。本当にすみません」
「違うはずだ。もし何かされたとしても、まったく軍規を知らない者に詰め寄るとは許されないことだ」
登は可なり怒りを表しているが、それでも、駆け出すのでなくゆっくりと近づいた。恐らく、罰を考えているのだろう。その後を新も付いて行った。堂々と中庭を二人が歩いて近寄って行くのだが、誰も気が付く者がいなかった。それほどまで興奮しているのだろう。そして、声が届くところまで近づくと・・・登は、理由など聞かずに・・・。
「何をしている?」
新も登は大声をあげるだろう。そう身構えていたのだが、それでも、登は新が怯えるほどの怒りの怒声を上げたのだ。
「隊長」
「新殿」
この場にいる者たちは、それぞれの言い訳を言うのだが、登はニコニコと悪魔のような笑みを浮かべるだけで、聞いてはいないようだった。
「お前らは気が合っているようだな」
「えっ?」
「えっ?」
二人の部隊長はお互いの顔を見た。そして、顔形は違うのだが同じ様に表情が引きつっているのを見て苦笑いを浮かべた。その浮かべた表情も似ているのを見ると、登は大声で笑いながら頷くのだった。
「やはり、第一班が適任だな」
ニヤニヤと笑みを浮かべて、二人の様子を見るのだった。
「隊長。我々は練習に戻ります」
まだ命令をされていないからだろう。それで、会話の流れの冗談で通じる間に逃げようとしているようだった。
「待て」
先ほどの登は人間らしい温かみを感じたが、今は、人としての温かみある血が通っていないかのような冷たい表情を浮かべたのだ。
「はっ、何なりとご命令に従います」
冷徹な軍人として戻った。その口調に身体が反応して即座に敬礼で返事を返した。
「登さん。無理ならいいですから」
新は、登と第一班の全員から冷たい視線を向けられた。その視線には何を言っているのかと、まるで、新の人格を疑うだった。だが、そう感じたのは新だけでなく、徴兵隊の全の者も同じ感じように取ったのだ。そして、命の危険はない。それを、信じていいのかと疑問を感じると同時に、軍とは上官の命令は絶対に拒否ができない。それを身体で感じたのだった。
「徴兵隊の教育を命じるが、特に料理の手解きを頼む」
「えっ」
第一般の全員が驚くのは当然だった。普通の兵士としての教育をすると考えていたのだが、料理だけを教えろ。そう言っているとしか判断ができなかったのだ。それでは、まるで子供が軍の体験訓練と言う名目だけの遊びと同じだったのだ。それも、第一班の全てでは一緒に体験訓練の遊びで心身の疲れを取ってくれ。そうとしか考えられなかった。そのことに気が付かない。新と徴兵隊の者たちは、何をされるのかと恐怖を感じていた。
「それでは、昼から頼むぞ」
「はっ、ご命令に従います」
第一班の全てが敬礼で返事を返したが、先ほどの冷たい表情でなく、人としての温かみを感じる表情だったが、それに気が付いたのは、登だけだった。
「その時間が来るまで、徴兵隊は服や靴などの受け取りの手続きをしてもらう」
第一般の全ては、また、中庭に戻り。先ほどと同じ様に練習を始める考えなのだろう。それを、登と新と徴兵隊が視線だけで見送った。そして、登が話し終わると、まだ、先ほどの恐怖が消えていないのだろうか、頷くだけで返事を返したのだった。
「それなら、今から渡すことにする。一緒に来てくれ」
そして、登が向かいの建物に向かって歩き出すと、皆も歩き出したのだ。当然とは変だろうが、中庭を堂々と真ん中を横切るのでなく、練習している者たちの邪魔にならないように中庭の端を歩いたのだ。
「何か凄い殺気を感じないか?」
確かに、数十分前から考えると、遊びや練習と思えないほどの真剣な感じはする。
「そうだな・・・もしかすると・・・俺たちの怒りが消えないのか?」
それが、徴兵隊が原因の八つ当たりとは思えない。それよりも、昼間までの時間が制限されたために、練習内容を消化するとも思えたのだ。だが、皆が時々、登に視線を向けるのは、何かの言葉を待っているようにも思える。と、同時に、これ以上、何かを言われたくない。そのために声を掛けられないように夢中を演じているとも思えた。
「登さんに聞いたのですが、大会の選手を決める選抜しているらしいですよ」
「そうだったのか、それで、些細な苛立ちから怒りを感じたのかもしれないな」
軍隊でも警備隊だとしても、礼儀や規律が一番の肝心なことだと分かっていないようだ。この話題に登の耳まで届いていないのだろうか、それとも、中庭の練習に興味が向いているからだろうか、ちらちらと視線を向けるが、建物に向かう歩く速度は変わらなかった。
「それにしても、料理だけでなく、教育も指導されるだろう」
「そうらしいな」
「それだと、選手に選ばれない者は、俺たち、徴兵隊が原因だと逆恨みされないかな?」
「そこまで、酷い人たちではないだろう。俺たちに教育する人たちなのだから、第一般の人たちは人格者だと思うぞ。それに、選抜候補らしいし、隊のエリートかもしれないな」
「そうかもな」
「だろう」
徴兵隊の者たちは、自分に都合のいいようなことを考えていた。だが、それも、登が建物の中に入ると、皆は口を閉じた。建物の中だと言葉が響くと感じたのだろう。確かに、悪口ではないが、登に聞かせたい内容でないのだから当然だろうが、それだけが、原因ではなかっただろう。
第四十四章
数十人の団体が本棟と言われる建物に向かって歩いていた。その建物は他の四棟と同じ作りなのだが、なぜか、犯してならない禁忌の建物と感じてしまうのだ。それは、もしかすると、他の三棟にない。西都市の紋章が描かれているからかもしれない。だが、その紋章が恐怖や畏怖を感じる絵柄ではない。もしかするとだが、名を名乗りあう時に苗字を言われた時と同じ感覚かもしれない。それは、なぜ・・・・苗字があるということは、貴族や領地などを持つ者だけだからだ。だが、それだけの理由ではない。苗字を持つと言うことは、いや、授かると言うべきだろう。それは、誰でもが知る。全ての都市の象徴とも言われる。王であり信仰の象徴でもある人から授けられた名誉の証なのだ。それだけでなく、紋章まで持つ事が許された者なら雲の上の人と同等だったのだ。
「・・・・・」
その紋章の意味も分からない。だが、徴兵隊の人たちも見ただけで畏縮しているはずだ。
「何をしている?」
徴兵隊の人たちが建物の中に入ると、中を見回しているので、登が問い掛けたのだ。確かに、自分たちの宿舎とは少し違っていた。まるで、夜間の病棟の雰囲気と営業後の会社の事務所の雰囲気が混じった感じで、人が退社して居なくても、何か事があれば直ぐに行動が起こせるように準備や片づけがされていた。素人でも、見ただけで直ぐに戦が始まるのか、そんな疑問を感じる雰囲気だったのだ。
「・・・・・・」
皆は何て答えていいのかと悩んでいた。まだ、兵員として素人だと言うだけでなく、村の外に関して何も分からないのだから当然だろう。そして、皆の思案の内容の中には、登に命令を出せる者がいるだけでなく、紋章を持つ人もいるはず。それを考えだけでも恐怖を感じるのだろう。だが、それだけでなく、その者が気分を壊した場合は自分たちの命に係わる。それも、自分たちが原因で・・・その原因にも気付かないことだったら・・・そう考えると一歩も進めなかった。
「何をしている?」
登は二度も同じ問い掛けとしたことに怒りを感じているようだった。そして、徴兵隊のところに戻ろうと、一歩を踏み出した時だった。皆の代表として、達也が・・・・。
「宿舎以外の建物に入る時の礼儀が分かりませんので悩んでいました」
「なぜ?」
「もしもですが、紋章を持つ人と出会った場合に、不快な思いを感じてしまうのではないかと、それを考えていたのです」
「紋章・・・・・ああ、主様のことだな?」
達也は、一瞬だけだが何を言われているのかと疑問を感じていた。
「そうです」
「それなら心配することはないぞ」
「えっ」
登は、引きつった笑みを浮かべた。まるで、泣いている子供を安心させようとしているようだった。恐らく、新に向けてだと思うが、それでも、徴兵隊の全員が安堵と同時に疑問も感じたのだった。
「主様は、この都市には居ない」
「そうなのですか?」
徴兵隊の全てが驚きの声を上げた。
「そうだ」
登は、眼の前に居る者たちが、余りにも馬鹿馬鹿しいことを考えているのに笑いを堪えていた。それは当然だろう。援軍を送ってくれる都市だとしても突然に敵に変わるかもしれないのだ。そのような危険な所に主が来るはずがないからだ。もし行きたいと言ったとしても、当然のことだが死ぬ覚悟で主を説得する。主が都市にいてもらわなければ、安心して戦いができないからだ。
「・・・・・」
そして、登は、皆から何故なのかと問い掛ける視線を向けられるが、そのような馬鹿馬鹿しいことを伝える気持ちがあるはずもなかった。
「あっ・・・・それと、この都市と言うか、この建物で自分よりも上官はいない」
「そうでしたか」
やっと、皆は玄関から一歩を踏み出した。その様子を見て、登は複雑な気持ちを感じたはずだ。それは当然だろう。もしかすると同じ仲間だと思われているのかと、そのような顔の表情を表したが、新が安心したように笑みを浮かべながら話をしているので、仕方がなく歩き出したようだ。
(他にも何かあるのか?)
そして、登は四歩くらいだろうか、歩き出した時だった。会話の声も足音も聞えないために不審を感じたのだろう。本当に、自分の後を付いてきているのかと振り向いた。
「・・・・・」
確かに、徴兵隊は登の後を付いてきているが、まだ、不安を感じているようだ。いや、それとも、宿舎と同じ建物だが本館と考えるだけで厳粛な気持ちになるのだろうか・・そして、登が立ち止るまで辺りを見回しながら歩き続けるのだ。
「この部屋だ」
登は立ち止り、扉を開けるのと同時に大きな溜息を吐いたのだ。自分の視線の向こう。部屋の中では、敬礼をして立っている者がいる。それも、非の打ち所がない完璧な敬礼をしている者だった。その姿を見て安心したのか、それとも、徴兵隊たちの子供のお守りをするような対応に疲れえたのかもしれない。
「準備はできているか?」
「はい」
簡潔にハッキリとした口調で返事を返した。誰もが完璧に指示した通りに役目を果たした。そう感じ取れる。軍人としては理想的な返事だった。だが、徴兵隊の皆には、感情が感じられない機械仕掛けの人形のように感じてしまい。自分たちの気持ちを分かってくれるだろうか、そう思って身体を強張らせた。だが、徴兵隊の誰一人として分からないだろうが、軍人とは機械仕掛けのように上官の指示だけに従うのが一番肝心なことと、人から威圧的な感じに取られるのが理想だとは思ってもいないはずだ。
「後は頼んでも良いか?」
「構いません」
部下の返事を聞くと、懐から紙片を取り出して見せた。そして、渡すから取りに来るようにと態度で示したのだ。
「頼む」
「はい」
登から紙片を渡されると、後のことは自分に任せて欲しいと敬礼で気持ちを伝えた。その敬礼を見て、登も簡易的な礼を返した後、徴兵隊の方に身体を向けたのだ。
「後は中の部下の指示に従って欲しい」
「はい」
そして、部屋の中の部下と同じ様に簡易礼をした。だが、徴兵隊の者たちは当然のことだが、敬礼などできるはずもなく、頭を下げて返事をするだけだった。その姿を見て笑みを浮かべてしまったのは、先ほどの部下を自分で教育した時を思い出したのだろう。それを繰り返すはずなのに、なぜか、直ぐに笑みを消して真剣な表情に戻った。恐らく、自分の気持ちを引き締める理由は、徴兵隊は兵士にするのでない。自分たちが守らなければならない人たちだと思ったに違いない。
「隊の長は居るか?」
これから入る部屋から声が聞こえてきた。そして、皆が達也に視線を向けた。
「はい。自分です」
大声で返事をするのと同時に駆け出し、扉の前に立った。
「お前か?」
「はい」
「それなら、指示を伝える。班ごとに分かれて一列に並ぶのだ。そして、一人ずつ部屋に入り、自分の寸法を言えば衣服などを手渡す。それと、自分が選んだ寸法なのだから不具合はないと思うが、ある場合は言ってくれ直ぐに交換する」
「はい。伝えてきます」
「待て」
「はい。何でしょうか?」
「極度に太っている者や背が小さく痩せている者は居るか?」
「いません」
「そうか、それなら何も問題はない。並びしだい中に入ってくれて」
「はい」
と、達也が横を振り向いて、皆に指示を伝えようとしたが、軍人の男の声が大きい為に指示を伝える前には班ごとに分かれていた。
「あっ・・・」
達也は一列に並び終えていたので驚いた。そして・・・。
「・・・・・」
誰も返事はしなかったが、直ぐに達也の後ろに一列に並んだ。
「何をしている。早く中に入れ」
登の時と比べると、可なり威圧的な口調だった。もしかすると、今回の任務は嫌だったのか、それか、自分の自由時間を割いているのかもしれなかった。
「はい。俺から先に入るから後から続いてくれ」
指示の通りに、達也は部屋に入り、男の前に立った。
「この紙片に名前を探し、俺に教えてくれ」
机の上に置かれた紙片に目線で探して指差した。
「達也か?」
「はい」
少しだが、達也は驚いているような感情を表したが、それは、恐らく、男の後ろに積み上げられた箱の中身を想像していたからかもしれない」
「帽子が中で・・服が中・・・・ズボンが大・・・・靴が二十六か」
一つ一つ確かめながら達也に渡した。
「ありがとうございます」
「ベルトや手袋などの小物は、好きに選んで持って行ってくれ」
「はい・・・・ですが・・・・自分で開けていいのですか?」
机の上に何種類かの箱が置かれていた。それを指差しながら問い掛けたのだ。
「構わない」
あまりにも当然のことだろうと、服が入っている箱を開けながら視線も向けずに答えた。
「分かりました」
殆ど返事と同時に箱を開けて、一つ、取り出しては、また、別の箱を開けた。
「それと、直ぐに着てくれ、合わない場合は交換する」
「はい」
全てを手にした後、部屋の隅の方で着替え始めた。その様子を徴兵隊の全てが見ていた。
「皆も達也と同じ様にしてくれ」
入口の所で、数人が好奇心と同時に驚いているような様子で見ていた。そして、言葉を掛けられたことで驚いていた気持ちから正気に戻った。
「はい」
第四十五章
先頭にいた者から歩き出して、達也と同じように言葉を伝えるのだ。それも、呪文を呟くようにして言うのだ。その言葉(自分の名前)を正しく言うと、衣服などが貰えるのか、少し緊張して言っていた。その後は、まるで機械的な何かを作る流れ作業のようにして渡されるのだが、誰一人として愚痴を吐く者はいない。これが人を歯車のように扱えるか、その軍人としての適正判断をされているとは誰も考えていないだろう。もし疑問を感じる者がいたら生まれた里に帰れたかもしれない。それに気が付く者は、都市の設立から誰一人として居なかった。それから、全ての者が手にするには、三十分くらいの時間が過ぎる。
「全ての者の手に渡ったな・・・・交換したい者はいるか?」
男は、全ての者の様子を見回した。その後、確認のために尋ねた。
「・・・・・・」
皆は、言われた意味が分からない。と言うよりも耳に届いていないに違いない。渡された物に夢中で子供のようだった。まるで、子供が憧れていた晴れ着を親から手渡された時のように喜んでいたからだ。そして、男は返事がないことに怒りを感じていると思うだろうが、皆の様子を見て、自分も嬉しいのと同時に寸法の間違いもない。それにも、気が付くのだった。
「これで・・・終わりだが、これから後は、中庭にいる者たちに聞いてくれ」
初めの一言で、皆の気持ちが落ち着いたかと確かめ、自分の言葉が聞える。そう判断した後に話を続けた。
「分かりました。いろいろと、ありがとうございます」
達也が代表のように返事を返した。そして、男が返礼をしたのを見て、徴兵隊の皆も慌てて返礼を返したのだった。
「また、会う機会があるだろう。がんばれよ」
男が一瞬だけだが、笑みを浮かべてしまったのは、自分が始めて訓練を受ける時も同じだったのかと、思ったのと同時に、後から面倒なことになるかもしれない。そう感じたのかもしれなかった。
「ありがとうございます」
徴兵隊の皆は、感謝の気持ちを言葉で表しながら男が部屋から出て行くのを見送った。
「名前を聞くべきだったかな?」
「いや、それよりも、敬礼をするのを癖にしたほうがいいな」
「あああ、そうだな。それで、中庭にいる人たちを怒らせたのだからな」
自分たちの落ち度を確認しているのか、いや、それとも、中庭には行きたくない。その時間稼ぎなのだろう。その気持ちを表すように、誰一人として早く中庭に向かおう。と、言う者がいなかった。その時間稼ぎが何分過ぎただろうか・・・・・・・。
「何している。渡されたのなら早く出て来い」
中庭から大声が聞こえてきた。だが、誰一人として誰か、と確かめる者がいなかった。いや、確かめるまでもなく、誰なのかと誰もが分かっていたのだろう。それでも、窓に一番近いからなのか、それとも、素直に視線を向けてしまったからか、その一人が・・・・・。
「今から向かいます」
それは、新だった。
「慌てなくてもいいぞ。終わりしだい。中庭に来て欲しいのだ」
返事を返したのが、新だったからだろう。先ほどの怒りを感じる怒鳴り声だったのが、何かと疑問を感じて、上官が中庭を見たかのような驚きで、謝罪しているような感じで言葉を伝えたのだった。
「分かりました」
ぎこちなく、新は敬礼をした。
「それでは、行こうか」
達也は、皆に指示を出した。だが、声色からは嫌気を表していたが、新が直ぐに向かう。そう言ったからには従うしかない。それは、徴兵隊の皆も感じていたことだった。
「はい」
皆は両手で抱えるほどの荷物を持ちながら部屋を後にしたのだ。
「遅かったな」
中庭に出ると直ぐに、正規兵の第一班が横一列に並んで待っていた。
「・・・・・・・」
徴兵隊の皆は立ち尽くした。確かに、待っていると想像はできていたが、裏口の手前で並んで待っているとは思えなかったからだ。それだけでなく、その様子を見ると、威圧と不快な感じを同時に思うのは当然なのだった。そのことに気が付かないのだろうか、ニヤニヤとしながら見詰め続けるのだ。
「我々は、何をしたら宜しいのでしょうか?」
この場の雰囲気と自分の気持ちに我慢できず。達也は指示を求めてしまった。
「自分の棚に荷物を置きしだい。この場に集まれ」
「はい」
誰も返事をしないので、新が答えた。その後、皆は、荷物が重くて疲れを感じているのだろうか、いや、違うだろう。先ほどの中庭での言い争いで予定以外の仕事が増えたために、教育と言う名目での嫌がらせをされる。その恐怖と、訓練から逃げられないと感じ取って、脱力感を表しながら宿舎に向かっていた。
「隊長」
「何だ?」
「新殿が一緒なのですから・・・・その・・・どのような訓練を考えているのでしょうか?」
「最低の礼儀だけだ」
「礼儀だけなのですか?」
「そうだ。俺たちが命じられたのは料理を教えることだからな。だが、最低の軍の礼儀だけでも憶えなければ、困るのは徴兵隊の連中だからなあ」
「そうですね。我々みたいな言い争いだけで済むはずがありませんからね」
「それに、兵の指揮にも影響あるだけでなく、我が都市は兵の教育も出来ないために他の都市から援軍を呼ぶのか、そう思われるのは心外だろう」
「そうですね。対等な兵力の戦いならば援軍なんて要請するはずがありません」
「そうだな」
「その気持ちを踏まえて徴兵隊の教育をしますよ。完璧な敬礼を一日で覚えさせます」
「待て、待て、それとは少し違う。気持ちは確かに・・・そうなのだが、徴兵隊ということもあるし、新殿もいるだけでなく、隊長の言葉もあっただろう。訓練というよりも、徴兵隊との係わりを楽しめ。共に遊べと言っていたのだ」
「あっ・・・・すみませんでした」
「構わん。気にするな」
徴兵隊の者たちには聞かせられない話をしていた。その話も終わろうとした時・・・。
「話は終わったのですか?」
「適当な時間つぶしの会話だ。構わないから来なさい」
「はい」
徴兵隊の中では一番若く、小隊長もしているからだろう。猛は誰よりも先に戻って来た。だが、中庭で聞いてはならない。そんな口調での会話だと感じ取り建物の中から様子を窺っていた。それでも、問い掛けの内容から判断すると会話の内容まで聞えていないようだった。それで、中庭の者たちは安心したのだろう。猛を手招きしていた。
「他の者達は遅いな」
「呼んで来ますか?」
「いや、急ぐほどのことではない。だから、呼びに行かなくても構わない」
「はい」
そして、五分、十五分と時間が過ぎると・・・・。
「遅すぎます。呼んできますよ」
二人の隊長と福隊長は、猛の言葉に返事をしなかった。恐らく、怒りのために他の人体機能が働いていないのだろう。それを証明するかのように玄関の中を見続けていた。それから、また、五分が過ぎると・・・・・・。徴兵隊は、楽しそうな会話をしながら現れた。
「その姿は何だ」
遅いことに怒りを感じると同時に、軍服ではなく、運動する服に着替えていたのだ。
「汚れるだろうと、着替えてきました」
当然のことのように、皆は同じように答えたのだ。
「貧乏性が染み付いているのだな」
「え」
「早く軍服に着替えて、直ぐにこの場に整列だ」
怒鳴り声を聞くと、猛だけが残し、皆は逃げるように、今出てきた建物に戻った。それから、五分くらいは過ぎた頃に、死ぬ気で着替えてきたのだろう。
「はっあーはっあー」
戻ってきたことの挨拶と、二度も待たせた。その謝罪の気持ちを言うことが出来ないほどまで急いだのだろう。息切れだけで言葉にすることはできなかったが、敬礼だけは忘れずに、その仕草に気持ちを込めていた。
「良い。気にするな」
「・・・・・・」
「休め」
謝罪を求めていた。その相手に許しの言葉を貰ったが、敬礼を崩す者は居なかった。それほど、先ほどの怒りが怖かったに違いない。暫く、その謝罪する姿を見て、感心したのか、程ほどで許しても良いと思ったのだろう。笑みを浮かべて敬礼を解くのを許した。
「副長。徴兵隊の服装を見てくれないか」
「はい」
指示された通りに、一人一人の頭の上から下まで見た後も、まだ、足りないのだろう。横からも何かを探すようだった。そして・・・・・・。
「帽子が悪。スラックスの丈も悪」
何を変なのかと、確かめる者の姿を見ると、その者の帽子は、やや大きくて深く被っていたからだ。それと、スラックスの丈が長くて折り曲げていたことが駄目だと言っていると分かった。だが、どうしたら良いのかと、視線を向けていた。そして、一人が終わると、次の者に指差しながら不具合を言うのだ。
「悪。これも悪」
だが、今度は、指差すだけで不具合の名称を口にはしなかった。それでも、不具合の妥協はしなかったのだ。その者が終わると、また、次の者、そのまた、次の者と確認するのだ。そして、全ての者を確認した。
「全ての者の確認が終わりました」
「済まなかった」
「・・・・・」
無言で敬礼を返した。その後、自分が立つ場所でもあるのだろうか、隊長の隣に立って、先ほどの不具合を確認するように徴兵隊の者たちに視線を向けた。
「今言われた者は、直ぐに違う物に交換するように、それと、ズボンの丈の調整くらいは自分で直さなくてはならないぞ」
「・・・・・・・」
徴兵隊の全ての者が驚きの表情を浮かべたのだ。
「全ての者が出来ないのか・・・・それなら、憶えなくてはならない」
「・・・・・・・」
この場の全ての者が、次の言葉を待った。
「仕方が無い。我が部隊の者が教えるしかないか・・・・・・」
不安や不満があるのだろう。少々ざわめきを感じ取り・・・。
「副隊長から横並びに整列。徴兵隊も同じように整列だ」
徴兵隊以外の者たちは即座に整列したが、徴兵隊の者たちは意味が分からず。その整列したのを見た後に正面に横並びに整列した。
「良。それで、良い。そして、徴兵隊の者は、正面にいる者に教えを請うのだ」
「はい」
徴兵隊も、何度も敬礼をしているだけでなく、軍の怖さと軍人の厳しさを身体に染み付いてきた。それで、正しい敬礼もできるようになったのだろう。
「それと、先ほど着てきた平時の時に着る軍服。まあ、運動着と呼んでもよいが、それに着替えてきてくれ。そろそろ、昼になる。食事の作り方を教えよう」
この場に残った。隊長と福隊長は建物の中に入り。玄関ホールの喫煙所に腰掛けて、一服を始めたのだ。それから、二本の煙草を吸い終わる頃に一人、二人と返ってきた。そして、同じ様に一服をする者。再度、裁縫の方法を詳しく聞く者や気持ちが落ち着かずに周りを見回す者と、その様な者たちは時間が過ぎる毎に増えてきた。
「副長。皆は戻ってきたか?」
「あっ・・・・後、何人かまだですが・・・・氏名と数を確認しますか?」
「いや、そこまでする必要はない。そろそろ帰ってくるだろう」
「はい」
隊長の考えでは十分程度で終わると、考えていたのだろうが、予定よりも三十分が過ぎた頃に、最後の者が現れた。
「遅れて済みませんでした」
「いや、考えていた通りの時間だ。気にするな」
「隊長。この者たちで最後です」
「そうか、なら、昼を作りに行くぞ」
「はい」
「我らの建物と同じ作りだったな?」
「そうです」
2016年4月12日 発行 初版
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羽衣(かげろうの様な羽)と赤い糸(赤い感覚器官)の話を書いています。