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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

セルフパブリッシングのための校正術 大西寿男

──【第3回】木も見て森も見る〈ゲストコラム・連載最終回〉

ウラ垢女子 セラ よたか

── ネットでイメプをする女の子の事情〈小説〉

作品情報&著者情報

太陽のホットライン かわせひろし

── 夢を追い続ける本格少年サッカーストーリー〈小説・連載第3回〉

作品紹介&著者紹介

フィエロ王国戦記 にぽっくめいきんぐ

── 王様視点のラノベがあってもいいじゃない!〈小説・前編〉

作品情報&著者情報

鉄研でいず3 米田淳一

── 進級する鉄研を見つめる謎の視線の正体!〈小説・連載第2回〉

作品情報&著者情報

あたしだけしかいない街 儚月響

── みんなどこへ行ったの?〈小説〉

作品情報&著者情報

暗闇にパブリック 菊地康之固有正弦波

── 謎なんか最初からない、アンチミステリ。〈小説〉

作品情報&著者情報

クルンテープ 波野發作

── 華やかな大都市のにぎわいと厳かな仏教文化〈小説〉

作品情報&著者情報

表紙イラスト 魅上満

── こどもの日に、はしゃがないこどもたち〈表紙イラスト〉

作品情報&著者情報

あとがき

セルフパブリッシングのための校正術

大西寿男

〈ゲストコラム・最終回〉

セルフパブリッシングのための校正術  大西寿男

第三回 木も見て森も見る

日本で初めてラジオから流れたCMは?


 あなたはいま小説を書いています。回想シーンなのか、タイムスリップしたのか、ある女性が、ラジオから流れてきたCMに耳を傾けています。それは日本初のラジオCMでした。そのときあなたは、彼女が聴いたのが何のコマーシャルで、何時何分に放送されたと描写しますか──?

 こんにちは。校正者の大西です。「セルフパブリッシングのための校正術」も最終回となりました。今回はまず、ファクト・チェック、事実関係の確認についてのお話からです。
 校正の仕事では、原稿に書かれていることを、その内容もひとつひとつチェックしていきます。いま挙げた例でいえば、「日本初のラジオCM」が何かを調べ、あなたの描いたシーンと矛盾はないかを確認します。
 インターネットで「日本初」「ラジオCM」をキーワードにして検索すると、それが一九五一(昭和二六)年九月一日午前七時に中部日本放送が放送した、「精工舎の時計が、ただいま、七時をお知らせしました」というものだったらしいことが、すぐにわかります。と同時に、もうひとつの説も見つかります。同じ日の正午に新日本放送で流れた「スモカ歯磨」のCMという説です。どちらが正しいのでしょうか?

図書館のレファレンスから学ぶ


 国立国会図書館のウェブサイトには、「レファレンス協同データベース」というページがあります(*1)。国会図書館に限らず図書館にはレファレンスという重要なサービスがあり、利用者のさまざまな調べものに答えて資料の紹介や提供をおこなう窓口になっています。これは、全国の図書館でじっさいにあった質問と回答を集めたデータベースなのです。
 「日本初のラジオCM」についての事例もここに載っています(*2)。それを見ると、文献資料を駆使して二つの説のどちらが正しいかを追究する図書館司書の技を後追うことができます。結論に至る道筋をぜひご覧ください。
 国立国会図書館のウェブサイトには、ほかにも有益なページがあります。「リサーチ・ナビ」は、さまざまなテーマごとに、どんな文献やウェブサイトを参照すればよいかを具体的に案内してくれます(*3)。例えば、日本の勲章と褒章について調べたいとき、調べ方案内 > 政治・法律・行政 > 日本の官庁資料 > 勲章と褒章(日本)を見れば、その概要と参照先がわかります(*4)。「リサーチ・ナビ」の中には、「図書館にきく」というページもあります。ここにもよくある問い合わせの事例がまとめられています(*5)。
 レファレンス以外にも、図書館には便利なサービスがいろいろあります。他の図書館が所蔵している本を取り寄せたり、自宅から資料の複写を申し込んで郵送してもらったりできます。レファレンスも、図書館まで出向かなくても、電話やメール、手紙で受けられます(図書館により異なる。東京都立図書館のばあいは*6を参照)。各地の大学図書館が、学生や教員だけでなく一般にも開放されていることは、あまり知られていません。雑誌のコレクションで有名な大宅壮一文庫をはじめ、さまざまな専門図書館、私設図書館もあります。インターネットの時代においても、図書館は情報の宝庫であり、知の窓口です。それを活用しない法はありません。
 校正者はとにかくよく辞書を引きます。ネットで検索するだけでなく、図書館に通い、参考文献をひっくり返します。大きな出版社や新聞社なら、社内に充実した図書室・資料室をもっています。魔法を使うのが魔法使いなら、校正者はさしずめ〝辞書使い〟。校正者ほど日常的に辞書をひもとく職業もないのではないでしょうか。
 なぜそんなに辞書や資料にあたるのかといえば、それはひとえに、自分のもっている知識や記憶は頼りにならないと疑ってかかっているからです。世の中は知らないことだらけ、自分自身の思いこみや生半可な知識で誤解してしまうことを校正者はおそれます。同様に、ひとりの人、一冊の本だけに正解を頼る危険性も経験的に知っています。先の「レファレンス協同データベース」の事例報告でも、かならず複数の辞書や資料で確認をとっていました。
 セルフパブリッシングの校正でも同じです。原稿執筆段階での調査や取材だけでなく、書きおえていざ校正するときにも、新たな目で、書き手の思いこみやかんちがいがないか、ひとつひとつ事実確認をしていってみてください。執筆時には気づかなかった落とし穴に気づくこともありますよ。

(*1)レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/
(*2)日本で初めてのラジオCMは何か。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000086613
 なお、小著『校正のこころ』が参考資料として掲げられている「採点や校正に赤色が使われるようになったのはいつからか。起源を知りたい。」という事例もありました。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000166878
(*3)リサーチ・ナビ
http://rnavi.ndl.go.jp/rnavi/index.php
(*4)勲章と褒章(日本)
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-707.php
(*5)図書館にきく
http://rnavi.ndl.go.jp/rnavi/asklibrary.php
(*6)東京都立図書館の利用案内
http://www.library.metro.tokyo.jp/guide/tabid/1402/Default.aspx


意図がなければゆるされる?


 相変わらず政治家の不用意な発言が後を絶ちません。今年(二〇一六年)の二月には、自民党の丸山和也参議院議員が憲法審査会で「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ、はっきり言って」と発言し、批判を受けたのは記憶に新しいところです。丸山氏は「人種差別の意図はなかった」と謝罪しつつ、「批判は見当違いで残念だ」とも主張していました。
 政治家に限らず、差別発言が批判を受けたとき、よく「意図はなかったが、誤解を招くような発言をした」という言い方で釈明されたり謝罪されたりします。「発言の全体を見てもらえばわかる。部分を切り取って報道されて、誤解された」という主張も、しばしばなされることです。
 ふだん、校正の仕事をしていて、それが差別表現かどうか判断するときに、たしかにその部分だけをとらえて考えることはなく、常に全体を見、文脈から判断をします。文章の文脈だけでなく、その本が社会的にどういう位置づけにあるのかという、本の外側のコンテキストもふまえます。単純に用語集に載っている〝差別語〟だから言い換えなければいけない、という発想はとりません。そういう処理の仕方は、逆に差別の構造を助長するだけです。
 丸山氏の発言は、もしも話し言葉でなく書き言葉で、ゲラ(校正刷)の段階で校正者が見れば、おそらくほとんどの校正者は差別表現として確認のチェックを入れるでしょう。なぜなら、明らかにその発言によって尊厳を傷つけられる人たちがいると想定されるからです。そして、なぜそう受け取られるかといえば、この発言がいまのこの社会の差別意識と構造の上ではじめて成り立つ言説だからです。
 このニュースを実家のテレビで見ているとき、隣にいた母がいいました。「アホやなぁ、この人。意図しないのが差別やないの」。そのとおりだと思います。
 差別する人間の側に差別しようという意図や意識がないにもかかわらず、いや、それだからこそ、差別される人間は傷つけられ、破壊される。そこが差別の根深さ、おそろしさではないでしょうか。

 次の例は、ある講演録の一節をアレンジしたものです。


 朝からずっと、部屋のカーテン閉めきって、男二人でいったい何やってんでしょうね? 男どうしの愛情というとなんだか、ちょっと困りますが(笑)、ここでいう愛情とは同志としての愛なんです。

 それこそ前後がなく切り取られた部分でわかりにくいですが、文学についてのややむずかしい話が続いたあと、本筋とは関係のないところで、ちょっとした清涼剤のように場内の笑いをとる場面でした。「(笑)」とあるのは、話し手と聞き手がいっしょになっての笑い声を表しています。
 ここで笑いが起こるのは、異性愛者の感覚をベースにしていることによります。話し手と聞き手はある共通の感覚をシェアしあい、いわば共犯関係で結ばれています。その隠微な感覚は、その外側に置かれた相手にも確実に届きます。もしこの会場に同性愛者がいたとしたら、笑いに囲まれて、とてもいたたまれない思いがしたことでしょう。あるいは、またかと受け流しながら、どこかで痛めつけられている自分を感じていたかもしれません。
 「この程度のジョークもいえないなんて」「言論統制だ」という不満の声も聞こえてきそうです。ですが、ちょっと待ってください。「この程度」をだれが決めるのですか。差別される人間が封じこまれてきた言葉の数々は、言論封殺ではなかったのですか。「言論統制だ」という大きな声に、人ひとりの痛みの声はかき消されてしまうのです。
 たとえ差別する意図はなくても、あなたの何気ない言葉によって、ひとりの人が静かに黙って席を立ち、その場からいなくなったとしたら。小さな声だからなかったことにしていいというのであれば、それはそれでいいでしょう。ですが、校正者は小さな声を大きな声と同じように聴こうとする者です。校正者が大きな声にしか耳を傾けないようであれば、それは校正者の仕事ではありません。

ゲラの側に立つ


 出版社をとおす商業出版では、深刻な不況のせいもあって、本がプロの校正者の目をとおらないで世に出ることが増えてきているように感じます。それではだれが校正するのかといえば、たいていのばあい、編集者が校正します。ですが、編集者の校正と校正者の校正とは、本来ちがうものです。どこがどうちがうのでしょう?

 編集者の校正は、著者に寄り添い、原稿の過不足に対して新たに書き直しや書き足しを提案でき、表記の改変やレイアウトの変更などをふくむ編集権というある決定権をもつものです。それとは対照的に、校正者の校正は通常、著者とは直接やりとりをすることなく、編集者を介して、すべてはゲラ(校正刷)に書きこむ修正の赤字やエンピツ書きの疑問出しに完結するものです。
 校正者はしばしば編集者から、「読者の側に立って読んでほしい」というリクエストを受けることがあります。著者と編集者の次に〝最初の読者〟として読むわけで、そのリクエストもたいへん意味のあることです。ですが、校正者にはもうひとつ、大切な役割があります。それは、著者でもなく読者でもなく、ゲラに表されたに即す、という役割です。
 校正者にとって、ゲラの上の言葉は、たしかに作者が書いたものではあるけれど、ひとつの作品として自律した生命いのちをもったものとして迎えられます。その生命が行きたい方へ、秘めもつ力が生き生きと発揮される方へ、言葉を後押ししたいと願う者です。そこにはたしかに、作者の意図からも離れた何かを感じることができます。ゲラの上の言葉は、多くのばあい、もっともっと暴れたい、魅せたいと訴えています。あるいは、もっともっと静かにいたい、黙っていたいとも。それらはとても小さな声で訴えられるので、校正者はよく耳を澄ましておかなくてはなりません。
 この連載の前回(第二回)のテーマは、「最初の書き出しの一文字から最後の結びの一文字まで、すべての文字に等しく注意と愛情を注いでいくこと」でした。それはなんのためかといえば、すべてはこの小さな声を聴くためです。
 対して、編集者の校正は、大局から小さな声をすくい取ろうとする読みといえます。では、著者の校正、著者校正とはどういう校正でしょうか?
 紙の本の制作では、著者は原稿がゲラになってはじめて、みずから紡いだ言葉を客観的な存在として目にします。そこには産みの親であるはずの自分の手も離れ、編集者とデザイナー、組版者の手をとおしてあらたまった姿の言葉が立っています。なんにも変わっていないはずなのに、著者にはすこし他人行儀に映ったわが子がまぶしく、また一抹のさみしさもおぼえるかもしれません。親として何かいろいろ手をかけてあげたいと思いつつ、すでに独り立ちをはじめた子どもにあまり手出し口出しはできないなということも感じ取っています。この段階で著者ができることは、案外少ないのです。もしもここで全面的な書き替えが入るなら、それはもはや著者校正ではなく、その前の推敲の段階というものです。
 校正者の校正は、編集者からも著者からも読者からも独立して、ただということを突き詰めます。そうすることで、言葉の自律した生命を守り、産みの親としての著者の願いをかなえる手助けをします。

言葉をエンパワメントする校正


 セルフパブリッシングの校正がむずかしいのは、この、著者と編集者と校正者それぞれの読みの役割をひとりでやらなくてはならず、結果的に三者の役割分担がぐちゃぐちゃのまま言葉と向かい合わなければいけないところにあります。いわば外科医がみずからの体に外科手術を施すようなもの、カウンセラーがみずからにカウンセリングをおこなうようなものだといえばよいでしょうか。
 私はこれまで何冊か本を上梓したり、雑誌に寄稿したりしてきました。自分で書いた文章を校正するのは、ほんとうにむずかしいです。まず、客観的に見ることがなかなかできません。ではどうしたらよいかといえば、第一に、だれか信頼できる人に読んでもらうことをおすすめします。校正者でなくてかまいません。自分以外の目をとおしてもらいます。このときに大切なことは、それが信頼を寄せられる相手であることです。でないと、感想や意見、指摘をもらったときに、素直に耳を傾けることができず混乱してしまいます。
 次にやるべきことは、あなた自身が著者であることからひととき離れて、校正者になったつもりで、プリントアウトしたゲラと向き合うことです。
 校正はふつうの読書とはちがう言葉との向き合い方をします。そのテクニックは、この連載の第一回では「見落とさないための知恵」として二〇のツボにまとめました。第二回の連載では「一人読み合わせ校正」のバリエーションとして、漢字を分解したり文字を一文字ずつ見ていく方法に示しました。そして今回、第三回ではレファレンスの実例をとおしてファクト・チェックのコツを学びました。これらをひとつでもふたつでも実践することで、あなたは著者である自分から離れて、別の目でみずからの作品と向かい合うことができます。
 忘れてはいけないのは、そのとき、自分はいま著者の側でも読者の側でもなく、ゲラの言葉の側に立っていると意識すること。プリントアウトされた言葉と向かい合い、その秘めもつ小さな声に耳を澄ませようとすること。
 冷静に、でも冷たくならず熱くもならず、37℃くらいの微熱を保って、集中力を一定に保ちながら一文字一文字、一語一語、一文一文をなぞりつつ、同時に全体のことを考える。まだ見ぬ読者の顔を思い浮かべる。黙って静かに席を立ち、離れて行ってしまう人のことを想う。一度目は蟻の目、二度目は鷹の目で。木も見て森も見る。

 すべてをひとりで担うセルフパブリッシングが、他人まかせでないぶん、きめ細かく充実したものとなりますように。校正という、言葉をエンパワメントするすべを得て、産みの苦しみ、育てのよろこびすべてをあなたが手に入れられることを願っています。


ウラ垢女子 セラ

よたか



  タチヨミ版はここまでとなります。


月刊群雛 (GunSu) 2016年 05月号
~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~

2016年4月26日 発行 初版

著  者:大西寿男 よたか かわせひろし にぽっくめいきんぐ 米田淳一 儚月響 菊地康之固有正弦波 波野發作
イラスト:魅上満 
デザイン:0.9Gravitation
ロ  ゴ:宮比のん
編  集:原田晶文 晴海まどか 竹元かつみ 鷹野凌
発  行:NPO法人日本独立作家同盟

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 NPO法人日本独立作家同盟は、文筆や漫画などの作品を、自らの力で電子書籍などのパッケージにして世に送り出している、インディーズ作家の活動を応援する団体です。伝統的な出版手法である、出版社から取次を経て書店に書籍を並べる商業出版「以外」の手段、すなわち、セルフパブリッシング(自己出版)によって自らの作品を世に送り出す・送り出そうとしている方々をサポート対象としています。
http://www.allianceindependentauthors.jp/

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