───────────────────────
カバーイラスト・挿絵 おーそら
───────────────────────
旅人が辿り着いたその町では
明るい色とりどりのネオンサイトが
遠くからでもその町全体を
ぼんやりと浮きあがらせていました
スクーターをおしながら歩いていると
旅人は一人の少年に出会いました
少年は町のすみっこで
ちっぽけなうすっぺらの毛布一枚携えて
ただぼんやりと寝ころがっていたのです
『こんばんわ ぼうや
何を見ているの?』
旅人は尋ねました
『こんばんわ 旅人さん
空を見ているんだよ』
少年は
朝も
昼も
夜も
毎日
毎月
毎年
くる日もくる日もこの場所で
空を眺めていると言いました
最近は
何かを食べたり
飲んだりして
空から一瞬でも目を話す時間さえ
惜しいのだと言いました
『お腹すかないの?』
『すかないよ』
『楽しいんだね』
『うん、楽しいよ』
自分にとって 空は
永遠に続く映画で
どの情景も同じではなく
一度見逃したら二度と見ることはできない
尊いものなんだと少年は言いました
少年はさみしげに笑いました
『この町ではね
子供は迫害されるんだ
決められた仕事をこなす大人でないと
いじめられるんだ
そりゃあひどいものだよ
だからみんな早く大人になろうとするの
だから子供がこの町では
毎日毎日
次から次に
死んでいってしまうんだ
ねえ、旅人さん』
『なんだい』
旅人はこたえました
『旅人さんは大人なの?』
『どうだろうね』
旅人は少しだけ悲しそうに笑いました
『体は大きくなっちゃったけど
少なくとも大人だとは言えないな』
『そっか』
少年は空から目を離すことなく
にっこりしました
そして骨と皮だけになった
細く白い腕を
ゆっくりと上にあげ
まるで白いにごり水を垂らしたような
黒い空を指差しました
『人は死んだら星になるんだって
でも
星って
この町よりも
この世界よりも
ずっとずっと大きいものなんだって
遠い遠いところにあるから
小さく見えるだけなんだって
だったら
こんなちっぽけな姿でいるより
星になったほうがましなのに
なんで
死ぬのはこわいんだろうねえ』
旅人は
そっと少年の頭をなでました
そして旅人は
なんとなく
傍目には傷一つない少年の皮膚の下で
少年の心臓には
無数の引っ掻き傷やあざがあったことを
知ったのでした
旅人は空を見上げました
けれどどこを見わたしても
星なんて一つも見えやしません
旅人は少年に尋ねました
『僕の目は曇ってしまっているのかなあ
星は一つも見えないんだ
君には見えるかい?』
少年は首を横にふりました
『見えないよ、旅人さん
ネオンが明るすぎて
星を見えなくしちゃうんだ』
そして少年は
初めて空から目を離し
旅人の顔を
瞳を
見つめました
少年は微笑んで言いました
『大人達の作ったもの
大人達がいいと言ったもの
大人達を
見るくらいなら
目なんて必要ないと思ってた
大人達の作った音
大人達の作った文章
大人達の声
聞くくらいなら
耳なんていらなかった
この体も
大人達から出てきたものだから
でも
旅人さんと
お話できたから
こうして
お顔を見れたから
産んでもらえて
やっぱり、嬉しいな』
『ありがとう』
旅人は言いました
『さようなら 旅人さん
今晩はこの町に泊まっていくの?』
『さようなら ぼうや
そうだね そのつもりだよ』
少年はまた空を見ながらにっこりしました
『旅人さんの瞳の中に
ちいちゃな星を見つけたよ』
旅人はこの町に
三日間滞在しました
二日目の夜
外が何やら騒々しかったので
側を通っていく人に尋ねると
少年が一人
天に召されたということでした
その少年は
親の言うことにも
何に対しても
反発して
親不孝ばかり
していたということです
『ご両親はきっと ちゃんと本当に
息子さんを愛していらっしゃったんでしょうね』
旅人は言いました
町人は大声で言いました
『ええそりゃあもうたいへんなかわいがりようで
あんなに大事にされて
あんなに恵まれて
なのに聞きわけがなくって
生きることに無関心で
勝手に自分を憐れがってねえ
あれじゃあ
親御さんがかわいそうでかわいそうで』
『おろかな子供ですね』
旅人は悲しげに微笑みました
『ええそうですとも なんておろかな――』
『いえ それとはまた違うんです』
旅人が言葉をさえぎり空を見上げると
町人は怪訝そうな顔をしていました
三日目の朝
旅人は町を発ちました
出発前に少しだけ
空を見上げました
空にはうっすらと
頭の欠けた白い月が
浮かんでいました
『昨日の夜は、星がきれいだったね』
旅人は
お月さまに向かって言いました
『おろかだね とってもおろかだったね
でも僕は
おろか って字は愛おしいって
愛らしいって
読むんだと
思ってるのだけれど』
旅人はスクーターのエンジンをふかしました
旅人が辿り着いたその町では
ちょうど結婚式の最中でした
町中でお祝いをしていました
新郎新婦は
とても幸せそうに
白くて丸い馬車の中に
乗りこみました
また次の日も
そのまた次の日も
毎日誰かの結婚式が行われているのでした
また 空にはひんぱんに
コウノトリが
飛んできていました
『幸せな町なんですね』
旅人は微笑みました
『ええ そうですとも!』
町の人達は答えました
町を発つ日の朝
旅人は一人の娘さんに出会いました
『おはよう お嬢さん
きれいなドレスだね』
『おはよう 旅人さん
今日はね もうすぐ結婚式だから忙しいのよ』
娘さんは せっせと白いドレスの裾に
刺繍をほどこしていました
旅人はそっと娘さんの隣にすわって
しばらくその作業を
眺めていることにしました
不思議なことに娘さんは
小さなビオラの刺繍を
完成させてはほどき
また完成させてはほどきを
半ばとりつかれたように
くりかえしていました
『お嬢さんお嬢さん
作った刺繍が気に入らないの?』
『いいえ旅人さん
刺繍はできあがるたび完璧よ』
旅人はしばらく目の前の小川をぼんやり見つめました
小さなちょうちょがほろほろと飛びまわり
小鳥がささやかに鳴いています
小川のほとりには白い花が咲いて
優しい風が吹いていました
旅人は再び微笑みます
『どうしていつも作り直しているの?』
『こわいからよ』
娘さんはきゅっと口を引き結びました
今日結婚するというその娘さんは
自分の着るそのドレスが
できあがってしまうことが
恐ろしいのだと言いました
『こわいの
こわいの
この町では
毎日結婚する人達がいるように
駄目になる夫婦も
たくさんいるのよ』
娘さんはようやく手を動かすのを
やめました
その頬を
幾筋もの涙が
つたいました
旅人は
娘さんの頭をそっと
なでてあげました
『きれいな髪だね
こんなかわいらしい娘さんだもの
きっとうまくいくよ』
旅人は言いました
娘さんは旅人をきっと睨みました
そしてまた
涙を流すのです
『まだ足りないのに
どうして
あたりまえに結婚して
あたりまえに妻になって
あたりまえに母親になって
あたりまえに終わらなければ いけないの
うまくいく保証だってないのに』
『どうして足りないの?』
旅人は聞きました
娘さんの横顔は
目はぱっちりとまんまるで
頬は薔薇のように赤くて
唇はもぎたての林檎のようにかわいらしく
まるでまだ幼い
女の子のようでした
『わからないの』
娘さんは答えました
『でもねえ まだ走り足りないの
ほら ねえ 見て
あそこの小川
あっちの野原
はだしで走り回って
ドレスなんかぐちゃぐちゃにして
どろだらけになって
おひさまの光いっぱいあびて
やりたいことはまだ
たっくさんあるのに
それあきらめて
ひきかえにして
大人になっても
幸せになれなかったら
悲しいわ
嫉妬するわ
わたしが産むかもしれない
子供たちには
まだそんな未来が
いっぱいあるのに』
旅人は尋ねました
『君のだんなさんになる人は
君のその気持ちを
わかってくれる人?』
『話したことなんてないわ』
娘さんはとげとげしく言いました
『話せるわけないわ
それだけで
もう十分に答えよ』
娘さんの中で
怒りがこみあげてくるのと同時に
何かが生まれてきているのを
旅人は見つけました
娘さんは また刺繍をはじめました
今度は それができあがっても
ほどき直したり しませんでした
旅人はそっと立ち上がり
側に生えていた白い花を一輪
娘さんの髪にさしてあげました
『さようなら お嬢さん
お幸せに』
『さようなら 旅人さん
あなたにも』
旅人がスクーターを押しながら
町の出口へ歩いていると
一人の若者に 出会いました
若者は教会の前で
ただ立ちつくしていました
『こんにちは お兄さん
どうしたの』
『こんにちは 旅人さん
今日今から 結婚式なんだ』
若者はにかっと笑いました
その日だまりのような笑顔には
まだどこか愛らしい
少年のあどけなさが
残っていました
『あなたはその
娘さんが 好き?』
旅人が尋ねると
若者はりんごのように頬を染め
照れたように笑いました
『大切な人だと
思っているよ』
旅人も笑いました
『うまくいくといいね
きっと幸せになれるね』
そうだといいなあ と
若者は微笑みました
そしておもむろに言いました
『旅人さんは
薔薇の花を見たことあるかい』
旅人はにっこりと笑いました
若者も とてもとても柔らかな笑みを浮かべました
『薔薇は自分でいっぱいとげを持って
身を かたくなに守って
人を寄せつけないんだ
でも薔薇は咲いてもきれいだけど
蕾の時もとってもきれいなんだ
だから
見ていて飽きない
そばにいられるだけで
すっごく嬉しいんだ
憧れるんだ』
旅人は言いました
『痛くても けがしても
ちゃあんと手にとって 包みこんであげてね
ちゃあんと水はあげてね 蕾もきれいだけど
薔薇は咲いても きれいだから』
『ありがとう旅人さん
さようなら 気をつけて』
若者はにっこり笑っていいました
『ありがとうお兄さん
さようなら お幸せに』
去り際に旅人は思い出したように
優しく笑って 振り返って言いました
『さっき薔薇の蕾が
花開く瞬間を
初めて見たんですよ』
若者はきょとんとして
すぐにまた照れたように笑いながら
頭を掻いて 言いました
『ちぇっ 僕も 見たかったよ
まったく』
旅人がスクーターを走らせていると
鐘の音を
風が微かに 運んできてくれました
旅人は 少しだけ悲しそうに微笑んで
呟きました
『ほんとにちゃんと
しっかり抱きしめて
包みこんでやるんだよ
僕は
後悔したから』
旅人は 帽子を深く
かぶり直しました
旅人が辿り着いたその町では
子供は十三歳を迎えるその日の朝に
街を出て一生を終えるか
街に残って一生を終えるかを
決めなければならないのでした
『町を出て また戻ってきた人はいるの?』
旅人は尋ねました
旅人の隣で
膝の上に丸まった ふわふわ毛並の子猫を撫でながら
少女は首を縦に振りました
『帰ってきた人はみんな
町を出なければよかったというよ』
『そうか』
旅人は静かに微笑みました
『けれど戻ってこなかった人にとっては
辿り着いた場所がきっと
すてきなんだね』
少女はうなずきました
『同じことを
町に残っている大人達もそう言うわ』
『そうか』
旅人は目を閉じて
しばらくなにか
考え事をしているようでした
少女が旅人のほっぺたをつつくと
旅人は目を開けて
にっこりと笑いました
『帰ってこられる場所があるのは
とても幸せなことだね
けれど
とても残酷だね』
少女は困ったように笑っただけでした
『君はそれで どうするつもりなの?』
旅人は尋ねました
少女は悲しそうに俯きました
『私は残るわ 旅人さん』
『そうか』
旅人はそれ以上 何も言いませんでした
そのかわり そっと
少女の頭を撫でてやりました
『旅人さんは幸せ?』
その少年は尋ねました
少年の頬はばら色で
瞳に好奇心を浮かべていました
旅人はしばらく考えました
『そうだね 不幸だと思ったことはないよ』
『そっか』
少年は嬉しそうに笑いました
『旅人さんは
いつも旅してるから 旅人さんなの?』
旅人は また少し考えました
『そうだね 旅をしているから
旅人なんだよ』
『そっかあ』
少年は 本当に嬉しそうでした
旅人は優しく微笑んで
少年に尋ねました
『君はおとなになるとき
どっちを選ぶの』
少年は 明るい笑顔で答えました
『僕はこの町に残るよ 旅人さん
旅人さんが旅人さんであるように
ここにいるから 僕だもの』
少年の瞳は
凛と輝いていました
『そうか』
旅人はにっこりと笑いました
旅人が出会ったその少女は
お嫁さんになるのが夢だと言いました
『それじゃあ君はここに残るの?』
旅人は微笑みながら尋ねました
少女はにっこりとして言いました
『いいえ 私は町を出るわ 旅人さん』
旅人がきょとんとして首をかしげると
少女はおさげをほどき
つややかな栗色の髪をふわりと広げて
おひさまを見あげました
『だってもっと世界には
いろんな人がいるかもしれない
もっとすてきな人がいるかもしれない
お嫁さんだって
もっといろんな人に出会えるかもしれない
もっといろんな家庭を見られるかもしれない
いろんな人に出会って
いろんなこといっぱい知って
幸せだったって笑って言える
おばあちゃんになりたいの』
少女の横顔は
まるで一枚の絵のように
きれいなものでした
『そうか』
旅人もおひさまを見あげました
その少年は
はた目にも苛々しているように
見えました
『君はどうするの?』
旅人は静かに尋ねました
『パパもママも ここに残れと言うよ』
少年はしきりに指をいじりながら言いました
『いろんな可能性があるかもしれないのに!
いろんな世界が待ってるかもしれないのに!』
旅人は哀しげに微笑みました
少年が旅人を
半ばにらみつけたように
半ば何かを待っているかのように
じっと見つめるので
旅人は静かに言いました
『僕は
旅人であることに 満足しているよ
自分で
選んだ道だからね』
『だよね!』
少年は 初めてにっこりと笑いました
『僕も旅人さんのようになるんだ』
『そうか』
旅人は さびしそうに笑いました
『戻ってくる場所があるのは
幸せなことだね ぼうや』
『僕は絶対 出戻ったりなんかしないよ!』
少年は怒ったように言いました
最後に出会ったのは
双子の子供たちでした
お兄さんは赤毛の巻き毛で
妹は綿毛のような亜麻色の髪でした
『君たちはどうするの?』
『私は残るのよ 旅人さん』
妹はやわらかな微笑みを浮かべました
お兄さんは何も言わず足元を見つめながら
さびしそうに笑っていました
その日の夜 旅人は
町を出ることにしました
スクーターの点検をしていると
赤毛を仔馬のしっぱのように
左右に揺らしながら
双子の兄の方が 駆けよってきました
『旅人さん 旅人さん
旅はこわいですか
つらくないですか
楽しいことも ありますか
後悔は ありませんか』
少年が泣きそうなのをこらえているのが
あまりに痛ましく
旅人は少年をおんぶして
しばらく夜の散歩に出かけました
『君は町を出るんだね』
旅人が言うと
少年はただ 鼻をぐすっとならしました
『それともここに残りたいの?
残れないの?』
『妹が』
少年は小さな声で
ゆっくりと言葉をつむぎました
『ここに残ると決めた友だちが
みんな ぼくにたくしているんだ
幸せになりますようにって
ぼくは
町を出るよ 旅人さん
でも
けれども
本当は
どうしたいのか わからないんだ』
『そうか』
旅人は 静かに言いました
『こわいけれど
かなしいけれど
さみしくはない
不幸だとも思わない
つらいけれど
後悔ばかりだけれど
旅をしていることを
後悔はしていない
楽しいと思ったこともないけれど
僕はこれで
満足しているよ』
旅人はそう言って 少年に笑いかけました
『そっか』
少年は小さな声で言いました
旅人はひとりごとのように言いました
『僕の知っている町のことわざに
井の中の蛙大海を知らずって
いうものがあるけれど
僕は
蛙は海のしょっぱい塩水なんか知らなくたって
十分幸せなんじゃないかとも思うんだけど
蛙が海を見てみたいなら
見に行けばいいと思うし
井戸の中から出てしまうと
やっぱり井戸の中の方が
居心地がよかったと思うのか
それとも こんなにもせまくて暗くて
こわいところだったのかと思うのか
どっちも好きだと思うのか
蛙しだいだね』
ふふ と笑って少年は
そっと旅人の背中で泣きました
『そう考えると
楽しいね』
『そうかい?』
『うん』
少年は笑いました
『そうか』
旅人も 優しく微笑み返しました
明け方 旅人は
町を後にしました
淡い絵の具がにじんだ空に
その日誕生日を迎える六人の
子供達の幸せを
しっかりとお願いしました
僕が出会った一人の女性の話をしましょう
彼女は一人きりで生きていました
不思議なことです
周りにたくさんの友達が
彼女を想ってくれる両親が
ちゃあんといるのに
彼女は絶対に一人だったのです
彼女は僕に言いました
『旅人さん 旅人さん
わたし子供がほしいの
わたしだけの子供がほしいのよ』
『どうしてだい?』
僕はそっとたずねました
変なことを言うなあと思ったからです
彼女は答えました
『だってわたしにちゃあんと応えてくれるもの』
驚いたことに
彼女は子供という存在を
自分の所有物だと
思っていたのです
そしてその所有物とは彼女にとって
尽くしても尽くしても
絶対にうらぎらないでくれる
必ず帰ってきてくれる
欲しい言葉をくれる
存在でした
奇妙なことです
彼女自身はそんな娘でもなかったのに
かわいそうな人です
僕はどうすることもできず
ただ彼女の頭をなでるしか
僕は自分の帽子をあげました
そして僕は
彼女のいる町を あとにしました
このお話には 続きがあります
何年かして
僕がまたその町を訪れると
彼女は僕と別れたその場所で
ずっとずっと僕の帽子を握りしめ
冷たくなっていました
ずっとずっと
僕の帽子を握りしめ
片時もそこを離れていなかったのです
僕は後悔しました
彼女を愛していたわけでは
いえ そう思っていたのに
ひどく胸が痛くて
僕は初めてその時気づいて
僕はそっと彼女を抱きしめました
しだいに腕の力が強くなって
僕は強く強く彼女を抱きしめて
どれくらいの時間が経ったでしょう
彼女の閉じられたまぶたの奥から
幾筋もの涙が頬をつたい
彼女はたしかに笑ったのです
その微笑みは
とてもきれいで
きれいで
急に吹いた一筋の風と共に
彼女の姿は消えていました
僕は僕の帽子をただただ
抱きしめていたのです
ただ一度でいい あの時
ただしっかりと抱きしめてあげていれば
よかったのに
僕は今更気づき ひどく後悔したのです
彼女は死ぬまで 自分を自分で抱きしめてあげるしか
なかったのだと
(旅人から知り合いへの手紙一部引用)
旅人はまた
その小屋に帰ってきました
『大きくなったな』
小屋のすみで小さな椅子にこしかけて
一人の老人が言いました
旅人は帽子をとって
照れたように 笑いました
一晩ゆっくりと
だんろの火にあたたまって
たくさんたくさん
おじいさんとお話しをしました
『そういえば
飼っていた猫たちは どうしたんです』
旅人がたずねると
『自分で出ていったよ』
と おじいさんは言いました
『さみしいですか』
旅人はたずねました
おじいさんは何かを見透かしたように
旅人のハシバミ色の瞳をじっと見つめて
まるでいたずらっ子のように
ちょっぴり意地悪く微笑みました
おじいさんは優しいまなざしで
旅人の頭を
いつまでもいつまでもなでていました
旅人がその小屋を発つ日の朝
小屋のすみで小さな椅子にこしかけて
扉のむこうから射す光の中へ
帰っていく旅人の背中を
その老人は目を細めながら
見つめていました
『あの子とは 話していかないのかい』
遠ざかる背中を 老人の声が追いかけます
旅人はふと足を止めて
深く帽子をかぶり直しました
『いいえ
いいえ あなたの――を見つけるまでは』
旅人はふり返りました
新しい花束がふたつ
置かれている小さな お墓
旅人は
唇を僅かにかみしめ
スクーターへと駆けよりました
旅人がスクーターを走らせ砂漠をぬけると
小さな森がありました
茂みの中を ゆっくりと進んでいくと
道が二手に分かれていました
旅人は
しばらく考え事をするために
その場にこしかけて 一休みすることにしました
干したイチジクをかじっていると
一人 別の旅人がやってきました
『こんにちは お若い方』
『こんにちは 旅人のお兄さん』
『君は先へ行かないのかい?』
『そうだね まだ考えていないんだ』
旅人が言うと
あとからやってきた旅人はしばらく
なにかを考えていました
ややあって 彼はうなずきました
『僕は右の道を行こう
では お元気で』
『お気をつけて 旅人のお兄さん』
旅人がイチジクをかじっていると
また別の旅人がやってきました
『こんにちは 旅人さん』
『こんにちは』
旅人もにっこり笑って こたえました
『おたくは先へ行かんのかい?』
『そうだね まだ考えていないんだ』
旅人が言うと
あとからやってきた旅人は しばらく何かを考えて
ポケットからコインを一枚取り出し
指でパチンとはじきました
手の甲にのせたそれを見て
彼はにっこりと笑いました
『私は右の道を行こう
さようなら 旅人さん』
『さようなら お気をつけて』
旅人がイチジクを食べ終わったころ
また別の旅人がやってきました
『やあ こんにちは
あんた 先へ行かないの?』
『こんにちは 旅人さん
そうだね まだ考えていないんだ』
そうか と一言言って
健康そうなその旅人は
からからと笑いました
『他に誰か ここを通ったかい』
『うん 二人の旅人さんが 通って行ったよ』
『彼らはどちらの道へ?』
旅人が右の道を指さすと
あとから来た旅人は
ポン と手を打って言いました
『よし じゃあ 俺は左の道を行こう
ありがとう 旅の方』
『どういたしまして お気をつけて』
旅人が身支度をしていると
また別の旅人がやってきました
『こんにちは 旅人さん
あなたはどちらの道へ行くの』
『こんにちは 旅のお嬢さん
そうだね まだ決めていないんだ』
少女はいぶかるように 眉根を寄せました
『それならどうして 出発の準備をしているの?』
旅人はにっこりと笑って
少女のすみれ色の瞳をのぞきこみました
『どちらの道へ行くかは決めていないけど
どうするかは決めたんだ』
少女は 不思議そうに首をかしげました
旅人はスクーターの向きを変えました
『もしかして』
少女は 旅人の使い古したスクーターを見つめて言いました
『来た道を戻るの? 旅人さん』
『うん』
旅人は エンジンをふかしました
『どうして? また同じところを旅するの?
先を行けば
新しい町にたどりつけるのに』
『そうかもしれないし
そうじゃないかもしれないから』
旅人は、目を閉じて言いました。
『右か左か 決められない
決まらないということは 僕に迷いがあるんだろう
僕は今まで訪れた町で
なにかを落としてきたのかもしれない
なにかを拾い損ねたのかもしれない
もしかしたら
ここは世界の終着点で
この先また進んでも
全く同じ町を 同じ順番で
同じように
旅をするのかもしれない
だったら 今まで来た道を
逆の順番で通ってみても いいかなって思うんだ
もしかしたら 一度通った知ってる道が
知らない町へ続いているかもしれないからね』
『ばかなことを言うのね』
少女がしかめ面をすると
旅人は楽しそうに笑いました
あまりに楽しそうに笑うので
少女はなんだか
心臓の鼓動がはやくなってしまって
旅人の顔から 目を逸らすことができませんでした
それでも しかめ面のまま
少女は言いました
『普通に考えて 非論理的だわ』
『君は頭がいいんだね』
旅人は柔らかくほほえみました
『そうだね 僕はばかな旅人さ
だからこそ
自分で考えたことに したがうよ』
少女がしばらくだまっていると
旅人は帽子を深くかぶりました
スクーターにまたがった旅人の背中に
少女は声をかけました
『今までも
道が分かれていたら
来た道を戻っていたの?』
旅人は目をぱちくりさせて
少女をしばらく見つめました
やがて あどけない笑顔を浮かべると
旅人は言いました
『今まで 道が
二本や三本に見えたことは
一度もないよ』
『え?』
旅人は優しく微笑みました
『今まで進んだ道は
ずっと一本道だったから
またいつかこの場所に戻ってきた時は
今度はこの道も 一本になっているかもね』
すみれ色の目をまんまるにして
立ち尽くす少女に 軽く手をふり
旅人は 砂漠の中へ帰っていきました
お兄ちゃん お元気ですか
わたしは ちゃんと無事でやっています
わたしはこう見えて たくましいのです 大丈夫
こうやって旅をしていると
いろいろな人たちにめぐり会います
わたしのような“旅人”も
世の中にはたくさんいるもたい
その“旅人”の中にも
いろんな人がいるのだけど
どの町へ行っても
誰もが必ず口に出す旅人が
一人いるのです
ある意味 有名です
こういうと
ベテランの おじさん おじいさんを
思い浮かべるでしょう?
でもね 驚いたことに
まだ十七、八歳くらいの
若い青年だということです
その旅人は
とても不思議な人で
いつの間にかいて いつの間にかいなくなる
そんな人なのに
ほとんど町の人達とも会話しないのに
姿もよく覚えていないくらいなのに
なぜか心にずっと残っているのだと
みんなが言います
実は わたしも
そういう旅人に 一人だけ
出会ったの 先日ね
その時は気づかなかったけれど
きっとあの人のことだと思うわ お兄ちゃん
最初は なんてばかな
とち狂ったひとだろうと思ったの
なのに 不思議ね とってもおかしな気持ち
たった一回出会っただけなのに
今はなぜか
その旅人さんを すごく尊敬しています
ハシバミ色のまんまるな
幼い少年みたいな目をしてて
マーマレードジャムみたいな
明るい髪の毛が まるで綿毛みたいにふわふわしてた
焼きたてのトーストみたいな肌をして
小柄なくせに
とっても大きなスクーターに乗ってるの
ヘルメットもつけてないんだよ
しわくちゃの
帽子だけ 後生大事にかぶってて
もう一回 会ってみたいなあ
もう一回 会えたなら
わたし もう旅なんかしなくてもよくなる気が
そんな気がするの お兄ちゃん
わたしがその旅人に出会った場所では
目の前の道が二手にわかれていて
どっちへ行こうか決めなければいけなくて
なのにその旅人は
それまでに来た道を逆走して行ってしまったの
ばかな人だわ
でも 頭いいわ
わたしも その人の後ろから
追っかけて行こうと思ったけれど
後ろから追いかけても
ただ追いかけているだけで
だからわたし
別方向から行くことにしたの
違う道を走っていれば
いつかまた 会えるかもしれないでしょ?
わたしも 右か左 どちらへ行くか
結局決められなかったから
道でもないところだったけれど
バイクを走らせてみているわ
それでもちゃあんと町にたどりついた
知らない町
わたしは今も いろいろな町を転々として
ちゃんと旅を続けられています
あの分かれ道を
通らなかったこと 選ばなかったこと
後悔してないよ お兄ちゃん
私は元気です
お兄ちゃんも 家族大事にしてね
やっとできた家族なんだから
赤ちゃん産まれたら 教えてください
飛んで帰ります
また 手紙書きます
お元気で
愛をこめて
これは、長い長い物語の一部分です。
いつか、物語の全てを語れる日が来ることを夢見て。
2016年4月17日 発行 初版
bb_B_00144158
bcck: http://bccks.jp/bcck/00144158/info
user: http://bccks.jp/user/130791
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp