明日の風に・中世剣魔編
偶然出会った少女に惹かれた剣魔フワーリズミ。 成長し、運命に従う少女を、フワーリズミは守りきることができるのか?
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雨が石畳を叩く音に、高い話し声が混じる。
誰かが、侵入して来たな。リズミはゆっくりと微睡みから目覚め、そして面倒だという思いと共に大きく背伸びをした。
村外れの荒野に聳え立つ、古い石造りの塔。隣国との境界線が村の近くを通っていた時には、絶え間無い戦乱や略奪、暴力行為から一時的に逃れ、そして応酬する為に使われていたものであるが、境界線が村からずっと離れた場所にある現在では、外も内部もすっかり荒れ果て、普通の大人は全く近寄らない場所と成り果てている。入ってくるのは、スリルを求める無謀な若者か、冒険好きの子供だけだ。しかし、夜になってからの侵入者は、珍しい。リズミはそっと、居室にしている小部屋――昔は、領主の一族が閉じ籠もるのに利用されていたらしい、この塔の中では一番マシな部屋――から意識を飛ばし、部屋の外の様子を窺った。
意識体が目にした光景に、思わず、舌打ちが出る。
〈……あやつ、また来たのか〉
塔の中にある螺旋階段を、手にしたランタンの僅かな明かりで恐がりもせず昇ってくるのは、ここには何度も来たことがある、少女。確か村にある女子専用の孤児院にいると耳にしている。この前の侵入時には、塔内の武器庫から保存状態の一番良い細身の剣を持って行った。その剣が、少女の腰で、細いベルト一本に支えられてゆらゆらと危なっかしく揺れている。同族のガサツな扱われ方に、リズミはもう一度深い溜め息をついた。
と。
〈……おや〉
剣を腰に下げた少女の背後に、もう一つ影を見つける。
「ほら、大丈夫。怖くないよ」
少女が優しく手を差し伸べているところをみると、同じ孤児院の仲間だろうか? しかし本当に、小さくておどおどした影だ。不意に興味を覚え、リズミはその小さい少女の方へと視点を移した。次の瞬間。
〈……ネイディア?〉
とうに昔の思い出になってしまっている、古い記憶が、震えるように蘇る。いや、彼女は、百年以上前にこの世を去っている。見間違いだ。動揺した息を、リズミは少しずつ整えた。……しかし、良く似ている。男の子のように短い栗色の髪も、ランタンの影でおどおどと動く華奢な身体も、剣を持つ少女の方を見上げる自信無さげな暗色の瞳も。
リズミが観察しているのに気付いたかのように、小さな少女が不意に顔を上げる。少女と目が合って一瞬心臓が踊ったリズミだったが、すぐに気持ちを落ち着かせた。少女の目の前にいるのは意識体だけなのだから、普通の人間にリズミが見えるはずが無い。だが。少女はリズミ(の意識体)と目を合わせると、はにかんだようににっこりと、微笑んだ。まさか。……見えている? 鼓動が、早くなる。この子は、一体?
「ほら、セア。もう少し」
足が止まってしまった小さな少女を促す、剣を持った少女の声に、はっと我に返る。
「この上が武器庫だから」
どうやら少女二人は、上階の武器庫に行くつもりらしい。昔日に武器を蓄えた部屋は塔の各階にあるが、上階に行くほど装飾品を兼ねた物が多いことを、何度もこの塔に不法侵入している剣を持つ少女は知っている。おそらく先日の剣では満足せず、もっと他の、もう少しお金になるものを盗ろうというつもりなのだろう。全く。腹を立てる前に情けなくなってくる。彼女がこれ以上悪事を重ねないよう、自分の魔力で脅かしておこうか。リズミはそんなことを考えた。それにしても。彼女は何故、小さい、足手纏いになるような少女をこんなところへ連れて来たのだろうか? それだけが、疑問。
「ほら、頑張って。この塔から何か持って帰れたら、絶対、村の子達はあんたを虐めなくなるから」
リズミの疑問は、すぐに解ける。
〈ほう〉
ガサツなように見える少女だが、自分よりも弱い者への気遣いは持っている。それが、リズミには不思議で、しかし好ましく思えた。まあ、ここのガラクタ武器もぼろぼろの装飾品も、リズミの物ではない。リズミ自身、勝手にこの塔に居着いているだけだ。自分の小部屋を荒らされない限り、侵入者は無視しておこう。そう思い、意識を自分の身体に戻しかけた、丁度その時。
〈……え?〉
セアと呼ばれていた、小さい方の少女が、踊り場の壁に指を這わせる。そこ、は。リズミが驚愕する前に、壁に隠されていた扉が音も無く横滑りした。
〈な、なんで〉
何故、そこに隠し扉があると分かったのだ? あまりの驚きで、動くことを一切忘れる。だが、リズミはすぐに意識を取り戻した。……身を、隠さなければ。
「ここって……」
リズミが魔法で身を隠してすぐ、カンテラの明かりがリズミの部屋へ入ってくる。
「すごい! 宝物がいっぱい!」
ほどなく、剣を持つ少女の歓声が耳に入って来た。
確かにこの部屋は、普通の少女が見れば「宝物が一杯」に見えるだろう。華やかなタペストリーが幾枚も掛かった壁に、豪奢な天蓋付きのベッド。名剣に宿った剣魔であるリズミに必要な家具しかない小部屋だが、なるべく自分に相応しい家具を選んで作り上げた部屋である。これまでにこの部屋に入って来たのは、知っている限りリズミ自身のみ。その部屋に繋がる、昔の魔法が掛かった隠し扉を開くことができるとは。この少女、ただ者ではない。リズミはふっと乾いた笑みを浮かべると、外の雨でびしょぬれのまま大切なベッドに腰をかけた二人にそっと、近づいた。
「綺麗な部屋ね。乾いて、落ち着いてて」
剣を持つ少女が、声を上げて笑う。部屋を褒められるのは嬉しいが、ベッドを濡らされるのは困る。さっさと追い出すべきか、いや、小さい少女の方が、気になる。イライラする気持ちを抑えながら、リズミは少女達の話し声――喋っているのは殆ど剣を持った少女の方だが――に耳を傾けた。
「この帯なんか、持って帰ったら羨ましがられるかな」
剣を持った少女が、不意に天蓋に掛かる紺色の剣帯を引く。それは、ダメだ。首を振りつつ床に落ちた剣帯の方へ向かう。この剣帯は、あの人の物。金糸の刺繍が美しく、血で少し汚れてはいるが、リズミにとっては命よりも大切なもの。だが。リズミが剣帯の方へ駆け寄るより早く、小さな少女が剣の少女の方へ手を伸ばし、首を横に振った。
「え、ダメ? なんで?」
剣を持つ少女が、不思議そうな顔をして小さな少女の方を見る。それでも、小さな少女が首を横に振り続けるので、少女はふっと肩を竦めた。
「うーん、でも、壁のタペストリーは持って帰るには大き過ぎるし」
仕方が無い。早く帰ってもらう為だ。リズミはマントを留めていた留め金をそっと外すと、小さな方の少女の膝にそっと乗せた。オークの葉を交差させた形の、白い金でできた留め金。これも、あの人の持ち物だが、何故かこの小さい少女には渡しても良いような気がした。
「あ、セア、それ」
突然現れた美しい装飾品に、剣を持つ少女の目が丸くなる。
「綺麗ね。それなら、自慢できるかもよ」
少女の言葉に、小さな少女は首を横に振った。
「あの子達に、見せたくない。取られるかも、しれない」
小さな声で、呟かれる言葉。
「うーん、そうだよねぇ」
唸る少女の声に重なるように、小さな少女は思いがけないことを言った。
「剣の戦士の、大切な物だし」
「剣の、戦士?」
小さな少女の言葉に驚いたのは、剣を持つ少女だけではない。リズミ自身も、正直ドキッとする。この小さな少女には、生半可な人間では扱えないほどの大剣を背負った細板鎧姿のリズミも、リズミの正体すらも、おそらく見えている。リズミのその推測を、裏付けるかのように。
「ここに、いるの」
小さな少女が、リズミが佇む方向を正確に見据えてにこりと笑う。その笑みは、やはり、彼女に瓜二つ。
「……私には、見えないけどね」
小さな少女と同じ方向を見た、剣を持つ少女が、ふっと肩を竦める。
「でも、剣の術に長けた戦士だったら、剣の使い方を教えてもらえるかな?」
ベルトから剣を外し、危なっかしそうに弄ぶ少女が、大きく息を吐いた。
「そうしたら、女王の城に衛士として行けるのに」
この塔のある場所の、現在の領主は、ミーゼス王国。マース大陸中北部、ユール平原唯一の、女王が治める国。国を治める女王は高い尊敬を集めており、目の前の二人の少女達が暮らす孤児院も、女王からの寄付で成り立っているという。剣を持つ少女が「将来は女王を警護する王城の衛士になりたい」と願うのは、当然のことなのだろう。
「ね、セアも一緒に行けると良いね」
不意に、剣を持つ少女が小さな少女を抱き締める。小さな少女が首を横に振ると、剣を持つ少女はにっこりと笑って言った。
「大丈夫よ。あなたは賢いし、読み書きできるし。衛士じゃなくって、女王の秘書になれるかもよ」
少女達の小さな夢は、留まるところを知らない。話を聞きながら、リズミは思わず笑みを零した。この少女達の為に、少しは力になっても、良いかもしれない。……彼女達が、きちんと礼を尽くして頼めば、だが。
それから二、三日後の夜。
夕方から降り出した雨の音に、再び足音が混じったのを、リズミは期待を込めて聞いた。
あの少女達が、来たのだろうか? いや、……足音は、一人だけだ。しかもやけに、遅い。リズミは再び、意識だけを部屋の外へ飛ばした。すぐに、あの小さな少女が、たった一人で明かりも持たずに塔の螺旋階段を昇っているのに出くわす。少女は俯き、そしてその小さな両腕には、先日大きな方の少女がベルトに引っ掛けていた剣が、あった。
どうしたと、いうのだろう? 訝しみながら、意識を身体に戻す。すぐに、少女は踊り場の隠し扉を開け、リズミの部屋に入って来た。だが、部屋に入って来たのは良いが、少女は扉の傍から一歩も動かない。心配になって近づいたリズミは、水滴が床に落ちる音を聞いた。……泣いて、いる? でも、何故? そして。少女の身体からは、微かに何かが焦げているような匂いが、確かに、した。
そっと、震える少女の肩に触れる。少女はびくっと身を震わせ、そしてゆっくりと顔を上げてリズミを見た。
少女の、濡れた瞳から、全てを読み取る。昨日の昼、隣国の赤い旗を掲げた、傭兵より立派な鎧を身につけた小部隊が村に現れたこと。村にあった家畜も食料も全てその部隊に奪われ、更に村に火を点けられたこと。そして、孤児院に踏み込もうとした部隊員に抵抗したあの剣持つ少女が、無造作にその命を断ち切られたこと。
「剣の技、教えて」
か細い声が、少女の口から発せられる。両腕に抱えた剣をリズミの方へ差し出した少女は、儚げで、そのくせ強い意志に満ちていた。
技を教えるのは、問題無い。頷きそうになったリズミは、しかし、昔の苦い思いに引き戻された。この子には、彼女の、ネイディアのようには、なってほしくない。だから。
「二つ、頼みがある」
そっと、それだけ、口に出す。
目の前の少女ははっと瞳を見開き、そして不思議そうに首を傾げた。
「まず、留め金を返してくれ。教授料だ」
その少女の目の前に、大きな掌を出す。すぐに、その掌に、温かい金属の感覚を覚えた。
「そして、だ」
少女の暗色の瞳を見て、ゆっくりと息を吐く。留め金よりも、この約束の方が、大切。
「約束してくれ。剣の技を、復讐には使わないことを」
リズミの言葉に、少女が俯く。少女が再び顔を上げるまで、長い時間が掛かった。それは、そうだろう。俯いて震える少女を、理解する。少女がここに来た原動力は、掛け替えの無い友人を殺された怒り。リズミの言葉は、それを否定しているのだから。
「……分かった」
やっとのことで、先程よりも更にか細くなった声が部屋に響く。
再び顔を上げた少女は、内面の意志で輝いて見えた。
「名前を、名乗っておく。俺の名はフワーリズミ。リズミって呼んでくれ」
「セア」
リズミの名乗りに、あくまで小さく答える少女。
大丈夫だろうか? 一瞬、不安がリズミを襲う。こんな小さな少女に剣が扱えるだろうか? 少女が復讐を忘れることができるだろうか?
〈ええい、ままよ〉
自分が、セアという名のこの少女に興味を持っているのは、確か。この少女には何か特別な『力』がありそうな気も、する。それで何とかなるだろう。そこまで考えて初めて、リズミはふっと息を吐いた。
不意に、セアが叢の方へ動く。
〈どうした?〉
そう、セアに声を掛ける前に、リズミはセアの前に立ち、セアが見つめた叢へ飛び込んだ。だが、……不審者を見つけたのは、後で叢に飛び込んだセアの方。
〈こいつ、は?〉
セアが右腕で掴んでいる、子供と言って良いほどの小柄な影に、思わず首を傾げる。灰茶色の髪を肩まで垂らし、着ている紺色の服の丈も長い。しかも面妖なことに、銀色の刺繍が見える黒い布で顔の下半分、鼻と口を覆っている。この場所に居ることが不可解な人物が、リズミの目の前に、居た。
ここは、ミーゼス王国の首都となっている、都。その北側を流れるユール平原の大河フェ・イェールの真ん中にぽつんと浮かぶ島上に作られた、女王の為の宮城の、三重に巡らされた城壁の一番外側の壁の中、一の門と二の門の間に、リズミ達は居る。
リズミとセアが出会って、十年余り。当時五つに満たなかった幼いセアも、リズミの指導で剣技においてはみるみる、というには少しばかり遅い成長ではあったが、とにかくセアの望み通り『剣の技』を習得し、そしてその為に、十五になったこの夏の初めに『女王の衛士』として採用された。この城に来て、まだ幾日も経っていない。今は、まだ身体に馴染まない下級衛士の制服――生成り色のチュニックに泥色の脚絆、そして粗末な革鎧――を身に着けての、城内を見回る仕事を言いつけられている。
それはともかく。
「……ヴェシオ王子?」
もしかして、というように呟かれたセアの言葉に、まさか、という思いでもう一度、セアが捕まえたままの小柄な少年をまじまじと見つめる。ヴェシオ王子は、王国の先代女王セレーの一人息子。確かセレー女王が亡くなったのも十年ほど前だから、セアと同じくらいか、もう少し大きい少年のはずだ。目の前の少年は、どう見ても七、八歳くらいにしか見えない。顔を覆う布も、どう見ても怪しい。やはり、女王の命を狙う無謀な魔法使いかその弟子なのだろう。リズミはそう、判断した。昔から、この城にはこの手の類いの人間がよく侵入していた。二の門までは辿り着くことができても、その先にある、女王を補佐する元老達の議場や、更にもう一つ内側の城壁の中にある、女王自身の居室まで侵入できた者は稀だが。
と。
目の前の少年が、セアに向かってこくりと頷く。その少年の瞳が、微笑むように細くなったのを、リズミは確かに、見た。
次の瞬間。
〈なっ……〉
景色が、変わる。
いつの間にか、リズミとセアは、大きくて立派な部屋の中に居た。ここは、一体? 大慌てで辺りを見回す。埃臭い空間の向こうに見えたのは、石造りの壁と太い柱、そして初夏の陽をキラキラと反射するステンドグラス。少し薄暗くなっている奥の方には一段高い場所があり、微かに光るように見える布で作られた椅子が一つ、堂々と置かれているのが、見えた。ここは、この場所は、知っている。……女王の、謁見の間だ。
〈何故、こんなところに?〉
悩まなくとも、理由は分かる。セアが優しく捕まえていたあのガキが、何らかの魔法を使ったのだ。油断していたが、あのガキはかなりの魔法の使い手だ。リズミは思わず唸った。セアに魔法が効き難いことは、今のところリズミだけが知っている。リズミの隠し部屋を見つけた時から気になって、セアの『能力』について色々試していたリズミが、やっと辿り着いたのが、その結論。そのセアを一瞬にして、二の門と女王の居室との間にある謁見の間まで飛ばしたのだ。相当な力の持ち主である。
当のセアは、リズミの横できょとんと辺りを見回している。セアにとっては、この場所は、初めての場所。
あのガキが何故、わざわざこんなとことにリズミとセアを連れて来たのか、その必要性が、分からない。瞬間移動に驚いたセアが腕を離してしまったが故に姿が見えなくなってしまった少年を捜す為にもう一度ぐるりと辺りを見回してから、リズミはもう一度、腕組みをしてうーんと、唸った。
と。不意に、奥の暗い方から例の少年が現れる。
〈なっ〉
リズミとセアをここに連れて来た理由はともかく、セアを傷つける奴は許さない。リズミはセアを守るように、セアと少年の間に割って入った。だが、少年は不可視の存在である剣魔のリズミのことが見えているかのようにリズミを一瞥すると、持っていた円形のガラクタのような物をセアに差し出した。いや、ガラクタではない。埃を被ってはいるが、銀のような物質でできた王冠のような物、だ。
「私に?」
セアの問いに、少年はこくりと頷く。少年が押し黙ったままであることも、リズミには少し恐怖だった。目の前の少年がヴェシオ王子なら、王子は小さい頃の熱病と他国からの呪いの所為で声を発することができなくなったと聞いているから、当然だと納得できるのだが。いや、この少年がヴェシオ王子であるわけが無い。背丈のことは呪いの所為だとも考えられるが、王子はやはり小さい頃の熱病の為に、歩くことも、本を読むこともできなくなっていると聞く。この少年とは、違う。
〈セア!〉
少年からガラクタを受け取ろうとしたセアに、警告を発する。だが、リズミの警告は、少しばかり遅かった。
「きゃっ!」
セアがガラクタに触れた途端、ガラクタが急に強い光を発する。
〈セア!〉
言わんこっちゃない。速攻でセアの手からガラクタを叩き落とす。だが、セアの手から落ちたガラクタは、既に以前の形を取ってはいなかった。光が消えた後、リズミとセアの間の床の上にあったのは。
〈剣?〉
先程までの、鈍い光を放つ惨めな王冠ではなく、輝くような銀色の、剣。小柄なセアが持っても上手く扱える大きさの剣が、リズミとセアの間に、確かに、あった。剣身の鍔に近い場所が何かを嵌める為に楕円形に凹んでいる以外は、とても優美で、そして何でも斬ることができそうな、薄刃の剣。
〈これは、……まさか〉
その時になって初めて、リズミは、少年が持って来た物がただの金属ではないことに気付いた。これ、は。……まさか。
〈ネイディア〉
昔の、苦い思いが、蘇る。何とかその思い出を心の奥底に突っ込むと、リズミは驚愕のまま動かないセアの方を見た。セアは、ネイディアではない。ネイディアのようには、させない。
おもむろに、少年が剣を拾う。そして少年は、セアの、先程少年の手から金属を受け取ってから動いていない両手に、その剣を置いた。
次の瞬間。再び、リズミとセアは、外の叢の中に、いた。
「セア! どこだ!」
下級の衛士達をまとめる隊長の野太い声に、はっと我に返る。
できるだけ素早く、リズミは呆然とするセアの手から剣を取り上げると、セアを正気に戻す為にその背中を優しく叩いた。
今日は、風が強い。
衛士用の宿舎の窓から外を見、リズミは深く溜め息をついた。
城の一番外側を囲む城壁の北側に設えられた宿舎からは、フェ・イェール河を隔てて向こうにある森が月の光で微かに見える。その森の、得体の知れない黒いざわめきに、リズミは思わず舌打ちをした。城の北側にある森には、魔女が棲むと言われている。おそらくあの少年も、あの森の眷属なのだろう。リズミは無理矢理、そうこじつけた。……こじつけないと、昔のことを思い出してしまう。
溜め息のまま、手にした剣を見る。再びこの城に来るとは、思ってもみなかったが、その城でまた、女王に拘るごたごたに巻き込まれるとは。
「やっぱり、それ、返した方が良いわ」
セアの言葉が、蘇る。そのセアは、リズミの横で安らかな寝息を立てていた。先程まで、少年からもらった剣を見ながら「どうしよう、どうしよう」と小さく呟いていたのに。やはり、昼間の訓練が過酷だったからなのだろう。リズミはふっと笑うと、ずり落ちそうになった薄い毛布でセアの身体を覆い、衣掛けから落ちそうになっていた下級衛士の制服である生成り色のチュニックを直し、そして枕元の蝋燭を消そうと手を伸ばした。
だが。蝋燭を消す前に、廊下に足音が響く。この足音は。
「あら、セア、起きて……ないわね」
部屋に現れたのは、セアと同室の先輩、ジュリア。世話好きらしく、都自体が初めてのセアに城のことや街のことを色々教えてくれている、気の良い先輩。同室の者がこの、セアより少しだけ年上の優しげな少女であることに、リズミは正直ほっとしていた。衛士の中には新人を虐める者もいると聞いていたので、尚更。セア自身も、ジュリアに対して心を許しているようにみえるのは、おそらく、昔亡くしたあの少女とジュリアとを重ねて見ているからだろう。
そのジュリアは、眠っているセアの髪を軽く撫でると、ポケットからレース編み用のシャトルを取り出して蝋燭の横に置き、そして火の付いた蝋燭を蝋燭立てごと持ち上げ、再び部屋を出て行った。おそらく、ジュリアはセアの様子を見る為だけにこの部屋に戻って来たのだろう。
真っ暗になった部屋で、そっと、セアの傍に立つ。ジュリアと同じようにセアの髪を撫でると、セアがうーんと唸って寝返りを打った。リズミの手は、ジュリアの手のように小さくも細くもない。だから、セアを優しく撫でるには向かない。だが。セアを守るには相応しい手だ。節くれ立った両手を見つめ、リズミは強く頷いた。
どんな運命が待ち構えていようとも、セアは、自分が守る。
ネイディアのようには、させない。
次の日。
セアの訓練が終わり自由時間になるや否や、リズミは魔法を使い、セアと自分を昨日の『謁見の間』に飛ばした。
あの少年が『謁見の間』にいるかどうかは、賭け。だがそちらの方の心配は要らなかった。
「あ」
すぐにセアが、女王の椅子の前で本を広げていた少年を見つける。
「これ」
セアは真っ直ぐ少年に歩み寄ると、本から顔を上げた少年に件の剣を優しく差し出した。
「ごめんね」
謝ることは、ないのに。頭を下げたセアをもどかしく思う。だが、これが、セアだ。孤児として他人の中で育って来た所為か、セアは他人に痛いほど気を使う。そんなに気を使わなくて良いとリズミが諭す度に、セアは困ったような笑顔を見せる。それが、セアだ。自分を納得させるように、リズミは小さく首を横に振った。
と、その時。セアが少年に渡した剣が、再び光を発する。不思議に思うリズミの前で、剣は再び見窄らしい王冠へと変化した。
〈あれ?〉
リズミが知っているあの金属は、このような可逆的な変化をしただろうか? しばし考える。だがすぐに、リズミは考えるのを止めた。セアが少年に剣を返した時点で、あの金属とセアとは関係が無くなった。
急かすように、セアの肩を後ろに引く。再び魔法を使い、リズミとセアは元の明るい場所へと戻った。
それから、しばらく経った、ある日。
再び、城壁警護の任についていたセアの視線が叢へと動く。
また、あいつか? とっさに叢へ足を踏み入れたリズミだったが、目の前に現れた者にまた違う意味で驚いた。今度の影は、小さな少女。あちこちが裂けた生成り色のドレスに血が滲み、ドレスから出ている手足にも蚯蚓腫れや引っ掻き傷が見える。この傷は、……誰かに、折檻を受けたのか? でも、誰に?
「あ、あの、……大丈夫?」
セアも心底驚いているようだ。跪いて、震える影の方へ手を伸ばす。セアが差し出したその手に、影はぶるぶる震えながら後ずさった。
と。
「探せ!」
「まだ城からは出ていないはずだ!」
太い声が、耳に入る。リズミはとっさに魔法を使い、セアと少女を隠した。
二人を隠してすぐに現れた者達の服装に、驚く。彼らは、女王の近衛兵であることを示す紺色のマントを羽織っていた。磨かれた剣を吊す、金糸で刺繍が施された紺色の帯も、リズミには見慣れた形。その近衛兵が、こんな小さな少女を捜しに? 疑念が、つのる。少女自身は見窄らしいが、着ているドレスは良い生地を使っている。この少女は、一体何者なのか?
視線を感じ、振り向く。しゃくり上げる少女を抱き締めたセアの瞳も、リズミと同じような疑問の色を浮かべていた。
とりあえず、少女の手当が先だろう。近衛兵の姿が見えなくなってから、リズミはセアから少女を受け取った。手当てできるのは、セアの部屋しかない。とりあえず、そこへ行くか。リズミはセアに頷くと、転移の魔法を使おうと、した。
そのとき。
「セア!」
不意に現れた声に、はっとする。再びセアに少女を預けると同時に、ジュリアが、セアとリズミの前に現れた。
「どうしたの、その子……」
セアにすがりついている少女を、上から下まで眺め回したジュリアが、はっとした表情を見せる。近衛兵を、呼ぶか? 呼ぶのであれば、セアに対する日頃の恩はあるが、当て身で対処するしかない。そう思い、リズミは拳を作った。
だが。
「逃げて来たのね、その子」
ジュリアは微笑んでセアに近づくと、セアの傍で身を屈め、少女の頬に軽く触れた。
「名前は?」
優しい声が、響く。
「アン」
ジュリアの声に、少女は小さな声で答えた。
その声に、ジュリアは再びにこりと笑う。そして。
「うーん、些細なことに拘るなって、言われているんだけど」
不意に難しい顔になったジュリアは、姿勢を戻すとセアを真っ直ぐ見つめた。いや、ジュリアの視線は、セアにではなく、その後ろにいるリズミにも注がれている。この少女、は。リズミは初めて、ジュリアに対して警戒心を持った。
「ま、なんか変な者が付いてるし、大丈夫でしょ」
そう言いながら、ジュリアはポケットをまさぐり、レース編み用シャトルを一つセアに渡す。
そして。
不意にジュリアが、リズミに対して不敵に笑う。
次の瞬間、景色が変わった。
気が付くと、リズミは雑踏の中に立っていた。
「ここ、は……」
傍には、呆然と立っているセアと、そのセアにすがりついたままのアンという名の少女がいる。おそらく、ジュリアが転移の魔法を使ったのだろう。この前の少年といい、ジュリアといい、この街には魔法が掛かり難いセアを魔法で他の場所に飛ばすことができる、魔法力の強い者がかなりいる。さすがに首都だ、気を付けなければ。リズミはフンと鼻を鳴らした。
しかし、さすがに雑踏の中で立ち尽くしているわけにはいかない。リズミはセアを少女ごと抱え込むように腕を伸ばすと、手近な脇道へ移動するようセアを促した。
「すごい、人ね」
リズミの胸の中で、セアが声を出す。都に出てくるまではずっと、人の少ない場所で暮らしていたセアにとって、人がたくさんいる光景は見慣れないものなのだろう、少し息が荒くなっている。大丈夫だ。そう言うように、リズミはセアの背を撫でた。
ミーゼス王国の首都は、ユール平原を流れるフェ・イェール河の傍、街道沿いにある。河による交易と街道による交易で栄えているから、小さくとも他の国に負けない王国がここにある。
と。
「お家」
不意に、アンがセアの腕から離れる。脇道を雑踏とは逆の方向へ進むアンを、セアとリズミは慌てて追いかけた。
「……え」
暗い脇道を出て、驚く。
人々で溢れかえっていた場所から道一つ奥へ行っただけなのに、大人が二人並んで歩ける通りには人っ子一人いなかった。周りの建物も、漆喰が禿げ、窓の板戸が壊れて垂れ下がっている。通りの敷石も、剥がれている場所の方が多い。この落差は何だ? リズミは正直驚きを隠せなかった。栄えているのは、見せかけだけなのか?
次の瞬間。殺気を感じ、通りの向こうを見る。ここより更に荒れた家屋の前で、小さな影が大きな影と対峙している。
「リズミ」
アンを捕まえたセアが、大きな影を指し示す。大きな影は、小さな少女を抱えるようにして持っていた。
「妹を返せ!」
小さな影の、少年特有の甲高い声が、耳を打つ。
〈行くか〉
弱い者を放ってはおけないセアの性格は、リズミが一番良く知っている。こういう性格も、ネイディアに似ている。意識に浮かび上がって来た影を、リズミは早々に追い払った。とにかく、今は。
ここで待っているようアンに言い含めるセアを置いて、大きな影に向かって突進する。その影の、小さな少女を抱えている右腕を、リズミは確かに叩いた。
だが。
〈……あれ?〉
手応えの無さに、愕然とする。大きな影の方を振り返ったリズミは、影が先程の場所から微動だにしていないことに愕然とした。改めて、影を見据える。この影は、普通の大柄な人間とは少し違っていた。胸が膨らんでいるから女だということは分かる。だが、その影が纏う気配は、人間のものではない。……どちらかと言うと、魔物のもの。
〈止まれ! セア!〉
妹を返せと叫び続ける少年の横で、衛士用に支給された重い剣を抜いたセアに、叫ぶ。この者は、セアに倒せる相手ではない。リズミ自身の力を全て使っても、倒せるかどうか。
「この野郎!」
リズミが思案している僅かな間に、少年が魔物に向かって突進する。
「ちょっと!」
慌てたセアが少年の後を追うのが、リズミの目にはっきりと、映った。
〈ちょっと待てっ!〉
思案する時間も無いのか! 怒りより先に飛び上がり、セアと魔物の間に立つ。腕を伸ばしてセアを止める前に、突き出た舗装石に足を取られたセアが転けてくれたのは助かった。次は。両腕を伸ばし、今しも少年の上に落ちてきかかっていた魔物の腕を、止める。だが。
〈ぐ……!〉
力勝負なら勝てると思っていたのだが。リズミを地面に押し込もうとしているかのような、相手の意外な力強さに、思わず呻く。負けを認めるのは悔しいが、押されるように一歩、また一歩と下がる。少年を抱き締めたセアが、リズミの思いを知ったかのように少年を抱えたまま後ろに下がってくれるのが、リズミにはありがたかった。だが。このまま下がり続けるわけにはいかないのは、自明の理。どう、するか。リズミの頭は限界まで回転を続けていた。
と。
「……うぐっ!」
唐突に、魔物がうめき声を上げる。唖然とするリズミの前で、魔物は咆哮を上げると煙のようにするすると消えていった。後に残ったのは、呆然とする少女と、おそらく転けた瞬間にポケットから転がり落ちたのであろう、セアがジュリアからもらったシャトル。
〈これで、助かったのか?〉
シャトルを拾い上げ、リズミの横に立ったセアに渡す。セアは不思議そうな顔で、シャトルを受け取った。
「その、シャトル」
不意に、少年の声が耳を打つ。シャトルを持ったセアの手を、少年が覗いているのが見えた。
「ジュリア姉さんの、だ?」
「ジュリアを、知っているの?」
セアの問いに、少年がこくんと頷く。
「本当の姉さんじゃないんだけど、姉さんみたいな人」
少年は「ポワン」と自分の名前を名乗ってから、セアに向かってにっこりと笑った。
「姉さんの知り合いなら、僕の知り合いだね」
「え、ええ」
ポワンに手を取られたセアが戸惑いの声を出す。
「それにしてもすごいね。あの魔物を魔法で止めるなんて。ジュリア姉さんより魔法力が強いんじゃないかな」
妹だという、先程まで魔物に囚われていた少女を抱き締めて、ポワンが言う。
「助かったよ。ありがとう」
「あ、うん」
ポワンの言葉に、セアは戸惑いの声しか出せない。当然だろう。セア自身は、何もしていないのだから。魔物を止めたのはリズミだし、魔物が消えたのは、ジュリアが渡してくれたシャトルのお陰。まあ、剣魔であるリズミは普通の人間には不可視であるわけだから、セアが褒められた方がリズミには都合が良い。
「あ」
不意に、セアが声を上げ、もと来た道を戻る。すぐに、泣きそうな顔をしたアンを連れて、セアは戻って来た。
「あの、この子のお家、知らない?」
セアがポアンに問うと今度はポワンが不思議そうな顔をした。
「どうしたの、この子?」
お城でのことを、セアが遠慮がちに説明する。たちまちのうちに、ポワンの顔が曇った。
「この子の家、探しても無駄だと思うよ」
ただ静かに、それだけ言う。
何故? セアがそう聞く前に、ポワンは妹を連れて去って行った。
とりあえず、アンの記憶をたよりに、アンの家を探す。
辿り着いたのは、やはり見窄らしい家々が立ち並ぶ一角の、それでも少しは賑やかそうな家。
「ママ!」
心底嬉しそうな声で、アンが扉を開ける。
少しの静寂の後、聞こえて来たのは罵声だった。
「なんで帰って来たの!」
金切り声と共に、アンの小さな身体が外に放り投げ出される。地面に落ちるギリギリで、リズミはアンの身体を受け止めた。
「もうあんたはここの家の子じゃないの! もう消えて!」
呆然とするセアの身体を空いている腕で掴み、ほうほうの体で逃げ出す。道の遠くまで響くヒステリックな叫び声に、リズミは思わず耳を塞ぎたくなった。腕の中のセアは、大きな目に涙を浮かべている。
そして。
「言った通りだろ」
何とか脇道に逃げてきたセアとリズミに、いつの間にか横にいたポワンが肩を竦めてみせる。
「あの女は、自分の娘を全員王宮に売ったんだ」
「売った?」
ポワンの言葉に、セアの瞳が大きくなった。
「そう。知らなかったの?」
「ええ」
こくんと頷くセアに、せせら笑うように、ポワンは言葉を継いだ。この街に住む貧しい女で、娘を売る意志のあるものは皆、僅かなお金で娘を王宮に売っている。
「それでも足りないらしくて、最近では小さい子をさらう化け物も現れてるけどさ」
「化け物、って」
「そ、アンタがさっき追っ払った奴」
何故、王宮は、小さな娘達を買ったりさらったりしているのだろう? 悄気るアンの、蚯蚓腫れに、嫌な予感が沸き立つ。
「分からない」
セア経由でのリズミの問いに、ポワンは口を噤み、首を横に振った。
「でも、まともな扱いを受けてないのは、分かる」
だからポワンは、妹をさらう魔物に命懸けで立ち向かったのだ。
「大人達は、みんな諦めている」
ポワンの、悔しそうな声が、響く。
「小さな、手のかかる娘をさらうだけで、税金を搾取するわけでもなく、ここから追い出されるわけでもないんだから、ね」
ポワンの言葉には、明らかに、侮蔑の調子が含まれていた。
「それで、いいの?」
「良くないよ」
セアの言葉に、ポワンはむっとした表情を作る。
「だから、俺達が色々頑張っているんだ」
そこまで言ったポワンは、不意に、しまったという表情になった。
〈俺、達?〉
「ま、まあ、ともかく、この小さいのも俺が預かるよ」
取り繕うように、ポワンがアンの頭を撫でる。
「親に見捨てられた子をみてくれる人が居るんだ」
ポワンの言葉に、セアは明らかにほっとした表情を浮かべた。
それにしても、解せない。無意識に考え込む。王宮は、何をしているのだろうか? 街の状況から察すると、幼い娘を買ったりさらったりする命令は、おそらく国の最高責任者、女王から出ているのであろう。セアが生活しているところなのに、内部が分からないことが、不安でならない。
現女王であるエナのことは、女王の住む城内で働いているにも拘わらず断片的にしか分かっていない。先代女王セレーの妹で、もうそろそろ老年に足が掛かりそうな年齢。表にはあまり出ず、政治は元老院に任せ、王宮の奥にある居室に閉じ籠もっている。エナ女王についての情報は、それだけしかない。それが、リズミを不安にさせた。
セアの望みとはいえ、王宮に来てしまったことに、後悔を覚える。だが。とにかく今は、セアは城で働いている。帰らなければならない。
俯くセアの背中を、リズミは励ますように軽く、叩いた。
リズミの魔法で、こっそりと、城内の、アンを見つけた叢へ降り立つ。
既に、夏の陽は沈みかけていた。
〈部屋に、戻るか〉
憔悴しきったセアに、そっと尋ねる。セアはこくんと頷くと、ふらふらした足取りで宿舎の方へ向かった。
と。
「ここにいたのか、セア!」
隊長の声に、はっと顔を上げる。普段は自信に満ちた隊長の、落ち着かない顔に、リズミは嫌な予感が心に満ちるのを感じた。
案の定。
「二の門と元老院議場の警備が足りないから、人を出してくれと言われた」
隊長の声が、耳を打つ。セアは、まだここに来たばかりだ。そうリズミが声を上げる前に、隊長の声が、響いた。
「新人の方が良いと、言われたんだ」
そんな。内部で何をやっているか分からない城なのに、危険な奥へ近づけというのか。しかしリズミにもセアにも、選択権が無いことは分かっていた。
そっと、セアを見やる。青白い顔をしたセアの全身が酷く震えているのが、夕暮れの中でもはっきりと、分かった。
身体が壁に触れる度に舞い上がる埃に、思わず咽せる。
〈セア、大丈夫か?〉
聞こえて来た咳に下を向くと、リズミを見上げたセアの瞳が、にこりと笑った。しかしすぐに、埃が目に入ったのか、セアは俯いて目を瞬かせる。
〈擦るなよ〉
そう、言いながら、リズミは張り付いていた壁から飛び降り、マントの端でセアの目をそっと拭いた。
リズミとセアが掃除しているのは、謁見の間。二の門の内側の警備担当に移ったはずなのに、最初に言われた仕事が、この場所の掃除。衛士として雇われてまだ日の浅いセアには、普通に警護の仕事を割り当てられるよりは楽でマシ、なのかもしれないが、あちこちを掃いたり拭いたりする度に舞い上がる埃には、リズミは閉口していた。この場所は、かなり放置されていたようだ。
「前の掃除担当がいたのに?」
リズミが不満を口にした時、セアは首を傾げてこう言った。確かに、先の掃除担当だと紹介があった、やたらお喋りの娘からの引き継ぎはあったが、おそらくあの娘は殆ど仕事をしていない。謁見の間の掃除担当は一人だけで、監督する人間も掃除の具合をチェックする人間もいないのだから、いくらでもサボれる。一生懸命掃除しているセアの方が真面目過ぎるのだ。
「あの人、もう田舎に着いたかな?」
ステンドグラスに息を吐きながら、セアが呟く。引き継ぎの時、「やっと暇がもらえるんだ」と嬉しそうに話していた娘のソバカスだらけの顔を、リズミは不意に思い出した。身内の居ないセアには、娘の言葉は辛かったに違いない。リズミはふっと肩を竦めると、セアの背丈では脚立があっても届きそうにない、ステンドグラスの上の方を拭く為に再び壁に張り付いた。魔物であることは、こういう時に役に立つ。……本当は、もっと別のところで役に立った方が、リズミとしては嬉しいのだが、どちらにせよセアの役には立っている。
跳び上がってから、ぐるりと辺りを見回す。リズミが今居る場所は、謁見の間の壁にぐるりと設けられた、警護と整備用の二階回廊。だから、吹き抜けになった謁見の間全体がよく見える。リズミが居る西側は、壁を挟んで女王の生活空間になっているから、ステンドグラスも二階部分にしかない。だが、向かいにある東側の壁には、二階部分のみならず一階部分にも、歴代女王の即位風景が描かれたステンドグラスが嵌っている。拭くべきステンドグラスは、まだまだたくさんある。リズミはふっと溜め息をついた。ここまで広いのだから、前任の娘が掃除を諦めたのも、ある意味当然かもしれない。
そして。再び、今掃除をしている側の壁を見つめ、息を吐く。今セアとリズミが拭いているステンドグラスは、初代女王の即位を描いている。左隣は、初代女王が、圧政を敷いた前王国の暴君と対峙する場面、そして右隣には、初代女王に仕えることを拒否した前王国の貴族達の反乱に立ち向かう若い騎乗の女性が描かれている。左隣はともかく、右隣、は。心の痛みを抑える為に、リズミは目の前の掃除に集中した。
だが。ステンドグラスの上側、薄い色の硝子が嵌められた場所からの光景に、無意識に見入られる。ステンドグラスの向こうは、女王が住まう場所。石壁に囲まれた小さな中庭が見える。その中庭の真ん中に、朗らかに笑う女王が、居た。その女王の胸にある鮮紅色の塊に、目が釘付けになる。あの、宝石は。いや、まさか、あの『石』であるわけが、ない。あの『石』は『女王の印』に嵌ってなければならないのだから。だが。……前に、少年がセアに差し出した金属、あれは『女王の印』に用いられていた金属にそっくりだった。まさか。……いや。胸騒ぎを、リズミは心の奥底に無理矢理押し込めた。現在の女王、エナは、セレー女王の妹だと聞く。ならば、正規の女王だ。あの『石』の力を抑えることは、できているはずだ。ネイディアと、ネイディアの弟のようなことには、なっていないはずだ。……だが。そこまで考えて、リズミはまだまだ一生懸命ステンドグラスを拭いているセアをじっと、見つめた。万が一の時には、セアだけは、守らねば。
「……あ」
セアの声に、思考が途切れる。
「ここから、女王様が見えるんだね」
いつの間にか、セアも、リズミと同じように薄い色の硝子を通して女王を見ていた。
「女王様、綺麗」
うっとりとした声が、響く。硝子越しではあるが、確かに、エナ女王は、若く、そして美しく見えた。
「お付きの皆も、楽しそう」
女王の周りには、紺色のマントを羽織った輝かしい近衛兵の他に、可愛らしい色とりどりのドレスを身に着けた幼い娘達が様々に動いている。近衛兵も女性で、女ばかりの光景だが、それでも、夏の光の中、セアの言うように皆楽しそうに、見える。だが。
「売られた女の子達、かな?」
セアの呟きで、思考は現実に戻る。王宮は、女王は、都の貧しい人々から幼い娘達を買ったりさらったりしていると聞いたのは、つい最近のこと。今、リズミとセアが見ている子供達が、売られたりさらわれたりした少女達なのだろうか? だとしたら。……幸せそうだ。だが。セアが見つけた、アンという名の少女の傷が、リズミに嫌な予感を思い出させた。あまり表に出て来ない所為か、エナ女王には、秘密が多過ぎる。
隣接する元老院の議場から、昼を知らせる鐘が聞こえて来、思わずほっとする。
〈セア、昼だ。早く行かないとまた食いっぱぐれてしまうぞ〉
朝晩二食が普通の支配階級には珍しく、三食出してくれるのは嬉しいが、警備や雑用の人員に比べて用意量は常に少ない。リズミが急かすと、セアは雑巾を持ったまま回廊を降りる階段にその足を向けた。
早めに動いたお陰で、少ないが昼食にはありつけた。これで、夕食までセアがひもじい思いをすることはないだろう。『お腹が空く』という感覚は、剣魔であるリズミには分からない。それでも、空腹がかなり辛いものであるということだけは、人間を観察していて理解していた。
〈今度は向こうの回廊を掃除しよう〉
昼食の前まで掃除をしていたステンドグラスの方へ向かおうとするセアを、制す。
〈左右同じように綺麗な方が、調和して良いんじゃないか? 今からだとあちら側は陽が入るし〉
首を傾げるセアにそう説明すると、セアは素直に頷き、雑巾と桶を持って東側の二階回廊に繋がる細い階段を上った。
西側のステンドグラスに比べ、東側のステンドグラスは、歴代女王の即位風景を描いているのだから、同じ構図の物ばかりである。真ん中に女王自身、その下に、女王が生んだ子供達が、女の子は長い紺色の服を、男の子は短い紺色の服を着て描かれている。女王が亡くなった時に作成されるので、ステンドグラスは先代女王セレーのものまでしかない。残りの壁の、女王のステンドグラスが嵌る場所には、幾何学模様のステンドグラスが嵌っている。二階回廊の、元老院の議場に一番近い側にあるセレー女王のステンドグラスの前に、セアは桶を置いた。
〈おや?〉
セアが拭き始めた、紺色の部分に、違和感を覚える。セレー女王の子供はヴェシオ王子だけなのだから、子供が一人しか描かれていないのは当然として、その子供の描かれ方が、おかしい。服の丈が長いのだ。王子は男の子であり、女の子ではない。何故だろう? リズミは思わず首を傾げた。そして。セレー女王の隣にある、セレー女王の母親を示すステンドグラスを見たとき、リズミの違和感は最高潮に達した。セレー女王の母親のステンドグラスに描かれた子供は、丈の長い服を着た子供が一人と、丈の短い服を着た子供が二人。女の子が一人と男の子が二人、だ。女の子がセレー女王であるとすると、エナ女王はどこに描かれているのだろうか? ステンドグラスの細工職人が忘れたということは、有り得ない。確かめるように、東側に描かれたステンドグラスを一つずつ見ていく。ステンドグラスを固定する金属部分に、見えないほど細くではあるが描かれた人物の名前が書かれていたので、家系図を作ることは意外に簡単だった。
〈……あれ?〉
家系図をどう描いても、セレー女王の時点で、女王位を継げる『女王の娘の娘』がセレー女王だけしかいなくなる。と、すると、……エナ女王は、どこから来たのだろうか? ステンドグラスの意味を知らないセアは、本当に真面目に掃除をしている。だが、リズミは、ステンドグラスが意味するところに混乱していた。
と。
人の気配に、はっとして顔を上げる。
いつの間にか現れたのだろうか、セアにガラクタ金属を差し出した件の少年が、謁見時に女王が座る椅子の前に陣取り、本を広げていた。
「……王子?」
セアも、少年に気付いたようだ。掃除を中断して、回廊を降りる。サボりたく、なったのか? リズミのセアに対する疑問は、しかし、良い形で裏切られた。
「王子、ここは埃っぽいですよ。暗いですし」
本を読む少年にそう声をかけるセアは、本当に少年を気遣っているように、リズミには見えた。
「本なら、元老院の開いている執務室で読んだらいいですよ。あそこなら、明るいし、静かだし、清潔だし」
だが、セアの気遣いに、少年は本から顔を上げてにこりと笑うだけ。動こうとすら、しない。仕方無く、セアは掃除を止めて少年の傍へ座った。
「……あれ、その紋章」
不意にセアが、少年の持つ本の表紙に触れる。少年が本を閉じたので、リズミの目にも、革表紙の本に押された一角獣の紋章がはっきりと、映った。その一角獣の紋章は、城壁ではためく旗に描かれた紋章とは、少しだけ違う。同じ一角獣だが、王錫を持っておらず、代わりに王冠を被っている。この、紋章は。思わず、息を吐く。……おそらく、先代女王セレーのものだ。少なくとも、王錫を持った一角獣を紋章とする現在の女王エナの持ち物ではない。
そっと、腰のベルトをまさぐる。そこに付けていた佩玉を、リズミはそっと握った。この佩玉は、セアから預かったもの。孤児院の玄関に捨てられていたセアが身に付けていた、セアの出自を示す大切なもの。苛めっ子達に取られるのを恐れたセアが、信頼するリズミに預けたもの。その佩玉に彫られているのも、王冠を被った一角獣。これは、何の一致だ? 悪い予感に、囚われる。セアの掛け替えの無い友人が望み、セア自身も望んでいたとはいえ、やはり、この王宮にセアを行かせたのは、間違いだった。リズミはそっと、舌打ちした。
リズミの焦燥に対し、セアの方は、佩玉に刻まれた紋章と本に描かれた紋章との一致にまでは考えが及ばなかったようだ。再び本を開いた少年が示した挿絵の方に興味を示している。そのセアの、どことなく楽しげな様子に、リズミはほっと胸を撫で下ろした。
次の日。セアとリズミが雑巾と桶を抱えて謁見の間に入ると、少年は既に昨日と同じ場所に陣取っていた。
これでは、掃除をすることはできない。リズミの横で吐かれたセアの息が聞こえてくる。そしてセアは、昨日と同じように少年の横に座った。
この少年は、どこからここに入って来ているのだろうか? 並んで床に腰を下ろしている二人を見ながらふと、疑問が湧く。この少年は、本当に、「王子」と呼ばれる身分の者なのだろうか? リズミがそこまで考えた、丁度その時。
「おや、ヴェシオ王子」
謁見の間と元老院を繋ぐ扉から、大きな声が響く。顔を上げると、恰幅の良い白髪の紳士が、リズミ達の方へ歩いてくるのが見えた。あの白髪には、見覚えがある。都の民や外壁を守る衛士達に演説をしているのを、しばしば見ている。元老院の議長を務める、王国でも屈指の貴族、クライス大臣、だ。
「ここにおられたのですか」
白髪の紳士クライスが、少年に頭を下げる。
こいつ、本当に『ヴェシオ王子』だったのか。リズミは正直驚いた。大臣クライスが言うのだから、間違いない。だが。……ヴェシオ王子なら、もう少し大きいはずだ。母であるセレー王子が亡くなったが、十年前なのだから。こんな七、八歳くらいの幼い王子では、絶対無いはずだ。やはり、噂通り、他国からの呪いの影響なのだろうか? それとも。……何らかの、リズミには推し量ることすらできない秘密が、あるのだろうか? リズミは思わず首を傾げた。
嘘をつく為政者は、多い。嘘をつくことができなければ為政者になれないとでもいうように。だが、ヴェシオ王子のことで嘘をつく理由が、エナ女王には無い。ミーゼス王国は『女王が治める国』だ。『女王の娘の娘』でないと女王にはなれない。男系の血を継ぐ者には、あの『石』を封じる『力』が無いのだ。だから、ヴェシオ王子には王国の継承権が、無い。権力から遠い王子に謀略を使っても、時間の無駄だ。
「そなたは?」
不意に、大臣クライスがセアの方を見る。セアははっとその場で固まると、ぎこちなく立ち上がり、どもりながら自分の名と、衛士であることを口にした。
「そうか」
あくまで真面目なセアを見て、大臣クライスの顔が綻ぶ。
「王子のこと、よろしく頼む」
セアの手を握り、クライス大臣は鷹揚に笑った。
だが。
生きて、いられるならば。去り際に小さく呟かれたクライスの言葉を、リズミは不吉にも聞き逃さなかった。
掃除をし、王子と取り留めも無い話――但し、王子は喋れないのでセアが一方的に二言三言話すだけだが――をして、一日が終わる。こんな日々を、何日続けただろうか。今日も、セアとリズミはせっせと、使われそうにない謁見の間を掃除していた。
今日は何故か王子が現れないので、掃除はさくさくと進む。女王自身が外に出て親政をしようとしないのだから、謁見の間など無用の長物。それなのにセアは真面目に掃除に勤しんでいる。呆れながらも、それでも毎日、リズミはセアに付き合った。どんな仕事でも、セアが満足していれば、それで良い。
と。
一階の、女王の椅子に近い側にあるステンドグラスを磨いていたセアの手が、不意に止まる。どうした? そう、リズミが尋ねる前に、セアは女王の椅子の方へと耳を向けた。
「泣き声が、聞こえる」
セアの言葉に、耳を澄ます。だが、リズミの耳には、泣き声など全く聞こえない。ただ、どこからか入ってくる隙間風の音が、聞こえるだけ。よしんば風の音ではなく本当に泣き声だったとしても、セアを危険に近づけるわけにはいかない。ここは、女王の居室のすぐ近くなのだから。
だが。
〈風の音さ〉
事も無げにそう言ったリズミの言葉を押しのけるように、セアは埃っぽい女王の椅子の側に立ち、耳を澄ませる。すぐに何かを見つけたらしく、セアの身体は、女王の椅子の横向こう、古いタペストリーが作る陰の方へと向かっていた。
〈おいおい〉
溜め息をつくより早く、追いかける。セアが他人を見捨てておけない性格なのは、今に始まったことではない。しかし、である。何があるか予想もつかないのに突っ走るのは悪い癖だ。
〈……お〉
セアを追ってタペストリーの陰に入ったリズミは、その場所に扉があることに驚いた。いや、ここは謁見の間なのだから、女王の居室と謁見の間とを繋ぐ出入り口があること自体はおかしくはない。だが、汚れた木壁と区別がつかない、こんな見窄らしい扉が、その出入り口であるとは。リズミは正直肩を竦めた。
だが。
〈ちょっと待て、セア〉
その見窄らしい扉を開けようとするセアを、慌てて止める。
セアはリズミの方を見、首を横に振った。
「この先から、聞こえてくるの」
おそらく泣き声のことを言っているのであろうセアが、もう一度、首を横に振る。だが、リズミには全く聞こえない泣き声の為に、セアが苦労するのは、馬鹿げている。リズミはセアを止める為に、扉とセアの間にその身をねじ込んだ。
と。
リズミの何かに反応したのか、音も無く、扉が開く。リズミにしか分からないほど微かな、漂って来た血の匂いに、リズミの全身が総毛立った。
この先に、行ってはいけない。無意識に、扉の向こうに行こうとしたセアの右腕を掴む。だがセアは、リズミの方を見て首を横に振ると、扉の先に見える階段に足を掛けた。仕方が無い。何度目かの溜め息を吐いてから、セアの後ろにぴったりと付き従って階段を下りる。階段を下りきった先には、細い光の漏れる隙間が、あった。
その隙間の、先には。
〈うっ〉
目にした光景よりも先に、濃い血の匂いに、目眩がする。リズミは慌てて、頽れたセアの身体を静かに支えた。リズミの目に映るのは、深紅の色。裸にされた娘達が鞭打たれて倒れる光景と、呻き。そして鞭を持ち、興奮で顔を赤くした、エナ女王。
「リズミ、これ……」
セアの言葉に、リズミはセアの口を塞ぐ。セアを連れて、戻らねば。頭ではそう、思っているのに、身体が思うように動かない。
動けないリズミの前で、エナ女王が今度はナイフを手にする。倒れている娘の一人――その娘は、セアの前に謁見の場の掃除担当だった娘に似ていた――の髪を鷲掴みにすると、エナ女王はその娘の首にナイフを突き立てた。
狭い空間に、娘の絶叫が響く。娘の首から噴き出した血を、エナ女王は美味しそうに吸い始めた。娘の血には、若返りの効果があるという噂がある。ただの取るに足らない噂だが、エナ女王は信じているらしい。血に濡れた口許が、艶冶に綻んだ。
と。
恍惚としたエナ女王の視線が、リズミ達の方を向く。気付かれた。そう思う間も無く、リズミは呆然とするセアを抱き上げ、階段を駆け上がった。
「ユイット! アハト!」
甲高い声が、背後からリズミを襲う。謁見の間に出た瞬間、リズミとセアは大女の影二つに挟まれた。その一つには、街でお目にかかったことがある。こいつら、女王の眷属だったのか。リズミはセアを床に置くと、殊更慎重に身体を構えた。この大女には、刃物が効かない。殴るしか、無い。そう考えるなり、リズミは、前方から飛びかかって来た大女に力一杯の拳を振り下ろした。予想通り、手応えがある。
「リズミ!」
セアの声が耳を打つ前に、後ろの大女にも、横殴りの拳を浴びせる。しかしながら。……いかんせん、一対二だ。リズミが不利であることは、目に見えている。だが、それでも、セアは、セアだけは守り通さねばならない。
と。
「リズミ!」
再びのセアの声が、耳を打つ。大女の一人の腕の中で、セアが一生懸命手足をばたつかせているではないか。いつの間に。舌打ちする間も無く、セアを捕らえている大女に突進する。だが、もう一体の大女が、リズミの進路を塞いだ。大女と一対一で、力の押し合いをする。だが、焦るリズミの目の端に、もう一体の大女がセアを見窄らしい扉の方が連れて行く様子が映った瞬間、リズミは焦りのままに対峙している大女から身体を離した。セアを、連れて行かせるわけにはいかない、だが、大女二体に対抗する方法が、分からない。
次の瞬間。セアの手から、何かが落ちる。前にルームメイトのジュリアがくれた、シャトルだ。リズミがそう理解する前に、セアを捕まえていた大女から絶叫が上がった。更に。リズミと大女の間で、光が爆発する。
「ヴェシオ王子!」
セアの叫びに振り返ると、リズミの後ろに古い傷が目立つ腕が、見えた。ヴェシオ王子が魔法を使ったのだ。それを理解するのに少し時間が掛かる。だが。
〈これなら〉
大女二体は怯んでいるだけだが、この時間を持て余す程リズミはバカではない。一瞬で、床に尻餅をついたセアを片腕だけで抱き上げる。そしてそのまま取って返すと、怒りの形相を見せた大女が襲い掛かっているヴェシオ王子の小柄な身体を、ギリギリのところで抱き上げた。セアの為に身の危険を顧みず魔法を使ってくれたのだ。そのヴェシオ王子を助けなかったら、後でセアに何と言われるか。
それはともかく。
あとは、逃げるだけだ。リズミがそう思った正にその時。
〈え?〉
一瞬で、視界が反転する。
とにかく、セアだけは守らねば。リズミは反射的に、セアをぎゅっと抱き締めた。
視界に、河と丘が映る。
この、河と、あの、丘は。夕日に照らされた、既視感のあるシルエットに、リズミはごくりと唾を飲み込んだ。丘の上の尖塔の形から、目の前の丘が、先程まで魔物と戦っていた場所、王宮だとすぐに分かる。何故、自分達は、王宮の外に? そうだ、セアは? 急に慌てたリズミは、しかしすぐに、尻餅をついたような格好で、やはり呆然と、影になった王宮を見つめるセアを、自分の傍に見つけた。セアの横には、同じく呆然としているヴェシオが居る。
〈大丈夫か、セア?〉
リズミの言葉に、セアが顔を上げて首を横に振る。だか、おそらく先程の大女の所為なのであろう、セアの衛士用脚絆に血が滲んでいるのが、見えた。怪我の具合は分からないが、とにかく、手当てしなくては。河原で傷を洗おうと、リズミはセアを抱き上げた。
と。
「ちょっと力が足りなかったかな、やっぱり」
リズミの後ろ、叢になった場所がざわざわと揺れると同時に、明るい声が耳を打つ。この、声は。振り向いて初めて、リズミは、背後が森であることに気付いた。この、森は。
「ようこそ、『魔女の森』へ」
リズミの前には、セアの同室者、ジュリアの、明るいが油断の無い笑顔があった。
「私は『動く者』。『森の魔女』の意を汲み、行動することが定め」
不可視のはずのリズミを見たジュリアが、森の奥を指し示す。
「普段は男性は入れないんだけど、今は緊急事態だから」
危険だ。警告が、リズミの脳裏に響く。この森に棲む『森の魔女』達と関わることは、セアにとって危険だ。だが。
「セアの怪我の手当、必要でしょ」
ジュリアの言葉に、頷かざるを得ない。
呆然とした顔のセアを抱き上げたまま、リズミはジュリアを一瞥すると、覚悟を決めて森の中へ入った。
セアの運命がどうであれ、セアを守りたい気持ちに、変わりは、ない。
しばらく歩くと、木々が開ける。
青や黄色の、ぼうっとした不思議な明かりが、リズミの目を射た。
ここにも、二度と来ないと、思っていた。だが。……これも運命だと、いうのだろうか?
「ようこそ」
木の影が、動く。現れたのは、黒いベールと黒いローブを纏った小柄な影。
「我が名は、リネア。この森を『統べる者』」
「統べる、者?」
リズミの腕の中に居たセアが、小さな声を発する。
〈この森の、頭領だ〉
リズミも小さな声で、セアの疑問に答えた。
「よく知ってるわね」
そのリズミの後ろから、ジュリアの声が響く。振り返ると、ヴェシオの手を握ったジュリアの姿が見えた。
「この者は、昔ここへ来たことがあるからな」
ジュリアの言葉に『統べる者』リネアが微笑む。
「ふーん」
ジュリアは驚いたように口を開くと、ヴェシオを広場の真ん中に運んだ。
「諸々の話の前に、セアを治療しなくては」
『統べる者』リネアが、後ろを向く。すぐに、影の中から、濃い色のローブを纏った背の高い女性が進み出た。
「誰?」
「私達の仲間の一人。『視る者』」
リズミより先に、いつの間に傍に現れたジュリアがセアの問いに答える。
「さ、セアを下ろして」
ジュリアにいわれるまま、リズミはセアを、柔らかい苔の上に下ろした。
「セアには魔法が効き難いから、注意して」
ジュリアの言葉に、ローブの女性が頷く。
「ここに飛ばすのに、何人の『視る者』の力が必要だったか」
ぼやくようなジュリアの言葉を、リズミは聞き逃さなかった。ジュリア達が、セアを、助けた? 何の為に? その答えを推測し、リズミはぐっと唇を噛んだ。セアを、運命に巻き込んだ。今すぐ、セアをここから連れ出さねば。焦りに似た考えのままに、セアを抱き上げようとしゃがみ込む。だが。リズミの行動は、ジュリアのきつい視線に遮られた。
セアの傍に跪いた女性の右手が、草の上に腰を下ろしたセアの脚に触れる。すぐにローブの女性は立ち上がり、ジュリアに向かって首を縦に振った。どうやら、セアの怪我は大したことにはなっていないらしい。良かった。リズミはほっと胸を撫で下ろした。
対して、セアは。
「ごめんなさい」
不意に、セアが謝罪する。誰に、謝っている? 訝しむより早く、リズミはジュリアを睨んだ。先程のジュリアの言葉に、セアは自責の念を抱いたのだ。
だが。
「謝ることはない」
ジュリアがセアに何か言う前に、『統べる者』リネアの優しい声が響いた。
「その『力』が、必要なのだから」
やはり。ジュリアに睨まれて動けないので、殊更大仰に息を吐く。そんなリズミを無視し、『統べる者』リネアは広場の真ん中に呆然と立ち尽くすヴェシオの前に立った。
「話の前に、確かめておきたい」
リネアが、ジュリアを手招きする。
「この中で一番力が強いのは、ジュリア、そなただ」
リネアの言葉に、ジュリアはふっと微笑むと、リネアの手招きのままにヴェシオの横に立った。
「この封印が、解けるか?」
ヴェシオの顔下半分を覆う、金糸の刺繍が光る黒布をその節くれ立った指で示しながら、リネアがジュリアに問う。ジュリアは整った眉を顰めると、ヴェシオの顔に掛かった布に細い指を掛けた。すぐに。
「無理です」
布から指を離し、ジュリアが溜め息をつく。
「そなたはどうかな、フワーリズミ?」
全く唐突に、リネアはリズミを指差した。
〈俺か?〉
ヴェシオの顔を覆う布に何らかの強い魔法が掛かっていることは、何となく察していた。だが、それを外せとは。一体何を考えているのだろうか? 首を傾げつつ、リズミは渋々ヴェシオの横に立ち、件の布に手を掛けた。リズミの腕力なら、こんな薄い布ぐらい、軽々と裂くことができる。
だが。
〈……え?〉
破くことも、布をヴェシオの顔から外すことすらできない。リズミは呆然と、その場に固まった。だが。この布に掛かっている『力』には、覚えがある。リズミはごくりと唾を飲み込んだ。女王が身に付けている鮮紅色の『石』の力、だ。
「さて、セア」
呆然とするリズミの横で、リネアは今度はセアを手招きした。
「そなたなら、外せるはず」
「私、が?」
半信半疑のセアの声が、リズミを慌てさせた。ダメだ、セア。来てはいけない。自分の力を、証明しては、いけない。だが、リズミの警告が聞こえなかったのか、セアは脚の怪我を庇ったまま立ち上がり、おもむろにヴェシオの後ろに立った。そして。布を固定していた紐の結び目を、セアはいとも簡単に、解いた。
次の瞬間。ヴェシオの影が、一気に伸びる。
〈はいっ?〉
リズミ達の前には、小さな少年ではなく、少し細いが堂々とした美丈夫が立っていた。
「……あ」
その美丈夫の口が、動く。
「俺、は……?」
「封印が解けたな」
これが、本来のヴェシオ王子。リネアはそう言うと、口の端を上げた。
「これではっきりした。セアが、正規の女王、だ」
「え」
リネアの言葉に、セアとヴェシオが同時に声を上げた。
「そんな」
「嘘よ」
ヴェシオの驚愕に、セアの否定が混じる。
混乱する二人に、リネアは辺りを見回して言った。
「誰か、説明できる者は?」
リネアの言葉に、森中の影が動く。しばらく経ってから、小さな影がセアとヴェシオの前に現れた。
「アン!」
影を見て、セアが驚きの声を上げる。長過ぎるローブを纏ったその少女は確かに、セアが王宮から救った少女。
「彼女は『記す者』」
ジュリアがそっと、セアに告げる。『森の魔女』の使い走りであるポワンが連れて来たのだということも。
「ここに来たばかりだけど、才能が分かったから」
『森の魔女』達の行動を脳裏に記録し、覚え、次の世代に伝えるのが『記す者』の役割。『森の魔女』達の中でも、重要な存在。ジュリアはそう、セアに告げると、セアの右手を取った。ジュリアのもう片方の手は、アンの小さな手を握っている。魔女達は互いに手を繋ぐことで、記憶を共有することができる。アンのもう片方の手はリネアが握り、リネアは、ヴェシオの手に自分の手を重ねている。誰かに奪われる前に急いで、リズミはセアの開いている左手を強く握った。
セアのことを、知りたい。何があっても守る為に。それが、リズミの偽らざる思い。
空を飛ぶ感覚に、思わず身を震わせる。
遠くには、月の光に照らされた王宮のシルエットが、あった。
ああ、これは。『森の魔女』の、誰かの記憶。
〈先代の『動く者』の記憶よ〉
セア経由で、ジュリアの声が、響く。リズミが戸惑っている間に、視界の中の城は急速に大きくなり、やがて石壁に穿たれた一つの窓しか見えなくなった。
頑丈な鎧戸の嵌った窓から、するりと簡単に室内に入る。暖炉の火と蝋燭で明るい、広い円形の部屋には、二人の婦人が見えた。二人とも、腹が大きく、床に敷かれた毛皮に座って編み物をしている。
「もうすぐ、逢えるわね」
婦人の片方、紺色のマントを肩に掛けた方が、膨れたお腹を擦ってにこりと笑う。そのマントに描かれた紋章は、王家のもの。と、すると、この婦人は。
「急かし過ぎですよ、セレー女王」
もう一人の、穏やかな顔をした婦人の言葉で、予想は確信に変わる。
部屋の影に佇む人物には全く気付いていないセレー女王とお付きの婦人――顔が似ているから、彼女も王族の一員なのだろう――は、編み物をしながら話を続けた。
「女の子かしら? 男の子かしら?」
「女の子だと良いですね」
「そう?」
穏やかな婦人の声に、セレー女王はその時だけ眉を顰める。
「そりゃあ、女の子なら、みんな喜ぶ、けど」
暖炉の側に置かれた、鮮紅色の宝石が光る王冠を見やり、セレー女王は大きな溜め息をついた。
「……女王になって、『石』を守らないといけない運命なんて、私だけでたくさん」
「そんなことを言ってはいけませんよ、セレー女王」
民の、為ですから。婦人の声に、女王は少しだけ、頷いた。
「そうね」
その時、それまで固定されていた視線が、動く。
「セレー女王」
自分の口から重々しい女性の声が響くのを、リズミは確かに感じた。
「そなたの運命を、告げに来た」
いきなり部屋に現れた乱入者に、セレー女王は驚かなかった。
「『森の魔女』の予言なら、従う他はあるまい」
溜め息をつく女王に、『森の魔女』はただ静かに告げる。
「そなたの従妹、エナが、女王位を狙っている。そなたも、生まれ来るそなたの娘も、殺されるであろう」
「まあ」
「エナは『女王の息子の娘』なのに」
顔色を変える、女王と婦人。だがすぐに、女王はキッと眦を上げ、はっきりとした声で言った。
「そんなことは、させない。娘も国も、私が守る」
「落ち着け。お腹の子に障る」
女王の言葉に笑った『森の魔女』は、セレー女王に一つの方法を教えた。……女王の生む娘と、お付きの婦人の生む息子を、取り替えること。
〈まさか〉
ヴェシオの声が、響く。その声にリネアが頷いたのが、リズミにもはっきりと、分かった。
月満ちて、同じ日に、セレー女王はセアという名の女の子を、お付きの婦人――彼女もまた、セレー女王の従妹、『女王の息子の娘』であり、セレー女王の兄の妻でもあった――はヴェシオという名の男の子を産んだ。その二人の赤子を取り替えたのは、産婆として城に派遣された『森の魔女』。更に、セレーに頼まれて、『森の魔女』はセアを、国境近くの北の村にある孤児院に預けた。おそらく、セアの運命が『力有る石』と交わらないよう、セレー女王の願いを込めて。
そして、五年後、『森の魔女』の予言通り、エナはセレーを謀殺し、女王位に就いた。女王位に就くや否や、エナはセレーの王冠――『石』を封じる為に『森の魔女』達が作成した『女王の印』――から『石』を抜き取り、自分のものにした。
エナの行為が『石』に操られた所為かどうかは、分からない。
〈あの女王は、若さと王位が欲しかっただけ。だから、今のところは僅かな損害で済んではいるが〉
リネアの声が、舌打ちを誘発する。快楽の為に少女を殺すのが『僅かな損害』で片付けられることだろうか? セアの哀しみが、リズミの心に響いた。
そして。
〈あのステンドグラスを作ったのは、我々の意を汲んだ細工職人〉
運命に導かれた者の、理解の助けとする為に。そう、厳かに告げたリネアの言葉の中にある憂慮が、リズミの心を曇らせた。
不意に、視界に森が入る。記憶の共有が、終わったのだろう。リズミは自分の頭を整理するように目を瞬かせた。リネアと『森の魔女』達、そしてセレー女王が案じている事柄を、リズミは深く理解していた。彼女達は『石』の暴走を、そしてそれが故に仲間達とこの国の人々が苦しむことを、恐れている。だが。
〈嫌だ〉
リズミに取って大切なのは、セアだけ。セアを、ネイディアに生き写しのセアを、ネイディアのような運命に、巻き込みたくは、ない。
「運命を受け入れるしか、ないんだよ」
我が侭のようなリズミの思考を読み取ったかのように、リネアがリズミを見る。
「初代女王シフルも、そしてネイディアも、そうした」
リネアの言葉が、開きかけたリズミの口を封じた。
「ネイディア?」
そして。リネアの言葉に、再びセアが首を傾げる。そう。セアは、……何も知らないのだ。リズミが、教えなかったから。
「そうか」
セアの問いに、再びリネアがアンの手を取る。リネアのその行動を見て、ジュリアも、解いていた手をセアの手に重ねた。
「この王国の成り立ちも、教えよう」
そのリネアの言葉と共に、リズミの意識は、再び深い霧の中へと落ちていった。
鼓動が、早まる。
初めて身に付けたタフタのドレスが、身を締め付けて痛い。
〈落ち着いて〉
ゆっくりと息を吐きながら、シフルはそう、呟いた。
落ち着く為に、顔を上げる。厳めしい両開きの扉に描かれた双頭の蛇の紋章の、眼光の鋭さが、シフルの鼓動を早くした。
シフルは、この国に広がる森の中でひっそりと暮らし続けている『森の魔女』の一員。小さな頃から、『森の魔女』として過ごして来た。そして。シフルの『才能』を知った『統べる者』が、シフルに依頼したこと。それは、『暴君』としてこの国を蹂躙している王の手から、とある『宝石』を奪い取ること。鮮紅色をしたその『宝石』は、この世界に現れては害を為す『力有る石』の一つであるらしいと、『統べる者』はシフルに告げた。その『石』の力に惑わされず、『石』を奪う力を、シフルは持っていると。
『統べる者』に信頼されることは、『森の魔女』にとっては名誉なこと。だが、これから起こることを考えると、どうしても、震えが止まらない。
と。
重々しい音と共に、扉が開く。現れた影が持つ、紋章の蛇と同じ鋭い眼光に、シフルは思わず一歩、後ずさった。
「こやつが、今日の花嫁か」
シフルを一瞥した影が、吐き出すような声を出す。これが、暴君。これからシフルは、この暴君に処女を奪われることになる。そして、一夜を過ごした後は殺されるのが、『花嫁』の定め。服を剥ぎ取られ、残酷な刃で貫かれながら、シフルは正気を保とうと努力した。毎夜行われる残酷な儀式を、自分の番で止める為に、シフルはここに居るのだから。その為には。王の服の隠し所から、言われた通りの形のものを触覚だけで探し出し、取り出す。王はシフルの身体を蹂躙するのに忙しく、大切な『石』を奪われたことにも気付かない。あとは。
残酷な痛みに気を失う前に、教えられた呪文を唱える。
数多の足音が部屋に乱入すると同時に、シフルは意識を失った。
荒野の向こうに、深紅の旗が見える。
その旗に描かれているのは、双頭の蛇。先の王の、紋章。
その紋章に、溜め息の前に哀しみが増す。先の王がどんなことをしでかしていたのかは、皆知っていると思っていたのに。風に煽られたマントと、マントを留める白金色の留め金を直しながら、ふっと息を吐く。
「……ディアン」
溜め息と共に出た声に、リズミは戦慄した。自分は今、ネイディアの意識を生きている!
〈落ち着け、リズミ〉
『統べる者』リネアの声が、夢を乱すなと叱咤する。
〈これが、そなたの試練〉
不意に、視界の先に一騎の騎馬が映る。その馬に乗っているのは、ネイディアの双子の弟、ディアン。
『森の魔女』の要請により、新王国ミーゼスの初代女王になったシフルは、時を措くことなく双子を生んだ。彼らの父は、あの暴君。それでも、シフルはネイディアとディアンの姉弟を慈しみ、ディアンを次期の王と定めていた。だが。『力有る石』はディアンの心に侵入した。ディアンは父以上の暴君に成長し、父の復讐だと言って母であるシフルの暗殺を企て、それが失敗に終わると不満を持つ前王国の貴族達を集め、反乱を企てた。姉であるネイディアは、怪我をした母の代わりにその弟と話し合う為、ただ一人、馬に乗り、敵陣の前に立っていた。
強い風に、腰の剣が揺れる。弟と同じ柄の紺色の剣帯に吊されたこの剣を、今日は抜くわけにはいかない。母も、国の民も、ネイディアにとっては大切な存在。だが、生まれ落ちる前から一緒だった弟も、ネイディアにとっては掛け替えの無い、存在。『森の魔女』として生活してきていても、それだけは、変わらない。
だから。
抜き身の大剣をランスのように真っ直ぐネイディアの方に向け、勢い良く突っ込んでくるディアンを、ネイディアは避けようともしなかった。ディアンと一緒に武術の稽古もしたことがある。避けることもできたが、それでは、何もできない。目的は、唯一つ。ディアンの持つ『石』を奪うこと。それができれば、あとはどうなっても構わない。
鋭い切っ先が、馬上のネイディアの身体を貫く。その刃が離れる前に、ネイディアの右腕は、ディアンの胸で光る鮮紅色の光の方へ伸びた。だが。……あと一歩のところで、届かない。
その時。
「あの石が、欲しいのか?」
絶望の中で、声が聞こえる。
苦しい息の中、ネイディアはこくんと、頷いた。
次の瞬間。自分の右手が『石』を掴んだのを、はっきりと感じる。
〈これで、大丈夫〉
ネイディアはにっこりと笑うと、温かく感じる腕の中で目を閉じた。
〈……最悪だ〉
意識が森へ戻るや否や、舌打ちする。
自分の情けない姿を、ネイディアの姿で体験するはめになるとは。リズミはキッとリネアを睨んだ。だが。……本当は、分かっている。誰に怒りをぶつけても、仕方が無い。
そっと、セアを見つめる。青い顔をしたセアは、辛そうに首を横に振ると、しゃくり上げるように肩を揺らした。そうだ。静かに、セアの肩を抱く。他人の記憶とはいえ、こんなに生々しい記憶を体験させられたのだ。辛くなるのも当たり前だ。そして。……これからセアは、この辛さを自分の身で体験しなければならなくなる。その予感が、リズミの全身を冷たくした。
やはり、ここからセアを連れて逃げよう。勢い良く立ち上がろうとするリズミを止めたのは、またしてもリネアだった。リネアに睨みつけられると、動くことができない。大人しく、リズミはリネアの声に耳を傾ける他、無かった。
「我々の使命は、『力有る石』による災厄を無くすこと」
リネアの声が、森に重々しく響く。『石』を滅ぼすことが一番良い方法なのだが、『石』を滅ぼすことができる者は本当に稀にしか『この世界』に現れない。だから、次善の策として、『石』の暴走を止めることができる者を見出し、その者に『石』を預ける。ユール平原でその作業を代々行っているのが、『森の魔女』。
リネアがセアを見ているのが、分かる。リネアが、そしてここに居る『森の魔女』全てが、セアに何を期待しているのかも、リズミには手に取るように分かっていた。
「私に、何を……」
森の静寂に耐えきれなくなったように、セアがか細い声を出す。その声は、本当に頼りないようにリズミには感じられた。
そして。
「エナから『石』を取り戻し、女王位に就け」
セアの問いに、リネアははっきりと、リズミが思った通りの答えを出した。
「それが、民の為でもある」
リネアの言葉に、俯くセア。
セアの小さな背が震えるのを、リズミはただ、見守る他、無かった。
夏だというのに、森の夜はすっかり冷え込んでしまっている。真っ暗な空間で、リズミはゆっくりと息を吐いた。
セアは、眠れているだろうか? そっと立ち上がり、自分の上にある、セアに宛てがわれた木の洞のベッドの方を見る。洞を覗き込むと、濡れたような目の光が、セアが眠っていないことをリズミに教えた。
〈セア〉
そっと、洞に滑り込み、セアの横に座る。
〈泣いて、いるのか〉
リズミがそう問うと、セアはリズミを見、首を横に振った。
「どうしたら良いか、分からない」
呟きが、セアの口から漏れる。セアも、悩んでいるのだ。当たり前だ。重い決断を迫られているのに、泣いたり悩んだりしない方がどうかしている。
〈セア〉
だから。セアが小さかった頃のように、セアの身体を横抱きにする。セアはリズミの胸に顔を埋めると、しくしくと泣き始めた。
どのくらい、泣いていただろうか?
「でも」
不意に、セアが顔を上げ、リズミを見つめる。
「逃げちゃいけないのは、分かってる」
セアの瞳には、決意の色が宿っていた。
その瞳の色に、驚く。だから。
〈セア〉
リズミは思わず本心を言ってしまった。
〈セア、俺は、……あんたに逃げて欲しいと思っている〉
「え?」
リズミの言葉に、セアが目を見開く。そのセアに、リズミは、これまで誰にも言うことができなかった言葉を発した。
〈ネイディアを殺したのは、俺だ〉
リズミは元々、『この世界』の古き神々の一柱である『風神』に捧げられた、魔剣。今は王宮となっている、フェ・イェール河の真ん中にぽつんと浮かぶ島に祭られていた、存在。風神がこの世界を去って後は長く忘れられていたのだが、ネイディアの弟、ディアンが、『復讐』の名の下に、『力有る石』に操られるがまま古い神殿から持ち出した。
〈その時は、俺も、使ってもらえるのが嬉しかった〉
だが、ネイディアとディアンが一騎打ちをし、ディアンが操るリズミの刃がネイディアを貫いたとき、リズミは、ディアンが、そして自分自身も、『力有る石』に操られているだけの人形であることに気付いた。だからリズミは、重傷を負ったネイディアを助けてディアンから『力有る石』を奪い、ネイディアの遺体を『力有る石』と共に『森の魔女』の許へ運んだ。だからリズミは、王宮のことも、『森の魔女』のことも、知っていたのだ。
『力有る石』は、危険なもの。それが、リズミの感覚。『力有る石』に関わった者にあるのは、破滅だけだ。
だから。
〈逃げよう、セア〉
そう、セアに言う。セアには、『力有る石』が用意する破滅の運命から、逃げて欲しい。それが、リズミの本心。だが。リズミの言葉に、セアは強く、首を横に振った。
やはり、ダメか。悔しさが、心を覆う。だが。……運命に逆らわない方が、セアらしい。そう、どこかで諦める気持ちが、リズミにあったことも、確か。
だから。
〈分かった〉
リズミはこくんと、セアに向かって頷いた。
運命から、セアを、守る。リズミの望みは、ただそれだけ。
次の朝。セアが起き出してきたのはずいぶん遅くなってからだった。
仕方が無い。昨日あれだけ話し込んでしまったのだから。少し苦笑しつつ、リズミは『森の魔女』達が用意してくれていた朝食をセアのベッドまで運んだ。
「ありがとう、リズミ」
森に自生する植物で作ったという朝食は、城内での下級衛士の食事よりずっと美味しそうにリズミにも見える。
「ところで、皆は?」
ジュリアは城へ帰り、他の魔女達は森の中で何かそれぞれの仕事をしているようだ。ヴェシオは森端の河の岸でぼうっと物思いにふけっている。セアの問いに、リズミは見聞きしたことを軽く話した。自身のこと全てをセアに打ち明けたからだろうか、心が、軽い。
と。
「セア!」
突然響いた、ヴェシオの上ずった声が、リズミの気持ちを萎えさせる。こんな時に、何だよ。声の方を振り返ったリズミは、だが、ヴェシオの後ろに居た、息を切らせているのに青白い顔のポワンを見てはっと意識を改めた。……何か、あった。
「ジュ、リア、姉、さん、が、捕、まった」
途切れ途切れのポワンの声に、セアの顔色が変わる。
「何故?」
「分からない」
ジュリアの魔法は、森の魔女の中では群を抜いている。城を抜け出しても誰にも気付かれないよう、準備は万全だったはずだ。しかし予想外のことが起こったのであろう、城に帰るや否やジュリアは「許可無く城の警備を離れた」と言う理由で捕まり、女王の立ち会いの許、街の広場で公開処刑されることになってしまったらしい。しかも、今日、太陽が中天に差し掛かった時に。
「な……」
絶句するセアの横に、いつの間に現れたのか、『統べる者』リネアが厳しい顔で立つ。
「ジュリア……、これも、運命か」
リネアの声には確かに、諦めが含まれていた。
「助け、に」
「いけない」
小さく呟かれたセアの声を、リネアが止める。
「これも『動く者』の運命」
「そんな」
首を振るリネアに唇を噛み締めたセアが、リズミを見る。その、すがりつくような瞳に、弱い。分かったと言うように、リズミは首を縦に振った。
「助けられるかも、しれない」
不意に、ヴェシオが話題に割って入る。
「僕のことを、皆に見せて、混乱させる」
「ヴェシオ王子……?」
「任せて。大丈夫」
王子は、こんな奴だったか? しばし混乱する。何も喋らずおどおどしていた王子はどこへ行った? だが。セアによって呪いを解かれた時から、王子は変わったのだ。姿形だけでは無く、心も。人間とは、そういうものだ。リズミはヴェシオを見直すと、ヴェシオとセアの間に立った。
「良いさ。連れてってやる」
ヴェシオだけ連れて行く、というわけにはいかないだろう。「私も行く!」とセアが言い出すのは目に見えている。自分の周りの人間を、放っては置けない。恩を感じている相手なら、尚更。セアは、そのような心根の人間だ。
「分かりました」
難しい顔をしていたリネアが、ふっと口許を緩める。
「『視る者』の中から、素早い者を三名、街へ!」
森の中へそう声を掛けるリネアの、凛とした声が、リズミには心地よく響いた。多分、セアにも。
「ありがとうございます」
頭を下げるセアに、リネアは再び厳しい顔を向ける。
「あなたも、気をつけて、セア」
〈行くぞ。時間が無い〉
太陽は既に空高く昇りきっている。
リズミは右手にセアの手を、左手にヴェシオの手を握ると、魔法の呪文を口中で唱えた。
すぐに、景色が変わる。
リズミの前に、街中の砂色の空気と、一段高くなった首吊り用の処刑台が現れた。処刑台の横に居るのは、紺色のマントを羽織った近衛兵数人に羽交い締めにされたジュリアと、王錫を持った一角獣が刺繍された紺色のマントを羽織る女王自身。女王の首に掛かった首飾りの、鮮紅色の妖しい光に魅了されそうになり、リズミは慌てて首を横に振った。『石』のことは、後だ。
「処刑を取り止めよ!」
はっきりとした声で、ヴェシオが叫ぶ。
「何者だ!」
驚いた顔を見せるエナ女王と、ヴェシオの前ににゅっと現れた元老院の議長クライスに、ヴェシオは少しだけ口の端を上げると右腕のボタンを外した。服の下から現れたのは、一本の、古いが目立つ、傷跡。
「これを知ってるよね、クライス。昔、クライスの執務室で悪戯してインク壷を壊してしまった時の、傷」
「ま、まさか、……王子」
ヴェシオの言葉に、クライスの顔が驚愕に歪んた。
そして。
「王子……」
クライスの老いた瞳に、涙が浮かぶ。クライスはくるりと、ヴェシオを庇うようにエナ女王の方へ顔を向けると、立ち竦む女王に向かって怒声を発した。
「どういうことですか、女王? 王子は、他国からの呪いで口が利けず、成長もできないのではなかったのですか?」
「他にも、我々が騙されていることがある」
ざわめく、処刑を見る為に集まって来た群集の声を切るように、ヴェシオの凛とした声は続く。
「エナ女王は『正規』の女王ではない」
「何っ!」
「どういうことだっ!」
群衆のざわめきに、セアが震えるのが、分かる。セアを安心させる為にリズミがセアの肩に手を置く前に、ヴェシオは懐から『女王の印』、例の王冠を取り出した。どうやらヴェシオは、セアがその金属を返してからずっと、その王冠を肌身離さず持っていたらしい。
「これを見知っている者も多いだろう」
王冠を頭上に掲げて、ヴェシオが叫ぶ。
「先代女王セレーの、王冠だ」
中天の太陽に、王冠がきらりと光る。その王冠を、ヴェシオはエナ女王の方へ突きつけた。
「さあ、女王陛下、この王冠を、自身の『女王の印』へと変えてください」
ヴェシオの目は、不敵に光っている。『女王の娘の娘』ではないエナ女王には、先代女王の王冠を自分の『女王の印』――女王の背で揺れる紋章と同じ、王錫――に変えることはできない。よしんば魔法で騙したとしても、こちらには『魔法が効き難い』体質のセアがいる。女王の敗北は、明白だ。
エナ女王が王冠を受け取らないのを見て取ったヴェシオは次に、セアの方へ王冠を差し出した。
「さあ、セア」
先程までとは打って変わった優しい声で、ヴェシオがにこりと笑う。
「自分を、証明して」
こくんと頷いたセアが、ヴェシオから王冠を受け取る。すぐに、王冠は光へ、そして剣へと変わった。
「おお」
「正しく、女王」
群衆の中から、感嘆が生まれる。リズミはほっと息を吐いた。本心を言うと、ヴェシオの『作戦』が成功するとは思っていなかったのだ。
だが。急に、リズミの思考が、途切れる。この、感覚は。
〈ダメだ……〉
拒否は、通用しない。急速に力が抜けていくリズミの脳裏に、甘美な命令が響いた。
〈セアを、斬れ〉
命令のままに、セアに向かう。
「リズミ!」
叫びつつ、とっさに身を躱したセアの、剣を持った右腕を、リズミは確かに斬り落としていた。
心地良い生温かさが、リズミの身を陶酔させる。だが。次の瞬間。リズミははっと我に返った。
〈セア!〉
目の前の光景に、驚愕で動けなくなる。血に濡れ、ぐったりと頽れたセアの身体を、ヴェシオが抱き締めている。そのヴェシオの、詰るような視線に、リズミは自分が何をしたかを悟った。その、原因も。
〈くそっ!〉
動かないセアが、ネイディアと重なる。リズミはくるりと向きを変え、驚愕に身を震わせるエナ女王に突進した。正確には、エナ女王が手にしている、鮮紅色の塊の方へ。
硬い物を斬る感覚を、確かに感じた、次の瞬間。
〈なにっ!〉
エナ女王の姿が、不意に光になる。一瞬のうちに、女王の姿は広場から、消えた。
残ったのは、呆然とするリズミ。
〈くそっ!〉
再び、舌打ちする。また、『石』に操られて、しまった。後悔のまま、リズミは振り向き、ヴェシオの腕に力無く凭れ掛かったままのセアの、血に濡れた身体を、見つめた。
と。リズミの足下が、少しだけ光る。
〈おや?〉
リズミが驚くより早く、鮮紅色に見える光が、リズミが切り落としたセアの右腕が持つ剣に向かう。その光はセアの右腕を包み込むとセアの方へ向かい、セアの身体の、右腕があった辺りに集まった。そして。
「これは……」
ヴェシオの驚く声が、耳に入る。
光が消えると、セアの右腕が再生されているのが、リズミの瞳にもはっきりと、映った。いや、『森の魔女』達が精製した、『石』を封じる為の金属が、『女王の印』としてセアの右腕を形作ったのだ。その証拠に、セアの新しい、銀色に光る右腕の手の甲には、先程リズミが斬った『石』の半分が、輝きを失ったまま嵌っている。
そして。
「……ヴェシオ? リズミ?」
ゆっくりと、セアの瞳が、開く。
「セア!」
ヴェシオの歓喜と、リズミの驚きが、重なった。
議場から外に出ると、秋の眩しい光が目を射る。
目を瞑ってうーんと大きく背伸びをしてから、リズミは前に立っているセアをそっと、見つめた。
「これで、良いのかなぁ……」
これまでに何度も耳にした言葉を、再び呟くセア。気弱になっているセアの気持ちは、リズミには痛いほど分かっていた。
行きがかり上、セアがミーゼス王国の新女王となってから、どのくらい経っただろうか。いつの間にか夏は終わり、季節は秋になっている。この間、俄仕立ての女王とはいえ、セアは良くやっているように、リズミには思えた。
セアを支える人々の努力があったことも、否めない。内政をヴェシオ王子が、外政を元老院代表であるクライスが担当し、前女王エナが無頓着に投げ出していた王国を少しずつ立て直している。ミーゼスの都も、郊外の村々も、少しずつ良くなっていると、報告がある。それでも。セアにのし掛かっている責任は、重い。ただでさえ小柄なセアの背中は更に小さくなっているように、リズミには見えた。だが。リズミにできることは、見守ること以外、無い。それが、リズミにはもどかしかった。もう少し政治も勉強しておけばよかったか。リズミは思わず舌打ちした。
セアの右腕が、暮れかけた太陽の光を反射して紅く光る。その光に、セアが右手を失った時を思い出したリズミの心は、深く深く落ちた。セアやヴェシオ、ジュリアなど限られた人間にしか見えない剣魔であるリズミだから、セアが右手を失った件も、エナ女王がいきなり消えた件も、何らかの『魔法』が働いたと世間ではいわれている。そのことも、リズミには悔しかった。セアを傷つけたのは、俺だ。なのに、誰も怒らない。右腕を失ったセア自身も。それが、リズミにはたまらなく悔しかった。
「セア!」
肩を落としたリズミの後ろから、元気な声が響く。ジュリアだ。
「ここに居たの」
セアが女王になり、ジュリアは森の『動く者』の職務を辞し、セアの護衛の任に就いている。おそらく『森の魔女』達にそうするよう言われたからだろうと、リズミはふんでいる。
「また、落ち込んでたの?」
リズミを押しのけるようにして、ジュリアがセアの肩をぽんと叩く。
「大丈夫よ。セアはうまくやってるわ」
セアが「普通に呼んで欲しい」と頼んだから、ジュリアはセアに『様』を付けない。ジュリアの慰めに、セアは少しだけ顔を上げた。自分が魔物だからだろうか、リズミでは、今のセアの力になれていないような気が、する。それともやはり、女の子同士の方がセアには心地良いのだろうか? リズミは妙なところでジュリアに嫉妬した。……ジュリアに焼き餅を焼いても、どうにもならないことは重々承知している、のだが。
片眼だけ、ジュリアとセアから反らし、すぐ傍の整地された広場を見る。近衛兵達が合図に合わせて様々な動きを見せているのを、リズミはほっとした気持ちで眺めた。あいつら、結構様になっている。
と。目の端に、見知った影が映る。あの小柄な少年は。
「ポワン!」
リズミがセアに注意を促す前に、ジュリアが素っ頓狂な声を上げる。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
ジュリアがセアの護衛となったように、『森の魔女』の使い走りだったポワンもセアの伝令頭となっている。すばしっこい少年だから適役だ、とリズミは思っている。そのポワンの顔が、紫色になっている。何かあった。リズミはすぐにそれを感じとった。それがセアに更なる心の痛みをもたらすことも。
「隣国が、動いた」
息の上がったポワンが、それだけ言う。
「隣国、って、もしかしなくても、アジーン王?」
何かと評判の悪い北の王の名をジュリアが挙げると、ポワンはこくんと頷いた。
アジーン王。その名を聞くと、苦い思いがリズミの胸に広がる。その王こそ、かつて、セアの村を焼いた、赤い旗の小部隊の隊長。
そっと、セアの方を見やる。セアの青い顔がますます青くなっているのが、リズミには痛々しく見えた。
「とにかく、議場へ。みんな待ってる」
そのセアのチュニックの裾を、ポワンが引く。
ポワンとジュリアに抱きかかえられるように議場へと向かうセアの後ろを、リズミも心急きながら付いていった。
とって返した議場には、クライスとヴェシオが居た。
「やはり、来たか」
「すぐに、国境近くの人達を避難させ、て」
あくまで落ち着いた声で話すクライスに、息が整わないままにセアは声を掛けた。
「火を放たれたら、みんな……」
昔日の、自分が暮らしていた村で起きた悲劇を思い出していることは、確実だ。
〈落ち着け、セア〉
倒れそうになるセアを、リズミはそっと後ろから支えた。
「分かっている」
セアの言葉に頷いたのは、ヴェシオ。
「アジーン王の残酷さは、平原中に鳴り響いている」
「刈り入れの季節ではあるが、あの御仁なら刈り取るよりも火を放つ方を選ぶだろう」
クライスはヴェシオの言葉を継ぐと、穀物の刈り取りを急がせることと女子供を都に逃がすことを、傍らの伝令に命じた。
「で、アジーン王は何か言っているか?」
クライスが、セアの後ろにいたポワンに尋ねる。
「はい……」
ポワンはらしくなく、一瞬だけ言い淀んだ。
「どうした」
ヴェシオの促しに、ポワンはセアの方に顔を向けてから、唾を飲み込んで声を出す。
「王位簒奪者であるセアから、エナ女王の権利を取り戻しに来た、と」
「なんと」
セアとリズミを除く、議場にいた全ての人間が息を吐く。セアは、俯いて唇を噛み締めたままだ。
「王位簒奪者は向こうじゃないの!」
ジュリアのはっきりとした声が、静まった空間を震わせた。
確かに、セアの母である女王セレーを謀殺し、自分の出生を偽って王位に就いたのがエナ女王。それは、議場にいる全ての人間が確認済である。だが。
「おおかた、エナ女王に事寄せてのことだろう」
普段は穏やかな老人であるクライスが舌打ちしたのを、リズミは確かに聞いた。
「セレー女王が亡くなられた時にも、あの王は北の村を三つも焼いた」
その村の一つが、セアの居た村だ。
「しかし、生きていたとは、エナ女王」
「しかも最悪なところに逃げ込んで」
ざわめきだした議場の中で、セアだけが一人、俯いたまま。
〈セア〉
リズミはそっと、セアの肩に手を置いた。
「どうする、セア?」
言い辛そうに、ジュリアが問う。その問いに、セアは義手の掌に埋め込まれた鮮紅色の『石』をそっと撫で、そしてリズミの方をちらりと見てから、本当に小さな声で言った。
「私が、行かなければならない、と思う」
そうだろうな。『石』を見やり、溜息をつく。リズミが切った『石』の残りはおそらく、エナ女王が持っている。それを取り戻し、『力有る石』を滅することができる『担い手』がこの地に現れるまで守り、次の女王に渡すのが、セアの役目。だが。……こんな小さな少女に、そんな重責を背負わせて良いのだろうか? あの時、『石』を切らず、エナ女王の手を切り落としていたら。何度目かの後悔が、リズミの心を過ぎった。
セアの言葉に、議場が静まりかえる。
「セアが?」
ヴェシオの当惑に、クライスが仕方無さそうに頷いた。
「それしかないだろうな」
「精鋭の訓練はできているわ、幸いなことに」
リズミを見上げたジュリアが、会話に割って入る。リズミが辛うじて覚えていた、昔日の大国の戦法を、城を守る近衛兵達に教えて欲しいと言ったのはジュリアだったが、おそらくジュリアの後ろにいる『森の魔女』達はこの事態を予測していたのだろう。リズミはジュリアに見えないように小さく肩を竦めた。そこまで予測できるのなら、起こることを全て教えてくれたって良いようなものだ。
それはともかく。
「ならば、必要な物を言ってくれ。準備させる」
ジュリアの言葉に、クライスが頷く。
「僕も行くよ、セア」
横からそっと、ヴェシオが声を上げた。そのヴェシオの、セアを心から心配する表情に、何故か嫉妬を覚える。……ジュリアやヴェシオのことをやっかんでも不毛なことは、重々承知してはいるのだが、それでも。
「え、でも……、都のことは? 村だって、南にも西にも東にもあるし、北から逃げて来た人々のことだって」
ヴェシオの言葉に、顔を赤らめつつも当惑するセア。セアとヴェシオが互いに想い合っていることは、議場の連中は皆知っている。いや、国中で知らないのは当のセアだけだろう。だから。
「良いでしょう。国のことは、我々に任せなさい」
クライスが、議場を代表し、セアに向かってにっこりと微笑む。
その微笑みを、リズミは、嫉妬と安堵が入り交じる心で見ていた。
ミーゼス王国の北部には、荒野の中に小さな村が点々と散らばっている。その更に北が森で、その向こうがアジーン王の領国だ。
「全く」
その森の手前にアジーン王の深紅の旗を認め、セアの横で馬に乗っていたジュリアが毒を吐いた。
「何であの王はあんなに図々しいんだか」
一方、同じく馬に乗ったセアの方は、俯いたまま何も言わない。何を、考えこんでいるのだろう? セアの態度に、少しだけ苛立つ。王宮を出発してから北のこの地に辿り着くまで、リズミの方を、セアは見ようともしない。自分が何か、セアに対して悪いことをしたのだろうか? いや、していないと確かにいえる。では、何故? 目の前に迫った実戦のことではなく、セアに対する懸念だけが、リズミの心に渦巻いていた。
と。
「……リズミ」
久しぶりに、セアの声がリズミの耳を打つ。
〈どうした?〉
すぐにセアの傍に近寄ったリズミが聞いたのは、思いがけない言葉。
「これって、『復讐』に、なる?」
あっと、思わず声が出る。そうだった。リズミが最初に「剣の技を『復讐』の為に使わない」とセアに約束させた。しかし、今セアが行おうとしていることは、間違いなく、掛け替えの無い友人を殺した者に対する『復讐』になる。何事に対してもすぐ悪い方へ考えてしまうセアが、思い悩むことは自明の理。
〈仕方無いんじゃないか?〉
少し考えて、なるべく軽い調子でいう。
〈今ここであの王を倒さなければ、みんなが不幸になる〉
『復讐』の所為で命を落としたネイディアのことを思い、セアにはネイディアの轍を踏んで欲しくなかったから、リズミはセアに『復讐』を禁じた。だが、セアはセアだ。
「そうね。……ありがとう」
セアは小さな声でそう言うと、久し振りににこりと笑った。
「もうそろそろ、こちらの準備は終わるわ」
こちらの話が終わるのを待ちかねたかのように、ジュリアが割って入る。
「始めは、どうする?」
「一応、名乗っておくべきだ」
馬に乗り、精鋭部隊の指揮をしていたヴェシオの声に、セアは頷くと、部隊が設えた鉄の盾の外へ馬を進めた。勿論、敵の矢が届かないよう、リズミが魔法を使って上手く馬を操るのも忘れない。
「来たな。王位簒奪者が!」
こちらの動きを見た敵部隊から、太い罵声が響く。おそらく魔法で何か細工をしているのだろう、アジーン王の声は朗々と正義に響き、遠くに見えるその姿は確かに威厳に満ちていた。そして。王の隣に、アジーン王の印である深紅のマントを羽織った華奢な影が馬に乗っているのを、リズミは認めた。おそらく、あれは。
「我を頼る正規の女王エナの代理として、そなたらに正義の鉄槌を下す!」
その華奢な影の方に腕を上げ、アジーン王が叫ぶ。その声に、王の周りに立った深紅の旗が勢い良く揺れた。
「王位簒奪者はそっちよ、エナ女王!」
罵声なら、ジュリアも負けてはいない。
「セレー女王を弑し、『女王の娘の娘』だと偽って王位に就いた」
「しかし女王の血筋は、ヴェシオ王子しか残っていなかったのでは?」
アジーン王の声に、ジュリアは更にきっぱりと言い放った。
「セレー女王とその親友の機転と、『森の魔女』達の協力で、娘が救われた。その娘が、ここに居るセア女王だ!」
「嘘だ!」
そう叫ぶなり、深紅の部隊が動く。
「セア、盾の中へ!」
ヴェシオがそういう前に、リズミはセアを馬ごと自軍の盾の中へ押し込んだ。
馬を下りたセアが、盾の僅かな隙間から敵軍を見つめる。その瞳に哀しみが宿っているのを、リズミは見逃さなかった。セアは、こういう少女だ。敵にも味方にも気を使い、繊細で優しい。だが。……優しいだけでは、通用しない場合もある。
「行くわよ! 構え!」
指揮を執るジュリアの合図で、盾の壁の中にいた長弓隊が弓を構える。
「撃て!」
鋭い声と共に、無数の矢が盾の隙間から敵に向かって飛んだ。
矢の雨に、敵が怯むのが見える。矢に当たり次々と倒れる兵士達を見て真っ青になったセアを、リズミはそっと支えた。
「どんどん打って!」
「矢が来る!」
味方を鼓舞するジュリアの声に、ヴェシオの声が重なる。
「盾を」
ヴェシオの声に、待機していた盾隊が盾を掲げ、精鋭部隊の斜め前と上に屋根を作る。敵の矢を盾で避け、隙を突いて矢で応戦する。エナ女王の許で、ミーゼスの軍は頼りないほど縮小されていたから、少数で多数を相手にするこの戦法が一番マシだと、ジュリアから兵について相談を受けた時にリズミは考えた。その読みは今のところ上手くいっている。リズミは少しだけほくそ笑んだ。
と。
リズミ自身の身体が、急に前に突き飛ばされる。
〈おおっと!〉
何とか態勢を立て直そうとしたリズミだが、勢いは止まらず、前にいた弓隊に激突した。
「リズミ!」
切羽詰まったセアの声に、ぱっと地面から跳ね起きる。
〈セア!〉
目にした光景に、リズミは動くのを忘れた。リズミだけではない。盾の内側にいた全ての人間が、セアと、いつの間にかセアの背後にいた深紅のマントを羽織った二つの影に驚き、そして圧倒されたかのように動きを止めた。
「さてさて、いつの間に、こんな精鋭を育てていたとは」
セアの首と胸をその太い腕で押さえつけたアジーン王が、戯けたような酷薄な笑みを浮かべる。魔法というものがあるのだから、このようなことは予期しても良かった。動けない身体で、リズミは舌打ちをした。まさか大将自らが、敵陣深く入り込んでくるとは。アジーン王の隣に佇んでいるエナ女王の手には、やはり、リズミが切った『力有る石』の半分がある。
「悪いが、ここで全員死んでもらおう」
アジーン王の言葉に、唇を歪めたエナ女王が『石』を持った手を自分の頭上に掲げる。すぐに、狂気が自分の頭に侵入してくるのをリズミは止めることができなかった。
〈また、セアを……〉
後悔が、胸を噛んでも、もう遅い。
だが。
「リズミ! みんな!」
セアの声に、はっと我に返る。そうだった、一人だけ、セアだけは『石』の力に抵抗できたのだ。
次の瞬間。
「痛っ!」
セアに掌を噛まれたアジーン王が、情けない叫びを上げる。僅かに気勢を崩した二人を、リズミも、ヴェシオもジュリアも見逃さなかった。
「セア!」
ジュリアがポケットから出した例のシャトルを二人に向かって投げ、たたらを踏んだセアの身体をヴェシオが支える。魔法を含んだシャトルが眩しいくらいに光ると同時に、リズミはエナ女王に向かって突進した。正確には、エナ女王の右腕に向かって。
肉を断った感触が、リズミを興奮に震わせる。返す刃で、いつの間にかリズミはアジーン王の胸倉に、いた。
声も立てず、倒れる二人。振り向くと、青ざめた表情のセアが、ヴェシオに支えられてやっと立っているのが見えた。
「セア」
促すように、ジュリアが二つの死骸を顎で示す。セアが動き出すまでには、長い時間が掛かった。
「セア」
ヴェシオに支えられるようにして、エナ王女の切断された右掌にセアが近づく。セアが義手を『石』の方へと向けると、地面に落ちた『石』は震えるように光り、セアの義手へと吸い込まれていった。
「……これで、良かったのよね」
震える声で、セアが首を横に振る。
「そうだ」
そういったのはヴェシオだったか、それともリズミ自身だったか。
アジーン王を倒したという報告に、ミーゼス王国全体が歓喜に沸いた。勿論、王にさんざん悩まされてきた他国も、いやユール平原全体が歓びに浸っているだろう。
……ただ一人を、除いて。
「あれで、良かったのかしら?」
リズミの背で、セアが何度目かの問いを発する。
〈ああ。勿論〉
そしてセアの質問と同じだけの回数答えて来た言葉を、リズミは再び口にした。
〈皆喜んでる〉
「でも、隣国はどうするの? 王を失ったのよ」
〈何とかするさ。皆、そうしてきた〉
やっと、王宮内のセアの自室に辿り着く。リズミはセアを、女王のものというには少し粗末なベッドの上に横たえた。北の戦場から、戦勝に沸き立つ都への帰還、そして元老院への報告。めまぐるしい日々にセアの身体が限界に達していることを、リズミは敏感に感じ取っていた。だから。
〈さあ、しばらく寝るんだ〉
そっと、セアの髪を撫でる。
セアはリズミを見てこくんと頷くと、無理矢理眠るかのように目を閉じた。
そのセアを置いて、部屋を出る。ジュリア経由で『森の魔女』達に何か心を落ち着かせるような薬湯を作ってもらった方が良いかもしれない。リズミはふっと息を吐くと、廊下を静かに歩み始めた。
と。
〈……おや〉
少し歩いたところで、見えない気配とすれ違う。この気配と魔法は、……ヴェシオだ。
〈なるほど〉
ヴェシオも、セアのことが心配なのだろう。好きな者同士、しばらく二人っきりにしておいた方が良いだろう。リズミはにやりと頷くと、再び廊下を歩き出した。だが。……この、胸騒ぎは? ヴェシオに、嫉妬しているのか? ……いや、違う。リズミはくるりと向きを変えると、セアの部屋まで廊下を一飛びで走り、ノックもせずにその扉を開けた。
〈なっ……〉
薄暗さに目が慣れる前に、血の匂いが鼻腔に届く。本能のまま、リズミは、セアのベッドの傍で呆然としているヴェシオの胸倉を掴み上げた。
〈この野郎! セアに何をした!〉
重い物が床に落ちる音が、響く。その音で、リズミは全てを理解した。ヴェシオも、エナ女王や過去の人々と同じように、『力有る石』の魔力に囚われてしまったのだ。だから、ヴェシオは無理矢理、セアから『石』の嵌った義手をもぎ取った。
「この野郎!」
怒りに、我を忘れる。リズミはヴェシオの細い身体を床に叩き付けると、剣の切っ先をその胸目掛けて振り下ろした。
血の匂いが、濃くなる。
はっと我に返ったリズミが見たものは、呆然と床に尻餅をついているヴェシオと、リズミの胸でぐったりとしているセア。
「セ、セア?」
頽れるセアの身体を抱き止め、強く揺らす。
「リズミ……」
セアは薄く目を開けると、苦しそうに息を吐いた。
「ご、めん、なさい。で、も、リズミ、も、ヴェシオ、も、どっちも……」
その先が、聞こえない。ぐったりとリズミに凭れ掛かるセアを抱いたまま、リズミは床に座り込んだ。
リズミの怒りの切っ先から、セアがヴェシオを庇った。その為に、セア自身が犠牲となった。それだけのことを理解するのに、かなりの時間が掛かる。泣くこともできず、リズミは呆然と、床に転がるセアの義手を見つめた。
と。リズミの横で、セアの義手が、静かに光る。唖然とするリズミの前で、義手は平らな帯に変わると、目を閉じたセアの額に巻き付いた。王冠のようなその金属と、血の気の無い額を飾るように光る『石』から、目を逸らす。
そして。
〈この国のこの後は、お前が何とかしろ〉
まだ床に尻餅をついて震えているヴェシオに吐き捨てるようにそう言うと、リズミはセアを抱きかかえて部屋を出た。
目指すのは。
昔、初めてセアと出会った、古びた塔の小部屋に、清めたセアの身体を横たえる。青白い顔をしたセアは、それでも、ただ静かに眠っているようにリズミには、見えた。
そのセアの、栗色の髪を、そっと撫でる。結局、リズミ自身が、『復讐』という醜いモノを、ずっと心に飼っていた。その結果が、これだ。
「ごめんな」
外の雨音が、耳を打つ。
リズミはただ静かに、セアの栗色の髪を撫で続けて、いた。
2012年5月5日 発行 初版
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へっぽこ物書き。