明日の風に・乱世西方編。
遥かなる時代よりマース大陸全土を支配していた嶺家王朝が突然崩壊して五十年余り。混乱した大陸西方においては、北方から現れた『魔皇帝』を名乗る男カルダーノが、その支配領域を着々と広げていた。魔界から召還した魔物を使役し、通った後には草も生えないような残酷な侵攻でその名を知られる魔皇帝の『力』に対抗する為、小国リーニエの第三王子リュエルとその仲間であるトゥエ、ヘクト、マチウ、ウォリスは『力』を欲し、それぞれの想いを胸に『力』について模索する。
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それは、単なる偶然だったのか。それとも必然だったのか?
目の端に、見知った影が映る。
あれ、は……。でも、まさか……! そう考えるより先に、トゥエの手は先ほどすれ違った少年の細い肩をしっかりと掴んでいた。
不審そうに振り向いたその少年の顔には、幼いころの面影が確かに残っている。だが、彼の名前を呼ぼうとしても、声がうまく出てこない。何度も口をぱくぱくさせてから、やっと、蚊の鳴くような声が出た。
「……ウォリス?」
そのトゥエの声に、むっと口をへの字に曲げた少年の瞳が俄に大きくなる。口を大きく開けて喘いでから、少年は掠れた声を上げた。
「……まさか、トゥエ?」
「ウォリス!」
生きていた。嬉しさが、全身を包む。トゥエは幼馴染みの細い体をぎゅっと抱き締めた。
「良かった……」
ただそれだけ、呟く。あの、戦とはいえない戦で亡くなってしまったとずっと思っていたのだから、喜びも一入。
「何してんだ、トゥエ?」
不意に、大きな声がトゥエの背後で響く。幼馴染みであり、現在も一緒に働いているヘクトの声だ。トゥエは微笑を隠そうともせず、振り返りざまぱっと腕を広げてウォリスをヘクトの前に示した。勿論、ヘクトもウォリスのことは知っている。
「おい、トゥエ。……これ、って、まさか」
トゥエの思惑通り、ヘクトの声が驚愕を帯びる。次の瞬間、ヘクトはウォリスをその太い腕で力一杯抱き締めていた。
「ちょ、ちょっと、ヘクト!」
思わず、叫ぶ。図体の大きいヘクトに力一杯抱き締められては、誰だってどうなるかぐらいはすぐに分かる。
案の定。
「く、苦しい。離して、ヘクト」
太いヘクトの腕の下から、苦しそうなウォリスの声が響く。
「あ、ごめん」
ヘクトはウォリスを離してから、肩を落として頭を掻いた。その顔に笑みが残っているのは、気のせいでは、ない。
「でも、嬉しかったから」
それは、分かる。トゥエ自身も、同じ気持ちだ。
「君達も、生きていたんだね。良かった」
おそらくウォリスも同じ気持ちなのだろう。
「でかくなったよなぁ、ヘクトは。……昔は僕より小さかったっけ」
ヘクトのつんつんに立った濃い色の髪の毛から、石造りの廊下をしっかりと踏みしめている足まで眺めてから、ウォリスはクスッと笑って言った。
「それって、僕が大きくなってないように聞こえるんだけど」
そのウォリスの言葉に、思わず反応してしまう。悪気は全く無いのだが、コンプレックスにはどうしても反応してしまうのだ。
「実際、全く成長してないし」
「んなわけないだろっ!」
ヘクトの言葉にも、思わず反論してしまう。ヘクトの方にも悪気は全く無いのだろうが、それでもやっぱり、という部分は、誰にでも有る。
「うん、そうだね」
半ばおちゃらけ気味の二人のやりとりに、ウォリスの心配そうな声が混じる。
「顔色も悪いし、何か病気でも?」
「これは、生まれつき」
ウォリスの心配を払拭する為に、トゥエは殊更元気な声を出した。実際に、どう頑張っても青白いままの、血色の無い肌の色は生まれつきである。今更どうこうできるものではない。
「ところで」
話が一段落したところで、トゥエはふと思いついたことをウォリスに尋ねる。
「何で、ここに?」
現在三人が居る場所は、王宮の中庭に面した回廊。普通の一般庶民は入ることすらできない場所である。
「トゥエとヘクトこそ……って、その服装見れば分かるか」
ウォリスの言葉に、トゥエとヘクトはにっこりと顔を見合わせた。トゥエもヘクトも、丈の短いチュニックの上に背中の半分ほどの長さしかない短いマントを羽織っている。このリーニエ王国で丈の短いマントを着用するのは貴族や騎士に仕える従者だけだ。
「ウォリスも、……服装で分かるな」
対してウォリスは、踝までの長さがある暗い色のローブを着用している。リーニエ王国の首都アデールから馬で二日ほどの場所にある聖地キュミュラントの僧侶の服装だ。人差し指に光る僧侶用の銀の指輪も、現在のウォリスの立場を眩しく物語っていた。
「今日は第三王子付きの僧侶を選ぶとかで、僕も候補に選ばれたんだ」
確かに、そのことはトゥエ達のまとめ役である従者頭のマチウに聞いている。第三王子の望みは、自分と同じ位の年の人間だ、ということも。と、いうことは。
「……ところで」
もう一度顔を見合わせたトゥエとヘクトに、ウォリスが問う。
「リュエルは? ほら、あのどう見ても『お坊ちゃま』って感じだった子」
「ああ」
そうだった。幼馴染みは、もう一人いたのだ。しかし、彼のことは、今話さなくても良いだろう。
「まさか、あの時の戦、で……」
すぐに答えないトゥエを見て、ウォリスの表情が瞬時に曇る。
「いや、ちゃんと生きてる」
そんなウォリスの肩を、ヘクトがぽんと叩いた。
「そのうち会うはずだよ。近いうちに、ね」
これ以上何かを言うと、吹き出してしまいそうだ。トゥエは何とか笑いを噛み殺すと、ウォリスに王や王子との謁見の場所を教えた。
「……まだかな?」
何度目かの台詞を、ヘクトが呟く。
その台詞が言いたいのは、トゥエも同じだ。だがトゥエは、部屋の真ん中にあるテーブルの上に菓子の入った壺をもう一つ置きながらヘクトに向かって首を横に振った。
「まだじゃないの? 最近の王陛下の話は長いって言ってたから」
「そうか」
ヘクトは残念そうにそう呟くと、部屋の掃除に戻った。
第三王子付きの小姓である二人の夕方の仕事は、王子が使う部屋の掃除。そのついでに菓子類の準備をしているのは、勿論。
「ただいま。トゥエ、ヘクト」
明るい声とともに、派手な色合いのマントを羽織った小柄な影がトゥエ達の目の前に現れる。彼が、リーニエ王国の第三王子であり、トゥエの乳兄弟であるリュエル。トゥエより少し背が高いだけの少年だが、それでも、王子としての威厳はしっかりと、持っているようにトゥエは思っている。薄い色の髪と肌に、濃い色のマントがよく似合う。トゥエはリュエルをまぶしく見つめた。
そのリュエルの後ろには、従者頭でヘクトの兄であるマチウがいる。しかし、トゥエとヘクトは、二人の後から入ってきたウォリスの驚愕で何も言えない様子に笑いをかみ殺すのに必死だった。
「ヘクト、トゥエ」
そんなトゥエとヘクトを苦い顔で睨み付けたマチウが、おもむろにウォリスを二人の前に押し出す。
「今度新しくリュエル付きになった……」
「あ、多分紹介しなくても大丈夫だから」
そのマチウの言葉を遮ったのは、リュエルだった。
「多分、二人とも知ってる。ね」
さいごの「ね」は、ウォリスに向かって放たれた言葉。
「は、はい……」
ウォリスのあまりの慌て具合に、トゥエとヘクトはとうとう爆笑してしまった。
だが。
「……どういうことだ?」
明らかに怒気を含んだ声に、笑いが凍りつく。振り向かなくとも、マチウの怒りが明らかに沸点を超えていることだけは、トゥエにも分かった。おそらくヘクトにも。固まったヘクトの、そこだけ動いた瞳の表情に、トゥエは何とか思考を巡らせた。
「えっと」
マチウの罵声から逃れる為には、どこからどう説明したらよいのだろうか? 焦る頭ではまとまるものもまとまらない。そんなトゥエを救ったのは、リュエルの明瞭な声だった。
「昔、一緒に遊んだんだよ。……ウプシーラで」
今から丁度十年前。当時、トゥエ達は、リーニエ王国の北境の街ウプシーラにあった王宮で暮らしていた。ウプシーラの王宮は小さく、遊ぶための中庭も無かったので、その当時からリュエルの小姓であったトゥエとヘクト、そしてリュエルは大人達や小姓頭であるマチウの目を掠めてよく街中に遊びに行っていた。
三人がよく遊びに行っていたのは、小さいが石作りでがっちりとした教会の前に広がっていた広場。そこで知り合ったのが、当時教会内の孤児院にいたウォリス。四人は共に遊び、また教会にいた僧侶達から文字や計算も教えてもらった。だが。……十年前の夏の夜、全ては終わってしまった。石造りの美しい街だったウプシーラは、北からの侵略者である魔皇帝によって一晩で完膚無きまでに破壊されてしまった。
「あの夜、どうやって逃れたんだ?」
テーブルの上に用意された、ウォリスを歓迎する為のお菓子を頬張りながら、ヘクトがウォリスにそう尋ねる。
「教会の地下室の奥にあった壺の中に隠れたんだ」
「あの魔物達は、探さなくてよいものしか喰わない」
ウォリスの言葉の同調したのは、マチウだった。
「ちょうど良い隠れ場所だったということ、か」
「うん。でも、喰われた友達も多いよ」
魔物達が街を蹂躙していた夜、トゥエもリュエルと一緒に地下室に隠れた。そして朝になると同時に、大人達の監視を振り切って街へ飛び出した。その時の光景は、今でも忘れることができない。あの朝、街を支配していたモノは、静寂、腐臭、そして赤黒い血の色。そして生きて動いているものは、トゥエとリュエル以外何もなかった。何処を探しても人っ子一人見あたらず、悲しむより先に途方に暮れてしまったことを覚えている。
しかしながら。今、奇跡的にウォリスと再会できた。心の奥底で、何度目かの安堵の息を吐く。これからもずっと、誰一人欠けることなく穏やかに暮らしていくことができれば、どんなに素敵なことだろう。
だが。それは叶わぬ夢だ。
あの『魔皇帝』がいる限り、トゥエ達は国の民を守るためにリュエルと共に魔皇帝に立ち向かわなければならないのだから。
遥かなる時代よりマース大陸全土を支配していた嶺家王朝が突如崩壊してから五十年余り。大陸は混乱を極めていた。混乱を治め、あわよくば天下をものにしようとする輩が日々戦闘を繰り返し、無駄に命を散らしていく。ここ大陸西方においては、北方から現れた『魔皇帝』を名乗る男カルダーノが、その支配領域を着々と広げていた。
『魔皇帝』カルダーノは、『魔物を操る力』を持ち、通った後には草も生えないような残酷な侵攻でその名を知られている。そして、それを止められるような力を持つ者は、何処にもいなかった。
トゥエの所属するリーニエ王国も、既にその北半分を魔皇帝に奪われ、南半分も何時魔皇帝の手に落ちるかと戦々恐々としている。王国の最南部にあるここ、王都アデールでは、魔皇帝の脅威は殆ど感じない。だが北へ行けば、魔皇帝の侵略の爪痕は至るところに残っている。
リュエルもトゥエも、もう十七。戦士として戦える年齢だ。だから、魔皇帝の侵略が再び開始されれば、魔皇帝率いる魔物達と、あるいは魔皇帝自身と退治しなければならない。
……国と、大切な人を守る為に。
トゥエとリュエルは乳兄弟である。
戦乱の中、トゥエを身篭って路頭に迷っていたトゥエの母ジュリアを拾ってくれたのが、リュエルの母である第四王妃リーゼだった。だから、リュエルとトゥエは生まれ落ちた時から一緒に育っている。
リュエルの後見人であるエッカート卿の息子、マチウとヘクト。そして、都に住んでいた頃、よく四人で王宮を抜け出して遊んだ下町の子ウォリス。みんな大切な仲間だ。そしてこの国には、母や第四王妃、遊び仲間など、大切な人達がたくさんいる。
だから、魔皇帝の進軍を許すわけには、いかない。
しかしながら。
魔皇帝を退ける術など、有るのだろうか? あの強大な『力』を持つ、魔皇帝に。
「……悲しいね」
何時になく沈んだリュエルの声が、トゥエをはっと現実に引き戻す。
「やはり、魔皇帝の好きにさせるわけにはいきませんね」
マチウの声も、トゥエやヘクトをしかる時とは別の熱を帯びていた。
「ウプシーラのようなことは、二度とごめんだ」
ヘクトも、それに同調する。
でも。
……自分達には、魔皇帝に対抗する為の『力』は、無い。
どうすれば、良いのだろう?
疑問だけがずっと、トゥエの頭の中をぐるぐると回って、いた。
握り締めた短槍に、静かに力を込める。
次の瞬間、鋭い光が短槍の穂先から迸った。
「うむ、力は中々」
トゥエの発したその光の後から、少し枯れた声が上がる。トゥエに魔法の手ほどきをしてくれているカルマンという名の老人の声だ。
「しかし、実戦では素早さと正確さも必要です」
そう言ってから、不意に、カルマンはトゥエに向かって手にしていた鞭を振る。先端が五つに分かれた鞭は、生き物のようにしなやにトゥエを襲った。いきなりの攻撃に、正直戸惑う。……だが、これはいつものことだ。落ち着いた心のまま、トゥエは再び短槍に力を込めた。
カルマンの鞭の先端に付いた丸い錘に向けて、先ほどと同じ光を次々と放つ。その錘は、ただ叩くだけではすぐにトゥエの方へと戻って来てしまう。魔法をきちんと当てないと大人しくならない。それでも何とか、五つのうち四つは短槍からの光で鎮める。だが、五つめの錘が予測もしない方向から現れ、全く不意打ちでトゥエの左手首を襲った。
左手から全身に響き渡る痛みに、思わず短槍を取り落とす。
「うむ。……素早さと正確さはもう少しですね」
次の修練時には錘の数を増やしましょうと、カルマンは涼しい顔で言葉を継いだ。
ここは、第三王子リュエルの後見人であり、リュエルとヘクト、マチウの伯父に当たる人物であるエッカート卿の、王都アデールにある屋敷の地下室。すでに秋は始まっており、地下室もそれなりの寒さになってはいたが、袖無しのチュニックを着たトゥエの全身は汗だくだった。対して、カルマンの方は汗一つかいてはいない。丈の長いチュニックの上に厚手の上着を羽織っているにも拘わらず、である。不思議を通り越して変な老人だ。トゥエは常にカルマンのことをそう評価していた。
カルマンは、現在はエッカート卿の執事だが、元々は大陸中を放浪する定めを負った『流浪の民』であるらしい。そんな低身分の人物が、リーニエ王国で大きな勢力を持つエッカート卿の執事になっている。これは、傍目からだとかなり訝しく思う。トゥエでさえそう感じるのだから、世間一般の評価など言わずもがな。だが、カルマンに魔法や地理の教授を受けていると、何故エッカート卿がカルマンを執事にしているのか何となく分かる。魔法にも、歴史(特に正史には載っていない物事)についても詳しい、こんなに博学な人物は、おそらく大陸中探してもどこにもいない。放浪が定めの一族であるカルマンが何故一つ所に留まっているのかだけは、どう考えても分からなかったが。
このカルマンに、トゥエは色々なことを教わった。魔法を用いた戦闘だけではなく、念ずるだけで無くし物を見つける術、水を張った盥を使い離れたところにいる人と交信する『水鏡の術』、魔力を込めた札を作る術など。しかし、カルマンがトゥエに教えてくれない術も幾つかあった。『人を操る術』と『呪い』だ。「トゥエには素質がない」。その理由を、カルマンはこう述べている。しかし、他人を自由に操る術をマスターすれば、魔皇帝も操れるかもしれない。そんな淡い期待を、かつてのトゥエは抱いていた。
だが。
「無理、ですね」
トゥエの考えを、カルマンは一笑に付す。
「あの方に呪いは効かない」
カルマンがそう言うのなら、それが真実なのだろう。その時の落胆を、トゥエは今でも覚えている。しかし、世界は広い。魔皇帝に効く『呪い』も、何処かにあるかもしれない。本当に小さな期待を、トゥエは今でも持っていた。……それは、願望に近いものだったが。
「お父様」
汗を拭くトゥエの頭上で、幼い声が響く。見上げると、地上へ続く階段のてっぺんに、カルマンの娘アンの可愛らしい姿が見えた。
「お昼ご飯の支度ができましたわ。卿閣下ももうそろそろ王宮からお帰りになるでしょうし」
「そうですか」
カルマンは娘に向かって滅多に見せない微笑みを見せると、トゥエの方を向いて今日はこれで終わりにしましょうと静かに告げた。
しかしながら。
昼食の後になっても、エッカート卿は屋敷に帰って来なかった。
今日のトゥエは非番で、午前中はカルマンと武術稽古、午後は王宮での会議が終わったエッカート卿に歴史と算術と政治の指南を受ける予定なのだが、卿が帰って来ないのでは話にならない。……歴史と算術はともかく、ちんぷんかんぷんな政治の勉強が遠のいたので、内心ほっとしたのも事実だが。
仕方が無い。一人で復習をしておこう。トゥエはそう思い、地下室から石板を一つ、食堂まで持って来た。
エッカート卿の屋敷の地下室には、膨大な量の『石板』がある。その一つ一つは何の変哲もない、古代文字が刻まれた手の平サイズの石板なのだが、魔法の素養がある者がその石板に触れると、石板に刻まれている文字以上の情報が術者の頭に響くように流れてくる。本当に不思議な石板だった。
聞くところによると、この石板は、エッカート卿の先祖が嶺家王朝に仕えていた時に、皇帝の一人から下賜された物らしい。卿の一族は昔、このアデールを都として付近一帯を支配していた、由緒正しい豪族だったそうだ。エッカート卿の曽祖父がまだ若かった頃、北からやってきたリーニエ王家に土地の支配権を譲り、自分は家来としてリーニエ国に仕えることになったと、前にエッカート卿本人から聞いたことがあった。
「おそらく曾祖父は、自分の一族と自分の民の命を守りたかったんだろうな」
その話をトゥエにしてくれた時、エッカート卿が静かにそう言ったことを、トゥエは今でも覚えている。
「では」
その諦念に刺激されて、思わず尋ねてしまったことも。
「我々も魔皇帝に膝を屈した方が良いのでしょうか?」
「いや」
だが。トゥエの目の前で、エッカート卿は激しく首を横に振った。
「あいつの残虐さはウプシーラで証明されている。あんな奴に屈するくらいなら潔く死を選んだほうがマシだ」
それは、確かにそう思う。だからトゥエは、カルマンに魔法戦闘の手ほどきを受け、エッカート卿から習う歴史から、魔皇帝に対抗する方法を見つけようとしていた。……そんな方法は、未だ見つかってはいないが。
「どの時代を教えてもらっているのですか?」
石板で復習をするトゥエの向かいに座ったカルマンが、唐突にそう、尋ねる。
「嶺家王朝の灰紀帝の時代です」
普段はトゥエが卿に教わっている内容については興味を持たない人なのに。そう、訝しみながらも、トゥエは素直にカルマンの問いに答えた。
そして。
「ああ、『力有る石』が二度暴れた時代ですね」
再び唐突に、カルマンがそう、呟く。
「……『力有る石』!」
その中の『力有る石』という言葉に、トゥエの意識はすぐに反応した。
『力有る石』。これこそが、全ての元凶。魔皇帝カルダーノは『魔物を呼び出す力』を持つ『力有る石』を持っていると、噂で聞いている。その所為で、美しい都だったウプシーラは無残にも滅ぼされ、リーニエ王国は苦境に立たされている。
「その『石』のこと、聞かせてくれませんか?」
勢い込んだ口調で、カルマンにそう、頼む。トゥエの言葉に、カルマンは軽く手を振った。
「私も、詳しいことは知りません。それで良いのであれば」
嶺家帝国中期、灰紀帝の時代のこと。二つの『力有る石』を持つ者が相次いで嶺家帝国を襲い、帝国は崩壊の危機にさらされた。しかし王族の一人によって『力有る石』は封じられ、大事に至らずに済んだそうだ。
「『力有る石』を封じたその者を、我々は『鎮める者』あるいは『担い手』と呼んでいます」
カルマンの声が、トゥエの耳に静かに響く。
「担い手?」
「『石』の苦しみを代わりに担う。そういう意味だそうです」
その冷静な声を聞きながら、トゥエの頭にある考えが浮かぶ。……『担い手』さえ探し出すことができれば、リーニエを救うことができる。
だから。
「その、『担い手』の力を持つ者は、今はいないのですか?」
勢い込んで、カルマンにそう、尋ねる。
カルマンの答えは非情なものだった。
「噂にも聞きませんね」
歴史に現れた『担い手』も、その時の一人だけだ。カルマンはそう、言い放つ。だが。ここでカルマンは一呼吸置く。その一呼吸に期待して、トゥエはカルマンを見つめた。
「ですが、『担い手』より力は弱いですが、『石』を鎮めることのできる者も、二人いました」
その一人は、嶺家王朝の創始者無限帝に仕えた戦巫女。もう一人は、小さな田舎町で神を祭っていた少女だという。
「二人、だけですか……」
カルマンの言葉に、トゥエはがくっと肩を落とした。期待していただけに、落胆度は高い。
「しかし、彼女達より力が弱くとも、『鎮めの力』を持つ者ならかなりの確率でいます」
そんなトゥエに、カルマンは思いがけないことを言った。
「魔皇帝も、おそらく多少はその『力』を持っているはずです」
『力有る石』の本当の怖さは、その『石』の意志が、持つ者の意志を変えてしまうこと。カルマンの口調は、この時だけ、少し力が籠もっていた。『石』に意志を乗っ取られた者は、他人も自分も破壊する方向へと向かってしまうそうだ。
「私の推測に過ぎませんが、魔皇帝は、他人は滅ぼしますが自分自身を破壊しようとしているようには見えませんから」
今のところは。そう言って、カルマンは再びトゥエを見つめた。
「どうです? 希望は持てましたか」
「いえ……」
『力有る石』に対抗できる人物がいることは、カルマンの話から分かった。だが、そんな『力』を持つ者が何処にいるのか、さっぱり見当が付かない。
「『鎮めの力を持つ者』を探そうとするから、いけないのです」
悩むトゥエに、カルマンが助け船を出す。『石』を操る為の『意志』の強弱は、結局は個人の問題。人がどう生き、他人とどう触れ合うかによって決まる、個人の『心の力』。それが、『石』を操る『意志』になる。カルマンはそう、トゥエに説いた。
〈……意志の、力、か〉
それならば、自分でも何とか……なるかどうか自信が無い。どうするのが、一番良いのだろうか? トゥエの思考は再び、堂々巡りへと入っていった。
と。
「……トゥエ、居たのか」
全く唐突に、背後からエッカート卿の力強い声が響く。
「すぐにリュエルのところに戻れ。大変なことになった」
その、何時になく慌てた声に、トゥエの心もざわめいた。王宮で、何かがあった。
「失礼します」
トゥエはカルマンとエッカート卿に一礼すると、取るものも取り敢えず大急ぎでリュエルの許へと帰った。
リュエルの居室へ帰って来たトゥエが目にしたのは、一種異様な光景だった。
リュエルと、いつもは騒がしいヘクトを含むリュエルの側近全て――ヘクトとマチウとウォリス――が部屋のテーブルの上に頭を寄せて何やらひそひそと話しあっている。
「何やってるの、リュエル?」
その塊に向かって、殊更大きな声を発する。すると、塊はびくっと震え、あっという間にばらばらになった。
「……なんだ、トゥエか」
明らかにほっとした表情で、ヘクトが呟く。
トゥエはリュエルに会釈すると、テーブルの上の皮紙を見つめた。その皮紙に描かれていたのは、リーニエ国とその周辺の地形。その真ん中にぽつんと描かれた二つの赤い点が、トゥエの目を射た。
「この、点は……?」
傍らのマチウに、そう尋ねる。
現在のリーニエ王国の版図は、王都アデールの南に位置するデク川から王国北部に現在建設中の新都ラフカの北にあるオク川まで。オク川からその北にあるセプ川までの狭い範囲が『緩衝地帯』となっており、セプ川から北は全て魔皇帝の支配下にある。勿論セプ側のほとりにあった廃都ウプシーラも魔皇帝の支配下だ。一時期はマース大陸西部中央のほとんどを支配下に置いていたリーニエ王国だが、北部で興った魔皇帝の侵略により、あっという間に国の北半分を失ってしまった。目の前の地図に記された赤い点の一つは、オク川の左岸にあるから、ウプシーラが魔皇帝の手に落ちた後、北側の防御のために作られた新都ラフカだ。それはトゥエにも分かった。だが、オク川の右岸にあるもう一つの点が何を示すものなのか、トゥエには見当も付かなかった。
「ラフカを守る、新しい砦だ」
トゥエの問いに答えたのは、リュエル。
「そして我々は、その砦の守備に当たることが決まった」
その後を続けるマチウの声には、明らかに戸惑いが含まれていた。それはそうだろう。第三王子付きの従者は、騎士階級のマチウとヘクト、そしてその下の階級に属するトゥエと僧侶であるウォリスのみ。後見人であるエッカート卿が持つ兵力を借りるとしても、膨大な戦力を持つ魔皇帝軍を防ぐには到底足りない。
こんな無茶な配置を提案したのは、おそらく王ではあるまい。現在の王は穏やかで、自分の息子である三人の王子に分け隔て無く接している。第一王子ベッセルは戦闘にこそ強いが頭は回らない人物なので、おそらく、頭脳明晰で知られる第二王子ダグラスの差し金だろう。
「仕方無い」
皮紙の端に触れながら、静かにリュエルが呟く。
「守らねば、ならないのだから」
「そう、ですね」
リュエルの言葉に、トゥエはこくんと頷いた。
眼前に広がるのは、幼い時に見たウプシーラの惨状。あんな悲劇を、繰り返してはならない。
「だが」
マチウの言葉に、はっと夢想から醒める。
「我々には『力』が無い。これは確かだ」
マチウの言葉も真実だ。どうすれば、良いのだろう。トゥエは途方に暮れていた。
と、その時。
「そういえば」
それまで黙っていたウォリスが、不意に口を開く。
「キュミュラント山の中腹にある祠に、不思議な力を持つ『石』が祭られていると聞いたことがあります」
『石』……? 不意に、トゥエの背に戦慄が走る。
「それだ」
そんなトゥエの横で、ヘクトがはたと手を叩いた。
「その『石』のことは私も聞いたことがある」
その後に続いたのは、マチウだ。
「確か、『資格』のない者が触れると怒ってその者を殺してしまうという伝説があるらしいな」
「不思議な『力』か」
リュエルも興味を持ったらしい。
「どんな力なんだ?」
「そこまでは、僕にも」
「でも、『力』はあるんだろう?」
ウォリスの答えを、ヘクトが遮る。どうやら、ヘクトが一番興味を持っているようだ。対するトゥエの心は、不安で一杯だった。先刻カルマンに、他人も自分も滅ぼそうとする『力有る石』の話を聞いたばかりである。奇妙に一致した符号が、トゥエをさらに不安にした。しかし、皆が盛り上がっているこの状態での反論は、やりにくい。
「しかし、使い手を選ぶというのは……」
何とか、それだけ言ってみる。
「いいじゃん」
しかしトゥエの反論は、ヘクトが掻き消してしまった。
「俺達の内の誰かを選んでくれたら儲けもんさ」
トゥエを除く仲間達は皆、『石』の話にすっかり乗り気になっている。その雰囲気に押され、トゥエの不安は心の奥底に押しやられた。
「まあ、ダメもとで行ってみようぜ」
ヘクトの言葉に、他の三人が頷く。
リュエルが、そう決めたのなら。渋々ながら、トゥエも最終的にこくんと頷いた。
それでも。
漠たる不安が、トゥエの脳裏から離れない。
『石』について思い悩みすぎたのか。キュミュラント山の麓にある修道院に着いたトゥエを襲ったのは、悪寒と高熱、だった。
「全く、仕方無いなぁ」
ベッドに横たわるトゥエの頭に冷たい布を置きながら、ヘクトが呆れた声を出す。
「何でこんな時に熱を出すか」
その横で呟かれるマチウの言葉が皮肉に聞こえるのは、熱の所為だろう。
「良いじゃない」
そんな兄弟の声の向こうから聞こえてきたリュエルの言葉に、トゥエは正直ほっとする。
「誰だって熱を出す時があるさ」
幼い時から側に居るが、やはりリュエルは、優しい。
「『石』は私達だけで取りに行くから、トゥエは寝てなさい。良いね」
「はい」
そのリュエルの優しさに、トゥエは甘えることにした。
その夜、トゥエはおぞましい夢を見た。
岩だらけの大地に、横たわっている夢。横たわるトゥエの右にも左にも、人々が声も無く横たわっている。兵士だけでなく、女子供も、折り重なって倒れている。彼らを覆っているのは、静寂と、血の赤。皆、死んでいるのだ。それが分かるまでにしばらくかかる。……でも、どうして?
苦労しながら身体を起こす。顔を上げたトゥエの視線の先に、一つだけ佇立した影があった。
「リュエル!」
その影の名を、大声で叫ぶ。だが次の瞬間、こちらを振り返ったリュエルの顔に、トゥエの背は一瞬で凍った。
リュエルが浮かべていたのは、酷薄な笑み。そしてその胸には、白く輝く石の付いた首飾りが掛かっていた。
「……トゥエ、トゥエ!」
聞き知った声に、はっとする。
目を開けると、心配そうに覗き込むリュエルの瞳が、有った。
「大丈夫? うなされていたみたいだけど」
「え、ええ」
リュエルの問いに、こくんと頷く。
だが。下を向いた途端目に入ったものに、トゥエははっとして口を押さえた。リュエルの首に掛かっていたのは、悪夢で見たものと同じ首飾り。その首飾りに付いている、とろりとした感じのする白い石が発する光に、トゥエの全身は凍りついた。
「トゥエ! 大丈夫か!」
耳元で叫ぶリュエルの声も、耳に入らない。
「どうした、リュエル?」
その叫び声を聞きつけたのだろう、ヘクトやマチウ、ウォリスまでもベッドの周りに集まってくる。リュエルを、心配させてはいけない。全ての感情をぐっと飲み干すと、トゥエはリュエルに向かって首を横に振った。
「良かった」
リュエルの表情が、いつものように柔らかくなる。その変化に、トゥエは正直ほっとした。……やはり、悪夢は悪夢。夢でしかない。
「もう夕方だぞ、トゥエ」
いつもの大声で、ヘクトがそう、話す。
「山にはもう、登ってきた」
言い伝え通り、山の中腹の洞窟の中に作られた祠に祭られている『石』。それを取ることができたのはリュエルだけだったそうだ。その『石』が、現在リュエルが身につけている首飾りで光っている、白い石。
「すごいよな」
「俺達は近づくことすらできなかったのに」
ヘクトやウォリスの言葉に、顔を真っ赤にするリュエル。『力』を得たという安心感が、その全身に漲っていた。
〈これで、良かったのかもしれない〉
そんなリュエルの表情を見て、トゥエは確かにそう、思った。
だが。
……この、背筋の震えは、一体何なのだろうか?
頭の上で、不気味な足音が木魂する。
背中の震えを意識しながらも、トゥエはただ静かに、冷たい土の床に座っていた。
すぐ近くには、老若男女が二家族分、互いに身を寄せ合ってひっそりと震えている。しかし、この空間自体は、誰もいないかのように静まりかえっていた。
ここは、リーニエ王国の北、『緩衝地帯』にある村の地下室。
魔皇帝軍が国境近くで侵略の準備を整えている。この報が入ったのが昨日の朝のこと。軍の規模からすると、おそらく、新都ラフカに向かってまっすぐ突き進んでくるだろう。……途中の村々を、文字通り喰らい尽くしながら。
すぐに、国境沿いの村々に報せが走る。トゥエは一番遠くまで行く任務を引き受け、魔皇帝軍の侵攻ぎりぎりでこの村に急を告げたのだった。村人達を地下室に避難させるのがやっとだったが、これで村人達は大丈夫だろう。念の為、魔物に気づかれないように魔法結界をも、張っている。
「上は、大丈夫なの?」
不意に、小さい影がトゥエの膝に乗る。子供だ。まだ幼い。
「猫のウヌーアが、いるはずなの」
「大丈夫だよ」
だが。
現在地上で何が行われているか、トゥエは知っている。……実際に、見たことがあるのだから。
次の朝、地下室から出てきた人々を待っていたのは、文字通りの地獄絵図だった。
納屋にも、家屋にも、赤黒い血の染みとグロテスクな緑色の食べ滓が飛び散っている。そして、地下室に入れることができず、やむなく地上に残されていた家畜と穀物は、全て魔物達に喰われてしまっていた。
あまりの凄惨な光景に何も言えず、呆然と立ち尽くす村人達。その村人達の間を縫って村を一周すると、トゥエはようやくはっと息を吐いた。少なくとも村人達は、皆無事だ。そのことだけが、ほっとする材料。もしもトゥエの知らせが遅すぎて、地下室に逃げるのが間に合わなかったならば、彼らも家畜達と同じ目に遭っていた。間に合って良かった。トゥエは心からそう、思った。
とにかく、もう、帰ろう。リュエルの許へ。
「感謝する、といって良いのかは分からぬが……」
軟革鎧の上に青銅製の板鎧を身につけて帰り支度を始めたトゥエの背後で、老人特有の声が響く。この村の長の声だ。そう思いながら振り返ると、昨夜より二回り以上小さくなった老人が俯いた表情で立っていた。
「いえ」
その変わりように、トゥエも思わず俯く。人々はとにかく無事だったが、家畜と、収穫したばかりの穀物は全て魔物達に食べられてしまっている。これでは、この先の生活はおぼつかない。やはり、禍根は根本から断たなければ。トゥエは改めてそう、思った。
「それに。……そなたの馬も喰われてしまった」
そう考えるトゥエの目の前で、老人が言葉を継ぐ。その、あまりにも申し訳なさそうな口調に、トゥエは少しだけ笑った。
「ああ、それなら大丈夫です」
馬が無くても、帰る方法はある。
「無事な盥を一つ貸していただけませんか」
汚れの少ない洗濯盥が一つ、トゥエの前に置かれる。
その盥をひょいと肩に担ぐと、トゥエは釣瓶が壊れていない井戸へと向かった。
井戸の水を盥に八分目ほど入れ、波が収まったところで静かに呪文を唱える。たちまちにして水面は、リュエルの姿を大写しにした。
だが。
「……えっ?」
リュエルの服装が、おかしい。今はまだ、砦で寛いでいる頃だろうに、何故か戦闘用の細板鎧を身につけている。
そして。
「あっ!」
思わず叫ぶ。リュエルの周りにいるのは、醜悪な魔物達ばかりではないか!
「危ないっ!」
次の瞬間。トゥエは頭から盥に飛び込んでいた。
水を感じたのは、ほんの一瞬。
次の瞬間には、トゥエの身体は、丁度リュエルを襲おうとしていた魔物の大きな頭の上にあった。
「トゥエ!」
驚いたリュエルの声が、耳に心地良い。カルマンに教えてもらった『水鏡の術』は、対象人物の現在の姿を映し出すだけではなく、術をかけた水面に飛び込むことによってその人物の元へ一瞬で行くことができる便利な機能も併せ持っている。
それはさておき。
足下の魔物の頭を一蹴りし、その魔物の首筋に短槍を打ち込んでから、リュエルに襲いかかろうとする魔物の悉くに向けて短槍を振り回す。周りは草原と岩だけだから、魔法を家屋に当てて壊す心配だけはしなくて良い。だからトゥエは、リュエルにだけは当たらないように注意しながら、魔力のこもった短槍を思い切り良く振り回した。
短槍の穂先から迸る閃光が、魔物を次々と倒していく。だが。……相手の多さは、トゥエの処理能力を超えていた。
「ちっ!」
このままでは、埒があかない。トゥエは思いきり力を込めた一撃を一塊になった魔物達に打ち込むと、魔物達が怯む隙にリュエルの手を取り、魔物達がいない方向へと走り出した。
「どうして砦の外なんかに!」
広い草原を走りながら、それだけ尋ねる。
返ってきたリュエルの答えは、トゥエの予想通りだった。
「逃げ遅れた村人を放っておけない」
そういうヤツだ。リュエルは。しかし感心している場合ではない。逃げても逃げても、魔物達は数にものをいわせるかのように次々と襲ってくる。いつの間にか、二人は再び、魔物達にしっかりと囲まれてしまっていた。トゥエの魔法も、リュエルの剣術も、魔物達の壁を崩すことができない。
そして。
「あっ!」
一瞬だけ魔法が途切れたところで、頭上から大きな拳が降ってくる。これをまともに受けるわけにはいかない。トゥエは大慌てで横に避けた。
だが。僅かなその隙を、魔物達に突かれてしまう。あっという間に、リュエルの姿が魔物達の中に消えた。
「やばっ!」
リュエルを、助けなければ。だが、トゥエを囲む醜悪な魔物達の攻撃は留まるところを知らない。
そして終に、限界が来る。魔物が伸ばす触手が、トゥエの短槍を奪い取った。得物を失い、一瞬途方に暮れる。その僅かな間に、魔物の触手はトゥエの全身に絡みつき、これまでのお返しとばかりにトゥエの全身を締め付けた。
「うぐぅ……」
声が、出ない。息が、できない。
薄れゆく意識の中で、それでも心配だったのは、リュエルのこと。
と、その時。不意に、全身の締め付けが外れる。はっとして周りを見渡す。トゥエを囲んでいた魔物の大部分が、消えていた。リュエルの姿も、ちゃんと見える。その手の中にある、白く光る『石』の姿も。
「消えろ!」
これまで聞いたことのない声色のリュエルの叫びに、『石』が禍々しく反応する。たちまちにして、再び周りに集まりかけていた魔物の大部分が、消えた。間違いない。あの『石』の『力』は、魔物を消すこと。
「リュエル!」
跳ねるように起き上がり、短槍を拾ってリュエルの側へと駆けつける。
「大丈夫?」
トゥエに向かってそう問うリュエルの声は、いつもと同じ。だが。……トゥエの心にある、この焦燥感は、何なのだろう? しかし今はそれについて考えている時ではない。
「大丈夫です」
蟠った想いをぐっと飲み込むと、トゥエはリュエルに向かってにっと笑って見せた。
「他の、マチウやヘクトは?」
少なくなった魔物に魔法を打ち込みながら、リュエルの助けに飛び込んでからずっと気になっていたことを聞く。
「魔物に囲まれてから、ばらばらになって……」
トゥエの側で剣を振りながら、リュエルは首を横に振った。
ならば。トゥエは再びリュエルの手を取ると、魔物が少なくなった方向へと走り出した。
最初に見えてきた大きな岩の上に登り、辺りを見回す。
上から見た光景は、惨状そのものだった。草原のあちこちに、魔物と人間の死骸が転がっている。まだ戦っている人間がいるのが不思議なくらいだ。
「あれは……!」
ある方向を見て、リュエルが叫ぶ。少し遠くで、マチウとヘクトが戦っているのが、見えた。二人とも苦戦しているようだが、ここからでは遠い。思わず唇を噛んでしまう。
と、その時。
「消え失せろっ!」
突然、凶暴な声が辺りに響く。リュエルが、叫んだのだ。トゥエがそう認識するまでしばらく掛かった。
だが。……魔物達は、今度は消えてはくれなかった。
「そんな……!」
元に戻った声でそう言ったリュエルが、岩の上にへたり込む。この石の力は、不安定だ。トゥエはそう直感した。だが、そんなことに構っている暇は無い。ヘクトとマチウを助けなければ。
「リュエルはここにいて!」
そう言い残し、岩を滑り降りる。その時になって初めて、その岩陰でウォリスが震えているのを見つけた。
「この上に行け、ウォリス」
青白い顔をしたウォリスに、そう指示する。
「リュエルがいるから」
トゥエの言葉に、ウォリスは震えながら頷いた。
ウォリスを置いて、ヘクトとマチウが戦っている方向へと向かう。だが。当たり前のことながら、魔物達はそう簡単にトゥエを行かせてはくれなかった。たちまちにして、再び肉厚の魔物達に囲まれる。魔法を使うにも、限界がある。消耗しきったトゥエに、この魔物の壁を突破する力は既に、無かった。
それでも何とか、短槍を振る。ヘクトとマチウを、リュエルを助けなければ。その想いだけが、トゥエを突き動かしていた。
と、その時。魔物に槍を向けていたトゥエの両脇を、雷のような風が駆け抜ける。その一瞬で、目の前に居たはずの魔物は全て消え失せて、しまっていた。
「……え?」
唖然として、辺りを見回す。だが、どの方向を見ても、魔物は一匹も見あたらなかった。同じく唖然としているヘクトとマチウ、そして生き残った自軍の兵士が立っているだけだ。
「助かった、のか。……でも」
釈然としない思いが、脳裏を横切る。
僅かに首を動かすと、岩の上に、ウォリスに支えられたリュエルが見えた。
……リュエルのその手に固く握られた、『石』の姿、も。
薄明の平原を駆け抜ける風が、鉢巻で止めた栗色の髪をふわりと浮かせる。
その風に促されるように、トゥエは作業をしていた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
まだ明けきらぬ平原は、薄い靄に覆われている。その靄を透かして遠くに見える低い丘を見やり、トゥエは小さく溜息をついた。
〈……もう、着いた頃だろうか?〉
これからのことを思うと、緊張で息苦しくなるほど胸が締めつけられる。そんな心を落ち着かせるように、トゥエは殊更ゆっくりと息を吐き出した。
「準備できたか、トゥエ!」
そんなトゥエの頭上から、元気すぎるくらい元気な声が降ってくる。その声に誘われるように顔を上げると、背後の城壁の上でこちらに向かって大きく手を振っているヘクトと目が合った。
「ああ、大丈夫だ」
心の内を隠すように、殊更元気な声を出す。
城壁の上には、弓を持った兵士達がずらっと並んでいる。その兵士達を動揺させないように、トゥエはヘクトに向かってにっこりと笑いかけた。
「そっちの調子は?」
「準備万端。いつでもいけるぜ」
こんなときでもいつも通りであるヘクトの台詞にほっとする。大丈夫。きっと、勝てる。その思いを胸に抱きながら、トゥエはもう一度、靄の向こうにある丘をしっかりと見つめた。
緩衝地帯を越えてリーニエに攻め込んで来た魔皇帝の部隊は、これまでにないほど大きなものだった。緩衝地帯の村人を守る為に一部隊だけは滅ぼしたものの、残りの部隊は現在、トゥエ達が守るこの砦まであと一息の所にまで迫っていた。おそらく魔皇帝は、渡河点を守るこの砦に全部隊を投入するだろう。それが、トゥエ達の予測。
現在、新都ラフカと魔皇帝との間にあるのは、オク川とトゥエ達が拠っているこの小さな砦だけ。ここを突破されてしまったら、新都の人々はどうなるか。考えただけでもぞっとする。いや、新都だけではない。悪くすると首都であるアデールにまで、魔物の侵略を許してしまう。
この砦にも、近隣の村々から避難して来た人々が大勢居る。ウプシーラの惨状が、トゥエの眼にありありと浮かんでくる。あんな悲惨なことがこの地でも行われる。そう思っただけでも胸がぎゅっと締めつけられた。
砦の人達も、都の人達も、魔物達の餌食にするわけにはいかない。だから、負けるわけにはいかないのだ。
……しかしながら。
どうすれば、圧倒的な力を持つ魔皇帝を撃退することができるのだろうか?
「……方法は、一つだけだ」
昨晩、砦の司令室でリュエルが発した言葉を、トゥエは今でもはっきりと覚えている。王子の首に掛けられた『石』が放つ、鈍い光も。
「奥の手を使う」
そう言いながら、リュエルは目の前に広げられた地図の、砦の前に広がる小さな平原を指差した。
トゥエと、マチウとヘクト、そして神官ウォリスがリュエルの指先を追う。
魔皇帝の軍は、その殆どが魔界から呼び出された醜悪な魔物で構成されている。魔皇帝が砦の攻略に集中している間に、リュエルの持つ『石』が有する『魔物を消す力』でその魔物達を消す。それが、リュエルの明示した作戦だった。砦の周りは平原で、しかも大小の丘が平原の周りを囲んでいる。魔物をおびき出して足止めするには好都合な構造だ。
しかし、前に魔皇帝の戦いを見たことがあるリュエルの後見人エッカート卿の話によると、魔皇帝は魔法系の罠にとても敏感であるらしい。前々からの準備では、彼にすぐ気付かれてしまうかもしれないのだ。回り道をされ、直接ラフカを攻撃されれば元も子もない。
「だから、魔皇帝軍が全て平原に入ってから、魔法を発動させる」
そう話すリュエルの声には今までに無い気迫がこもっていた。
だが。
リュエルの話を聞きながら、トゥエは頭の中で別の策略をめぐらせていた。
魔皇帝が魔法系の罠に敏感なら、砦側が仕掛けた魔法は、それが大掛かりなものであればあるほど、見破られる可能性は大きくなる。そんな敵に、魔法を使うこんな作戦が通用するだろうか? それに。先の戦いで見せた、『石』の振る舞いも気になる。『石』の『力』は不安定で、しかもトゥエがリュエルから離れている時でないと発動しなかった。たった数回のことから類推するのは危険すぎるが、それでも、トゥエが側に居る時には『石』の力は発動しなかったことだけは、確かだ。
「だったら、魔法はここではなく、向こうの丘で発動させればいい」
そこまで考えたから、トゥエは地図を指差しながら思いのままをはっきりと口に出した。
「護衛にはマチウとウォリスを連れて行けよ。そうすれば、もし砦が落ちて王国が滅びても、王の血筋は残る……」
「トゥエ!」
トゥエの言葉に憤ったのか、いきなり、横にいたマチウの腕がトゥエの襟を掴む。
「お前、リュエルのことを何と思って……!」
そしてそのまま、鉄の手甲に包まれた拳が、トゥエの左頬に入った。いつもは穏やかな兄貴分であるマチウだが、やはり、トゥエの発言はリュエルを侮辱するものだと受け取ったのであろう。彼はやはり、主を侮辱されることに黙ってはいられない騎士性質の人間だ。衝撃でくらくらする頭で、トゥエはそんなことを思った。
「兄貴、やめろよ!」
マチウの行動に驚いたヘクトが二人の間に割ってはいる。
「良いんだよ、マチウ」
しかし、もう一発とトゥエに向かって構えられたマチウの拳を止めたのは、リュエルの穏やかな言葉だった。
肩で息をするマチウの背を軽く叩いたリュエルが、殴られた衝撃で床にへたりこんでいるトゥエの前に立ち、にこっと笑う。
「確かに、失敗する可能性のほうが高い。そう思っているのだろう、トゥエ?」
あくまでも穏やかな言葉が、トゥエを口篭らせる。僅かにこくんと頷くことで、リュエはリュエルの言葉を肯定した。
「しかし、他に方法が無いことも確かだ」
確かに、ただ手を拱いているだけでは、魔皇帝の侵略を抑えることはできない。しかし、『失敗する方法』をわざわざ取ることに意義があるのだろうか?
「大丈夫、失敗はしないさ」
そんなトゥエの気持ちを見透かしたように、リュエルが鷹揚に笑う。
「その為に、色々考えているのだから」
そう言うと、不意にリュエルは机に戻り、地図をじっと見つめた。
「……トゥエの案も、中々面白いな」
敵方もまさか、背後で魔法発動の準備をしているとは思うまい。リュエルは軽くそう呟いた。そしていきなり、まだへたりこんだままのトゥエの方を向き、唐突に問う。
「トゥエ、昼間仕込んだモノだけで、一万の大軍を魔法発動まで足止めできるか?」
「勿論です」
その問いに、トゥエはウォリスの手を借りて起き上がりながら、今度ははっきりと答えた。『魔皇帝を足止めできる仕掛けを』とリュエルに言われてトゥエが用意したものは、魔皇帝にとってはちゃちな魔法仕掛けかもしれないが、うまく使えは時間稼ぎには十分な威力を持っている。
「ならば、私達は丘へ行こう」
そのトゥエを見て、リュエルは再び穏やかに笑う。リュエルの笑顔に不安を覚え、トゥエは思わず俯いた。トゥエが心配しているのは、作戦や友のことだけではない。リュエルが首から下げている得体の知れない『石』。この『石』が、トゥエの心配の源。
確かに、リュエルの持つ『石』は、魔物に囲まれたトゥエ達を助けてくれた。それは、認める。リュエルの持つ『石』が、魔物を悉く消し去った時のことを、トゥエは今でも覚えている。だが、『石』の持つ力は、本当に『魔物を消す』だけなのだろうか? それが、どうも引っかかる。そして、その危険かもしれない『石』を、リュエルは何の疑いもなく持って使っている。そのことが、何となくの嫌悪感の源。……その危惧がどこから来ているのかは、分からないが。
「しかし……!」
だからトゥエは、微笑むリュエルに向かって再び食い下がった。
「この『石』のことだろう、トゥエ」
しかし、トゥエの思いを再び読んだかのように、リュエルはゆっくりと微笑む。
「私のことは心配いらない」
そして、胸にぶら下がっている『石』を軽く叩いてから、リュエルはトゥエを見つめて言った。
「だからトゥエ、砦のことは頼んだよ」
あくまで静かで、そしてしっかりとトゥエを信頼しているリュエルの瞳。その瞳の色に魅せられて、トゥエはただ黙ってこくんと頷く他、無かった。
そして組まれた作戦通り、夜の闇にまぎれて、リュエルはマチウやウォリスと共に砦を去り、丘に向かった。
「頼んだよ、トゥエ」
去り際に囁かれたリュエルの言葉は、今でもトゥエの耳にはっきりと残って、いる。
そこまで信頼されているのなら、答えなければならない。
たとえ頼るものが、得体の知れない『石』の力だったとしても。
けれども……!
「……来たぞ、トゥエ!」
切羽詰ったヘクトの叫び声に、トゥエの白昼夢は破られた。
はっとして顔を上げる。トゥエの目にも、土埃が高く舞っているのがはっきりと見えた。
寒気にも似た感覚が、トゥエの背中を這い登る。ついに、来た……!
「やるのか、トゥエ?」
そんなトゥエに、ヘクトの怒鳴り声が降ってくる。
「まだだ」
その声にそう怒鳴り返してから、トゥエは向かって来る土埃をじっと見つめた。なるべくギリギリまで引きつけないといけない。土埃の中に魔物の形が認められるまで、トゥエは短槍を構えたままじっと待った。
ぞくぞくするような感覚が全身を駆け巡る。……今だ!
「いっけー!」
平原には、砦から同心円を描くような形で魔物を足止めするための小細工魔法が仕掛けてある。魔物の姿を見極めたトゥエは、短槍の先を地面に突き立て、呪文を唱え始めた。
周りの地面が、ゆっくりと光りだす。忽ちにして、土埃の勢いが衰えた。しかし、高々ちゃちな小細工。すぐに視界の中に魔物の大柄な姿が入ってくる。ならば、更にけしかけるまで。
「行け、ヘクト!」
トゥエは城壁のヘクトにそう怒鳴った。
「了解!」
待ってましたとばかりのヘクトの声が耳に響く。
次の瞬間、城壁の上から魔物に向かって小さな矢が雨霰と浴びせかけられた。その矢全てに、魔物を傷つける呪文が封入されている。昨日、マチウとヘクトが城兵と砦に逃げこんで来た村人達の中から選んだ屈強な若者とに弓の稽古をつけている間、魔法の心得のあるトゥエとウォリスが一生懸命作成したもの。その上更に、砦にあった投石器を使い、これまた呪文入りの岩石を魔物達に向かって投げつけている。これでは、いくら大軍でも、いや密集した大軍だからこそ、受ける損害は無視できるものではなくなる。トゥエ達は、それを狙ったのだ。
それでも、こちらに向かって来る魔物は後を絶たない。そういった魔物は、トゥエが短槍で相手をする。勿論、トゥエに向かわずにそのまま砦の外壁を登ろうとする輩もいる。だが、この壁にも魔物撃退の呪文を既に掛け済みだ。現に、苦痛の咆哮を上げて魔物達がじりじりと外壁から下がっているのが微かに見える。
これで、何とか足止めはできるだろう。魔物達が繰り出す槍を頑張って受け止めながら、トゥエは確かにそう、感じた。
だが、次の瞬間。不意に、トゥエの目の前にいた魔物達がすうっと消える。先刻までとは明らかに違う空気に、トゥエの全身が総毛立った。
〈……まさか!〉
ある予感に囚われ、はっとして目の前の空間を見つめる。そこに現れたのは、やはり、トゥエの予想と寸分違わぬ人物、だった。小さな金の板を布一面に縫いつけた白いマントと、関節部分に赤を配した黒塗りの細板鎧。そして周りを払うような威圧感。
「……魔皇帝」
短槍を振るトゥエの動作が自然に止まる。そんなトゥエの目の前に、『魔皇帝』カルダーノは殊更ゆっくりとした動作で立ち止まった。
「ほう……」
呟くような声が、トゥエの耳にはっきり聞こえる。次の瞬間。目にも留まらぬ速さで、槍の穂先がトゥエの右頬を掠めた。
「な……!」
一拍遅れてトゥエが動く。だが、トゥエが動く先を読んでいるかのように、魔皇帝の槍は次々とトゥエを襲った。何とかしたいが止められない。トゥエはとうとう城門の前まで下がってしまった。
ここから先は、下がることはできない。ならば。
「……えいっ!」
魔皇帝の一瞬の隙を突いて、槍を構えたまま前へ出る。そのトゥエの槍は、魔皇帝の槍をうまい具合に遠くへ跳ね飛ばした。
「やった!」
二人の様子を見ていたらしい、ヘクトの明らかにほっとした声がトゥエの耳に響く。しかし、次の瞬間。トゥエはいきなり足元を掬われた。
「なっ!」
そのまま、仰向けにひっくり返る。足元を見ると、いつの間にか、下半身の殆どが見たことのない毒々しい色の蔓草に覆われていた。その蔓草は、城壁をも包み込むようにぐんぐんと生えてきている。トゥエのちゃちな呪文など物ともしないその生命力に、城壁の方からどよめきと悲鳴が聞こえてきた。
これは、いけない。大急ぎで蔓草を引き千切り、落ちていた短槍を拾う。そしてそのまま、この蔓草を召喚したであろう魔皇帝へとトゥエは槍を向けて飛び出した。
「無駄だな」
しかし魔皇帝は余裕を持ってトゥエの攻撃をかわすと、トゥエに向けて指を立てる。その指から電撃が迸る。
〈危ないっ!〉
トゥエはとっさに槍を魔皇帝に向かって投げつけた。勿論、その攻撃はあっけなく避けられる。だが、ほんの一瞬だけ、魔皇帝の胸ががら空きになるのを、トゥエは見逃さなかった。
がむしゃらに、魔皇帝の胸に飛び込む。魔皇帝の鎧がナイフも拳も通さないのは百も承知。それでも、トゥエのとるべき行動はこれしかない。
と。
トゥエの指先が、魔皇帝の胸元で微かに光っていた宝石に触れる。
次の瞬間。
〈……え?〉
全身に走った衝撃に、トゥエは思わず突き出した腕を引っ込めた。
その機を魔皇帝が見逃すはずが無い。いきなりの平手打ちで、トゥエの軽い身体は城門の前まですっ飛んだ。
「……くっ」
痛む頬を押さえ、何とか上体を起こす。ふと横を見ると、さっきまでぐんぐんと生えていた蔓草が、綺麗さっぱり消えていた。
〈……え?〉
思わず首を傾げる。だが。次の瞬間、鉄の手甲に包まれた大きな手がトゥエの襟元を掴み、その身体を引き上げた。
「トゥエ!」
ヘクトの叫びが耳を打つ。唇を引き結んだ魔皇帝の顔が、トゥエの目の前にあった。
城壁上の騒ぎが、遠くに聞こえる。息が、苦しい。霞む意識の中で、それでも首に掛かっている魔皇帝の太い手を外そうと、トゥエは精一杯もがいた。自分がどんなことになろうとも、砦からは誰も一歩も出ないこと。トゥエはヘクトや兵士達にそう厳命していた。更に、トゥエ自身が城門に魔法を掛け、誰も外に出られないようにしてある。だから、自分自身でこの状況を脱しないといけない。
と、その時。
「……悪いようにはせぬ。私の軍門に下れ」
思いがけない言葉がトゥエの耳を打つ。この声は確かに、魔皇帝の声。しかし、何故唐突に?
「お前の『力』が、私には必要だ」
ゆっくりと、噛んで含めるような声が続く。だが、トゥエの答えは訊く前から決まっていた。
「断る」
苦しい息の中、それだけをはっきりと声に出す。魔物を使い、人々を惨殺するような奴の味方になんか、誰がなるものか。
「そうか、……惜しいな」
溜息交じりの声と共に、首筋に掛かる力が強くなる。
「まあ、こちらとしても、無抵抗な人々を無造作に殺すような奴らの同類を味方にするわけにはいかない、か」
沈んだ言葉が、薄れゆくトゥエの意識にはっきりと響いた。
為す術も無く、目の前が真っ暗になる。トゥエは死を覚悟した。
と。
不意に、首に掛けられた力が外れる。トゥエの身体は重力のまま、背中から地面に落下した。
「なんと!」
驚きの声が、辺りに響く。
トゥエはゆっくりとその目を開いた。先刻まで周りにいたはずの魔物が、綺麗さっぱり消えている。そして何より、先ほどまでの禍々しい気が、確かに、消えて、いた。
……リュエルの魔法が成功したのだ。
「……くっ」
不利を悟った魔皇帝が、トゥエに背を向ける。
「だが、この感じは……」
マントを翻し、それでも悠然と去って行く魔皇帝の背からおかしな呟きが聞こえてきたのは、トゥエの気のせい、だろう、か……。
目を醒まして最初に飛び込んできたのは、涙でぐしゃぐしゃになったリュエルの顔。
「……良かった、生きてた」
リュエルの震える手が、トゥエの額をゆっくりと撫でる。その手の感触が何となくこそばゆくて、トゥエは全身を駆け抜ける痛みを忘れ思わず笑顔を作った。
「大丈夫ですよ、王子」
リュエルの後ろに、マチウとウォリスの安堵した顔が見える。瞳だけをゆっくりと動かすと、ちゃんと立っている城壁の上で、ヘクトが心配そうにこちらを見ているのが何故かはっきりと見えた。
夜明けの頃とあまり変わっていない辺りの光景にも、ほっとする。色々あったが、ともかく、魔皇帝を撃退して、砦も、都も、大切な人達もちゃんと守ることができた。
リュエルの信頼にも、きちんと答えることが、できたのだ。
良かった。
心からそう思ったトゥエの意識は、次の瞬間、温かい闇へと落ちて、いった。
「……久しぶりだよな、母上に会うのって」
馬上でのんびりと揺られながら、ヘクトは前を行く兄のマチウにそう、声をかけた。
「兄者は、何年ぶり?」
「さあな」
せっかくの休暇中なのに、マチウの態度はいつもと同じく素っ気ない。つまらない。ヘクトは年甲斐もなく頬をぶっと膨らませると、手綱を緩めて馬の歩みを遅くした。
魔皇帝に対する大勝利から二、三日後のこと。突然、第三王子リュエルの後見人であり、ヘクトとマチウの伯父でもあるエッカート卿が砦に現れ、少年達に休みをくれた。魔皇帝軍を撃退したことによる王からの褒美だ。そう、エッカート卿は言った。今度のことで心配している肉親に無事な顔を見せてこい、とも。だから今、ヘクトと兄のマチウは、母の住む村へと馬で向かっている。
ヘクトの主であるリュエルも、彼の乳兄弟であるトゥエと一緒に彼らの母親の所に行っているはずだ。但し、首都アデール郊外の歩いて行ける距離に母親達が住んでいるリュエル達とは違い、ヘクト達の母親はアデールから馬で一日はかかる、リーニエ王国の南端の村に住んでいる。
リュエル達は良いよな。ふと、そんなことを考える。これからあと半日も、この退屈な兄と一緒に居なければならない。それが、ヘクトには正直辛かった。既に肉親の居ないウォリスは修道院のあるキュミュラントへ行くと言っていたが、そのウォリスに一緒に来てもらえば良かった。冷たい風になびく髪を押さえながら、ヘクトはため息をついて肩を落とした。
「早く来い、ヘクト」
そんな気持ちのヘクトの上に、兄の叱咤が降ってくる。
「早くしないと夜になるぞ」
「はーい」
仕方無く、馬を並足に戻して兄の横に並ぶ。背筋がぴんと伸びだ兄は、休暇中でも近づきがたい存在だった。
話しかけにくいのは、仕方が無い。兄は自分より五つも年上なのだから。……二つ年上のリュエルやトゥエ、一つ上のウォリスには、簡単に話しかけられるのだが。
「魔皇帝軍を撃退できて良かったな、兄者」
だが、やはり。沈黙に耐えられなくなり、思わず兄に話しかける。素っ気ない返事しか、期待してはいなかったが。
「ああ。……リュエル王子の力だ」
ヘクトの予想に反し、兄の返事は長かった。
「リュエル王子に仕えることができることを、私は誇りに思っている」
それは、自分もそう思う。だから、兄のこの言葉に、ヘクトもこくんと頷いた。
「だから私は、リュエル王子の剣とならなければいけないと思っている」
そんなヘクトの横で、マチウの言葉は更に続く。
「リュエル王子を、守る為に」
そうだ。自分も、リュエルを守らなければ。再び黙ってしまった兄の横で、ヘクトもそう、心から思った。
だが。
〈……あれ?〉
ふと、疑問が心に浮かぶ。人を守る為に必要なのは『剣』なのだろうか? どちらかというと『盾』のような気がする。しかし。兄には『剣』の方が相応しいかもしれない。ヘクトはそう、考え直した。
そして、『盾』に相応しいのは。
〈今どうしているかな、トゥエとリュエル〉
ふと、二人のことが心配になる。だが、砦や国境地帯と違い、アデールやその近郊の村々はしっかり守られていて安全だ。心配することなど、何も無い。ヘクトは一人でふっと笑うと、再び差がついてしまった兄に追いつけるよう馬の腹を強く蹴った。
同じ頃。
トゥエとリュエルは、アデール郊外にある小さな屋敷に、居た。
外は少し寒いが、厚い壁に囲まれた居間は暖かい。だが、居間の雰囲気は、必ずしも良好とはいえなかった。
「……王の病気が重いそうね」
柔らかいソファに座った大柄な女性が、静かな声でそう、尋ねる。
「ええ」
トゥエの横に座っているリュエルの答えに、女性は目を伏せて大きくため息をついた。
トゥエの目の前に居るその女性は、リーニエ王国の第四王妃リーゼ。リュエルの母であり、戦乱の中トゥエを身篭って路頭に迷っていたトゥエの母ジュリアを拾ってくれた人物。この人のおかげで、リュエルとトゥエは生まれ落ちた時から一緒に居る。トゥエにとってはエッカート卿とカルマンの次に尊敬している人物でもあった。
「全く、このような時に。……寿命とはいえ」
エッカート卿の妹らしく、リーゼも物言いははっきりとしている。性格も、今は深刻な話をしているので静かだが、普段は大らかで明るい。そんな王妃と、物静かを通り越して無口な母ジュリアはどうしてあんなに仲が良いのだろうか。トゥエはしばしば不思議に思う。おそらく、世話好きなリーゼはジュリアやトゥエの面倒を見ることに満足を思えているのだろう。最近のトゥエの結論は大体これだった。
しかし、母の方はどう思っているのだろうか? これだけはよく分からない。息子であるはずのトゥエを見ても、少し笑うだけでどことなくよそよそしい母のことが、トゥエには一番の謎だった。現に今も、危険地帯にいる息子が無事な姿を見せに来たというのに、台所に籠もったまま一歩も出てこない。愛情、といえるものが、母に欠けているわけではない、と思う。リュエルと一緒に居る時の母は優しいし、二人だけの時も、優しいことは優しい。しかし、どこかよそよそしい感じがするのも、確か。
「……トゥエ」
トゥエの思考を、リュエルの言葉が破る。
「食事の用意ができたよ。食堂へ行こう」
どうやら、深刻な話は終わったようだ。トゥエはリュエルに向かってこくんと頷くと、リュエルの後ろから食堂へと向かった。
食堂で、あらためてリーゼと向かい合う。大柄なリーゼに比べると、リュエルはかなり小柄に見える。髪の色も肌の色も、南方の人らしく濃い感じの強いリーゼに比べ、リュエルは色白で髪の色も薄い茶色だ。リュエルの外見は、母には似ていない。父である王に似ているのだ。だが明るく優しい性格は母親譲りだ。
翻って、自分はどうだろう? ふと、首を捻る。栗色の髪と小柄な体格は母譲りだと思うが、青白いとしか形容できないこの肌の色は? もしかすると、母は、自分が父に似ているから、避けているのかもしれない。
父のことは、少しだけ聞いたことがある。住んでいた村が魔皇帝軍に襲われ、親兄弟を亡くして一人泣いていたところを助けてくれたのが、トゥエの父だったそうだ。父と母は半年ほど村の跡地で一緒に暮らしたが、父はある時ふいっと出て行ってしまい、それっきり二度と目にしたことがないそうだ。
「……ジュリア」
そんなことを考えるトゥエの目の前で、リーゼが台所に向かって叫ぶ。
「あなたも来て、一緒に食べなさいよ」
そのリーゼの声で、渋々ながらトゥエの母ジュリアが現れる。やはり、自分も外見はこの母には似ていない。押し黙ったままの母を見ながら、トゥエはそう、思った。そして、肝心なところで押し黙ってしまう性格は、母親譲りらしい。食事が終わり、王宮に帰る時になっても、トゥエとジュリアの間には親子らしい会話は殆どなかった。
対して、リュエルとその母親の方は。
「これ」
帰り際に、リーゼは大きめの包みをリュエルに渡した。
「新しく作ったの」
リュエルが包みを開けると、派手な色合いのマントが現れる。リュエルにぴったりのマントだ。この時だけは、正直リュエルが羨ましくなった。
と、その時。
「ほら、ジュリアも渡しなさいって」
突然、リーゼがジュリアをトゥエの前に押し出す。よく見ると、ジュリアも同じような包みを持っていた。
言葉も無く突きつけられた包みを、黙って受け取る。包みを開くと、地味だがしっかりした作りのマントが、トゥエの前に現れた。
「あ……」
ありがとう。その一言が出てこない。
「もう」
そんな二人の状態に業を煮やしたのは、リーゼだった。
「あなた達って、本当に変ね。実の親子なのに」
リーゼにそう言われても、トゥエには返す言葉がなかった。
親子のことは、親子でも分からないものなのだ。
「……疲れた」
その夜。王宮に戻った時のトゥエは何時にも増して疲れていた。
リュエルの方もかなり疲れているのだろう、重いマントを外す時も、二人で軽い夜食を取っている時もやたら「疲れた」を連発している。しかし身体の疲れと心の高揚は一致していないらしい。リュエルの頬は、いつもより上気しているようだった。
「でも、久しぶりに母上や乳母上に会えて、良かったよな、トゥエ」
リュエルの言葉に、こくんと頷く。
トゥエも、母に会えて正直嬉しかった。その気持ちを、上手く伝えることが、できないけれど。
しかし。……本当に今日は疲れた。
「あまり長いこと伯父上に留守番をさせておくわけにはいかないから、マチウ達が帰り次第砦に戻らないと」
そう言うリュエルの着替えを手伝いながら、トゥエは既に、半ば夢の中に入っていた。
だが。
一瞬感じた殺気に、はっと目が覚める。トゥエは腰の短刀を抜くと、殺気を感じた方向にその切っ先を向けた。
「……どうした?」
そのトゥエの行動に、リュエルが疑問の声を上げる。
その、次の瞬間。天井から、軟革鎧を着けた影が落ちてくる。不意に目にした鋭い切っ先を、トゥエは魔法ではじき飛ばした。
だが。部屋にいる影をすばやく数えて、呆然とする。影は、八つ。
「曲者!」
そう叫ぶなり、側に立てかけてあった長剣を掴むリュエル。だが、狭い部屋の中では、長剣は使えない。
とにかく、リュエルを守らなければ。それだけは確かだ。そう思い、トゥエは自分の背中でリュエルを庇いながら、素早く壁際へと向かった。どうすれば八人もの刺客からリュエルを守ることができるのだろうか? いや、とにかくやるしかない。
次々と現れる切っ先を魔法と短刀ではじき返しつつ、影の隙を窺う。この部屋の家具の位置や様子は、トゥエの方がよく知っている。その有利を、利用するしかない。ここだ。そう思った瞬間、トゥエの短刀は影の一つを深々と切り裂いて、いた。
しかし、影達の攻撃は引きも切らない。トゥエの、鎧を着けていない身体は既に、あちこち切り裂かれている。しかし少々の怪我なんて気にしてはいられない。リュエルを守ることが、第一だ。だから。リュエルを背後に庇いつつもう一つ、もう一つと、影を切り裂いていく。だが。トゥエに限界が来る方が早かった。
不意に何かに足を取られ、前のめりに倒れる。たちまちのうちに、トゥエとリュエルの間に一つの影が入った。いけない……! 大慌てで立ち上がる。だが、別の影が持つ、鋭い切っ先が同時に二つ、トゥエに襲いかかってきた。
〈いやっ……!〉
リュエルが、殺される。それだけは、嫌だ。トゥエは危険も顧みず、向かってきた切っ先に突進した。
肩に刃を受けながらも、二つの影を、同時に切る。しかしそれでも、影の攻撃を長剣で防いでいるリュエルまでは絶望的に、遠い。肩の痛みに耐えきれず、再び床に突っ伏す。そのトゥエの目の前で、リュエルがとうとう、剣を落とした。
〈リュエル……〉
ごめんなさい、守れなくて。絶望するトゥエの視界は、静かに少しずつ暗くなって、いった。
と、その時。不意に、リュエルが首に掛けていた石を掴む。次の瞬間。トゥエの目の前で、リュエルに襲いかかろうとしていた刺客の一人が消えた。
「……え」
驚きで、動きが一瞬止まる。まさか、あの『石』、は、……魔物以外も消すことができるのだろうか? 戸惑うトゥエの目の前で、もう一人、リュエルの近くにいた刺客が消える。もう、間違いない。リュエルに害をなすモノは全て、魔物だろうが人間だろうが、消すことができるのだ。
駄目だ。不意に思う。これ以上、リュエルに人間を消させてはならない。ぱっと跳ね起きるなり、トゥエはリュエルに向かって突進した。
丁度襲いかかってきた最後の影に背中を向けるようにして、リュエルを庇う。右胸に鋭い痛みを感じたが、そんなことに構っている暇は無い。リュエルを安全な床に押し倒しながら、トゥエは振り向かずリュエルの剣を背後へ突き刺した。
トゥエの背後で、呻き声が上がる。
これで、全員倒したはずだ。ほっとするトゥエの視界が、急にひっくり返った。
「トゥエ! 死ぬな、トゥエ!」
リュエルの悲痛な叫びに、はっと目を開ける。ぼうっとした部屋の風景の中で、泣き濡れたリュエルの顔だけが何故かはっきりと、トゥエの目に映った。震えるリュエルの手が、トゥエの額を優しく撫でる。だが、その手の感覚すら、感じ取ることができない。ここで、死ぬのか。漠たる予感が、トゥエの全身を支配していた。
だが。
たとえここで死ぬとしても、リュエルには、もう二度と、『力有る石』を使わせてはならない。あんな残酷なことを、リュエルにさせるわけにはいかない。それが、この戦いでトゥエが感じた、唯一の事。
だから。
「……その、石の力」
苦しい息の中、それだけははっきりと言う。
「人間には、使わないで」
「分かった。約束する。だから死ぬな、トゥエ!」
トゥエの言葉に、リュエルがこくんと頷くのが見える。
良かった。ほっとした次の瞬間。トゥエの意識は急速に闇の中へと落ちて、いった。
目を開けると、暗い天井が見えた。
何処の、天井だろう? ぼうっとした頭でそれだけ考える。確か、自分は、リュエルを襲った刺客と戦っていたはずだ。なのに何故今、ベッドの上に寝かされているのだろう? ……そうだ、リュエルは? 無事なのか? 襲ってきた焦りに、上半身を起こす。だが。次に襲ってきたのは、激痛だった。
「うっ……」
痛みに耐えられず、再びベッドに突っ伏す。丁度その時、大柄な影と小柄な影がトゥエの脇に立った。エッカート卿とカルマン、だ。
「……お、やっと起きたか。案外元気だな」
先に声を出したのは、エッカート卿。
「やっと目覚めましたね」
その横で、カルマンが滅多に見せない笑みを浮かべていた。
「まあ、これで大丈夫だろうが」
「怪我の具合がどうなっているかが問題ですね」
明らかにほっとした顔のエッカート卿が、トゥエの身体を起こし、カルマンがトゥエの背中を検める。その間、トゥエの思考はずっと混乱の極みにあった。エッカート卿とカルマンがいるということは、ここは、エッカート卿の屋敷だ。おそらく、大怪我をしたトゥエを王宮に留めることができなかったのだろう。それは、ぼうっとするトゥエの頭でも何とか分かった。
問題は、リュエルのことだ。現在、トゥエのいるこの部屋にはエッカート卿とカルマンしかいない。リュエルも、他の仲間達も、一体何処へ行っているのだろうか? あの時リュエルを襲った刺客は全て倒したはずだが、果たしてリュエルは無事なのだろうか?
「……あの」
息をする度に、胸が痛む。
「リュエル、は?」
やっとの事で、トゥエはそれだけ聞いた。
「リュエルなら、もう、砦に戻っている」
その質問に答えてくれたのは、エッカート卿。
「ここにいても危ないだけだからな」
傷に全く響かない、意外に繊細な動作でトゥエをベッドへ寝かせながら、エッカート卿はこれまでの事情をかなり詳しくトゥエに教えてくれた。
それによると。
リーニエ国内において、現在、リュエルの王子としての評価が上がっているそうだ。先の魔皇帝の侵攻に対して良く砦を守り、しかも緩衝地帯内に住む人々をも砦で保護したことが高評価に繋がっているらしい。新都ラフカにいた第一王子ベッセルは魔皇帝の侵攻に対し出陣もせずただ怯えていただけだし、避難してきた人々の保護を拒否した。こんな王子を評価する者など誰もいない。南都アデールに居て何もしていない第二王子ダグラスの評価など言わずもがなである。しかし、二王子がこの評価に危機感を持ったことも確か。だから、今のうちに末王子を亡き者にしようと企んだ。王が病気である今だからこそ起きた、王位継承に関するある意味つまらない争い。
「まあ、こちらとしては、二王子が暴挙に出てくれた方が助かるのだが」
一瞬だけ、エッカート卿が本音を述べる。
「しかし、リュエルの身に何かあってはいけない」
二王子の母親はリーニエ王国北部出身、リュエルの母親は南方の豪族であるエッカート卿の身内だ。二王子とリュエルの王位争いは、南北の豪族の争いともいえる。この事件にエッカート卿が敏感に反応してもおかしくは、ない。
「だから、砦に戻したのだが……」
明らかに心配そうに眉根を寄せて、エッカート卿はそう、呟いた。
確かに、砦になら兵もいるし、リュエル付きの小姓であるヘクトやマチウ、ウォリスが常にリュエルにくっついている。暗殺にさえ注意していれば、二王子の手からは無事だろう。だが、魔皇帝に対しては、国境に近い砦は安全とはいえない。一度撤退したとはいえ、魔皇帝が何時また侵略を開始するかは誰にも分からないのだ。
「ここで悩んでも、仕方ありませんよ、卿」
腕を組むエッカート卿の背後で、カルマンの静かな声が響く。
「そうだな」
その言葉に、エッカート卿は腕組みを解き、いつものように豪快に笑った。
「とりあえず行動する他無い、か」
そう呟きながら、エッカート卿はトゥエにくるりと背を向ける。
「ま、トゥエは何も心配せず、ここでゆっくり休んでろ」
そう言って去っていく卿の広い背中に、トゥエは少しだけ安心した。
だが。……少しだけ、だ。
季節は既に冬。怪我の治療には良い季節であった。
一日、また一日と日が経つにつれ、トゥエの身体の痛みも段々と治まっていった。しかしながら。……やはり、心配なのはリュエルのこと。
砦に、刺客が入り込んでないだろうか。マチウやヘクトのことを信頼していないわけではないが、もしリュエルが刺客に襲われたら、彼らで対処できるだろうか? ……あまり考えたくはないが、こんな時にもし、魔皇帝が再び侵略してきたら? エッカート卿は心配するなと言っていたが、やはり、心配せずにはいられない。
だから。まだ痛む背中の傷を庇いながら、そっと、ベッドから滑り降りる。目的は勿論、盥と水を見つけ、『水鏡の術』で砦にいるリュエルの様子を覗くこと。
だが。
「何をしているのですか、トゥエ」
やはり、というべきか。途中でカルマンに見つかってしまう。
「あの、えっと……」
リュエルのことが心配で。そう、言い訳しようとしたのだが、カルマンの厳しい視線に言葉を奪われる。トゥエは思わず俯いた。
「仕方ありませんね」
ため息をつくカルマンは、それでも、トゥエの目の前に水を張った盥を用意してくれた。
「少しだけですよ。無理は、しないように」
カルマンの言葉にこくんと頷いてから、水面に向かって精神を集中させる。目的の人物を捜す術は体力を余分に使うので、トゥエは『目的の場所』を映す呪文をそっと、唱えた。
すぐに、リュエル達の駐留する砦の大広間が水面に映る。リュエルがいるとすれば、大広間か居室だろう。昼間のこの時間なら大広間か。そう思い、大広間を映すよう意識を集中させたのだが、今日の大広間には誰も居ないようだ。仕方が無い。トゥエはそう思い、居室の方を探してみようと意識を移しかけた、丁度その時。
「やあ、トゥエ」
水面いっぱいに、ウォリスの顔が大写しになる。
「ウォリス!」
トゥエは思わず叫んだ。
何故。そう訊こうとしてはっと思い当たる。ウォリスは僧侶である。魔法にも詳しい。『水鏡の術』を知っていても不思議ではない。
実際に。
「これ、『水鏡の術』だろ」
ウォリスは特に戸惑う様子もなく、トゥエに向かってにっと笑ってみせた。
「リュエルなら、天気が良いんで中庭で兵達の訓練をしてる」
「あ、ありがとう」
トゥエは戸惑い気味にウォリスにそう返事をすると、気を取り直してもう一度意識を集中させた。すぐに、砦の中庭の様子が水面に映し出される。細板鎧を着て兵の訓練を指揮するリュエルの様子に、トゥエは心底ほっとした。
「……あの、僧侶は?」
不意に、トゥエの横で水面を見ていたカルマンが尋ねる。
「ウォリスです。僕達の幼馴染みで、先頃リュエル付きになった」
「ふむ……」
トゥエの説明に、カルマンは顎髭を捻りながらぼそっと呟いた。
「『水鏡の術』は一方通行。会話はできないはずですが」
元気なリュエルを見て、トゥエは心から安心した。しかしその安堵感も、一晩経てば消えてしまう。カルマンに盥を用意してもらってリュエルの姿を確認した翌朝、再び『水鏡の術』を試みるトゥエの姿が、あった。
丁度良いことに、昨日カルマンが用意してくれた水が入りっぱなしの盥が部屋に残っている。それを見つけたトゥエはにっと笑うと、いそいそと盥に躙り寄り、盥を覗き込んで精神を集中させた。
体力が余分に必要なので昨日は使えなかった『探している本人を映し出す』方法を使う。すぐに、リュエルの姿が水面に映し出された。リュエルは朝の散歩中らしい。砦で一番高い塔の上にいた。しかも、たった一人で。
危ない。直感的にそう思い、苛立つ。刺客に狙われているリュエルを一人にしておくなんて、マチウもヘクトも何をしているんだ。トゥエがそう思った、まさにその時。
風景を眺めているリュエルの背後に、二つの影が立つ。あれは、……第一王子ベッセルと第二王子ダグラス!
危ない!
そう思うより早く、トゥエは盥へと飛び込んでいた。
水を感じるより先に、冷たい風を感じる。
眼下では今まさに、第一王子ベッセルの太い腕がリュエルの首を掴んだところだった。助けなければ。だが、トゥエが今いる空中からは遠すぎる。トゥエは歯ぎしりし、しかしそれでもリュエルを助けようと両腕を伸ばした。
と、その時。一瞬だけ、リュエルのペンダントが光を放つ。
そして、次の瞬間。
「あっ!」
二方向から、驚きの声が上がる。トゥエ自身の声と、第二王子ダグラスの、声。
リュエルは、石になったようにその場を動かない。だが、ベッセルの姿は、何処にもなかった。
まさか。嫌な予感が、トゥエの脳裏を過ぎる。リュエルの持つ『力有る石』がその力を発揮し、第一王子を消してしまったのだ。
驚愕と戸惑いの内に、リュエルの前へ降り立つ。背中でリュエルを庇いながら顔を上げると、驚愕と恐怖に顔を歪ませたダグラスの姿が、目の前に見えた。
「貴様ら、何を……!」
叫びながら、ダグラスが腰の剣を抜いて二人に襲いかかる。
止めなければ。とっさにそう思い、腰を探る。だが、当たり前のことだが、腰にいつも差している短刀は、今は無い。得物である短槍に至っては、言わずもがな。それでも。身体を張ってダグラスを止める為に、トゥエは立ち上がり、両腕を大きく広げた。しかし病み上がりのトゥエの力では、体格差のありすぎるダグラスは止められない。弾かれて、床を転がる。全身の痛みに耐えながら飛び起きたトゥエが目にしたのは、リュエルに襲いかかるダグラスの姿。ここからでは、どんな攻撃も届かない。怪我が治っていないから、ダグラスを止められる確率は限りなく、低い。それでも。トゥエは腕をバネにして飛び上がり、背後からダグラスを羽交い締めにしようと、した。
と、その時。
「うわぁ!」
リュエルの頭上に剣を振りかざしたダグラスから、悲鳴が上がる。その大柄な身体のあちこちから煙が出ているのが、トゥエの位置からでもはっきりと見えた。
そして、次の瞬間。ダグラスの姿も、トゥエの目の前から、消えた。
全身が、悪寒に包まれる。トゥエは何も言えず、その場に立ち尽くした。
思いがけず見せつけられた『力有る石』の力。その力の強大さに、恐怖を覚える。それでも。リュエルが助かったのだからよしとすべきなのか。トゥエは想いを全て飲み下してから、リュエルの方へと一歩、近づいた。
と、その時。
「自業自得だ」
ぞっとする音が、トゥエの耳を打つ。
顔を上げると、残虐に微笑むリュエルの唇が、確かにはっきりと、見えた。
何が、一体どうなっているのだろう?
砦にある、自室のベッドの上で、トゥエは考え込みながら寝返りを打った。途端、背中の痛みがぶり返し、思わず呻く。縫っただけで、傷口はまだ完全に塞がっているわけではないのだから。
しかしながら。
〈うーん……〉
今度は、背中の傷に注意しながら寝返りを打つ。背中がこれ以上痛まないことを確かめてから、トゥエは先ほどまで考えていた疑問に戻った。
トゥエの目の前で、リュエルの異母兄である第一王子ベッセルと第二王子ダグラスが消えた。これは、リュエルの持つ『石』の力だ。それは、分かる。問題は、『石』の力を使う度に、リュエルがどんどん残酷になっているような気がすること。二王子を消した時のリュエルの表情は、絶対に忘れることができない。
確か……。カルマンから教わった『力有る石』の話を、トゥエは必死に思い出す。確か、『力有る石』の本当の怖さは、その『石』の意志が、持つ者の意志を変えてしまうことだと、カルマンは言っていた。『石』に意志を乗っ取られた者は、他人も自分も破壊する方向へと向かってしまう、とも。
まさか。一度打ち消してから、再び考える。まさかリュエルも、あの『石』に意志を乗っ取られてしまったというのだろうか? 「王国と、そこに暮らすと大切な人々を守りたい」という強い意志を持って全ての事に当たっているリュエル、が? いや、まさか。首を振ってもう一度、打ち消す。だが、事実は容赦無く、トゥエの否定を否定した。
「……トゥエ、大丈夫か?」
不意に声をかけられ、思わず上半身を起こす。
途端に再び背中に激痛が走り、トゥエは再び呻いてベッドに突っ伏した。
「おい、大丈夫か!」
声の主、ヘクトが、大慌てでベッドへと近づいてくる。
「大丈夫。……それより、リュエルは?」
トゥエの問いに、ヘクトは首を横に振った。
「うん、何というか、……何も覚えてないみたいなんだ」
ならば、それはそれで良い。トゥエは半ばほっとして、今度はゆっくりとベッドの上に上半身を起こした。リュエルが今朝のことを覚えていないならば、二王子消失の真相を説明できるのはトゥエだけになる。だが、リュエルの不利になるような事は、トゥエにはできない。リュエルのことを考えると、自分が二王子殺しの犯人だとされた方がまだ良い。リュエルを、傷つけたくない。
しかし。
リュエルが浮かべた、あの酷薄な笑みが、トゥエの脳裏を過ぎる。二度と、リュエルにあんな顔をさせるわけにはいかない。
同時に、あの石を取りに行った時にキュミュラント山の麓で見た夢を思い出す。あれは、……予知夢、だ。間違いなく。だが、あの夢を現実にさせるわけにはいかない。……『石』を、奪おう。奪って隠そう。そう決意し、トゥエはきゅっと唇を噛みしめた。
「……それでさ、一応エッカート卿には相談してるって兄者が言ってたけど、二王子の後見人達がどう出るか分からないってさ」
そんなトゥエの横で、ヘクトがこれまでの情報を話してくれる。だが、トゥエは、その情報の半分も聞いてはいなかった。
その日の夕方。
皆が忙しい時を狙って、トゥエはそっと自室を滑り出た。
目的地は勿論、リュエルの居室。この時間は多分湯浴みをしているだろう。その間に、『石』を奪う。そういう計画だ。
普段通りの表情で、リュエルの居室にそっと滑り込む。トゥエの予想通り、リュエルの姿はそこには無かった。隣の部屋から、水の跳ねる音とリュエルとマチウの声が聞こえてくる。トゥエの予想通り、リュエルは湯浴み中であるらしい。そして、居室のソファの上には、着替えのチュニックとマントの他に、例の『石』の付いた首飾りも半ば投げやり気味に置かれていた。
良かった。ほっと息をついて、『石』に手を伸ばす。幾らリュエルの為とはいえ、リュエルと争ってまで『石』は奪えない。
だが。トゥエの手が石に触れた、丁度その時。
「何をしている!」
鋭い声が、トゥエの手を止める。
この声、は。
「ウォリス」
そのまま、ゆっくりと振り返る。
トゥエの目の前には、つり上がった目をしたウォリスが立っていた。
「それを奪ってどうするつもりだ」
静かな、だが怒りの籠もったウォリスの声が、トゥエの耳を打つ。その怒りに、トゥエは正直戸惑った。一体何故、ウォリスはこんなに怒っているのだろうか? ……この『石』の、為?
「お前の手にだけは、渡せない」
戸惑いに立ち尽くすトゥエの右腕を、不意にウォリスが掴む。何もできないまま、トゥエは背中から床に落ちた。
激痛が、身体中を走る。だが、痛みに呻くより先に、疑問がトゥエの頭を駆け巡った。……僧侶であるはずのウォリスに、こんな腕力があっただろうか? それでも何とか、起き上がる。その時には既に、ウォリスはトゥエと『石』の間に立っていた。
「その、『石』を、僕に渡してくれないか?」
この状態では、『石』を奪うことができない。でも、ウォリスを説得することができれば。そう思い、トゥエは口を開いて自分の意志を伝える。
「これ以上リュエルに残酷なことはさせられない」
「断る」
だが、ウォリスの返事は、トゥエの予想の斜め上を行っていた。
「僕は、この力で、魔皇帝を退ける」
「何故?」
だから思わず、そう尋ねる。トゥエの疑問に対するウォリスの答えは、ある意味予想できるものだった。
「僕のような境遇の子供をこれ以上増やしたくない」
それは、分かる。廃都ウプシーラの光景がぱっと脳裏に浮かぶ。あのような悲劇は、二度と起こしてはならない。
だが。
「じゃあ、リュエルがどうなっても」
懸念を、口にする。
ウォリスの答えは、やはりトゥエの予想通りだった。
「構わない」
断定的なその口調に、次の言葉が出ない。
ウォリスの気持ちは、理解できる。だが。……トゥエにとっては、『国』よりリュエル個人の方が大事だ。だから。
体力を振り絞り、ウォリスに向かって突進する。力押しなら、同じ体格のウォリスには負けない。だが、トゥエの身体は、ウォリスに当たる前に見えない力によって止められた。
「なっ!」
思わず、叫ぶ。忘れていた。ウォリスも魔法が使えるのだ。
次の瞬間。
「あ……」
不意に、意識が遠くなる。
これも、魔法の一種だ。そう思う前に、トゥエの意識は暗闇へと閉じ込められて、しまった。
次に目を覚ました時には、トゥエは再び自分の居室にいた。辺りは既に夕方とはいえないくらい暗くなっている。
〈……ウォリス〉
薄暗い空間で、先ほどまでのことを反芻する。
『力有る石』は、それを直接持つことのできない人間の意志をも時に操れるほど強大な力を持っている。カルマンは確か、そうも言っていた。先程トゥエに対して見せた、いつもとは明らかに違う力からすると、おそらくウォリスも、『石』に操られている可能性が大である。と、すると、『石』を奪う為には、リュエルの他にウォリスの『目』にも注意しなければならないことになる。……もしかすると、リュエルの側に居るマチウと、ヘクトの『目』にも。トゥエがそこまで考え、俯いて溜息をついた、丁度その時。
「……トゥエ」
「ちょっと待てよ、兄者」
青銅製の板鎧が壁にぶつかる音と共に、ヘクトとマチウが現れる。マチウの声に深いやるせなさが混じっているのを、トゥエは敏感に感じ取った。
「本当にトゥエをあいつらに引き渡す気か?」
ベッドに横たわるトゥエを庇うように、ヘクトがマチウの前に立つ。
「ああ」
だが、マチウの表情は、あくまで冷静だった。
「何でだよ!」
対してヘクトの声は、明らかな怒気を含んでいる。
「今度のことも、もとはといえばあの二王子が先に手を出したんだろ?」
ヘクトとマチウの会話から、大体のことは分かる。第一王子と第二王子の後見人達が、二王子『消失』の『下手人』を引き渡せと言ってきたに違いない。
二王子『消失』の原因は、リュエルの持つ『石』の所為。だが、後見人達に『石』を引き渡しても、消失の説明にも責任の所在に関する説明にもならない。第一『力有る石』をむやみに『敵』に渡すわけにはいかないのは自明の理。……『石』の所持者であるリュエルを引き渡すわけにはいかないことも。
だから。
「良いんだ、ヘクト」
そう言って、ベッドから身を起こす。これ以上、ヘクトとマチウの言い争いは聞きたくなかった。
「僕は、行くから」
「……済まない、トゥエ」
背後から、マチウの声が降ってくる。
「リュエルの為なんだ。我慢してくれ」
分かっている。だが。……『石』のこと、ウォリスのことが脳裏を離れない。
……リュエルの、ことも。
マチウに連れられてやって来た部屋にいたのは、いかにもという感じの黒衣の集団。その集団が、トゥエの手首と肩を縛る。しかもご丁寧にも、首には首枷、口には猿轡、目には目隠しという『完全装備』である。
歩きにくいから目隠しだけは外してほしい。トゥエは正直そう思った。だが、ここで文句を言ったり騒いだりするわけにはいかない。不用意な一言が、リュエルを不利な立場に落とすかもしれないのだ。だからトゥエは、大人しくされるがままになっていた。
と。
「トゥエ!」
突然、リュエルの声がトゥエの耳を打つ。
目隠しをされているから、当然何も見えない。だが、リュエルがすぐそばにいる。そのことが、トゥエにはとても嬉しかった。
〈……大丈夫です、リュエル〉
心の中で、そう、叫ぶ。
自分がどうなっても、リュエルには幸せになってほしい。この時、トゥエは心からそう、思った。
……勿論、『石』のことだけは、しっかりと心に引っかかってはいたのだが。
トゥエを引き連れた黒衣の兵の一行は、徒歩のまま砦を出た。
新都ラフカに連れて行かれるのだろうか。暗闇の中を半ば強制的に歩かされながら、トゥエはふと、そう思った。そして、連れて行かれた後、は……。全身に、悪寒が走る。『死』はいつも、意識していたはずだった。だが、やはり、怖い。
と、その時。トゥエの横を、一陣の風が駆け抜ける。次の瞬間、トゥエを引っ張っていた綱の動きが、唐突に止まった。
「全く」
不意に、静かな声が響く。この声は……カルマン? 思わず首を傾げる。でも。……助かったのだ、多分。トゥエは心底ほっと、胸を撫で下ろした。
「闇夜に護送とは、向こうも頭に血が上っているとみえますね」
手首と肩と首と目と口が、次々に自由になる。トゥエの目の前には、明らかにカルマンと分かるしっかりとした影が、確かにあった。
「逃げなさい」
その影が、静かにそう囁く。
「でも……」
「エッカート様の命令です。……そして、彼の願いでもあります」
トゥエの逡巡を止めるカルマンの声が、闇夜に響く。しかし、それでも。どうしても、やらなければならないことがある。
だが。
「『石』のことは、しばらく忘れなさい」
トゥエの躊躇いの原因を、カルマンが正確に言い当てる。これでは、トゥエに反論の余地は無い。
「チャンスは必ず巡ってきます」
確信に満ちたカルマンの言葉に、思わず頷く。
トゥエはカルマンに一礼すると、砦に背を向け、暗闇の中を走った。
意外に、活気のある街だ。
これが、トゥエが魔皇帝の都リーマンに足を踏み入れたときの正直な感想だった。
北側に開いた湾を利用した港から伸びる大通りは、攻め込まれた時の防御の為に所々鍵型に曲げてはあるが、それでも、通りは人馬の往来が激しい。街の大きさこそアデールの比ではないが、大通りから見える小路の両側に立っている家の多さからすると、かなりの人口を擁していることは嫌でも分かる。
だが。この町には、アデールにもウプシーラにもなかった緊張感が、確かに、ある。その理由は、トゥエには既に分かっていた。この街の入口で、ある『誓約書』を認めさせられたからだ。誓約の内容は、『この街に入るにあたり、徘徊する魔物に襲われても文句は言わない』こと。やはり、魔皇帝の都だ。その誓約を示された時、トゥエは心底そう思った。
今、ぐるりと見渡したところでは、魔物の気配などこれっぽっちも無い。リーニエにある普通の街と同じに見える。だが、この街の何処かには、残虐な魔物が潜んでいるという。自分の膝元で、そんなものを放っておくとは、やはり、残酷な人だ。背中の震えを感じ、トゥエはふっとため息をついた。
仕方無くリーニエを去ってから、どれくらいの時が経ったのだろうか? 風は確かに冷たいが、日の光は既に、微かな暖かさを運んで来ていた。
この街にきた理由は単純で、敵対する者が支配する街を見たいと思っただけ。だが、街の意外な普通さに、トゥエは内心感心して、いた。
と、その時。
「うわっ! 魔物だ!」
「逃げろっ!」
鋭い悲鳴に、思わず振り向く。トゥエの左にある小路から、人がわっとあふれ出していた。
嗅いだことのある、吐き気のするほどの生臭さが、トゥエの全身を総毛立てる。どう、するか。それを考える前に、トゥエは人波に逆らい、小路へと飛び込んだ。
小路の先、粗末な家々に囲まれた小さな広場に、魔物は居た。小山のような体をフルフルと動かしながら、広場の屋台に乗っている食い物をむしゃむしゃと食べている。
「止めなさい! 帰りなさい!」
その魔物の前で、一人の少女が腕を振り回しながら叫んでいる。魔物の大きさからみると、少女は不釣り合いなほど小さく見えた。
少女の止めるのには全く構わず(当たり前だ)、魔物はその視界に入る食い物を次々と平らげていく。
「だから、止めなさいって!」
言うことを聞かない魔物に業を煮やしたのか、少女は不意に、腰の短刀を抜くと魔物にその切っ先を向けた。
鋭い光が、その切っ先から迸る。自分の魔法と同じ種類のものだ。そう、トゥエが判断する前に、光は魔物の腹へとまっすぐに食い込んだ。しかし、その魔法の光は、太った魔物には何の効果も及ぼさなかったようだ。魔物はけろりとした表情で屋台そのものまで食い尽くすと、今度は少女の方へその大きな手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと!」
素早く逃げる少女。だが、間に合わない。あっという間に、少女の身体は魔物の手に絡め取られてしまった。
このままでは、少女の命は無い。だが、その時には既に、トゥエは落ちていた短槍を構えてチャンスを窺っていた。
少女を飲み込もうと、魔物が大きく口を開ける。その瞬間、トゥエは魔力を込めた短槍をその口めがけて投げ込んだ。幸い、少女には当たらず、短槍は魔物の口腔内へと飲み込まれる。次の瞬間、のたうつ魔物から少女を助ける為にトゥエは魔物に向かって飛び出した。
倒れる少女を担ぎ、大急ぎで魔物から離れる。だが、小柄なトゥエには、小柄な少女でも重すぎた。しかもまだ、背中の傷が治っていない。
痺れるような痛みを背中に感じ、思わず石畳にへたりこむ。それでも。少女を魔物から遠ざける方が先だ。トゥエは歯を食い縛り、少女を肩に担いだまま立ち上がった。
と、その時。
「いたっ!」
「こっちだ!」
同じ色の上着に身を包んだ男が三人、トゥエの横をすり抜ける。振り返ると、丁度、三人のうちの一人が懐から紙のようなものを出したところだった。あれは、魔力を持つ者が作ることのできる『札』。そう、トゥエが思う前に、飛び上がった男が魔物の額にその札を置く。次の瞬間、先ほどまで小路を占領していた魔物はきれいさっぱりかき消えた。どうやら、あの札は『魔物を消すことができる』特別な札のようだ。トゥエがそう考えるより早く。
「ちょっと、下ろして!」
いきなり耳元で、女の声が響く。
そう言えば、まだ少女を担いだままだった。トゥエは静かにしゃがみ込むと、掴んでいた少女の腰をそっと放した。
その、次の瞬間。
「……あっ!」
急に、視界が薄れる。
大慌てで背中の傷に手を置くまでもなく、ぬるっとした血が背中を流れ落ちているのがはっきりと感じられた。しかも、多分、放っておいて良い量ではない。
傷が開いた。早く、手当てしないと……。
しかし、トゥエの思考はそこでぷちんと切れて、しまった。
目を開けると、灰色の天井が見えた。
「……目覚めた? おバカさん」
聞いたことのある声に、けだるく首を動かす。
街の小路で魔物に襲われかけていた少女が、トゥエの顔をまじまじと見つめていた。
「おい、命の恩人に向かってその言葉はないだろう」
少し遠くから、男の声も聞こえてくる。辺りを見回すまでもなく、トゥエは、自分が清潔なベッドの上に寝かされていることにすぐに気が付いた。今いる部屋の方も、狭いがこざっぱりしている。短槍が、トゥエ自身のものの他に二、三本立てかけてあるところからすると、多分声の男は(少女も、ということもあり得るが)武人なのだろう。
「第一、あの子普段は大人しいのよ。おなかがすいたら手が付けられなくなるだけで」
男の声に、少女の反論する声が被さる。
「……食べられそうになったヤツが言う台詞か、それ?」
だが、男の言葉の方が優位に立っていることは、トゥエでも分かった。
「第一、魔物が出たっていうのに『札』を忘れていくヤツがいるか?」
「うるさいわねっ!」
とうとう少女は怒り出す。
少女はトゥエをフンと一瞥すると、肩を尖らせて部屋を去った。代わりに現れたのは、大柄で色白な男性。少し見ただけで、少女と兄弟だと分かった。……あの時に魔物に『札』を貼り付けた男だ、ということも。
「ごめんな」
男は少女の代わりに、トゥエの傍らにあった椅子に腰掛けて頭を下げた。
「悪いヤツじゃないんだけどな。……ちょっと生意気なだけで」
「悪かったわね、生意気で」
不意に再び、少女の声が部屋に響く。
少女は持って来た水差しを部屋のテーブルに音を立てて置くと、男の方をきっと睨んだ。
「俺の名はノイマン。あいつはリベット」
そんな少女を無視して、男が自己紹介をする。
「あ、トゥエと言います」
それにつられて、トゥエも自分の名を名乗った。
「妹を助けてくれてありがとう」
「あ、いえ……」
「全く、バカよね」
トゥエとノイマンの会話を再び遮ったのは、またまた少女。
「自分も怪我してるのに。お人好し」
少女リベットの侮蔑に近い言葉に、少し凹む。自分でも、あの時リベットを助けようとしたことは無謀だったと思っているのだ。
「そう言えば」
再び、ノイマンが口を開く。その口から出てきた言葉は、驚くべきものだった。
「『御館様』が、事件にえらく興味持ってさ。夜になったら連れて来いってさ、リベット」
「えー! 私がー!」
ノイマンの言葉に、リベットの言葉がワントーン上がる。
「何で?」
「昼間の事件の顛末も訊きたいそうだ」
「えー! やだぁー!」
だが。渋るリベットの大声も、今のトゥエには遠く聞こえた。
「え……」
『御館様』とは誰だ? ……まさか! トゥエの推論は、次の男の言葉によって正しいと証明された。
「外じゃ『魔皇帝』なんて言われてるけど、故郷を無くした俺達を拾ってくれた優しいお方だぜ」
ノイマンは心底魔皇帝を尊敬しているらしい。その声には力と信頼感が確かに、あった。
「おまえ、故郷も職もないんだろ? うまくいけば雇ってもらえるぜ」
その言葉に、トゥエの心は正直揺れた。
その夜。
トゥエはリベットと共に、街の東にある魔皇帝の城の裏門に立っていた。
「大人しくしててよ。私の信頼にも関わるんだから」
ただ会わせるだけなのに、リベットの声は心底心配している。その声を聞きながら、トゥエの心は重い思考を巡らせて、いた。……自分は何故、魔皇帝に会うことを承諾したのだろうか? 相手は『敵』、しかも強大な敵である。それは、重々承知している。会って、どうする? 迷いがまだ、トゥエの心には有った。敵わないと分かっていて戦うのか。それともリュエルを裏切って、素知らぬ顔で魔皇帝の元で働くのか。後者は選択外だから、やはり、前者しかない。でも。それでも。……二択以外の道が、有るのでは? リベットの後から細い通路を歩きながら、トゥエはずっと考え続けて、いた。
と。
「……着いたわよ」
リベットの声に、はっとして顔を上げる。
『皇帝』を名乗る人物の部屋にしてはやけに簡素な空間が、トゥエの前に広がっていた。家具は、簡素なソファと、がっしりとした机のみ。アデールの王宮にある、自分の部屋より質素ではないか。もっと華美な生活を想像していたトゥエは口をあんぐりと開けたまま、辺りをもう一度見回した。
と。
「……来たか」
不意に、大きな気配が、トゥエの背後に現れる。魔皇帝だ。そう、感じる前に、トゥエはノイマンから借りた腰の短刀を抜いてその影に襲いかかっていた。
「何を!」
だが、トゥエの身体は、トゥエの背後にいたリベットによって仰向けに倒される。次にトゥエが感じたのは、首筋に突き刺さる冷たい感覚。目の前に、リベットがいる。トゥエの身体に馬乗りになったリベットが、自分の短剣をトゥエの首筋に向けているのが、薄暗い光にはっきりと、映っていた。
「止めなさい、リベット」
魔皇帝の声が、辺りを震わせる。兜に面頬まで付けているので、少し籠もり気味の声だったが、それでも『威圧感』だけは十分に、あった。
「でも……」
リベットは憎々しげにトゥエをじっと見つめてから、渋々短剣を鞘に収め、トゥエの身体から降りた。
そっと、首筋に触れてみる。ぬるっとした血の感覚が、トゥエの背筋を凍らせた。対して魔皇帝は、あくまで平静であるようにトゥエの目に映る。やはり、この人には敵わないのか。悔しさが喉に詰まり、トゥエは仰向けに倒れたまま思わず呻いた。
と、その時。
不意に、魔皇帝が被っていた兜を脱ぐ。取り外した面頬の下から現れた顔に、トゥエははっと息を飲んだ。魔皇帝の顔は、トゥエに瓜二つ。『水鏡の術』を行う際、嫌というほど水面に映った自分の顔を見ているトゥエには、それがすぐに分かった。起き上がりながらよくよく観察してみると、鎧から覗く肌の血色の悪さも、トゥエと一緒だ。トゥエと同じ顔、同じ肌の色の男が、トゥエの目の前に、居た。髪の色が薄いのと、目頭辺りにある癇性らしい皺を除けば、トゥエそのものだと言って良い。
「な、何で? 何で?」
二人の相似にリベットも気がついたらしい。驚きの声が部屋中に響く。
「一体、どういうこと?」
「似ているのは当たり前だろう。……親子だからな」
そのリベットの戸惑いを、魔皇帝の声が掻き消す。
「だが、似ているのは姿形だけではない」
そして魔皇帝は、起き上がりかけたトゥエを見下ろして厳かに言った。
「その身に持つ『力』も、同じだ。……いや、私より強い『力』を持っている」
どういうことだ? 魔皇帝の言葉に、トゥエの当惑はますます深まった。ただでさえ、自分がこの残虐な男の息子だと知らされた所為で頭の中が真っ白になっている。
「おそらく、『力有る石』を鎮めることができるほどの『力』をな」
魔皇帝の言葉に、再び、トゥエの頭が真っ白になる。自分が、『力有る石』を鎮めることが、できる? リュエルの持つ『石』にさえ敵わなかった自分に?
「嘘、だ」
思わずそう、呟く。
だが、魔皇帝の言葉が真実しか言っていないことは、直感で分かった。
「疑うのか? ……確かに、証拠はないがな」
そう言いながら、魔皇帝は懐からお守りのようなものを取り出す。魔皇帝に見せられたそれは、血のように赤い『石』だった。
「しかしながら、暴走気味だった私の『石』の力が弱くなったのも確かなのだよ」
不意に、思い出す。リーニエの砦で魔皇帝と対峙した時も、魔皇帝の胸にはこの『石』が光っていた。そして、……自分はそれに触れた。そして、もう一つ。……自分が側に居た時には、リュエルの石は魔物を消さなかった。
自分が持っていた『力』に、言葉を失う。呆然と、トゥエは魔皇帝を見つめた。
「……ところで」
そんなトゥエの気持ちを知ってか知らずか、不意に魔皇帝が話題を変える。
「リーニエの王が新しくなったのは知っておるか?」
「え。……いいえ」
魔皇帝の問いに、首を横に振る。
リーニエの王が死病にかかっていることは、知っていた。だが、王が亡くなったことは知らなかった。兄である二王子が『消えて』しまっているのだから、現在のリーニエの王はリュエル、ということになる。
だから。
「では、そのリーニエの新王が、敵対する豪族達を粛正していることも知らないだろうな」
次の魔皇帝の言葉に、リュエルの頭は三度真っ白になった。あの、温厚なリュエルが、何故……。
「おそらく、『石』の所為だろう」
しかし魔皇帝の言葉が、疑問の答えとなる。
〈そう、か……〉
やはり、あの時に奪っておけば良かった。後悔だけが、心に渦巻く。いや、キュミュラントに『石』を取りに行った時から予兆はあったのだ。その時に止めてさえいれば。『石』にさえ頼らなければ、リュエルはこんなことをしなくて済んだはずだ。心の痛みに、トゥエは思わず呻いた。
だが、しかし。はたと、思い出す。……もし『石』がなければ、魔皇帝の侵略からリュエルを守ることはできなかった。それも、事実だ。リュエルの為に、リュエルから『石』を奪わなければならない。しかし、『石』がなければ、目の前にいるこの残虐な男から身を守る術がない。
「……そうだな」
トゥエの思考に気付いたのか、魔皇帝はトゥエを見つめふっと笑った。
「リーニエの王が持つ『石』を私の所まで持って来ることができるのであれば、私もこの『石』をそなたに渡そう」
「えっ……!」
思わぬ提案に、息を呑む。
魔皇帝の真意を確かめるように、トゥエは魔皇帝をじっと見つめた。
「勘違いするな。それが、『あの人』との約束だからだ」
そんなトゥエを見つめ返し、魔皇帝が軽く手を振る。
「もしそなたが本当に『鎮めの力』を持つ物なら、『石』をここに持って来るくらいできるだろう」
『担い手』あるいは『鎮めの力を持つ者』に必ず『石』を渡すこと。それが、この『石』を譲り受けた時の約束。魔皇帝は静かにそう、トゥエに告げた。
魔皇帝の言葉に、嘘は全く感じられない。混乱する意識の中で、それだけははっきりと、感じる。それに。リュエルに、これ以上残虐なことをさせるわけにはいかない。
だから。
「本当、ですね。その約束」
一言一言噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
この後魔皇帝がどう答えようと、トゥエの答えは決まっていた。
「ちょっと、御館様を疑うの?」
「ああ。約束は違えぬ」
リベットの言葉を間に挟みながらも、魔皇帝は静かに頷いた。
「……分かりました」
だからトゥエも、静かに頷く。
顔を上げると、魔皇帝の瞳に微かな優しさが、見えた。……不安と、そして微かな『済まなさ』も。
「リベット」
トゥエが頷いた途端、魔皇帝はリベットに向かってそう、命令する。
「この者に付いて行け」
「えー!」
突然そう言われたリベットは、大声を上げてから再びトゥエをじっと睨んだ。
だが。
「いいわ」
すぐにリベットは、にっと笑ってからこくんと頷いた。
「御館様の命を狙うような奴だもの、しっかり監視しなきゃ」
春らしくない冷たい風が、トゥエの頬を打つ。
魔皇帝からもらったマントに首を埋めながら、トゥエはゆっくりと辺りを見回した。
〈……おかしいな〉
朝早くから歩き始めて、既に夕方である。もうそろそろ次の村が見えてくるはずなのに、右を見ても左を見ても代わり映えのしない荒野しか広がっていない。何処かで道を間違えたのだろうか。トゥエはふっと肩を落とした。
「ねえ、まだなの、次の村」
催促するような高い声に、ゆっくりと後ろを振り返る。魔皇帝から付けられた監視役の少女、リベットが、いかにも疲れたという顔でトゥエを見ていた。短い上着にマントを羽織ったその格好は、傍目には少女に見えない。
「あなたの足が速すぎるから、こっちはとっても疲れるの」
『とっても』の部分に特に力が籠もっているように聞こえるのは、気のせいだろうか。いかにも怒っている風のリベットに道を間違えたとは言えず、トゥエはもごもごと訳の分からない言葉を呟きながら再び前を向いた。
「ああ、もう少し先なのね」
そのトゥエの横をすり抜け、リベットが前に出る。背中に負った大きめの頭陀袋が、リベットの動きに合わせて大きく揺れた。その胸に掛かっている『小瓶』も。
「ああ、これ?」
トゥエがその小瓶について尋ねた時、リベットはこともなげにこう、答えた。
「私達のお守り。御館様にもらったの」
魔皇帝の近衛隊になると、皆、その瓶をもらうそうだ。中身について尋ねると、リベットは微かな笑みを浮かべた。
「もし誰かが『石に魅入られて』しまったら、これで助けるの」
『助ける』とは、どういうことなのか。それを尋ねても、リベットは答えてはくれなかった。だが。訳の分からないものに頼るのは危険なことだと承知していたが、トゥエはその中身に微かな希望を抱いても、いた。……その『水』で、『石』に操られているリュエルやウォリスを助けることができるかもしれないという、希望を。
「……あ、あれね、村」
不意に、リベットが大声を上げる。
確かに、道の少し左寄りに、茶色っぽい影が見えた。
「急ぎましょう。早くしないと日が暮れちゃう」
こんな淋しい所で野宿は絶対嫌。リベットはそう言うなり、トゥエを置いて駆け出す。いつの間に、あんなに元気になったのだろう。トゥエはしばし目を丸くした。
だが。
嬉々として走るリベットの後を付いて行ったトゥエは、段々大きくなっていく建物の影にはっと胸を突かれた。……あれは、村ではない。村よりも、もっと大きい。しかし、魔皇帝の支配領域とリーニエ王国との間には、大きな『街』は全く無いはずだ。『魔皇帝』の都リーマンまで歩いたトゥエだから、それくらいは知っている。
大きな街が、有るとすれば。
「えー!」
先にその『街』に辿り着いていたリベットの落胆の声が、トゥエの推測を確信に変える。
「何これ! 廃墟じゃない!」
やはり、ここはウプシーラ。トゥエが小さい頃、リュエルやヘクト、ウォリスと遊び回った思い出の街。
「やだ! 何でこんなところに来ちゃったの!」
責め立てるリベットの声を背に、ゆっくりと廃墟に足を踏み入れる。あの日の血の色は既に褪せていたが、剥げた石畳も、崩れた石垣も、あの日のままだった。外側ばかりではない。壊れた扉の向こうに見える部屋部屋も、石垣の向こうに見える中庭も、あの日壊れたまま、修復もされずただ佇んで、いた。
これが、魔皇帝の真実。トゥエは改めてそう思った。
しかし。
「ふーん。……でも」
夜。リベットにこの街で起こったことを話した時のこと。リベットは少しだけ俯いてから、トゥエの目をしっかり見つめてこう、言った。
「リーニエだって、私達の国を侵略したわ」
その言葉に、衝撃を受ける。
と同時に、昔エッカート卿に教わったリーニエの歴史が、トゥエの脳裏にまざまざと蘇った。
リーニエ王国も、昔は小さかった。マース大陸北部、現在の廃都ウプシーラを拠点としていた部族が、周辺を制圧することによって大きくなったのが、今の『リーニエ王国』。
「御館様の一族も、リーニエに滅ぼされたんですって」
「あ……」
今まで気づかなかったことに気づかされ、言葉を失う。悲劇は、自分達――自分や、リュエルやウォリス――だけのものではなかった。あらゆる所に転がっていたのだ。すぐ、目の前にも。
「ごめん」
思わず、謝罪の言葉が出る。トゥエはリベットに向かって深く頭を下げた。
「あなたに謝られても」
トゥエのその行為に、リベットは笑って首を横に振る。
「それに、過ぎたことだもの。私は今幸せだし」
「そう」
それならば、良かった。ほっと胸を撫で下ろす。しかしながら。原因がリーニエの侵略だとしても、その復讐の為に、魔物を使って残酷なことをするのは、やはり許せない。
「そうね。私もそう思う」
そう、トゥエが呟くと、リベットも首を縦に振る。
そしてリベットは、またもトゥエにとって衝撃な言葉を口にした。
「……多分、御館様もそう思ってる」
「では、何故?」
思わずそう、聞き返す。そう思っているのなら、何故、魔皇帝はリーニエへの侵攻を止めないのだろうか?
「止められないのよ。この想いと意志だけは、ね」
だが。次のリベットの言葉に、思わず納得してしまう。
……自分にも、誰にも譲れないものが、有る。
緩衝地帯も、国境も、人の少ない裏道を通って何とかやり過ごす。
段々、アデールが近づいてくる。だが。トゥエは正直、焦っていた。リュエルから『石』を取り上げる方法を、思いつくことができない。
だから、というわけではないのだが。
「ごめん、ちょっと、寄り道する」
もう少しでアデール到着、という朝、トゥエはリベットに向かって頭を下げた。
「キュミュラント山に、行っておきたいんだ」
あの『石』が安置されていた場所に行けば、何かヒントがあるかもしれない。一縷の期待を、トゥエはその行動にかけた。
「……仕方無いわね」
御館様に、できるだけあなたの指示に従うよう言われてるから。そう言いながら、リベットはトゥエの提案を了承した。
半年前に麓から見上げたときと同じように、キュミュラント山は、木々が鬱蒼と茂っているにも拘わらず何処か荒涼とした雰囲気の山だった。
その細い山道を、リベットと共に登る。平地の時とは違い、リベットの足取りは何処か軽かった。
「元々、山の民だったから」
大陸北西部の山の中で育ったから、山を歩く方が好き。リベットははっきりとそう言い、見たことの無いほど笑顔になった。
「で、『祠』って何処?」
その笑顔のまま、トゥエにそう問うリベット。よく考えてみると、自分はこの山に登ったことがない。リベットの笑顔を尻目に、安直な決断をトゥエは心の底で後悔した。
だが。ふと、直感が働く。こっちだ。そう思い、伸びかけの草をかき分けると、目の前に洞窟の入口が現れた。
「ここ……?」
呆然とするトゥエの後ろで、リベットが不思議そうな声を上げる。
「なんか、本当に何もない、って感じなんだけど」
いや。確かに、ここだ。はっきりとそう感じる。……ここに『石』があった。
洞窟の入口の横には、その入口にぴったりと合いそうな円盤状の岩が立て掛けられていた。おそらく昔はこの岩で『石』を封じていたのだろう。そして。この、『祠』は。……『石』をここに戻してほしいと、訴えている。あの『石』はこの山が守るべきものであると、太古の昔から定められているのだから、と。
そうか。……でも。
『祠』から感じる必死な想いに、トゥエの心は揺れた。
その夜。
宿のベッドの上で、トゥエは眠れぬまま天井を見上げていた。その隣では、リベットがすやすやと安らかな寝息を立てている。
全く、男が隣にいるのに無防備過ぎる。そんなリベットを見て、はっとため息を漏らす。おそらく、リベットは自分のことを男だと思っていないのだろう。そんな気がする。
……それはともかく。
〈どう、すれば〉
リュエルから石を奪う方法が、どうしても思いつかない。
魔皇帝の申し出を正直に話すか? おそらく信頼してはもらえまい。逆に裏切り者扱いされるがオチだ。裏切り者扱いは構わないのだが、リュエルから『石』を奪えなければ、トゥエの願いは水泡に帰す。とするとやはり、無理矢理奪い取るしかないのだが、それを行って、無事にリーマンの魔皇帝の所にまで帰れる保証は、無い。マチウもウォリスも、それは絶対に阻止するはずだ。マチウは主君の安全の為に。ウォリスは自らの目的の為に。
マチウやウォリスに、自分の思いを理解してもらう術は無いのだろうか。暗い空間を睨みながら、必死に考える。リュエルと、リーニエ王国を守りたい気持ちは皆同じなのに、どうしてこんなに齟齬が出るのだろうか? 残酷だと思いながらも、魔皇帝がリーニエへの侵攻を止めないのと同じように、それぞれの想いが同じようで違うからだろうか? ……想い?
〈そうか……!〉
目が覚めたような感覚が、トゥエの全身を明るくさせる。
自分はこれまで、どうやってリュエルから『石』を奪い取り、魔皇帝の元へ持って行くかだけを考えていた。だが、これでは『目的』が微妙に違う。自分の第一の目的は、リュエルにこれ以上、残虐な行為をさせないこと。それに、魔皇帝の元にリュエルの『石』を持って行ったところで、魔皇帝が約束通り自分の『石』をトゥエに渡すかどうかが不明だ。あの魔皇帝のことだから、ほくそ笑みつつトゥエから『石』を取り上げる可能性の方が高い。と、すると。宿の暗い天井を見上げたまま、しばらく考える。
はっきりとした答えは、浮かんでこない。だが、やるしかない。それが自分を破滅させる方法であっても。いや、自分は死んでも構わないのだ。……リュエルの行為さえ、止められるのであれば。
隣で眠っているリベットを起こさないように、静かにベッドから滑り降りる。
ずれた掛け布団をそっとリベットの細い肩に被せると、次の瞬間には、トゥエは窓から外へと飛び出していた。
堂々と、アデールの外門をくぐる。
王宮の正門前に立ち、トゥエは門を守る衛兵に向かって大声を上げた。
「新王陛下に伝えろ。トゥエが新王陛下自身に逢いたいと」
トゥエの名を聞いて、たちまち辺りは騒然となる。たちまちにして、トゥエは衛兵に囲まれ、腕と肩を固く縛られた。
勿論、あちこち殴られる。だがしかし、命を狙ってくるような鋭い切っ先を避ける以外、トゥエは抵抗らしい抵抗をしなかった。目的は、衛兵達を倒すことではない。リュエルに会うこと。
「……来たか」
少し動揺したマチウの声に、はっと顔を上げる。いつの間にか、トゥエは王宮の中庭に引き出されていた。傷ついた素足に、敷かれた石畳が冷たい。トゥエの目の前、少し離れた所に、リュエルが居た。リュエルの胸にはやはり、あの『石』が光っている。
そっと、目だけで辺りを見回す。リュエルの周りには、衛兵しかいない。トゥエの周りには、衛兵と、背後のマチウだけだ。ウォリスの姿は、無い。良かった。ほっと胸を撫で下ろす。マチウはいつもリュエルの側に詰めているが、ウォリスはそうではない。だから、不意打ちで王宮に現れれば、トゥエの計画に邪魔なウォリスの現れる確率は低くなる。そう考えての、トゥエのこの行動は、当たっていたようだ。あとは。
「何故、戻って来た?」
マチウの問いが、意外に心に響く。戸惑っているところが、マチウらしくない。だが、マチウがどう思っているかは、トゥエにはよく分かった。
対して、リュエルの方は意外なほど落ち着き払っている。
「罪を、認めるか? 自分の、罪を」
リュエルの声が、一言一言はっきりと、トゥエの耳に響く。
「ならば、私自身が裁くのが慈悲であろう」
その、冷酷としか表現できない声に、トゥエの心は凍った。……こんなのは、本当のリュエルじゃない。こんなことを、ずっとさせておくわけにはいかない。
おもむろに腰の剣を抜いたリュエルが、静かにトゥエに近づく。心を落ち着かせ、トゥエはゆっくりとその時を待った。もう少し、もう少し。……今だ。
爪先に力を込め、リュエルの胸へ向けて足裏だけで飛び込む。そして次の瞬間、トゥエは目の前に来たペンダントの鎖を噛み千切り、『石』を口に入れて飲み込んだ。
喉の痛みが、『石』を飲み込んだことをはっきりと知らせる。その、次の瞬間。背中から胸を貫く痛みに、はっとする。俯くと、幅広の剣の切っ先が自分の胸から突き出ているのがはっきりと、見えた。この剣は、マチウの物だ。おそらくマチウはとっさに、トゥエの行為がリュエルに害を為すものだと判断したのだろう。彼らしい行為だ。トゥエはふっと笑った。だが。……自分の目的は、果たせている。
だから。
急速に薄れていく意識の中で、トゥエはにっこりと、笑った。
天井が、はっきりと見える。
何所となく新鮮な面持ちで、リュエルは上半身をベッドの上に起こした。
もう、朝だろうか? それとも、夕方? 窓から入ってくる光から考えると夕方のような気がするが、本当に、どっちなのだろう? 何かから逃れるように、リュエルは取り留めもないことを考え続けた。
だが。考えなければならない。脅迫じみたその思いが、リュエルの胸を刺す。目を瞑ると、瞼の裏に、石畳に広がった鮮血がはっきりと見えた。何も言わず斃れているトゥエの青白い顔と、その背に刺さったマチウの幅広の剣も。
それは、久し振りにはっきりと見えた光景だった。
「……陛下」
マチウの声が、白昼夢を破る。
ゆっくりと目を開くと、いつになく青白い顔のマチウが目の前に居た。
「お目覚めに、なりましたか」
「ああ」
だるくなってきたので、ゆっくりと、再びベッドの上に横たわる。マチウが薄い布団を掛けてくれたのが、触覚だけで分かった。マチウが次に何を言うのか、も。
「……あの、陛下」
普段のマチウとは違う、動揺しきった声が、リュエルの耳に響く。聞きたくない。しかしその想いを、リュエルは大急ぎで心の奥底へと押し込めた。聞かなければ、ならない。自分も、……当事者なのだから。
「トゥエのこと、申し訳ありませんでした」
「いや……」
リュエルに向かって深々と頭を下げるマチウに、やっとの事でそれだけ言う。
マチウを責めても、仕方が無い。マチウは、自分の責務を果たしただけ。悪いのは、得体の知れない闇に囚われてしまった、リュエル自身。その闇から救い出してくれた乳兄弟の青白い顔が脳裏に浮かび、リュエルは思わず首を強く振った。
空しさと後悔が、全身を苛む。しかし何故か、その原因を作ったウォリスに対して憎悪の感情は湧かなかった。
ただ、空しいだけ。
「陛下! 大丈夫ですか!」
慌てるマチウの声に、リュエルは静かに首を横に振った。
今は、感傷に浸っているときではない。だが、次に進むには、自分はまだ脆すぎる。
だから。
「もう少しだけ、休ませてくれ」
それだけ言うと、リュエルは静かに目を閉じた。
「行かなければいけない場所が、ある」
今なら、はっきりと分かる。マチウの想いも、トゥエの願いも、ウォリスの望みも。
自分を含め、皆、それぞれの意志に従い、行動しただけ。
石造りの建物の二階から黄昏に沈む街を見、濁酒を呷る。
喉を焼く酒も、活気に満ちた街も、ヘクトの気持ちをかえって苛立たせた。
本当なら、王となったリュエルの側に居ないといけない時間だ。だが、今の王宮には、一時だって居たくない。心の底からヘクトはそう、思っていた。だから、エッカート卿の屋敷の、しかも隠れ家的存在である街中の古屋敷の方にいる。
厳格な兄は、この場所を知らない。それでもヘクトは、マチウが探しに来ていないかと、スラム街に近い外の様子にしばしば気を配った。
気を配りながら、再び自棄酒を呷る。呷りながらも、やはり考えるのは仲間のこと。王位に就いてから、いや、正確にはトゥエが『逃亡』してから、リュエルは変わった。表情が乏しくなり、朗らかに笑わなくなってしまったのだ。しかもその上、リュエルの王位継承に反対した豪族達を冷静に粛正することまでやってのけている。
リュエルが変わった、その理由を、「王位に就いたから」とか「乳兄弟であるトゥエが裏切ったから」と片付けるのは容易い。実際、兄のマチウも幼馴染みのウォリスもそう、言っている。だが、ヘクトは、そうは思わなかった。第一、あの、リュエルに対しての責任感が人一倍強いトゥエが、リュエルの代わりに処刑されるのを拒むはずがない。トゥエは自分の身も顧みず、何度もリュエルの命を救っているではないか。それを知っていて詰るマチウとウォリスに、ヘクトは正直腹が立っていた。
ヘクトの伯父、エッカート卿も、この件に関しては密かに腹を立てているらしい。この屋敷でヘクトがサボっていても何も言わない。
「……全く、信じられん」
ある時、卿がヘクトに対してこう、呟いたことがある。
「忠誠心の篤い者を、こうも簡単に切り捨てるとは」
支配者に非情さは必要だが、ここまでの非情は諸刃の剣だ。卿のこの言葉が、ヘクトの心にずっと残っていた。
一体、何故リュエルは、こんなにも変わってしまったのだろうか? 昔のリュエルなら。再び濁酒を呷りながら考えてみる。昔のリュエルならば、絶対にトゥエを庇っていたはずだし、一時の感情のみで敵対する豪族達の粛正も行わなかったはずだ。なのに今はどうだ。笑わないリュエルも、トゥエを責めるマチウやウォリスも嫌いだ。唇を噛みしめながら、ヘクトは濁酒を杯に注いだ。
と、その時。
街のざわめきから、トゥエという名が聞こえてくる。はっとして、ヘクトは思わず聞き耳を立てた。
「あの、トゥエ様が? 本当に?」
「ああ。王宮に乗り込んで返り討ちにあったと」
聞こえてきた言葉に、頭の中が真っ白になる。
トゥエが、死んだ……? しかも、手を下したのはヘクトの兄であるマチウだと、噂する声が言っていた。そして、リュエル自身は、幼馴染みが殺される様子を眉一つ動かさず見つめていたという。トゥエは、リュエルの為に、あんなに身体を張って頑張っていたのに、こんな結末は酷すぎる。知らず知らず、ヘクトは唇を強く噛み締めていた。
しかもその上。
「遺体は明日、王宮前の広場に晒されるそうだ」
「酷い」
「まあ、仕方が無い。王の命を狙った者の末路よ」
まだ続いていた噂話に、ヘクトの怒りが頂点に達する。酷い。酷すぎる。幾ら公式には『裏切り者』であるとはいえ、幼馴染みをそんな目に遭わせるとは。
次の瞬間。衝動のままに、部屋を飛び出す。
だが。
「待ちなさい」
逸る身体が、ぐっと後ろに下げられる。苛ついて振り向くと、カルマンの小さい手が、ヘクトのマントを押さえていた。
「放せ! 邪魔するな!」
押さえているカルマンの手を、力一杯振り払う。だが、何故か、どんなに力を入れてもカルマンの腕を振り払うことはできなかった。
「今は、駄目です。……夜を、待ちなさい」
カルマンの静かな声が、ヘクトの耳を打つ。
「でも!」
「今行っても、トゥエを助けることはできませんよ」
カルマンの言葉はヘクトの心を静めるのに十分な効果を持っていた。
だから。静かなカルマンの言葉に、ヘクトは思わず頷いて、いた。
その夜。
ヘクトは堂々と正門から王宮へ入った。
王宮に入るなり、すぐ近くの衛兵を一人捕まえ、昼間の顛末を聞く。どうやらトゥエの遺体は、明日広場に晒す為に地下牢の一つに投げ込まれているらしい。
〈……さて〉
廊下の松明を一本失敬して、湿った地下へと降りる。
本当は、兄を捜し出して一発殴りたかったのだが。
「トゥエを助けたいのであれば、目標はそれだけに絞りなさい」
カルマンの静かな言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
兄を殴るのは、この先いつでもできる。だが、トゥエを救い出すことは、今夜でないと駄目だ。心を自制しつつ、ヘクトは王宮の地下の奥深くにある地下牢へと足を踏み入れた。
誰もいない牢を一つ一つ、慎重にチェックしながら進む。不意に目に入ってきた前方の小さな明かりに、ヘクトははっと息を飲んだ。
〈先客、か?〉
こんな陰鬱な場所に何の用があるのだろう。そう思い、松明を高く掲げてみる。次の瞬間、目に入ってきた光景にヘクトは口をぱくぱくさせた。光の先、地下牢の一番奥にいた先客は、ウォリス。彼は丁度、斃れているトゥエの腹部に細いナイフをあてがったところ、だった。
「何をしている!」
思わず、大声で叫ぶ。
狭い空間に響く声に、ウォリスはゆらりと立ち上がり、鋭い目でヘクトを見つめた。騎士階級であるヘクトやマチウに遠慮してびくびくしている、いつものウォリスではない。ヘクトははっきりと、そう、感じた。
「君も、トゥエと同じく僕に反対する?」
唐突に、ウォリスがそう、言葉を紡ぐ。言われたことがとっさには分からなくて、ヘクトはしばしば唖然とした。
「へ……?」
ヘクトのその沈黙を、ウォリスは答えだと受け取ったらしい。いきなり、多量の空気がヘクトの全身を押し潰す。
「ウォリス! てめぇ!」
咳き込みつつ松明を床に落とし、剣を抜く。だが、戸惑いを隠せないヘクトよりも、ウォリスの行動の方が早かった。目の前に、ウォリスが来た。そう思う前に、ヘクトの剣はいつの間にか遠くの床に落ちてしまっていた。
「なっ……!」
ウォリスに、こんな技が使えたとは。呆然と、ナイフを構えたウォリスを見つめる。
「どうする?」
冷たいウォリスの声が、地下牢中に響き渡る。
「僕も、あまり人は殺したくない。僕のすることに目を瞑っていてくれるのなら、君の命までは取らないよ」
人を見下した言葉の調子に、全身がかっと熱くなる。ウォリスの行動を見過ごすわけにはいかない。今のウォリスの行動を見過ごすということは、トゥエにこれ以上の危害を加えるということだ。最初に見たウォリスの行為からそう判断したヘクトは、次の瞬間ウォリスに向かってその太い腕を振り上げた。
だが。
「熱っ!」
全く唐突に、ヘクトの全身が炎に包まれる。
「全く、大人しくすれば良かったのに」
焦るヘクトの目に前に、赤く映るウォリスの平然とした顔が、あった。
火を消す為には床を転がればよい。頭ではそれが分かっているのだが、身体が全く動かない。まるで、金縛りに遭っているようだ。ウォリスもトゥエと同じくらい上手く魔法が使えることは知っていた。だが、トゥエより強力な魔法が使えるなんて、聞いていない。身を焦がす炎の中で、ヘクトは殆ど絶望していた。
と、その時。不意に、ヘクトの周りの炎が消える。
「うぐっ……」
目の前を見ると、床に倒れて呻いているウォリスの上に、見かけない小柄な影があった。
「だ……!」
思いがけない展開に、しばし唖然とする。しかし、好機であることも確かだ。ヘクトは速攻でウォリスの側に跪き、その無防備な頭の上に拳を下ろす。だが、次の瞬間。ヘクトの目の前で、ウォリスの姿は煙のように消え失せてしまった。
「え……?」
再び、ヘクトは唖然となった。これも、魔法なのだろうか。
信じられない思いのまま、殊更ゆっくりと辺りを見回す。地下牢にあるのは、ヘクトと、先ほどまでウォリスの上にいた小柄な影のみ。よく見ると、この影は女、しかも少女、だ。
「だ、誰だっ!」
掠れた声で、それだけ叫ぶ。
「しいっ」
ヘクトの目の前の少女は自分の唇に人差し指を当ててから、床に転がっている消えそうな松明の光でヘクトを上から下まで眺めた。
そして。
「質問させて。あなたも、トゥエに害を為そうとしているの?」
唐突な質問に、再び言葉が詰まる。だが。この質問には、ヘクトは胸を張って答えることができた。
「俺は、トゥエを助けたいと思っている」
「なら、同志ね」
ヘクトの答えを聞いて安心したのだろう。少女はヘクトに少女らしい笑みを見せた。どうやら、この少女は『味方』であるらしい。ヘクトも正直ほっとした。幾らトゥエの為とはいえ、少女にまでは手をかけたくない。
少女から静かに目を逸らす。そして改めて、ヘクトは床にうち捨てられているトゥエの亡骸を見つめた。乾ききった血が、トゥエの背に大きな染みを作っている。本当に、トゥエは、……亡くなってしまったのだ。悲しみで、ヘクトの全身は痺れた。しかしここで時を浪費するわけにはいかない。
トゥエの縛られたままの腕の縄を切り、静かに抱き上げる。力無く凭れ掛かる小柄なトゥエの身体が、ヘクトにはとても重く感じられた。
「あなた、もしかして、ヘクト?」
その時になって、それまで黙っていた少女が再び口を開く。
「ああ、そうだが」
内心首を傾げながらも、ヘクトはこくんと頷いた。この見知らぬ少女は、何故自分の名を知っているのだろう? だが、ヘクトの疑問には、今度は簡単に答えが見つかった。
「あ、じゃあ、味方ね」
これまでとは打って変わった、明らかにほっとした声で、少女が言葉を継ぐ。
「カルマンっていう人が、ここへの抜け道を教えてくれたの。あなたにも教えるよう言われてるわ」
カルマンが? 思わず、少女をまじまじと見つめる。
この少女は、ヘクトの記憶には無い。おそらく他の仲間達の中で、この少女の友達だという人間はいないだろう。……トゥエを除けば。
おそらくこの少女は、トゥエに頼まれたか何かして(あのトゥエが頼み事をするとは思えないが)ここにいるのだろう。しかしそれでも、少女とカルマンとのつながりが分からない。トゥエが王宮に行く前にエッカート卿の屋敷を訪れたのならば、こんな惨事にはなっていないはず、だ。
だが。ともかく、……今はトゥエを助けるのが先だ。
首を傾げつつも、ヘクトは、歩き出した少女――リベットと名乗った――の後を大急ぎで追った。
大柄なヘクトでも何とか通れる抜け道を通った先にいたのは、カルマン。
彼の後ろには、馬が二頭、闇夜の中で静かに佇んでいる。両方とも、エッカート卿の馬房にいる、耐久力に優れた名馬だ。エッカート卿の名で動いていることは、明白。
カルマンはトゥエの亡骸を抱いたヘクトを認めると、余計なことは一切しゃべらずに馬の轡を側のリベットに差し出した。
「トゥエを、キュミュラント山の祠へ葬りなさい」
そこなら、『石』の力を完全に封印することができる。山の霊力と、トゥエ自身の『鎮める力』で。カルマンは静かにそう説明すると、ヘクトに大きな麻袋を渡した。
「『石』を落としては、トゥエの死が無駄になります」
「『石』? ……リュエルが持ってた、あれか?」
麻袋を受け取りながら、ヘクトの疑問は最大にまで達していた。
しかしながら。確かに、リュエルが変わったのは、キュミュラント山の祠に祭られていた『石』を持つようになってからだ。その因果関係だけは、ヘクトにもはっきりと理解できた。
「ええ。それが、全ての元凶」
「それは後で私が説明してあげるから、今は早く行こ」
静かなカルマンの声を、リベットの急くような声が破る。そうだ。カルマンの言う通り、今はトゥエの意思を尊重しなければならない。
だが。
「カルマン」
渡された麻袋にトゥエの亡骸を入れ、縄でしっかりと封をして馬に積みながら、ヘクトは疑問を思ったまま口にした。
「おまえは、一体……?」
「私は、人の未来を視る力を持っています。……ほんの少しだけ、ですが」
唐突なヘクトの問い。だがカルマンは、あくまで簡潔に答えた。
「人の想いは、誰にも止めることはできません。私にできるのは、そこから生じる悲劇を最小限に留めることだけです」
「そうか……」
「急いで、ヘクト」
リベットの声が、ヘクトの思索を破る。
ヘクトはリベットの差し出す轡を取ると、ひらりと馬に跨った。
「ありがとう、カルマン」
馬の上から、それだけ言う。
「エッカート卿にもお礼を言っておいてほしい」
「分かりました」
その時初めてヘクトは、カルマンの微笑を見た。
エッカート卿ご自慢の駿馬は、二日かかる道を一日(正確には一昼夜)で走破した。
今、ヘクトの目の前には、キュミュラント山の堂々とした山影がある。
「もう少し明るくなってから、登ろう」
「そうね」
用心の為、焚火は作らず、岩陰に並んで座る。
「話さなきゃいけないことも、いっぱいあるしね」
辺りが明るくなるまでの、僅かな休憩時間。その間に、ヘクトはリベットから色々な話を聞いた。トゥエと出会った時のこと。リーニエ王国に向かう途中でウプシーラに寄ったこと。リベットの前から『逃げた』トゥエを追ってアデールに潜入し、偶然カルマンに出会ったこと。そして『力有る石』のこと。
「……じゃあ、『力有る石』は、本当は使ってはいけないものなんだ」
『力有る石』の話を聞いた後、ヘクトはリベットにそう、言った。
「そうね」
「でも、君の『御館様』は、それを使っている」
リベットが『敵』である魔皇帝軍に所属すると聞いても、憎しみも怒りも湧かなかった。おそらく、『トゥエの友達』ということだけで、リベットを許しているのだろう。しかし、リベットのことは、魔皇帝を憎まない理由にはならない。『石』の危険さを聞いた今となってはなおさらだ。
「うん」
ヘクトの問いに、リベットは自信なさげに呟いた。
「……石を滅ぼしてくれる『担い手』が現れるまでだと思うけど」
リベットの答えには、正直不満が残る。しかし、それは仕方の無いことだ。心の隅で、ヘクトはそう、思っていた。『石』を操る為の『意志』の強弱は、結局は個人の問題なのだから。人がどう生き、他人とどう触れ合うかによって決まる、個人の『心の力』。それが、『石』を操る『意志』になる。トゥエがそう言っていたと、リベットはヘクトに言った。
そうこうしているうちに、夜明けが近くなる。
キュミュラント山の岩陰に馬を隠してから、ヘクトはトゥエの遺体の入った麻袋を担ぎ上げ、大股で山道を進んだ。
春近い日の朝方らしく、あたりは真っ白な霧に覆われている。足下に注意しないと、木の根や岩に足を取られてしまう。自分はともかく、トゥエを落とすわけにはいかない。ヘクトは用心に用心を重ねて細い山道を進んだ。そんなヘクトの後ろには、抜き身の短刀を構えたリベットが鋭い目を左右の影に向けながら歩いている。女のくせに、隙がない。振り向いたヘクトは妙なところで感心した。
もうすぐ、祠に着く。祠に着いて、トゥエをそこに葬れば、トゥエの願いは果たされる。ヘクトは半ばほっとした面持ちで、祠の前まで辿り着いた。
だが。祠の前にいたのは、見知った影。
「ウォリス!」
来ているだろうとは、分かっていた。しかし思わず叫んでしまう。
「おまえ、いつの間に」
目の前のウォリスは、王宮の地下牢であった時と同じ顔色をしていた。その顔に浮かんでいる不敵な笑みも、同じだ。
「魔法を使えば簡単なこと」
地下牢で聞いたのと同じ調子で話すウォリス。そう言えばトゥエも、自分がよく知っている場所に移動できる『水鏡の術』とやらをよく使っていた。ウォリスが同じ魔法を使うことができたとしても、全然不思議ではない。だが。ここで、こいつにトゥエを渡すわけにはいかない。ヘクトはトゥエの亡骸を抱えたまま、ウォリスに向かって突進した。狙うのは、無防備な足。
だが。
「うっ……」
動かしていたはずの足が、急に硬くなる。勢いのついたヘクトの身体は慣性のままに地面へ激突した。
「無様ですね」
顔を上げると、目と鼻の先にウォリスの不敵な面があった。だが、いつの間にか足ばかりではなく身体全体が動かなくなっている現在のヘクトでは、そのうっとうしい面を殴ることすらできない。それでも。トゥエだけは、渡さない。トゥエを庇うように地面に伏せる。しかし、それでウォリスの魔法が止められるわけがない。冷たい気配が、ひしひしと伝わってくる。ヘクトは思わず目を閉じた。
と、その時。
「消えなさい!」
悲鳴のようなリベットの叫びと共に、放物線を描いた水流がウォリスに襲いかかる。忘れていた。リベットも、居たのだ。
次の瞬間。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
悲痛に満ちたウォリスの声が、山全体にこだまする。唖然とするヘクトの目の前で、ウォリスの身体はあっという間に溶けてしまった。後に残ったのは、キュミュラントの僧侶が嵌める銀の指輪と、ぼろぼろになったローブのみ。
「……ウォリス」
呆然と、煙の立つローブを見つめる。
「ごめん」
その後ろから、リベットの悄気た声が聞こえてきた。
「でも、『石に魅入られた者』は、滅ぼさないといけないの」
そのことも、リベットから説明を受けた。それに、リベットのこの行為のおかげで、自分もトゥエも救われているのだ。感謝こそすれ、リベットを責める理由はない。だが。……それでも、かつての幼馴染みの死は、悲しすぎる。何も言えず、ヘクトはその煙を見つめた。
その時。
「ヘクト!」
聞き知った声が、ヘクトの耳を打つ。この、声は。……でも、まさか。
「リュエル! 兄者も!」
しかし、振り返ると確かにそこには、リュエルの姿があった。
リュエルの顔は、二、三日前に王宮で見た時よりも心なしかさっぱりとしているように見える。リュエルの後ろには勿論、兄のマチウもいる。兄に逢ったら絶対殴りたいと思っていた気持ちは、この時既に何処かへすっ飛んでしまっていた。
「何で……?」
「トゥエが昔くれた魔法札を使ったんだよ」
少しだけ微笑み、そう言うリュエル。
そしてリュエルは、地面に落ちている麻袋に優しく手を触れた。
「トゥエ……」
リュエルの口から漏れたのは、間違いなく、嗚咽。
「済まない」
その言葉に、今まで我慢していた涙が、ヘクトの双眸から零れ落ちた。
筋力のあるヘクトとマチウで、トゥエの亡骸を祠のある洞窟の中に安置する。その後で、側にあった大岩を転がして、祠を完全に封じた。
「これで、『石』が何処にあるか分からないわね」
明らかにほっとしたリベットの声が、ぐちゃぐちゃだったヘクトの気持ちを少しだけ落ち着かせた。これで、トゥエも、……静かに眠れるだろう。
そして。
祠の前に、リュエルは砂と岩で小さな塚を作った。塚の上には、キュミュラントの僧侶が嵌める銀の指輪が置かれている。ウォリスの墓だ。
「トゥエもウォリスも、私の仲間だった。……想いが、違うだけで」
できあがった塚と、祠があった場所を静かに眺め、リュエルがそう、呟く。
「私は、良い国を作らねばならぬな。……想いが、悲劇を生まないような国を」
そうしてほしい。トゥエと、……ウォリスの為にも。
リュエルの言葉を聞きながら、ヘクトは心からそう、思った。
2009年4月5日 発行 初版
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