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ファンタジー長編。
困り果てた少女に手を貸すだけだったはずの冒険者たちは、知らず知らずのうちに『世界の運命』に巻き込まれてしまっていた。

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混沌の刻へ

風城国子智

WindingWind



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 目 次

混沌の刻へ

前日譚

登場人物・地理等

混沌の刻へ

 聞き知った者の叫び声に、はっと振り向く。
 森の中に細く伸びる一本道。ぐるりと見回しても、居るのはヴァリス自身と相棒のジェイのみ。それでも、叫び声は確かに聞こえた。ヴァリスは一人頷くと、腰に吊り下げた剣の柄に手を掛け、下草が蔓延る森の中へと足を踏み入れた。
「おい、ヴァリス!」
 ジェイの大声を背後に、足を速める。
 あの声が空耳でなかったことは、すぐに分かった。
「ティア!」
 叫ぶと同時に、横に薙ぐように剣を振る。ヴァリスの放ったその刃は、目の前の銀髪の少年が退治していた子鬼の首を切り飛ばした。返す刃で、もう一匹、横から銀髪の少年に飛びかかろうとしていた子鬼の腹を突き刺す。これで、全部か。確認する為にヴァリスが首を動かしたその横で、子鬼が真っ二つに切断された。
「始めに敵の数を確認しろよ、ヴァリス」
 真っ二つにされた子鬼の後ろで、ヴァリスの相棒、ジェイが笑う。その笑顔にむっとしながら、ヴァリスは銀髪の少年の方を向いた。一緒に仕事をするようになってから半年経つが、未だにジェイの馴れ馴れしさや物言いに慣れない。慣れることなんて、永遠に無いんじゃないか。最近ではヴァリスはそう思っている。
 それはともかく。
「怪我はないか、ティア?」
 少年に向かって、そう尋ねる。彼の名はティアリル。ヴァリスの弟的存在だ。先程の叫び声も、ティアの声だからヴァリスは駆けつけた。それくらい、大切な存在。
「うん。僕は、大丈夫」
 そう言いながら、ティアが後ろを向く。
「この、子は?」
 丁度ジェイが、木の根元に倒れている黒服の少女を助け起こしたところだった。そう言えば、ティアもこの子を守るように子鬼と対峙していた。苦い感情が、ヴァリスの心を支配した。こんな見知らぬ少女の為に、自分の身を犠牲にする必要は、ティアにはない。
 少女の黒いローブから、首に掛けたアミュレットが零れ落ちる。円環状のそのアミュレットに、ヴァリスの嫌悪は最大になった。彼女は、大地母神アルリネットの神官だ。でも、なぜこんな所に? アルリネットを祀る神殿は、大陸の南西にある島アルトティスにしかないはずだが。
 と。
「ジェイ、ちょっとその人そのままにして」
 不意に、ティアが声を上げる。
「どうした?」
「その子の、背中」
 不審な声を出すジェイに、ティアは少女の背中を指し示して答えた。
 ヴァリスも、ティアの指の先を見つめる。何が問題かは、すぐに分かった。
「『影』だな」
 少女の背中、黒いローブの上を覆うように、もう一枚黒い服を着ているようなべったりしたモノが見える。これが、『影』。どこからともなく現れ、身体や心が弱っている人に取り憑き、その人の心を支配するモノ。これに取り憑かれた人は段々と正気を無くし、放っておくと無差別に人や物に害をなすようになる。この『影』を取り除く方法は、唯一つ。
 呼吸を整える間もなく、ティアが急に歌い出す。その歌声は風に乗り、森のあちこちに響き渡った。そして。少女に取り憑いていた『影』は、ティアの歌声に合わせるように少しずつ小さな粒子となり、歌が終わる頃には全て、影も形も無くなっていた。商業兼聖堂都市ヴェクハールに伝わる『呪歌』だけが、『影』を取り除く唯一の方法。そしてティアは、ヴェクハールの聖堂の中ではその呪歌を一番上手く歌える人間だった。
「これで、大丈夫だよね」
 ジェイに抱かれた少女の顔色を覗き込み、ティアが微笑う。
「しかし、結構分厚い『影』だったぜ。これでよく正気だったな、彼女」
「うん、多分、強いんだよ」
 ジェイの言葉と少女の回復にほっとしたのか、ティアは離れて立っているヴァリスに近づき、その手を握った。
「ヴァリスは、もうお仕事終わったの?」
「ああ」
 ヴェクハールの聖堂騎士(見習い)であるヴァリスの今日の任務は、商隊を一つ、近くの村まで安全に案内すること。子鬼が頻繁に出没し、『影』とそれに取り憑かれた人間への恐怖がある今の時勢では、大変だが騎士としては欠かせない仕事だ。
「ティアは、終わったのか?」
 確かティアの仕事は、これも近くにある別の村へ届け物をすることだったはずだ。ヴァリスの問いに、ティアはうんと答えて遠くの籠を指差した。その籠の側にも、子鬼が倒れている。おそらく少女が子鬼に襲われているのを見るやいなや、籠を投げ捨てて少女の助太刀に回ったらしい。ティアらしい。ヴァリスはそう思い、ティアの頭を撫でた。
 と。
 ティアの身体が、急にふらつく。大慌てで、ヴァリスは倒れるティアの身体を支えた。
「大丈夫か、ティア?」
 『影』を祓う『呪歌』は、歌うのに大量の体力を要求する。身体の弱いティアが歌うには、無理がある。だが、ティアは歌うことを止めない。
「歌うことも、人を助けることも、好きだから」
 かつてティアは、ヴァリスにそう言った。
 ティアを止めようとしたことも、実は何度かある。だが、それでもティアは頑固に歌うことを止めないので、最近のヴァリスは予防(ティアが歌う必要がないようにすること)と対処(ティアが倒れた時にこれ以上歌わせないようにすること)を中心に頑張っている。
 今回も。
「仕事が終わっているのなら、ヴェクハールまで連れて帰ってやる」
 そう言いながら、ヴァリスはティアの小柄な身体を自分の背中へと押し上げた。
「ヴァリス、僕は、大丈夫だから」
 弱々しく呟くティアには耳を貸さない。問答無用だ。
「じゃ、俺はこの少女を背負って帰る」
 ティアを無理矢理背中に乗せるヴァリスの横で、ジェイがひょいっと黒服の少女を背中に乗せる。
「ティアも、少しはヴァリスに甘えれば?」
 ジェイの言葉で、ヴァリスの背中のティアは少しだけおとなしくなった。

 目を開けると、斜めになった天井がセティを出迎える。
 そっと辺りを見回して初めて、セティは自分が小さいが清潔な部屋の、これまた清潔なベッドの上にいることが分かった。
 なぜ自分は、ここにいるのだろう? しばらくの間、首を傾げる。確か自分は、森の中で醜悪な子鬼に襲われていたはずでは? そこまで考えて、セティはその後起こったことを思い出した。三人の男が、自分を助けてくれたのだ。一人は大柄で、ヴェクハールの聖堂騎士であることを示す青色の袖無し上着を着ていた。二人目もやはり大柄で、丈夫そうな板金鎧を着て戦斧を持っていた。そして三人目は、セティが探している姿に似た、銀髪紫眼の少年。
「……あ、気がついた」
 爽やかな声に、思考を中断させられる。声のした方を見ると、長い金髪を無造作に垂らした細身の男性が、読んでいた古い本から顔を上げたところだった。白のローブに赤のマントという姿が、男の派手さを示している。この人は、自分を助けてくれた三人とは違う。すぐにそう、判断する。セティの思考を見抜いたのか、男は座っていた出窓からぽんと飛び降り、セティが横になっているベッドに腰を下ろした。
「俺の名はハルトクレア。みんなはハルって呼んでる」
「あ、セティリス、です」
 軽い感じの自己紹介に、セティも自分の名を名乗る。ハルと名乗ったその男は、セティの答えに髪を掻き上げてから、セティの顔をまじまじと見つめた。
「うん、顔色は大丈夫そうだね」
 そして続けてこういう。
「君を助けた三人を探しているんだろ?」
「え、ええ」
 ハルの言葉に、セティは戸惑いながら頷いた。
「彼らはここには居ないよ。真面目だからね、昼間は働いている」
 ハルの話によると、ここは大陸南部の都市、ヴェクハールの外れにある共同住宅の一室であるらしい。
「俺と、くそまじめな騎士見習いヴァリスと、大雑把で女好きの傭兵見習いジェイ、そしてちびの神官見習いティアの四人で使ってるんだ」
「みんな、見習いなのね」
 ハルの話し方のおもしろさに、思わず笑みが零れる。
「ハルは?」
「俺? 俺は魔法使い」
 セティの問いに、ハルは胸を張って答えた。
「見習いじゃなくて?」
「もちろん」
 ハルの話は、面白い。今までが緊張の連続だったら、尚更だ。だが。もっと話をしていたかったが、そうはいかない。自分の任務を思い出し、セティは口を閉じてベッドから身を起こすと自分のローブを探して身に付けた。幸いなことに、アミュレットもベッドの傍らの台の上に置いてある。ヴェクハールは、アルリネットと敵対する天空神スーヴァルドを信仰する聖堂の街だと聞いていたから、アミュレットを見つけたセティの驚きはかなりのものだった。
「どこへ行くの?」
 不意に、セティの腕を、ハルが掴む。その時になって初めて、セティは自分が「逃げよう」としていたことに気が付いた。
「目覚めたら聖堂に連れて来るように、言われてるんだけど」
 聖堂へ。その言葉が、セティの全身を総毛立たせる。敵対する神の信徒が街に入り込んだのだから、重大な監視下に置かれるのだろうか? だが。自分を助けてくれた三人に、お礼が言いたい。そして、確かめたい。その想いが、セティの覚悟を決めさせた。
 だから。
「分かった。行くわ」
 ハルと視線を合わせ、セティは強く、頷いた。

 石畳の狭い坂道を、ぐんぐんと下る。
「ヴェクハールの重要な建物は、運河の近くにあるんだ」
 道を移動しながら、ハルはセティにそう、説明した。
 ヴェクハールは、大陸を東から西へ流れる大河コトハルイーリャ(コトハ)と、北から南に流れるヴェクリーニ(リーニ)河が最も近づいた地点にある丘の上に造られた街。この地の利点に着目した、ヴェクハールを最初に支配した貴族が、大河コトハとリーニ河を結ぶ運河を掘り、この街を交通の要所とした。その貴族の曾孫がスーヴァルドの神官となり、自分の教団を結成し、土地を街ごと教団に寄付した。だからヴェクハールは、商業都市と聖堂都市という両側面を持っている。大陸南部の国々からなる『カートリア同盟』の盟主でもあり、一都市で大陸北部を支配するノイトトース王国に匹敵する力を持つのではないかという噂もある都市、それがこのヴェクハール。
 と。
「……ん?」
 坂道が終わり、大通りへ出たところで、ハルが急に立ち止まる。
「何か、まずいことが起こっている」
 そのハルの後ろから大通りを見透かすと、確かに、騒ぎ声とこちらに逃げてくる沢山の人々が見えた。
「危ないから、下がっていて」
 ハルがそう言った、正にその時。人混みが、急に途切れる。ぽっかりと空いたその空間の真ん中に、虚ろな目でだらしない格好をした髭面の男が立っているのが、セティの位置からでもはっきりと、見えた。その背中に纏わり付いている、黒っぽい煙のような物質も。
「まずいな」
 ハルが舌打ちする。次の瞬間。その男は、セティとハルの真ん前に立っていた。
「げっ!」
 逃げろという声と共に、ハルが男の向こう臑を蹴飛ばす。だが、男はびくともしない。危ない! セティは無我夢中で隠していたアミュレットを取り出し、すぐ側まで迫った男の鼻先に差し出した。アミュレットから光の渦が迸る。次の瞬間。男の身体は大通りの地面に伸びていた。
「あ……」
 危機を脱してから、思い出す。ここは、残酷な絶対神、スーヴァルドの街。だが、自分は、アルリネット様から得た力をその街で使ってしまった。逃げなければ。男と対峙した時とは別の恐怖が、セティの全身を支配した。
 と、その時。
「すごいな、その力」
 不意に響いた、太い声に、はっとして振り向く。セティの背後にいたのは、赤い髪に戦斧を担いだ大男。セティを助けてくれた三人の一人だと、セティはすぐに気付いた。
「大丈夫だったか」
 男がつと、セティの両手を握り、自分の前へ持ってくる。
「うん、怪我はしていない」
「むやみに女の子に触らない、ジェイ」
 セティの手を眺める男の後ろから、ハルの声が響いた。
「誤解されるぞ」
「手を怪我してないか調べてるんだ、何が悪い」
 ハルの言葉に、ジェイと呼ばれた男は真面目な顔で反論する。その声と態度に、セティは思わず笑ってしまった。
「大丈夫よ」
 男が気を悪くしないようにそっと、手を引っ込める。
「ジェイ、あの男は大丈夫なのか?」
 男とセティの間にハルが飛び込んできたので、セティの戸惑いは大分解消された。
「おっと、いけねぇ」
 ハルの指摘に、頭を掻きつつその場を離れるジェイ。倒れた男の方を再び見ると、聖堂騎士の青い袖無し上着を羽織った男が二人で、倒れた男を担架に乗せようとしているところが見えた。
「あいつがジェイリストナール。略してジェイ」
 そのセティの横で、ハルが話す。
「聖堂の傭兵見習い」
「そう」
 あの人は、違う。セティはがっかりして強く首を振った。ジェイという人は、セティが探している人ではない。と、すると、探し人は、聖堂騎士見習いのヴァリスか、神官見習いのティアのどちらか。銀髪紫眼は、小柄な方。そのことに、セティは正直ほっとしていた。……スーヴァルドの神官でも、見習いの少年なら、自分の言うことに耳を傾けてくれるかもしれない。
 だから。
「騒動も一段落したことだし、聖堂へ行きますか」
 ハルの言葉に、セティは再びこくりと頷いた。

 だが。
 神殿の入り口で、やはり、足が止まってしまう。
 セティの心を支配しているのは、恐怖。スーヴァルドは残酷な神だ。セティはそう、教わっている。そんな所に、アルリネットを信奉する自分が入ったらどうなるのか。不安でたまらない。
「問題ないさ」
 思考するセティの右隣で、ハルののんびりした声が響く。
「俺は無神論者だが、毎日出入りしてる」
「食事の為だけにな」
 左隣からは、いつの間にか一緒になっていたジェイの呆れた声が聞こえてきた。
「俺の力が必要な場所が、ここには無いだけさ」
「よく言うぜ」
 ハルとジェイのやりとりに、正直ほっとする。それに、ここに出入りする人々の表情からは、この世界における全ての父であり、創造主と謳われている絶対神スーヴァルドに対する恐怖は見えない。不安や苛立ちは見えるけれども。一応、慕われている神なのだ。自分の正体がばれない限り大丈夫だろう。どきどきしながらも、セティはそっと、神殿内に足を踏み入れた。
 ところが。神殿内の光景に、唖然とする。周りにいるのは、病人や怪我人、そして彼らを世話する青い袖無し上着の人々。呻く人々と動き回る人々で、耳を塞ぎたくなるほど騒々しい。神殿とは、神に祈る為の静謐な場所ではないのか? これでは、先程まで居た大通りと変わらない。
「商業都市兼聖堂都市だからな、ヴェクハールは」
 呆れるセティの横で、ハルが呟く。
「ここは、神殿という名の病院さ」
 ヴェクハールの聖堂は、慈善事業に力を入れている。街の真ん中にある神殿内には病院の他、誰でも入れる食堂や宿舎があり、ここを行き来する旅人や商人に重宝がられている。勿論、静謐な神殿も、学校と図書館併設で街外れの丘の上にきちんと建っている。
「お、ヴァリス」
 説明するハルの横で、不意にジェイが大声を上げる。ジェイの声に気付いたのか、大柄な白皙の青年が、三人をじろりと見た。特徴的なのは、彼のその髪色。黒紫色の髪色は、肩の辺りで綺麗に長く整えているのと相まって、ヴァリスという青年に不思議な印象を与えていた。
「ヴァリストザード。この聖堂の騎士見習い」
 ヴァリスの視線を総無視して、ハルがヴァリスを紹介する。
 彼の視線は、セティにのみ注がれている。ふと、それに気付き、セティはヴァリスに嫌悪感を覚えた。アルリネットを信仰するセティに何らかの胡散臭さを感じているようだ。ヴァリスの視線を、セティはそう判断した。まあ、それは仕方無いだろう。軽蔑されたり迫害されたりすることに対して、ここまでの旅路で慣れてしまった。ジェイやハルのように偏見を持たない者の方が珍しいのだから。
「聖堂騎士、ってことは、神官よね」
 この聖堂の神官は皆、忙しそうに働いている。神の為に祈っている人は皆無だ。神官のくせにおかしいと、セティはジェイに呟いた。
「ま、『祈り、働け』がモットーだからな。ここでは」
 スーヴァルドの神官は祈るのが仕事。手仕事や力仕事は軽蔑している。島にある学校でセティはそう教わった。だが、ジェイの言葉は、これまでセティが教わっていたこととは全く違っていた。同じスーヴァルド信仰でも、地域によって違いがあるのかもしれない。セティはそう、考えた。
「同じスーヴァルドを信仰する北部の神殿からは異端扱いされてるけど、まあ、こっちは財力も軍事力もあるし」
 ハルの言葉が、セティの推論を裏付ける。
「働かざる者食うべからず、ってとこかな。……ハルは働かずに喰ってるだけだけど」
 しかしジェイの言葉が、ハルの思考を説明以外の方向へと持って行った。
「働いてるじゃないか」
 間髪入れず、ハルはジェイに反論する。
「いつ、どこで?」
 だがジェイの質問に、ハルの言葉はすぐに止まった。
「ほらみろ」
「……ところで」
 ジェイとハルの掛け合いに、ヴァリスのイラッとした声が割って入る。
「ティアはどこだ?」
 ティア。その言葉に、セティの背に緊張が走る。あの銀髪紫眼の少年もここにいるのだ。
「あ、ティアなら」
「さっき奥の部屋へ行ったぜ」
 ハルとジェイが、ヴァリスの問いに同時に答える。
「なにっ!」
 その答えに、ヴァリスは急に激怒した。
「知ってるんなら止めろよ!」
「なぜ? 治療しに行っただけだろ?」
 ヴァリスの激怒の原因が、分からない。首を傾げるセティの横で、ヴァリスはジェイの胸倉を掴んだ。
「あいつ今日何人治療したと思ってるんだっ! これ以上やったら絶対倒れる」
「もう倒れてたりし……」
 軽口を叩いたハルを、ヴァリスがきつい目で睨む。そしてそのまま、ヴァリスはジェイから手を離すと、ジェイが指し示した奥の部屋へと駆けるように消えていった。
「何、なの?」
 呆然と、怒りに肩を上げた後ろ姿を見送る。
「ヴァリスは、ティア馬鹿なんだ」
 そんなセティの疑問に答えるかのように、ハルがまた軽口を叩いた。
「俺たちも行こうぜ」
 そのハルを牽制するように、ジェイが言葉を重ねる。
「何か面倒が起こったらまずい」
「ヴァリスにティアが絡んでいるからな」
 そう言いながら神殿の奥に向かうジェイとハルの後ろを、セティも興味半分、不安半分で付いて行った。

「……予想通り」
 奥の部屋の扉を開ける前に、ハルが呟く。セティにも、呻き声と怒鳴り声が扉の向こうから聞こえてくるのが分かった。怒鳴り声は、先程逢ったヴァリスの声、だ。
「どうした、ヴァリス」
 ジェイが扉を開ける。
「どうしたもこうしたも」
 口の端を下げたヴァリスの両腕に、小柄で丸顔の少年がぐったりと凭れ掛かっている。その少年の髪色は、銀。この少年だ。セティの心は躍った。
「あれが、ティア。ティアリル」
 そんなセティに、ハルの解説が入る。
「これ以上は体力が持たないって言ってるのに、ティアの奴」
 そんなセティの横で、ヴァリスの文句は続いた。
「だって、まだ……」
 その文句に対応したのは、ヴァリスの腕の中でぐったりしていた少年だった。
「まだ、じゃない。これ以上歌ったら、確実に倒れるぞ」
「でも……」
 ヴァリスの腕の中から逃れようと、藻掻く少年。だが、小柄な少年と大柄な青年とでは、力の差が有り過ぎる。あっという間に、ヴァリスは少年を扉の近くまで引き摺って行った。
「ほら、行くぞ。休むんだ」
「嫌だ! まだ『治療』が終わってない!」
 争う二人の向こうに、もう一つ部屋が見える。その部屋では、先程セティが気絶させた男が、悶えるように呻いていた。男が暴れ出さないよう、三人の神官がその男を押さえつけている。それでも、男の動きを止めることは困難であるらしい。押さえつけている神官の手が外れてしまう様子も、はっきりと見えた。
「まあまあ、ヴァリス。ティアも」
 青年と少年の争いに、ジェイが割って入る。
「ここは病院だ。大声で争うのは良くない。ティアも、分かってるよな、自分の体力の限界」
「うん。……でも」
 どうやら、ティアという少年の体力の無さが原因で、奥の男に対しての有効な治療ができないでいるらしい。これまでのやりとりで、セティはそう、察する。体力なら、……魔法で何とかなるかもしれない。
 ローブの下に隠していたアミュレットを、再び取り出す。そしてそのアミュレットを、セティはヴァリスの腕の中で藻掻いているティアの頭上に、翳した。アミュレットから発せられる温かい光が、ティアの身体へ吸い込まれていく。
「……え?」
 何が起こったのか分かっていない、きょとんとした瞳で、ティアはセティを見上げた。その瞳の色は、紅玉の赤。紫では、ない。
「なるほどね」
 落胆するセティの後ろで、ハルが頷く。
「じゃ、俺の魔力も」
 そしてハルは、セティの横に立つと右手の人差し指をティアの額に当てた。
「只飯喰らいなんて言わせないぜ」
「ありがとう」
 セティとハルの回復魔法ですっかり元気になり、自力で立てるようになったティアが、二人に向かって頭を下げる。そしてすぐに、隣の部屋へと去って行った。
 余計なことを。ちらりと見たヴァリスの顔にそう書いてあったのを、見逃さない。そのヴァリスを無視して、セティは隣の部屋の様子をそっと窺った。
 男の呻き声に、微かだがしっかりとした歌声が混じる。どこかで聞いたことのある歌だ。セティはふと、そう思った。
「『呪歌』。ティアの『力』さ」
 セティの横で、ハルが解説を入れる。
「あれで、男に憑いた『影』を祓う」
 セティの目の前で、暴れていた男が急速に静かになる。その全身から発せられていた黒い霧状のモノも、段々と薄くなっていった。
「あの黒いのが、『影』」
 ハルの説明が、セティの耳を打つ。
「あれに取り憑かれると、理性を失うらしい」
「君の背中にも、憑いてたんだよ」
「本当?」
 ジェイの言葉に、セティは心底驚いた。あんな禍々しいモノが、自分にも?
「ティアのおかげさ」
 ジェイの言葉を遮り、ハルがにこりと笑った。セティが森で倒れていたのを真っ先に見つけたのも、セティに取り憑いていた『影』を『呪歌』で祓ったのも、ティアだという。
〈ティア……〉
 すっかり安らかな寝息を立てている男の横で歌うティアの背中を、まじまじと見つめる。この『力』は、……私が探していた力なのだろうか? だが。ティアの姿形は、示されたものとそっくりだが、瞳の色が、違う。
 と。
 セティとティアの間に、ヴァリスが割って入る。
「もう、治療はいいだろ」
 そしてヴァリスは、ティアを引き摺るようにして病室から廊下へと出した。
「ちょっと、ヴァリス!」
 ジェイの言葉も、ヴァリスの耳には入っていないようだ。ハルの言う通り、ヴァリスは『ティア馬鹿』だ。セティは正直呆れた。
 と、その時。
「ヴァリストザード」
 謹厳な声が、廊下に響く。振り向くと、白い髭を生やした背の高い男性が、セティ達を見下ろしていた。聖堂騎士の青い袖無し上着の上から、高位の白騎士であることを示す金の剣帯を身に付けている。
「アレイサート師匠」
 その男性の姿を見て、ヴァリスが頭を下げる。
「アレイサート。ヴェクハール聖堂騎士団の団長様」
 セティの後ろから、ハルの囁き声が聞こえてきた。
「ティアリルが大事なのは、分かる。だが、過保護になってはいかん」
 アレイサートの声はあくまで優しく、だが確実に厳しさを含んでいる。
「ですが、師匠」
 そのアレイサートに諭されたヴァリスは、それでも、というようにアレイサートを見上げ、だがすぐに俯いた。
「今日はもう、終わって良いぞ、ヴァリス、ティア。ジェイも」
 アレイサートは次に、セティ達に向かって笑顔を見せた。人好きのする、その笑顔には、信仰が違うながらも好感が持てる。
「お友達も来ているようだから、食堂で話でもしなさい」

 ヴェクハール神殿付属の食堂は、病院の隣にあった。
「食い物適当に見繕ってくるから、ティアの面倒頼む」
 そう言い置いて、ヴァリス、ジェイ、ハルの三人は配膳台の方へ歩いて行く。どうやらこの食堂は、配膳台に並べられた食事の中から自分で好きな物を好きなだけ取って食べる形式になっているらしい。
 まだ時間が早いらしく、人の疎らな食堂に、少ししか知らない少年と二人で座っているのは、これまでずっと島の親密な人間関係の中で育ってきたセティにしてみれば何か変な感じがする。食堂のベンチの、セティの横に座ったティアは、セティが回復魔法を掛ける前よりぐったりしているように見えた。
「『呪歌』を歌った後だから、仕方無いんだ」
 大丈夫と聞くセティに、ティアはだるそうに首を横に振った。どうやらティアが歌っていた『呪歌』というものは、体力を大量に消費するものらしい。そのティアを、もう一度まじまじと見つめる。少女にも見える彼の姿は、見れば見るほど、アルリネットが示したとある人の姿に似ていた。違うのは、瞳の色だけ。
「セティの首から下がっているのは、何?」
 不意に、ティアが小さい声で質問する。
「これは、アルリネットの印」
 少しぼうっとしていたセティは、その問いに簡潔に答えた。答えてから、はっとする。何度も確認しているが、ここは、スーヴァルドの神殿。敵対する神であるアルリネットの名前を簡単に出すなど、愚の骨頂。だがティアは、神の名など全く気にしていないようだ。
「ああ、それなら僕も持っているよ」
 そう言いながらティアが服の下から取り出したのは、スーヴァルドの印である剣を象ったアミュレット。この少年も、『敵』であるスーヴァルドの信徒なんだ。セティは少し悲しくなった。なぜ、信条が違うだけで、人は憎んだり嫌悪感を持ったりするのだろう。でも。何とか気持ちを取り直す。スーヴァルドの聖堂内でも、ジェイやハルのように偏見無くセティに接してくれる人がいる。だから、大丈夫だ。
 もう一度、確かめるようにティアを見つめる。こんなひ弱な少年に重大な物事を頼むのは、間違っているのかもしれない。だがきっと、何とかなる。直感に従い、セティは膝に乗っているティアの両手に自分の両手を重ねた。
「お願いがあります。島を、私の故郷を、助けて下さい」
「えっ?」
 きょとんとした声が、耳を打つ。やはり、駄目だったか。落胆するセティの心に、ティアの無邪気な声が響いた。
「良いよ。僕にできることなら」
「え……」
「ちょっと待て、ティア」
 落胆から欣喜へと変化するセティの心に割って入ったのは、ヴァリスの声。
「安請け合いはいけないと、あれほど言っているのに、また……」
「おいおい、ヴァリス。怒ると夕食がこぼれるぜ。もったいない」
 ヴァリスの怒りの声を、ジェイの明るい声が制す。
「ティアも、ちゃんと具体的な話を聞いてから返事をする」
「はあい」
「何か教師と生徒みたいだな」
 ジェイとティアのやりとりにハルが茶々を入れるのを、セティはどきどきしながら聞いていた。……この人達は、信頼できる。
「で、お嬢さん、俺たちに何の頼み?」
 持って来た夕食を脇に積み上げてから、セティの向かいに座ったジェイがそう問う。ジェイの右側には、興味なさそうに金の髪を弄るハル、そして右側には仏頂面のヴァリス。そして。
「話して、セティ」
 セティの横で座り直したティアが、セティに話を促す。セティは一呼吸してから、ゆっくりと話を始めた。
 この冬から春にかけて、セティの住むアルトティス島ではある怪奇が起こっていた。夕方になると、外にいた年端もいかない子供達が消えてしまう、という。セティの弟も、セティが見ている目の前で、まるで風に攫われたかのように消えてしまった。島の大人達が原因を調査しているが、何も分からないまま子供達だけが消えていく。そんな時、アルリネットの神殿で祈っていたセティは、神殿の主アルリネットから助言を受けた。「大陸へ行き、ソセアルの森で銀髪紫眼の人に助けを求めなさい」、と。その助言に従い、春の初めの日に、セティは一人島を出、大陸へと降り立った。だが、春の半分を費やしても、探し人は見つからない。
「ソセアル、銀髪紫眼……、って、まさか」
「あの伝説の?」
 セティの言葉に、ハルとジェイが同時に声を上げる。
「知っているの!」
「ああ」
 叫び声にも似たセティの声に静かに答えたのは、ヴァリスだった。
「だが。ソセアルの民はとうの昔に滅びたという話だが」
 大昔、大陸内陸部に広がるソセアルの森には、予言と治療を職能とする魔術に長けた一族が住んでいた。千年前の災厄を起こした『混沌』の神を、その命と引き替えに倒した英雄ルディテレスを祖とする彼らは、森の外の人々の頼みに応じ、一族が持つ『力』を用いて様々な手助けを行っていた。だが、閉鎖的な生活が災いしたのか子孫が絶え、今ではその血と力を受け継ぐ者は誰もいないという。
「そんな……」
「うーん、でも」
 落胆するセティの隣で、あくまで無邪気なティアの声が響く。
「それってあくまで言い伝えでしょ? だったら、森のどこかにソセアルの民が生き残っている可能性だってあるんじゃないかな? 森は広いし」
「そう、だが……」
「それに、神様が信徒に実現不可能な助言をするわけないじゃない」
 ティアの言葉に、はっとする。そうだ。アルリネット様が無理難題を言うわけがない。大陸での旅路の間に潰えていた希望が再び、セティの心に芽生えた。
「ねえ、みんなでセティの手伝いをしようよ!」
 ティアの提案に、再びはっと胸を突かれる。
「い、良いの? ティア?」
 戸惑いを、セティはそのまま言葉にした。
「うん、きっとみんなも良いって言ってくれるよ」
 ティアの赤い瞳は、きらきらとセティを見、そしてテーブル向かいの三人を順々に見つめた。
「ね、ジェイ」
「そりゃあ。女の子の頼みを聞かないジェイ様ではないぜ」
 ジェイは勿論、というようににっと笑う。
「ハル」
「ん、まあ、良いんじゃないの? ソセアルの民が生きていたら俺の知識が増える」
 ハルは面倒そうな顔をティアに向けたが、セティには口の端を歪めた。
 問題は。
「ヴァリス」
「……ああ、うん」
 気乗りしないヴァリスの声が、セティの耳を打つ。だがすぐに、ヴァリスはふっと笑ってティアにこくりと頷いた。
「良いよ。……一緒に行ってやる」
「ありがとう、ヴァリス」
 セティの涙腺が、緩む。
 久しぶりの涙が、セティの頬を伝わった。

〈……全く〉
 溜息をつきながら、傍らで眠っているティアの銀色の髪を撫でる。
 ヴァリスのその手がくすぐったかったのか、ティアは笑うように身をよじって寝返りを打った。
 ヴェクハールの外れにある共同住宅の、ヴァリスの部屋。セティの為にティアの部屋を一時的に明け渡したので、ティアは今ヴァリスの部屋の床で眠っている。ベッドで寝ろとヴァリスは言ったのだが、ティアはヴァリスのベッドを奪いたくないと断固拒否したのだ。こういうところに関しては、ティアは頑固だ。眠っているティアをベッドに運んだところで、次の日に申し訳なさそうに「ありがとう」と言うだけ。しゅんとしたティアの顔など、見たくはない。それならば一緒に床で眠った方がまだマシである。と、いう理屈で、ヴァリスは今、床に設えた自分の寝床に座っている。
〈なぜこいつは、困っている人を見ると簡単に手を差し伸べてしまうのだろう?〉
 もう一度、ティアの髪を撫でる。今度は、ティアは動かなかった。
「やはり、奥方様の血を引いているからだろうか?」
 ヴァリスの言う『奥方様』とは、ティアの母セターニア。ヴァリスを拾ってくれた、優しい人。
 セターニアと初めて出逢った時のことは、今でもまざまざと思い出すことができる。
「姉様の髪と、同じ色」
 そう言ってヴァリスの髪を撫でてから、抱きしめてくれた。その腕の温かさは、絶対に忘れない。まだ赤ん坊の頃にヴェクハール聖堂の物陰に捨てられ、聖堂で男達によって育てられたヴァリスにとって、その腕は正しく『母の腕』だった。
 その時、セターニアは双子の姉リルーニアを探す為に、ヴェクハールを訪れたのだそうだ。しかしこの街では姉を見つけることができず、その代わり、というわけでもないのだろうが、ヴァリスを引き取ってソセアルの森へと帰った。……そう、セターニアは『ソセアル』の一族、だったのだ。
 一年ほど、ヴァリスはセターニアと一緒にソセアルの森で暮らした。
 森に帰ってから十月ほど経った頃、セターニアはティアを産んだ。そしてそれから三月後、ふとした風邪が原因でセターニアは亡くなった。その為、ヴァリスはティアとともにヴェクハールに戻され、現在に至っている。
 あれからもう、十二年になるのか。ティアの年を数えて、溜息をつく。育ててくれた聖堂の人々に、文句は全く無い。だが、セターニアとの時間は『特別』なのだ。
 窓から入ってくる微かな月明かりが、ティアの髪をぼうっと光らせる。ティアの髪の色は、母であるセターニアと同じ銀色。そして自分の髪の色は、セターニアが一生懸命探していた双子の姉リルーニアと同じであるらしい。それが、それだけが、セターニアが自分を引き取ってくれた理由だろうと、思う。それでも、ヴァリスは嬉しかったのだ。
 ヴァリスには、分かっている。森へ行っても、徒労にしかならないだろうということが。セターニアの息子であるティアの瞳の色は、赤だ。ティアは『影』を祓う『呪歌』を歌うことができるが、セティが暮らしている島で起きている事件を解決する『力』を持っているとは思えない。セターニア以外に紫の瞳を持つ人を、ヴァリスは知らない。セターニアの姉であるリルーニアという人物もおそらく紫の瞳を持っているだろうが、彼女が行方不明である現在、『ソセアル』の一族は絶えたといっても言い過ぎではないだろう。しかし、それを言うことは、ヴァリスにはできなかった。セティはともかく、ティアを落胆させることは、ヴァリスにはできない。
 だから。無駄だと分かっているティアの提案に、ヴァリスは頷いた。
 ……嫌々ながら。

 ヴァリスが不本意な理由は、もう一つある。セティの、事だ。
 いや、セティ自身がどうだというわけではない。セティが『アルリネットの巫女』だというのが問題なのだ。
 アルリネットは、大地の女神。命ある者を生み出す、豊穣の女神。ヴァリスの所属する聖堂が信仰する絶対の天空神スーヴァルドとは、対極の存在。大陸ではスーヴァルドの方が優勢だが、セティの故郷であるアルトティス島には大規模なアルリネット神殿があり、少なからぬ人々が巡礼に訪れているという。
 アルリネットの神殿には、様々な噂が付き纏っている。曰く、悪臭で悪霊を呼び出し、人を惑わす予言をする。曰く、神に仕える際は必ず、酩酊状態になる特殊な薬を飲み、神殿内で踊り狂う。曰く、巡礼の為にアルトティス島を訪れた人々を相手に、春をひさぐ。それら全てが正しいとは、ヴァリスも思わない。ヴェクハールは商業都市で、大陸の東西南北から様々な人間がやってくる。思想や信条、信仰する神も様々な人間を見てきているので、多少は公正で理知的な思考ができるとヴァリスは自負している。アルリネット神殿についてのこれらの噂も、スーヴァルド側、特にスーヴァルドを最高神と崇める北の王国ノイトトースの神官達が悪意を持って広めた噂だと、思えなくもない。
 だが。特に最後の噂が、ヴァリスの思考を止める。
 そんな不潔な場所に、ティアは連れて行けない。

 だから。
 明日からの冒険がうまくいかないことを、ヴァリスは神に祈った。

 ヴァリスの願いが天に通じたのか。
「……見つからない」
 ヴァリスの横で、ジェイが大仰な溜息をつく。そのジェイと別れ、ヴァリスは下草茂る森の中をずんずんと進んでいった。
 ソセアルの森に入って一体何日経っただろうか。ヴァリスの予想通り、一行は何の収穫もないまま森を彷徨っていた。
 セティはソセアルの森の北西部を彷徨っていたと言っていたし、ヴェクハールは、ソセアルの森の南西にある。だから、持てるだけの食料を持ち、ヴェクハールから食料の1/3を消費するまで北へ向かい、その後東へ転じ、食料が1/3になったら南に方向転換して森の外の村まで出る。それが、当初の計画であり、実際にヴァリス達はその計画通りに行動していた。……慣れない長旅でティアが熱を出したことを除いては。
 ティアが熱を出した時、ヴァリスはヴェクハールに帰ることを提案した。帰る理由は、十分だ。……ティアの頑固な反対を除いては。
「絶対、帰らない!」
 熱を出した初日、ティアはそう言ってヴァリスに抵抗した。
 仕方が無い。こういうところでティアが頑固なことは、分かっている。だから一行は、午前中にキャンプを移し、午後はティアと、体力の無いセティまたはハルをキャンプに残し後の三人でソセアルの民の痕跡を探す、という方法で、ソセアルの森を南下していた。
 今日ティアと一緒に残っているのは、ハルだ。そのことに、ヴァリスはほっとする。アルリネットの信徒であるセティを、ヴァリスは未だに胡散臭く感じていた。子供達を助けて欲しいだけなら、なぜ大陸にたくさん居る冒険者達を直接島に招待しない? ソセアルの民など、探すだけ無駄なのに。
 と、その時。足下に可憐な花を見つけ、立ち止まる。この花は、昔セターニアと一緒に摘んだ花。確か、花と葉を一緒に煎じて飲むと解熱効果があると聞いた。ティアの為に、摘んで帰ろう。ヴァリスはそっと、花の方へ手を伸ばした。
 次の瞬間。水音が、ヴァリスの耳を打つ。誰か、いるのか? ヴァリスは静かに音の方へと歩を進めた。
 用心の為に大木の陰に身を隠し、そっと覗き見る。その瞳に映った光景に、ヴァリスの心に衝撃が走った。
〈……セティ!〉
 森の中にある、小さな泉で、セティが水浴びをしていたのだ。春の午後の、滑らかな光が、セティの裸身を仄かに光らせる。その曲線に、ヴァリスの目は奪われた。
 どのくらい、木の陰からその姿を覗いていただろうか?
〈……あ〉
 ふと、我に返る。自分のしていたことを思い出し、ヴァリスは羞恥と怒りに駆られた。聖堂神官は女色を禁じられている。その禁を、自分は。考えるだけで震えが走る。そして、怒りの矛先は。
 こうしては、いられない。ヴァリスは大急ぎで泉から離れると、ティアがいるキャンプに向かって大股で戻った。
 キャンプには、ティアしかいなかった。留守番のハルはどうしているんだ? そのことに腹を立てるよりも早く、ヴァリスは自分の荷物と眠っているティアを背中に乗せた。
「どうしたの、ヴァリス?」
 目覚めたティアが、寝惚けた声で問う。
「帰るぞ、ティア!」
 その声に、ヴァリスは強い声で返した。
「え? 何で?」
「セティは魔女だ。男を誘惑する魔女だ。魔女の願いなど、聞くだけ無駄だ!」
 混乱が、ヴァリスの声と思考に拍車を掛ける。
「ソセアルも、探すだけ無駄だっ! もうどこにも居ないんだからなっ!」
「ヴァリスっ!」
 だが。ティアの強い口調が、ヴァリスの耳を強く叩いた。
「なんてこと言うの!」
 ヴァリスの背中から降りたティアが、ヴァリスを強い瞳で見つめる。熱の所為か、普段怒ったことのないティアの顔は更に真っ赤になっていた。
「ティア……」
 そのティアの顔に、ヴァリスの怒りがすっと引く。その代わりに心に宿ったのは、酷い事を言ってしまった罪悪感。
「セティは魔女なんかじゃない! 普通の人間の女の子だっ!」
 涙を含んだ赤い瞳が、ヴァリスを見上げる。次の瞬間。ティアはくるりとヴァリスに背を向けると、森に向かって走り出した。
「ティア!」
 追いかけようと、一歩踏み出す。
 その足を、止めたのは。
「ヴァリス……」
 静かな声が、背後で響く。ぎくりとしながら振り向くと、セティとジェイが呆然とヴァリスを見つめて、いた。
 泣きそうに俯いてから、わっと言ってセティが森の奥へと走り出す。
「待て、セティ! 待てったら!」
 ジェイがそう言ってセティを止めるのを、ヴァリスは呆然と聞いていた。
「ヴァリス!」
 思考がまとまらないヴァリスを、ジェイの拳が襲う。次の瞬間、ヴァリスの身体は草の上に転がっていた。
「女の子になんて事言うんだっ! ヴァリス!」
 ジェイの怒りに、何も、言えない。ヴァリスは殴られた頬を押さえて立ち上がると、無言でくるりとジェイに背を向け、ティアが走って行った方向へと走り出した。

 木の根に躓き、草の上に突っ伏す。
 教義の違いからか、アルリネットの信徒が大陸で誤解を受けていることは、島を出てからこれまでにも嫌と言うほど思い知らされてきていた。だが、信頼していた人に罵倒されるのは、やはり辛い。突っ伏したまま、セティは大声で泣いた。
 ソセアルの民が、どこにも居ない。ヴァリスのこの言葉にも、セティの心は酷く傷ついていた。ヴァリスがセティ達に何か隠していることは、薄々感付いてはいた。だが、そんな重要なことを、隠していたとは。セティのヴァリスへの不信感は、かなりの強さになっていた。
 と。
「足が見えてる」
 ハルの声に、驚いて顔を上げる。
「スーヴァルドの神官なら、すぐに逃げるな」
 捲り上がっていたローブを整える為に慌てて起き上がると、ハルがにっと笑っているのが見えた。
 ジェイに探してくれと頼まれた。そう言いながら、ハルは急ぐでもなくセティの横に腰を下ろす。
「そう言えば、似てるよな、ソセアルとアルトティス」
 そして不意に、ハルは全く別のことを口にした。
「どちらも、特殊な能力を持つと信じられている」
「そう言われているだけよ」
 確かに、アルトティス島の住人も、かつては予言能力があると噂されていた。だが、現在、島の民にそのような力を持つ者はいない。セティ自身、アルリネット神から戴いた普通の魔力の他には何の力も無い、本当に普通の女の子だ。島で暮らす大人達にも、飛び抜けてずば抜けた力を持っている者は皆無。
「俺は、思うんだ。どんな形にしろ、外部の人間を受け入れたからこそ、アルトティスは存続している、ってね」
「あ……」
 ハルの言葉に、セティの心に安堵感が広がる。大丈夫だ。何を言われても堂々としていればいい。
 セティはハルにこくりと頷くと、立ち上がってローブに付いた泥を払った。

 森の奥まで行って、やっと、木々が開けたところで倒れているティアを発見する。
 大慌てでティアを抱き起こそうとしたヴァリスだが、ティアの周りで踊るどす黒い物体に気づき、思わず腰の剣を抜いた。
 次の瞬間。黒い物体が、ティアを包んで大きくなる。ともかくティアを助けなければ。ヴァリスは咄嗟に剣を薙ぐと、完全に包まれる寸前でティアの身体を物体の外へと引っ張り出した。
 気を失っているティアの身体を抱えながら、くるりと物体に背を向ける。今は、ティアを助けてここから逃げる事が優先。だが。逃げようとしたヴァリスの足が、何かに引っ張られる。バランスを崩し、ヴァリスは顔から地面へぶつかった。それでも、心配なのは、ティアのこと。ヴァリスと同じく地面に投げ出されたティアに怪我がないことを確認してから、ヴァリスは自分の足を見、そこに黒い蔦のようなものが巻き付いているのに気付いた。これを外さない限り、ここからは逃げられない。ヴァリスは剣をその蔦に突き刺した。だが、蔦はびくともしない、引っ張って足を抜こうとしても、同じこと。
「ちきしょう!」
 思わず、呻く。このままでは、ティアを助けることができない。絶望の中、ヴァリスは覆うように襲ってくる黒い物体に向かって剣を構えた。逆境の中でも何とかするのが、騎士の務め。
 と。鋭い光が、ヴァリスと迫ってきた物体の間に入る。次の瞬間、ヴァリスの足は自由になった。この、光は、……ハルの魔法だ。
 そして。
「ヴァリス!」
 横から、見慣れた戦斧がぬっと突き出される。ジェイの、得武具だ。剣より格好悪いといつもは陰で馬鹿にしていたが、今日のヴァリスにはその斧が頼もしく見えた。
「一時休戦にしてやる!」
 そう言いながら、戦斧を物体に向かって振るジェイ。しかし、ジェイの斧でも、物体は一時二つになるが、またすぐに一つに戻る。まるで霧のようだ。ヴァリスはふと思った。……霧?
「ティア」
 そっと、振り向く。熱のあるティアにここで頼りたくはないのだが、こいつを放っておけば自分達に身の危険が迫る上に、ここを通りかかった誰かが襲われる。騎士として、それは避けねばならないし、おそらくティアも、それは望んではいないだろう。
 駆けつけたセティとハルに助け起こされたティアが、ヴァリスを見つめる。ヴァリスの意図に気付いたのか、ティアはヴァリスに向かってうんと頷くと、唐突に『呪歌』を歌い出した。
 ティアの『呪歌』に、霧のような物体が震える。その物体の縁が粒子状になって消えつつあるのに、ヴァリスはすぐに気付いた。
「なるほど」
 ヴァリスの後ろで、ハルが手を打つ。
「そいつは『影』と同じだ!」
 すなわち、ティアの『呪歌』で祓うことができる。
「ティアの回復は、任せて」
 セティが懐からアミュレットを取り出したのが、ヴァリスの目の端に映った。
 あと、自分達にできることは。
「ジェイ!」
「よっしゃ!」
 二人で交互に、物体に向かって刃を振るう。小さい塊の方が『呪歌』が効きやすいのだ。
 あっという間に。先程までヴァリスの二倍はあったどす黒い物体は、影も形もなく消え失せてしまって、いた。
 ほっと、息を吐く。ヴァリスの隣では、ジェイがにこりと笑っていた。しかしすぐに、ジェイの表情が厳しくなる。自分の所為だ。ヴァリスは俯くと、剣を鞘に収め、ティアの方へ歩いて行った。
 ヴァリスが近づいたのを見て、セティが脇に避ける。慚愧の念に駆られながら、ヴァリスはハルからティアの身体を受け取った。
「ヴァリス……」
 だが。ティアはヴァリスを見上げ、そしてすぐにヴァリスの腕から降りる。
「……済まない、ティア」
「ごめんなさいはセティに言って」
 ティアの言葉に、言葉が詰まる。だが、言わなければならない。
「ほら、セティにごめんなさいは?」
「あ、ああ……」
 ヴァリスはティアに促されるまま、セティの方を見た。
「セティ。あの、その、……済まない」
 そして悲しい目をしたセティに、頭を下げる。
「気が、動転してたんだ。水浴び姿を、見てしまって」
「まあ」
「はいっ?」
 ヴァリスの告白に、セティとジェイが同時に声を上げる。
「まあ、ヴァリスらしいと言えばヴァリスらしいけどな」
 ハルの言葉に、仲間全体が笑いに包まれた。
 次の瞬間。向かい合ったヴァリスとセティの間を、黒い影が右から左へ走る。その影の正体を確認するより早く、ヴァリスの左にいたティアが仰向けに倒れた。
「う、ぐっ」
 喉を押さえ、苦しそうに悶えるティア。
「ティア!」
 ヴァリスは瞬時にティアに駆け寄ると、喉を押さえるティアの手を払った。
「えっ!」
「何だ?」
 背後で、ハルとジェイが同時に声を上げる。
 ティアの首には、何も巻き付いていない。どす黒い痣が、首の周りにぐるりと付いているだけ。
 それよりも。
「ティア!」
 ぐったりしたティアの肩を、強く揺する。
 だがティアは、ヴァリスの声にも振動にも全く反応しなかった。

 激しく降り注ぐ雨が、ヴァリスの心を苛立たせる。
 だが、この雨の中へ出ていくわけにはいかない。
「もうちょっと奥に入れよ、ヴァリス」
 洞窟の奥から、ジェイの声が響く。彼なりの気遣いだと、今のヴァリスは理解することができた。
「見てても雨が止むわけじゃないんだからな」
 続いて聞こえてきたハルの声に、むっとする。
「分かってる」
 苛立った声を返すと、ヴァリスは洞窟の奥へと顔を向けた。自分の苛立ちをハルに向けるのは間違っている。それは、理解しているのだが。
「……ティア」
 小さな焚き火の横で眠っている、小さな影の側に腰を下ろす。微かな明かりに見えるその影の儚さと、その首に刻まれた青黒い痕が、ヴァリスの心を悔恨でいっぱいにした。自分の不甲斐なさで、ティアの命が危機に瀕している。そして、その危機に対し、今の自分には何もできない。それが、ヴァリスの苛立ちの原因。
「多分、大丈夫だと思うけど」
 先程までティアに回復魔法を掛けていたセティの青白い顔が、申し訳なさを倍増させる。
「何がティアに飛び込んだのか分からない限り、ティアの回復は覚束ない」
 同じく先程まで回復魔法を使っていたハルが、ヴァリスから視線を外して呟いた。
「セティも、疲れているんだろ」
 そのセティに、ジェイが優しく声を掛ける。
「少し眠りなよ。焚き火の側だと、温かい」
「うん」
 ジェイが差し出した大きなマントを受け取り、セティがヴァリスの向かいに横になる。すぐに、健康そうな寝息が、ヴァリスの耳にまで聞こえてきた。
「俺には、何もないのか?」
 ハルの声が、ヴァリスをむっとさせる。だがヴァリスは、自分のマントを黙ってハルに差し出した。
「要らないよ」
 そう言って、ハルは焚き火の側に座り込む。更にむっとしたヴァリスに、ハルは更に続けた。
「ティアに掛けてやったら」
 ここは、ハルの申し出を有り難く受けることにする。ヴァリスはティアの身体をそっと抱き寄せると、自分のマントをその身体にしっかりと巻き付けた。
「何だったんだろうな、あの馬鹿でかい物体」
 そのヴァリスの横で、ジェイがハルに話しかける。
「知るか」
 ハルの答えは単純明快だった。
「だけど、『影』と同じ感じがした」
「ああ。影の親玉、って感じがしたな。ティアの呪歌で消えたし」
 ジェイの言葉に、ハルは少し考え込み、そしてティアを見ながら呟いた。
「でも、ティアの首に飛び込んだのは、『影』とは違う」
「どういうことだ?」
 そのハルの言葉に、声を荒げる。
「分からない」
 ヴァリスの問いに、ハルは疲れたように首を横に振った。
「専門家じゃないと、それ以上のことは分からないだろうな」
 ハルの答えに、呻きともつかない声を上げる。と、すると、ヴェクハールに戻るまで、ティアはずっとこのままなのか? ぐったりと目を閉じたティアの額を、ヴァリスはそっと撫でた。今のところ、少し苦しそうだが息はしているし、身体も温かい。だが、万が一、ヴェクハールにつく前にティアの命がどうにかなってしまったら……!
「おい、ヴァリス。どこへ行くんだ」
 ハルの声に、我に返る。いつの間にか、ヴァリスはティアを抱えて洞窟の入り口に立っていた。
「気持ちは分かるが、焦るな」
 ジェイの声に、唇を噛み締め、再び焚き火の側へと戻る。
 突然降り出した雨の中、ティアを背負ってヴェクハールに戻ろうとしたヴァリスを押し止めたのも、この洞窟を見つけたのも、濡れた木片で焚き火を作ったのもジェイだ。セティの一件でも、ティアのことでも、あれだけ大騒ぎしてしまった自分とは、なんたる差か。おそらく、ヴァリスの師匠アレイサートは、ジェイのこのような臨機応変さと冷静さをヴァリスに学んで欲しかったのだろう。だから、ヴァリスとジェイを組にした。
 自分も、ジェイのような能力を身に付けなくては。……ティアを、守る為に。
 小さな炎を見つめながら、ヴァリスは一人、決心した。

 微かな光を感じて、微睡みから目覚める。外の雨は既に止み、森は薄白い霧にすっぽりと包まれていた。
 その景色に、既視感を感じる。
〈これは……。いや、まさか〉
 心に急かされるまま、ティアを背負って外に出る。
「おいっ! ヴァリスっ!」
「どこ行くつもりだ!」
 ジェイとハルの声を背に、ヴァリスは霧の中へと突き進んだ。
 森を流れる小川を通り、小さな橋を渡り、曲がった木の陰をぐるりと回る。すぐに、ヴァリスは開けた場所に出た。
〈……やっぱり〉
 赤い屋根に、太い煙突。ポーチから広がる、色とりどりの花が咲き乱れる庭。目に映る全てが、ヴァリスの記憶通りだった。
 そして。
「……ベルサージャ」
 玄関先に立った、大柄な銀髪の女に、ゆっくりと近寄る。
「良く覚えていたね、私の名前」
 ヴァリスの姿を認め、ベルサージャは昔と同じように大雑把な笑みを浮かべた。
「助けて、欲しい」
 そのベルサージャに、背中でぐったりとしているティアを示す。
「勿論」
 ベルサージャはすぐに玄関を開けると、ヴァリスに家に入るよう促した。
「紫の瞳の縁者の頼みだからね」

 ベルサージャの指示に従い、小さな家の奥にある部屋の清潔なベッドに、ティアを寝かせる。この部屋は、セターニアを看取った部屋だ。辺りを見回し、ヴァリスは不吉な想いに駆られた。
「……疲れている、だけだね」
 ベッドの傍らに跪き、ティアの身体のあちこちを触っていたベルサージャが静かに呟く。その答えに、ヴァリスは思わずかっとなった。こんなにぐったりしているのに、疲労しているだけ、だと? 首の痣は、どうなのだ?
「嘘だ!」
 思わず、叫ぶ。
 だがベルサージャは、ヴァリスの顔を見つめ、首を横に振った。
「今は、眠らせておくことしかできないんだよ、ヴァリス」
 静かな声に、怒りを何とか飲み下す。
 無言のまま、ヴァリスは部屋を出た。

 玄関を入ってすぐの部屋では、ジェイとハルが暖炉の火で暖まっていた。
 ヴァリスが忘れてきた荷物も、全て玄関先に積んである。
「ここは、ソセアル一族の家か?」
 暖炉の上にある絵を指差し、唐突にハルが尋ねる。ヴァリスはこくりと頷くと、その絵をまじまじと見つめた。
 絵に描かれているのは、祖母のような笑顔を見せているベルサージャと、よく似ている二人の少女、セターニアとリルーニア。ベルサージャとセターニアは銀髪だが、リルーニアはヴァリスと同じ黒紫色の髪を風に靡かせている。そして三人とも、瞳の色は紫。この絵を描いたのは、セターニアとリルーニアの母。セターニアから教わったこの家のことを、ヴァリスは少しずつ思い出していた。
「よく、知ってたな、ここのこと」
 感心したように、ジェイが頷く。その声に、微かながら叱責が入っているのは、ヴァリスの気のせいではない。
 だから。
「思い出しただけだ」
 ヴァリスは暖炉の前に座り、口を開いた。
 ティアの母セターニアがソセアルの末裔であったこと。セターニアに引き取られたヴァリスは、一時期ここで暮らしていたこと。そして、そのことを黙っていたこと。責めるような二人の前で、ヴァリスは全てを話した。
「なるほどね」
 少しだけ、ジェイが笑う。
「場所を忘れていたなんて、ヴァリスらしい」
 毎度の皮肉を叩いたのは、ハルだった。
 許された。ほっとした思いが、ヴァリスの心に広がる。秘密にする事柄を、これからは精選しよう。そう、ヴァリスは決心した。
「ほらほら、そこにいると邪魔だよ」
 不意に、ベルサージャの声が響く。避けようとする三人の上に、白い毛布が降ってきた。
「ここは狭いんだ。男どもはごろ寝だね」
「そう言えば、セティは?」
 頭の上の毛布を引き剥がし、ジェイに尋ねる。
 気付くのが遅いんだよという表情を浮かべてから、ジェイは口を開いた。
「あの女の人が、自分の部屋を使って良いって言うから、台所の向こうの部屋に寝かせてきた」
 それなら、問題ない。煙突の煉瓦壁がベッドの側にあるから、ベルサージャの部屋は玄関前のこの部屋よりも快適だろう。ヴァリスはジェイにそう囁くと、眠りを補う為に毛布にくるまった。

 ほっこりした温かさと、美味しそうなパンの匂いに、目が覚める。
 その時になって初めて、セティは自分が清潔な白いシーツの中に居ることに気付いた。
「おや、起きたね」
 セティが寝ているベッドの側にかかっている白い間仕切り用カーテンが、静かに開く。そのカーテンから顔を出した人物に、セティは瞠目した。紫の瞳、銀色の髪。
「アルリネット様!」
 思わず、叫ぶ。
 セティの声に、目の前の人物はふっと笑ってから首を横に振った。
「違うよ。私はベルサージャ。アルリネット様の眷属さ」
「眷属?」
「そう。ソセアルの一族を世話する為に、アルリネット様に作られたモノ」
「ソセアル!」
 ベルサージャの言葉に、セティは思わず叫んだ。
「残念ながら、ソセアルの一族はティアを残して滅んだ」
 静かな声で、ベルサージャが言葉を紡ぐ。
「じゃあ、ティアは、……ソセアル?」
 初めに助けられた時に見た、紫色の瞳が、セティの脳裏に閃く。
「そうだ」
 ベルサージャの頷きが、セティを心からほっとさせた。
「じゃあ、これで、島は……」
「それが、ティアの運命だというのならね」
 ベルサージャの悲しげな声が、心に広がった欣喜に水を浴びせる。何も言えず、セティはベルサージャを見つめた。
「その話は、ティアが回復してからにしよう」
 そう言いながら、ベルサージャはセティの身体に優しく毛布を掛けてくれた。
「あんたも、しばらく眠りなさい」
 ベルサージャの言葉に、セティはこくりと頷き、目を閉じた。

 微かな泣き声に、目を覚ます。
 首を動かすと、ベッドの傍らで俯いている白い影が、見えた。
〈あ……〉
 その影に声をかけようとして初めて、声が出ないことに気付く。戸惑いの感情が、ティアの全身を支配した。
 と。
 俯いていた白い影が、顔を上げる。銀色の長い髪に縁取られたその顔は、ティア自身によく似ているような気が、した。
 もしか、したら。
〈母上……?〉
 心の中で、その影に向かって声をかける。
 勿論、ティアの母は、ティアがまだ赤ん坊の頃に亡くなっているのだから、ティアは母の顔を知らない。自分に似ていたと、ヴァリスの話で知っているだけだ。それでも、傍らにいるこの影が母親であるような確証が、何となくあった。
 不意に、ティアの額に、影の細い手が触れる。初めて感じた母親の手は、微かに冷たく、それでいて温かかった。
 だが。
「私は、この子を産んではいけなかったのかしら」
 悲しい言葉が、ティアの心を冷たくさせる。
「こんな過酷な運命を持つ子など……」
 しかし、母の紫の瞳に見えた、心からの想い、ティアをかえってほっとさせた。母は今でも、僕のことを案じてくれている。
〈僕は、大丈夫です、母上〉
 声が出れば、すぐさまこう言えるのに。忸怩たる想いで、ティアは母親の顔を見つめることしかできなかった。
〈僕には、助けてくれる仲間がいます〉
「そう、そうね」
 ティアの言葉がうまく伝わったのか、不意に、母が強く頷く。
「一人では越えられない壁も、仲間がいれば大丈夫かもしれない」
〈はい、母上〉
 濡れた菫色の瞳で、それでもティアを元気づけるように笑う母。その母に、ティアもにっこりと笑い返した。

 ベルサージャの手当が良かったのか、彼女の言う通りただ疲れていただけだったのか、かつてソセアルの一族が暮らしていた小さな家で、ティアはぐんぐんと回復した。
 だが。ティアに付いた、喉の痣は、消えていない。更に悪いことに、その痣の所為か、ティアの声は全く出なくなってしまっていた。
「大丈夫かしら、ティア」
 すっかり元気になったセティが、心配そうな声を上げる。
 『呪歌』を、歌うことができる。それがティアの強みの一つだ。しかもティアは、歌うことが好きだった。しかし、……もう、歌えない。ティアの悲しみはどれほどのものだろう。病室を見舞っても微笑みしか返さないティアに、ヴァリスの胸は痛んだ。あの時、自分があの影に気付いていれば、ティアを守ることができたのに。
「これが、ティアの運命なのだよ」
 不意に、ヴァリスの背後でベルサージャが声を上げる。
 明日はここを離れるという日の夜。寝る前に食堂に集まれとベルサージャにいわれ、ヴァリス達はテーブルの周りに座っていた。そこへ、謹厳な顔をしたベルサージャが入ってくる。ベルサージャは空いている椅子に腰を下ろすと、持って来た蝋燭立てに蝋燭を挿して火を点けた。
 ぱっと明るくなった室内で、ベルサージャの沈んだ顔だけが妙な感覚を生む。
「ヴァリストザード」
 不意にヴァリスの本名を呼んでから、ベルサージャは真面目な瞳をヴァリスの方へと向けた。
「おまえは、ティアのことをどう思っている?」
「え……」
 ティアのことはいつも「守るべき存在」だと思っているヴァリスだが、改めてそう問われると言葉はすぐには出ない。
「それは、勿論、『大切にしたい』、『守りたい』と思っている」
 それでも何とか、ヴァリスは自分の想いをベルサージャに言うことができた。
 だが。
「セターニアに、そう言われたからか?」
 ベルサージャの、ある意味意地悪な問いに、冷水を浴びせられたようになる。
「そうだ」
 だがしかし、ヴァリスはベルサージャの問いに首を縦に振った。セターニアは恩人である。恩人の頼みを聞かないのは、騎士道に反する。
「そうか」
 ヴァリスの答えに、ベルサージャは肯定とも否定ともつかない相槌をうつと、今度はジェイの方を向いて尋ねた。
「ジェイリストナール。おまえは、ティアのことをどう思っている?」
「……え、俺か?」
 ヴァリスと同じような戸惑った声を、ジェイも発する。
「うん、まあ、ティアは身体は弱いけど、頭良いし、他人の痛みも分かるし、武具のことも戦い方のコツも知っている、と思う。成長したらヴァリスより良い聖堂神官になるんじゃないかな?」
「良い回答だ」
 訥々としたジェイの答えに、ベルサージャは満足したように頷く。そして次に、ベルサージャはセティの方を向いた。
「セティリス。おまえは、ティアをアルトティスに連れて行くつもりなのか?」
「ティアが、アルリネット様が言っていた『紫の瞳を持つ者』なら、連れて行くわ」
 答えるセティの声には、迷いはなかった。
「それがアルリネット様の依頼だから」
「それから、後は」
「後?」
 ベルサージャの問いに、セティは首を傾げてから答えた。
「そうね。ティアは私のこと助けてくれたから、ティアが困っている時には手助けできればいいな、と、思い、ます」
「なるほど」
 ここで、ベルサージャは初めて微笑する。そしてベルサージャは、その瞳をハルの方へと向けた。
「俺も、ティアに助けられたクチだからな」
 ベルサージャが問いを発する前に、ハルはフンと鼻を鳴らす。
「ま、恩返し、っていうのか? それくらいならやっていい」
「素直ではないが、おまえも『紫の瞳の縁者』だ、ハルトクレア」
 ある意味無礼なハルの態度だが、それでも、ベルサージャの声はあくまで一定だった。
「その答えで、特に問題はないだろう」
 そこで、ベルサージャは一瞬、言葉を切る。かつて無い緊張感が、ヴァリスの背中を震わせた。ベルサージャは、何かを知っている。そしてそれを、ここにいる四人に話そうとしている。おそらく、ティアに関する重大な事を。
「心して、聴いて欲しい」
 テーブルの蝋燭の炎が、風もなく揺らめく。
「ルディテレスの罪を償うこと。それが、ティアの運命」
「ルディテレス、って、あの」
「千年前に世界を滅ぼそうとした『混沌の神』とその眷属を、たった一人で退治したっていう」
 ベルサージャの言葉に、ジェイとヴァリスが声を上げる。
 その二人を見てから、ベルサージャはくくっと嗤った。
「『混沌の神』ね。スーヴァルドも上手い事を言ったものだ」
「実際にルディテレスが『滅ぼした』のは、スーヴァルドに敵対する神々」
 ベルサージャの言葉を、ハルが継ぐ。
「そうだろう、ベルサージャ」
「よく知ってるね、ハル」
「母に、聞いた」
 ベルサージャの言葉にハルは短く答えると、蝋燭の光を避けるようにふいと横を向いた。そのハルを見やってから、ベルサージャが再び口を開く。
「おまえ達が『影』と呼んでいる存在、あれは、ルディテレスに殺された神々の怨恨から生まれたモノだ。そして、その神々の成れの果てを、スーヴァルドが集めて作ったのが、ティアの首に飛び込んだ『得体の知れない物』の正体」
「え……?」
「ちょっと待て」
 ジェイの当惑の横で、ヴァリスは思わず大声を上げた。
「じゃあ、この災厄は」
「勿論、スーヴァルドがやっていることだよ」
 ヴァリスの言葉に、ベルサージャが応える。
 あいつは只、自分だけ崇める人々が欲しいだけだ。辛辣な口調でベルサージャはそう、言った。
「嘘だ!」
「信じるも信じないも、自由だ」
 ヴァリスの叫びに、ベルサージャはただ静かに答えた。
「だが、ティアの運命だけは、知っておいて欲しい」
 ベルサージャの言葉はあくまで淡々として、そして無限の悲しみに満ちていた。
「ルディテレスが殺した神々を鎮め、その身に封じるのが、ティアリルの役目」
「それで、ティアは……どうなるんだ」
 だから。沈痛の思いで、ヴァリスは、尋ねる。
「その結果ティアがどうなるかまでは、私も知らない」
 ベルサージャの答えは、ヴァリスを激怒させるに十分だった。
「そんな!」
「だから私は、あんた達に覚悟を訊いた」
 再び、ヴァリスの叫びをベルサージャが封じる。
「生半可な覚悟の者に、ティアを預けるわけにはいかないからね」
 沈黙が、空間を支配する。
 ティアに課せられた過酷な運命に、皆心痛を感じていた。
「何人だ?」
 不意に、ジェイがベルサージャに尋ねる。
「その、スーヴァルドが作った『得体の知れないモノ』ってのは」
「四体。私たちは『四天王』と呼んでいる」
「じゃあ、あと三体だな」
 それさえ封じれば、ティアは自由になれる。ジェイの言葉が、ヴァリスの心に新たな目標を生んだ。
「運命は、自分で切り開くものだ」
 ヴァリスとティアの師匠、アレイサートは、事ある毎に二人にそう教えている。ティアはおそらく、自分の運命を甘受するだろう。ならば自分は、ティアの苦しみが軽減されるよう、ティアを守ろう。ヴァリスはそう、決心した。
 他の三人をそっと見回す。彼らも、ヴァリスとほぼ同意見であることが何となく伝わって、きた。
「良かった」
 ほっと、息を吐く。
 仲間は、多い方がいい。

 翌朝。
「お世話になりました」
 小さな家を出て、ベルサージャに挨拶をする。
 勿論、ティアも一緒だ。
 すっかり元気になったティアの左手首で、銀色の腕輪が光る。ベルサージャがティアに与えた物だ。触れた人間に、言葉を伝える為の魔法が、その腕輪には掛かっている。ティアに腕輪を渡す際、ベルサージャはこう言って、笑った。
 そして。
「これも」
 ベルサージャが、ティアに錦の細い袋を渡す。ティアが袋を開くと、金色の横笛が出てきた。この笛をティアが吹けば、ティアが『呪歌』を歌うのと同じ効果が現れる。これからのことの、助けになるだろう。そう言ってから、ベルサージャは更に付け加えた。
「これはあんたの母親の形見だ。ティア」
 昨夜とはうって変わったベルサージャの表情に、ヴァリスは正直戸惑っていた。ティアがヴァリス達と一緒に森の外へ戻ることを許してくれた、その現れだろう。ヴァリスはそう思うことにした。
 そして。ベルサージャは更に一言、付け加える。
「但し、貸すだけだよ。……必ず、返しにおいで」
 呟くようにそう言ったベルサージャに、ヴァリスはこれまでの蟠りを忘れ、思わず大声を、出した。
「大丈夫です、ベルサージャ。必ずここへ、ティアと一緒に帰って来ます!」

「結局、アルトティス行きの船は出ない、か」
 呟くジェイの声は、いくらかの苛立ちを帯びていた。
「おかしいわね」
 その声に応えたのは、セティ。
「急に巡礼も交易も止めるなんて」
「おかしくはないさ」
 そのセティの声に混じったのは、ハルの声。
「街で見ただろ。白服の奴ら」
 ハルの言葉に、その場にいた全員が頷いた。
 ヴァリス達は現在、アルトティス行きの定期船が出ている海沿いの商業都市ソーヴェの、城壁の外にいる。時刻は、まもなく夕方。本当ならば街中の宿屋で落ち着いている時間だ。だが。
「ごめんなさい」
「いいって」
 申し訳なさそうなセティに向かって、ジェイが手を振る。
「あんな奴らばっかりの街にいるくらいなら、野宿した方がマシだ」
 街中で船のことを尋ねたヴァリス達が出会ったのは、北の出身であることを示す白い修道服を身につけたスーヴァルドの神官達による理不尽な暴力。その所為で、セティを庇ったティアが大怪我をした上に、ヴァリス達は街から追い出された。そのティアは、ハルの回復魔法での治療を受けてからヴァリスの背中で安らかな寝息を立てている。
「でも結局、一番暴れてたのティアじゃないか? 短剣も抜いてたし」
「許せなかったんだろ」
 ジェイの言葉に、ヴァリスは素っ気なく言葉を返した。
「セティに、あんな侮辱の言葉を吐かれては」
 ヴァリス自身も、セティのことを「魔女だ」と罵ったことがある。その時はティアの諫言でやっと自分に非のあることが分かったが、同じ言葉を他の人が言うとその侮辱具合がよく分かる。
「しかし、どうする?」
 ハルの声に、はっと我に返る。
 白服の神官は、青色の袖無し上着の自分達ヴェクハールの神官とは違う、存在。同じ神を崇めてはいるが、北方の王国ノイトトースの厳しい自然よりも峻厳で狭い考えの持ち主達であるという噂だ。そんな彼らが大手を振って歩いている場所では、ヴァリス達に協力してくれる人を見つけることは不可能だろう。それよりは。
「ヴェクハールに戻るか?」
 ヴァリスは一番良いであろう案を、静かに呟いた。
 ソーヴェは、大河コトハの河口にある。コトハを遡るとヴェクハールだ。ヴェクハールには、聖堂に恩のある商人がたくさんいる。彼らの中から海上交易にも力を持っている者を探し出し、その船でコトハ又は大回りになるがリーニ河を下ってアルトティス島へ向かう。それが、ヴァリスが考えることができる最良の策。問題は、海上交易で力を持っている者が、いるかどうか、だろう。
 だが。ヴァリスのその言葉で、セティの顔が青ざめる。「夏が始まる日までに、戻れ」。それが、セティが受けたアルリネットの予言。今からヴェクハールまで戻っていたら、とうてい間に合わない。
「転移の魔法は、使えないぞ」
 ヴァリスの次の言葉を見抜いたように、ハルが大声を出す。
「一度行ったことのある所しか、行けないからな」
「……仕方無い、か」
 諦めたような声が、ヴァリスの横で響く。
「少し遠いが、知っているところがある。そこなら、泊めてくれるかもしれない」
 渋々といった感じで呟くと、ジェイはヴァリス達に海沿いの道を指し示した。

 少し急いだので、何とか暗くなる前にジェイが言っていた目的地に辿り着く。
 そこは。
「漁村?」
 ヴァリスの前を歩いていたセティが、首を傾げる。
 その前にいたジェイは、ヴァリスの膝の高さしかない粗末な柵で囲まれた村の、そのまた粗末な門を開けると、村の中では一番立派な家の扉を力強く叩いた。
「……誰だ?」
 すぐに、家の中の光が道路へと流れ出す。次にヴァリスが見たのは、ヴァリスよりも大柄な影が繰り出す拳固をジェイがまともに受けた瞬間だった。
「この親不孝者! 今までどこをほっつき歩いていた!」
 尻餅をついたジェイが、後ろのヴァリス達を黙って指差す。
 緊張した空気は一瞬にして溶けた。
「お、この不良息子のお友達か?」
 先程の拳固とはうって変わった明るい胴間声が、ヴァリス達を家の中へと誘う。
「汚いところだけど、入ってくれ」
 自分も疲れているが、ティアはもっと疲れている。そう思ったヴァリスは、招待を有り難く受けることにした。
 が、その前に。
「おい、ジェイ」
 左頬を押さえて立ち上がるジェイに、そっと尋ねるのを忘れない。ジェイの知り合いだから、信用はできると思うが、ティアの為に用心に越したことはない。
「この、家は?」
「俺の家」
 ジェイの答えは、ヴァリスを吃驚させるに十分だった。
〈ジェイの、家?〉
 ヴァリスの背中でいつの間にか目覚めていたティアの驚きが、ティアが身に着けている銀色の腕輪を通して伝わってきた。
「ああ」
 ジェイの出身が、ソーヴェ近くの漁村だということを、ヴァリスはこの時初めて知った。小さな村の生活に嫌気がさし、親にも行き先を告げず出て行ったことも。
「ジェイも、結構色々あるんだな」
 ハルの囁きに、ヴァリスは思わず頷いた。

 今まで嗅いだことのない匂いに、ふと目が覚める。
 ベッドの近くにある葦製の、閉じられた窓扉の向こうから、波音が響いていた。
 その窓扉をそっと押し開く。目の前に広がった空の青と海の青が、ティアを魅了した。
 そっと、眠っていた部屋の中を見回す。ティアの隣にはヴァリスが、その向こうにはジェイとハルが転がっている。疲れが出たのだろう、皆ぐっすりと眠っている。
〈少しくらい、大丈夫だよね〉
 ティアはそっとヴァリスの身体に自分か使っていたシーツを掛けると、爪先立ちで部屋を横切り、外へ続く扉を開けた。

 外の光景は、部屋で見たよりもすばらしかった。朝の名残の橙色。爽やかな空の青に雲の白。そして初めて見る海の、少し緑がかった青。
〈綺麗〉
 少し怖々と、寄せる波に指を浸す。少しだけ温かい冷たさに、ティアはにこっと笑った。
 こんな時は、歌が歌いたくなる。だが、自分は、……声を無くしてしまった。
〈あ、そうだ〉
 思い出して、腰の袋から笛を出す。母の形見だというその笛をもらってからずっと、暇さえあればティアはその笛が吹けるよう練習を積み重ねていた。
「うん、ティアに笛か。いい組み合わせだな」
 意外だったのは、ソセアルの森からソーヴェへ向かう前にヴェクハールに戻った時の、アレイサート師匠の言葉。言葉だけではない。師匠はティアに、笛の吹き方を丁寧に教えてくれたのみならず、曲を幾つか教えてくれた。いつも謹厳なアレイサート師匠に、笛の素養があったとは。ティアはとても驚き、そして師匠がますます好きになった。
 その師匠が教えてくれた曲の一つを、吹いてみる。波の音と笛の音が一緒に踊っているような気がして、ティアは楽しい気分になった。
 と、その時。
〈……え?〉
 突然、頭上から波が降ってくる。
 口の中に入ってきた塩辛さに、ティアは思わず噎せた。
 だが。驚くのはまだ早かった。いつの間にか、ティアは群青色の光景の中に、いた。
 これは、……もしかしなくても、海の中? でもどうして呼吸ができるのだろうか? ティアが首を傾げた、丁度その時。
「待っていたぞ、ルディテレス」
 太い声が、辺りの水を震わせる。顔を上げると、目の前に一つ目の大男が立っているのが見えた。
「あの」
 ソセアルの森でのベルサージャの説明を思い出す。ルディテレスの贖罪が、自分の運命だということも。
「僕は、ルディテレスでは……」
 声が出ることを不思議とも思わず、ティアは怪物に反論してみる。
「分かっている」
 ティアの言葉に一つ目の怪物はフンと笑うと、ティアをもう一度じろりと見回した。
「だが、笛の音は、一緒だ。……だから」
 ティアが持つ笛を指差して、怪物がいう。
「おまえには、罪を償ってもらわなければならない」
「はい」
 怪物の言葉に、ティアは素直に頷いた。自分の運命を受け入れることを、母と約束したから。それに。この怪物の口調にはすこし迷っているところがあるように感じる。その推測が、ティアを優しくさせた。
「……あー、我が名はサイモナート」
 怪物の方でも、ティアが素直であることに戸惑っているようだ。自分の名を名乗ってから、怪物はティアの名を問うた。
「ティア。ティアリル」
 その質問に、簡潔に答える。ティアの受け答えでくるくる変わる怪物の表情が面白すぎて、ティアは目の前に迫っている過酷な運命のことをしばし忘れた。
「あ、ティア。祖先の罪を償う為に、おまえにはしなければならないことがある」
 そんなティアの前で、真面目な顔に戻ったサイモナートが説明を始める。
「一つは、俺が良いというまでその笛を吹くこと。もう一つは……」
 不意に、サイモナートが言い澱む。おそらく、彼がティアにやらせようとする行為は、ティアには不利になること、なのだろう。それでも、構わない。心からそう、思う。ティア自身の運命を受け入れて、それでも強く生きて欲しい。それが、母の願いだった。
 だから。
「良いよ、言って」
 サイモナートの一つ目を見て、にっこりと笑う。サイモナートはしばらくティアをまじまじと見つめていたが、やがて意を決したように呟いた。
「ルディテレスが奪った俺の視力を、返して欲しい」
「良いよ」
 間髪入れず、答える。サイモナートはもう一度ティアをまじまじと見つめ、そして確かめるように口を開いた。
「本当に、良いのか? ……分かっているのか?」
「はい」
 こくりと、頷く。それで、ルディテレスの贖罪ができるのなら、問題は、無い。
「分かった」
 ありがとう。微かな震えが、ティアの耳に響く。
 次の瞬間。顔に走った激烈な痛みに、ティアは思わず呻いた。

 気がつくと、ティアは暗闇の中に立っていた。
 先程までの明るい群青色が、今は無い。そのことが、ティアの心を不安にした。
「大丈夫だ」
 不意に、ティアの背が温かいものに支えられる。サイモナートの腕だ。それが分かるのに暫く掛かってしまった。
「私はこれから、海に巣喰う『悪意』を取ってくる」
 サイモナートの温かい声が、耳に響く。
「それを封じるのも、ティア、おまえの役目だ」
「分かってます」
「じゃ、しばらくの間、ここで笛を吹いていてくれ」
 ティアの手の間に、サイモナートが笛を置いたのが分かる。その笛を、ティアはしっかりと握りしめてから、おもむろに口の方へ持って行った。
 吹き口と、指で押さえる穴の位置を確かめるのに、暫く掛かる。だが直ぐに、ティアの笛は優しいメロディを奏で始めた。
「それで良い」
 そう言ってから、サイモナートは水の渦を残し、ティアの前から去って行った。

「……ティア! どこ行った!」
 波間に大声が走る。だが、答える声は、どこからも聞こえてこない。
 ティアがいないと気付いたのは、ほんの少し前。玄関の内鍵が開いていたから、初めて見る海に感動して外に出たのだろうと、ヴァリスは軽く考えていたのだが。
「ティア!」
 もう一度、叫ぶ。
 村の中にも、海岸にも、この浜辺にも、どこにも居ない。
 後は。
「……まさか、海の中じゃ」
 不吉なジェイの言葉が、ヴァリスの焦燥を加速させる。ヴァリスはジャブジャブと海の中に入って行った。
「ちょっと待て、ヴァリス!」
 肩を掴まれ、振り返る。
「おまえ、泳げるのか?」
 同じく膝まで水に浸かったジェイが、ヴァリスを鋭い目で見つめていた。
「あ、いや」
 そっと、首を振る。
「親父に頼んだ。何とかしてくれる。ヴァリスが溺れたら、ティアが悲しむだろ?」
 ジェイの言葉に、ヴァリスは素直に頷いた。
 海のことは、ヴァリスには分からない。専門家に頼んだ方が良いことは、分かる。だが。ティアへの心配が、ヴァリスの足をその場に止めていた。
 と、その時。水に浸かったヴァリスの足に、何かが巻き付いた感覚が走る。次の瞬間。引っ張られる感覚に、ヴァリスはバランスを崩し、海の中へドボンと落ちた。
「ヴァリス!」
 横を見ると、ジェイがヴァリスと同じように浅い海にひっくり返っている。そのジェイが、深い方へと引きずり込まれているような気がして、ヴァリスは大慌てで顔を水から出し、ジェイの腕を掴んで引っ張り上げた。だが、引きずり込む力の方が強い。
「ヴァリス! ジェイ!」
 ティアを探していたハルの声が、遠くに響く。再び水の中へと引きずり込まれ、ヴァリスは強く噎せた。
 痛みをこらえ、水の中で目を開ける。いつの間にか、ヴァリスとジェイは自分の背よりも深い場所へと引きずり込まれているのが見えた。ヴァリスの足に、黒い紐のようなものが絡みついている。その紐を辿っていくと、本体と思われる黒い塊が、ずっと下の方へ見えた。あれは、……見たことがある。ヴァリスは直ぐにぴんと来た。ソセアルの森でも遭遇し、ベルサージャが言っていた『四天王』だ。
 足に絡みついた紐を切る為に、腰の剣を抜く。だが、水中だからか、それとも四天王の力が強すぎるからか、どうやっても紐が切れない。ジェイの足に絡みついた紐も、同様だ。おそらく、あの黒い塊を倒さない限り、この紐は解けないのだろう。悔しさが、胸に渦巻く。ソセアルの森の時と同じく、ティアがいれば、この状態から脱出できるのだろうが。
〈良かった〉
 ふと、そう思う。自分が溺れるよりも、ティアが溺れてしまう方が、辛い。
 と。
 ヴァリスの耳が、微かな笛の音を捉える。この、音は、まさか。
「これって、ティアが練習してた曲じゃないのか?」
 戸惑いを含んだジェイの声が、ヴァリスの疑念を確証に変える。まさか、この近くにティアがいるのか? こんな危ないものがいる、この場所に。確かめなければ。ヴァリスはそう思い、足に絡みつく紐を掴む手に力を込めた。
 次の瞬間。強い渦が、ヴァリスとジェイの間を通り抜ける。足から紐が消えたことに気付いたのは、それからずいぶん経ってからだった。
「あれは!」
 ジェイが指差す方向を見て、ぞっとする。黒い塊の横には、ヴァリスの三倍はあろうかという大男が立って、いた。その大男と黒い塊が、睨み合う。次の瞬間、大男は塊に掴みかかると、剣でも切れなかったその塊を真っ二つに引き裂いた。
「すげぇ!」
 ジェイの言葉に、素直に頷く。息を詰めて見つめるヴァリスの目の前で、大男は塊をめちゃくちゃに切り裂き、細かい塊にした。小さくなった黒い塊は、聞こえてくる笛の音に震え、更に小さな塊になっていく。ヴァリスの目の前で、小さな塊の一つがそのようにして、消えた。塊の消え方も、ソセアルの森で遭遇した敵と同じだ。と、すると。ある予感に囚われ、ヴァリスは大急ぎで辺りを見回した。……ティアを、探さなくては。ティアは運命を甘受すると言ったが、ヴァリスとしては、何を言われようとティアを苦しい目に会わせるわけにはいかない。
 と。
「もしかして、サイモナート?」
 ヴァリスの横で、大男を指差してジェイが歓声を上げる。サイモナートと呼ばれた大男は、既に握り拳ほどになった塊の残骸を拾い上げると、一蹴りでヴァリスとジェイの間に立った。
「久しぶりだな、ジェイ」
 大男の方も、ジェイを見知っているらしい。
「サイモナート。ここら辺を守っている海神さ」
 ジェイがそう囁いてくれたので、ヴァリスは大男に向かってこくりと頷いた。
「災難だったな、あれに捕まるとは」
 最近は昔ほど活発に動いてなかったから、海辺の村々に警告を出すのを忘れていた。悪かったな。海神サイモナートは快活そうにそう言うと、塊を持っていない方の手でジェイの頭をくしゃくしゃに撫でた。
 だが。
「ところで、サイモナート、ここら辺に銀髪の少年が溺れてなかったか?」
 ジェイの問いに、サイモナートの顔が一気に曇る。
「おまえ、……ティアを、知っているのか」
 更に出てきたサイモナートの言葉に、ヴァリスは相手の大きさを忘れ、サイモナートに飛びかかった。
「ティアは、ティアはどこに居るっ!」
「私が、預かっている」
 ヴァリスの激怒に対し、サイモナートはあくまで冷静だった。
「ここにいた悪意の塊を消し、海に平和を取り戻すのに、協力してもらっている」
「嘘だ!」
 ヴァリスから離れようとしたサイモナートに、更に肉薄する。気になるのは、サイモナートが持っている黒い塊。まさか、その塊を、ティアに? ソセアルの森での苦い思いが、ヴァリスを水の中とは思えないほど活発にさせた。
 だが、所詮は人間と神の差。
「済まない」
 この言葉を残し、サイモナートの姿はヴァリスの視界から消えた。
「待てっ!」
 ヴァリスの声は、サイモナートの起こした渦に掻き消される。
 次の瞬間、ヴァリスの身体は水面へと押し上げられていた。

「……待たせたな」
 水が動く気配に、はっと顔を上げる。
「もう、笛は良いぞ」
 海神サイモナートが帰ってきたのだ。
「おかげで、うまく片付いた。礼を言う」
「いえ」
 頭を下げる気配に、慌てて首を横に振る。これくらい、ティアには何ともないことだ。
「では、悪いがこれも、預かってくれ」
 今まで空っぽだった目の中に、何か異物が入るのを感じる。痛くないのは、サイモナートが気を遣ってくれているのだろう。少しの緊張に震えながら、ティアはそんなことを考えていた。
「では、浜辺へ戻ろうか。仲間達が心配しているぞ」
 サイモナートの言葉に、はっとする。ヴァリスかジェイかハルが、『悪意』に捕まっていたのだろうか?
「大丈夫だ」
 ティアの疑問に、サイモナートが答える。
「仲間達は皆、浜辺で待っている」
「はい」
 待っているのなら、帰らなくてはならない。
 ティアはにこりと笑うと、サイモナートが起こした強い波に身を任せた。

「大丈夫、かしら」
 心配に満ちたセティの声が、背後で響く。
「ヴァリスとジェイなら、大丈夫さ」
 海を見つめたまま、ハルはそう、吐き捨てた。
 そう、ヴァリスとジェイは大丈夫だ。波に攫われる直前に、水中で呼吸できる魔法を掛けたから。問題は、ティアだ。ティアには、そのような魔法は掛けてない。自分が何もできないほど、辛いことはない。じりじりとした感情が、ハルの心を支配していた。
 と。
 目の前の波が、大きく膨らむ。
「ハル!」
 セティが叫ぶ前に、ハルは後ろに飛び下がった。……慣れない砂に足を取られ、無様に尻餅をついてしまったが。
 被ってしまった海水を、首を振って髪から落とす。やっと見えるようになったハルの瞳が、捉えたのは。
「ジェイ! ヴァリス!」
 波打ち際で、二つの巨体が呻いている。だが、ティアは? 戸惑うハルの横で、もう一度波が膨らんだ。
 次の瞬間。波と共に、小柄な影がハルの両腕に落ちる。ティアだ。それが分かるより先に、ハルの身体はもう一度、砂浜に尻餅をついていた。
「ティア! ティア!」
 ぐったりとハルにもたれかかるティアの身体を、強く揺さぶる。すぐにティアは、目を開いた。
 だが。
「ティア?」
 開かれたティアの瞳の色に、戸惑う。紫水晶のような瞳は、しかし、全ての光を虚ろに弾いていた。
〈……ハル?〉
 ハルに触れていた左手が、悪戯に宙を泳ぐ。ティアのその仕草だけで、ハルは、ティアの視力が失われていることに気付いた。
〈そんな……〉
 運命は、確実にティアを蝕んでいる。
 ハルはそっと、ティアの冷たい身体を抱きしめた。

「また針路曲がってるぞっ!」
 ジェイの声が、波間に響く。
「ちゃんと漕げよ、ハル」
「はいっ?」
 名指しされたハルは、むくれた顔をジェイに向けた。
「俺はちゃんと漕いでるって!」
「力が無いから曲がるんだろうな。魔法使えよ、ハル」
 ハルの台詞に、疲れた声でヴァリスが割って入る。
 ヴァリスが茶々を入れるのを、初めて聞いた。三人のやりとりを聞きながらセティは微笑ましくなった。……実際は、微笑ましくなる状態ではなかったのだが。
 セティ達五人は、ジェイの父親から借りた手漕ぎ二挺ボートでアルトティス島を目指していた。普通なら帆船で行く距離なのだが、漁村で空いていたのはこのボートただ一つ。仕方無く、男三人で協力して漕いで……いるはずなのだが。二挺ボートは左右の力が合ってないと前に進まない。力も能力も違う三人が、上手く力を合わせるには、多少の時間とコツ、そして謙譲の心がいる。三人に欠けているのは、おそらく、心。
「こんなことに魔法使えるかっ!」
「こんなことだとっ!」
 案の定、ハルの言葉にジェイが切れる。
「ええい、もういい。変われ、ハル」
 ジェイは持っていた舵を離すと、ハルと場所を替わった。
「舵は持ってるだけでいい! 動かすなよ」
「はいはい」
 しかし漕ぎ手を変えても、船は真っ直ぐに進まない。舵を動かすのは、オールを動かすより難しいのだ。
「あーもう、ハル、動かすなっていっただろうが!」
「俺は動かしてない」
 ジェイとハルの怒鳴り声に、セティは正直呆れた。自分は乗せてもらっているだけなのだから、文句を言える立場ではないのだが。
 と。
〈あのね、セティ〉
 不意に、ティアの声が響く。ティアがベルサージャにもらった腕輪が、セティの膝の上で光っていた。
〈喧嘩する前にサイモナート様に頼んだ方が早いんじゃないかな、って思ったんだけど〉
「確かにね」
 セティの傍らで横になっているティアの髪を、優しく撫でる。
 ふと、海を見ると、ティアの言葉を聞いていたのか、海神サイモナートがボート近くの海面に顔を出しているのが見えた。
「ふん、あんな奴」
 ティアの言葉を魔力で聞いたのだろう、ハルが毒づく。おそらく、サイモナートが側にいることには気付いていない。
「ティアを苦しめた奴に頼むくらいなら、このまま舵を握っていた方が良いね」
「そうだな」
 ハルの言うことには大抵反対するヴァリスも、この言葉だけには頷いた。
「転覆させても、良いか?」
 少し苛つき気味のサイモナートの声が、ボート内に響く。その時になって初めてサイモナートに気付いた青年三人は一様に驚いた表情を見せた。
「ずっと、見てたのか?」
 ようやく、ジェイが言葉を紡ぐ。
「ああ。いつ転覆するか楽しみにしてたんだがな」
 サイモナートはあくまで涼しげにそう、答えた。
「趣味悪」
「何か言ったか、ハルとやら」
 サイモナートの声に、ハルはセティの方を向いてちょっとだけ舌を出した。

 サイモナートの力を借りてからは、船は順調に島へ近づいた。
「西側の港につけて」
 もう少しで島、という所で、セティはサイモナートにそう、頼んだ。勿論、表玄関である東側の港から島に上陸しても何の問題もない、とセティは思っている。だが、スーヴァルドの神官である堅物のヴァリスには、配慮があった方が良いだろう。

 誰にも何も知らせずに帰ったのに、港には出迎えの人物が立っていた。一人は、セティより少し年上の少女。そしてもう一人は、セティと同じ年格好の少年。
「ミーアディナ義姉様! グリザリス義兄様!」
 嬉しさに、思わず叫ぶ。ミーアとグリザリス。二人はセティの幼馴染み。小さい頃からずっと一緒に居た仲だ。
「セティ!」
 ボートから飛び降りたセティを、ミーアが優しく抱きしめた。
「良かった。無事で良かった」
「さあさあ」
 セティの母、アミカも、いつの間にかセティの側に来ていた。
「大切なお客さんでしょ。早く宿屋まで案内して差し上げなさい」

 二つの丘からなる島アルトティスでは、家も畑も全て、丘の斜面を削った段の上に立っている。だから、一つの家には一部屋か二部屋しかない。そんな島の家の一つ、アルリネット神殿に近い丘の上の一軒にセティはヴァリス達を案内した。その家も、平屋の二部屋。前の部屋にはベッドが一つとテーブル。奥の部屋には二段ベッドが二つ。しかしシンプルで清潔な部屋だ。ヴァリスはティアの為に喜んだ。
「皆さん、お疲れでしょう。狭い所ですが、気楽に寛いで下さいな」
 セティの母を名乗る女性が、テーブルの上に温かい飲み物を置く。気温は高めだが、海の上は風が強くて寒かった。だからヴァリスは喜んで、温かい飲み物の入ったカップを手にした。が。
「……何だ、これは?」
 中に入っていた、黒いどろりとした液体に、正直戦く。その液体の色は、これまで戦ってきた『四天王』や『影』の色を思い出させた。
「噂の正体その1」
 にこりとした顔で、セティが呟く。
「飲んでみたら」
「ん……」
 正直な所、美味しそうな匂いはするが、飲みたくはない。ヴァリスはカップをテーブルに戻した。
 と。
「……ティア!」
 ティアがカップに口をつけているのを見て、驚いて叫ぶ。だがティアは、カップの中身を器用に飲み干すと、にっこりと笑った。
「美味しいね、この飲み物。甘いし」
「ココの実、っていうんですよ」
 ティアの言葉に、セティの母親が口を挟む。
「これが、『酩酊状態になる特殊な薬』よ」
 その言葉を継いで、セティがにこりともしないで言った。
「ただ少しだけ元気になる飲み物、なんだけどね」
 島でしか採れないココの実は島の特産品で、粉末状にしたものは大陸の金持ちや貴族達に愛好されているという。
「だから、ソーヴェと頭の固い北の神官達が交易を止めた所で無駄ってわけ」
「だろうな」
 売れるものなら、たとえ危険でも交易を行う。そんな商人達は、ヴェクハールだけでもごまんといる。セティの言う通りだ。ヴァリスはこくりと頷き、もう一度カップを手に取った。
 目を瞑り、一気に飲み干す。少し苦いが、ほっとするような甘さが、ヴァリスの口の中に広がった。
「ちなみに、噂の正体その2が、この枝ね」
 家の前に茂っていた低木の枝を一本折ってきて、セティがテーブルに転がす。手に取ってみると、少し不快な香りがヴァリスの鼻を突いた。
 変わった匂いの為、悪霊を討ち払う力があると信じられているこの低木の名は、ジュアル。アルトティス島の至る所に生えているこの木から出る精油を精製すると、これも大陸の金持ちや貴族達に珍重される香水ができるらしい。
「じゃ、セティ、後はお願いね」
 飲み干したカップを片付けたセティの母が、エプロンを外す。
「私は大叔母達の面倒を見ないと行けないけど、ミーアが来るから」
「……えっと、この島の人々は、みんな親戚なのか?」
 母親が消えてからのハルの問いに、セティは軽く答えた。
「そう、呼ぶのが習慣なの」
「ところで、噂の正体その3は?」
 ジェイが、尋ねる。
 その問いに、セティは戸惑いの表情を浮かべた。
「……あれは、噂通りなの」
 島の正門となる東の港から神殿に続く道沿いには、幾つもの娼館がある。そこでは、アルリネットの教義通り、島の男女が巡礼客相手に春をひさいでいるという。
「『産めよ増やせよ』がアルリネット様の教義、だから」
 胸が悪くなってきたヴァリスの心情を、セティの言葉が更に重くする。
 否定しては、駄目だ。ヴァリスは何とか自分を押さえ込んだ。
「ふーん、噂通りか」
 対してジェイは、セティの言葉に嫌な笑みを浮かべている。
「一度行ってみた……じょ、冗談だってば!」
 そのジェイを、ヴァリスはきつく睨みつけた。

 昼間は明るかった島だが、夕方になると急に暗くなる。
「悪霊が、出るわね」
 夕食の鍋と共にやってきたセティの友人ミーアが、不吉な言葉を発する。彼女の言葉を信じるわけではないが、確かに、窓から見える空模様は変にどす黒くなっていた。
「子供の行方不明の次は、悪霊なのか?」
 皮肉な口調で、ハルが、ミーアに問う。
「違うわ」
 皮肉な口調には皮肉な口調とばかりに、ミーアは口の端を歪めて嗤った。
「子供の行方不明事件+悪霊出現、よ」
 ミーアがそう言うより早く。
 ドンという物音と共に、家が大きく揺れる。
「地、地震か?」
 驚くジェイの声より早く、ヴァリスはベッドに横になっていたティアを庇うように抱きしめた。
 と。
「……な」
 土壁の向こうから響く、風よりも低い唸り声に驚愕する。このような、人を恐怖に誘うような声は、聞いたことがない。
「悪霊よ」
 震える声で、ミーアがそう言うのが聞こえた。
「外を、徘徊してるの」
 唸り声も、家の震えも、止まる気配すらない。
「解決方法は?」
 ジェイの問いに、ミーアは首を横に振った。
「あなたたちが、解決してくれるんでしょ?」
 そうだった。その為に、ヴァリス達はここにいるのだ。
〈僕の笛で、消えるかもしれない〉
 吹いて良い? と言いたげな顔で、ティアが懐から笛を取り出す。回復要員のセティとハルがいるから、大丈夫だろう。ヴァリスはこくりと頷いてみせてから、ティアの視力が失われていることに気付き、小さな声で言った。
「吹いて、みたら?」
 にっこりと笑ったティアが、横笛を口に当てる。静かだが明るい音色が、部屋いっぱいに響いた。その音を聞きながら、外の物音にも耳を澄ませる。唸り声は段々と小さくなり、家の揺れも収まった。
「凄い!」
 夕食を用意するセティの横で、ミーアが大声を上げる。
「これなら、島の怪奇も全て解決するわね」
「ええ」
 ミーアの言葉に、セティは静かに答えた。おそらく、事件解決後に起こるティアの苦しみを予測してのことだろう。ヴァリス自身も、ティアの今後に深く心を痛めていた。声、そして視力。今度の四天王は、ティアの何を奪うのだろうか? ヴァリスがそんな思索にふけっていた、正にその時。
「セティ!」
 不意に、床の一部が持ち上がる。
「うわっ!」
 どうやら、床の一部が地下へ繋がる上げ蓋になっていたらしい。近くにいたジェイが吃驚すると同時に、開いた床の間から男の顔が現れた。港に迎えに来ていた、セティの友人だと、ヴァリスはすぐに、気付いた。
「グリザリス!」
 セティが、叫ぶ。
「どうしたの?」
「大変なんだ」
 グリザリスは真っ青な顔でそう言うと、ヴァリス達の方を見た。
「到着してすぐ悪いんだけど、力を貸して欲しい。神殿内で子供が行方不明になったんだ」
 アルトティス島のもう一つの丘全部が、アルリネットの神殿。その神殿の奥はほぼ迷宮になっており、地元の人でも迷うと出られなくなるという。
「しかも神殿内に悪霊が入っていったのを見た人がいるんだ!」
「神殿内に?」
 実は、現在のアルリネット神の力は、余り強くない。千年前にスーヴァルド神が起こした自分勝手な戦いで力を使い果たしたからだと、前にヴァリスはセティとベルサージャから説明を受けている。だから、神殿内に悪霊が入り込むのはある意味仕方無いのだろう。しかし、そこに子供がいるとなると。
「探さないと、まずいな」
 ジェイが、ぼそっと呟く。その点に関しては、ヴァリスの意見もジェイと同じだった。だが。……ティアを、どうするか。ティアは、「行く」と言うだろう。だが、視力を失っているティアは、子供を捜すには足手纏いになる。だが、悪霊を追い出すことのできるティアの笛の力は、必要だ。いや、その前に、身体の弱いティアをこれ以上働かせるわけにはいかない。
〈ヴァリス〉
 ティアの左手が、ヴァリスの右手に重なる。
〈僕はここで笛を吹く。ヴァリス達は、神殿で子供を捜して〉
 ティアの言葉に、正直ほっとする。この案は、良いかもしれない。ジェイ達に伝えると一も二もなく賛成してくれた。
 問題が、有るとすると。
「ミーア義姉様も、回復魔法が使えるわ」
 セティが、にこっと笑う。
「島のどの家にも最低限の悪霊退治魔法は掛けられているから、大丈夫よ」
「子供を見つけたら、すぐに帰るぜ」
 ジェイの言葉にヴァリスはこくりと頷くと、剣を手にしてグリザリスの後から地下への階段を下りた。

 地下道を少し行くと、壁の色が変わる。
「ここからが、神殿です」
 グリザリスの声が、壁に反射してもわっと響いた。
 彼によると、島の家々は全て、地下道で神殿と繋がっているらしい。敵対者が島を襲うといった有事の際の用心でしょう。グリザリスはそう言って、ヴァリス達に更に奥へ来るよう促した。
「他の人達も探してるはずです」
「しかし、どうやって探すんだ? 俺たちは神殿内を知らないぜ」
 ハルの質問に、グリザリスは頷いて答えた。
「私が主道を道案内します。皆さんは隙間や側道を探して下さい」
 神殿の入り口に置いてあった蝋燭立てを、グリザリスが一人一人に手渡す。その蝋燭立てには、太く長い蝋燭が挿してあった。
 グリザリス、ヴァリス、ジェイ、ハルの順に、神殿内を歩く。主道は明るかったが、そこから伸びる側道は暗く、そして隙間を含めたら幾つもある。それを一つ一つ蝋燭を手に覗き、子供を探すのだから、結構骨の折れる仕事だった。
 どれくらい、進んだだろう。
「……おや?」
 ふと、後ろを見る。ジェイは居たが、ハルの姿が見あたらない。
「どこかに、置いて来たか?」
 蝋燭を翳して、ジェイも来た道を見つめる。まあ、あのハルのことだから、迷子になっても自分で何とかするさ。そう言いながら、ジェイはヴァリスの方へ一歩踏み出した。
「……あれ?」
 動揺したジェイが、ヴァリスの方を見る。ヴァリスとジェイの距離は、ほんの二、三歩。だが、ジェイが何歩歩こうが止まっているヴァリスに追いつくことができない。何があった? 小首を傾げつつ、ヴァリスはジェイの方へ一歩踏み出した。次の瞬間。ジェイの姿が、斜めになって遠ざかる。気がつくと、ヴァリスは暗闇の中に一人立っていた。周りは、暗い色を見せる石の壁。ここまで道案内してくれたグリザリスも、いない。
「ジェイ! グリザリス!」
 ありったけの声で、叫ぶ。
「済まない」
 微かなグリザリスの声が、ヴァリスの耳を打った。
「でも、ミーアの、頼みだから」
 ミーア、の? 不吉な予想が、ヴァリスの全身を凍らせる。まさか、グリザリスは、ヴァリス達をティアから遠ざける為に神殿を案内したのではないだろうか。
「くそっ!」
 騙された。苦い思いが、胸に広がる。だがすぐに、ヴァリスは手近な壁を剣の柄で叩いた。ティアを助ける為には、この壁を壊し、自力で脱出する他無い。だが、壁も中々頑丈なようだ。叩いても叩いても壊れる気配すら見せない。それでも、ヴァリスは一生懸命壁を叩き続けた。
「力技か。芸のない」
 不意に、嘲るような声が、ヴァリスの耳を打つ。
「うるさいっ! 誰だっ!」
 苛立ちそのままに、ヴァリスは声のした方に向かって剣を振った。その剣の先が、光る。みるみるうちに、その光は人間の女の形を取った。
「あ……」
 突然目の前に現れた女を、剣を構えたまままじまじと見つめる。銀色の髪に、紫水晶の瞳。そして男性とも女性ともつかない顔立ち。ティアに、そっくりだ。ヴァリスはそう、感じた。
「我が名はアルリネット」
 剣を構えたままのヴァリスに、女はにっと笑う。
「世界の母であり、ルディテレスの母である存在」
 ルディテレスの母なら、ソセアルの、ティアの直接の先祖だ。似ていることに納得する。
 そんなヴァリスを、アルリネットはまじまじと見つめた。
「うん、まあ、ギリギリ合格点だな」
 そして、ある意味失礼な言葉を、ヴァリスに向かって吐く。アルリネットのその台詞に一度は怒りを覚えたヴァリスだが、アルリネットの次の言葉にはっとして剣を下ろした。
「ティアリルを、守るには」
 そうかもしれない。こんな単純な罠に騙されてしまうような自分は、まだまだ未熟だ。
「反省は、できるのか。……なら、問題はない」
 俯いたヴァリスに、アルリネットはそう、声を掛けた。
「ティアリルには、見所がある。守ってやってくれ。……世界を、混沌へと戻さない為に」
 それだけいうと、アルリネットはふっと、ヴァリスの前から姿を消した。

 気がつくと、ヴァリスは幅の広い道の真ん中に立っていた。
 暗いが、壁の感じからすると、まだ神殿内にいるらしい。
 どちらから来たか分からないが、とりあえず、この道を行けば外に出られるだろう。そう確信したヴァリスは、小さくなった蝋燭を手に走り出した。

 同じ頃。
「……どうなっているんだ?」
 冷たい地面に尻餅をついたまま、ジェイはうーんと首を捻っていた。確か、ヴァリスの方へ向かっていただけなのに、一瞬だけ平衡感覚を失ったらこの態だ。
 光一つ差さない空間に、腕を伸ばす。前に伸ばしても後ろに伸ばしてもすぐに、ジェイの腕は固い壁に当たった。どうやら、狭い空間に落ち込んでしまったようだ。
 どう、するか。もう一度腕組みをしたジェイの鼻が、ふと、知っている匂いを嗅いだ。これは、……海の、匂い。でもどこから? 鼻と手を使って、ジェイは風を感じる方向を探した。……有った。右手の人差し指が、僅かな隙間を感じる。その隙間に指をかけると、壁は難なく開き、下り階段がジェイの足下に現れた。
 洞窟のような細い空間の向こうから、潮騒が響く。この階段を下りて、海神サイモナートを呼べば、元の場所へ帰れる。ジェイはほっと息を吐いた。

 一方。
〈……えーっと〉
 ヴァリス達より一足先にグリザリスの陥穽に嵌ったハルは、先程から思考と試行を繰り返していた。
〈……えーっと、こう動いて、ここに閉じ込められたんだから〉
 これまでの自分の行動を思い出して、その真逆を行う。結果から逆に辿っていけば原因に行き着く。その手法の応用だ。
 と。
 蝋燭の光に映った、神殿の壁に、しばし見入る。この、壁画は……。まさか。しかし今は壁画の意味を考えているときではない。ここを脱出せねば。
 嫌な、予感がする。
「あ、また間違えた」
 何度かの失敗の後、ハルは何とか神殿の外へ出ることができた。
 ぐるりと、辺りを見回す。暗い空間には、グリザリスの姿はもちろん、ヴァリスの姿もジェイの姿もない。
「完璧に、置いて行かれたな」
 このままここでぼうっとしていても仕方が無い。ティアの所に、戻るか。
 ローブの裾が持ち上がってしまうほどの強い風の中、ハルはふらふらとこちらだと思った道を進んで行った。

 凄い風だ。
 ベッドに横たわり、雨戸を揺らす風の音を聞きながら、ティアは確かめるように掴んでいた笛を手の中で動かしていた。
 もう、低い唸り声も家を揺らす音も、聞こえない。怪異は去ったのだろう。そう、ティアには感じられた。
「もう、眠ったら、ティア」
 だが、笛を吹き過ぎてふらふらになったティアを案じるセティの言葉通りベッドに横になっても、ティアは中々寝付けなかった。ヴァリスとジェイとハルは大丈夫だろうか。それだけが心配で落ち着かない。やはり足手纏いになることを考えずに、無理を言って付いて行けば良かったかな。ティアがそこまで考えた、丁度その時。
「その笛、ちょっと貸して」
 ミーアの声とともに、手の中に有った笛がなくなる。
〈え……?〉
 次にティアが聞いたのは、何かがポキンと折れる音と、それが床に落ちる音。
「ミーア義姉様!」
 そして、セティの叫び。
「その笛、は……」
 セティの非難の声は、途中で終わる。何? 何が、起こったの? 確かめる為に、ティアはベッドから飛び起きた。
 全身を、耳にする。そして呻き声が聞こえた方向に、ティアは短剣を鞘ごと投げつけた。
「邪魔するんじゃないよ!」
 低い女の声と共に、何かがティアに飛びかかる。全身を床に叩きつけられ、ティアは思わず呻いた。
「あんたはそこで倒れてな」
 細い腕が、ティアを再び床に押さえつける。これは、まさか、……ミーアの声?
「先にセティを片付けるから」
 でも、この憎悪に満ちた声は、何?
「ティア、笛!」
 戸惑うティアの耳を、セティの声が打つ。
「あなたのすぐ足下にあるから! それを吹い……」
 ぷつんと途切れたセティの声に慌てる前に、ティアは床から起き上がり、手探りして笛を探した。有った。でも、半分に折れている。これで吹けるか? ティアは一瞬躊躇ったが、すぐに吹き口に向かって強く息を吐いた。
 耳を劈くような不協和音が、空間を震わせる。
 次の瞬間。
「う……」
 三度、身体を床に押しつけられる。折れた笛がティアの手から離れ、床を転がったのが、音で分かった。
「邪魔をするな!」
 低い声とともに、ティアの首に細い指が絡みつく。その指の冷たさを感じると同時に、息苦しさでティアの意識は一瞬にして遠くなった。
 と、その時。
「ティア!」
 ハルの声と共に、首に絡みつく冷たさが消える。
 次に聞こえたのは、苛立つハルの声。
「やはりこいつが元凶か」
 本当は、ティアも初めから感じていた。だが、セティの友人だったから、疑えなかった。彼女の中に、『四天王』がいることを。
「くそ、同化してやがる。これでは……」
 ハルが魔法を使おうとしたのを、感じる。
「ミーア義姉様を殺さないで、ハル!」
 だがセティの言葉に、ハルの魔法力はすぐに小さくなった。
 そうだ、笛! 再び手探りで、笛を探す。見つけるとすぐに、ティアは床に突っ伏したまま息が切れるまでその笛に息を吹き込んだ。
「うわわわわわわわわわっ!」
 ミーアの低い叫び声が、ティアの心を引き裂く。それでもティアは、笛を吹くことを止めなかった。
 と。ティアの横を、何かが横切る。無意識のうちに、ティアは右手を伸ばし、その何かを掴んだ。次の瞬間。痛みとは違う、不快で激しい感覚がティアの全身を襲った。
「ティア、それを放せ!」
 ハルが、叫ぶ。それでも、ティアはその物体を右手から離さなかった。……ティアの右手の中にある、この物体が、ティアがその身に封じるべきモノだと分かったから。

 何とか神殿を脱出したヴァリスと海から彼に合流したジェイが、戻ってきた宿舎で見たのは、壊れたテーブルと椅子、そして部屋のあちこちに倒れている四人の人間。
「ティア!」
 部屋の惨状を見るや否や、ヴァリスはティアに駆け寄り、ぐったりしたその身体を助け起こした。
「大丈夫か! ティア!」
 青白いティアの頬を、気付け程度に強く叩く。すぐに、ティアはその紫色の瞳をゆっくりと、開いた。
〈うん、大丈夫。……多分〉
 ティアの左腕を通して、案外しっかりした言葉が伝わってくる。良かった。右腕の色が変だが、それ以外は大丈夫だ。ヴァリスは心底ほっとした。
〈セティとハルと、ジェイとミーアは?〉
 ティアの言葉に、辺りを見回す。ジェイがセティを助け起こしているのが見える。ハルは魔法を使い過ぎたのか青白い顔で床にへたり込んでいる。三人とも、命に別状はない。問題は。
「ミーア!」
 少しだけ明るくなった外から、グリザリスが部屋に入ってくる。そしてグリザリスは、壁に凭れて座るように倒れているミーアの身体をそっと抱き寄せた。
 ミーアの身体に生気がないことは、見るだけで分かる。
 そのことをティアに伝えようかと、ヴァリスは一瞬、迷った。

 目を開けると、水の向こうに見知った影が見えた。
 あれは、確か、……サイモナート? でも、なぜこんなところに? 思わず、小首を傾げる。そして。……なぜ、自分は、サイモナートと戦って、いる?
「目を覚ませ! ルディテレス!」
 必死なサイモナートの声が水の振動と共にティアを襲う。
「スーヴァルドに、あんな奴に騙されてどうする!」
 サイモナートの声に、微かな良心の痛みを覚える。だがティアは、いやルディテレスは、その思いを振り切るかのようにサイモナートに向かって右手の短剣を振った。
 眼と額を押さえながら、サイモナートの巨体が海の底に沈んでいく。
 その光景を、ルディテレスは痛みとともに見つめていた。

 父でもある、天空神スーヴァルド。彼の命令で、ルディテレスは世界の神々を殺して回っている。その神々は全て――スーヴァルドも含め――大地母神アルリネットがこの世界とともに産みだした者。そのアルリネットの影響を退け、自分が世界の全てを支配する為に、スーヴァルドはルディテレスに、服従しない神々の討伐を命じた。
 この世界の混沌を、秩序へと導く為。スーヴァルドのこの言葉に、ルディテレスは偽善と虚構を感じる。
 それでも、構わない。母と息子が交わってできた、汚れたこの自分が、必要とされているのなら。
 自身の母、アルリネットをその手に掛けた時も、ルディテレスはそう思っていた。
 だが。……神々を殺す度に生じる、この痛みは、一体、何?

「これを、飲みませんか?」
 不意に、水の入った小さな器が差し出される。
 いつの間にか、ルディテレスは大木の下に座っていた。
 差し出された方に、顔を上げる。そこにいたのは、黒紫色の髪を緩く束ねた、細身の少女。飲んでも、害は無いだろう。何となく、そう思う。害があろうとも、自分には関係のないことだ。父スーヴァルドの命令を聞くことに、ルディテレスはようやく疲れていた。
 器を受け取り、口を近づける。甘い香りが、ルディテレスの身体を弛緩させた。
 次の瞬間。ルディテレスは地面に倒れている自分を見つけていた。
「父の、敵!」
 水をくれた娘が、ルディテレスの身体に馬乗りになり、短刀を構える。
「やっと、討てる」
 その声と、短刀を持った手が震えている。その姿を見て、やっと、彼女の正体を思い出した。彼女は、……自分か殺した、この森の神ソセアルの娘。ソセアルを騙して殺す為に、自分はこの娘に取り入った。笛の音と、優しい歌声で。
 悔悟と諦念が、心に渦巻く。ルディテレスは右手を伸ばし、娘の震える手をそっと掴むと、短刀を握ったその手を自分の胸へと引き寄せた。
 少女が持つには太すぎる短刀の切っ先が、胸に切なく触れる。この娘を、愛していた。だが、今では、全てが遅すぎる。
「体重を掛けて短刀を押せば、仇が討てる」
 顔を歪めた娘に、静かに呟く。
 だが。
 次にルディテレスが感じたのは、胸に広がる温かい涙、だった。

 暗い空間に、仄白い明かりか幾つも見える。生気の無い光に囲まれた空間にいるのは、ルディテレスと、……白いローブを身に纏った天空神スーヴァルド。躊躇うことなく、ルディテレスは腰の短剣を引き抜くと一歩踏み出し、その白い服に鈍い刃を突き立てた。
「なっ!」
 完全に隙を突かれたスーヴァルドの口から、呻き声とともに大量の血が迸る。
「おまえは、……父も殺そうとするのか」
「母を殺させたのは、あなただ」
 スーヴァルドの言葉に、ルディテレスはこれまでにない口調で反論した。
「確かに、命令したのは私だ」
 ルディテレスの言葉に、スーヴァルドが薄く笑う。
「だが、実行したのはおまえだ、ルディテレス。罪は、おまえにもある」
「分かっている」
 玉座に蹲るスーヴァルドの身体を一瞥してから、ルディテレスは血に濡れた短剣を静かに、見つめた。この刃で、これまで何柱の神々を殺したのか。数えることもできない。ルディテレスの持つ、この短剣には、神々を封じる『力』がある。その力で以て、ルディテレスはスーヴァルドに敵対する神々を滅ぼしてきた。しかし、……これで終わりだ。
 ルディテレスは躊躇いなく、短剣の切っ先を自分の喉に突き立てた。

「……ティア、ティア!」
 強い振動が、ティアの意識を目覚めさせる。
 この、獣脂蝋燭の匂いは、……ヴァリスだ。
 視力を失って初めて、人の匂いが全て違うことにティアは気付いた。ジェイは潮の匂い、セティはすっきりした薄荷のような匂い、そしてハルは本と氷の匂いがする。匂いを使った人の見分けを、ティアは結構楽しんでいた。
 それはともかく。
「大丈夫か、ティア」
 強い声に、こくりと頷く。
 ヴァリスが心配性なのは今に始まったことではないが、最近その傾向が強まったように思える。勿論、その理由はティアにあることは、ティア自身しっかりと理解していた。
 気持ちは、嬉しい。だが、ヴァリスを、ジェイやハルやセティを、過度に心配させてはいけない。だからティアは、夢のことなど無かったかのように微笑した。

 同じ頃、ハルはアルリネットの神殿に居た。
〈……やっぱりな〉
 閉じ込められた場所で見つけた壁画を、昼の光でもう一度まじまじと見つめ、大きな溜息をつく。
〈母者の、言う通り、か〉
 壁画に描かれていたのは、アルリネット神が全ての神々を産み落とす姿と、その神々をスーヴァルドが支配しようとする様。ルディテレスの神殺しも、ありありと描かれている。勿論、ここはアルリネットの神殿だ。崇める神に不利なことは描かれていないだろう。だが、何となく、ハルはここに描かれていることが正しいと感じていた。
 これをヴァリスに見せたらどう言うだろうか。ふと、そんなことを考える。おそらく、狭量なヴァリスは全力で否定するだろう。ま、ジェイやティアにも見せたところでどうにもならない。当面は自分の胸に仕舞っておこう。ハルは一人頷くと、問題の壁画からそっと、離れた。

 歩き慣れた島の坂道を、えいこらせと登っていく。
 そのセティの両腕は、大小の紙袋で一杯だった。
「これ、ティアに食べさせて。力がつくから」
 そんな言葉とともに、島のあちこちで渡された袋だ。中身は多分、ココの実、傷に良く効く薬、甘いお菓子や精のつく食べ物だろう。全て、島の人々の感謝の印だ。
 ティアが、ミーアに取り憑いていた四天王の一人をその身に封印してから早三日。行方不明になっていた子供達は全て、消えた場所で発見されていた。
「え、ボク、ずっとここにいたよ」
 大人達の問いに、子供達は声を揃えてそう言った。そして、季節がいつの間にか夏になっていることを不思議がっている。子供達の混乱が収まるには少し時間が掛かりそうだ。薬を煎じてくれた小母はそう、セティに言った。しかし子供が戻ってきて、島が元に戻ったのは嬉しい、とも。
〈……違う〉
 「元に戻った」。大人達がそう言う度に、セティの心に冷たい風が舞う。一番仲の良かった義姉ミーアは亡くなったし、義兄グリザリスにはあの夜以来逢っていない。二人のことが、セティの心に風穴を開けていた。ミーアは子供達を隠し、悪霊を呼び出して島を困惑させ、ティアを殺そうとした。グリザリスはミーアのことを黙っていて、セティやヴァリス達を騙した。それは、分かっている。だが、三人で仲良くしていた頃の思い出が、セティを捉えて離さない。
 ティアも、傷を負った。逃げだそうとした『四天王』を封じたティアの右腕は、肘より先が全く動かなくなってしまっている。ティアはもう、自分の得物である短剣を使うことができない。ティアの母の形見であった笛も、ミーアが壊してしまった。ティアの悲しみを想い、セティの心は強く痛んだ。
「みんなが幸せになるって、難しいわね」
 そっと、溜息をつく。
「そんなことないさ」
 そんなセティの背後から、ジェイの声が快く響いた。
「『難しい』で終わらせなければね」
「うん」
 ジェイの言葉に、少しだけ頷く。そう、悲しんでばかりいるわけにはいかない。前に進まなければ。
「ところで、ヴァリスとハルは?」
 セティが腕一杯に抱えた荷物を自分の腕に移しながら、ジェイがセティに尋ねる。その声の緊張感に、セティはようやく気付いた。
「ヴァリスは、ティアと一緒。ハルは神殿に行くって言ってたけど」
 戸惑う声で、そう、言う。セティの言葉に、ジェイは少し考えるように視線を宙に動かすと、セティに視線を戻して言った。
「荷物は預かるから、ハルを呼んできてくれ」
「分かったわ」
 何か、あった。セティはそう、判断すると、神殿に向かって一目散に駆けて行った。

 神殿からハルを連れて戻ると、ジェイの横にヴァリスの苛立った顔があった。
 ティアは、眠っている。
「ハルが来たぞ。早く話せ」
 いつも通りに傲慢なヴァリスの声が、セティを少しだけほっとさせる。ヴァリスが自分を取り戻しつつあるということは、ティアが回復している証拠。
「うん」
 ハルとセティが椅子に座ってから、ジェイは言い澱むように首を横に振ってから、口を開いた。
「ノイトトース王国が、カートリア同盟に戦争を仕掛けたらしい」
「えっ!」
「何っ!」
 ハルとヴァリスが、同時に椅子から立ち上がる。
「それは、本当か?」
「ああ。サイモナートがさっき知らせてくれた」
 ハルの問いに、ジェイが答える。海神サイモナートの知らせだから、事実なのだろう。ハルはうーんと唸ると再び椅子に沈み込んだ。ハルは北の出身だと、聞いたことがある。祖国の蛮行に腹を立てているのだろう。セティはそう、思った。
「で、同盟の方はどうなっている?」
「今のところは、王国軍が優勢だそうだ」
「……そうか」
 ヴァリスは騎士だから、本来なら現在第一戦で王国軍と戦っていなければならない。しかし実際には、ヴァリスは戦闘には遠過ぎる場所にいる。溜息から忸怩たる思いが伝わって来、セティは思わず身震いした。
「今回、王国軍はかなりの軍勢を展開しているらしい」
 ジェイの声が、不気味な静けさをもたらす。
「下手をすると、ソーヴェやヴェクハールも北の軍に……」
「それは悲観しすぎだよ、ジェイ」
 大柄な影に、はっとして振り返る。丁度部屋に入ってきた、その影は。
「ベルサージャ!」
 思わず叫ぶ。
「おや、久しぶりだねぇ、セティ」
 ベルサージャは大柄な身体を震わせるようにしてセティに笑顔を見せると、真顔でジェイとヴァリスの方を向いた。
「戦闘はもう終わってるよ。王国軍も撤退した」
「本当か!」
 ベルサージャの声に真っ先に反応したのは、ハル。
「ああ。流石だね、ヴェクハールの聖堂騎士は」
「あ……」
 その報告に顔を赤らめたのは、ヴァリスだった。
 ノイトトース王国が境界線であるルージャ河を渡り、カートリア同盟に侵攻してすぐ、ヴェクハールの聖堂騎士団は隊列を整えて北へ向かい、国境近くの町センテの郊外で行われた熾烈な戦いの末、王国軍を撤退にまで追い込んだ。
 ベルサージャの話に、ほっとする。ノイトトース王国がカートリア同盟を支配下に置けば、次はアルトティス島を支配下に置こうとするだろう。スーヴァルド信仰を強要する王国に支配されればどうなるか。火を見るよりも明らか。
 だが。
「ヴァリス、アレイサートが逢いたがってる」
 ベルサージャの沈んだ声が、不吉な予感を呼び起こす。
「アレイサートは、死にかかっている」
「何だって!」
 ヴァリスの声は、悲痛な響きを帯びていた。
「まさか、戦闘で怪我を……」
「そうだ」
 瀕死の重傷を負ったアレイサートは今、センテの町で死の床についている。彼の心の叫びを聞いたベルサージャは森を出、アレイサートに逢って「ヴァリスを連れてきて欲しい」という、殆ど無理な彼の願いを引き受けた。
「紫の瞳の、縁者の頼みだからね」
 分かったと頷き、ヴァリスが立ち上がる。だがすぐに、視線をティアの方へと移し、首を横に振った。
「ティアを、置いていけない」
〈行って、ヴァリス〉
 細い声が、セティの心に響く。横を向くと、魔法の掛かった銀色の腕輪がセティの右腕に触れていた。横を向いたときに見た、ティアの真剣な顔が、セティの心を清冽な思いで満たす。……ティアは、勁い。
〈僕は、大丈夫だから〉
 ティアの言葉を、皆に伝える。
「仕方無いな」
 不意にハルが、ヴァリスの腕を取った。
「俺が付いて行く」
「俺が、ティアとセティを守る」
 ヴァリスとハルの横で、ジェイがどんと自分の胸を、叩いた。

「これは……」
 すっかり変わってしまった光景に、驚く。
 カートリア同盟とノイトトース王国の国境であるルージャ河、その河の南側にあった、大地の肥沃さを示す麦畑が全て消えてしまっている。
「ノイトトース王国がやったのか?」
 ハルの問いに、ベルサージャが首を縦に振る。
「ああ」
 刈り取りを控えた麦畑は、視界を遮る。だから戦端を開くより先に全て燃やしてしまったらしい。農家の無念はどれほどのものだろう。ヴァリスは難しい顔で唸った。
 そして。
 センテの町は、全て燃えてしまった大地の中に、奇跡のように残っていた。
「あそこに、アレイサートがいる」
 街の真ん中にある教会の横の建物を指差して、ベルサージャが言う。
「行っておやり」
 ヴァリスはベルサージャにこくりと頷くと、建物の玄関を守る騎士達の方へと向かった。
 アレイサートが自分に告白したいこととは何だろう? 不安が、疼く。幸い、玄関にいた騎士はヴァリスの知り合いだったので、ヴァリスはすぐにアレイサートの病室へ行くことができた。
 個室のベッドに横たわる師匠の顔に、一瞬、戦く。土気色の顔、落ち窪んだ眼。死期にある者特有の雰囲気が、アレイサートを包んでいた。
「師匠」
 悲しみで、胸が詰まる。それでも何とか、ヴァリスはベッドの傍らに跪き、アレイサートの耳に囁いた。
「ヴァリス、来たか」
 枯れた声が、耳を打つ。その声も、いつものアレイサートの声とは全く違っていた。
「しばらく、二人だけにして欲しい」
 アレイサートの言葉に、付き添っていた騎士達が皆、部屋から出る。二人きりになった部屋に、奇妙な緊張感が漂うのが、ヴァリスには重く感じられた。
 と。
「心して、聞いて欲しい」
 聞き取れないほどの細い声が、ヴァリスの耳を凍らせる。次に聞こえてきた言葉に、ヴァリスは耳を疑った。
「ティアは、……ティアリルは、私の息子だ」
「え……」
 ぽかんと、口を開く。師匠は、アレイサートは、何を言っているのだろう。
「信じられないかもしれないが、事実だ。私は、神官騎士としての戒律を、破った」
 続いている言葉が、全く耳に入らない。
「……だが」
 動揺するヴァリスの傍らで、アレイサートは大きく喘いでから。吐くように一息で、言った。
「私は、セターニアを心から愛していた。だから、後悔はしていない」
 アレイサートの告白がヴァリスの心に引き起こしたのは、嫌悪と切なさ。謹厳なアレイサートが禁を犯していたことが衝撃だったし、その相手がセターニアだったことにも衝撃を受けていた。
 だが。
「ティアを、頼む」
 セターニアと同じ願いに、こくりと頷く。
 アレイサートのことは尊敬しているし、ヴァリスをここまで育ててくれた恩人でもある。恩人の頼みを聞くのが、騎士の務め。

 その晩、アレイサートはその生涯を閉じた。
 そして翌朝、アレイサートの亡骸はセンテの教会墓地に埋められた。
 アレイサートが禁を犯したことはヴァリスの胸に仕舞ってある。だからアレイサートは、教義と騎士道に殉じた立派な戦士としてセンテの教会で崇められることになるだろう。それだけが、ヴァリスの今の慰めだった。

「……退屈だ」
 場所柄、不謹慎だと分かっているから、小声でそう、呟く。
 ヴァリスのことが心配でアレイサートの葬儀までついてきたのだが、やはり、堅苦しい儀式は性に合わない。
 悲しみには似合わない、青い空を見上げて背伸びする。同時に思い出したのは、ヴァリスの、蒼い顔。あの顔色はどう見ても、悲しみより苦痛が勝っていた。
 アレイサートがヴァリスに何を告白したか、ハルは勿論知らない。しかし、重い内容だったことは、ヴァリスの顔色から察しがつく。ヴァリスのことだ、告白内容はきちんと墓場まで持って行くだろう。だが、苦痛に満ちた心が平生に戻るには、長くかかりそうだ。その間に起こりそうなゴタゴタを考え、ハルの心は正直重くなった。……ヴァリス自身がうまく片付けることができれば良いのだが、そうはいかないだろうということは、余り長くない付き合いからでも容易に推測できる。
〈全く、あのお人好し神官も、嫌なものを残してくれたぜ〉
 心の中でそう毒づいてから、ハルはそっと辺りを見回し、その悪言を誰かに聞かれなかったどうかを確かめた。神官の中には、心を読むことができる者もいると聞く。その、用心だ。
 と。
 ふと目にした墓石に、ハルの目は一瞬にして丸くなった。
〈この、墓〉
 一辺がハルの肩幅ほどの長さの正方形の平石に、三人の名前が刻まれた、周りと同じ質素な墓。普段なら、目にも留まらなかっただろう。だが。……知り合いと同じ名前が彫られているとなると、話は別だ。
 折良く。ハルが佇む場所へと、中年の男性が一人歩いてくるのが見える。ハルが一歩後ろに避けると、中年男性はハルが先程まで眺めていた墓の前で立ち止まり、被っていた帽子を脱いだ。その横顔は、誰かに似ている、ような気がする。
 だから。
「あの」
 中年男性に、おずおずと話しかける。
「この、お墓は……?」
「ああ」
 どうやら気の良い親父であるらしい、中年男性はハルのある意味不躾な質問に気軽に答えてくれた。
「兄夫婦の墓でさぁ」
 中年男性の兄は、染色職人。お針子と結婚して幸せに暮らしていたのだが、息子が生まれたばかりの頃、その家に強盗が入ったらしい。
「兄貴は、えらい傷で、わっしが見つけた時には既に亡くなっておったんですが、嫁と息子はいくら探しても見つかりませんで」
 おそらく、強盗に攫われ、奴隷として東の国に売られたのだろう。奴隷の生活は、過酷と聞く。おそらくもう、嫁もその息子も生きてはいないだろう。そう考え、彼は家族の墓を作った。
「そう、ですか」
 再び墓の方を向いた中年男性に一礼して、その場を離れる。
〈……まさか、ね〉
 頭に浮かんだ思いつきを振り切るように、ハルは足早にヴァリスの居る納骨堂の方へと向かった。

 扉を強く叩く音で、目を覚ます。
 次の瞬間、窓から漂ってきた煙の匂いと目に入ってきた炎の色に、ジェイの意識は完全に緊急体勢になった。
「逃げろ! セティ!」
 外の叫び声を背に、ベッド側の武器を掴みながら隣部屋に通じるドアを開く。部屋では既に、セティがぐったりしているティアの腕を自分の肩にかけたところだった。
「ティアは俺が連れて行く」
 そのティアの身体を背中に負いながらなるべく落ち着いた声を出すよう心がける。
「道案内を頼む。神殿なら、大丈夫だろう」
 ジェイの言葉に、セティは唇を引き結んでこくりと頷くと、床にしゃがみ込んで神殿に通じる床の扉を開けた。
 ぽっかりと空いた穴に飛び込んだセティの後から、ジェイもティアを背負ったまま地下へと降りる。これだけの騒ぎにも、ティアの身体はぐったりとジェイの背に凭れたまま、微動だにもしない。まだまだ、快復しきってはいないようだ。
 一体、何が起こっているのだ? 皆目見当が付かない。自分達の状況だけ確認しつつ、ジェイとセティは神殿へと飛び込んだ。
 島の奥にあるアルリネットの神殿には既に、多くの島民が逃げ込んでいた。皆着の身着のまま、煤で汚れた服と呆然とした顔で神殿の床に座り込んで、いた。
「何が、起こったの?」
 セティが、手近にいた女性に尋ねる。返ってきた答えは、驚愕に値するものだった。
「分からない。白い服を着た男達が港から上がってきて、家に火を……」
「白い、服?」
 女性の言葉と同時に、ジェイの脳裏に浮かんだのは、対岸の港街ソーヴェで見た神官達の傲慢な顔。スーヴァルド神だけを信仰している北の王国が南に攻め込んだ件といい、どうも、きな臭い。
「こっちも防御の魔法使おうとしたんだけど、魔法が発動しなくて……」
 嫌な予感が、する。ジェイがそう感じると同時に。
「こっちに来るぞっ!」
 外を見ていた男の叫びに、神殿中に緊張が走る。
「逃げろっ!」
 そう叫ぶと同時に、ジェイはセティの手を握り、神殿の奥へとかけ出した。
「ここに火を放たれたら!」
 呆然として動かない島民に避難を促しながら、セティと共に走る。背後から聞こえてくる悲鳴と金属音が、ジェイの気持ちを急かしに急かした。
 自分はヴァリスのような高潔な騎士ではないし、ハルのように雑魚どもなら一瞬で消し去れる魔力も持っていない。二人のようであったとしても、ここに避難した者を全員助けられると思えるほど、傲慢でもない。……ジェイ自身にできることは、ティアとセティを助けることだけ。だから。
 前にグリザリスに閉じ込められた、神殿の奥の扉の前で立ち止まる。この扉の向こうにある階段は、隠し港に繋がっている。海まで逃げれば、海神サイモナートが二人を安全な場所まで逃がしてくれるだろう。
「セティ。……ティアを、頼む」
 そう言いながら、ジェイはティアを背から下ろし、セティに預ける。ティアの足下は覚束ないが、階段を下りるくらい何とかなるだろう。……なってもらわないと、困る。無事で、いてくれ。そう思いながら、ジェイは壁に指を引っかけて扉を開き、現れた空間にセティとティアを押し込んだ。
「ジェイ!」
 セティの叫びを振り切るように、扉を閉める。セティの声と入れ替わるように、床を走る足音と金属音が背後からジェイの耳に響いて、きた。
 良かった、間に合った。ほっとするより先に、ジェイは戦斧を構え、背後の空間を切り裂いた。

 微かな光の中、なだらかだが狭い階段を下りる。
 つるつるした段差に足を取られる度に、セティはわざと壁に身体をぶつけ、ティアが階段にぶつからないように腕を伸ばして守った。
〈大丈夫、セティ?〉
 繋いだ左手から、ティアの思考が伝わってくる。セティはティアに向かって首を強く横に振ると、階段に集中しようと気持ちを切り替えた。
 ジェイがあの場所に残った理由は、痛いほど分かる。ジェイはティアと、おそらくセティを助ける為に残ったのだ。それならば、ティアを託された自分はどうすればいい? ティアを守りきるしかないではないか。ティアには、島を救ってもらった恩もある。だから。セティはティアの腕を強く握ると、先程よりも更に慎重に、だが足早に階段を駆け下りた。
 階段の先から吹いてきた風に、潮の香りが混じる。もうすぐだ。セティが胸を撫で下ろした、丁度その時。階段の下から、足音が響く。自分達の他に、避難してきた人がいるの? セティの期待は、だがすぐに絶望へと変わった。アルリネットの神殿では焚かない種類の香と、濃い血の臭いがしたからだ。
 まさか、こんなところにまで。そう思うよりも先に、セティはくるりと踵を返すと、下りてきた階段を駆け上がった。勿論、上に行っても敵はいる。でも階段のどこかに、身を隠す為の小道か窪みがあるかもしれない。セティは荒れた壁に右手を伸ばした。
 不意に、左腕が強く下に引っ張られる。
「ティア?」
 振り返ったセティを、胸から背を貫くような感覚が襲った。
 息が、できなくなる。足の力を急激に失い、セティは階段にへたり込んだ。セティの側には、ティアが倒れている。ティアの方へと伸ばした自分の手が黒く濡れていることに、セティはようやく気付いた。これは、一体。緩やかに薄れゆく意識の中、首を傾げる。しかしセティが探していた答えは、すぐに見つかった。
「こいつか? ハーサ様がおっしゃっていた奴は?」
「みたいだな。銀色の髪だし」
 セティの前に、松明を持った大柄な影が二、三人立ちはだかる。白い服を着ているから、おそらく、島に火を付け、人々を襲った奴らの仲間だろう。
「どうすんだよ、怪我なんかさせちまって」
 影の一人がティアの身体を乱暴に起こしてから、松明の炎を近づける。油が焦げる臭いと煙に、セティは思わず咽せた。
「威力は弱めてあるさ。回復使えば治るだろ」
 セティが戸惑っている間に、別の影が倒れているティアを乱暴に抱きかかえ、肩に担ぐ。ティアが、連れて行かれる。止めなければ。だがセティの意に反して、足も手も全く動いてはくれない。自分の身体だというのに。
「そっちの奴は?」
 影の一人が、セティを顎で差す。
「アルリネットの娘か、放っておけ」
 ティアを担いだ影が、セティに向かって唾を吐いた。
「奴らの魔法は封じてある。回復魔法が使えないのだから、じきにくたばるさ」
 そう吐き捨て、影達はティアを担いだまま階段を降りていく。彼らの足音が遠ざかるのを、セティはぼんやりと聞いていた。
 そうか、自分は……死ぬのか。他人事のようにそう、考える。ティアに恩を返すことも、ジェイとの約束を守ることもできずに。
〈……それは、嫌だ〉
 不意に、怒りに似た感情がわき起こる。しかしその感情はすぐに、冷たい闇に掻き消された。

 どのくらい、闇の中に居たのだろうか?
「……ティ、セティ!」
 自分の名を呼ぶ、優しげな声に、物憂げに瞼を上げる。明るくなった空間。セティの目の前に、銀髪紫眼の女の姿が、あった。
 この、人は、……知っている。
「アルリネット様」
 何とか力をかき集めて、セティは目の前の人の名前を呼んだ。
「良かった。そなたは、助けることができた」
 この島の神であり、世界を作った始祖神アルリネットが、セティの身体を優しく抱きしめる。その腕の温かさが、セティの意識をゆっくりと目覚めさせた。
 だが。
「済まない。妾の力が足りなかった所為で、そなた達に辛い思いをさせる」
 泣いているような囁き声に、身を震わせる。それは、まさか……。
「助けられなかった者も、大勢いるのじゃ」
 アルリネットの言葉が、セティの考えを裏付けた。
「大丈夫です。アルリネット様」
 打ちのめされながらも、それでも何とか、声を出す。
「私たちは勁い。そうでしょ?」
「そう、じゃったな」
 セティの背中から外れた、アルリネットの光るような手が、セティの頭を優しく撫でる。そしてつと、アルリネットはセティから離れる。その姿が、先程よりも薄れて見えるのは、気のせいだろう、か。
「妾はまた、力を蓄えなおさねばならぬ」
 セティに向かってにっこりと笑ったアルリネットの姿が、徐々に薄れていく。
「ティアのことは、そなたにまかせる。妾の我が儘だが、……助けてやってくれ」
 言葉だけを、セティの心に残して、アルリネットの姿はどこにも見えなくなって、しまった。
「アルリネット様!」
 何もない空間に、叫ぶ。そしてセティは跪き、いつも神殿で祈るのと同じように手を組んだ。
「……ありがとう、ございます」

 一歩一歩、階段を踏みしめ、最上段まで上がる。
 突き当たりの扉を開けると、血と煙の不快な匂いが、セティの鼻を突いた。
「ジェイ!」
 開けた扉の横に、見知った大柄な身体が倒れているのを見つける。血まみれのその身体を、セティは強く揺すった。まさか、ジェイも、「助けられなかった者」に入ってしまったのだろうか。しかしセティの心配は、呻き声によってすぐに打ち消された。
「……セティ?」
 見開かれたジェイの瞳の、焦点が徐々に合っていく。次の瞬間、ジェイは上半身を起こしてセティの肩を掴んだ。
「セティ! その、血……」
 ジェイに言われて初めて、自分の夜着に赤黒い染みが広がっているのに気付く。
「無事なのか? 大丈夫なのか?」
「私は、大丈夫」
 切羽詰まったジェイの言葉に、セティはこくりと頷いた。
 同時に思い出したのは、ティアのこと。私は……ティアを守りきれなかった。
 だから。
「でも、ティアが……連れて行かれた」
 か細い声で、それだけ言う。
「あいつらにか?」
 セティの予測通り、すぐにジェイの目が吊り上がった。ジェイのその言葉にも、こくりと頷く。涙が自分の頬を伝い落ちていることに、セティはようやく気付いた。
「ご、め、んな、さい」
 ようやく、それだけ言う。次にセティが感じたのは、ジェイの太い腕、だった。
「セティが無事で、良かった」
 締め付けるように抱きしめられる。その痛みと、胸の痛みが、セティの心の中でごたまぜになった。
「アルリネット様のおかげよ」
 痛みから逃れるように、ジェイの腕を引き離す。
「そうか」
 ジェイはセティに向かってにっと笑ってから、突然神殿の床にひっくり返った。
「だ、大丈夫?」
 突然のジェイの動きに、正直焦る。だがジェイは、セティに向かってもう一度にっこり笑ってみせた。
「……ああ」
 ジェイの言葉が嘘なのは、顔色を見れば分かる。おそらく、セティに見えている以上に、ジェイの怪我は酷いのだろう。こんな状態のジェイに、ティアを助けるのを手伝ってくれとは言えない。一人で、やらなければ。セティは心の奥底でこくりと頷いてから、後ずさりでジェイから一歩、離れた。
 と。
「ティアを、助けに行くのか?」
 ジェイの言葉に、身体全体の動きが止まる。自分の心を見透かされたような気がして、セティは思わず口をぽかんと開けた。
 そのセティの行動に、やっぱりなという顔でジェイが笑う。
 なぜだか、悔しい。だから。
「それが、アルリネット様の頼みだから」
 そう言って、セティはジェイに背を向けて走り去ろうと試みる。そのセティの腕を、倒れたままのジェイが掴んだ。強い力に押されて、セティの身体がジェイの上に落ちる。
「うぐっ!」
 ジェイのうめき声が、神殿に響いた。
「ごめんなさい、ジェイ」
 とりあえず謝ったが、この行為の非はジェイにあることに気付き、セティはぷいと横を向いてジェイに掴まれた方の腕を強く振った。だが、ジェイの腕は外れてくれない。
 その、次の瞬間。
「知っているのか。ティアがどこに連れて行かれたか」
 静かなジェイの言葉に、はっとする。そしてセティは、俯いて首を横に振った。
「俺は、知っている」
「教えて」
 セティの言葉に、ジェイはにっと笑って首を横に振った。
「教えない」
「けち!」
「教えたら行くだろ」
 ジェイの言葉に、唇を噛む。確かに、ジェイの言う通りだ。
 だから。
「三日だけ、待ってくれ。意地でも動けるようになってやるから」
 目を閉じながら言ったジェイの言葉に、渋々、頷く。
 しかし、その次の言葉は、セティにとっては嬉しい言葉だった。
「俺が、ちゃんと、セティを守るから」

 ……寒い。
 身体全体から熱が逃げてしまっている。
 その熱を少しでも取り戻す為に身体を丸めようとしているのだが、身体が全く言うことを聞いてくれない。
 見上げても、出迎えるのは暗闇のみ。途切れ途切れの思考が、固く冷たい床に仰向けに横たわったままのティアの頭の中で蠢く。ここは一体、どこなのだろうか? セティやジェイと一緒に居た、アルリネット神の神殿があるアルトティス島でないことだけは、分かる。あの島には、この場所のような冷え切った空気は存在していなかった。そうだ。確か、島が何者かに襲われて、セティやジェイと一緒にアルリネット神殿に逃げたのだ。そして、セティに手を引かれて地中の階段を下りた。そこまでは覚えている。セティが何かに気付いて引き返そうとした時、誰かに後頭部を殴られたような衝撃を感じて、それから……。
〈セティ、ジェイ?〉
 暗闇に向かって、空虚に叫ぶ。声が出ないのに慣れてしまい、口の動かし方すら忘れてしまっている。そのことが、ティアの心を悲しくさせた。
 この場所に、セティもジェイも居ないことは、分かる。二人は、どうなってしまったのだろう? まさか……。最悪の推測が、ティアの心を襲う。
〈セティ! ジェイ! ハル! ……ヴァリス!〉
 流れた涙が、耳と髪の間で凍る。
 寒さよりも痛みを、そして痛みよりも自分の無力さを、ティアは強く感じていた。

 強い金属音に、ぼやけていた意識が少しだけはっきりする。
「まあ、なんて扱い!」
 そのティアの耳に響いたのは、非難の響きを持つ、女性の明るい声、だった。
「毛布を持って来て良かったですね、リサ様」
 先程の声よりも落ち着いた感じの声と共に、ティアの身体全体に毛布が巻かれる。次に感じたのは、人が必ず持っている温かさ。
 ティアを横抱きにした腕の確かさは、ヴァリスに似ている。だが、微かに漂ってくる香りは、ヴァリスのそれではない。女の人の、ものだ。
「全く、何考えているのかしら、ハーサは」
 抱え上げられた所為で、先程より近くから声が聞こえてくる。
「何も考えていないか、『儀式』が嫌なのか、どちらかでしょうね」
「そのようね」
 クスリと笑う声が、ティアの心に心地良く響いた。
 この人は、誰だろう? リサ様と、呼ばれているから、きっと身分の高い女性に違いない。この人からも、花のような匂いがする。その、少し氷のような匂いは、どこかで嗅いだことがある匂いに似ていた。
「とにかく、ここじゃ寒すぎるわ。私の部屋に移すわよ」
「それが、宜しいかと」
 声の温かさと、触れている人肌の温かさが、眠気を誘う。
 いつの間にか、ティアの意識は闇の中に溶けて、いた。

「うん、私のお古でちょうど良いわね。良かった」
 弾けるような明るさの声に、はっと目を覚ます。
 微睡んでいる間に、ティアの身体は『私の部屋』に着いていたらしい。ティアの背と下半身全体は、柔らかい物に支えられている。ここは、ソファかベッドの上らしい。
 唯一自由に動かせる左手で、身体の色々なところを触ってみる。四天王の一人を封じた右腕は冷たいままだが、他の部分は火照るような熱さだ。熱があるのだろうか。先程まで自分の身体から発生していた饐えたような匂いは、全く感じられない。あの冷たい場所から助けてくれた女の人二人が、綺麗にしてくれたのだろうか。そう考えると同時に、感謝と羞恥心がティアの全身を駆け巡った。
「綺麗な瞳。紫水晶みたい」
 顔の近くでの明るい声に、心臓が飛び上がる。凍ったバラのような香りが、目の前にいる人が「リサ様」と呼ばれていた人であることを知らせていた。
「右腕も固まってしまっているけど、目も見えないのね」
 冷たい指が、ティアの額を優しく撫でる。陶然とした感覚に、ティアの唇は綻んだ。
 だが、……やはり、声は出ない。感謝の意を、伝えたいのに。
「私は、リューシュリサ。リサって呼んで」
 忸怩たる思いのティアを余所に、リサの声はあくまで明るかった。
「熱が、あるわね」
 穏やかな香りが、つと離れる。その香りが次に近づいてきた時には、薬草の香りも一緒になっていた。
「汚れてたし、気持ち悪いかなと思って蒸風呂に入れたんだけど、かえって悪かったかしら?」
 渡された飲み物に、ゆっくりと口を付ける。甘い感覚が、ティアを眠りへと誘った。
「あ、足がスースーするのは我慢してね」
 飲み終わった後のコップをティアの手から外しながら、不意にリサが話題を変える。そのリサの声の調子が急に変わったのを、ティアは聞き逃さなかった。
「女の子の格好してないと、ハーサに殺されるから」
 リサの声に含まれていたのは、侮蔑と、嫌悪感。明るい声には似合わないその感情に、ティアの心は悲しくなった。
 だから。
〈あの〉
 左手でリサに触れ、言葉を紡ぐ。母の形見である笛は無くしてしまったが、ベルサージャからもらった腕輪は、まだ左手首にある。そのことが、ティアをほっとさせていた。
「うわっ、吃驚した」
 予想通り、リサは驚きの声を上げる。
 リサに触れたまま、ティアは説明を重ねた。
〈この腕輪の魔法で、言葉を伝えているんです。……声を失ってしまったので〉
「ふうん」
 リサの声に含まれた好奇心に、ほっとする。
 感謝の言葉をリサに伝えてから、ところで、と前置きして、ティアは思ったことをそのままリサに聞いてみた。
〈男の子が、嫌いなんですか? ハーサ、って人〉
「逆よ、逆」
 ティアの問いに対し、再びの侮蔑の声がリサの口から漏れる。
「大好きだから、酷いことして殺しちゃうのよ、あいつは」
 女性は死ぬほど嫌いらしいから、女装している限りハーサはティアに近寄って来すらしない。だから、安全。リサはそう言うと、ティアに眠るよう勧めた。
「眠るのが、一番よ」
 横になったティアの身体に、リサが優しく毛布を掛ける。薬の所為か、熱の所為か、すぐにティアはうとうとし始めた。
 だが。
「これ以上、ハーサに奪われるのは、お断りだわ」
 リサが小さく発した、鋭角の声に、はっと目を開く。
 だが、ティアが疑問を発するより早く、ティアの意識は再び闇の中へと溶けていった。

 強い振動が、ティアの意識を目覚めさせる。
「またっ! もう少し慎重に走らせてって言ったでしょ!」
 癇性に満ちたリサの声が、少し遠くに聞こえた。
「起きたの? ごめんなさいね」
 振動が小刻みに戻ってから、リサはティアの額にその細い指を乗せた。
「まだ熱があるわ。眠りなさい」
 リサの言葉にこくりと頷き、目を閉じる。
 自分は、どこかへ連れて行かれているようだ。ぼうっとした頭で、ティアはそれだけ考えた。
 まだ、身体がだるい。少し眠ろう。だが、乗り物の振動とは違う、啜り泣きのような声が、ティアを眠らせなかった。
 だから。
〈リサ、なぜ泣いてるの?〉
 左手をリサの方へ動かしてから、そう問う。
「……ティア?」
 ティアの問いに、リサは吃驚した声を発した。
 しばらくは、無言の状態が続く。
「……私にはね、弟が三人いたの」
 そして徐に、リサは口を開いた。
「どこかに遊びに行く時には、こんな風に一緒の馬車に乗ったのよ」
 ノイトトース王国の先王には、四人の后と五人の子供がいた。リサは、正妃と先王の間に生まれた、唯一の子供。そしてリサと同い年の現王ハーサリッシュは、第二王妃の子供だった。正妃に男の子がいなかったから、結局先王の死後、ハーサが王位に就いた。そしてその直後、ハーサは二人の異母弟を、残酷な方法で殺した。
〈もう一人の、弟は?〉
 リサの悲しみを感じながら、尋ねる。
 ティアの問いに、リサは泣き声でふふっと笑った。
「その子は、生き延びたわ」
 リサの末の弟、クレアは、産みの母の機転で女の子として育てられた。だから、ハーサが王位に就いた時も、母子は城を追い出されるだけで済んだ。
「クレアの母親はフェイリルーナっていってね、あなたと同じ、紫の瞳を持っていた」
 いつか、あなたも彼女に会う機会があるかもしれない。リサの声が急に遠くに、響いた。

 次に目が覚めた時には、振動は止まっていた。
「ごめんなさいね、ティア」
 代わりに聞こえたのは、リサの沈んだ言葉。
 現在ティアがいる場所は、ノイトトース王国の西にある町フィナロカリ城の地下室だと、リサの声が言う。冷たい空気と滴り落ちる滴の音が、ティアの体と心を震わせた。
 「生け贄を攫おうとする不逞の輩がいる」。これが、疑り深いハーサが、ティアを地下牢に入れた理由。ティアの体調を理由にリサは勿論反対したが、ハーサは全く聞く耳持たなかったという。
「でも、私も一緒にここに居るわ」
 強い声が、ティアの耳を打つ。こんな、冷たい地下なのに。リサの優しさと強さに、ティアは思わず首を横に振った。
〈僕は、大丈夫です。だから、リサは……〉
「気にしなくて良いのよ。これは私の我が儘なんだから」
 まだ熱が下がらないのだから、あなたは、眠りなさい。優しい声が、響く。
 安らかな気持ちになり、ティアはそっと、瞳を閉じた。

 思わぬ人混みに、足が縺れる。
 気がつくと、セティの身体はジェイに支えられていた。
「……大丈夫か?」
 心配そうなジェイの顔にこくりと頷いてから、再び一人で立つ。ジェイの方が酷い怪我をしていたのだ。頼るわけにはいかない。
 だが。覚悟していたこととはいえ、やはり、大陸は人が多すぎる。しかも、この街にはあの白い服を着た人間が多い。通る人全てがセティ自身を殺そうとした白服の男達に見えてしまい、セティはその場から一歩も動けなくなった。
「大丈夫か、セティ」
 不意にジェイが、セティの身体を自分の背中の後ろに隠す。心配して、くれているのだ。その気遣いが、セティには嬉しかった。
 懐に隠し持った、ティアの笛をぎゅっと握りしめる。壊れてしまったままだけど、この笛は絶対に、ティアに返す。その覚悟で、この街に来たのだ。セティはジェイの背中の影でこくりと頷くと、再びジェイの横に立った。
「多分、ティアは、王宮にいる」
 そう言いながら、ジェイは手の中の金色の釦を弄ぶように動かす。島を襲った者達との戦闘の最中に偶然引き千切ったその釦に刻まれているのは、ノイトトース王国の王家の紋章。と、すると、ティアをさらったのは王家直属の神官戦士。そう推測したジェイとセティは、海神サイモナートに頼んでこの北の王国の海岸まで連れて来てもらったのだ。
 今、二人の目の前に立ちふさがっているのは、そのノイトトース王国の首都ヴォーロの城壁と城門、そして城門を守っている白い服の神官戦士達。
「大丈夫だよ」
 セティを元気づけるように、ジェイが呟く。
「この服装だから」
 ジェイもセティも、スーヴァルドの巡礼者であることを示す白いフード付きのローブを頭からすっぽり被っている。この変装だと、見つかる可能性は低いだろう。セティは何とか自分を納得させると、ジェイの後ろについて城門へと足を動かした。
 だが。
「駄目だ」
 ジェイが見せた巡礼用の通行証――手先の器用な島の兄弟が乏しい材料で作ってくれた偽造品――に、神官戦士は首を横に振った。
「『儀式』期間中は、余所者を街に入れてはいけないことになっている」
「そんなぁ」
 思わず、叫ぶ。
 神官戦士はセティとジェイに哀れみの目を向けると、すぐに厳しい顔に戻って二人を追い出すように手を振った。
「……良い案だと思ったんだけどな」
 落胆したジェイが、肩を落とす。
 よく見ると、街に近づく巡礼者の殆どが、門前払いを喰らっている。自分達の正体がばれたのが原因ではなさそうだ。それだけが、セティを安堵させていた。それでも、街に入れないことには変わりないのだが。
 しかしながら。……『儀式』とは、何だろう? 夏のこの時期にする儀式なんて、聞いたこともない。悪い予感がする。セティは思わず身を震わせた。
 と。
「入れなかったの、あなたたち?」
 不意に、背後で声が響く。振り向くと、いつの間にか、二人の背後に小柄な女性が立っていた。厚手のローブと、亜麻色の髪を結った姿は、どこにでも居るノイトトース王国の住人に見える。
 だが。
「入れてあげないこともないんだけど……」
 信じられない言葉が、女性の口から出る。
「本当かっ!」
 その言葉に食いついたジェイの横で、セティはこの人物が信用できるか悩んでいた。危機に助けてくれる人物は、本当の善人か、本当の悪人。
 と。
「でも、あなたたちが探している人物は、もうここには居ないわ」
 悩むセティの前で、女性は更に思わぬことを口にした。
「えっ……」
「おまえは、誰だ!」
 次の瞬間。驚くセティの横で、ジェイの短刀が光った。
「ジェイ!」
 慌てて、止める。こんなところで刃傷沙汰を起こすわけにはいかない。
「おまえ、っていうのは、淑女に失礼ね」
 刃物を首筋に突きつけられても、女性はあくまで冷静だった。
「私の名前は……ルーナ」
 女性の冷静さに、心が落ち着いたのだろう。ジェイは短刀を収めると、女性に向かって頭を下げた。
「済まない。少し、……急いていたもので」
「仲間を助ける為には、落ち着くことも重要よ」
「はい」
 ルーナの言葉に、こくりと頷く。
 それで良いわと笑ってから、ルーナは更に重要な事実を口にした。
「今朝、ハーサはここを立ってフィナロカリへ向かったわ。……おそらく、あなたのお友達を連れて」
「今朝っ!」
 ルーナの言葉に、ジェイが目を剥く。
「でも、なぜ?」
「『儀式』は、ここではできないから」
 フィナロカリの郊外には、ノイトトースの昔の王が生け贄を捧げる為に設えた台がある。ティアが関連する『儀式』は、その場所で行われる。ルーナは静かにそう、言った。
「だからあなたたちも、フィナロカリに向かうべきね」
 ルーナは二人にそう、助言する。
 不思議な説得力に、ジェイとセティは同時に頷いた。
 そして。
「……私も、一緒に行くわ」
 突然の申し出に、驚く。
 この人は、一体? セティの疑問を、ジェイが代わりに訊いてくれた。
「なぜ、俺たちを助けてくれる?」
 ジェイの言葉に、ルーナは笑うと、静かに目を閉じた。
 再び開かれた、ルーナの瞳の色は、……紫。
「えっ」
 再び、驚く。
「私はね、これ以上の悲劇を望んでないの」
 驚き顔の二人に、ルーナはそう言って、悲しげに微笑んだ。

「何だって?」
 センテの町に滞在していたヴァリスとハルの前に不意に現れたベルサージャが持って来た知らせは、またもや最悪なものだった。
「ティアが、ノイトトース王国に攫われたぁ?」
 ハルの声が、怒りを増発させる。
 全く、ジェイはどうしていたんだ。いや、ジェイを責めても仕方無い。ノイトトース王国の神官達は、家々に火をつけ、老若男女を無差別にその手に掛けたという。ベルサージャから聞いた、島の惨状が、ヴァリスの心を締め付ける。自分が、ティアの側を離れたのが間違っていたのだ。ぐるぐるとした思考が、ヴァリスを責めた。
「仕方無い」
 ハルの声に、思考が中断する。
「……フェイの力を借りるか」
「フェイ?」
 投げやりなその言葉に潜む溜息を感じ、ヴァリスは思わず言葉を返した。
「北の王国に住む、生意気な魔女さ」
 心底嫌そうな声で、ハルがヴァリスの質問に答える。
 しかし、いつもは人に頼らないハルが「頼る」と言っているのだ。信頼できる人なのだろう。ヴァリスはそう判断すると、急いで身支度を始めた。
「じゃ、行こう」
「えっ。……今すぐ?」
「勿論」
 ティアが苦しい目にあっているのだから、すぐに行かなければならない。ティアを、守って欲しい。それが、セターニアと、……アレイサート師匠の頼みだ。
 だから。
 ヴァリスはハルに声を掛けると、この町に辿り着いてからずっと床に投げっぱなしだった自分の荷物を拾った。

 ハルの転移の魔法で、あっという間に目的地に着く。
「あら、遅かったわね」
 林の中に建つ小さな小屋で、亜麻色の髪を綺麗に結った中年女性が二人を出迎えた。
「フェイ」
 小声で、ハルが呟く。と、いうことは、この女性がハルの言っていた魔女なのだろうか? とてもそうは見えない。北国に暮らす、普通の女性だ。ヴァリスは初めそう思った。
 だが。
「あなたのお友達は、もう着いているわ」
 そう言いながら、フェイが小屋の後ろを指差す。その場所で、薪を割っていたのは。
「ジェイ!」
 思わず、叫ぶ。
 ヴァリスの声に、ジェイは斧を落として振り返った。
「ヴァリス」
 ヴァリスを見たジェイの顔が、歪む。
「済まない、俺は……ティアを守れなかった」
「……いい」
 ジェイの言葉に、ヴァリスは首を横に振った。ベルサージャから、アルトティス島の惨状は聞いている。あの状態で、ティアもジェイも命を落とさなかったのが、奇跡なのだ。後悔と反省より、ティアを助けるのが先だ。
「セティも、小屋の中に居るわ」
 フェイの声に、ヴァリスの声は現実に引き戻された。
「ところで」
 不意にフェイが、ハルに向かって声を荒げる。
「いつまで略称で呼ぶつもり、ハル」
 その言葉に、ハルはむっと口の端を歪め、無理矢理口を開けた。
「フェイリルーナ、母さん」
「宜しい」
 この人が、ハルの母親? 吃驚して、二人を見比べる。……全く、似ていない。皮肉な口調以外は。
 と。
「仲間が揃った所で、ティアを助ける話でもしましょうか」
 謎めいた笑みに、思わず身構える。
 やはり、ハルが言うように、この女性は魔女だ。ヴァリスは直感でそう、感じた。

 フェイリルーナが話す、『儀式』の内容は、ヴァリスの予想の斜め上をいっていた。
 太陽と月が重なり、天空神スーヴァルドの力が強まるという、日蝕の日。その日に、スーヴァルドの化身と崇められているノイトトースの王は自らが選んだ女性とフィナロカリ郊外にある生け贄用の台の上で交わる。それが、『儀式』の内容。
「それでなぜティアが攫われるんだ?」
 当然の疑問を、ジェイが口にする。女の子のように見えるが、ティアは男だ。女性ではない。
「ティアが、ソセアルだから」
 だが。フェイリルーナの答えは、皆を納得させるに十分だった。『力』を持った者を生贄にし、その力を奪うのは、権力上にある者としては当然の行動。それに、『影』を祓ったのも、アルトティスの怪を解決したのも、全部ティアだ。ティアなら、伝説になるくらいの『力』を持っている。
「そしてハーサには、ティアが男か女かなんて関係ない」
 フェイリルーナの言葉を、ハルが引き継ぐ。
「いや、男の子だった方が良いんだろうな、ハーサの場合」
 ノイトトースの現王ハーサリッシュの女性嫌悪と男色は、王国内では皆知っている。ハルはそう、吐き捨てた。
 そんな王の手の中に、ティアが居る。ヴァリスは思わず身震いした。これは、……できるだけ早くティアを助けなければならない。
「次の日蝕までは生かされているでしょうね、ティアは」
 ヴァリスの焦りを冷ますように、フェイリルーナが言葉を紡ぐ。
 その日蝕は、三日後に迫っていた。
「儀式で、殺すつもりなのか?」
 ジェイの言葉に、再び身体が凍る。
「ハーサなら、やりかねないわ」
 フェイリルーナの肯定の言葉が、ヴァリスの焦りを更に加速させた。
「一番警備が手薄なのは、おそらく『儀式』当日ね」
 そのヴァリスには構わず、フェイリルーナの話は続く。
 フィナロカリ郊外にある、生贄を捧げるための『台』は狭いので、置ける警備の人数に限りがある。精鋭を置くとしても、ヴァリス達四人とフェイリルーナで何とかなるだろう。フェイリルーナはそう言って、薄く笑った。
 フェイルーナの提案に、こくりと頷く。自分は、ノイトトースの地理も風習も知らない。フェイリルーナは『魔女』のように思えるが、悪い人ではないだろう。分からないことは専門家に頼り、自分でできることは自分でする。それが、ヴァリスがこれまでの経験から学んだこと。
 だから。
「どこに居ようと、ティアは必ず助ける」
 決意を、口に出す。
 ヴァリスの言葉に、ジェイもハルもセティも強く、頷いた。

 『儀式』の前日。
 フィナロカリの郊外、フェイリルーナに恩がある農民の家に泊まっていたヴァリスは、眠れずに辺りを歩き回っていた。
 星明かりに、フィナロカリ城の塔が影となって見える。あの城に、ティアが閉じ込められている。それを知っていて、助けることができない。ヴァリスの焦りはかなりのものになっていた。
 落ち着け。自分を叱咤する。明日になれば、ティアを助けることができる。それまでの我慢だ。
 と。
 不意に誰かの気配を感じ、思わず手近の木の陰に隠れる。ほっそりとした影が、ヴァリスの目の端に映った。
 あれは、フェイリルーナ。……しかし、どこかが違う。月明かりで見えるフェイリルーナの髪の色は、昼間の亜麻色ではない。間違いなく、ヴァリスと同じ黒紫色。そして彼女の瞳の色は、ヴァリスの恩人セターニアと同じ紫、だった。まさか。確かめる為に、木の陰から飛び出す。フェイリルーナは突然現れたヴァリスに、驚くより先に笑顔を見せた。
「見られてしまっては、仕方無いわね」
 あくまで淡々とした口調で、フェイリルーナは話す。
「私の本当の名前は、リルーニア。ソセアルの血を引く者。そして」
 そこで、フェイリルーナは言葉を切る。
 次に彼女の口から出てきた言葉は、ヴァリスにとっては衝撃以外の何者でもなかった。
「あなたの母親、になるのかしら?」
 この人が、自分の母親? まさか? 頭が混乱する。だが、珍しい黒紫色の髪の色、は……!
「大きくなったわね、ヴァリストザード」
 懐かしげに見つめる紫色の視線を、強く首を振って外す。
 そしてそのまま、ヴァリスはフェイリルーナに背を向け、その場から走り去った。

「……フェイ」
 ヴァリスが去ってから、ハルは隠れていた木の陰から顔を出した。
「ソセアル、だったのか」
「あら、自分の母親を呼び捨てにするなんて、悪い息子ね」
 ハルの問いに、はぐらかすようにフェイリルーナが笑う。
 そのフェイリルーナに、ハルは更に質問をぶつけた。
「まさか、前回の『儀式』で、フェイが……」
「だからあなたがいるんじゃない」
 フェイリルーナの言葉に、思わず頷く。自分がノイトトースの王族の血を引いていることは、フェイリルーナ自身から聞いて知ってはいた。だが、生まれた事情にそんなことがあったとは。だからフェイリルーナは、ティアが明日何をされるかを知っていたのだ。
「ハーサはティアを女の子だって思っているみたいね、今のところ」
 ハルの懸念を、フェイリルーナが代わりに口にする。
「それが『男の子』だって分かったら」
「止めてくれ、フェイ」
 フェイの言葉に、首を強く横に振る。ハーサの性癖は、知っている。その残虐性も。ハル自身の命も、狙われたことがあるのだから。
 ティアをハーサに奪われてなるものか。ハルはきゅっと唇を噛み締めた。

 フィナロカリの外れに、その頂上に岩と土で台を作った丘がある。
 フェイリルーナに言われるまま、ヴァリス達はその場所に身を隠した。
 時刻は、正午近く。
「来たぞ」
 ジェイの声に、ヴァリスは少しだけ腰を浮かせた。
 ジェイの言う通り、白いローブに身を包んだ神官達が、列を組んで丘の中腹まで登ってきているのが見えた。その真ん中で、白い鎧に身を包んでいるのが、ノイトトース王国の王ハーサリッシュだろう。そして、その後ろの担架の上に、寝かされているのは。
「ティア!」
「しっ!」
 叫びそうになるヴァリスの口を、ハルが塞ぐ。
「分かっている」
 ヴァリスは唇を噛み締めてから、ハルに向かって頷いた。そう。この作戦は『待つ』ことが重要なのだ。
 辺りが少しだけ暗くなる。太陽が、欠け始めたのだ。
 ……儀式が、始まる。
 丘の頂上に着いた一行が、担架からティアのぐったりした身体を下ろし、台に乗せる。神官達がティアの服を脱がせて裸にするのを、ヴァリスは忸怩たる思いで見守った。
 我慢だ。我慢するのだ。そう、自分に言い聞かせる。
 そして、ついに。丘の上にいる人物がハーサとティアだけになる。
「今だ!」
 ジェイの声より先に、ヴァリスは剣を手に全速力で飛び出した。
 鎧を脱いで薄着になったハーサ王の、ぶよぶよな身体を羽交い締めにする。ティアを辱めようとした奴だ。遠慮は要らない。
「近づくな!」
 護衛の神官戦士達は、ハルとジェイが牽制する。
「王に何があっても良いのか!」
 こちらは、王を人質に取っている。その有利さが、計画をすっきり簡単にしていた。
 ティアの身体に、セティがマントを掛けるのが見える。これで後は、王を人質にしたまま撤退すればいい。ヴァリスがそう考えた、正にその時。
「……え?」
 羽交い締めにしていた王の、そのぶよぶよした身体が、急にソースのようにどろっとする。驚くヴァリスの前で、王の身体は地面に溶け落ち、黒いどろっとした物体と化した。
 これ、は、まさか……。
「四天王!」
 ハルが叫ぶ。
 次の瞬間、どろっとした物体はお返しとばかりヴァリスに飛びかかった。
「うわっ!」
 何とか、避ける。だが物体はその脆さに似合わず俊敏に向きを変えると分裂し、今度はヴァリスだけでなくハルやジェイも襲った。
 これでは、埒があかない。思わず歯噛みする。
 その時。
 耳が痛くなるような不協和音が、空気を切り裂く。おそらくセティが持っていたのであろう、ティアの母セターニアの形見である折れてしまった笛に精一杯の息を吹き込んでいるティアを確かめる間も無く、ヴァリスは、どろっとした動きを止めた四天王に長剣を叩き込んだ。
「今だっ!」
 ヴァリスの長剣と、ジェイの戦斧が、ほぼ同時に四天王を切り裂く。
「ごめん、兄者」
 ハルの指から迸る鋭い閃光が、そのどろっとした身を更に粉砕した。
 細かく砕かれたその黒い身体が、ティアの笛の音に震える。時間は掛かったが、元ハーサ王の身体は、日蝕の暗い空気にすっかりと、溶け崩れた。
「ティア」
 ハーサ王を守っていたはずの神官戦士達が四散しているのを確認してから、セティが支えるティアの方へと駆け寄る。台の上に座ったティアは少し熱っぽいように見えるが、それ以外は特に怪我などしていないようだ。ヴァリスはほっとして、ティアをその両腕に抱きしめた。
 久しぶりの温かさに、心が躍る。
 と。
 不意に、ティアの左腕がヴァリスを突き飛ばす。
 次の瞬間。黒い光がティアの身体を貫いたのを、ヴァリスははっきりと、見た。
「ティア!」
 前のめりに倒れるティアの身体を、素早く受け止める。
 ヴァリスの腕の中で、ティアは一瞬だけ呻くと、すぐに全身を弛緩させた。

「ティアの、容態は?」
 顔を合わせてすぐ、そう訊かれ、ハルは内心舌打ちをした。
 全く、何でこいつはティアのことしか頭に無いんだ。そう毒づくより前に、ハルはヴァリスの質問に答えた。……ヴァリスを怒らせても、こっちが不快になるだけだ。
「最悪の事態は脱したはずだ」
「はず、って」
 だが、答えても結果は同じであるようだ。そんなヴァリスをハルは苦々しく思った。しかし、ここで争ってはいけない。
「知るか。フェイがそう言ったんだ」
 母親の名を出して、何とか宥める。ハルのこの言葉に、ヴァリスは口をつぐんだ。だが、不満はありありと顔に出ている。
「分かった」
 怒ったような声でそう言うなり、ヴァリスはハルに背を向け、肩を怒らせてティアのいる塔の方へと向かった。
「……全く」
 ヴァリスが視界から消えたのを確認してから、再び毒づく。なぜヴァリスは、ティアのことしか考えないのだろう。唇を歪めたヴァリスの顔を思い浮かべ、そしてすぐにそれを脳裏から消し去る。ティアもティアだ。なぜあんな奴を庇ったりしたのだ。あんな攻撃など、ヴァリスなら簡単にいなせるはずだ。
「おそらく、四天王を封じようとしたのだろう」
 昨夜耳にした、フェイリルーナの呟きが、脳裏に響く。
「そして、そのことには成功した」
 ティアは、自分の心臓を使って、四天王の最後の一人を封じた。そしてその為に、のたうつような痛みに苦しんでいる。時間が必要だ。それが、フェイリルーナの見立て。
 とにかくこれで、スーヴァルドが創り出した眷属は全てティアの身体に封じた。それは、良いことだとハルも思う。残っているのは、諸悪の根源、スーヴァルド唯一人。だが、ティアの今の状態では、頑強かつ狡猾なスーヴァルドに戦いを挑むことなど、とてもできない。戦ったとしても、ティアがどうなるか。最悪の事態が脳裏に浮かび、ハルは慌てて首を横に振った。
 ティアのことがとても心配なのは、ハルにも分かる。だが、心配しないといけないことは、他にもある。例えば、姉リューシュリサのこと。ノイトトースの王であったハーサリッシュが亡くなったので、今はリサが王位に就いている。他に人がいなかったとはいえ、ハーサとスーヴァルドの所為で乱れたこの国を女手で治められるのか。ハルにはそのことが、ティアのことと同じくらい心配だった。勝ち気で、かつ失う悲しみを知っている姉だから、多分大臣や高官達と話し合って、スーヴァルド神殿の影響を排除した公平な政治を行うだろう。その予測が、唯一ハルを安心させる。
 母フェイリルーナのことも、気になる。フェイリルーナの魔力がずば抜けて高いことは、息子であるハルは勿論知っていた。だが、フェイリルーナがティアの叔母であったことは、知らなかった。ヴァリスと同じ色の髪を、持っていることも。
 ヴァリスは、一体何者なのだろうか? ふと、そんなことを考える。だがすぐに、ハルはその疑問を捨てた。
 生まれがどうであろうとも、ヴァリスはヴァリスだ。一本気で狭量なのに変わりはない。

 ……ヴァリスが自分の異父兄に当たるらしいという事実だけは、引っかかってはいたが。

 フィナロカリ砦の外壁に設えられている塔の最上階が、ティアの病室になっている。
 その部屋に入る唯一の方法は、塔の螺旋階段を上ること。部屋に一つだけある窓からは、堀代わりの川が緩く流れているのが見える。
 何者かに襲われた時に逃げる場所がない。ティアの病室を決める時、ヴァリスはそう言って反対した。だが。
「うーん、そうだけど」
 砦内をよく知っているハルが、ヴァリスに反対するように唸る。
「他の部屋は狭いし、汚れているから、使えない」
 つい先日まで、この砦にはハーサ王の部下達が大勢詰めていた。人々は全て首都ヴォーロへと去って行ったが、人が使っていた部屋の方はそう簡単には原状復帰しない。ジェイの諦めの声が、ヴァリスを渋々納得させたのだが、やはり、逃げ場がないのはどうも落ち着かない。
 気を取り直して、ベッドの側の椅子に座る。ティアの熱っぽい額に触れると、ティアの、それまで規則正しかった息が少し乱れた。
「あ……」
 すぐに、手を引っ込める。しかし、ティアの呼吸は、顔の歪みとともにますます乱れていった。
「ティア!」
 苦しそうに胸を掻き毟るティアの左手を押さえて、胸から離す。身体を横向きにして背中をさすると、ティアの震えは徐々に収まっていった。
「……良かった」
 大事は、ないようだ。再び規則正しい呼吸をし始めたティアの顔を、今度は手を出さずにじっと見守る。バラ色だったはずの頬は痩せこけ、眼窩は暗く落ち窪んでしまっている。青黒く変色した首筋や力なく投げ出された赤紫色の右腕を見ていると、スーヴァルド神に対する怒りが徐々に湧いてくる。ヴァリスは不意に立ち上がると、落ち着きなく部屋を歩いた。
〈……よし〉
 これ以上、ティアを苦しめるわけにはいかない。一人で、勝負をつけてやる。
 ヴァリスはティアを少しだけ見つめてから、剣を取りに自分の部屋へと戻った。

 砦にも小さな神殿があるにはあるが、そんな所にはあの傲慢な神はいないだろう。そう、当たりをつけたヴァリスが向かったのは、川向こうにある比較的大きな村。その村の真ん中にある神殿に、ヴァリスは抜き身の剣を手にして入った。
 皆が外で働いている昼間だからか、壮麗な神殿には人っ子一人いない。好都合だ。ヴァリスは祭壇につかつかと歩み寄ると、掲げてあったスーヴァルドの絵姿に向かって大声で叫んだ。
「出てこい! スーヴァルド!」
「何だ」
 拍子抜けするほどすぐに、ヴァリスの前の空間が強く光る。
 その光が消えると、ヴァリスの目の前にはすっきりとした姿の優男が立っていた。
「おまえが、スーヴァルドか!」
 優男に向かって剣を突きつける。だが、ヴァリスの剣幕にも、鈍く光る剣先にも、優男はびくともしなかった。
 そして。
「おまえが、ヴァリストザード。……大きくなったな」
「なっ」
 優男から発せられた、親しげな口調に、驚きと憤りを同時に感じる。まさか、こいつが、俺の……? いや、まさか、そんなことが。
「驚くことはない。私は神だ。この世の全てのことを知っている。勿論、おまえのことも。……いや、いつも気に掛けていたよ。父親として」
「な、に……」
 衝撃で、剣が手から落ちる。
「そう、私はおまえの父親。母親は、フェイリルーナだ」
 戸惑うヴァリスの耳に、優男の声が優しく降ってきた。
「見てごらん。私とおまえ、違うのは髪の色だけだ」
 確かに、この優男はヴァリスによく似ている。睨むように上から下まで眺め回してから、ようやく納得するほかないことに気付く。この人が、スーヴァルドが、本当に自分の父親、なのだろうか? だとしたら、自分はどうすべきなのか。迷いで、ヴァリスの心は千々に乱れた。
「ソセアルの森を出たフェイリルーナは、大陸南部の私の神殿で働いていた」
「嘘、だ」
 フェイリルーナは、いやソセアルの一族は、程度の差こそあれスーヴァルド神を憎んでいたはずだ。その情報が、ヴァリスをようやく正常に戻す。
 だが。
「暴漢に襲われていたところを、私が助けたからな。感謝の意もあったのだろう」
 優男の言うことには全て、不可思議な説得力があった。
「昔のことはあったが、私も、フェイリルーナのことは憎からず思っていた」
 だから、二人は愛を育み、息子も生まれた。だがある時、フェイリルーナは突然神殿から姿を消してしまった。おそらく、フェイリルーナがソセアルであると気付いたノイトトースの先王が『儀式』の為にさらったのだろう。そう話す優男の声は、微かな諦めを帯びていた。
 優男の言葉は、事実だ。そう、判断する。
 そうすると、自分は、そして、ルディテレスの罪を償うティア、は……。
「ティアは、罪の子だ」
 はっきりとした声が、脳裏に響く。
「純潔を遵守しなければならないはずの、聖堂騎士の息子なのだから」
 そう、だ。ティアは……罪によって生まれた、アレイサートとセターニアとの息子。
「罪の子は、苦しむのが定め」
 脳内を巡っては響く、荘厳な声に、ヴァリスの心は圧倒された。

「ヴァリス!」
 鋭い声に、はっと我に返る。
 神殿の石壁はいつの間にか消え失せ、フィナロカリ砦の殺風景な中庭がいつも通りの姿を曝していた。
〈……あれ〉
 小首を傾げる。自分は確かに、村の神殿に居たはずなのに。いつの間にか砦まで戻ってきている。
「どこ行ってたんだよ。急に消えたりして」
「ああ」
 詰るハルに、生返事を返す。自分は一体何をしていたのだろう? 何をする為に、神殿まで行ったのだろう? どうしても思い出せない。それよりも、ティアのことが心配だ。
 ふらふらと、ティアのいる塔に向かって歩き出す。
「ちょっと待て、どこへ行くんだ!」
 ハルの声が背中に響くのを、ヴァリスは遠く感じて、いた。

 ふらつく足取りで塔の螺旋階段を上がり、ティアの部屋まで辿り着く。既に夕方となり、日が差さなくなった部屋には、ティアの寝息だけが静かに響いていた。
 そっと、ティアの寝顔を覗き込む。次に湧き上がったのは、嫉妬だった。
 ティアには、セターニアという優しい母親がいた。セターニアが早死にせず、ヴェクハールの聖堂が許したなら――寛大な聖堂だから、おそらくセターニアとアレイサートの仲を許しただろう――、父親であるアレイサートと共に、ソセアルの森で穏やかに幸せに暮らすことができただろう。対して、自分は。自分に従わない人々を粛正した傲慢な神スーヴァルドの息子、だ。
 自分の中に流れる血を、厭わしく思う。そして。……ティアのことを羨ましいと思うと同時に、強い憎しみが湧いてくるのをヴァリスは止めることができなかった。
 徐に、ティアの細い首に両手をかける。そして躊躇いなく、ヴァリスは自分の手でティアの首を強く絞めた。ティアの身体が、強く仰け反る。冷たい左手がヴァリスの右手首にかかったが、それでもヴァリスはティアの首から手を離そうとしなかった。
 次の瞬間。
「ヴァリス!」
 強い声とともに、ヴァリスの身体は弾かれるように後ろへ飛ばされる。壁にぶつかる前に受け身をとったヴァリスの前に、顔を真っ赤にしたハルが立ちはだかっていた。
 何が起こったのか。頭が混乱している。当惑するヴァリスを睨みつけてから、ハルはくるりとヴァリスに背を向け、ティアの状態を確かめた。
「良かった。息は、ある」
 安堵の声が、ヴァリスを正気に戻す。自分は、ティアに何を、した……?
「この、バカっ!」
 突然の平手打ちが、ヴァリスの思考を粉砕する。怒りに吊り上がったハルの瞳を、ヴァリスは呆然と見つめた。
「ここじゃ話ができない!」
 ハルに胸倉を掴まれ、引き摺られるように螺旋階段を下りる。中庭まで降りてから、ハルはヴァリスの胸倉を掴み直し、自分の方へとぐっと引き寄せた。
「何でティアを殺そうとしたんだっ! 言ってみろっ!」
 ハルとヴァリスでは、身長差がある。だからヴァリスの身体は、跪くような格好になっていた。
「そ、れは……」
 眼前に迫ったハルの剣幕に、言葉が詰まる。いや、何も言えないのはハルの所為ではない。あの感情は何だったのか、説明できないからだ。
 ただ、これだけは分かる。
「ティアが、羨ましかった」
「はいっ?」
 ゆっくりと、悔恨の念が湧いてくる。スーヴァルドを倒す為に村の神殿に行ったこと、そこで出会った優男のことと、自分の出生の秘密。時々言葉に詰まりながら、ヴァリスは昼間のことをハルに包み隠さず話した。
「馬鹿か、おまえは」
 スーヴァルドを倒せばティアが助かると考える辺りからして短絡的過ぎる。心底馬鹿にしたようにそう言ってから、ハルはヴァリスの胸倉を掴んだまま真顔で言葉を継いだ。
「それ絶対スーヴァルドに騙されてるぜ」
「え?」
 ハルの思わぬ言葉に、瞠目する。なぜ、ハルはそこまではっきりと言い切ることができるのだろうか? ヴァリスの疑問に対する答えは、次のハルの言葉にあった。
「おまえの父親は、センテの町の染色職人だ。もう、亡くなっているけど」
「確証は、あるのか?」
 戸惑いながら、声を出す。
 ハルはヴァリスの目をじっと見つめると、いつもの口調で言った。
「その人の弟に、逢った。……似てるんだよ、おまえと」
「本当、に?」
「ああ」
 これが全て終わったら、センテまで行って確かめてくればいい。ハルはそう吐き捨てると、くるりとヴァリスに背を向けて去って行った。
 怒りに肩を尖らせたその後ろ姿を、呆然と見送る。次に湧いてきたのは、なぜか、安堵の気持ち、だった。自分にも、ちゃんとした父親がいた。ちゃんとした母親も、だ。
「ハルの言ってたことは、全て本当のことよ、ヴァリス」
 不意に、静かな声が、ヴァリスの背後で響く。振り返らずとも、そこにフェイリルーナがいることは分かっていた。
「偽善かもしれないけれど、あなたを守る為に、私はあなたを捨てたの」
 家出してソセアルの森を出たリルーニアはフェイリルーナと名を変え、得意の裁縫の腕を生かしてセンテの町で暮らしていた。予言と束縛から離れる為に大きな街で暮らすのが目標だったので、お金が貯まったら町を出て行く予定だった。だが、愛する人が、できてしまった。自分を偽るのは、フェイリルーナの生き方ではない。だから、彼と結婚して、そして、子供も生まれた。幸せだった。フェイリルーナははっきりとそう、口にした。
 だが、運命は容赦なくフェイリルーナを襲う。ヴァリスが生まれたばかりの頃、一家はノイトトースの神官達に襲われた。フェイリルーナとヴァリスを庇った夫は死に、フェイリルーナはヴァリスを抱えて南へ逃げた。しかし神官達は執拗に追ってくる。自分はどうなってもいい。ヴァリスだけは、助けたい。その想いが故に、フェイリルーナはヴァリスをヴェクハールの街の神殿前に隠すように置き去りにした。それが、真実。
 出来事を淡々と語るフェイリルーナの声は、全くの平静。その平静さに、ヴァリスの心は段々整理されてきた。
 悪いのは、ティアでもフェイリルーナでもない。
「母、さん……」
 呟くように、それだけ口にする。ハルとフェイリルーナの言葉で、ヴァリスの気持ちは救われた。後は。……してしまったことを、償わなければ。
「ありがとう」
 立ち尽くすフェイリルーナに、ヴァリスは一礼するとくるりと進路を変えた。

 セティは、悩んでいた。
 ジェイのことを、だ。
「……ふぅ」
 何度目かの溜息を、夕焼けの空に吐く。こんなことは、初めてだ。自分の気持ちが、分からない。
 ティアに対する感情は、はっきりしている。アルリネット様から託された、可愛い弟、だ。やんちゃで、弱くて、そのくせ大切な人を守ろうという気持ちが人一倍強い、弟。ハルに対する感情も、ティアとは別の意味ではっきりしている。クールで軽いフリをしているが、芯は熱く強い。攻撃魔法や補助魔法が得意だから、冒険仲間としてこれほど心強い人はいない。対して、ヴァリスやジェイに対する気持ちは、どうだろう。これが実ははっきりしない。ヴァリスに対しては、答えは既に出ているのかもしれない。良く言えば一本気、悪く言えば猪突猛進で視野が狭い。そしてティアのことを第一に思っている。セティにしてみれば、味方のうちでも、最悪の存在。
 そして、ジェイに対しては。
〈分からない〉
 ティアを敵の手に渡してしまったことに対し、ジェイはセティを責めなかった。何くれとなくセティを庇ってくれてもいる。だが、その行動が、セティを大切に思っているからなのか、ただ単にセティが女の子であるからだけなのか、それが、分からない。
 ……ジェイが、好きだ。心から、そう思う。だが。ジェイの本心がどうなのか、推し量ることすらできない。そのことが、セティを不安にさせていた。もしかすると、ジェイは、セティのことなど何とも思っていないかもしれない。そう考え、セティは首を強く横に振った。ダメだダメだ。弱気になっては、ダメだ。弱気になってしまうと、また『影』につけ込まれる。ティア達に会ったときに自分が『影』にとりつかれていた理由を、今のセティははっきりと理解していた。ソセアルの民が見つからず、途方に暮れていたからだ。『影』は、その心の弱さに、忍び込んだ。
 今のティアは、『影』を祓うことすらできない。同じソセアルのフェイリルーナなら『影』を祓うことができるかもしれないが、確証はない。『影』に対応できる人がいない以上、セティにできることは自己防衛しかない。
 と。
 突然起こった、ハルとヴァリスの諍いの声に、はっと振り向く。ドアの向こうに見える螺旋階段を、ハルとヴァリスが下りていくのが見えた。その光景に、思わず首を傾げる。ハルがヴァリスを引き摺って階段を下りていたような気がするのは、気のせいだろうか?
 それはともかく。
「不用心」
 そう呟いてから、セティは椅子の背に掛けていたマントと机の上のアミュレットを掴んで部屋を出た。
 仲間内の諍いをティアに聞かれたくないのは、分かる。ティアは耳が鋭くなっているし、いつ目覚めるか分からないのだから。だが、容態が芳しくない人間を放っておくとは、ハルらしくないし、ヴァリスらしくない。
「まあ、良いか」
 ハルとヴァリスの仲が微妙なのは、分かっている。ティアには、恩もある。二人がティアの面倒を見ることができないのならば、自分が行くのが当然だろう。

「……何、これ」
 ティアの部屋の前で、絶句する。
 ベッドの上の毛布は乱れ、椅子と机が倒れている。あの二人は、病人の前で一体何をやっていたのだろう。セティは怒り半分、呆れ半分で部屋に入った。ともかく、片付けるしかないだろう。
 と。
「……ティア?」
 我が目を疑う。心臓の痛みで苦しんでいたはずのティアが、ベッドの上に起き上がったのだ。
「ティア?」
 単純に考えれば、回復したということで喜ぶべきなのだろう。だが。
〈なぜ、いきなり全回復?〉
 常識では考えられない。このなぜが、セティに戸惑いの言葉を言わせた。
「だ、大丈夫なの、ティア?」
 次の瞬間。ティアの紫色の瞳がセティの方を向く。見えていないはずの瞳に睨まれ、セティはぎくっと身を震わせ、その場に立ち尽くした。
 そして。
「アルリネットの、娘か」
 侮蔑を含んだ言葉が、ティアの口から漏れる。これまで一度もその口から発せられたことはないであろう蔑みの言葉は、セティの心に強い恐怖を引き起こした。
「ティ、ティア……」
 逃げなければ。本能が、そう叫んでいる。だが、戦慄く足が言うことをきいてくれない。
 一瞬の後。ティアの姿は、セティの眼前に、あった。
 酷薄な笑みが、青白い顔に張り付いている。姿形はティアだが、中身は違う。セティがそう考えている間に、ティアはセティの腰にあった短剣を抜くと、セティに向かって振り上げた。
「わっ!」
 直前で、避ける。だが短剣は確実に、セティの左半身に傷を残した。
 脇腹を流れる、生ぬるい感覚に、戸惑いと危機感を感じる。だが、感情と行動は同期しない。
「ティア、止めて!」
 ふらつきを覚え、後ろに倒れる。石壁の冷たい感覚が、セティの身体を受け止めた。そのままずるずると、壁に沿って身体が下へ落ちる。尻餅をついたセティの上には、ティアの酷薄な影が、あった。
 自分は、死ぬのか。見上げた先で赤黒く光る短剣に震えが走る。その短剣がゆっくりと自分に向かって振り下ろされるのを、セティは為す術もなく見つめていた。
 と、その時。
「セティ!」
 セティに向かっていたはずの短剣の切っ先が、横にずれる。ティアとセティの間に、ジェイの大柄な影が、確かに見えた。
「ジェイ!」
 弱く叫ぶセティの前で、ジェイに手首を捻られたティアの手から短剣が落ちる。
「ティアを操ってる奴! 今すぐティアから出て行け!」
 ジェイの大音声が、辺りの空気を頼もしく震えさせた。
 だが。ジェイに捻り上げられた両腕の間から、ティアが薄く笑う。次の瞬間。ジェイの大柄な身体が後ろへとすっ飛んだ。
「ジェイ!」
 壁に叩きつけられて気を失ったジェイに向かって、思わず叫ぶ。その間に、ティアは短剣を拾い上げると、セティに向かって再び酷薄の笑みを浮かべた。
 やはり、私は殺されるのか。振り上げられた短剣に、諦観の念が疼く。
 次の瞬間。
〈魔法!〉
 脳裏にひらめいた言葉通り、左手に握ったままのアミュレットをティアの顔の前に突きつける。ほとばしる閃光の間に、短剣が床に落ちる音が確かに聞こえた。
「ティア! セティ!」
 ジェイの声が、すぐ側で響く。ティアの身体をジェイが押さえつけたのが、セティにもはっきりと見えた。
 だが、次の瞬間。ジェイの膝が、折れて床に落ちる。
「うぐぅ……」
 左目を押さえて呻くジェイの横には、右手を鮮血で濡らしたティアの姿が、あった。
「ふん」
 鼻を鳴らしたティアの身体が、ジェイの胸倉へ突進する。仰け反ったジェイの胸に、ティアの右腕が突っ込まれるのを、セティは呆然と見ていることしかできなかった。
「これで、良いだろう」
 そう言ってジェイから離れたティアに連動するように、ジェイの身体が前に傾ぐ。
「ジェイ」
 うつぶせに倒れたジェイの背中にも、周りの床にも、鮮血の染みが広がっていた。
「ジェイ!」
 痛む脇腹を押さえながら、ジェイの側に這って行く。その身体を強く揺すっても、ジェイは呻き声すら上げなかった。
「そんな……」
 回復魔法を、早く。焦る気持ちで、左手に持ったアミュレットをジェイの身体に翳す。だがすぐに、アミュレットは遠くへ弾かれた。……セティの、左手とともに。
「あ……」
 痛みより先に、悲しみが襲う。
 ジェイを、助けることが、できない。セティの両目から、大量の涙が流れ出した。

 自分が目を離した、ほんの僅かの間に起こった惨状に、驚きと戸惑いが同時に起こる。
 ティアの病室だった部屋には、当のティアが血に濡れた腕をだらりと下げて立っている。そしてティアの側には、血の海の中に倒れているジェイと、その背中で泣いているセティの姿。何があった? ヴァリスがそう思うより早く。
「なっ」
 ヴァリスを見て、ティアが浮かべた笑みに、戦慄が走る。だが。……この笑みは、どこかで見たことがある。
「スーヴァルド!」
 思わず、叫ぶ。
「当たりだ、ヴァリストザード」
 ティアの口から、スーヴァルド神の声が迸る。
「その顔からすると、私の操作は切れてしまったようだな。……まあ、ティアリルの、ルディテレスの身体を乗っ取れたのだから、良しとしよう」
 世界に『影』をばらまいたのも、悪意の固まりである『四天王』を作ったのも、自分と対等の『力』を持ち、自分を裏切ったルディテレスの生まれ変わりを探す為。世界に嘘をつき、自分に近しい北の国の王を狂わせたのも、全て、ルディテレスによって失った自身の力を取り戻す為。今のティアの身体は、神々の成れの果てである『四天王』を封じているから、『力』の点では申し分ない。そう言って、スーヴァルドはティアの顔で口の端を上げる。その言葉の残忍な響きに、ヴァリスの怒りは一気に沸点に達した。
 スーヴァルドはヴァリスを騙し、ティアを過酷な運命へと突き飛ばし、母であるフェイリルーナの幸せを奪い、恩人であるアレイサートの死の原因を作った。その上更に、ティアに仲間を、ジェイとセティを殺させるとは。
「スーヴァルド!」
 腰の剣を抜き、ティアに向かって構える。
 だが。
「ヴァリス」
 次にティアの口から出たのは、間違いなくティア自身の声だった。
 殺せない。自分にティアは殺せない。先程ティアの首を絞めた時の感覚が、不意に蘇る。あんなことは、もう二度とごめんだ。そう感じた、次の瞬間。
「……あ」
 ヴァリスの剣がティアの手の中にあるのに、気付く。いつの間に。唖然とするヴァリスより早く、ティアの手の中の剣は、ヴァリスの胸を襲っていた。
 痛みを予測し、歯を食いしばる。だが、痛みは来なかった。
「ヴァリス!」
 ハルの声が、耳と心を強く叩く。
「何ぼけっとしてんだ!」
 ヴァリスの目の前では、ハルとティアが剣の奪い合いをしていた。
「早く、ティアを押さえろ!」
 ハルの言葉は、正しい。だが、躊躇いが、ヴァリスの身体を動かさない。
 次の瞬間。
「うわっ!」
 ハルの身体がヴァリスの方へ飛んでくる。何とか受け止めたヴァリスだが、衝撃で床に尻餅をついてしまった。
 そして。
「……ハル?」
 ヴァリスの腕の中で動かないハルに、戸惑いを覚える。その白いローブに血が滲んでいるのを、ヴァリスは驚きとともに感じた。
 スーヴァルドに乗っ取られたティアを、このままにはしておけない。それだけは、分かる。だが。躊躇いが、抜けない。
 ヴァリスは呆然と、血の中で微笑むティアを見つめた。

 血の臭いが、不快なほど身体に纏わり付いている。その感覚に気持ち悪くなり、ティアは急速に覚醒した。
 目覚めて、はっとする。……自分の身体が、誰かに乗っ取られている! 誰に? 答えを探す為に、辺りを見回す。なぜか見えるようになっている視界が捉えたのは、赤、赤、赤。そして。
〈これ、は……〉
 床に倒れている仲間の姿に、愕然とする。全て自分の行為の結果なのは、血に濡れた右腕を見れば明らかだった。
〈そん、な……〉
 仲間を、殺してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。慚愧の念が、ティアを襲う。そして、分かってしまった。自分が何者に乗っ取られているのかが。
〈スーヴァルド!〉
 こんな残酷なことを平気でできるのは、あの神のみ。
 昔夢で見た、ルディテレスの苦い過去が、ティアの脳裏に蘇る。これ以上、スーヴァルドの好きにさせない。させてたまるか。

 意識を浮上させ、乗っ取られた身体を取り返す。
 そしてそのまま、ティアは部屋にある唯一の窓の方へ走り寄ると、その窓からその身を外へと投げ出した。

 微笑みながら剣を振り上げたティアの身体が、不意に固まる。
 次にティアが取った行動は、ヴァリスの予測を超えていた。
〈……えっ?〉
 剣を手放したティアが、くるりと向きを変えて窓へ近づく。ヴァリスがあんぐりと口を開けるより早く、ティアの身体は虚空に踊った。次の瞬間、ヴァリスの耳を強く打ったのは、水音。
「ティア?」
 抱えていたハルの身体を床に投げ出し、窓へと向かう。
 その僅かな間に、ヴァリスはティアの行動の理由をある程度推測することができた。おそらく賢いティアは、スーヴァルドが自分の身体を乗っ取ったことに気付いた。そして、これ以上の惨劇を止める為に、塔から飛び降りた。
〈ダメだ、ティア!〉
 卑劣な神の所為で、ティアが死ぬことが、許せない。
 次の瞬間、ヴァリスも窓から身を躍らせた。

 まとわりつく冷たい水を必死に掻き分ける。
 しばらく流されたが、それでも何とかヴァリスの指先はティアの細い身体に触れた。
 ぐったりした身体を、夢中で抱きかかえる。必死の思いで、ヴァリスはティアの身体を岸まで運んだ。
 だが。
「ありがとう、ヴァリス」
 ヴァリスの腕の中で目覚めたティアが発したのは、残酷な笑み。ティアの身体を乗っ取ったままのスーヴァルドは、有り得ない力でヴァリスの身体を地面へ突き飛ばした。
「しかし、甘いな」
 倒れたヴァリスの上に乗る、侮蔑の笑みに、歯噛みする。だが、武器は全てあの塔の床の上だ。いや、例えこの手に鋭利な武器があっても、ティアを傷つけることは、……やはりできない。ヴァリスはぐっと唇を歪ませた。……いや、やらなければならない。自ら塔から飛び降りたティアの気持ちを、無駄にしては、いけない。……できなければ、騎士ではない。
 神殿で習った武術を使い、ヴァリスの上に乗ったスーヴァルドを突き飛ばす。思わぬ攻撃に地面に転がったスーヴァルドの上に乗り、暴れる身体を足だけで押さえると、ヴァリスは躊躇いなく、その細い首に両手を、かけた。
 目を瞑り、両手に力を込める。足の間で暴れていた身体が静かになるまで、ヴァリスは両手から力を抜かなかった。

〈ありがとう、ヴァリス〉
 本物のティアの声が、聞こえたのは、気のせいだろうか?

 あいつらは、ヴァリスもティアも、いつも、行動が突飛で早過ぎる。舌打ちをしながら、ハルは床を這ってヴァリスが飛び降りた窓の側まで行った。
 血を失った所為か、思考が定まらない。それでも、咄嗟の行動だったが、ヴァリスには水の中でも息ができるよう魔法をかけた。だから、大丈夫だろう。問題は、ティアだ。
「ハル! これは!」
 驚きの声に、振り返る。蒼い顔をしたフェイリルーナが、ジェイの身体の方に身をかがめているのが、見えた。
「あと宜しく、母者!」
 その母に叫んでから、塔の螺旋階段を半ば這うように駆け下りる。
 ティアは、大丈夫だろうか? それだけが、心に引っかかっている。自分の身体に回復魔法をかけつつ、ハルは川下を目指して走った。
 そして。
 川原に蹲る影を見つけ、叫ぶ。
「ヴァリス!」
 顔を上げたヴァリスの両腕には、ぐったりとして動かないティアの身体が、あった。
「ヴァリス?」

 ハルの声に、ヴァリスはゆっくりと、首を横に振った。

 そのヴァリスの瞳が、紫色に濡れていることにハルが気付いたのは、しばらく呆然とした後のこと、だった。

 一年ぶりに目にしたアルトティス島は、木と土の香りに満ちていた。
〈案外、元気だな〉
 島中、どこもかしこも建設中。ごたついてはいるが、人々の表情は明るい。
 この島を破壊したのは、自分ではない。だが、身内の蛮行に慚愧の念が浮かんだのは確かだ。だから、島の今の状況は、ハルにとっては嬉しかった。
 そして。
「……ジェイ!」
 島の奥の崖の上、アルリネットの神殿近くでやっと、友人の姿を認める。太い丸太を二本担いで丘を登ってくるジェイは、最後に見た時よりも格段に元気そうだ。そのことも、ハルをほっとさせる。ジェイの怪我が一番酷かったのだから、尚更だ。
「お、ハルじゃないか! 怪我は、もう良いのか?」
 丸太を地面に落としたジェイの掌が、ハルの背を叩く。大きな掌で叩かれた背は前と同じく痛かったが、それでもハルは余裕を装った笑みを浮かべ、鼻を鳴らした。
「おかげさまで。ジェイより軽傷だったしね」
「体力無いけどな」
 軽口も、今は懐かしく思ってしまう。
 スーヴァルドに操られたティアに付けられた右目の傷の上には、黒い布が巻かれている。眼球が破壊されたから、ジェイの右目はもう使えない。しかし、他の傷は、全て治っている。フェイリルーナが自分の魔法の全てを使って治療してくれたからだ。勿論、ハル自身の傷も。ハルの、母に対する感情には未だに負の部分が多いが、仲間を助けてくれたことだけは感謝したい。ハルは心からそう、思った。
「私の力じゃないわ。特にジェイに関しては」
 仲間を助けてくれたことに対するハルの感謝に、母フェイリルーナは首を横に振ったことを、ふと思い出す。
「セティの、おかげよ」
 切り落とされてもなお、アルリネットのアミュレットを握ったままだったセティの左手は回復の魔法を発し続けていた。そのおかげで、ジェイは致命傷を免れたのだ。フェイリルーナはそう、ハルに説明した。
 その、セティは。
「あ、ハル居た!」
 明るい声に、顔を上げる。
 崖に作られた細い道を、セティが元気良く上がってくるのが見えた。
「ちょ、セティ!」
 ハルの横のジェイが、戸惑ったような声を上げる。
「危ないって! 来るなって!」
 ジェイのその声の理由を知っているハルは、ジェイを横目で見、そしてくすりと笑った。
 そんなハルとジェイには関係なく、セティは崖の上まで辿り着いてハルの両手を自分の両手でぎゅっと握った。その手の片方は、義手。ベルサージャとフェイリルーナが作り上げた、傍目には本物に見える、精巧な品。
 ジェイの右目も、魔法の義眼を嵌めることができたのだが、それはジェイ自身が断っている。ティアを止めることができなかったのがその理由だと、ハルはふんでいる。そんなことは、気にする必要はないのに。……自分だって、止められなかったんだから。
「いらっしゃい、ハル。ルーナ小母様から聞いて探してたのよ」
 久しぶりに見るセティは、ジェイ以上に元気で、そして少し太っていた。これは、幸せの証拠。「男の子でも女の子でもティアって名前つけるんだ」と言っていたと、これはフェイからの又聞き。セティとフェイがいつの間にか仲良くなっていたことが、ハルには少し気に掛かる、が。まあそれは置いておく。
「全く、危ないからここには来るなって」
「あら、良いじゃない。ハルに逢いたかったんだから」
 腕組みしたジェイの言葉に、セティが笑う。
 ジェイとセティは、ちゃんと、幸せにやっている。
 生まれた村を飛び出した、少しふらふらしたところのあるジェイが、こんなちっぽけな島でうまくやっていけるのだろうか。その心配も、ハルの心には確かに、ある。だが、セティとジェイの笑顔を見ていると、そんな心配は杞憂に思えた。ジェイがここを出て行く時にはきっと、セティと、これから生まれてくる子供を連れて行くだろう。ジェイは、そういう奴だ。
 だから。
「ま、お邪魔虫は長居しないよ」
 ハルは二人に向かってそう、軽口を叩いた。
「え? もう行っちゃうの?」
 意外だという顔をするセティの横で、ジェイが難しい顔をしたのがはっきりと分かる。だが、……行かなければならないのだ。セティとジェイのことは心配要らないと分かった。だが、あいつ、は。
「ヴァリスに、宜しく言ってくれ」
 呟くようなジェイの声が、ハルの耳に響く。
「分かった」
 ハルは二人に軽く手を振ると、転移の呪文を低く、唱えた。

 再び目を開けると、濃い緑が目に入ってきた。
〈……うまく、いったな〉
 転移の呪文を使うのは久しぶりだったから、うまくいくかどうか自信が無かった。ハルはほっと息を吐いてからおもむろに辺りを見回した。
 ハルが今立っているのは、ソセアルの森。ここに来るのも、久しぶりだ。だが、前にここに来たのはずいぶん昔のような気がするが、実のところ、春から再び春へと変わっただけに過ぎない。ほんの僅かな間に、多くのことがあった。そして、全てが、変わってしまった。
「ハル」
 凛とした低い声に、振り返る。アルリネット神の眷属、ベルサージャが、薬草の入った籠を手にしてハルの後ろに立っていた。
「久しぶりだな」
 ベルサージャはハルに向かってにこりと笑うと、赤い屋根の家の方を指さした。
「ヴァリスを、迎えに来たのだろう?」
 ベルサージャに言われた方向へ、歩く。赤い屋根の家を半分回ると、石が林立する小さな広場が、見えた。その広場の端、まだ土が濡れたように見える辺りに、人が一人横たわっている。ハルはふっと息を吐くと、その影の後ろに立った。
「ヴァリス」
 ハルの声に、ヴァリスがゆっくりと上半身を起こす。その身体の下にあったのは、まだ新しい墓石。
「ハル」
 抑揚のない声と共に、その墓石の前を指差すヴァリス。しかしヴァリスに教えられずとも、そこにあった小さな土盛が消えているのは、ハルの瞳にもはっきりと映っていた。この場所に、スーヴァルドの邪悪な意志を封じたティアが、眠っている。そのティアの小さな骸が大地に、アルリネットの懐に消えてしまったことを、ハルは寂しさと共に感じていた。
 だから。
「もう悲しむのは止めてくれって言ってるんだよ、ティアは」
 白くなってしまったヴァリスの頭を、小突く。髪だけではない。ヴァリスの瞳の色も、青から紫に染まったままだ。白銀色の髪に、紫色の瞳。ティアが成長したら、こんな感じになっていただろうか? ハルはふっと息を吐いた。それを思っても、詮無いこと。
「……そう、だな」
 ハルの言葉に、ヴァリスは渋々ながら頷くと、立ち上がって服に付いた泥を払った。
「こうしているだけでは、ティアに笑われる」
「そう、だね」
 だから、迎えに来た。
「それは。……ありがとうと言っておこうか」
 ハルの言葉に苦笑するヴァリスの声は、確かに、昔の傲岸さを取り戻して、いた。

 ハルとヴァリスが去った後の空間が、揺れる。
 静かなその場所に立っていたのは、銀髪紫瞳の青年。

 青年は、立ち去るハルとヴァリスの背を少しだけ見つめ、そしてにっこりと、笑った。

前日譚

前日譚1 大きい人と、小さい人

「……全く、なんで泳げないのに川なんか飛び込むんだよ」
 自分が作った焚火の向こうへ、そう、声を掛ける。
 返事は、無い。だが、火の向こう側に見える小さな、ジェイより四、五歳くらい年下に見える少年が我が身の危険を顧みず川へ飛び込んだ理由は、ジェイ自身明確に知っている。今現在ジェイが抱いて温めている子供が溺れているのを助けようとしたからだ。結局のところ、同時に溺れそうになっていた子供と少年を、ジェイが助けたわけだが。泳ぎも、溺れた人の救助も、海辺の漁師村出身の自分には経験として身に付いている。家出してしまう程反発しながらも身体に叩き込まれた経験や知識が、流浪する傭兵の真似事をしている今になって役に立った。そのことが、ジェイには少し悔しく、しかし嬉しかった。
「寒いだろ」
 つと立ち上がり、焚火を回って少年の方へ行く。虚弱そうな裸の身体にジェイのマントを巻き付けて座っている少年は顔の青白さと髪の白さも相まってか、とても具合が悪そうに見えた。
「子供を抱いてりゃ、互いの体温で温かくなるぜ」
 その少年の腕に、抱えていた子供を抱かせる。少年は無言のまま、眠っている子供をそっと抱き締めた。
「助けてくれて、ありがとう」
 血の気の無い少年の唇から、小さな声が漏れる。
「別に良いさ」
 そう言いながら、ジェイは少年に横になって休むよう、言った。
「疲れてるんだろ? 顔色悪いぜ」
 まだ太陽は高い位置にある。濡れた上着から下着まで全ての服が乾いてから子供の親を捜しても、時間的に余裕があるだろう。万が一、親が見つからないまま夜になってしまっても、干されている服から察するにこの少年は森の近くにある商業都市兼聖堂都市ヴェクハールの神官見習いだ。二人分の夕飯と寝床ぐらいは都合つけてくれるだろう。
 ジェイの言葉に従い、少年は無言のまま、川原傍の柔らかな草の上に横になった。勿論、助けた子供も少年の腕の中、だ。
「助かって、良かった」
 子供の柔らかそうな髪を撫でながら呟かれた少年の言葉が、ジェイの耳に優しく響く。
 少年が眠りにつくまで、ジェイは少年のキラキラと光る髪を眺めていた。
 と。
 微かな殺気に、焚火の側に置きっ放しにしていた戦斧を掴む。獣か? それとも、最近世間を騒がせている小鬼か? それとも、……人か? 風も無いのにざわざわと動く茂みに向かって、ジェイは戦斧を構えた。
 だが。茂みから出て来たのは、背は高いがほっそりとした人影。身に付けている青色の袖無し服の紋章から、ヴェクハールの神官だと分かる。神官なら、大丈夫だ。ジェイはほっと息を吐いた。獣や小鬼はともかく、最近多い、影のようなモノに取り付かれて正気を無くした人間を相手にするのは、できれば避けたかった。相手が強いからではない。得体の知れないモノは正直怖い。ただ、それだけ。
 だが。
「……ティア!」
 ジェイの方を見て鋭い叫びを上げた人影が、腰の剣を抜きながらジェイに向かって突進してくる。
「なっ!」
 度肝を抜かれたジェイだが、しかしすぐに握っていた戦斧を持ち上げ、襲って来た刃を辛うじて受け止めた。
「貴様っ! ティアに何をしたっ!」
 怒りの形相が、眼前に迫る。
 何か、誤解がある。ジェイは冷静にそう判断した。が、その先は、重い刃が自分に当たらないよう、止めるだけで精一杯。この細い身体のどこに、こんな馬鹿力があるんだ? 目の前の白皙の青年に、ジェイは正直驚いて、いた。
 と。
「ヴァリス!」
 か細い声が、ジェイと青年の間に割って入る。あの、少年だ。ジェイがそう認識するより早く、少年はジェイの戦斧に絡まっていた青年の剣を手にした短剣で易々と外し、ジェイに裸の背を向けて青年と対峙した。
「ティア!」
 ジェイが戦斧を構え直すより早く、青年が剣を捨てて少年を抱き締める。
「大丈夫か? 怪我は無いか? まさかあいつに何かされた……」
 要らぬ誤解で青年に睨みつけられるより早く、ジェイは焚火の方を示した。
「あの子供を助けようとして溺れたコイツを、助けただけだ」
「な……」
 ジェイの言葉を聞いた青年の顔が、驚愕に歪む。
 次の瞬間。
「なんでそんな危ないことを!」
 青年はつかんでいた少年の肩を強く揺さぶった。
「え、だって、溺れてたんだよ。助けなきゃ」
 青年の方向違いの言葉と、戸惑いながら呟かれた少年のある意味真っ当な台詞に、当惑より先に場違いな可笑しさが込み上げてくる。この青年、少年のことしか考えていない。堪えきれず、ジェイはぷっと吹き出した。
「何が可笑しい」
 だがすぐに、睨みつける青年の視線を感じ、真顔になる。
「別に」
 ジェイは青年の視線を外すと、焚火の傍に戻り、まだ生乾きの服を着た。
 自分善がりな奴に構っていると、こちらが悪者にされるだけだ。こんな奴とは、早く縁を切るに限る。

 少年、ティアの懇願に負けた神官の青年ヴァリスに協力があったのが良かったのか、溺れかけた子供の親は、拍子抜けする程あっさり見つけることができた。
 子供の親を見つけた時点で、ジェイはこの二人と別れようと思っていたのだが。
「ヴェクハールに来てよ。もう夕方だし」
 無邪気なティアの言葉に頷いてしまったのが運の尽き、今更去る理由も見つけられず、ジェイはティアと、未だ仏頂面を崩さないヴァリスと共に、疎らになった木々の間を歩いていた。
「ごめんね」
 不意に、小さな声が耳に入る。見下ろすと、ティアの銀色の髪が微かに震えているのが、横に見えた。
「ヴァリス、良い人なんだけど、僕のことになるといつもああなんだ」
 言葉足らずのティアの台詞に、首を横に振る。
「良いさ。俺は気にしていない」
 まだ先のことだろうが、自分にも守りたい程大切な人ができたら、気付かないうちにヴァリスのような言動をとってしまうかもしれない。だからジェイは、ヴァリスを許そうと決めた。
 それに。ジェイの言葉に明るく笑ったティアをもう一度見つめ、そっと思う。この、見た目と違って激しい心を持ち、そして武の素養がありそうな少年の成長を、見てみたい。その為なら、一つ所に落ち着くのも良いだろう。自分の心を確かめるように、ジェイはうんと一つ、頷いた。

前日譚2 拾い、拾われ

 目を開けると、暗い背景に服の青色がくっきりと見える。
 その服に白色で描かれている紋章を認識するや否や、ハルは身体の揺れに構わず飛び起き、鋭い魔法を放った。
「うわっ!」
 狼狽の声を背に、暗い場所の向こうに見えた光の方へ飛び移る。一瞬だけ宙に浮いた身体は、しかしすぐに固い土に落ちた。
「痛ったぁ」
 口の中に感じた鉄気に、呻く。だが、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。腹から全身に広がる痛みを無視して、ハルは無理矢理自分の身体を立たせた。
 だが。無理矢理立った所為か、目の前が、回る。倒れかけた身体が、何か細い物に支えられたことだけは、辛うじて分かった。
「大丈夫か?」
 背後から、太い声が聞こえてくる。
「うん」
 すぐ側で聞こえたのは、本当に小さな声だった。
「全く、走る馬車から飛び降りるなんて、無茶するなぁ」
 心底呆れた響きと共に、視界が土の茶色から空の薄青に変わる。支えも、先程よりはしっかりしたものに変わった。
 ここから、逃げなければ。頭はさっきから警告を発している。だが、身体が、全く言うことを聞かない。あっという間に、ハルの身体は先程の暗い空間に戻された。
「幌が、破けてるぜ」
 ハルを暗い空間――幌を掛けた馬車の荷台――に戻した太い声が、溜め息をつく。
「ティア、怪我は?」
「大丈夫」
 太い声に続いて、細い声が、ハルの心に不安に響いた。
「本当か? 下手に怪我したら俺がヴァリスに怒られるんだからな」
「うん」
「まあ、良いか。暗くなる前にヴェクハールに着かなかったらそれはそれで怒られるわけだし」
 ハルの心中には全く関係無く、会話は続く。
 ほどなくして、ハルが横たわる空間は再び連続した揺れに襲われた。
 ヴェクハール。太い声が呟いた言葉を、恐れとともに反芻する。ヴェクハールは、最高神スーヴァルドを祭る聖堂都市。太古以来この世界を守り続けていると云われているスーヴァルドの残酷さを、ハルは知っている。母の違う幼い兄達が殺される原因となった神であり、未だに母をあの北の地に拘束し続ける神なのだから。そんな神を信仰する場所に、連れて行かれるはめになるとは。動かない身体に、ハルは低く、嗤った。先程、ハルが逃げようとしたのは、小さな影が身に付けた青い袖無し服に描かれた紋章がスーヴァルドの物だったから。
 と、その時。ハルの横にいた、その小さな影が、不意にハルに被さる。殺される! ハルは無意識のうちに、影が伸ばした小さな手を魔法で強く叩いた。
「痛っ」
 小さな声が、響く。腕を引っ込めた小さな影の、袖口が暗く濡れるのを、ハルはただ、見つめていた。
「どうしたっ!」
 すぐに、太い声が割って入る。今度こそ、殺されるか? ハルは思わず身を固くした。だが。
「……大丈夫」
 再び、小さな声が、暗い空間に響く。
「そうか」
 緩まった揺れは、再び元の調子へと戻った。
 コイツ、は。血に濡れた腕を庇ったまま自分を見つめる紅い瞳を、まじまじと見つめる。よく見ると、目の前の影の、左肩も、僅かに削がれた服の周りが黒く染みになっているのが分かる。コイツは、ハルが二回も傷付けようとしたのに、なぜ、黙っている? ヴェクハールの、スーヴァルドの神官なのだから、自分の敵なのでは、無いのか?
「何を、怖がっているの?」
 小さな声が、ハルの耳を叩く。
 じっと見つめられているのに気付いたのか、影はハルに向かってにこりと、笑った。
「僕は、味方」
 騙されるな。脳裏の警告が、響く。彼は、コイツは、……敵だ。
 と。
「うぉっとぉ!」
 馬車が一瞬だけ大きく揺れ、止まる。
「ここで『影』のお出ましとは」
 太い声と共に、太い腕がにゅっと幌の中に現れ、床の戦斧を取るのが見えた。
「『影』!」
 先程までハルを見つめていた小さな影も、緊張を残して幌の中から飛び出す。
 ハルは無理矢理その身を起こすと、小さな影な飛び出した後からそっと外の様子を窺った。
 短剣を構えた影――まだ小さい、少年だ――の前に三つの大柄な人影が、見える。その大柄な身体の後ろが黒くぼやけていることに、ハルは戦慄を禁じ得なかった。これは、……何だ? 今まで見たことも、聞いたことも、無い。
 ハルが驚愕している間に、人影の一つが小柄な少年に覆い被さる。だが、ハルがあっと思う間もなく、少年は人影をひらりと躱し、その腹に蹴りを入れて黙らせた。
「すごい!」
 思わず、声が出る。だが、ハルのその声が、人影達を怒らせてしまったらしい。残りの二つの人影が一緒になって少年に襲い掛かった。いや、一体は馬車のハルの方へ向かっている。驚愕から覚めれば、がむしゃらな攻撃などハルの敵ではない。
「消えろ」
 静かな声と共に、指先から鋭い光を出す。その光が、影の胸から背へと抜けたのが見えた。
「殺したの?」
 詰るような声に、高揚が消える。ハルの目の前には、髪も顔も真っ白な少年の、強い紅の瞳の光が、あった。
「しかたないだろ」
 ハルが何か言う前に、太い声が割って入る。
「殺さなきゃ、殺される。そういう時もあるんだ」
 そういって現れた大男の、手にした戦斧も、暗い赤に濡れていた。
「そう、だけど」
 大男の声に、少年が目を伏せる。
「でも、『影』に操られていただけだよ。『影』さえ、なければ」
「なくっても、人を襲いそうな奴らっぽいけど」
 倒した人影の、いかにも賊っぽい身なりに、ハルは思わず皮肉を口にした。
 だが慌てて、口を抑える。
「うん……」
 少年が再び俯いたのと、今度は大男が詰るような瞳でハルを見たのが、分かったから。
「ま、まあ、ともかく。『影』は祓った方が良いな」
 だがすぐに、大男は肩を竦めてハルから視線を外すと、呻いている、少年が倒した影達の方を指差した。
「そう、だね」
 まだ俯いたまま、少年が細い声を出す。だがすぐに、少年はキッと顔を上げると、高らかな鐘のような声を、出した。
 少年が紡ぐ歌に、聞き惚れる。しかしすぐに、ハルの興味は歌ではなく倒れている影の方へと移った。
〈……おや?〉
 山賊然とした身体に、張り付いたように蠢く黒い靄のようなモノが、少年の歌に合わせて震えているのが、見える。そして。ハルの見ている前で、その、どうやっても取れそうになかった靄が、空気に溶けるように、消えた。
「綺麗だろ、ティアの歌」
 ぽかんと口を開けたままの横で、大男が解説する。
 最近、森の中から現れ、人に取り付いてその人を狂わせる『影』。その影を祓えるのは、ヴェクハールに昔から伝わる『呪歌』だけ。その『呪歌』を、ヴェクハール中で一番上手く歌えるのが、ハルの目の前にいる、ティアと言う名の銀髪紅眼の、消えそうな程に儚げな少年。
「あの『影』、な」
 歌う少年に見とれるハルに、大男は驚愕することを口にした。
「アンタにも付いてたんだぜ」
「はいっ?」
 思わず、大声が出る。あんなものが、あんな汚い黒いモノが、この俺に?
「幸いなことに、倒れているところをティアが見つけて祓ったから、大事には至らなかったが」
 唖然とするハルに、大男はにっと、笑った。
 大男の言によると、この『影』という代物は、心の弱った人間に付き易いという。
〈俺が、弱い?〉
 思わず、むっとする。だがしばらく考えて、ハルはふっと、嗤った。スーヴァルドに、その強大な力に怯え、北の国を逃げ出し、善意から助けてくれた少年を傷付けた。十分『弱い』ではないか。
 不意に。森中に響いていた歌が、止む。
「ティア!」
 血相を変えた太い声が、頽れる少年の小さな身体を抱き留めた。
「また、ヴァリスに怒られる」
 溜め息をつきつつ、大男が少年を馬車に乗せる。
「ヴァリス、って?」
「ティアの保護者。コイツに何かあるとすぐ怒る」
 心底呆れた大男の言葉に、ハルは不覚にも笑ってしまった。
「笑い事じゃないぜ」
 笑ったハルに向かって大男が吐いた言葉も、呆れつつ笑っている。
「行こう。ぐずぐずしてると暗くなる」
 アイツらは一晩放っといても大丈夫だろう。大男の言葉に、頷く。
 そしてハルは、ぐったりと横たわる少年と共に、馬車に揺られた。
 そっと、汗をかいた少年の額に、触れる。よほど体力を消耗しているのだろう。ハルが触れても、少年は身じろぎ一つしなかった。
「体力を多量に使うのが、『呪歌』の悪いところさ」
 暗くなりつつある森の中、馬車を急がせながら、大男が呟く。
「体力の無いティアには、負担でしかないんだが」
 それでもティアは、『呪歌』を歌うのを止めない。自分が、役に立っているのが嬉しいから。前に言われたという少年の言葉を、大男は諦めと共に口にした。
「ま、誰にも止められない、ってところさね」
「ふーん」
 この、穏やかそうな少年に、そんな強情な部分があるとは。もう一度、少年の額を撫でる。しかし確かに、山賊を殺した時のあの詰るような紅い光は、少年の強情さを裏付けるのに十分な威力を持っていた。
 少年の額に触れた右手から、優しい光を発生させる。回復の魔法が、少年の全身を包んだ。
 すぐに。
「……あ」
 少年が、目を開く。
 弱く穏やかな紅い光に、ハルはにっこりと、笑った。

登場人物・地理等

登場人物

 ◇ティア(ティアリル):ヴェクハール聖堂の神官見習い。
 ◇ヴァリス(ヴァリストザード):ヴェクハール聖堂の騎士見習い。
 ◇ジェイ(ジェイリストナール): ヴェクハール聖堂の傭兵。
 ◇ハル(ハルトクレア):ヴェクハール聖堂に居候している魔法使い。
 ◇セティ(セティリス):アルトティスからやってきた少女。
 ◇アレイサート:ヴェクハール聖堂の騎士団長。ヴァリスとティアの師匠。
 ◇ベルサージャ:アルリネットの眷属。
 ◇セターニア:ソセアル一族の女性。ティアの母親。
 ◇リルーニア:ソセアル一族の女性。セターニアの双子の姉。
 ◇サイモナート:海神。
 ◇グリザリス:アルトティスに住む少年。
 ◇ミーア(ミーアディナ):アルトティスに住む少女。
 ◇ハーサ(ハーサリッシュ):ノイトトースの王。
 ◇リサ(リューシュリサ):ハーサの異母姉。
 ◇フェイリルーナ:ハルの母親。魔導師。
 ◇アルリネット:大地の女神。
 ◇スーヴァルド:天空神。最高神として崇められている。
 ◇ルディテレス:スーヴァルドの息子。混沌の神を鎮めた勇者。




地理等

 ◇カートリア同盟:大陸南部の都市連合体。
 ◇ヴェクハール:大陸南部の都市。カートリア同盟に属する。聖堂都市と商業都市という二つの顔を持つ。
 ◇リーニ河(ヴェクリーニ):ヴェクハールの東を流れる河。
 ◇大河コトハ(コトハルイーリャ):大陸を東から西へ流れている大河。ヴェクハールの西側にある。
 ◇ソセアル:大陸南中央部に広がる森の名前、又はかつてそこに住んでいた紫の瞳を持つ部族の名。
 ◇ソーヴェ:大陸西部の港湾都市。カートリア同盟に属する。
 ◇センテ:大陸中央部の町。カートリア同盟に属する。
 ◇アルトティス:大陸の南西にある島。
 ◇ノイトトース:大陸北部にある王国。
 ◇ヴォーロ:ノイトトースの首都。
 ◇フィナロカリ:ノイトトース東部の村。

混沌の刻へ

2010年12月29日 発行 初版

著  者:風城国子智
発  行:WindingWind

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風城国子智

へっぽこ物書き。

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