spine
jacket

はじめに

今日、「障害者」についての理解および人権の尊重は、以前とくらべて格段に進展してきています。また、障害のある人が生み出した創作物は、展覧会などを介して広く知られるようになりました。その一方で、メディアを通じ、「純粋」「頑張る」「天才」などといったステレオタイプな障害者像が、相変わらず世の中に流布していることも疑いのない事実です。しかし、当然ながら、障害のある人たちの生き方は多様であり、そのような特定の障害者観にもとづいた語り方は、障害のある人たちの現実を適切に伝えているとはいえません。それにもかかわらず、「障害者」に対する思い込みや期待、見るものを感動させ勇気づけようとするための誇張などに基づいた紋切型の障害者像は再生産され続けているのです。私たちは、こうした健常者中心の考え方に対して自覚的にならなければ、意に反して、障害のある人やその表現を排除することになってしまうでしょう。

そもそも、人の「心」は他者から見えません。例えば、コミュニケーションに障害のある人と出会ったときなどに、他者の心の見えなさは強く意識されます。そのため、わたしたちは常に他者の内面を想像するしかなく、同じ人やモノに対しても、それぞれ異なる想いを持つことはよくあることでしょう。その想いはどれも「現実」ですが、一方で、どこにも唯一の正解はないという意味では、私たちの日常はそれぞれの「仮想」によって構成されているともいえます。このように「仮想」と「現実」の関係は表裏一体であり、そのことが人々の衝突を引き起こすことも少なくありません。それでも、私たちはお互いを排除することなく、認め合い、いまとは別の方法で他者を受け入れることが求められているのではないでしょうか?

『障害(仮)』展では、「仮想」と「現実」の間を往来する表現を一堂に展示しました。それを通して、私たちが普段は無自覚でいる日常の虚構性を明るみに出すことをねらいとしました。本書は同じ考え方にもとづき、それぞれの表現を紐解きながら、「障害/健常」の境界をさらに探ることを試みています。本書を通じて、「仮想」と「現実」の関係、ひいては「障害/健常」の境界に光が当てられ、新たな視点で日常が見つめ直されることを願います。


鞆の津ミュージアム

目 次

立ち上がれ!寝たきり芸人あそどっぐ

アウトサイドの現場から①ー小林一緒

わけのわからない偶像 文・津口在五

アウトサイドの現場から②ー武田憲昌

「マイノリティ」と「性」、「境界線」を剥き出しで描くこと。 文・佐々木誠

アウトサイドの現場から③ー滝本淳助

「もしも失踪するときは周りに相談しながら進めていくのがいいと思います」ハーモニー施設長・新澤克憲インタビュー

虚ろ現な我らのかたち 文・津口在五

常識のデザイン 文・市原えつこ

境界と恐れ文・藤井直敬

ヒロイン視点から世界を見る 伊勢田勝行インタビュー

アウトサイドの現場から④ー三浦和香子

人間の「障害」 文・齋藤亜矢

アウトサイドの現場から⑤ー西川正之

四つの眼球のある風景 文・百瀬文

福祉と美術の間で 文・櫛野展正

小さい世界像の断片を奇集する奇人の館 文・ヴィヴィアン佐藤

編集後記 文・田中みゆき





立ち上がれ!寝たきり芸人あそどっぐ

文・日比野和雅


あそどっぐ
1978年生まれ。熊本県在住。24時間介助を必要とする身体障害(脊髄性筋萎縮症)をもつコメディアン。自身の障害をネタにした自虐的コメディーを発表。本展では新作コントを上映した。

アイラブあそどっぐ

僕はあそどっぐが好きだ。
僕の脳を刺激しまくってくれるところが好きだ。
僕はあそどっぐのコントが好きだ。
エロい下ネタもいいのだが、特にけなげな障害者を装って
健常者をおちょくるところが好きだ。
僕はあそどっぐのかたちが好きだ。
うずらの丸焼きのような姿もいいのだが、
特に唇がやらしく震えるように
これでもかというくらい卑猥に動くところが好きだ。
そんなあそどっぐの魅力を、テレビの視聴者にちゃんと伝えられるだろうか…
その前に、あそどっぐを放送していいのだろうか…


寝たきりコント職人“あそどっぐ”誕生

あそどっぐとの最初の出会いは、2012年の夏。インターネット上の動画サイトだった。Eテレで放送している障害者情報バラエティー『バリバラ』の名物企画、日本一面白い障害者を決める「SHOW-1グランプリ」の出場者を探すためにネット検索していたところ引っかかったのだ。いまでは「あそどっぐの動画」で検索すると2,170件がヒットするほどの有名ぶりを発揮しているが、当時は10件にも満たない動画がYouTubeにアップされているだけだった。その一つに『コント・漫才』という動画がある(現在も閲覧可)。畳の部屋に布団を敷き、その上でコントする寝たきりの重度障害者。設定は、一人二役、双子の「寝たきりーズ」というコンビを組んで、合成画面で漫才を繰り広げる。決してネタのクオリティーが高いわけでもなく、再生回数も2桁止まり。しかし、誰も真似することなどできない天上天下唯我独尊的な芸風にすっかり目が釘づけになってしまった。
 そして、同年11月に行われた「第3回SHOW-1グランプリ」にあそどっぐは見事予選通過し出場を果たすと同時に、テレビデビューを飾った。このとき、紹介用の短いVTRをつくり、『エンタの神様』ふうにキャッチコピーをつけた。「熊本が生んだ寝たきりのコント職人あそどっぐ!」僕としてはかなり気に入っており、彼の紹介コメントにはいまでも同じキャッチコピーを使わせてもらっている。
 彼がSHOW-1グランプリで披露したネタは、僕の中ではいまだにこれを超えたものはないと思っている。それくらい完成度は高く、オリジナリティーに優れている。スタジオゲストのカンニング竹山さんは、「笑いの天才が出てきた。あそどっぐの脳の中をもっともっと見てみたい」と絶賛した。タイトルは『テレビ出演への道』。
 出だしはこうだ。「今日はあの!国民的超人気番組240時間テレビの取材がやってくる日だ。ビシッとテレビ出演決めてやる」初っぱなから、挑戦的だ。
 そして、ディレクターから泣ける話が聞きたいという求めに応じて、彼が言うところの・・感動の寝たきりあるある話を披露する。
「生後半年の甥っ子が寝返りをうったとき、叔父を超えたな…と思う」
「生後1年経った甥っ子が伝え歩きを始めたとき、お前に教えることはもう何もない…と思う」
 痛快である。
 本戦の結果は、残念ながら僅差でグランプリを逃し、準優勝だった。

あそどっぐが切り開く地平

 その後、あそどっぐは、「バリバラ芸人」としての快進撃を続ける。大阪教育大学で「障害と笑い」をテーマに公開収録(2013年6月放送)を行った際に、コント『べろちゅーへの道』を発表。合コンでの王様ゲームの設定で、自分の顔に洗濯ばさみをいくつも挟んだり、熱々おでんを顔に乗せたりと、ダチョウ倶楽部顔負けの体を張った芸で物議を呼んだ。ゲストから「番組にやらされているのか、自分で考えたのか」との質問に、「もちろん、自分です。ドMなもんで」と言ってのける。顔以外、体をまったく動かせない彼は、このとき初めて、顔芸で笑いをつくり上げることに成功する。コントのそこかしこで「べろチュ~」と言って、いやらしく唇を突き出す仕草、健常者の合コン参加者を口汚く罵るときの嫌悪感に充ち満ちた顔のこわばり、ストーリーの展開にあわせて歌舞伎役者のようにぐるぐる回る目玉。首から下がピクリとも動かない体の中で、顔の筋肉だけが縦横に動く姿は、滑稽を通り越して一種異様な光景でもあり、それゆえに、観客の視線はあそどっぐの顔芸だけに集中させられるのだ。
 また、「大人の修学旅行」と題して、生まれて初めての京都観光に挑戦(2015年7月放送)。伏見稲荷大社では、着物美女をナンパしてストレッチャーを押してもらいながらお稲荷さん詣で。そして落研の大学生たちと、これまた生まれて初めての銭湯体験。さらには悲願の舞妓さんとのお座敷遊び。このときも、あそどっぐの顔芸が炸裂。「とらとら(ジェスチャー式のじゃんけん)」遊びでは、顔芸でおばあさん・虎・武将の格好をつくり、舞妓さん相手に連戦連勝!おそらく、いや間違いなくテレビ史上初の映像が目白押し。寝たきりの重度障害者が一般のお笑い芸人と同等の体当たり企画に挑戦するのだから、すべてが初物で、これまで誰も目にしたことのない映像なのだ。
 そして、ついにあの三池崇史監督からもあそどっぐファンであることを公言してもらうまでに至る(2015年10月放送)。『ゼブラーマン』へのオマージュ作品として、『ヒーロー戦士アソアソマン』を発表。怪人の善意につけこんで戦うという前代未聞のヒーロー。
「障害を利用しないと俺はなんも出来ない。俺らしく卑怯な手を使う!」
まさに障害者のニューヒーローの誕生だ。

 実は、僕は、あそどっぐによってバリバラの一つの完成形をつくりあげることができたと思っている。もともとバリバラは、世間が障害者に対して抱いている「頑張る」「かわいそう」「純粋」といった紋切り型のイメージを覆すために始まった。そうしたイメージをつくりあげてきた責任はメディアにも大いにあると反省するのだが、その対極にある「面白い」「エロい」「ずるい」といったイメージをすべて持ちあわせていたのがあそどっぐだ。一方で、彼は、国から指定されている難病疾患で、顔以外に体を動かすことができないとびっきりの重度障害者。きっと多くの人がストレッチャーに寝たきりのあそどっぐを見れば、心のどこかで「かわいそうだ」と思うことだろう。もし仮にテレビで取り上げられるとすれば、女性アナウンサーの優しいナレーションで、これまでの人生のさまざまな困難を綴られ、家族や周囲の者たちの懸命なサポートとともに、どのように障害を乗り越えてきたのかが語られることだろう。そのドキュメントは見る者を感動させ、「あんなに重度の障害があっても頑張って生きているのだから、健常者の自分ももっと頑張ろう」と思わせるのだ。
 オーストラリアの難病コメディアン、ステラ・ヤング氏(2015年12月没)の言葉を借りれば、まさに「感動ポルノ」以外のなにものでもない。健常者を感動させ、勇気づけるために消費されるコンテンツ。
 そんな「感動ポルノ」の主役にすぐにでもなれそうなあそどっぐだからこそ、彼がひとたび口を開けば、その諧謔とのギャップに視聴者は度肝を抜かれる羽目になる。笑っちゃいけないんじゃないか、笑ったら障害者差別になるんじゃないか…と脳しんとうを起こしそうになりながらも、数分後、いつの間にか、あそどっぐワールドに引き込まれ、自然に笑ってしまっている自分に気づく。
 感動ポルノでは、障害は障害者当人が克服する問題として片づけられてしまうのがお決まりだが、あそどっぐワールドでは、視聴者が笑ってしまった瞬間、その視聴者自身も当事者に引き込まれてしまう。つまり、なぜ笑ってしまったのかを考えさせられてしまうのだ。
 障害者もしくは障害を笑ったのか?
 それとも、障害者と対峙している社会の方を笑ったのか?

障害ネタは自虐ネタか?

 あそどっぐのコントを見た観客の感想で、「自虐ネタ最高ですね!」というのをよく聞く。なんかちょっと違和感を覚える。こうした感想は、あそどっぐに限らず、他の障害者がお笑いをやる場合にもよく聞かれる。またこうしたときに引き合いに出されるのが「ハゲやデブはお笑いにしてOKなら、障害だってOKでしょ」というもの。なんかこれも違う気がする。
 「自虐」を辞書で引くと、「自ら貶めること」とある。さらに「自虐ネタ」を調べると「自分の欠点や失敗を利用して自分を貶め、笑いを誘うネタ」とある。たしかに、髪が薄い、または太っている芸人さんたちは、その身体的欠点を直接的に笑いの対象としてとして扱うことが多いが、あそどっぐの場合、そうではない。まず「寝たきり」であることを自分の欠点とは思っていない。そして、自分を貶めることもしていない。彼のコントでは、寝たきりは誰にも真似できない「武器」として使用される。おそらく一般の多くの人たちが「寝たきり=可哀想」というイメージを抱くであろうことを逆手にとって、自ら健気な障害者を装い、無知な健常者を笑い飛ばすのである(彼にここまでの悪意はないと思うが)。彼のネタを見ていると、笑われているのは、彼を見て笑っている自分の方ではないかと、薄ら寒さを覚える。
 先日、某国立大学で講義する機会があり、冒頭であそどっぐの第3回SHOW-1グランプリのネタを学生たちに見てもらい、感想を述べてもらった。「最初は戸惑ったけど、途中から素直に笑えた」といった内容の感想が多かったが、最後に聞いた学生の感想がとても興味深かった。
「とっても面白くて笑えたんですけど、でも、ここまで来るまでにきっと大変な困難や苦労をいくつも乗り越えられたんだろうなと思います」
「えっ、それはネタづくりに関してということ?」
「いえ、病気や障害で辛いことがいっぱいあったと思います」
 なるほど、初めてあそどっぐを見るとそういう感想を抱くのか…僕はその場であそどっぐに携帯で電話をかけ、これまでの人生でどんな困難があったのか聞いてみることにした。すると…
「いやあ、そんな感動エピソードの一つや二つあってもよさそうなもんなんですが、残念ながら全くないんですよ。学生さんには申し訳ないんですが…」と、本当に申し訳なさそうに何度も謝ってくる。まあ、予想どおりの返事だったわけだが、それを聞いた学生は、恥ずかしそうに「自分の思い込みによる偏見だと気づかされました」と、反省しきりだった。

悲報

 いま、この原稿を書いている最中、2016年1月10日23時40分、Facebookで、一人芸日本一を決める『R-1ぐらんぷり』に、あそどっぐが予選落ちしたとの悲報に接する。
「R-1予選、今年も落ちました(T_T) また芸を磨きますm(__)m」
 3回目の挑戦だったそうだが、これまですべて1回戦敗退。あそどっぐのFacebookのコメント欄には、「がんばれ」のあたたかい応援メッセージが多数寄せられている。
 それにしても、なぜ1回戦敗退してしまったのか?本当の理由は知るよしもないが、実を言えば、僕の感覚では、あそどっぐのネタは打率にすると1割台。スベっているネタも少なくないと思う。前頁まで持ち上げすぎたのではないかと、自戒の念に駆られながら、はたと気づいた。やはり重度障害者ということで、ついつい周りの評価が甘くなってしまうのではないか。ネタの面白さに障害の有無は関係ないことは言うに及ばず。

彼に同情は無用、もっと厳しいコメントを!
叱咤、叱咤、叱咤、愛のムチこそあそどっぐを奮い立たせるはず。
なぜなら彼はドMなのだから。


日比野和雅(ひびの かずまさ)
NHK大阪放送局『バリバラ』(Eテレ日曜夜7時~)チーフプロデューサー。恋愛や仕事、スポーツ、アートをはじめ、障害者の性やお笑いにも果敢に切り込みながら、障害者が「本当に必要な情報」を楽しく届けることをモットーにしている。もともとの専門分野は美術・文化番組で、『日曜美術館』『美の壺』も長らく担当してきた。





アウトサイドの現場から① 小林一緒

文と写真・櫛野展正

小林一緒(こばやし・いつお)
1962年生まれ。埼玉県在住。調理師として蕎麦屋や給食センターに46歳まで勤務した後、アルコール性神経炎を患い歩行困難な状態となる。18歳頃から書き溜めたメモ書きを頼りに、当時の記憶を呼び起こしノートに自らが食べた料理のイラストと感想を描き続けている。

 2014年12月、埼玉県さいたま市の埼玉会館で『「うふっ。どうしちゃったの、これ!?」「えへっ。こうしちゃったよ、これ!!」無条件な幸福』という展覧会を観に行った。これは『埼玉県障害者アートフェスティバル』の一つとして企画された展覧会で、5回目を迎える。障害のある人たちの作品群が並ぶ会場を歩いていると、隅の方に展示されていた奇妙なイラストに目が留まった。『俺の日記』と題されたその作品は、ルーズリーフやノートに弁当やラーメンなど実に美味しそうな料理のイラストが描かれている。料理の名前や値段、そして食材と共に、画面の余白に書き添えられた「旨イッ!!」という感想。これは、実際に食べた料理をイラストと感想で記録した絵画だった。展覧会場で身震いがして、僕はその作者を追いかけた。

 2005年、つくばエクスプレスの開通に伴い開業した三郷中央駅。埼玉県三郷市の中央部に位置し、駅周辺にはショッピングピンクセンターや新興住宅地が立ち並び、現在も開発が進んでいる。そんな駅の最寄りにある閑静な住宅街の一角で、小林一緒さんは高齢の母親と暮らしている。

わざわざ来て頂いてすみません。ジジイが勝手にメモ帳に描いてるだけなのに。
 声が聞こえる方に向かうと、キッチンも兼ねた部屋の隅に小林さんは座っていた。小さな座卓の上には、ボールペンや色鉛筆、マジック、コンパスなどの画材に加え、食べ終わった貝殻やカニの脚から割り箸、そしてお弁当についていた香辛料や調味料にいたるまでさまざまなものが溢れかえっている。周囲にはビニール袋に入ったカップラーメンの容器の山が小林さんを取り囲み、すべて手の届く位置に置かれているようだ。

机はもうごっちゃ。空き箱は全部食べたやつ。食べたものを絵にするからいろいろ置いてる感じですけど、面倒くさくて捨ててないのもあります。食べてないのはカップラーメンですね。おふくろが買ってきてるんですよ。「ここに置いといたらいいな」が、こんなぐちゃぐちゃになっちゃって。最初はただの広いテーブルだったんですけどね(笑)。
 現在53歳の小林一緒さんは、東京の江東区森下に生まれた。

水元公園近くの葛飾区で生活してて、こっちへ家建てるんで小学校二年生の途中で引っ越して、それからは三郷中央ですね。親父はプロパンガス屋で、ボンベ乗っけて配達してた時代でね。そのころ、親父が一生懸命やってました。わたしは独身で、一人静かにやってたんです。
絵を描くのは小学校のころから好きで、中学そして高校一年の始めまでは美術部でした。高校は埼玉の県立吉川高校です。美術部を辞めて、近所の喫茶店でウェイターのアルバイトやってるときに、食べるのが好きだったから「こういう飲食の仕事いいなぁ」と思うようになって、池袋の後藤学園っていう調理師専門学校に一年行って、そのまま調理師として市内のお蕎麦屋さんに就職したんです。20歳から38歳まで18年働きました。「出前持ちから頑張って、いつか自分の店持ちたいな」なんて夢ばっかり見てたけど、途中で気力がなくなっちゃったんですよ。蕎麦屋さんも途中で店閉めちゃって、「もう一度開店しよう」って言われたんだけど「俺はもういいや」って辞めちゃいました。結局、挫折しちゃったんですね。その後、近所の老人ホームの栄養課に2年、三郷順心総合病院(現在の三郷中央総合病院)で5年。病院では150食とかつくってて、どっちも小学校の給食センターみたいな職場でしたね。まぁ、俗にいう人間関係のトラブルで辞めちゃいましたけど。


 本人もはっきりとは覚えていないが、食事の絵を描きはじめたのは18歳、19歳のころだという。当初は、家に帰ってから食べたものを思い出してメモに描く程度だった。「ただの日記帳代わり」と彼は言うが、何という記憶力だろう。僕なんて昨日の夕食も思い出せないのに。そして机の下から出てきたのは、無造作に輪ゴムで包まれた膨大な紙の束だった。

 輪ゴム取ってバラバラにして構わないっすよ。これが全部メモです。時代も何も全部バラバラで、ここにもない昔のは、もう捨てちゃったけどね。このメモは家に帰ってから記憶だけで描いてて、これを見ながら落書き帳に清書するんです。忘れたものは仕方ないけど、余計なものは書かない。色なんかは、適当に自分でこんなもんかなと。ただ赤を白にしたり、黒を黄色にしたりはしませんよ。そんなことはしない。大体こんな感じだったなあって描いてますよ。

 そんな小林さんが現在のようなスタイルになったのは昭和63年。ちょうど26歳のころだ。

20代前半は、どこ食いにいっても、「あぁ美味しかった、さようなら。はい美味しかった、さようなら」って、何食べてもそうだったんですよ。だんだん食べてるうちに、「絵描いて残しとこうかな」って思って、ちっちゃい絵から描きはじめて、そのまんまずっといまも描いてます。テレビ見てて、人の食べてるものを「美味しそうだな」って思うけど、絵を描くのはやんないです。あくまで自分で食べたものだけ。まぁ、「何年何月から描きはじめてずっとやってます」じゃなくて、ちょこんちょこんやってるって感じで、全く描かなかった日もいままでにありますよ。

 メモを頼りに当時の記憶を呼び起こして描かれた絵画は、皿の模様にいたるまで忠実に再現されており、その緻密さに驚かされてしまう。18歳ごろから、これまで描きためた枚数は1,000枚以上にものぼり、処分したものはないという。当時のメニューがなくなったり、お店が閉店したもの沢山あり、小林さんの絵は、ある意味で当時の食文化を伝える貴重な資料ともいえる。中には、弁当についていた香辛料など「現物」がそのまま貼りつけられた絵や、食材の名前や値段が「?」になった絵も。

それ、期限切れてるから食べらんないですよ(笑)。このワサビとかは、家にあるのをかけたりして、食べなかったんですね。あと、値段がわかんなかったら「?円」とかにしちゃいますよ。食材がわかんないこともあります。特に、ほうれん草や葉っぱものはわかんないときありますね。山菜とかも何が入ってるのかわからない。「山菜」って書いてあるだけでねぇ。「ゼンマイ」とか書いてあれば書きますけど。

 それにしても、なぜ「絵画」なのだろうか。外出先でもどこでも食べたものをiPhone片手に写真に撮って済ませてしまう僕からすると不思議で仕方がなかった。

当時は携帯なかったですし、食事の写真撮るのは恥ずかしかったですね。以前は、「写ルンです」を買って写真で済ませてた時代もありました。しばらくは撮って溜めてたんですけど、やっぱり現像するのにお金かかっちゃうでしょ。デジタルカメラも操作わかんなくて、いまだに携帯も持ってないぐらいなんで。遅れすぎてるっていうか、それでも生活できちゃってますけどね。友達もいないし暇だったから、ちょ

こちょこっとメモするとか「美味しかった」って店の名前とか描いていたんです。
あと、例えば、わかめうどんとか、中に椎茸が入ってるやつがあるんですよ。ほら、写真で撮ると椎茸が隠れて見えないでしょ。自分は絵を描くときに、椎茸を移動しちゃえばいいんですよ。そうすれば全部の食材が見えるからね。


 そういう理由で、小林さんの絵はすべて真上から見た構図で描かれていた。それは単なるデザインではなく、「すべての食材を描く」ために編み出した技法だったのだ。そして和食や中華など多彩なジャンルの食事の絵が多いが、きちんと値段まで記されている。
おふくろが料理あんまりつくれないし、お蕎麦屋さんの出前持ちしてた20歳のころから三食昼寝つきだったんで、結局おふくろの飯はそのころから食べてなくて、自分で料理もしないですね。だから、ここにあるのは、自分で食べに行ってたころのものです。値段まで書いてるのは自分の趣味ですよ。そうそう、知り合いがいる山梨には、家族でもよく食べに行ってましたね、高校三年生のときからマイカー持ってましたから。酒や煙草なんかも、早くから「男の子の通る道」を通ってきてますからね。それは捕まっちゃうんであんまり言わないようにしてください、元気なころの時代ですから。「時効です」って勝手に決めたりして(笑)。煙草はいまでも吸ってます。

 お母さんの案内で二階の寝室も見せていただいた。戸棚の中には、若いころに浅草で購入した食品サンプルやプラモデルが埃をかぶっている。そして、ベッド脇の大きな段ボールには、ハガキサイズの沢山のファイルの束が投げ込まれていた。

あの段ボールに入っていたのは、病院に勤めてたころのまかない飯を描いたものです。早番・日勤・遅番と勤務によって違うんですが、お昼は絶対食べてましたから。ハガキサイズのメモ帳がちょうどあったんで、毎晩家に帰ってから、自分が食べた昼ご飯をメモしてそれを暇なときに清書してました。当時は、友達と一緒に飲みに行ったり一人でスナックに飲み歩いたりしてましたね。スナックは近くにもあるし、電車やバスで松戸・金町・綾瀬まで行ったりね。親父も酒が強かったから一緒に飲みに行ったら「いいねぇ、親子で」なんてよく言われましたよ。酒好きだから、こんな体になってしまったんですけど。ちょっと度が過ぎたっていうか。

 小林さんの絵には、生ビールや焼酎などのアルコール類もよく登場する。やはりお酒は相当好きなようで、病院で働いていたころ、飲みすぎて膵臓を壊し何回か入院したこともあったそうだ。これまで日々の食事を楽しみながら、調理師として順調な人生を歩んでいた小林さんだが、そのお酒が原因で46歳のとき、転機が訪れる。

病院の食堂を辞めて、1ヶ月後に車を運転してたら目がショボショボしておかしくなったりフラフラしたり。病院行ってなんだかんだ言ってるうちに、車椅子になっちゃったんですよ。お袋と兄貴も来てくれたんですけど、1ヶ月の間で「もう危ない」って先生に言われたとか。そのうち、ろれつも回らなくなってきて「お前、何言ってるか全然わかんなかったぞ」って後から兄貴に言われました。その時は本当に記憶がなくなったみたいになって、浦島太郎状態だったんです。アルコール性神経炎っていう、アルコールの取りすぎによる神経の炎症だと言われたけど。ここまで酷くするぐらいですから相当飲んでましたね。結婚もしてなかったから良かったっていうか、好きなことばっかりやってたんで。だから、病気になって7年ぐらい働いてないんです。親父も10年くらい前に亡くなって、いまは82歳のおふくろに世話になってる状態です。

 生死の境をさまよいながら奇跡的に一命を取り留めた小林さんだったが、歩行障害が残ってしまう。

病気をしてから足が二本ともね。脳梗塞みたいなもんです。しばらく病院でお世話になって退院して、ずっとこの状態です。最初は車椅子でトイレ行ってて、それから歩行器になって、やっと杖になったのが今の状態なんです。杖をついてどうにか外には出られます。ただ距離は歩けない。だから、生活は本当に不便ですよ。こんな体にしたのは自分ですから自分で後悔してるんですけど。しかも、入院してるときに血糖値が高いことがわかって、糖尿病にもなったんです。結局足が動かないから、糖尿病も酷くなるんですよね。今は月に一度水曜日に通院して、お薬もらってインスリンも打ってます。先生からは「死ぬまで付き合う病気だ」って言われますが、正直に言うといまもお酒を断ててなくって、トイレの中とかで飲んじゃってます(笑)。

 話を伺っている間ずっと、小林さんはその場を離れようとしなかったが、「動かなかった」のではなく「動けなかった」のだ。

出かけられないんで朝から寝るまでここにいます。疲れたら寝ればいいし、お尻が痛かったら姿勢を変えればいいし。間に、ご飯食べたりテレビ見たりしてるだけで、たまに外に出るってこともなくって、ここに座ったきりです。二階の寝室へは、前はおしりで登ってたんですけど、いまはやっと階段の一段一段なら手で登れるようになったんです。8か月位は入院してて、退院後もベッドと車椅子借りて、しばらくは寝てる状態だったんです。ベッドを返してからやることなくてね。病院へのリハビリは、3か月くらいで止めちゃいました。本当は続けなきゃいけないんですけどね(笑)。だから家で寝てるかテレビ観てるかになっちゃって、一日何しようかってね。

 絶望的な状況に置かれながら、再び小林さんはペンを握りはじめた。外出が難しいため、食事のバリエーションこそ少ないものの、現在は出前や母親に買ってきてもらったコンビニ弁当のイラストを中心に絵を描いている。

いまは外に食べに行くのはできないんで。朝は食べないんですけど、昼と夜は出前とったり、おふくろには悪いけど「今日は麺類買ってきて。今日はお弁当買ってきて。」ってリクエストしたりしてます。まぁ、「違うの買ってきて」っていっても、人が食ってるのわかんないから、同じものになっちゃうことはありますけどね(笑)。だから、それをメモって描いてます。いまになって初めて、手元で食材を見ながらメモを描くようになりましたね(笑)。
以前は訪問リハビリの人も来てたんですけど、お風呂もなんとか自分で入れるようになったから、もう止めちゃったんですよ。いまは訪問介護員(ヘルパー)さんが毎週火曜日に来てくれるだけ。その時に、画材をどうにか一緒に買いに行ってます。さすがに一人じゃ行けないんでね。油絵の具とかだったら無理ですけど、鉛筆とかマジックとかボールペンは、道路を渡ったホームセンターに売ってるんですよ。だから、訪問介護員さんとは買い物に行くか、散歩に行くか、お風呂に入れてもらうかですね。それでちょうど1時間くらい経っちゃうんで、ご飯食べに行ったりとかはないです。そりゃ、食べたいものはいっぱいありますねえ。いまだって近所に、吉野家とかすき屋とかあるけど「そこの牛すき鍋630円を食べに行って描きたいな」ってのはありますけど。車椅子、歩行器を経てやっと杖になったのに、その杖を外すまでいかないんですよ。杖のままだと危なくてね。車椅子に戻りはしないとは思うんですけど、また痛み始めると怖いですからね。


 小林さんが自分の周りに置いてある絵を見せてくれた。A4サイズの紙に描かれた作品は、すべて体が悪くなってから描いたものだという。よく見ると、添えられた感想は「美味しいかった」「旨い」というポジティブものばかり。

あんまり読まないでよ。小学校低学年の漢字、間違えてますから(笑)。昔から美味しくないものでも「美味しかった」って書いてます。誰に見せるわけでもないけど、後から見たときに「あぁ、美味しかったんだな」って思えば忘れちゃうじゃないですか。「まぁ、美味しかったんだからいいや」ってね。ただ「固い」「柔らかい」とか「火が通ってねえ」みたいなのは書きますけど。まぁ、自分の好きなものしか食べてないから、病院の先生には怒られちゃってます。麺類が好きなんですけど、和食レストランの『とんでん』とか、ファミリーレストランに行くといろんなもん食べたくはなりますけどね。嫌いなのは、納豆やとろろですね。無理して食べて、やっぱり「美味しかったです」って書きます。とろろや納豆もちゃんと描いてますもん。まぜまぜ丼に、少し納豆入ってるんですけど、それぐらいは食べられるから。
でもねぇ、いままでラーメンだったら醤油ラーメンしか食べなかったんです。こういう体になって初めて「いろいろ食べてみよう」と思って、塩ラーメンとか味噌ラーメンとかこれまで避けてたのも食べるようになりましたよ。まぁ、その方が絵のバリエーションも広がりますしね。


 この7年は、家で過ごす時間のほとんどを制作に費やしている。絵のために、さまざまな種類の食べものを意識して食べるなど、いまの小林さんの中心にあるのは、まさに絵を描くという行為だ。中には未完成のまま色づけされていない絵もあり、「次々と食べてるし、描きたいものが出てきちゃうんです。」とのこと。そして、作品も少しずつ進化しているようだ。

これは、最近描いている箸で持ったり手で持ったりするシリーズですね。手は適当に想像して描いてます。だから、絵は同じかもしれないですけど、工夫してますよ。訪問介護員さんがお土産に買ってきてくれた駅弁なども描いてて、蓋が開くのもあります。この間、埼玉会館に展示していただいてるのを見に行ったんですけど、蓋したまま額に入れられてたんで、どうやってめくるのかなって思ったんです。そしたら「シュウマイ弁当でシュウマイが見えない」ってことになっちゃってたな(笑)。
あとは、カレンダーの後ろとかを取っといて、すぐに描けるようにお皿だけの型紙とかをつくっておくんです。容器の柄まで描き出したのは最近ですね。返す前に、メモを描いとくんですよ。


 食事が好きで、調理師として働いてきた小林さんにとって、大好きな食事を自由に食べることができないという現実は想像しがたいものがある。自宅でベッドから起き上がった当初、食べものの写真を撮っていた小林さんだったが、ある時から再びペンを握りはじめたという。携帯やデジタルカメラを持っていない、そもそも機械音痴だったことに加えて、これまで描きためてきた膨大な量のドローイングが彼の制作を後押ししたのかもしれない。描き続けることで小林さんは冷静さを保っているようにも思えた。そして驚くことに、小林さんはとても少食だし、別に歩けなくてもいいと思っている。いまの小林さんを支えているのは、絵を描くということだ。食べた食事の記録として描いていたはずの絵は、いつの間にか絵を描くための食事になった。食べたものは今日も小林さんの中でじっくり噛み砕かれ、絵画として消化されてゆく。「彼に食べられる食事は幸せだろうな」そんなことを想いながら、僕は埼玉を後にした。


初出:都築響一『ROADSIDERS' weekly』連載「アウトサイダー・キュレーター日記」



櫛野展正(くしの・のぶまさ)
知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサーダーアート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。





わけのわからない偶像

文・津口在五

会田誠(あいだ・まこと)
1965年生まれ。現代美術家。本展では、上野公園に集まる多くの人たちの中で足下から水をたれ流し、地面を濡らしながら呆然と立つ人物のまわりで、それを不可解そうに見つめる修学旅行生たちの様子が映し出された映像作品を上映。

『上野パンタロン日記』(1990年)
©AIDA Makoto, Courtesy Mizuma Art Gallery

「我々は電車、バスの中あるいは街など至るところで見られる存在である。この”見られる”いわば受け身の存在から”見る”存在へ、つまりカメラを持ってその視線をこちらからとらえることによって視点の逆転ができると考えた。」*1

 これは、脳性麻痺をもつ身体障害者による団体「全国青い芝の会」の中心的人物であった横田弘や横塚晃一らの日常を記録した原一男監督の映画『さようならCP』の公開によせて、自らも身体障害者である横塚が書いた文章の一節である(CPとは、脳性麻痺を意味するCelebral Palsyの頭文字をとったもの)。横塚は「健全者は正しくよいものであり、障害者の存在は間違い」*2であるとする自分たちの意識構造を「健全者幻想」と呼び、それと闘うことなしには「本当」の自己の確立などできないと考えていた。だから、彼がこのようなかたちで健常者と障害者の関係を「見る/見られる」という演劇関係において捉え、それを逆転させようとしたことは、自然な成り行きであっただろう。横田も、「座ったきりの私が見る世界は、常に下から上に見上げる世界であり、私をとりまく世界(健全者の世界)は常に私を見おろしたカタチでなりたつ」*3と書いているように、常に自分たちを陰に陽に否定的なステレオタイプにはめ込もうとする抑圧的な力を肌身で感じていたはずである。それゆえに、「全国青い芝の会」の行動綱領の冒頭で「われらは自らがCP者であることを自覚する/われらは、現代社会にあって『あってはならない存在』とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する」*4と宣言したのであろう。それは、障害をありのままの存在として肯定していかなければならないという意志の現れにほかならない。
 『さようならCP』は、そのような障害者の主体性の奪還と生存権の主張という考え方のもとに展開された「全国青い芝の会」の活動の中で生まれた。だからこそ、例えば、横田が車椅子から降りて「あってはならない」とされたありのままの姿で挑戦的に公衆の面前に出て行く様子を撮影することで、障害者と健全者の見る/見られるという関係の逆転を可視化して見せなければならなかったのである。それによってはじめて、障害者に無視、同情、拒否といった否定的な視線を向ける健常者たちの中にある差別意識を顕在化させることができるからだ。

 『上野パンタロン日記』には、出来事らしい出来事はほとんど何も映されていない。そこにあるのは、旅行者らしき学生などさまざまな人が行き交う上野公園の中で、青いパンタロンをはいて呆然と立っている人物の足下から「水」が流れ出して地面が濡れていくさまが、まわりの人たちによって不思議そうに眺められたり眺められなかったりする様子だけである。しかし、この作品は『さようならCP』と同じように、わたしたちの中に現然としてある「障害者幻想」について考えるためにつくられたものなのではないかと思うのだ。
 何よりもまず、映像の中央で呆然と立つ人物は、そこはかとなく障害のある人か、そうでなければ何かわけのわからぬ不気味な人物として表象されているように見える。もちろん、作家本人がその人物を演じることで障害者のふりをしていることを証拠づけるものは、画面の中のどこにも明示されていない。しかし、足下に流れる「水」は、この人物が失禁していることを思わせずにはいられないし、そのような見立てによって、鑑賞者はこの人物が「公衆の面前で失禁するような人物」であるという推察に導かれる。しかし実際には、地面を流れる「水」と呆然とした表情は断片的な情報として与えられているにすぎない。だから、もし鑑賞者が目の前の人物を「障害のある人」と見たとすれば、そのことはそのまま、鑑賞者が「公衆の面前で失禁するような人物とは障害のある人だ」という、障害者について何の根拠もないステレオタイプを持っているということを明らかにしているのである。会田は、そのような一般的に流通しているかもしれない戯画化された障害者像を偽悪的に演じてみることで、見る者の中にある差別意識を取り出してみせたといえるのではないだろうか。それゆえに、もしこの映像を見る鑑賞者が、この人物のまわりにいる人たちの様子を、障害のある人に対するいぶかしげな関心や無関心と見たとすれば、それは目の前の光景についての自らの思考の枠組みを彼らに投影した結果なのである。

 本展で上映したあそどっぐによるコント作品『ヒッチハイク』も、障害者に対する無関心や排除を可視化してみせている。本作は、あそどっぐがヒッチハイクをして鞆の津ミュージアムに向かおうとするが、結局、車を捕まえることができなかったというオチで終わるネタだ。映像は、ストレッチャーに乗ったあそどっぐが「広島」と書かれたメッセージボードを胸元に掲げて道路沿いに佇んで車を待っているそばで車が行き交うさまが定点撮影された「だけ」のものである。ヒッチハイクで車を捕まえるのはそれほど簡単なことではないため、車が捕まらなかったこと自体はいわばよくある普通のことだろう。そして車の運転手は、ただ、あそどっぐの存在に気づいていないだけなのかもしれない。しかし、身体障害のあるあそどっぐの存在を通して見ると、単に車を捕まえられなかったというエピソードは、障害者に対する無関心や排除に見えてくるだろう。映像の中ではほとんど何も起きないにもかかわらず、そこに鑑賞者の自由勝手な意味を読み込ませるという意味で、『ヒッチハイク』は『上野パンタロン日記』と極めて似た構造を持っている。

 他方で、『上野パンタロン日記』の鑑賞者は、この映像が作品であるということを知っているが、撮影当時、現場にいた人たちはそれを知らない。ことによったら何かの撮影をしていると理解した人たちもいるかもしれないが、現場に居合わせた人たちにとっては突然意味もわからない宙づりの光景が生活空間で展開されたのを見るという経験であったことは間違いないだろう。もちろん、映像の中にはこれがどのような出来事であるのかを示す兆候がほとんどないため、鑑賞者も現場の人も、等しくこのわけのわからなさを解読するきっかけを持たない状況にあるのは同じだ。しかし、鑑賞者と現場の人の間にある情報量のこの非対称性によって、現場にいた人たちの立場は見る側から見られる側へと逆転する。つまり、鑑賞者は客観的に全体を把握する超越的な立場にいることによって、現場にいた人たちが至るであろう認識の場当たりさや虚構性を目の当たりにすることになる、というわけだ。わたしたちは目の前の光景を認識するにあたって、そこから与えられた情報の断片を自分の手持ちの情報と照らし合わせながら、うまく折り合いのつけられるようなかたちで恣意的に結びつけ、解読しているにすぎない。この作品は、私たちのそういう認識のあり方を明らかにしているといえるだろう。

 しかし現実には、この作品を鑑賞するときのようなかたちで、目の前の物事が本当は何であるのかを知ることのできるような神の視点には誰も立つことはできない。本作は、例えばモニターを破壊すればこの超越的な「視点」は失われるというかりそめのかたちでそのような神の視点を与えてしまうことによって、逆説的にその不在を鑑賞者に伝えるものであろう。そう考えれば、本作の中の会田の姿は、「本当」の答えなしで生きていかなければならないというわたしたちが置かれたこの世の「わけのわからなさ」を象った偶像なのかもしれない。

*1 横塚晃一『母よ!殺すな』, 生活書院, 2007年, p.59
*2 同上, p.64
*3 横田弘『障害者殺しの思想【増補新装版】』, 現代書館, 2015年, p.38
*4 同上, p.112より引用





アウトサイドの現場から② 武田憲昌

文と写真・櫛野展正

武田憲昌(たけだ・のりまさ)
1970年生まれ。広島県在住。好きな施設職員に関する品々を集めているが、その収集の範囲が尋常ではない。好きな職員が残したメモ書きから吸ったタバコの吸い殻まで収拾し、引き出しなどで大事に保管している。本展では、これまで収集してきた品々と彼の行動を映像にて展示。

 武田憲昌さんは、広島県福山市内にある知的障害者の入所施設で暮らしている。彼が収集しているのは、好きな施設職員に関するあらゆる痕跡だが、その収集の範囲が尋常ではない。好きな職員が残したメモ書きや、その職員が立っていた場所に生えていた草、吸ったタバコの吸殻やガムの包み紙にいたるまで収拾し、居室の引き出しなどで大事に保管している。特に貴重なものは、靴下の中にパンパンに詰め込み、常にズボンのポケットに入れ持ち歩くほどだ。そして、好きな職員の情報を第三者に書いてもらったメモ書きも宝物となっている。福祉施設から自宅へ戻る際は、職員のゆかりの場所を参拝し、わざわざ遠回りをしてから帰宅。帰宅後は、メモ書きを母親にすべて書き写してもらい、一部をセロハンテープや輪ゴムで包むなどして常に携帯する。寝るときも枕元に置くほどで、彼にとっては好きな職員の情報が詰まった辞書のようなものなのかもしれない。

 武田さんは1970年広島県福山市で生まれた。地元小学校に通っていたが、小学3年生の3学期から特別支援学校へ転入。通学途中にあるクラスメイトの実家のおじいさんのことが気になるなど、当時から人に対するこだわりの片鱗は見られた。そして、思い通りにいかないときは、その家のおじいさんのサンダルを投げたり近くに停まっている車のワイパーやサイドミラーを折ったりと、癇癪を起こしてしまうこともたびたびあったようだ。そのころは、自宅近くの駅から学校まで通学訓練の付き添いで母親や先生が同行していたが、「癇癪を起こすのを道路の真ん中で押さえつけたことも何度かあった」と母は語る。卒業後は、しめじやキノコの工場での就労体験や作業所に通うが、作業内容になじめず退所。やがて現在の福祉施設にたどり着く。

 そんな彼が収集を始めるようになったきっかけは、1993年に友だちからもらった穴子巻のパック。中身を食べ終わったあと、大事に保管するようになった。以来、近所のお兄さんからもらった洗剤も中身を母親が使い終わった後でも大事に保管するようになったし、自分が飲んだ薬包でさえも、とにかく捨てることができなくなったようだ。そのため、いまでは母親が本人の目を盗んでこっそりと処分しているとのこと。

 彼には、これまで「好き」になった男性職員が数名いる。どの職員にも共通するのは、年配でゆっくりと彼の話に耳を傾けてくれる人たちばかり。自分を理解してくれる存在を彼は知っているのだ。言葉でのコミュニケーションが苦手な彼にとっては、変化し続ける世の中で、自らが収集する不変なモノとの繋がりが安心材料であり、「お守り」となっている。

 他人にとってはゴミでしかないモノと親密な対話を繰り返し、至福の時を過ごしている彼の姿に、僕は憧れさえ抱いてしまう。同時に、彼のように自分の生涯をかけて打ち込める何かを、僕たちは見つけることができているだろうか。そして、彼の集めたものは「作品」ではないかもしれないけれど、収集にかける彼の熱量に、また他の誰かが痺れてしまうのを、僕はいつも密かに楽しみにしている。




「マイノリティ」と「性」、「境界線」を剥き出しで描くこと

文・佐々木誠

高橋重美(たかはし・しげみ)
1946年生まれ。岩手県在住。18歳で統合失調症を発病し、以来今日まで入院生活を送る。鉛筆、消しゴム、ノック式4色ボールペン(黒・赤・青・緑)を使って大学ノートに溢れる性的世界を含む夢想の世界を描き続けている。以前は大学ノートの表紙で作った仮面をかぶって暮らしていた。

高橋重美さんの作品を初めて見た。
強烈だが、そのストレートな表現には、どこか品性を感じる。
自身に内在する「性」を剥き出しにするということは、誠実ではないとできないからかもしれない。
わたしはその誠実さに羨望の念を覚えた。
と同時に、高橋さんの「性」を感じることで、わたしは自分自身について「理解」した。

 わたしは「マイノリティと性」を題材に、その「境界線」を描いた映画とドキュメンタリー番組をいくつか制作している。しかし、元々「マイノリティ」にも「性」にも、それを描くことにも興味はなかった。
 初めてそのテーマで作品を制作したのは2007年、『マイノリティとセックスに関する2.3の事例』という短編映画で、その時期、わたしは自主制作した「9.11」を題材としたドキュメンタリー映画を公開したばかりだった。
 それ以前は、音楽プロモーション映像などを演出する職業ディレクターで、常にクライアントの求めるものをつくっていた。日々、ミュージシャンの人たちと仕事をする中、「同じ作品をつくるといっても、自分の考えや思いを表現するこの人たちと自分はまったく違うな。俺は一生職業として映像をつくっていくんだろう」と考えていた。しかし、ニューヨーク関連の仕事をしているとき「9.11」を目の当たりにして、この歴史的事件の「記録」を自分なりに残したい、という考えに突如とらわれ、初めて自主的に作品を撮り始めた。
 4年の歳月をかけ完成したその映画は『Fragment』というタイトルで公開されたが、その後、特に自主的に映画をつくるつもりはなかった。私は「映画」をつくりたいわけではなく、『Fragment』がつくりたかっただけなのだ。

 そんなときに〈裸〉をテーマとした短編映画を好きなようにつくらないか、という依頼が来た。
当時、わたしは何人か障害者の友人がいたが、その中でもアルトログリポージス(先天性多発性関節拘縮症)という障害を持っているMと特に仲が良かった。たまたま彼にその依頼の話をしたところ、「俺を撮ったら面白いんじゃない」と言ってくれた。しかし、わたしは少し躊躇した。Mを撮るということは、観客に「障害者の映画」というレッテルを張られるのではないか、と思ったからだ。その時のわたしは「M」を撮ることには興味があったが、「障害者」を描くことに乗り気ではなかった。それは、障害を持った友人たちと遊んでいるわたしに「次は障害者を撮るのか?」ということを聞いてくる人が少なからずいて、その浅はかな発想に「境界線」を強く感じていたことも一因だった。
 「障害者」ではなくMを題材に何を撮るか?と考えていたときに、「裸」を題材にしないといけないということは、「性」について描かないといけなくなるだろうということが浮かんだ。その少し前に、障害者の性を描いたノンフィクションの書籍が話題になっていて、読んでいた知人が、わたしに障害者の友人がいることを知って「障害者の人って、セックスするとき風俗しかないし、介助必要なんでしょ。可哀想だよね」と悪びれもなく言った。わたしはその思い込みに違和感を覚えた。わたしの知っている「リアル」は違ったからだ。Mは女性にモテて恋愛を楽しみ、性生活も充実していたし、それ以外の障害者の友人もガールフレンドや配偶者がいる人が多かった。
 この「違和感」を映画にできないだろうか、とそこで思いついた。
 当時、性に奔放なMと対照的に(健常者である)わたしは性生活がまったくない状況でよく二人の間で笑いのネタにしていた。このMとわたしの状況、関係性をフィクションにしてドキュメントと交えた映画としてつくったら、「境界線」を描けるのではと、突然創作意欲が湧いて制作を始めた。
 それが『マイノリティとセックスに関する2.3の事例』という短編映画だ。
 Mが自らを演じる「性に奔放な身体障害者」とわたしが架空の人物を演じる「性的不能者の健常者」の友情を、その架空の人物が撮る〈記録映像〉として綴ることで、観客の「勝手な思い込み」を浮き彫りにし「境界線」を疑わせる、という実験的な構成の作品だった。
 完成した後、さまざまな場所で上映し、観ていただいた方たちと対話していく中で、わたしは「マイノリティと性」、そして「境界線」を描くことにさらに興味を持ち、続けて作品を制作していった。いまではライフワークと言ってもいい、わたしにとって大事なテーマだ。

 『マイノリティとセックスに関する2.3の事例』のフィクションとドキュメントを曖昧にした作風は賛否を呼んだが、マイノリティとマジョリティの境界線が曖昧だというメタファーを作品自体で表現するため必要な手法だった。
 わたしが演じる架空の人物は「映像学校の学生」という設定なのでわざわざ下手に撮影し、編集も一旦ちゃんと組み立てた後に崩すなど、普通とは真逆の凝った演出をかなり計算して行っていた。
 わたしは職業監督として長年映像を制作していたので、そうやって作品をテーマから分解して、テクニックを駆使して再構築するクセがついていた。それはつまり、内面から湧き出る思い、自分自身をストレートに表現するようなことができない、ということでもある。
 正直なところ、これはつくり手としてのコンプレックスでもあった。
 頭で考えたものは、剥き出しでつくられたものに比べ「作品」として厚みがない。
 そういう意味でアウトサイダーと呼ばれる人たちのアートは究極だと思っていた。

 ところがわたしも気づかず剥き出しで作品をつくっていたことがわかった。

 冒頭でも書いたが、今回、高橋重美さんの存在を知り、感動した。
 そして、その「マイノリティ」である高橋さんの「性」についての「作品」を解釈しようと、わたしは自分が『マイノリティとセックスに関する2,3の事例』を制作した時の感情、その記憶を遡った。
 すると自分でも驚いたが、なぜこの映画をつくったか、ということを突然、理解したのだ。この文章で長々書いてきていた経緯や作品の性質は事実だが、そこにはわたしの個人的な思いが剥き出しになっている側面があった。

 わたしは、劇中で演じている役と違い「性的不能者」ではなかったが、当時置かれている状況はそれに近いものだった。長年一緒に暮らしていた恋人がいたのだが、もう何年も性行為はしていなかった。彼女は別で関係している男性がおり、わたしはそれを表面上知らないふりをして過ごしていた。そのほうが楽だと思っていたからだが、それは男としてはまさに「不能状態」だった。その状況は自分が考えている以上に、自分を苦しめていたのだろう。
 性生活がない自分をネタにした発想から始まっていたが、構成する手法のことばかり考えていて、自分を剥き出しにしていた意識はなかった。
 しかし、わたしは自分でも気づかないうちに、作品の中で自分自身が抱える愛情の喪失感と性的欲求を「性的不能者」というカタチで表現し、思いを刻み込んでいた。

つまりわたしは、わたしのために映画をつくっていたのだ。

今回、高橋さんの作品に触れることで、初めて公開してから10年近く経った自作を知る、という面白い体験をした。



佐々木誠(ささき・まこと)
映画監督/映像ディレクター。音楽PV、TV番組などを演出。主な作品に『バイオハザード5 ビハインド・ザ・シーン』(2009年)、フジテレビNONFIX『バリアフリーコミュニケーション』(2014年)、映画作品として『INNERVISION』(2013年)、『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』(2015年)などがある。http://sasaki-makoto.com/index.html





アウトサイドの現場から③ 滝本淳助

文と写真・櫛野展正

滝本淳助(たきもと・じゅんすけ)
1954年生まれ。写真家。劇団「東京キッドブラザーズ」の専属カメラマンを勤めた後、雑誌などでフリーカメラマンとして活動。本展では、自身が見た「夢」を記録した『滝本夢絵日記』に掲載された「夢」の原画を展示。

「犬が秋刀魚に首をしめられている」
噂では聞いていた。この道では秋刀魚が野良犬の首をしめるということ。実際に見るのは初めてだ。秋刀魚は犬が死んじゃうほど首をしめるわけではなく、イタズラ程度だ。秋刀魚も遊んでいるのかもしれない。

 これは滝本淳助さんが、自分が見た夢を独特の絵と文章で記録した『夢絵日記』だ。
滝本淳助という名前に、すぐに反応できる人はどれほどいるだろう。カメラマンで、1988年から2年ほど出演した『タモリ倶楽部』のコーナー『東京トワイライトゾーン』では、『孤独のグルメ』の漫画原作者である久住昌之さんとともにレギュラー出演。当時、『VOW』に先駆けて街中にある「トワイライトなモノ」を紹介し話題となった。その後は、その独特の思考や言葉遣いを取り上げた久住さんとの共著『タキモトの世界』が復刊し話題となった。そんな滝本さんも現在61歳。東京都渋谷区の甲州街道に面した立派な自宅マンションで静かに暮らしている。

俺は渋谷区民にこだわってるんだよね。だから、ここへ引っ越してくるときでも何とか渋谷区内でって。ただ、入居してからこの部屋は日が当たらないってことに気がついてね。そんなこと不動産屋は絶対に口に出さないから。とにかく俺は、蛍光灯の電気ってのが絶対嫌なんだ、明るくなっちゃうのが嫌で。

 そう言って案内された1Kの自宅は、カーテンが降ろされ、スタンドライトが間接照明代わりになった本当に薄暗い部屋だった。いたるところに物が散乱した部屋の中央には、万年床が敷かれ、滝本さんはそこで静かに自分の人生を語ってくれた。

1954年に東京都渋谷区千駄ヶ谷で生まれて、千駄ヶ谷小学校のころは「タキジュン」って呼ばれて人気者でしたよ。外苑中学校じゃあ、学校帰りにうどん屋にたまってたんだけど、当時みんなが知らなかった「おかめうどんとは何か?」「なんとか南蛮ってのは何か?」ってのをスラスラ言えたから、“うどん博士”って称号をいただきまして(笑)。バスケット部に入ったら、近くの神社で転んで腕を骨折。すぐにバスケットを辞めることになったんだけど、初めて友だちの家でドラムセットを叩いたときに、俺は自然にドラムが叩けちゃったんで、ブラスバンド部に入ってね。

そんな滝本さんがカメラを手にしたのは世田谷高校(現在の世田谷学園)1年生のころ。両親ともに『人形劇団プーク』という劇団員で、家には両親の趣味で写真雑誌がたくさんあったそうだ。

高校は写真部で、たまに物理の顧問の先生と一緒に新宿の歩行者天国や全学連のデモやヒッピーを撮りにいってましたね。だから写真は独学です。

そして卒業後は、法政大学の夜間部に入学。「たっぷり謳歌しようと思ったのよ」との言葉通り8年間も在籍し、アルバイトを一杯こなしたそう。

長く大学にいたいから単位をわざと取らなかったんだけど、その間に友だちは3回くらい変わっちゃってね(笑)。

在学中の1974年、劇団『東京キッドブラザーズ』の芝居を見に行って手伝っているうちに、代表の東由多加さんから「ニューヨークへ一緒に行かない?」と誘われ、同年7月ニューヨークへ渡米。

まだ大学生だったけど、照明や大道具、スチール写真とひとりで何役もこなしてね。けれど、芝居がヒットしなくて乞食まで落ちぶれましたよ。

10月末にロンドン公演を行い、12月の半ばに疲れ果てて帰国した滝本さんが「恩人」と慕うのは、その劇団に在籍し後に音楽バンド『ヒカシュー』を結成する巻上公一さん。当時、原宿学校(現在の東京映像学院)に通っていた彼が連載していた映画館訪問記の写真を「撮らないか」と誘われたことが、カメラマンを志すきっかけだったと語る。

『ズームアップ』ってピンク映画雑誌で女の裸や現場を撮ってて、その映画学校に通ってたビニ本専門のカメラマンの紹介で、もう一人の恩人・末井昭さんと出逢ってね。末井さんから「俺んとこも撮ってくれよ」って言われて、1978年から『ウィークエンドスーパー』って末井さんの雑誌で撮るようになったの。

当時の留守電を聞くと、いろいろな出版社から電話が入り、かなり忙しい学生時代だったようだ。売れっ子状態が続いたが、あまり人前に出て有名になるのは好きではなかったそう。

俺はもともと千駄ヶ谷二丁目にある瑞円寺(ルビ:ずいえんじ)ってお寺の生まれで、お爺さんがお坊さんで、うちのおふくろがお寺の娘なんです。だけど、うちのおふくろがお坊さんと結婚しなかったんで、跡を仮に継いだのが俺の伯父さん。その後、遠い親戚が跡を継いでるんだけど、あるとき千駄ヶ谷の家から札束で俺とお袋は追い出されたわけ。

 その後1996年からは、「2DKの部屋だったけど、アパートが二人暮らし向きじゃなかったから」と母親とは離れて渋谷区鶯谷にある鶯谷住宅で一人暮らしをすることに。そんな中、次々と不幸が訪れる。

1997年、俺が43歳のときに、兄貴がくも膜下出血で死にましたね。火曜日くらいに倒れて一週間病院のICUへ入って、11月7日の真夜中に死んだんだけど、病院ってのは、もう見込みがないと思ったら「死ぬこと」をコントロールできますね。点滴の管を少しずつ弱めてたもん(笑)。
3年後の2000年には親父が他界。親父は離婚後に大阪で新しい奥さんと結婚してたんだよ。葬式に行けなかったから死因とかわかんないんだよね。78歳くらいで死んだからね。
2003年にはおふくろが。おふくろの死因もよく聞かなかった(笑)。「ご自分で息ができなくなったから来れませんか」って医者から電話あって、病院行ったときは生きてたんだけど、そこからしばらくしてねぇ。考えてみたら、そこからずっと一人なんですよ。結婚もしてないし、何度か結婚の機会はあったようななかったような、いまから考えるとなかったね(笑)。


話の途中、ふと壁に目をやると、自作の手書き年表が。生まれた年から現在まで、その年の出来事が明記されてある。自分のことだけではなく、「1969年(昭和38年) 吉展ちゃん事件」など世論のニュースも併記されている点が興味深い。


この年表は気が狂ってますよねぇ(笑)。1989年が昭和何年で自分は何歳か絶対覚えてないでしょう。だから書いとかないとね。1989年は平成元年で昭和は7日間しかなかったんだ。この部屋の中で、俺がここに寝てて唯一の壁的な場所にあるから、見やすいでしょ。
築40年の鶯谷住宅が取り壊しになって、2007年からここに来たんだよ。寺から出た金や兄貴の死亡保険金を使って2000万くらいで買ったんだけど。1Kですよ、東京めちゃくちゃでしょ。でも、やっぱり渋谷区民でいたいんだよね。


 そんな滝本さんが、本格的に夢絵日記を書いていたのは20代のころ。小学校5年生から中学一年生にかけて毎晩のように見ていた夢がきっかけなんだとか。

俺ね、すっごく夢がヘンなんだよね。小学校5年生から毎晩のように、分厚いビニールの筒の中で鉄板や鉄くずにまみれて埋まってる夢をよく見てたんです。小学生のときも絵描いてんですよ。起きたときに「あぁ、俺の前世はこうやって死んだんだな」といままで思い込んでたんだけど、最近ある女の人から「それは産道の記憶じゃないですか」って言われて。フロイトのおっちゃんとかの夢判断は嫌いなんだけど、女の人に言われたのは妙に納得しちゃったんだよね。

 当初まったく発表する気はなかったようだが、『タキモトの世界』の復刊記念イベントで、過去の夢絵日記をパソコンで投影したら反響が大きく、『滝本夢絵日記』として半年ほど前に出版された。

枕元にノートとペンを置いといて、起きて目をつむったまま、文章を描いとくんですよ。目を開けると情報が入ってきて夢を忘れちゃうでしょ。絵は後から夢で見た場面を描くんだけど、画力がないから夢で見た通りには描けないんだよね。ただ最近は、目が覚めた瞬間に忘れちゃう(笑)。

実際に描いているところを見せてもらったが、机がもので侵食されて使えないため、手元のスタンドライトの灯りだけをたよりに、なんと枕の上で「多少グラグラするけどね」と言いながら描いていた。

まぁ、何人かうちに喋りに来ましたよ。ただ問題は、女の子を招き入れるような体制にはなってないことかな。「あら、素敵なお部屋」じゃないでしょ。ただ、散乱してるけど秩序立ってはいて、あんまりゴミはないのよ。


確かに周囲を見渡すと、これまで出演した番組の台本や原稿が丁寧にファイリングされ、その多くが1985年前後の東京が克明に切り取られた写真の束だ。もっぱら最近は、このプライベートで撮影した写真を2012年から始めたツイッターへ頻繁にアップしている。

近頃はツイッターに引っ張られてますね。昼間いろんなとこから写真を出してきて、枕をライティングの場所にして撮影するんです。最近、「みんな働いてる」ってことがやっとわかってきて(笑)、午後4時くらいからツイートし始めるんです。午後5時過ぎからリツイートやお気に入りの通知が来ますよ。文章書くのが面白くてさ、キャプションによって反応違うんだよね。要するに、ほんとは夢絵日記を頑張りたいんだけど、枯渇しちゃいましてね(笑)。

そして、いま仕事はほとんどやってないという。兄の死亡保険金や寺から出た追い出し金で食いつなぎつつ、昔の写真を売ったり女の子のバンドのジャケット撮影の話が入ったりするくらいなんだとか。ただ、タッチペンを片手にiPhoneを操作している滝本さんの姿は、とても楽しそうだ。

いま物は買わないようにしてますね。最近買ったのはペンくらいで、買ってもTシャツ一枚とか。冬でもTシャツ二枚重ね着するとあったかいんです。今日も、この格好パジャマですから。これで寝てんですよ、着替えもしないし。だからさっきも、パジャマで迎えに行ったんです(笑)。

よく見ると、この部屋にはテーブルもないし洗濯機もない。下駄箱には靴はないけど、代わりに大量の昔の写真や本などが溢れている。「さっきの写真はここから出した形跡があるね」という視線の先には、ファイルの束の間にぽっかりと隙間ができていた。「どうやって戻すかなぁ」とにんまり笑っている。
決して王道ではないかもしれないけど、ずっと好きな道を歩いてきた滝本さんは、本当に楽しげだし、多くの著名人たちが彼に魅了されるのもわかる気がした。立て続けに身内が亡くなるなど、突然の不幸に見舞われたが、もしかしたら『夢絵日記』はそうした不幸な現実を別世界に変えてしまう術なのかもしれない。そんなことを考えてしまう僕は、きっと既に「タキモトの世界」に迷い込んでしまったのだろう。
帰り際に、一番部屋の整頓された場所に置かれた二つの小さな位牌に目が留まった。「ご両親のものだろう」と手を合わせようとしたとき、「それは猫ちゃんたちので、最初にハナちゃんが、次にタマちゃんが続けて亡くなっちゃったんだよねぇ」と。やっぱり、滝本さんはどこかおかしい。




「もしも失踪するときは周りに相談しながら進めていくのがいいと思います」
-幻聴や妄想を開く、かるたというデータベース

語り手・精神障害者就労継続支援B型事業所
「ハーモニー」施設長 新澤克憲

聞き手・構成:田中みゆき

幻聴妄想かるた(げんちょうもうそうかるた)
東京都世田谷区にある就労継続支援B型事業所「ハーモニー」を利用する精神障害のある人たちが実際に語った幻聴や妄想を絵札や読み札に綴った「かるた」。本展では、その原画や関連資料などを展示。http://www.geocities.jp/harmony_setagaya/index4.html

障害の話になると、まずは知的障害や身体障害を指すことが多いと思います。そもそも精神障害とは何なのでしょうか?

いわゆる精神疾患というものは医学的な枠組みで治療の対象となる病気を意味するといってよいと思います。その不調によって、本人の「生きづらさ」や他人や社会に困ったことが起きたら「精神障害」と呼ぶというのが僕にはしっくりきます。障害は病気だけが原因ではなく、社会環境や個人の状態などが関わりあって引き起こされます。諸説ありますが、一過性のものまで含めれば4人に1人は一生に一度は鬱症状などの心のトラブルを経験するといわれています。それを経験しながらも時の経過と共に大丈夫になる人、通院や服薬により以前と同じように生活を営んでいる人が僕らの施設の利用者になることは、まずありません。ある程度それが障害として固定して、社会の文化的に許容できる範囲を超えてしまい、社会生活を営むうえでの支援が必要となって初めて、福祉サービスの対象者となります。

障害が日常化しているかどうかの判断は誰が行うのですか?

例えば障害年金は、症状が出てから1年半経った時点で障害が固定されたと認められて、そこで初めて支給される仕組みになっています。障害者手帳やその他の支援もその状態が持続的に続いていることが前提で福祉のサービスが適応されます。それらは医者による診断書が必要です。ヘルパーなどの利用のための障害区分認定は、調査員の聞きとりをもとに区市町村で行われる審査会で決定されます。常に本人以外の第三者が本人の大変さを測るという「非対称性」が福祉にはついて回ります。不思議なことではありますが、障害ということを自分で証明しないといけないんです。それは精神障害の方にとっては、時として難しいことです。自身に障害があるということは、社会とうまくいかない時期がある程度長く続かないと自分で認識を持ちにくい。いつまでたっても認識を持てない人もいます。僕らの施設「ハーモニー」に通う人たちの中でも、誰かの声は聞こえるが障害ではないと思っている人もいますし、自分の「障害」の捉え方は個人差があるようです。

よくいわれる例えで、メガネがなかったころは近視の人は遠くのものが見えないことを障害とされていたけれど、機能的な面がクリアされたからいまは「近視は障害ではない」いう考え方があるでしょう。精神障害の場合は、もう少し複雑な面を含んでいる気が僕にはするんです。それは、彼らにとっての困難が、身体に関わる機能的な側面でなくて、対人的、対社会的に現れてくるからです。精神障害を考えるにあたって、社会の側の問題や「異常/正常」の境界は本当に固定的なものなのかという問いは避けて通れないと思っています。発達障害という概念ができる前は、彼らはどんなふうに生きていたのでしょうか。「変わった人」として性格の問題とされたのではないでしょうか。あるいは発達障害という概念自体、時代や社会が要請したものだったのかもしれないとも思っています。そう考えると、制度にひっかかって、利用者としてハーモニーにやってくる人たちは、心のトラブルを抱えている人のごく一部分なんだろうと思います。

そうすると、ハーモニーにいらっしゃるのはたまたま助けを求めてきた方たちということですか?

そう考えてよいと思います。20年前に仕事を始めたときは、自分自身は単純に考えていました。日本には多くの精神病院があって、長期的な入院患者も多く、回復期にもかかわらず出られない人が多かった。そういう人が社会に復帰していくうえで、まず病院のデイケアがあり、地域の保健所のデイケアがあり、社会参加の場としての共同作業所があるというかたち。ある意味、自分たちの仕事が見えやすかった。もちろん統合失調症を代表とする社会的に入院し続けている方はまだまだ多いですし、日本は異常です。本当に減らない。そこはいまだに課題としてあります。うちの施設でも現在の30人の利用者のうち2, 3人は10年以上入院していた方です。そんな人たちは長い入院を経て、病院から出てきて、地域で住む場所を見つけて、通所してくる。

 しかし施設を続けているうちに、同じ統合失調症でも、何十年も自宅から出ることなく孤独のなかで引きこもり生活を続けている人や、対人接触にとても弱い人などが参加してきました。それ以外に「人格障害」や「発達障害」と言われる社会の中で人との関係に悩み、苦労している方たちも、就労の中途で鬱になって回復期にある方たちもやってきますし、長期入院者の社会参加の場という役割以外の仕事がここ10年で増えたなという実感があります。

どういう基準で利用者の受け入れをされていますか?

国に定められた「障害者総合支援法(旧障害者自立支援法)」における「就労継続支援(B型)」
* の事業所は、基本的には役所に申請を出し、認められて、利用が始まります。うちの場合は多くの人が障害手帳を持っていたり、障害年金を受けたりしていますが、それらがない人もいます。
脱線してしまうかもしれませんが、ハーモニーは必ずしも病名を持つ「利用者」と言われる人たちのためだけに開かれた場所でなくてもよいのではないかと思っています。『幻聴妄想かるた』をつくって以降、集ってきた方たちは、医療にかかったり、福祉サービスを受けたりはしていないけれど、何らかの生きづらさを抱えていて、自分でも言語化できない違和感のようなものを持っている人が一定数いるように感じます。そういう人も立ち寄れる場所であればいいなと思います。中核には統合失調症を代表とする制度を使って利用する人たちがいるけれども、それを支えているのは、何らかの「居場所」を必要としている人たちで、そういう人たちが渾然一体となって施設の日常が動いている感じがいいと思っています。
法律の中の施設として作業をしたりご飯を食べたりレクリエーションをしたりするという日常はありますが、作業以外にも毎週水曜日にミーティングを行っています。病気か病気じゃないかはわからないけれど、自分の身に起きた不思議な体験を語り合う時間です。事前に連絡さえもらえれば誰にでもオープンにしています。毎週一人二人ゲストが来ていて、ゲストがいることで場が活性化するという意味でゲストも重要です。『幻聴妄想かるた』もミーティングの参加者たちの経験がもとになり、この時間で絵札をつくり始めました。その場においては病気であるかそうじゃないかは実はほとんど関係ないです。僕は、ある単一の障害の種類の人たちを集めて内向きにお互いに話し合って一体何ができるだろうと思うんです。それってすごく不自然な集団の成り立ちに思えます。20代の若い人から70歳代までの恐らくこの場所が最後の社会参加の場になるであろう人が同じ場にいる方が自然だと思います。障害がある人もない人もまずは集って、その関係性の中から何かつくっていくというかたちにしたいと思っています。

精神障害者の人たちは他人に幻聴や妄想の話をすることに抵抗はなかったのでしょうか?

精神障害の特質から考えて、幻聴や妄想の話をすることで社会から阻害された経験をたくさん持っている方は多くいらっしゃいます。離縁や勘当、地方の方だと育った地域では精神障害ということが公にできなかった方も高齢者には多いですし、発症して職場を首になったり、家族の間ですら話せなかったりするわけです。まずやろうとしたのは、そういうことが話せる環境づくりでした。最初のステップが『幻聴妄想かるた』づくりで、「隣の人が何を考えているかよくわからない」という利用者の雰囲気が始まりでした。作業だけが目的の施設だったら、お互いに話す必要もないですし、彼らの中にも精神障害に対する偏見があって、「病気の重い人は怖い」とか「あいつみたいにはなりたくない」とか、彼らも病気のことを口にしたくないし、元気なように見せたいという力動が働いていて、お互いに話せなかったことも多かったと思います。

やり始めて思ったのですが、自分のことを話す一つの装置としてのかるたづくりは面白かったなと思います。つまり、幻聴や妄想、病気のことを語るのではなく、「体験した不思議なことや困ったことを語ろう」ということにしました。「夜眠れない」とか「大震災のときに食べるものがなかった」とか具体的な日々の悩みごと相談の中に「実は闇の組織に狙われてる」というものが入ってきたり、「昨日自動販売機に話しかけられてさ」というものが紛れ込んできたりしても楽しいですよね。そういう日々の不思議体験話を抽出してかるたにしていきました。形にしてみたら「俺もそんなことある」「そういうときはこうしてたよ」と乗っかる人たちがいて、「僕がずっと聞こえてた声はひょっとして幻聴なの?」という話をし始める人たちが出てきました。そういうことでお互いを発見すると同時に自分のことに気づけるというか、いわゆるカウンセリングではなく雑談めいたものから引き出せたのがラッキーでした。

かるたはどういう経緯で生まれたんですか?

2008年に集団精神療法士を入れて当事者ミーティングをやり始めました。お互いがそういう話をするのに慣れてきたところで、障害者自立支援法が施行され、それまでの共同作業所という法外の施設から、国の法律の中で存在する施設に変わらなければいけなくなったんです。共同作業所は地方自治体から独自に補助金をもらっていましたが、法律ができたことによって、利用者と契約をして、お金を稼いでいただいて、工賃を補償しなければいけなくなった。でも年齢層が高くて重篤な障害を持った人が多いということもあり、典型的な内職作業や飲食店といったことは考えられませんでした。それで「このままだと僕らは新しい法律のもとでは法内の施設にはなれない。どうやったら工賃を稼げるだろう」と話し合いました。いろいろとアイデアが出ました。幻聴や妄想や病気の体験を劇団仕立てにして老人ホームでお金をとって発表しようという案までありました(笑)。劇団は上手くいきませんでした。いざやってみると台詞は覚えられないし、みんな顔を出すのは嫌だと言うし(笑)。半分本気で半分冗談のような劇団づくりでしたがうまくいかない。暗礁に乗り上げたころ、それまで書き留めていた妄想の体験を短文にしたものを見ていて、誰からともなく「これってかるたみたいだよね」とその場のノリで言い始めたのがかるたのきっかけでした。かるたがよかったのは、結局誰の体験かがはっきりとはわからないことでした。匿名性があるというか、半分顔が隠れているようなものというか、そこが彼らにとってはちょうどよかったんでしょうね。ビギナーズラックだと思いますが(笑)。

かるたになった幻聴や妄想の特徴は何ですか?

『幻聴妄想かるた』にはすごく暴力的なものや性的なものは含まれていないんです。でも妄想の中にそういうものは必ずあるわけなんですが、「これは売りものであって、一般の人たちに届けるものだ」という前提は彼らにもあるようです。本当の生々しいものではなく、山を越えて後ろを振り返って、「これって面白かったよね」とか「宇宙人に会ったんだけど誰も信じてくれないけどホントに会ったのよね」という、過去の体験をちょっと引いて俯瞰しているようなものが多いです。展示会では、お客さんを自分のかるたのところに連れて行って「これ僕の札です」と名刺代わりに自己紹介のきっかけとして使う人もいます。彼らなりにこれは世の中に対する贈り物というか、伝えたいこととしてのコーティングがされたものと考えてもらうのがいいかもしれないです。それから「自分の体験はどんな妄想でも本当だけど、隣のあいつ変だよね」というのはみんなあるので、他のメンバーの妄想の話を聞いて絵を描くのは嫌ではないようです。

ミーティングで何度か語られてみんなで共有されて、「今日はAさんのこの話についてAさんからもう一回話を聞いてみんなで絵を描こうよ」という提案をして最近はつくっていくのですが、みんなはすでに知っている話もあります。何人か集まって、それぞれが絵を描いて、本人が「これ面白いね」「これが一番近い」と言いながら選んだり、日々そういうことを続けているわけです。一度は自分の体験が集団の中に開かれて、共有されたものがかるたとして出てきていると思ってもらうとわかりやすいと思います。
やっていて楽しいなと思ったのは、その体験が何度も語られてみんなで面白がっているうちに、元の体験の語りがどんどん変わってくるんです。そこが僕はすごく好きで、どんなに本人にはきつい嫌な体験だったとしても笑いのポイントは必ずあって、そこでみんながウケたりすると、その部分がどんどん強調されてくるんですね(笑)。そうするうちに彼はわかってもらってよかったと楽そうになってくる。本当に忘れっぽい人が多くて何度も何度も同じ話を繰り返すんですが、人が聞いてくれることによって経験が柔らかくなっていくというのが積み重ねていくうちに僕も気づいたことです。

かるたの絵はその幻聴や妄想の体験者が描くわけではないということですね。

そこが一番のポイントだと思います。ある話がその場で共有されて、語ったり聞いたりする中で、その体験がひょっとしたら自分だけじゃなくてみんなとわかちあうことができたという感覚が持てて、そこでみんなで描くということが大事なんだと思います。上手い下手ではなく、そこに関心を寄せたという意味で絵を描くという行為はよいと思います。当事者同士の友情なんて信じないよと言うメンバーもいますが、降りかかってくるものを一人ではなくつながりの中で受け止めることで、楽になったり良い方法を少しでも見出せたりする、そういう営みの記録としてのかるただと思っています。

精神障害の方たちはお互いを理解するのが難しいと思うのですが、幻聴や妄想を通じて他の人とつながれるということですか?

ミーティングの中では現実的な知恵、「夜中に調子が悪くなったらどうするか」など、そういうものを共有することもあります。ただそれだけではなく解決不能なことというのは当然あって、ミーティングで話したからといって彼らの妄想が消えたり楽になったりする訳ではないのですが、「そうだね」とか「ちょっと頑張ろう」とか言ってくれる聞き手がいることで生きやすくなるというか、一晩乗り越せるというか、そういうものなんだと思います。ハーモニーという場所が特別な場所というか、それ以外のところでは通じない言葉が通じる場所という認識は持ってもらっていると思います。ただ、それだけで内向きだとどうしてもピリピリしてしまうので、ゲストが入ってくるとよりよいんです。

かるたづくりは施設の維持にとってどのような役割を持っていますか?

かるたは商品としてパッケージされますが、中身については、ミーティングの中で日々更新されていくものです。「場のデータベース」という考え方が僕には一番しっくりきます。苦しんだり助けられたりした経験の蓄積。亡くなった人たちの経験も含まれている。そういうふうにかるたづくりを捉えています。

2008年に自分たちで販売したときは3,000円で売って500部ほど売れたのですが、その後医学書院さんとのご縁で2010年にDVDとCDをつけたものが世に出て、いま5,000部ほど売れているらしいです。ただその過程で工賃が増えたかというと実はそうではなくて、世田谷区内の公園の清掃をしたり内職をしたりした方が効率的に彼らにお金が払えたんだろうと思います。最近では多い時期で月2回くらいのペースで講演を頼まれるようになりました。最初20分くらい僕が概論を話して、その後メンバーがそれぞれの体験を語りながら会場のみなさんとかるた大会をするんです。自己紹介をする感覚が平気になった人が10人ほどいるので、そういった活動で大学や施設などからお金をもらっていて、それが工賃アップにつながりました。決め台詞やウケる話を持ってくることを彼らなりに考えて、わかりやすく楽しく話す工夫をしたりしています。最近はそれに加えて、ワークショップ形式で、会場の人がかるたを描いてみるということもやっています。ミーティングと同じように、5人くらいのグループに分かれて、自分の変な体験を話して他の参加者と共有し、最後にみんなの前で発表します。メンバーが来場者のかるたに講評したりします。それをパッケージ化してメンバーと一緒に行うことを本格的にできないかなと夢見ています。かるたを売るという次元ではなく、自分のことを語り、会場の人と語り合うことを社会参加の形として展開していきたいです。

かるたというのは場をつくるということなんだなと改めて思いました。

そうなんです。かるたって遊んでみるとすごい力を持ったものだなと後になって気づきました。一般の方がつくったかるたもすごく面白くて、数百枚貯まっているので、近々ウェブ公開をしたいと思っています。メンバーもビックリするような面白い体験もたくさんあります。境目の曖昧さというものを、かるたを通して当事者や一般の参加者も感じてくれると、本来なくてもいい妙な境目が壊れていくんじゃないかなと期待しています。加えてそれがメンバーたちの工賃にもつながっていくといいなと思います。そうは言っても、僕としては、ハーモニーが幻聴や妄想の話を日常的に安心して話すことができる場に少しでも近づけたならば、それが一番よかったと思います。売れる売れないはあくまで結果ですね(笑)。





虚ろ現な我らのかたち

文・津口在五

「さらば聖なる山。現実の生活があるんだ」
- アレハンドロ・ホドロフスキー『ホーリー・マウンテン』

はじめに

 鞆の津ミュージアムのやっていることが、「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」という言葉から一般に想起されてしまう何かとは一見異なる「でたらめ」なものに見えるかもしれなかったり、事実として、障害のある方の表現だけに光を当てているわけではないという意味では、確かにそれはいわゆる「障害福祉」とは言えないところもある。しかし、「障害」や「福祉」あるいは「幸福」という言葉の意味をそもそも論的に問うようなメタな立場からの障害福祉があってもよいし、現にあるのではないか。そのような考え方のもと、「障害/健常」の間にある境界線を「とりあえずのつくりもの」という意味での「虚構」という視点から改めて考えてみようというのが本展『障害(仮)』である。
 もちろん、障害を当事者個人の身体に還元されるものと考え、それを「健常」な身体と比較して「異常」な欠損や機能障害であるとする「個人モデル」や「医療モデル」的な立場からみれば、実在しないもの=虚構という様相において障害を理解することは難しい。この視点によれば、障害とは当事者の身体に内在し、彼や彼女らに生活上の不利益をもたらすものとして治療や福祉的支援の対象とみなされるものであるからだ。
 しかし、障害を障害当事者とその人が暮らす社会との関係性の中で生み出される障壁として捉える「社会モデル」的な立場からみれば、障害は個人と社会の「間」に存在するものとなる。この考え方によれば、障害は当事者個人の身体の差異に帰せられる不変なものではなく、社会の仕組みやそこに住む私たちの考え方に応じてかたちを変えうる想像的・可塑的なものであるからだ。これについて、社会学者の立岩真也は、障害の原因についての捉え方がそのように変化してきた近年の歴史的経緯に触れながら、次のように書く。

「障害学と呼ばれる動きもその流れの中にある(日本では2003年に学会設立)。個人の身体とその欠損に注目し、問題解決の責任を個人に負わせ、治療・訓練する医療・福祉の専門家支配に連なる「個人モデル」「医療モデル」に代え、社会の中に障害が現われることを把握し、社会変革を求める「社会モデル」を主張するとされる。」*1

 障害者文化の研究者である倉本智明は、全住人が背中に翼を持つ社会に翼を持たない私たちが投げ込まれたらどうなるかという寓話を通して、社会モデルにおける障害と健常の交換可能性について説明しているが*2、ここでは、何をもって障害となすのかは多数決で決定される相対的なものだということが示されている。もちろん、それによって障害のある人が主観的に経験する苦しみがなくなるわけではないし、そのことによって、逆に当事者の苦しみは隠蔽されてしまうともいえる。しかし、両者の関係性や境界線は組み直したり書き換えたりすることができると考えることの重要性はそのことで失われてしまうわけではない。その意味でいえば、本展は、障害の社会モデル的視点を基軸に、障害/健常の間にある関係の更新可能性や人為性を「(仮)」という言葉に託して、提示しようとする試みであると言えるだろう。
 それにあたって本展では、「(仮)」性を持つようなもの、つまり、広い意味において「つくりもの」であったり「とりあえずさ」に関わるような表現を展示した。出展物はステレオタイプな障害者像、妄想、幻覚、仮想現実、模型、記憶、夢、演劇、他者の心などにまつわるものである。そして、それぞれが「事実」に対する「物語」、「正解」に対する「誤解」、「本物」に対する「偽物」、「現在」に対する「過去」、「自分」に対する「他人」などのかたちで、虚構的なものとつながりを持つ。本展では、多様な展示物を混在させることで、それらを等しく「(仮)」すなわち「つくりもの」の相において捉えてみようと考えたのである。


問題の所在

 近年、特に90年代に入って以降、障害のある人たちによる創作活動に光を当てる展覧会が開催され、障害のある人たちの文化の多様なあり方が広く知られるようになってきた。そうした展覧会は、障害当事者がつくる非典型的ではあるが多様な価値を体現する作品に託して、否定的にのみ捉えられがちであった既存の「障害(者)」像を相対化し、肯定的に転換しようという実践であるといえる。
 障害者像をめぐってこのようなイメージの政治学が行われる歴史的背景には、戦中戦後を通じ、障害のある人たちの生命を「あってはならない」*3ものとして選別し、なきものにしようとする優生思想の脅威があったとされる。例えば、障害文化論の荒井裕樹は1960年代から70年代にかけて、横田弘や横塚晃一らを中心とした脳性麻痺の障害当事者による活動団体「青い芝の会」によって展開された障害者運動や議論について次のように述べている。

「1960年代末から1970年代には、「優生」という外在的な権力によって、障害者の「主体性」を無視する形で死へと至らしめられる危機感を抱くようになり、それへの反発を通じて自己の生命を守ろうとしてきたのである。… 今まで社会から突きつけられてきた障害者の生命の価値の挙証責任という刃を、自己の外部へと折り返し、逆に社会の側へと突き返して行くこと」*4

これによれば、社会における障害の意味をめぐってなされた存在論的な議論は、単なる抽象論にとどまらない、文字通り生存をかけた闘争であったことがわかる。また、大内郁(元・藁工ミュージアム学芸員)は、戦時下の日本において「特異児童」として注目を浴びた山下清の存在が、当時高まっていた優生思想に対して持ちえた意義について次のように述べる。

「『特異児童』としての山下清らの作品の反響が戦時下の日本社会おいて興味深い作用をも たらした点は、彼らの『能力』の発揮に引き寄せられた議論が、イディオ・サヴァンといった心理学・精神医学用語などでその位置づけを確保する中で、『能力主義』によって一定の人間を排除する優生議論に揺さぶりをかける、『低能児』の『天才』の実例として、ある種の「抵抗」のような姿をもみせたということでもある。」*5

 これらの例によって示されているのは、文学や美術作品の発表という文化的活動が、社会における無益なものとして自らの生命を排除しようとする力に対して、その価値を主張し自らのもとへと奪還するような、きわめて福祉的かつ政治的に有効な実践になりえていたということであろう。こうした当事者側からの文化政治的な実践は、障害者の権利や存在が不当になきものとされていたことへの時代的要請としてなされなければならなかったし、現在、「障害者差別禁止法」の制定にみられるように、当事者の人権を尊重する社会的な制度が実現しつつあることは、そうした活動が一定の成果を挙げたことの証であるといえるかもしれない。
 しかし同時に、現在における障害者文化を紹介するほとんどの展示がそうであるように、「純粋」「天才」などというかたちで障害者(文化)の中に理想化された価値観を投影して神格化する「障害者純粋言説」とでもいうべきそのステレオタイプな語り口は、彼らの存在をある定型に入れ込んで理解しようとする暴力的な物言いであることもまた事実である。
 言うまでもなく、「障害」のある人たちの生き方は「健常」な人たちがそうであるのと同じく多様であり、彼や彼女たちは「純粋」でも「天才」でもない、いわば普通の人たちだ。テレビを見て、音楽を聴き、本を読むなどして大衆文化に親しんでいるし、その他の無数の人たちが暮らすのと同じ社会の中で日常生活を送っている。
 だから、「純粋」が「どんな文化的影響も受けない」という意味であるならば、それは端的な虚像にすぎないし、障害者像の多元化を目指すべき文化活動が、ありもしない画一的な語り方をするのはあきらかに本末転倒だ。そのようなかたちで彼や彼女らの作品を言祝げば言祝ぐほど、彼らのステレオタイプなイメージを再生産し、その生のあり方を「健常者」とはまったく異なるものとして固定的に象ることになってしまう。そこで行われていることは、極論すれば、福祉的包摂の名のもとに行われる排除なのではないか。この疑問が本展の出発点となった。


作品について

 お笑い芸人のあそどっぐは、脊椎性筋萎縮症により24時間介助を必要とする寝たきりの身体障害者であるが、彼は自身の境遇を自虐的に利用するブラックユーモアを通じて、世に流通しているステレオタイプな障害者像に介入し、その更新を試みる。彼は、本展で上映した新作の中で、障害者に対する無関心(『ヒッチハイク』)、包摂/排除(『カーリング』)、差別(『犬』)、性的欲望の主体としての障害者(『婚活な男』)、過剰な配慮・管理(『達人』)、忌避(『かんさつ日記』)などについて言及しながら、障害者に向けられる否定的なまなざしを先取りしてネタに組み込むことで、それらを露悪的に視覚化してみせた。
 例えば、『婚活な男』では、変態的な性的欲望の主体として下ネタを発し続ける男を演じることで、理想化されたステレオタイプな障害者像を裏切って脱聖化すると同時に、自らの存在も(健常者と同じように)さまざまな性的欲望を持つよくある生身の身体の一つであるという事実に鑑賞者の意識を向けさせる。また、『かんさつ日記』では、最終的に殺虫剤をかけられスリッパで頭を叩かれて殺生される意味不明で不気味な虫を演じることで、自身の存在を極めて忌まわしく価値のない存在として描き出す。障害者に向けられているかもしれない同情や忌避の視線を逆手にとって自ら「踏み絵」となることで、「あなたにはわたしの存在はこんな感じで映っていませんか?」と鑑賞者に問いかけるというわけだ。
 さらに、彼は『達人』において、寝たきりの「武道の神」という矛盾した存在として登場する。寝たきりであるがゆえにまともに戦うことができないはずのこの無敵の「神」は、しかし、ヘルパー演じるところの「対戦相手」によって容赦なく攻撃を与えられ、いとも簡単に敗北してしまう。その間際、彼は「空気読んで!障害者だよ!」と絶叫するのであるが、この叫びの中に、この「神」が無敵であったゆえんが示されている。つまり彼は、文字通り無敵であるというよりは、寝たきりであることを暗黙のうちに考慮される「手加減すべし」という空気の中で、大多数の人間と同じ土俵に上がることを許されないがゆえの「不戦勝」を強いられる、敵なしの「神」であったのだ。その意味で言えば、この「達人」は、過剰な政治的正しさによって配慮・包摂されると同時に、排除されてしまう障害者についての寓話であろう。この「対戦相手」は、空気を読まないことによって「神」を脱神格化することを通して、「私たちは同じ土俵に存在している!」という水平的な宣言を行う者である。つまり、「空気読んで!障害者だよ!」という「神」の叫びの裏側には、「空気読まないで!障害者でも!」という、障害/健常の間合いを仕切り直すよう訴えかけるまったく相反するメタメッセージが貼りついているのだ。人それぞれ笑いの沸点は異なるが、自分の手持ちの常識を宙づりにしたり、裏切ったりするような何かに直面したときに笑いが生じると考えるならば、何が笑いの対象となるのかは、鑑賞者がいかなる常識を持っているかに依存する。その意味で言えば、私たちはあそどっぐのネタに笑ったり笑えなかったりするたびごとに、「障害」について自分が無意識のうちに持っていた思い(それが否定的なものであれ何であれ)を強制的に知らしめられることになるのだ。あそどっぐの身体をかけた笑いは、私たちそれぞれが障害について持っている常識を問い直し、見知らぬ存在に対する寛容さを鑑賞者の中につくりだそうとしている。

 『幻聴妄想かるた』は、就労継続支援事業所「ハーモニー」に通う人たちが経験する幻覚体験を「かるた」にしたものだ。この「かるた」は、利用者同士がそれぞれの主観的な経験や苦しみを語り合う「愛の予防センター」と呼ばれるグループワークから生み出されているが、それは本人にのみそう信じられているという意味で「ない」とされる幻を言語化していく実践を通じ、その幻を現に「ある」ものとして公共的に共有可能なかたちでさしだす試みであると言えるだろう。施設長の新澤克憲によれば、第三者の視点から見れば実在しないとされるものであっても、当事者の発言を肯定し「ある」ものとして受容することは、彼らの苦悩に寄り添うための回路をつくるという意味で極めて重要なプロセスであるとされる*6。そうした回路は、支離滅裂で無意味に見える発言の中にもそのように語られるべき本人にとっての合理性を読み込み、ひとまず議論可能な対象とみなして語っていく中で生み出されるものであろう。それは、「ない」ものをアド・ホックに「ある」ことにしてしまうという、相手への寛容さと信頼にもとづく態度に根ざすものだ。発達障害の当事者研究を行う綾屋紗月も「ない」ものを「ある」ものに転成させる表現の意義を語っている*7。その意味でいえば、『幻聴妄想かるた』は、他者の心というどこまでいっても知ることのできないもの同士をつなぎあわせ、「ない」ものの居場所をつくろうとする創造的な賭けであると言えるだろう。

 『ハコスコ』はスマートフォンを使用する簡易なバーチャルリアリティ装置で、鑑賞者はスマホの画面に映された映像を覗き込むことによって仮想現実的な体験することができる。本展で鑑賞者は市原えつこによるSF的変身譚を描いた映像を見ることになるのだが、ハコスコは装置の動きと映像内の視覚情報が同期するよう設計されているため、画面を覗き込んだまま装置を上下左右に動かすと、それに合わせて映像内のものごとが動く。そのために、鑑賞者は強い現実感・没入感とともに映像を体験することになるのだ。ハコスコの開発者である神経科学者の藤井直敬によれば、「『いまここに存在する』という感覚、つまり現実感を構成する最も重要な要素は、画像の解像度やフレームレートで決まるのではなく、Visuo-motor coupling と自分が見ている映像が現実であるという主観的確信」*8によるところが大きいとされる。つまり、ハコスコは目の前の視覚情報(visuo)と自分の体の運動情報や触覚などの体性感覚(motor)を同期させることで、現実感を生成させる装置ということになるだろう。逆にいえば、私たちが何を現実と思うかは極めて場当たり的なものにすぎないということである。その意味で言えば、ハコスコは鑑賞者が「現実感」を感じる対象を、いまの現実(鞆の津ミュージアムの中でハコスコを見ていること)から別の現実(映像内で展開される出来事)へと強制的に移してしまうことで、結果として、いまの現実を偶然的なものとして見ること、つまり、いま現に自分たちが受け入れている規範や価値観や言葉の意味などはたまたまそうであった=別のものでもありえた、と思い至ることを可能にする装置となっているのだ。

 三浦和香子が制作した食品サンプルは、各メニューの食材が持つ色やかたちやテクスチャーを、現物とは似ても似つかないフェルトや毛糸や綿などの手芸用品を素材にして近似的に再現しようとしたものだ。そのため、遠くから見たときと近くから見たときとでその写実性が大きく変化する。一見すると実物そっくりだが、よく見ると実は似ていない。しかし、逆にいえば、写実性は視覚の「解像度」に依存しないということである。三浦のサンプルは、たとえそれが実は手芸用品であっても食材と見ることができる、という私たちの視覚的認識の柔軟性と粗雑さを実によく現している。その意味で、このサンプルは、ものをよく見ることへの警句や「らしさ」に対する批評性を宿していると言えるだろう。

 西川正之による昆虫や鳥類をモチーフとした立体凧は模型としても精巧にできていて、極めて再現性が高いのだが、そのサイズにおいて実物と大きく異なっている。そのため、鑑賞者は展示空間の中でその大きな凧=昆虫を至近距離で見ることを通じて、昆虫の大きさについて自身が持っている認知的枠組みを裏切られることになるのだ。昆虫凧はそのようにして常識的なスケール感を無視することで、鑑賞者自身に(昆虫をそれほどまでに大きく見ているはずの)小さな生物になってしまったかのような錯覚を与えるだろう。動物学者のヤーコブ・フォン・ユクスキュルは極めてシンプルなダニの「環世界」を提示することで、人間とはまったく異なる世界が実在するはずであることを示して見せたが、これらの昆虫凧も(直接知ることはできないが)確かにあるはずの自己とは異なるあり方をした存在への想像を起動させるよう鑑賞者に働きかけている。

 高橋重美は、自身が暮らす精神病院で出会った女性や看護師との空想上の恋愛や性愛や結婚生活や子どもの誕生などについて文章とイラストをまじえて描き続けている。それは、実際に起こったことではないという意味では妄想だろう。しかし彼の言葉によれば、彼は自身の創作活動に一定の距離感をもって「つくりもの」であると認め、それを孤独な人生に楽しみを与える娯楽であると位置づけているように見えるのだ。私たちは、ある話がつくりものであるとわかっていてもそれに没入し、現実の出来事に対するのと同じように喜怒哀楽の感情をもって楽しむことができる不思議な能力を持っているが、言うなれば彼は自作自演の娯楽に最大限に没頭し楽しむことで、物語と自分の人生とを一体化しようとしている。その意味で、彼の創作活動は苦難の人生を忘れ去り、よきものにつくりかえるための生存の技法なのであろう。

 小林一緒は、自分が食べた食事の記録を絵日記のかたちで長年に渡り記録してきた。その各記録には一言コメントがつけられているが、その一言は食事がおいしくてもおいしくなくても、ほぼすべて「おいしい」など肯定的なものである。つまり、結局、味の記憶などは時間が経過すれば忘れてしまうのだから、事実はどうあれ「おいしい」と書いてあるほうが、あとで日記を読み返したときに幸せな気持になれるはずというわけだ。その意味で、彼の創作は、たとえそれが嘘であるとわかっていても、「おいしかった」という偽の感覚を意図的に記憶の中へ混ぜ込むことによって、自分の生を快い感情で「書き換え」、幸福なものにつくりかえようとするラディカルかつ楽天的な快楽主義に貫かれている。
 
 百瀬文の映像『The Examination』では、ランドルト環を用いた視力検査の場面が描かれる。作品内で行われるのは、医師が提示したランドルト環に対して、自分が見えたランドルト環の開いた方向を示す矢印をスケッチブックに書いて医師に見せるという形式の検査だ。検査では、被験者は右が開いていると思ったときはスケッチブックに「→」と書いて医師に見せる。矢印は医師に提示された時点で(被験者に対しては)反転するため、医師は自分にみえている「→」の意味を、自分にとっての右側と、被験者にとっての右側のどちらの意味にでも解釈することが原理的に可能という状況に置かれるだろう。それは左右に反転しない「↑」でも事情は同じである。もし、医師が実際に上向きの環を提示し、被験者からも「↑」が提示されたとしても、それは被験者が示す方向に開いた環が見えているとは限らないからだ。つまりこれは、矢印の向きがどの方向を向いているにせよ、それをどのように読むべきなのかを一意的に決めることはできないということである。そのように考えれば、本作はコミュニケーションに内在する虚構性や情報伝達の曖昧さを可視化することで、私たちが相互に理解し合うことの原理的な困難さや不可能性を映し出していると言えるだろう。

 寝ているときに見る夢の現実感は絶対的である。言い換えれば、夢を見ている最中には、その夢の内容が(夢から覚めてしまった状態からみれば)どれほど荒唐無稽でエキセントリックであったとしても、それが虚構であるということをメタな地点から認識することはできない。つまり、私たちは夢に没頭することによって、目が覚めているときに経験するのとは異なる内容の現実を文字通り生きているというわけだ。そのような意味において、夢とはもう一つの現実であろう。滝本淳助の夢絵日記は、複数の他なる現実を現に生きてきたことを記録し報告することによって、目が覚めているときの現実も夢かもしれないと、いまある現実の更新可能性を見る者に示す。

 伊勢田勝行は、自らが描いたマンガをもとにアニメや特撮映像をつくっている。彼はSF形式をとった作中で、現実の約束事を無視するような荒唐無稽なストーリーを繰り広げるのだが、彼は、作品中の全登場人物の声をさまざまな声色を使って自分で演じることによって、元の音声を上書きしてしまう。そうして不自然にアフレコされた音声と映像との間に「ずれ」が生じることによって、鑑賞者は、物語を超越的な視点から統制する創作者の存在を意識させられることになるのだ。また、撮影するセル画の下に敷かれたカッティングマットが映ってしまっていたり、出番を待っている状態の敵役が画面に映り込んでしまったりする場面などは、作品の中におそらくは作者も意図せざるメタフィクションを呼び込んでいる。哲学者の永井均は、藤子・F・不二雄の作品について「現実をつねにありえたかもしれない他の可能性との対比の中で見ている。」*9と書いているが、伊勢田も同様の「脱現実主義」とでもいうべきものを貫くことによって、いまの現実のあり方を徹底的に疑うのである。
 
 以上のことから言えるのは、私たちが日常生活の中で信じて疑わない「現実」は、どこまでも不確かで虚ろなものであるということだ。その虚ろさは、他者の「心」を直接経験することができないというかたちでお互いが主観的に断絶しているという私たちの生の形式に規定されている。この断絶ゆえに、私たちは他者の心を想像して理解するしかないのであり、同じ人やものに対しても異なる想いを持つことになるのだ。その想いはどれも「現実」であるが、一方で、どこにも唯一の現実はない。このように「仮想」と「現実」の関係は表裏一体であるからこそ、それは時に人々の衝突を引き起こすのである。しかし、それでも私たちは、お互いを排除することなく認め合い、なんとかしてこの世で生きていかなければならない。


福祉としての芸術

 平成25年より施行されている「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」(障害者総合支援法)の第1章第1条の2(基本理念)には以下のようにある。

「…全ての障害者及び障害児が…地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと並びに…日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものの除去に資することを旨として、総合的かつ計画的に行わなければならない。」*10

 ここでは、障害にまつわる文化政策、とりわけ教育の充実が謳われている。広い意味での教育こそが「観念その他」のあり方を更新することができるからだ。例えば、美術という名のもとに行われてきた活動が、常識から逸脱しているがゆえに排除・抑圧されているものに光を当てることで世界に多様性をもたらそうという営みであると考えるならば、この理念に基づいた障害福祉政策の一つとして、彼らの創作物の紹介や美術館の運営はありうる道である。それがどんなものであれ、各自の生や多様性を肯定することは、幸福を実現する実践としての福祉の出発地点であるはずだからだ。ここにおいて、福祉と芸術はつながる。
 例えば、鶴見俊輔、石子順造、都築響一、根本敬らは、多数派的とはいえない文化に目を向けることで、日常の中に宿されている創造性や多様な生のあり方を提示してきたが、彼らの活動は、上のような意味において、福祉的実践であるとも読み替えることができるはずだ。そのような人類学的・民俗学的な探求によって見出された「アウトサイダー・アート」的なるものが、自らの「悪趣味」をよきものとして主張し合う記号論的ゲームの対象としてサブカル的に受容され消費されていたのが90年代であるとすれば、そうした営みが多文化主義的理念と結びついて、多様性を社会に組み込んでいく活動として福祉の枠組みの中で展開されるようになっているのがゼロ年代以降であるのだろう。鞆の津ミュージアムの活動をはじめ、現在、アール・ブリュットの領域でなされているさまざまな実践は、その掌の中にある。
 このように考えたうえで、福祉施策としての美術展や美術館が運営される場合に、そこで展示されるものは障害のある人がつくったものに限定されるべきなのかと言えば、必ずしもそうとは限らない。もちろん、活動の機会を均等にすべしという配慮にもとづき出展者を障害のある人に限るということに一定の意義があることは確かであろう。しかし、「障害」のある人が日常生活をするうえで障壁となるものをなくしていくために、他の方法が考えられてもよいはずだ。「役に立つ」ということはそれほど単線的なものではない。
 また、障害のある人のためだけに活動機会を提供するということでは、建前としても「共生」とか「ノーマライゼーション」などの要請に応えられないだろう。もちろん、障害の有無に関わらない展示をしたからと言って、それは実際の「共生」とは無関係であるかもしれない。しかし、「障害の有無によって分け隔てられることなく」とあるならば、障害の有無に関わらない展示活動を行うことは必要であるし、理念上要請されていることですらありえよう。他方で、「障害の有無に関わらず」という方法論は、一見包摂的に見えても、両者の境界線を前提としており、内部に二項対立的構造を宿しているために、両者の差異や境界を再生産してしまいかねないということには意識的になる必要がある。
 であるならば、創作者の属性にとらわれることなく、均質的でない多様な表現を混在させ展示するという方法論は、障害/健常の境界を問い直すのに「役立つ」のではないだろうか。当然のことながら、逸脱的なものや非典型的な表現は、「障害」の側にだけあるのではなく、「健常」の側にもあるからだ。両者の中にある混沌に平等に光を当てることによってこそ、私たちの多様性は確保されるはずだ。
 もちろん、それらは常識から逸脱しているがゆえに、鑑賞者自らの言語や認識の枠組みでは理解しがたいと感じられることもあるかもしれない。しかし、もしそれらの作品を媒介にして創作者と鑑賞者のコミュニケーションが成立するならば、そのことは、創作者と鑑賞者の双方が、言葉の意味や価値体系といった認識の枠組みを共有していることを示す。このような意味で、展示空間における作品との共存というかたちに託した実験的な共生は、異なる者同士の対話を生み出し、両者を同じ地平にあるものとして受け入れていくための基盤を用意するだろう。
 日本語で「福祉」は「幸せ」のことであり、英語でいう「welfare」は「よく生きること」を意味する言葉だ。たとえそれが常識的な価値観から逸脱していたり、無意味、無駄、非倫理的であるように思えたりするとしても、多様なよさや幸福のかたちがあるべきだし、現にある。それを具現化しているものが創作物であるならば、展示することを通じて多様な幸福のかたちを示すという福祉的実践がありえるだろう。それは、創作物を作者の生が織り込まれた形見や聖遺物のようなものとみなす想像力にもとづき、一つの「作品」としての人生そのものに光を当てることである。
 もちろん、それによって生の善し悪しが品定めされるわけではない。例えば、「無意味なもの」に捧げられた生に向き合うことを通じて、私たちは、目の前の「無意味」が創作者にとっての生の意味や幸福そのものでありうることを知る。そのようにして、現にある多様な生の在り様が示されることで類型的な人間像は破壊され、私たちそれぞれが想い描く人間像は複雑で謎めいたものにつくりあげられていくだろう。その多様なかたちをした生は「輝かしき無駄」とでも言うしかない雑然とした凸凹である。しかし、それは疑いもなく私たちの現実なのだ。

*1 立岩真也「障害 / 障害学」,『現代倫理学事典』, 弘文堂, 2006年所収 
*2 倉本智明 『だれか、ふつうを教えてくれ!』, イーストプレス, 2012年, p.61
*3. 横田弘 『障害者殺しの思想』【増補新装版】現代書館, 2015年, p.34
「何故、障害者は『本来あってはならない存在』つまり、『悪』とされるのだろう」
*4 荒井裕樹 『障害と文学』, 現代書館, 2011年, p150
*5 大内郁「昭和10年代 「特異児童作品展」と同時代の「能力」言説-試論」, 千葉大学人文社会科学研究(21), p74
*6【座談会】卓越した教材としての「幻聴妄想かるた」, 医学書院webサイト『医学会新聞』第2963号, 2012年1月30日
*7 綾屋紗月ブログ「『幻聴妄想かるた』絶賛発売中!」, 2011年12月23日
*8日本バーチャルリアリティ学会誌第19巻3号, 2014年, p170
*9 永井均 『マンガは哲学する』岩波書店, 2009年, p.2
*10 「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」(通称 : 障害者総合支援法)



津口 在五(つぐち・あきご)
1976年生まれ。鞆の津ミュージアム学芸員。東京藝術大学大学院修士課程修了。ミュージアム母体の社会福祉法人 創樹会が運営する障害福祉施設で生活支援員としても働く。共同で企画した展覧会に 『ヤンキー人類学』『花咲くジイさん』『スピリチュアルからこんにちは』『障害(仮)』がある。福山大学非常勤講師。





常識のデザイン

文・市原えつこ

市原えつこ(いちはら・えつこ)
1988年生まれ。インタラクションデザイナー。本展では、スマートフォンでVR(仮想現実)を楽しめるパノラマ映像ビューワー「ハコスコ」を用いたコンテンツを展示。鑑賞者は妄想現実を体験することができる。
出演はパフォーマーの森翔太、監修は神経科学者/ハコスコ開発者の藤井直敬。http://etsukoichihara.tumblr.com/

 わたしは人間の認知や精神世界は、もともと底なし沼のように深淵で狂気的なものだと思っていて、「健常」とされている世界でのクリーンで均質化された常識や認知、そういったものを軽々と超えた「障害者」と呼ばれる人々の圧倒的な表現の強度に惹かれていました。自閉症のラッパーのGOMESSさんの圧倒的な表現や、草間彌生さんの強迫観念的な世界の認知にも憧れていました。世間的に「障害」とされているものはわたしにとって「才能=Gifted」としか思えなくて、そういった発言をしたら躁鬱で苦しんでいる友人に怒られたのですが、やはりそうだとしか思えませんでした。それもあって、「障害」というネガティブなラベリングには違和感を持っていました。

 今回『障害(仮)』展での出品映像には「Deep Dream」という処理技術を作品に入れ込むことができました。Deep Dreamとは、人工知能を用いた画像処理の利用例としてGoogleが公開したオープンソースプログラムで、指定した画像の中に予め学習済みの画像パターンに類似するものがあると、類似の画像で置き換えるというもの。Deep Dreamで生成された画像を初めてみた瞬間、「人工知能がアウトサイダー・アート的なものを生成してる!」と直感的に感じて、鞆の津ミュージアムに絶対に展示してやるぞ、と前々から狙っていました。いわゆる障害者の方の世界の視覚的な認知の仕方と、Deep Dreamでの人工知能の画像認識方法が似ている部分があるのかもしれないと思っていたのです。実際に、自閉症の友人から「街頭を歩いていると、人の顔が犬に見える」と以前聞いたことがあり、それはDeep Dreamの世界に近いなと感じていたりしました。

 個人的な話になりますが、ちょうど展覧会が終了したころに、自分が軽度の発達障害を持っていたことが判明しました。でもわたしは友人に恵まれて楽しく社会で生活を送っていて、「あれ、障害と健常って何なんだろう」と改めてよくわからなくなりました。「障害/健常」という白と黒の二分割なのではなくて、人間の性質はいろんなグラデーションでできている。ジェンダーも、性癖も、死生観も然り。みんなが口に出さないものは「普通」や「一般」という言葉でひとくくりにされてしまうけど、「普通」なんて概念がそもそも幻想なんじゃないかな、とわたしは思うようになりました。放っておくとないものにされてしまう個々の差異こそが、その人らしさではないか。いびつで奇妙な個性こそが、人間の本質的な部分なんじゃないか。「はしたない」「みっともない」で切り捨てられてしまう無様な個性こそが、慈しむべきものなんだろうといまは考えています。

 もともと、今回出品した作品の前身となった作品『妄想と現実を代替するシステムSRxSI』(2013年)では「SR=代替現実システム」を用いて、五感をハックすることで虚構の出来事を本当のことだと信じさせることに成功しました。SRの開発者である藤井直敬先生が制作中に言っていた言葉で印象に残っていたのは、「人間の認知なんて、本当にいいかげん」ということ。目の前にいる(ように見える)人と握手ができただけで、簡単にその人にとっての「現実」を騙せてしまう。それとなく、虚構の記憶を現実の記憶に混在させることができてしまいます。わたしたちが現実だと思っていることの不確かさを実感しました。また、まったく同じ体験を再生したとしても、体験者によって知覚の方法がまるで異なることも浮き彫りになりました。目の前で起こっている同じ体験を、少しも疑いもせず完全に信じこんでいる人もいれば、これは虚構かもしれない見抜いた上で、それでも幸せな虚構に騙されたいと共犯的に没入して味わう人もいる。

 私たちは、現実をそれぞれの経験や価値観、知覚にひもづけて誤解して認知していて、その個々人同士の差異はきっと埋まらない。曲解に曲解を重ねて、いまの「現実っぽいもの」「常識っぽいもの」という共通認識がなんとかハリボテのようにできあがっているだけだと思います。ただ、ハリボテのような常識や倫理観を拠りどころにして現在の社会はできあがっているけれど、テクノロジーの進化は簡単にそういった常識を破壊していく気がして、それが楽しみでわたしはテクノロジーを利用したアートの文脈で作品をつくっています。

 例えば人工知能が生活に浸透して、「人間だからこそできること/人工知能のほうがうまくやれること」の使い分けが明らかになった場合、もしかしたら「健常者/障害者」という概念がひっくり返るかもしれません。実際に、わたしは発達障害の影響なのかルーチン的な細かいタスクを繰り返し遂行するのが本当に苦手なのですが(経理作業とか…)、こういったタスクは将来的に人工知能が簡単に処理できるようになる可能性が高いと言われています。逆に、論理が飛躍するような、次元の違う概念を接続する新しい発想をすることは、人工知能の不得意とすることだと人工知能研究の先駆者である東大・松尾豊先生に伺いました。これはまさにADHD(注意欠陥・多動性障害)の傾向がある人間の得意とするところだと思います。わたしは、発達したテクノロジーがハンディをハンディではなくした場合に、人間の価値の大きな転換が起こっていくのではないかと思っています。そういった未来を見届けたいから、誰よりも早く未来の可能性にぶっ込んでいきたい。そういった価値観で、作品をつくり続けています。

 わたしは現在『デジタルシャーマン・プロジェクト』という新作を制作しています。これは家庭用ロボットに、死者の本人性を宿らせることで、死後49日間遺族に寄り添うシステムを構築するのが目的です。現在はいろんな方にインタビューをしながらさまざまな方のコピーロボットをつくっているのですが、死生観や弔いといった分野においても、人によって願望のバリエーションが本当に多いことやそれぞれの欲望の特殊性に、日々驚いています。

 曖昧な概念である「普通」「健常」な群衆の集合でできていると思っていた社会が、本当はイビツな「ニンゲン」という生きものの集合体で成り立っていること。それを無理矢理統合している「常識」や「倫理」をやわらかく解きほぐしていくことが、わたしがいま興味のあることです。特にこの日本という国は、「常識」や「世間」の圧力が強いから。

 テクノロジーは常識や倫理観を更新していくもの。いまの価値観の先にあるものを見届けるために、常識の移り変わりを促進していくために、長生きしていろんなモノをつくっていきたいと思っています。

原宿で撮影したパノラマ写真をDeep Dreamで画像処理したもの






境界と恐れ

文・藤井直敬

 このテキストは鞆の津ミュージアムの市原えつこさんの作品内容とは全く関係ないのだが、今回の作品協力をきっかけに社会脳研究者として社会と障害の関係について考えてみた。

 私たちが一人前のヒトとして完成するのは、思春期が終わってからである。生物学的な発達はもう少し早い時期に完成するが、脳を含む認知的な仕組みが一応の発達期を終え、独立した社会的存在として完成するのは10代後半だといわれている。
私たちは、この世に生まれ落ちて、養育者に育てられ、自己をとりまくさまざまな環境に適応することでヒトになる。脳は発達の過程で、与えられた身体とそれが持つ感覚器入力、そして社会環境に最適化したシステムを脳内に組み上げる。脳は、20年弱の時間をかけて脳になる。
 脳内システムの構築には、ある時期にその感覚器が適切に機能していないと、後からその機能を脳内に実装することができない「臨界期」と呼ばれる時期がある。例えば、適切な視覚情報が適切な時期に脳に与えられないと、以後何をしても正常な視機能を獲得することはできない。
 一方で、身体と脳の関係は、生涯の全期間を通じて比較的フレキシブルだと考えられている。例えば、事故などで右手首から先が欠損したとする。すると、その右手首からの感覚入力が途絶え、右手首に対応していた身体マップがすぐに残された別の身体部位をマップするように自動的に再構成され始める。そのせいで、顔を触られたときに右手を触られたような感覚が生まれたり、失われた右手がまだ存在したりしているような不思議な感覚が起きる。このリマップは自動的に行われ、自分の意志ではコントロールできない。 
 似たようなリマップは身体の一部が失われたときだけではなく、身体のスケールや構造を人工的に拡張したときにも起きる。ドライバーのような道具の使い方に習熟すると、その道具がまるで自分の身体の一部のように感じられるようになることは誰でも体験したことがあるだろう。この場合のリマップは道具を手放すと元に戻るので、自己の意思でコントロール可能である。
 つまり、脳が扱う情報は、視覚のように、あるモダリティについては限られた時期に取り扱いを学習しなければならない一方、時期によらずに修正・拡張することができるものもあるということになる。

 脳から見れば、与えられた身体機能に最適化し、それを自在に制御することは全くあたりまえの話で、むしろその瞬間の自己の身体機能を最大限に発現させるための仕組みが脳なのだといえる。それは平均的なヒトの身体機能のレンジから外れた場合でも同じである。生まれついて身体機能の一部が標準から逸脱している場合でも、脳はそれを疑うことをしないし、それに最適なシステムを構築し運用する。
 逸脱の方向が、欠損方向に逸脱していることもあれば、拡張方向に逸脱していることもあるだろう。そのうち周りから見て欠損的な逸脱が見える場合に、その逸脱を社会は「障害」と呼び、拡張方向に逸脱していれば「天才」と呼ばれる。障害は、身体的逸脱であっても、認知的逸脱であっても同じように障害として扱われる。本人の脳にとっては唯一無二の身体に最適化しただけであるのだから、障害があるとかないとか全く関係ないのだが。

 社会の中でつくり上げられる「障害アリ」のラベルは、身体や認知機能に下方境界を設けることで設定される。これは単純に社会的コストによって設定されていると僕は考えている。例えば、ADHDの子どもがいたとして、その子どもに教育を行おうとしたとき、多人数の中にADHDの子どもが混ざっていると、明らかに授業のパフォーマンスは落ちる。パフォーマンスが落ちるということは、全員に一定の学力を身につけさせるためにコストが増大することを意味する。
 可能であるなら、教育は一人ひとりの生徒の進捗に合わせて個別に行うべきであるが、社会はそれを許すほど豊かではない。豊かでない社会では、一定のレンジから外れた子供を障害児として除外することで教育の効率性を担保し、目的を達成することを選択する。
 これを避ける社会的な方法は2つしかない。一つは目的レベルを下げること。もう一つは社会を豊かにすることである。現代社会が現実に選択し推し進めてきたのは後者だが、まだ十分だとは言えない。すなわち、境界が存在する私たちの社会は全ての障害を受け入れるためのリソースを提供できるほどは十分に豊かではないということになる。
 豊かさは、先進国では障害を障害とは扱わないという流れが当たり前になりつつあることから重要な要素だとわかる。しかし、それでも健常者と障害者の境界は、根強く社会の中に存在し続けるだろう。障害者と健常者の間には単純に豊かさだけでは取り除くことのできない何かがある。豊かさだけでは補償されない別な要素。

 それは「恐れ」なのではないかと僕は思う。異形や異能に対する恐れは意識的には操作することが難しく、文化を問わない人類に共通の感覚なのではないか。それゆえ恐れが排除を生むのは自然に理解できる。これまでの社会はその恐れを克服できなかった。それを克服し、超越するには、欠損方向の障害を健常レベルに戻すのではなく、それを超える誰もがあこがれる超人方向への拡張しかないのではないかと思う。恐れはあこがれと表裏一体であるから。
 私たちがパラリンピアンを見るときに感じる、オリンピアンを見るときとは異なる独特の感覚は、その表裏一体感にある。テクノロジーにより欠損が保障され、さらには拡張されたアスリートは明らかに健常者を上回る身体機能を獲得している。それを見るときの私たちのこころは複雑だ。

 テクノロジーは人類を次のステージに進化させる段階にたどり着いている。現代は、もはやSFがSFとして機能しなくなっている。身体機能、認知機能はこれまでの身体に依存したものから、テクノロジーに依存したものに移行していくであろう。そのときに、生身の身体・認知機能の差異はもはや意味をなさない。そんな差異はテクノロジーによって簡単に補償されてしまうからだ。
そのときの脳はいまの私たちの脳とはあまり変わることはないだろう。脳は新しいテクノロジーによる拡張機能を自己の一部として当然のように使うだろうし、その機能を潜在的に持っているから。

 テクノロジーは時間あたりの作業量を圧縮するための方策である。そのテクノロジーのコストと圧縮可能なコストの関係があるポイントを超えたときに社会構造が変わる可能性は大きくある。その分岐点はいつなのかわからないが、それが近づいているのは明らかだろう。もしかしたら私たちが気づいてはいないだけで、すでに超えているのかもしれない。

 テクノロジーによって、恐れを克服し、あこがれに変えることは可能であり、それはある種類の人々にとって福音となるだろう。そんな世界が来ることを願っている。


藤井直敬(ふじい・なおたか)
1965年広島生まれ。東北大学医学部卒業。同大大学院にて博士号取得。1998年よりマサチューセッツ工科大学にて研究員として勤務。現在は、理化学研究所脳科学総合研究センターにて適応知性研究チーム・チームリーダー、株式会社ハコスコ代表取締役を務める。http://www.brain.riken.jp/jp/faculty/details/6





ヒロイン視点から世界を見る
伊勢田勝行インタビュー

聞き手:櫛野展正、田中みゆき

構成:田中みゆき

伊勢田勝行(いせだ・かつゆき)
1968年生まれ。兵庫県在住。学生の頃から現在まで、自分で描いたマンガを原作にしたアニメや特撮を制作。劇中の主題歌だけでなく、登場人物全員の声まで演じ、独自に編み出したアナログな手法で撮影・編集をひとりで続けている。

伊勢田勝行さんは「生きているうちに見つかってしまったヘンリー・ダーガー*」と言われ、「伊勢田者(いせだもの)」と呼ばれる熱狂的なファンも生まれるほど近年注目を集めている。大学を卒業して20年以上ビルの管理会社で働きながら、週末は出身校である関西学院大学の漫画同好会部室にて制作に勤しむ48歳。自分で描き、撮り、声優まで一人で行う独特の制作手法はすべて独学で、毎年母校での学園祭での発表に向けアニメと特撮映画を制作。いまだに少女漫画雑誌にも投稿を続けている。

最近では毎年のように上映イベントが開催されたり、ネット上に作品がアップされたり、コアなファンも増えていますが、「監督」と呼ばれることをどう思われますか?

恐れ多くて大変申し訳ないです。商業監督でもないのにそういう風に呼んでいただいて恐縮です。

いままでご自身のためにつくられてきたものが、受け手が増えることによって意識するようになったことはありますか。

内容的には変わりはないです。「自分にはこれしかつくれない」というものをつくっているので。投稿となると出版社から「今風にした方が良い」とかいろいろと言われたりしますが。自分流に描いたものを見られて「好き勝手描いてますね」とか。雑誌社に合わせて描くこともありますが、それだとなかなか自分では満足できないので。
わたしは主に学園祭で上映するためにつくっています。特撮を観る世代は大人が多いのですが、ヒーローものは基本的には子どもなので、その点に関してだけは意識しているかもしれないです。

学園祭で発表されているということですが、どのように作品制作は進められていますか?

制作は常にアニメ3本と特撮1本のペースでつくっています。特撮については、アイデアを年明けから徐々にノートに描き始めて、夏から秋にかけて漫画同好会の学生の有志たちと一緒に撮影をしています。作品にもよりますが、アニメは2, 3ヶ月かけて原画を描き、同じく2, 3ヶ月かけて撮影し、アニメーションにしていきます。アニメに関しては自分で内容が頭に入っているので、ひとりでやるのが一番早いですね。最初はVHSのビデオカメラでつくっていました。当時はコマ撮りができる機能がついていなかったので、一時停止ボタンを手動で止めながら原画を1枚ずつ撮影していました。1台のカメラでセルを手で動かしながら撮影して、それをもう1台のカメラにつないで編集します。デジタルビデオに変わってからは、コマ撮りもできるようになりました。基本はそうしてつくっていますが、いまでもVHSのビデオカメラを使うこともあります。セルは手に入りにくいので、近頃はクリアファイルも使っています。
最近では原画を描いて撮影の方を先にやって、音をつけていきます。最初に浮かぶのはストーリーで、その世界観で動いていくキャラクターを描きます。いま描いているのは、相手の男の子とすれ違いのような感じで進む恋愛漫画。ある男の子のために女の子ががんばっているんですが、男の子の方も誤解をしながら進むような話です。基本的には人が良くて、他の友だちが同じ人を好きだったら友だちを応援してしまう、そんな昔からあるような少女漫画のヒロインが好きです。

少女を主人公として描く理由は何ですか?

初めて少女漫画に触れたのは小学校のころで、魔法少女や魔女っ子ものが最初でした。その後『星の瞳のシルエット』のような恋愛を扱う少女漫画も好きになりました。その後も魔女っ子ものも嫌いじゃないし、どちらかひとつだけでも駄目だったと思うんです。両方の要素が重要でした。性的なものはあまり関係なくて、恋愛をしている設定のときは、少女の気持ちに入り込んで相手の男の子を良いなと本当に思うこともあります。自分と似ても似つかないものに魂を吹き込んでいく方がわたしにとっては入りやすいです。
少女漫画というのは正義と悪がなくて、感情論の世界ですよね。そこで唯一ヒロインが求めているのは相手役の男の子です。それがヒーロー漫画なんかを見ると、同じように悪者は地球を手に入れようといろんな手を使うわけで、それを阻止する側の戦隊ヒーローが、少女漫画でいう取り巻きの女の子たちだと思うんです。「○○くんに近づかないで」「○○くんはみんなのもの」と言う台詞も同じなんですよ。わたしにとっては視点が違うだけです。ヒロインの視点から見て、戦隊ものにおける悪者にとっての「地球」が男の子なんですよね。想いが叶う場合も、その女の子が強いからというのではなくて、あくまで選ぶのは男の子側。ストーリー構成的には少年漫画とは逆の見方にはなると思うのですが、内容的には同じような視点を含んでいると思っています。
少年漫画だけだと、視点が一方的になってしまいます。ヒーロー中心主義的なものが多いので、全体が見えにくいんです。それを少女漫画の視点で捉え直すと、実は全体を追える。テレビのヒーローものも同じで、悪者の視点から捉えると全体が見えてきます。「世界全体を見ているのは、ヒーロー側よりも悪者の視点ではないか」と思っているんです。大体の話はまずは悪者から始まるじゃないですか。悪者が悪さをするのをヒーローが退治に行くという。

自分の作品が他の人の作品と違うところはどこだと思いますか?

少女漫画でも普通に終わらない感じですかね。例えば恋愛ものなら、ただくっついて終わるのは嫌で、何かそれに加えたいという思いはあります。例えば昔『風色スイッチ』というアニメをつくったのですが、それはずっと自分が好きだと思っていた人が実は違っていたとか、どんでん返しのようなものが加わったアニメでした。
視点が一方通行なものよりも、あらゆる視点を入れたいという思いがあります。そうすると出版社からは「視点はひとつにしなさい」と結構文句を言われますが(笑)。主人公視点だけでつくるとどんどんつまらなくなると思っていて、裏にどういうものがあるかを見せたいんです。
例えば小学校時代に『アルプスの少女ハイジ』を見ていましたが、わたしはストーリーの後半の方は、ハイジとクララが本当は入れ替わってるんじゃないかと思って見ていました。見ているものが本当のものではないんじゃないかと思っていたというか。ハイジはフランクフルトに行きますが、その中でクララは山の生活に憧れて、ハイジは街が好きになっていたんじゃないかとか考えたりしていました。ハイジとクララがハイジの田舎に帰ったときに、ハイジの友だちのペーターがクララの車椅子を崖から落とすシーンがあります。「あれはハイジがクララとばかりいることに対するペーターの嫉妬だ」と当時みんなは言っていたのですが、僕は「ペーターがクララの皮をかぶったハイジの猿芝居を見抜いて、『こんなものなくても歩けるだろう』という思いから出た行為だと思う」と言ったら、周りのみんなから変な顔をされました。
それは特撮ものについても同じで、「本当はどうなんだろう」という視点を加えたいと常に思っています。『仮面ライダー』も漫画の原作だとショッカーが日本政府を利用するという重いストーリーがあるのですが、テレビだとそういうものが子ども向けに割愛されてしまって、もったいないなと思っていました。子どものころからそういうものを見ていて納得いかない思いがありましたし、そういう思いがあったから、創作に目覚めたんだと思います。

伊勢田さんにとってつくることとは何ですか?

若いころは現実からの逃げ場の部分もありましたが、最近では描くことが生きることだと実感しています。わたしは何も見ずに家にこもって何かをするというよりも、外に出て他の作品やいろいろなものから影響を受けて創作につなげるタイプなので、コンビニに行ったりテレビを見たり、アニメなんかを見たりして刺激を受けています。やめようと思うことはしょっちゅうありますが、気がついたら手が動いている。自分がつくっているものを見て「これは違うな」という挫折はありますが、世の中の人がどう見ているかは気にならないです。気持ちが乗り出したらそのままつくっていく、というのがいまも続いています。

伊勢田勝行 監督作品
『浅瀬でランデブー』オープニング
『婦警ライダー 第1話』
三戸なつめ 『前髪切りすぎた-学園篇-』

*都築響一『ROADSIDERS' weekly』2015年3月25日配信号





アウトサイドの現場から④ 三浦和香子

文と写真・櫛野展正

三浦和香子(みうら・わかこ)
1958年生まれ。富山県在住。同県氷見市にある1949年創業の老舗「よしだや」に28年勤務する従業員。得意の手芸の技を活かし、実際の食品サンプルから型紙をおこし、フェルト生地や毛糸などを使って食品サンプルを再現し制作する。

 北陸新幹線の開通によって、すっかり身近になった北陸地方。富山県の高岡駅から氷見線に乗り換えると、迎え入れてくれたのが『忍者ハットリくん列車』だ。外装から車内の内装にいたるまで『忍者ハットリくん』のラッピングで包まれた列車に、堂々と大人が乗りこむのはどこか恥ずかしく、ハットリくんの「次は~でござる」という観光アナウンスにそっと耳を傾けながら、美しい海岸線に沿って走ること約30分。たどり着いたのが、終点の氷見駅だ。
 漁業の町として知られる人口5万人ほどの富山県氷見市は、藤子不二雄A先生の出身地ということもあり、代表作の一つ『忍者ハットリくん』の登場キャラクターが街のいたるところに(なんとタクシーにも!)点在し、街全体がA先生のワンダーランドと化している。川崎市の「藤子・F・不二雄ミュージアム」を訪れたことのある人は多いだろうが、この街にある氷見市潮風ギャラリー「藤子不二雄Aまんが展」にわざわざ足を運ぶ人はそう多くはないだろう。
 そんな、A先生ワールドの中心地が、氷見駅から徒歩20分の国道415号線沿いにアーケードが続く氷見市比美町商店街だ。近くにあるA先生の生家のお寺・光禅寺の境内には、『怪物くん』『忍者ハットリくん』『笑ゥせぇるすまん』といった等身大のキャラクターたちの石像が並び、どこか「珍寺」の雰囲気を醸し出している。よく考えたら「このサイズのキャラたちが動き回っているのは気持ち悪いものがある」と考えてしまうのは僕だけではないはずだ。そんなA先生色に染まってしまった商店街の多くは、やはりシャッター通りとなっている。実際に歩きまわっている間、観光客らしき集団にほとんど出くわすことはなかった。

 今回の旅の目的地は、そのシャッター商店街の一角にある1949年創業の「お食事処 よしだや」だ。一見すると、田舎のどこにでもある大衆食堂といった雰囲気だが、この店の最大の特徴は、店頭に並ぶ食品サンプルにある。ガラスケースの中に目をやると、驚くべきことに、すべての食品サンプルは毛糸やフェルトなどの手芸品でつくられている。作者は、この店のパート店員、三浦和香子さん。
 1958年生まれの三浦さんは、店から車で30分ほど離れた標高200メートルほどの過疎地・氷見市赤毛で生まれた。小学校のときは1学年19人だったのが、西部中学校土倉分校では本校へ行く人が4人いて、15人になったそう。「ほぼ9年間同じメンバーで過ごしました」という三浦さんは、中学時代はバレーボールに熱中。ところが氷見高校に入ると文芸部や和文タイプ部に所属する文系女子に転身したそうだ。
 卒業後は地元の会社へ事務員として就職し、22歳のころにはお見合い結婚で一男一女を授かった。さすがに二人の子どもの面倒を見ながら事務仕事を続けていくのは難しいと25歳で退職。3年程専業主婦として過ごしていたころ、「よしだや」の求人を聞いて応募。29歳ごろより働き始め、今年で勤続28年を迎えるベテラン従業員だ。
 このお店の旦那さんが洋食の見習いに行って帰ってきたのが、1968年9月。そのとき初めて、食品サンプルは店頭に並んだ。リース料が高かったため、2年後の1970年から買い取りに。これまで40年以上、愛用してきた食品サンプルだったが、ロウでできていることもあり、経年変化と共に変色し汚れも目立ってきたという。

いまから2年半くらい前、汚れて洗っても落ちないしちょうど買い替えの時期でね。わたしは昔から手芸は好きで、孫のためにドーナツをつくったりサンドイッチをつくったりしていたもので、もしかしたら利用できるんじゃないかなと思って提案してみました。家に持ち帰って実際の食品サンプルを紙にあてて型紙をつくったり、器に合うサイズのものに調整したりと、思うように仕上がらなくて何度も縫い直すことはありました。一気にぱっとできるもんじゃなくて、できたものから順番に入れ替えていきましたね。

 思わず足を止めて見入ってしまうフェルト製の食品サンプル。1階は、グランドメニューと呼ばれる定番料理のサンプルが陳列してあるのに対して、2階は、AセットやBセットといったお店独自のメニューが並ぶ。なるほど、これならメニューがいくら増えていっても対応ができそうだ。

小さいときから毛糸とかいじるのが好きで、親が内職で帽子を編んでたりしてたのをわたしも見よう見まねでやっていた記憶はあります。学生のときは、フェルトでイニシャルつきのマスコットをつくって友だちにプレゼントしたり、子育て中は子どもの服をつくったりね。ほとんど人にあげちゃうから、自分のとこには残ってないわ。売ろうとも思わないしね。食品サンプルをつくったころは、当時三歳だった孫娘が高岡市からよく遊びに来てたんで、好きなドーナツや三色団子のままごとセットをちょうどフェルトでつくってました。

 世にも珍しいフェルト製の食品サンプルは、街の人や常連客からは、「柔らかさがあっていい」とか「温かみがあって変わってていい」と好評なんだとか。それにしても、食品サンプルの横に貼りだされた「サンプルはすべて手作りのフェルトでできています。あたたかさを味わって下さい。」という手書きの注意書き。お店自体も味やメニューじゃなくて、食品サンプルの方を全面プッシュしているのが、なんだか微笑ましい。

やっぱり入れ物の容器がないと変でしょ。だから、あの数以外はつくっていないんです。入れ物があって初めて製品になるって感じがしますから。

 そう語る三浦さんは、もちろんいまでも手芸に熱中している。

正月には干支の人形をつくって配ったり、このお店の玄関の花をチリメンでつくったりしてますね。フクロウの飾りとか縁起物をつくることが多いかな。人にあげちゃうから、ほとんど家には残ってなくて。いまは招き猫をつくってます、時期とか関係ないしね。でも、食品サンプルが話題になりすぎて、家族からは「おおごとになったね、どうしょう」って言われてますけど(笑)。

 ここ北陸の地で、『おかんアート』は独自の進化を遂げ大輪の花を咲かせていた。

初出:都築響一『ROADSIDERS' weekly』連載「アウトサイダー・キュレーター日記」





人間の「障害」

文・齋藤亜矢

チンパンジーのアイ
1976年生まれ。77年より京都大学霊長類研究所にて生活。78年より実施されているチンパンジーの知性研究「アイ・プロジェクト」の中で、文字や記号の学習を開始する。本展では、同プロジェクトの一環として創作された絵画を展示。http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/index-j.html

絵筆を持ったチンパンジー

 アイの絵は、すぐにわかる。ランダムな曲線を画用紙全体にちりばめるのが彼女の画風だからだ。京都大学霊長類研究所のチンパンジー、アイである。絵筆を持つと、手首をやわらかく動かして、ためらいなく筆を走らせる。アイだけではない。几帳面に短い線を並べて色ごとに塗りわけて描くチンパンジーに、画用紙が破れてしまいそうなほど往復線を力強く重ねて描くチンパンジー。それぞれの画風がある。
 描くことと引き換えに食べ物を与えているわけではない。つまり報酬目当ての芸として描かされているわけではない。絵筆を動かし、紙の上に自分の動作の痕跡を残す。いわば世界を変容させるような感覚が、彼ら自身にとって「なんだかおもしろい」ようだ。そうして内発的な動機づけから思い思いに走らせる描線に、自然と個性が表れる。
 霊長類研究所では、アイたち6人のチンパンジーに研究に協力してもらっていた。まじめな優等生タイプのアイに対して、マイペースだが意外と強情なパン、ちょっととぼけたポポ。人間に性格があるのと同じように、チンパンジーにもそれぞれの性格があり、それが描線にも表れているような気がする。
 筆者が以前勤務していた京大の熊本サンクチュアリという施設では、60人近くのチンパンジーが暮らしている。60人いれば60人60色。顔も性格も違うので、何「人」とか、あの「人」たち、という方がしっくりくる。彼らは、チンパンジー特有のさまざまな表情や音声、しぐさを使って、複雑なコミュニケーションを行いながら社会生活を送っている。表現される感情や行動は、「それはうれしいね、よかったね」とか、「それは、あの子がひどい、悔しいね」と、自然と共感できることが多い。ときには、こちらがチンパンジー相手に本気でムカツクことさえある。それはヒトとチンパンジーの思考や感情に共通する部分が多いからだ。

 ヒトとチンパンジーが共通祖先から分かれたのは、およそ600万年前のこと。その後、約20万年前に、私たち人間、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生した。その一部は、約10万年前にアフリカを旅立ち、世界中に分布域を広げ、各地で絵を描き、彫刻を彫り、さまざまなアートを生み出した。現在、最古の絵として残っているものは、せいぜい3、4万年前のものだが、私たちのアートする心の基盤は、アフリカにいたときにすでに芽生えていたはずだ。
 進化の隣人であるチンパンジーは、手先もとても器用だ。野生でも、さまざまな道具使用をすることが知られている。たとえば、アリ塚に木の棒をさしこんでアリを釣って食べたり、堅い木の実を石で割って食べたりする。そんなチンパンジーに飼育下で筆記具を与えると、適当に動かすうちに紙と筆記具との対応づけを理解し、描くことができるようになるのだ。

想像する人間

 チンパンジーの絵筆から生み出されるのは、子どもの描くなぐりがきのようでもあり、手慣れた画家の描く抽象画のようでもある。それぞれの画風があるように、まったくでたらめというわけでもなさそうだが、彼らが顔を描いたり、リンゴを描いたり、「なにか」を表した絵を描くことはない。そこが人間と大きく違うところだ。
 チンパンジーが「なにか」を表した絵を描かないのはなぜか。人間の幼児と比較した研究から浮かび上がってきたのは、想像力が関わっていることだった。
 片目がない顔の絵や、輪郭だけが描かれた、のっぺらぼうの顔の絵を用意すると、チンパンジーは、描いてある目を塗りつぶしたり、輪郭を丁寧になぞったりする。しかし、その「ない」目を補って描くことは一度もなかった。人間の子どもならば、2歳後半になるとほとんどが「ない」目を補って描く。つまり人間は、いまここに「ない」ものを想像するからこそ、描線にさまざまなものを見立てて絵を描くことができるのだろう。
 ただし人間も、2歳半ばぐらいまでは、チンパンジーと同じように、描いてある目や口にだけしるしづけをする時期がある。その時期から「ない」ものを補って描く時期に起こるのは、語彙の爆発的な増加である。想像力が生まれる背景には、言葉の発達があることがうかがえる。

 それは、わたしたちが、ものを「なにか」として認識する視覚認知のしくみに関連している。網膜に届いた光の情報は、まず後頭葉の第一次視覚野に送られる。そこから脳内の2つの経路で情報が処理されていくが、ものが「なにか」の認識に関わるのが、腹側経路だ。光の配置の情報が傾きや曲率、図形のパターンなど段階的にまとまりとして処理され、抽出された特徴と既存の知識とを照らし合わせて最終的に「なにか」とカテゴリー化する。言葉を持った人間は、感覚からの情報が不十分でも、似た特徴を持つものを探し、カテゴリー化しようとする。前頭葉からのトップダウン処理によるもので、それが見立てによる想像を生み出す。
 つまり私たちは、目に入るものをそのまま認識しているつもりでも、無意識に言語のフィルターを通して見ている。いわば記号的なものの見方だ。記号化されれば、情報として他者に伝えやすいというメリットもある。「あそこにクマが1頭いた」という情報を伝えられるのは、実際には大きさも色も顔もそれぞれ個体ごとに違うクマを「クマ」とひとつの言葉で表すからだ。
 言葉を持ったことで、抽象的な思考や効率的なコミュニケーションが可能になった人間。おそらく、その副産物として手に入れたのが想像力であり、そしてアートであったのではないかとわたしは考えている。

獲得と喪失

 しかし、進化はかならずしも進歩ではない。新しい能力を手に入れることで、犠牲になるものがある。進化の過程が、つねに獲得と喪失のトレードオフによって成り立っているというのが、イギリスの心理学者ニコラス・ハンフリーの説である。そのなかでハンフリーは、人間は言葉を手に入れたことで、ものをありのままに写真のように知覚し記憶する能力を失ったのではないかと指摘している。「直観像記憶」や「映像記憶」と呼ばれるものである。
 霊長類研究所でおこなわれたチンパンジーの記憶力の実験がそれを裏づける。アイたちは、数字の順番を覚えていて、タッチスクリーン上にランダムに散らばった数字を小さい順に触れて答えることを学習している。このとき、一番小さな数字に触れた瞬間に、他の数字がすべて四角で隠されてしまう条件を提示すると、記憶を頼りに、四角に置き換わった数字を小さい順に触れて答える。ここで、アイの子であるアユムをはじめ子どものチンパンジーたちが驚くべき記憶力を示した。数字が表示されてから、スタートの1に触れるまではほんの0.6秒ほど。その短時間に配置を覚え、すばやく正確に答えていく。人間よりもずっと優秀な成績だ。
 私たち人間が同じ課題をするときは、一般的に、数字の配置を1,2,3...と一つひとつ確認して覚えようとする。その分だけ時間がかかるし、位置情報と合わせて記憶するのも大変だ。しかし、チンパンジーは、数字の配置をカメラのように直観像として記憶しているのではないか、そんな可能性が示された。

 言葉を得たことと引き換えに直観像記憶を失った私たち。代償はそれだけでなく、実はそのことが、写実的に絵を描くときの足かせになっている可能性もありそうだ。
 小学校高学年のころ、校庭を写生していて、桜の木の枝ぶりを描くのに苦労した覚えがある。木の枝一本一本が目ではきちんと見えているつもりなのに、いざ画用紙の上に表現しようとするとうまくいかない。たくさんの情報があふれ過ぎていて、とうてい無理に思えたのだ。結局、適当に枝分かれをつくってごまかしたが、見えているつもりなのに描けない。そんなもどかしさを感じた。
 それは、記号的な絵を描くときと写実的な絵を描くときの認知的な過程が、根本的に違うことが関連している。子どもが描く絵は、きわめて記号的だ。線と円を描けるようになれば、それを組み合わせるだけで、顔でも、花でも表現できてしまう。やなせたかしさんのアンパンマンがこんなに愛されるのはなぜなのかも納得だ。円や曲線など、小さな子どもでも描きやすいパーツを組み合わせるだけで描けるからだ。
 つまり発達的には、記号的な絵から始まる。これが目で、これが口で、と一つひとつのパーツを「なにか」として記号的に見立てて描く絵だ。いっぽうで、写実的な絵を描くときには、「なにか」としてカテゴリー化される以前の線の傾きや曲率などの一次的な視覚情報が必要だ。だから、デッサンのトレーニングは、単に手技的な訓練というわけではない。記号的なものの見方をいったん弱め、記号として処理される以前の低次の視覚情報にアクセスする認知的な訓練でもあるのだろう。
 ナディアという女の子は直観像記憶の能力を持ち、4,5歳のころから、一度見た絵本の挿絵をすっかり記憶して写実的な絵を描いたということが知られている。しかし言語訓練によって言語能力が発達すると、まるで別人のように、子どもらしい記号的な絵を描くようになった。言葉の発達にともなって、「なにか」として見る記号的な見方が優位になったからなのだろう。

人間の「障害」

 子どもにとって、世界はまだ見知らぬものに満ちている。目に入るものに手当たり次第に手を伸ばし、戸惑うことなく口に入れ、文字通り五感を使って世界を知っていく。毎日が刺激に満ちた瞬間の繰り返しだ。しかし大人になればなるほど、身の回りにはすでに見知ったものが増えていく。五感を使って確かめるまでもなく、目に入るものを「なにか」とカテゴリー化すれば、日常は問題なくまわっていく。道端につまずきそうな石が落ちていないか、雲が雨雲ではないかは問題だが、石ころにうずまき模様があって、触ったら冷たくすべすべしていることや、雲がクジラのような形をしていることは問題ではないのだ。
 そうやって見たものを瞬時にカテゴリー化する、つまり既存の知識の枠組みに収めるような記号的なものの見方は、とても効率的だ。しかし価値観が固定されるので、その価値のなかでの優劣や善悪が決まってしまう。当然、息苦しさも生まれる。そんなとき、アートこそが、既存の枠組みを壊す力があるのだと思う。アーティストが独自の切り口で、新しいものの見方を示してくれる。軽やかに枠を飛び越え、新たな価値を見出して示してくれるからだ。
 進化の過程で私たちが言葉を獲得したことは、複雑なコミュニケーション能力や想像力を生み出し、人間らしい社会や文化の創造に、なくてはならない出来事だった。しかしそのせいで、認知的にも心理的にも枠をつくり、自らがつくった枠にとらわれやすくなったようにも思える。それはいわば、私たちの抱えている「障害」であり、だからこそ、その「障害」を乗り越えることのできるアートに惹かれるのではないだろうか。

参考文献
ニコラス・ハンフリー, 垂水雄二訳『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』, 紀伊國屋書店, 2004年
松沢哲郎『想像するちから』, 岩波書店, 2011年
齋藤亜矢 『ヒトはなぜ絵を描くのか―芸術認知科学への招待』, 岩波科学ライブラリー, 2014年



齋藤亜矢(さいとう・あや)
京都大学理学部、医学研究科を経て、東京藝術大学美術研究科修了。博士(美術)。現在、京都造形芸術大学准教授。認知科学からアートにアプローチしている。著書に『ヒトはなぜ絵を描くのかー芸術認知科学への招待』(岩波書店)など。






アウトサイドの現場から⑤ 西川正之

文と写真・櫛野展正

西川正之(にしかわ・まさゆき)
1945年生まれ。三重県在住。1979年、長男にせがまれてつくった角凧がきっかけで、現在に至るまで、昆虫や鳥、水生生物などさまざまなかたちの立体凧を制作し続けている。

 三重県伊勢市にある近鉄宇治山田駅。真向かいにある明倫商店街のすぐそばには、読売ジャイアンツ草創期に活躍した投手、沢村栄治の生家跡地がある。そんな名投手を生み出したこの地で、本物そっくりな立体凧を制作し続けている西川正之さんを訪ねた。

 西川さんは、昭和20年三重県多気郡明和町に生まれた。あるとき、次男だった父親の「田舎におったんではいかん」という一言で、伊勢市常磐町の呉服屋へ家族で丁稚奉公に。そこの呉服屋を間借りして暮らしていたが、西川さんが小学校5年生のころ父親が独立。宇治山田駅前にある明倫商店街の中に店を構えた。いまはシャッター商店街だが、当時は夜9時半まで商売するほど賑やかだったそうだ。両親が共働きで、4つ下の妹は祖母の家で暮らしていたため、小学校から帰ると自分で鍵を開けて帰宅する日々だったという。そんな西川さんの趣味は、絵を描くことだった。

中学校1年のときに足が速くて運動会で一番になったもんで、先生の勧めで陸上部に入ったんやけど、やっぱしエラかったもんで途中で辞めました。それからは、ずっと帰宅部です。昔から、絵を描くのが好きで写生大会があるとよく賞をもらってました。
勉強は中学校1年までほとんどしませんでした。勉強するきっかけをつくってくれたんが中学2年のときの女性の先生。額にイボがあったんで「大仏」と呼んでました。その先生は普段から問題を出すんです。そのときから朝から晩まで、外へ出んと勉強してました。


 倉田山中学、伊勢高校を卒業した後は、京都の立命館大学経済学部へ。卒業後は、労働金庫に勤務。27歳のときお見合いで知り合った奥さんと結婚し、2人の子どもを授かった。

 そんな西川さんが立体凧をつくりはじめたのは、当時6歳だった長男の「お父さん、凧つくって」という一言がきっかけだった。いまから36年前、西川さんが34歳のときのこと。
わたしは小学校3年生のころ凧と出逢いました。そのころ駄菓子屋に売ってた凧を親にねだって買ってもらって、学校のグラウンドで揚げて楽しんだ。市販の凧でも揚がったら嬉しい。ほやったら、親がつくって揚がったらもっと喜ぶだろうと思って、忘れもしません1月12日の帰宅後、夜9時から翌朝3時まで制作しました。

 「初めてつくった凧の現物はないです」と見せていただいた写真に写っていたのは、当時流行していたドリフターズのテレビ人形劇『飛べ!孫悟空』が描かれた手づくりの凧だった。

1月13日の朝、長男を起こして外を見ると非常にええ風が吹いとったので、近くの河川敷へ試しに揚げに行ったら、たまたま「伊勢市タコ揚げ大会」が始まるとこでエントリーしてみたんです。いまでも鮮明に覚えておるんですけど、参加者は200名くらい。西風が非常に強かったので、『飛べ!孫悟空』の角凧に長い布のしっぽを真ん中につけたら非常によく揚がった。1時間半揚げた後、戻ったら審査員から「入賞しとる」と。長男が揚がった凧を見て非常に喜んだんで、「これはつくってよかったな」と。そのとき初めて、立体の凧が揚がっとるのを見たんです。立体と言うと花火と同じでどこから見ても絵になる。それで「立体の凧をつくりたいな」と思いました。


一念発起した西川さんは、休日を立体凧の制作に費やすようになった。土曜日は徹夜することもしばしば。

翌年の2作目は、天狗の絵を描いた角凧で、これも入賞しました。3作目は、カモメの立体凧をつくりました。これがなかなか揚がらんでね。鳥に長い尻尾をつけたら揚がるんですけど、それは格好悪い。だから、毎週日曜日に揚げに行ってバランスを見るんです。細い竹ひごでできてるから落ちたら折れる。折れたら、また修理して揚げに行く。これが2年かかりましたけど、この期間が自分にとっては良かったなと。

 57歳で退職し、現在は自宅で制作に没頭する日々。退職後制作のペースは落ちているものの、スケッチや設計図も一切書かないという立体凧は現在までに100体以上は制作され、部屋の中はまるでジャングルのよう。特に蝉やカブトムシなど従来の大きさを遥かにしのぐ昆虫の立体凧は圧巻だ。

鳥の凧だけつくる人は全国におりますけど、鳥は2枚の羽根で済むから絶対に技術が上がりません。しかも、鳥は実物を見ながらつくれんでしょ。鳥の剥製を借りるとかせんとね。だから、昆虫がええと。採集できるし4枚の羽根があるから微風でも揚がる。
 
 制作のモチーフになったのは、鳥や昆虫など空を飛ぶものだけに留まらない。昆虫の後は、青空を水に見立てて魚や金魚なども制作。やがて材料となる竹の研究にも没頭していったようだ。

凧の骨組みには真竹を使ってます。これは柔軟性があるから折れない。竹を割って竹ひごをつくり、竹同士は速乾ボンドを塗って糸で結んでます。凧をつくっとる人は竹の知識があんまりないんです。もちろん竹は購入してますよ。「西川さん、よその所で竹切っとったわ」って言われたら信用問題にも関わるからね(笑)。
 研究に研究を重ね、余分な尻尾など一切つけず、本物に似せるように細部にまでこだわって制作された立体凧。凧の骨組みに貼っていたのは、何と実家の呉服店で余っていた布だった。これなら強度も保てるし、濃淡を出すために布には点描が施されており、西川さんのこだわりがうかがえる。
 そんな西川さんはとにかく勤勉だ。いまも毎日英語を勉強し、最近では水墨画や似顔絵にも取り組んでいる。部屋の中は、作品と同じくらい資料も充実しているし、何より高校3年間使って表紙がなくなりボロボロになった辞書もある。「子どものために」と始めた制作は、子どもがすっかり成人してしまったいまでも続いている。人生の中でここまで没頭できるものに出逢えた西川さんは、とてもうらやましい。
 そして、お話の最後に「やっぱり凧が揚がる空は、平和なんです。だから日本から凧が消えたらえらいことになる」そう呟いた。安保法制で国全体が揺れ動く現在、その一言はズシンと僕の心にいまでも響いている。


初出:都築響一『ROADSIDERS' weekly』連載「アウトサイダー・キュレーター日記」




四つの眼球のある風景

文・百瀬文

百瀬文(ももせ・あや)
1988年生まれ。コミュニケーションに内在する虚構性や曖昧さを可視化する映像作品を制作。本展では、視力検査の場面を題材に、医師/被検者間で交わされるメッセージが恣意的に解読されていく様子を描いた『The Examination』を展示。http://ayamomose.com/

 以前別の場所でも書いたことがあるのだが、子どものころ、メガネをかけた友人に何気なく「いいな、それ」と言って「軽く言うな」と怒られたことがある。当時から非常に視力の高かったわたしとしては「くっきりした世界」と「ぼんやりした世界」の二つの世界のあいだを旅行者のように軽やかに行き来している彼女のことが、単純に羨ましかったのだ。それゆえにわたしは「世界がぼやけて見えるメガネ」のことをよく妄想し、なぜそれが世の中で販売されないのか考えたものだった。それから幾度もわたしはメガネをかけた人々と出会ってきたが、彼らが語るところの、風景から雑多な情報がそぎ落とされてただの色彩のかたまりに還元されるという異世界の話は、彼らとわたしがいまここに座って同じ景色を眺めているという現実感をその都度曖昧なものにするのであった。

 今回わたしが『障害(仮)』展に出品した映像作品『The Examination』(2014年)は、前述したような「自らが何かを見ていることの不確かさ」への関心から制作した作品である。
 作品の主題に、わたしは誰しもが幼少期から経験してきたであろう「視力検査」を選んだ。「C」のようなかたちをした、いわゆる「ランドルト環」を使用したこの検査は、日本においては明治時代からすでに学校現場の中に取り入れられていたという。今回の撮影にあたっては実際に検査を実施するために「医師」と「被験者」という二つの立場を用意する必要があり、「医師」には都内に眼科医院を構える眼科医の大木隆太郎氏にご協力をお願いし、「被験者」には作者であるわたし自身を起用

『The Examination』(2014年)

した。
 映像の内容としてはこのようなものだった。まず「医師」である大木氏がリモコンを操作し、検査機の画面にランドルト環を大きいものから順番に表示させる。「被験者」であるわたしはそれを見て、輪の欠けた位置を彼に示す。ここまでは、いわゆる一般的な視力検査とプロセスは同様である。
 そこで「被験者」であるわたしは、輪の欠けた方向を「→」や「↑」などの矢印という記号によって手元のホワイトボードに書くことで、彼にそれを視覚的な情報で伝えることを試みる。その矢印の方向によって、「医師」はそのランドルト環が「被験者」に「正しく」見えているかどうかを判定するのである。通常の視力検査の進行通り、表示されるランドルト環は大きいものから小さいものへと順番に変化していき、被験者の判断のスピードもだんだん遅くなっていくのだが、そのランドルト環の大きさに呼応するように、わたしがホワイトボードで指し示す矢印の大きさもどんどん小さくなっていく。それゆえに、本来絶対的な責任でもってそれらを判定しなければならないはずの「医師」も、あるタイミングから目を細め始め、だんだんと自らの視力の限界を思い知らされることになる。この検査では、「医師」と「被験者」の互いにとって、等しく困難な試練が与えられる。最終的に「医師」は自らの口で検査の終わりを告げ、「被験者」であるわたしの視力を判定してくれるのだが、それは彼の想像によって導き出されたかりそめの空虚な数値でしかない。
 ここで、今回の『障害(仮)』展の出展の経緯について考えてみたい。もともと本展については当初キュレーターである櫛野さんから別作品の出品を依頼されていたが、最終的にわたしはそれとは異なる今回の作品を出展するに至った。いささか長くなるが、この場を借りてまずその話をしておこうと思う。
 

『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』(2013年)

本来出品を予定されていた作品はわたしが2013年に修了制作として発表した『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』という映像作品であった。その作品は、自ら聴覚障害を持ち、建築および視覚文化論の研究者として活動している木下知威(きのした・ともたけ)さんと、作者であるわたしが、「声」にまつわるさまざまな事象について実際にお互いの「声」を使いながら対話する様子を撮影した作品であった。木下さんはいわゆる聾者であり、彼には他者の声のみならず自分自身の声も聞こえない。彼は幼少期に「手話教育」「口話教育」の両方の教育を受けているため、人の唇を読み取って会話の内容を理解し、自らもまた声を発することができる。ゆえに、彼はわたしの唇のかたちをじいっと読み取りながら、一方わたしは彼の決してはっきりとは聞こえない声に耳を澄ましながら、互いに注意深く対話を続けていくことになる。対話の中で木下さんは、聴者(聾者の世界では健常者のことをこう呼ぶそうだ)と聾者の間でかなり認識の異なるであろう「声」の持つイメージについて、独特の語彙で魅力的に描写していく。私たちが会話の中でしばしば感じる、相手の声の聞き取りづらさなどの音声的な意味での「ノイズ」は、木下さんにとってはちょうどトランジスタ・テレビの砂嵐のような視覚的なイメージでのノイズとして認識される、といったことや、木下さん自身は一見不安を覚えそうなそのノイジーな状況を面白い風景として楽しんでいることなど、木下さんから語られる話題は多岐に渡り、聴者たちの認識に揺さぶりをかけ続ける。
 そうしていく中で、途中からインタビュアーであるわたしにひとつの変化が訪れる。先述したように、木下さんはわたしの唇のかたちを読み取ってわたしの声を認識している。わたしはだんだん「同じ唇のかたちをしているけれど、違う音」を対話の中に仕込ませ始めるのである。「こんにちは」という唇のかたちをしながら「とんちには」という音を出すように、「同口異音」とも言えるようなタスクを、自らの唇に課したのである。もちろんそこには微妙な不自然さがあるはずだ。木下さんが対話の中で「『たまご』と『たばこ』の違いなどは会話の文脈で判断している」と話している部分があるが、そこには常に相手の声を受け止める側の、絶え間ない想像力による補完があるのである。その状況については、そこで起こる誤読の可能性の問題も含めて、聴者も聾者もまったく立場は変わらないはずなのだ。
 映像の下の方には、わたしが喋っていることを「理解」するための字幕が表示されている。この映像を鑑賞している「聴者」は、最終的にこの字幕を見ることでしか内容を理解できなくなり、いわばこの対話から置き去りにされたような状況になる。その間も、意味不明な音を発し続けるわたしと不明瞭な日本語を話し続ける木下さんの対話はとどこおりなく継続され(それはこのインタビューが「かつて行われたインタビューの再演」であるということからくるスムーズさであることは忘れてはならない)、やがてわたしは最終的に音声すら発しなくなり、いわゆる「口パク」と呼ばれるように唇だけを動かし続ける。そしてその静寂の中に木下さんの声だけが響き渡る中、唐突にインタビューは終了する。
 声が「聴覚情報」であるという定義は、そもそも木下さんの知覚世界にはあてはまらない。そのように異なる知覚世界で生きる者たちが、どうにかして同じ地平でコミュニケーションすることは可能なのか、というのがこの作品の主題だった。そしてそれが決して生易しいことではないこともこの作品中で明らかにされることになる。

 櫛野さんからこの作品の出品依頼が来た時点では、『障害とは何か?』という仮段階での展覧会タイトルがついていた。最初に出品を躊躇してしまったのは、たとえそれが考察を促すための「障害」という言葉の使い方であったにせよ、いったん木下さんに「障害者」というフレームを与えてから鑑賞が始まる構図になってしまうことに作者として少なからず違和感を感じたからである。この件に関しては、木下さんも交えながら何度も櫛野さんとメールの応酬を重ねた。
 わたしは木下さんに「障害者」として出演してもらったのではなく、「別の知覚世界に生きる人」として出演してもらった、という認識があった。イメージとしては「特殊能力を持っている人」にも近かったかもしれない(いったい木下さんの部屋で大量のCDとステレオを見つけたときの衝撃をどう表現したらいいだろう?彼はその特殊能力によって、スピーカーに触れながらオーケストラの振動を「聴く」のである)。ゆえに、彼と鑑賞者の出会いはもっと、不意に現れる白昼夢のような、しかし同時に自分たちのよく知る懐かしさもある、そんな両義的なかたちで起こるべきだとわたしは感じた。作品タイトルの一見挑発的な「聞こえない」という言葉にしても、いったい「何が」聞こえないというのか、聴者たちはそれを描写する言葉すら持っていないのである。
 展覧会の当初の時点での出品作家リストには、作家によってはプロフィール欄に「~障害を持っている」といったような説明文が添えられていた。わたしはこの文章を削除してもいいのではないかと、櫛野さんに個人的な感想を伝えた(そして最終的にはそのような非常にフラットな作家紹介になっている)。この展覧会が目指すのは「誰々がこのような障害にもかかわらずこんなにも素晴らしい作品をつくった」ことを提示することではないはずだと思ったのもあるが、展示の構成として見たときに「誰がどんな能力を隠し持っているかわからない」状況で個々の作品と対峙する方が、よりスリリングなのではないかと想像したからである。そしてそれは同時に鞆の津ミュージアムが目指している世界の模型でもあるのではないかと、勝手ながらわたしにはそう思えた。それは障害の有無を問わず、誰もがそれぞれの理由で不完全さを抱えながらも、ふいに触れあってはすれ違いを繰り返す、そんな現実をそのまま静かに受け入れるような世界だ。
 そのようなやり取りの途中で櫛野さんから頂いた別作品の提案が、先述した『The Examination』であった。さまざまな知覚世界を持つ作家たちの作品が集う空間の中に、この作品が置かれた状況を想像すると、何だかとても適切な風景であるような不思議な直感があった。最終的にわたしはその作品を展示する旨を櫛野さんにお伝えした。
 わたしは今まで、継続して不均衡な関係というものに関心を持って制作を続けてきた。というより、こちらがカメラという装置を持って彼らにアプローチする以上、被写体との出会いは常にそこを平坦にならすところから始まらざるをえなかったとも言える。”shoot=撃つ/撮る”という暴力的な言葉の二重性を持ち出すまでもなく、わたしはその不均衡性を受け入れた上で、なお「こちらもまた彼らに射抜かれる」可能性がある状況をいかにつくれるか、ということを考えていた。もちろんそれは非常に感覚的に行われる判断でもあり、現場で被写体とコミュニケーションをとりながら随時そのような状況が生まれやすい環境を二人でつくっていく、というような作業がしばしば行われた。
 今回出品した『The Examination』の撮影の中で新鮮だったのは、「医者」と「被験者」という関係を考えたときに、いつもの撮影現場とは違う不均衡性が最初からフォーマットとして存在していたことだ。外部から自分のからだを見定められ、何かしらの基準によって「診断」されるということ。そもそも病人とは、誰かが彼にその病の名前を告げた瞬間にこの世界に誕生するのである。
 この作品は、いわゆる「健常者」のみで撮影された作品である。しかし、その「身体検査」というフォーマットには、戦時下の徴兵制を例に出すまでもなく、本来一言ではとても表現できないはずの「からだ」というものを数値によって分類し、管理するという確かな政治性が存在している。そして紛れもなく「障害」の有無とは、まずこの「身体検査」が行われることによって明らかにされてきたのである。
 しかしわたしが設定したこの特殊な場においては、検査する者も、検査される者も、自分たちが漠然としたグラデーションを生きる曖昧な身体であることを明らかにするだけにすぎない。そこでは、医者の特権的な視座というものが最初から奪われ、絶対的な数値を付与することを永遠に遅延させられ続け、検査というシステム自体が破綻している。つまりそこでは、「医者」が「被験者」をまなざす存在であると同時に、「医者」もまた同時に「被験者」にまなざされる(=見返される)存在でもあるのだ。すっかりぼやけてただの黒い点になってしまった無意味な記号を互いに細い目で見つめながら、私たちはそこで初めて自分たちが等しく「最初から限界を抱えた身体を生きている」ことを知る。先にその記号の意味を認識できなくなったのは、わたしの方かもしれないし、彼の方かもしれない。私たちのまなざしにおける対話は、途中からそれぞれの独り言になっていたのかもしれなかった。そこには「眼球」という、「わたしにだけ見える世界しか映し出してくれない」不完全な視覚装置を抱えた、二体のからだのいびつなコミュニケーションがあるのみなのである。
 『The Examination』の最後のシーンで診断表に書かれたうすっぺらな数値には、何の意味も効力もない。その瞬間を共有した二人でその数字を受け入れることこそが、この作品で一番重要なことのように思われた。それはこの無言の密室の中で、自分たちの不器用な想像力が残していった微かな澱のようにも思えたのだ。

このからだの中からわたしたちはどこへも行くことができない。あなたとわたしが同じものを見ている保証はどこにもない。しかしそこで嘆き崩れる前に、「もしかしたら、わたしたちはよく似ているのかもしれないですね」と、隣の誰かに話しかけてみることはできるのである。






福祉と美術の間で

文・櫛野展正

 「障害」という言葉は本来「さしさわり」や「さまたげ」という否定的で差別的な意味があり、「障害者」という言葉も、健常者中心社会の否定的なまなざしを反映したものだ。しかし、「障害」と「障害者」の定義は非常に相対的なものであり、ある人が「障害者」と見なされるか否か、ある状態が「障害」と見なされるか否かは、時代や立場により全く異なっている。それにも関わらず、我が国には「健常者アート」はなく、「障害者アート」という独特のジャンルが存在している。これを何と呼ぶかについて、これまでさまざまな議論が展開され、「エイブル・アート」「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」「ポコラート」「チャレンジド・アート」「ボーダレス・アート」「ピュア・アート」など、「障害」という言葉が持つ否定的イメージを払拭するためか、たくさんの横文字のワードが生み出されてきた。しかし、障害のある人自身が自らの表現行為を「アート」と自覚しているケースは少ない。現在、「障害者アート」の主流は主に知的な障害のある人たちによる創作であり、彼らはコミュニケーションの面で障害を抱えている人が多く、第三者がその真意を完全に理解することは難しい。
 例えば、福祉施設での支援は常に「こうであるかもしれない」という仮説の連続で動いている。障害のある人のいわゆる「問題行動」に対して、優れた支援者は瞬時に複数の仮説を立て、それを当事者の振る舞いなどから消去法でひとつずつ消していく。最終的にひとつの支援方法を実践していくわけだが、その結果も本人が「楽しそうにしていた」「笑っていた」という外見に基づいて判断しているわけだ。つまり、限りなく正解に近いかもしれないが、100パーセント正解かどうかは誰にもわからない。それがある意味、障害者福祉に携わる仕事の面白さであるともいえる。

 一方で、障害のある人たちの芸術活動に目を向けた場合、「衝動のおもむくままに」「純粋無垢」「魂の鼓動」「ユートピア」など、彼らが創作したモノに対して、画一的なステレオタイプ化した語り口をよく目にすることがある。もちろん、これらは当事者たちの発言ではない。コミュニケーションが十分取れない障害のある人たちにとって、本人の意思を十分読み取れないままにそのように解釈される語り方は、果たして正解といえるのだろうか。それは僕がこれまで日常のつきあいを通して知っていた、多様で生々しい障害のある人の姿とはかけ離れたものだ。こうした想いが、『障害(仮)』展を企画するきっかけとなった。
 僕は鞆の津ミュージアムの母体である知的な障害のある人たちの福祉施設で、2000年より生活支援員として働いてきた。就職して木工班の担当になり、障害のある人たちが植木鉢の下に敷く木の板を磨くという単調な作業光景を目にする。作業をしている彼らの顔があまり楽しそうでなかったこともあり、もっと障害のある人たちが自己主張のできる機会や場所づくりが必要だろうと考え、すぐに作業を中止し、生活支援業務と並行しながら本格的に絵画活動をスタートさせた。その後、全国で障害のある人の芸術活動に取り組む施設や団体を数多く訪問し、そのノウハウを学びながら自らの施設で実践していくうちに、施設で暮らす障害のある人たちの中からたくさんの魅力的な表現が生まれていった。例えば、シャガールの『私と村』という名画を模写してもらったとき、ある人はその名画の一部分のみを独創的に模写して僕を驚かせた。また、体の中に流れる音に呼応するかのように、常に踊り続けるダウン症の男性もいた。そうした既成概念にとらわれない自由で独創的な表現こそ、障害のある人たちの芸術表現の魅力だろう。
 こうして芸術活動の支援を長年続けてきた結果、福祉施設に暮らす障害のある人たちが、ニューヨークのギャラリーと専属契約を結んだり、パリでの展覧会に招待されたりと一定の成果をあげてきたものの、「本当にこれで良かったのだろうか」と僕はいまでも自問自答を続けている。
 作業支援や就労支援が主だった時代にくらべ、芸術活動は確かに障害のある人たちの社会参加の一助になっていることは間違いない。しかし、展覧会に出展する際や商品化をすすめる際、主導権を握っているのは担当スタッフであり、その一挙手一投足で大げさに言えば彼らの運命は大きく変わってしまう。公募展で入選するなどして「才能がある」と見なされた障害のある人たちは、まるでベルトコンベアーに乗せられるかのように日々絵を描いたり粘土をこねたりする生活を送るようになるかもしれない。僕たちは、美術業界の中へ無自覚に障害のある人たちを投入している現状に気づくべきであり、その危険性をもっと認識する必要があるように思う。
 また、展覧会に出展し評価を得る人、作品が商品化され収益を上げる人など数々の成功事例の裏で、福祉施設スタッフという一人のキュレーターの手により、黙殺されさまざまなチャンスを失っている人も多いのではないだろうか。例えば自分の名前や好きなものや特定の記号を繰り返し描くなど、障害のある人たちの表現行為には特定のパターンが多く見られ、既にそのようなパターンで表現する著名な障害のある「作家」がいる以上、悲しいことにそうしたパターンを追随し表現する障害のある人たちは、二番煎じと見なされ、評価されにくいのも現状だ。さらに、絵画や木工や陶芸や織物といった福祉施設側が提供する活動の枠外で表現する人たちは、よほどの審美眼をもったスタッフが傍にいない限り、それ自体が「表現」とすら認識されていない場合もある。そうした枠外の表現をどう拾い上げていくかが今後の課題だ。
 そして、近年はものとしての「作品」だけではなく、生き方や行為、さらにはそれを取り巻く環境や関わる人など、より複合的な視点から障害のある人の価値が論じられるようになっている。そのような表現が多く紹介される背景には、美術の分野において作品だけが評価されていく過程で、その創作現場にある魅力や豊かな関係性が削ぎ落とされていることに気づき始めた人がいるからだ。そうした人たちは、障害のある人たちが生み出した表現を積極的に評価し、社会との橋渡しを続けている。彼らは支援するという役割だけではなく、障害のある人と社会との代弁者を担っていることが多い。ある意味、障害のある人とその支援者は表現行為において共犯関係にあるといえる。ならば、支援者にはより慎重で真摯な姿勢が求められるだろう。
 さらに、ヴィヴィアン・マイヤーやヘンリー・ダーガーの例を挙げるまでもなく、つくることだけで表現行為が完結し、制作者本人がその後の公開を望んでいないケースは多くある。だからこそ、こうした表現は発見者の存在が必要とされる。目の前の表現にアートとしての価値があるかどうかは、それを鑑賞する側から発見され付与されるものだ。つまり、それを作品として評価をする人がいるかどうか、社会的にそれが作品と呼べるほどの芸術性を持ち得ているかどうかは、過去の類似作品をもとに第三者により相対的に判断される。しかし、それでも彼らの表現したものが第三者に何らかのインスピレーションを与えるならば、それをアートとして積極的に社会へ提示していくべきだろう。

 かつて欧米では美術のアカデミズムの枠外にいた障害者たちは、表現の独自性に注目が集まりアーティストたちにインスピレーションを与える存在と考えられていた。一方、日本では福祉の文脈と結びつき、障害者社会運動の手段として独自の発展を遂げてきた。この歴史的経緯や福祉観の存在が、「障害者アート」を複雑なものにしている。例えば「障害者アート」という安易なカテゴライズは、世間に障害者固有の表現があるかのような印象を与え、「障害者がつくりだすものはどれも優れている」という誤解さえ生み出してしまう。確かに障害のある人がつくりだす表現は独創的で目を見張るものがある。しかし、黒人の足がすべて速いわけではないように、障害者だって秀でた表現ができる人もいればそうでない人だっているのだ。これでは障害のある人はどのような表現をしても善意の対象となり賞賛されてしまう。「障害者は社会的弱者であるから批判してはならない」という心理が働いた場合、個別の芸術性を問うことは遮断される。それは本来の芸術鑑賞とは全く別のもので、障害のある人がつくりだす表現が往々にして芸術批評の対象とならないことが多いのもそのためだ。そして、そうした賞賛によって心理的な差別意識が解決されると、まるで障害者の現実における疎外状況や社会的困難まで解決されたような気になってしまう。
 いまだに障害のある人が社会的不利益や誤解を受けていることは事実である。そうした解決すべき事態を無化して、安易に障害者と健常者の境界をなくしてしまうのは大きな間違いだ。芸術的側面と社会的側面の問題は慎重に配慮して考えなければならない。ゴッホや草間弥生が精神的疾患を抱えていたことはよく知られているが、彼らが「障害者アート」の枠で語られることはほとんどないように、まず問われるべきは作品性でありその属性ではない。
 ところが、障害のある人の作品は、作品よりもその背後にあるストーリーを重視されることが多い。どんな障害がありどんな人生を歩んで、作品制作に至ったのか。皮肉なことにそのストーリー性こそが、作品の価値を高めているといってよいかもしれない。そして、作者のことなど本人以外にはわかるはずがないのに、鑑賞者はそのストーリーに対して勝手な思い入れを抱き、作者と自分を重ね合わせ極度の自己同一化を図る。つまり、見る人によってさまざまな解釈がつくり上げられ、ある意味勝手な憶測や別のストーリーが横行していくことさえある。健常者が見ているのは、健常者が捏造した「障害者」像に他ならない。障害のある人に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護したり、憐憫したりする前に、自己のあり方を相対化し省みなければならない。人は誰でも何らかの「障害」を持つ可能性を秘めている。まずは鑑賞者がその可能性を自らの問題として真摯に引き受けることが必要だ。そして、そこで最終的に問われる作品の質とは、人を感動させるものなのかそうじゃないのかということだけだ。

 ここ数年、厚生労働省や文化庁の後押しもあり、障害のある人たちが「作家」として紹介される機会が増えている。全国どこかの地域で常に展覧会が開催されているような状況であり、いまや障害のある人たちの芸術活動は大きな盛り上がりを見せている。こうした芸術活動の興隆により、「才能がある人/ない人」という優劣が福祉現場の中で生まれてはいないだろうか。支援者は、本人の意思とは無関係に、自らの実績づくりのため「入選させること」に必死になってはいないだろうか。目の前にいる障害のある人が描いた一枚の絵画、それは本当に本人の意思によるものだろうか。たまたま画材が準備されていたから描いたという可能性はないだろうか。このような状況だからこそ、「何のため、誰のため」に支援しているかを、もう一度熟考する必要があるように思う。



櫛野展正(くしの・のぶまさ)
知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサーダーアート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。





小さい世界像の断片を奇集する館

文・ヴィヴィアン佐藤

 盲目の作家ボルヘスは、ある一つの文学作品中に描写されている本質的に異なる要素群をラテン語の「disjecta membra」(ばらばらになり、散乱した陶器片という意)と喩えた。

 鞆の浦。数々の万葉の歌にも詠まれ、中世の足利氏の創始と終焉のこの地で、「鞆幕府」とも呼ばれていた歴史的風光明媚な景勝地。その地に構える鞆の津ミュージアムは、ミュージアムの有り様やそこでの展覧会の企画意図そのもの、もしくはミュージアム側の情熱や欲望が、唯一無二でユニークである。

 そこで開催される企画展は、一人の人物や作家に焦点を当てる、いわゆる個展や回顧展というかたちをとってはおらず、数名の作家たち(ときには「作家」という言葉では括ることができない人たちも含む)によるグループ展や、日本中に散らばって埋もれている作品(現象)群の提示という展示形態が最大の特徴である。それらの作品(現象)を発見し、分類し、ある枠組みを与えるという行為。それは同時代的にこの社会に存在するいわゆる「現代美術館」や「博物館」、あるいは「ミュージアム」といわれる施設の役割や在り方そのものに深く関わってくる問題意識である。そしてそれはまた、展示物を定義し、分類し、多くの「境界線」の意味を問うものともいえる。

 鞆の津ミュージアムの母体は福山市にある社会福祉法人であるが、このミュージアムが扱うのは一般的にいうところの障害を持つ人々に限ったことではない。それ以外の、美術家やアーティスト、クリエーターといわれる人々から、漫画家、商業施設の経営者、発明家、占い師、調理師、漫才師、無名の人々まで、さまざまな分野から選出されている。ある社会的な既成概念の枠組みや、昨今の多くの美術館の常識、表層的なポリティカルコレクトネスを問い、それをまったく無効にさせる試みである。それは、従来の「アウトサイダー・アート」や「エイブルアート」という言葉さえ無意味なものにし、むしろその言葉の解体にすら挑み、その結果差別を生んでしまう構造自体を逆説的に自明のものとする。その点において、このミュージアムは他に類を見ない在り方で自らの存在価値そのものを証明しているともいえるかもしれない。それが、このミュージアムが持つ無意識のDNAともいうべき要素なのである。

 このミュージアムに選ばれ展示されている作品群のもう一つの特徴は、「作品そのもの」だけではなく、その作家の人物像や彼らが見ている世界像、さらに言えば、彼らにしか見えていないようにも思える幻視の世界像の存在に我々の意識が強い磁力で向いてしまうところにもある。世界の在り様は人間の数だけ存在し、またさらにその人間の生きていく時期によって刻々とかたちや様相を変えて存在している。そういった世界という有り様の無限の可能性、もしくはその存在の手応えのようなものが目の前に立ち現れるという経験だ。

 選ばれ、展示された作品群に潜在している個々の傾向や世界観、強迫観念といったものは、一つひとつの作品や一人ひとりの作家の特徴や傾向を観察する限り、一見ばらばらで統一感はない。しかし個々の作家の作品はパズルの一片のように、その作家固有の「ある世界」を形成しているようにも見える。それぞれの作家の背後には「ある世界」観やユートピア観、絶望的な世界観といったものが、独自の法則や象徴的な意味での遠近法によって表現されている。それは、主体(作家)と世界との関係性のことである。このような作品群を集めることで、それぞれの背後に存在しているであろう特徴的な「ある世界」が同時に一箇所に集められることになる。つまり、個々のばらばらの重力を持った断片的な「ある世界」群によって、大文字の「世界像」ではない、集積された小文字の「ある世界」像が形成され、現前するのである。

 そして次第に小文字の「ある世界」という概念の中でのいわゆる「小文字の世界」像というものの普遍性や一般性がタイポロジー的に浮かび上がってくる。小文字の「ある世界」の「大文字性」をそこに形成し始めるのである。つまり、個々の異なる固有の小さな「世界」像や「歴史」像を集め、同等に並列し陳列するという行為そのものに我々の意識が向かうようになるのである。言ってみればこのミュージアムにおいて、我々の意識は個々の作品から、作家のパーソナリティ、そして彼らの持つ世界観、そして最終的にはそれを集めるミュージアム側の人間、そのミュージアムを所有している(この場合は企画者なのだが)奇人へと好奇心は向かう。

 ただ、個々の作品の断片を集積しても個々の完全なる「世界」像というものは完成されず、永遠に未完成の状態でもある。その断片と断片の間、ある「世界」と「世界」の間に横たわる空白は埋まることはない。その裂け目や空白ともいえるような隙間こそがこのミュージアムの最大の展示物なのかもしれないのだ。失われてしまい完全には元に戻ることはない遺跡物や遺品物のような展示物とその中間にある空白。世界そのものは断片からできており、不連続で、断続的で、散らばっている。その世界モデルそのものを再現や模倣、描写するのではなく、世界そのものを現前させること。このミュージアムにはそれら間が埋まることのない断片が集められ、まるでボルヘスのいうような「disjecta membra」(ばらばらの陶器片)をそこに見るのだ。

そしてこのミュージアムは、本来「美術館」の持つもうひとつの目的でもある「作品」を「保管」すること、「所蔵」といったことには、こだわらないように見える。しかし、そこには明らかに「収蔵(収集)」といった通常の「美術館」の概念を通り越して、珍品を「奇集(癖)」するといった領域にまで達するミュージアム側の強迫観念をそこに見るのである。

 数々の珍品の収集といえば、バロック期にイタリアに始まりスペイン、ドイツの王侯貴族にまで伝わった「驚異の部屋 wunderkammer」を想い起こさせる。美術品や工芸品、道具、地球儀、医学の器具のような人工物にとどまらず、自然物の珊瑚や貝殻、動植物の剥製、ダチョウなどの卵、ミイラなど、収集物はオートマタといわれる自動人形にまで及んだといわれる。とにかく世界中のありとあらゆる珍品や奇異なものが競って収集された。この趣味の根底には奇形や怪物といったものへの嗜好があったといわれている。そしてそれは当時の権力の象徴であった。権力を持つということは世界中の希少なものを収集し保持したいという強い欲望であり、その財力でもあり、また規定するという眼力、眼であった。

 巷の世間から普段は見落としているものたちを探索し、あたかも埋没し埋もれている遺跡の調査、その考古学者的な視点は、「驚異の部屋」を有する15世紀から18世紀の王侯貴族そのものである。実際に所有という行為に至らなくとも、それを独自の眼力を使って発見し、ある期間に展示し紹介する姿勢は、「驚異の部屋」の所有者となんら変わりはない。むしろその情熱はまったく同質なものなのかもしれない。

 そういった意味で、鞆の津ミュージアムの発掘する力や規定する力は、現代の一般的な美術史の物差しや、「アウトサイダー・アート」や「エイブルアート」の世界でのそれではなく、完全に独自の哲学から成り立っており、独自の姿勢を保っている。 いわゆる「現代美術」や「アウトサイダー・アート」という言葉自体が思考停止そのものに思えてくるのである。また、発掘し、規定し、分類し、展示する作業とは、「世界」とどう関わっているのか。「世界」をそこに再現するといったモデルではなく、「世界」そのものをそこに現出させること。このミュージアムの内部の壁は世界を裏返しにした皮膚そのもので、従来の価値の基準ではなく、元には戻らない不完全な世界の断片をつなぎあわせるようとする行為の表れである。いわゆる所有することなくこれらの行為を行うミュージアムの姿勢や情熱は、現代社会の奇集の一形態であり、そこに古来から脈々と続くある種の権力にも通ずる人類の収集癖の原型を見ずにはいられない。

 来館者はたくさんの個々の「ある世界」に触れ、しかし「ある世界」を対象物として鑑賞、もしくは消費をするのではない。その収集者の代理人とも言うべきキュレーターの奇人ぶりと、既に世界はたったひとつではなく、個々に無限に「ある世界」が存在する可能性、いわば世界との関わりの無限の在り方をそこに見るはずである。
 
 そのミュージアムでの経験を通過することとは、巷の世界や、私たちの身の周りの日常のいままで気にも留めなかった世界が、実に豊かで複雑性を帯びているものであることに気づかされることである。世界は人間がいなくては存在し得ないし、すべての作品の断片はそれぞれが「ある世界」を指し示しているのである。






私は世界を巡った。

あらゆる地を、あらゆる国を。

山も海も川も廻った。

だが、私は忘れていた。

私の家のすぐ外の

庭の小さな葉に

一滴の水滴がやどって

この水滴に全宇宙が映し出されているのを…。

ラビンドラナート・タゴール



 そして、このミュージアムの壁面という葉の上に存在する一滴一滴の、ひとつとして同じ反射率や屈折率を持ち併せない水滴の作品群は、それぞれの小さな全宇宙を映し出している。
 このミュージアムはそのことを証明している。
ヴィヴィアン佐藤(ゔぃゔぃあん・さとう)
美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。 青森県七戸町の町興しコンサルタント担当、広島県尾道市の観光大志。

編集後記
文・田中みゆき

同床異夢
同じ床に枕を並べて寝ながら、それぞれ違った夢を見ること。


私たちは一人ひとり違う。
同じ世界に立ち、同じ情報を交わしている保証はどこにもない。
けれど、普段はその誤差を意識することなく、発達した社会性と言語能力のおかげで何となく状況を共有したつもりになり、他者や社会と折り合いをつけている。その社会のルールは、「世間」という人のかたちをした曖昧な声によりつくられてきた。何不自由なく意思疎通が取れる相手は「普通」と見なされ、その中に受け入れられる。しかし、そこに「障害」という知覚できる差異が関わると、途端に「世間」では対応できなくなる。「世間」の解像度はそんなに高くないし、長いものに巻かれがちだ。そうしてそこには見えない境界線が引かれ、それぞれが境界線の中で生きてきた。
 
「普通」の暮らしは飛躍的な発展を遂げ、高度に細分化されたあらゆるニーズにきめ細やかに対応する商品やサービスが生まれ、社会を豊かにしてきた。それでも障害の存在に気づかないふりをしてきたのは、境界線を踏み越えることがその「豊かさ」を後退させることだと「世間」が見なしてきたからだろう。しかし、科学や技術、そして社会の進歩は、築いてきた豊かさの限界を知らせると同時に、これまで向き合ってこなかったものに潜む可能性や危険性を浮かび上がらせている。

わたしは、障害を「究極のオルタナティブ」だと考えている。せっかくあらかじめ「普通」の人と違っているのなら、彼らがつくりあげた既得権益や既存の文脈に「オルタナティブ」側が合わせるなんてもったいない。むしろ、これまでに社会に含まれなかった視点があることの「豊かさ」を教えて欲しい。

ただ、障害を持った人が、自分たちが与えられる価値に気づいていないとしたら、あるいはそれを誰かに共有する/しない選択肢すら与えられていないとしたら、それは「普通」の人たちと同じように与えられるべきだと思うし、そのことが導きうる社会の面白さや奥深さに「普通」の人たちが気づいていないなら、立ち止まって思いを巡らす機会をつくりたい。「世間」がつくった境界線を壊すのは、個人個人がそれぞれの「世界」を持ち寄って、お互いの変さやバカバカしさを認めながら、小さな共感を積み重ねることだと思う。今回編集として関わらせていただいたのも、その一つだと思っている。
 
人は皆、多かれ少なかれ内弁慶な生き物だ。それまで積み上げた常識が通じなそうな物事や存在にいつも立ち向かえるほど強くない。踏み込んでみたら、自分とそんなに変わらないかもしれないのに。結局はあなたとあの子が違うように、その人とあなたも違うだけなのに。

『障害(仮)』展の考察をあそどっぐから始めたのは、「踏み絵」のようなところもある。多くの「普通」の人は彼の身体を初めて目の当たりにすると、素直に笑ってよいか躊躇する。でも彼の言う「障害も含めて自分なので、自分のことをネタにするのは芸人として普通のこと」というのは、極めて真っ当な姿勢だと思う。彼は、障害者である前に、芸人だから。

話しかけてみないとそんな当たり前のことにすら気づけない。でも、理解し合わないと前に進めない、と気負う必要はないと思う。そんな耳当たりのよい建前は「世間」に任せておけばいい。それよりも、違いの奥にあるそれぞれの「世界」に気づける解像度を持っていたい。

そもそも長年連れ添った夫婦だって、お互いのことをどれくらい理解しているというのだろう。断絶を許容しながら日々生きているのが、本来の私たちの姿ではないだろうか。そうして、希望に溢れた一日の終わりも、不安でなかなか眠れない夜も、枕を並べて、それぞれ朝を迎えるのだ。


田中みゆき(たなか・みゆき)
1980年生まれ。企画者、編集者。21_21 DESIGN SIGHT、YCAMなどを経て、
デザインを軸に展覧会やイベントなどの企画に携わる。近年は障害に関わるプロジェクトにも取り組み、『義足のファッションショー ”Rhythm of athletics”』(2013年、日本科学未来館)や視覚障害者とのパフォーマンス公演『dialogue without vision』(2015年、国際交流基金、神奈川芸術劇場)など、ジャンルを横断した活動を行う。http://miyukitanaka.com/

「障害(仮)」展

会場:鞆の津ミュージアム

会期:2015年9月12日(土)~12月13日(日) 10:00~17:00

観覧:一般600円(小学生以下・障がいのある方無料)

休館:月・火曜日(祝祭日は開館、翌日休館)、11月2日、11月24日は休館

主催:鞆の津ミュージアム企画展実行委員会

協力:ミヅマアートギャラリー、ポット出版、就労継続支援B型事業所ハーモニー、ナナロク社、お食事処よしだや、関西学院大学漫画同好会、京都大学霊長類研究所、齋藤亜矢、林美里、松沢哲郎

助成:日本財団

障害(仮)

監修:鞆の津ミュージアム

執筆:市原えつこ ヴィヴィアン佐藤 佐々木誠 齋藤亜矢 田中みゆき 日比野和雅 藤井直敬 百瀬文 櫛野展正(鞆の津ミュージアム) 津口在五(鞆の津ミュージアム)

インタビュー:伊勢田勝行 新澤克憲

編集・構成:田中みゆき

ブックデザイン:平松るい(紙本ブックデザイン)

写真:立堀和仁(展覧会会場写真) 櫛野展正

協力:伊藤ガビン

印刷・製本:シナノ・パブリッシングプレス株式会社

発行元:鞆の津ミュージアム http://abtm.jp/
〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆271-1
TEL:084-970-5380 FAX:084-970-5381

障害(仮)

2016年3月31日 発行 初版

著  者:鞆の津ミュージアム
発  行:鞆の津ミュージアム

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